此頃は青年間に
宇宙観とか人生
観とか
云ふ様な
哲学めいたことが大分
流行して、女学生までが
哲学書を読むと
云ふ
噂であるが、
雑誌屋の店先に数多く列べてある何々
論とか何々
観とか題する書物の中には、
迷ひ
込み様によつては
随分当人
又は社会のために
迷惑の生ずるものも少なくない様に見受ける。
斯様な
際に当つて
我等の
如き
自然科学を
修め、
直接に
自然を研究しながら、
傍ら
哲学書をも
好んで読むものが、
如何に
哲学を見て
居るかを発表するのは
敢へて
無益ではなからう。
今日の所では書物を読み
字句を
解釈することを
皆学問と
称して
居るが、
真理を
探求せんとする
純粋の学問の中にも研究の
方法を
標準として分けて見ると
慥に二組の
区別がある。
即ち第一の組に
属する学科では
経験に重きを
置かず、
専ら人間の持つて生れた
推理の力のみに
依つて、先から先へと
理を
推して進む
方法を用ひて
居るが、
従来の
哲学や
倫理学は全く
此の組に
属する。
之に反して、第二の組の学科では
推理力は
素より用ひるが、
常に
経験に重きを
置き、先づ
実験観察に
依つて
成るべく正しい
経験を
成るべく広く集め、
之を
基として
一般に通ずる
理法を
確め、
更に
理を
推して考へを進めるに当つては、
必ず
一段毎に
実験観察に
依つて
推理の
結論の
当否を
試験し、
略々その正しいことの
見込みが
附けば、
尚その先へ
理を
推して進むのである。物理学、化学、生物学等の
如き
所謂自然科学
及び
其の
応用の学科は
総べて
此類に
属するが、
此等の学科では
実験観察の
結果が
推理の
結論と
矛盾する場合には、
一先づ
理論の方を
差し
控へ、
何故斯かる
矛盾が生じたかと
追究して
推理の
方法の
足らざりし点を発見しやうと
務め、
理論と
実際とが
一致した上でなければ、
尚その先へ
理を
推して進む
如きことをせぬのである。
斯くの
如く学問研究の
方法に二通りの
別があるのは
何故かと
云ふに、
之は人間の
推理力を
信頼する
程度如何に
基づくことで、第一の組では人間の
推理力を
絶対に
信頼し、
其の
導く所には決して
誤りはないと
信じて
掛かる
故、
何事を研究するにもa
priori的(注:
演繹的)
推理法のみに
依つて
真理を
探り出さうと
務めるが、第二の組では
斯くまでには
推理力を
信頼せず、
推理力の
効用は
素より
認めながらも、
尚慎重の
態度を取り、用心に用心を
加へ、
経験と
矛盾せぬ
範囲に
於てのみ
推理の
結論を
承認するのである。
抑々人間の
推理力を
絶対に
完全なるものの
如くに思ふことは、地球が動かぬと
云ふ考へ、動植物の
種属が
永久不変であると
云ふ考へなどと同
性質のもので、
何時誰が
唱へ出したでもなく、
人智の開けぬ間はたゞ
当然のこととして、少しの
疑をさへも起さずに
済まし来つたのであるが、
今日の
如く
学術が進歩して人間も他の動物と同じく、
共に下等の生物から進化の
法則に
従うて、
現在の有様までに進んだものであることが
明瞭になつた時代から見ると、
脳髄の
働きの一部分なる
推理力を
斯く
絶対に
完全なものと
見做すことの
誤りなるは
勿論である。
自然科学では
常に実物を
取扱ふ
故、早くから
此辺の
理窟に気が
附き、
実験観察に
依つて
推理力を
監督しながら
之を
働かしめる
風俗(注:しきたり)が生じたのであるが、
哲学や
倫理学の方では
対象物が
掴まへ
難いだけに、
斯かることに気の
附くのも
晩く、
終に
今日まで
未開時代の
遺風(注:後世に残っている先人の教え)が
其儘に
残つて、
相変らずa
priori
的推理法のみに
依つて研究して
居るのであらう。
脳髄の
構造と
働きとを
種々の動物に
就いて
比較研究して見ると
脳髄も
