芸術としての哲学

丘浅次郎





 此頃このごろは青年間に宇宙うちゅうかんとか人生かんとかふ様な哲学てつがくめいたことが大分流行りゅうこうして、女学生までが哲学書てつがくしょを読むとうわさであるが、雑誌屋ざっしやの店先に数多く列べてある何々ろんとか何々かんとか題する書物の中には、まよみ様によつては随分ずいぶん当人または社会のために迷惑めいわくの生ずるものも少なくない様に見受ける。斯様かようさいに当つて我等われらごと自然しぜん科学をおさめ、直接ちょくせつ自然しぜんを研究しながら、かたわ哲学書てつがくしょをもこのんで読むものが、如何いか哲学てつがくを見てるかを発表するのはあえへて無益むえきではなからう。
 今日こんにちの所では書物を読み字句じく解釈かいしゃくすることをみな学問としょうしてるが、真理しんり探求たんきゅうせんとする純粋じゅんすいの学問の中にも研究の方法ほうほう標準ひょうじゅんとして分けて見るとたしかに二組の区別くべつがある。すなわち第一の組にぞくする学科では経験けいけんに重きをかず、もっぱら人間の持つて生れた推理すいりの力のみにつて、先から先へとことわりして進む方法ほうほうを用ひてるが、従来じゅうらい哲学てつがく倫理りんり学は全くの組にぞくする。これに反して、第二の組の学科では推理すいり力はもとより用ひるが、つね経験けいけんに重きをき、先づ実験じっけん観察かんさつつてるべく正しい経験けいけんるべく広く集め、これもととして一般いっぱんに通ずる理法りほうたしかめ、さらことわりして考へを進めるに当つては、かなら一段いちだんごと実験じっけん観察かんさつつて推理すいり結論けつろん当否とうひ試験しけんし、略々ほぼその正しいことの見込みこみがけば、なおその先へことわりして進むのである。物理学、化学、生物学等のごと所謂いわゆる自然しぜん科学およ応用おうようの学科はべてこのるいぞくするが、此等これらの学科では実験じっけん観察かんさつ結果けっか推理すいり結論けつろん矛盾むじゅんする場合には、一先ひとま理論りろんの方をひかへ、何故なぜかる矛盾むじゅんが生じたかと追究ついきゅうして推理すいり方法ほうほうらざりし点を発見しやうとつとめ、理論りろん実際じっさいとが一致いっちした上でなければ、なおその先へことわりして進むごときことをせぬのである。
 くのごとく学問研究の方法ほうほうに二通りのべつがあるのは何故なぜかとふに、これは人間の推理すいり力を信頼しんらいする程度ていど如何いかんもとづくことで、第一の組では人間の推理すいり力を絶対ぜったい信頼しんらいし、みちびく所には決してあやまりはないとしんじてかるゆえ何事なにごとを研究するにもa prioriアプリオリてき(注:演繹えんえき的)推理すいりほうのみにつて真理しんりさぐり出さうとつとめるが、第二の組ではくまでには推理すいり力を信頼しんらいせず、推理すいり力の効用こうようもとよりみとめながらも、なお慎重しんちょう態度たいどを取り、用心に用心をくわへ、経験けいけん矛盾むじゅんせぬ範囲はんいおいてのみ推理すいり結論けつろん承認しょうにんするのである。抑々そもそも人間の推理すいり力を絶対ぜったい完全かんぜんなるもののごとくに思ふことは、地球が動かぬとふ考へ、動植物の種属しゅぞく永久えいきゅう不変ふへんであるとふ考へなどと同性質せいしつのもので、何時いつだれとなへ出したでもなく、人智じんちの開けぬ間はたゞ当然とうぜんのこととして、少しのうたがいをさへも起さずにまし来つたのであるが、今日こんにちごと学術がくじゅつが進歩して人間も他の動物と同じく、ともに下等の生物から進化の法則ほうそくしたがうて、現在げんざいの有様までに進んだものであることが明瞭めいりょうになつた時代から見ると、脳髄のうずいはたらきの一部分なる推理すいり力を絶対ぜったい完全かんぜんなものと見做みなすことのあやまりなるは勿論むろんである。自然しぜん科学ではつねに実物を取扱とりあつゆえ、早くから此辺このへん理窟りくつに気がき、実験じっけん観察かんさつつて推理すいり力を監督かんとくしながらこれはたらかしめる風俗ふうぞく(注:しきたり)が生じたのであるが、哲学てつがく倫理りんり学の方では対象たいしょう物がつかまへがたいだけに、かることに気のくのもおそく、つい今日こんにちまで未開みかい時代の遺風いふう(注:後世に残っている先人の教え)が其儘そのままのこつて、相変あいかわらずa prioriてき推理すいりほうのみにつて研究してるのであらう。
