落第と退校

　先日、関西（かんさい）方面へ旅行した時に、ある人から「あなたは、なぜ理科大学の正科（注：正規（せいき）に卒業（そつぎょう）をめざす課程（かてい））を卒業（そつぎょう）せずに選科（せんか）（注：規定（きてい）の学課（がっか）の一部のみを選（えら）んで学ぶ課程（かてい））を出たか」と尋（たず）ねられた。その時に昔の試験（しけん）制度（せいど）や、学校教育に対する感想を思い出したので、それ等も合せて、簡単（かんたん）に述（の）べる。自叙伝（じじょでん）（注：自分の生い立ち・経歴（けいれき）などを、ありのままに自分で書いたもの）の一節（いっせつ）と解釈（かいしゃく）できるものなので、公（おおやけ）にすべきことではないとも考えた。しかし、ある雑誌（ざっし）に誤（あやま）つて出されたこともあるから、あえて自分で書いた方がよいだろうと思う。
　では、初（はじ）めの問に答えよう。
　明治（めいじ）十五六年の頃（ころ）には大学は東京に一つだけあった。法理文（ほうりぶん）三学部と医学部とに分れ、東京市千代田区一つ橋に三学部、文京区本郷（ほんごう）に医学部があつた。三学部には四ヶ年程度（ていど）の予備門（よびもん）（注：帝国（ていこく）大学の予備（よび）教育機関（きかん））が付属（ふぞく）していた。予備門（よびもん）は今日の高等学校に相当する。大学に入るには、まずここから進まねばならない。学年は九月に始まつて翌年（よくねん）の七月に終り、大学の卒業（そつぎょう）式等も毎年七月にあつた。
　私（わたし）は明治（めいじ）十五年の夏か秋か、兎（と）に角（かく）、学年の始まる前に予備門（よびもん）の入学試験（しけん）を受けた。試験（しけん）の第一日に漢文と英語（えいご）との試験（しけん）があった。その結果（けっか）、即刻（そっこく）に不合格（ふごうかく）になつたと記臆（きおく）している。それから二三ヶ月の後に、補欠（ほけつ）の試験（しけん）を受験（じゅけん）したら好成績（こうせいせき）で合格（ごうかく）した。この時私（わたし）は、入学試験（しけん）などは実に当てにならないものと思った。なぜかいうと、前の試験（しけん）に第一日目に不合格（ふごうかく）となつたその同じ人間が、余（あま）り勉強もせずに、次の試験（しけん）に見事に合格（ごうかく）したからである。
　補欠（ほけつ）試験（しけん）には応募（おうぼ）人員が中々多かつたが、その中から僅（わずか）に少数の者が採用（さいよう）されたのである。優秀（ゆうしゅう）な者でなければ合格（ごうかく）はできなかつたはずである。だから後の試験（しけん）に優等（ゆうとう）で合格（ごうかく）する様な者ならば、前の試験（しけん）はまず合格（ごうかく）したはずである。実際（じっさい）はその反対で、私（わたし）はやや容易（ようい）であるはずの前の試験（しけん）では第一日に跳（は）ねられ、困難（こんなん）である次の試験（しけん）には好成績（こうせいせき）で入学ができた。私（わたし）は、その時から今日（きょう）まで、試験（しけん）は一種（いっしゅ）の富籤（とみくじ）の様なもので、運のよい者が当たり、運の悪いものが外（はず）れるのであると信（しん）じている。もっとも補欠（ほけつ）試験（しけん）の第一日に英語（えいご）の書取りがあった。私（わたし）はそれがよくできたのが大（おお）いに関係（かんけい）したのではないかと考へる。二日目にストレンジという英語（えいご）の教師（きょうし）が大勢（おおぜい）の受験生（じゅけんせい）の前に立つて、この中にオカというボーイはいるかと言うから、ここにいると立ち上つて答へた。私（わたし）の前までやつて来て、昨日（きのう）の書取りにノー・ミステーク（注：誤（あやま）りなし）はおまえ一人であつたと言ってくれた。こうして予備門（よびもん）の一年級に入学した。
