誤解せられたる生物学

丘浅次郎





 科学の中には教育のない人々からつねに誤解ごかいせられているものが少なくない。たとえば地質ちしつ学の教室へ外国人をつれてきて、ここは土壌どじょう分析ぶんせきしていかなる作物にてきするかを調べるところであると、説明せつめいした案内あんない者もある。また日々の天気予報よほうは天文台から出るものと心得こころえて、星学者に向かってそのあまりあてにならぬことをさかんに攻撃こうげきしかけた紳士しんしもある。しかしこれらはいずれも極端きょくたんれいであって、今日一通りの普通ふつう教育を受けた人ならば、かくはなはだしい間違まちがいをする者はなかろう。しかるにここに一つ普通ふつう教育を受けた人々はもちろん、教育のにんに当たれる人々までが誤解ごかいしているごとくに見える科学がある。それはほかでもない。すなわち表題にかかげた生物学であるが、誤解ごかい結果けっかとしてこの学の真の価値かちみとめられず、きわめて重要じゅうよう性質せいしつのものでありながら、すこぶる等閑とうかんせられていることはわれらのつねにもっとも遺憾いかんえぬところであるゆえ、ここにいささかその誤解ごかいせられている点、その誤解ごかいせられる理由、ならびに真の生物学とはいかなるものなるかをべておきたいと思う。
 まず第一に今日のところでは生物学という名称めいしょうさえも世間には広く用いられていない。動物学と植物学とはつねに鉱物こうぶつ学と合併がっぺいして博物はくぶつ学とばれ、中学校、師範しはん学校の課程かていの中にも博物はくぶつという科目はあるが生物学という名前は見当たらぬ。かくのごとく博物はくぶつ学という名称めいしょうのみが世間一般いっぱんに行なわれているゆえ、世人は動物植物の研究といえば、すべて博物はくぶつ学の範囲はんい内にぞくすることと考えて、べつに生物学なる独立どくりつの学科の存在そんざいすることを知らぬようであるが、われらがもっとも明らかにしておきたいと思うのはこの点である。元来博物はくぶつ学なる名称めいしょうは、自然しぜん物にかんする学問のいまだ幼稚ようちなころにつくられたもので、今日のごとくに学問の発達はったつした時代から考えるとすこぶる不適当ふてきとうな名前である。それゆえ今日ではもはやどこの国でも大学にこの名称めいしょうの学科のもうけてあるところはない。また新たに出版しゅっぱんせられる学術がくじゅつてき雑誌ざっし報告ほうこくるいにこの名称めいしょうをかむらせたものは一つもない。今日の生物学なるものは従来じゅうらい博物はくぶつ学ととなえきたったさかいをすでに通りして、はるかにそれ以上いじょうのものとなっているのであるゆえ、かれとこれとは決して同一視どういつしすべきものでない。これを混同こんどうするのは大いなる誤解ごかいである。
 しからば博物はくぶつ学と生物学とはいかなる点において相異あいことなるかというに、その研究の目的もくてき物は同一であるが、これを研究する方法ほうほうが全くちがう。従来じゅうらい博物はくぶつ学はたん自然しぜん物を記載きさいし、分類ぶんるいし、各種かくしゅ用途ようと能毒のうどく等を調査ちょうさするにとどまって、科学の真髄しんずいともいうべき推理すいり力を用いる部分がほとんど全くけていた。それゆえ、なるべく多くの自然しぜん物をしり、なるべく多くその名称めいしょうを暗記している人ほど斯学このがくの大家とあおががれ、博物はくぶつ学の書物といえば徹頭てっとう徹尾てつび自然しぜん物の記載きさいのみであった。教育学の書物などには今日でも往々おうおう科学をわけて記載きさいの科学と、説明せつめいの科学との二組とし、動物学や植物学を記載きさいの科学の中に入れてあるが、従来じゅうらい博物はくぶつ学ならば全くそのとおりに相違そういない。しかし科学なるものは元来実験じっけん観察かんさつのごとき経験けいけんのみでり立つものではない。また事実を度外視どがいしした思弁しべんてき推理すいりのみでり立つものでもむろんない。経験けいけん推理すいりとの二者が適当てきとうに配合せられて、始めて真の科学ができるのである。物にたとえて見れば、経験けいけんによって一個いっこ一個いっこの事実にかんする知識ちしきることは、あたかも建築けんちく材料ざいりょうとなるべき一個いっこ一個いっこかわら煉瓦れんがを集めてただたくわえておくようなもの、またたん思弁しべんてき推理すいり力のみによって学問をつくろうとするのは、あたかも紙を広げてその上に建築けんちく設計せっけい図ばかりを引いているようなもので、いずれにしても一方のみではいつまでたっても決して実際じっさい建築けんちく物はでき上がらぬ。