以上本書に集めた二十
篇の文は
我ら(注:わたし)が
明治四十二年より今年にいたるまで、十ヶ年
余の間に
種々の
雑誌に
離れ
離れに
寄稿(注:
原稿を書いて送ること)したもので、その中には
互いに
縁の遠い題目のものもあれば、ほとんど何の
関係もないごとくに思われるものもある。このたびこれを
単行本としてふたたび世に出すについては、
一応は整理して、
順序をも考え
重複したところを書き
改めなどしたが、
校正(注:文字の
誤りを正すこと)しながら全部を
通読して見ると、多少
重複のままに
残っているところや、つながりのはなはだ悪いところがあり、そのうえ、言いたいことでも、題目との
関係の
薄いためにわずかにほのめかしただけに止めたところがここかしこにあって、自分で読んで見てもすこぶる意に
満たぬ点が多い。これをそのまま
公にしては何となく読者に対してすまぬような感じがあるゆえ、さらに
一篇(注:一つのまとまった文章)を新たに書き
綴って
追加として本書の終わりに
添えることにした。
読者も
必ず心づかれたことであろうが、
我らはいずれの方面の
出来事を見ても、他の
論者とはいちじるしく
異なった考えが
胸に
浮かび、筆を
執れば、
自然多数の人々とはほとんど正反対の
議論になることが多い。その理由は言うまでもなく
人類の
現状に
関する根本の考えが
我らと他の
論者では全く
違うているからである。すなわち多数の
論者は今日の文明人をもって進歩の
途中にあるものと見なし、
現に上に向うて坂を登りつつありと考えているが、
我らはこれに反し、
人類はすでに下り坂の
中程にあって、一歩一歩
退化してゆくものと考える。かように根本の考えが
異なる
以上は、物の見方が
違うのはもとより
止むを
得ない。ここには
我らの
見地(注:考え方)から
現代文明の
各方面を
見渡して、これを
批評し、前に言い足りなかったところを
補うておく。
我らの
人類退化説は生物学の研究に
基づいた
我ら
一個の意見に
過ぎぬ。その
要点だけはきわめて
不充分ながら、すでに前に
述べたゆえ、
繰り返すことを
避けるが、
最後の
結論をつまんで言えば次のごとくである。すなわち今日の
人類は
団体があまり大きくなり
過ぎたために、
団体間の
自然淘汰(注:
優良なものが生き
残り、
劣悪なものがひとりでに
滅びていくこと)が行なわれず、その
結果として、
団体生活に
必要な
協力一致の
性質が
次第に
退化した。しこうして(注:そうして)
人類のごとき階級
型の
団体においては
協力一致の
実を
挙げるには
旺盛なる
服従性に待つのほかはないゆえ、
協力一致の
性質の
退化はまず
服従性の
減退として
現われる。
我らの
学説として
述べるところは
単にこれだけであるが、この考えの上に立って、昔から今日までの
歴史を
見渡すと、全部が明らかに
服従性減退の
歴史として
眼に
映ずる。
絶対服従の
奴隷根性が、昔は
人類一般の
通性(注:
世間一般に
認められる
共通の
性質)であったのが、近世にいたっていちじるしく
減少したことは何人にも
疑われぬ事実であろうが、多数の
論者はこれをもって
人類の進歩と見なすに反し、
我らはこれを
協力一致の
性質の
亡び行く
一徴侯(注:物事の起こる
前触れ)と考えるところに大いなる
相違がある。
団体生活に
必要な
協力一致の
精神も、
協力一致の
実をあげるための一形式なる
絶対服従の
性質も、
団体間の
自然淘汰が
盛んに行なわれる間はつねに進歩するが、
団体間の
自然淘汰が
中絶(注:
途中で打ち切って、やめること)すればその時から直ちに
退化し始め、
徐々ではあるが休むことなしに
次第次第に下りゆくをまぬがれぬ。これは
如何(注:どんな)にしても止めることのできぬ運命であって、ふたたび
団体間に
自然淘汰の行なわれるような世の中に
逆戻りせぬ
限りは、とうてい
人類の
退化を
挽回(注:
回復)することは
不可能であろうというのが
我らの
説である。もっとも
協力一致の
精神でも、
絶対服従の
根性でも、他の
退化の
途中にある
器官や
性質と同じく、その
退化の
程度は
人種によって
異なるはもちろん、
個人によってもはなはだしい
相違があり、また
非常の場合には、にわかに
現われることがないとも
限らぬ。火事の
際に日ごろ力の弱い者が、つねならばとうてい持ち上げることのできぬような重い荷物を
容易に(注:たやすく)かつぎ出し、後になって自分でも
驚くことがあるごとくに、
戦争などのおりには、
平時にはかくれていた
協力一致の
精神の
残りが急に
現われて、わが
団体を
護るためには命を
捨てて
惜しまぬ者が
幾人もでてくる。かような
次第で一々の場合をあげれば実に
種々さまざまであるが、すべてこれらを
平均して、昔と今とをくらべて見ると、
協力性でも
服従性でも時代の
経過とともに
減じきたったことは
争われぬごとくに思われる。しこうして今日の文明生活をかくして生じたものと見れば、その
各方面に
存する
欠陥の
由来も明らかになり、したがってその
将来に対しても多少の予言ができぬこともなかろう。
現代文明の
特徴は
現実に対する
不満である。いずれの国の
如何なる階級の人間でも
現実を
謳歌(注:
恵まれた幸せを大いに楽しみ
喜び合うこと)し、
現実よ、長く
留まれと
呼ぶ者は一人もない。
或る者は自由平等を
要求していまだこれを
獲ぬために
不満であり、
或る者は、世間が自由平等を
要求するために、自分らが今までどおりに、わがままができなくなったのに
不満であり、さらに他の者は、
強いて(注:むりに)世の中の仕組みを
改めて見たがその
結果が予期したところと全く
違うので
不満である。かように
不満の
原因はさまざまであるが、
現実に対して
不満であるという点にいたっては
相ひとしい。しこうして、
不満者の大多数を
占めるのは言うまでもなく、長い間
服従を
強いられていたいわゆる
民衆であって、
彼らはとうてい今日のままでは
我慢ができず、一日も早く
奴隷の
状態から
解放せられることを
要求して
止まぬ。
現在の社会の
制度はむかし
服従性を
基礎として、階級をきびしく定めたころからの引き
続きであるゆえ、これをそのままに
据え
置いては
解放はとうていむずかしい。そのためには、まず
制度から
改めてかからねばならぬというので
改造の
必要が
盛んに
唱えられる。
従来の階級
制度のために
甘い
汁を
吸うていた少数の人々に取っては、
改造は
己得(注:自分が持っていること)の
権利を
奪われるにひとしいゆえ、これらの人々は力をつくして、これを
防ぎとめ、なおできることならば、さらに昔のありさまに引き
戻そうとつとめる。かくして両者の間に
争いが
絶えぬが、数においてはもとより
比較にならぬほどの
相違があるゆえ、全体としては
改造の
叫び声のみが高く聞こえるのである。
さて、かように今日、
改造が
盛んに
唱えられるにいたったのは
何故であるか。急ぎ
改造を
要するごとき
事情が、新たに社会に生じたためであるか。それとも、また人間のほうが
変わって、今まで何とも思わず、平気で
見過ごしきたった
事柄に対して新たに
不満を感ずるようになったのであるかと考えて見るに、これはたしかに人間自身のほうに
変化が起こったためである。
何故というに、今日多数の者が
堪えがたく感ずる上級者からの
圧迫は昔のほうがはるかにはげしかった。しかるに、それに対して、ただ、
泣く
児と
地頭には勝たれぬ(注:
道理の通じない者や
権力者にはどうやっても勝てないから、
無理を言われても
従うしかないということ)と
称してあきらめてすましていたのは全く人間の持って生まれる
奴隷根性がまだ
多量に
存していたからである。
仮にそのころの人間を生き
還らせ今日の世の中に
連れきたったと
想像したならば、万事ありがたいことばかりで、
不満を言うべき
筋は少しもない。しかるにその後この
