境界なき差別

　この題目を見て、風変（ふうが）わりな題と考える人がいるかも知れない。差別（さべつ）が有れば、その間に境界（きょうかい）が有るはず、境界（きょうかい）が無（な）ければ、その双方（そうほう）には差別（さべつ）は無（な）いはずである。「境界（きょうかい）なき差別（さべつ）」といふのは題目自身の中にすでに矛盾（むじゅん）を含（ふく）んでいると考える人がいるかも知れない。
　しかし、ここで述（の）べようとする事柄（ことがら）に対しては「差別（さべつ）は有り境界（きょうかい）は無（な）し」との一句（いっく）で全部を言いつくせる。これよりも適切（てきせつ）な題目を付（つ）けることはできない。
　実物を見て自然（しぜん）物を研究する人は「境界（きょうかい）なき差別（さべつ）」に絶（た）えず遭遇（そうぐう）する。例（たと）えば、背（せ）に三本縦縞（たてじま）のある蛭（ひる）の標本（ひょうほん）と背（せ）に一本の縦縞（たてじま）のある蛭（ひる）の標本（ひょうほん）とを比較（ひかく）するとその間の差別（さべつ）は実に明瞭（めいりょう）である。この二種（にしゅ）の間にははっきりした境界（きょうかい）があるように思われる。しかし実物を多数集めて見ると、二者の中間の性質（せいしつ）を帯（お）びたものが幾（いく）らもある。三本の縦縞（たてじま）の中、両側（りょうがわ）にある二本の色が非常（ひじょう）に淡（あわ）い（注：薄（うす）い）ものもあれば、中央にある明な一本の外に両側（りょうがわ）になお一本づつ微（かすか）な縦縞（たてじま）の見えるものなども有つて、これらを順（じゅん）に並（なら）べて見ると、到底（とうてい）どこにも判然（はんぜん）（注：はっきり）と境界（きょうかい）を定めることができなくなる。
　また蛭（ひる）には体の後端（こうたん）に吸盤（きゅうばん）が有り、蚯蚓（みみず）には吸盤（きゅうばん）が無（な）いので、普通（ふつう）の蛭類（ひるるい）と普通（ふつう）の蚯蚓類（みみずるい）とを比（くら）べて見ると、その差別（さべつ）は明瞭（めいりょう）である。その間の境界（きょうかい）も判然（はんぜん）と有るように思われる。よく調べると、苔（こけ）の下などにいる陸産（りくさん）の蛭（ひる）の類（るい）には吸盤（きゅうばん）が無（な）いものがあある。他物に吸（す）い付（つ）いて生活する蚯蚓（みみず）の類（るい）には体の後端（こうたん）に立派（りっぱ）な吸盤（きゅうばん）を備（そな）えたものが幾（いく）らもある。これらは昔は蛭類（ひるるい）の仲間（なかま）に入れてあつたが、身体の構造（こうぞう）を詳（くわ）しく調べた結果（けっか）、今日では蚯蚓（みみず）類（るい）の方へ籍（せき）が移（うつ）された。そんな状況（じょうきょう）なので、模範（もはん）的（てき）の蛭（ひる）と、模範（もはん）的（てき）の蚯蚓（みみず）との間には極（きわ）めて明（あきらか）な差別（さべつ）が有りながら、蛭類（ひるるい）と蚯蚓（みみず）類（るい）との境界（きょうかい）はどこに有るかと尋（たず）ねられると、誰（だれ）も正確（せいかく）に答へることはできない。
　このように差別（さべつ）は有りながら境界（きょうかい）が無（な）いというのは、蛭（ひる）や蚯蚓（みみず）に限（かぎ）る訳（わけ）では無（な）い。どんなに差別（さべつ）が著（いちじる）しい種類（しゅるい）の間でも、丁寧（ていねい）に調べて見ると、必（かなら）ず中間の性質（せいしつ）を帯（お）びたものがその間にあつて、結局（けっきょく）、境界（きょうかい）は定められない。
　今日生存（せいぞん）する動物種族（しゅぞく）の中で、鳥類（ちょうるい）と蜥蜴（とかげ）類（るい）とは外観（がいかん）も習性（しゅうせい）も随分（ずいぶん）異（こと）なる。鳥類（ちょうるい）か蜥蜴（とかげ）類（るい）かという疑問（ぎもん）が起るような曖昧（あいまい）な動物は一種（いっしゅ）も無（な）いから、二者の間の境界（きょうかい）は判然（はんぜん）として見える。しかし古代の地層（ちそう）から掘（ほ）り出された化石を調べると、嘴（くちばし）に歯の生えた鳥、翼（つばさ）に爪（つめ）のある鳥、後足で立つて歩く蜥蜴（とかげ）、空中を飛（と）ぶ蜥蜴（とかげ）などがいた。鳥類（ちょうるい）の特徴（とくちょう）と蜥蜴（とかげ）類（るい）の特徴（とくちょう）とを七分三分とか四分六分とかの割合で合せたような性質（せいしつ）のものが幾（いく）らもいた。両方の性質（せいしつ）を五分五分に兼（か）ね備（そな）えた種類（しゅるい）は、全く鳥類（ちょうるい）と蜥蜴（とかげ）類（るい）との中間に位置（いち）する。鳥類（ちょうるい）と蜥蜴（とかげ）類（るい）との間の境界（きょうかい）は全く無（な）いと言わねばならない。
