此の題目を見て、
奇態な題と考へる人が有るかも知れぬ。
差別が有れば、
其の間に
境界が有る
筈、
境界が
無ければ、
其の
両側には
差別は
無い
筈であるから、「
境界なき
差別」と
云ふのは題目自身の中に
已に
矛盾を
含んで
居ると考へる人が有るかも知れぬ。
併し
此所に
述べんとする
事柄に対しては「
差別は有り
境界は
無し」との
一句で全部を言ひ
尽し
得る
故、
之よりも
尚一層適切な題目を
附けることは出来ぬ。
実物に
就いて
自然物を研究する人は「
境界なき
差別」に
絶えず
遭遇する。
例へば、
脊に三本
縦縞のある
蛭の
標本と
脊に一本の
縦縞のある
蛭の
標本とを
比較すると
其の間の
差別は実に
明瞭で、
此の
二種の間には
判然たる
境界が有る
如くに思はれるが、実物を多数集めて見ると、二者の中間の
性質を
帯びたものが
幾らもあり、三本の
縦縞の中、
両側にある二本の色が
甚だしく
淡いものもあれば、中央にある明な一本の外に
両側になほ一本づゝ
微な
縦縞の見えるものなども有つて、
此等を
順に
並べて見ると、
到底何所にも
判然と
境界を定めることが出来なく
成る。また
蛭には体の
後端に
吸盤が有り、
蚯蚓には
吸盤が
無い
故、
普通の
蛭類と
普通の
蚯蚓類とを
比べて見ると、
其の
差別は
明瞭で、
其の間の
境界も
判然と有る
如くに思はれるが、よく調べると、
苔の下などに
居る
陸産の
蛭の
類には
吸盤の
無いものがあり、他物に
吸ひ
附いて生活する
蚯蚓の
類には体の
後端に
立派な
吸盤を
備へたものが
幾らもある。
此等は昔は
蛭類の
仲間に入れてあつたが、
段々身体の
構造を調べた
結果、今日では
蚯蚓類の方へ
籍を
移された。
斯かる次第である
故、
模範的の
蛭と、
模範的の
蚯蚓との間には
極めて明な
差別が有りながら、
蛭類と
蚯蚓類との
境界は
何所に有るかと
尋ねられると、
誰も
正確に答へることは出来ぬ。
斯様に
差別は有りながら
境界は
無いと
云ふことは、
蛭や
蚯蚓に
限る
訳では
無い。
如何に
差別の
著しい
種類の間でも、
丁寧に調べて見ると、
必ず中間の
性質を
帯びたものが
其の間にあつて、
結局、
境界は定められぬ。今日
生存する動物
種族の中で、
鳥類と
蜥蜴類とは
外観も
習性も
随分甚だしく
異なり、
之は
鳥類か
又は
蜥蜴類かと
云ふ
疑問の起るやうな
曖昧な動物は
一種も
無いから、二者の間の
境界は
頗る
判然たる
如くに見える。
然るに古代の
地層から
掘り出された化石を調べると、
嘴に歯の生えた鳥、
翼に
爪のある鳥、後足で立つて歩く
蜥蜴、空中を
飛ぶ
蜥蜴など、
恰も
鳥類の
特徴と
蜥蜴類の
特徴とを七分三分とか四分六分とかに合せた
如き
性質のものが
幾らもあり、両方の
性質を五分五分に
兼ね
備へた
種類に
至つては、全く
鳥類と
蜥蜴類との中間に
位するから、
鳥類と
蜥蜴類との間の
境界は全く
無いと
云はねばならぬ。また動物を
胎生する
類と
卵生する
類とに分けるが、
胎生にも
卵生にも
種々の階級があつて、生まれたばかりの
卵の中に、
已に
子供の形の出来上つて
居るものも有れば、形の
未だ
整はぬ中に早くも
母胎から
産み出されるものも有つて、
其の間の
境界は決して
判然せぬ。
哺乳類は
胎生するのが
規則であるが、オーストラリヤ地方に
産する二三の
珍らしい
種類では
鳥類の
卵に
似た
卵を
産み落す。
而も、
其の内部には
已に
胎児の形が
相応に出来て
居る。
魚類は
普通は
卵生であるが、
鮫類の中には
胎生する
種類が
幾らもあり、
而も
胎児には母体から
滋養分を取るための
胎盤の
如きものが
附いてあるから、
頗る
獣類の
胎生に
似て
居る。
脊椎動物には体の
中軸に
脊骨が有り、
無脊椎動物には決して
脊骨が
無いと
