近ごろの新聞や
雑誌には文明の
弊を
論じたものがだいぶ見える。
物質的文明が進んだために世道が
廃頽したとか、二十
世紀の文明は人をして
野獣たらしめざればやまぬとかいうて、いずれも今日の人心の
堕落をもって、文明の進んだために生じた
直接の
結果であるごとくに見なしているが、これに反対した
議論が一つも出ぬところを見ると、おそらくかかる考えは新聞や
雑誌に筆を
執る人々の間に
一般に
存するものと思われる。われらの見るところは大いにこれと
異なるゆえ、
試みにその
大要をここに
述べてみよう。もしも、それが真に世を
憂うる人々の
参考ともならばはなはだ仕合わせである。
現今世道のすたれ人心の
堕落していることは目前のたしかな事実で、わが国の
将来を考えると実に
憂慮に
堪えぬ
次第である。
世道とか人心とか、
品性とか
人格とかいう
議論のやかましいのは、みな世の
堕落している
証拠で、まことに
情けないことではあるが、また一面にはこの
堕落を
憂うる人のなお多少世に
存する
徴と見なせば、いささか心強いごとき感じも生ずる。しかしながらおよそ一の
弊を
改めようとするには、まずそのよって起こる真の
原因をきわめて、これを
除くことを
図らねばならぬ。もしもその
原因をきわめることをゆるがせにし、真の
原因でもないものを
原因であるかのごとくに思い
誤り、これを
基として
矯正の
方法を
講ずるごときことがあったならば、その
結果はただ世を
益せぬのみならず、あるいは
民族発展の上に取り返しのつかぬ
妨害を生ずることがないともかぎらぬ。
今日多数の
論者が、人心の
堕落をもって
物質的文明の進んだ
結果とみなす理由は何であるかとたずねると、
単にわが国では
維新以後、
物質的文明の進歩したと同時に人心も
堕落したというだけにとどまって、ただ時が相重なり合うているというのに
過ぎぬ。同時に起こる
事柄の中には、
互いに
原因結果の
関係のあるものもあれば、またかかる
関係の全くないものもあるは明らかなことゆえ、
単に同時に起こったという理由だけで、一を
原因と見なし一を
結果とみなすのはすこぶる
軽率な
議論である。
物質的文明の進歩をもって人心
堕落の
原因とみなすのは、すなわちかかる
軽率な
皮相的の
観察であるゆえ、われらはとうていこれを
承認することはできぬ。
特にわが国のごとき、
維新以来西洋の文明を急いで
輸入することをつとめたとはいえ、いまだ
顕微鏡一つ
満足には
造られず、茶や
生絹のごとき
天産物を
輸出して
機械その他の人造品を
輸入し、
首府に下水の
設備さえ行き
届いていないところで、
物質的文明が進歩しているとはいかにも言いがたいことであり、また
維新以前とても今日と同様に
賄賂も行なわれ、
淫風も
盛んであって、人心はすでに
相応に
堕落していたのであるから、今ごろになって、急に思いついたかのごとくに文明の
弊を
論ずるのはいよいよ取るに足らぬことである。真に今日の
堕落を
救わんと
志す人は、さらにいっそう深くかつ
緻密に研究して、
終極の
原因までさぐり
求め、根本より
改めることをはからねばならぬ。
しからばいわゆる文明の
弊なるものの真の
原因は何に
存するかというに、われらの考えによれば主として社会の
制度、
特に
財産に
関する
制度に
欠点があるによるのである。元来人間には他人の
迷惑は少しも
顧みぬという
性質が、生まれながらに
備わっているもので、汽車の客車内で長く横に
臥ながら後からはいりきたった人に
座席を
与えぬごとき、立食の
宴会の
席で、他人を
押しのけ
突き
倒し、前にいる人の
肩の上からフォークを持った手をのばしてわずかばかりの肉を取らんとするごときは、その
最も手近な
例であるが、これに
類することはたれも自身に
経験のあることゆえ、わざわざ
掲げるにもおよばぬ。かかる
根性を持った人間が集まって社会をなしているのであるから、とうてい、
蟻や
蜂のごとき
