動物の私有財産

丘浅次郎




 人間社会では財産ざいさんはきわめて大切なもので、ほとんど生命に次いで貴重きちょうなものというてよろしい。財産ざいさんのない者はささいなことさえも容易よういにはできぬが、財産ざいさんのある者は勝手次第しだいなことをなしてごうもはばからない。ドイツ語で財産ざいさんのことを Vermogen(なしる)と名づけるのは全くこのゆえであろう。こころみに Ein Mann ohne Vermogen(財産ざいさんなき男)と書けば「なしるなき男」とも翻訳ほんやくすることができるが、かくてはもはや人間一人前の資格しかくはない者と見なさねばならぬ。またなおるべきやまい財産ざいさんのないためになおぬこともあり、借金しゃっきんの返せぬために首をくくる男もあって、生命がとおといか財産ざいさんとおといか判然はんぜんせぬごとき場合さえすこぶるしばしばある。財産ざいさんなるものは人間社会ではかくまで重要じゅうようなものであるが、さて他の動物ではいかん。他の動物では財産ざいさんはいかに保護ほごせられ、いかに蓄積ちくせきせられるか、財産ざいさんは何の役に用いられ、また何代目まで相続そうぞくせられるか。人間と他の動物との財産ざいさん制度せいど比較ひかくして見ると、いかなる点まではたがいにあい一致いっちし、いかなる点においてあいことなるか。またそのため人間社会にはいかなる結果けっかが生じたか。われらが今ここにいささかべようと思うのは上のごときしょ問題についてである。
 そもそも私有しゆう財産ざいさんとは天地間に存在そんざいする物の中から、自身一己いっこの用にきょうするために、その一部を区画して占領せんりょうしたもので、他にうばい取られぬためには、つねにこれを完全かんぜん保護ほごしうることが必要ひつようである。いかに自身一己いっこのために用いるつもりであっても、自身にこれをまもることのできぬもの、また相互そうごの間に各自かくじの所有けん尊重そんちょうすべしという約束やくそくり立っておらぬ場合のごときは、決してこれを私有しゆう財産ざいさんと名づけることはできぬ。されば動物にも私有しゆう財産ざいさんを有するものと、有せざるものとあるはもちろんのことで、青葉あおはを食うている芋虫いもむしのごときは、決してその食いつつある一枚いちまいの葉を所有しているとはいわれぬ。なぜというに、他の芋虫いもむしうてきて、これを食い始めても、ふせ方法ほうほうがないからである。しかしながら動物の中にはかくのごとき財産ざいさんのものばかりではない、広く全動物界を見渡みわたせばたしかに財産ざいさんを有する種属しゅぞくもずいぶんたくさんにある。簡単かんたんれいをあげてみるに、一時に多量たりょう人参にんじんさるあたえると、さる最初さいしょの間は実際じっさいこれを咀嚼そしやくしてのみこんでしまうが、一通りはらってからのちは、ただこれを口の中にたくわえ、両側りょうがわの'ほおを風船玉のごとくにふくらして、めこみるだけその中へめこむ。かくさるの'頬嚢ほおぶくろの中にめこまれた人参にんじんは、天地間に存在そんざいする物の一部を区画してそのさる専有せんゆうしているのであって、'ほほの中に完全かんぜん保護ほごせられてあるから、他のさるはいかにしくてもこれをうばい取ることはできず、しかして所有者なるさるはいつでも随意ずいいにこれを食うことができるのであるゆえ、これは純然じゅんぜんたる私有しゆう財産ざいさんである。また犬が牛のほねをかじっているとき急に主人がぶと、食いかけのほねをまず自分の住む箱のわらの下にかくし、それから急いで主人のいるほうへ走って行くのを見かけることが往々おうおうあるが、かかる場合にはこのほねはわらの下にかくされてあるため他の者にうばい去られるうれいはなく、しかも所有者なる犬は帰り次第しだいふたたびこれをかじることができるのであるから、これもたしかに私有しゆう財産ざいさんとみなしてよろしい。私有しゆう財産ざいさんはすべて保護ほごようするが、動物が各自かくじこれを保護ほごするには、つねに自身にこれをたずさえて歩くか、または一定の安全な場所にたくわえておくかの二法にほうよりない。それゆえ、私有しゆう財産ざいさんを有する動物には、さるのごとくにこれをおのれの身体の一部にめこんでいるものと、犬のごとくにおのれのの中にかくしておくものとがある。以下いかこの二種類しゅるいについておのおの若干じやつかんれいをあげてみよう。
