境界なき差別

丘浅次郎






 の題目を見て、奇態きたいなな題と考へる人が有るかも知れぬ。差別さべつが有れば、の間に境界きょうかいが有るはず境界きょうかいければ、両側りょうがわには差別さべつはずであるから、「境界きょうかいなき差別さべつ」とふのは題目自身の中にすで矛盾むじゅんふくんでると考へる人が有るかも知れぬ。しか此所ここべんとする事柄ことがらに対しては「差別さべつは有り境界きょうかいし」との一句いっくで全部を言ひつくゆえこれよりもなお一層いっそう適切てきせつな題目をけることは出来ぬ。
 実物にいて自然しぜん物を研究する人は「境界きょうかいなき差別さべつ」にえず遭遇そうぐうする。たとへば、に三本縦縞たてじまのあるひる標本ひょうほんに一本の縦縞たてじまのあるひる標本ひょうほんとを比較ひかくするとの間の差別さべつは実に明瞭めいりょうで、二種にしゅの間には判然はんぜんたる境界きょうかいが有るごとくに思はれるが、実物を多数集めて見ると、二者の中間の性質せいしつびたものがいくらもあり、三本の縦縞たてじまの中、両側りょうがわにある二本の色がはなはだしくあわいものもあれば、中央にある明な一本の外に両側りょうがわになほ一本づゝかすか縦縞たてじまの見えるものなども有つて、此等これらじゅんならべて見ると、到底とうてい何所どこにも判然はんぜん境界きょうかいを定めることが出来なくる。またひるには体の後端こうたん吸盤きゅうばんが有り、蚯蚓みみずには吸盤きゅうばんゆえ普通ふつうひる類と普通ふつう蚯蚓みみずるいとをくらべて見ると、差別さべつ明瞭めいりょうで、の間の境界きょうかい判然はんぜんと有るごとくに思はれるが、よく調べると、こけの下などに陸産りくさんひるるいには吸盤きゅうばんいものがあり、他物にいて生活する蚯蚓みみずるいには体の後端こうたん立派りっぱ吸盤きゅうばんそなへたものがいくらもある。此等これらは昔はひるるい仲間なかまに入れてあつたが、段々だんだん身体の構造こうぞうを調べた結果けっか、今日では蚯蚓みみずるいの方へせきうつされた。かる次第であるゆえ模範もはんてきひると、模範もはんてき蚯蚓みみずとの間にはきわめて明な差別さべつが有りながら、ひるるい蚯蚓みみずるいとの境界きょうかい何所どこに有るかとたずねられると、だれ正確せいかくに答へることは出来ぬ。
 斯様さよう差別さべつは有りながら境界きょうかいいとふことは、ひる蚯蚓みみずかぎわけではい。如何いか差別さべついちじるしい種類しゅるいの間でも、丁寧ていねいに調べて見ると、かならず中間の性質せいしつびたものがの間にあつて、結局けっきょく境界きょうかいは定められぬ。今日生存せいぞんする動物種族しゅぞくの中で、鳥類ちょうるい蜥蜴とかげるいとは外観がいかん習性しゅうせい随分ずいぶんはなはだしくことなり、これ鳥類ちょうるいまた蜥蜴とかげるいかと疑問ぎもんの起るやうな曖昧あいまいな動物は一種いっしゅいから、二者の間の境界きょうかいすこぶ判然はんぜんたるごとくに見える。しかるに古代の地層ちそうからり出された化石を調べると、くちばしに歯の生えた鳥、つばさつめのある鳥、後足で立つて歩く蜥蜴とかげ、空中を蜥蜴とかげなど、あたか鳥類ちょうるい特徴とくちょう蜥蜴とかげるい特徴とくちょうとを七分三分とか四分六分とかに合せたごと性質せいしつのものがいくらもあり、両方の性質せいしつを五分五分にそなへた種類しゅるいいたつては、全く鳥類ちょうるい蜥蜴とかげるいとの中間にくらいするから、鳥類ちょうるい蜥蜴とかげるいとの間の境界きょうかいは全くいとはねばならぬ。また動物を胎生たいせいするるい卵生らんせいするるいとに分けるが、胎生たいせいにも卵生らんせいにも種々しゅしゅの階級があつて、生まれたばかりのたまごの中に、すで子供こどもの形の出来上つてるものも有れば、形のいまととのはぬ中に早くも母胎ぼたいからみ出されるものも有つて、の間の境界きょうかいは決して判然はんぜんせぬ。