日刊新聞に書物の
広告の出ていることが、日本ほどに多い国は、世界中どこにもないであろうが、その書物の
広告に、
何某(注:
不定称の
指示代名詞)題字(注:書物の表題の文字)、阿某(注:
何某の
誤植)
序(注:
序文。書物の
初めに、
著作や
出版の
趣旨などを書き記した文章)、
何某校閲(注:文書や
原稿などの
誤りや
不備な点を調べ、
検討し、
訂正したり校正したりすること)と二号活字で大きく
現わし、
著者の名前はかえって五号活字でなるべく
隅のほうへ
隠してあるごときことは、他の文明国では決して見られぬところである。これは
富士の山や、
芸者ムスメと同じく、わが国の
特産かと思われるが、かような他国にないことが、ひとりわが国にのみ行なわれるのは
何故であるか。いったい書物の
広告には、
著者の名前と
内容の
概略とが
掲げてあればたくさんなわけで、なおその上に、
如何なる
目的で、
如何なる人々のために
著わしたかを明らかにしておけば、それで
充分であるに、
肝心なほうのことは
捨ておいて、
内容とはほとんど何の
関係もない題字や
序文を書いた人等の名前を
特に目立つように
列べた
広告が、毎日の新聞紙上に出てくるのは
何故であろうか。
書物の
広告はむろん本屋が本を売るために出すものゆえ高い金を
払うて
効能のないような
広告を出す
気遣いはない。題字や
序文を書いた人々の名前を
列べると、それだけ書物がよけいに売れることを
経験上よく知っておるゆえ、それでかような
広告を出すのである。しこうして題字や
序文は
誰が書いてもよろしいのではなく、
必ず
高位高官の者とか、いかめしい
肩書きのあるいわゆる大家の
連中でなければ
効能がないところから考えると、わが国には
著者や
内容の
如何よりも題字や
序文を書いた人等の
肩書きを見て、書物を買うか買わぬかを決するような人間が、まだ
相応に多数を
占めていると見える。すなわち有名な人の名前の
付いている書物ならば
必ず
内容もよい本であると思うて買うのであろうが、これでは実を知らずして名を
信じ、自分を主とするところは少しもなく、ただ他人の
指揮に
盲従しているのであるから、思想上には
奴隷の
境遇にあると
評せられても
弁駁のしようはない。自由に考え
独立に
判断する者から見れば、
肩書きのごときは、
単に
甲なる他人どもが相談して、
乙なる他人に
付けた
符号であって、
丙なる自分からはほとんど
参考するほどの
価値もない。
各個人の
真価を
見積るには、その当人のなした事業や、
示した
力量によるのが
当然で、他人から
如何なる
符号を
付けられているか、親から
如何なる家名を受け
継いでいるかは
捨ておいてもよろしいはずである。しかるにつねづね自由に考え、
独立に
判断することを知らず、万事他人の
判断に
盲従する
癖の
付いた思想上の
奴隷からは、これが
無上の
権威のごとくに見え、
肩書きのある者はすべて自分よりははるか上に
位する
別階級の者のごとくに思われ、かかる
貴い方々の
尊名が出ている書物ならば、悪かるべきはずはないと
信じて、つつしんでありがたく
購読するのであろう。本屋はこの
辺の
消息(注:
事情)を
心得ているゆえ、なるべく
尊い
肩書きを
列べようと苦心するが、
肩書きには、また上の上から下の下までさまざまの階級があって、
一段でも上の人は下の人と
同列におかれることを
快しとせぬから、あたかも
芝居の
観覧席を
特等、一等、二等と分けるごとくに、題字、
序文、
校閲等の
席を
設け、
大臣や
従三位には題字を
頼み、局長や
従五位には
序文を書かせ、
教授や
従七位には
校閲の名を
借り、これを
並べ
示して、本書はこのとおり
汝らよりははるかに
上位する方々と
特別の
縁故を有する書物であるぞとの意味で
広告を出すのである。いささかたりとも、自由に考え、
独立に
判断し
得るとの
自信を有する者ならば、かような
広告を見て、その書物を買おうなどとの心を起こすはずはない。されば題字や