 さるの'ほほにある人参にんじんや、犬の寝床ねどこの下にあるほね私有しゆう財産ざいさんぶことは、いかにもぎょうぎょうしいようで、つねに財産ざいさんは何千万円あるとか、ぼう身代しんだいいく百万円あるとかいうことのみを聞きれている読者の耳には、ほとんど滑稽こっけいに聞えるやもしれぬ。しかしながら、およそ、物の真の性質せいしつを知らんとするには、まずそのもっとも簡単かんたんな形を取って研究することが必要ひつようである。かくしてこそ、始めて物の本来の性質せいしつと、その進歩するにともな漸々ぜんぜんくわわってこれを複雑ふくざつならしめた部分との関係かんけいも知れ、したがって全部をあやまりなく了解りょうかいるにいたるのである。画工がこうが人物をかくにあたっても、まず裸体らたいぞう充分じゅうぶんうでみがいておかぬと、衣裳いしょうを着けた姿すがた満足まんぞくけぬのはすなわちこれと同様な理屈りくつであろう。今ここにべんとする動物の私有しゆう財産ざいさんのことは、あたかも財産ざいさん制度せいど裸体らたい画ともいうべきものゆえ、現代げんだい人類じんるい財産ざいさん制度せいどの真意義いぎを調べるにあたっては、まずこれと比較ひかくして見ることがもっとも必要ひつようである。かくしてこそ始めて現代げんだい財産ざいさん制度せいど欠陥けっかん範囲はんい程度ていど明瞭めいりょうになり、その欠陥けっかんのよって起こる原因げんいんもたしかに知れ、その結果けっかとしてこれをあらためる適切てきせつ方法ほうほうをも案出あんしゅつすることができるようになるであろう。
 さてさるのごとくに財産ざいさん自己じこの身体の一部の内にたくわえる動物は、いかなるものがあるかというに、その種類しゅるいはすこぶる多い。外国にさんするねずみるいには、さると同じく両側りょうがわの'ほほの中に穀物こくもつめこむものがあるが、あるねずみでは'ほほふくろ非常ひじょう発達はったつして、くびのところを通りかたへんまでたつしている。かかる種類しゅるいでは、食物をさがし歩いている道で、おりよく多量たりょう穀物こくもつを発見した場合には、はらいっぱいに食うたほかになお数日分の食料しょくりょうを'ほほふくろの中へめこんでおくことができる。次にはとのごとき鳥類ちょうるいでは、'ほほふくろのないかわりに、食道の途中とちゅうに大きなふくろがあって、多量たりょうの豆に出遇であうたときは、まずこのふくろにいっぱいになるまでめこんでおき、はらるにしたごうて順次じゅんじその一部ずつをに送って消化する。このふくろはとむねの前部にあって、ぞく餌嚢えぶくろと名づけるものであるが、切り開いて見るとたくさんの豆が少しも変化へんかせずそのままに貯蔵ちょぞうせられてあるのを発見する。餌嚢えぶくろは'ほほふくろにくらべてたん位置いちが少しく下がっただけでその他には何の相違そういもないゆえ、さるの'ほほぶくろの中の人参にんじん私有しゆう財産ざいさんとみなす以上いじょうは、はと餌嚢えぶくろの中の豆をもむろんこれと同じく私有しゆう財産ざいさんと見なさねばならぬ。また牛や羊のるいでは、食道の下端げたんにあたるところが付属ふぞくしてとくに大きなふくろとなり、一度に多量たりょう牧草ぼくそうをその中にたくわえることができるが、これは元来、広い野原で悠々ゆうゆうと草の葉を咀嚼そしゃくしていては、猛獣もうじゅう襲撃しゅうげきうおそれが多いゆえ、まずなるべく短い時間になるべく多量たりょうの食物を取りみ、ともかくもその所有けん確実かくじつにしておいて、しかる後に安全な場所で緩々ゆるゆるとこれを咀嚼そしゃくるための装置そうちである。上野動物園にうてあるアメリカ駱駝らくだというけものなどは、くびがきわめて細長いゆえ、このふくろの中にたくわえられてある財産ざいさんがときどき一塊いっかいずつ食道を逆行ぎゃっこうして、ふたたび口に出る具合が外から明らかに見える。これらはただ財産ざいさん貯蓄ちょちくするふくろはとにくらべると、さらにいっそう身体のおくったというまでである。