動物界における善と悪

丘浅次郎




 ぜんとは何か、悪とは何か、ぜんはなにゆえになすべきか、悪はなにゆえになすべからざるか等の問題は、すでに二千何百年も前のギリシア時代から今日にいたるまで、大勢おおぜいの人々のろんじたところであるが、昔の賢人けんじんいたところも、今の学者のろんずるところも、みな万物のれいたる人間についてのことばかりで、他の動物一般いっぱんかんしたことはほとんど皆無かいむのようであるから、この点について日ごろ心にかんだことをこころみに短くここにべてみよう。
 動物には単独たんどくの生活をなすものと、団体だんたいつくって生活するものとあるが、全く単独たんどくの生活をなす動物の行為こういは、善悪ぜんあくの二字をもって批評ひひょうすべきかぎりでない。世人はおおかみが羊をとらえてころすのを見れば、羊の苦しみをあわれむ心からおおかみ所行しょぎょうを悪と名づけたく感ずるが、これはつみなき他人をがいする人間を悪人とぶのから連想れんそうしたことで、たんおおかみのみについて言えば、その羊を食うのはあたかも人間がめしを食うのと同じく、ただ生活に必要ひつようなことをするというだけで、ぜんとも名づけられねば、また悪とも名づけられぬ。かかる動物では各自かくじ行為こうい結果けっかは、ただその個体こたい自身に影響えいきょうをおよぼすだけで、成功せいこうしても他に利益りえきあたえることもなく、失敗しっぱいしても他に迷惑めいわくをかけるでもなく、強ければさかえ、弱ければほろび、たれのおんをこうむることもなく、たれのえにうこともない。それゆえ、かりに身をこの境遇きょうぐうにおいて想像そうぞうしてみると、善悪ぜんあくという文字は全くその意味を失ってしまう。
 また団体だんたい生活の充分じゅうぶん完結かんけつしている動物、たとえばありはち等のごときものの行為こうい善悪ぜんあくをもってひょうしがたい。なぜというに、これらの動物では各個体かくこたいはただそのぞくする団体だんたい一分子いちぶんしとしてのみ価値かちを有し、団体だんたいはなれ、たん個体こたいとしては少しも特別とくべつ個体こたい価値かちみとめることができぬ。すなわち各団体かくだんたいはあたかも一の意志いしを持った個体こたいのごとくにはたらき、これを組み立てている各個体かくこたいはあたかも個体こたいつくせる細胞さいぼうのごとく、たん団体だんたい意志いししたがうてはたらくのみである。言をえていえば、これらの動物では各個体かくこたい精神せいしん個体こたい利害りがいのみに重きをおく小我しょうがさかいだっして、自己じこぞくする全団体だんたい維持いじ繁栄はんえい目的もくてきとする大我だいがいきたっしているのである。はちありが終日わしく食物をさがし集めたり、幼虫ようちゅうの世話をしたり、勉強しているのはすべて自分のぞくする団体だんたいのために役に立つばかりで、一つも直接ちょくせつにその一身いっしんのためにはならぬ。またもはや団体だんたいにとって無用むようとなった個体こたいは、他のものが集まって容赦ようしゃなくころかたづけてしまい、決してたんありであるから、あるいははちであるからというだけの理由で、蟻格ありかくとおとぶとか蜂権はちけんを重んずるとかいう名義めいぎのもとにこれを助けておくことはない。たとえば雄蜂おはちのごときは種属しゅぞく維持いじにはくべからざるもので、生殖せいしょく作用のすんだ後の雄蜂おはちはち仲間なかまから考えたら、実に元勲げんくんともしょうすべき者であるにかかわらず、もはや団体だんたいにとって無用むようであると定まった以上は、ただちに団体だんたいからころてられること、あたかも用のんだ乳歯にゅうしが、子供こどもの身体からけててられるのにことならぬ。かくのごとき次第しだいであるから、ありはちはただ他の単独たんどく生活をなす動物が一個体いちこたいですることを一団体いちだんたいでするというだけにとどまり、その行為こういはとうてい善悪ぜんあくの二字をもってひょうすることはできぬ。
 動物の中には、ありはちほどに完結かんけつした団体だんたいつくらぬが、しかしやはり一生涯いっしょうがい多数相集あいあつまってらすものがある。猿類えんるいのごときはその一例いちれいであるが、このるいの動物にいたって、はじめて行為こうい善悪ぜんあく区別くべつをつけてろんずることができる。
