追加 現代文明の批評

丘浅次郎





 以上いじょう本書に集めた二十ぺんの文はわれら(注:わたし)が明治めいじ四十二年より今年にいたるまで、十ヶ年あまりの間に種々しゅしゅ雑誌ざっしはなばなれに寄稿きこう(注:原稿げんこうを書いて送ること)したもので、その中にはたがいにえんの遠い題目のものもあれば、ほとんど何の関係かんけいもないごとくに思われるものもある。このたびこれを単行本たんこうぼんとしてふたたび世に出すについては、一応いちおうは整理して、順序じゅんじょをも考え重複じゅうふくしたところを書きあらためなどしたが、校正こうせい(注:文字のあやまりを正すこと)しながら全部を通読つうどくして見ると、多少重複じゅうふくのままにのこっているところや、つながりのはなはだ悪いところがあり、そのうえ、言いたいことでも、題目との関係かんけいうすいためにわずかにほのめかしただけに止めたところがここかしこにあって、自分で読んで見てもすこぶる意にたぬ点が多い。これをそのままおおやけにしては何となく読者に対してすまぬような感じがあるゆえ、さらに一篇いっぺん(注:一つのまとまった文章)を新たに書きつづって追加ついかとして本書の終わりにそええることにした。
 読者もかならず心づかれたことであろうが、われらはいずれの方面の出来事できごとを見ても、他の論者ろんじゃとはいちじるしくことなった考えがむねかび、筆をれば、自然しぜん多数の人々とはほとんど正反対の議論ぎろんになることが多い。その理由は言うまでもなく人類じんるい現状げんじょうかんする根本の考えがわれらと他の論者ろんじゃでは全くちがうているからである。すなわち多数の論者ろんじゃは今日の文明人をもって進歩の途中とちゅうにあるものと見なし、げんに上に向うて坂を登りつつありと考えているが、われらはこれに反し、人類じんるいはすでに下り坂の中程なかほどにあって、一歩一歩退化たいかしてゆくものと考える。かように根本の考えがことなる以上いじょうは、物の見方がちがうのはもとよりむをない。ここにはわれらの見地けんち(注:考え方)から現代げんだい文明のかく方面を見渡みわして、これを批評ひひょうし、前に言い足りなかったところをおぎなうておく。
 われらの人類じんるい退化たいかせつは生物学の研究にもとづいたわれ一個いっこの意見にぎぬ。その要点ようてんだけはきわめて不充分ふじゅうぶんながら、すでに前にべたゆえ、り返すことをけるが、最後さいご結論けつろんをつまんで言えば次のごとくである。すなわち今日の人類じんるい団体だんたいがあまり大きくなりぎたために、団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうた(注:優良ゆうりょうなものが生きのこり、劣悪れつあくなものがひとりでにほろびていくこと)が行なわれず、その結果けっかとして、団体だんたい生活に必要ひつよう協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ次第しだい退化たいかした。しこうして(注:そうして)人類じんるいのごとき階級がた団体だんたいにおいては協力きょうりょく一致いっちじつげるには旺盛おうせいなる服従ふくじゅうせいに待つのほかはないゆえ、協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかはまず服従ふくじゅうせい減退げんたいとしてあらわれる。われらの学説がくせつとしてべるところはたんにこれだけであるが、この考えの上に立って、昔から今日までの歴史れきし見渡みわたすと、全部が明らかに服従ふくじゅうせい減退げんたい歴史れきしとしてえいずる。絶対ぜったい服従ふくじゅう奴隷どれい根性こんじょうが、昔は人類じんるい一般いっぱん通性つうせい(注:世間せけん一般いっぱんみとめられる共通きょうつう性質せいしつ)であったのが、近世にいたっていちじるしく減少げんしょうしたことは何人にもうたがわれぬ事実であろうが、多数の論者ろんじゃはこれをもって人類じんるいの進歩と見なすに反し、われらはこれを協力きょうりょく一致いっち性質せいしつほろび行く一徴侯いちちょうこう(注:物事の起こる前触まえぶれ)と考えるところに大いなる相違そういがある。団体だんたい生活に必要ひつよう協力きょうりょく一致いっち精神せいしんも、協力きょうりょく一致いっちじつをあげるための一形式なる絶対ぜったい服従ふくじゅう性質せいしつも、団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうたさかんに行なわれる間はつねに進歩するが、団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつ(注:途中とちゅうで打ち切って、やめること)すればその時から直ちに退化たいかし始め、徐々じょじょではあるが休むことなしに次第しだい次第しだいに下りゆくをまぬがれぬ。これは如何いか(注:どんな)にしても止めることのできぬ運命であって、ふたたび団体だんたい間に自然しぜん淘汰とうたの行なわれるような世の中にぎゃくもどりせぬかぎりは、とうてい人類じんるい退化たいか挽回ばんかい(注:回復かいふく)することは不可能ふかのうであろうというのがわれらのせつである。もっとも協力きょうりょく一致いっち精神せいしんでも、絶対ぜったい服従ふくじゅう根性こんじょうでも、他の退化たいか途中とちゅうにある器官きかん性質せいしつと同じく、その退化たいか程度ていど人種じんしゅによってことなるはもちろん、個人こじんによってもはなはだしい相違そういがあり、また非常ひじょうの場合には、にわかにあらわれることがないともかぎらぬ。火事のさいに日ごろ力の弱い者が、つねならばとうてい持ち上げることのできぬような重い荷物を容易よういに(注:たやすく)かつぎ出し、後になって自分でもおどろくことがあるごとくに、戦争せんそうなどのおりには、平時へいじにはかくれていた協力きょうりょく一致いっち精神せいしんのこりが急にあらわれて、わが団体だんたいまもるためには命をててしまぬ者が幾人いくにんもでてくる。かような次第しだいで一々の場合をあげれば実に種々しゅしゅさまざまであるが、すべてこれらを平均へいきんして、昔と今とをくらべて見ると、協力きょうりょくせいでも服従ふくじゅうせいでも時代の経過けいかとともにげんじきたったことはあらそわれぬごとくに思われる。しこうして今日の文明生活をかくして生じたものと見れば、そのかく方面にそんする欠陥けっかん由来ゆらいも明らかになり、したがってその将来しょうらいに対しても多少の予言ができぬこともなかろう。


 現代げんだい文明の特徴とくちょう現実げんじつに対する不満ふまんである。いずれの国の如何いかなる階級の人間でも現実げんじつ謳歌おうか(注:めぐまれた幸せを大いに楽しみよろこび合うこと)し、現実げんじつよ、長くとどまれとぶ者は一人もない。る者は自由平等を要求ようきゅうしていまだこれをぬために不満ふまんであり、る者は、世間が自由平等を要求ようきゅうするために、自分らが今までどおりに、わがままができなくなったのに不満ふまんであり、さらに他の者は、いて(注:むりに)世の中の仕組みをあらためて見たがその結果けっかが予期したところと全くちがうので不満ふまんである。かように不満ふまん原因げんいんはさまざまであるが、現実げんじつに対して不満ふまんであるという点にいたってはあいひとしい。しこうして、不満ふまん者の大多数をめるのは言うまでもなく、長い間服従ふくじゅういられていたいわゆる民衆みんしゅうであって、かれらはとうてい今日のままでは我慢がまんができず、一日も早く奴隷どれい状態じょうたいから解放かいほうせられることを要求ようきゅうしてまぬ。現在げんざいの社会の制度せいどはむかし服従ふくじゅうせい基礎きそとして、階級をきびしく定めたころからの引きつづきであるゆえ、これをそのままにいては解放かいほうはとうていむずかしい。そのためには、まず制度せいどからあらためてかからねばならぬというので改造かいぞう必要ひつようさかんにとなえられる。従来じゅうらいの階級制度せいどのためにあましるうていた少数の人々に取っては、改造かいぞう己得きとく(注:自分が持っていること)の権利けんりうばわれるにひとしいゆえ、これらの人々は力をつくして、これをふせぎとめ、なおできることならば、さらに昔のありさまに引きもどそうとつとめる。かくして両者の間にあらそいがえぬが、数においてはもとより比較ひかくにならぬほどの相違そういがあるゆえ、全体としては改造かいぞうさけび声のみが高く聞こえるのである。
 さて、かように今日、改造かいぞうさかんにとなえられるにいたったのは何故なぜであるか。急ぎ改造かいぞうようするごとき事情じじょうが、新たに社会に生じたためであるか。それとも、また人間のほうがわって、今まで何とも思わず、平気で見過みすごしきたった事柄ことがらに対して新たに不満ふまんを感ずるようになったのであるかと考えて見るに、これはたしかに人間自身のほうに変化へんかが起こったためである。何故なぜというに、今日多数の者がえがたく感ずる上級者からの圧迫あっぱくは昔のほうがはるかにはげしかった。しかるに、それに対して、ただ、地頭じとうには勝たれぬ(注:道理どうりの通じない者や権力者けんりょくしゃにはどうやっても勝てないから、無理むりを言われてもしたがうしかないということ)としょうしてあきらめてすましていたのは全く人間の持って生まれる奴隷どれい根性こんじょうがまだ多量たりょうそんしていたからである。かりにそのころの人間を生きかえらせ今日の世の中にれきたったと想像そうぞうしたならば、万事ありがたいことばかりで、不満ふまんを言うべきすじは少しもない。しかるにその後この根性こんじょう徐々じょじょ退化たいかして程度ていどまでたつするか、または、すでに退化たいかしていたのが機会きかいあらわれると、何を見ても無理むり圧抑あつよく(注:おしつけ)のごとくに感ぜられ、とうていえ切れずわれわれもと自由解放かいほうさけぶにいたった。