完全な社会が
成り立つ
理屈はない。
道徳も
法律もみな人間にかかる
性質が
備わっているために
必要であり、
警察や
裁判所の
繁昌するのもみな人間にかかる
性質が
備わっているからである。もしも人間にいささかでも生まれながらにして他人の
迷惑を
顧みておのれの
欲せざるところを他人に
施さぬという
性質が
備わってあったならば、
蟻や
蜂の社会と同様な真に
協力一致して
毫も
争いのない社会ができるであろうが、
蟻や
蜂の社会のかく
完全であるのは長い年月を
経て多くの代を重ねる間に、
自然淘汰の行なわれた
結果として、
漸々発達しきたったのであるゆえ、今日の人間がにわかにかかる
境遇に
達しようと思うても、これはとうていできぬことである。
礼儀作法によって、少数の人々の間にあたかも
互いの
迷惑を
顧慮するごとき
体裁をよそおうことはあるいはできるでもあろうが、
先祖代々
遺伝しきたった
脳髄を
練りなおして、急に本来の
性質を
改めることはとうてい
不可能であるゆえ、まず当分の間は、他人の
迷惑を
顧みぬという人間の
性質はなおらぬものとみなしておくほかにいたし方はない。ひっきょう人心が
堕落したとか、
世道が
廃頽したとかいうのは、ただ人間のこの
性質を表面に
現わす
程度が、
従来よりもなおいっそうはげしくなってきたというに
過ぎぬ。今日まで人間が、他人の
迷惑を
顧みぬという本来の
性質をある
程度まで
押さえ
隠して
現わさぬのは、全く社会の
制度に
基づくことゆえ、もし社会の
制度に
不備の点があったならば、この
性質はたちまちはげしく
現われいでざるをえない。
英国のある
政治家の言うた言葉に「
政治の
要は
容易に悪をなしがたき社会を
造るにあり」とあるが、人間のこの
性質がとうていなおらぬものと定まった
以上は、社会の
制度のほうを
充分に研究して、その
欠点を調べ、もしなし
得べくば、これを
改めて人間のこの
性質のはげしく
現われえぬような社会を
造らんとつとめるほかに道はないであろう。
今日の社会は新たにあつらえて
造ったものではなく、
太古野蛮時代から
漸々進歩し
変遷してでき上ったのであるゆえ、その
現在の
制度の中には、
太古野蛮時代からの
遺風として
存する
不条理なものも決して少なくはない。これはあたかも人間の身体に
尾の
骨や
尾を
働かす
筋肉のなお
存しているのと同じで、もとより
当然のことであるが、その中には、全く
無害なものもあり、大いに
趣味あるものもある。しかしまたはなはだ
有害であろうと思われるものもある。
特に
財産に
関する
制度の中には、
社会的生活に
不適当であり、したがって
世道人心にとってたしかに
有害であるとわれらの
信ずるものが一つある。
われらは決して
現今の
財産制度をことごとく
有害と考えるのではない。他人の
迷惑を
顧みぬ人間が集まって、
財産を
共有することのできぬは見やすい
理であるゆえ、
各個人が
財産を
私有すべきはもとより
当然なことである。わずかに三四名の同業者が
連合して商売を始めても、
利益を等分に取ることにすれば、多く
働いた者は
損というような考えが生じて、たちまち
紛紜が起こるくらいであるゆえ、何百万、何千万の人が
財産を
共有にするなどとは
夢にもできることでない。また人に
賢愚強弱の
別がある
以上は、
各個の
財産にも
貧富の
別あるべきはもとより
当然である。
働いた者が
富み、
怠けた者が
貧乏し、
賢い者がだましてもうけ、
愚かなる者がだまされて
損し、
若い時に
苦労した者が
老後を
安楽に
暮らし、
若い時に
道楽をした者が
老後に
困窮して
暮らすのは
自然のことであるゆえ、たれもこれに対して
不服を
唱えることはできぬ。また
各個人が
財産を
私有する
以上は親が
財産を子に
譲ることももとより
当然である。親と子とは身体こそ
離れてはいるが、同一の生命の
引続きともいうべきものゆえ、たとい