 脳髄のうずい構造こうぞうはたらきとを種々しゅしゅの動物にいて比較ひかく研究して見ると脳髄のうずいはいかんちょうなどごとき他の器官きかんと同様に自然しぜん淘汰とうた結果けっか、今日の生活に必要ひつようなる程度ていどまでに進化し来つたものなることは明であるが、此事このことを知つて後に人間の推理すいり力の価値かちを考へて見ると、斯様かようなことを知らぬ前の考へとはおおいちがひ、推理すいり力を何所どこまでも絶対ぜったい信頼しんらいすることは出来なくなり、普通ふつう俗人ぞくじんてき生活をいとなんで行くには、今日こんにち推理すいり力でに合ふが、それ以外いがいの方面に用ひる場合には如何いかであらうかと大にうたがふ様につて来る。我等われらの考へでは人間の推理すいり力はたとへば馬のごときもので、はたらく力はたしかに有るが、これ適当てきとうはたらかせるためには監督かんとくようする。すなわ俗人ぞくじんてき生活とふ荷車にしばけ、経験けいけんつて監督かんとくしながらかせれば充分じゅうぶんに役に立つが、車からはなして、たゞしりばかりたた監督かんとくなしに走らせては、何所どこへ行くかはなはあぶないものである。学問の研究に推理すいり力を用ひるときにも理窟りくつは全くこれと同様で、つね実験じっけん観察かんさつなどつて一段いちだんごと検査けんさ監督かんとくして進むだけの用心を取らねば、ついには如何いかなる間違まちがうた結論けつろんたつするかからぬ。しかるに従来じゅうらい哲学てつがくではたんに馬のみを走らせるごとき研究ほうを用ひ来つたゆえ往々おうおうんでもない議論ぎろんを考へ出し、普通ふつう人間の常識じょうしきとは正反対の結論けつろんたつすることもあるが、元来人間の推理すいり力を絶対ぜったい信頼しんらいしてる人々のことゆえかる場合には無論むろん常識じょうしきの方をてて、自分のみ出した自分免許めんきょ真理しんりの方に執着しゅうちゃくし、「常識じょうしきなき学問は馬鹿ばかの二倍」とことわざきた標本ひょうほんつてしまふ。かる人が大勢おおぜいあり、かることがたびかさなると、世間からは学者とふ者は迂遠うえん(注:世の中の動きにうといさま)なものである、学理とふものは実際じっさいとは全く無関係むかんけいのものであると評判ひょうばんが起り、おのれに学問のいことを自覚じかくして連中れんちゅうは、此機このきに投じて学問と常識じょうしきとをあたかあい対立すべきもののごとくにき、常識じょうしきもつて自分等の旗章きしょう(注:はたじるし)として学問に対抗たいこうしやうとする。昔から常識じょうしきふ名前で、無学むがくつつみ、学理(注:学問上の理論または原理)に反抗はんこうして世の進歩をさまたげたれいいくらもあるが、くのごと無学むがく者をして常識じょうしき旗章きしょうせしめたのは、実は一口ひとくちに学者と名け(注:名付け)られる者の中に以上いじょうごと種類しゅるいの学者がふくまれてゆえである。
