「
儘にならぬが
浮世(注:つらい、はかない世の中)」とは昔からつねに言いきたった言葉であるが、ままにならねば、そこに
必ず
煩悶(注:
苦しみもだえること)がある。されば
煩悶の全くないという世の中は、いまだかつてなかったであろう。しかしながら同じく
煩悶と言うても、その中には
種々さまざまのものがあって、
子供の
煩悶と大人の
煩悶、
野蛮人の
煩悶と文明人の
煩悶、昔の人の
煩悶と今の人の
煩悶というように、
互いに
比較して見ると、その間にいちじるしい
相違を
認める。また、
個人個人によって
異なる
煩悶もあれば、多数の人に
共通の
煩悶もあり、
或る時期、
或る
境遇に
特殊な
煩悶もあれば、何人も
早晩出
偶わねばならぬ
煩悶もあろう。したがって、
煩悶を
除くべき
方便(注:
方法)もさまざまで、たやすく
除くことのできる場合もあれば、そのすこぶる
困難な場合もあり、中にはとうてい
除くことはむずかしかろうと思われる場合もあるであろう。
一人一人に
違うような
煩悶は、
子供にも大人にも、
野蛮人にも文明人にも、昔の人にも今の人にも、かつて
絶えたことはない。
例えば、
棚の上の
菓子に手の
届かぬ
子供の
煩悶とか、意中の
娘との
恋が
成就せぬ青年の
煩悶とか、
教授が
頑健(注:からだが
丈夫で、
非常に
健康なこと)であるためにいつまでも
位地の上がらぬ
助教授の
煩悶とかいうごときものは、いつの世にも
必ずある。実は、この
種類の
煩悶は、人間に
限ったわけではなく、他の動物にもつねに見られる。
鎖の短いためにニンジンを取り
得ない
猿の
煩悶、鉄
柵に
隔てられて
隣りの
牝鹿に
達し
得ない
牡鹿の
煩悶、先着者のために皮のうすい場所を
占領せられて、止むを
得ず皮の
厚いところでがまんするダニの
煩悶などは
性質において全くこれに
異ならぬ。かような
煩悶は、一つ一つに対する
解決の
方法があるゆえ、これを
除くことは
不可能ではない。すなわち
子供には
菓子を
与え、青年には
娘との
同棲(注:正式に
結婚していない男女が同じ家で
一緒に
暮らすこと)を
許し、
助教授には
位地を上げてやりさえすれば、その
煩悶だけはとにかく、なくすることができる。もっとも
欲には
限りのないものゆえ、一つの
煩悶が
片付けば、次の
煩悶が
現われて、
煩悶その物が全くなくなることは
望まれぬが、一つ一つの
煩悶は何とか
方法を
講じさえすれば、
解決せらるべき
性質のものである。
我ら(注:わたし)が今より
論じようと思うのはかような
種類の
煩悶ではなく、
子供や、
野蛮人や、昔の人などの全く知らずにすんだ、
文明的現代的の
煩悶についてである。
我らは今よりちょうど十年前の
本誌の新年号に「
人類の
将来」と題する
一篇を
載せて、
人類の今まで
経過しきたった
道筋は
初めは上り坂であったが、後には下り坂となった。すなわち
人類は今日下り坂の
途中にあるとの考えを
公にした。この
説は、その後
著わした『
人類の
過去現在及び
未来』の中にも『生物学
講話』の中にも
簡単ながら書き
加えておいたが、今より
述べんとするところも、これを
基礎としたものゆえ、
一応その
要点だけを次に
掲げる。
人間も原始時代には
猿と同様に小さな
団体を
造って生活していたもので、そのころには小さな
団体同志ではげしく
相争い、負けた
団体は
亡び
失せ、勝った
団体のみが生き
残り、長い間、かかる生活を
続けている間には、
自然淘汰(注:
自然的な
原因によって
特定の
個体が
選択的に生き
残ること)の
結果として、
団体生活に
適する
性質が
次第に
発達しきたった。
団体生活に
適する
性質として
最も大切なのは、生まれながらに
互いに
協力一致せずにはおられぬという
性質である。しこうして
人類や
猿のごとき
階級型の
団体を
造る動物では、
団体内の
協力一致が
充分に行なわれるためには、
誰もが上の者に
絶対に
服従するということが
最も
有効であるゆえ、
団体間に
生存競争の
続く間は、
服従性はおいおい
完全に
発達してきた。しかるに
人類は他の動物と
違い、何をするにも道具を用いるゆえ、
団体と
団体との
競争にも、道具の進歩したもののほうが勝つ
見込みが多いわけで、そのため道具は時とともにだんだん
精巧になったが、道具が
精巧になれば、それに
伴うて、
団体は次第に大きくならざるを
得なかった。
何故というに
団体は大きなほど強いはずではあるが、道具が
幼稚な間は一定の
際限をこえると、全部の
統一が
保たれずかえって
不利益が生ずる。今日でも
野蛮人はみな、小さな
蕃社(注:
台湾の先住
民族の
集落や
集団)に分かれていて、国と
名付くべきほどの大きな
団体を
造り
得ないのはそのためである。これに反して、道具が
精巧になれば、
命令を
伝えるにも、
兵糧(注:
戦争時における
軍隊の
食糧)を運ぶにも少しも
困難を感ぜぬゆえ、
団体はどこまで大きくなっても
差支えは起こらぬのみか、大きくなっただけ有力となる。ところが
団体がだんだん大きくなると、
団体間の
競争の勝負が
容易(注:
簡単)に
片付かず、かつ、たとえ、一方が
敗れたとしても、
団体中の者がことごとく
殺されるわけではなく、わずかに一小部分の者が死ぬだけで、
