一代後を標準とせよ

丘浅次郎



一 教育の目的もくてき


 従来じゅうらいの教育学書を開いて見ると、教育の目的もくてき完全かんぜんなる人をつくるにあるなどと書いてあるが、かような抽象的ちゅうしょうてきの言い方では、実地教育をほどこすに当たっての標準ひょうじゅんとしては何の役にも立たぬ。全体完全かんぜんなる人とは如何いかなる者を指すか。古今に通じて絶対ぜったいなものかまたは時代におうじて変化へんかするものなのか、などとろんじ始めると、人々によってせつちがうであろうから、学科課程かていを選んだり、教授法きょうじゅほうを定めたりする必要ひつようの目前にせまっておるごとき場合にはとうてい間に合わぬ。されば実際じっさいことを運ぶ上にはなお少しく、具体的ぐたいてき標準ひょうじゅんを定めておかねばならぬ。
 われら(注:わたし)の考えによれば、教育学なるものは、元来、生物学の基礎きその上におかれねばならぬ物であるが、生物学の立場から見れば、教育の目的もくてきはすこぶる明白で、かついくぶんか具体的ぐたいてきに言いあらわすことができる。如何いかなる動物でも、そのなすことは、自己じこ個体こたい維持いじするためか、自己じこ種族しゅぞく維持いじするためかのほかに出ぬが、教育はむろん第二のほうにぞくする仕事で言わば生殖せいしょく作用の仕上げとも見なすべき性質せいしつのものである。すなわち、人間のごとき、生活状態じょうたい複雑ふくざつになった動物では、ただ子をみ落としただけでは自己じこ民族みんぞくなが生存せいぞんせしめべきのぞみがはなはだ少ない。ゆえに、これを適当てきとうに教育し、これだけの人数の子供こどもをこれだけの程度ていどまで育て上げておきさえすれば、親達おやたちは死んでも、わが民族みんぞく将来しょうらいはほぼ安全であるという見込みこみのつくまでにしておかねばならぬ。言をえて言えば、教育の目的もくてきはもっぱらわが民族みんぞく維持いじ保存ほぞんにある。それゆえ、もしも教育者が民族みんぞく維持いじ必要ひつようなことをなさずにいたり、または民族みんぞく維持いじ不利益ふりえきなことを行のうたりすれば、これは全く教育の目的もくてきわすれた非常ひじょう心得こころえちがいと言わねばならぬ。

