題字、序文、校閲

丘浅次郎





 日刊にっかん新聞に書物の広告こうこくの出ていることが、日本ほどに多い国は、世界中どこにもないであろうが、その書物の広告こうこくに、何某なにがし(注:不定称ふていしょう指示しじ代名詞だいめいし)題字(注:書物の表題の文字)、阿某(注:何某なにがし誤植ごしょくじょ(注:序文じょぶん。書物のはじめに、著作ちょさく出版しゅっぱん趣旨しゅしなどを書き記した文章)、何某なにがし校閲こうえつ(注:文書や原稿げんこうなどのあやまりや不備ふびな点を調べ、検討けんとうし、訂正ていせいしたり校正したりすること)と二号活字で大きくあらわし、著者ちょしゃの名前はかえって五号活字でなるべくすみのほうへかくしてあるごときことは、他の文明国では決して見られぬところである。これは富士ふじの山や、芸者げいしゃムスメと同じく、わが国の特産とくさんかと思われるが、かような他国にないことが、ひとりわが国にのみ行なわれるのは何故なぜであるか。いったい書物の広告こうこくには、著者ちょしゃの名前と内容ないよう概略がいりゃくとがかかげてあればたくさんなわけで、なおその上に、如何いかなる目的もくてきで、如何いかなる人々のためにあらわしたかを明らかにしておけば、それで充分じゅうぶんであるに、肝心かんじんなほうのことはておいて、内容ないようとはほとんど何の関係かんけいもない題字や序文じょぶんを書いた人等の名前をとくに目立つようにつらねべた広告こうこくが、毎日の新聞紙上に出てくるのは何故なぜであろうか。
 書物の広告こうこくはむろん本屋が本を売るために出すものゆえ高い金をはらうて効能こうのうのないような広告こうこくを出す気遣きづかいはない。題字や序文じょぶんを書いた人々の名前をつらねべると、それだけ書物がよけいに売れることを経験けいけん上よく知っておるゆえ、それでかような広告こうこくを出すのである。しこうして題字や序文じょぶんだれが書いてもよろしいのではなく、かなら高位こうい高官こうかんの者とか、いかめしい肩書かたがきのあるいわゆる大家の連中れんちゅうでなければ効能こうのうがないところから考えると、わが国には著者ちょしゃ内容ないよう如何いかんよりも題字や序文じょぶんを書いた人等の肩書かたがきを見て、書物を買うか買わぬかを決するような人間が、まだ相応そうおうに多数をめていると見える。すなわち有名な人の名前のいている書物ならばかなら内容ないようもよい本であると思うて買うのであろうが、これでは実を知らずして名をしんじ、自分を主とするところは少しもなく、ただ他人の指揮しき盲従もうじゅうしているのであるから、思想上には奴隷どれい境遇きょうぐうにあるとひょうせられても弁駁べんばくのしようはない。自由に考え独立どくりつ判断はんだんする者から見れば、肩書かたがきのごときは、たんこうなる他人どもが相談して、おつなる他人にけた符号ふごうであって、へいなる自分からはほとんど参考さんこうするほどの価値かちもない。かく個人こじん真価しんか見積みつもるには、その当人のなした事業や、しめした力量りきりょうによるのが当然とうぜんで、他人から如何いかなる符号ふごうけられているか、親から如何いかなる家名を受けいでいるかはすてておいてもよろしいはずである。しかるにつねづね自由に考え、独立どくりつ判断はんだんすることを知らず、万事他人の判断はんだん盲従もうじゅうするくせいた思想上の奴隷どれいからは、これが無上むじょう権威けんいのごとくに見え、肩書かたがきのある者はすべて自分よりははるか上にくらいするべつ階級の者のごとくに思われ、かかるとうとい方々の尊名そんめいが出ている書物ならば、悪かるべきはずはないとしんじて、つつしんでありがたく購読こうどくするのであろう。