煩悶の時代

丘浅次郎






ままにならぬが浮世うきよ(注:つらい、はかない世の中)」とは昔からつねに言いきたった言葉であるが、ままにならねば、そこにかなら煩悶はんもん(注:くるしみもだえること)がある。されば煩悶はんもんの全くないという世の中は、いまだかつてなかったであろう。しかしながら同じく煩悶はんもんと言うても、その中には種々しゅしゅさまざまのものがあって、子供こども煩悶はんもんと大人の煩悶はんもん野蛮人やばんじん煩悶はんもんと文明人の煩悶はんもん、昔の人の煩悶はんもんと今の人の煩悶はんもんというように、たがいに比較ひかくして見ると、その間にいちじるしい相違そういみとめる。また、個人こじん個人こじんによってことなる煩悶はんもんもあれば、多数の人に共通きょうつう煩悶はんもんもあり、る時期、境遇きょうぐう特殊とくしゅ煩悶はんもんもあれば、何人も早晩そうばんわねばならぬ煩悶はんもんもあろう。したがって、煩悶はんもんのぞくべき方便ほうべん(注:方法ほうほう)もさまざまで、たやすくのぞくことのできる場合もあれば、そのすこぶる困難こんなんな場合もあり、中にはとうていのぞくことはむずかしかろうと思われる場合もあるであろう。
 一人一人にちがうような煩悶はんもんは、子供こどもにも大人にも、野蛮人やばんじんにも文明人にも、昔の人にも今の人にも、かつてえたことはない。たとえば、たなの上の菓子かしに手のとどかぬ子供こども煩悶はんもんとか、意中のむすめとのこい成就じょうじゅせぬ青年の煩悶はんもんとか、教授きょうじゅ頑健がんけん(注:からだが丈夫じょうぶで、非常ひじょう健康けんこうなこと)であるためにいつまでも位地いちの上がらぬ助教授じょきょうじゅ煩悶はんもんとかいうごときものは、いつの世にもかならずある。実は、この種類しゅるい煩悶はんもんは、人間にかぎったわけではなく、他の動物にもつねに見られる。くさりの短いためにニンジンを取りないさる煩悶はんもん、鉄さくへだてられてとなりの牝鹿めじかたつない牡鹿おじか煩悶はんもん、先着者のために皮のうすい場所を占領せんりょうせられて、止むをず皮のあついところでがまんするダニの煩悶はんもんなどは性質せいしつにおいて全くこれにことならぬ。かような煩悶はんもんは、一つ一つに対する解決かいけつ方法ほうほうがあるゆえ、これをのぞくことは不可能ふかのうではない。すなわち子供こどもには菓子かしあたえ、青年にはむすめとの同棲どうせい(注:正式に結婚けっこんしていない男女が同じ家で一緒いっしょらすこと)をゆるし、助教授じょきょうじゅには位地いちを上げてやりさえすれば、その煩悶はんもんだけはとにかく、なくすることができる。もっともよくにはかぎりのないものゆえ、一つの煩悶はんもん片付かたづけば、次の煩悶はんもんあらわれて、煩悶はんもんその物が全くなくなることはのぞまれぬが、一つ一つの煩悶はんもんは何とか方法ほうほうこうじさえすれば、解決かいけつせらるべき性質せいしつのものである。われら(注:わたし)が今よりろんじようと思うのはかような種類しゅるい煩悶はんもんではなく、子供こどもや、野蛮人やばんじんや、昔の人などの全く知らずにすんだ、文明的ぶんめいてき現代的げんだいてき煩悶はんもんについてである。


 われらは今よりちょうど十年前の本誌ほんしの新年号に「人類じんるい将来しょうらい」と題する一篇いっぺんせて、人類じんるいの今まで経過けいかしきたった道筋みちすじはじめは上り坂であったが、後には下り坂となった。すなわち人類じんるいは今日下り坂の途中とちゅうにあるとの考えをおおやけにした。このせつは、その後あらわした『人類じんるい過去かこ現在げんざいおよ未来みらい』の中にも『生物学講話こうわ』の中にも簡単かんたんながら書きくわえておいたが、今よりべんとするところも、これを基礎きそとしたものゆえ、一応いちおうその要点ようてんだけを次にげる。
 人間も原始時代にはさると同様に小さな団体だんたいつくって生活していたもので、そのころには小さな団体だんたい同志どうしではげしくあいあらそい、負けた団体だんたいほろせ、勝った団体だんたいのみが生きのこり、長い間、かかる生活をつづけている間には、自然しぜん淘汰とうた(注:自然的しぜんてき原因げんいんによって特定とくてい個体こたい選択的せんたくてきに生きのこること)の結果けっかとして、団体だんたい生活にてきする性質せいしつ次第しだい発達はったつしきたった。団体だんたい生活にてきする性質せいしつとしてもっとも大切なのは、生まれながらにたがいに協力きょうりょく一致いっちせずにはおられぬという性質せいしつである。しこうして人類じんるいさるのごとき階級かいきゅうがた団体だんたいつくる動物では、団体だんたい内の協力きょうりょく一致いっち充分じゅうぶんに行なわれるためには、だれもが上の者に絶対ぜったい服従ふくじゅうするということがもっと有効ゆうこうであるゆえ、団体だんたい間に生存せいぞん競争きょうそうつづく間は、服従ふくじゅうせいはおいおい完全かんぜん発達はったつしてきた。しかるに人類じんるいは他の動物とちがい、何をするにも道具を用いるゆえ、団体だんたい団体だんたいとの競争きょうそうにも、道具の進歩したもののほうが勝つ見込みこみが多いわけで、そのため道具は時とともにだんだん精巧せいこうになったが、道具が精巧せいこうになれば、それにともなうて、団体だんたいは次第に大きくならざるをなかった。何故なぜというに団体だんたいは大きなほど強いはずではあるが、道具が幼稚ようちな間は一定の際限さいげんをこえると、全部の統一とういつたもたれずかえって不利益ふりえきが生ずる。今日でも野蛮人やばんじんはみな、小さな蕃社ばんしや(注:台湾たいわんの先住民族みんぞく集落しゅらく集団しゅうだん)に分かれていて、国と名付なづくべきほどの大きな団体だんたいつくないのはそのためである。これに反して、道具が精巧せいこうになれば、命令めいれいつたえるにも、兵糧ひょうろう(注:戦争せんそう時における軍隊ぐんたい食糧しょくりょう)を運ぶにも少しも困難こんなんを感ぜぬゆえ、団体だんたいはどこまで大きくなっても差支さしつかえは起こらぬのみか、大きくなっただけ有力となる。