根性が
徐々と
退化して
或る
程度まで
達するか、または、すでに
退化していたのが
或る
機会を
得て
現われると、何を見ても
無理な
圧抑(注:おしつけ)のごとくに感ぜられ、とうてい
堪え切れず
我も
我もと自由
解放を
叫ぶにいたった。
以上述べたとおり、
現実に対する
不満も、
改造を
要求する
熱望も、一に
服従性の
減退に
基因するものと思われるが、
改造を
望む者が大多数である
以上は
各方面ともに
若干の
改造を行なわねばとうてい
治まらぬであろう。しこうして
改造を実行した
暁には
如何になりゆくかというに、
我らの考えによれば、
階級型の
団体動物が
協力一致の実をあげるには
服従性に
基づく階級
制度によるのほかはなく、
服従性の
発達の
程度は、その
団体内における
協力一致実現のバロメートルとも見なすべきものゆえ、かかる動物の
服従性の
退化はすなわち
協力一致性の
退化の一形式に
過ぎぬ。
言を
換えて言えば、
服従性の
退化するころには、それだけ
協力一致も
困難になるわけである。されば今日
如何なる
名案が出たとしても、これを
実際に行なうて見たならば、
必ず
協力一致の
精神の
欠乏のために意外の
辺に
故障が起こって、決して予定どおりの
状態には
達しえられぬであろうと
想像する。かく言えばとて、
我らは決して
改造を
不用なりと
論じてこれに反対する
次第ではない。ただ
如何なる
改造を
試みても理想の世の中は
容易に
実現せられぬと
説くのみである。
以上は
現代文明を
一括して、
批評したのであるが、
我らの見るところによれば、
現代文明のいずれの部分にも通じた
徴侯(注:前ぶれ)は、
服従性の
退化のために起こった
現実に対する
不満と、
協力一致性の
減退を
勘定に入れぬ
幻影的理想に対する
憧憬(注:あこがれること)とである。今日全世界を通じて
囂しく(注:やかましいく)聞こえる
改造の
叫びはことごとくそのためであるが、さてこの次には
如何なる文明ができるであろうか。
まず社会の
制度から考えて見るに、原始時代の人間は数多くの小
団体に分かれ、
各団体には
最も強い一人が
酋長(注:
未開の
部族の長)となって、
絶対の
専制(注:
支配的立場にある者が
独断でほしいままに事を行うこと)を行なうていたらしい。ただし
如何に
絶対の
専制が行なわれても、それに対する
不満は起こらずにすんだ。
何故かというに、かような時代には小
団体間の
生存競争がはげしく、少しでも
団体生活に
適せぬような
団体は
絶えず
敵なる
団体のために
亡ぼされ、
団体生活に
最も
適する
団体のみがつねに生き
残ったであろうが、かような
自然淘汰が長く
続く間には
団体生活に
必要な
協力一致すなわち
義勇(注:
正義のために発する
勇気)
奉公(注:一身をささげて
尽くすこと)の
精神はどこまでも
発達するゆえ、
酋長でも、他の者でもわが
団体のためには命を
捨てて
惜しまぬという
性質を生まれながらに
備えている。それゆえ、
酋長の命ずるところはいつも
必ず全
団体の
利益となることのみであり、他の者はみな
喜んでこれに
服従して、
毫(注:少し)もこれを
圧制とは感ぜぬ。
酋長が自分一人の
欲望を
満たすために
下々を
圧制し、下の者は自分らの
利益にもならぬことを
強いられて
酋長を
恨むというごときは、すでに
協力一致性の
退化したはるか
後の時代に
初めて生ずることである。
団体が大きくなれば
酋長一人で全部を
直接に治めることはできぬゆえ、
酋長を
補助する者が
必要となり、
団体の大きさの
増すに
準じて
補助者の数も
増し、かくて
団体は、
治める
側と
治められる
側との
二段に分かれるが、
治める
側にはさらにまた
数段の階級
別ができあがる。
団体の内が
幾段に分かれようとも、もしも、
協力一致の
性質さえ
充分に
発達しておれば、何の
差支えもなく、よく
治まってゆくべきはずであるが、この
程度まで
団体が大きくなったころには
協力一致の
性質はすでに大分
衰えているゆえ、
団体内に
勢力の
争いが起こる。しこうして、まず
勢力争いの起こるのは、すでに
治める
側に立つ者どもの間であるべきは
見易い
道理である。かくて、しばらくの間は
人類の
歴史と言えば、
団体間の
緩慢なる
争いのほかは、ことごとく
団体内における
覇者(注:
徳によらず、
武力・
策略などによって天下を
治める者)間のはげしい
勢力争いの
歴史であった。すなわち
歴史は全く
服従性の
退化し始めた
英雄(注:
才知・
武勇にすぐれ、
常人にできないことを
成し
遂げた人)
豪傑(注:
武勇にすぐれ、強く
勇ましい人)の
列伝のごとき
体裁で、何十万何百万もあった
被治者(注:
統治される者)はほとんど物の数にははいらず、後から
振り返って見ると、いたかいなかったか分からぬありさまである。しかるに
服従性がなお
一層退歩すると、
奴隷の
境遇に
甘んじていた大多数がおいおい
承知しなくなり、
初めは
治者の
権限を少しずつ
押し
縮め、何ごとも自分らと相談の上でなければ行なわしめぬように
規則を定め、後には
従来の
治者、
被治者の階級
別を
撤(注:取り
除く)して、自分らの世話は自分らですると言い出し、
酋長世襲(注:身分・
財産・
職業などを、
嫡系の
子孫が代々受け
継いでいくこと)の
制度を
廃して、
治者を自分らの中から
選出するにいたった。ヨーロッパやアメリカ
諸国の
歴史を見ると、すべてこの
順序に進んできたことが明らかである。
しからば、
治者を自分らの中から
選び出したら、それで
団体内がよく
治まるかというに決してさようなわけにはゆかぬ。
協力一致の
精神の
旺盛なころならば、
如何なる
制度のもとにも
団体はよく
治まるであろうが、一たんこの
精神が
退化しては、
制度を
如何に
改めても
容易に
治まる
見込みは立たぬ。自分らの
団体は自分らで
治めると
力んで見ても、
銘々の
利己心が強くて、少しでも他のために
犠牲となることを
嫌うようではとうてい
円満にことの運ぶ
理屈がない。一人よりは二人が強く、二人よりは三人が強いゆえ、他を
排(注:しりぞける)して、自分の思うことをなしとげようとすれば、
勢い
利害関係の相同じ者らと
徒党(注:ある
目的のために
仲間や一味などを組むこと)を組んで力を強くせねばならぬが、かようなものがいくつもできては、
団体は四分
五裂(注:
秩序をなくしてばらばらになること)のありさまとなって、いつまでも
争いの
種がつきぬ。このことは大きな
団体の全部についても、
団体内の
各小部分についても同じ
理屈であるから、
自ら
治めるということは
如何なる
範囲においてもなかなかむずかしいものと
覚悟せねばならぬ。
特に今日の人間は
奴隷根性が
退化したと言うても、実はわずかに小部分を
失うただけで、なおその
多量を
備えている者が多く、上からきびしく
監督せられぬと、自分の
当然のつとめをも
怠けるくらいであるゆえ、
自ら
治める
資格などはすこぶるあやしい。まれには自身の
利害を一切
眼中におかずもっぱら
団体のためにのみ力をつくす人や、
団体を
護るためには自ら進んで命を
捨てる人が出てこぬとも
限らぬが、これらは、生物学上でいわゆる
隔世遺伝(Atavismus)(注:
祖先にあった
特徴が世代を
隔てて
子孫に
現れる
現象)と名づける
現象で、遠い
先祖の
性質が
偶然現われた
特別の
例外である。
改造を
要する者と
改造を
拒む者とがあり、
改造を
要求する者の中にも
種々の
党派があるとすれば、
結局は力の
争いであって、力の強い者の
主張がとおることになるであろうが、
団体内がかく
分裂している
以上は、
誰の
主張がとおったにしても、
主張のとおった者が直ちに
権力を
握り、他の者は、そのために
圧迫せられるをまぬがれぬ。かくてはまた、これに対して
不満に