二 民族みんぞくあらそ


 さてわが民族みんぞく維持いじ発展はってんはかるに当たって、まず第一に考えねばならぬのは、如何いかなる民族みんぞくを相手としてあらそわねばならぬかということである。大戦争だいせんそうのすんだ後ゆえ当分はふたたび戦争せんそうなどはなかろうと考える人も多いが、利害りがい関係かんけいあいことなるいくつかの強い民族みんぞくが地球上にならそんしている以上いじょうは、その間に衝突しょうとつの起こるべきは当然とうぜんであるゆえ、いつまた武力ぶりょくうったえて勝負を決せねばならぬような時節じせつがこぬともかぎらぬ。かりにしばらく戦争せんそうがないとしても、いわゆる平和の戦争せんそうが今後激烈げきれつになりゆくべきはだれうたがわぬところであって、この戦争せんそうやぶれた民族みんぞくは、やはり鉄砲てっぽうの打ち合いにけたのと同様にずいぶん悲惨ひさん境遇きょうぐうおちいるをまぬがれぬ。すなわち戦争せんそうがあってもなくても、異民族いみんぞく間の競争きょうそうはとうていくべからざることで、この競争きょうそうえぬようなおとった民族みんぞく将来しょうらい独立どくりつして生存せいぞんつづべきのぞみはない。されば教育に従事じゅうじする者は、つねにわが民族みんぞくと、競争きょうそうの相手なるてき民族みんぞくとを比較ひかくし、彼我ひが(注:相手あいてと自分)の長所短所を考えて、いささかたりとも、われおとれる点があるならば、全力をつくしてこれをおぎなあらためることにつとめねばならぬ。
 今日世界で一等国と見なされているのは、いうまでもなくアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ等の諸国しょこくであるが、今後は如何いかなる民族みんぞくもいたるところで、これらの強い民族みんぞく競争きょうそうする覚悟かくごようする。交通の開けなかった昔は、遠く相離あいはなれている民族みんぞくたがいいに関係かんけいなく存在そんざいすることもできたが、現今げんこんのごとくに文明が進んで、世界がせまくなっては、どこを向いて進んでも、かれらとの交渉こうしょうけることはできぬ。しこうして、二民族にみんぞくの相接蝕せっしょくするところでは優者ゆうしゃが勝ち、劣者れっしゃけるのは当然とうぜんことわりでいまだかつて例外れいがいのあったことはない。今わが民族みんぞくかれらとを比較ひかくして見るに、はなはだ残念ざんねんではあるが、学問芸術げいじゅつにおいても、殖産しょくさん工業においても一段いちだんおとっていることはいなむことのできぬ事実であって、る二、三の方面にいたっては、ほとんど比較ひかくにもならぬほどのはなはだしい懸隔けんかく(注:かけはなれていること)がある。医学だけは、他の一等国にしてずるところはないとの評判ひょうばんを聞くこともあるが、これは医者自身の吹聴ふいちょう(注:言いふらすこと)するところであるゆえ、あたかも商品の広告こうこく文と同じで、決して割引わりびきなしにそのまましんずべきものではなかろう。とにかく、わが民族みんぞくかれらにしてすべての方面におとっていることの明らかである以上いじょうは、我々われわれかれらよりもよほど多くの努力どりょくを教育に用いるように心がけねば、とうてい近き将来しょうらいにおいて、かれらと対等のくらいまでに進むことはのぞみがたい。教育者はよろしくつねに先進一等国を競争きょうそう目標もくひょうとし、かれらと対等の競争きょうそうをなし程度ていどまでに、わが民族みんぞくを進めることを仕事の目的もくてきと定めておかねばならぬ。

三 現代げんだい将来しょうらい


 教育は次代の国民こくみん養成ようせいする事業であるゆえ、将来しょうらいに重きをおくべきは言うまでもない。今の小学児童じどう四十歳よんじゅっさい五十歳ごじゅっさいになったころに、その時代の他の一等国民こくみん競争きょうそうするにあたって、必要ひつよう資格しかくそなえさせることができぬようでは、今日の教育が成功せいこうしたとは言われぬ。三代も五代も後のことまでを考えて、まごの代や曾孫ひまごの代にわが民族みんぞく有利ゆうりなようにと教育の仕方を工夫くふうすることができれば、これはむろんはなはだ結構けっこうであるが、百年も百五十年も後のことまで見通しるような先見の明のある教育家はすこぶるまれであろうから、これはまず無理むりな注文として、し当たり、一代後のことを考え、これにてきするようにと、教育の仕方を工夫くふうすることができたならば、それで満足まんぞくするのほかはない。ちょうたまごみつけるにあたっては、かならず、そのたまごからかえった幼虫ようちゅうえさとなるべき植物の葉をえらぶが、もしも人間が子供こどもを教育するにあたって、その子供こども成長せいちょうした後の事情じじょうてきせぬごとき育て方をするようでは、実に虫にもおとるわけである。一代といえば短いようにも思われるが、最近さいきん三十年間における文明の進歩をかえりみると実におどろくべきもので、飛行機ひこうき潜水艇せんすいてい、自動車、活動写真は言うにおよばず、もはや古くさく感ずる電車や蓄音機ちくおんきさえも、その間に発明せられた物である。されば、今後の三十年間にも、これに匹敵ひってきするだけの大進歩がくるものと考えて間違まちがいはないであろうが、今日すでにわが民族みんぞくにまさり、今より一代後にはさらにいちじるしくすぐるべきかれら西洋のしょ民族みんぞくを相手として、わが子はたたかわねばならぬと考えたならば教育者は実に一刻いっこく安閑あんかん(注:のんびりとしてしずかなさま)としておるべき場合でない。われらは我国わがこくの教育者に対して、現代げんだいのみに着眼ちゃくがんせず、つねに一代後を標準ひょうじゅんとして、万事を計画することを切に希望きぼうせざるをない。
 かような考えをもって、現時げんじ普通ふつう教育を見渡みわたすと、遺憾いかん(注:残念ざんねん)ながら、真の教育の目的もくてきにかなわぬと思われることを数多く発見する。将来しょうらいのためになる施設しせつが、同時に現代げんだいの世の中からも歓迎かんげいせられる場合にはもとよりろんはないが、将来しょうらいのために必要ひつようなと思われることと、現代げんだいに受けのよいこととが一致いっちせぬ場合には、人々によってえらぶところが大いにちがう。われらのごとくに、教育はつねに一代後を標準ひょうじゅんとすべきはずと考える者から見ると、わが民族みんぞく将来しょうらいにとって有益ゆうえきであろうと思われるほうをすてておいて、現代げんだいに受けのよいことにほねるのは、現代げんだいのために将来しょうらい犠牲ぎせいきょうするわけにあたり、すこぶる教育の目的もくてきにかなわぬことと断言だんげんせざるをない。今かようなれいと思われるものを二、三つぎにべて見よう。