本屋はこのへん消息しょうそく(注:事情じじょう)を心得こころえているゆえ、なるべくとうと肩書かたがきをつらねべようと苦心するが、肩書かたがきには、また上の上から下の下までさまざまの階級があって、一段いちだんでも上の人は下の人と同列どうれつにおかれることをこころよしとせぬから、あたかも芝居しばい観覧席かんらんせき特等とくとう、一等、二等と分けるごとくに、題字、序文じょぶん校閲こうえつ等のせきもうけ、大臣だいじん従三位じゅうさんみには題字をたのみ、局長や従五位じゅうごみには序文じょぶんを書かせ、教授きょうじゅ従七位じゅうななみには校閲こうえつの名をり、これをならしめして、本書はこのとおりなんじらよりははるかに上位じょういする方々と特別とくべつ縁故えんこを有する書物であるぞとの意味で広告こうこくを出すのである。いささかたりとも、自由に考え、独立どくりつ判断はんだんるとの自信じしんを有する者ならば、かような広告こうこくを見て、その書物を買おうなどとの心を起こすはずはない。されば題字や序文じょぶんならべた書物の広告こうこくの出ることは、世間に思想上の奴隷どれいのすこぶる多くある証拠しょうこと見なさねばならぬ。


 さて何故なぜ、かように思想上の奴隷どれいが多くあるかというに、これは一つには維新いしん前に長らく自由に考えることをきんぜられ、独立どくりつ判断はんだんすることをゆるされなかった習慣しゅうかん惰性だせいによって、今日もなおのこっているためであろうが、またおさないころから思想上の奴隷どれいとなるように教えまれたにもよるであろう。たとえば、花咲爺はなさかじじい御伽話おとぎばなしなどにも、直ちに殿様とのさまのおめにあずかったとか、おとがめをこうむったとかいうことが出てきて、殿様とのさまめられることを何よりの名誉めいよと思わせ、殿様とのさまとがめられることを何よりの恥辱ちじょく心得こころえさせるゆえ、幼児ようじは自分よりははるか上に殿様とのさまというべつ階級の人間があって、よいことならばその人がめ、悪いことならばその人がばつする、その人がよいと言うことならばかならずよいことで、その人が悪いと言うことならばかならず悪い。自分のごときひくい者は万事万端ばんたん(注:考えられるあらゆる事柄ことがら手段しゅだん方法ほうほうなど)その人の判断はんだんのとおりに心得こころえておりさえすれば間違まちがいはないというような奴隷どれいてきの思想を三つのころに養成ようせいせられ、それが後々まではたらいて何ごとも自分で自由独立どくりつ判断はんだんすることをせず、すべて、他人の判断はんだん盲従もうじゅう(注:分別ふんべつなくひたすら人の言うままになること)し、内容ないよう実質じっしつ如何いかんは問わず、ただえてある鑑定書かんていしょのみに信頼しんらいするようになる。肩書かたがきなるものは、ひっきょう(注:結局けっきょく一種いっしゅ鑑定書かんていしょであるゆえ、思想上の奴隷どれいの間ではこれが非常ひじょうに重んぜられ、肩書かたがきのみによって人の価値かちを定める上は、肩書かたがきの階級を厳重げんじゅう区別くべつし、これに対する尊敬そんけい程度ていどをもこまかくきざみ分けて、おんの字やさまの字も、特等とくとうの人には楷書かいしょ(注:一点いってん一画いっかく正確せいかくに書く書体しょたい)で書き、一等の人には行書ぎょうしょで書き、二等の人には草書そうしょで書くというほどに、形式がやかましくなるが、かくなりてては物事を自由に考えることなどはゆめにものぞまれぬ。