云へば、
其の間の
境界は、
極めて
判然して
居る
如くに聞えるが、実物に
就いて
調査すると、発生の
途中に一度
脊骨が出来て、後に
再び
之を
失ふもの、
僅に
脊骨の
痕跡のみを有する者などが、
幾らもあつて、決して明な
境界は
無い、それ
故、昔は
無脊椎動物と
見做されたもので、今日は
脊椎動物の方へ
移し
換へられたものが何
種類もある。動物と植物とを
比べても、
犬猫や、
梅桜などの
如き高等の
種類だけを見ると、
其の間の
境界は、
極めて明であるやうに思はれるが、
段々下等の
種類を
比較すると、
終には
到底区別が出来なく
成る。根が生えて動かぬ虫や、
尾を
振うて
游ぐ
藻の
仲間には、
藻とも虫とも
判断し
兼ねる
如き生物が
幾らもあるが、
斯様な
種類は動物学の書物には動物として
記載し、植物学の書物には植物として
記載してある。
我らは
常々斯くの
如き、
差別あつて
境界なきもの
許りを
見慣れて
居る
故、生物
以外のものを見るに当つても、
相異なつたものゝ間に明な
境界が有るか
否かを先づ
疑うて
掛かる
習慣が
附いて、何事を
論ずるに当つても、先づ第一に、
境界の
有無を考へて見るが、
斯くすると、世人が
当然境界の有る
如くに思うて
居る所にも実は決して
明な
境界の
無いことを発見する。
差別あつて
境界の
無いことの
誰にも明白に知れるものも
素より
頗る多い。
例へば
晴天、
雨天と
云ふ
如きも、
其の
一例であるが、日が
照つて
居れば
確に晴天、雨が
降つて
居れば
確に雨天で、
其の
差別は
極めて
著しいが、
其の間には
種々の
程度の
曇天があつて、晴天と
見做すべきか、雨天と
心得て
然るべきか、
判断に苦しむ様な天気も中中多い。
狐の
嫁入りなどゝ名づけて、日が
照りながら雨が
降ることさへ決して
稀でない。
夕立の後に
現はれる
虹の
如きは、
境界なき
差別の
模範的の
好例で、七色の
差別は
誰の目にも明であるが、
判然たる
境界は
何所を
探しても決して
無い。赤より
樺、
樺より黄、黄より緑と、
順々に
移り行くだけで、急に
段が
附いて、一の色から他の色に
飛び
越す
如き所は
何所にも
見附からぬ。春夏秋冬の
四季の
変化の
如きも、
之と同様で、夏は暑く、冬は寒く、春は
桜の花が
咲き、秋は
楓の葉が
紅くなつて、
其の
差別は
誰にも
明瞭に知れるが、
其の間に
判然たる
境界は決して
無い。
暦を見れば、何月何日の何時何分何秒から春に
成るとか夏に
成るとか書いてあるが
無論其の
時刻に
急激な
変化が起る
訳ではなく、冬は
何時とはなしに
自然に春となり、春は何時とはなしに
自然に夏となり、
其の間に
気候が
次第次第に
暖く
成り行くのみである。昼夜の
別も、
其の通りで、昼は明るく、夜は暗く、
其の
差別は
著しいが、夜が明けて朝となるときも、日が
暮れて夜と
成るときも、決して
判然たる
境界は
無い。
其の
他透明なものと、
不透明なものとの間には
種々の
程度の半
透明なものが有り、
個体と
液体との間には
種々の
程度の半流動
状のものが有る。
濃い
葛湯が
凝まつて
葛餅と
成る間には、
今迄は
液体、今からが
固形体と
云ふやうに、
其の
境界を
示し
得べき
時刻は決して
無い。
更に
例を取つて見るに、
醒めて
居るときは
意識が有ると
云ひ、
眠つて
居るときは
意識が
無いと
云ふが、
之も
其の間に
判然たる
境界は
無い。朝
目覚めるときも、夜
寝入るときも、
無意識から
有意識へ、
若しくは
有意識から
無意識へと
移り行く間には実に
無数の
半意識的状態を
経過するから、
其の
有様は夜が明けて朝となり、日が
暮れて夜に
成るのと、少しも
違はぬ。
賢愚の
別も、
其の通りで、
賢人と
愚物とを
比較すれば、
其の間の
差別は
誠に
明瞭であるが、