残りは
相変わらず
生存し
繁殖するゆえ、
団体を
単位とした
自然淘汰は全く行なわれぬことになる。しこうして
自然淘汰が止めばその時まで
自然淘汰の
働きによって
養成せられ、または
維持せられきたった
性質は
退化し始めるをまぬがれぬ。前にも
述べたとおり、
人類の
団体生活に
必要な
性質として
自然淘汰によって
養成せられきたったのは、
協力一致の
実をあげるための
服従性であったが、
自然淘汰が
止んだ上は、この
性質は
退化するのほかはなく、
服従性が
退化すれば、
階級型の
団体はとうてい
協力一致の実をあげることはできぬ。元来が
団体生活を
営む動物でありながら、
団体生活に
必要な
性質が少しずつ
減じてゆくとすれば、これはすでに
運命の下り坂に向かうたものと見なすのほかはない。
我らが、
人類は今日、すでに下り坂の
途中にありと言うのはすなわちこの意味においてである。しこうして、
或る
程度まで文明が進めば
誰にも
必ず文明に
伴う
一種の
煩悶の起こることは、この
説によってのみ理由を
了解することができるように思われる。
以上述べたごとく、人間の
過去には上り坂の時代と下り坂の時代とがあり、上り坂の時代には
自然淘汰の
働きによって、
団体生活に
適する
性質が
次第に
発達し、下り坂の時代には、
自然淘汰が止んだだめに、かかる
性質がだんだん
退化したものとすれば、今日の
人類社会にいずれの方面にも
限りなく
矛盾の
存することが
容易に
理解せられる。上り坂のころには、
協力一致の
方便としての
服従性が、
盛んに
養成せられたゆえ、それに
基づいた
風俗(注:
日常生活上のしきたり)
習慣ができあがったが、下り坂になってからは、この
性質が少しずつ
退化したために、その反対の
性質がいつとなく発生し、それを
基礎とした新思想がだんだんと
現われてきた。
服従性の反対の
性質とは、自由平等を
求める
性質であるが、
服従性が
減じたというのと、自由平等を
求める
性質が
現われたというのとは、実は同一のことを
別の言葉で言うているに
過ぎぬ。あたかも白が勝ちそうになったというても、黒が負けそうになったというても、事実に
変わりがないようなものである。さて、
如何なる
性質でも
自然淘汰の
働きが止んだからというて、全部にわかに消え
失せるものではなく、その後もずいぶん長い間、
継続することは、
尾の
骨や、耳を動かす
筋肉が今日の人間にもなお
存するのを見ても明らかであるが、上り坂時代に
発達した、
階級型の
団体に
固有な
絶対服従の
性質は、下り坂になってからも、
依然として
継続し、
団体が大きくなるとともに、
階級の数もおいおい
増して、一時は
巍然(注:ぬきんでて
偉大な
様子)たる
階級制度の形を
現わした。今日もなおその引き
続きとして、社会は大体昔のままの
階級制度が行なわれている。
社会が
最上から
最下まで
幾段かの
階級に分かたれ、
各階級ともに、上の者には
絶対に
服従し、下の者には
無限に
威張るのが、
階級制度の
特徴であるが、かような世の中に住んでいても、昔ながらの
服従性をなお
多量に
所持している人ならば、少しも
煩悶が起こらぬ。
服従性を
備えた人が
階級制度の世の中に住んでいるのは、あたかも魚が水の中に住んでいるのと同じわけであるゆえ、上の者にはうやうやしく頭を下げ、下の者にはうやうやしく頭を下げさせて、これを
当然の人間生活であると思うている。上の者からもろうた物は
宝物として大切に
保存し、上の者に
贈った物が
受納せられれば、これを
非常な
名誉と思い、上の者の前で画でも書けば、これを
無上の
光栄と
心得、上の者から一言ものを言われただけでもありがたくてたまらぬような人間はみなこの
仲間に
属する。もしも世の中の人間が、ことごとくかような人のみであったならば、他の動物のごとき
個人的の
煩悶はあるとしても、それ
以外の
煩悶は起こらずにすんだであろう。
ところが、
人類の
経路が下り坂となってからは、
服従性が
次第に
減少し、そのため物の考え方が大いに
改まってきた。もっともすべての人が同じ
歩調で
変化するわけではなく、早く
変わる人もあれば、おそく
変わる人もあり、死ぬまで
変わらぬ人もあるゆえ、今日のところではすでに
変わった新しい人と、いまだ
変わらぬ
旧い人とが
軒を
並べて生活しているありさまである。
旧い人は前に
述べたとおり、今日の
階級制度に対して
別に
煩悶も起こさぬが、新しい人のほうは、心の中に
信ずることと、目の前の社会の
制度とがあまりはなはだしく
違うゆえ、とうてい
煩悶せずにはおられぬ。
服従性の
退化した人から見れば、今日の社会は実に
理屈の合わぬことだらけで、まず第一に同じ人間に
人為的の
階級をつけて
区別することが、
不条理千万と思われる。
裸にして見れば、
彼と
我との間に何の
別もないのに、
彼は社会の上流に立って
衆人(注:
大勢の人)に
尊敬せられ、
我ははるかにその下におかれて、世の
軽蔑を受けるのは
何故であるか、
彼はなまけながらぜいたくの
限りをつくし、
我は日夜
働き
続けて、しかも
貧乏に苦しむのは
何故であるか。
何故かつて一回も
我を助けたることなき
彼に
敬意を表せねばならぬか。
何故我よりも
知恵がすぐれたりと思われぬ