愚かな息子が親の一生かかってためた
財産を
譲られたとて、他人がかれこれいうべき
筋は少しもない。他の動物の中にも親が
私有の
財産を子に
譲るものはいくらもある。
今日の
財産制度の中で、
社会的生活に
適せず、したがって人心
堕落の
原因となるものはただ土地、物品、
金銭等を
貸して
個人が
利子を取るという
制度である。これも
単に
一個人について考えてみると、
別に
不正なことであるとは言われぬが、その社会全体におよぼす
影響を調べてみると、すこぶる
有害なものであることは
争われぬ。物を
貸して
個人が
利を取るという
制度の行なわれている上は、ある
手段によって一定
額以上の
財産をえた者は、もはや少しも
働かずに
贅沢に
暮らしてゆくことができるが、一社会の中に遊んでいながら他人の
造った米を食い、他人の
織った
衣服を着て、他人よりも
贅沢に
暮らしている者の
存することは、その社会のために
有益であるや
否やすこぶる
疑わしい。
特にその者の
一生涯のみならず
子孫代代、
未来永劫まで遊んで
贅沢に
暮らせるというにいたっては、実に何と
評してよろしいかわからぬ。またかように
財産を有する者らがなお
働いたならばいかに
成り行くかというに、その
結果は今日
実際に見るとおり、
富者はますます
富み、
貧者はますます
貧乏し、一方には遊んでいながら
贅沢のありたけをつくす者が生ずると同時に、他方には日夜休まずにかせぎつづけても
飯の食えぬ者が
無数に生ずる。社会がかような
状態になっては、
世道の
廃頽し、人心の
堕落するはもとより
避くべからざることである。
池や湖でも軽い
塵は表面に
浮かび、重い
埃は
底に
沈んで、つねに
最上層の水と
最下層の水とがもっとも
不潔であると同様に、人間の社会においてももっとも
堕落するものはいつも
最上層の
富者と
最下層の
貧者とであって、
世道の
廃頽はまずこの
二層から始まり、
漸次社会
一般に
移り広まるのである。
特におのれよりもなおいっそう上に
位する者にならおうとするは人間の
通性であって、上の
好むところは下でただちに
真似するゆえ、
上層の
堕落は
暫時のうちに社会全部を
堕落せしめるにいたる。人は今日の世の中を黄金
万能の世と
呼ぶが、
実際そのとおりで、黄金さえあればずいぶん
不正なことをしても社会の
制裁をまぬがれることがあり、
代議士や新聞や
博徒などを
買収して、
無理にも自分の思うことを
押し通して実行することもできる。かかるありさまを
眼の前に見ている世間
一般の人間が、黄金を
渇望し、いかなる
手段によってでも黄金をえんともがき
狂うは、
人情の弱点としてやむをえない。ただでさえ人口
増加のために
次第に
困難になりゆく生活が、
富者がますます
富む
結果として、さらに
速かに
困難となり、
富者の
贅沢を目の前に見て、知らずしらず
借金をしてまで表面を
飾る
風俗が生じ、
衣食の足らざるために
礼節をかえりみるべき
余地がなくなって、ついに
道義は地に落ちるのである。
近来
驕奢のふうの
盛んになったことはあまねく人の知るところであるが、これが
上層の
富者より起こり始まったものであることはたれも
疑わぬところであろう。また男女間の
風儀も
堕落したというが、学校の
教師がしたならばたちまち
免職になるべきことでも、
富豪もしくは、これに
関係ある有力者がすれば何らの
制裁をも受けぬのみならず、新聞紙上に
風流韻事として
伝えられ、世人はただこれをうらやむばかりである。その他、近ごろ世人の
射倖心の
盛んになったことも
驚くべきほどであるが、これもその
原因を
尋ねれば、世に遊びながら
贅沢をつくし
得る
境遇の人があるゆえである。人は
勤勉力行によって
富は
得られるというが、
勤勉力行によらずして、
勤勉力行によって
得べきより
以上の
富を有する人がある
以上は、
人情のつねとして正直に
勤勉力行するを
愚なるがごとく感じ、
一掴千金の