ところが団体だんたいがだんだん大きくなると、団体だんたい間の競争きょうそうの勝負が容易ようい(注:簡単かんたん)に片付かたづかず、かつ、たとえ、一方がやぶれたとしても、団体だんたい中の者がことごとくころされるわけではなく、わずかに一小部分の者が死ぬだけで、のこりはあいわらず生存せいぞん繁殖はんしょくするゆえ、団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたは全く行なわれぬことになる。しこうして自然しぜん淘汰とうたが止めばその時まで自然しぜん淘汰とうたはたらきによって養成ようせいせられ、または維持いじせられきたった性質せいしつ退化たいかし始めるをまぬがれぬ。前にもべたとおり、人類じんるい団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつとして自然しぜん淘汰とうたによって養成ようせいせられきたったのは、協力きょうりょく一致いっちじつをあげるための服従ふくじゅうせいであったが、自然しぜん淘汰とうたんだ上は、この性質せいしつ退化たいかするのほかはなく、服従ふくじゅうせい退化たいかすれば、階級かいきゅうがた団体だんたいはとうてい協力きょうりょく一致いっちの実をあげることはできぬ。元来が団体だんたい生活をいとなむ動物でありながら、団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつが少しずつげんじてゆくとすれば、これはすでに運命うんめいの下り坂に向かうたものと見なすのほかはない。われらが、人類じんるいは今日、すでに下り坂の途中とちゅうにありと言うのはすなわちこの意味においてである。しこうして、程度ていどまで文明が進めばだれにもかならず文明にともな一種いっしゅ煩悶はんもんの起こることは、このせつによってのみ理由を了解りょうかいすることができるように思われる。


 以上いじょうべたごとく、人間の過去かこには上り坂の時代と下り坂の時代とがあり、上り坂の時代には自然しぜん淘汰とうたはたらきによって、団体だんたい生活にてきする性質せいしつ次第しだい発達はったつし、下り坂の時代には、自然しぜん淘汰とうたが止んだだめに、かかる性質せいしつがだんだん退化たいかしたものとすれば、今日の人類じんるい社会にいずれの方面にもかぎりなく矛盾むじゅんそんすることが容易ようい理解りかいせられる。上り坂のころには、協力きょうりょく一致いっち方便ほうべんとしての服従ふくじゅうせいが、さかんに養成ようせいせられたゆえ、それにもとづいた風俗ふうぞく(注:日常にちじょう生活上せいかつじょうのしきたり)習慣しゅうかんができあがったが、下り坂になってからは、この性質せいしつが少しずつ退化たいかしたために、その反対の性質せいしつがいつとなく発生し、それを基礎きそとした新思想がだんだんとあらわれてきた。服従ふくじゅうせいの反対の性質せいしつとは、自由平等をもとめる性質せいしつであるが、服従ふくじゅうせいげんじたというのと、自由平等をもとめる性質せいしつあらわれたというのとは、実は同一のことをべつの言葉で言うているにぎぬ。あたかも白が勝ちそうになったというても、黒が負けそうになったというても、事実にわりがないようなものである。さて、如何いかなる性質せいしつでも自然しぜん淘汰とうたはたらきが止んだからというて、全部にわかに消えせるものではなく、その後もずいぶん長い間、継続けいぞくすることは、ほねや、耳を動かす筋肉きんにくが今日の人間にもなおそんするのを見ても明らかであるが、上り坂時代に発達はったつした、階級かいきゅうがた団体だんたい固有こゆう絶対ぜったい服従ふくじゅう性質せいしつは、下り坂になってからも、依然いぜんとして継続けいぞくし、団体だんたいが大きくなるとともに、階級かいきゅうの数もおいおいして、一時は巍然きぜん(注:ぬきんでて偉大いだい様子ようす)たる階級かいきゅう制度せいどの形をあらわした。今日もなおその引きつづきとして、社会は大体昔のままの階級かいきゅう制度せいどが行なわれている。
 社会が最上さいじょうから最下さいかまで幾段いくだんかの階級かいきゅうに分かたれ、各階級かくかいきゅうともに、上の者には絶対ぜったい服従ふくじゅうし、下の者には無限むげん威張いばるるのが、階級かいきゅう制度せいど特徴とくちょうであるが、かような世の中に住んでいても、昔ながらの服従ふくじゅうせいをなお多量たりょう所持しょじしている人ならば、少しも煩悶はんもんが起こらぬ。服従ふくじゅうせいそなえた人が階級かいきゅう制度せいどの世の中に住んでいるのは、あたかも魚が水の中に住んでいるのと同じわけであるゆえ、上の者にはうやうやしく頭を下げ、下の者にはうやうやしく頭を下げさせて、これを当然とうぜんの人間生活であると思うている。上の者からもろうた物は宝物たからものとして大切に保存ほぞんし、上の者におくった物が受納じゅのうせられれば、これを非常ひじょう名誉めいよと思い、上の者の前で画でも書けば、これを無上むじょう光栄こうえい心得こころえ、上の者から一言ものを言われただけでもありがたくてたまらぬような人間はみなこの仲間なかまぞくする。もしも世の中の人間が、ことごとくかような人のみであったならば、他の動物のごとき個人こじんてき煩悶はんもんはあるとしても、それ以外いがい煩悶はんもんは起こらずにすんだであろう。
 ところが、人類じんるい経路けいろが下り坂となってからは、服従ふくじゅうせい次第しだい減少げんしょうし、そのため物の考え方が大いにあらたまってきた。もっともすべての人が同じ歩調ほちょう変化へんかするわけではなく、早くわる人もあれば、おそくわる人もあり、死ぬまでわらぬ人もあるゆえ、今日のところではすでにわった新しい人と、いまだわらぬふるい人とがのきならべて生活しているありさまである。ふるい人は前にべたとおり、今日の階級かいきゅう制度せいどに対してべつ煩悶はんもんも起こさぬが、新しい人のほうは、心の中にしんずることと、目の前の社会の制度せいどとがあまりはなはだしくちがうゆえ、とうてい煩悶はんもんせずにはおられぬ。服従ふくじゅうせい退化たいかした人から見れば、今日の社会は実に理屈りくつの合わぬことだらけで、まず第一に同じ人間に人為的じんいてき階級かいきゅうをつけて区別くべつすることが、不条理ふじょうり千万と思われる。はだかにして見れば、かれわれとの間に何のべつもないのに、かれは社会の上流に立って衆人しゅうじん(注:大勢おおぜいの人)に尊敬そんけいせられ、われははるかにその下におかれて、世の軽蔑けいべつを受けるのは何故なぜであるか、かれはなまけながらぜいたくのかぎりをつくし、われは日夜はたらつづけて、しかも貧乏びんぼうに苦しむのは何故なぜであるか。