ミュンヒハウゼンの法螺ほら物語ものがたりの中に、一匹いっぴき牝犬めすいぬ一匹いっぴき牝兎めすうさぎを追いかけている最中さいちゅうに、両方ともに急に産気さんけいて、犬もうさぎ七匹ななひきずつの子を生み、児兎こうさぎは生まれるやいなや直ちにげ出し、児犬こいぬは生まれるやいなや直ちに追いけて、つごう八匹はっぴきの犬で八匹はっぴきうさぎを追いめた話があるが、習いがせいとなる(注:習慣しゅうかんはついにはその人の生まれつきの性質せいしつのようになる)と、万事このとおりで、肩書かたがきをうやまうがわの者は生まれながらに肩書かたがきをうやまい、肩書かたがきで威張いばがわの者は生まれながらに肩書かたがきで威張いばる。従何位じゆなんみ侯爵こうしやく何某なにがしは本屋にはれるままに「天地てんち玄黄げんこう」とか「万里ばんり同風どうふう」とかいうような何のしにもならぬ題字を書きあたえてべつにあやしみもせず、何学博士はかせ何某なにがしは、本書は近来まれに見る良書りょうしょとか、著者ちょしゃ壮年そうねんながら感心な男とかいう提灯持ちょうちんもちの序文じょぶんを書いて一向不思議ふしぎとも思わぬ。書く当人等が不思議ふしぎと思わぬとおり、書いてもらう著者ちょしゃも本屋も、買うて読む読者も世間も、みなこれをあたりまえのことと考えている。中にはばつ(注:あとがき)とかとなえて序文じょぶんと同じような提灯持ちょうちんもちの文句もんくを書物の終りにつけ、あたかも箱根の坂を上る列車の前後に機関車きかんしゃが一台ずつけてあるごとくに、前からは序文じょぶんで引き上げ、後からはばつし上げようとしているものもある。いやくしくも、著者ちょしゃに自由独立どくりつとうとぶ心があったならば、自分の書いたものが、貨車かしゃ同様の取りあつかいを受けることを無念むねんに思い、大いに憤慨ふんがいしそうなものであるに、肩書かたがきを重んずる空気の中で育つと、これを侮辱ぶじょくと思わぬのみか、かえって非常ひじょう名誉めいよ心得こころえている。しこうして買い手のほうは、何某なにがしじょ何某なにがしばつ立派りっぱ肩書かたがきがならんでいるのを見ると、せめては、書物をとおしてなりとも、とうと肩書かたがきの人々と接触せっしょくする機会きかいたいとの心から、その本がしくてたまらず、ついにこれを買うのであろう。


 一事が万事(注:わずか一つの物事ものごとから、他のすべてのことをはかることができる)ということわざでも知れるとおり、題字や序文じょぶんによって書物を買うような思想上の奴隷どれいは、自由に考え独立どくりつ判断はんだんすることを知らぬから、すべての方面に他人の鑑定かんてい盲従もうじゅうするのほかない。たとえば、嗜好しこう(注:ある物をとくこのみそれにしたしむこと)のごときは、元来各自かくじそれぞれことなるべき性質せいしつのもので、昔から「嗜好しこうについてはあらそいは無益むえき」とさえ言うているが、肩書かたがきをとうと習慣しゅうかんいた人間は嗜好しこうの方面にも奴隷どれい境遇きょうぐうだつず、絵や彫刻ちょうこくなどを見るにも、やはり他人の鑑定かんてい盲従もうじゅうし、他人の指図しじしたがうて観賞かんしょうしている。近ごろの文展ぶんてん(注:文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧会てんらんかい)に、切符きっぷさえ容易よういに買えぬほどに人の出るのは、国民こくみん美術心びじゅつしんが高まったゆえかいなかは知らぬが、審査しんさ結果けっかが発表せられた翌日よくじつには、二等賞にとうしょうを取った絵の前にばかり人がせて、無賞むしょうのものにはかえりみる人もない。