またアジア、アフリカの砂漠さばく地方に住む普通ふつう駱駝らくだは、砂漠さばくの船という異名いみょうをさえけられた重宝ちょうほうけもので、周囲しゅういには多数の小嚢しようのうがついてあって、水のたくさんあるとき充分じゅうぶんにその中へたくわえこんでおくゆえ、一回水を飲めばよく十日以上いじょうかわきえることができる。たいを組んで砂漠さばくを旅行する商人らが道にまようてかわきせまったときは、そのつれれてきた駱駝らくだころしてはらの中にある水を飲み、わずかに死をまぬがれることは読本などにも出ている話であるが、かかる場合にのぞんでは一杯いっぱいの水も実に千金万金にもえがたい貴重きちょうなもので、その貴重きちょうなることがわざわいをなして、駱駝らくだは人間の暴力ぼうりょくにより、その私有しゆう財産ざいさんを生命とともにうばい取られるのである。さらに下等な動物かられいを取ると、ひるなどは体の内部はほとんど私有しゆう財産ざいさん貯蔵ちょぞうのみに用いられるというべきほどで、一度充分じゅうぶんに血をいためておけば、ゆうに一年間はこれによって生活していることができる。
 次に体外に私有しゆう財産ざいさんを有する動物のれいをあげると、まず畑に住んで麦作むぎさく大害たいがいをおよぼす畑鼠はたねずみなどがもっとも適例てきれいであろう。このねずみは畑のあぜ道の土中にあなってとなし、麦をかみ切ってはに運んで、だんだん多く貯蓄ちょちくしておき、必要ひつようおうじてこれを食料しょくりょうにあてる。元来身体内に財産ざいさんたくわえる動物では、財産ざいさん貯蓄ちょちくすべき場所にせま制限せいげんがあって、とうてい多額たがく財産ざいさん蓄積ちくせきするわけにはゆかぬが、体外に財産ざいさんたくわえる動物ではかような窮屈きゅうくつ制限せいげんがないゆえ、る道さえあらば、いかほどでも財産ざいさんをためることができる。それゆえ、このねずみなどは麦作むぎさくがいすることが実におびただしいもので、先年茨城いばらぎ県にこのねずみ繁殖はんしょくした時のごときは、その地方に大恐惶きようこうをきたし、毒団子どくだんご撒布さんぷするやら、ねずみ伝染でんせん病の黴菌ばいきんをまくやら、非常ひじょうさわぎをした。またモグラのごときはつねに土中に複雑ふくざつな形のつくり、たくさんの蚯蚓みみずとらえきたってその中へたくわえておくが、蚯蚓みみずを生きたままでおけばうてげるおそれがあり、ころしておけばげぬ代わりに腐敗ふはいする心配があるゆえ、モグラは蚯蚓みみずの頭の先端せんたんのところだけをかみ切り、はいだせぬようにして、捕虜ほりょとしてたくわえおくのである。これらはだれが見てもたしかに立派りっぱ私有しゆう財産ざいさんである。その他にもおよそ動物が一定の場所を定めて、自分の取ってきた物をたくわえておく場合には、すべて私有しゆう財産ざいさんとみなすべきであるゆえ、そのれいを数え上げたらかぎりはない。モズがかえるやイナゴをとらえて食い、あまったものをとがったえだなどにしてはりつけとしておくことは、あまねく人の知っているところであるが、海辺うみべに住むミサゴという一種いっしゅたかはつねに魚類ぎょるいとらえ食い、あまったものはこれを海岸の岩石の水たまりの中にけてめておく。ぞくにミサゴずしと名づけるのはこれである。これらは貯蓄ちょちく者の保護ほごが行きとどかぬゆえ、厳重げんじゅうな意味では私有しゆう財産ざいさんとは言われぬが、しかもよく性質せいしつのものである。
 なお動物がその財産ざいさんを入れておく自身も、私有しゆう財産ざいさんとみなすべきものである。たんに地面にあなをうがったり、岩の下にひそんだりして住んでいる動物の財産ざいさんとは名づけかねるが、小鳥類ことりるいのごとくに、苦心して材料ざいりょうを集め、ていねいに細工をほどこしてつくり上げたは、まさに一の私有しゆう財産ざいさんであって、もし他の鳥がこれに近づけば所有主は極力きょくりょくこれをはいして、決してゆずるごときことはせぬ。とくからすのごときは、多数あい近きところにいとなんでいる場合には、同僚どうりょうの所有けん尊重そんちょうすべしという規約きやく自然しぜん成立せいりつして、万一他のからすから材料ざいりょうぬすんで自分のつくるに用いるような者がある場合には、周囲しゅういの者がり集まってたちまち罪鴉ざいあをつつきころしてしまう。からす社会の秩序ちつじょはかかる峻厳しゅんげんなる制裁せいさいによってつねにたもたれているのであるが、これを見ても、ある動物の社会には私有しゆう財産ざいさんという観念かんねんが明白にそんすることが知れる。
