人間のなすことを見ると、
互いに
矛盾すると思われることが実に数
限りなくある。一方では
大砲や
軍艦など人を
殺す
器械を
盛んに
製造していると、他方では
敵の
負傷兵までも親切に
看護する
設備に
骨を
折っている。ここでは
敵がふたたび立つあたわざることがたしかになるまでは
断じて
講和はできぬと
演説していると、かしこでは
人道のために一日も早く
戦争を
止めさせたいと
論じている。
油揚一枚を
盗んだ者を
罰しながら大きな
身代を
横領した者を
許しておき、
博奕を
厳しく
禁じながら
博覧会の
富籤は
盛んにやらせる。その他、国の
富が
増して生活が
次第に
困難になり、教育が進歩して
罪人がますます
増加し、
医術が進んで年々病人が
殖え、
衛生がやかましくなって、だんだん身体が
虚弱になるなど、人生はいずれの方面を見てもほとんど
矛盾で
満ちているごとくに見受けられる。
しからば
自然界は
如何というと、ここにも、人が見て
矛盾と考えることはたくさんにある。
例えば一方では生物が
絶えず
繁殖すれば、他方では
盛んにこれを
喰い
殺している。
果実を生ずるために花が
咲けば、
嵐がこれを
吹き
散らして
無効に終わらしめる。草が
芽を出せば虫がきて食い、虫が生長すれば、鳥がきてついばむ、かくのごとく生物界は
徹頭徹尾戦闘であるが、同じ生物界の中に
戦闘のあることは明らかに
矛盾と思われる。
加藤弘之氏(注:1836年8月5日〜1916年2月9日。日本の
政治学者、教育家、
官僚)のごときは、生物の
産む子の数が多いのに
比して
実際生存し
得るもののはなはだ少ないこと、同じ生物でありながら
一種が
生存するためには、
他種の生命を
亡ぼさねばならぬこと、およびなお一つ何とかを
自然界における三大
矛盾と
名付け、この三つの
矛盾があるゆえに生物界に進化が行なわれるのであると
論じて
特に
一冊の書物を
著わした。生物
各種が多数の子を
産むのは、それによって、
子孫の
継続を
確実にするためで、あたかも一羽の小鳥を打つために
数十粒の
散弾を
費すのと同じわけであるから、もしこれを
自然界の
矛盾と
名付けるならば、
散弾で小鳥を打つのは
猟師の
矛盾と
名付けねばならぬ
理屈となり、生物の
一種が
他種の身体を
食うて命を
保っているのは、
単に生活
物資が一方から他方へ
姿を
変えるだけであるゆえ、もしこれを
自然界の
矛盾と
名付けるならば、毎年米の
澱粉を
砂糖に
変じ、さらに
砂糖をアルコールに
変ずることは
醸造家の
矛盾と
名付けねばならなぬ
理屈となるが、かような
議論はともかくとして、
自然界に
矛盾の感じを起こさしめる
現象が多数に
存することだけは明らかである。
さてかように人間の社会にも、
自然界にも一見して、
矛盾らしく考えられることは多数に
存在するが、
我らの考えによると、その中には真に
矛盾でないものを
誤って
矛盾と
名付けている場合もあれば、また
互いに
相妨げ合うて真に
矛盾している場合もある。しこうして、真に
相矛盾しているという場合でも、さらに
標準を
一段高めて
論ずると、
矛盾を生ずべき理由があって、その
結果として
矛盾が生じたのであるゆえ、やっぱり
因果の
規則に
従うた
現象で、決して
絶対の
矛盾ではない。真に
矛盾でないものを
誤って
矛盾と
名付けている
例は前に
掲げた、生物の
産んだ子の大多数が早く死に
失せることや、
一種の生物が
他種を食うて生きていることを
矛盾と見なす
類である。これらはあたかも水が流れるとか、火が
燃えるとかいうのと同様の
自然の
現象であるゆえ、もしこれを
矛盾と呼ぶならば、
自然界に起こる
変化は一として
矛盾ならざるものはない。水が
蒸発して雲となり、雲が
凝固して雨となるのも、重力によって平らになるべき海面が風のために
浪の立つのも、一地方で
陸が高くなる間に他の地方で
陸が
降りゆくのも、同じ
樹木の葉が緑であって花が
紅であることまでも
矛盾と
呼ばねばならぬことになる。およそ
変化とは、今まであった
旧い
状態が消えて、今までなかった新しい
状態が
現われることであるゆえ、前後を
比較すれば、その間に必ず
相異なるところがあるが、これらは
単に
変化と
名付くべきもので、これを
矛盾と
呼ぶ人はない。
自然界の
現象で
矛盾の感じを起こすものは、よく考えて見ると、いずれも、
変化と
名付くべきものばかりで、真に
矛盾と見なすべきものは決してないように思われる。
次に
人類が一方に
戦争をしながら、他方で
敵の
負傷兵を
看護するごときはたしかに
矛盾であるが、この二つの
所行も、これを
別々に
離して見るといずれも
当然あるべきことで決して
不思議はない。すなわち
戦争は、
民族の
生存競争上
避くべからざることであって、
一民族が
発展するにあたっては、
隣りの
民族の
迷惑を
顧慮(注:ある事をしっかり考えに入れて、心をくばること)してのみはおられぬ。また
博愛を
敵にまで
及ぼすのはかつて小
団体間で
激しい