彼の
命令に
従わねばならぬか。その他これは
何故か、
彼は
何故かと
不審を起こして見ると、一つとして正当と思われるものはない。物の考え方が、この
程度まで進んだ後に、自分の
過去を
振り返って見れば、よくも今までこのような
不条理きわまる世の中に平気で生活しきたったことよと
驚かずにはいられぬ。また自分の
周囲の人々が平気でいるのを見れば、その
無感覚の
状態があたかも
眠れるありさまに
異ならぬゆえ、自分らだけが他よりも先に
目覚めたものと
信ぜざるを
得ない。
覚醒(注:
迷いからさめ
過ちに気づくこと)とはすなわちこのことである。しこうして一たん
覚醒した
以上は、
服従性の上に
築き上げた
旧来の
階級制度に自分をはめることが
非常の
苦痛であるが、世の中は
一朝一夕(注:わずかな
期間)に
改まるものでないゆえ、山に
隠れるか、
自殺するかせぬ
限りは、
苦痛を
忍んで、あり合わせの世の中に自身をはめるのほかにいたし方はない。
現代の社会は大体が昔の
階級制度のままで、
風俗でも
習慣でも、みな
階級制度を
基礎としたものゆえ、
覚めた人が心の中に
信じていることとはとうてい
一致しない。されば、今日の文明国において、
覚めた人々が止むを
得ず古い
習慣に
従うて
働作している様子はまるで、
曲馬(注:馬に乗って
演じる
曲芸)の
道化役者が見物人のきげんを取り
結ぶために、心にもないこっけいを
演じているのと同じく、実に
憫然(注:
かわいそうな
様子)のいたりである。
如何に
渡世(注:
生活すること)のためとはいいながら、よくもこのような
馬鹿げたことが
臆面(注:気おくれした顔つき)もなくできたものであると考えては、自身で自身を
軽蔑せずにはいられぬが、自身を
軽蔑せざるべからざるにいたっては、
煩悶もずいぶんはなはだしからざるを
得ない。昔から
娼妓(注:
売春婦)の
職業を
苦界と
名付けきたったが、おのれの
欲せぬことを
我慢してつとめながら、あたかも
喜んでつとめているごとくに
装わねばならぬ苦しみからいえば、今日の
覚めたる文明人の生活は、たしかに
一種の苦界なりと言うことができよう。
服従性が
退歩して、自由平等を
求めるようになるには、
知識の
程度が大いに
関係する。これは
歴史を見ても明らかなことで、
最も早く自由平等の
叫び声を聞いたのは、
最も早く文明の開けた国々である。また同じ時代に住む人間では、
知識の
低い者は
容易に
覚めるにはいたらず、書物でも読むような
階級の者だけがまず
覚める。されば、ここに
述べたごとき
煩悶は、
子供にもなく、
野蛮人にもなく、ただ
或る
程度まで
知識の進んだ者のみの有する
煩悶であるが、今後は教育はますます
普及し、
知識はますます進むであろうから、
覚めた人の数はただ
増すばかりで、
早晩文明人がことごとくこの
煩悶に
堪え
兼ねる時代がくるであろう。
以上は文明の進むにしたがい、
各個人にはげしき
煩悶の起こることの
避けられぬ
次第を
述べたのであるが、
煩悶は
個人にのみ起こるわけではない。世の文明が進めば、
民族としての
煩悶も生ずる。まず
如何なる
民族には、
民族としての
煩悶がないかというに、これは
自己の
民族をもって、一番
優れたものと思うている
民族である。地球上に住む
民族の数は多いが、わが
民族にまさる
民族は他に決してないと思うている間は、心の中は
泰平(注:世の中がよく
治まり
平穏であること)であって、
民族としての
煩悶はあり
得ない。しからば、かかる
民族はどこにあるかというに、
隣りの
民族との
競争に負けるまでは、いずれの
民族でもかように考えている。また少しくらい、負けても、
回復の
望みが
絶無でない
以上は、かような考えを
容易に
捨てぬ。たいがいの
野蛮民族はみな、かく
信じていた。今日といえども、かく
信じている者がはなはだ多い。しこうしていずれの
民族にも、
自己の
民族が他よりも
優れていることの
証拠となるべき
口碑(注:古くからの
言い
伝え)や
伝説があって、代々これを語り
伝えて、
自己の
民族が世界に
最も
優れたるものなりと
確信している。
かような時代がいつまでも
続けばまことに
結構であるが、文明の進歩はとうていこれを
許さぬ。いまだ世の中の開けぬころには交通の
便が
欠けているために、同じ地球の表面に住んでいても、やや遠いところにいる他の
民族とは
接触する
機会が全くない。ここより五千里
隔ったところには足の長い
人種がいるとか、一万里
隔ったところには
胸に
孔のある
人種がいるとかさまざまの
噂を聞くだけで、実物を見ることは一度もないゆえ、
仮に自分よりはるかにまさった
民族が他にあっても、
彼と
我とを
並べて
比較して見ることができぬために、
我の
劣っていることには少しも
心付かずにいられた。しかるに、文明が進んで交通の
機関が
急激に
発達し、汽車や汽船が
盛んに
往復するようになれば、
如何に世界の
片隅に
引込んでいた
民族でも、他と
接触することを
避けるわけにはゆかぬ。ヴェルヌが『八十日間世界
一周』を書いたころには、二ヶ月と二十日もかかって地球を
一周することが
架空の
小説と思われていたが、その後、鉄道が
延び、汽船が大きくなったために、今日では
誰にもできる