四 書き方、読み方


「悪筆は一生のそん」という習字教授きょじゅ広告こうこくをしばしば新聞紙上に見ることがあるが、実際じっさい今日の世の中では、字の上手なことは一つのとくで、会社などにつとめても、字の書ける者は大いに重宝ちようほうがられ、したがって収入しゅうにゅう余計よけいになる。されば、学校でも、習字のたくみな卒業生そつぎょうせいを出せば、現代げんだいの父兄からはよろこばれるにちがいない。しかしながらこれが一代後に他の民族みんぞく競争きょうそうするにあたって、何の役に立つかと考えて見ると、大いにうたがわしいと言わざるをない。それも、時間に余裕よゆうがあってのことならば、あえてろんずるにもおよばぬが、今日は昔とちがい、何ごともきわめて迅速じんそくにはかどり、時間のあたいはそれだけとおとくなって、一刻いっこくたりとも不経済ふけいざいついやすことをゆるされぬ。かかる時世に住んで、空には飛行機ひこうきび、海には潜水艇せんすいていの走るのを見ながら、「ソレひじを上げて、ソレふでを立てて、そこをおさえて、ここをねて」とゆうゆう時間をついやして、将来しょうらい何の役に立つかが疑問ぎもんであることを教えるのは如何いかにももったいないように感ずる。しこうして、この時間は、もしも他の方面に利用りようしたならば、民族みんぞく将来しょうらいのためにきわめて有効ゆうこう結果けっかを生ずべき時間からき取った時間である。
 また新聞紙の広告こうこくにはときどき、「若奥様わかおくさま御養生ごようじょう不被為相叶あいかなわざれず御逝去ごせいきょ被遊あそばされる」とか「乍略儀りゃくぎながら以紙上しじょうをもって奉謹謝儀きんしゃぎたてまつる」とかいうごとき奇妙きみょうな文章を見ることがあるが、今の世の中はかような文章を読みることをだれにも要求ようきゅうする。今日の小学校の卒業生そつぎょうせいは何の役にも立たぬ。受取り一つ満足まんぞくには書けず普通ふつうの手紙も満足まんぞくには読めぬとの非難ひなんを聞くことがあるが、これは多くは前のごとき文章を読みるような卒業生そつぎょうせいを出せとの要求ようきゅうの声である。これに対して、如何いかなる所置おきどころ(注:置き場)を取ってよいかと考えるに、現代げんだいに受けのよいことをのぞむ教育者は、この要求ようきゅうおうじかような文章を読むことを生徒せいとに教えて、非難ひなんをまぬがれようとつとめるであろうが、一代後の世界を標準ひょうじゅんとしてあんを立てるならば、これは当然とうぜん排斥はいせきすべきことであろう。かような場合に、真の教育者のなすべきことは、目前の状態じょうたいおうじて、学校教育を仕込しこむのではなく、将来しょうらい事情じじょうてきするように世の中を改造かいぞうするつもりで、努力どりょくすることでなければならぬ。