哺乳ほにゅうるい胎生たいせいするのが規則きそくであるが、オーストラリヤ地方にさんする二三のめずらしい種類しゅるいでは鳥類ちょうるいたまごたまごみ落す。しかも、の内部にはすで胎児たいじの形が相応そうおうに出来てる。魚類ぎょるい普通ふつう卵生らんせいであるが、鮫類さめるいの中には胎生たいせいする種類しゅるいいくらもあり、しか胎児たいじには母体から滋養じよう分を取るための胎盤たいばんごときものがいてあるから、すこぶ獣類じゅるい胎生たいせいる。脊椎せきつい動物には体の中軸ちゅうじく脊骨せぼねが有り、脊椎せきつい動物には決して脊骨せぼねいとへば、の間の境界きょうかいは、きわめて判然はんぜんしてごとくに聞えるが、実物にいて調査ちょうさすると、発生の途中とちゅうに一度脊骨せぼねが出来て、後にふたたこれうしなふもの、わずか脊骨せぼね痕跡こんせきのみを有する者などが、いくらもあつて、決して明な境界きょうかいい、それゆえ、昔は脊椎せきつい動物と見做みなされたもので、今日は脊椎せきつい動物の方へうつへられたものが何種類しゅるいもある。動物と植物とをくらべても、犬猫いぬねこや、うめさくらなどのごとき高等の種類しゅるいだけを見ると、の間の境界きょうかいは、きわめて明であるやうに思はれるが、段々だんだん下等の種類しゅるい比較ひかくすると、ついには到底とうてい区別くべつが出来なくる。根が生えて動かぬ虫や、ふるうておよ仲間なかまには、とも虫とも判断はんだんねるごとき生物がいくらもあるが、斯様さよう種類しゅるいは動物学の書物には動物として記載きさいし、植物学の書物には植物として記載きさいしてある。


 われらは常々つねづねくのごとき、差別さべつあつて境界きょうかいなきものばかりを見慣みなれてゆえ、生物以外いがいのものを見るに当つても、あいことなつたものゝ間に明な境界きょうかいが有るかいなかを先づうたがうてかる習慣しゅうかんいて、何事をろんずるに当つても、先づ第一に、境界きょうかい有無うむを考へて見るが、くすると、世人が当然とうぜん境界きょうかいの有るごとくに思うてる所にも実は決してあきらか境界きょうかいいことを発見する。差別さべつあつて境界きょうかいいことのだれにも明白に知れるものももとよりすこぶる多い。たとへば晴天せいてん雨天うてんごときも、一例いちれいであるが、日がつてればたしかに晴天、雨がつてればたしかに雨天で、差別さべつきわめていちじるしいが、の間には種々しゅしゅ程度ていど曇天どんてんがあつて、晴天と見做みなすべきか、雨天と心得こころえしかるべきか、判断はんだんに苦しむ様な天気も中中多い。きつね嫁入よめいりなどゝ名づけて、日がりながら雨がることさへ決してまれでない。夕立ゆうだちの後にあらはれるにじごときは、境界きょうかいなき差別さべつ模範もはんてき好例こうれいで、七色の差別さべつだれの目にも明であるが、判然はんぜんたる境界きょうかい何所どこさがしても決してい。赤よりかばかばより黄、黄より緑と、順々じゅんじゅんうるり行くだけで、急にだんいて、一の色から他の色にこすごとき所は何所どこにも見附みつからぬ。春夏秋冬の四季しき変化へんかごときも、これと同様で、夏は暑く、冬は寒く、春はさくらの花がき、秋はかえでの葉があかくなつて、差別さべつだれにも明瞭めいりょうに知れるが、の間に判然はんぜんたる境界きょうかいは決してい。こよみを見れば、何月何日の何時何分何秒から春にるとか夏にるとか書いてあるが無論むろん時刻じこく急激きゅうげき変化へんかが起るわけではなく、冬は何時いつとはなしに自然しぜんに春となり、春は何時とはなしに自然しぜんに夏となり、の間に気候きこう次第しだい次第しだいあたたり行くのみである。