人間社会では
財産はきわめて大切なもので、ほとんど生命に次いで
貴重なものというてよろしい。
財産のない者はささいなことさえも
容易にはできぬが、
財産のある者は勝手
次第なことをなして
毫もはばからない。ドイツ語で
財産のことを
Vermogen(なし
得る)と名づけるのは全くこのゆえであろう。
試みに
Ein Mann ohne
Vermogen(
財産なき男)と書けば「なし
得るなき男」とも
翻訳することができるが、かくてはもはや人間一人前の
資格はない者と見なさねばならぬ。また
治るべき
病も
財産のないために
治し
得ぬこともあり、
借金の返せぬために首をくくる男もあって、生命が
貴いか
財産が
貴いか
判然せぬごとき場合さえすこぶるしばしばある。
財産なるものは人間社会ではかくまで
重要なものであるが、さて他の動物ではいかん。他の動物では
財産はいかに
保護せられ、いかに
蓄積せられるか、
財産は何の役に用いられ、また何代目まで
相続せられるか。人間と他の動物との
財産制度を
比較して見ると、いかなる点までは
互いに
相一致し、いかなる点において
相異なるか。またそのため人間社会にはいかなる
結果が生じたか。われらが今ここにいささか
述べようと思うのは上のごとき
諸問題についてである。
そもそも
私有財産とは天地間に
存在する物の中から、自身
一己の用に
供するために、その一部を区画して
占領したもので、他に
奪い取られぬためには、つねにこれを
完全に
保護しうることが
必要である。いかに自身
一己のために用いるつもりであっても、自身にこれを
護ることのできぬもの、また
相互の間に
各自の所有
権を
尊重すべしという
約束の
成り立っておらぬ場合のごときは、決してこれを
私有財産と名づけることはできぬ。されば動物にも
私有財産を有するものと、有せざるものとあるはもちろんのことで、
菜の
青葉を食うている
芋虫のごときは、決してその食いつつある
一枚の葉を所有しているとはいわれぬ。なぜというに、他の
芋虫が
匍うてきて、これを食い始めても、
防ぐ
方法がないからである。しかしながら動物の中にはかくのごとき
無財産のものばかりではない、広く全動物界を
見渡せばたしかに
財産を有する
種属もずいぶんたくさんにある。
簡単な
例をあげてみるに、一時に
多量の
人参を
猿に
与えると、
猿は
最初の間は
実際これを
咀嚼してのみこんでしまうが、一通り
腹が
張ってからのちは、ただこれを口の中にたくわえ、
両側の'
頬を風船玉のごとくにふくらして、
詰めこみ
得るだけその中へ
詰めこむ。かく
猿の'
頬嚢の中に
詰めこまれた
人参は、天地間に
存在する物の一部を区画してその
猿が
専有しているのであって、'
頬の中に
完全に
保護せられてあるから、他の
猿はいかに
欲しくてもこれを
奪い取ることはできず、しかして所有者なる
猿はいつでも
随意にこれを食うことができるのであるゆえ、これは
純然たる
私有財産である。また犬が牛の
骨をかじっているとき急に主人が
呼ぶと、食いかけの
骨をまず自分の住む箱のわらの下にかくし、それから急いで主人のいるほうへ走って行くのを見かけることが
往々あるが、かかる場合にはこの
骨はわらの下にかくされてあるため他の者に
奪い去られるうれいはなく、しかも所有者なる犬は帰り
次第ふたたびこれをかじることができるのであるから、これもたしかに
私有財産とみなしてよろしい。
私有財産はすべて
保護を
要するが、動物が
各自これを
保護するには、つねに自身にこれを
携えて歩くか、または一定の安全な場所に
貯えておくかの
二法よりない。それゆえ、
私有財産を有する動物には、