 経験けいけんらずたん推理すいり力のみにつて、先から先へと考へる論法ろんぽうかり懐手ふところで推理すいりほうと名づけてくが、東海道膝栗毛ひざくりげの中にある六部爺ろくぶじじ懺悔ざんげ話しは、実に遺憾いかんなく論法ろんぽうあぶないことをしめしてる。の六部(注:全国にある六十六の札所を巡礼じゅんれいする者)は次のごとくに考へた、先づ江戸えどへ来て見た所が毎日非常ひじょうに風がいて往来おうらいすなだらけである、すなへばかならず人々のすな這入はいいつて盲目もうもくる人が大勢おおぜい出来るであらう、盲目もうもくになれば退窟たいくつであるからかならず三味線をくにちがひない、左様すれば三味線が沢山たくさんるからねこみなころされるに定まつてる、ねこみなころされゝばねずみあばれ出して箱をのこらずきずつけるに相違そういないから、箱商売を始めたらかならず大繁昌はんじょうをするであらうと考へて、大小種々しゅしゅの箱を沢山たくさんに仕入れて店を出したが一向に売れなかつたゆえ、つくづく浮世うきよいやになつて、六部につたとの事である。これもとより一場のわらひ話しで、間違まちがひ方があまあきらかであるゆえだれ論法ろんぽうまれる者はないが、事柄ことがら稍々やや複雑ふくざつであるかあるいは用語が抽象ちゅうしょうてきであると随分ずいぶんこれおとらぬ間違まちがひ話しでも一応いちおうもっともらしく聞えることが往往おうおうある。有名なスペンサーの「生物学の原理」の中には人間は生存せいぞん競争きょうそう結果けっかとして今後益々ますます知力が発達はったつするであらうが、知力と生殖せいしょく力とは反比例はんぴれい増減ぞうげんするものゆえ、知力が進めば生殖せいしょく力が漸々ぜんぜんげんじて、ついには生存せいぞん競争きょうそう必要ひつようがなくなり、生れただけの人間はあらそはずに充分じゅうぶんの食物をることが出来て、世は極楽ごくらくとなつてしまふと議論ぎろんせてあるが、これなどは以上いじょう六部爺ろくぶじじ論法ろんぽうあまちがはぬ様に感ずる。此頃このごろの新聞や雑誌ざっしなど沢山たくさん出てる文学者たちの人生かん宇宙うちゅうかんごときも右の六部爺ろくぶじじ論法ろんぽう聯想れんそうせしめぬ者はおそらく少なからう。
 実験じっけん観察かんさつ等につて直接ちょくせつ自然しぜんを研究する者のとくに感ずるのは自然しぜんの公平で正直なことである。ほねつて研究すれば、骨折ほねおりに対するだけの事を自然しぜん我々われわれに教へる。五だけの研究に対しては五だけの知識ちしきあたへ、十だけの研究に対しては十だけの答をして、だれが研究しても方法ほうほうさへ適当てきとうであれば、決して答へぬとふことはないが、の代り研究するだけの労力ろうりょくを取らぬ者に、ただ知識ちしきさずけてくれるごときことは決してない。此事このこと自然しぜん直接ちょくせつに研究する者の気がかずにはられぬ点である。自然しぜん研究者は往往おうおう若干じゃっかんの事実をもととし、推理すいり力につて其先そのさきを考へ、自分では名論めいろん卓説たくせつ(注:すぐれた意見)としんずる様な理論りろんを考へ出し、せつに(注:ひそかに)心の中でほこごときこともあるが、当否とうひ実験じっけん観察かんさつつて検査けんさして見て、事実がこれ矛盾むじゅんすることを発見した場合には、如何いか口惜くやしくとも理論りろんの方をただちててさらに考へ方をあらためなければならぬ。これは研究に対して自然しぜんあたへる知識ちしき以外いがい訓練くんれんとでもふべきもので、品性ひんせいおよぼす影響えいきょうは決して少くない。いずれにしても、自然しぜんほねつて研究する者には、それだけの答をして知識ちしきあたへるが、懐手ふところでをしてる者にただもうけさせぬとのことだけは断言だんげんが出来やう。寒さをふせぐために衣服いふく綿わたを入れること、暖炉だんろで室を温めること、暖炉だんろ煙突えんとつけること、其他そのほか日常にちじょうすことはべて長い間の経験けいけん結果けっかで、およそ人間の有する確実かくじつなる知識ちしきことごと経験けいけんもとづくものであるに、ひとり学問のみにおい机上きじょう空論くうろん真理しんりを発見しやうとこころみてたのは大なるあやまりである。