其の
中間には
賢七
愚三とか、
賢四
愚六とか
賢愚五分五分とか
云ふ様な
種々な
程度の人間が
限り
無くある
故、
到底明瞭な
境界線を定めることは出来ぬ。
健康と病気とか
老と
若とか、新と
旧とか、大と小とか、軽と重とか
云ふやうに相対する
名称の
附けてある
事柄は、
何れも
両端を
比較すると、
其の
差別は
明であるに
拘らず、
其の間に
境界線を
附けられぬもの
許りである。
学問や
芸術の
区別にも同様なことが有る。動物と植物との
境界が
無い
以上は、
之を
研究する動物学と植物学との間には
素より
境は
無い。物理学と化学との間には
密接な
関係がある
故、
境界線を定めて切り
離すことは出来ぬ。今日では物理化学と
云うて名前からして両方に
跨つた一学科がある。
画も
純粋な日本画と
純粋な西洋画とは
余程違ふから
素人にも
差別が知れるが、
折衷派になると、何れに
属するとも
云はれぬ。また画は平面、
彫刻は立体のもので、
其の
差別は
誰にも明らかであるが、
画の方にも
随分絵の具を山の様に
盛り上げたものが有り、
彫刻の方にも平面に
彫り
附けたものが有つて、
何方の
領分に
属するか分り
兼ねるやうなものも有る。外国
貨幣の表にある人の顔の
彫刻に絵の具を
塗つたとすれば、
之は画とも
云へば、
彫刻とも
云へるであらう。
義太夫とか
常磐津とか
云ふものも、
無論その間に明らかな
差別が有らうが、下手な者が語ると
何れか分らぬ様にもなる。
芝居と活動写真との
如きも、
之を半々に
相混ずると、
其の中間のものが出来上がる。
以上は
何れも
差別のある二つの物を取つて、
其の間に
境界の
無いことを
述べたのであるが、相手
無しに
唯一つの物に
就いて、
其の終点を調べて見ても、また決して
判然たる
境界は
無い。雲は
其の最も好い
例で雲の形は明らかに見えて
居ながら、
其の
周辺に
判然たる
境界線を見出すことは出来ぬ。昔の
支那や日本の画では
明な線を
以て雲の
輪廓を
画いてあるが、実物を見れば、
無論斯かるものは
無い。
富士山へでも登れば、自身が
幾度か雲の中に入り、
又雲から出るが、
何時も知らぬ間に
次第に出入するだけで、決して今から雲に入るとか、今雲を出たとか
云ひ
得るやうな
判然たる
境界は
無い。雲は
掴まへ
難いものの
例として何時も引き合ひに出される物
故、
之は
特別であると考へる人が有るかも知れぬが、他の物でも
理窟は全く
之と同じである。
例へば紙の
裁ち切つた
縁は一直線をなして、
境界が
極めて
判然してある
如くに見えるが、
之を千倍の
顕微鏡で見れば、多数の
繊維が入り
乱れて
恰も
竹薮の
如くである
故、
何所までが紙の
領分で、
何所からが紙の
領分以外であるか全く
判然せぬ。それ
故、
若し人間が今より何千分の一か、何万分の一かの
極めて
微細な
身体を持つて
居たと
想像すれば、紙の
縁を
通過するときには、
恰も
普通の人間が、雲に出入するときと同様で、
到底明瞭な
境界を見ることは出来ぬであらう。地図を見れば島の
周囲を明らかな
沿岸線で
示してあるが、実地
浜辺へ出て見ると、
浪が
寄せては返して
居る
故、
陸の
領分が
何所まで
達し、
何所で終るかを
示すことは出来ぬ。
斯く
境界の
定められぬのは、空間に対してのみではなく、時間に
於ても
其の通りで、人の生命の
如きも
通常何年何月何日の何時何分に生まれ、何年何月何日の何時何分に死んだと
云うて、生まれた時も、死んだ時も、
各々明らかな一点の
如くに
云うては
居るが、
実際生まれるに当つては、生まれ始めてから生まれ終るまでの
移り行きがあり、死ぬに当つても、死に始めてから死に終るまでの
移り行きがあるから、決して時の一点を
指して、
之が生まれた時、
之が死んだ時と指し
示す
訳には行かぬ。
電灯の
撮みを
捻れば、
其の