自由に考える者から見れば、絵画のごときは、各自かくじもっとも自分の気に入ったものをながめ楽しめばよろしいわけで、自分とは嗜好しこうちがう他人のほめた絵を義理ぎり感服かんぷくしてやる必要ひつようは少しもない。とくに数名の委員がって審査しんさする場合には、嗜好しこうも一人一人にちがい、結局けっきょく投票とうひょうか何かで決するほかはなかろうから、何等賞なんとうしょうときまったところで、審査員しんさいんの中にもこれに賛成さんせいせぬ人もあり、むろん万人をことごとく納得なっとくせしむべき性質せいしつのものではない。しかるに二等賞にとうしょうという鑑定書かんていしょくと、急にこれに感服して、その筆者の画いた物ならば玉石ぎょくせきともにあたい騰貴とうきする。相手がかような連中れんちゅうであるから、絵書きのほうでも審査しんさ結果けっか非常ひじょうに気にけ、当選とうせんすれば赤飯せきはんいてよろび、落選らくせんすればくびくくらんばかりに悲観ひかんする。せっかくまとまりかけた縁談えんだんも、出品がせんれたと聞けば先方から取り消しを申しみ、今まで猶予ゆうよしてくれた八百屋やおや勘定かんじょうも、落選らくせんと知ってはにわかに催促さいそくにくるから、だれ審査しんさ結果けっか重大視じゅうだいしするのは無理むりもないが、同一の絵が昨日きのうと今日とでよくなり悪くなることのないは明白なるにかかわらず、審査しんさの前後でかくまで待遇たいぐうわるのは、見る人にも書く人にも、一般いっぱんに他人の鑑定かんてい盲従もうじゅうする奴隷どれい根性こんじょうがあるゆえであろう。
 もっとも自由に振舞ふるまうても差支さしつかえのなかるべき嗜好しこうの方面においてさえ他人の嗜好しこう服従ふくじゅうし、他人の鑑定かんていどおりに味わうようでは、その他の方面のことはむろん全然ぜんぜん他人の意見にしたがうのほかはない。病人を医者に見せるに当たっても、子供こどもを学校へ入れるに当たっても、つねに肩書かたがきや、人の話によって撰択せんたくを定め、ぼう博士はかせは名医である、何某なにがし侯爵こうしゃく何某なにがし伯爵はくしゃくもその診察しんさつを受けたとのうわさを開けば、直ちにその人に見てもらう気になる。横町よこちょう稲荷様いなりさま御利益ごりやくがあるとか、となりの村の八幡様はちまんさまはよくくとか言われて、直ちに御詣おまいりに出掛でかける迷信家めいしんか精神せいしん状態じょうたいは少しもちがわぬ。医学博士はかせ学位がくいは「かえる血液けつえき粘着性ねんちゃくせいおよぼす『ラジウム』の影響えいきょういて」とか「飢餓時きがじけるうさぎ大腿骨だいたいこつ重量じゅうりょう減少げんしょういて」とかいうような、診断しんだんとも治療ちりょうとも何の関係かんけいもない論文ろんぶん提出ていしゅつして取ったものも多くあろうに、つねづね肩書かたがきのみを尊重そんちょうするくせいている思想上の奴隷どれいは、かかることには少しもかまわず、ただ博士はかせという肩書かたがきさえあれば治療ちりょうかならたくみであろうと思いみ、博士はかせの中にも博士はかせ以外いがいの者と同様に善人ぜんにんもあれば悪人もあり、賢者けんじゃもあれば愚物ぐぶつもあり、木訥ぼくとつ(注:かざりけがなく口数くちかずが少ないこと)な者もあれば奸侫かんねい(注:心ががっていて悪賢わるがしこく、人にこびへつらうこと)な者もあり、上手じょうずもあれば下手へたもあるべきことなどには、まるで考えおよばぬ。田舎いなかの人からは時々、何方どなたでもよろしいから博士はかせかたに一人御紹介ごしょうかいねがいたいとの依頼いらいを受けることがあるが、これなどは肩書かたが崇拝すうはいもっと露骨ろこつあらわしている。近来肩書かたがきのある医者が続々ぞくぞくえるにかかわらず、根本的こんぽんてき研究がその割合わりあいに進まぬのは、おそらく世間にかような連中れんちゅうが多いからであろう。