 以上いじょうべたとおり、現実げんじつに対する不満ふまんも、改造かいぞう要求ようきゅうする熱望ねつぼうも、一に服従ふくじゅうせい減退げんたい基因きいんするものと思われるが、改造かいぞうのぞむ者が大多数である以上いじょうかく方面ともに若干じゃっかん改造かいぞうを行なわねばとうていおさまらぬであろう。しこうして改造かいぞうを実行したあかつきには如何いかになりゆくかというに、われらの考えによれば、階級かいきゅうかた団体だんたい動物が協力きょうりょく一致いっちの実をあげるには服従ふくじゅうせいもとづく階級制度せいどによるのほかはなく、服従ふくじゅうせい発達はったつ程度ていどは、その団体だんたい内における協力きょうりょく一致いっち実現じつげんのバロメートルとも見なすべきものゆえ、かかる動物の服従ふくじゅうせい退化たいかはすなわち協力きょうりょく一致いっちせい退化たいかの一形式にぎぬ。げんえて言えば、服従ふくじゅうせい退化たいかするころには、それだけ協力きょうりょく一致いっち困難こんなんになるわけである。されば今日如何いかなる名案めいあんが出たとしても、これを実際じっさいに行なうて見たならば、かなら協力きょうりょく一致いっち精神せいしん欠乏けつぼうのために意外のあたり故障こしょうが起こって、決して予定どおりの状態じょうたいにはたつしえられぬであろうと想像そうぞうする。かく言えばとて、われらは決して改造かいぞう不用ふようなりとろんじてこれに反対する次第しだいではない。ただ如何いかなる改造かいぞうこころみても理想の世の中は容易ようい実現げんじつせられぬとくのみである。
 以上いじょう現代げんだい文明を一括いっかつして、批評ひひょうしたのであるが、われらの見るところによれば、現代げんだい文明のいずれの部分にも通じた徴侯ちょうこう(注:前ぶれ)は、服従ふくじゅうせい退化たいかのために起こった現実げんじつに対する不満ふまんと、協力きょうりょく一致いっちせい減退げんたい勘定かんじょうに入れぬ幻影げんえいてき理想に対する憧憬しょうけい(注:あこがれること)とである。今日全世界を通じてかまびすしく(注:やかましいく)聞こえる改造かいぞうさけびはことごとくそのためであるが、さてこの次には如何いかなる文明ができるであろうか。


 まず社会の制度せいどから考えて見るに、原始時代の人間は数多くの小団体だんたいに分かれ、かく団体だんたいにはもっとも強い一人が酋長しゅうちょう(注:未開みかい部族ぶぞくの長)となって、絶対ぜったい専制せんせい(注:支配しはいてき立場にある者が独断どくだんでほしいままに事を行うこと)を行なうていたらしい。ただし如何いか絶対ぜったい専制せんせいが行なわれても、それに対する不満ふまんは起こらずにすんだ。何故なぜかというに、かような時代には小団体だんたい間の生存せいぞん競争きょうそうがはげしく、少しでも団体だんたい生活にてきせぬような団体だんたいえずてきなる団体だんたいのためにほろぼされ、団体だんたい生活にもっとてきする団体だんたいのみがつねに生きのこったであろうが、かような自然しぜん淘汰とうたが長くつづく間には団体だんたい生活に必要ひつよう協力きょうりょく一致いっちすなわち義勇ぎゆう(注:正義せいぎのために発する勇気ゆうき奉公ほうこう(注:一身をささげてくすこと)の精神せいしんはどこまでも発達はったつするゆえ、酋長しゅうちょうでも、他の者でもわが団体だんたいのためには命をててしまぬという性質せいしつを生まれながらにそなえている。それゆえ、酋長しゅうちょうの命ずるところはいつもかならず全団体だんたい利益りえきとなることのみであり、他の者はみなよろこんでこれに服従ふくじゅうして、ごう(注:少し)もこれを圧制あっせいとは感ぜぬ。酋長しゅうちょうが自分一人の欲望よくぼうたすために下々しもじも圧制あっせいし、下の者は自分らの利益りえきにもならぬことをいられて酋長しゅうちょううらむというごときは、すでに協力きょうりょく一致いっちせい退化たいかしたはるかのちの時代にはじめて生ずることである。
 団体だんたいが大きくなれば酋長しゅうちょう一人で全部を直接ちょくせつに治めることはできぬゆえ、酋長しゅうちょう補助ほじょする者が必要ひつようとなり、団体だんたいの大きさのすにじゅんじて補助ほじょ者の数もし、かくて団体だんたいは、おさめるがわおさめられるがわとの二段にだんに分かれるが、おさめるがわにはさらにまた数段すうだんの階級べつができあがる。団体だんたいの内が幾段いくだんに分かれようとも、もしも、協力きょうりょく一致いっち性質せいしつさえ充分じゅうぶん発達はったつしておれば、何の差支さしつかえもなく、よくおさまってゆくべきはずであるが、この程度ていどまで団体だんたいが大きくなったころには協力きょうりょく一致いっち性質せいしつはすでに大分おとろえているゆえ、団体だんたい内に勢力せいりょくあらそいが起こる。しこうして、まず勢力せいりょくあらそいの起こるのは、すでにおさめるがわに立つ者どもの間であるべきは見易みやす道理どうりである。かくて、しばらくの間は人類じんるい歴史れきしと言えば、団体だんたい間の緩慢かんまんなるあらそいのほかは、ことごとく団体だんたい内における覇者はしゃ(注:とくによらず、武力ぶりょく策略さくりゃくなどによって天下をおさめる者)間のはげしい勢力せいりょくあらそいの歴史れきしであった。すなわち歴史れきしは全く服従ふくじゅうせい退化たいかし始めた英雄えいゆう(注:才知さいち武勇ぶゆうにすぐれ、常人じょうにんにできないことをげた人)豪傑ごうけつ(注:武勇ぶゆうにすぐれ、強くいさましい人)の列伝れつでんのごとき体裁ていさいで、何十万何百万もあった被治者ひちしゃ(注:統治とうちされる者)はほとんど物の数にははいらず、後からり返って見ると、いたかいなかったか分からぬありさまである。しかるに服従ふくじゅうせいがなお一層いっそう退歩たいほすると、奴隷どれい境遇きょうぐうあまんじていた大多数がおいおい承知しょうちしなくなり、はじめは治者ちしゃ権限けんげんを少しずつちじめ、何ごとも自分らと相談の上でなければ行なわしめぬように規則きそくを定め、後には従来じゅうらい治者ちしゃ被治者ひちしゃの階級べつてつ(注:取りのぞく)して、自分らの世話は自分らですると言い出し、酋長しゅうちょう世襲せしゅう(注:身分・財産ざいさん職業しょくぎょうなどを、嫡系ちゃくけい子孫しそんが代々受けいでいくこと)の制度せいどはいして、治者ちしゃを自分らの中から選出せんしゅつするにいたった。ヨーロッパやアメリカ諸国しょこく歴史れきしを見ると、すべてこの順序じゅんじょに進んできたことが明らかである。
 しからば、治者ちしゃを自分らの中からえらび出したら、それで団体だんたい内がよくおさまるかというに決してさようなわけにはゆかぬ。協力きょうりょく一致いっち精神せいしん旺盛おうせいなころならば、如何いかなる制度せいどのもとにも団体だんたいはよくおさまるであろうが、一たんこの精神せいしん退化たいかしては、制度せいど如何いかあらためても容易よういおさまる見込みこみは立たぬ。自分らの団体だんたいは自分らでおさめるとりきんで見ても、銘々めいめい利己心りこしんが強くて、少しでも他のために犠牲ぎいせいとなることをきらうようではとうてい円満えんまんにことの運ぶ理屈りくつがない。一人よりは二人が強く、二人よりは三人が強いゆえ、他をはい(注:しりぞける)して、自分の思うことをなしとげようとすれば、いきお利害りがい関係かんけいの相同じ者らと徒党ととう(注:ある目的もくてきのために仲間なかまや一味などを組むこと)を組んで力を強くせねばならぬが、かようなものがいくつもできては、団体だんたいは四分五裂ごれつ(注:秩序ちつじょをなくしてばらばらになること)のありさまとなって、いつまでもあらそいのたねがつきぬ。このことは大きな団体だんたいの全部についても、団体だんたい内のかく小部分についても同じ理屈りくつであるから、みずかおさめるということは如何いかなる範囲はんいにおいてもなかなかむずかしいものと覚悟かくごせねばならぬ。とくに今日の人間は奴隷どれい根性こんじょう退化たいかしたと言うても、実はわずかに小部分をうしなうただけで、なおその多量たりょうそなえている者が多く、上からきびしく監督かんとくせられぬと、自分の当然とうぜんのつとめをもなまけるくらいであるゆえ、みずかおさめる資格しかくなどはすこぶるあやしい。まれには自身の利害りがいを一切眼中がんちゅうにおかずもっぱら団体だんたいのためにのみ力をつくす人や、団体だんたいまもるためには自ら進んで命をてる人が出てこぬともかぎらぬが、これらは、生物学上でいわゆる隔世かくせ遺伝いでん(Atavismus)(注:祖先そせんにあった特徴とくちょうが世代をへだてて子孫しそんあられる現象げんしょう)と名づける現象げんしょうで、遠い先祖せんぞ性質せいしつ偶然ぐうぜんあらわれた特別とくべつ例外れいがいである。