堪えぬ者がさらに
改造を
企てるであろうから、どこまでたってもとどまるところがない。しこうしてすべてこれらのことの生ずる根本の
原因は
人類の持って生まれる
協力一致の
性質が
次第に
退化しきたったからである。
次に
貧富に
関する方面を
観察するに、
現在の生活には
誰が見ても明らかに
無理であると感ずる点が少なくない。
例えば、一定の
財産を有するものは遊んでいても
贅沢に
暮らせるということでも、
収入が
多過ぎて
困っている人の
隣りに、
職を
求めても
得られぬために
餓え死にする人のあることでも、十万人を
養うに足りるだけの地面に十万人が住みながら、その中の九万九千人が
充分に食物を
得られぬことでも、一としてなるほどもっともであると
得心(注:
納得すること)のできるものはない。これも昔ならば、おのおのその分であるとあきらめてすますこともできたであろうが、
服従性が
退化して、自由平等を
叫ぶような
時世となってはとうていいつまでもそのままでは
治まらぬ。今日のやかましい
各種の社会問題も
煎じつめ(注:
成分がすっかり出つくすまで
煮る)ればみな
富の分配の問題に
帰着する。されば、
貧富に
関する問題は実に問題中の問題とも
名付くべきものであるが、今後は
如何に
処分せらるであろうか。
原始時代の人間は他の
獣類と同じく
各自食物を
求めて食うていたであろうから、もとより
貧富の
別のあろうはずがない。後に矢をもって
鳥獣を
射たり、
鍬をもって畑を
耕すようになっても、物と物とを
交換している間は
貧富の
差はほとんどなしにすんだであろう。しかるに、おいおい分業が進んで、
獲師(注:
猟師)、
百姓(注:
農民)、
弓師、
鍬鍛冶(注:
金属を
鍛え
加工する
職人)というように一人一人の
専門が定まると、
弓師は弓矢のみを
造って、
猟師の肉や
百姓の
穀物と取り
換え、
百姓は
穀物のみを作って
猟師の肉や、
鍬鍛冶の
鍬と取り
換え、
誰も、他人と物を
交換せねば一日も生活ができぬようになるが、かくなってもなお、物と物とを
直接に
交換していてはすこぶる
不便なことが起こる。
例えば
猟師が肉を持ってきて、
弓師の矢と取り
換えていったとして、もしも
弓師が
空腹でなかったために、肉を食わずにおけば
翌日までには
腐るやもしれぬ。そこで、何か
腐らず、
砕けず
運搬に
便利で、同じ物が数多くありながら、しかも
容易には
獲がたいというような物を
選んで、これを何物とでも
交換のできる
貨幣(注:商品の
交換価値を表し、商品を
交換する
際に
媒介物として用いられ、同時に
価値貯蔵の
手段ともなるもの)とすれば、かかる
不都合を
除くことができる。しこうして一たん
貨幣という
重宝至極(注:この上ない大切な
宝物)なものが、世に
現われた
以上は
生産者から安く買うた品物を
消費者に高く売って、その間で
利を
得ることを
専門とする者もできて、おいおい
貧富の
差が目立つようになる。また道具を
貸して
獲物の一部を礼にもらうというごときことは太古の時代からすでにあったかもしれぬが、
貨幣を用いるようになってからは、これが定まった
制度となり、土地や
金銭を他人に
貸せば、自分は
働かずして
安楽に
暮らせることとなった。
利子を元金に
継ぎ足せば、これにまた
利子がついて、いわゆる
鼠算で
殖えてゆくゆえ、物を
貸して
利を取るという
制度が行なわれている
以上は
富者はますます
富み、
貧者はますます
貧しく、
貧富の
懸隔(注:大きなへだたり)はどこまでもはなはだしくならざるを
得ない。かくのごとき
次第で、
富者は遊んで食い、
貧者は
働いても食えぬというごとき、今日多数の人々がこれを見て
不満に
堪えぬ
状態に立ちいたるべき
要素はすでに古来から
備わってあった。すなわち
貨幣を用いて商業を
営み、物を
貸して
利子を取るということが行なわれる
以上は、
富者と
貧者との
差が生じ、
富者はますます
富み、
貧者はますます
貧しく、遊んで
贅沢に
暮らす者と、
働きたくても仕事がないために
餓死する者とができるのは、
当然の
成り行きで、
如何にしてもこれを
避けることはできぬ。昔から長い間、問題にならずにすんでいた
富の分配の問題が近世にいたってにわかにやかましくなったのは、ただ
当然きたるべきことが、
最近百年間における大工業の
発達によって、早く
到着したためである。
今日の
財産制度は
誰が考えて見てもとうていいつまでもこのままで
治まるべきものではない。大多数の
民衆が
覚醒(注:めざめる)して、
盛んに自由平等を
求め、
働かぬ者は食うべからずと
叫ぶ世の中になっては、何とかこれを
合理的に
改造せねばならぬ。もしもこのままに
据えおいたならば、
現制度のために
不利益の
位地におかれている大多数の人間はとうてい
我慢ができず、
現制度によって
不当の
利益を
占めている者等を相手取って、
制度の
変更を
迫り、一人一人に
離れては力が弱く、
目的を
達し
得べき
見込みがないゆえ、多数
団結して
一致の行動を取る。されば
現制度の
続く
限りは、ストライキやサボタージュは決して止まぬのみか、ますますはげしくかつますます広く行なわれるものと思わねばならぬ。また
尋常いちよう(注:
特別でないこと)の
手段ではとうてい
目的を
達せられぬ
形勢を見ては、気早な
連中は直ちに
非常手段を取ることを
躊躇(注:ためらうこと)せぬゆえ、
危険はますます
殖えるばかりである。しからば、
富者の
富を
裂いて
貧者に
与えればよろしいではないかと
論ずる人があるかもしれぬが、今日となってはもはやそのような
姑息(注:一時のがれ)な
彌縫策(注:とりつくろって間に合わせるための
方策)ではとうてい追いつかぬ。
慈善事業や
救済事業が今日ほどに
盛んに行なわれる時代はいまだかつてなかったにかかわらず、ストライキが今日ほど
頻繁にかつ有力に行なわれたことがかつてないのを考えれば、このことはすこぶる明らかである。
しからば
如何に
改めたらよいかというに、これに
関しては、すでに数多くの
改造案が
提出せられた。あるいは
財産私有の
制度を
廃して、
財産はすべて
共有にするがよろしいとか、何物とでも
交換のできる
貨幣なるものを
全廃するがよろしいとか、その他細かい点にいたっては、十人
十種のさまざまの考えが
唱えられている
最中である。今日のすこぶる
困難な
富の問題の生じた
源が、
金銭を用いて商売することや、
私有財産を
貸して
利子を取ることにあるとすれば、
貨幣を
廃し
財産を
共有にすれば問題は直ちに
解決せられ
得べきはずに見え、
実際そのように
固く
信じている人も今日のところ決して少なくない。しかし、これらの
改造案を実行して見たならば
果たして
論者達の予期しているような理想の世の中が
現われるや
否やというに、
我らの考えは少しく
違う。
貨幣を用いて商売することや、
私有財産を
貸して
利子を取ることが今日の
難問題を生じた
原因には
相違ないが、これは
単に
近因であって、決して根本の
原因ではない。
我らの考えによれば、
現代文明の
富に
関する
制度に大
欠陥の生じた真の
原因はやはり、
協力一致の
精神の
退歩と、
服従性の
減少とである。
仮に
協力一致の
精神と、
絶対服従の
根性とが
太古(注:
大昔)のままに
継続したと
想像すれば、
富に
関しても何の問題も起こり
得る
余地がない。
生産者から
一銭で買うた物を
消費者に
十銭に売ってその間に
九銭を
儲けるというごときことでも、
必要品を買い
占めて相場を上げ、数日の間に
巨万の
富を
造るというごときことでもむろん
貨幣がなければできぬことではあろうが、かかることをあえてする者の生じたのは実は
協力一致の
精神がそこまで
退化しきたったからである。またもしも
奴隷根性が昔のままに
旺盛であったならば、
資本家と
労働者との間はいつまでも