 従来じゅうらい哲学てつがくの研究ほうすなわ懐手ふところで式である。哲学てつがくとてもこれおさめるのは決して容易よういではないが、ほねれる点は実際じっさい直接ちょくせつに研究するためではなく、昔から大勢おおぜいの人が懐手ふところで式に考へたことを書きつづつた書物が非常ひじょうに多くたまつてるのを読むためである。元来がんらい懐手ふところで論法ろんぽう経験けいけんを重んずる研究ほうとはちがひ、推理すいり一段いちだんごと実験じっけん観察かんさつろうようすることがなく、先から先へとすみやかに走つて行くいたつて安逸あんいつ(注:気楽にごすこと)な方法ほうほうであるが、前にもべた通り監督かんとくなしに馬を走らせたごとくであるゆえ方角ほうがく次第しだい如何いかなる結論けつろんたつするからず、人々によつて各々おのおのその結論けつろんちがひ、いずれも自分のせつ真理しんり見做みなして、たがい相駁あいばくするとふ有様になるは自然しぜんのことである。げん哲学てつがくほど相反する多数の学派がくはつならび立つてたがいあらそうてる学科は他にあるまい。自然しぜん懐手ふところでをしてるものにただもうけさせるごときことはせぬとしんずる者のから見ると、かる研究のあてにならぬは無論むろんのことである。前にもべた通り我等われらこのんで哲学てつがくの書物を読むのは決してこれつて真理しんりさぐもとめやうとよくするゆえではない。従来じゅうらい哲学てつがく書につて宇宙うちゅう真理しんりもとめやうとするのは木につて魚をもとめるよりもなお一層いっそうはなはだしい見当けんとうちがひかとも思はれる。しからば何故なぜこのんで哲学書てつがくしょを読むかとふに、これは全く哲学てつがく一種いっしゅ芸術げいじゅつ見做みなして、巧妙こうみょうなる所をあじわひ楽むためにぎぬ。音楽が耳をなぐさめ、絵画がなぐさめるごとくに、たくみにつくり上げた哲学てつがく系統けいとうは人間の持つて生まれた知識ちしきよくを一時なぐさめるものであるゆえ真理しんりもとめる方便ほうべんとしてはいたつて不適当ふてきとう哲学てつがくも、の方面から見ると決しててたものではない。
 抑々そもそも人間の知識ちしき現在げんざい有様ありさまを考へて見ると、あたか暗夜やみよに小さな提灯ちょうちんを下げて徘徊はいかいしてごとくで、前も後も、左も右もごく近い所のほかは全く見えず、また自分の足元といえどども精密せいみつには到底とうていわからぬ。知識ちしきの光をもつらせば何事なにごといえど明瞭めいりょうわからざるものなしと大声に演説えんぜつすれば、くものは愉快ゆかいを感じ、言ふ者も得意とくいであるが、実はこれぼう利口りこうだとはれてうれしがる子供こども愉快ゆかいと同じであつて、全く一時の幻覚げんかくぎぬ。実際じっさい我々われわれ知識ちしきしょうする所のものは薄暗うすぐら提灯ちょうちんの様なもので、ただ足元のまわりをわずかだけらし、大怪我けがなしに前へ歩くことの出来るに足りるだけのものである。証拠しょうこには如何いかなる問題でも少しく先までたずねると、何時いつかならわからずにしまひとなる。たとへば場所も少しく遠い所のことは全くわからず、時も少し昔のことは全くわからぬ、未来みらいのことは尚更なおさらである。大きいことも際限さいげんえれば全くわからず、小さいことも際限さいげんえれば全くわからぬ。また原因げんいん結果けっか関係かんけいを考へてもの通りで、一の事に対して原因げんいんである事が知れても、原因げんいんの起る原因げんいんは何であるか、原因げんいんの起る原因げんいん原因げんいんは何であるかと順々じゅんじゅんたずねればたちまいきどまつてしまふ。およそ人間の知識ちしきなるものはくのごとはなはせま範囲はんい内にかぎられ、四方ともに未知みちの暗黒界につてつつまれてゆえ何時いつの代でも何所どこの国でも神秘しんぴふ考へのえることは到底とうていない。しかしながら小さいながらも、これだけの知識ちしきのあるにり日々生活をいとなんで行くことが出来るのであつて、の生活用に足りるだけの知識ちしきは全く先祖せんぞ代々からの経験けいけんと、自分一個いっこ経験けいけんとをもととしてた所である。