昼夜のべつも、の通りで、昼は明るく、夜は暗く、差別さべついちじるしいが、夜が明けて朝となるときも、日がれて夜とるときも、決して判然はんぜんたる境界きょうかいい。ほか透明とうめいなものと、透明とうめいなものとの間には種々しゅしゅ程度ていどの半透明とうめいなものが有り、個体こたい液体えきたいとの間には種々しゅしゅ程度ていどの半流動じょうのものが有る。葛湯くずゆこごまつて葛餅くずもちる間には、今迄いままで液体えきたい、今からが固形こたい体とふやうに、境界きょうかいしめべき時刻じこくは決してい。
 さられいを取つて見るに、めてるときは意識いしきが有るとひ、ねむつてるときは意識いしきいとふが、これの間に判然はんぜんたる境界きょうかいい。朝目覚めざめるときも、夜寝入ねいるときも、意識いしきからゆう意識いしきへ、しくはゆう意識いしきから意識いしきへとうつり行く間には実に無数むすうはん意識いしきてき状態じょうたい経過けいかするから、有様ありさまは夜が明けて朝となり、日がれて夜にるのと、少しもちがはぬ。賢愚けんぐべつも、の通りで、賢人けんじん愚物ぐぶつとを比較ひかくすれば、の間の差別さべつまこと明瞭めいりょうであるが、中間ちゅうかんにはけん三とか、けん六とか賢愚けんぐ五分五分とかふ様な種々しゅしゅ程度ていどの人間がかぎくあるゆえ到底とうてい明瞭めいりょう境界きょうかい線を定めることは出来ぬ。健康けんこうと病気とかろうじゃくとか、新ときゅうとか、大と小とか、軽と重とかふやうに相対する名称めいしょうけてある事柄ことがらは、いずれも両端りょうたん比較ひかくすると、差別さべつあきらかであるにかかわらず、の間に境界きょうかい線をけられぬものばかりである。
 学問や芸術げいじゅつ区別くべつにも同様なことが有る。動物と植物との境界きょうかい以上いじょうは、これ研究けんきゅうする動物学と植物学との間にはもとよりさかいい。物理学と化学との間には密接みっせつ関係かんけいがあるゆえ境界きょうかい線を定めて切りはなすことは出来ぬ。今日では物理化学とうて名前からして両方にまたがつた一学科がある。純粋じゅんすいな日本画と純粋じゅんすいな西洋画とは余程よほどちがふから素人しろうとにも差別さべつが知れるが、折衷せっちゅうになると、何れにぞくするともはれぬ。また画は平面、彫刻ちょうこくは立体のもので、差別さべつだれにも明らかであるが、の方にも随分ずいぶん絵の具を山の様にり上げたものが有り、彫刻ちょうこくの方にも平面にけたものが有つて、何方どちら領分りょうぶんぞくするか分りねるやうなものも有る。外国貨幣かへいの表にある人の顔の彫刻ちょうこくに絵の具をつたとすれば、これは画ともへば、彫刻ちょうこくともへるであらう。義太夫ぎだゆうとか常磐津ときわづとかふものも、無論むろんその間に明らかな差別さべつが有らうが、下手な者が語るといずれか分らぬ様にもなる。芝居しばいと活動写真とのごときも、これを半々にあいずると、の中間のものが出来上がる。


 以上いじょういずれも差別さべつのある二つの物を取つて、の間に境界きょうかいいことをべたのであるが、相手しに唯一ゆいいつの物にいて、の終点を調べて見ても、また決して判然はんぜんたる境界きょうかいい。雲はの最も好いれいで雲の形は明らかに見えてながら、周辺しゅうへん判然はんぜんたる境界きょうかい線を見出すことは出来ぬ。昔の支那しなや日本の画ではあきらかな線をもって雲の輪廓りんかくいてあるが、実物を見れば、無論むろんかるものはい。富士山ふじさんへでも登れば、自身が幾度いくどか雲の中に入り、また雲から出るが、何時いつも知らぬ間に次第しだいに出入するだけで、決して今から雲に入るとか、今雲を出たとかるやうな判然はんぜんたる境界きょうかいい。