 以上いじょうべたごときれいはいずれも所有主自身の直接ちょくせつの用にきょうするためか、もしくはその一部をさいて子をやしなうために用いる財産ざいさんであるが、なおその他に貯蓄ちょちく者自身にとっては何の役にも立たず、全く子のためにのみ有用な財産ざいさんつくる場合がある。たとえばはちの中で似我蜂ジガバチと名づける種類しゅるいのごときは、日々遠方までびまわって蜘蛛くも、その他の小虫をさがし集め、これをに持ち帰り、たまご一粒ひとつぶごとに若干じやつかんずつをえておくが、このようにしておけば、たとい親は死んでしもうても、たまごからかえった幼虫ようちゅうはただちにかたわらにそなけられてあった食料しょくりょうを食うて速かに成長せいちょうすることができる。昔の人は観察かんさつ粗漏そろうであったゆえ、このはちがかく蜘蛛くもなどをとらえての中へ運び入れておくのを見て、これははち蜘蛛くもやしなうて自分の子とし、われよと命じての中に入れておくと、ついにばかしてはちとなって養親やしないおやあとぐのであろうなどと想像そうぞうをたくましうして、似我蜂じがばちという名前をつけたのである。この場合親が苦労くろうしてつくった財産ざいさんはそのまま子にゆずられ、子はそのおかげによって安楽に成長せいちょうし、ついに独立どくりつ生活をなしうる程度ていどまでに発達はったつするのである。またにわとりなどは似我蜂じがばちのごとくにとくえさとなるべき虫をたまごのそばにえてはおかぬが、その代わり親鳥が自身に多くのえさを食して、その中の滋養じよう分だけをし取って、たまごの中へめてむのであるから、これを似我蜂じがばちにくらべると一は粗製そせいのままの滋養じよう物、一は精製せいせいしたる滋養じよう物を子に供給きょうきゅうするのであって、その間の相違そういは、あたかも潰餡つぶしあん漉餡こしあんとの相違そういぎぬ。さればかく比較ひかくして見るに、鶏卵けいらん内の黄身もまた親から子にゆず一種いっしゅ私有しゆう財産ざいさん変形へんけいとみなすことができる。
 今までべた僅少きんしょうれいによっても明らかに知れるとおり、動物には私有しゆう財産ざいさんを有するものがすこぶる多くあり、かつ私有しゆう財産ざいさんは親より子にゆずられうるものであるが、動物の種類しゅるいの数は百万以上いじょうもあることゆえ、その中から私有しゆう財産ざいさんを有する動物のれいもとめたならばほとんど際限さいげんはない。しかしながら普通ふつうに人の知らぬような動物の名を数多くならげるのは、たんに読者の倦怠けんたいをうながすにぎぬゆえ、他のれいをあげることは全く省略しょうりゃくして、これよりは人間と他の動物との財産ざいさん制度せいど比較ひかくしてその異同いどうの点をべ、あわせてその得失とくしつ優劣ゆうれつろんじてみよう。
 第一、私有しゆう財産ざいさんんとするため、相互そうごの間にはげしき競争きょうそうの起こるをまぬがれぬは、人間でも他の動物でも全く同様である。この点については人間と他の動物との間にごう相違そういはない。人間が私有しゆう財産ざいさんんとして日夜だまし合い、たたき合い、ののしり合い、ころし合うていることは今日の世の中の常態じょうたいで、だれも目前に見ている事実であるが、他の動物とても理屈りくつは少しもちがわぬ。たとえば一定量いっていりょう人参にんじんのあるところへさるが集まってきたとすれば、さるはおのおの自分のはら充分じゅうぶんたした上に、なお'ほほふくろへもいっぱいにめこもうとするから、いきお人参にんじんの取り合いのためにはげしいあらそいが起こらざるをえない。世の中には、今日生存せいぞんのために人々が競争きょうそうするのは社会の制度せいど不完全ふかんぜんなるゆえである。社会の制度せいど改良かいりょうさえすれば、競争きょうそう必要ひつようがなくなるなどととなえて、生存せいぞん競争きょうそうのない世の中を夢想むそうしている人もあるが、これは全く人間本来の性質せいしつ誤解ごかいしたために起こるあやまりで、もとよりごう根拠こんきょのない空論くうろんぎぬ。