　前の試験（しけん）に合格（ごうかく）した連中（れんちゅう）が一学期の授業（じゅぎょう）を終（お）えた所へ、補欠（ほけつ）試験（しけん）に合格（ごうかく）した者は、横から入り込（こ）んで同じ級に加（くわ）わった。
　二年級に進むときの学年末（まつ）試験（しけん）は無事（ぶじ）では無（なか）つたらしい。その理由は、私（わたし）の日本歴史（れきし）の点が極端（きょくたん）に悪かつたためである。私（わたし）は賤ヶ嶽（しずがたけ）（注：羽柴（はしば）秀吉（ひでよし）と織田家（おだけ）の最古参（さいこさん）の重臣（じゅうしん）柴田（しばた）勝家（かついえ）との戦（たたか）い）の七本鎗（やり）を加藤（かとう）清正（きよまさ）と福島（ふくしま）正則（まさのり）との二本より知らなかった。点が悪かつたのに不思議（ふしぎ）はない。その時の歴史（れきし）の先生は、他学科の点数が余（あま）り悪くないのに、歴史（れきし）一科だけで私（わたし）を落第（らくだい）させるのは可愛（かわい）そうであると、特（とく）に救（すく）って進級させたのであつた。この事は、その先生が私（わたし）一人を呼（よ）び出して、戒（いさ）め（注：まちがいをしないように前もって注意（ちゅうい）する）ながら特（とく）に話されたから、決して間違（まちが）いではないと思ふ。このような状態（じょうたい）で、大変（たいへん）危（あぶな）いながら私（わたし）は第二年級に進んだ。
　第二年級では、また西洋歴史（れきし）の点がいつも極端（きょくたん）に悪かつた。百点の満点（まんてん）に対して十五点や二十点を取つたことが幾度（いくど）もあつた様に覚（おぼ）えている。その頃（ころ）は、私（わたし）が歴史（れきし）のできないことは有名になっていたようだ。歴史（れきし）の時間には稽古（けいこ）（注：授業（じゅぎょう））が始まるとまず最初（さいしょ）に、先生が私（わたし）に尋（たず）ね、それに対して私（わたし）が知らないと答えるのが慣例（かんれい）になつた。これでは、どんなにしても進級させる訳（わけ）には行かなかつたと見えて、第三年級に昇（のぼ）る学年試験（しけん）で私（わたし）は落第（らくだい）と定まつた。もっとも、この時にも点が悪かつたのは、ただ歴史（れきし）一科目だけであつて、その他の科目の大部分は相当な成績（せいせき）であつた。
　第二年級に留（と）められて、もう一度その課程（かてい）を修（おさ）めた。西洋歴史（れきし）の点は相変（あいかわ）らず悪く、そのため、進級（しんきゅう）試験（しけん）の結果（けっか）は再（ふたた）び落第（らくだい）と決定せられた。二度も同じ稽古（けいこ）を繰（く）り返したから、他の学科の成績（せいせき）は相当に良（よ）くて、数学や図画には百点とか九十五点とかいう様な上等の点が付（つ）いていた。総（そう）点数の順位（じゅんい）は中以上（いじょう）であつたが、歴史（れきし）の点が二十点か十五点かであつたために、落第（らくだい）となつたのである。落第（らくだい）が二度続（つづ）くと退校（たいこう）（注：退学（たいがく））となる規則（きそく）があつた。
　私（わたし）は退校（たいこう）になつた。病気退学（たいがく）の願書（がんしょ）を出せというので、その様な願書（がんしょ）を差（さ）し出した。「願（ねがい）の趣（おもむき）許可（きょか）す、ただし再（さい）入学を出願（しゅつがん）することを許（ゆる）さず」と赤色で書いて戻（もど）つて来た。形式的（けいしきてき）には私（わたし）の方から退校（たいこう）を願（ねが）い出た形になつているが、事実はいうまでもなく学校の方から投（な）げ出されたのである。