五 玩弄がんろう文をのぞ


 せんだってあるところで国語の試験しけんに「法廷ほうていに黒白をあらそう」という文句もんくを出したら「お寺の庭でを打つこと」と解釈かいしゃくした者があったという話である、一体わが国の文章は昔からの習慣しゅうかんで、文字をもてあそぶことが主になっているゆえ、平易へいいな言葉で言えばだれにも分かるべきことをわざわざ分かりにくい文字をならべてよろこんでいる。学校で国語をさずけるさいにもとかくこのくせがけず、ややもすれば、教師きょうし玩弄がんろう(注:おもちゃ。なぐさみものとしてもてあそぶもの)文をさずけたがり、生徒せいと玩弄がんろう文をおぼえたがる。学校の掲示場けいじじょうに「炎帝駕えんていがめぐらして云々うんぬん」とか「天高く馬肥うまこ云々うんぬん」とかいう広告こうこくがはりつけてあるのをしばしば見るが、これも一種いっしゅなぐさみと考えれば何の差支さしつかえもない。しかし、必修ひっしゅう科目の範囲はんい内に玩弄がんろう文を入れることは如何いかがであろうか。われらの考えによれば文を玩弄がんろうすることは、一種いっしゅ娯楽ごらくであるゆえ、囲碁いご謡曲ようきょく義太夫ぎだゆう浪花節なにわびしなどと同じく、これをこのむ人が勝手に稽古けいことすることはあえてさまたげぬが、教育の一部にこれをくわえるのははなはだ理由のないことである。他の民族みんぞく交渉こうしょうなしに生存せいぞんのできた時代ならば、教育に多少のむだがあっても、直ちにそのための損害そんがいあらわれるにはいたらぬが、今日のごとくに、かく民族みんぞくが、他にけぬために全力をつくさねばならぬ世の中では、少しのむだもたちまち、その結果けっかが見えるゆえ、将来しょうらいのために役に立たぬと思われることは、ことごとく義務ぎむ教育からははぶいて、その時間を他の方面に利用りようするように心がけねばならぬ。今日、中学校や女学校で用いている国語の教科書の中には、われらから見ては、玩弄がんろう文としか思われぬものが数多くあって、生徒せいとはこれを学ぶために多大の時間をついやしているが、一代後を標準ひょうじゅんとして考えると、これらはよほどまで、はぶいてよろしかろう。教育が特殊とくしゅ階級の装飾しょうしょくであったころには、他人の読めぬ字が読めるということに多少の意味があったであろうが、教育が国民こくみん一般いっぱんにひろがった今の世に、だれかれもが、ことごとく玩弄がんろう文をおぼえる必要ひつようは少しもない。従来じゅうらい習慣しゅうかんにとらわれ、いやしくも教育を受けた人間はこのくらいの文字は知っていなければならぬなどと考えて、ぜいたくな文章を子供こどもらに強いることは、決して教育の真の目的もくてきにかなうとは言われぬ。