 自由に考え独立どくりつ判断はんだんすることを知らず、つねに他人の鑑定かんてい盲従もうじゅうするくせいた世の中では、学校教育なども、自然しぜん内容ないよう実質じっしつ如何いかんすてておき、もっぱら形式や称号しょうごうを重んずるようになる。教師きょうしはおのおの自分の仕事は何のためにするものかを考え、その目的もくてきもっともよくてきする教材きょうざいを取り、もっと有効ゆうこうしんずる方法ほうほうによって教えさえすればよろしいはずであるが、他人の批評ひひょうに気をもむあまり、ただ参観人さんかんにんの目にきそうな点にのみ心を配り、何か一つ目先のわったことをして、参観人さんかんにん感服かんぷくさせてやろうなどと教育本来の目的もくてきとはえんのないことにほねる。よいと評判ひょうばんのあることは、土地の事情じじょうなどにかまわず、となりにおくれぬように急いで真似まねし、新しい仕組みと聞くと、直ちにこれをとりり用い、外形のあらたまったことを進歩と名付け、内容ないようもとのままなることは知らぬ顔ですます。先日、宇都宮うつのみや附近ふきんまで散歩さんぽに行ったとき、る町でうらにいくらでもちりてられる空地のあるにかかわらず、一軒いっけんごとに東京のと同じようなコールターりの、しかも石油箱くらいの小さな塵箱ちりばこ一個いっこずつかならそなえてあるのを見たが、形式を重んずる者のなすことは万事このるいである。もしも模範もはんと見なされる学校へ、年々何千人もせてくる参観人さんかんにんが国へ帰って、この塵箱ちりばこと同じく、ただ東京の真似まねをするようであっては、何程なにほど無駄むだなことが行なわれるかしれぬ。役人にほめられた学校はほめられぬ学校よりはかならずよい学校と見なされ、二度ほめられた教師きょうしは一度ほめられた教師きょうしよりも一層いっそうよい教師きょうしあたいが定まる。すべて、他人の鑑定かんてい次第で相場が定まる以上いじょうは、ほめられた当人が非常ひじょうよろこぶのも、卒業生そつぎょうせいって祝賀会しゅくがかいもよおしてくれるのも不思議ふしぎはないが、かようなことでは、真に内容ないよう実質じっしつの進歩することは、かえっておくれることをまぬがれぬであろう。
 また肩書かたがきを重んずる世の中では、学校へ入学する者も、もとめるところは内容ないよう実質じっしつではなく、卒業そつぎょうという名であるゆえ、無理むりな工面をしても一段いちだん高い等級の学校へ行きたがる。教えることは同じでも、卒業そつぎょう生に何とか称号しょうごうあたえるようになると、急に入学志願者しがんしゃえる。女学校のごときは入学者の目的もくてきは全く嫁入よめいりのときに箪笥たんす長持ながもち(注:衣服いふく調度品ちょうどひんなどを入れる、ふたつきの長方形の大きなはこ)と一緒いっしょに持ってゆくべき卒業そつぎょう証書しょうしょるにあるゆえ、かく科目について言うと、教師きょうし生徒せいとも、何のために、その学科をおさめるのか分からず、ただこれをおさめねば卒業そつぎょうができぬゆえ、やむをえず勉強しているのである。形式をととのえるために数多くならつらねた科目を、ただ卒業そつぎょうの名をんがために片端かたつぱしから暗誦あんしょうしているようでは、女子教育もすこぶるおぼつかない。南洋諸島しょとうの土人は、身体にさまざまの入墨いれずみをして装飾そうしょくとするが、肩書かたがきをとうとぶ社会では、学士がくしとか、卒業生そつぎょうせいとかいう名前は一種いっしゅ装飾そうしょくであって、土人の入墨いれずみと同じ役に立つ。すなわち各種かくしゅの学校は年々何百人かの学生生徒せいとに、学士がくしとか、卒業そつぎょう生とかいう文字を入墨いれずみして世に出していることにあたるが、かように考えると、文部の文と、文身いれずみ(注:入れすみ)の文とが同じ字であるのも決して偶然ぐうぜんでない。