何故なぜかつて一回もわれを助けたることなきかれ敬意けいいを表せねばならぬか。何故なぜわれよりも知恵ちえがすぐれたりと思われぬかれ命令めいれいしたがわねばならぬか。その他これは何故なぜか、あれ何故なぜかと不審ふしんを起こして見ると、一つとして正当と思われるものはない。物の考え方が、この程度ていどまで進んだ後に、自分の過去かこふりり返って見れば、よくも今までこのような不条理ふじょうりきわまる世の中に平気で生活しきたったことよとおどろかずにはいられぬ。また自分の周囲しゅういの人々が平気でいるのを見れば、その無感覚むかんかく状態じょうたいがあたかもねむれるありさまにことならぬゆえ、自分らだけが他よりも先に目覚めざめたものとしんぜざるをない。覚醒かくせい(注:まよいからさめあやまちに気づくこと)とはすなわちこのことである。しこうして一たん覚醒かくせいした以上いじょうは、服従ふくじゅうせいの上にきづき上げた旧来きゅうらい階級かいきゅう制度せいどに自分をはめることが非常ひじょう苦痛くつうであるが、世の中は一朝一夕いっちょういっせき(注:わずかな期間きかん)にあらたまるものでないゆえ、山にかくれるか、自殺じさつするかせぬかぎりは、苦痛くつうしのんで、あり合わせの世の中に自身をはめるのほかにいたし方はない。現代げんだいの社会は大体が昔の階級かいきゅう制度せいどのままで、風俗ふうぞくでも習慣しゅうかんでも、みな階級かいきゅう制度せいど基礎きそとしたものゆえ、めた人が心の中にしんじていることとはとうてい一致いっちしない。されば、今日の文明国において、めた人々が止むをず古い習慣しゅうかんしたがうて働作どうさしている様子はまるで、曲馬きょくば(注:馬に乗ってえんじる曲芸きょくげい)の道化どうけ役者が見物人のきげんを取りむすぶために、心にもないこっけいをえんじているのと同じく、実に憫然びんぜん(注: かわいそうな様子ようす)のいたりである。如何いか渡世とせい(注:生活せいかつすること)のためとはいいながら、よくもこのような馬鹿ばかげたことが臆面おくめん(注:気おくれした顔つき)もなくできたものであると考えては、自身で自身を軽蔑けいべつせずにはいられぬが、自身を軽蔑けいべつせざるべからざるにいたっては、煩悶はんもんもずいぶんはなはだしからざるをない。昔から娼妓しようぎ(注:売春婦ばいしゅんふ)の職業しょくぎょう苦界くがい名付なづけきたったが、おのれのよくせぬことを我慢がまんしてつとめながら、あたかもよろこんでつとめているごとくによそおわねばならぬ苦しみからいえば、今日のめたる文明人の生活は、たしかに一種いっしゅの苦界なりと言うことができよう。
 服従ふくじゅうせい退歩たいほして、自由平等をもとめるようになるには、知識ちしき程度ていどが大いに関係かんけいする。これは歴史れきしを見ても明らかなことで、もっとも早く自由平等のさけび声を聞いたのは、もっとも早く文明の開けた国々である。また同じ時代に住む人間では、知識ちしきひくい者は容易よういめるにはいたらず、書物でも読むような階級かいきゅうの者だけがまずめる。されば、ここにべたごとき煩悶はんもんは、子供こどもにもなく、野蛮人やばんじんにもなく、ただ程度ていどまで知識ちしきの進んだ者のみの有する煩悶はんもんであるが、今後は教育はますます普及ふきゅうし、知識ちしきはますます進むであろうから、めた人の数はただすばかりで、早晩そうばん文明人がことごとくこの煩悶はんもんねる時代がくるであろう。


 以上いじょうは文明の進むにしたがい、各個人かくこじんにはげしき煩悶はんもんの起こることのけられぬ次第しだいべたのであるが、煩悶はんもん個人こじんにのみ起こるわけではない。世の文明が進めば、民族みんぞくとしての煩悶はんもんも生ずる。まず如何いかなる民族みんぞくには、民族みんぞくとしての煩悶はんもんがないかというに、これは自己じこ民族みんぞくをもって、一番すぐれたものと思うている民族みんぞくである。地球上に住む民族みんぞくの数は多いが、わが民族みんぞくにまさる民族みんぞくは他に決してないと思うている間は、心の中は泰平たいへい(注:世の中がよくおさまり平穏へいおんであること)であって、民族みんぞくとしての煩悶はんもんはありない。しからば、かかる民族みんぞくはどこにあるかというに、となりの民族みんぞくとの競争きょうそうに負けるまでは、いずれの民族みんぞくでもかように考えている。また少しくらい、負けても、回復かいふくのぞみが絶無ぜつむでない以上いじょうは、かような考えを容易よういてぬ。たいがいの野蛮やばん民族みんぞくはみな、かくしんじていた。今日といえども、かくしんじている者がはなはだ多い。しこうしていずれの民族みんぞくにも、自己じこ民族みんぞくが他よりもすぐれていることの証拠しょうことなるべき口碑こうひ(注:古くからのつたえ)や伝説でんせつがあって、代々これを語りつたえて、自己じこ民族みんぞくが世界にもっとすぐれたるものなりと確信かくしんしている。
 かような時代がいつまでもつづけばまことに結構けっこうであるが、文明の進歩はとうていこれをゆるさぬ。いまだ世の中の開けぬころには交通の便べんけているために、同じ地球の表面に住んでいても、やや遠いところにいる他の民族みんぞくとは接触せっしょくする機会きかいが全くない。ここより五千里へだったところには足の長い人種じんしゅがいるとか、一万里へだったところにはむねあなのある人種じんしゅがいるとかさまざまのうわさを聞くだけで、実物を見ることは一度もないゆえ、かりに自分よりはるかにまさった民族みんぞくが他にあっても、かれわれとをならべて比較ひかくして見ることができぬために、われおとっていることには少しも心付こころづかずにいられた。しかるに、文明が進んで交通の機関きかん急激きゅうげき発達はったつし、汽車や汽船がさかんに往復おうふくするようになれば、如何いかに世界の片隅かたすみ引込ひきこんでいた民族みんぞくでも、他と接触せっしょくすることをけるわけにはゆかぬ。ヴェルヌが『八十日間世界一周いっしゅう』を書いたころには、二ヶ月と二十日もかかって地球を一周いっしゅうすることが架空かくう小説しょうせつと思われていたが、その後、鉄道がび、汽船が大きくなったために、今日ではだれにもできる尋常じんじょう(注:あたりまえ)のこととなった。