肺、
肝、
胃、
腸等の
如き他の
器官と同様に
自然淘汰の
結果、今日の生活に
必要なる
程度までに進化し来つたものなることは明であるが、
此事を知つて後に人間の
推理力の
価値を考へて見ると、
斯様なことを知らぬ前の考へとは
大に
違ひ、
推理力を
何所までも
絶対に
信頼することは出来なくなり、
普通の
俗人的生活を
営んで行くには、
今日の
推理力で
間に合ふが、それ
以外の方面に用ひる場合には
如何であらうかと大に
疑ふ様に
成つて来る。
我等の考へでは人間の
推理力は
譬へば馬の
如きもので、
働く力は
慥に有るが、
之を
適当に
働かせるためには
監督を
要する。
即ち
俗人的生活と
云ふ荷車に
縛り
附け、
経験に
依つて
監督しながら
挽かせれば
充分に役に立つが、車から
離して、たゞ
尻ばかり
敲き
監督なしに走らせては、
何所へ行くか
甚だ
危いものである。学問の研究に
推理力を用ひるときにも
理窟は全く
之と同様で、
常に
実験観察等に
依つて
一段毎に
検査し
監督して進むだけの用心を取らねば、
終には
如何なる
間違うた
結論に
達するか
解からぬ。
然るに
従来の
哲学では
単に馬のみを走らせる
如き研究
法を用ひ来つた
故、
往々飛んでもない
議論を考へ出し、
普通人間の
常識とは正反対の
結論に
達することもあるが、元来人間の
推理力を
絶対に
信頼して
居る人々のこと
故、
斯かる場合には
無論常識の方を
捨てて、自分の
編み出した自分
免許の
真理の方に
執着し、「
常識なき学問は
馬鹿の二倍」と
云ふ
諺の
活きた
標本と
成つてしまふ。
斯かる人が
大勢あり、
斯かることが
度重なると、世間からは学者と
云ふ者は
迂遠(注:世の中の動きに
疎いさま)なものである、学理と
云ふものは
実際とは全く
無関係のものであると
云ふ
評判が起り、
己れに学問の
無いことを
自覚して
居る
連中は、
此機に投じて学問と
常識とを
恰も
相対立すべきものの
如くに
説き、
常識を
以て自分等の
旗章(注:はたじるし)として学問に
対抗しやうとする。昔から
常識と
云ふ名前で、
無学を
押し
包み、学理(注:学問上の理論または原理)に
反抗して世の進歩を
妨げた
例は
幾らもあるが、
斯くの
如く
無学者をして
常識と
云ふ
旗章を
挙げ
得せしめたのは、実は
一口に学者と名け(注:名付け)られる者の中に
以上の
如き
種類の学者が
含まれて
居る
故である。
経験に
依らず
単に
推理力のみに
依つて、先から先へと考へる
論法を
仮に
懐手式
推理法と名づけて
置くが、東海道
膝栗毛の中にある
六部爺の
懺悔話しは、実に
遺憾なく
此の
論法の
危いことを
示して
居る。
其の六部(注:全国にある六十六の札所を
巡礼する者)は次の
如くに考へた、先づ
江戸へ来て見た所が毎日
非常に風が
吹いて
往来が
砂だらけである、
斯う
砂が
舞へば
必ず人々の
眼に
砂が
這入つて
盲目に
成る人が
大勢出来るであらう、
盲目になれば
退窟であるから
必ず三味線を
弾くに
違ひない、左様すれば三味線が
沢山入るから
猫が
皆殺されるに定まつて
居る、
猫が
皆殺されゝば
鼠が
暴れ出して箱を
残らず
噛み
傷けるに
相違ないから、箱商売を始めたら
必ず大
繁昌をするであらうと考へて、大小
種々の箱を
沢山に仕入れて店を出したが一向に売れなかつた
故、つくづく
浮世が
嫌になつて、六部に
成つたとの事である。
之は
素より一場の
笑ひ話しで、
間違ひ方が
余り
明である
故、
誰も
此の
論法に
釣り
込まれる者はないが、
事柄が
稍々複雑であるか
或は用語が
抽象的であると
随分之に
劣らぬ
間違ひ話しでも
一応は
尤もらしく聞えることが
往往ある。有名なスペンサーの「生物学の原理」の中には人間は
生存競争の
結果として今後