猿のごとくにこれをおのれの身体の一部に
詰めこんでいるものと、犬のごとくにおのれの
巣の中にかくしておくものとがある。
以下この二
種類についておのおの
若干の
例をあげてみよう。
猿の'
頬にある
人参や、犬の
寝床の下にある
骨を
私有財産と
呼ぶことは、いかにもぎょうぎょうしいようで、つねに
其の
財産は何千万円あるとか、
某の
身代は
幾百万円あるとかいうことのみを聞き
慣れている読者の耳には、ほとんど
滑稽に聞えるやもしれぬ。しかしながら、およそ、物の真の
性質を知らんとするには、まずそのもっとも
簡単な形を取って研究することが
必要である。かくしてこそ、始めて物の本来の
性質と、その進歩するに
伴い
漸々付け
加わってこれを
複雑ならしめた部分との
関係も知れ、したがって全部を
誤りなく
了解し
得るにいたるのである。
画工が人物をかくにあたっても、まず
裸体の
像で
充分に
腕を
磨いておかぬと、
衣裳を着けた
姿が
満足に
画けぬのはすなわちこれと同様な
理屈であろう。今ここに
述べんとする動物の
私有財産のことは、あたかも
財産制度の
裸体画ともいうべきものゆえ、
現代人類の
財産制度の真
意義を調べるにあたっては、まずこれと
比較して見ることがもっとも
必要である。かくしてこそ始めて
現代の
財産制度の
欠陥の
範囲、
程度も
明瞭になり、その
欠陥のよって起こる
原因もたしかに知れ、その
結果としてこれを
改める
適切な
方法をも
案出することができるようになるであろう。
さて
猿のごとくに
財産を
自己の身体の一部の内に
貯える動物は、いかなるものがあるかというに、その
種類はすこぶる多い。外国に
産する
鼠の
類には、
猿と同じく
両側の'
頬の中に
穀物を
詰めこむものがあるが、ある
鼠では'
頬の
嚢が
非常に
発達して、
頸のところを通り
越し
肩の
辺まで
達している。かかる
種類では、食物を
探し歩いている道で、
折よく
多量の
穀物を発見した場合には、
腹いっぱいに食うたほかになお数日分の
食料を'
頬の
嚢の中へ
詰めこんでおくことができる。次に
鳩のごとき
鳥類では、'
頬に
嚢のないかわりに、食道の
途中に大きな
嚢があって、
多量の豆に
出遇うたときは、まずこの
嚢にいっぱいになるまで
詰めこんでおき、
腹の
減るにしたごうて
順次その一部ずつを
胃に送って消化する。この
嚢は
鳩の
胸の前部にあって、
俗に
餌嚢と名づけるものであるが、切り開いて見るとたくさんの豆が少しも
変化せずそのままに
貯蔵せられてあるのを発見する。
餌嚢は'
頬嚢にくらべて
単に
位置が少しく下がっただけでその他には何の
相違もないゆえ、
猿の'
頬嚢の中の
人参を
私有財産とみなす
以上は、
鳩の
餌嚢の中の豆をもむろんこれと同じく
私有財産と見なさねばならぬ。また牛や羊の
類では、食道の
下端にあたるところが
胃に
付属して
特に大きな
嚢となり、一度に
多量の
牧草をその中に
貯えることができるが、これは元来、広い野原で
悠々と草の葉を
咀嚼していては、
猛獣の
襲撃に
遇うおそれが多いゆえ、まずなるべく短い時間になるべく
多量の食物を取り
込み、ともかくもその所有
権を
確実にしておいて、しかる後に安全な場所で
緩々とこれを
咀嚼し
得るための
装置である。上野動物園に
飼うてあるアメリカ
駱駝という
獣などは、
頸がきわめて細長いゆえ、この
嚢の中に
貯えられてある
財産がときどき
一塊ずつ食道を
逆行して、ふたたび口に出る具合が外から明らかに見える。これらはただ
財産を
貯蓄する
嚢が
鳩にくらべると、さらにいっそう身体の
奥に
移ったというまでである。またアジア、アフリカの