主従もしくは親分子分の
関係を
保ち、
労働者は
資本家のために
影日向なく
忠勤(注:
忠実に
勤めること)をつくし、
資本家は
労働者をわが子のごとくにいたわり助け、
儲かる時にも、
不景気の時にも
苦楽をともにするであろうから、決して今日のような行き
詰まった
状態には
達せぬ。
資本家と
労働者とがはなはだしく相
反目して、とうてい
妥協の
余地がないようになった真の
原因は
人類の
奴隷根性が
次第次第に
減少しきたったことである。
奴隷根性が全く
消滅し階級
制度が
絶対に
影を
隠しても、
協力一致の
性質さえ
完全に
発達していたならば、あたかも
蟻や
蜂に見るごとき平等
型の
団体を
造って
立派な
団体生活を
営むこともできるはずであるが、
協力一致の
精神が
退歩しては
如何なる
型によるも
団体生活はますます
困難におちいるをまぬがれぬ。
貧富の問題に
関しても、
制度改造の問題に
関しても、
現にたくさんの
主義学説が
唱えられているが、これは今日の文明
状態が
是非とも
改革を
要するためであって、いずれにも
一応の
理屈があり、ただそれのみを聞いて見るとなるほどもっともと思われるものが多い。しかしながらもしこれらを実行して見たならば
如何なる世の中が
現出するであろうかと言うに、
我らの考えによると、
予期したとおりの
結果はとうてい
得られぬ。その理由は、
奴隷根性の急に
全滅せぬことと、
協力一致の
精神のさらに
退化しゆくことである。
改造後の
理想郷を
画いた
小説を読んで見るに、その中に
描写してある世の中は、いつも
奴隷根性の全くない、
協力一致の
精神の
充分に
発達した人間ばかりの
寄り合いであるが、かような人間は
小説のほかには
容易に見いだされぬ。今日の
実際の人間は
奴隷根性が
退化したとは言うても、いまだわずかに一部分
退化しただけであって、大多数の者はなお
五割ないし
九割の
奴隷根性を
備えているゆえ、人間を真に平等のものと見なした
制度はとうてい
彼らには
適せぬ。
奴隷根性を
備えた人間は
目上の者を
尊敬することを知っているだけで自分と同等の者を
尊敬することを全く知らぬゆえ、平等に
基をおいた
制度は
彼らの間にはむろん活用のできる
望みがない。また今日のごとくに
団体生活に
適せぬ
団体でも立ちどころに
滅亡する心配のない世の中では、人間の持って生まれる
協力一致の
精神が今後進歩する
見込みが立たぬが、この
精神が
退歩しては、
如何なる
制度を
造って見ても、
各個人は自身の
便宜、
利益のみを考え、
規則を
曲解したり
破ったりするであろうから、おそらく今日
以上に問題が
続出するであろう。
誤解を
避けるためにここにも
断わっておくが、
我らは決して
改造を
無用なりと
説くわけではない。
充分に
実際の
事情を研究して、
必要と
認められた
改造を実行することは、もとより
結構なことでもあり、かつ
避くべからざることである。
我らはただ人間の
協力一致性が
徐々と
退化しゆくことに
心付かず、
小説にあるような理想
的の世の中が直ちにくるものと
信じてかかると、
改造の
結果が予期に反するのを見て
非常に
失望落胆しなければならぬことを注意したに
過ぎぬ。
以上は主として食う方面について
論じたのであるが、次に
産む方面について考えて見るに、
現代の文明にはここにも多くの
難問題が
控えている。女子
解放とか自由
恋愛とか、
産児制限とか
独身生活とか、その他さまざまの問題があるが、これらを
論ずるに当たっては、まずこれらの問題が
何故に起こったかを
究めなければならぬ。真の
原因まで
溯ることを
忘れて、ただ目前にある
直接の
障害のみを
除こうとつとめたのでは、
仮に
成効したとしても、その
結果はすこぶる
不充分ならざるを
得ない。
猿類に
比較して
推測するに、原始時代には女は
絶対に男に
服従していたものと思われる。しかし
服従を
強いられているというごとき感じはさらに起こらずにすんだであろう。
何故というに、そのころの人間は
服従性が
発達していたゆえ、女は
服従を
常態と
心得て、
毫もこれをあやしまず、また、
協力一致の
精神が
盛んであったために、男のすることは、ことごとく
団体の
利益になることのみであったろうから、よく女子を
保護しいたわり、安全に子を
産ませこれを育てせさせた。男が女を
保護することも、女が男に
服従することも、そのころの
団体生活には
最も
必要であったろうから、
協力一致性の
発達していたそのころの人間は、男ならば生まれながらに、
自然に女を
保護し、女ならば生まれながらに
自然に男に
服従していたものと
察する。しかるにその後、
協力一致性が少しずつ
退化して
誰も
彼も、
団体全部の
利害よりも自分
一個の
欲望のほうに重きをおくようになれば、男は女を肉体
快楽の道具もしくは
日常の用を
便ぜしめるための
奴隷と見なし、
従来の
権力を
利用してずいぶん
無理なことにも
服従を強い、ついには物品として
随意に
交換または売買するようになった。かかる
状態におかれても女は
従来の
奴隷性の
継続によって、
或る時期の間は
無意織もしくは
有意識に
我慢していたが、
服従性の
退歩が
或る
程度まで
達するととうてい
我慢ができなくなり、男のみが人間ではない、女も同じく人間であると
叫んで一日も速く
奴隷の
境遇から
解放せられることを
要求して
止まぬ。これがすなわち
婦人の
自覚であるが、かかる
時節が
到来した
以上は、女子の
人格を
認めて、男子と同等の取り
扱いをするのはもはや
当然でもあり、また
避くべからざることでもある。女も男と同じく人間であることが
認められた
以上は、女は自分の気に
染まぬ男と
同棲(注:
一緒に住むこと)するをがえんぜず(注:
承諾できない)、女も男もともに自分で気に入った
配偶者を
選み、これと
共同生活を
営むのが
当然の
理であるごとくに考えられるところから、家の都合や世間に対する
便宜のために
無理を強いられていた
従来の
結婚の仕方に
反抗して、
結婚は全く自由
恋愛の
基礎の上におくべきものであるとの
説が
盛んに
唱えだされた。これももっとも
至極な
主張であり、おいおいそのほうに向かい行くのは
当然であると思われる。自分で自由に
配偶者を
選むためには
未婚の青年男女が
互いに自由に
交際することが
必要であり、また女も男と同じ
程度の教育を受けることが
必要である。男女
七歳にして
席を
同うせずでは自分で
配偶者を
選む
機会が
絶対になく、また女の教育があまりに
低くては男の
側からも対等の者と
認めるわけにゆかず、女の
側からも男の
真価を
判断し
得ぬために
選択を
誤りやすい。しこうして女にも男と同じ
程度の教育を
施せば、女にも
大概のことは男と同様にできるであろうから、
出札係りや電車の
車掌を始めとして、
従来男の
専有であった
各種の
職業がおいおい女にも
許され、ついには、社会における男女の
位置が
職業方面においても
実際に同等となり、男が自身の
働きによって
独立の
活計(注:
暮らしを
営むこと)を立てるごとく、女も自身の
働きによって
独立の活計を立て
得るようになる。かくて女も男の
寄生虫たることを止めて、自活し
得るようになれば、男のみが
政治にあずかり、女には
参政の
権を
与えぬということは
如何にも
不条理に思われるゆえ、女子
参政の運動も
当然盛んになる。
以上はいずれも
当然かく
成り行かざるをえざることであるから、その
成るか
成らぬかはもはや問題ではなく、ただ
何時かく
成るかが問題であるに
過ぎぬ。
さて男に対する女の
位置がかくのごとくに
変化して、
初め
奴隷の
境遇にあったものが、ついに全く同等の
位置までに
達したのは、表面から見れば、文明の進んだ
結果とも思われるが、
裏から見れば人間の持って生まれる
服従性がだんだんと