 自由に考え、独立どくりつ判断はんだんする者から見ると、大学と言うても専門せんもん学校と言うても、同じ程度ていどのことを教えさえすればくらいも同等なわけで、もしも教授きょうじゅの学力、生徒せいとの勉強が大学よりもまさっていたならば、名は専門せんもん学校であっても、むろんこのほうが上である。しかるに専門せんもん学校という看板かんばんを大学という看板かんばんえると、学校の価値かちが急に高まるごとくに思い、これを昇格しょうかくとなえ、そのことが行なわれそうになっただけでも前祝まえゆわいをしてよろぶ人等もある。何々農学校とか何々医学校とかいう名前は、べつあらためる必要ひつようもないゆえ、そのままにおいて、つとめて内容ないよう実質じっしつをよくし、他の農科大学、医科大学よりも真価しんかにおいてまさるものができたならば、肩書かたがきにかまわぬという点だけでも大いに尊敬そんけいするに足るように感ずるが、何物でも人為じんい階級の高下こうげによって相場を定める奴隷どれい根性こんじょうちた世の中に、そのような学校のあらわれるのをのぞむのは、もとより無理むりな注文であろう。


 その他、思想上の奴隷どれいと見えるものは、あらゆる方面に無数むすうにある。先年東北地方を旅行したさいに、あるの町でとまった宿屋の廊下ろうかに、何某なにがし侯爵こうしゃく閣下かっか御宿泊ごしゅくはく何某なにがし伯爵はくしゃく閣下かっか御宿泊ごしゅくはく何某なにがし大臣だいじん閣下かっか御宿泊ごしゅくはくぼう知事閣下かっか御宿泊ごしゅくはくなどという大きな板札いたふだ隙間すきまなくつらねべてあった。しかも、そのはばが、階級によって少しずつちがうて、何某なにがし内務ないむ部長殿どの御宿泊ごしゅくはくへんにゆくと、大分せまくなっていたので、武州ぶしゅう高尾山たかおさん杉苗すぎなえ寄附きふ木札きふだなどを思い出しておかしかった。自由に考え、独立どくりつ判断はんだんする者から見れば、悪い知事ちじよりはよい宿屋やどや亭主ていしゅのほうが、世の中のためにはよけいに役に立つゆえ、不法ふほう宿料しゅくりょうむさぼらず、旅客の便利べんりはかりさえすれば、立派りっぱな一人前の人間として、決して他の人々よりははるか下にくらいするごとくにみずからをいやしむ必要ひつようはない。とく侯爵こうしゃく閣下かっか伯爵はくしゃく閣下かっかときては、先祖せんぞがかつてなんらかの御役おやくに立ったことがあるというだけで、当人には何の取りもなく、はだかにしたら、知恵ちえも力も宿屋の亭主ていしゅにおよばぬ者がたくさんにあろう。たとえて言えば、内容ないようのきわめて貧弱ひんじゃくな書物の巻頭かんとうに、有名な人の書いた「わが子孫しそんなり」という題字がえてあるようなもので、題字にかまわぬ人は決してこれを買う気遣きづかいはない。しかるに長い間、士農工商しのうこうしょう中の最下等さいかとうの者として、奴隷どれいのごとき取りあついを受けきたり、当人もこれにれて、自分をいやしい者としんじ、肩書かたがきのある人々は自分よりははるか上のとうとい者であると考えるくせいているゆえ、たまたま肩書かたがきのある人がとまめば、わが店の相場が一段いちだん上ったごとくに感じ、うれしくてたまらず、一人でもよけいにこの事を吹聴ふいちょうしたいゆえ、客の通り道に尊名そんめいならげたのである。