　私（わたし）が二年と二学期、予備門（よびもん）にいた間に非常（ひじょう）に成績（せいせき）が悪かつた科目は、歴史（れきし）の外（ほか）に漢学（注：中国伝来（でんらい）の学問の総称（そうしょう））と作文であった。点数表には落第（らくだい）点は付（つ）いてなかつたが、事実は落第（らくだい）点以下（いか）であつて、一度は作文に赤字で大きく「落第（らくだい）」と書かれたのが返つて来た。
　漢学の点が悪いのは無理（むり）もなかつた。なぜかというと私（わたし）は予備門（よびもん）に入るまで漢学を勉強（べんきょう）したことがなく、その上に興味（きょうみ）がなかつたから、少しも勉強しなかつたからである。
　これに反して、作文の点の悪かつたのは、何も私（わたし）の作文力が劣等（れっとう）であつたとばかりとは思われない。私（わたし）の考えでは、作文とは自分の伝（つた）えたいと思うことを、読む人によく分（わか）らせる様な文章を作る術（じゅつ）である。私（わたし）が予備門（よびもん）にいた頃（ころ）の作文はそんなものではなかつた。どちらかと言えば成（な）るべく多数の人に分（わか）らないような文章を作る術（じゅつ）であつた。例（たと）へば、金烏（きんう）が西の山に入つたとか、玉兎（ぎょくと）が東の海に出たとかいう様に、謎（なぞ）か、判（はん）じ物（注：文字や絵画にある意味を隠（かく）しておき、それを当てさせる遊び）のような言葉を使って文を書き、一番分（わか）らない文を書いた者が一番上等の点を貰（もら）ったように覚（おぼ）えている。その上「豊臣（とよとみ）秀吉（ひでよし）を論（ろん）ず」とか「足利（あしかが）尊氏（たかうじ）を評（ひょう）す」とかいう問（と）いが出題される。書く種（たね）を持たない者は何も書くことはできない。ある時、例（れい）のように「豊臣（とよとみ）秀吉（ひでよし）」という題が出たので、先生に私（わたし）は「何も知らないから、書くことができません」といったら、「日本人で豊臣（とよとみ）秀吉（ひでよし）の事蹟（じせき）（注：事実の痕跡（こんせき））を知らぬ奴（やつ）があるものか」と言って先生が取り上げなかつた。それで止（や）むを得（え）ず、ほとんど白紙のままで答案（とうあん）を出した。こんなのは少しも作文の試験（しけん）ではなくて、むしろ歴史（れきし）か何かの別（べつ）の試験（しけん）である様に感じた。どっちにしても予備門（よびもん）における私（わたし）の作文の点が大変（たいへん）に劣等（れっとう）であつたことは事実である。
　しかし作文に落第（らくだい）点を常（つね）に付（つ）けられていた私（わたし）がその後に書いた文章が、今日（こんにち）の中学校や高等女学校の国文教科書の中に名文の例（れい）として幾（いく）つも掲載（けいさい）さられている。これは可笑（おか）しなことである。最近（さいきん）大日本図書会社から出版（しゅっぱん）になつた女子現代文（げんだいぶん）教科書や、近く文部省（もんぶしょう）から発行になる高等科か補修（ほしゅう）科（注：浪人生（ろうにんせい）を対象（たいしょ）として設置（せっち）された学科）の教科書にも一つづつ出ているはずである。私（わたし）は自分の文章が名文であるなどとは毛頭（もうとう）思ってはいない。しかし読本や教科書の編纂（へんさん）（注：整理・加筆（かひつ）などをして書物にまとめること）者は、国文の摸範（もはん）として生徒（せいと）に示（しめ）すに足るものと鑑定（かんてい）して決めたことと思う。予備門（よびもん）を追い出されてからも、わざわざ作文の稽古（けいこ）をしたことは一度もない。全く自己流（じこりゅう）の文章を書いてきたのである。事によつたら、私（わたし）が国文読本に掲（あ）げられる様な文章を書くようになったのは、昔し、作文にどんな点を付（つ）けられても平気で気にしないでいた結果（けっか）かも知れない。