飛行機きこうきを用いればその三分の一の日数でも容易よういに世界を一周いっしゅうすることができよう。かくのごとく、交通の機関きかん発達はったつすれば、それだけ地球が小さくなったも同様で、いずれの民族みんぞくたがいにあい接触せっしょくせざるをぬこととなるが、異民族いみんぞく接触せっしょくするところにはそこに競争きょうそうが起こらざるをない。かれよくする物をわれが有するかわれよくする物をかれが有するか、かれわれとが第三者の有する同一の物をよくするかの場合にはとうてい衝突しょうとつをまぬがれぬが、衝突しょうとつすれば力のまさった民族みんぞくが勝ち、力のおとった民族みんぞくけるのほかはない。自分よりもまさった民族みんぞくからの圧迫あっぱくを受け、自分の意志いしを曲げて相手の主張しゅちょう服従ふくじゅうすることを余儀よぎ(注:ほかの方法ほうほう)なくせられるときに、民族みんぞくとしての煩悶はんもんが生ずる。かれが勝ち、われけたという目前の事実を見ては、だれむねにも、われは今までしんじていたごとくに、世界第一の民族みんぞくではないのではなかろうかとのうたがいが起こらざるをず、一たんこのうたがいが起これば、もはや昔のごとくにまくらを高うしてはねむられぬ。しこうしてかかることがたび重なれば、そのたびごとに煩悶はんもんの度が高まりゆくべきはもちろんである。
 文明の進むにともない、民族みんぞくとしての煩悶はんもんの起こるべきなお、一つの原因げんいん服従ふくじゅうせい退化たいかである。いずれの民族みんぞくでも団体だんたい内のよくおさまっていることを第一のほこりとしているが、世が開けるにしたがうて、このことが次第しだいにむずかしくなってくる。如何いかなる民族みんぞくでも理解りかい力がすと同時に服従ふくじゅうせい退化たいかするをまぬがれぬが、服従ふくじゅうせい退化たいかすれば、旧来きゅうらい階級かいきゅう制度せいどをおもしろく思わず、上にくらいする者に敬意けいいを表することをかえんぜぬ(注:承諾しょうちしない)ような人間がぞくぞくと出ている。わが民族みんぞくを世界第一なりと思う考えの中には、階級かいきゅう制度せいど完全かんぜんに行なわれているということも、その一ヶ条いっかじょうとしてふくまれていたゆえ、このことが少しずつくずれゆく形跡けいせきが見えては、今までのほこりの一部がきずけられたことにあたり、今後如何いかになりゆくかとの心配が生ずる。階級かいきゅう制度せいどのよく行なわれるのはもとより服従ふくじゅうせい旺盛おうせいなるによるゆえ、世のおさまれることをほこるのは、すなわち服従ふくじゅうせいのいまだ退化たいかせぬを自慢じまんしていたにほかならぬが、文明が進めば、服従ふくじゅうせい退化たいかはとうていふせぐことができず、早晩そうばんこの方面にも民族みんぞくとしての煩悶はんもんの生ずる時代がくるのをまぬがれぬ。


 四、五年前の新聞に出ていたことであるが、二十六さいになるめくらの女が手術しゅじゅつを受けて、はじめて目が見えるようになったときの感想に、今までは世間をはるかに奇麗きれいなものと想像そうぞうしていた。目を開いて見て、その意外にきたないのにおどろいたと書いてあった。また脚本きゃくほんに、盲目もうもく夫婦ふうふが、両人ともに目の見えぬことを非常ひじょうになげき、観音かんのん様にがんをかけて、一心不乱ふらんいのったところが、霊験れいげん(注:祈願きがん信仰しんこうに対してあたえられる不可思議ふかしぎ感応かんのうあるいは利益りえき)によって、両人ともに同時に目が見えるようになった。しかしたがいに顔を見合わすと、今まで心の中に想像そうぞうしていたような美男美女ではなくて、すこぶるみにくい顔であったので、これならば元のめくらでいたほうがいくらましか分からぬと言うて、かえって観音かんのんをうらむところが作ってあった。すべて美しいと想像そうぞうしていたものの実物がみにくいことを見いだしたときには、だれ失望しつぼうして不愉快ふゆかきを感ずるが、それが、自己じこぞくする民族みんぞくである場合には、深く煩悶はんもんせずにはいられぬ。文明が進むにしたがうて、各個人かくこじん煩悶はんもんの起こるのは、無感覚むかんかくから有感覚ゆうかんかくうつったのであるゆえ、これは熟睡じゅくすいから目醒めざめめたのに比較ひかくすることができるが、世が開けゆくために各民族かくみんぞく煩悶はんもんの起こるのは、幻覚げんかくから目のめた状態じょうたいうつるのであるゆえ、あたかも楽しいゆめやぶられたにひとしい。しこうして楽しいゆめやぶるものは、まず第一には他民族たみんぞくからの圧迫あっぱくである。
 今までわが民族みんぞくは世界無類むるい優等ゆうとう民族みんぞくなりと自負じふしていたところへ、にわかに他の民族みんぞくせてきて、種々しゅしゅのことを要求ようきゅうする。あるいは港を開けとか、居留地いりゅうちを定めよとか、鉄道をかけさせよとか、鉱山こうざん発掘はっくつゆるせとか言うてくる。先方に言わせれば一々もっともの理由があるが、当方から見ればいずれも無理むり難題なんだいである。これを承諾しょうだくすれば、先祖せんぞ代々だいだいわが民族みんぞくのみで占領せんりょうしきたった国内に他民族たみんぞく勢力せいりょくが入りこんでくる。しかも、これを拒絶きょぜつするには、武力ぶりょくうったえるのほかにみちはない。てきを知らず、おのれを知らず兵力へいりょくを用いれば、たちまち打ちやぶられて、前に幾倍いくばいする苛酷かこく要求ようきゅう承知しょうちすることをいられる。かかることが二、三回も重なれば、如何いかに自負心の強かった民族みんぞくでも、わが民族みんぞくが世界一なりとしんつづけることはできず、楽しかったゆめからり起こされて、わが民族みんぞくは相手の民族みんぞくよりもおとるというみにく現実げんじつみとめねばならぬことになる。人間にも少々くらいり動かしてもゆめめぬ者があるとおり、民族みんぞくにも、何回もられながら泰然たいぜん(注:いていて物事ものごとおどろかない様子ようす)としてねむつづけているものがないでもないが、目前の事実は何よりも雄弁ゆうべん(注:人の心をうごかすように、力強ちからづよくよどみなくしゃべること)であるゆえ、数回、わが無力むりょくなることがしめされれば、たいがいのものは昔のゆめからめて、それと同時に民族みんぞくとしての煩悶はんもんを始める。