 改造かいぞうようする者と改造かいぞうこばむ者とがあり、改造かいぞう要求ようきゅうする者の中にも種々しゅしゅ党派とうはがあるとすれば、結局けっきょくは力のあらそいであって、力の強い者の主張しゅちょうがとおることになるであろうが、団体だんたい内がかく分裂ぶんれつしている以上いじょうは、だれ主張しゅちょうがとおったにしても、主張しゅちょうのとおった者が直ちに権力けんりょくにぎり、他の者は、そのために圧迫あっぱくせられるをまぬがれぬ。かくてはまた、これに対して不満ふまんえぬ者がさらに改造かいぞうくわだてるであろうから、どこまでたってもとどまるところがない。しこうしてすべてこれらのことの生ずる根本の原因げんいん人類じんるいの持って生まれる協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ次第しだい退化たいかしきたったからである。


 次に貧富ひんぷかんする方面を観察かんさつするに、現在げんざいの生活にはだれが見ても明らかに無理むりであると感ずる点が少なくない。たとえば、一定の財産ざいさんを有するものは遊んでいても贅沢ぜいたくらせるということでも、収入しゅうにゅう多過おおすぎてこまっている人のとなりに、しょくもとめてもられぬためにえ死にする人のあることでも、十万人をやしなうに足りるだけの地面に十万人が住みながら、その中の九万九千人が充分じゅうぶんに食物をられぬことでも、一としてなるほどもっともであると得心とくしん(注:納得なっとくすること)のできるものはない。これも昔ならば、おのおのその分であるとあきらめてすますこともできたであろうが、服従ふくじゅうせい退化たいかして、自由平等をさけぶような時世じせいとなってはとうていいつまでもそのままではおさまらぬ。今日のやかましい各種かくしゅの社会問題もせんじつめ(注:成分せいぶんがすっかり出つくすまでる)ればみなとみの分配の問題に帰着きちゃくする。されば、貧富ひんぷかんする問題は実に問題中の問題とも名付なづくべきものであるが、今後は如何いか処分しょぶんせらるであろうか。
 原始時代の人間は他の獣類じゅうるいと同じく各自かくじ食物をもとめて食うていたであろうから、もとより貧富ひんぷべつのあろうはずがない。後に矢をもって鳥獣ちょうるいたり、くわをもって畑をたがやすようになっても、物と物とを交換こうかんしている間は貧富ひんぷはほとんどなしにすんだであろう。しかるに、おいおい分業が進んで、獲師えし(注:猟師りょうし)、百姓ひゃくしょう(注:農民のうみん)、弓師ゆみしくわ鍛冶かじ(注:金属きんぞくきた加工かこうする職人しょくにん)というように一人一人の専門せんもんが定まると、弓師ゆみしは弓矢のみをつくって、猟師りょうしの肉や百姓ひゃくしょう穀物こくもつと取りえ、百姓ひゃくしょう穀物こくもつのみを作って猟師りょうしの肉や、くわ鍛冶かじくわと取りえ、だれも、他人と物を交換こうかんせねば一日も生活ができぬようになるが、かくなってもなお、物と物とを直接ちょくせつ交換こうかんしていてはすこぶる不便ふべんなことが起こる。たとえば猟師りょうしが肉を持ってきて、弓師ゆみしの矢と取りえていったとして、もしも弓師ゆみし空腹くうふくでなかったために、肉を食わずにおけば翌日よくじつまでにはくさるやもしれぬ。そこで、何かくさらず、くだけず運搬うんぱん便利べんりで、同じ物が数多くありながら、しかも容易よういにはがたいというような物をえらんで、これを何物とでも交換こうかんのできる貨幣かへい(注:商品の交換こうかん価値かちを表し、商品を交換こうかんするさい媒介物ばいかいぶつとして用いられ、同時に価値かち貯蔵ちょぞう手段しゅだんともなるもの)とすれば、かかる不都合ふつごうのぞくことができる。しこうして一たん貨幣かへいという重宝ちょうほう至極しごく(注:この上ない大切な宝物たからもの)なものが、世にあらわれた以上いじょう生産者せいさんしゃから安く買うた品物を消費者しょうひしゃに高く売って、その間でることを専門せんもんとする者もできて、おいおい貧富ひんぷが目立つようになる。また道具をして獲物えものの一部を礼にもらうというごときことは太古の時代からすでにあったかもしれぬが、貨幣かへいを用いるようになってからは、これが定まった制度せいどとなり、土地や金銭きんせんを他人にせば、自分ははたらかずして安楽あんらくらせることとなった。利子りしを元金にぎ足せば、これにまた利子りしがついて、いわゆる鼠算ねずみざんえてゆくゆえ、物をしてを取るという制度せいどが行なわれている以上いじょう富者ふしゃはますますみ、貧者ひんしゃはますますまずしく、貧富ひんぷ懸隔けんかく(注:大きなへだたり)はどこまでもはなはだしくならざるをない。かくのごとき次第しだいで、富者ふしゃは遊んで食い、貧者ひんしゃはたらいても食えぬというごとき、今日多数の人々がこれを見て不満ふまんえぬ状態じょうたいに立ちいたるべき要素ようそはすでに古来からそなわってあった。すなわち貨幣かへいを用いて商業をいとなみ、物をして利子りしを取るということが行なわれる以上いじょうは、富者ふしゃ貧者ひんしゃとのが生じ、富者ふしゃはますますみ、貧者ひんしゃはますますまずしく、遊んで贅沢ぜいたくらす者と、はたらきたくても仕事がないために餓死がしする者とができるのは、当然とうぜんり行きで、如何いかにしてもこれをけることはできぬ。昔から長い間、問題にならずにすんでいたとみの分配の問題が近世にいたってにわかにやかましくなったのは、ただ当然とうぜんきたるべきことが、最近さいきん百年間における大工業の発達はったつによって、早く到着とうちゃくしたためである。
 今日の財産ざいさん制度せいどだれが考えて見てもとうていいつまでもこのままでおさまるべきものではない。大多数の民衆みんしゅう覚醒かくせい(注:めざめる)して、さかんに自由平等をもとめ、はたらかぬ者は食うべからずとさけぶ世の中になっては、何とかこれを合理的ごうりてき改造かいぞうせねばならぬ。もしもこのままにえおいたならば、げん制度せいどのために不利益ふりえき位地いちにおかれている大多数の人間はとうてい我慢がまんができず、げん制度せいどによって不当ふとう利益りえきめている者等を相手取って、制度せいど変更へんこうせまり、一人一人にはなれては力が弱く、目的もくてきたつべき見込みこみがないゆえ、多数団結だんけつして一致いっちの行動を取る。さればげん制度せいどつづかぎりは、ストライキやサボタージュは決して止まぬのみか、ますますはげしくかつますます広く行なわれるものと思わねばならぬ。また尋常じんじょういちよう(注:特別とくべつでないこと)の手段しゅだんではとうてい目的もくてきたつせられぬ形勢けいせいを見ては、気早な連中れんちゅうは直ちに非常ひじょう手段しゅだんを取ることを躊躇ちゅうちょ(注:ためらうこと)せぬゆえ、危険きけんはますますえるばかりである。しからば、富者ふしゃとみいて貧者ひんしゃあたえればよろしいではないかとろんずる人があるかもしれぬが、今日となってはもはやそのような姑息こそく(注:一時のがれ)な彌縫策びぼうさく(注:とりつくろって間に合わせるための方策ほうさく)ではとうてい追いつかぬ。慈善じぜん事業や救済きゅうさい事業が今日ほどにさかんに行なわれる時代はいまだかつてなかったにかかわらず、ストライキが今日ほど頻繁ひんぱんにかつ有力に行なわれたことがかつてないのを考えれば、このことはすこぶる明らかである。
 しからば如何いかあらためたらよいかというに、これにかんしては、すでに数多くの改造かいぞうあん提出ていしゅつせられた。あるいは財産ざいさん私有しゆう制度せいどはいして、財産ざいさんはすべて共有きょうゆうにするがよろしいとか、何物とでも交換こうかんのできる貨幣かへいなるものを全廃ぜんぱいするがよろしいとか、その他細かい点にいたっては、十人十種じゅっしゅのさまざまの考えがとなえられている最中さいちゅうである。今日のすこぶる困難こんなんとみの問題の生じたみなもとが、金銭きんせんを用いて商売することや、私有しゆう財産ざいさんして利子りしを取ることにあるとすれば、貨幣かへいはい財産ざいさん共有きょうゆうにすれば問題は直ちに解決かいけつせられべきはずに見え、実際じっさいそのようにかたしんじている人も今日のところ決して少なくない。しかし、これらの改造かいぞうあんを実行して見たならばはたたして論者ろんじゃたちの予期しているような理想の世の中があらわれるやいなやというに、われらの考えは少しくちがう。
 貨幣かへいを用いて商売することや、私有しゆう財産ざいさんして利子りしを取ることが今日の難問題なんもんだいを生じた原因げんいんには相違そういないが、これはたん近因きんいんであって、決して根本の原因げんいんではない。われらの考えによれば、現代げんだい文明のとみかんする制度せいどに大欠陥けっかんの生じた真の原因げんいんはやはり、協力きょうりょく一致いっち精神せいしん退歩たいほと、服従ふくじゅうせい減少げんしょうとである。かり協力きょうりょく一致いっち精神せいしんと、絶対ぜったい服従ふくじゅう根性こんじょうとが太古たいこ(注:大昔おおむかし)のままに継続けいぞくしたと想像そうぞうすれば、とみかんしても何の問題も起こり余地よちがない。生産者せいさんしゃから一銭いっせんで買うた物を消費者しょうひしゃ十銭じゅっせんに売ってその間に九銭きゅうせんもうけるというごときことでも、必要ひつよう品を買いめて相場を上げ、数日の間に巨万きょまんとみつくるというごときことでもむろん貨幣かへいがなければできぬことではあろうが、かかることをあえてする者の生じたのは実は協力きょうりょく一致いっち精神せいしんがそこまで退化たいかしきたったからである。またもしも奴隷どれい根性こんじょうが昔のままに旺盛おうせいであったならば、資本家しほんか労働者ろうどうしゃとの間はいつまでも主従しゅじゅうもしくは親分子分の関係かんけいたもち、労働者ろうどうしゃ資本家しほんかのためにかげ日向ひなたなく忠勤ちゅうきん(注:忠実ちゅうじつつとめること)をつくし、資本家しほんか労働者ろうどうしゃをわが子のごとくにいたわり助け、もうかる時にも、不景気ふけいきの時にも苦楽くらくをともにするであろうから、決して今日のような行きまった状態じょうたいにはたつせぬ。資本家しほんか労働者ろうどうしゃとがはなはだしく相反目はんもくして、とうてい妥協だきょう余地よちがないようになった真の原因げんいん人類じんるい奴隷どれい根性こんじょう次第しだい次第しだい減少げんしょうしきたったことである。奴隷どれい根性こんじょうが全く消滅しょうめつし階級制度せいど絶対ぜったいかげかくしても、協力きょうりょく一致いっち性質せいしつさえ完全かんぜん発達はったつしていたならば、あたかもありはちに見るごとき平等かた団体だんたいつくって立派りっぱ団体だんたい生活をいとなむこともできるはずであるが、協力きょうりょく一致いっち精神せいしん退歩たいほしては如何いかなるかたによるも団体だんたい生活はますます困難こんなんにおちいるをまぬがれぬ。