　こう考えると、歴史（れきし）の方にも、それに似（に）たことがある。私（わたし）は歴史（れきし）が嫌（きら）いではない。一二年前の夏休みにウエルスの世界歴史（れきし）という本を通読したが、すこぶる面白く感じた。私（わたし）が嫌（きら）ったのは誰（だれ）が何月の何日に死んだとか、何所（どこ）の戦争（せんそう）が何月何日に始まつたとかいふ様な年月日を暗誦（あんしょう）することであつた。今でもそんなことを覚（おぼ）えたいとは少しも思わない。そんな些細（ささい）なことを抜（ぬ）きにして、更（さら）に大きく、この原因（げんいん）があつたために、この結果（けっか）が生じたという様な、物の変遷（へんせん）の理由を究（きわ）める歴史（れきし）ならば、私（わたし）は大好（だいす）きである。
　現（げん）に生物の進化は一つの歴史（れきし）である。普通（ふつう）の歴史（れきし）と異（こと）なる所は、ただ年月が遙（はるか）に長いという点に過（す）ぎない。私（わたし）はこの歴史（れきし）には大（おお）いに興味（きょうみ）を持つた。世間にその知識（ちしき）を広（ひろ）めたいと思い、今から二十三年前に「進化論講話（しんかろんこうわ）」と題する書物を書いた。この書物は世間から非常（ひじょう）な歓迎（かんげい）を受けている。関東（かんとう）大震災（だいしんさい）後にも直（ただち）に新版（しんぱん）ができて今日まで相変（あいかわ）らず購読者（こうどくしゃ）がある。
　これも事によつたら、予備門（よびもん）時代に、歴史（れきし）にどんな悪い点を付（つ）けられても、平気で捨（す）て置（お）いた結果（けっか）かも知れない。私（わたし）の歴史（れきし）の評価（ひょうか）が悪かつたのは、私（わたし）が歴史（れきし）と名づけるものと、先生や学校当局が歴史（れきし）と名づけるものとが相違（そうい）していたと、附会（こじつ）け（注：無理（むり）やり関連（かんれん）付（つ）ける）られないこともなからう。


　兎（と）に角（かく）、私（わたし）は明治（めいじ）十八年の夏に予備門（よびもん）から追いはらわれた。そこで、止（や）むを得（え）ず、大学の選科（せんか）に入ろうと決心し、翌年（よくねん）の夏、試験（しけん）を受けて、無事（ぶじ）入学することができた。
　初（はじ）め予備門（よびもん）に入つた頃（ころ）はどんな専門（せんもん）を修（おさ）めるか決めてはいなかつた。私（わたし）が始終（しじゅう）図書館から絵入りの動物学の書物を借（か）りて見ていたり、動物の絵を画（か）いて楽しんでいたりするのを見て、友人等が動物学者といふ綽名（あだな）を付（つ）けていた。自分でも自然（しぜん）とその気持ちになり、退校（たいこう）する頃（ころ）には、すでに理科大学の動物学科の課程（かてい）を修（おさ）めようと心を定めていた。
　さて入学して見ると、席（せき）をならべて、同じ講義（こうぎ）を聴（き）き、同じ実験（じっけん）をする仲間（なかま）の連中（れんちゅう）は、落第（らくだい）する前の予備門（よびもん）の同級生であった。後（のち）に動物学科を卒業（そつぎょう）した稲葉（いなば）昌丸（まさまる）君、岸上（きしのうえ）鎌吉（かまきち）君、植物学科を卒業（そつぎょう）した三好（みよし）学（まなぶ）君、岡村（おかむら）金太郎（きんたろう）君などであつた。それから三年間は無事（ぶじ）に過（す）ぎて、以上（いじょう）の諸君（しょくん）は首尾（しゅび）よく理学士（し）になられた。