 文明が進めば、服従ふくじゅうせい退化たいかするために、伝来でんらい階級かいきゅう制度せいどが少しずつみだれてゆくことも、民族みんぞくをして煩悶はんもんせしめる。上にくらいする者に対して、敬意けいいを表せぬ者や、敵意てきいふくむ者が少しずつあらわれ始めても、最初さいしょのうちはこれを全くの例外れいがいと見なし、ふたたびあるまじきこととして心を安んじているが、同様なことが三度四度と重なると、徐々じょじょと心配になってくる。他の民族みんぞくはともかく、わが民族みんぞくかぎっては、かかることは未来みらい永劫えいごう(注:これから未来みらいにわたるてしなく長い年月)決してあるまじと思うていた不祥事ふしょうじがしばしば起こるのを見ては、もしやこれは例外れいがいではなくて、当然とうぜんかくあるべき時代が到着とうちゃくしたのではないかとのうたがいが生じ、次にはうたがいがかたまって、いよいよそれにちがいないと考えるにいたる。トルストイの「クレイツェロヴア・ソナタ」の中にある男が、結婚けっこん後まもなく夫婦ふうふ喧嘩けんかをしたころには、一度一度の喧嘩けんかをあやまちのために生じた偶発ぐうはつ事件じけんで、注意さえすれば、ふたたび起こるのをけることをるものと思うたが、今から考えれば、それは全くあやまりであって、実は喧嘩けんか当然とうぜん喧嘩けんかの起こるべき深い理由のために起こったのであったと言うたごとくに、階級かいきゅう制度せいどに反するようなことをあえてする人間の出るのも、最初さいしょこそ偶然的ぐうぜんてきに見えるが、さらに深くそのおくさぐれば、当然とうぜんかかる者が出ねばならぬ時代にたつしたのである。かく気がいて見ると、今までわが民族みんぞくばかりはべつであると思いんでいたのはゆめであったと知れて、そこに煩悶はんもんが始まる。前にもべたとおり、長らく楽しんでいた美しいゆめからり起こされ、みにくいわが身を見せつけられては、だれ煩悶はんもんきんないであろうが、民族みんぞくとしては、今まで世界第一と思うていたゆめやぶられて、われおとっている現実げんじつを明らかにみとめねばならぬ時や、わが民族みんぞくばかりは大丈夫だいじょうぶと思うていたゆめから起こされて、すこぶる不用心ぶようじんなることを目の前に見た時などに、もっとも大いなる煩悶はんもんが起こるであろう。しこうして、この二つは、たいがいの民族みんぞく野蛮やばんから文明に進みゆく途中とちゅうかなら通過つうかせねばならぬ関所せきしょである。


 以上いじょうは文明の進むにしたがうて、当然とうぜん生ずべき個人こじん煩悶はんもん民族みんぞく煩悶はんもんとについて簡単かんたんべたのであるが、次に人類じんるいとしての煩悶はんもんなるものがあるやいなやというに、これは今日のところでは、いまだどこにもないように見受ける。煩悶はんもんは美しいゆめからめて、みにく現実げんじつを見たときに起こると言うたが、今日の人類じんるいはいまだ美しいゆめを見ている最中さいちゅうであるゆえ、人類じんるいとしての煩悶はんもんを全く知らずにいる。人は万物のれいなりと昔から言いきたったが、かくしんじている人は、人類じんるいとしての煩悶はんもんは決して起こらぬ。神は天地万物をつくった後に、自分の姿すがたせて人をつくった。それゆえ、人はすべての物の上にくらいすると思うていれば、人類じんるいとしては心中しんちゅう、大いに安んじていられるゆえ、何もわざわざ煩悶はんもんするにおよばぬ。生物は下等のものから、次第しだいに高等のものに進化しきたったが、人類じんるいはそのもっとも高等なもので、今後はさらに一層いっそう高等のものになるべきはずであると考えている人も、ほぼこれと同様の状態じょうたいにある。かくのごとく、考えの形は人々によってさまざまにちがうても、人を万物のれいと見なす点においてことごとく一致いっちしているが、われらから見れば、これはいずれも美しいゆめぎぬ。
 人類じんるいをして、かような美しいゆめを見させておく事情じじょうはたくさんにある。まず第一には今日人類じんるいを相手として対等の競争きょうそうをなしる動物が一種いっしゅもない。これが人類じんるいをして極度きょくどにうぬぼれしめた最大さいだい原因げんいんであるは言うにおよばぬ。人類じんるいきばも短かく、つめにぶく、とうてい他の猛獣もうじゅうたたかうにてきせぬ身体を持っていながら、すべての動物に打ち勝ったのは、全くすぐれた知恵ちえはたらきによってきばつめよりも、さらに有力な武器ぶきつくり用いたからであった。されば知恵ちえにおいては人類じんるいははるかにだんへだてて他の動物の上にくらいする。この点では、人は万物のれいしょうして少しも無理むりはない。しこうして、昔の人にすれば、今の人のほうが知恵ちえがまさり、野蛮人やばんじんすれば文明人のほうが知恵ちえがまさり、その文明人の知恵ちえが日々してゆくところを見ては、人類じんるいが今日さかんに上に向かうて進みつつあるごとくに思うのも決して無理むりではない。
 人類じんるい知恵ちえの力によってつくるものは道具であるゆえ、知恵ちえの進歩は道具の進歩によって直接ちょくせつしめされる。昔の道具にして今日の道具のまさっているは言うまでもないが、とくにいちじるしくその進歩したのは最近さいきん百年ばかりの間である。今日文明の利器りきしょうして、人類じんるいもっとほこりとするものは、いずれもその間に発明せられた。しかも、それがえず改良かいりょうせられ、昨日さくじつの新式も今日きょうはすでに旧式きゅうしきとしててられる。飛行機きこうき潜航艇せんこうてい無線むせん電信でんしん無線むせん電話など昔の人のゆめにも知らなかった精巧せいこう器械きかいつくられ、蒸汽じょうき機関きかんのごときは、今日ではもはや前世紀せいき遺物いぶつであるかのごとくに感ぜられる。外国の新聞雑誌ざっしには新発明、新発見が、毎日のように発表せられ、かく方面とも少しでも油断ゆだんすればたちまち時勢じせいにおくれてしまう。実に今日ほどすみやかに文明の進歩する時代はかつてなかったところで、このいきおいで進んだならば、ついにどこまでたつするやら、とうてい想像そうぞうもできぬようなありさまである。