尋常(注:あたりまえ)のこととなった。
飛行機を用いればその三分の一の日数でも
容易に世界を
一周することができよう。かくのごとく、交通の
機関が
発達すれば、それだけ地球が小さくなったも同様で、いずれの
民族も
互いに
相接触せざるを
得ぬこととなるが、
異民族の
接触するところにはそこに
競争が起こらざるを
得ない。
彼の
欲する物を
我が有するか
我の
欲する物を
彼が有するか、
彼と
我とが第三者の有する同一の物を
欲するかの場合にはとうてい
衝突をまぬがれぬが、
衝突すれば力のまさった
民族が勝ち、力の
劣った
民族が
敗けるのほかはない。自分よりもまさった
民族からの
圧迫を受け、自分の
意志を曲げて相手の
主張に
服従することを
余儀(注:ほかの
方法)なくせられるときに、
民族としての
煩悶が生ずる。
彼が勝ち、
我が
敗けたという目前の事実を見ては、
誰の
胸にも、
我は今まで
信じていたごとくに、世界第一の
民族ではないのではなかろうかとの
疑いが起こらざるを
得ず、一たんこの
疑いが起これば、もはや昔のごとくに
枕を高うしては
眠られぬ。しこうしてかかることがたび重なれば、そのたびごとに
煩悶の度が高まりゆくべきはもちろんである。
文明の進むに
伴い、
民族としての
煩悶の起こるべきなお、一つの
原因は
服従性の
退化である。いずれの
民族でも
団体内のよく
治まっていることを第一の
誇りとしているが、世が開けるにしたがうて、このことが
次第にむずかしくなってくる。
如何なる
民族でも
理解力が
増すと同時に
服従性の
退化するをまぬがれぬが、
服従性が
退化すれば、
旧来の
階級制度をおもしろく思わず、上に
位する者に
敬意を表することを
肯ぜぬ(注:
承諾しない)ような人間がぞくぞくと出ている。わが
民族を世界第一なりと思う考えの中には、
階級制度の
完全に行なわれているということも、その
一ヶ条として
含まれていたゆえ、このことが少しずつ
崩れゆく
形跡が見えては、今までの
誇りの一部が
傷けられたことにあたり、今後
如何になりゆくかとの心配が生ずる。
階級制度のよく行なわれるのはもとより
服従性の
旺盛なるによるゆえ、世の
治まれることを
誇るのは、すなわち
服従性のいまだ
退化せぬを
自慢していたにほかならぬが、文明が進めば、
服従性の
退化はとうてい
防ぐことができず、
早晩この方面にも
民族としての
煩悶の生ずる時代がくるのをまぬがれぬ。
四、五年前の新聞に出ていたことであるが、二十六
歳になる
盲の女が
手術を受けて、
初めて目が見えるようになったときの感想に、今までは世間をはるかに
奇麗なものと
想像していた。目を開いて見て、その意外にきたないのに
驚いたと書いてあった。また
或る
脚本に、
盲目の
夫婦が、両人ともに目の見えぬことを
非常になげき、
観音様に
願をかけて、一心
不乱に
祈ったところが、
霊験(注:
祈願、
信仰に対して
与えられる
不可思議な
感応あるいは
利益)によって、両人ともに同時に目が見えるようになった。しかし
互いに顔を見合わすと、今まで心の中に
想像していたような美男美女ではなくて、すこぶる
醜い顔であったので、これならば元の
盲でいたほうがいくらましか分からぬと言うて、かえって
観音をうらむところが作ってあった。すべて美しいと
想像していたものの実物が
醜いことを見いだしたときには、
誰も
失望して
不愉快を感ずるが、それが、
自己の
属する
民族である場合には、深く
煩悶せずにはいられぬ。文明が進むにしたがうて、
各個人に
煩悶の起こるのは、
無感覚から
有感覚に
移ったのであるゆえ、これは
熟睡から
目醒めたのに
比較することができるが、世が開けゆくために
各民族に
煩悶の起こるのは、
幻覚から目の
覚めた
状態に
移るのであるゆえ、あたかも楽しい
夢を
破られたにひとしい。しこうして楽しい
夢を
破るものは、まず第一には
他民族からの
圧迫である。
今までわが
民族は世界
無類の
優等民族なりと
自負していたところへ、にわかに他の
民族が
押し
寄せてきて、
種々のことを
要求する。あるいは港を開けとか、
居留地を定めよとか、鉄道をかけさせよとか、
鉱山の
発掘を
許せとか言うてくる。先方に言わせれば一々もっともの理由があるが、当方から見ればいずれも
無理難題である。これを
承諾すれば、
先祖代々わが
民族のみで
占領しきたった国内に
他民族の
勢力が入りこんでくる。しかも、これを
拒絶するには、
武力に
訴えるのほかに
途はない。
敵を知らず、おのれを知らず
兵力を用いれば、たちまち打ち
敗られて、前に
幾倍する
苛酷な
要求を
承知することを
強いられる。かかることが二、三回も重なれば、
如何に自負心の強かった
民族でも、わが
民族が世界一なりと
信じ
続けることはできず、楽しかった
夢から
揺り起こされて、わが
民族は相手の
民族よりも
劣るという
醜い
現実を
認めねばならぬことになる。人間にも少々くらい
揺り動かしても
夢の
覚めぬ者があるとおり、
民族にも、何回も
揺られながら
泰然(注:
落ち
着いていて
物事に
驚かない
様子)として
眠り
続けているものがないでもないが、目前の事実は何よりも
雄弁(注:人の心を
動かすように、
力強くよどみなくしゃべること)であるゆえ、数回、わが