益々知力が
発達するであらうが、知力と
生殖力とは
反比例に
増減するもの
故、知力が進めば
生殖力が
漸々減じて、
終には
生存競争の
必要がなくなり、生れただけの人間は
争はずに
充分の食物を
獲ることが出来て、世は
極楽となつてしまふと
云ふ
議論が
載せてあるが、
之などは
以上の
六部爺の
論法と
余り
違はぬ様に感ずる。
此頃の新聞や
雑誌等に
沢山出て
居る文学者
達の人生
観や
宇宙観の
如きも右の
六部爺の
論法を
聯想せしめぬ者は
恐らく少なからう。
実験観察等に
依つて
直接に
自然を研究する者の
特に感ずるのは
自然の公平で正直なことである。
骨を
折つて研究すれば、
骨折りに対するだけの事を
自然は
我々に教へる。五だけの研究に対しては五だけの
知識を
与へ、十だけの研究に対しては十だけの答をして、
誰が研究しても
其の
方法さへ
適当であれば、決して答へぬと
云ふことはないが、
其の代り研究するだけの
労力を取らぬ者に、
只で
知識を
授けてくれる
如きことは決してない。
此事は
自然を
直接に研究する者の気が
附かずには
居られぬ点である。
自然研究者は
往往若干の事実を
基とし、
推理力に
依つて
其先を考へ、自分では
名論卓説(注:すぐれた意見)と
信ずる様な
理論を考へ出し、
窃に(注:ひそかに)心の中で
誇る
如きこともあるが、
其の
当否を
実験観察に
依つて
検査して見て、事実が
之と
矛盾することを発見した場合には、
如何に
口惜くとも
理論の方を
直に
捨てて
更に考へ方を
改めなければならぬ。
之は研究に対して
自然が
与へる
知識以外の
訓練とでも
云ふべきもので、
其の
品性に
及ぼす
影響は決して少くない。
孰れにしても、
自然は
骨を
折つて研究する者には、それだけの答をして
知識を
与へるが、
懐手をして
居る者に
只は
儲けさせぬとのことだけは
断言が出来やう。寒さを
防ぐために
衣服に
綿を入れること、
暖炉で室を温めること、
其の
暖炉に
煙突を
附けること、
其他日常に
為すことは
総べて長い間の
経験の
結果で、
凡そ人間の有する
確実なる
知識は
悉く
経験に
基づくものであるに、
独り学問のみに
於て
机上の
空論で
真理を発見しやうと
試みて
居たのは大なる
誤りである。
従来の
哲学の研究
法は
即ち
懐手式である。
哲学とても
之を
修めるのは決して
容易ではないが、
其の
骨の
折れる点は
実際を
直接に研究する
為ではなく、昔から
大勢の人が
懐手式に考へたことを書き
綴つた書物が
非常に多く
溜つて
居るのを読むためである。
元来懐手式
論法は
経験を重んずる研究
法とは
違ひ、
推理の
一段毎に
実験観察の
労を
要することがなく、先から先へと
速に走つて行く
至つて
安逸(注:気楽に
過ごすこと)な
方法であるが、前にも
述べた通り
監督なしに馬を走らせた
如くである
故、
方角次第で
如何なる
結論に
達するか
解らず、人々によつて
各々その
結論が
違ひ、
何れも自分の
説を
真理と
見做して、
互に
相駁すると
云ふ有様になるは
自然のことである。
現に
哲学ほど相反する多数の
学派が
列び立つて
互に
争うて
居る学科は他にあるまい。
自然は
懐手をして
居るものに
只儲けさせる
如きことはせぬと
信ずる者の
眼から見ると、
斯かる研究の
当にならぬは
無論のことである。前にも
述べた通り
我等が
好んで
哲学の書物を読むのは決して
之に
依つて
真理を
探り
求めやうと
欲する
故ではない。
従来の
哲学書に
依つて
宇宙の
真理を
求めやうとするのは木に
縁つて魚を
求めるよりも
尚一層甚だしい
見当違ひかとも思はれる。
然らば
何故に
好んで
哲学書を読むかと
云ふに、
之は全く
哲学を
一種の
芸術と
見做して、
其の
巧妙なる所を
味ひ楽むために