 そもそも動物の各個体かくこたいが生活しるためには、相当の食物が入用であるゆえ、同一の食物をようする動物が多数同じ場所にんでいると、かならず食物をるための競争きょうそうが起こり、たがいにてきとならざるをない。もっとも食物の供給きょうきゅう需要じゅようがくよりはるかに多い間は競争きょうそうも起こらぬが、そのような結構けっこうなことは決して長くつづくものではない。なぜかというに食物が充分じゅうぶんであれば動物の繁殖はんしょくさかんになり、子孫しそんの数がえればたちまち食物の不足が生ずる。しかして際限さいげんのある食物を多数のものが分けて食うことになれば、遠慮えんりょしていてはとうてい餓死がしするをまぬがれぬから、各自かくじ競争きょうそうして、他人を餓死がしせしめても、自分だけは飽食ほうしょくしようと心掛こころがけるにいたるはむろんのことである。それゆえ同一の種類しゅるいぞくし、したがって同一の食物をようする動物個体こたいは、みなたがいに劇烈げきれつなる仇敵きゅうてきたるべき資格を備えているもので、現に食物不足の場合には、同一団体だんたいぞくする個体こたい同志でたがいに相戦い、相かみ、相殺あいころし、相食あいくうことがつねである。ひようさるころして食うからむろんさるてきであるが、さる同志どうしたがいに食物をうばい合うものゆえ、さるもたしかにさるてきである(Simia simiae lupus)、くびをかみ切ってころすも、えさうばい去ってころすも、ただ多少直接ちょくせつ間接かんせつとの相違そういがあるだけで、その結果けっかにいたってはごうことなるところはない。
 かくたがいに仇敵きゅうてきたるべき資格しかく充分じゅうぶんそなえている動物個体こたいが、なぜ相集まり団体だんたいをなして生活するかというに、これは全くてきに対して身をまもるためである。種属しゅぞく維持いじ、すなわち生殖せいしょく作用を行なうために一時団体だんたいをなすものもあるが、これは全くそのときかぎりで、目的もくてきたっした後はたちまちさんじてしまう。ぞくほたる合戦かっせんかえる合戦かっせんしょうするものはかかる団体だんたいである。また力をあわせてえさとらえるために、おおかみなどが団体だんたいつくることがあるが、これも全く一時的で、首尾しゅびよくえさとらえた後には、ただちに利益りえきの分配についてあらそいが起こり、たちまちにしてたがいにはげしい仇敵きゅうてきとなってしまう。されば一生涯いっしょうがい団体だんたいをなしてらすものは、みな力をあわせて共同きょうどうてきに当たり、もって身をまっとうすることを目的もくてきとするもの、すなわちごうすれば立ち、はなるればたおれる(United we stand, divided we fall)という理由にもとづいたものばかりであるというてよろしい。
 さるなどの団体だんたいはここにべたごとき理由で成立せいりつしているのであるゆえ、その中の各個体かくこたいはいずれも他はどうなっても自分だけ利益りえきたいという欲情よくじょうさかんに持っている。しかし各個体かくこたいがこの欲情よくじょうをたくましくしてたがいにたたかうならば、その団体だんたいはたちまち破壊はかいして、とうていてきなる団体だんたいに対して生存せいぞんすることができなくなり、したがって各個体かくこたいも身をまっとうすることができぬ。それゆえさる団体だんたいにおいては個体こたい欲情よくじょうと、団体だんたい要求ようきゅうとはとうてい一致いっちすべきようなく、各個体かくこたいいても欲情よくじょうの一部をせいして全団体だんたい維持いじ繁栄はんえいはからなければ、各自かくじ生存せいぞんもおぼつかない。すなわち強者は勝ちたいというよくせいして弱者を助け、賢者けんじゃはだましたいというじょうしのんで愚者ぐしゃを教えるようにせねば、全団体だんたい滅亡めつぼうする。