 貧富ひんぷの問題にかんしても、制度せいど改造かいぞうの問題にかんしても、げんにたくさんの主義しゅぎ学説がくせつとなえられているが、これは今日の文明状態じょうたい是非ぜひとも改革かいかくようするためであって、いずれにも一応いちおう理屈りくつがあり、ただそれのみを聞いて見るとなるほどもっともと思われるものが多い。しかしながらもしこれらを実行して見たならば如何いかなる世の中が現出げんしゅつするであろうかと言うに、われらの考えによると、予期よきしたとおりの結果けっかはとうていられぬ。その理由は、奴隷どれい根性こんじょうの急に全滅ぜんめつせぬことと、協力きょうりょく一致いっち精神せいしんのさらに退化たいかしゆくことである。改造かいぞう後の理想郷りそうきょうえがいた小説しょうせつを読んで見るに、その中に描写びょうしゃしてある世の中は、いつも奴隷どれい根性こんじょうの全くない、協力きょうりょく一致いっち精神せいしん充分じゅうぶん発達はったつした人間ばかりのり合いであるが、かような人間は小説しょうせつのほかには容易よういに見いだされぬ。今日の実際じっさいの人間は奴隷どれい根性こんじょう退化たいかしたとは言うても、いまだわずかに一部分退化たいかしただけであって、大多数の者はなお五割ごわりないし九割きゅうわり奴隷どれい根性こんじょうそなえているゆえ、人間を真に平等のものと見なした制度せいどはとうていかれらにはてきせぬ。奴隷どれい根性こんじょうそなえた人間は目上めうえの者を尊敬そんけいすることを知っているだけで自分と同等の者を尊敬そんけいすることを全く知らぬゆえ、平等にもとをおいた制度せいどかれらの間にはむろん活用のできるのぞみがない。また今日のごとくに団体だんたい生活にてきせぬ団体だんたいでも立ちどころに滅亡めつぼうする心配のない世の中では、人間の持って生まれる協力きょうりょく一致いっち精神せいしんが今後進歩する見込みこみが立たぬが、この精神せいしん退歩たいほしては、如何いかなる制度せいどつくって見ても、かく個人こじんは自身の便宜べんぎ利益りえきのみを考え、規則きそく曲解きょっかいしたりやぶったりするであろうから、おそらく今日以上いじょうに問題が続出ぞくしゅつするであろう。誤解ごかいけるためにここにもことわっておくが、われらは決して改造かいぞう無用むようなりとくわけではない。充分じゅうぶん実際じっさい事情じじょうを研究して、必要ひつようみとめられた改造かいぞうを実行することは、もとより結構けっこうなことでもあり、かつくべからざることである。われらはただ人間の協力きょうりょく一致いっちせい徐々じょじょ退化たいかしゆくことに心付こころづかず、小説しょうせつにあるような理想てきの世の中が直ちにくるものとしんじてかかると、改造かいぞう結果けっかが予期に反するのを見て非常ひじょう失望しつぼう落胆らくたんしなければならぬことを注意したにぎぬ。


 以上いじょうは主として食う方面についてろんじたのであるが、次にむ方面について考えて見るに、現代げんだいの文明にはここにも多くの難問題なんもんだいひかえている。女子解放かいほうとか自由恋愛れんあいとか、産児制限さんじせいげんとか独身どくしん生活とか、その他さまざまの問題があるが、これらをろんずるに当たっては、まずこれらの問題が何故なぜに起こったかをきわめなければならぬ。真の原因げんいんまでさかのぼることをわすれて、ただ目前にある直接ちょくせつ障害しょうがいのみをのぞこうとつとめたのでは、かり成効せいこうしたとしても、その結果けっかはすこぶる不充分ふじゅうぶんならざるをない。
 猿類えんるい比較ひかくして推測すいそくするに、原始時代には女は絶対ぜったいに男に服従ふくじゅうしていたものと思われる。しかし服従ふくじゅういられているというごとき感じはさらに起こらずにすんだであろう。何故なぜというに、そのころの人間は服従ふくじゅうせい発達はったつしていたゆえ、女は服従ふくじゅう常態じょうたい心得て、ごうもこれをあやしまず、また、協力きょうりょく一致いっち精神せいしんさかんであったために、男のすることは、ことごとく団体だんたい利益りえきになることのみであったろうから、よく女子を保護ほごしいたわり、安全に子をませこれを育てせさせた。男が女を保護ほごすることも、女が男に服従ふくじゅうすることも、そのころの団体だんたい生活にはもっと必要ひつようであったろうから、協力きょうりょく一致いっちせい発達はったつしていたそのころの人間は、男ならば生まれながらに、自然しぜんに女を保護ほごし、女ならば生まれながらに自然しぜんに男に服従ふくじゅうしていたものとさつする。しかるにその後、協力きょうりょく一致いっちせいが少しずつ退化たいかしてだれかれも、団体だんたい全部の利害りがいよりも自分一個いっこ欲望よくぼうのほうに重きをおくようになれば、男は女を肉体快楽かいらくの道具もしくは日常にちじょうの用を便べんぜしめるための奴隷どれいと見なし、従来じゅうらい権力けんりょく利用りようしてずいぶん無理むりなことにも服従ふくじゅうを強い、ついには物品として随意ずいい交換こうかんまたは売買するようになった。かかる状態じょうたいにおかれても女は従来じゅうらい奴隷どれいせい継続けいぞくによって、る時期の間は無意織むいしきもしくは有意識ゆういしき我慢がまんしていたが、服従ふくじゅうせい退歩たいほ程度ていどまでたつするととうてい我慢がまんができなくなり、男のみが人間ではない、女も同じく人間であるとさけんで一日も速く奴隷どれい境遇きょうぐうから解放かいほうせられることを要求ようきゅうしてまぬ。これがすなわち婦人ふじん自覚じかくであるが、かかる時節じせつ到来とうらいした以上いじょうは、女子の人格じんかくみとめて、男子と同等の取りあつかいをするのはもはや当然とうぜんでもあり、またくべからざることでもある。女も男と同じく人間であることがみとめられた以上いじょうは、女は自分の気にまぬ男と同棲どうせい(注:一緒いっしょに住むこと)するをがえんぜず(注:承諾しょうちできない)、女も男もともに自分で気に入った配偶者はいぐうしゃえらみ、これと共同きょうどう生活をいとなむのが当然とうぜんことわりであるごとくに考えられるところから、家の都合や世間に対する便宜べんぎのために無理むりを強いられていた従来じゅうらい結婚けっこんの仕方に反抗はんこうして、結婚けっこんは全く自由恋愛れんあい基礎きその上におくべきものであるとのせつさかんにとなえだされた。これももっとも至極しごく主張しゅちょうであり、おいおいそのほうに向かい行くのは当然とうぜんであると思われる。自分で自由に配偶者はいぐうしゃえらむためには未婚みこんの青年男女がたがいに自由に交際こうさいすることが必要ひつようであり、また女も男と同じ程度ていどの教育を受けることが必要ひつようである。男女七歳ななさいにしてせきおなじうせずでは自分で配偶者はいぐうしゃえら機会きかい絶対ぜったいになく、また女の教育があまりにくては男のがわからも対等の者とみとめるわけにゆかず、女のがわからも男の真価しんか判断はんだんぬために選択せんたくあやりやすい。しこうして女にも男と同じ程度ていどの教育をほどこせば、女にも大概たいがいのことは男と同様にできるであろうから、出札係しゅっさつがかりや電車の車掌しゃしょうを始めとして、従来じゅうらい男の専有せんゆうであった各種かくしゅ職業しょくぎょうがおいおい女にもゆるされ、ついには、社会における男女の位置いち職業しょくぎょう方面においても実際じっさいに同等となり、男が自身のはたらきによって独立どくりつ活計かっけい(注:らしをいとなむこと)を立てるごとく、女も自身のはたらきによって独立どくりつの活計を立てるようになる。かくて女も男の寄生虫きせいちゅうたることを止めて、自活しるようになれば、男のみが政治せいじにあずかり、女には参政さんせいけんあたえぬということは如何いかにも不条理ふじょうりに思われるゆえ、女子参政さんせいの運動も当然とうぜんさかんになる。以上いじょうはいずれも当然とうぜんかくり行かざるをえざることであるから、そのるからぬかはもはや問題ではなく、ただ何時いつかくるかが問題であるにぎぬ。