過ぎぬ。音楽が耳を
慰め、絵画が
眼を
慰める
如くに、
巧みに
造り上げた
哲学系統は人間の持つて生まれた
知識欲を一時
慰めるものである
故、
真理を
求める
方便としては
至つて
不適当な
哲学も、
此の方面から見ると決して
捨てたものではない。
抑々人間の
知識の
現在の
有様を考へて見ると、
恰も
暗夜に小さな
提灯を下げて
徘徊して
居る
如くで、前も後も、左も右も
極近い所の
外は全く見えず、また自分の足元と
雖ども
精密には
到底解らぬ。
知識の光を
以て
照らせば
何事と
雖も
明瞭に
解らざるものなしと大声に
演説すれば、
聴くものは
愉快を感じ、言ふ者も
得意であるが、実は
之は
坊は
利口だと
云はれて
嬉しがる
子供の
愉快と同じであつて、全く一時の
幻覚に
過ぎぬ。
実際我々の
知識と
称する所のものは
薄暗い
提灯の様なもので、ただ足元の
廻りを
僅だけ
照らし、大
怪我なしに前へ歩くことの出来るに足りるだけのものである。
其の
証拠には
如何なる問題でも少しく先まで
尋ねると、
何時も
必ず
解らずにしまひとなる。
例へば場所も少しく遠い所のことは全く
解らず、時も少し昔のことは全く
解らぬ、
未来のことは
尚更である。大きいことも
或る
際限を
超えれば全く
解らず、小さいことも
或る
際限を
超えれば全く
解らぬ。また
原因結果の
関係を考へても
其の通りで、一の事に対して
原因である事が知れても、
其の
原因の起る
原因は何であるか、
其の
原因の起る
原因の
原因は何であるかと
順々に
尋ねれば
忽ち
行止つてしまふ。
凡そ人間の
知識なるものは
斯くの
如く
甚だ
狭い
範囲内に
限られ、四方ともに
未知の暗黒界に
依つて
包まれて
居る
故、
何時の代でも
何所の国でも
神秘と
云ふ考への
絶えることは
到底ない。
然しながら小さいながらも、
之だけの
知識のあるに
依り日々生活を
営んで行くことが出来るのであつて、
此の生活用に足りるだけの
知識は全く
先祖代々からの
経験と、自分
一個の
経験とを
基として
獲た所である。今後とても
生存競争場裡に立つて他に負けぬ様にと
務めるには、
矢張経験を
拡め
之より
理を
推して
知識を
増し進め、
更に
之れを実地に
応用するの外は
無いであらう。さて人間が
斯くの
如く
先祖から代々
知識を
増し来つたのは
何故かと
云ふに、
之は
素より人間の
生存競争に
於ては知力の
発達の
程度が
常に
勝敗の
標準となつた
故であるが、
其間には
所謂知識欲なるものも
自然淘汰の
結果として、
漸々養成せられ来つたことは
疑ひない。新しい
知識を
獲ては
愉快を感じ、
此の
愉快を追うて新しい
知識を
求めると
云ふ
性質が
発達したもの
程、
速に
知識を
増すは
勿論のことで、速に
知識が
増して
推理の力の進んだもの
程、
益々生存競争に勝つ
見込みが多くなる
訳故、
恰も
眼や耳が
自然淘汰の
結果、
今日の
如き
巧妙複雑な
働きを
為し
得る
程度までに
発達し来つた
如くに、
此の
知識欲なるものも、人間の
生存競争に
於ける有力なる
武器として長い間に
漸々発達し来つたものであるが、
一旦或る
程度まで
発達した
以上は、
之に
或る
刺戟を
与へて
働かせることに
依つて、
一種の
愉快を感ずる様になる。音楽を聞いて耳を
慰め、絵画を見て
眼を
慰める
如くに、
我々は
哲学書を読んで
暫らく
知識欲を
慰めることが出来るが、
我等が
哲学書を読むのは
即ち
此の
為である。
下手な音楽が聞かれぬ
如くまた下手な絵画が見られぬ
如く、下手な
哲学論は
到底読まれたものではない。また
哲学書を多く読めば
其間に
自然に
哲学を
味ふ力も
発達して、
最初感服して読んだ書物も後には
甚だ
浅薄に感じて一向に面白くなくなることもある。
此等の点に