今後とても生存せいぞん競争きょうそう場裡じょうりに立つて他に負けぬ様にとつとめるには、矢張やはり経験けいけんひろこれよりことわりして知識ちしきし進め、さられを実地に応用おうようするの外はいであらう。さて人間がくのごと先祖せんぞから代々知識ちしきし来つたのは何故なぜかとふに、これもとより人間の生存せいぞん競争きょうそうおいては知力の発達はったつ程度ていどつね勝敗しょうはい標準ひょうじゅんとなつたゆえであるが、其間このかんには所謂いわゆる知識ちしきよくなるものも自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして、漸々ぜんぜん養成ようせいせられ来つたことはうたがひない。新しい知識ちしきては愉快ゆかいを感じ、愉快ゆかいを追うて新しい知識ちしきもとめると性質せいしつ発達はったつしたものほどすみやか知識ちしきすは勿論むろんのことで、速に知識ちしきして推理すいりの力の進んだものほど益々ますます生存せいぞん競争きょうそうに勝つ見込みこみが多くなるわけゆえあたかや耳が自然しぜん淘汰とうた結果けっか今日こんにちごと巧妙こうみょう複雑ふくざつはたらきを程度ていどまでに発達はったつし来つたごとくに、知識ちしきよくなるものも、人間の生存せいぞん競争きょうそうおけける有力なる武器ぶきとして長い間に漸々ぜんぜん発達はったつし来つたものであるが、一旦いったん程度ていどまで発達はったつした以上いじょうは、これ刺戟しげきあたへてはたらかせることにつて、一種いっしゅ愉快ゆかいを感ずる様になる。音楽を聞いて耳をなぐさめ、絵画を見てなぐさめるごとくに、我々われわれ哲学書てつがくしょを読んでしばらく知識ちしきよくなぐさめることが出来るが、我等われら哲学てつがく書を読むのはすなわためである。
 下手な音楽が聞かれぬごとくまた下手な絵画が見られぬごとく、下手な哲学てつがくろん到底とうてい読まれたものではない。また哲学書てつがくしょを多く読めば其間そのかん自然しぜん哲学てつがくあじあふ力も発達はったつして、最初さいしょ感服かんぷくして読んだ書物も後にははなは浅薄あさはかに感じて一向に面白くなくなることもある。此等これらの点においても哲学てつがく芸術げいじゅつ性質せいしつびてる事はあきらかに知れる。カントとかショペンハウエルとか、スペンサーとかヘッケルとかふ様な数多くある哲学書てつがくしょの中で、とくに世間からやかましく持てはやされるるいいずれも芸術げいじゅつとしては上等じょうとうの作品で、確実かくじつなる知識ちしき範囲はんい以外いがいにある際限さいげんなく広い暗黒界を懐手ふところで推理すいりほうによつて読者を引張ひっぱまわし、つい宇宙うちゅう第一義だいいちぎ(注:最も根本となる、いちばん大切なこと)とやらまでたつして、宇宙うちゅうほぐつくしたかのごとくに感ぜしめる手際てぎわは実にたくみなものとしてほめめなければならぬ。とくにヘッケルのごときは経験けいけんつて確実かくじつ知識ちしきを多くならべ、それより何時いつとはなしに懐手ふところで推理すいりほうつて読者をり入れるのであるから、あたかも実物を前の方にき、見物人に知れぬ様に絵画とつなぎ合せて、遠方の景色けしきまでもたくみに実物のごとくに見せけるパノラマと同様で、芸術げいじゅつとしては中々面白いものである。懐手ふところで推理すいりほうで進むと人々により全くちがつた結論けつろんたつするは勿論むろんであるが、哲学てつがく芸術げいじゅつとしてたくみなる手際てぎわあじわひ楽む者から見れば、結論けつろん如何いかかかわらず、上手じょうず哲学てつがくならばいずれも面白く感ずる。喜劇きげきには喜劇きげきの面白味があり、悲劇ひげきには悲劇ひげきの面白味がある通り、楽天らくてんてき哲学てつがくせつでも、厭世えんせい(注:世の中をいやなもの、人生を価値かちのないものと思うこと)てき哲学てつがくせつでも、これ芸術げいじゅつ作品としてそのこじつけ方のたくみな点を味はへば、いずれもそれ相当の面白味はある。