無力なることが
示されれば、たいがいのものは昔の
夢から
覚めて、それと同時に
民族としての
煩悶を始める。
文明が進めば、
服従性が
退化するために、
伝来の
階級制度が少しずつ
乱れてゆくことも、
或る
民族をして
煩悶せしめる。上に
位する者に対して、
敬意を表せぬ者や、
敵意を
含む者が少しずつ
現われ始めても、
最初のうちはこれを全くの
例外と見なし、ふたたびあるまじきこととして心を安んじているが、同様なことが三度四度と重なると、
徐々と心配になってくる。他の
民族はともかく、わが
民族に
限っては、かかることは
未来永劫(注:これから
未来にわたる
果てしなく長い年月)決してあるまじと思うていた
不祥事がしばしば起こるのを見ては、もしやこれは
例外ではなくて、
当然かくあるべき時代が
到着したのではないかとの
疑いが生じ、次には
疑いが
固まって、いよいよそれに
違いないと考えるにいたる。トルストイの「クレイツェロヴア・ソナタ」の中にある男が、
結婚後まもなく
夫婦喧嘩をしたころには、一度一度の
喧嘩をあやまちのために生じた
偶発事件で、注意さえすれば、ふたたび起こるのを
避けることを
得るものと思うたが、今から考えれば、それは全く
誤りであって、実は
喧嘩は
当然喧嘩の起こるべき深い理由のために起こったのであったと言うたごとくに、
階級制度に反するようなことをあえてする人間の出るのも、
最初こそ
偶然的に見えるが、さらに深くその
奥を
探れば、
当然かかる者が出ねばならぬ時代に
達したのである。かく気が
付いて見ると、今までわが
民族ばかりは
別であると思い
込んでいたのは
夢であったと知れて、そこに
煩悶が始まる。前にも
述べたとおり、長らく楽しんでいた美しい
夢から
揺り起こされ、
醜いわが身を見せつけられては、
誰も
煩悶を
禁じ
得ないであろうが、
民族としては、今まで世界第一と思うていた
夢を
破られて、
我の
劣っている
現実を明らかに
認めねばならぬ時や、わが
民族ばかりは
大丈夫と思うていた
夢から起こされて、すこぶる
不用心なることを目の前に見た時などに、
最も大いなる
煩悶が起こるであろう。しこうして、この二つは、たいがいの
民族が
野蛮から文明に進みゆく
途中に
必ず
通過せねばならぬ
関所である。
以上は文明の進むにしたがうて、
当然生ずべき
個人の
煩悶と
民族の
煩悶とについて
簡単に
述べたのであるが、次に
人類としての
煩悶なるものがあるや
否やというに、これは今日のところでは、いまだどこにもないように見受ける。
煩悶は美しい
夢から
覚めて、
醜い
現実を見たときに起こると言うたが、今日の
人類はいまだ美しい
夢を見ている
最中であるゆえ、
人類としての
煩悶を全く知らずにいる。人は万物の
霊なりと昔から言いきたったが、かく
信じている人は、
人類としての
煩悶は決して起こらぬ。神は天地万物を
造った後に、自分の
姿に
似せて人を
造った。それゆえ、人はすべての物の上に
位すると思うていれば、
人類としては
心中、大いに安んじていられるゆえ、何もわざわざ
煩悶するにおよばぬ。生物は下等のものから、
次第に高等のものに進化しきたったが、
人類はその
最も高等なもので、今後はさらに
一層高等のものになるべきはずであると考えている人も、ほぼこれと同様の
状態にある。かくのごとく、考えの形は人々によってさまざまに
違うても、人を万物の
霊と見なす点においてことごとく
一致しているが、
我らから見れば、これはいずれも美しい
夢に
過ぎぬ。
人類をして、かような美しい
夢を見させておく
事情はたくさんにある。まず第一には今日
人類を相手として対等の
競争をなし
得る動物が
一種もない。これが
人類をして
極度にうぬぼれしめた
最大の
原因であるは言うにおよばぬ。
人類は
牙も短かく、
爪も
鈍く、とうてい他の
猛獣と
戦うに
適せぬ身体を持っていながら、すべての動物に打ち勝ったのは、全く
優れた
知恵の
働きによって
牙や
爪よりも、さらに有力な
武器を
造り用いたからであった。されば
知恵においては
人類ははるかに
段を
隔てて他の動物の上に
位する。この点では、人は万物の
霊と
称して少しも
無理はない。しこうして、昔の人に
比すれば、今の人のほうが
知恵がまさり、
野蛮人に
比すれば文明人のほうが
知恵がまさり、その文明人の
知恵が日々
増してゆくところを見ては、
人類が今日
盛んに上に向かうて進みつつあるごとくに思うのも決して
無理ではない。
人類が
知恵の力によって
造るものは道具であるゆえ、
知恵の進歩は道具の進歩によって
直接に
示される。昔の道具に
比して今日の道具のまさっているは言うまでもないが、
特にいちじるしくその進歩したのは
最近百年ばかりの間である。今日文明の
利器と
称して、
人類の
最も
誇りとするものは、いずれもその間に発明せられた。しかも、それが
絶えず
改良せられ、
昨日の新式も
今日はすでに
旧式として
捨てられる。
飛行機、
潜航艇、
無線電信、
無線電話など昔の人の
夢にも知らなかった
精巧な
器械が
造られ、
蒸汽機関のごときは、今日ではもはや前
世紀の
遺物であるかのごとくに感ぜられる。外国の新聞
雑誌には新発明、新発見が、毎日のように発表せられ、
各方面とも少しでも