学問も全くこれと同じく実験じっけん観察かんさつ等によって一個いっこ一個いっこの事実を知りえたのみでは、いかに多くこれがたまったとて決して真の科学の体裁ていさいそなえたものとは言われぬ。また思弁しべんてき推理すいり力のみをたのんで考えたのでは、いかに立派りっぱ学説がくせつ系統けいとうが組み立てられたりとも、これは全く紙上の空論くうろんであって、昔の哲学てつがく倫理りんり学等のごとく何の役にも立たぬ。今日の生物学は純正じゅんせいの科学として経験けいけん推理すいりとを双方そうほうともに重んじて研究を進めるゆえ、その進歩は迅速じんそくなりとは言われぬが、進歩しただけのところはよほど確実かくじつであり、したがって他の学科に影響えいきょうをおよぼすこともはなはだ多大である。人類じんるいの思想界に空前の大変動へんどうを起こしたかの進化論しんかろんのごときも、かかる研究ほう結果けっかであるゆえ、前のたとえにくらべると今日の生物学の研究方法ほうほうは、実験じっけん観察かんさつとによって建築けんちく材料ざいりょうを集め、推理すいりによってこれを組み立てているというてよろしい。
 かくのごとく昔の博物はくぶつ学と今日の生物学とでは研究の方法ほうほうちがうゆえ、学科の組み合わせ方も大いにあらためねばならぬところが生ずる。たん自然しぜん物を記載きさい分類ぶんるいし、用途ようとこうずるにとどまる間は自然しぜん物を調べる学科を博物はくぶつ学と名づけ、さらにこれを動物学、植物学、鉱物こうぶつ学の三部に分けておくに何の不都合ふつごうもない。従来じゅうらい博物はくぶつ学はこの程度ていどにあって、動物でも植物でも、鉱物こうぶつでも、ただ各種かくしゅ記載きさいするだけにとどまり、べつにそれ以上いじょうのことにろんじおよぼさなかったゆえ、すべてを合して一学科と見なしておいても何らの不条理ふじょうりな点も見いださなかったのであるが、今日のごとくに推理すいりの力によって一個いっこ一個いっこの事実の間の関係かんけいを考え、原因げんいん結果けっかことわりを明らかにしようとつとめる階段かいだんたっした以上いじょうは、鉱物こうぶつまでをもめて自然しぜん物の全部を一学科の研究の目的もくてき物とすることはとうてい不可能ふかのうのことであり、したがって従来じゅうらいのごとき学科の組み合わせ方はとうていそのままに用いつづけることはできぬ。なぜかというに、動物と植物との間には共通きょうつうの点が非常ひじょうに多くあり、その間の境界きょうかいは全く判然はんぜんであって、とく理論りろんこうずるにあたっては、決して動物学の理論りろんと植物学の理論りろんとを分けることができぬに反し、鉱物こうぶつのほうは生命なき結晶けっしょうなどであるゆえ、すべての点において動植物とは全くその性質せいしつちがい、たんにいずれも自然しぜん物であるということのほかには、ほとんどひとつ共通きょうつう性質せいしつがない。かように相異あいことなったものを一つに合わせて同時にこれに通ずる理論りろんを研究することのできぬはもちろんである。されば今日のごとくに経験けいけん推理すいりとを合わせ重んじて、真正の科学を形造かたちづくろうとする時代には、博物はくぶつ学なるものはとうてい一学科として存在そんざいすべき理由がない。このことは昔から生物を科学てきに研究せんとこころみた学者のみなとなえきたったところであって、生物学なる名称めいしょうを用い始めたトレヴィラヌスでも、スペンサーでも、ハックスレイでもみなこのせつ主張しゅちょうした。今日高等の教育で、もはや博物はくぶつ学なる名称めいしょうが用いられぬのはすなわち上述じょうじゅつのごとき理由にもとづくことである。もっとも初等しょとうや中等の学校で、教員の受持時間数等の関係かんけいから、便宜べんぎ上、博物はくぶつ学なる名称めいしょうそんしておいて、生物学と鉱物こうぶつ学とをその中に雑居ざっきょせしめておくのも、しいて悪いこととは思わぬが、博物はくぶつ学なる名称めいしょうが今日の生物学を誤解ごかいせしめる一原因いちげんいんであることを考えると、かかる無理むりなる組み合わせ方はなるべくけたほうが利益りえきであろう。