序文を
並べた書物の
広告の出ることは、世間に思想上の
奴隷のすこぶる多くある
証拠と見なさねばならぬ。
さて
何故、かように思想上の
奴隷が多くあるかというに、これは一つには
維新前に長らく自由に考えることを
禁ぜられ、
独立に
判断することを
許されなかった
習慣が
惰性によって、今日もなお
残っているためであろうが、また
幼いころから思想上の
奴隷となるように教え
込まれたにもよるであろう。
例えば、
花咲爺の
御伽話などにも、直ちに
殿様のお
賞めにあずかったとか、お
咎めをこうむったとかいうことが出てきて、
殿様に
賞められることを何よりの
名誉と思わせ、
殿様に
咎められることを何よりの
恥辱と
心得させるゆえ、
幼児は自分よりははるか上に
殿様という
別階級の人間があって、よいことならばその人が
賞め、悪いことならばその人が
罰する、その人がよいと言うことならば
必ずよいことで、その人が悪いと言うことならば
必ず悪い。自分のごとき
低い者は万事
万端(注:考えられるあらゆる
事柄や
手段・
方法など)その人の
判断のとおりに
心得ておりさえすれば
間違いはないというような
奴隷的の思想を三つ
児のころに
養成せられ、それが後々まで
働いて何ごとも自分で自由
独立に
判断することをせず、すべて、他人の
判断に
盲従(注:
分別なくひたすら人の言うままになること)し、
内容実質の
如何は問わず、ただ
添えてある
鑑定書のみに
信頼するようになる。
肩書きなるものは、ひっきょう(注:
結局)
一種の
鑑定書であるゆえ、思想上の
奴隷の間ではこれが
非常に重んぜられ、
肩書きのみによって人の
価値を定める上は、
肩書きの階級を
厳重に
区別し、これに対する
尊敬の
程度をもこまかく
刻み分けて、
御の字や
様の字も、
特等の人には
楷書(注:
一点一画を
正確に書く
書体)で書き、一等の人には
行書で書き、二等の人には
草書で書くというほどに、形式がやかましくなるが、かくなり
果てては物事を自由に考えることなどは
夢にも
望まれぬ。ミュンヒハウゼンの
法螺物語の中に、
一匹の
牝犬が
一匹の
牝兎を追いかけている
最中に、両方ともに急に
産気が
付いて、犬も
兎も
七匹ずつの子を生み、
児兎は生まれるやいなや直ちに
逃げ出し、
児犬は生まれるやいなや直ちに追い
掛けて、つごう
八匹の犬で
八匹の
兎を追い
詰めた話があるが、習いが
性となる(注:
習慣はついにはその人の生まれつきの
性質のようになる)と、万事このとおりで、
肩書きをうやまう
側の者は生まれながらに
肩書きをうやまい、
肩書きで
威張る
側の者は生まれながらに
肩書きで
威張る。
従何位侯爵の
何某は本屋に
乞はれるままに「
天地玄黄」とか「
万里同風」とかいうような何の
足しにもならぬ題字を書き
与えて
別にあやしみもせず、何学
博士の
何某は、本書は近来まれに見る
良書とか、
著者は
壮年ながら感心な男とかいう
提灯持ちの
序文を書いて一向
不思議とも思わぬ。書く当人等が
不思議と思わぬとおり、書いてもらう
著者も本屋も、買うて読む読者も世間も、みなこれをあたりまえのことと考えている。中には
跋(注:あとがき)とか
称えて
序文と同じような
提灯持ちの
文句を書物の終りにつけ、あたかも箱根の坂を上る列車の前後に
機関車が一台ずつ
付けてあるごとくに、前からは
序文で引き上げ、後からは
跋で
押し上げようとしているものもある。いやくしくも、
著者に自由
独立を
尊ぶ心があったならば、自分の書いたものが、
貨車同様の取り
扱いを受けることを
無念に思い、大いに
憤慨しそうなものであるに、
肩書きを重んずる空気の中で育つと、これを
侮辱と思わぬのみか、かえって
非常な
名誉と
心得ている。しこうして買い手のほうは、
何某序、
何某跋と
立派な
肩書きが
並んでいるのを見ると、せめては、書物をとおしてなりとも、
貴い
肩書きの人々と
接触する
機会を
得たいとの心から、その本が
欲しくて