油断すればたちまち
時勢におくれてしまう。実に今日ほど
速かに文明の進歩する時代はかつてなかったところで、この
勢いで進んだならば、ついにどこまで
達するやら、とうてい
想像もできぬようなありさまである。
なお
人類の
自負心をそそるのは、
自然の
征服という言葉である。これはただ道具の進歩を
別の言葉で言い
現わしたに
過ぎぬが、この言葉を聞いただけでも、
人類は今日たしかに
急勾配の上り坂を
勢いよくかけ登りつつありとの
確信が起こる。
灯を点じて夜を明るくし、
薪をたいて冬をあたたかくしたのを手始めとして、
堤を
築いて
洪水を
防ぎ、池を
乾して田を
造り、
鉄砲をもって
猛獣を
退治し、薬品をもって
黴菌を
駆逐した。汽車、自動車、タンク等によって
陸を
征服し、汽船や
潜航艇によって海を
征服し、
飛行機、
飛行船によって空を
征服した。夜は水を
使役(注:
働かせること)して
灯をつけさせ、夏は石炭を使役して氷を
造らせる。天地万物一として
人類に
征服せられぬものはなく、かつ日々
征服の
範囲が広まってゆく。このありさまを目前に見ているのであるゆえ、
人類は今日
盛んに進歩しつつありと
誰もが考えるのは、もとより
当然のことである。
以上のごとき
物質的方面に
関することのほかに、
精神的方面においても
人類は今進歩しつつありとの考えを起こさしめる
事情がある。それは文明の進むにしたごうて
個人がおいおい
覚醒したことである。自由平等を
求めることを知らず、
階級制度に
盲従(注:
分別なくひたすら人の
言うままになること)していたころの
精神状態を
振り返って見ると、
覚めて後の
精神状態はたしかに
一段上に進みきたったと考えざるを
得ぬゆえ、
誰も
人類は
精神的にも、進歩の
最中であると
信じている。
解放せよとか、
人格を
認めよとかいうのはすなわち進歩の
徴であるごとくに思われる。その他
哲学とか
宗教とかいう方面の学問が
盛んに行なわれ、その研究の
結果として新しい
学説がぞくぞくと発表せられることなども、大いにこの
観念を
固くするに
与った。
要するに今日は
人類は今
盛んに上に向うて進みつつありと
誰もが
信じている時代である。
我らの考えは前にも
述べたとおり、少しくこれと
違う。
我らの
説によれば、
人類は小さな
団体を
造って、
互いにはげしく
競争していたころまでは上り坂にあったが、その後、
知恵が
増し道具が
精巧になったために、
団体が
過度に大きくなってからは、
次第に下り坂に
移った。上り坂とは、生まれながらに
協力一致をせずにいられぬという
団体生活に
必要な
性質がだんだん
発達しきたった時代をいい、下り坂とは、この
性質がおいおい
退化しきたった時代をいう。およそいかなる生物でも、その生活に
適する
性質が進歩する時代がその
種族の運命の上り坂であり、かかる
性質が
退化し始めれば、これはその
種族の運命がすでに下り坂に向うたものと見なすのほかはなかろうが、このことを
人類に当てはめて考えて見ると、元来
団体動物として
発達しきたったものに、
団体生活に
必要な
協力一致の
性質が少しずつ
減じゆくとすれば、これは
当然、すでに運命の下り坂にあるものと
認めねばならぬ。
如何に
器械が
精巧になり、交通が開け、教育が進歩し、思想が
発達しても、
団体動物の一なる
人類は、目下
自然淘汰の
中絶のために、
団体生活に
必要なる
性質を
漸々失いつつありという生物学上の
断案(注:ある
事柄について
最終的に
決定された考え・
方法
・
態度)は決して、それによって、動かさるべきものでない。この考えの上に立って今日の社会を見わたすと、
個人としてさえいまだ目の
覚めぬ
旧思想の人等は言うにおよばず、自由平等を
求めて
解放を
叫ぶ新しい人等も、実は
個人として目が
覚めたというだけで、
人類としてはいまだ楽しい
夢を見ている
最中である。
しからば今日の世の中には、
人類としての
夢を
覚めさせるべき
事情が全くないかというに、これは気が
付いて見れば、すでに
無数にある。
労働問題とか、生活問題とか社会問題とか
政治問題とか、すべて問題と名の
付くものはみな、ねむれる
人類を
揺り動かしているのである。昔はなくてすんだ問題が今は
無数に
現われ、しかもいずれの問題も時とともにますます
複雑になって、いつ
片付くことやら少しも
見込みが立たぬ。これらの問題はみな声を
励まして、「オイ人間、
貴様はこれでもまだ、自分は万物の
霊で、急速力をもって天に
昇りつつありとの
夢から
目覚めぬのか」と
怒鳴りながらしきりに
人類を
揺り動かしているのである。かく
揺られながらいっこう平気で
夢を
見続けている人間は、実にあきれはてた
寝坊と言わねばならぬ。
古本の
目録で「
総べての
鍵」(Clavis
universalis)という表題を見たことがあるが、
人類は今日すでに下り坂にありということを
承認するのは、すべての問題に対する
鍵を
得たことに当たる。ただし一々の問題を
解決し去るための
鍵ではなく、いずれの問題も
容易に
解決のできるものでないという理由を知るための
鍵である。今日
続出する
種々の問題は、その真の
源までさかのぼれば、
必ず
人類に
協力一致の
性質が
退化したために起こったもので、