手段を考えざるをえぬゆえ、今日のごとく
富籤が流行し、
相場が
盛んに行なわれ、
工芸の
奨励を
目的とする
博覧会の入場
券にも
富籤をつけ、学校
生徒の用いる字引の書物にまで福引
券を
添えて売り出すにいたるのである。かような
類は数え始めたならば実に
際限がないゆえ、ここに
列挙することを
略するが、
以上述べたごとく今日の人心
堕落の
原因は、主として
富者がますます
富み、
貧者がますます
貧乏になるような
制度が
存するのによると
断言さぜるをえない。
しからば今日の人心
堕落と、
物質的文明の進歩との間には、何らの
関係もないかというに、全く
関係がないとはいわれぬ。しかし、その
関係は決して
原因と
結果との
関係ではない。元来
物質的文明なるものは、
便利を
増すために人の苦心し研究した
結果であるゆえ、何ごとをもいちじるしく
速かにするものである。たとえば昔歩いて一ヵ月かかって旅行したところも、今日では汽車に乗って一日で行ける。昔一日かかって手で細工した物も今日では
機械を用いて一時間に
製造する。かくのごとく
物質的文明なるものは、万事はなはだしく時を
縮めるものゆえ、
財産制度に
不備の点がある場合には、その
悪結果の
現われるまでに
要する時日をいちじるしく
短縮する。土地、物品、
金銭を
貸して
個人が
利子を取るという
制度が
存する
以上は、その
自然の
結果として、
富者がますます
富み、
貧者がますます
貧乏することはとうていまぬがれぬゆえ、たとい
物質的文明が進まなくても、いつか一度は
世道人心にいちじるしい
悪影響をおよぼす時期がくるには
違いないが、
物質的文明が進歩すれば、この
変化の速力をはげしく
増し、たちまちにして少数の
最富者と
無数の
最貧者とを生じて、人心の
堕落がいちじるしく
現われるゆえ、あたかも
物質的文明が進んだ
結果としてただちに人心が
堕落するごとくに見えるのである。これを物にたとえて言えば、あたかも
線香に火を点じて
吹いているようなもので、
線香に火を点じた
以上は、拾てておいても終わりまで
燃えつくさねばやまぬものであるが、
側からこれを
吹けば、さらにいっそう
速かに
燃えつくすというに
過ぎぬ。
しからば
物質的文明を一時見合わせて、せめては人心
堕落の速力を少しくゆるめてはいかがという
論が出るかもしれぬ。
現に
物質的文明の進歩をもって
世道廃頽の
原因と
誤り見なす人々は「
自然に帰れ」などと
叫んで、
現代の文明を
呪いののしっているが、これはとうてい行なわれぬのみならず、国力
発展の上にすこぶる
有害な
議論である。そもそも
物質的文明なるものは、今日の世の中における国家
存立の
必要な
条件で、これを
退けては
生存がおぼつかないゆえ、
一刻でもその進歩をとめることはできぬ。もしも地球上に国がただ一つよりなかったならば、その場合には
物質的文明を進めるも
廃するも
随意であろうが、多数の国が
互いににらみ合うて対立している
現世では、
物質的文明をとめることはすなわち
滅びることにあたるのである。今日の
戦いは決して
大和魂のみではできぬ。
敵と味方との
愛国心の度がほぼ相等しいときには、一歩でも先へ文明の進んでいるほうが勝つ
機会が多い。
国際公法がいかほど研究せられても、万国平和
会議が何回開かれても、また
各国の
元首が打ちそろうて「列国間の
関係が今日ほどに
円満なりしことはかつてなし」と
乾盃辞を
繰り返して
述べても、強い国の強く、弱い国の弱いことは
変らぬゆえ、その間に
戦争の起こった場合には、
必ず
狼と羊との間の
争いと同様の
結果に終わるべきはもちろんである。さればいやしくも
自己の
属する
民族の
維持発展をねがう者は、今日の世の中では
一刻も
物質的文明の進歩を休めて安心してはおられぬものと
覚悟せねばならぬ。他国で十里走る
飛行船を
造ったら、わが国では三十里走る
飛行船を
造り、他国で三日間水中をもぐる