生存競争を行なうていたころに
養成せられた
協力一致の
本能の
残りが
基礎となり、
無意識的もしくは有
意識的の
偽善行為となったもので、これまた明らかに
素性が知れている。
博奕を
禁ずるのは、多数の人に
迷惑のかかるごときことをあらかじめ
防ぐためで、もとより
当然のことであるが、
富籤のすこぶる流行するのは、社会の
制度に
不条理な点があり。
寝ていて大金を
儲ける者のあるのを多数の人がうらやむところから生ずることで、これまたとうてい
防ぐことはできぬ。その他、今日の人間社会に行なわれることを
見渡すと、
甲と
乙とが
相矛盾すると思われる場合がほとんど
限りなくあるが、その
矛盾する点は、いつも
団体の
利益に重きをおくか
各自の
利益を第一とするとかの
相違に
基づいている。客車の内に、「
喫煙は
御遠慮下されたし」と書いてあるのは、
団体の
利益のために
各自が
暫時しんぼうするようにとの
要求であるが、この
掲示を
尻目にかけながら平気で
煙草を飲んでいる人間は、自分さえよければ他人の
迷惑は少しもかまわぬという
根性の見本である。公園に
樹木の
枝を
折り取るべからずと
札が立ててあるのは、
団体の
利益のためで、これを
折り取って
自慢しているのは、
自己の
利欲のためである。
貧民を
救助し、行き
倒れを病院に入れるのはいずれも
団体の
利益を思うてであるが、
養育院や
施療(注:
貧しい
病人などを
無料で
治療すること)病院を
建てる金を
寄附する金持ちがつねづね
欲張って、
盛んに
貧民や行き
倒れを
製造しつつあることを考えると、この場合には同一人の
行為の中にはなはだしい
矛盾がある。人間は元来が
団体的動物であって、
団体を
造らずには一日も生活ができぬゆえ、何とかして、
団体生活のできるようにとつとめてはいるが、一方には
私欲がすこぶる
盛んであるために、
団体生活の
根本義(注:
原理)に正反対のことを日々行なうている。人間社会の
矛盾は主として、そのために起こるものであるが、これは
自然界の
矛盾らしく感ぜられる
事柄とは
違い、真の意味における
矛盾であるゆえ、その
結果は
互いに
相衝突し、
相殺するをまぬがれぬ。
しからば
自然界に真の
矛盾がないのに反し、人間のなすことにのみ、かような
矛盾があるのは
何故であるかというに、
我らの考えによれば、これは人間が今日すでに進歩の下り坂にあるゆえである。下り坂にある動物には、上り坂のころに
発達した
性質の
残りと、下り坂になってから
発達した
性質とが同時に
備わってあるゆえ、そのなすことには
矛盾がないわけにはゆかぬ。しこうして、
互いに
矛盾する
働きは、その
効果を
互いに打ち消し合うゆえ、
矛盾が多ければ多いほど、
労力がむだになり
能率が
減ずる。されば生活に
矛盾の多い生物は他と
競争する場合に勝つ
見込みが少なくはなはだしきにいたれば
敵がなくともひとりで
倒れるにいたるやも知れぬ。一人の身体の内で
各部の
働きに
矛盾があれば、その人は病人であり。
一種族の生活の中に
矛盾があれば、その
種族は
退化の
途にあるものと思われる。
盛んになるには
盛んになるべき
原因があり、
衰えるにはまた
衰えるべき
原因があって、この
規則にはずれるものは決してないようであるが、
衰え
亡ぶべき
原因があると、その生物
種族の生活には、
次第に相
矛盾する点が
現われ、
矛盾がだんだん
殖えて、ついにはもはや
救うべからざる
状態にまで
達するのではなかろうか。中生代の大きな
蜥蜴類や第三期の大きな
獣類なども、その
滅亡に近づいたころの生活には、相
矛盾するごとき
所行が定めてたくさんにあったことであろらう。
以上のごとくに考えると、同一生物の
所行の中に真の
矛盾のあるものは、
栄枯盛衰の
経路の下り坂に向うた
徴侯とも見られる。前にも
述べたとおり、
自然界における
矛盾と
名付けられるものの中には、見る人のほうで
勝手に
矛盾と定めただけで、実は
矛盾でも何でもないものが多いが、人間社会における
矛盾のほうは
大抵は真の
矛盾である。すなわち、その
事柄だけを見れば
矛盾に
相違ないが、さらに、その
矛盾の生ずる
原因まで考えを進めると実は、
矛盾には
必ず
矛盾の起こらざるべからざる理由の
存することを発見するゆえ、決して
矛盾ではないとも
論ぜられる。社会を
造って生活している人間のなすことに、社会生活に
適することと社会生活に
適せぬこととの
矛盾があって、この
矛盾がさらに
激しくなりゆくべき
原因が
依然として
存するものとすれば、人間の
努力によって、どこまでこれを
匡正することができるかはすこぶる
疑問である。今日の人間は
自然を
征服し
得たと言うて大いに
得意になっているが、
自然に対しては実ははなはだ
微力なもので、
特に人間自身の身体に
関しても、社会生活に
関しても、いまだかつていちじるしい
改良をなし
得た
例のないことを思えば人力によって、人間生活における
矛盾を
除き
去ることはとうてい
容易なわざではなかろう。
(大正三年十月)