かかる団体だんたい中の各個体かくこたいはつねに自己じこ欲情よくじょうすなわち利己りこ心(Egoismus)と団体だんたい要求ようきゅうすなわち利他りた心(Altruismus)との間にはさまれ、ある時はふるって団体だんたい要求ようきゅうしたがい、全団体だんたい利益りえきあたえることもあり、ある時は心弱くも自己じこ欲情よくじょうに負けて全団体だんたい迷惑めいわくをおよぼすこともあるが、これがすなわち善悪ぜんあくのわかれるところで、一個体いちこたい行為こうい結果けっかが全団体だんたい利益りえきあたえる時は、利益りえきの分配にあずかる同僚どうりょうはこれをほめてぜん(Bonum)としょうし、一個体いちこたい行為こうい結果けっかが全団体だんたい損害そんがいあたえる時は、頭割あたまわりに損害そんがいをこうむる同僚どうりょうはこれをめて悪(Malum)というのはむろんのことである。
 以上べたるところは、団体だんたいがやや少数の個体こたいよりる場合について想像そうぞうしたことであるが、一団体いちだんたいをなす個体こたいの数が多くなると善悪ぜんあく関係かんけいがかように明瞭めいりょうでなくなる。そのゆえは、個体こたいの数がふえるにしたがい、一個体いちこたい団体だんたい全部におよぼす利害りがい頭数あたまかずりつけると、実に僅少きんしょうとなり、ついにはありがたいとか迷惑めいわくとか感ずる最低限さいていげん(Schwellenwert)以下となって、他の個体こたいは全くこれを感じなくなるからである。しかしながら、いかに団体だんたいが大きくなっても、各個体かくこたい欲情よくじょうの一部をせいして団体だんたい要求ようきゅうおうじなければ、団体だんたい生存せいぞんたもてぬことは依然いぜんとしてわらぬから、各個体かくこたいには無意識むいしきてきに多少全団体だんたい利益りえきとなる行為こういをなすの習性しゅうせい本能ほんのうとしてのこり、なにゆえという理由を知らずに、ただぜんぜんとして行なっているごとき外観がいかんていするにいたる。熱帯ねったい地方を旅行してさる習性しゅうせいを調べた学者の報告ほうこくなどを読んでみるに、たたかうてきずを受けたさるがあると、他のさる等はこれを助け保護ほごし、食物をあたえたり、水を飲ましたりして、非常ひじょうにこれを介抱かいほうなぐさめる。また子をして親が死ねば他のさるただちにその子をやしない取り、実子同様にこれをいつくしみ育てることなどが、ていねいに記載きさいしてあるが、たんにこの所行しょぎょうだけを考えると、あたかもさるには猿道さるどう(Simianitas)とでもいうものがあり、博愛はくあい(Philopithecia)の精神せいしんもとづいてしているごとくに見える。
 少数の個体こたいよりれる団体だんたいのありさまに比較ひかくしてさるのかかる行為こうい原因げんいんを考えてみるに、団体だんたい要求ようきゅうおうずるのはてきに対してわが団体だんたい維持いじし、したごうてわが身をまっとうするためであるという観念かんねん個体こたいの数のふえるにしたごうて漸次ぜんじ個体こたい意識いしき範囲はんいよりだっし去り、個体こたいはただ漠然ばくぜんとこれを義務ぎむのごとくに感じて実行しているのであろう。そのありさまを形容けいようして言えば、あたかもべつにすべての個体こたい共通きょうつう団体だんたい意志いし(Volitio cormi)とでも名づくべきものが、意識いしき範囲はんい以外の精神的せいしんてき作用として各個体かくこたいそんし、これが各個体かくこたいにかかる行為こういをなさしめているので、あやつり人形が糸にしたがうて動くごとくに、各自かくじは少しも理由を知らずに、団体だんたい要求ようきゅうしたがうてかかる動作をなしているように見える。もしさるに人間ほどの知力と言語とがあったならば、さるかなら自己じこ行為こうい規範きはんとやらを研究し、団体だんたい意志いしあやつられて本能ほんのう的にはたらいていることは自分らには気がかぬから、自分らの行為こうい原因げんいん目的もくてきがわからず、ただなんとなく心のおくにかかる行為こういを命ずるる物がかくれているかのごとくに感じて、あるいは厳粛げんしゅく命令めいれい(Kategorischer Imperativ)にしたがえばよいとか、あるいは至善しぜん(Summum bonum)に向こうて進めばよいとか種々しゅしゅ雑多ざった空論くうろんを考え出すことであろう。