雲はつかまへがたいもののれいとして何時も引き合ひに出される物ゆえこれ特別とくべつであると考へる人が有るかも知れぬが、他の物でも理窟りくつは全くこれと同じである。たとへば紙のち切つたふちは一直線をなして、境界きょうかいきわめて判然はんぜんしてあるごとくに見えるが、これを千倍の顕微鏡けんびきょうで見れば、多数の繊維せんいが入りみだれてあたか竹薮たけやぶごとくであるゆえ何所どこまでが紙の領分りょうぶんで、何所どこからが紙の領分りょうぶん以外いがいであるか全く判然はんぜんせぬ。それゆえし人間が今より何千分の一か、何万分の一かのきわめて微細びさい身体からだを持つてたと想像そうぞうすれば、紙のふち通過つうかするときには、あたか普通ふつうの人間が、雲に出入するときと同様で、到底とうてい明瞭めいりょう境界きょうかいを見ることは出来ぬであらう。地図を見れば島の周囲しゅういを明らかな沿岸えんがん線でしめしてあるが、実地浜辺はまべへ出て見ると、なみせては返してゆえりく領分りょうぶん何所どこまでたつし、何所どこで終るかをしめすことは出来ぬ。境界きょうかいさだめられぬのは、空間に対してのみではなく、時間においてもの通りで、人の生命のごときも通常つうじょう何年何月何日の何時何分に生まれ、何年何月何日の何時何分に死んだとうて、生まれた時も、死んだ時も、各々おのおの明らかな一点のごとくにうてはるが、実際じっさい生まれるに当つては、生まれ始めてから生まれ終るまでのうつり行きがあり、死ぬに当つても、死に始めてから死に終るまでのうつり行きがあるから、決して時の一点をして、これが生まれた時、これが死んだ時と指ししめわけには行かぬ。電灯でんとうつまみをねじれば、途端とたんに光があらはれ、またこれねじれば、途端とたんに光が消えて、ひかつてた時の始め終りには確乎かっこたる境界きょうかいが有るごとくに感ずるが、これもよく考へて見ると、境界きょうかいい。電球内の細い線がかすかに光り始めてから、十分の光を発するまでには、順々じゅんじゅんうつり行きがあり、光がわずかに弱り始めてから完全かんぜんに消え終るまでの間にも順々じゅんじゅんうつり行きがあるゆえかりに七十年の人間の寿命じゅみょうを一日にちぢめ、一秒に対する時の長さの感じを今日の人間が一日に対する長さの感じと同様にしたと想像そうぞうすれば、電灯でんとういて明るくなるときにはあたかも夜が明けて朝とるのと同様なうつり行きを感ずるであらう。また電灯でんとうが消えて、暗くなるときにはあたかも日がれて夜となるときと同様なうつり行きを感ずるであらうから、到底とうてい明な境界きょうかいを定めることは出来ぬにちがひない。
 なほ通常つうじょうあい対立させて用ひてる言葉の中には、実際じっさい対等でないものがいくらもある。たとへば動とせいごときはの一で、世人は一般いっぱんに動とせいとを相反するものとして、の間にたしか境界きょうかいがあるごとくに見做みなしてるが、よく考へて見ると、動とふ中にははげしい動から、かすかな動まで無数むすうの階級があり、きわみたつした所がすなわせいであるから、動とせいとは決して相対立せしむべき性質せいしつのものではなく、せいむし無数むすう変化へんかのある動の中の一の特殊とくしゅの場合と見做みなすべきものであらう。曲と直とふのもこれと同様で、曲とふ中には、はなはだしい曲からきわめてかすかな曲まで無限むげん変化へんかがあり、もっかすかな曲がすなわち直であるゆえ、直はむしろ曲の中の一種いっしゅとも見做みなせる。有ととの区別くべつも、の通りで、有の方には明らかに有るのからかすかに有るのまで無限むげんの階級があり、の一方のはしであるから、前と同じ筆法ひっぽうろんずれば、当然とうぜん有の中の一種いっしゅと見ねばならぬ。