途端に光が
現はれ、また
之を
捻れば、
其の
途端に光が消えて、
光つて
居た時の始め終りには
確乎たる
境界が有る
如くに感ずるが、
之もよく考へて見ると、
境界は
無い。電球内の細い線が
微に光り始めてから、十分の光を発するまでには、
順々の
移り行きがあり、光が
僅に弱り始めてから
完全に消え終るまでの間にも
順々の
移り行きがある
故、
仮に七十年の人間の
寿命を一日に
縮め、一秒に対する時の長さの感じを今日の人間が一日に対する長さの感じと同様にしたと
想像すれば、
電灯が
附いて明るくなるときには
恰も夜が明けて朝と
成るのと同様な
移り行きを感ずるであらう。また
電灯が消えて、暗くなるときには
恰も日が
暮れて夜となるときと同様な
移り行きを感ずるであらうから、
到底明な
境界を定めることは出来ぬに
違ひない。
なほ
通常相対立させて用ひて
居る言葉の中には、
実際対等でないものが
幾らもある。
例へば動と
静と
云ふ
如きは
其の一で、世人は
一般に動と
静とを相反するものとして、
其の間に
確な
境界がある
如くに
見做して
居るが、よく考へて見ると、動と
云ふ中には
劇しい動から、
微かな動まで
無数の階級があり、
微の
極に
達した所が
即ち
静であるから、動と
静とは決して相対立せしむべき
性質のものではなく、
静は
寧ろ
無数に
変化のある動の中の一の
特殊の場合と
見做すべきものであらう。曲と直と
云ふのも
之と同様で、曲と
云ふ中には、
甚だしい曲から
極めて
微かな曲まで
無限の
変化があり、
最も
微かな曲が
即ち直である
故、直は
寧ろ曲の中の
一種とも
見做せる。有と
無との
区別も、
其の通りで、有の方には明らかに有るのから
微かに有るのまで
無限の階級があり、
其の一方の
端が
無であるから、前と同じ
筆法で
論ずれば、
無は
当然有の中の
一種と見ねばならぬ。また
仮説と事実との
関係も
之に
似たもので、
仮説の中には、
頗る真らしからぬものから、
余程確らしいものまで様々の階級があり、
其の中の
最も真らしいものを事実と
見做して
居るに
過ぎぬ。地球が丸いと
云ふことも、地球が太陽の
周囲を
廻転すると
云ふことも、今では事実と
見做されて
居るが、昔はたゞ
仮説に
過ぎなかつた。今日と
雖ども地球は丸くないと
唱へる人もあるが、
其人から見れば、地球の丸いと
云ふことは、事実でなくて、
誤つた
仮説と考へられて
居るであらう。
我らは
常々斯様に考へる
故、何れの方面を見ても、
差別は有つて
境界は
無いと
云ふのが
宇宙の真相である
如くに感ずる。
差別は有るが
境界は
無いと
云ふのが
宇宙の真相であるとすれば、有る
差別を
無いと思ふのも
誤りであり、
無い
境界を有りと
見做すのも
誤りである。
差別の有ることにのみ注意すると、
兎角、
境界の
無い所に
境界ありと
信ずる
誤りに
陥り
易く、
境界の
無いことにのみ注意すると、
兎角、有る
差別をも
之を
無視するの
弊に
陥り
易い。されば何事を
論ずるに当つても、「
差別は有り
境界は
無し」と
云ふ根本の事実を
常に
念頭から
離さぬやうにして、両方に注意せぬと、何れか一方の
誤りに
陥るを
免れぬ。
さて
斯くの
如く、
実際に
境界の
無いものを
捕へて、
何故世人は
一般に
境界あるものと思ひ
込むに
至つたかと
云ふに、
我らの考へによれば、
之は、全く
人類が言語を用ひて思考するためである。元来、物の名は、他物と
区別するために
附けたもの
故、
悉く
差別に
基づいて名づけてあつて、他に
移り行く所などは
暫く
度外視してある。
虹の七色の
名称などは
即ち
其の
適例で、
特徴の明らかに
現はれた部分の外には名は
附けてない。地面の
著しく高まつた所には何山と
云ふ名を
附け、地面の目立つて広い所には何原と
云ふ名を
附けるが、
其の