人間の性質せいしつとして、かれほっする物をわれが持つか、われほっするものをかれが持つかすれば、たちまちあらそいの起こるは当然とうぜんのことで、このことは三歳さんさい四歳よんさい子供こどもらに数種すうしゅ玩具がんぐを分かちあたえても明らかに知れるが、生まれながらにしてかかる性質せいしつそなえた人間が、多数あい集まって生活しているのであるから、社会の制度せいどばかりをいかにあらためたりとて、あらそいのたええるのぞみはとうていない。その上「金持と灰吹はいふきとはたまるほどきたない」ということわざのとおり、人間のよくには決して際限さいげんがないゆえ、あたかも無限むげん大の'ほほふくろを有するさるのごとくで、その間のあらそいのはげしくかつ長かるべきはもとより覚悟かくごしなければならぬ。動物の中にははちありのごとく、もしくは苔虫こけむしのごとく、一団体いちだんたい内の個体こたい間に少しもあらそいのないものがあるが、これらの動物はそれぞれ一定の進化の順路じゅんろて、今日のありさままでに発達はったつしきたったのであるゆえ、今の人間が一足びにその真似まねをしようとのぞむのは、まことに無理むりな注文である。
 次に私有しゆう財産ざいさん不平等ふびょうどうなること、およびその不平等ふびょうどうならざるべからざる理由も、人間と他の動物との間に少しも相違そういはない。同じモグラ同志どうしの間にも嗅感きゆうかんするどい土をることのたくみな者もあれば、また嗅感きゅうかんのややにぶい、土をることのややせつな者もあろうが、これらが同一の蚯蚓みみずを追うにあたっては、前者がまずこれをとらえておのれの財産ざいさんくわえ、後者はただ無益むえき労働ろうどうをしたのみでごうるところのなかるべきは当然とうぜんである。また一匹いっぴきのモグラが終日はたらいて蚯蚓みみずとらえて歩く間に、他の一匹いっぴきがなまけての内にていたならば、この二者の間には、収入しゅうにゅうに多大の差異さいの生ずるはもちろんのことである。また一匹いっぴきのモグラが左に向うてあなをうがち偶然ぐうぜん多数の蚯蚓みみずり当てたに反し、他の一匹いっぴきは右に向うてあなをうがったために不幸ふこうにもついに一匹いっぴき蚯蚓みみずにも出あわぬというごとき場合も往々おうおうあろう。かくのごとく動物の私有しゆう財産ざいさんなるものは、各自かくじ生来しょうらい体質たいしつ優劣ゆうれつによっても、また各自かくじ日々の勤惰きんだによっても、また偶然ぐうぜんの運不運ふうんによっても、不平等ふびょうどうならざるべからざる理由は明白である。人間もこの規則きそくれず、体質たいしつのすぐれた者、勤勉きんべんなる者、運のよき者が、体質たいしつおとった者、怠惰たいだなる者、運の悪き者にしていっそう多くの財産ざいさん蓄積ちくせきし使用すべきはもとよりことわり当然とうぜんで、万人が万人ことごとく財産ざいさんを平等にするというごときは、とうていできぬことである。世の中には不平等ふびょうどう私有しゆう財産ざいさんせいを全くはいして財産ざいさんをすべて共有きょうゆうとし、頭割あたまわりりだけずつ平均へいきんにこれを使用することを理想としている人もあるが、これは現実げんじつの世には行なわるべからざる一種いっしゅゆめぎぬ。人間は社会てき動物であって、社会をはなれては一日も満足まんぞくに生活ができぬことはだれも知るところであるが、はちあり、もしくは苔虫こけむしのごとき完結かんけつした社会生活をいとなむ動物に比較ひかくしてみると、その社会せいはいたって低度ていどなもので、とうていかれらのごとき純然じゅんぜんたる団体だんたい生活をいとなむにはてきしない。入りみの座敷ざしきで食事をするさい衝立ついたてをもってさかいつくるのを見ても、借家しゃくや二軒にけんならべててれば、かならずその間に目隠めかくしとしょうする板塀いたべいつくるのを見ても、また新たに邸宅ていたくをかまえた人が、その周囲しゅうい監獄かんごくぜんたる煉瓦れんがかべをめぐらして外界との連絡れんらくつのを見ても、人間には相互そうご排斥はいせきする本能ほんのうのいちじるしくそんしていることが知れるが、かかる根性こんじょうが生まれながらにそんする間は、財産ざいさんを全く共有きょうゆうにするごときことはすこぶるおぼつかない。