 さて男に対する女の位置いちがかくのごとくに変化へんかして、はじ奴隷どれい境遇きょうぐうにあったものが、ついに全く同等の位置いちまでにたつしたのは、表面から見れば、文明の進んだ結果けっかとも思われるが、うらから見れば人間の持って生まれる服従ふくじゅうせいがだんだんと退化たいかしきたったためである。服従ふくじゅうせい退化たいかしても、協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ、すなわち団体だんたいのためには一身を犠牲ぎいせいきょうしてしまぬという精神せいしんさえ充分じゅうぶん発達はったつしておれば、共同きょうどう生活には何の差支さしつかえもないわけであるが、前にもべたとおり、人類じんるいのごとき階級かた団体だんたいにおいては、協力きょうりょく一致いっちはただ服従ふくじゅうせいによってのみ行なわれ、したがって服従ふくじゅうせい退化たいか協力きょうりょく一致いっちせい退化たいかの一徴侯ちょうこうぎず、服従ふくじゅうせい退化たいかするというのはすなわち協力きょうりょく一致いっちせい退化たいかに当たるゆえ、女の位置いちが進むと同時に男女の共同きょうどう生活にもやはり破綻はたんが生ずるをまぬがれぬ。世間には相愛そうあいする男女が自由に共同きょうどう生活をいとなめばきわめて幸福に円満えんまんらせるもののごとくに考える人がはなはだ多く、恋愛れんあいいた論文ろんぶんにはいずれもかく断定だんていしてあるが、これは人類じんるい協力きょうりょく一致いっちせい徐々じょじょ退化たいかしゆくことをわすれた空想である。男女ともに、生まれながらの協力きょうりょく一致いっちせい減少げんしょうすれば、それだけ利己りこてき個人こじん主義しゅぎかたむかざるをえず、利己りこ主義しゅぎの人間が二人集まって共同きょうどう生活をいとなめば、何ごとにつけても意見の衝突しょうとつない。二人は性欲せいよく満足まんぞくのために結合けつごうし、かつ世間や親類しんるいに対して攻守こうしゅ同盟どうめいむすばざるをぬゆえ、容易よういには共同きょうどう生活をくにいたらぬが、たがいの間が夜も昼もつねに円満えんまんでありるやいなやすこぶるうたがわしい。昔は夫婦ふうふの間は主従しゅじゅう関係かんけいで、わが国などでは今日こんにちでもおっとを主人とんでいるが、かような時代にはつまがいわゆる貞女ていじょ(注:おっとに対する貞節ていせつかたく守る女性じょせい)でありさえすれば家庭は円満えんまんであったろう。しかるに女の位置いちが上がって男と同等になり、つまにも自活しるだけのうでがある場合には、夫婦ふうふの間は主従しゅじゅう関係かんけいからへんじて、合資ごうし会社(注:出資者しゅししゃ責任せきにん運営うんえいする会社。出資額しゅっしがく以上には負債ふさいこうむらない、株主かぶぬしみたいな者はいない)の社員間の関係かんけいとなるゆえ、相方あいかたるところまで譲歩じょうほして、たがいにり合わねば会社の経営けいえいができぬ。ところが人間は男でも女でも協力きょうりょく一致いっちせい減少げんしょうするにしたがい、自我じがを曲げて他人にめ合わすことをますます苦痛くつうと感ずるゆえ、文明の進むとともに、男女の相ゆずり合うことが次第しだい困難こんなんとなり、ては、このような不愉快ふゆかい我慢がまんしてらすよりは、多少の自由はあっても単独たんどく生活のほうがしなりと思うようになる。昔から「つまければ楽しみく、つま有れば苦しみ有り」などと言うて、夫婦ふうふ間の不和ふわはあえて今日に始まったわけではないが、文明が進み利己りこ心が強くなれば和合わごうはだんだんとむずかしくなるであろう。トルストイの小説しょうせつの中に、老人ろうじんが汽車の乗合客に「昔にくらべて今日の方が夫婦ふうふ間の不和ふわが多いのは何故なぜであろうか」とたずねねられて「それは教育が進んだからさ」と言下げんか(注:すぐ)に答えるところがあるが、これにはたしかに一理あるように思われる。
 結婚けっこん当然とうぜん結果けっかまれることであるが、これにかんする考えも昔と今とでは大いにわってきた。団体だんたい生活をいとなむ動物においては団体だんたい内の個体こたいの数の多いことはてきなる団体だんたいに負けぬための一要素いちようそであるゆえ、子をあいし育てる性質せいしつ団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつとして自然しぜん淘汰とうたによって次第しだい発達はったつする。げんさるのごときは他より見てはおかしいほどに子を可愛かわいがり、のこして母親が死ねば他の牝猿めすざるが直ちにこれを引き取ってわが子同様にあいし育てる。元来子を育てるということは容易ようい骨折ほねおりではなく、損得そんとく報酬ほうしゅう多寡たかを考えてはとうていできる仕事ではない。ただ可愛かわいいと思う一心でかろうじてなしとげられるのである。しこうして、子が可愛かわいくてらぬという性質せいしつは、否応いやおうなしに子を育てさせるために、自然しぜん淘汰とうたつくり上げたものにほかならぬ。されば、親自身もそこに心付こころづかずにいるが、子を育てるということは、実は団体だんたい利益りえきのために犠牲ぎいせいとなってはたらいているわけで、このことのよく行なわれるだけ団体だんたい繁栄はんえいする。しかるに団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつして団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつ次第しだい退化たいかすると、その一部として子をあいする心もむろん減少げんしょうせざるをず、したがって子をむことも昔ほどには目出度めでたがらぬようになる。今日文明国で産児さんじの数の年々げんじ行くのはもとより種々しゅしゅ複雑ふくざつ原因げんいんがあるが、そのおもなる一つは、たしかに人間があまり子をしがらぬようになったことであろう。
 現代げんだいの人間が子供こどもの多く生まれるのをよろこばぬ原因げんいんの一は言うまでもなく経済けいざい上の関係かんけいからである。生活に多くの費用ひようようする今日の世の中では、子供こども一人を育て上げるには臨時費りんじひ経常費けいじょうひともにずいぶんかるゆえ、あまりゆたかならぬ家庭で子をむことを躊躇ちゅうちょするのは無理むりもない。あまり頻繁ひんぱんに子がまれては母の健康けんこうさわるというごとき場合には当然とうぜんこれをひかえねばならぬ。これらは止むをぬとしても、なおそのほかに容色ようしょく(注:容貌ようぼうと顔色)がおとろえるとか面倒めんどうたまらぬとか言うて子を生むことをきらふ女があり、また同じ理由で子が生まれても自分のちちを飲ませぬ女があるが、これはいずれも純粋じゅんすいなる利己心りこしん発現はつげん(注:あらわれ出ること)であって、団体だんたい生活に必要ひつよう犠牲ぎいせいてき精神せいしん退化たいかしたことをきわめて明瞭めいりょうしめしている。生物学の知識ちしき普及ふきゅうせぬ間は姙娠にんしんける方法ほうほうを知らぬゆえ、子を育てることをこのまぬ女も、止むを姙娠にんしんだけは我慢がまんし、生まれる前に堕胎だたい(注:人工じんこう妊娠にんしん中絶ちゅぜつ)するか、生まれると直ちにころすかのほかはなかったが、十九世紀せいきの後半に受胎じゅたいの生理が発見せられてからは、簡便かんべん避妊法ひにんほうがいくとおりも工夫くふうせられ、だれでもこれを実行することができるゆえ、子を生むことをよくせぬ者は、ねがいのとおりに子を生まずにすむ。今日まで女が比較ひかくてき貞操ていそうを守りきたったのは、一は姙娠にんしんおそれてのゆえであることを思えば、避姙ひにん(注:受胎じゅたい調節ちょうせい)にかんする知識ちしき普及ふきゅうはむろんこの方面にも影響えいきょうをおよぼさずには止まぬであろう。
 以上いじょうべたとおり、現代げんだい文明における男女の関係かんけい人類じんるい協力きょうりょく一致いっちせい退化たいかとこれにともな服従ふくじゅうせい消滅しょうめつとによって、原始時代の状態じょうたいから一歩一歩遠ざかりきたった結果けっかであるが、今後も文明が同じ方向に進むものとすれば、将来じゅうらい変化へんかを多少予測よそくすることもできよう。たとえば男女ともに犠牲ぎいせいてき精神せいしんがますますげんじて利己りこ心が強くなるであろうから、夫婦ふうふ間の和合わごうがそれだけ困難こんなんになり、したがって離婚りこんの数もえるであろう。青年らは実際じっさい経験けいけんとぼしい上に、激烈げきれつ性欲せいよくられ、極楽ごくらくのごとき幸福生活の幻影げんえいみたされて、あたかも鼠取ねずみとりにかかるねずみのごとくに結婚けっこん生活にはいる者が相変あいかわらず多かろうが、楽しいゆめ性欲せいよく満足まんぞくとともにたちまちさめめる。とくに強い恋愛れんあい結果けっかのぞみどおりに結婚けっこんした者はあらかじめ期待きたいするところが過度かどに多いゆえ、次いできたる失望しつぼう落胆らくたん尋常じんじょう一様ではなく、そのためだれえらんでも五十歩百歩であるとはじめからあきらめてかかったあいのない結婚けっこん者よりも、家庭の不和ふわはかえってすみやかに表面にあらわれるかもしれぬ。また経済けいざい上その他の関係かんけいから男の結婚けっこん年齢ねんれい次第しだいにおそくなりゆくかたむきがあるが、中年以上いじょうになれば思慮しりょ(注:注意ちゅうい深く心をはたらかせて考えること)分別ふんべつも出で、妻帯者さいたいしゃ実状じつじょう充分じゅうぶん観察かんさつしてから心を決するゆえ、独身どくしん生活のほうをえらむ者もおいおいとえてくる。晩婚者ばんこんしゃ独身者どくしんしゃえれば、結婚けっこんによらずしてこれらの相手をつとめる者のえるのはむろんのことゆえ、これを本職ほんしょくとする者、これを副業ふくぎょうとする者、これを娯楽ごらくとする者がおいおいに増加ぞうかし、したがって貞操ていそう(注:男女が相互そうご性的せいてき純潔じゅんけつを守ること)ということも昔ほどにはきびしくろんぜられぬにいたるであろう。結婚けっこん生活以外いがいにおいて姙娠にんしんまれるのはもちろんであるが、女が子を育てることをきらうようになっては、家庭においてもたびたびの姙娠にんしんは決して歓迎かんげいせられず、産児さんじの数は文明の進むとともにただ減少げんしょうする一方である。