 以上いじょうべたごと心得こころえもつて読みさへすれば、哲学書てつがくしょだれが読んでも決してがいからう。絵画、音楽、芝居しばい浄瑠璃じょうるりしくは囲碁いご、ピンポン、ローンテニスと同様に、たんしばら娯楽ごらくるための方便ほうべん見做みなして哲学てつがくを味ふにおいては何のさまたげもない。もっと過度かどふけることの有害ゆうがいなるは他の芸術げいじゅつおけけると同様でもとより言ふまでもいことである。今日こんにち世の中で浅薄あさはか哲学てつがくてき書類しょるいが、青年やからあやまらせるのは、全く世間一般いっぱんの人々が従来じゅうらい哲学てつがく真価値しんかち誤解ごかいし、芸術げいじゅつなるべきものを学問のごとくに見做みなし、これれば宇宙うちゅう真理しんりまでたつすることが出来るもののごとくに思ひあやまつてるのにもとづくのであらう。芝居しばいは役者がつてると知つてても、悲しいまくには自然しぜんなみだが出るくらいであるゆえ哲学書てつがくしょごと論法ろんぽうたくみに組み立ててある書物を読んで、今日こんにち懐手ふところで推理すいりほう発達はったつする様に教育せられ来つた青年が自然しぜんに書物にまれてしまふのはがたいことでもあらうが、此点このてんとくに注意せぬと当人のためにも、社会のためにも随分ずいぶん迷惑めいわくが生ずるおそれがある。実際じっさいの世の中と哲学てつがく理論りろんとは全く別物べつものであるゆえ実際じっさい日々の生活には経験けいけんもととし、経験けいけんある人々の考へを参考さんこうして方針ほうしんを定め、其上そのうえ哲学てつがく趣味しゅみを有する人ならば、一種いっしゅ娯楽ごらくとしてあまふけらぬ程度ていどこれもてあそぶがよろしい。一生を哲学てつがくついやさうと思ふ人は無論むろんべつ問題で、これ俳諧はいかい宗匠そうしょう(注:文芸ぶんげい技芸ぎげいなどの道に熟達じゅくたつしており、人に教える立場にある人)、芝居しばいの役者と同じく一心に芸術げいじゅつはげむべきであるが、其他そのほかの者が哲学てつがく結論けつろん宇宙うちゅう真理しんりとを混同こんどうして、一身をあやまるがごときは実にきわみはねばならぬ。
 世の中には往々おうおう人間の経験けいけん不完全ふかんぜんなこと、範囲はんいせま制限せいげんあることをき、区々まちまちたる人間の経験けいけんもつ宇宙うちゅう真理しんりを知りつくすことは到底とうてい出来ぬとろんずる人があるが、これだけならば、我等われらとても全く同感である。しかしながられよりして、不完全ふかんぜん経験けいけんもととした科学よりは経験けいけん度外視どがいしした哲学てつがくろんの力がまされりとごと結論けつろんに立ちいたる人があるならば、我等われら論法ろんぽうあやまりを正さねばならぬ。人間の知識ちしき今日こんにち程度ていどまでに進んだのは種々しゅしゅ工夫くふうらし、手段しゅだんめぐらして、人間の出来る範囲はんい内でるべく、正しい経験けいけんるべく、広く集めた結果けっかであつて、今日こんにち以後いごの進歩も方法ほうほうるのほかいのである。もとより不完全ふかんぜん経験けいけんにはちがひないが、実際じっさい正確せいかく知識ちしきためにはこれ唯一ゆいつ方法ほうほうであるゆえ我々われわれ益々ますますこの方面に力をつくして生存せいぞん競争きょうそうける優者ゆうしゃたる様にとつとめねばならぬ。此節このせつ(注:このごろ)は青年間に煩悶はんもんなどとふ言葉が流行して、科学に満足まんぞくが出来ぬから哲学てつがくうつるとか、哲学てつがく満足まんぞくが出来ぬから宗教しゅうきょうもとめるとかふことを屡々しばしば聞くが、此等これらみな学問と芸術げいじゅつとの区別くべつ実際じっさいゆめとの区別くべつわすれたためのあやまりである。自分が人間でありながら、人間の経験けいけん不完全ふかんぜんなものゆえたのむに足らぬと考へて、経験けいけん以外いがいあたり満足まんぞくもとめるのは、あたか近眼きんがんの人が、わがは遠くが見えぬからたのむに足らぬとふて、態々わざわざこれつぶしてしまひ、千里先までも明らに見得みえごと眼球がんきゅうを生じたゆめを見たいと思うてねむりくのと同様で、常識じょうしきある人間の決して取らぬ所であらう。今日こんにち哲学てつがく研究の入場けんごとくに見做みなされて認識にんしきろんごときも、すで芸術げいじゅつとしての哲学てつがくの始めで、幾分いくぶんかの真理しんりふくんではるであらうが、また一方から見るとまよひの入口とも見做みなされべき性質せいしつのものである。