この亭主ていしゅなどは、法律ほうりつ上では自由の人民じんみんであろうが、根性こんじょうの持ちようは、印度インド最下級さいかきゅう奴隷どれいと少しもちがうたところはない。かような連中れんちゅうは何々会総会そうかいにでも出席しゅっせきして、会長何某なにがし伯爵はくしゃく閣下かっか夫人ふじんの顔を見ただけでも名誉めいよと思い、十メートルまでより近付ちかづ機会きかいのなかった者は、五メートルまで近付ちかづた者を非常ひじょうにうらやみ、三メートルまで近付ちかづた者は、身にあまる光栄こうえいとして、まごの代まで自慢話じまんばなしにするであろう。奴隷どれいてき精神せいしん充満じゅうまんしている社会では、かようなことはきわめて普通ふつうで、かぎりりなくれいのあることゆえ、他はりゃくすする。


 さて今日はヨーロッパ大戦争せんそう最中さいちゅうである。わが国は幸い戦場せんじょうと遠くへだたっておるゆえ、しばらく楽ができるが、この戦争せんそう如何いかに終ろうとも、その後には、直ちにまたきゅうばいしたはげしい民族みんぞく競争きょうそうわらねばならぬ。政略せいりゃく上、こうの国と同盟どうめいするとか、おつの国の仲間なかまになるとかいうことはえずあろうが、これは時々変更へんこうするゆえ、民族みんぞく間の競争きょうそうにおいて、真にたよりとすべきは、自己じこの実力よりほかにはない。他国の速かに進歩する間にはさまって自国だけ進歩がおそかったならば、実力上、他の圧迫あっぱくを受けて非常ひじょうに苦しい地位ちいにおちいり、ついにはやぶれることをまぬがれぬ。しこうして実力を進歩せしめるには、まずかく個人こじんともに実力をとうとび、実力の如何いかんによって人を評価ひょうかする風俗ふうぞくつくることが必要ひつようである。戦争せんそう後は各国かっこくともに、間諜かんちょう(注:スパイ)に対する警戒けいかいもすこぶる厳重げんじゅうになり、自然しぜんすべての外国人に対する用心も深くなってたいがいのことは秘密ひみつにするであろうが、これはわが国のごとき、何もかも真似まねで進みきたった国には大打撃だげきで、これからは万事自力でわが文明を進めるのほかにみちはない。しこうして自力で文明を進めるには、他人の鑑定かんてい盲従もうじゅうせず、自由に考え、独立どくりつ判断はんだんする習慣しゅうかんやしなうことが何よりも肝心かんじんである。とくにわが国は人種じんしゅ関係かんけい上、他の列強れっきょうして、競争きょうそうの苦しみは一倍多かろう。先日、米国の一議員ぎいんから送ってきた別刷べつづりに、世界の平和をたもつには、えい、米、どくふつの四国が同盟どうめいするがよろしい。かくすれば、極東きょくとう新興国しんこうこく勝手かってなことをしようとしても、武力ぶりょくでこれを抑制よくせいすることができるとのせつべてあったが、これはとうていできぬ相談であるとしても、わが国の勃興ぼっこうよろぶ国は日本以外いがいに一国もないのはたしかである。米国のごときはヨーロッパしょ人種じんしゅ混合こんごうであるゆえ、英国えいこくてきとせんとすれば、国内の英国種えいこくしゅ人民じんみんが反対し、ドイツをてきとせんとすれば、国内のドイツしゅ人民じんみん承知しょうちせず、フランスしゅでもイタリアしゅでも、それぞれ母国をてきとすることには反対するから、挙国きょこく一致いっちてきとすることのできる相手は日本だけである。かような事情じじょうもあるゆえ、今後の日本は一人で三人前の実力をそなえるくらいでなければほとんど安心ができぬ。ドイツではこのごろは、花園をはいして、ジャガいもを作っているとのことであるが、四方異人種いじんしゅかこまれているわが国は、全く今のドイツと同様に奮発ふんぱつし、装飾そうしょくぞくすることはことごとく他日にゆずって、もっぱら実力をすことに努力どりょくせねばならぬ。しこうして、実力をすにはまず空名くうめい(注:実際じっさい以上に高い評判ひょうばん)を崇拝すうはいするごとき奴隷どれい根性こんじょう一掃いっそうする必要ひつようがある。