潜航艇を
造ったら、わが国では十日間水中をもぐる
潜航艇を
造るくらいの
心掛けをもって、
軍事に
限らずすべて他の方面にも
物質的文明を進めてゆかねば、今日の
劇烈な
競争場裡に
優者の
位地を
保つことはできぬ。
特にわが国のごとき、
物質的文明においてははるかに他の数国に
劣っている国で、早くも
物質的文明を
呪う者のあることは、
将来の国運進歩に対し、まことに
憂うべきことであろう。
物質的文明に進むことは国の
存立上
避くべからざることであるとすれば、今日のごとき土地、物品、
金銭を
貸して
個人が
利子を取るという
制度の
存する間は、
富者はたちまち
富み、
貧者はますます
貧しくなり、したがって人心が
堕落し、
世道が
廃頽することはとうていまぬがれぬとして
我慢するほかはない。およそいかなることでも
原因を元のままに
存せしめおいて、
結果のみを
除き去ろうとするのは、
労多くして
効のまことに少ないことである。かく考えて、今日世に行なわれている
救済の
方法を見ると、いずれもみなはなはだ
姑息なものばかりで、その
効力の
僅少なるべきはもとより
当然である。学校教育においては
特に
訓育に重きをおくと
称して、
品性を
陶冶するとか、
人格を高めるとかやかましく言うてはいるが「
論より
証拠」という
諺もあるとおり、
議論よりは
実例のほうが人心に深い
印象を
与えるものゆえ、
不正なことをしても何の
制裁をも受けず、はなはだしい
不品行なことをしても世間から
尊敬せられている者の
実例をつねに
眼の前に見ている
生徒らに対して、
倫理の
講義のあまり
有効ならざるは言うまでもない。いかに第一流の学者が集まって、わが
将来の
徳育の
方針いかんと
論じても、いかにくわしく
孔子の道と
老子の道との
異同を知り、
山鹿素行の
倫理説と
伊藤仁斎の
倫理説とを
比較しうる
良教員を
各学校に
配布しても、品行を
慎まざる
富者および有力者を社会の
上位に立たしめおく
制度の
存する間は、
訓育上の
好結果を
得べき
望みは実に少ない。また
勤倹貯蓄の
奨励を
試みても、ただ
勤倹貯蓄のみによっては、
一生涯かかってもとうていわずかな
財産より
造ることはできず、今日
莫大な
財産を所有している人々は、いずれも
勤倹貯蓄以外のある
方法にて
富をえたことを世人が
承知しているゆえ、やはり
一掴千金の道のみを
求め、
投機事業や
不正な計画に
熱中する
輩が
跡を
絶たぬ。あるいは
宗教によって
浮世の
利欲をあきらめしめ、他人はいかに
贅沢に
暮らし、いかに世人から
尊敬せられていようが、自分のみは
清貧に安んじ、世間
以外に安心を
求めるように
導こうとしても、これまたはなはだ
困難である。一人二人をして
暫時かくあきらめしめることはあるいはできるかもしれぬが、
国民全体をかようにあきらめしめて、
風俗を
改めるなどとは、今日の
宗教家の力ではむろん
不可能である。
以上述べたごとく、今日
各方面から人心の
堕落、
世道の
廃頽を
矯正せんと力をつくしているにかかわらず、
風俗の
依然として
改まらず、かつなお
堕落せんとする
傾きの見えるのは、とりもなおさず、人心
堕落の真の
原因が、なお
依然として
存している
証拠である。今日行なわれている
各種の
矯正の
方法は、一として人心
堕落の真の
原因を
除くに
有効なものはないゆえ、その
絶えず
熱心に行なわれているにかかわらず、世の
風俗は
毫も
改まらぬ。
原因を元のままに
存せしめおいて、
結果のみを
除こうとするのは、あたかも
樹木の根に
肥料を
与えながら、
梢の
末端を
摘み取っているようなもので、たとい一時
若干の者をすくいえたりとするも、とうてい
根本的に
風俗を
改めうる
望みはない。
またすでに
堕落した者や
貧困におちいった者を助けるためには、今日多くの
養育院、
感化院もあり、
慈善会なども開かれるが、これはもとよりきわめて