堪らず、ついにこれを買うのであろう。
一事が万事(注:わずか一つの
物事から、他のすべてのことを
推し
量ることができる)ということわざでも知れるとおり、題字や
序文によって書物を買うような思想上の
奴隷は、自由に考え
独立に
判断することを知らぬから、すべての方面に他人の
鑑定に
盲従するのほかない。
例えば、
嗜好(注:ある物を
特に
好みそれに
親しむこと)のごときは、元来
各自それぞれ
異なるべき
性質のもので、昔から「
嗜好については
争いは
無益」とさえ言うているが、
肩書きを
尊ぶ
習慣の
付いた人間は
嗜好の方面にも
奴隷の
境遇を
脱し
得ず、絵や
彫刻などを見るにも、やはり他人の
鑑定に
盲従し、他人の
指図に
従うて
観賞している。近ごろの
文展(注:
文部省美術展覧会)に、
切符さえ
容易に買えぬほどに人の出るのは、
国民の
美術心が高まったゆえか
否かは知らぬが、
審査の
結果が発表せられた
翌日には、
二等賞を取った絵の前にばかり人が
押し
寄せて、
無賞のものには
顧みる人もない。自由に考える者から見れば、絵画のごときは、
各自最も自分の気に入ったものを
眺め楽しめばよろしいわけで、自分とは
嗜好の
違う他人のほめた絵を
義理に
感服してやる
必要は少しもない。
特に数名の委員が
寄って
審査する場合には、
嗜好も一人一人に
違い、
結局投票か何かで決するほかはなかろうから、
何等賞ときまったところで、
審査員の中にもこれに
賛成せぬ人もあり、むろん万人をことごとく
納得せしむべき
性質のものではない。しかるに
二等賞という
鑑定書が
付くと、急にこれに感服して、その筆者の画いた物ならば
玉石ともに
価が
騰貴する。相手がかような
連中であるから、絵書きのほうでも
審査の
結果を
非常に気に
掛け、
当選すれば
赤飯を
炊いて
喜び、
落選すれば
頸を
縊らんばかりに
悲観する。せっかくまとまりかけた
縁談も、出品が
選に
洩れたと聞けば先方から取り消しを申し
込み、今まで
猶予してくれた
八百屋の
勘定も、
落選と知ってはにわかに
催促にくるから、
誰も
審査の
結果を
重大視するのは
無理もないが、同一の絵が
昨日と今日とでよくなり悪くなることのないは明白なるにかかわらず、
審査の前後でかくまで
待遇の
変わるのは、見る人にも書く人にも、
一般に他人の
鑑定に
盲従する
奴隷根性があるゆえであろう。
最も自由に
振舞うても
差支えのなかるべき
嗜好の方面においてさえ他人の
嗜好に
服従し、他人の
鑑定どおりに味わうようでは、その他の方面のことはむろん
全然他人の意見に
従うのほかはない。病人を医者に見せるに当たっても、
子供を学校へ入れるに当たっても、つねに
肩書きや、人の話によって
撰択を定め、
某博士は名医である、
何某侯爵も
何某伯爵もその
診察を受けたとの
噂を開けば、直ちにその人に見てもらう気になる。
横町の
稲荷様は
御利益があるとか、
隣りの村の
八幡様はよく
利くとか言われて、直ちに
御詣りに
出掛ける
迷信家と
精神の
状態は少しも
違わぬ。医学
博士の
学位は「
蛙の
血液の
粘着性に
及ぼす『ラジウム』の
影響に
就いて」とか「
飢餓時に
於ける
兎の
大腿骨重量の
減少に
就いて」とかいうような、
診断とも
治療とも何の
関係もない
論文を
提出して取ったものも多くあろうに、つねづね
肩書きのみを
尊重する
癖の
付いている思想上の
奴隷は、かかることには少しもかまわず、ただ
博士という
肩書きさえあれば
治療も
必ず
巧みであろうと思い
込み、
博士の中にも
博士以外の者と同様に
善人もあれば悪人もあり、
賢者もあれば
愚物もあり、
木訥(注:かざりけがなく
口数が少ないこと)な者もあれば
奸侫(注:心が
曲がっていて
悪賢く、人にこびへつらうこと)な者もあり、
上手もあれば
下手もあるべきことなどには、まるで考えおよばぬ。
田舎の人からは時々、
何方でもよろしいから
博士の
方に一人
御紹介を
願いたいとの