 次に私有しゆう財産ざいさんは何代目までゆずられるかというと、この点については人間と他の動物との間にはいちじるしい相違そういがある。私有しゆう財産ざいさんを子にゆずる動物のあることは前にもべたが、かかる動物では財産ざいさんはただ子の代までつたわるだけで、決してその先のまご曾孫ひまごの代までにはおよばぬ。しかして子につたわるというても、たんに子がひととおり成長せいちょうして生存せいぞん競争きょうそう場裡じょうりに打って出られるようになるまでの間、これをやしなうの用をなすのみで、決して子が一生涯いっしょうがいその恩沢おんたくをこうむって安逸あんいつらすというごときことはない。動物では親が子の世話をするのは、子が成長せいちょうし終わるまでの間にかぎられていて、その以上いじょうまで保護ほごするごときことは決してしないのである。それゆえ、動物では生存せいぞんのための競争きょうそうがいたって公平で、筋肉きんにく神経しんけい等のまさった者と、筋肉きんにく神経しんけい等のおとった者とが競争きょうそうする場合には、前者はかならず勝ち、後者はかならける。先祖せんぞよりゆずられた財産ざいさんによって神経しんけい筋肉きんにくともにおとった者がおごりさかえ、神経しんけい筋肉きんにくともにまさった者がそのため苦しめしいたげられるというような不条理ふじょうりきわまることは、他の動物では決して見ることはできぬ。五尺ごしゃくの身体が完全かんぜん発達はったつし終わってからも、なお親のすねをかじって安逸あんいつに世をわたる息子、祖父そふつくった身代を受けぎながら道楽をつくして、ついに売家と唐様からようで書くまごなどは、実に人間社会の特産物とくさんぶつである。
 なお人間社会にのみそんして、他の動物には決してない特殊とくしゅ財産ざいさん制度せいどは、物をして利子りしを取ることである。これは人間と他の動物との財産ざいさん制度せいど絶対的せったいてき相違そういする点で、根本から全くことなっているゆえ、動物界にはこれに比較ひかくすべき何らのものもない。ある雑誌ざっしに、ある時あるところで学者れんが集まって「人とは何ぞや」という問題をろんじていたさいに、そこにいあわせたこう法学ほうがく博士はかせが「人とは借金しゃっきんはらう動物なり」と言うたところが、そばにいたおつ法学ほうがく博士はかせが「いや、人は借金しゃっきん利子りしはらう動物なり」と言うたので一座いちざ哄笑こうしようしたという逸話いつわせてあったが、実に利子りしはらうたり取ったりする動物は、人間以外いがいには一種いっしゅもない。したがって他の動物には金貸かねかしし、地主、資本しほん家などのごとき、懐手ふところでをしながら贅沢ぜいたくらす階級は決して見いだすことはできぬ。人間社会では一度ある手段しゅだんによって、一定いっていがく財産ざいさんつくっておきさえすれば、自分の一代はもとより未来みらい永劫えいごういく百代のすえまでもはたらかずに食うてゆくことができて、なおその上に財産ざいさん追々おいおいえるということを、他の動物らが聞き知ったならば、いかに不可思議ふかしぎに感ずるであろうか。ある数からある数をげんずれば、そののこりはもとがくよりは少ないという数学上の明白な原理に反して、つかうてもつかうても少しもらぬのみか、なおその上に増加ぞうかしてゆくとは、実に天地間にこれほど不思議ふしぎなことはないであろう。
 さて以上いじょうべたとおり、人間と他の動物との財産ざいさん制度せいど上の相違そういの点は主として、子孫しそんが親の遺産いさん恩沢おんたくよくする程度ていど相違そういと、物をして利子りしを取る制度せいど有無うむとの二つである。しかももし利子りしを取るという制度せいどがなかったならば、いかに刻苦こっく勉励べんれいしても今日の富豪ふごうの有するごとき莫大ばくだい財産ざいさんを一代につくることはとうてい不可能ふかのうで、たとい巨万きょまん財産ざいさんつみたとしても、子孫しそんはたらかずに食いらせばたちまち消滅しょうめつするゆえ、数代も数十代も後の子孫しそんまでが、懐手ふところで贅沢ぜいたくらせるということはないから、人間と他の動物との財産ざいさん制度せいど上の相違そういは、まるところ、利子りしを取るか取らぬかという一点に帰するのである。