退化しきたったためである。
服従性が
退化しても、
協力一致の
性質、すなわち
団体のためには一身を
犠牲に
供して
惜しまぬという
精神さえ
充分に
発達しておれば、
共同生活には何の
差支えもないわけであるが、前にも
述べたとおり、
人類のごとき階級
型の
団体においては、
協力一致はただ
服従性によってのみ行なわれ、したがって
服従性の
退化は
協力一致性の
退化の一
徴侯に
過ぎず、
服従性が
退化するというのはすなわち
協力一致性の
退化に当たるゆえ、女の
位置が進むと同時に男女の
共同生活にもやはり
破綻が生ずるをまぬがれぬ。世間には
相愛する男女が自由に
共同生活を
営めばきわめて幸福に
円満に
暮らせるもののごとくに考える人がはなはだ多く、
恋愛を
説いた
論文にはいずれもかく
断定してあるが、これは
人類の
協力一致性が
徐々と
退化しゆくことを
忘れた空想である。男女ともに、生まれながらの
協力一致性が
減少すれば、それだけ
利己的の
個人主義に
傾かざるをえず、
利己主義の人間が二人集まって
共同生活を
営めば、何ごとにつけても意見の
衝突を
避け
得ない。二人は
性欲の
満足のために
結合し、かつ世間や
親類に対して
攻守同盟を
結ばざるを
得ぬゆえ、
容易には
共同生活を
解くにいたらぬが、
互いの間が夜も昼もつねに
円満であり
得るや
否やすこぶる
疑わしい。昔は
夫婦の間は
主従の
関係で、わが国などでは
今日でも
夫を主人と
呼んでいるが、かような時代には
妻がいわゆる
貞女(注:
夫に対する
貞節を
固く守る
女性)でありさえすれば家庭は
円満であったろう。しかるに女の
位置が上がって男と同等になり、
妻にも自活し
得るだけの
腕がある場合には、
夫婦の間は
主従の
関係から
変じて、
合資会社(注:
出資者の
責任で
運営する会社。
出資額以上には
負債を
被らない、
株主みたいな者はいない)の社員間の
関係となるゆえ、
相方が
或るところまで
譲歩して、
互いに
折り合わねば会社の
経営ができぬ。ところが人間は男でも女でも
協力一致性の
減少するにしたがい、
自我を曲げて他人に
嵌め合わすことをますます
苦痛と感ずるゆえ、文明の進むとともに、男女の相
譲り合うことが
次第に
困難となり、
果ては、このような
不愉快を
我慢して
暮らすよりは、多少の
不自由はあっても
単独生活のほうが
優しなりと思うようになる。昔から「
妻無ければ楽しみ
無く、
妻有れば苦しみ有り」などと言うて、
夫婦間の
不和はあえて今日に始まったわけではないが、文明が進み
利己心が強くなれば
和合はだんだんとむずかしくなるであろう。トルストイの
小説の中に、
或る
老人が汽車の乗合客に「昔に
比べて今日の方が
夫婦間の
不和が多いのは
何故であろうか」と
尋ねられて「それは教育が進んだからさ」と
言下(注:すぐ)に答えるところがあるが、これにはたしかに一理あるように思われる。
結婚の
当然の
結果は
児の
産まれることであるが、これに
関する考えも昔と今とでは大いに
変わってきた。
団体生活を
営む動物においては
団体内の
個体の数の多いことは
敵なる
団体に負けぬための
一要素であるゆえ、子を
産み
愛し育てる
性質は
団体生活に
必要な
性質として
自然淘汰によって
次第に
発達する。
現に
猿のごときは他より見てはおかしいほどに子を
可愛がり、
児を
遺して母親が死ねば他の
牝猿が直ちにこれを引き取ってわが子同様に
愛し育てる。元来子を育てるということは
容易な
骨折りではなく、
損得や
報酬の
多寡を考えてはとうていできる仕事ではない。ただ
可愛いと思う一心で
辛うじてなしとげられるのである。しこうして、子が
可愛くて
堪らぬという
性質は、
否応なしに子を育てさせるために、
自然淘汰が
造り上げたものにほかならぬ。されば、親自身もそこに
心付かずにいるが、子を育てるということは、実は
団体の
利益のために
犠牲となって
働いているわけで、このことのよく行なわれるだけ
団体は
繁栄する。しかるに
団体間の
自然淘汰が
中絶して
団体生活に
必要な
性質が
次第に
退化すると、その一部として子を
愛する心もむろん
減少せざるを
得ず、したがって子を
産むことも昔ほどには
目出度がらぬようになる。今日文明国で
産児の数の年々
減じ行くのはもとより
種々複雑な
原因があるが、そのおもなる一つは、たしかに人間があまり子を
欲しがらぬようになったことであろう。
現代の人間が
子供の多く生まれるのをよろこばぬ
原因の一は言うまでもなく
経済上の
関係からである。生活に多くの
費用を
要する今日の世の中では、
子供一人を育て上げるには
臨時費、
経常費ともにずいぶん
掛かるゆえ、あまり
豊かならぬ家庭で子を
産むことを
躊躇するのは
無理もない。あまり
頻繁に子が
産まれては母の
健康に
障るというごとき場合には
当然これを
差し
控えねばならぬ。これらは止むを
得ぬとしても、なおそのほかに
容色(注:
容貌と顔色)が
衰えるとか
面倒で
堪らぬとか言うて子を生むことを
嫌ふ女があり、また同じ理由で子が生まれても自分の
乳を飲ませぬ女があるが、これはいずれも
純粋なる
利己心の
発現(注:
現れ出ること)であって、
団体生活に
必要な
犠牲的精神の
退化したことをきわめて
明瞭に
示している。生物学の
知識が
普及せぬ間は
姙娠を
避ける
方法を知らぬゆえ、子を育てることを
好まぬ女も、止むを
得ず
姙娠だけは
我慢し、生まれる前に
堕胎(注:
人工妊娠中絶)するか、生まれると直ちに
殺すかのほかはなかったが、十九
世紀の後半に
受胎の生理が発見せられてからは、
簡便な
避妊法がいくとおりも
工夫せられ、
誰でもこれを実行することができるゆえ、子を生むことを
欲せぬ者は、
願いのとおりに子を生まずにすむ。今日まで女が
比較的に
貞操を守りきたったのは、一は
姙娠を
恐れてのゆえであることを思えば、
避姙(注:
受胎調節)に
関する
知識の
普及はむろんこの方面にも
影響をおよぼさずには止まぬであろう。
以上述べたとおり、
現代文明における男女の
関係は
人類の
協力一致性の
退化とこれに
伴う
服従性の
消滅とによって、原始時代の
状態から一歩一歩遠ざかりきたった
結果であるが、今後も文明が同じ方向に進むものとすれば、
将来の
変化を多少
予測することもできよう。
例えば男女ともに
犠牲的精神がますます
減じて
利己心が強くなるであろうから、
夫婦間の
和合がそれだけ
困難になり、したがって
離婚の数も
殖えるであろう。青年らは
実際の
経験に
乏しい上に、
激烈な
性欲に
駆られ、
極楽のごとき幸福生活の
幻影に
瞞されて、あたかも
鼠取りにかかる
鼠のごとくに
結婚生活にはいる者が
相変らず多かろうが、楽しい
夢は
性欲の
満足とともにたちまち
醒める。
特に強い
恋愛の
結果望みどおりに
結婚した者はあらかじめ
期待するところが
過度に多いゆえ、次いできたる
失望落胆も
尋常一様ではなく、そのため
誰を
選んでも五十歩百歩であると
初めから
諦めてかかった
愛のない
結婚者よりも、家庭の
不和はかえって
速かに表面に
現われるかもしれぬ。また
経済上その他の
関係から男の
結婚年齢は
次第におそくなりゆく
傾きがあるが、中年
以上になれば
思慮(注:
注意深く心を
働かせて考えること)
分別も出で、
妻帯者の
実状を
充分に
観察してから心を決するゆえ、
独身生活のほうを
選む者もおいおいと
殖えてくる。
晩婚者や
独身者が
殖えれば、
結婚によらずしてこれらの相手をつとめる者の
殖えるのはむろんのことゆえ、これを
本職とする者、これを
副業とする者、これを
娯楽とする者がおいおいに
増加し、したがって
貞操(注:男女が
相互に
性的純潔を守ること)ということも昔ほどにはきびしく
論ぜられぬにいたるであろう。
結婚生活
以外において
姙娠の