 また各個体かくこたい自己じこ欲情よくじょうをたくましくしては団体だんたいたもてぬから、団体だんたい要求ようきゅうにそむいた個体こたいがある場合には、他の個体こたい等が集まってかならずこれに制裁せいさいくわえるが、これも一団体いちだんたい内の個体こたいの数がふえるにしたがい、あたかもたんに悪を悪としてばつするごときかんていするにいたる。からすなどを見るに、他のからすのるすに乗じて材料ざいりょうぬすみきたり、これを用いて自分のつくるものが往々おうおうあるが、かかる所行しょぎょう露顕ろけんすると、近辺きんぺん烏等からすらはみなそこに集まり、被告ひこくを取りいて、暫時ざんじカーカーとやかましく鳴いた後、五六ひき折檻せつかん委員をえらんで、かの罪烏ざいうをつつきころしてしまう。このことは烏類からするい習性しゅうせいを書いた書物にはすでに出ているが、あえてめずらしいことではなく、著者ちょしゃも数年前に東京お茶の水の聖堂せいどうの森のそばでこれを実見したことがある。この時だけを見るといかにも残酷ざんこくのようであるが、悪事に対してはかく制裁せいさいくわえなければからす社会の秩序ちつじょたもてぬから、これもよんどころないことである。かように多くのからすかこまれて、今か今かと死刑しけい宣告せんこくを待っているからすの心を推察すいさつするに、ああ悪いことはできぬものなり、あんなことをしなかったならばこのような憂目うきめにはあうまいにと、後悔こうかいねんえぬであろう。またこれを見ている他のからすらも心中に、われも悪事をはたらいて露顕ろけんすればこのとおりの目にあうであろう、おそるべし、つつしむべしとみずかいさめるに相違そういない。これがすなわち良心りょうしんと名づくるものである。げんえれば、動物の良心りょうしんとは団体だんたい要求ようきゅうにそむいた行為こういをなしたる後、団体だんたい制裁せいさいおそれる個体こたい感覚かんかくぎぬ。ただしこの場合においても、団体だんたいが大きくなるにしたがい以上のごとき関係かんけい漸々ぜんぜん不明瞭ふめいりょうになり、ついには良心りょうしんは全く一種いっしゅ本能ほんのうとして心のそこのこるだけとなつてしまう。
 前にもべたとおり、行為こうい善悪ぜんあく区別くべつのあるのは団体だんたい生活をいとなむ動物のみにかぎられてあるが、さるなどはただ共同きょうどうてきに対して身をまもるの方便ほうべんとして団体だんたいつくっているものゆえ、その団体だんたいは決して永久不変えいきゅうふへんのものではない。数個すうこ団体だんたいが相対立し相敵あいてきしているためにようやく各団体かくだんたい内の個体こたい結合けつごうしているのであるから、てきがなくなったら、団体だんたいはあたかもおけがはずれたのと同じく、たちまちやぶれて数個すうこの小団体だんたい分裂ぶんれつしてしまう。敵国外寇がいこうなければ国たちまちほろびるということは、人間の国にもさる団体だんたいにも同様にあてはまる文句もんくである。また昨日きのうまでは数個すうこ団体だんたいであったものも、共同きょうどう大敵たいてきにあたるために今日は攻守こうしゅ同盟どうめいむすんで、あたかも一大団体だんたいのごとくになることもあり、首尾しゅびよくてきを打ちほろぼせば自然しぜん分裂ぶんれつしてもとのごとくにふくすることもあれば、あちらで二団体だんたい同盟どうめいむすんだのに対して、勢力せいりょく平均へいきんのために、こちらでは三団体だんたい同盟どうめいむすぶこともあって、団体だんたいなるものは世の変遷へんせんにつれてえずその範囲はんいへんずる。されば団体だんたい要求ようきゅうもその時々にへんじ、これを標準ひょうじゅんとした善悪ぜんあくなる、も時によって相異あいことなり、同一の行為こういでも昨日きのうぜんと言われたものが今日は悪となることもあるべきはずである。一例いちれいをあげて見るに甲乙こうおつ団体だんたい相敵あいてきしている間は、こう団体だんたいさるおつ団体だんたいさるころすことはてき戦闘せんとう力をげんずるとの理由でぜんなりとほめられ、もっとも多くころしたさるほど偉勲いくん赫赫かくかくなどと激賞げきしょうせられるが、さらにへいなる大団体だんたい攻撃こうげきうて甲乙こうおつ同盟どうめいしたときには、こう団体だんたいさるおつ団体だんたいさるころすことは、自己じこ同盟どうめいぐん戦闘せんとう力をげんじててきするにあたるゆえ、悪としてばつせられるのである。その行為こういは全く同一でもその事情じじょうによってぜんとも言われ、悪とも言われる標準ひょうじゅんちがうことはこれを見ても明らかであろう。