 なお人類じんるい自負心じふしんをそそるのは、自然しぜん征服せいふくという言葉である。これはただ道具の進歩をべつの言葉で言いあらわしたにぎぬが、この言葉を聞いただけでも、人類じんるいは今日たしかに急勾配きゆうこうばいの上り坂をいきおいよくかけ登りつつありとの確信かくしんが起こる。を点じて夜を明るくし、まきをたいて冬をあたたかくしたのを手始めとして、つつみきづいて洪水こうずいふせぎ、池をして田をつくり、鉄砲てっぽうをもって猛獣もうじゅう退治たいじし、薬品をもって黴菌ばいきん駆逐くちくした。汽車、自動車、タンク等によってりく征服せいふくし、汽船や潜航艇せんこうていによって海を征服せいふくし、飛行機きこうき飛行船ひこうせんによって空を征服せいふくした。夜は水を使役しえき(注:はたらかせること)してをつけさせ、夏は石炭を使役して氷をつくらせる。天地万物一として人類じんるい征服せいふくせられぬものはなく、かつ日々征服せいふく範囲はんいが広まってゆく。このありさまを目前に見ているのであるゆえ、人類じんるいは今日さかんに進歩しつつありとだれもが考えるのは、もとより当然とうぜんのことである。
 以上いじょうのごとき物質的ぶしつてき方面にかんすることのほかに、精神的せいしんてき方面においても人類じんるいは今進歩しつつありとの考えを起こさしめる事情じじょうがある。それは文明の進むにしたごうて個人こじんがおいおい覚醒かくせいしたことである。自由平等をもとめることを知らず、階級かいきゅう制度せいど盲従もうじゅう(注:分別ふんべつなくひたすら人のうままになること)していたころの精神せいしん状態じょうたいり返って見ると、めて後の精神せいしん状態じょうたいはたしかに一段上いちだんうえに進みきたったと考えざるをぬゆえ、だれ人類じんるい精神せいしんてきにも、進歩の最中さいちゅうであるとしんじている。解放かいほうせよとか、人格じんかくみとめよとかいうのはすなわち進歩のしるしであるごとくに思われる。その他哲学てつがくとか宗教しゅうきょうとかいう方面の学問がさかんに行なわれ、その研究の結果けっかとして新しい学説がくせつがぞくぞくと発表せられることなども、大いにこの観念かんねんかたくするにあずかった。ようするに今日は人類じんるいは今さかんに上に向うて進みつつありとだれもがしんじている時代である。
 われらの考えは前にもべたとおり、少しくこれとちがう。われらのせつによれば、人類じんるいは小さな団体だんたいつくって、たがいにはげしく競争きょうそうしていたころまでは上り坂にあったが、その後、知恵ちえし道具が精巧せいこうになったために、団体だんたい過度かどに大きくなってからは、次第しだいに下り坂にうつった。上り坂とは、生まれながらに協力きょうりょく一致いっちをせずにいられぬという団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつがだんだん発達はったつしきたった時代をいい、下り坂とは、この性質せいしつがおいおい退化たいかしきたった時代をいう。およそいかなる生物でも、その生活にてきする性質せいしつが進歩する時代がその種族しゅぞくの運命の上り坂であり、かかる性質せいしつ退化たいかし始めれば、これはその種族しゅぞくの運命がすでに下り坂に向うたものと見なすのほかはなかろうが、このことを人類じんるいに当てはめて考えて見ると、元来団体だんたい動物として発達はったつしきたったものに、団体だんたい生活に必要ひつよう協力きょうりょく一致いっち性質せいしつが少しずつげんじゆくとすれば、これは当然とうぜん、すでに運命の下り坂にあるものとみとめねばならぬ。如何いか器械きかい精巧せいこうになり、交通が開け、教育が進歩し、思想が発達はったつしても、団体だんたい動物の一なる人類じんるいは、目下自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつのために、団体だんたい生活に必要ひつようなる性質せいしつ漸々ぜんぜんういないつつありという生物学上の断案だんあん(注:ある事柄ことがらについて最終的さいしゅうてき決定けっていされた考え・方法ほうほう態度たいど)は決して、それによって、動かさるべきものでない。この考えの上に立って今日の社会を見わたすと、個人こじんとしてさえいまだ目のめぬきゅう思想の人等は言うにおよばず、自由平等をもとめて解放かいほうさけぶ新しい人等も、実は個人こじんとして目がめたというだけで、人類じんるいとしてはいまだ楽しいゆめを見ている最中さいちゅうである。
 しからば今日の世の中には、人類じんるいとしてのゆめめさせるべき事情じじょうが全くないかというに、これは気がいて見れば、すでに無数むすうにある。労働ろうどう問題とか、生活問題とか社会問題とか政治せいじ問題とか、すべて問題と名のくものはみな、ねむれる人類じんるいり動かしているのである。昔はなくてすんだ問題が今は無数むすうあらわれ、しかもいずれの問題も時とともにますます複雑ふくざつになって、いつ片付かたづくことやら少しも見込みこみが立たぬ。これらの問題はみな声をはげまして、「オイ人間、貴様きさまはこれでもまだ、自分は万物のれいで、急速力をもって天にのぼりつつありとのゆめから目覚めざめぬのか」と怒鳴どなりながらしきりに人類じんるいり動かしているのである。かくられながらいっこう平気でゆめ見続みつづけている人間は、実にあきれはてた寝坊ねぼうと言わねばならぬ。


 古本の目録もくろくで「べてのかぎ」(Clavis universalis)という表題を見たことがあるが、人類じんるいは今日すでに下り坂にありということを承認しょうにんするのは、すべての問題に対するかぎたことに当たる。ただし一々の問題を解決かいけつし去るためのかぎではなく、いずれの問題も容易ようい解決かいけつのできるものでないという理由を知るためのかぎである。今日続出ぞくしゅつする種々しゅしゅの問題は、その真のみなもとまでさかのぼれば、かなら人類じんるい協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかしたために起こったもので、例外れいがいと見なすべきものは一つもない。協力きょうりょく一致いっち性質せいしつさかんである間は、同一団体だんたいのうちであらそいの起こることは絶無ぜつむであるが、この性質せいしつ退化たいかすると、同じ団体だんたいのうちでも、利害りがい関係かんけいことにする部分の間には闘争とうそうが始まる。今日何問題、何問題というて世人のやかましくろんずるものは、ことごとく同一団体だんたい内の部分間の衝突しょうとつもとづいている。