砂漠地方に住む
普通の
駱駝は、
砂漠の船という
異名をさえ
付けられた
重宝な
獣で、
胃の
周囲には多数の
小嚢がついてあって、水のたくさんあるとき
充分にその中へ
貯えこんでおくゆえ、一回水を飲めばよく十日
以上も
渇に
堪えることができる。
隊を組んで
砂漠を旅行する商人らが道に
迷うて
渇に
迫ったときは、その
連れてきた
駱駝を
殺して
腹の中にある水を飲み、わずかに死をまぬがれることは読本などにも出ている話であるが、かかる場合に
臨んでは
一杯の水も実に千金万金にも
代えがたい
貴重なもので、その
貴重なることが
禍をなして、
駱駝は人間の
暴力により、その
私有財産を生命とともに
奪い取られるのである。さらに下等な動物から
例を取ると、
蛭などは体の内部はほとんど
私有財産の
貯蔵のみに用いられるというべきほどで、一度
充分に血を
吸いためておけば、ゆうに一年間はこれによって生活していることができる。
次に体外に
私有財産を有する動物の
例をあげると、まず畑に住んで
麦作に
大害をおよぼす
畑鼠などがもっとも
適例であろう。この
鼠は畑のあぜ道の土中に
穴を
掘って
巣となし、麦をかみ切っては
巣に運んで、だんだん多く
貯蓄しておき、
必要に
応じてこれを
食料にあてる。元来身体内に
財産を
貯える動物では、
財産を
貯蓄すべき場所に
狭い
制限があって、とうてい
多額の
財産を
蓄積するわけにはゆかぬが、体外に
財産を
貯える動物ではかような
窮屈な
制限がないゆえ、
獲る道さえあらば、いかほどでも
財産をためることができる。それゆえ、この
鼠などは
麦作を
害することが実におびただしいもので、先年
茨城県にこの
鼠の
繁殖した時のごときは、その地方に大
恐惶をきたし、
毒団子を
撒布するやら、
鼠の
伝染病の
黴菌をまくやら、
非常な
騒ぎをした。またモグラのごときはつねに土中に
複雑な形の
巣を
造り、たくさんの
蚯蚓を
捕えきたってその中へたくわえておくが、
蚯蚓を生きたままでおけば
匍うて
逃げるおそれがあり、
殺しておけば
逃げぬ代わりに
腐敗する心配があるゆえ、モグラは
蚯蚓の頭の
先端のところだけをかみ切り、はいだせぬようにして、
捕虜として
蓄えおくのである。これらは
誰が見てもたしかに
立派な
私有財産である。その他にもおよそ動物が一定の場所を定めて、自分の取ってきた物をたくわえておく場合には、すべて
私有財産とみなすべきであるゆえ、その
例を数え上げたら
限りはない。モズが
蛙やイナゴを
捕えて食い、あまったものをとがった
樹の
枝などに
刺して
磔としておくことは、あまねく人の知っているところであるが、
海辺に住むミサゴという
一種の
鷹はつねに
魚類を
捕え食い、
余ったものはこれを海岸の岩石の水たまりの中に
漬けて
蓄めておく。
俗にミサゴ
鮓と名づけるのはこれである。これらは
貯蓄者の
保護が行き
届かぬゆえ、
厳重な意味では
私有財産とは言われぬが、しかもよく
似た
性質のものである。
なお動物がその
財産を入れておく
巣自身も、
私有財産とみなすべきものである。
単に地面に
孔をうがったり、岩の下にひそんだりして住んでいる動物の
巣は
財産とは名づけかねるが、
小鳥類のごとくに、苦心して
材料を集め、ていねいに細工を
施して
造り上げた
巣は、まさに一の
私有財産であって、もし他の鳥がこれに近づけば所有主は
極力これを
排して、決してゆずるごときことはせぬ。
特に
鴉のごときは、多数
相近きところに
巣を
営んでいる場合には、
同僚の所有
権を
尊重すべしという
規約が
自然に
成立して、万一他の
鴉の
巣から
材料を
盗んで自分の
巣を