六 むしろ知育にへんせよ


 一代後を標準ひょうじゅんとして考えると、今日の普通ふつう教育の課程かていからは節減せつげんしてもよろしかろうと思われる部分が、なおいくらもあるが、しからば如何いかなる方面をさねばならぬかとたずねると、われらは知育方面と答えることに躊躇ちゅうちょせぬ。今後他の民族みんぞく競争きょうそうするためには体育も徳育とくいくもみな必要ひつようであるはむろんのことで、決して徳育とくいくや体育を軽んじてよろしいというわけではないが、教育に用いべき時間に制限せいげんがある以上いじょうは、次の二点を考えて取捨しゅしゃを決せねばならぬ。すなわち第一には、相手の民族みんぞくして、わが民族みんぞくとくおとっているのは如何いかなる方面であるか。第二には、如何いかなる方面の教育がもっとも多くこうそうするか、との二点であるが、そのうち、第一のほうから考えて見るに、知力においても体力においても、平均へいきんおとっていることは残念ざんねんながら事実である。しこうして、今後の競争きょうそうもっとも重大な関係かんけいを有するのは知力であって、今回の戦争せんそうのごときも、主として知力の戦争せんそうであると言われている。されば、今後の民族みんぞく間の競争きょうそうけぬためには、知力において他におとらぬことが必要ひつようで、いやしくも知力がいちじるしくおとるようではとうてい競争きょうそう場裡じょうり位地ちいたもつことはできぬ。それゆえ、如何いかなる名義めいぎの下にでも、知育の程度ていど不充分ふじゅうぶんならしめることは、わが民族みんぞく将来しょうらいのためにきわめて不得策ふとくさくである。次に第二の問題について考えて見ると、およそ教育の中には、十の努力どりょくに対して十の効果こうかのあがる部分もあり、十の努力どりょくに対してわずかに一の効果こうかよりられぬ部分もあり、事によれば、百の努力どりょくに対してぜろ効果こうかもないこともあって、その奏効そうこう(注:き目があらわれること)を予期しべき程度ていどは、かく方面によって決して一様でない。る時、る家の子供こどもに、小学校の卒業式そつぎょう答辞とうじ如何いかに書こうかとたづねられたさいに、たわむれに、「私共わたしどもの入学しました時は六歳ろくさいと何ヶ月かでありましたが、ただ今、卒業そつぎょういたします時は十二歳じゅうにさいと何ヶ月になりりました、これは全く校長はじしょ先生方の御骨折おほねおりりの御蔭おかげ御座ござります」と書いたがよろしかろうと言うたら、子供こどもは、それは先生のおかげではないと言うて承知しょうちしなかった。しかし教育者の中には六歳ろくさいのうを持った子供こどもを六年かかって、十二歳じゅうにさいのうを持った子供こどもに仕立て上げたのは、全部教育の力であるごとくに思いんでいる人も多いらしい。したがって、いずれの方面に向うても教育をほどこしさえすれば、注文どおりに変化へんかせしめるかのごとくにろんずる人もあるが、実際じっさいそのようにはむろんならぬ。知育の方面は効果こうかがてきめんにあらわれ、教えただけ子供こどもの学力は明らかにびるが、他の方面は、なかなかその割合わりあいには進まず、教師きょうし如何いか努力どりょくしても予期したことの十分の一も成功せいこうせぬことがしばしばある。これにはもとより一々理由のあることであるが、学校教育において、もっと奏効そうこうりつの高いのは知育であるはうたがいいをいれぬところで、何国においても知育にへんせぬ(注:一方にだけかたよらぬ)学校教育のないのはすなわちそのためである。
 わが民族みんぞく体質たいしつおとれるのを見て、直ちにこれを従来じゅうらいの教育が知育にへんした結果けっかと見なす人がある。少年の行儀ぎょうぎの悪くなりゆくのを見れば直ちにこれを知育にへんした教育のつみに帰する人がある。しかしてかような評判ひょうばんが立つと、教育者はひたすら知育にへんするという非難ひなんおそれて、知育の時間をいて他の方面に向けるようであるが、一代後のわが民族みんぞくのことを考えると、これははなはだ不得策ふとくさくのように思われる。わが国従来じゅうらいの教育における知育が如何いかなる程度ていどにあったかは、外国の中学校、女学校の教科書と、わが国の中学校、女学校の教科書とを比較ひかくして見るがよろしい。わが教科書の内容ないよう貧弱ひんじゃくなることは実になさけないほどで、これではとうていかれらと対等の競争きょうそうができるはずはないとの感をきんない。すなわちわが国の知育は他国にして大いにおとっているのであるから、今後これを何倍にも増さねばならぬはずである。しかるに他の方面の教育の効果こうかのあがらぬのを見て、その真の原因げんいんをきわめず、かるがるしくつみを知育にぬりけて、さらぬだに不完全ふかんぜんなわが国の知育をさらに一層いっそう引き下げようとこころみることは、実にわが民族みんぞく将来しょうらいを考えぬ所業しょぎょうと言わねばならぬ。