　私（わたし）は更（さら）に、そのまゝ選科（せんか）に残（のこ）つて明治（めいじ）二十四年の二月まで動物学教室の厄介（やっかい）になつていた。その後ドイツ国に留学（りゅうがく）し、明治（めいじ）二十七年に日本に帰国した。少しの間、失業（しつぎょう）状態（じょうたい）で在（あ）つた後、明治（めいじ）二十八年に山口高等学校に務（つと）めることになった。その後、明治（めいじ）三十年に東京高等師範（しはん）学校に転じて、今日に至（いた）ったのである。
　私（わたし）が大学の選科（せんか）に入つたのは、正科に入る資格（しかく）がなかつたからである。大学の正科には予備門（よびもん）を無事（ぶじ）に通過（つうか）した者しか入れない規則（きそく）だった。私（わたし）の様に二度も落第（らくだい）を続（つづ）けて退校（たいこう）になつた者は無論（むろん）志願（しがん）できることではなかつた。しかし、選科（せんか）に入つてから学んだことは正科の人々と何ら異（こと）なつた所はない。同じ講義（こうぎ）を聴（き）き、同じ実験（じっけん）をやり、同じ試験（しけん）を受けて同じように進級した。三年目には同じ様に卒業（そつぎょう）論文（ろんぶん）を書き、それが翌年（よくねん）の理科大学紀要（きよう）（注：教育機関（きかん）や各種（かくしゅ）の研究所・博物館（はくぶつかん）などが定期的（ていきてき）に発行する学術（がくじゅつ）雑誌（ざっし））に同じ様に出版（しゅっぱん）して貰（もら）った。事実においては私（わたし）は本科生と同じだけのことを学んだのである。
　この様に選科生（せんかせい）と本科生とは同一のことを学んで同一の学力を取得（しゅとく）したものであるにもかかわらず、世間や学校当局からの取り扱（あつか）いには甚（はなは）だしい相違（そうい）がある。例（たと）へば学生と称（しょう）するのは本科生だけである。選科（せんか）生は単（たん）に生徒（せいと）と呼（よ）ばれる。本科生は卒業（そつぎょう）すれば学士（がくし）の称号（しょうごう）が貰（もら）える。選科生（せんかせい）は卒業（そつぎょう）しても何の称号（しょうごう）も貰（もら）えないと決めてある。これ等（ら）の規定（きてい）は、考へ様によつては世間や学校当局が自分等は実力よりも形式を尊（とおと）ぶ人間であると吹聴（ふうちょう）している様なもので、むしろ恥（は）じることだと思う。しかし世間がこんな有様だから、選科（せんか）には一般（いっぱん）の人は入りたがらない。本科に入学できなかつた者が止（や）むを得（え）ず入る。選科生（せんかせい）は皆（みな）肩身（かたみ）の狭（せま）い日蔭（ひかげ）者のように、世間からも見做（みな）されて、自分でも思っているらしい。私（わたし）の考へによれば、本科を尊（とおと）び、選科（せんか）を卑（いやし）むのは大いに間違（まちが）ったことである。
　小学校や中学校では、生徒（せいと）は分別（ふんべつ）がまだ定まっていなから学校の方で一定の課目（かもく）を組み合せて、誰（だれ）にもその通りに修業（しゅぎょう）させる。大学までも進んで来た者に対しては、単（たん）に誰々（だれだれ）教授（きょうじゅ）が何々の講義（こうぎ）をするということだけを示（しめ）して、どれを聴（き）くかは全く生徒（せいと）の勝手に任（まか）せるのがよろしい。こうすれば銘々（めいめい）が自分の修（おさ）めたい学科だけを修（おさ）めて、嫌（きらい）な学科には出席（しゅっせき）しないから、自然（しぜん）大（おお）いに勉強もできる。