されば、人類じんるい協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかすべき原因げんいん依然いぜんとしてそんし、この性質せいしつは今後もますます退化たいかしゆくものとすれば、いずれの問題も容易ようい解決かいけつせらるべきのぞみはない。今後はおそらく、きゅう問題が未決みけつのままであるところへ、新問題がぞくぞくとあらわれ、一つとして完全かんぜん解決かいけつの道のないのに苦しむであろう。Influenza(注:インフルエンザ) は一昨年いっさくねん来全世界の人々をなやましたが、将来しょうらい人類じんるいを大いになやますものは Insolvenza(注:破産はさん) であろうと推察すいさつする。かくて種々しゅしゅのやっかいな問題が続出ぞくしゅつし、日々の生活にも不安ふあんを感ずるようになれば、いかに寝坊ねぼうの人間でも楽しいゆめを見ているわけにはゆかず、やむをず目をますであろうが、その時から人類じんるいとしての煩悶はんもんの時代が始まる。
 人間の経路けいろがすでに下り坂であることに心付こころづいた者が今までに一人もなかった次第しだいではない。昔から末世まっせ(注:道義どうぎのすたれた世の中)とか澆季ぎようき(注:の終わり)とかいう言葉をつねに用いきたったが、末世まっせ澆季ぎようき過去かこ経路けいろして、その時が一番下にくだっているとの意味である。しこうして、二千年前も千年前も百年前も今日も、いつもその当時が澆季ぎようきであるとすれば、道はどこまでも下り坂であったにちがいない。しかるに、口にはつねに澆季ぎようきとか末世まっせとか言いながら人類じんるい今日こんにち真に下り坂にあると思わなかったのは何故なぜかというに、これは人類じんるいが下り坂にあらねばならぬ真の理由を知らなかったために、ただ何らかの過失かしつもとづく一時的いちじてき現象げんしょうであると考えていたからである。過失かしつもとづく、その場かぎりの現象げんしょうと見なす以上いじょうは、その過失かしつさえのぞけば、これを常態じょうたい回復かいふくすることができる理屈りくつになるが、このことをくわだてたのが、すなわち宗教しゅうきょうである。いずれの宗教しゅうきょうでも世をすくうことを目的もくてきとせぬものはないが、人類じんるいが上り坂にある間は、何もこれをすく必要ひつようはない。下り坂でどこまで落ちるやら知れぬゆえ、これを見かねて、すくうてやろうとの大慈悲心じひしんを起こす者が出たのである。されば昔から宗教しゅうきょうがあったということは、人類じんるいはさらにそれよりもはるかに昔からすでに下り坂にあったことの証拠しょうこと見なすことができよう。
 さて人類じんるいの生まれながらに有する協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ次第しだい退化たいかしゆくとすれば、今後は協力きょうりょく一致いっちようするような仕事はだんだん行なわれがたくなるものと覚悟かくごせねばならぬ。協力きょうりょく一致いっちにはまず私欲しよくててかかることが必要ひつようであるが、私欲しよくは今日の世の中では個人こじん単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたによってますます発達はったつするであろうから、これをてさせることはもとより無理むりな注文である。個人こじん私欲しよくてず、したがって団体だんたい協力きょうりょく一致いっちすることができぬとすれば、いずれの問題でも解決かいけつはすこぶるむずかしからざるをない。個人こじんとしては目覚めさめても、人類じんるいとしてはいまだゆめを見ている人々の中には、多くの理想家があって、かくすれば世の中がよくなる、かくあらためれば理想の世界がくると、心中にも考え、発表もしたが、いつも人類じんるい協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかしてゆくことに心付こころづかぬために、せっかくの考案こうあんゆめ以上いじょうのものとはならぬ。新しい人だけがって、他の人のいないところに新しい村をつくり、自分らの理想どおりの生活をしようとこころみたれいはアメリカあたりにいくらもあったが、以上いじょうの理由によってことごとく失敗しっぱいに終わった。めずらしい間こそ無事ぶじにおもしろくくららせるが、本来の性質せいしつを長くめる(注:木・竹・えだなどを,げたりまっすぐにしたりして形をととのえる)ことは不可能ふかのうであるゆえ、その中には思いがけぬ衝突しょうとつなどが始まり、ついにはやむを離散りさんして、元の出来合いの世の中にもどらねばならぬことになった。同志どうしの者だけがってさえ、そのとおりであるから、だれかれもが雑居ざっきょしている広い世の中を理想どおりに改良かいりょうすることはとうていのぞまれぬ。近ごろやかましい労働ろうどう問題のごときも、ゾラの「トラヴァイユ」に書いてあるように、資本しほん知識ちしき労働ろうどうとが、よく調和して、全市が愉快ゆかいさかえれば、何よりけっこうであるが、かようなことは小説しょうせつのほかには見られぬ。われらはかつて、この本を読んだときに、もしも自分がゾラだけの筆を持っていたならば、前半だけはそのままとし、後半にはだれが悪意を有するのでもなく、だれ失策しっさくえんずるのでもなく、全く人間本来の性質せいしつのために、「クレシェリー」工場に大悶着もんちやく(注:もめごと)の起こるありさまをもっと自然しぜんてきに画いて見たいと思うた。
 る問題が起これば、それを解決かいけつするために、多数の人が集まって会議かいぎを開くが、かような会議かいぎ如何いかなることを議決ぎけつしようとも、それが人間の性質せいしつとしてできぬことならば、結局けっきょく何の役にも立たぬ。あたかもかにって、満場まんじょう一致いっちたてにはうことを議決ぎけつしても、何にもならぬのと同じである。しこうして、如何いかなることが、人間の性質せいしつとしてできぬかというと、私欲しよくてて協力きょうりょく一致いっちすることであるが、このことが行なわれねば、ほとんどすべての問題は無解決むかいけつに終わる。一時の弥縫びぼうさく(注:とりつくろって間に合わせるための方策ほうさく)はあるいはできるとしても、根本からの解決かいけつはとうていできぬであろう。かくして無解決むかいけつの問題がえればえるだけ、人類じんるいとしての煩悶はんもん増進ぞうしんせざるをない。すでに前にも言うたとおり、今日は個人こじんとしては大いに目覚めさめた人はあっても、人類じんるいとしてはいまだゆめを見ている最中さいちゅうであるゆえ、人類じんるいとしての煩悶はんもんはないが、そのうちには楽しいゆめめてみにく現実げんじつみとめねばならぬ時がくるにちがいない。それが人類じんるいとしての煩悶はんもんの始まる時であって、その後は現実げんじつ曝露ばくろするごとに煩悶はんもんりょうすばかりであろう。