　また動物は胎生（たいせい）する類（るい）と卵生（らんせい）する類（るい）とに分けられる。胎生（たいせい）にも卵生（らんせい）にも種々（しゅしゅ）の階級がある。生まれたばかりの卵（たまご）の中に、すでに子供（こども）の形のでき上つているものも有れば、形の未（いま）だ整（ととの）っていない中（うち）に早くも母胎（ぼたい）から産（う）み出されるものも有つて、その間の境界（きょうかい）は決して判然（はんぜん）しない。
　哺乳（ほにゅう）類（るい）は胎生（たいせい）するのが原則（げんそく）だが、オーストラリヤ地方に生息（せいそく）する二三の珍（めず）らしい種類（しゅるい）では鳥類（ちょうるい）の卵（たまご）に似（に）た卵（たまご）を産（う）み落す。しかも、その内部にはすでに胎児（たいじ）の形がほとんどできている。
　魚類（ぎょるい）は普通（ふつう）は卵生（らんせい）であるが、鮫類（さめるい）の中には胎生（たいせい）する種類（しゅるい）が幾（いく）らもいる。しかも胎児（たいじ）には母体から滋養分（じようぶん）を取るための胎盤（たいばん）のようなものが付（つ）いているから、ほとんど獣類（じゅるい）の胎生（たいせい）に似（に）ている。
　背椎（せきつい）動物には体の中軸（ちゅうじく）に背骨（せぼね）が有り、無（む）背椎（せきつい）動物には決して背骨（せぼね）が無（な）いといえば、その間の境界（きょうかい）は、極（きわ）めて判然（はんぜん）しているように聞える。実物について調査（ちょうさ）すると、発生（注：多細胞（たさいぼう）生物の卵（たまご）が受精（じゅせい）し，胚（はい）を経（へ）て幼生（ようせい），成体となるまでの過程（かてい））の途中（とちゅう）に一度背骨（せぼね）ができて、後（のち）に再（ふたた）びこれを失（うしな）うもの、僅（わずか）に背骨（せぼね）の痕跡（こんせき）のみを有するものなどが、幾（いく）らもあつて、決して明な境界（きょうかい）は無（な）い。それで昔は無（む）背椎（せきつい）動物と見做（みな）されたものでも今日は背椎（せきつい）動物の方へ移（うつ）し換（か）へられたものが何種類（しゅるい）もある。
　動物と植物とを比（くら）べても、犬猫（いぬねこ）や、梅（うめ）桜（さくら）などのような高等の種類（しゅるい）だけを見ると、その間の境界（きょうかい）は、極（きわ）めて明であるように思われる。段々（だんだん）下等の種類（しゅるい）を比較（ひかく）すると、終（つい）には到底（とうてい）区別（くべつ）ができなくなる。根が生えて動かぬ虫や、尾（お）を振（ふ）って游（およ）ぐ藻（も）の仲間（なかま）には、藻（も）とも虫とも判断（はんだん）し兼（か）ねるような生物が幾（いく）らもいる。こんな種類（しゅるい）は動物学の書物には動物として記載（きさい）し、植物学の書物には植物として記載（きさい）してある。


　私（わたし）は常々（つねづね）このように、差別（さべつ）があつて境界（きょうかい）がないものばかりを見慣（みな）れている。生物以外（いがい）のものを見るに当つても、相（あい）異（こと）なつたものの間に明な境界（きょうかい）が有るか否（いな）かを先（ま）づ疑（うたが）って掛（か）かる習慣（しゅうかん）が付（つ）いる。何事を論（ろん）じるにしても、先（ま）づ第一に、境界（きょうかい）の有無（うむ）を考えて見る。こうすると世人（注：世間の人）が当然（とうぜん）境界（きょうかい）が有るように思っている所にも実は決して明（あきらか）な境界（きょうかい）か無（な）いことを発見する。差別（さべつ）あつて境界（きょうかい）が無（な）いことが誰（だれ）にも明白に判（わか）るものが非常（ひじょう）に多い。