忌まれるのはもちろんであるが、女が子を育てることを
厭うようになっては、家庭においてもたびたびの
姙娠は決して
歓迎せられず、
産児の数は文明の進むとともにただ
減少する一方である。
産児制限の問題は今日やかましく
論ぜられておるが、学者や
政治家が
議論を
闘わしている間にも
産児減少の事実は着々と
現われてゆく。
経済上、人道上、
保健上、
国防上その他
種々の方面から見て、
避姙に
賛成する人も、反対する人もあるが、
仮に
避姙は悪いことであると
議決せられたとしても、これを
有効に
防ぎ止めることは
容易でない。
避姙の行なわれる
直接の
原因は何であっても、さらにその
奥に
位する真の
原因は
自然淘汰の
中絶による
団体奉仕の
性質の
減退にほかならぬゆえ、そこまで
溯って、その
原因を
除き去らぬ
以上は、目前の
弥縫策くらいではなかなか
効を
奏せぬ。フランスでは人口の
増加せぬことを
非常に心配して、
子供一人を
産むごとに親に年金を
与えるとか、一定の
年齢を
過ぎても
独身でいる者には
税を
課すとか、
捨児でも
私生児でもことごとく国家で
養い育てるとか
種々の
手段を
講じているが、
捗々しく(注:物事が
望ましい方向へ進むさま)は
効果が
現われぬようである。
異なった
民族が対立している世の中では、
産児の数が
減じ生まれた子が
幼少で死ぬことは、わが
民族の
戦闘力を
殺がれると同じであるゆえ、すこぶる重大な問題としてこれに対する
策をめぐらさねばならぬが、
各個人の
利己心が
盛んになった上に手軽な
避姙法が
一般に知れ
渡っては
如何ともいたし方がない。ヨーロッパの文明
諸国では、今日すでに
幼児を
貴重品として取り
扱い、
幼児の
死亡率を引き下げるために、
莫大な
設備をしたり、
幼児の週間ととなえ
特に
幼児の
保護に注意したりしているが、なお進んでは、
子供を国有として、国家の手でこれを育てるがよろしいという
説まで出ている。かつては
子供ができ
過ぎるのに
困って、
惜しげもなくこれを
間引いた(注:口べらしのために生まれたばかりの子を
殺す)時代さえあったのに引き
換え、文明の進むとともにその
産額が
次第に
減じ、親からは
厄介視せられながら、
団体からは
宝物のごとくに大切に
保護せられるにいたった。「二十
世紀は
子供の
世紀」という言葉はこの意味に
了解すれば決して
間違いではなかろう。
人間の持って生まれる
協力一致の
性質が
退歩すれば
団体生活の
各方面においおい
破綻が生じ、したがって、
各個人の生活にも
不利益、
不安定なところが生ずるをまぬがれぬが、これを
防ぐために
自然にできあがったものが、
道徳と
法律とである。これも
野蛮時代には生活が
簡単で、
知恵も
低かったゆえ、わずかな
個条(注:いくつかに分けて書き
並べたものの)だけですんだが、その後、世の中が進歩し、人の心が悪くなるにつれて、だんだんと
面倒になり、
特に
法律のごときはわざわざこれを
専門として学ばねばとうてい分からぬほどすこぶる
複雑なものとなった。しかし
如何なる物でも
必要なしには決して生ぜず、
道徳でも
法律でも、その
必要が起こって後にできるものゆえ、
協力一致性の
退却に
比しては、いつも一足ずつ
遅れて追い
掛けてゆくに
過ぎぬ。人間の
知恵で
造った
法律の
網の目を人間のさらに進んだ
知恵で
巧みに
抜けることは決して
不可能でないゆえ、
法律を
心得てさえおればずいぶん悪事を行なうても
罰をまぬがれることもできよう。これに反して、
法律を
心得ておらねば、目の前で
盗まれた物を取り返すことさえ
容易でない。
現代はかくのごとき
法律万能の時代であるが、今後も
人類の
利己心が
増長し、悪を行なう
手段が
巧妙になるにしたがい、これを
洩らさぬためにますますこ細かい
法律がつくられ、とうてい
覚え切れぬほどの
複雑きわまるものにならねば止まぬであろう。しからば
道徳のほうは
如何というに、これは
法律とは
違うて、
刑罰をもって
威嚇する力がないゆえ、
人類の
服従性が
退歩するとともに、人が
次第にこれを
恐れなくなり、何ごとでも
法律にさえ
触れねば、よいとして、
道徳のごときは全く
眼中におかぬようになってゆく。かくなっては
団体生活はますます
乱れるおそれがあるゆえ、何とかしてこれを
防止せねばならぬが、それには、教育や
宗教にすがるよりほかに
途はない。
しかるに
困ったことには、教育も
宗教も今後は
従前ほどには
働きができぬ。
何故というに
宗教でも教育でも
人類の
服従性が
旺盛である間は、強い
権威を持っていたが、
服従性が
減退して、自由平等の考えが
勢いを
得ると、
誰も自分の頭の上に何物をもいただくことを
快しとせず、すべて、自分の
了簡によって
判断せねば
承知せぬ。
如何に
農夫が
骨を
折っても
種が悪くては多くの
収獲が
得られぬごとく、教育家や
宗教家が
如何に
努力しても、相手の人間の持って生まれる
協力一致性が
減退しては、
如何ともいたし方がない。動物
各個体の発生の
順序は、その
種族の今日までに進化しきたった
道筋を
繰り返すものであるが、人間もそのとおりで、生まれてから
成長し終わるまでには原始時代から今日までの
人類の
歴史を
繰り返し、その間に、
服従性の
退化をも
明瞭に
繰り返している。すなわち
幼年のころは昔の
野蛮時代の人間と同じく
服従性が少しも
退化せず、目上の者には
絶対に
服従し、命令はよく守り、言い聞かされたことは全部そのままに
信ずる。しかるに少年となると、
服従性が
徐々と
退化し、親や
教師の言うことを少しずつ聞かぬようになり、青年期に近づいてくると、
服従性はますます
減少して、
教師の言うことなどは
初めから
馬鹿にしてかかる。されば一定の
年齢に
達した
以上は、
服従性の
退化した者にもなるほどと合点のゆくようなことならば聞きもするが、
従来の階級
制度に
嵌まるような注文をしてもとうてい
効能はない。かような方面の教育がいくぶんでも
効を
奏するのは、今後はわずかに
幼年および少年時代の前半ぐらいに
限られることになるであろう。
宗教のほうもほぼこれと同じく、
従来の階級
制度に
適するような
服従性を
養成する道具として用いられる場合には、やはり
子供に対するほかには
無効である。もっとも文明のやや
低い
民族では
服従性がなお
多量に
残っているゆえ、直ちにこのとおりにはならぬであろうが、ゆくゆくはかかる
状態に
達することと思われる。
文芸はその時々の思想の
反影であるゆえ、
服従性が
退化すれば、その
結果が直ちに
小説、
脚本、
評論、
漫筆(注:とりとめもなく書くこと)等に
現われ、
服従性の
退化した人がこれを読めば、むろん大いに
共鳴を感ずる。
現代の文明はちょうどこの
辺に
位するが、今後はさらに同じ方向に進みゆくであろうから、
従来の階級
制度をどこまでも
保存したいと思う人々にとっては新しい
文芸は実に
恐るべき
強敵である。
旧い人々がなお、
権力を
握っているところでは、
文芸に対する
取締りは年とともにますます
厳重にならざるを
得ぬであろう。
現代の文明生活の
特徴は
現実に対する
不満であるとは前に
述べたとおりであるが、
不満の
苦痛から
逃れるには、
現実を
忘れるのが
最も手近な
方便(注:
方法)である。しこうして、
安価に
現実を
忘れるには、身体をとおして
働く
麻酔薬か、
精神をとおして
働く
迷信かを服用するに
限る。
現代の人間が酒や
煙草と
絶縁することができず、文明が進んでも
迷信がますます
盛んになる理由はこの点に
存する。
酒と
煙草とは、その物だけについて考えれば、
滋養の足しになるわけでもなく、
無駄に
金銭を
費し、
生活費を
嵩め(注:
数量・
金額が大きくなる)、
貯蓄力を
減じ、その上、自分の身体を
害するのみか、後に生まれる
子孫の
体質までも弱らすゆえ、