於ても
哲学が
芸術の
性質を
帯びて
居る事は
明に知れる。カントとかショペンハウエルとか、スペンサーとかヘッケルとか
云ふ様な数多くある
哲学書の中で、
特に世間から
喧しく持て
囃される
類は
孰れも
芸術としては
上等の作品で、
確実なる
知識の
範囲以外にある
際限なく広い暗黒界を
懐手式
推理法によつて読者を
引張り
廻し、
終に
宇宙の
第一義(注:最も根本となる、いちばん大切なこと)とやらまで
達して、
宇宙を
解し
尽したかの
如くに感ぜしめる
手際は実に
巧なものとして
褒めなければならぬ。
特にヘッケルの
如きは
経験に
依つて
獲た
確実な
知識を多く
並べ、それより
何時とはなしに
懐手式
推理法に
移つて読者を
釣り入れるのであるから、
恰も実物を前の方に
置き、見物人に知れぬ様に絵画と
繋ぎ合せて、遠方の
景色までも
巧に実物の
如くに見せ
掛けるパノラマと同様で、
芸術としては中々面白いものである。
懐手式
推理法で進むと人々により全く
違つた
結論に
達するは
勿論であるが、
哲学を
芸術として
其の
巧なる
手際を
味ひ楽む者から見れば、
結論の
如何に
拘らず、
上手な
哲学ならば
孰れも面白く感ずる。
喜劇には
喜劇の面白味があり、
悲劇には
悲劇の面白味がある通り、
楽天的哲学説でも、
厭世(注:世の中をいやなもの、人生を
価値のないものと思うこと)
的哲学説でも、
之を
芸術作品として
其こじつけ方の
巧な点を味はへば、
孰れもそれ相当の面白味はある。
以上述べた
如き
心得を
以て読みさへすれば、
哲学書は
誰が読んでも決して
害は
無からう。絵画、音楽、
芝居、
浄瑠璃、
若しくは
囲碁、ピンポン、ローンテニスと同様に、
単に
暫く
娯楽を
得るための
方便と
見做して
哲学を味ふに
於ては何の
妨げもない。
尤も
過度に
耽ることの
有害なるは他の
芸術に
於けると同様で
素より言ふまでも
無いことである。
今日世の中で
浅薄な
哲学的書類が、青年
輩を
誤らせるのは、全く世間
一般の人々が
従来の
哲学の
真価値を
誤解し、
芸術なるべきものを学問の
如くに
見做し、
之に
依れば
宇宙の
真理まで
達することが出来るものの
如くに思ひ
誤つて
居るのに
基づくのであらう。
芝居は役者が
遣つて
居ると知つて
居ても、悲しい
幕には
自然と
涙が出る
位である
故、
哲学書の
如く
論法の
巧に組み立ててある書物を読んで、
今日の
懐手式
推理法の
発達する様に教育せられ来つた青年が
自然に書物に
釣り
込まれてしまふのは
避け
難いことでもあらうが、
此点は
特に注意せぬと当人のためにも、社会のためにも
随分迷惑が生ずる
虞れがある。
実際の世の中と
哲学の
理論とは全く
別物である
故、
実際日々の生活には
経験を
基とし、
経験ある人々の考へを
参考して
方針を定め、
其上に
哲学に
趣味を有する人ならば、
一種の
娯楽として
余り
耽らぬ
程度に
之を
玩ぶが
宜しい。一生を
哲学に
費さうと思ふ人は
無論別問題で、
之は
俳諧の
宗匠(注:
文芸・
技芸などの道に
熟達しており、人に教える立場にある人)、
芝居の役者と同じく一心に
其の
芸術を
励むべきであるが、
其他の者が
哲学の
結論と
宇宙の
真理とを
混同して、一身を
誤るが
如きは実に
愚の
極と
云はねばならぬ。
世の中には
往々人間の
経験の
不完全なこと、
其の
範囲に
狭い
制限あることを
説き、
区々たる人間の
経験を
以て
宇宙の
真理を知り
尽すことは
到底出来ぬと
論ずる人があるが、
之だけならば、
我等とても全く同感である。
併しながら
若し
之れより
推して、
不完全な
経験を
基とした科学よりは
経験を
度外視した
哲学論の力が
優れりと
云ふ
如き
結論に立ち
至る人があるならば、
我等は
其の
論法の