　例（たと）へば晴天（せいてん）と雨天（うてん）などもその一例（いちれい）である。日が照（て）っていれば確（たしか）に晴天、雨が降（ふ）っていれば確（たしか）に雨天で、その差別（さべつ）は極（きわ）めて著（いちじる）しい。その間には種々（しゅしゅ）の程度（ていど）の曇天（どんてん）があつて、晴天と見做（みな）すか、雨天と心得（こころえ）てよいのか、判断（はんだん）に苦しむ様な天気も中々多い。狐（きつね）の嫁入（よめい）りなどと名付（なづ）けて、日が照（て）りながら雨が降（ふ）ることさえ決して稀（まれ）ではない。
　夕立（ゆうだち）の後に現（あら）われる虹（にじ）なども、境界（きょうかい）なき差別（さべつ）の模範（もはん）的（てき）の好例（こうれい）でる。七色の差別（さべつ）は誰（だれ）の目にも明であるが、判然（はんぜん）とした境界（きょうかい）はどこを探（さが）しても決して無（な）い。赤から橙（だいだい）、橙（だいだい）から黄、黄から緑と、順々（じゅんじゅん）に移（うる）り行くだけである。急に段（だん）が付（つ）いて、一の色から他の色に飛（と）び越（こす）すような所はどこにも見付（みつ）からない。
　春夏秋冬の四季（しき）の変化（へんか）のようなものも、これと同様である。夏は暑く、冬は寒く、春は桜（さくら）の花が咲（さ）き、秋は楓（かえで）の葉が紅（あか）くなって、その差別（さべつ）は誰（だれ）にも明瞭（めいりょう）に知れる。その間に判然（はんぜん）とした境界（きょうかい）は決して無（な）い。暦（こよみ）を見れば、何月何日の何時何分何秒から春になるとか夏になるとか書いてあるが、無論（むろん）その時刻（じこく）に急激（きゅうげき）な変化（へんか）が起る訳（わけ）ではない。冬はいつとはなしに自然（しぜん）に春になり、春はいつとはなしに自然（しぜん）に夏になり、その間に気候（きこう）が次第（しだい）次第（しだい）に暖（あたた）くなって行くのみである。
　昼夜（ちゅうや）の別（べつ）も、その通りでる。昼は明るく、夜は暗く、その差別（さべつ）は著（いちじる）しいが、夜が明けて朝となるときも、日が暮（く）れて夜となるときも、決して判然（はんぜん）たる境界（きょうかい）は無（な）い。
　その他（ほか）透明（とうめい）なものと、不（ふ）透明（とうめい）なものとの間には種々（しゅしゅ）の程度（ていど）の半透明（とうめい）なものが有り、個体（こたい）と液体（えきたい）との間には種々（しゅしゅ）の程度（ていど）の半流動状（じょう）のものが有る。濃（こ）い葛湯（くずゆ）が固（かた）まって葛餅（くずもち）になる間には、今までは液体（えきたい）、今からが固形（こたい）体というように、その境界（きょうかい）を示（しめ）す時刻（じこく）は決して無（な）い。
　更（さら）に例（れい）を挙（あ）げる。醒（さ）めているときは意識（いしき）が有るといい、眠（ねむ）つているときは意識（いしき）が無（な）いというが、その間に判然（はんぜん）たる境界（きょうかい）は無（な）い。朝目覚（めざ）めるときも、夜寝入（ねい）るときも、無（む）意識（いしき）から有（ゆう）意識（いしき）へ、もしくは有（ゆう）意識（いしき）から無（む）意識（いしき）へと移（うつ）り行く間には実に無数（むすう）の半（はん）意識（いしき）的（てき）状態（じょうたい）を経過（けいか）する。その有様（ありさま）は夜が明けて朝となり、日が暮（く）れて夜になるのと、少しも違（ちが）はない。
　賢愚（けんぐ）の別（べつ）も、その通りである。賢人（けんじん）と愚物（ぐぶつ）とを比較（ひかく）すれば、その間の差別（さべつ）は誠（まこと）に明瞭（めいりょう）である。その中間（ちゅうかん）には賢（けん）七愚（ぐ）三とか、賢（けん）四愚（ぐ）六とか賢愚（けんぐ）五分五分とかいう様な種々（しゅしゅ）な程度（ていど）の人間が限（かぎ）り無（な）くいる。到底（とうてい）明瞭（めいりょう）な境界（きょうかい）線を定めることはできない。
　健康（けんこう）と病気とか老（ろう）と若（じゃく）とか、新と旧（きゅう）とか、大と小とか、軽と重とかいうように相対（あいたい）する名称（めいしょう）の付（つ）けてある事柄（ことがら）は、いずれも両端（りょうたん）を比較（ひかく）すると、その差別（さべつ）は明（あきらか）であるにかかわらず、その間に境界（きょうかい）線を付（つ）けられぬものばかりである。