 産児さんじ制限せいげんの問題は今日やかましくろんぜられておるが、学者や政治家せいじか議論ぎろんたたかわしている間にも産児さんじ減少げんしょうの事実は着々とあらわれてゆく。経済けいざい上、人道上、保健ほけん上、国防こくぼう上その他種々しゅしゅの方面から見て、避姙ひにん賛成さんせいする人も、反対する人もあるが、かり避姙ひにんは悪いことであると議決ぎけつせられたとしても、これを有効ゆうこうふせぎ止めることは容易よういでない。避姙ひにんの行なわれる直接ちょくせつ原因げんいんは何であっても、さらにそのおくくらいする真の原因げんいん自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつによる団体だんたい奉仕ほうし性質せいしつ減退げんたいにほかならぬゆえ、そこまでさかのぼって、その原因げんいんのぞき去らぬ以上いじょうは、目前の弥縫策びぼうさくくらいではなかなかこうそうせぬ。フランスでは人口の増加ぞうかせぬことを非常ひじょうに心配して、子供こども一人をむごとに親に年金をあたえるとか、一定の年齢ねんれいぎても独身どくしんでいる者にはぜいすとか、捨児すてごでも私生児しせいじでもことごとく国家でやしない育てるとか種々しゅしゅ手段しゅだんこうじているが、捗々はかばかしく(注:物事がのぞましい方向へ進むさま)は効果こうかあらわれぬようである。ことなった民族みんぞくが対立している世の中では、産児さんじの数がげんじ生まれた子が幼少ようしょうで死ぬことは、わが民族みんぞく戦闘力せんとうりょくがれると同じであるゆえ、すこぶる重大な問題としてこれに対するさくをめぐらさねばならぬが、かく個人こじん利己りこ心がさかんになった上に手軽な避姙ひにんほう一般いっぱんに知れわたっては如何いかんともいたし方がない。ヨーロッパの文明諸国しょこくでは、今日すでに幼児ようじ貴重品きちょうひんとして取りあつかい、幼児ようじ死亡率しぼうりつを引き下げるために、莫大ばくだい設備せつびをしたり、幼児ようじの週間ととなえとく幼児ようじ保護ほごに注意したりしているが、なお進んでは、子供こどもを国有として、国家の手でこれを育てるがよろしいというせつまで出ている。かつては子供こどもができぎるのにこまって、しげもなくこれを間引まびいた(注:口べらしのために生まれたばかりの子をころす)時代さえあったのに引きえ、文明の進むとともにその産額さんがく次第しだいげんじ、親からは厄介やっかいせられながら、団体だんたいからは宝物たからもののごとくに大切に保護ほごせられるにいたった。「二十世紀せいき子供こども世紀せいき」という言葉はこの意味に了解りょうかいすれば決して間違まちがいではなかろう。


 人間の持って生まれる協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退歩たいほすれば団体だんたい生活のかく方面においおい破綻はたんが生じ、したがって、かく個人こじんの生活にも利益りえき安定なところが生ずるをまぬがれぬが、これをふせぐために自然しぜんにできあがったものが、道徳どうとく法律ほうりつとである。これも野蛮やばん時代には生活が簡単かんたんで、知恵ちえひくかったゆえ、わずかな個条かじょう(注:いくつかに分けて書きならべたものの)だけですんだが、その後、世の中が進歩し、人の心が悪くなるにつれて、だんだんと面倒めんどうになり、とく法律ほうりつのごときはわざわざこれを専門せんもんとして学ばねばとうてい分からぬほどすこぶる複雑ふくざつなものとなった。しかし如何いかなる物でも必要ひつようなしには決して生ぜず、道徳どうとくでも法律ほうりつでも、その必要ひつようが起こって後にできるものゆえ、協力きょうりょく一致いっちせい退却たいきゃくしては、いつも一足ずつおくれて追いけてゆくにぎぬ。人間の知恵ちえつくった法律ほうりつあみの目を人間のさらに進んだ知恵ちえたくみにけることは決して不可能ふかのうでないゆえ、法律ほうりつ心得こころえてさえおればずいぶん悪事を行なうてもばつをまぬがれることもできよう。これに反して、法律ほうりつ心得こころえておらねば、目の前でぬすまれた物を取り返すことさえ容易よういでない。現代げんだいはかくのごとき法律ほうりつ万能ばんのうの時代であるが、今後も人類じんるい利己りこ心が増長ぞうちょうし、悪を行なう手段しゅだん巧妙こうみょうになるにしたがい、これをらさぬためにますますこ細かい法律ほうりつがつくられ、とうていおぼえ切れぬほどの複雑ふくざつきわまるものにならねば止まぬであろう。しからば道徳どうとくのほうは如何いかにというに、これは法律ほうりつとはちがうて、刑罰けいばつをもって威嚇いかくする力がないゆえ、人類じんるい服従ふくじゅうせい退歩たいほするとともに、人が次第しだいにこれをおそれなくなり、何ごとでも法律ほうりつにさえれねば、よいとして、道徳どうとくのごときは全く眼中がんちゅうにおかぬようになってゆく。かくなっては団体だんたい生活はますますみだれるおそれがあるゆえ、何とかしてこれを防止ぼうしせねばならぬが、それには、教育や宗教しゅうきょうにすがるよりほかにみちはない。
 しかるにこまったことには、教育も宗教しゅうきょうも今後は従前じゅうぜんほどにははたらきができぬ。何故なぜというに宗教しゅうきょうでも教育でも人類じんるい服従ふくじゅうせい旺盛おうせいである間は、強い権威けんいを持っていたが、服従ふくじゅうせい減退げんたいして、自由平等の考えがいきおいをると、だれも自分の頭の上に何物をもいただくことをこころよしとせず、すべて、自分の了簡りょうけんによって判断はんだんせねば承知しょうちせぬ。如何いか農夫のうふほねってもたねが悪くては多くの収獲しゅうかくられぬごとく、教育家や宗教家しゅうきょうか如何いか努力どりょくしても、相手の人間の持って生まれる協力きょうりょく一致いっちせい減退げんたいしては、如何いかんともいたし方がない。動物かく個体こたいの発生の順序じゅんじょは、その種族しゅぞくの今日までに進化しきたった道筋みちすじり返すものであるが、人間もそのとおりで、生まれてから成長せいちょうし終わるまでには原始時代から今日までの人類じんるい歴史れきしり返し、その間に、服従ふくじゅうせい退化たいかをも明瞭めいりょうり返している。すなわち幼年ようねんのころは昔の野蛮やばん時代の人間と同じく服従ふくじゅうせいが少しも退化たいかせず、目上の者には絶対ぜったい服従ふくじゅうし、命令はよく守り、言い聞かされたことは全部そのままにしんずる。しかるに少年となると、服従ふくじゅうせい徐々じょじょ退化たいかし、親や教師きょうしの言うことを少しずつ聞かぬようになり、青年期に近づいてくると、服従ふくじゅうせいはますます減少げんしょうして、教師きょうしの言うことなどははじめから馬鹿ばかにしてかかる。されば一定の年齢ねんれいたつした以上いじょうは、服従ふくじゅうせい退化たいかした者にもなるほどと合点のゆくようなことならば聞きもするが、従来じゅうらいの階級制度せいどまるような注文をしてもとうてい効能こうのうはない。かような方面の教育がいくぶんでもこうそうするのは、今後はわずかに幼年ようねんおよび少年時代の前半ぐらいにかぎられることになるであろう。宗教しゅうきょうのほうもほぼこれと同じく、従来じゅうらいの階級制度せいどてきするような服従ふくじゅうせい養成ようせいする道具として用いられる場合には、やはり子供こどもに対するほかには無効むこうである。もっとも文明のややひく民族みんぞくでは服従ふくじゅうせいがなお多量たりょうのこっているゆえ、直ちにこのとおりにはならぬであろうが、ゆくゆくはかかる状態じょうたいたつすることと思われる。
 文芸ぶんげいはその時々の思想の反影はんえいであるゆえ、服従ふくじゅうせい退化たいかすれば、その結果けっかが直ちに小説しょうせつ脚本きゃくほん評論ひょうろん漫筆まんぴつ(注:とりとめもなく書くこと)等にあらわれ、服従ふくじゅうせい退化たいかした人がこれを読めば、むろん大いに共鳴きょうめいを感ずる。現代げんだいの文明はちょうどこのへんくらいするが、今後はさらに同じ方向に進みゆくであろうから、従来じゅうらいの階級制度せいどをどこまでも保存ほぞんしたいと思う人々にとっては新しい文芸ぶんげいは実におそるべき強敵きょうてきである。ふるい人々がなお、権力けんりょくにぎっているところでは、文芸ぶんげいに対する取締とりしまりは年とともにますます厳重げんじゅうにならざるをぬであろう。


 現代げんだいの文明生活の特徴とくちょう現実げんじつに対する不満ふまんであるとは前にべたとおりであるが、不満ふまん苦痛くつうからのがれるには、現実げんじつわすれるのがもっとも手近な方便ほうべん(注:方法ほうほう)である。しこうして、安価あんか現実げんじつわすれるには、身体をとおしてはたら麻酔薬ますいやくか、精神せいしんをとおしてはたら迷信めいしんかを服用するにかぎる。現代げんだいの人間が酒や煙草たばこ絶縁ぜつえんすることができず、文明が進んでも迷信めいしんがますますさかんになる理由はこの点にそんする。