七 理科は根底こんていから


 このごろは教育界に理科ねつさかんであるが、従来じゅうらいれいらせば、かような一時てきねつは、またたちまちめて決して長続ながつづきはせぬ。おそらく今回のねつも大した効果こうかをあげずして、消えせることであろう。民族みんぞく発展はってんの上に理科知識ちしきのきわめて必要ひつようなるは言うまでもないことで、とくにわが国のごとき、従来じゅうらいこの方面でははるかに他の民族みんぞくにおくれていたところでは、一層いっそうその発達はったつ努力どりょくせねばならぬが、理科は決して、一時のねつによって進歩するものではない。真に理科の進歩をはかるにはまず、その根底こんていから培養ばいようしてかからねばならぬ。理科の根底こんていとはすなわち何ごとに対しても、どこまでも研究して得心とくしんのゆくまでは止めぬという強い研究心である。この強い研究心を養成ようせいすることができたならば、創造そうぞう、発明は続々ぞくぞくとできるであろうが、もしこれを養成ようせいすることができぬとすれば、いつまでたっても他人の発明を真似まねして、わずかになる物をつく程度ていど以上いじょうにはのぼれぬ。されば、この方面において、真にわが民族みんぞく将来しょうらいのためを図るならば、理科を奨励しょれいするにあたっても、今製造せいぞうして今もうかるというごとき現在げんざいのみを考えることをせず、やはり一代後を標準ひょうじゅんとして、一代後に他の民族みんぞくおとらぬだけの立派りっぱな発明のできるようにと、まず、その根底こんていからきずき上げることに努力どりょくすべきである。初等しょとう普通ふつう教育において、子供こどもに研究心を起こさせるには博物はくぶつ学科の材料ざいりょうがすこぶる有効ゆうこうであることはだれみとめるところであるにかかわらず、これを全くすてておいて、ただ製造せいぞう工業に直接ちょくせつ関係かんけいのある物理学と化学とだけを奨励しょれいするのは、一代後を標準ひょうじゅんとして考える者から見ると、何ともその意をかいすることができぬ。
 研究に必要ひつような第一の条件じょうけんは自由に考えるということである。すべての方面に自由に考えることがゆるされれば民族みんぞく内に研究てき気分がみなぎって、理科方面にも研究がいちじるしく進むこともありるであろうが、もしもる方面において、思想の自由を圧迫せっぱくし、ここより先は考えてはならぬ。このことに関してはこのとおりに心得こころえよと一々おさえてびさせぬようにすれば研究心は全く萎縮いしゆくせざるをぬゆえ、その空気の中で、ただ、さんとアルカリや重力と摩擦まさつとにかんしてのみ自由に考えろとせき立てても、その効能のうりょくはすこぶる微弱びじゃくならざるをない。一代後を標準ひょうじゅんとして考えれば、思想の自由をゆるすことが、理科奨励しょれいもっと有効ゆうこう手段しゃだんであろう。