　学問や芸術（げいじゅつ）の区別（くべつ）にも同様なことが有る。動物と植物との境界（きょうかい）が無（な）い以上（いじょう）は、これを研究（けんきゅう）する動物学と植物学との間には素（もと）より境（さかい）は無（な）い。物理学と化学との間には密接（みっせつ）な関係（かんけい）があるので、境界（きょうかい）線を定めて切り離（はな）すことはできない。今日では物理化学というて名前からして両方に跨（またが）つた一学科がある。絵画（かいが）も純粋（じゅんすい）な日本画と純粋（じゅんすい）な西洋画とは余程（よほど）違（ちが）うから素人（しろうと）にも差別（さべつ）が知れる。折衷（せっちゅう）派（は）になると、どっちに属（ぞく）するとも言われない。
　また絵画は平面、彫刻（ちょうこく）は立体のもので、その差別（さべつ）は誰（だれ）にも明らかである。絵画（かいが）の方にもずいぶん絵の具（ぐ）を山の様に盛（も）り上げたものがあり、彫刻（ちょうこく）の方にも平面に彫（ほ）り付（つ）けたものがあつて、どちらの領分（りょうぶん）に属（ぞく）するか分り兼（か）ねるようなものもある。外国コインの表にある人の顔の彫刻（ちょうこく）に絵の具を塗（ぬ）つたとすれば、これは画ともいへば、彫刻（ちょうこく）ともいえるであらう。
　義太夫（ぎだゆう）とか常磐津（ときわづ）とかいうものも、無論（むろん）その間に明らかな差別（さべつ）が有るだろうが、下手な者が語るといずれか分らぬ様にもなる。芝居（しばい）と活動写真（注：映画（えいが））などのようなものも、これを半々に相（あい）混（ま）じると、その中間のものができがる。


　以上（いじょう）はいずれも差別（さべつ）のある二つの物を取つて、その間に境界（きょうかい）の無（な）いことを述（の）べたが、相手無（な）しに唯一（ゆいい）つの物について、その終点を調べて見ても、また決して判然（はんぜん）たる境界（きょうかい）は無（な）い。雲はその最も好（よ）い例（れい）で雲の形は明らかに見えていながら、その周辺（しゅうへん）に判然（はんぜん）たる境界（きょうかい）線を見出すことはできない。昔の支那（しな）（注：中国）や日本の画では明（あきらか）な線を以（もっ）て雲の輪廓（りんかく）を描（か）いてある。実物を見れば、無論（むろん）そんなものは無（な）い。富士山（ふじさん）へでも登れば、自身が幾度（いくど）か雲の中に入り、また雲から出るが、いつも知らぬ間に出入するだけで、決して今から雲に入るとか、今雲を出たとか言い得（え）るような判然（はんぜん）たる境界（きょうかい）は無（な）い。
　雲は掴（つか）まえ難（がた）いものの例（れい）としていつも引き合ひに出される物なので、これは特別（とくべつ）であると考える人が有るかも知れぬ。他の物でも理窟（りくつ）は全くこれと同じである。例（たと）えば紙の裁（た）ち切つた縁（ふち）は一直線で、境界（きょうかい）が極（きわ）めて判然（はんぜん）しているように見える。これを千倍の顕微鏡（けんびきょう）で見れば、多数の繊維（せんい）が入り乱（みだ）れて恰（あたか）も竹薮（たけやぶ）のようである。どこまでが紙の領分（りょうぶん）で、どこからが紙の領分（りょうぶん）以外（いがい）であるか全く判然（はんぜん）としない。もし人間が今より何千分の一か、何万分の一かの極（きわ）めて微細（びさい）な身体（からだ）になったと想像（そうぞう）すると、紙の縁（ふち）を通過（つうか）するときには、普通（ふつう）の人間が、雲に出入するときと同様で、明瞭（めいりょう）な境界（きょうかい）を見ることはできないだろう。
　地図を見れば島の周囲（しゅうい）を明らかな沿岸（えんがん）線で示（しめ）してあるが、実際（じっさい）に浜辺（はまべ）へ出て見ると、波（なみ）が寄（よ）せては返しているので、陸（りく）の領分（りょうぶん）がどこまで達（たつ）し、どこで終るかを示（しめ）すことはできない。
　このように境界（きょうかい）が定（さだ）められないのは、空間に対してのみではなく、時間においてもその通りでる。人の生命のなども通常（つうじょう）何年何月何日の何時何分に生まれ、何年何月何日の何時何分に死んだといって、生まれた時も、死んだ時も、それぞれ明らかな一点のように言っているが、実際（じっさい）生まれるに当つては、生まれ始めてから生まれ終るまでの移（うつ）り行きがある。死ぬに当つても、死に始めてから死に終るまでの移（うつ）り行きがある。決して時の一点を指（さ）して、これが生まれた時、これが死んだ時と指し示（しめ）す訳（わけ）にはいかぬ。