 以上いじょうべたとおり生物学が世間から誤解ごかいせられているのは、主としてこの学の歴史れきしてき経過けいかもとづくことであるが、さらにつまびらかにいえば、その原因げんいんひとつは科学自身の性質せいしつもとづき、一は従来じゅうらい博物はくぶつ学者なるものの態度たいどにももとづいている。まず学科の性質せいしつのほうからろんじて見るに、およそ生物にかんする自然しぜん理法りほう探求たんきゅうせんとするには、まず第一に生物各種かくしゅかんする正確せいかくなる知識ちしきを集めねばならぬが、そのためにはぜひとも各種かくしゅの生物を採集さいしゅうし、これについて実験じっけん観察かんさつする必要ひつようがある。しかるに生物の種類しゅるいの数はきわめて多く、その中で食物、衣服いふく装飾そうしょく等の材料ざいりょうとなって、直接ちょくせつに人生と関係かんけいを有するものはむしろ少数であって、その他はみな普通ふつうの生活をする人間より見れば何の価値かちもない物ばかりであるが、生物学上より見ればいずれも研究の材料ざいりょうとして同じく価値かちを有するものゆえ、生物学を研究する者はいかなる種類しゅるいの生物でも必要ひつようおうじて採集さいしゅするが、これが世間一般いっぱんの人々からはよほど奇態きたいに見える。とくに人間には何でも集めて楽しむ性質せいしつそなえた者があって、郵便ゆうびんの古切手やマッチの貼紙はりがみまでを集めるゆえ、ひる蚯蚓みみずなどを集めるのも、やはり右と同様な一種いっしゅの道楽のごとくに思われ、これを研究する学問ならばおそらく実際じっさいの人間社会とは何らの交渉こうしょうもないきわめてえんの遠いものであろうと推察すいさつせられ、生物学の真の目的もくてきはいかなるへんそんするかをたずねるにおよばずしてついにそのままに終わるのである。
 かくのごとく生物学自身に世人から誤解ごかいまねくべきおそれある性質せいしつをおびたる上に、従来じゅうらい博物はくぶつ家なるものの態度たいども大いに生物学を誤解ごかいせしめることを助けた。全体世人が博物はくぶつ家と名づける者の中には真に程度ていどひくい者がある。世人は分数、比例ひれいもしくは開平かいへい開立かいりつができたとて、その人を数学家とばぬが、あみを持ってちようやトンボを採集さいしゅうしガラスぶたの箱にならべて、十箱にもおよぶと、すでにその人を博物はくぶつ家と名づけて、これと生物学者とを混同こんどうしている。しかも昆虫こんちゅうを十箱集めただけでは、実はいまだ生物学の門へもはいらぬくらいのところであるゆえ、とうてい数学中の開平、開立の位地ちいにはおよばぬのである。また真に博物はくぶつ家としょうすべき人も多くは新種しんしゅの発見にほねり、触角しょっかくふしの一つ多い甲虫こうちゅうとか斑点はんてんの一つ少ないちょうとかを新種しんしゅとして記載きさいするゆえ、世間では動植物にかんする学問はたん各種かくしゅぞく分類ぶんるい記載きさい異同いどう識別しきべつ等のみにとどまるごとくに誤解ごかいし、動植物学を記載きさいの学問と名づくるにいたったのである。西洋諸国しょこくでも生物学という名前のやや広く行なわれるにいたったのは、実に近年のことであるゆえ、わが国のごとき生物学の研究の日なおあさく、その研究者の数少なきところで生物学が誤解ごかいせられていることは実にやむをえぬことでもあろうが、誤解ごかいはどこまでも誤解ごかいとしてすみやかにのぞかなければならぬ。分類ぶんるい記載きさいももとより生物学の必要ひつようなる一部分であるゆえ、われらは決して分類ぶんるいの研究を排斥はいせきするのではない。わが国では、この方面の研究もなおきわめて不充分ふじゅうぶんであるゆえ、まずこのほうから始めなければならぬ。ただ植物や昆虫こんちゅうかいるいを調べることを主とした従来じゅうらい博物はくぶつ家の研究の態度たいどから起こった誤解ごかいをすみやかにのぞいて、生物学の真価しんかをひろく世に知らせたいと思うのである。
 さて生物学の誤解ごかいせられている点と、誤解ごかいせられる原因げんいんについてはなおつまびらかにろんずれば種々しゅしゅべるべきこともあるが、ここにはそれをりゃくして、次には真の生物学の価値かち効力こうりょくべてみると、前にも言うたとおり、この学はまず実験じっけん観察かんさつによって各種かくしゅの生物にかんする一個いっこ一個いっこ正確せいかくなる知識ちしきを集め、さらにこれを材料ざいりょうとして推理すいりによって、その間の関係かんけいを明らかにするのであるから、その効力こうりょくのほうにも二段にだんべつがある。すなわち生物各種かくしゅかんする一個いっこ一個いっこの事実が明らかに知れれば、ただちにこれを利用りようして人生の物質ぶっしつてき方面にえきすることができる。たとえば昆虫こんちゅうかんする知識ちしきが進めば、害虫がいちゅう駆除くじょし、益虫えきちゅう保護ほごして、農業山林等の殖産しょくさんを助けることができる。しかし、かかる知識ちしきは全く専門せんもんてきであって、そのことに当たる人々には大切なものであるが、一般いっぱん人の思想に影響えいきょうをおよぼすごときことは少しもない。