また仮説かせつと事実との関係かんけいこれたもので、仮説かせつの中には、すこぶる真らしからぬものから、余程よほどたしからしいものまで様々の階級があり、の中のもっも真らしいものを事実と見做みなしてるにぎぬ。地球が丸いとふことも、地球が太陽の周囲しゅうい廻転かいてんするとふことも、今では事実と見做みなされてるが、昔はたゞ仮説かせつぎなかつた。今日といえどども地球は丸くないととなへる人もあるが、その人から見れば、地球の丸いとふことは、事実でなくて、あやまつた仮説かせつと考へられてるであらう。


 われらは常々つねづね斯様さように考へるゆえ、何れの方面を見ても、差別さべつは有つて境界きょうかいいとふのが宇宙うちゅうの真相であるごとくに感ずる。差別さべつは有るが境界きょうかいいとふのが宇宙うちゅうの真相であるとすれば、有る差別さべついと思ふのもあやまりであり、境界きょうかいを有りと見做みなすのもあやまりである。差別さべつの有ることにのみ注意すると、兎角とかく境界きょうかいい所に境界きょうかいありとしんずるあやまりにおちいやすく、境界きょうかいいことにのみ注意すると、兎角とかく、有る差別さべつをもこれ無視むしするのへいおちいやすい。されば何事をろんずるに当つても、「差別さべつは有り境界きょうかいし」とふ根本の事実をつね念頭ねんとうからはなさぬやうにして、両方に注意せぬと、何れか一方のあやまりにおちいるをまぬがれぬ。
 さてくのごとく、実際じっさい境界きょうかいいものをとらへて、何故なにゆえ世人は一般いっぱん境界きょうかいあるものと思ひむにいたつたかとふに、われらの考へによれば、これは、全く人類じんるいが言語を用ひて思考するためである。元来、物の名は、他物と区別くべつするためにけたものゆえことごと差別さべつもとづいて名づけてあつて、他にうつり行く所などはしばら度外視どがいししてある。にじの七色の名称めいしょうなどはすばわ適例てきれいで、特徴とくちょうの明らかにあらはれた部分の外には名はけてない。地面のいちじるしく高まつた所には何山とふ名をけ、地面の目立つて広い所には何原とふ名をけるが、境界きょうかい漠然ばくぜんたることは当分かまはずにく。自分の身体にいて見ても、手とかうでとかかたとかくびとか、各部かくぶ名称めいしょうけてあるが、の間にきびしいさかいは定めてない。しか境界きょうかいは定めてなくとも、各部かくぶに名がけてありさへすれば、うで怪我けがをしたとか、くび腫物はれものが出来たとかふ日日の談話だんわには何の差支さしつかへもい。実物を目の前にいて調べるやうな学問をおさめる者は、物の名称めいしょうとはべてかる性質せいしつのものであることをわすれるおそれいが、実物をはなれて、たゞ言葉のみをもつて考へる人々は、一つ一つの言葉に定義ていぎを下して、内容ないよう範囲はんいを定め、となりの言葉との間に繩張なわばりをしてからぬと思想の整理が出来ぬごとくに感じ、いたる所に境界きょうかいつくり、後には斯様さよう境界きょうかい最初さいしょから有つたもののごとくに思ふくせが生じて、終には物と物との間にはかなら境界きょうかいが有ると考へねば合点がってんが出来ぬやうにると見える。言葉と言葉との間の境界きょうかい畢竟ひっきょう行政ぎょうせい上の区劃くかくごときもので、整理の必要ひつようからへば、是非ぜひとも何所どこかに定めねばならぬが、実物の方にはこれに相当する真の境界きょうかいいことをつねわすれてはならぬ。土地の表面にはたゞ山川、高低こいていがあるだけで、何のさかいい所へ、行政ぎょうせい上の必要ひつようから、県のさかいぐんさかい、町のさかい、村のさかいもうけるごとくに、実物にはたゞ差別さべつが有るばかりで、境界きょうかいい所へ、若干じゃっかんの言葉をり、の間に縦横じゅうおうなわつて、一々の言葉の領分りょうぶんを定めたにぎぬが、実物をはなれて、言葉のみを用ひてると、繩張なわばりのみに目がいて、実物の方にも其所そこ判然はんぜんたる境界きょうかいが有るかのごとくに思ひくせが生じたのであらう。