 誤解ごかいさけけるために言うておくが、如何いかに自由に考え独立どくりつ判断はんだんするがよろしいと言うても、決して他人の意見を全然ぜんぜん無視むしせよと言うわけではない。かく個人こじん経験けいけんせま範囲はんいをいでず、思考の力にも不充分ふじゅうぶんな点があるをまぬがれぬゆえ、何問題をろんずるに当たっても、他人の意見を参考さんこうすることはもとより必要ひつようである。学術がくじゅつ上の研究を始めるにあたっても、まず当面の問題にかんし、これまで他の学者が如何いかなる研究をしたかを広く調べる必要ひつようがあるとおり、他人の判断はんだんや、鑑定かんていもなるべく多く聞いて見るがよろしい。しかし、これはどこまでも参考さんこう材料ざいりょうであって、結局けっきょく判断はんだん当然とうぜん自分の力でなすべきはずである。また肩書かたがきを重んずるなと言うても、決して人間をことごとく平等と見なして、その間の差別さべつ無視むしせよと言うわけではない。人間には、生来せいらい賢愚けんぐにより、教育の多少により、実力にいちじるしい相違そういのあるは目前の事実で、いてこれを平等と見なすのはもとより理に合わぬことである。実力もちがい、専門せんもんことなる人間が多数に集まって社会をつくっている以上いじょうは、設計せっけいする者、実行する者、教える者、習う者、指図する者、したがう者、乗る者、かつぐ者などそれぞれ役目のことなるべきは当然とうぜんで、役目がちがえばおのおの、肩書かたがきを定めておくのが便利べんりである。職務しょくむ上、命令めいれいを下すべき者が命令めいれいを下し、服従ふくじゅうすべき者が服従ふくじゅうするのは、むろん必要ひつようなことで、これがみだれては国はおさまらぬ。とくに自分らがえらんだ世話人の言うことならば、多少自分の意見とはちがうても、我慢がまんのできるかぎりはこれにしたがうがよろしい。ふるい人ばかりのところでは、自治じちの名はあっても、自治じちの実の行なわれぬのは、上の階級の者にでなければ服従ふくじゅうせぬという奴隷どれい根性こんじょうけぬからである。しかし、職務しょくむはなれ、自分一個いっことして物を考えるさいには、どこまでも独力どくりょくで自由に判断はんだんし、如何いかにいかめしい肩書かたがきのある者の言うたことでも、自分でなるほどと思はねば決してこれに盲従もうじゅうするにおよばぬ。題字や序文じょぶんを書いた人の肩書かたがきを見て、書物を買うような奴隷どれい根性こんじょうが世間一般いっぱんにはびこっている間は、国全体の内容ないよう実質じっしつが速かに進歩する見込みこみはない。
 以上いじょうは題字、序文じょぶん校閲こうえつ肩書かたがきをならべた書物の広告こうこくを見てむねうかんだ考えの一端いったんのべたのである。
(大正四年十一月)






底本:丘浅次郎著作集U 「煩悶と自由」(有隣堂)
   1968(昭和43)年7月発行
入力:矢野重藤
初出:1916(大正5)年1月 『題字、序文、校閲』(中央公論)
校正:
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