人生観(注:人間ひとりひとりが、自分自身の人生や人間
全般の人生について
抱く
諸観念のこと。人生の見方。人生についての
理解・
態度。)の話をしてもらいたいとの
御依頼であるが、
我ら(注:私)ごとき者にはろくな
人生観があろうはずもなく、とくに
雑誌上に発表するためのよそゆきの
人生観をつねづね
準備しているわけでないゆえ、
別にこれというて話すべきことは何もない。実は
我らは今日まで、わざわざ一定の
人生観を
造っておく
必要を感じたことがないために、
突然人に問われたときに直ちに返答するだけの用意ができていないのである。
しかしながら、
人生観と
名付けて
判然(注:はっきりとわかること)と
承知しているか、かく
名付けずに
漠然と
心得ているかの
別はあっても、日々の
行為を定めるにあたって、その
根拠とすべき人生に対する考えは、何人といえども、これを持たぬものはない。十人
十種に人々のなすことが
違うのは、ひっきょう一人一人の有する
人生観が
異なる
結果である。
舞台の正面に出て、なるべく多数の人に見えるところで
働きたいと思う人もあれば、かえってこれをうるさいと思うて
避ける人もある。
高位高官に
昇ることを何よりの
出世と
心得て、
極力これにつとめる人もあれば、むしろ一生を
平民として自由に
暮らしたいと考える人もある。その他、人々のなすところを見れば、
希望(注:
好ましい事物の
実現を
望むこと)するところも、実行するところも、実に
種々さまざまであるが、いずれもその
基礎となるものは、その当人の有する
人生観にほかならぬが、かく一人一人に
人生観の
異なるのは、
各個人の生まれながらの
性質の
異なるにもより、
過去の
経歴の
異なるにもより、
現在の
境遇の
異なるにもより、さらにその人の思考力の
如何にもよることであろうから、細かく調べたら、
人生観なるものは
幾種類あるやら分からぬ。さればこの
相異なった
無数の
人生観の中で、ただ一つだけが正しい
人生観で、ほかのものはことごとく
誤った人生感であるとは、決して言われぬ
理屈で、おそらくいずれも一部分ずつの
真理(注:
確実な
根拠によって本当であると
認められたこと。ありのまま
誤りなく
認識されたことのあり方。
客観的な
認識)を
含んでいるであろう。たいがいの
人生観は、
若干の事実を
基礎とし、その上に
議論を
積み立てたものであるが、およそ
議論なるものはだんだんと
積み上げてゆくうちには、
誤りの
入りきたるべき
隙がいくらもあるゆえ、たとえ出発点は正しくとも、
結論にはずいぶん
誤りを
含むところのあることを
忘れてはならぬ。
真理は一とおりよりなかるべきはずのところに、かくさまざまの
人生観がある
以上は、すべての
人生観がことごとく正しくあり
得ぬは明白であるが、このことは
側面からながめている者には明白であるにかかわらず、多くの人々は、ただ自分一人の
人生観だけが正しくて、他はことごとく
誤りであるごとくに
固く
信じているようである。
我らはつねに生物学を
修めている
関係から、何ごとを考えるに当たっても、生物界に
比較して生物学
的に
観察する
習慣がある。
人生観などということについても、直ちに
種々の動物の生活
状態を思い
浮かべて、もしこれ(注:この動物)が人間であったならば
如何なる
人生観を持つであろうかというように考え、
仮に人間を
種々の動物の
位地においたとして、その人間が持つであろうと思われる
人生観を
幾とおりも
想像し、これを
並べて、
比較して見るとずいぶん面白く感ずることがある。
海中に住む動物を、その生活
状態によって
分類すると、三組に分けることができる。
一は海の
底の岩などに
固着して、動かずに一生を送る
類であるが、これらを
総称して、「ベントス」と
名付ける。
一は海の表面に
一生涯浮んかだままで
暮らす
類で、これを
総称して「プランクトン」と
名付ける。他の
一は、自分の力で自由に水中を泳ぐ動物であるが、これを
総称して「ネクトン」と
呼ぶ。「ベントス」とは、
例えば、「あわび」「とこぶし」「さらがい」「じいがせ」の
類あるいは「うに」「なまこ」「ひとで」「いそぎんちゃく」などのごときものであるが、これらはつねに岩に
固着して生活しているゆえ、もしこれを
強いて岩から
離して、水中に
浮かべると、すこぶる
煩悶(注:いろいろ
悩み
苦しむこと)して
如何にも心配らしく、安心せぬような様子に見える。そこで、これをふたたび岩の上におくと、直ちに岩に
吸い
着いてまずこれで安心したというごとき様子を
示す。「プランクトン」のほうは、
例えば「くらげ」であるとか、あるいは小さな「みじんこ」の
類、その他、世間の人に
普通知られていない動物の
種類が数多くあるが、これらの動物は生まれた時から海面に
浮いていて、
浮いたままに
生長し、
一生涯浮いて
暮らしてついに
浮いたままで死ぬゆえ、