　電灯（でんとう）の撮（つま）み（注：スイッチ）を捻（ねじ）れば、その途端（とたん）に光が現（あら）われ、またこれを捻（ねじ）れば、その途端（とたん）に光が消えて、光（ひか）つていた時の始めと終りには境界（きょうかい）が有るように感じる。これもよく考えて見ると、境界（きょうかい）は無（な）い。電球内の細い線が微（かすか）に光り始めてから、十分の光を発するまでには、順々（じゅんじゅん）の移（うつ）り行きがある。光が僅（わずか）に弱り始めてから完全（かんぜん）に消え終るまでの間にも順々（じゅんじゅん）の移（うつ）り行きがある。仮（かり）に七十年の人間の寿命（じゅみょう）を一日に縮（ちぢ）めてみよう。一秒に対する時の長さの感じを今日（こんにち）の人間が一日に対する長さの感じとしてみよう。そうすれば電灯（でんとう）が付（つ）いて明るくなるときには恰（あたか）も夜が明けて朝となるのと同様な移（うつ）り行きを感じるであらう。また電灯（でんとう）が消えて、暗くなるときには恰（あたか）も日が暮（く）れて夜となるときと同様な移（うつ）り行きを感じるであらう。到底（とうてい）明な境界（きょうかい）を定めることはできない違（ちが）いない。
　なお通常（つうじょう）相（あい）対立させて使っている言葉の中には、実際（じっさい）対等でないものが幾（いく）つもある。
　例（たと）へば動と静（せい）というようなものはその一（ひとつ）で、世人は一般（いっぱん）に動と静（せい）とを相反するものとして、その間に確（たしか）な境界（きょうかい）があるように見做（みな）している。よく考えて見ると、動といふ中には激（はげ）しい動から、微（かす）かな動まで無数（むすう）の階級がある。微（び）の極（きわみ）に達（たつ）した所が即（すなわ）ち静（せい）であるから、動と静（せい）とは決して相対立するべき性質（せいしつ）のものではない。静（せい）はむしろ無数（むすう）に変化（へんか）がある動の中の一の特殊（とくしゅ）の場合と見做（みな）すべきものであらう。
　曲と直というのもこれと同様で、曲という中には、甚（はなは）だしい曲から極（きわ）めて微（かす）かな曲まで無限（むげん）の変化（へんか）がある。最（もっ）も微（かす）かな曲が即（すなわ）ち直であるので、直はむしろ曲の中の一種（いっしゅ）とも見做（みな）せる。
　有と無（む）との区別（くべつ）も、その通りで、有の方には明らかに有るのから微（かす）かに有るのまで無限（むげん）の階級があり、その一方の端（はし）が無（む）である。前と同じ筆法（ひっぽう）で論（ろん）じれば、無（む）は当然（とうぜん）有の中の一種（いっしゅ）と見らねばならない。
　また仮説（かせつ）と事実との関係（かんけい）もこれに似（に）たものでる。仮説（かせつ）の中には、頗（すこぶ）る（注：非常に）真らしからぬものから、余程（よほど）確（たしか）らしいものまで様々の階級がある。その中の最（もっ）も真らしいものを事実と見做（みな）しているに過（す）ぎない。地球が丸いということも、地球が太陽の周囲（しゅうい）を廻転（かいてん）するということも、今では事実と見做（みな）されている。昔はただ仮説（かせつ）に過（す）ぎなかつた。今日と雖（いえど）ども地球は丸くないと唱（とな）える人もいるが、その人から見れば、地球の丸いということは、事実でなくて、誤（あやま）つた仮説（かせつ）と考えられているのであらう。