 そもそも物をして利子りしを取るという制度せいどがなにゆえに人間社会にのみあって、他の動物には全くないかというに、これは動物は何をなすにもたんに手足のごとき身体の部分を用いるのみなるに反し、人間はすべて道具を用いるに基因きいんすることである。人間は実に「道具を用いる動物」という定義ていぎをくだしてもよろしいほどで、汽車、汽船のごとき大きな道具はしばらくおき、口へめしを入れるにもはしを用い、背中せなかのかゆいところをくにも「まごの手」と名づける道具を用いるが、他の動物ではたださるが石を用いて胡桃くるみるとか、ぞうえだを用いてはえを追うとかいうごとき僅少きんしょう例外れいがいのぞけば、道具を用いるものは皆無かいむである。しかして人間が道具を用いる以上いじょうは、人と道具との二者がそろうてはじめて、仕事ができるのであるゆえ、もし一人が他人より道具をりてある物を収穫しゅうかくしえた場合には、これに対して相応そうおう報酬ほうしゅうおくるは当然とうぜんのことと思われる。たとえばこうおつより釣竿つりざおりて若干じゃっかんの魚をつりりえたならば、そのうち何匹なんびきかを釣竿つりざおりた礼としておくるであろうが、これがすなわち釣竿つりざおなる財産ざいさんに対する利子りしである。かくのごとき次第しだいであるゆえ、物をして利子りしをえるという制度せいどは、そのもっとも簡単かんたんなる場合についてろんずると、全くことわりにかのうたことで、ごう非難ひなんすべき点がないようにみえる。
 しかしながらこの制度せいどをどこまでも際限さいげんなく許容きょようしたならば、いかなる結果けっかを生ずるであろうかというに、これは現今げんこんの世のありさまが証明しょうめいしてあまりあるごとく、貧富ひんぷ懸隔けんかくが年とともにますますはなはだしくなって、富者ふしゃは遊んで贅沢ぜいたくらしても、ますますとみし、貧者ひんしゃはいかに日夜苦しんではたらいても貧苦ひんくさかいだっしえられぬという不条理ふじょうりきわまる状態じょうたいにおちいるのである。富者ふしゃの今日受け取った利子りしは明日からは基金ききんくわえられ、これに対してまた利子りしがついて、増加ぞうかりつが始終進んでゆくゆえ、あたかも物体が地面に向こうて落ちきたるときに、一秒ごとに速力を増加ぞうかするごとくに、たちまちおどろくべき巨額きょがくたつする。戦乱せんらん絶間たえまなき騒動そうどう時代や、専制せんせい政治せいじの行なわれた半開時代などには、人の生命にも財産ざいさんにもたしかな保障ほしょうがないゆえ、とうてい一人が巨万きょまんとみするにいたりがたい事情じじょうがあるが、だんだん世が進んで憲法けんぽうもでき、生命財産ざいさんともにやや安全となり、いかに巨万きょまんとみんでも、法律ほうりつによって保護ほごせられるようになってからは、いったん何らかの方法ほうほうしたがってとみつくったものはますます財産ざいさん増加ぞうかするばかりである。このことは米国などのありさまを見ればきわめて明白に知れる。しかして一人を富豪ふごうならしめるためには、数百万人がその犠牲ぎせいとなって、貧苦ひんくにおちいらねばならぬことは計算上明らかなことわりであるゆえ、一方に少数の者が巨万きょまんとみむ間には、他方においてはいく千万の人間は漸々ぜんぜん貧困ひんこんとなりうえせまられてはだんだん安い給金きゅうきんにもあまんじて、牛馬のごとくに労働ろうどうせざるをず、ついには露命ろめいをつなぐことさえ容易よういでなくなる。かかる状態じょうたいの世の中は、これを他物にたとえて言えば、あたかも贅沢ぜいたく美麗びれいをつくした重い馬車に少数の客を乗せ、数百千人の者が馬の代わりにこれをひいたり、したりして坂路さかみちを登ってゆくようなものである。
 現時げんじの世の中はほぼかかるありさまであるゆえ、これに対して不満ふまんの声の聞えるのは当然とうぜんのことで、ごうあやしむには足らぬ。車をひくものが車上の客をながめて、かれも人なり、われも人なり、とくにわれのほうが筋力きんりょく知識ちしきもかれにしてははるかに優等ゆうとうである。しかるにかれはかく安楽に贅沢ぜいたくらし、われはかくあえぎ苦しまなければならぬのはいかなる理由によるかと考え出しては、一刻いっこく不平ふへいなきわけにはゆかぬ。それゆえ、今日いずれの文明国にもかかる議論ぎろんの起こらぬところはない。虚無党きょむとうといい、社会党しゃかいとうといいアナーキストといいイルレデンタといい、名称めいしょう種々しゅしゅで理想とするところもさまざまではあるが、現代げんだいに対するえがたき不満ふまんねんかたまって、ついに表面にあらわれたものなることだけは同じである。