例外と見なすべきものは一つもない。
協力一致の
性質が
盛んである間は、同一
団体のうちで
争いの起こることは
絶無であるが、この
性質が
退化すると、同じ
団体のうちでも、
利害の
関係を
異にする部分の間には
闘争が始まる。今日何問題、何問題というて世人のやかましく
論ずるものは、ことごとく同一
団体内の部分間の
衝突に
基づいている。されば、
人類の
協力一致の
性質が
退化すべき
原因が
依然として
存し、この
性質は今後もますます
退化しゆくものとすれば、いずれの問題も
容易に
解決せらるべき
望みはない。今後はおそらく、
旧問題が
未決のままであるところへ、新問題がぞくぞくと
現われ、一つとして
完全な
解決の道のないのに苦しむであろう。Influenza(注:インフルエンザ)
は
一昨年来全世界の人々を
悩ましたが、
将来の
人類を大いに
悩ますものは
Insolvenza(注:
破産)
であろうと
推察する。かくて
種々のやっかいな問題が
続出し、日々の生活にも
不安を感ずるようになれば、いかに
寝坊の人間でも楽しい
夢を見ているわけにはゆかず、やむを
得ず目を
覚ますであろうが、その時から
人類としての
煩悶の時代が始まる。
人間の
経路がすでに下り坂であることに
心付いた者が今までに一人もなかった
次第ではない。昔から
末世(注:
道義のすたれた世の中)とか
澆季(注:
世の終わり)とかいう言葉をつねに用いきたったが、
末世も
澆季も
過去の
経路に
比して、その時が一番下に
降っているとの意味である。しこうして、二千年前も千年前も百年前も今日も、いつもその当時が
澆季であるとすれば、道はどこまでも下り坂であったに
違いない。しかるに、口にはつねに
澆季とか
末世とか言いながら
人類が
今日真に下り坂にあると思わなかったのは
何故かというに、これは
人類が下り坂にあらねばならぬ真の理由を知らなかったために、ただ何らかの
過失に
基づく
一時的の
現象であると考えていたからである。
過失に
基づく、その場
限りの
現象と見なす
以上は、その
過失さえ
除けば、これを
常態に
回復することができる
理屈になるが、このことを
企てたのが、すなわち
宗教である。いずれの
宗教でも世を
救うことを
目的とせぬものはないが、
人類が上り坂にある間は、何もこれを
救う
必要はない。下り坂でどこまで落ちるやら知れぬゆえ、これを見かねて、
救うてやろうとの大
慈悲心を起こす者が出たのである。されば昔から
宗教があったということは、
人類はさらにそれよりもはるかに昔からすでに下り坂にあったことの
証拠と見なすことができよう。
さて
人類の生まれながらに有する
協力一致の
性質が
次第に
退化しゆくとすれば、今後は
協力一致を
要するような仕事はだんだん行なわれがたくなるものと
覚悟せねばならぬ。
協力一致にはまず
私欲を
捨ててかかることが
必要であるが、
私欲は今日の世の中では
個人を
単位とした
自然淘汰によってますます
発達するであろうから、これを
捨てさせることはもとより
無理な注文である。
個人が
私欲を
捨てず、したがって
団体は
協力一致することができぬとすれば、いずれの問題でも
解決はすこぶるむずかしからざるを
得ない。
個人としては
目覚めても、
人類としてはいまだ
夢を見ている人々の中には、多くの理想家があって、かくすれば世の中がよくなる、かく
改めれば理想の世界がくると、心中にも考え、発表もしたが、いつも
人類の
協力一致の
性質が
退化してゆくことに
心付かぬために、せっかくの
考案も
夢以上のものとはならぬ。新しい人だけが
寄って、他の人のいないところに新しい村を
造り、自分らの理想どおりの生活をしようと
試みた
例はアメリカあたりにいくらもあったが、
以上の理由によってことごとく
失敗に終わった。
珍しい間こそ
無事におもしろく
暮らせるが、本来の
性質を長く
矯める(注:木・竹・
枝などを,
曲げたりまっすぐにしたりして形を
整える)ことは
不可能であるゆえ、その中には思いがけぬ
衝突などが始まり、ついにはやむを
得ず
離散して、元の出来合いの世の中にもどらねばならぬことになった。
同志の者だけが
寄ってさえ、そのとおりであるから、
誰も
彼もが
雑居している広い世の中を理想どおりに
改良することはとうてい
望まれぬ。近ごろやかましい
労働問題のごときも、ゾラの「トラヴァイユ」に書いてあるように、
資本と
知識と
労働とが、よく調和して、全市が
愉快に
栄えれば、何よりけっこうであるが、かようなことは
小説のほかには見られぬ。
我らはかつて、この本を読んだときに、もしも自分がゾラだけの筆を持っていたならば、前半だけはそのままとし、後半には
誰が悪意を有するのでもなく、
誰が
失策を
演ずるのでもなく、全く人間本来の
性質のために、「クレシェリー」工場に大
悶着(注:もめごと)の起こるありさまを
最も
自然的に画いて見たいと思うた。
或る問題が起これば、それを
解決するために、多数の人が集まって
会議を開くが、かような
会議で
如何なることを
議決しようとも、それが人間の
性質としてできぬことならば、
結局何の役にも立たぬ。あたかも
蟹が
寄って、
満場一致で
縦にはうことを
議決しても、何にもならぬのと同じである。しこうして、