一として取るべきところはない。それにもかかわらず、酒と
煙草とは人間の
付き物であって、
如何なる
山奥、
如何なる
離れ島でも、いやしくも人間の住んでいるところならば、酒と
煙草とが
必ずそこまで
拡がっているというには、よほど重大な理由がなければならぬ。
現実の世の中を楽しい、ありがたい世の中であると考える人などにはその理由はとうてい分からぬであろうが、
現代の文明は
人類の持って生まれる
協力一致性の
減少しきたった
結果であることに気がつけば、これははなはだ
明瞭に知れる。すなわち
協力一致性が
減ずればそれだけ
個人的利己心が
増加するゆえ、同一
団体に
属する者でも
互いにはげしく
競争し、
甲の
欲するところを
乙が
妨げるゆえ、万事思うようにはならず、
誰の心にも多くの
煩悶(注:苦しみもだえること)が生ずる。また
協力一致性の
減少とともに
服従性が
退化すれば、
意志を曲げて他人に
屈服する
我慢ができなくなるが、
現代の社会の
制度は大体において昔からの階級
制度の引き
続きであるゆえ、ここにも大なる
不満が起こる。これらの
煩悶や
不満は
意織の
明瞭である間は
一刻も
念頭(注:心の中の思い)を
去らず、苦しくてたまらぬ。しこうしてこの苦しみから
脱するには
意識を
不明瞭にして
恍惚(注:物事に心を
奪われてうっとりする様子)としてこれを
忘れるのほかに
途はない。酒や
煙草が
好んで用いられるのは、このためである。酒は昔から「
憂いを
掃う
玉箒」と
呼ばれ、
煙草を一名「
忘れ草」と
称するのは明らかにこのことを
示している。
出征(注:
軍隊に
加わって
戦地に行くこと)中の
兵士に送る
慰問(注:
不幸な
境遇の人や、
災害・病気で苦しんでいる人などを
見舞うこと)品として、酒と
煙草とが第一に
選まれるのも同じ
理屈である。
禁酒、
禁煙論者は、
毎晩一合(注:180mリットル)ずつ酒を
呑むことを
廃すれば、
一生涯には何千円の
貯金ができるとか、一人毎日
一袋ずつの
煙草を飲むことをやめれば、全国では何百万円の
儲けになるとか言うて
勧めているが、酒や
煙草はなかなかそのくらいの
説教では
禁じられぬ。もしも、今日アメリカで行なうているごとくに、
法律をもって
禁酒を
強制したならば
密売は言うにおよばず、工業用のメチール・アルコールを飲む者や、コカイン、
阿片モルヒネの
類を用いる者がたくさんに出ぬであろうか。しこうして、これらは
普通のアルコールにくらべては、人体を
害することが、
何層倍に当たるか分からぬ。また、これらをも用いられぬように
厳重に
監督したならば、あたかもボイラーの
安全弁を
捻じとめたごとく、
欝憤(注:心の中に
積もり重なった
怒り・
恨み)を
洩らす
孔がふさがれたために、
喧嘩や
人殺しとして
噴出するごときことはなかろうか。
我らは自身では酒を
呑まず、他人が酒を
呑むことにも
不賛成で、
禁酒の広く行なわれることは
最も
希望するところであるが、
上述のごとくに考えるゆえ、
仮に酒が
絶対に用いられぬ
時節が
到着したとしても、なかなか
禁酒論者の予期するとおりの世の中とはならぬであろうと
想像する。
現実に対する
不満を
忘れるには、
迷信もまた
有効であると
述べたが、
迷信とは、黒いものを白いと
信じ、短いものを長いと
信ずることで、かく
信ずれば
実際黒が白に見え、短が長に見える
一種の
幻覚であるゆえ、
阿片モルヒネと同様に人をして
夢幻の
境に遊ばせることができる。
人類の
服従性が
退歩するにしたがい、
宗教の中の
徳育(注:人間としての
心情や
道徳的な
意識を
養うための教育)の
方便となるべき部分が
次第に
権威を
失うに反し、はなはだしい(注:
程度が
普通の
状態をはるかにこえている)
迷信ほどますます
盛んになりゆくのはこの理由による。これも
現実の世の中が意に
満ちておれば、あえて
逃げ出して、
夢の世界に遊ぶ
必要もないが、
現代が苦しみの世であるために、何とかしてこれを
忘れることに人々が
熱中するのである。文明が進み、
人智が開ければ
迷信はだんだん
影を
隠すべきはずであるに、思い切り
馬鹿馬鹿しい
迷信ほど
熱心な
信者が
絶えぬのは
何故かと言うて、多数の学者がこれを
論じておるが、
我らの考えによれば、これは全く
上述の理由による。その
証拠には、
阿片モルヒネのごとくに
麻酔の
効力を有する
迷信でなければ一向に
繁昌せぬ。
迷信という中には
種々の者があり、
滑稽なもの、
風雅(注:
高尚で、みやびな
趣のあること)なものもあれば、早く
除きたい
有害なもの、世道人心(注:世の中の
道徳と人の心)のために長く
保存したい
有益なものもある。しかるに、これらの
迷信が
惜し
気もなく一つ一つ
捨てられゆくに反し、ただ
麻酔力の強い
迷信だけが、
盛んに持て
囃される(注:からかったり、
冷やかしたり、ほめたりする
言葉を大声で
唱える)のを見ると、文明を
誇る
現代にかかる
迷信の行なわれる真の
原因は、
人類生来(注:生まれつき)の
協力一致性が
減じて
団体生活が一歩一歩
困難になりきたったためであると考えざるを
得ない。
なほ
現代の文明には
各方面にはなはだしい
欠陥があるために、
種々の病気が
蔓延する。アルコール、ニコチン、
阿片モルヒネの
中毒は言うにおよばず、男女の
関係の
乱雑になるために、
花柳病(注:
性病)が一面に
拡がり、
狭い都会に数百万人が
群集するゆえ、
肺病患者もますます多くなる。その他、日夜
精神を
過度に
働かすゆえ、
神経衰弱にかかる人が
限りなくできる。これらもその真の
原因まで
溯れば、みな
人類の
団体が大きくなり
過ぎたために、
団体を
単位とした
自然淘汰が
中絶し、その
結果として
団体生活に
必要な
協力一致の
性質がだんだんと
退化しきたったゆえである。
協力一致の
性質が
退化して、
個人的利己心の
増してゆく
実例はヨーロッパ、アメリカなどの文明国の新聞紙に毎日いくつでも出ている。
かように考えて見ると、
現代の文明は
初期の
癌腫(注:
悪性の
腫瘍)
患者が
大礼服(注:宮中の
儀式・
饗宴のときに着用した礼服)を
着飾っている
状態に
匹敵する。表面は実に
燦爛(注:
華やかで美しいさま)と
輝き、当人は何も知らずにすこぶる
得意であるが、身体の
奥深いところには、
不治(注:
病気が
治らないこと)の
病が
潜んですでに
或る
程度まで進んでいる。もっとも近来は身体に何か
故障があるらしいと当人は少し
疑い始め、いささか心配し出した様子に見える。
優生学(注:
悪性の
遺伝的素質を
淘汰し
改善をはかることを
目的とした
応用遺伝学の一
分野)とか、
人種衛生学とかが、文明
諸国でやかましく
唱えられるようになったのはそのためである。ただし、
民族の
寿命は
個人の
寿命と
違い、
随分長いもので、弱ってからも
容易に
滅亡するにはいたらぬゆえ、たとえ、
不治の病にかかっても、決して急速に
末期が近づいてくるわけではない。
各民族はできるだけ手をつくし、ラジウムでも、外科
手術でも、あらゆる
方法を
講じて、病の重らぬようにもっぱら
治療につとめるがよろしかろう。
終わりに
異民族間の
関係について考えて見るに、今日は
未曾有(注:今まで一度もなかったこと)の
大戦争のすんだ後で、
戦争の苦しいことは、
誰も
充分に
経験し、
如何なる苦しみを
忍んでも
戦争だけは
避けたいと思うておるところゆえ、何とかして、
未来永劫(注:これから先、
無限に長い年月にわたること)
戦争などをせずにすます
工夫はなかろうかと、さまざまに
考案をめぐらしている。その一つは、
国際聯盟であるが、これは
実際に行なわれることであろうか。
人類の
協力一致性が
減ずれば、同一
民族内の
紛擾(注:もめること)が
増し、それだけ他
民族を
攻撃する力が弱くなるゆえ、
異民族間の
争闘(注:あらそいたたかうこと)は昔ほどには