　私（わたし）は常々（つねづね）このように考えるので、いずれの方面を見ても、差別（さべつ）は有つて境界（きょうかい）は無（な）いというのが宇宙（うちゅう）の真相であるように感ずる。差別（さべつ）は有るが境界（きょうかい）は無（な）いというのが宇宙（うちゅう）の真相であるとすれば、有る差別（さべつ）を無（な）いと思うのも誤（あやま）りであり、無（な）い境界（きょうかい）を有りと見做（みな）すのも誤（あやま）りである。差別（さべつ）の有ることにのみ注意すると、境界（きょうかい）の無（な）い所に境界（きょうかい）ありと信（しん）じる誤（あやま）りに陥（おちい）り易（やす）い。境界（きょうかい）の無（な）いことにのみ注意すると、有る差別（さべつ）をもこれを無視（むし）する弊害（へいがい）に陥（おちい）り易（やす）い。何事を論（ろん）じるに当つても、「差別（さべつ）は有り境界（きょうかい）は無（な）し」という根本の事実を常（つね）に念頭（ねんとう）から離（はな）さないようにして、両方に注意しないと、いずれか一方の誤（あやま）りに陥（おちい）るのは免（まぬが）れない。
　さてこのように、実際（じっさい）に境界（きょうかい）の無（な）いものを捕（とら）えて、なぜ世人は一般（いっぱん）に境界（きょうかい）あるものと思い込（こ）むようになったかというに、私（わたし）の考えによれば、これは、全く人類（じんるい）が言語を使って思考（しこう）するためである。元来、物の名前は、他物と区別（くべつ）するために付（つ）けたものなので、すべて差別（さべつ）に基（もと）づいて名付（なづ）けてある。
　他のものに変化（へんか）して行く過程（かてい）などは度外視（どがいし）（注：無視（むし））している。虹（にじ）の七色の名称（めいしょう）などはその適例（てきれい）である。特徴（とくちょう）が明らかに現（あら）われた部分の外（ほか）には名前は付（つ）けてない。地面の著（いちじる）しく高まつた所には何山という名を付（つ）け、地面の目立つて広い所には何原という名を付（つ）ける。その境界（きょうかい）の漠然（ばくぜん）とした所は当分構（かま）わずに置（お）く。
　自分の身体について見ても、手とか腕（うで）とか肩（かた）とか頸（くび）とか、各部（かくぶ）に名称（めいしょう）は付（つ）けてあるが、その間に厳（きび）しい境（さかい）は定めてない。しかし境界（きょうかい）は定めてなくとも、各部（かくぶ）に名が付（つ）けてあれば、腕（うで）に怪我（けが）をしたとか、頸（くび）に腫物（はれもの）ができたとかいう日々の会話（かいわ）には何の差支（さしつか）えも無（な）い。
　実物を目の前に置（お）いて調べるような学問を修（おさ）める者は、物の名称（めいしょう）とは総（す）べてこのような性質（せいしつ）のものであることを忘（わす）れるおそれは無（な）い。実物を離（はな）れて、ただ言葉のみを以（もつ）て考える人々は、一つ一つの言葉に定義（ていぎ）を下して、その内容（ないよう）に範囲（はんい）を定めている。隣（とな）りの言葉との間に繩張（なわば）りをしないと思想（しそう）の整理ができないように感じ、到（いた）る所に境界（きょうかい）を造（つく）りる。後（のち）にはそのような境界（きょうかい）が最初（さいしょ）から有つたもののように思う癖（くせ）が生じる。終には物と物との間には必（かなら）ず境界（きょうかい）が有ると考えなければ合点（がってん）ができないようになると見える。
　言葉と言葉との間の境界（きょうかい）は結局（けっきょく）行政（ぎょうせい）上の区画（くかく）のようなもので、整理の必要（ひつよう）からいえば、是非（ぜひ）ともどこかに定めないといけない。実物の方にはこれに相当する真の境界（きょうかい）の無（な）いことを常（つね）に忘（わす）れてはいけない。土地の表面にはただ山川、高低（こいてい）があるだけで、何の境（さかい）も無（な）い所に行政（ぎょうせい）上の必要（ひつよう）から、県の境（さかい）、郡（ぐん）の境（さかい）、町の境（さかい）、村の境（さかい）を設（もう）けている。実物にはただ差別（さべつ）が有るばかりで、境界（きょうかい）の無（な）い所へ、若干（じゃっかん）の言葉を割（わ）り振（ふ）り、その間に縦横（じゅうおう）に繩（なわ）を張（は）つて、一々の言葉の領分（りょうぶん）を定めたに過（す）ぎない。実物を離（はな）れて、言葉のみを用いていると、繩張（なわばり）のみに目が付（つ）いて、実物の方にもそこに判然（はんぜん）たる境界（きょうかい）が有るかのように思い込（こ）む癖（くせ）が生じたのであらう。