 不満ふまんねんがつのり、罪悪ざいあくがふえ、風俗ふうぞく堕落だらくするのを救済きゅうさいするには、いかなる手段しゅだんを取るべきかとは、世をうれうる人のすこぶる苦心している問題であるが、この間題に答えるには、まずそのよって起こる原因げんいんまでさかのぼらねばならぬ。われらの考えによると、この原因げんいんは二つあって、一はよくかぎりなく深くて、他人の迷惑めいわくごうかえりみぬという人間生来しょうらい性質せいしつ、一は現今げんこんの社会の制度せいど無理むりな点があることである。前者のほうは人間が持って生まれる性質せいしつであって、これを根本てき削除さくじょすることはもとより不可能ふかのうであるゆえ、ただたんにだましたり、おどしたり、おだてたり、ばつしたりして制御せいぎょしておくほかに道はないが、これをなすにあたって社会制度せいど無理むりな点があると大なるさまたげを受ける。「地獄じごく沙汰さたも金次第しだい」ということわざさえある世の中に、貧富ひんぷ懸隔けんかくがはなはだしくなって、金のありあまる富豪ふごうと、金のためにはいかなるはじをもしの貧民ひんみんとがあいならんで住めば、富者ふしゃが悪事をしても金の威光いこうばつせられず、不正ふせいなことをしても金の権力けんりょく制裁せいさいをまぬがれるごとき場合がしばしば生ずるが、悪事がばつを受けず、不正ふせいなことが制裁せいさいをまぬがれる実例じつれいをしばしばの前に見ると、悪を悪と感ずる世の人の心が次第しだいにぶり、ついには悪をさまで悪と思わぬようになり、これをなさぬ者をかえってばか正直なるごとくに考えるにいたる。また二宮尊徳そんとくなどをかつぎ出して、とみ勤倹きんけん貯蓄ちょちくによってられるものなることをき聞かせても、ながら巨額きょがく収入しゅうにゅうる者の実例じつれいの前にある以上いじょうは、人間の弱点として、やはりぬれ手であわ一掴いつかく千金をゆめみるようになるのもよんどころないことで、ついには実着な勧業かんぎょうよしとする博覧会はくらんかいでさえ、福引でなければ客が集まらぬごときいやしい風俗ふうぞくが生ずるのである。
 人口が増加ぞうかすれば、生活の困難こんなんし、生活なんがはげしくなれば、貧富ひんぷ懸隔けんかくに対する不平ふへいねん増進ぞうしんする。また列国と対立してゆくには教育をさかんにしなければならぬが、教育が進めば、不平ふへいを感ずる力もだんだん鋭敏えいびんになる。書物が読めてめしが食えぬ人が一人でも多くせば、それだけ現代げんだいに対する不満ふまんの声の高くなるのは、どこの国でも同一轍どういつてつである。されば今日のままの制度せいどでは、いかにしても現代げんだいに対する不平ふへい不満ふまんねんをのぞくことができぬのみならず、そのますます増加ぞうかするのを傍観ぼうかんしていなければならぬ。人間はこれをふせぐために倫理りんり、教育、宗教しゅうきょう等のかく方面から世俗せぞく改善かいぜんしようとつとめるであろうが、上述じょうじゅつのごとき原因げんいんそんする以上いじょうはその効力こうりょくいきおい一定の範囲はんい内にかぎられて、とうてい充分じゅうぶんこうそうすることはできぬ。世は澆季ぎようきなりとは昔より今までつねに人の言うことであるが、世のつねに澆季ぎょうぎなるは、あたかも黴菌ばいきん自己じこ繁殖はんしょくのために生じた酸類さんるいのために苦しむごとくに、自己じこ発達はったつともなうて生じた固有こゆう制度せいどのために苦しんでいるのにあたるゆえ、まずまぬがれがたい運命とでも思うてあきらめるのほかはなかろう。
(明治四十年七月)


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底本:「進化と人生(下)丘浅次郎集」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1907(明治40)年9月  太陽
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