 酒と煙草たばことは、その物だけについて考えれば、滋養じようの足しになるわけでもなく、無駄むだ金銭きんせんついやし、生活費せいかつひかさめ(注:数量すうりょう金額きんがくが大きくなる)、貯蓄力ちょちくりょくげんじ、その上、自分の身体をがいするのみか、後に生まれる子孫しそん体質たいしつまでも弱らすゆえ、ひとつとして取るべきところはない。それにもかかわらず、酒と煙草たばことは人間のき物であって、如何いかなる山奥やまおく如何いかなるはなれ島でも、いやしくも人間の住んでいるところならば、酒と煙草たばことがかならずそこまでひろがっているというには、よほど重大な理由がなければならぬ。現実げんじつの世の中を楽しい、ありがたい世の中であると考える人などにはその理由はとうてい分からぬであろうが、現代げんだいの文明は人類じんるいの持って生まれる協力きょうりょく一致いっちせい減少げんしょうしきたった結果けっかであることに気がつけば、これははなはだ明瞭めいりょうに知れる。すなわち協力きょうりょく一致いっちせいげんずればそれだけ個人こじんてき利己りこ心が増加ぞうかするゆえ、同一団体だんたいぞくする者でもたがいにはげしく競争きょうそうし、こうよくするところをおつふせげるゆえ、万事思うようにはならず、だれの心にも多くの煩悶はんもん(注:苦しみもだえること)が生ずる。また協力きょうりょく一致いっちせい減少げんしょうとともに服従ふくじゅうせい退化たいかすれば、意志いしを曲げて他人に屈服くっぷくする我慢がまんができなくなるが、現代げんだいの社会の制度せいどは大体において昔からの階級制度せいどの引きつづきであるゆえ、ここにも大なる不満ふまんが起こる。これらの煩悶はんもん不満ふまん意織いしき明瞭めいりょうである間は一刻いっこく念頭ねんとう(注:心の中の思い)をらず、苦しくてたまらぬ。しこうしてこの苦しみからだつするには意識いしき不明瞭ふめいりょうにして恍惚こうこつ(注:物事に心をうばわれてうっとりする様子)としてこれをわすれるのほかにみちはない。酒や煙草たばここのんで用いられるのは、このためである。酒は昔から「うれいを玉箒たまぼうき」とばれ、煙草たばこを一名「わすれ草」としょうするのは明らかにこのことをしめしている。出征しゅうせい(注:軍隊ぐんたいわって戦地せんちに行くこと)中の兵士へいしに送る慰問いもん(注:不幸ふこう境遇きょうぐうの人や、災害さいがい・病気で苦しんでいる人などを見舞みまうこと)品として、酒と煙草たばことが第一にえらまれるのも同じ理屈りくつである。禁酒きんしゅ禁煙きんえん論者ろんじゃは、毎晩まいばん一合(注:180mリットル)ずつ酒をのむむことをはいすれば、一生涯いっしょうがいには何千円の貯金ちょきんができるとか、一人毎日一袋ひとふくろずつの煙草たばこを飲むことをやめれば、全国では何百万円のもうけけになるとか言うてすすめているが、酒や煙草たばこはなかなかそのくらいの説教せっきょうではきんじられぬ。もしも、今日アメリカで行なうているごとくに、法律ほうりつをもって禁酒きんしゅ強制きょうせいしたならば密売みつばいは言うにおよばず、工業用のメチール・アルコールを飲む者や、コカイン、阿片あへんモルヒネのるいを用いる者がたくさんに出ぬであろうか。しこうして、これらは普通ふつうのアルコールにくらべては、人体をがいすることが、何層倍なんそうばいに当たるか分からぬ。また、これらをも用いられぬように厳重げんじゅう監督かんとくしたならば、あたかもボイラーの安全弁あんぜんべんじとめたごとく、欝憤うっぷん(注:心の中にもり重なったいかり・うらみ)をらすあながふさがれたために、喧嘩けんか人殺ひとごろしとして噴出ふんしゅつするごときことはなかろうか。われらは自身では酒をまず、他人が酒をむことにも不賛成ふさんせいで、禁酒きんしゅの広く行なわれることはもっと希望きぼうするところであるが、上述じょうじゅつのごとくに考えるゆえ、かりに酒が絶対ぜったいに用いられぬ時節じせつ到着とうちゃくしたとしても、なかなか禁酒きんしゅ論者ろんじゃの予期するとおりの世の中とはならぬであろうと想像そうぞうする。
 現実げんじつに対する不満ふまんわすれるには、迷信めいしんもまた有効ゆうこうであるとべたが、迷信めいしんとは、黒いものを白いとしんじ、短いものを長いとしんずることで、かくしんずれば実際じっさい黒が白に見え、短が長に見える一種いっしゅ幻覚げんかくであるゆえ、阿片あへんモルヒネと同様に人をして夢幻むげんさかいに遊ばせることができる。人類じんるい服従ふくじゅうせい退歩たいほするにしたがい、宗教しゅうきょうの中の徳育とくいく(注:人間としての心情しんじょう道徳どうとくてき意識いしきやしなうための教育)の方便ほうべんとなるべき部分が次第しだい権威けんいうしなうに反し、はなはだしい(注:程度ていど普通ふつう状態じょうたいをはるかにこえている)迷信めいしんほどますますさかんになりゆくのはこの理由による。これも現実げんじつの世の中が意にちておれば、あえてげ出して、ゆめの世界に遊ぶ必要ひつようもないが、現代げんだいが苦しみの世であるために、何とかしてこれをわすれることに人々が熱中ねっちゅうするのである。文明が進み、人智じんちが開ければ迷信めいしんはだんだんかげかくすべきはずであるに、思い切り馬鹿ばか馬鹿ばかしい迷信めいしんほど熱心ねっしん信者しんじゃえぬのは何故なぜかと言うて、多数の学者がこれをろんじておるが、われらの考えによれば、これは全く上述じょうじゅつの理由による。その証拠しょうこには、阿片あへんモルヒネのごとくに麻酔ますい効力こうりょくを有する迷信めいしんでなければ一向に繁昌はんじょうせぬ。迷信めいしんという中には種々しゅしゅの者があり、滑稽こっけいなもの、風雅ふうが(注:高尚こうしょうで、みやびなおもむきのあること)なものもあれば、早くのぞきたい有害ゆうがいなもの、世道人心(注:世の中の道徳どうとくと人の心)のために長く保存ほぞんしたい有益ゆうえきなものもある。しかるに、これらの迷信めいしんもなく一つ一つてられゆくに反し、ただ麻酔力ますいりょくの強い迷信めいしんだけが、さかんに持てはやされる(注:からかったり、やかしたり、ほめたりする言葉ことばを大声でとなえる)のを見ると、文明をほこ現代げんだいにかかる迷信めいしんの行なわれる真の原因げんいんは、人類じんるい生来しょうらい(注:生まれつき)の協力きょうりょく一致いっちせいげんじて団体だんたい生活が一歩一歩困難こんなんになりきたったためであると考えざるをない。
 なほ現代げんだいの文明にはかく方面にはなはだしい欠陥けっかんがあるために、種々しゅしゅの病気が蔓延まんえんする。アルコール、ニコチン、阿片あへんモルヒネの中毒ちゅうどくは言うにおよばず、男女の関係かんけい乱雑らんざつになるために、花柳病かりゅうびょう(注:性病せいびょう)が一面にひろがり、せまい都会に数百万人が群集ぐんしゅうするゆえ、肺病はいびょう患者かんじゃもますます多くなる。その他、日夜精神せいしん過度かどはたらかすゆえ、神経しんけい衰弱すいじゃくにかかる人がかぎりなくできる。これらもその真の原因げんいんまでさかのぼれば、みな人類じんるい団体だんたいが大きくなりぎたために、団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつし、その結果けっかとして団体だんたい生活に必要ひつよう協力きょうりょく一致いっち性質せいしつがだんだんと退化たいかしきたったゆえである。協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかして、個人こじんてき利己心りこしんしてゆく実例じつれいはヨーロッパ、アメリカなどの文明国の新聞紙に毎日いくつでも出ている。
 かように考えて見ると、現代げんだいの文明は初期しょき癌腫がんしゅ(注:悪性あくせい腫瘍しゅよう患者かんじゃ大礼服たいれいふく(注:宮中の儀式ぎしき饗宴きょうえんのときに着用した礼服)を着飾きかざっている状態じょうたい匹敵ひってきする。表面は実に燦爛さんらん(注:はなやかで美しいさま)とかがやき、当人は何も知らずにすこぶる得意とくいであるが、身体のおく深いところには、不治ふじ(注:病気びょうきなおらないこと)のやまいひそんですでに程度ていどまで進んでいる。もっとも近来は身体に何か故障こしょうがあるらしいと当人は少しうたがい始め、いささか心配し出した様子に見える。優生学ゆうせいがく(注:悪性あくせい遺伝的いでんてき素質そしつ淘汰とうた改善かいぜんをはかることを目的もくてきとした応用おうよう遺伝学いでんがくの一分野ぶんや)とか、人種じんしゅ衛生学えいせいがくとかが、文明諸国しょこくでやかましくとなえられるようになったのはそのためである。ただし、民族みんぞく寿命じゅみょう個人こじん寿命じゅみょうちがい、随分ずいぶん長いもので、弱ってからも容易ようい滅亡めつぼうするにはいたらぬゆえ、たとえ、不治ふじの病にかかっても、決して急速に末期まっきが近づいてくるわけではない。かく民族みんぞくはできるだけ手をつくし、ラジウムでも、外科手術しゅじゅつでも、あらゆる方法ほうほうこうじて、病の重らぬようにもっぱら治療ちりょうにつとめるがよろしかろう。