依頼を受けることがあるが、これなどは
肩書き
崇拝を
最も
露骨に
現わしている。近来
肩書きのある医者が
続々殖えるにかかわらず、
根本的研究がその
割合に進まぬのは、おそらく世間にかような
連中が多いからであろう。
自由に考え
独立に
判断することを知らず、つねに他人の
鑑定に
盲従する
癖の
付いた世の中では、学校教育なども、
自然内容実質の
如何は
捨ておき、もっぱら形式や
称号を重んずるようになる。
教師はおのおの自分の仕事は何のためにするものかを考え、その
目的に
最もよく
適する
教材を取り、
最も
有効と
信ずる
方法によって教えさえすればよろしいはずであるが、他人の
批評に気をもむあまり、ただ
参観人の目に
付きそうな点にのみ心を配り、何か一つ目先の
変わったことをして、
参観人を
感服させてやろうなどと教育本来の
目的とは
縁のないことに
骨を
折る。よいと
評判のあることは、土地の
事情などにかまわず、
隣りにおくれぬように急いで
真似し、新しい仕組みと聞くと、直ちにこれを
採り用い、外形の
改まったことを進歩と
名付け、
内容の
旧のままなることは知らぬ顔ですます。先日、
宇都宮附近まで
散歩に行ったとき、
或る町で
裏にいくらでも
塵の
捨てられる空地のあるにかかわらず、
一軒ごとに東京のと同じようなコールター
塗りの、しかも石油箱くらいの小さな
塵箱が
一個ずつ
必ず
備えてあるのを見たが、形式を重んずる者のなすことは万事この
類である。もしも
模範と見なされる学校へ、年々何千人も
押し
寄せてくる
参観人が国へ帰って、この
塵箱と同じく、ただ東京の
真似をするようであっては、
何程の
無駄なことが行なわれるかしれぬ。役人にほめられた学校はほめられぬ学校よりは
必ずよい学校と見なされ、二度ほめられた
教師は一度ほめられた
教師よりも
一層よい
教師と
価が定まる。すべて、他人の
鑑定次第で相場が定まる
以上は、ほめられた当人が
非常に
喜ぶのも、
卒業生が
寄って
祝賀会を
催してくれるのも
不思議はないが、かようなことでは、真に
内容実質の進歩することは、かえって
遅れることをまぬがれぬであろう。
また
肩書きを重んずる世の中では、学校へ入学する者も、
求めるところは
内容実質ではなく、
卒業という名であるゆえ、
無理な工面をしても
一段高い等級の学校へ行きたがる。教えることは同じでも、
卒業生に何とか
称号を
与えるようになると、急に入学
志願者が
殖える。女学校のごときは入学者の
目的は全く
嫁入りのときに
箪笥長持(注:
衣服・
調度品などを入れる、
蓋つきの長方形の大きな
箱)と
一緒に持ってゆくべき
卒業証書を
得るにあるゆえ、
各科目について言うと、
教師も
生徒も、何のために、その学科を
修めるのか分からず、ただこれを
修めねば
卒業ができぬゆえ、やむをえず勉強しているのである。形式をととのえるために数多く
並べ
連ねた科目を、ただ
卒業の名を
得んがために
片端から
暗誦しているようでは、女子教育もすこぶるおぼつかない。南洋
諸島の土人は、身体にさまざまの
入墨をして
装飾とするが、
肩書きを
尊ぶ社会では、
学士とか、
卒業生とかいう名前は
一種の
装飾であって、土人の
入墨と同じ役に立つ。すなわち
各種の学校は年々何百人かの学生
生徒に、
学士とか、
卒業生とかいう文字を
入墨して世に出していることにあたるが、かように考えると、文部の文と、
文身(注:入れ
墨)の文とが同じ字であるのも決して
偶然でない。
自由に考え、
独立に
判断する者から見ると、大学と言うても
専門学校と言うても、同じ
程度のことを教えさえすれば
位も同等なわけで、もしも
教授の学力、
生徒の勉強が大学よりもまさっていたならば、名は
専門学校であっても、むろんこのほうが上である。しかるに
専門学校という
看板を大学という
看板に
掛け
換えると、学校の
価値が急に高まるごとくに思い、これを
昇格と
称え、そのことが行なわれそうになっただけでも