 また人間は指をもつて物の数をかぞへ、数に一二三四五と各各おのおの名称めいしょうけ、十は五の二倍、四は八の二分の一とふ様に勘定かんじょうし、長さ、広さ、重さをあらはさうとするに当つては、先づ単位たんいを定めて、の何倍とか、何分のいくつとかふ言葉を用ひる。長さならば、ちょうけんとか、じょうしゃくすんとか単位たんいもうけ、何里の道とか、何尺なんしゃくひもとかうてるが、一本のひもを見て、目分めぶんりょうの長さをはかるときには頭の中で、ひも一尺いっしゃくづゝにさかいけて考へる。万事斯様さように頭の中で、切つて考へるくせくと、何物を見ても、これ単位たんいの集合であると見做みなし、単位たんい単位たんいとの間には、判然はんぜんたる境界きょうかいが有るごとき感じを有するにいたやすい。一昼夜を二十四時間に分け、地球の周囲しゅういを三百六十度に分けるなどは、みな境界きょうかいい所へ便宜べんぎ上、境界きょうかいつくつたものであるが、此事このことだれにも明瞭めいりょうであるにかかわらず、始終用ひ見慣みなれると、境界きょうかいが真に有るかのごとき心持ちにつて、地図や地球儀ちきゅうぎを見ても、経度けいど緯度いどの線が縦横じゅうおういてないと、何となく間がけたごとくに感ずる。赤道の所には矢張やはり、太い線を引いて、北半球と南半球とを判然はんぜん区別くべつしてかぬと承知しょうちが出来ねる。日常にちじょうの生活には午前と午後との間には確乎かっこたる境界きょうかいが有るごとくに見做みなしてく方が都合がよろしい。斯様さよう次第しだいで、差別さべつの明らかでない所へ、便宜べんぎ境界きょうかい仮想かそうすることもつねであるが、これ習慣しゅうかんになると、境界きょうかい実際じっさい有りと思ふやうにやすい。今日赤道を通過つうかすると聞いて、朝から甲板かんぱん上に立つて、一生懸命いっしょうけんめいに海面をながめてる乗客の所へ、茶目式のわかい船員が来て、赤道は肉眼にくがんでは到底とうてい見られぬからこれして上げやうとうて、赤インキで玉(注:レンズ)に横線を引いた望遠鏡ほうえんきょうしてやつたとふ話を聞いたことがあるが、これ極端きょくたんれいとしても、日常にちじょうこれた考へを持つてる場合はいくらもある。大晦日おおみそかと元日との間にも何となく判然はんぜんたる境界きょうかいがあるごとき心持ちをきんない。


 人間の思考力が、今日の程度ていどまでに進み、人間の知識ちしきが今日の分量ぶんりょうまでにしたのは主として言葉を用ひて考へた結果けっかであることを思へば、言葉が人間に取つて如何いかに大切なものであるかは、態々わざわざろんずるにおよばぬ。理科でも文学でも、宗教しゅうきょうでも、芸術げいじゅつでも言葉をはなれては到底とうてい発達はったつすることは出来ぬであらう。しかの反対に、言葉のためにあやまられ、言葉のために無益むえきなことに頭をなやませられた方を考へると、これまた決して少なくない。言葉のためにあやまられるとはすばわ境界きょうかいい所に境界きょうかいが有るごとくに思ひむことで、ため今日までに幾人いくにんの大学者が無用むよう水掛みずかけろんたたかはしたか到底とうてい数へることは出来ぬ。昔からの議論ぎろんの中で何時いつまでも結着けっちゃくかぬものは、多くは、雙方そうほうともに境界きょうかいい所に境界きょうかいありと思ひあやまつて、さて境界きょうかい何所どこに有るかと、たがいろんじ合うてるものの様である。