境界の
漠然たることは当分
構はずに
置く。自分の身体に
就いて見ても、手とか
腕とか
肩とか
頸とか、
各部に
名称は
附けてあるが、
其の間に
厳しい
境は定めてない。
併し
境界は定めてなくとも、
各部に名が
附けてありさへすれば、
腕に
怪我をしたとか、
頸に
腫物が出来たとか
云ふ日日の
談話には何の
差支へも
無い。実物を目の前に
置いて調べるやうな学問を
修める者は、物の
名称とは
総べて
斯かる
性質のものであることを
忘れる
虞は
無いが、実物を
離れて、たゞ言葉のみを
以て考へる人々は、一つ一つの言葉に
定義を下して、
其の
内容の
範囲を定め、
隣りの言葉との間に
繩張りをして
掛からぬと思想の整理が出来ぬ
如くに感じ、
到る所に
境界を
造り、後には
斯様な
境界が
最初から有つたものの
如くに思ふ
癖が生じて、終には物と物との間には
必ず
境界が有ると考へねば
合点が出来ぬやうに
成ると見える。言葉と言葉との間の
境界は
畢竟行政上の
区劃の
如きもので、整理の
必要から
云へば、
是非とも
何所かに定めねばならぬが、実物の方には
之に相当する真の
境界の
無いことを
常に
忘れてはならぬ。土地の表面にはたゞ山川、
高低があるだけで、何の
境も
無い所へ、
行政上の
必要から、県の
境、
郡の
境、町の
境、村の
境を
設ける
如くに、実物にはたゞ
差別が有るばかりで、
境界の
無い所へ、
若干の言葉を
割り
振り、
其の間に
縦横に
繩を
張つて、一々の言葉の
領分を定めたに
過ぎぬが、実物を
離れて、言葉のみを用ひて
居ると、
繩張のみに目が
附いて、実物の方にも
其所に
判然たる
境界が有るかの
如くに思ひ
込む
癖が生じたのであらう。
また人間は指を
以て物の数を
算へ、数に一二三四五と
各各名称を
附け、十は五の二倍、四は八の二分の一と
云ふ様に
勘定し、長さ、広さ、重さを
云ひ
現はさうとするに当つては、先づ
単位を定めて、
其の何倍とか、何分の
幾つとか
云ふ言葉を用ひる。長さならば、
里町間とか、
丈尺寸とか
云ふ
単位を
設け、何里の道とか、
何尺の
紐とか
云うて
居るが、一本の
紐を見て、
目分量で
其の長さを
測るときには頭の中で、
其の
紐を
一尺づゝに
境を
附けて考へる。万事
斯様に頭の中で、切つて考へる
癖が
附くと、何物を見ても、
之を
単位の集合であると
見做し、
単位と
単位との間には、
判然たる
境界が有る
如き感じを有するに
至り
易い。一昼夜を二十四時間に分け、地球の
周囲を三百六十度に分けるなどは、
皆境界の
無い所へ
便宜上、
境界を
造つたものであるが、
此事は
誰にも
明瞭であるに
拘らず、始終用ひ
慣れ
見慣れると、
其の
境界が真に有るかの
如き心持ちに
成つて、地図や
地球儀を見ても、
経度緯度の線が
縦横に
画いてないと、何となく間が
抜けた
如くに感ずる。赤道の所には
矢張り、太い線を引いて、北半球と南半球とを
判然と
区別して
置かぬと
承知が出来
兼ねる。
日常の生活には午前と午後との間には
確乎たる
境界が有る
如くに
見做して
置く方が都合が
宜しい。
斯様な
次第で、
差別の明らかでない所へ、
便宜上
境界を
仮想することも
常であるが、
之が
習慣になると、
其の
境界を
実際有りと思ふやうに
成り
易い。今日赤道を
通過すると聞いて、朝から
甲板上に立つて、
一生懸命に海面を
眺めて
居る乗客の所へ、茶目式の
若い船員が来て、赤道は
肉眼では
到底見られぬから
之を
貸して上げやうと
云うて、赤インキで玉(注:レンズ)に横線を引いた
望遠鏡を
貸してやつたと
云ふ話を聞いたことがあるが、
之は
極端な
例としても、
日常之に
似た考へを持つて
居る場合は
幾らもある。
大晦日と元日との間にも何となく
判然たる
境界がある
如き心持ちを
禁じ
得ない。
人間の思考力が、今日の