造るに用いるような者がある場合には、
周囲の者が
寄り集まってたちまち
罪鴉をつつき
殺してしまう。
鴉社会の
秩序はかかる
峻厳なる
制裁によってつねに
保たれているのであるが、これを見ても、ある動物の社会には
私有財産という
観念が明白に
存することが知れる。
以上述べたごとき
例はいずれも所有主自身の
直接の用に
供するためか、もしくはその一部をさいて子を
養うために用いる
財産であるが、なおその他に
貯蓄者自身にとっては何の役にも立たず、全く子のためにのみ有用な
財産を
造る場合がある。たとえば
蜂の中で
似我蜂と名づける
種類のごときは、日々遠方まで
飛びまわって
蜘蛛、その他の小虫をさがし集め、これを
巣に持ち帰り、
卵一粒ごとに
若干ずつを
添えておくが、このようにしておけば、たとい親は死んでしもうても、
卵からかえった
幼虫はただちにかたわらに
備え
付けられてあった
食料を食うて速かに
成長することができる。昔の人は
観察が
粗漏であったゆえ、この
蜂がかく
蜘蛛などを
捕えて
巣の中へ運び入れておくのを見て、これは
蜂が
蜘蛛を
養うて自分の子とし、
我に
似よと命じて
巣の中に入れておくと、ついに
化して
蜂となって
養親の
跡を
継ぐのであろうなどと
想像をたくましうして、
似我蜂という名前をつけたのである。この場合親が
苦労して
造った
財産はそのまま子にゆずられ、子はそのおかげによって安楽に
成長し、ついに
独立生活をなしうる
程度までに
発達するのである。また
鶏などは
似我蜂のごとくに
特に
餌となるべき虫を
卵のそばに
添えてはおかぬが、その代わり親鳥が自身に多くの
餌を食して、その中の
滋養分だけを
漉し取って、
卵の中へ
込めて
産むのであるから、これを
似我蜂にくらべると一は
粗製のままの
滋養物、一は
精製したる
滋養物を子に
供給するのであって、その間の
相違は、あたかも
潰餡と
漉餡との
相違に
過ぎぬ。さればかく
比較して見るに、
鶏卵内の黄身もまた親から子に
譲る
一種の
私有財産の
変形とみなすことができる。
今まで
述べた
僅少の
例によっても明らかに知れるとおり、動物には
私有財産を有するものがすこぶる多くあり、かつ
私有財産は親より子に
譲られうるものであるが、動物の
種類の数は百万
以上もあることゆえ、その中から
私有財産を有する動物の
例を
求めたならばほとんど
際限はない。しかしながら
普通に人の知らぬような動物の名を数多く
並べ
掲げるのは、
単に読者の
倦怠をうながすに
過ぎぬゆえ、他の
例をあげることは全く
省略して、これよりは人間と他の動物との
財産制度を
比較してその
異同の点を
述べ、あわせてその
得失、
優劣を
論じてみよう。
第一、
私有財産を
獲んとするため、
相互の間にはげしき
競争の起こるをまぬがれぬは、人間でも他の動物でも全く同様である。この点については人間と他の動物との間に
毫も
相違はない。人間が
私有財産を
獲んとして日夜だまし合い、たたき合い、ののしり合い、
殺し合うていることは今日の世の中の
常態で、
誰も目前に見ている事実であるが、他の動物とても
理屈は少しも
違わぬ。たとえば
一定量の
人参のあるところへ
猿が集まってきたとすれば、
猿はおのおの自分の
腹を
充分に
満たした上に、なお'
頬の
嚢へもいっぱいに
詰めこもうとするから、
勢い
人参の取り合いのためにはげしい
争いが起こらざるをえない。世の中には、今日
生存のために人々が
競争するのは社会の
制度が
不完全なるゆえである。社会の
制度を
改良さえすれば、
競争の
必要がなくなるなどと
唱えて、
生存競争のない世の中を
夢想している人もあるが、これは全く人間本来の