八 歴史れきしへん


 おわりに一言しておきたいのは、少年の思想をみちびくにあたっても、教育者は一代後を標準ひょうじゅんとすべきことである。歴史れきしはくり返すということわざはあるが、歴史れきしの中には同じことをくり返す部分もあれば、一度進んだらふたたびもとにはもどらぬ部分もある。たとえば海岸の波のごとくで、一度一度になみせては帰るが、その間にしおはだんだんとしてくる(注:しおちてくる)。しおはふたたび引くことがあるが、歴史れきしでは、これに相当することがあるやいなやはうたがわしい。一度進んだらふたたびもどらぬという歴史れきし上のしおの一つは、十九世紀せいきから二十世紀せいきはじめにわたって、いちじるしくあらわれた文明民族みんぞく奴隷どれい根性こんじょう消滅しょうめつである。われらの考えによれば歴史れきしはこの時をさかいとして大いに体裁ていさいへんずるであろう。すなわち昔は人間に奴隷どれい根性こんじょう旺盛おうせいであって、英雄えいゆうに対しては全く奴隷どれいとして服従ふくじゅうしていたゆえ、歴史れきしといえばことごとく、引率者いんそつしゃなる個人こじん伝記でんきのごとき形で、多数の民衆みんしゅうは全く歴史家れきしか眼中がんっちゅにははいらなかった。クレオパトラの鼻が一分(注:3cm)ひくかったらローマ帝国ていこくの運命はかくのとおりではなかったろうというのも、あながちに拒絶きょぜつすることはできぬ。しかるに今後は歴史れきしに記すべきは、民族みんぞく全体としての行動であって、その引率者いんそつしゃだれであるかはあまり重きをなさぬ。たとえば今回の世界大戦たいせんのごときも、後の世の歴史家れきしか記述きじゅつするときには、ドイツ民族みんぞく勃興ぼっこうがイギリス民族みんぞく将来しょうらいをおびやかし、とうてい一戦争せんそうなしにはすまぬような状態じょうたいに立ちいたったので、些細ささい偶然ぐうぜんのできごとからたちまちたたかいが始まったというごとくに書かれるであろうと推察すいさつする。かような具合いに歴史れきしてき事件じけんの主動者は今後はいつも民族みんぞく全体であって、談判だんぱんの局に当たる者はただ民族みんぞく意志いしを代表する使いと見なされ、決して昔のごとくに英雄えいゆう豪傑ごうけつとして神のごとくに崇拝すうはいせられるにはいたらぬであろう。文明の程度ていどことなるにしたがい、奴隷どれい根性こんじょうの早く消滅しょうめつする民族みんぞくとおそくまでのこ民族みんぞくとがあり、文明のおとっている民族みんぞくではなおしばらくは、人間を若干じゃっかの階級に分けて、上の者に対しては奴隷どれいとして服従ふくじゅうすることにあまんずるであろうが、いずれにしても奴隷どれい根性こんじょう消滅しょうめつの方向に進みゆくことは世界人類じんるい大勢たいせいであって、如何いかべつあつらえの教育をほどこしても、これを有効ゆうこうふせぎ止めることはできぬ。わが民族みんぞくの思想が一代後には如何いかなる状態じょうたいにあるかは容易よういに知ることはできぬが、少年の思想をみちびこうという抱負ほうふのある教育家は、他の民族みんぞく将来しょうらい如何いかなる方向に進みゆくかを充分じゅうぶん洞察どうさつし、これを参考さんこうして適宜てきぎ手段しゅだんを取らねばならぬ。今日の進歩した教育家の中には決してないことであろうとは思うが、万一、頑迷がんめい固陋ころう(注:考え方に柔軟じゅうなんさがなく、適切てきせつ判断はんだんができないこと)な教育者の一群いちぐんがあって、二十世紀せいきの青年の脳髄のうずいを十八世紀せいき的に改造かいぞうすることが国家のために有益ゆうえきであると思いみ、あらゆる方法ほうほうこうじて、その実行をこころみたならば、かならず青年らの反抗心はんこうしんび起こして、かえってゆゆしい結果けっかを生ずるにいたるであろう。真にわが民族みんぞく行末ゆくすえをおもんぱかる教育者は、知育においても、体育においても、徳育とくいくにおいても、つねに一代後を標準ひょうじゅんとしてさくをめぐらすことが何よりも必要ひつようである。
(大正七年十一月)






底本:「煩悶と自由」有隣堂
   1968(昭和43)年7月20日 発行
入力:矢野重藤
初出:1919(大正8)年1月   「教育研究」に掲載
校正:
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