　また人間は指を以（もつ）て物の数を算（かぞ）え、数に一二三四五とおのおの名称（めいしょう）を付（つ）け、十は五の二倍、四は八の二分の一という様に勘定（かんじょう）する。長さ、広さ、重さをいい現（あら）わそうとして、先（ま）づ単位（たんい）を定める。その何倍とか、何分の幾（いく）つとかいう言葉を用いる。長さならば、里（り）町（ちょう）間（けん）とか、丈（じょう）尺（しゃく）寸（すん）とかいう単位（たんい）を設（もう）け、何里の道とか、何尺（なんしゃく）の紐（ひも）とか言っている。一本の紐（ひも）を見て、目分（めぶん）量（りょう）でその長さを測（はか）るときには頭の中で、その紐（ひも）を一尺（いっしゃく）づつに境（さかい）を付（つ）けて考える。万事このように頭の中で、切つて考える癖（くせ）が付（つ）くと、何物を見ても、これを単位（たんい）の集合であると見做（みな）す。単位（たんい）と単位（たんい）との間には、判然（はんぜん）たる境界（きょうかい）が有るように感じ易（やす）い。一昼夜（いっちゅうや）を二十四時間に分け、地球の周囲（しゅうい）を三百六十度に分けるなどは、皆（みな）境界（きょうかい）が無（な）い所へ便宜（べんぎ）上、境界（きょうかい）を造（つく）つたものである。
　このことは誰（だれ）にも明瞭（めいりょう）であるにかかわらず、いつも使い慣（な）れ、見慣（みな）れると、その境界（きょうかい）が真に有るかのような気持ちになる。地図や地球儀（ちきゅうぎ）を見ても、経度（けいど）緯度（いど）の線が縦横（じゅうおう）に描（えが）いてないと、何となく間が抜（ぬ）けたように感ずる。赤道の所にはやはり、太い線を引いて、北半球と南半球とを判然（はんぜん）と区別（くべつ）して置（お）かないと承知（しょうち）できない。日常（にちじょう）の生活には午前と午後との間にははっきりとした境界（きょうかい）が有るように見做（みな）して置（お）く方が都合（つごう）が宜（よろ）しい。こんな次第（しだい）で、差別（さべつ）の明らかでない所へ、便宜（べんぎ）上境界（きょうかい）を仮想（かそう）することも常（つね）である。これが習慣（しゅうかん）になると、その境界（きょうかい）を実際（じっさい）有りと思うようになり易（やす）い。
　今日赤道を通過（つうか）すると聞いて、朝から甲板（かんぱん）上に立つて、一生懸命（いっしょうけんめい）に海面を眺（なが）めている乗客の所へ、ちゃめっけ（注：無邪気（むじゃき）な悪戯（いたずら）をして人を笑（わら）わそうとする気持ち）がある若（わか）い船員が来て、赤道は肉眼（にくがん）では到底（とうてい）見えないからこれを貸（か）して上げようと言って、レンズに赤インキで横線を引いた望遠鏡（ほうえんきょう）を貸（か）してやつたという話を聞いたことがある。これは極端（きょくたん）な例（れい）としても、日常（にちじょう）これに似（に）た考えを持つている場合は幾（いく）らもある。大晦日（おおみそか）と元日との間にも何となく判然（はんぜん）とした境界（きょうかい）があるように気持ちを禁（きん）じ得（え）ない。


　人間の思考力が、今日の程度（ていど）までに進み、人間の知識（ちしき）が今日の分量（ぶんりょう）までに増（ま）したのは主として言葉を用いて考えた結果（けっか）であることを思えば、言葉が人間に取つてどんなに大切なものであるかは、わざわざ論（ろん）じるに及（およ）ばない。理科でも文学でも、宗教（しゅうきょう）でも、芸術（げいじゅつ）でも言葉を離（はな）れては到底（とうてい）発達（はったつ）することはでにないであらう。しかしその反対に、言葉のために誤解（ごかい）させられ、言葉のために無益（むえき）なことに頭を悩（なや）ませられた方を考えると、これまた決して少なくない。言葉のために誤（あやま）るとは即（すばわ）ち境界（きょうかい）の無（な）い所に境界（きょうかい）が有るように思い込（こ）むことである。そため今日までに幾人（いくにん）の大学者が無用（むよう）な水掛（みずかけ）論（ろん）を闘（たたか）わしたか到底（とうてい）数えることはできない。昔からの議論（ぎろん）の中でいつまでも結着（けっちゃく）の付（つ）かないもの多くは、双方（そうほう）ともに境界（きょうかい）の無（な）い所に境界（きょうかい）ありと思い誤（あやま）つて、さてその境界（きょうかい）はどこに有るかと、互（たがい）に論（ろん）じ合っているもののようである。