誤りを正さねばならぬ。人間の
知識が
今日の
程度までに進んだのは
種々に
工夫を
凝らし、
手段を
廻らして、人間の出来る
範囲内で
成るべく、正しい
経験を
成るべく、広く集めた
結果であつて、
今日以後の進歩も
此の
方法に
依るの
外は
無いのである。
素より
不完全な
経験には
違ひないが、
実際の
正確な
知識を
獲る
為には
之が
唯一の
方法である
故、
我々は
益々この方面に力を
尽して
生存競争に
於ける
優者たる様にと
務めねばならぬ。
此節(注:このごろ)は青年間に
煩悶などと
云ふ言葉が流行して、科学に
満足が出来ぬから
哲学に
移るとか、
哲学に
満足が出来ぬから
宗教を
求めるとか
云ふことを
屡々聞くが、
此等は
皆学問と
芸術との
区別、
実際と
夢との
区別を
忘れたための
誤りである。自分が人間でありながら、人間の
経験は
不完全なもの
故、
頼むに足らぬと考へて、
経験以外の
辺に
満足を
求めるのは、
恰も
近眼の人が、
我眼は遠くが見えぬから
頼むに足らぬと
云ふて、
態々之を
潰してしまひ、千里先までも明らに
見得る
如き
眼球を生じた
夢を見たいと思うて
眠に
就くのと同様で、
常識ある人間の決して取らぬ所であらう。
今日哲学研究の入場
券の
如くに
見做されて
居る
認識論の
如きも、
已に
芸術としての
哲学の始めで、
幾分かの
真理を
含んでは
居るであらうが、
又一方から見ると
迷ひの入口とも
見做され
得べき
性質のものである。
田舎の
芝居では
往々見物人が
芝居の
筋書に
釣り
込まれ、
舞台へ
飛び出して
敵役の役者を打つことがある。
菅原伝授鑑で
道真公を流さうとする所へ見物人の中から
博労(注:
馬喰、牛馬の
仲買人)の
与五左と
云ふ男が
飛び出して、「天神様には
罪はない、天神様の
尻は
此の
与五左が持つ」と
云うて相手の
時平に
擲つて
掛つたとのことが、
或る
滑稽本(注:
江戸時代後期の
戯作の
一種)に出て
居たが、
若し
厭世的哲学書を読んで
自殺する人があつたならば、
其人の
行為は
此の
与五左と
滑稽の度が
殆ど同じである。世が進むに
随うて人間の
生存競争は
益々劇しく
成り、
世路(注:世の中を
渡っていくこと)は
益々困難に
成る
故、
悲観的境遇に
在る人の多いのは
拠ないことで、
斯かる人々が
悲観的哲学説を読めば、
其の
所論が一々
己が身の上に
適中するに
相違なく、
随つて
厭世主義は
失敗者の
増加と
共に今後も
追々蔓延するであらう。また
自殺者の
如きも新聞紙上に
現はれる
直接の
原因は
精神錯乱とか、家内の
不和とか
財政不如意(注:思い通りにならないこと)とか
失恋とか様々であるが、
尚其先きの
原因を
尋ねれば
孰れも
生存競争に
於て
適者が
栄え
蔓つて、
不適者に
生存の
余地を
与へぬに
基づくこと
故、人口の
増加するに
随ひ
自殺者の年々多くなることも
亦到底避けられぬかも知れぬ。
尤も
此所に
適者と
云ふのは決して
優良者を
指す
訳ではない、
泥水の中では
泥水に
適する虫が
勝つ
如く、
濁つた世の中では、また
之に
適する者が勝つて
栄えるのは言ふを待たぬ。
斯かる世の中に生れて来た者は「生活は
戦なり」と
云ふ古代よりの名言を
一刻も
忘れず、
常に
生即是争と
心得て
益々学問と
芸術との
区別、
実際と
夢との
区別を
明にし、
実際の世の中で
奮闘するの
覚悟が
必要である。
徒に
煩悶などと
称して
怠けて
居ると、
其間には真に
生存競争に負けて
益々悲観的の
境遇に
陥つてしまふ。
青年の
愛読する
雑誌や、青年の
筆に
成れる
論文に
哲学めいたものの
甚だ多いのを見て、
我等の
如き考へを世に
公にするのも
或は
参考の
資となるかと思ひ、
此所に
掲げた
次第である。
(明治三十九年二月)