　食堂（しょくどう）では定食を注文するか、自分の好（この）む単品皿（たんぴんざら）を注文（ちゅうもん）するか、いづれもできる。大学の正科は恰（あたか）も食堂（しょくどう）の定食の様なもので、その中には銘々（めいめい）の好（す）きなものもあれば、嫌（きら）いなものもある。その代り品数（しなかず）に比（くら）べて価格（かかく）が安い。料理（りょうり）の定食ならば、嫌（きら）いな物は食べなければボーイが持つて行くが、正科の課目（かもく）はこんなに楽には行かない。食べなけば落第（らくだい）するから、嫌（いや）でも目を白黒にしながら飲み込（こ）まないといけない。課目（かもく）の選択（せんたく）を生徒（せいと）自身の自由に任（まか）せて置（お）けば、生徒（せいと）は一皿づつ自分の好（す）きな物を注文（ちゅうもん）する。持つて来ただけのものは皆（みな）喜（よろこ）んで美味（うま）く食べることができる。ただ品数（しなかず）に比（くら）べて、値段（ねだん）が少々高くなる。
　私（わたし）は大学における課目（かもく）の選択（せんたく）は全部ア・ラ・カルト（注：客の好（この）みによって一品ずつ注文できる料理（りょうり））式にするのがよろしいと考えている。すなわち真の意味における選科（せんか）制度（せいど）である。全部が選科（せんか）制度（せいど）になつて、正科などという窮屈（きゅうくつ）なものが無（な）くなれば、無論（むろん）選科（せんか）といふ名も不要（ふよう）になる。正科とは、生徒（せいと）から見れば、自分とは趣味（しゅみ）や嗜好（しこう）の違（ちが）った他人が、勝手に造（つく）つた学科の組み合せである。これを平等に修（おさ）めるには一定量（りょう）の我慢（がまん）を要（よう）する。世間や学校当局が本科生を尊重（そんちょう）するのは、よく我慢（がまん）したことを誉（ほ）める意味かも知れない。
　学課（がっか）の組み合わせは、卒業生（そつぎょうせい）を採用（さいよう）する官庁（かんちょう）や、会社などから、予（あらかじ）め注文（ちゅうもん）を受ける必要（ひつよう）がある。当役所は何々の講義（こうぎ）を聴（き）いた者を採用（さいよう）するとか、ここの会社は何学と何学とを修（おさ）めた者を採用（さいよう）するとかいうことを予（あらかじ）め知らして置（お）けば、その役所なり会社なりに傭（やと）って貰（もら）いたい者は、その注文（ちゅうもん）に合うような学課（がっか）の組み合せを自分で造（つく）るであらう。
　学校自身で一定の組み合せを造（つく）り、誰（だれ）も彼（かれ）も、その通りに修（おさ）めなければ卒業（そつぎょう）させないと定めて、嫌（きらい）な物でも無理（むり）に食（く）わせるのは、好（す）きな方への発達（はったつ）を妨（さまた）げている。全体としては時と労力（ろうりょく）との大きな不経済（ふけいざい）と思われる。


　私（わたし）が最（もっと）も愉快（ゆかい）に勉強できたのは、ドイツ国にいた三ヶ年間であつた。ここではヤレ本科だとか、ヤレ選科（せんか）だとかいう様なケチな区別（くべつ）はない。大学における学科の選択（せんたく）は全く生徒（せいと）自身の随意（ずいい）である。聴（き）きたい講義（こうぎ）だけを聴（き）き、聞きたくない講義（こうぎ）は聴（き）かずに済（す）む。私（わたし）は正規（せいき）の手続（てつづ）きを経（へ）て、本式の学生となつた。国中に大学が数多くあつて、どの大学からどの大学へでも随意（ずいい）に移（うつ）ることができた。
　初（はじ）め一年間はフライブルグ（注：ドイツ南西部、バーデン・ビュルテンベルク州の大学都市）の大学にいたが、動物学の教授（きょうじゅ）、ワイスマン（注：アウグスト。ドイツの動物学者。フライブルク大学動物学研究所所長）の学説（がくせつ）を余（あま）り感服しなかつたので、次の年にはライプチツヒ（注：ドイツ中東部、ザクセン地方の商工業都市）の大学に移（うつ）つて、後（あと）の二年間は、ロイカルト教授（きょうじゅ）（注：ルドルフ。ドイツの動物学者。寄生虫（きせいちゅう）学の創始者（そうししゃ））の許（もと）で研究した。このように、ある一人の学者を目指して、その教（おしえ）を受けるためにその人のいる大学に入学する場合には、真に自分はその人の門弟（もんてい）であると感じる。特（とく）にその人が日々言（い）って聞かせてくれていることが、一々もっともと納得（なっとく）するときには、益々（ますます）その人を自分の師（し）として尊（とおと）ぶ心持ちが出てくる。この意味で私（わたし）が、自分の師（し）と思っているのはロイカルト一人だけである。