性質を
誤解したために起こる
謬りで、もとより
毫も
根拠のない
空論に
過ぎぬ。人間の
性質として、
彼の
欲する物を
我が持つか、
我の
欲するものを
彼が持つかすれば、たちまち
争いの起こるは
当然のことで、このことは
三歳四歳の
子供らに
数種の
玩具を分かち
与えても明らかに知れるが、生まれながらにしてかかる
性質を
備えた人間が、多数
相集まって生活しているのであるから、社会の
制度ばかりをいかに
改めたりとて、
争いの
絶える
望みはとうていない。その上「金持と
灰吹とはたまるほど
汚ない」ということわざのとおり、人間の
欲には決して
際限がないゆえ、あたかも
無限大の'
頬嚢を有する
猿のごとくで、その間の
争いのはげしくかつ長かるべきはもとより
覚悟しなければならぬ。動物の中には
蜂、
蟻のごとく、もしくは
苔虫のごとく、
一団体内の
個体間に少しも
争いのないものがあるが、これらの動物はそれぞれ一定の進化の
順路を
経て、今日のありさままでに
発達しきたったのであるゆえ、今の人間が一足
飛びにその
真似をしようと
望むのは、まことに
無理な注文である。
次に
私有財産の
不平等なること、およびその
不平等ならざるべからざる理由も、人間と他の動物との間に少しも
相違はない。同じモグラ
同志の間にも
嗅感の
鋭い土を
掘ることの
巧みな者もあれば、また
嗅感のやや
鈍い、土を
掘ることのやや
拙な者もあろうが、これらが同一の
蚯蚓を追うにあたっては、前者がまずこれを
捕えておのれの
財産に
加え、後者はただ
無益な
労働をしたのみで
毫も
獲るところのなかるべきは
当然である。また
一匹のモグラが終日
働いて
蚯蚓を
捕えて歩く間に、他の
一匹がなまけて
巣の内に
寝ていたならば、この二者の間には、
収入に多大の
差異の生ずるはもちろんのことである。また
一匹のモグラが左に向うて
穴をうがち
偶然多数の
蚯蚓を
掘り当てたに反し、他の
一匹は右に向うて
穴をうがったために
不幸にもついに
一匹の
蚯蚓にも出あわぬというごとき場合も
往々あろう。かくのごとく動物の
私有財産なるものは、
各自生来の
体質の
優劣によっても、また
各自日々の
勤惰によっても、また
偶然の運
不運によっても、
不平等ならざるべからざる理由は明白である。人間もこの
規則に
漏れず、
体質のすぐれた者、
勤勉なる者、運のよき者が、
体質の
劣った者、
怠惰なる者、運の悪き者に
比していっそう多くの
財産を
蓄積し使用すべきはもとより
理の
当然で、万人が万人ことごとく
財産を平等にするというごときは、とうていできぬことである。世の中には
不平等な
私有財産の
制を全く
廃して
財産をすべて
共有とし、
頭割りだけずつ
平均にこれを使用することを理想としている人もあるが、これは
現実の世には行なわるべからざる
一種の
夢に
過ぎぬ。人間は社会
的動物であって、社会を
離れては一日も
満足に生活ができぬことはだれも知るところであるが、
蜂、
蟻、もしくは
苔虫のごとき
完結した社会生活を
営む動物に
比較してみると、その社会
性はいたって
低度なもので、とうていかれらのごとき
純然たる
団体生活を
営むには
適しない。入り
込みの
座敷で食事をする
際に
衝立をもって
境を
造るのを見ても、
借家を
二軒並べて
建てれば、
必ずその間に
目隠しと
称する
板塀を
造るのを見ても、また新たに
邸宅をかまえた人が、その
周囲に
監獄然たる
煉瓦の
壁をめぐらして外界との
連絡を
絶つのを見ても、人間には
相互に
排斥する
本能のいちじるしく
存していることが知れるが、かかる
根性が生まれながらに
存する間は、