固着生活の味わいを少しも知らず、したがって、「ベントス」が岩に
固着しているときの安心の心持ちも知らねば「ベントス」が岩から
離されたときの
不安心の心持ちも知らず、安心とか
不安とかいうことなしに平気で生活しているようである。
世人が
人生観ということを問題にするのはひっきょう安心立命(注:心を安らかにして身を天命にまかせ、どんなときにも
動揺しないこと)を
得ようとする
希望のためであって、
一種の
人生観を持っていれば、その
人生観の上に
立脚して、安心立命が
得られるわけになるが、
我らのごとく、多数の動物を
並べて、
互いに
比較して見るくせのついた者から見ると、人間が、一定の
信念の
下に安心立命を
得ている具合いは、あたかも「ベントス」
仲間の動物が岩に
固着して安心している
状態に
異ならぬ。岩から引き
離された「ベントス」の
状態がすなわち
不安心、
不立命で、
煩悶(注:いろいろ
悩み
苦しむこと)しているありさまである。「ベントス」
類の動物は、いかに
浪が
荒くとも、
如何に風が
激しくとも
寸毫(注:ほんの少し)も動くことのない岩を
頼りとして、これにさえ
吸い着いていれば、
絶対に
大丈夫であると思うて安心しているのであるが、安心立命を
得た人の心持ちはちょうどこれと同様で、
万世不易(注:
永久に
変わらないこと)の
真理と思うものに
吸い着いて、これならば決して
間違う気づかいはないと安心しているのである。ただ
違うところは「ベントス」の
吸い着いている岩は、
真物の岩であるゆえ、
頼りとするだけの
値があるが、安心立命を
得ている人の
吸いついている
真理なるものは多くは
議論の立て方によって、
如何ようにもなるべき
性質のものゆえ、それを
信じている人には動かぬ岩のごとくに感ぜられるかも知れぬが他人から見れば、人の
細工で勝手に
造った
張り子の岩に
過ぎぬ。かようなものを
頼りにして、それに
吸い着いて、安心立命ができるならば、これほど
簡単なことはないとの感じを起こさせる場合もしばしばある。
我らは海岸へ動物の
採集に行ったときに、岩の
端を打ちこわして、岩に
吸い着いたままの「ベントス」を取って帰ることが
往々あるが、岩とともに
採集せられたことを知らずに、
相変らず岩に
吸い着いて安心している「ベントス」を見ると、いわゆる安心立命を
得ている人間を
連想せざるを
得ない。
何物かに
頼らねば安心立命が
得られず、その代わり何物かに
頼りさえすれば、
容易に安心立命が
得られるというような人間の心理
状態は、
如何にも「ベントス」
程度の動物によく
似ているように思われる。
「プランクトン」に
属する動物は、
以上とは正反対で、
一生涯、他物に
固着するということがない。
固着している動物から見たならば、年中
吸い着くべき岩がなくて、定めて
不安心であろうと考えられるが、「プランクトン」自身は、かつて岩に
吸い着いたという
経験がなく、岩に
吸い着いている安心の味わいを知らぬから、
浮いていても
別段不安心の感じもない。
東風が
吹けば西に流され、西風が
吹けば東に流され、つねに一定の住所はないが、どこへ行っても海面の生活にはなはだしい
変化はないゆえ、場所が
変わったという感じさえも起こらぬ。どこへ行っても平気で、安心もなく
不安心もなく、立命(注:天命を全うし、
人為によって
損なわないこと)もなく
不立命もなく、生活しているのが、「プランクトン」であるゆえ、もし
人生観とか安心立命とかいうことを考えずに生活している人がありとすれば、その人の心持ちは、大いに「プランクトン」
的である。一体、世の中のことを考えて見ると。
永久に
不変というものは
容易には見いだされぬ。
確乎として動かぬと
信ずる物にしがみついて安心している人もあるが、その動かぬと
信じている物が
存外、
怪しいことがはなはだ多い。さざれ石(注:こまかい石)が
巌(注:高く大きな岩)となりてという
文句があるが、それと同時に
巌がくだけてさざれ石となることもあって、岩のごとき
固い物さえ決してどこまでも
変わらぬわけではない。まして、
人生観などという一人一人が勝手に
造ることのできるようなものは、
最初から、すでにすこぶる
怪しいものと見てかからねばならぬ。されば、一定の
人生観なるものを
造り、それに
吸い着いて、わずかに安心立命を
得るよりは、むしろ
初めから、岩に
吸い着かず、身を
浪風にまかせて、
浮かんだままで、安心立命ということも知らず、したがって
不安心
不立命ということも知らず、安心立命とか
不安心
不立命とかいうような「ベントス」
的の
境遇を
超絶した心持ちで生活することができたならばあるいはそのほうがななお
一層結構ではあるまいか。
人生観などということを考えずにおくのも、これまた
一種の
人生観かと思われるゆえ、
御尋ねに対して、
我らの考えの
一端を
述べた
次第である。
(大正元年九月)