 田舎いなか芝居しばいでは往々おうおう見物人が芝居しばい筋書すじがきまれ、舞台ぶたいび出して敵役かたきやくの役者を打つことがある。菅原伝授鑑すがわらでんじゅかがみ道真みちざね公を流さうとする所へ見物人の中から博労ばくろう(注:馬喰ばくろう、牛馬の仲買人なかがいにん)の与五左よござふ男がび出して、「天神様にはつみはない、天神様のしり与五左よござが持つ」とうて相手の時平ときひらなげうつてつたとのことが、滑稽こっけい本(注:江戸えど時代後期の戯作ぎさく一種いっしゅ)に出てたが、厭世えんせいてき哲学書てつがくしょを読んで自殺じさつする人があつたならば、其人そのひと行為こうい与五左よござ滑稽こっけいの度がほとんど同じである。世が進むにしたがうて人間の生存せいぞん競争きょうそう益々ますますはげしくり、世路せいろ(注:世の中をわたっていくこと)は益々ますます困難こんなんゆえ悲観ひかんてき境遇きょうぐうる人の多いのはよんどころないことで、かる人々が悲観ひかんてき哲学てつがくせつを読めば、所論しょろんが一々おのれが身の上に適中てきちゅうするに相違そういなく、したがつて厭世えんせい主義しゅぎ失敗しっぱい者の増加ぞうかともに今後も追々おいおい蔓延まんえんするであらう。また自殺じさつ者のごときも新聞紙上にあらはれる直接ちょくせつ原因げんいん精神せいしん錯乱さくらんとか、家内の不和ふわとか財政ざいせい不如意ふにょい(注:思い通りにならないこと)とか失恋しつれんとか様々であるが、なお其先そのさききの原因げんいんたずねればいずれも生存せいぞん競争きょうそうおい適者てきしゃさかはびこつて、不適者ふてきしゃ生存せいぞん余地よちあたへぬにもとづくことゆえ、人口の増加ぞうかするにしたが自殺じさつ者の年々多くなることもまた到底とうていけられぬかも知れぬ。もっと此所ここ適者てきしゃふのは決して優良ゆうりょう者をわけではない、泥水どろみずの中では泥水どろみずてきする虫がごとく、にごつた世の中では、またこれてきする者が勝つてさかえるのは言ふを待たぬ。かる世の中に生れて来た者は「生活はたたかいなり」とふ古代よりの名言を一刻いっこくわすれず、つね生即いきるすなわち是争これあらそい心得こころえ益々ますます学問と芸術げいじゅつとの区別くべつ実際じっさいゆめとの区別くべつあきらかにし、実際じっさいの世の中で奮闘ふんとうするの覚悟かくご必要ひつようである。いたずら煩悶はんもんなどとしょうしてなまけてると、其間そのかんには真に生存せいぞん競争きょうそうに負けて益々ますます悲観ひかんてき境遇きょうぐうおちいつてしまふ。
 青年の愛読あいどくする雑誌ざっしや、青年のふでれる論文ろんぶん哲学てつがくめいたもののはなはだ多いのを見て、我等われらごとき考へを世におおやけにするのもあるい参考さんこうたすけとなるかと思ひ、此所ここかかげた次第しだいである。
(明治三十九年二月)







底本:「近代日本思想大系 9 丘浅次郎集」筑摩書房
   1974(昭和49)年9月20日 初版第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1906(明治39)年6月 『芸術としての哲学』 (中央公論)
校正:
YYYY年MM月DD日作成
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