財産を全く
共有にするごときことはすこぶるおぼつかない。
次に
私有財産は何代目まで
譲られるかというと、この点については人間と他の動物との間にはいちじるしい
相違がある。
私有財産を子に
譲る動物のあることは前にも
述べたが、かかる動物では
財産はただ子の代まで
伝わるだけで、決してその先の
孫や
曾孫の代までにはおよばぬ。しかして子に
伝わるというても、
単に子がひととおり
成長して
生存競争場裡に打って出られるようになるまでの間、これを
養うの用をなすのみで、決して子が
一生涯その
恩沢をこうむって
安逸に
暮らすというごときことはない。動物では親が子の世話をするのは、子が
成長し終わるまでの間に
限られていて、その
以上まで
保護するごときことは決してしないのである。それゆえ、動物では
生存のための
競争がいたって公平で、
筋肉神経等のまさった者と、
筋肉神経等の
劣った者とが
競争する場合には、前者は
必ず勝ち、後者は
必ず
敗ける。
先祖より
譲られた
財産によって
神経筋肉ともに
劣った者がおごり
栄え、
神経筋肉ともにまさった者がそのため苦しめしいたげられるというような
不条理きわまることは、他の動物では決して見ることはできぬ。
五尺の身体が
完全に
発達し終わってからも、なお親の
脛をかじって
安逸に世を
渡る息子、
祖父の
造った身代を受け
継ぎながら道楽をつくして、ついに売家と
唐様で書く
孫などは、実に人間社会の
特産物である。
なお人間社会にのみ
存して、他の動物には決してない
特殊の
財産制度は、物を
貸して
利子を取ることである。これは人間と他の動物との
財産制度の
絶対的に
相違する点で、根本から全く
異なっているゆえ、動物界にはこれに
比較すべき何らのものもない。ある
雑誌に、ある時あるところで学者
連が集まって「人とは何ぞや」という問題を
論じていた
際に、そこにいあわせた
甲法学博士が「人とは
借金を
払う動物なり」と言うたところが、
側にいた
乙法学博士が「いや、人は
借金の
利子を
払う動物なり」と言うたので
一座哄笑したという
逸話が
載せてあったが、実に
利子を
払うたり取ったりする動物は、人間
以外には
一種もない。したがって他の動物には
金貸し、地主、
資本家などのごとき、
懐手をしながら
贅沢に
暮らす階級は決して見いだすことはできぬ。人間社会では一度ある
手段によって、
一定額の
財産を
造っておきさえすれば、自分の一代はもとより
未来永劫幾百代の
末までも
働かずに食うてゆくことができて、なおその上に
財産が
追々殖えるということを、他の動物らが聞き知ったならば、いかに
不可思議に感ずるであろうか。ある数からある数を
減ずれば、その
残りは
原の
額よりは少ないという数学上の明白な原理に反して、
遣うても
遣うても少しも
減らぬのみか、なおその上に
増加してゆくとは、実に天地間にこれほど
不思議なことはないであろう。
さて
以上述べたとおり、人間と他の動物との
財産制度上の
相違の点は主として、
子孫が親の
遺産の
恩沢に
浴する
程度の
相違と、物を
貸して
利子を取る
制度の
有無との二つである。しかももし
利子を取るという
制度がなかったならば、いかに
刻苦勉励しても今日の
富豪の有するごとき
莫大の
財産を一代に
造ることはとうてい
不可能で、たとい
巨万の
財産を
積み
得たとしても、
子孫が
働かずに食い
減らせばたちまち
消滅するゆえ、数代も数十代も後の
子孫までが、
懐手で
贅沢に
暮らせるということはないから、人間と他の動物との
財産制度上の
相違は、
詰まるところ、
利子を取るか取らぬかという一点に帰するのである。
そもそも物を