前祝いをして
喜ぶ人等もある。何々農学校とか何々医学校とかいう名前は、
別に
改める
必要もないゆえ、そのままにおいて、つとめて
内容実質をよくし、他の農科大学、医科大学よりも
真価においてまさるものができたならば、
肩書きにかまわぬという点だけでも大いに
尊敬するに足るように感ずるが、何物でも
人為階級の
高下によって相場を定める
奴隷根性に
充ちた世の中に、そのような学校の
現われるのを
望むのは、もとより
無理な注文であろう。
その他、思想上の
奴隷と見えるものは、あらゆる方面に
無数にある。先年東北地方を旅行した
際に、
或の町で
泊った宿屋の
廊下に、
何某侯爵閣下御宿泊、
何某伯爵閣下御宿泊、
何某大臣閣下御宿泊、
某知事
閣下御宿泊などという大きな
板札が
隙間なく
掛け
列べてあった。しかも、その
幅が、階級によって少しずつ
違うて、
何某内務部長
殿御宿泊の
辺にゆくと、大分
狭くなっていたので、
武州高尾山の
杉苗寄附の
木札などを思い出しておかしかった。自由に考え、
独立に
判断する者から見れば、悪い
知事よりはよい
宿屋の
亭主のほうが、世の中のためにはよけいに役に立つゆえ、
不法の
宿料を
貪らず、旅客の
便利を
図りさえすれば、
立派な一人前の人間として、決して他の人々よりははるか下に
位するごとくに
自らを
卑しむ
必要はない。
特に
侯爵閣下、
伯爵閣下ときては、
先祖がかつてなんらかの
御役に立ったことがあるというだけで、当人には何の取り
得もなく、
裸にしたら、
知恵も力も宿屋の
亭主におよばぬ者がたくさんにあろう。たとえて言えば、
内容のきわめて
貧弱な書物の
巻頭に、有名な人の書いた「
我子孫也」という題字が
添えてあるようなもので、題字にかまわぬ人は決してこれを買う
気遣いはない。しかるに長い間、
士農工商中の
最下等の者として、
奴隷のごとき取り
扱いを受けきたり、当人もこれに
慣れて、自分を
卑しい者と
信じ、
肩書きのある人々は自分よりははるか上の
貴い者であると考える
癖が
付いているゆえ、たまたま
肩書きのある人が
泊り
込めば、わが店の相場が
一段上ったごとくに感じ、
嬉しくてたまらず、一人でもよけいにこの事を
吹聴したいゆえ、客の通り道に
尊名を
並べ
掲げたのである。この
亭主などは、
法律上では自由の
人民であろうが、
根性の持ちようは、
印度の
最下級の
奴隷と少しも
違うたところはない。かような
連中は何々会
総会にでも
出席して、会長
何某伯爵閣下夫人の顔を見ただけでも
名誉と思い、十メートルまでより
近付く
機会のなかった者は、五メートルまで
近付き
得た者を
非常にうらやみ、三メートルまで
近付き
得た者は、身にあまる
光栄として、
孫の代まで
自慢話にするであろう。
奴隷的精神の
充満している社会では、かようなことはきわめて
普通で、
限りなく
例のあることゆえ、他は
略する。
さて今日はヨーロッパ大
戦争の
最中である。わが国は幸い
戦場と遠くへだたっておるゆえ、しばらく楽ができるが、この
戦争が
如何に終ろうとも、その後には、直ちにまた
旧に
倍したはげしい
民族競争に
加わらねばならぬ。
政略上、
甲の国と
同盟するとか、
乙の国の
仲間になるとかいうことは
絶えずあろうが、これは時々
変更するゆえ、
民族間の
競争において、真に
頼りとすべきは、
自己の実力よりほかにはない。他国の速かに進歩する間にはさまって自国だけ進歩が
遅かったならば、実力上、他の
圧迫を受けて
非常に苦しい
地位におちいり、ついには
敗れることをまぬがれぬ。しこうして実力を進歩せしめるには、まず
各個人ともに実力を
尊び、実力の
如何によって人を
評価する
風俗を
造ることが
必要である。
戦争後は
各国ともに、
間諜(注:スパイ)に対する
警戒もすこぶる
厳重になり、
自然すべての外国人に対する用心も深くなってたいがいのことは
秘密にするであろうが、これはわが国のごとき、何もかも
真似で進みきたった国には大