これに反して生物学の理論りろんのほうは一面利用りよう厚生こうせいのほうにも有益ゆうえきなると同時に、人類じんるいの思想界全体にいちじるしい影響えいきょうをおよぼすもので、場合によってはきゅう思想を転覆てんぷくせしむるほどの結果けっかを生ずるものである。直接ちょくせつに人生をえきするほうのことは今日医術いじゅつ、農業、山林、水産すいさん、その他に生物学てき知識ちしきが広く応用おうようせられているのを見て、世人もつねに気づいているであろうが、思想界にかんするほうは生物学に対する世人の誤解ごかい結果けっかとして、全くわすれられているように見受ける。とくに中等程度ていどの学校の校長などには今日でも動植物学の教育上の効能こうのう観察かんさつ力を養成ようせいするとか、分類ぶんるい整頓せいとん習慣しゅうかんつくるとかいうようないわゆる形式的けいしきてきのもののほかにはたん利用りよう厚生こうせいのみにあると考え、受持教員に対してなるべく鰹節かつおぶしつくり方とか、するめかわかし方とかいうごときことを多くさずけてもらいたいと注文する人もあるとのことであるが、生物学の思想界にかんする方面には全く心づかぬ人が多い。このこともわれらが日ごろはなはだ遺憾いかんに思うている点の一つである。
 そもそも生物学なるものは種々しゅしゅの科学の中でいかなる位置いちむるものであるかというに、自然しぜん科学にぞくすることはむろんであるが、人間は生物の一であるゆえ、生物学の理論りろんは人間にかんする学科ならばいずれの学科とも密接みっせつ関係かんけいがある。人間の社会てき生活にかんする学科はこれまで精神せいしん科学などというて自然しぜん科学と対立するもののごとくに見なされていたが、生物学の進歩するにしたがい、いずれも少なからずその影響えいきょうをこうむることになった。教育学のごときも近ごろのライとかモイマンとかいう人の著書ちょしょなどにはよほど生物学の理論りろんがとってあるようである。かかるありさまで生物学は自身は自然しぜん科学にぞくしながら、すべての精神せいしん科学の基礎きそとなるべき性質せいしつのものゆえ、自然しぜん科学と精神せいしん科学との連鎖れんさとも名づけてよろしい。あたかも炭素たんそが自身は無機むき物でありながらすべての有機ゆうき化合物の基礎きそとなるのと同じである。それゆえ、われらは生物学が充分じゅうぶんに進歩して、すべての精神せいしん科学にその影響えいきょうがおよんだあかつきには、あたかも今日有機ゆうき化学が炭素たんそ化合物の化学と名づけられるごとくに、すべての精神せいしん科学はかならず広い意味における生物学の範囲はんい内にぞくするものと見なされるにいたるであろうとしんずるのである。
 終りにわれらの希望きぼうを一つべておきたい。以上いじょうべたとおり生物学なるものは決して従来じゅうらいの教育学の書物にあるようなたん分類ぶんるい記載きさいの学問ではなく、すべての精神せいしん科学の基礎きそともなるべき科学であるゆえ、いわゆる精神せいしん科学にぞくする学科をおさめる人はかならずこれと同時に生物学をもかね学ばなければ不充分ふじゅうぶんであるとのことに心づいてもらいたい。生物学を知らずして精神せいしん科学をおさめめるものはあたかもいしずえなしに家をてるようなものであるゆえ、いつたおれるやもしれぬと覚悟かくごしなければならぬ。げんに教育学なども生物学を加味かみした新教育学が出てくると、従来じゅうらい学説がくせつは一時いかほど流行りゅうこうしたものでも、これに対して対等の論戦ろんせんができぬ。なぜかというに、生物学の研究ほうは一歩ごとに観察かんさつ実験じっけんによって、実物にてららしてたしかめた上の議論ぎろんであるゆえ、たんつくえの上で考え出した空論くうろんとは論拠ろんきょの強弱のがとうてい同日のろんでないからである。もとよりわれらは生物学が今日すでに充分じゅうぶん発達はったつしたものであるとは言わぬ。ただその研究の方法ほうほうたしかであり、かつ今日までの成績せいせきしるしてみると、将来しょうらいもますます進歩すべきものであると考えざるをえぬゆえ、精神せいしん科学をおさめめる人々にもともどもこれを研究してもらいたいとのぞむのである。
(明治四十一年八月)





底本:「進化と人生(上)丘浅次郎集」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1908(明治41)年10月   誤解せられたる生物学 「教育界」に掲載
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