貸して
利子を取るという
制度がなにゆえに人間社会にのみあって、他の動物には全くないかというに、これは動物は何をなすにも
単に手足のごとき身体の部分を用いるのみなるに反し、人間はすべて道具を用いるに
基因することである。人間は実に「道具を用いる動物」という
定義をくだしてもよろしいほどで、汽車、汽船のごとき大きな道具はしばらくおき、口へ
飯を入れるにも
箸を用い、
背中のかゆいところを
掻くにも「
孫の手」と名づける道具を用いるが、他の動物ではただ
猿が石を用いて
胡桃を
割るとか、
象が
樹の
枝を用いて
蠅を追うとかいうごとき
僅少の
例外を
除けば、道具を用いるものは
皆無である。しかして人間が道具を用いる
以上は、人と道具との二者がそろうて
初めて、仕事ができるのであるゆえ、もし一人が他人より道具を
借りてある物を
収穫しえた場合には、これに対して
相応の
報酬を
贈るは
当然のことと思われる。たとえば
甲が
乙より
釣竿を
借りて
若干の魚を
釣りえたならば、そのうち
何匹かを
釣竿を
借りた礼として
贈るであろうが、これがすなわち
釣竿なる
財産に対する
利子である。かくのごとき
次第であるゆえ、物を
貸して
利子をえるという
制度は、そのもっとも
簡単なる場合について
論ずると、全く
理にかのうたことで、
毫も
非難すべき点がないようにみえる。
しかしながらこの
制度をどこまでも
際限なく
許容したならば、いかなる
結果を生ずるであろうかというに、これは
現今の世のありさまが
証明して
余りあるごとく、
貧富の
懸隔が年とともにますますはなはだしくなって、
富者は遊んで
贅沢に
暮らしても、ますます
富が
増し、
貧者はいかに日夜苦しんで
働いても
貧苦の
境を
脱しえられぬという
不条理きわまる
状態におちいるのである。
富者の今日受け取った
利子は明日からは
基金に
加えられ、これに対してまた
利子がついて、
増加の
率が始終進んでゆくゆえ、あたかも物体が地面に向こうて落ちきたるときに、一秒ごとに速力を
増加するごとくに、たちまち
驚くべき
巨額に
達する。
戦乱の
絶間なき
騒動時代や、
専制政治の行なわれた半開時代などには、人の生命にも
財産にもたしかな
保障がないゆえ、とうてい一人が
巨万の
富を
私するにいたりがたい
事情があるが、だんだん世が進んで
憲法もでき、生命
財産ともにやや安全となり、いかに
巨万の
富を
積んでも、
法律によって
保護せられるようになってからは、いったん何らかの
方法に
従って
富を
造ったものはますます
財産が
増加するばかりである。このことは米国などのありさまを見ればきわめて明白に知れる。しかして一人を
富豪ならしめるためには、数百万人がその
犠牲となって、
貧苦におちいらねばならぬことは計算上明らかな
理であるゆえ、一方に少数の者が
巨万の
富を
積む間には、他方においては
幾千万の人間は
漸々貧困となり
餓に
迫られてはだんだん安い
給金にも
甘んじて、牛馬のごとくに
労働せざるを
得ず、ついには
露命をつなぐことさえ
容易でなくなる。かかる
状態の世の中は、これを他物にたとえて言えば、あたかも
贅沢美麗をつくした重い馬車に少数の客を乗せ、数百千人の者が馬の代わりにこれをひいたり、
押したりして
坂路を登ってゆくようなものである。
現時の世の中はほぼかかるありさまであるゆえ、これに対して
不満の声の聞えるのは
当然のことで、
毫も
怪しむには足らぬ。車をひくものが車上の客を
眺めて、かれも人なり、われも人なり、
特にわれのほうが
筋力も
知識もかれに
比してははるかに
優等である。しかるにかれはかく安楽に
贅沢に