打撃で、これからは万事自力でわが文明を進めるのほかに
途はない。しこうして自力で文明を進めるには、他人の
鑑定に
盲従せず、自由に考え、
独立に
判断する
習慣を
養うことが何よりも
肝心である。
特にわが国は
人種の
関係上、他の
列強に
比して、
競争の苦しみは一倍多かろう。先日、米国の一
議員から送ってきた
別刷に、世界の平和を
保つには、
英、米、
独、
仏の四国が
同盟するがよろしい。かくすれば、
極東の
新興国が
勝手なことをしようとしても、
武力でこれを
抑制することができるとの
説が
述べてあったが、これはとうていできぬ相談であるとしても、わが国の
勃興を
喜ぶ国は日本
以外に一国もないのはたしかである。米国のごときはヨーロッパ
諸人種の
混合であるゆえ、
英国を
敵とせんとすれば、国内の
英国種の
人民が反対し、ドイツを
敵とせんとすれば、国内のドイツ
種の
人民が
承知せず、フランス
種でもイタリア
種でも、それぞれ母国を
敵とすることには反対するから、
挙国一致で
敵とすることのできる相手は日本だけである。かような
事情もあるゆえ、今後の日本は一人で三人前の実力を
備えるくらいでなければほとんど安心ができぬ。ドイツではこのごろは、花園を
廃して、ジャガ
芋を作っているとのことであるが、四方
異人種で
囲まれているわが国は、全く今のドイツと同様に
奮発し、
装飾に
属することはことごとく他日に
譲って、もっぱら実力を
増すことに
努力せねばならぬ。しこうして、実力を
増すにはまず
空名(注:
実際以上に高い
評判)を
崇拝するごとき
奴隷根性を
一掃する
必要がある。
誤解を
避けるために言うておくが、
如何に自由に考え
独立に
判断するがよろしいと言うても、決して他人の意見を
全然無視せよと言うわけではない。
各個人の
経験は
狭い
範囲をいでず、思考の力にも
不充分な点があるをまぬがれぬゆえ、何問題を
論ずるに当たっても、他人の意見を
参考することはもとより
必要である。
学術上の研究を始めるにあたっても、まず当面の問題に
関し、これまで他の学者が
如何なる研究をしたかを広く調べる
必要があるとおり、他人の
判断や、
鑑定もなるべく多く聞いて見るがよろしい。しかし、これはどこまでも
参考の
材料であって、
結局の
判断は
当然自分の力でなすべきはずである。また
肩書きを重んずるなと言うても、決して人間をことごとく平等と見なして、その間の
差別を
無視せよと言うわけではない。人間には、
生来の
賢愚により、教育の多少により、実力にいちじるしい
相違のあるは目前の事実で、
強いてこれを平等と見なすのはもとより理に合わぬことである。実力も
違い、
専門も
異なる人間が多数に集まって社会を
造っている
以上は、
設計する者、実行する者、教える者、習う者、指図する者、
従う者、乗る者、かつぐ者などそれぞれ役目の
異なるべきは
当然で、役目が
違えばおのおの、
肩書きを定めておくのが
便利である。
職務上、
命令を下すべき者が
命令を下し、
服従すべき者が
服従するのは、むろん
必要なことで、これが
乱れては国は
治まらぬ。
特に自分らが
選んだ世話人の言うことならば、多少自分の意見とは
違うても、
我慢のできる
限りはこれに
従うがよろしい。
旧い人ばかりのところでは、
自治の名はあっても、
自治の実の行なわれぬのは、上の階級の者にでなければ
服従せぬという
奴隷根性が
抜けぬからである。しかし、
職務を
離れ、自分
一個として物を考える
際には、どこまでも
独力で自由に
判断し、
如何にいかめしい
肩書きのある者の言うたことでも、自分でなるほどと思はねば決してこれに
盲従するにおよばぬ。題字や
序文を書いた人の
肩書きを見て、書物を買うような
奴隷根性が世間
一般にはびこっている間は、国全体の
内容実質が速かに進歩する
見込みはない。
以上は題字、
序文、
校閲と
肩書きを
並べた書物の
広告を見て
胸に
浮んだ考えの
一端を
述たのである。
(大正四年十一月)