結構なことである。目前に水に
溺れる者を見た場合に、なにゆえに水にはいったかというて、その
溺れるにいたった理由などを聞きただす
暇はない。理由に
関する
議論などは
捨てておいて、まずその者を
救うことが
必要である。それゆえ、今日行なわれているごとき
救助の
方法ももとより
肝要なこととして
奨励しなければならぬが、毎日多数の
堕落者を生ぜしむべき
原因が社会の
制度の中に
存する間は、かかる
方法のみではとうてい
救助しつくせるものではない。今日多数の
堕落者の生ずるありさまは、あたかも中央のこわれ落ちた橋へ
無数の
群衆が
押しかけてきて、先の
危険なことは知らずに、後から
無暗におしているごとくであるゆえ、落ちた者を
救うと同時に、後からおす者を
制止することが
必要である。
単に落ちた者のみを
救うていたのでは、一人を
救う間には三人落ち、三人を助ける間には九人落ちて、とうてい手がまわらぬ。されば今日の
慈善事業の
結構なることはもとより
論を待たぬが、これによって世の
風俗を
改良しようとすることは、すこぶる
望みの少ないように思われる。
以上述べたとおり、世の
論者が文明の
弊と見なすものは決して
物質的文明の進んだために生じた
結果ではなく、その真の
原因は
別に他に
存するのである。今日文明の
弊なりと
称せられる人心の
堕落、
世道の
廃頽に対して、
種々の
異なった方面から、できるだけ力をつくして
矯正をつとめていても、かろうじて一時
若干の
個人を
救いうるのみで、社会
一般の
風俗を
改めることは少しも
効能がないのは、すなわち今日行なわれている
矯正の
方法がすべて、人心
堕落の真の
原因とは何らの
交渉もない
証拠であろう。
世俗を
善良ならしめんとつとめることは、いつの世でもいかなるところでも、まことに
結構なことゆえ、
従来行なわれているごとき
方法も、ますます
盛んにすべきではあるが、真の
原因が他に
依然として
存する間は、その
効力は一定のきわめて
狭い
範囲以外にいづることができぬものなるを
初めから
承知しておらねばならぬ。
特に今後は
物質的文明が
従来に
比してなお数倍の速力をもって進むであろうと思われるから、人心の
堕落を
防止することは今日よりもいっそう
困難になり、
矯正事業や
慈善事業の
効力を買いかぶっている人は、つねに
失望におちいるに
違いない。しかしてこれを見て
罪を
物質的文明の進歩に負わせる
論者が、なお
絶えず
続出するであろう。
終わりにことわっておくべきことは、われらは人間の
財産に
関する学問などを
修めたことは全くないゆえ、これに
関する
知識は
皆無である。したがって
野蛮時代から今日までに
自然に
発達しきたった
利子を
私有する
制度をあらためて、
利子を取ることを国家の
特権とするごとき
変化が、にわかにできうべきことか
否かはまったく知らぬ。またかりに
改めうべきものであるとしたところで、これを実行したあかつきに、今日
以上に人心を
堕落せしむべき新たな
事情が生ずることがなきや
否や、これもまったく知らぬ。また
現今の
制度をそのままに
据えおいて、ただその悪
結果のみを
除きうべき
不思議の
妙案がなかるべきものか
否か、これもまったく知らぬ。われらはただ他の
社会的動物の生活
状態に
比較して、今日の人心
堕落の
原因は、主として
富者をしてますます
富ならしめ、
貧者をしてますます
貧ならしめ、遊んで
贅沢に
暮らせる者と、かせいでも生活の立ちかねる者とを社会の中に生ぜしめる
現今の
財産制度の
欠点に
存すると
信ぜざるをえず、したがって
世道の
廃頽をもって
物質的文明の進歩せる
結果と見なすごときは、
原因を取り
誤れるすこぶる見当
違いの
議論であり、かかる
論の広く世に行なわれることは、わが
民族の
将来に対してたしかに
不利益であると考えるがゆえに、ここにその
大略を
述べたのみである。
(明治四十一年十一月)