程度までに進み、人間の
知識が今日の
分量までに
増したのは主として言葉を用ひて考へた
結果であることを思へば、言葉が人間に取つて
如何に大切なものであるかは、
態々論ずるに
及ばぬ。理科でも文学でも、
宗教でも、
芸術でも言葉を
離れては
到底発達することは出来ぬであらう。
併し
其の反対に、言葉のために
誤られ、言葉のために
無益なことに頭を
悩ませられた方を考へると、
之また決して少なくない。言葉のために
誤られるとは
即ち
境界の
無い所に
境界が有る
如くに思ひ
込むことで、
其ため今日までに
幾人の大学者が
無用な
水掛論を
闘はしたか
到底数へることは出来ぬ。昔からの
議論の中で
何時までも
結着の
附かぬものは、多くは、
雙方ともに
境界の
無い所に
境界ありと思ひ
誤つて、さて
其の
境界は
何所に有るかと、
互に
論じ合うて
居るものの様である。
何れの方面でも、研究が進めば進むだけ、
益々細かく
分解するやうに
成るが、細かく
分解すればするだけ、多くの
境界線を
仮想せねばならぬことに
成る。今日までに学問の進歩したのは、主として
分解的研究の
賜であつて、今後とても、
益々分解的研究を進めねばならぬが、一方に
分解的研究を
努めると同時に、他方には、
其の
結果を
綜合することが
必要である。
而して
綜合するに当つて、決して
忘れてはならぬのは、
仮想の
境界線を
悉く消し去ることである。
之を
忘れると、
分解したものを
如何に正しく
綜合しても
旧の通りには
成らぬ。学問研究に
分解の
必要なのは
何故かと
云へば、
之は人間の力に
限りが有つて、同時に全部を研究し
得ぬからである。先づ
幾つかに
割つて、一部分づゝ調べて
掛かるより外には
途が
無く、
詳しく調べようと思へば思ふほど、先づ細かく
割つて
掛からねばならぬ。
其の有様は
恰も一度に口に入れ
兼ねる大きな
煎餅を食ふに当つて、先づ
之を口に入るだけの大きさに
割つて、一部分づゝ
片付けて
掛かるのと少しも
違はぬ。
即ち
割らねば手に合はぬ
故に
割るのであつて、
煎餅の方には決して
初めから
割れ目は
無かつた。されば
分解的研究の
結果を
如何に
巧に
継ぎ合せても、
其の間に
割れ目の
存してある間は決して
分解以前のものと同一ではない。
割れ目を消して
仕舞うてこそ、
初めて
旧と同一のものに
成るのである。皿を一度
数多の
小片に
壊して
置いて、
更に
之を
焼継ぎしたのでは、決して
旧の
無疵の皿と
成らぬ
如く、
分解的研究の
結果を
継ぎ合せても、
継ぎ目が
残つては、それだけが
誤りである。教育を分つて
智育、
徳育、体育とするとか、人の
体質を
分つて
粘液質、
胆汁質、
何々質、
何々質とするとか
云ふのは
皆差別に注意して
造つた
名称であるから、
之を
逆にして、教育は
智育、
徳育、体育の三区より
成ると
云ふと、それでは
唱歌は何区に
属するかとの
難問も生ずる。
幼年、少年、青年等の間に明な
境界が
無いからと
云うて
其の
差別をも
無視して、
赤坊も大人も同じ
乗車賃を取ることは
誰が考へても
無理である
故、
五歳以下は
無賃、
十二歳以下は
半額と
云ふやうに所々に
境界を定めて
置くことが
必要である通り、
差別ある物の間には、
無論何所かに
境界を
設けねばならぬが、
此の
境界は人間が
便宜上、
造つたものであることを
忘れてはならぬ。
以上述べた所を
約言すると、
初めに
云うた通り、「
差別は有り、
境界は
無し」との
一句に
成る。有る
差別を
無しと見るのも
誤りであり、
無い
境界を有りと思ふのも
誤りである。何学問でも、
差別は有り
境界は
無しと
云ふ、万物に通じた根本の原理に
心附かぬ様では、今後
分解的研究が進むに
随うて、
却つて、
誤りの方に
迷ひ
込む
虞が
無いとも
限らぬ。
(大正五年六月)