 共同きょうどうてきにあたるためには団体だんたい同盟どうめいし、同盟どうめいすれば強くなっててきたおすこともできる。てきたおれれば同盟どうめいやぶれ、同盟どうめいやぶれればみなたがいにてきである。動物の団体だんたいはこの順序にしたがうてつねに変遷へんせんするものゆえ、善悪ぜんあく標準ひょうじゅんももとよりこれとともにへんぜざるをない。かくのごとくであるゆえ、団体だんたい生活からはなしてたんにある行為こういのみを取って、ぜんとか悪とかひょうすることはとうてい無意味のことで、団体だんたい生活と関連かんれんしてある行為こういひょうする場合にも、評者ひょうしゃ自身がその団体だんたい内の一員としての資格しかくろんずるときにのみ善悪ぜんあく批評ひひょうができるのである。また個体こたいの集まってれる団体だんたい団体だんたいとの間の行為こういについて言えば、これはあたかも単独たんどく生活をなす動物個体こたい行為こういと同様で、まさった者が勝ち、おとった者が負け、強ければさかえ弱ければほろびること、あたかも水が流れ火がえると同然どうぜんで、ぜんとも悪とも名づくべきかぎりではない。動物界において、個体こたい行為こうい善悪ぜんあくに分けて批評ひひょうすることのできるのは、団体だんたい生活をなす動物の中で、団体だんたい意志いし個体こたい欲情よくじょうとの相矛盾むじゅんする場合だけであるが、かかる場合はさるなどのごとくに、個体こたいはおのおの自分の欲情よくじょうげんとよくしながら、てきに対して身をまも方便ほうべんとして、欲情よくじょうの一部をせいして、ようやく社会を組み立てている動物において見いだすをるものである。
 生物学の一分科として動物の習性しゅうせいを研究する学科を生態せいたい学(Ethologia)と名づけるが、その語原は倫理りんり学(Ethica)と同じく、ともにギリシア語の「習慣しゅうかん」という字からきている。かくのごとくこの二学科は元来同様の性質せいしつのもので、その間にはきわめて深い関係かんけいのあるべきはずなることは名前の上にあらわれているにかかわらず、倫理りんり学者は今日まで動物生態せいたい学を度外どがいしてもっぱら抽象的ちゅうしょうてき議論ぎろんのみをたたかわしていたのであるが、われらの考えるところによれば、倫理りんり学の根柢こんていはぜひともこれを生態せいたい学にもとめなければならぬ。ショペンハウエルは倫理りんりかんする一論文ろんぶんはじめに「道徳どうとく説法せっぽうするはやすく、道徳どうとく根柢こんていを明らかにするはむつかし」と書いたが、従来じゅうらい方法ほうほうで研究している間はいつまでもそのとおりにちがいない。生態せいたい学によって種々の動物の習性しゅうせいを調べ、下等動物より漸々ぜんぜん高等動物にいたる間の習性しゅうせいうつり行きを明らかにし、単独たんどく生活と団体だんたい生活との関係かんけいをさぐつて、ついに人間にまでおよぼせば、ここにはじめて、倫理りんり学の確固かっこたるもとが定まるのであろう。今ここに動物界における善悪ぜんあくについてべたことは、われらの考えの中からもっともわかりやすい二三のれいをあげたにぎぬゆえ、もとよりきわめて不完全ふかんぜんなものではあるが、倫理りんり学と生態せいたい学との間にはなるべからざる関係かんけいのあることだけは、これによって多少明らかに知れるであろう。
(明治三十五年十月)






底本:「進化と人生(上)」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1902(明治35)年12月   動物界に於ける善と悪 「教育学術界」に掲載
校正:
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