　国内に大学が、ただ一つしか無（な）く、何学を修（おさ）めるにも、その大学に入るの外（ほか）に道がない様な場合には、生徒（せいと）は単（たん）にその学科を修（おさ）める方便（ほうべん）（注：便宜上（べんぎじょう）の手段（しゅだん））として入学するに過（す）ぎない。たまたまその時に担当（たんとう）になった教師（きょうし）と生徒（せいと）との関係（かんけい）はほとんど、渡（わた）し船の船頭（せんどう）と乗り合せた客との関係（かんけい）に似（に）ている。
　ドイツ国のように二十幾（いく）つもの大学があつて、どこの大学には何の誰（だれ）、何所（どこ）の大学には何の誰（だれ）と、同じ専門（せんもん）の学者が多数いる所では、生徒（せいと）は銘々（めいめい）で自分の付（つ）きたいと思う先生の所へ行くことができる。その間の関係（かんけい）は最初（さいしょ）から特別（とくべつ）である。その上、課目（かもく）の選択（せんたく）が自由であるから、思う様に勉強ができる。自分から進んでする勉強は、こんな条件（じょうけん）の下（もと）に最（もっと）もよくできるものであると考へる。
　二つの大学で合せて三年間学んだ後に、私（わたし）はドクトル（注：博士（はかせ））の学位（がくい）を得（え）るための試験（しけん）を受けた。論文（ろんぶん）も、口頭（こうとう）試験（しけん）も、Summa cum laude（注：首席（しゅせき）で） といふ最高等（さいこうとう）の評語（ひょうご）を以（もっ）て合格（ごうかく）した。外国の学位（がくい）には、随分（ずいぶん）いかがわしいものがあるとされている。今日では、外国の学位（がくい）は殆（ほとん）ど何の価値（かち）もないように言い触（ふ）らされ、有つても無（な）くても世間からは同様に見做（みな）される様になつた。私（わたし）がライプチツヒで受けた試験（しけん）は、その頃（ころ）の日本の大学の卒業（そつぎょう）試験（しけん）よりは随分（ずいぶん）レベルが高かつた様に記憶（きおく）している。しかし、これはわざわざ言うほどの事柄（ことがら）ではない。
　ドイツ国から帰つてからの経歴（けいれき）については、別（べつ）に言（い）うことも無（な）いから、何も書かぬ。


　今日私（わたし）が交際（こうさい）している知人の中には、二度落第（らくだい）して退校（たいこう）になつた様な人は一人もない。そうして見ると、私（わたし）は多数の人の中の稀（まれ）な例外（れいがい）であつた。身体に稀（まれ）な点があれば、これを奇形（きけい）と名付（なづ）ける。私（わたし）の身体は奇形（きけい）ではないが、頭は確（たしか）に奇形（きけい）であるに違（ちが）いない。予備門（よびもん）で二度目に落第（らくだい）したときに、友人等は私（わたし）に、歴史（れきし）の先生の家に歎願（たんがん）（注：熱心（ねっしん）に頼（たの）むこと）に行けと親切（しんせつ）に勧（すす）めてくれたが、私（わたし）はかえつてそれをうるさく思い、半日ほど上野の森の中を散歩（さんぽ）して帰ってから友人等に、先生の家へ三度行つたが三度とも留守（るす）であつたなどと出鱈目（でたらめ）を言（い）った。これなども、今から考へて見ると、奇形（きけい）の証拠（しょうこ）と思われる。恐（おそ）らく、今日以後（いご）も、奇形（きけい）のままで押（お）し通すより外（ほか）に途（みち）は無（な）からう。