劇烈であり
得ぬわけであるが、さりとて、
異民族間の
反抗がそれだけ
緩和(注:
厳しさや
激しさの
程度を
和らげること)される
次第でもない。「
縁の近い者
同志の
憎しみが
最も
劇しい」(Acerrima
proximorum
odia)という
諺もあって、相へだたった者の間にはかえって
妥協も行なわれやすいに反し、よく
似た
仲間の
諍いはなかなか
治まらぬ。動物の
例を見ても「やどかり」と「いそぎんちゃく」のごとくに全く
別の部門に
属する
種類の間には
互いに
相扶けて
共棲するものもあるが、
同一種内の
変種の間はすこぶる
仲の悪いのがつねである。
馴れたモルモットと野生モルモットとを同じ
籠に入れても、
相離れて近よらず、
野猫は
家猫を
見付け
次第に
噛み
殺し、山犬は
猟犬を
仇として、
付けねらうなど、
縁の近い者ほど
相憎むことがはなはだしい。
或る
海産の
群生動物についての
実験によるに、
一群体を二つに切っても、一両日のうちにこれを
継ぎ合わせれば、たちまち元のとおりに
癒着するが、一ヶ月
余も
別の
器に
飼っておいた後に
継ぎ合わせては、もはや
互いに
癒着せぬのみか、相
反抗して、相手を
囲み負かそうと
努力する。人間は
何人種でも、
大体相似たもので、
互いの間には
雑種がいくらでも生まれるほどに
縁の近い者であるが、すでにいくつかの
人種、いくつかの
民族に分かれた
以上は、相
反抗せずにはおられず、
異民族の
境を
接しているところには昔から
必ず
争闘があった。これは、人間が
先天的に持って生まれる
性質として、
容易なことでは
抜けぬ。しからば
何故、時として
異民族が
結合するかというに、これは、
共同の
敵に対して、身を
護るためである。今日は交通が開け世界が
狭くなったためにいずれの
民族の間にも
密接な
関係が生じ、平時にも
戦時にも
単独の行動は
不利益であるゆえ、おのおの
適当な
仲間を
探して
聯合を
図るが、その
目的とするところは、いつも
競争の相手に負けぬためである。
詰まるところ、
各民族は
互いに相
反抗する
性質を
備えながら、
敵に対する
策として、
結合しておるのであるゆえ、あたかも
敵が
紐となって、
聯合民族を外から
締めていることにあたる。
共同の
敵がなくなれば
聯合民族は
当然一つ一つに
離れるのほかはない。しかし一つ一つに
離れては力が弱いゆえ、新たな
敵が
現われた場合にはふたたび
聯合せねばならぬ。かくのごとく
聯合は
必ず
共同の
敵のあるときにのみ
結ばれることを思えば、
諸強国がことごとく
聯合して、相手なしの
同盟を
造り
得るや
否やすこぶる
疑わしい。
仮に形だけはできたとしても、ただ
費用がかかるだけで
結局は何の役にも立たぬ
骨董品(注:古いだけがとりえの、役に立たない人や物のたとえ)に
過ぎぬであろう。
また
人類の
服従性が
或る
程度まで
減少すると、
個人として自由を
欲するのみならず、
民族としても自由を
欲するゆえ、これまで
他民族のために
併合せられていた
民族は、何らかの
機会に乗じて
独立運動を始める。これはとうてい
防ぎがたい世の
成り行きで、
司配する
側から見れば、はなはだ
厄介なことであるが、
如何ともいたし方がない。
例えばアイルランドや東インドのごときは、当分の間はイギリス国
政治家の
頭痛の
種であろう。
今日のところでは、白色
人種がほとんど全世界の
覇権を
握っているが、今後は
如何に
成りゆくであろうかと言うに、この間題を
論ずるにはまず白色
人種と有色
人種との
優劣を
比較して見なければならぬ。しこうして、白色
人種の中にもたくさんの
民族があり、有色
人種中にはさらに多くの
民族があって、それぞれ
優劣の
程度が
違い、
我らのごとき
実際のことを知らぬ者にはたしかなことは何も言われぬが、
試みに白色
人種の中の
最も進んだ
民族と、有色
人種の中の
最も進んだ
民族とを
抽象的に
想像して
比較して見よう。
民族と
民族との
競争において、いずれが勝って
勢力を
得るかは、さまざまの
条件によって定まる。
例えば、人口の多い
民族は少ない
民族に勝ち、体力の強い
民族は弱い
民族に勝ち、
勇気ある
民族は
卑怯な
民族に勝ち、仕事の
巧みな
民族は
下手な
民族に勝つわけで、
実際はその
関係がすこぶる
複雑であろうが、
人類が
初め他の動物に打ち勝ったのも、文明人が
野蛮人を
征服したのも
脳と手との
働きによって
敵にまさる道具を
造り用いたゆえであることを考えると、今後とても、
民族間の
競争の勝負はよほどまでは
精巧な
器械を
造りうる
智力の
程度によって定まるであろう。今、白色
人種と有色
人種とをくらべて見るに、学問
芸術においても
殖産工業(注:明治
政府が西洋
諸国に
対抗し、
産業、
資本主義育成により国家の近代化を
推進した
諸政策)においても白色
人種のほうが
一段まさっていることは
疑われぬ。いわゆる文明の
利器はことごとく白色人の
工夫創造したものであって、有色人の発明にかかるものは一つとしてない。かような
状態では少なくもなおしばらくの間は有色人が白色人と対等の
位置に進むことはむずかしい。昔の
歴史を読んで見ると、
一民族の文明が進んで
惰弱(注:
意気地のないこと)になったころに
隣りの
野蛮人がきてこれを
滅ぼした
例はいくらもあるが、かかることは、
器械が今日ほどに
精巧でなかった時代に
限る。今後の
戦争には
飛行機のわずかの
優劣によって、勝負が定まることもあるであろうから、
巧みな
器械を発明し
製造し
得ぬ
民族はほとんど勝てる
見込みがない。
敵の人口がにわかに
減じてくれればよいが、文明が進むと
産児の数が
減ると言うても、これは
比較的の話しで、白色人でも年々
相応に
繁殖し、有色人も
産児の数は少しずつ
減じてゆくゆえ、数で
圧倒する
望みもまことに少ない。
健康の
程度でも、
病に対する
抵抗力でも、有色人が
必ずしも白色人にまさるわけでないゆえ、この点においても、まず五分五分と見ておかねばならぬ。して見ると、
結局知恵の進んでいるだけが白色人の勝ちであるゆえ、今後はおそらく地球上における白色人の
勢力が今日
以上に
増し、有色人はますます
圧迫せられるのほかはないであろう。
しからば、白色人は有色人を
圧迫して、それで
満足するかというに決してさようではなく、白色人中の
最も有力なる二
民族が
互いに反目して、次回の世界
戦争はもし起こるとすれば
必ずその間に起こる。その理由は
彼らを
聯合せしむべき
共同の
敵がないからである。しこうして白色の二大
民族が
勢力を
争う場合には、いずれもできるだけ多くの味方を
造る
必要があるゆえ、有色
民族中の有力なものをも
仲間に引き入れる。
甲の白色
民族が
丙の有色「
民族と
同盟を
結べば、
乙の白色
民族は
丁の有色
民族を
誘い入れ、白色人が二組に分かれるにしたがい、有色人も二組に分かれて、そのいずれにか
加担する。かような
次第で、白色人が全部集まって
一団となることがないごとく、有色人が
結合して、
一団となる
機会もない。白色人が
一団となり有色人も
一団となって、その間に
戦闘が行なわれるというのは、有色人が白色人と対等の
位置までに進んだ上でなければないことであるが、かような時が
果たしてくるや
否や
疑わしい。有色人が全部
団結すれば白色人の
圧迫を
防ぐに当たって大いに
有効であるが、このことは白色人が
巧みに
操るのと、有色
民族の
相互間の
憎悪とのために
容易に行なわれぬ。おそらく当分の間は、白色
民族は有色
民族を
圧迫しながらも、これを味方として
利用し、有色
民族は白色
民族の
圧迫を受けながらも
一致団結するにいたらず、いずれも
民族間の
紛議と
民族内の
騒擾(注:
集団で
騒ぎを起こし、社会の
秩序を
乱すこと)とに追われて日を
過ごすことであろう。
(大正九年九月)