 最後さいご誤解ごかいけるために一言しておきたいのは、以上いじょうは、人類じんるい過去かこおよび未来みらいを第三者として側面そくめんから冷静れいせい観察かんさつした結論けつろんぎぬとのことである。かくなればよいとか、かくなってはこまるとかいうごとき、自分の希望きぼう憂慮ゆうりょ(注:心配しんぱい)は一言も言うたのではない。たとえば文明が進めば器械きかい精巧せいこうになり、団体だんたいが大きくなって、そのために、人類じんるい協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退歩たいほしたと言うても、決して文明をのろい野蛮やばんに帰れと主張しゅちょうするわけではない。今日の世の中で文明に進むことを躊躇ちゅうちょ(注:ためらうこと)すれば、たちまち他の民族みんぞく圧迫あっぱくを受けて苦しまねばならぬゆえ、いやでもおうでも文明はできるだけ進めねばならぬ。また自由平等を標準ひょうじゅんとして世の中を改造かいぞうしても、なかなか理想の世界にはならぬと言うても、決して自由や平等が無用むようであるとくわけではない。自由平等をもとめるのは人類じんるいの進むべき唯一ゆいゆ道筋みちすじであって、これをけては先へゆくことはできぬ。如何いか改造かいぞうしてもなかなか理想どおりにはならぬと言うたが、これも決して改造かいぞう不必要ふひつようと考えたからではない。現状げんじょうのままで長くつづいては、大多数の者はとうていがまんができぬゆえ、これを打破だはすることはむろん必要ひつようである。人類じんるいは下り坂になってから服従ふくじゅうせい退化たいかして、そのために団体だんたいのまとまりが悪くなったといたが、これも決して、服従ふくじゅうせい復古ふっこせしめたいという議論ぎろんではない。ただ事実はかくのごとくであると言うたにぎぬ。ようするにわれらのべたところは、人類じんるい生活の舞台ぶたい桟敷さじき(注:ショーを見るために高く作った見物席けんぶつせき)から見物している心持ちで観察かんさつたところをありのままに書きつらねたまでである。
 人類じんるいの生まれながらに有する協力きょうりょく一致いっち性質せいしつはおいおい退化たいかするをまぬがれぬが、そのためかえって協力きょうりょく一致いっち範囲はんいが広がったかのごとき外観がいかんていする場合がある。これはちょっと不思議ふしぎに聞えるが、実は何でもない。およそ連合れんごうとか同盟どうめいとかいうことは、共同きょうどうてきを目の前にひかえた時にはだれだれとの間にもたやすく行なわれる。呉越同舟ごえつどうしゅう(注:なかわるい者同士どうし敵味方てきみかたが、同じ場所ばしょや同じ境遇きょうぐうにいること)とはすなわちかかる場合をいうのである。協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかすれば、団体だんたい利害りがいの相反する若干じゃっかんの部分に分かれざるをぬが、これらがあいたたかうに当たっては、他の団体だんたいぞくする同じ境遇きょうぐうの者の助けをりるのが得策とくさくである。たとえば甲民族こうみんぞく労働ろうどう者が資本家しほんかあいたたかさいには、乙民族おつみんぞく丙民族ていみんぞくなどの労働ろうどう者と連合れんごうするのがもっと有効ゆうこう方法ほうほうちがいない。かくなれば資本家しほんかは、また資本家しほんかとして、異民族いみんぞくの間に連絡れんらくたも方法ほうほうこうぜねばならぬ。他の方面においても、すべてこれと同様で、共同きょうどうてきに対して自分らの利益りえきをまもるためには、種々しゅしゅ連合れんごうができるであろう。しこうして、交通が楽になり、世界がせまくなっただけ、かような連合れんごうも多くは世界的せかいてきのものとなるが、これだけを見ると、人類じんるいは今後ますます広く協力きょうりょく一致いっちるもののごとくに思われ、今までの文明は競争きょうそうの文明であったが、将来しょうらいの文明は連合れんごうの文明であるとろんずる人までができる。しかし、連合れんごうはいつも共同きょうどうてきに対してのみつくられるものゆえ、実は競争きょうそうに勝つことを目的もくてきとする一方便いちほうべんぎぬ。
 人類じんるいが今、下りつつある坂路は、左は絶壁ぜっぺきでよじ登ることはできず、右は断岸だんがいで落ちれば助かる見込みこみはない。そこを多くのことなった民族みんぞくし合いながら下りてゆくのであるから、よほど用心せぬと険呑けんのん(注:あぶない様子ようす)である。幾多いくた民族みんぞくは今までの途中とちゅうに谷にし落とされて、すでに絶滅ぜつめつした。まさにし落とされんとしている民族みんぞくは今日いくつもある。文明とは、他の民族みんぞくし落とすように、わが民族みんぞくし落とされぬようにと、一生懸命いっしょうけんめいたがいにし合うときに用いる武器ぶきの名にぎぬ。文明のおとった民族みんぞくはぞくぞく断岸だんがいからつき落とされてほろびうせ、文明のまさった民族みんぞくたがいにし合いながら坂を下りてゆく。人類じんるいは天国にのぼりつつありという楽しいゆめからめて、ダンテの「インフェルノ」にもたる現状げんじょう心付こころづいたならば、煩悶はんもんの起こるのは当然とうぜんであるが、この人類じんるいとしての煩悶はんもんは、目のめている間はとうてい減少げんしょうする見込みこみはなく、おそらく次なる絶望ぜつぼうの時代まで継続けいぞくするであろう。
(大正八年十一月)







底本:「煩悶はんもんと自由」有隣堂
   1968(昭和43)年7月20日 発行
入力:矢野重藤
初出:1920(大正9)年1月   「中央公論」に掲載
校正:
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