 終わりに異民族いみんぞく間の関係かんけいについて考えて見るに、今日は未曾有みぞう(注:今まで一度もなかったこと)の大戦争だいせんそうのすんだ後で、戦争せんそうの苦しいことは、だれ充分じゅうぶん経験けいけんし、如何いかなる苦しみをしのんでも戦争せんそうだけはけたいと思うておるところゆえ、何とかして、未来みらい永劫えいごう(注:これから先、無限むげんに長い年月にわたること)戦争せんそうなどをせずにすます工夫くふうはなかろうかと、さまざまに考案こうあんをめぐらしている。その一つは、国際こくさい聯盟れんめいであるが、これは実際じっさいに行なわれることであろうか。人類じんるい協力きょうりょく一致いっちせいげんずれば、同一民族みんぞく内の紛擾ふんじょう(注:もめること)がし、それだけ他民族みんぞく攻撃こうげきする力が弱くなるゆえ、異民族いみんぞく間の争闘そうとう(注:あらそいたたかうこと)は昔ほどには劇烈げきれつでありぬわけであるが、さりとて、異民族いみんぞく間の反抗はんこうがそれだけ緩和かんわ(注:きびしさやはげしさの程度ていどやわらげること)される次第しだいでもない。「えんの近い者同志どうしにくしみがもっとはげしい」(Acerrima proximorum odia)ということわざもあって、相へだたった者の間にはかえって妥協だきょうも行なわれやすいに反し、よく仲間なかまあらそいはなかなかおさまらぬ。動物のれいを見ても「やどかり」と「いそぎんちゃく」のごとくに全くべつの部門にぞくする種類しゅるいの間にはたがいにあいたすけて共棲きょうせいするものもあるが、同一種どういつしゅ内の変種へんしゅの間はすこぶるなかの悪いのがつねである。なれれたモルモットと野生モルモットとを同じかごに入れても、あいはなれて近よらず、野猫のねこ家猫いえねこ見付みつ次第しだいころし、山犬は猟犬りょうけんかたきとして、けねらうなど、えんの近い者ほど相憎あいにくむことがはなはだしい。海産かいさん群生ぐんせい動物についての実験じっけんによるに、一群体いちぐんたいを二つに切っても、一両日のうちにこれをぎ合わせれば、たちまち元のとおりに癒着ゆちゃくするが、一ヶ月あまりべつうつわっておいた後にぎ合わせては、もはやたがいに癒着ゆちゃくせぬのみか、相反抗はんこうして、相手をかこみ負かそうと努力どりょくする。人間は何人種なにじんしゅでも、大体だいたい相似あいにたもので、たがいの間には雑種ざっしゅがいくらでも生まれるほどにえんの近い者であるが、すでにいくつかの人種じんしゅ、いくつかの民族みんぞくに分かれた以上いじょうは、相反抗はんこうせずにはおられず、異民族いみんぞくさかいせつしているところには昔からかなら争闘そうとうがあった。これは、人間が先天せんてんてきに持って生まれる性質せいしつとして、容易よういなことではけぬ。しからば何故なぜ、時として異民族いみんぞく結合けつごうするかというに、これは、共同きょうどうてきに対して、身をまもるためである。今日は交通が開け世界がせまくなったためにいずれの民族みんぞくの間にも密接みっせつ関係かんけいが生じ、平時にも戦時せんじにも単独たんどくの行動は不利益ふりえきであるゆえ、おのおの適当てきとう仲間なかまさがして聯合れんごうはかるが、その目的もくてきとするところは、いつも競争きょうそうの相手に負けぬためである。まるところ、かく民族みんぞくたがいに相反抗はんこうする性質せいしつそなえながら、てきに対するさくとして、結合けつごうしておるのであるゆえ、あたかもてきひもとなって、聯合れんごう民族みんぞくを外からめていることにあたる。共同きょうどうてきがなくなれば聯合れんごう民族みんぞく当然とうぜん一つ一つにはなれるのほかはない。しかし一つ一つにはなれては力が弱いゆえ、新たなてきあらわれた場合にはふたたび聯合れんごうせねばならぬ。かくのごとく聯合れんごうかなら共同きょうどうてきのあるときにのみむすばれることを思えば、しょ強国がことごとく聯合れんごうして、相手なしの同盟どうめいつくるやいなやすこぶるうたがわしい。かりに形だけはできたとしても、ただ費用ひようがかかるだけで結局けっきょくは何の役にも立たぬ骨董品こっとうひん(注:古いだけがとりえの、役に立たない人や物のたとえ)にぎぬであろう。
 また人類じんるい服従ふくじゅうせい程度ていどまで減少げんしょうすると、個人こじんとして自由をよくするのみならず、民族みんぞくとしても自由をよくするゆえ、これまで他民族たみんぞくのために併合へいごうせられていた民族みんぞくは、何らかの機会きかいに乗じて独立どくりつ運動を始める。これはとうていふせぎがたい世のり行きで、司配しはいするがわから見れば、はなはだ厄介やっかいなことであるが、如何いかんともいたし方がない。たとえばアイルランドや東インドのごときは、当分の間はイギリス国政治家せいじか頭痛ずつうたねであろう。
 今日のところでは、白色人種じんしゅがほとんど全世界の覇権はけんにぎっているが、今後は如何いかりゆくであろうかと言うに、この間題をろんずるにはまず白色人種じんしゅと有色人種じんしゅとの優劣ゆうれつ比較ひかくして見なければならぬ。しこうして、白色人種じんしゅの中にもたくさんの民族みんぞくがあり、有色人種じんしゅ中にはさらに多くの民族みんぞくがあって、それぞれ優劣ゆうれつ程度ていどちがい、われらのごとき実際じっさいのことを知らぬ者にはたしかなことは何も言われぬが、こころみに白色人種じんしゅの中のもっとも進んだ民族みんぞくと、有色人種じんしゅの中のもっとも進んだ民族みんぞくとを抽象ちゅうしょうてき想像そうぞうして比較ひかくして見よう。
 民族みんぞく民族みんぞくとの競争きょうそうにおいて、いずれが勝って勢力せいりょくるかは、さまざまの条件じょうけんによって定まる。たとえば、人口の多い民族みんぞくは少ない民族みんぞくに勝ち、体力の強い民族みんぞくは弱い民族みんぞくに勝ち、勇気ゆうきある民族みんぞく卑怯ひきょう民族みんぞくに勝ち、仕事のたくみみな民族みんぞく下手へた民族みんぞくに勝つわけで、実際じっさいはその関係かんけいがすこぶる複雑ふくざつであろうが、人類じんるいはじめ他の動物に打ち勝ったのも、文明人が野蛮やばん人を征服せいふくしたのものうと手とのはたらきによっててきにまさる道具をつくり用いたゆえであることを考えると、今後とても、民族みんぞく間の競争きょうそうの勝負はよほどまでは精巧せいこう器械きかいつくりうる智力ちりょく程度ていどによって定まるであろう。今、白色人種じんしゅと有色人種じんしゅとをくらべて見るに、学問芸術げいじゅつにおいても殖産しょくさん工業(注:明治政府せいふが西洋諸国しょこく対抗たいこうし、産業さんぎょう資本しほん主義しゅぎ育成いくせいにより国家の近代化を推進すいしんしたしょ政策せいさく)においても白色人種じんしゅのほうが一段いちだんまさっていることはうたがわれぬ。いわゆる文明の利器りきはことごとく白色人の工夫くふう創造そうぞうしたものであって、有色人の発明にかかるものは一つとしてない。かような状態じょうたいでは少なくもなおしばらくの間は有色人が白色人と対等の位置いちに進むことはむずかしい。昔の歴史れきしを読んで見ると、一民族いちみんぞくの文明が進んで惰弱だじゃく(注:意気地いくじのないこと)になったころにとなりの野蛮やばん人がきてこれをほろぼしたれいはいくらもあるが、かかることは、器械きかいが今日ほどに精巧せいこうでなかった時代にかぎる。今後の戦争せんそうには飛行機ひこうきのわずかの優劣ゆうれつによって、勝負が定まることもあるであろうから、たくみな器械きかいを発明し製造せいぞう民族みんぞくはほとんど勝てる見込みこみがない。てきの人口がにわかにげんじてくれればよいが、文明が進むと産児さんじの数がると言うても、これは比較的ひかくてきの話しで、白色人でも年々相応そうおう繁殖はんしょくし、有色人も産児さんじの数は少しずつげんじてゆくゆえ、数で圧倒あっとうするのぞみもまことに少ない。健康けんこう程度ていどでも、やまいに対する抵抗ていこう力でも、有色人がかならずしも白色人にまさるわけでないゆえ、この点においても、まず五分五分と見ておかねばならぬ。して見ると、結局けっきょく知恵ちえの進んでいるだけが白色人の勝ちであるゆえ、今後はおそらく地球上における白色人の勢力せいりょくが今日以上いじょうし、有色人はますます圧迫あっぱくせられるのほかはないであろう。
 しからば、白色人は有色人を圧迫あっぱくして、それで満足まんぞくするかというに決してさようではなく、白色人中のもっとも有力なる二民族みんぞくたがいに反目して、次回の世界戦争せんそうはもし起こるとすればかならずその間に起こる。その理由はかれらを聯合れんごうせしむべき共同きょうどうてきがないからである。しこうして白色の二大民族みんぞく勢力せいりょくあらそう場合には、いずれもできるだけ多くの味方をつく必要ひつようがあるゆえ、有色民族みんぞく中の有力なものをも仲間なかまに引き入れる。こうの白色民族みんぞくへいの有色「民族みんぞく同盟どうめいむすべば、おつの白色民族みんぞくていの有色民族みんぞくさそい入れ、白色人が二組に分かれるにしたがい、有色人も二組に分かれて、そのいずれにか加担かたんする。かような次第しだいで、白色人が全部集まって一団いちだんとなることがないごとく、有色人が結合けつごうして、一団いちだんとなる機会きかいもない。白色人が一団いちだんとなり有色人も一団いちだんとなって、その間に戦闘せんとうが行なわれるというのは、有色人が白色人と対等の位置いちまでに進んだ上でなければないことであるが、かような時がはたたしてくるやいなうたがわしい。有色人が全部団結だんけつすれば白色人の圧迫あっぱくふせぐに当たって大いに有効ゆうこうであるが、このことは白色人がたくみにあやつるのと、有色民族みんぞく相互そうご間の憎悪ぞうおとのために容易よういに行なわれぬ。おそらく当分の間は、白色民族みんぞくは有色民族みんぞく圧迫あっぱくしながらも、これを味方として利用りようし、有色民族みんぞくは白色民族みんぞく圧迫あっぱくを受けながらも一致いっち団結だんけつするにいたらず、いずれも民族みんぞく間の紛議ふんぎ民族みんぞく内の騒擾そうじょう(注:集団しゅうだんさわぎを起こし、社会の秩序ちつじょみだすこと)とに追われて日をごすことであろう。
(大正九年九月)









底本:「煩悶と自由」有隣堂
   1968(昭和43)年7月20日 発行
入力:矢野重藤
初出:1921(大正9)年9月   「煩悶と自由」のため執筆
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