暮らし、われはかくあえぎ苦しまなければならぬのはいかなる理由によるかと考え出しては、
一刻も
不平なきわけにはゆかぬ。それゆえ、今日いずれの文明国にもかかる
議論の起こらぬところはない。
虚無党といい、
社会党といいアナーキストといいイルレデンタといい、
名称も
種々で理想とするところもさまざまではあるが、
現代に対する
堪えがたき
不満の
念が
凝り
固まって、ついに表面に
現われたものなることだけは同じである。
不満の
念がつのり、
罪悪がふえ、
風俗が
堕落するのを
救済するには、いかなる
手段を取るべきかとは、世を
憂うる人のすこぶる苦心している問題であるが、この間題に答えるには、まずそのよって起こる
原因までさかのぼらねばならぬ。われらの考えによると、この
原因は二つあって、一は
欲が
限りなく深くて、他人の
迷惑は
毫も
顧みぬという人間
生来の
性質、一は
現今の社会の
制度に
無理な点があることである。前者のほうは人間が持って生まれる
性質であって、これを根本
的に
削除することはもとより
不可能であるゆえ、ただ
単にだましたり、おどしたり、おだてたり、
罰したりして
制御しておくほかに道はないが、これをなすにあたって社会
制度に
無理な点があると大なる
妨げを受ける。「
地獄の
沙汰も金
次第」ということわざさえある世の中に、
貧富の
懸隔がはなはだしくなって、金のありあまる
富豪と、金のためにはいかなる
恥をも
忍ぶ
貧民とが
相並んで住めば、
富者が悪事をしても金の
威光で
罰せられず、
不正なことをしても金の
権力で
制裁をまぬがれるごとき場合がしばしば生ずるが、悪事が
罰を受けず、
不正なことが
制裁をまぬがれる
実例をしばしば
眼の前に見ると、悪を悪と感ずる世の人の心が
次第に
鈍り、ついには悪をさまで悪と思わぬようになり、これをなさぬ者をかえってばか正直なるごとくに考えるにいたる。また二宮
尊徳などをかつぎ出して、
富は
勤倹貯蓄によって
獲られるものなることを
説き聞かせても、
寝ながら
巨額の
収入を
獲る者の
実例が
眼の前にある
以上は、人間の弱点として、やはりぬれ手で
粟の
一掴千金を
夢みるようになるのもよんどころないことで、ついには実着な
勧業を
旨とする
博覧会でさえ、福引でなければ客が集まらぬごときいやしい
風俗が生ずるのである。
人口が
増加すれば、生活の
困難が
増し、生活
難がはげしくなれば、
貧富の
懸隔に対する
不平の
念が
増進する。また列国と対立してゆくには教育を
盛んにしなければならぬが、教育が進めば、
不平を感ずる力もだんだん
鋭敏になる。書物が読めて
飯が食えぬ人が一人でも多く
増せば、それだけ
現代に対する
不満の声の高くなるのは、どこの国でも
同一轍である。されば今日のままの
制度では、いかにしても
現代に対する
不平不満の
念をのぞくことができぬのみならず、そのますます
増加するのを
傍観していなければならぬ。人間はこれを
防ぐために
倫理、教育、
宗教等の
各方面から
世俗を
改善しようとつとめるであろうが、
上述のごとき
原因が
存する
以上はその
効力は
勢い一定の
範囲内に
限られて、とうてい
充分の
効を
奏することはできぬ。世は
澆季なりとは昔より今までつねに人の言うことであるが、世のつねに
澆季なるは、あたかも
黴菌が
自己の
繁殖のために生じた
酸類のために苦しむごとくに、
自己の
発達に
伴うて生じた
固有の
制度のために苦しんでいるのにあたるゆえ、まずまぬがれがたい運命とでも思うてあきらめるのほかはなかろう。
(明治四十年七月)
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