 いずれの方面でも、研究が進めば進むだけ、益々ますます細かく分解ぶんかいするやうにるが、細かく分解ぶんかいすればするだけ、多くの境界きょうかい線を仮想かそうせねばならぬことにる。今日までに学問の進歩したのは、主として分解ぶんかいてき研究けんきゅうたまものであつて、今後とても、益々ますます分解ぶんかいてき研究を進めねばならぬが、一方に分解ぶんかいてき研究をつとめると同時に、他方には、結果けっか綜合そうごうすることが必要ひつようである。しかして綜合そうごうするに当つて、決してわすれてはならぬのは、仮想かそう境界きょうかい線をことごとく消し去ることである。これわすれると、分解ぶんかいしたものを如何いかに正しく綜合そうごうしてももとの通りにはらぬ。学問研究に分解ぶんかい必要ひつようなのは何故なにゆえかとへば、これは人間の力にかぎりが有つて、同時に全部を研究しぬからである。先づいくつかにつて、一部分づゝ調べてかるより外にはみちく、くわしく調べようと思へば思ふほど、先づ細かくつてからねばならぬ。の有様はあたかも一度に口に入れねる大きな煎餅せんべいを食ふに当つて、先づこれを口に入るだけの大きさにつて、一部分づゝ片付かたづけてかるのと少しもちがはぬ。すばわらねば手に合はぬゆえるのであつて、煎餅せんべいの方には決してはじめかられ目はかつた。されば分解ぶんかいてき研究の結果けっか如何いかたくみぎ合せても、の間にれ目のそんしてある間は決して分解ぶんかい以前いぜんのものと同一ではない。れ目を消して仕舞しまうてこそ、はじめてもとと同一のものにるのである。皿を一度数多あまた小片しょうへんこわしていて、さらこれ焼継やきつぎしたのでは、決してもと無疵むきずの皿とらぬごとく、分解ぶんかいてき研究の結果けっかぎ合せても、ぎ目がつては、それだけがあやまりである。教育を分つて智育ちいく徳育とくいく、体育とするとか、人の体質たいしつわかつて粘液質ねんえきしつ胆汁質たんじゅうしつ何々質なになにしつ何々質なになにしつとするとかふのはみな差別さべつに注意してつくつた名称めいしょうであるから、これぎゃくにして、教育は智育ちいく徳育とくいく、体育の三区よりるとふと、それでは唱歌しょうかは何区にぞくするかとの難問なんもんも生ずる。幼年ようねん、少年、青年等の間に明な境界きょうかいいからとうて差別さべつをも無視むしして、赤坊あかんぼうも大人も同じ乗車賃じょうしゃちんを取ることはだれが考へても無理むりであるゆえ五歳ごさい以下いか無賃むちん十二歳じゅうにさい以下いか半額はんがくふやうに所々に境界きょうかいを定めてくことが必要ひつようである通り、差別さべつある物の間には、無論むろん何所どこかに境界きょうかいもうけねばならぬが、境界きょうかいは人間が便宜べんぎ上、つくつたものであることをわすれてはならぬ。
 以上いじょうべた所を約言やくげんすると、はじめにうた通り、「差別さべつは有り、境界きょうかいし」との一句いっくる。有る差別さべつしと見るのもあやまりであり、境界きょうかいを有りと思ふのもあやまりである。何学問でも、差別さべつは有り境界きょうかいしとふ、万物に通じた根本の原理に心附こころづかぬ様では、今後分解ぶんかいてき研究が進むにしたがうて、かえつて、あやまりの方にまよおそれいともかぎらぬ。
(大正五年六月)





底本:「近代日本思想大系 9 丘浅次郎集」筑摩書房
   1974(昭和49)年9月20日 初版第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1916(大正5)年8月 『境界なき差別』(心理研究)
校正:
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