　いずれの方面でも、研究が進めば進むだけ、益々（ますます）細かく分解（ぶんかい）するようになるが、細かく分解（ぶんかい）すればするだけ、多くの境界（きょうかい）線を仮想（かそう）しなければならないことになる。今日までに学問の進歩したのは、主として分解（ぶんかい）的（てき）研究（けんきゅう）の賜（たまもの）であつて、今後も益々（ますます）分解（ぶんかい）的（てき）研究を進めなければならない。一方に分解（ぶんかい）的（てき）研究を努（つと）めると同時に、他方には、その結果（けっか）を綜合（そうごう）することが必要（ひつよう）である。しかして綜合（そうごう）するに当つて、決して忘（わす）れてはいけないのは、仮想（かそう）の境界（きょうかい）線を悉（ことごと）く消し去ることである。これを忘（わす）れると、分解（ぶんかい）したものをどんなに正しく綜合（そうごう）しても元通（もとどお）りにはならない。
　学問研究に分解（ぶんかい）の必要（ひつよう）なのはなぜかといえば、これは人間の力に限（かぎ）りが有つて、同時に全部を研究し得（え）ないからである。先づ幾（いく）つかに割（わ）つて、一部分づつ調べて掛（か）かるより外には途（みち）が無（な）い。詳（くわ）しく調べようと思えば思うほど、先づ細かく割（わ）つてみなければならない。その有様は恰（あたか）も一口（ひとくち）で食べられない大きな煎餅（せんべい）を食べる時、先づ煎餅（せんべい）を口に入（はい）るだけの大きさに割（わ）つて、一部分づつ片付（かたづ）けるのと少しも違（ちが）はない。
　即（すばわ）ち割（わ）らなければ手に合はないので割（わ）るのであつて、煎餅（せんべい）の方には決して初（はじ）めから割（わ）れ目は無（な）かつた。だから分解（ぶんかい）的（てき）研究の結果（けっか）をいかに巧（たくみ）に継（つ）ぎ合せても、その間に割（わ）れ目の残っている間は決して分解（ぶんかい）以前（いぜん）のものと同一ではない。割（わ）れ目を消して仕舞（しま）ってこそ、初（はじ）めて元（もと）と同一のものになるのである。
　皿を一度数多（あまた）の小片（しょうへん）に壊（こわ）して置（お）いて、これを焼継（やきつ）ぎしても、決して元（もと）の無疵（むきず）の皿とはならない。分解（ぶんかい）的（てき）研究の結果（けっか）を継（つ）ぎ合せても、継（つ）ぎ目が残（のこ）っては、それだけが誤（あやま）りである。
　教育を分（わけ）て智育（ちいく）・徳育（とくいく）・体育とするとか、人の体質（たいしつ）を分（わ）けて粘液質（ねんえきしつ）・胆汁質（たんじゅうしつ）・何々質（なになにしつ）・何々質（なになにしつ）とかいうのは皆（みな）差別（さべつ）するために造（つく）った名称（めいしょう）である。これを逆（ぎゃく）にして、教育は智育（ちいく）、徳育（とくいく）、体育の三区よりなるというと、それでは唱歌（しょうか）は何区に属（ぞく）するかとの難問（なんもん）も生ずる。
　幼年（ようねん）・少年・青年等の間に明な境界（きょうかい）が無（な）いからといって、その差別（さべつ）をも無視（むし）して、赤坊（あかんぼう）も大人も同じ乗車賃（じょうしゃちん）を取ることは誰（だれ）が考えても無理（むり）である。五歳（ごさい）以下（いか）は無賃（むちん）、十二歳（じゅうにさい）以下（いか）は半額（はんがく）というように所々に境界（きょうかい）を定めて置（お）くことが必要（ひつよう）である。
　差別（さべつ）ある物の間には、無論（むろん）どこかに境界（きょうかい）を設（もう）けねばならないが、この境界（きょうかい）は人間が便宜（べんぎ）上、造（つく）つたものであることを忘（わす）れてはならない。
　以上（いじょう）述（の）べた所を約言（やくげん）すると、初（はじ）めに言った通り、「差別（さべつ）は有り、境界（きょうかい）は無（な）し」との一句（いっく）になる。有る差別（さべつ）を無（な）しと見るのも誤（あやま）りであり、無（な）い境界（きょうかい）を有りと思うのも誤（あやま）りである。何学問でも、差別（さべつ）は有り境界（きょうかい）は無（な）しという、万物に通じた根本の原理に気付（きづ）かない様では、今後分解（ぶんかい）的（てき）研究が進むに従（したが）って、却（かえ）つて、誤（あやま）りの方に迷（まよ）ひ込（こ）むおそれが無（な）いとも限（かぎ）らぬ。