如何なることが、人間の
性質としてできぬかというと、
私欲を
捨てて
協力一致することであるが、このことが行なわれねば、ほとんどすべての問題は
無解決に終わる。一時の
弥縫策(注:とりつくろって間に合わせるための
方策)はあるいはできるとしても、根本からの
解決はとうていできぬであろう。かくして
無解決の問題が
殖えれば
殖えるだけ、
人類としての
煩悶は
増進せざるを
得ない。すでに前にも言うたとおり、今日は
個人としては大いに
目覚めた人はあっても、
人類としてはいまだ
夢を見ている
最中であるゆえ、
人類としての
煩悶はないが、そのうちには楽しい
夢が
覚めて
醜い
現実を
認めねばならぬ時がくるに
違いない。それが
人類としての
煩悶の始まる時であって、その後は
現実の
曝露するごとに
煩悶の
量は
増すばかりであろう。
最後に
誤解を
避けるために一言しておきたいのは、
以上は、
人類の
過去および
未来を第三者として
側面から
冷静に
観察した
結論に
過ぎぬとのことである。かくなればよいとか、かくなっては
困るとかいうごとき、自分の
希望や
憂慮(注:
心配)は一言も言うたのではない。
例えば文明が進めば
器械が
精巧になり、
団体が大きくなって、そのために、
人類の
協力一致の
性質が
退歩したと言うても、決して文明をのろい
野蛮に帰れと
主張するわけではない。今日の世の中で文明に進むことを
躊躇(注:ためらうこと)すれば、たちまち他の
民族の
圧迫を受けて苦しまねばならぬゆえ、いやでも
応でも文明はできるだけ進めねばならぬ。また自由平等を
標準として世の中を
改造しても、なかなか理想の世界にはならぬと言うても、決して自由や平等が
無用であると
説くわけではない。自由平等を
求めるのは
人類の進むべき
唯一の
道筋であって、これを
避けては先へゆくことはできぬ。
如何に
改造してもなかなか理想どおりにはならぬと言うたが、これも決して
改造を
不必要と考えたからではない。
現状のままで長く
続いては、大多数の者はとうていがまんができぬゆえ、これを
打破することはむろん
必要である。
人類は下り坂になってから
服従性が
退化して、そのために
団体のまとまりが悪くなったと
説いたが、これも決して、
服従性を
復古せしめたいという
議論ではない。ただ事実はかくのごとくであると言うたに
過ぎぬ。
要するに
我らの
述べたところは、
人類生活の
舞台を
桟敷(注:ショーを見るために高く作った
見物席)から見物している心持ちで
観察し
得たところをありのままに書きつらねたまでである。
人類の生まれながらに有する
協力一致の
性質はおいおい
退化するをまぬがれぬが、そのためかえって
協力一致の
範囲が広がったかのごとき
外観を
呈する場合がある。これはちょっと
不思議に聞えるが、実は何でもない。およそ
連合とか
同盟とかいうことは、
共同の
敵を目の前に
控えた時には
誰と
誰との間にもたやすく行なわれる。
呉越同舟(注:
仲の
悪い者
同士や
敵味方が、同じ
場所や同じ
境遇にいること)とはすなわちかかる場合をいうのである。
協力一致の
性質が
退化すれば、
団体は
利害の相反する
若干の部分に分かれざるを
得ぬが、これらが
相戦うに当たっては、他の
団体に
属する同じ
境遇の者の助けを
借りるのが
得策である。
例えば
甲民族の
労働者が
資本家と
相戦う
際には、
乙民族丙民族などの
労働者と
連合するのが
最も
有効な
方法に
違いない。かくなれば
資本家は、また
資本家として、
異民族の間に
連絡を
保つ
方法を
講ぜねばならぬ。他の方面においても、すべてこれと同様で、
共同の
敵に対して自分らの
利益をまもるためには、
種々の
連合ができるであろう。しこうして、交通が楽になり、世界が
狭くなっただけ、かような
連合も多くは
世界的のものとなるが、これだけを見ると、
人類は今後ますます広く
協力一致し
得るもののごとくに思われ、今までの文明は
競争の文明であったが、
将来の文明は
連合の文明であると
論ずる人までができる。しかし、
連合はいつも
共同の
敵に対してのみ
造られるものゆえ、実は
競争に勝つことを
目的とする
一方便に
過ぎぬ。
人類が今、下りつつある坂路は、左は
絶壁でよじ登ることはできず、右は
断岸で落ちれば助かる
見込みはない。そこを多くの
異なった
民族が
押し合いながら下りてゆくのであるから、よほど用心せぬと
険呑(注:あぶない
様子)である。
幾多の
民族は今までの
途中に谷に
押し落とされて、すでに
絶滅した。まさに
押し落とされんとしている
民族は今日いくつもある。文明とは、他の
民族を
押し落とすように、わが
民族は
押し落とされぬようにと、
一生懸命に
互いに
押し合うときに用いる
武器の名に
過ぎぬ。文明の
劣った
民族はぞくぞく
断岸からつき落とされて
亡びうせ、文明のまさった
民族は
互いに
押し合いながら坂を下りてゆく。
人類は天国に
昇りつつありという楽しい
夢から
覚めて、ダンテの「インフェルノ」にも
似たる
現状に
心付いたならば、
煩悶の起こるのは
当然であるが、この
人類としての
煩悶は、目の
覚めている間はとうてい
減少する
見込みはなく、おそらく次なる
絶望の時代まで
継続するであろう。
(大正八年十一月)