所謂「文明の弊」の源

丘浅次郎




 近ごろの新聞や雑誌ざっしには文明のへいろんじたものがだいぶ見える。物質的ぶっしつてき文明が進んだために世道が廃頽はいたいしたとか、二十世紀せいきの文明は人をして野獣やじゅうたらしめざればやまぬとかいうて、いずれも今日の人心の堕落だらくをもって、文明の進んだために生じた直接ちょくせつ結果けっかであるごとくに見なしているが、これに反対した議論ぎろんが一つも出ぬところを見ると、おそらくかかる考えは新聞や雑誌ざっしに筆をる人々の間に一般いっぱんそんするものと思われる。われらの見るところは大いにこれとことなるゆえ、こころみにその大要たいようをここにべてみよう。もしも、それが真に世をうれうる人々の参考さんこうともならばはなはだ仕合わせである。
 現今げんこん世道せどうのすたれ人心の堕落だらくしていることは目前のたしかな事実で、わが国の将来しょうらいを考えると実に憂慮ゆうりょえぬ次第しだいである。世道せどうとか人心とか、品性ひんせいとか人格じんかくとかいう議論ぎろんのやかましいのは、みな世の堕落だらくしている証拠しょうこで、まことになさけないことではあるが、また一面にはこの堕落だらくうれうる人のなお多少世にそんするしるしと見なせば、いささか心強いごとき感じも生ずる。しかしながらおよそ一のへいあらためようとするには、まずそのよって起こる真の原因げんいんをきわめて、これをのぞくことをはからねばならぬ。もしもその原因げんいんをきわめることをゆるがせにし、真の原因げんいんでもないものを原因げんいんであるかのごとくに思いあやまり、これをもととして矯正きょうせい方法ほうほうこうずるごときことがあったならば、その結果けっかはただ世をえきせぬのみならず、あるいは民族みんぞく発展はってんの上に取り返しのつかぬ妨害ほうがいを生ずることがないともかぎらぬ。
 今日多数の論者ろんじゃが、人心の堕落だらくをもって物質的ぶっしつてき文明の進んだ結果けっかとみなす理由は何であるかとたずねると、たんにわが国では維新いしん以後いご物質的ぶっしつてき文明の進歩したと同時に人心も堕落だらくしたというだけにとどまって、ただ時が相重なり合うているというのにぎぬ。同時に起こる事柄ことがらの中には、おたがいに原因げんいん結果けっか関係かんけいのあるものもあれば、またかかる関係かんけいの全くないものもあるは明らかなことゆえ、たんに同時に起こったという理由だけで、一を原因げんいんと見なし一を結果けっかとみなすのはすこぶる軽率けいそつ議論ぎろんである。物質的ぶっしつてき文明の進歩をもって人心堕落だらく原因げんいんとみなすのは、すなわちかかる軽率けいそつ皮相的ひそうてき観察かんさつであるゆえ、われらはとうていこれを承認しょうにんすることはできぬ。とくにわが国のごとき、維新いしん以来いらい西洋の文明を急いで輸入ゆにゅうすることをつとめたとはいえ、いまだ顕微鏡けんびきょう一つ満足まんぞくにはつくられず、茶や生絹ききぬのごとき天産物てんさんぶつ輸出ゆしゅつして機械きかいその他の人造品を輸入ゆにゅうし、首府しゅふに下水の設備せつびさえ行きとどいていないところで、物質的ぶっしつてき文明が進歩しているとはいかにも言いがたいことであり、また維新いしん以前いぜんとても今日と同様に賄賂わいろも行なわれ、淫風いんぷうさかんであって、人心はすでに相応そうおう堕落だらくしていたのであるから、今ごろになって、急に思いついたかのごとくに文明のへいろんずるのはいよいよ取るに足らぬことである。真に今日の堕落だらくすくわんとこころざす人は、さらにいっそう深くかつ緻密ちみつに研究して、終極しゅうきょく原因げんいんまでさぐりもとめ、根本よりあらためることをはからねばならぬ。
 しからばいわゆる文明のへいなるものの真の原因げんいんは何にそんするかというに、われらの考えによれば主として社会の制度せいどとく財産ざいさんかんする制度せいど欠点けってんがあるによるのである。元来人間には他人の迷惑めいわくは少しもかえりみぬという性質せいしつが、生まれながらにそなわっているもので、汽車の客車内で長く横にながら後からはいりきたった人に座席ざせきあたえぬごとき、立食の宴会えんかいせきで、他人をしのけたおし、前にいる人のかたの上からフォークを持った手をのばしてわずかばかりの肉を取らんとするごときは、そのもっとも手近なれいであるが、これにるいすることはたれも自身に経験けいけんのあることゆえ、わざわざげるにもおよばぬ。かかる根性こんじょうを持った人間が集まって社会をなしているのであるから、とうてい、ありはちのごとき完全かんぜんな社会がり立つ理屈りくつはない。道徳どうとく法律ほうりつもみな人間にかかる性質せいしつそなわっているために必要ひつようであり、警察けいさつ裁判所さいばんしょ繁昌はんじょうするのもみな人間にかかる性質せいしつそなわっているからである。もしも人間にいささかでも生まれながらにして他人の迷惑めいわくかえりみておのれのよくせざるところを他人にほどこさぬという性質せいしつそなわってあったならば、ありはちの社会と同様な真に協力きょうりょく一致いっちしてごうあらそいのない社会ができるであろうが、ありはちの社会のかく完全かんぜんであるのは長い年月をて多くの代を重ねる間に、自然しぜん淘汰とうたの行なわれた結果けっかとして、漸々ぜんぜん発達はったつしきたったのであるゆえ、今日の人間がにわかにかかる境遇きょうぐうたつしようと思うても、これはとうていできぬことである。礼儀れいぎ作法さほうによって、少数の人々の間にあたかもおたがいの迷惑めいわく顧慮こりょするごとき体裁ていさいをよそおうことはあるいはできるでもあろうが、先祖せんぞ代々遺伝いでんしきたった脳髄のうずいりなおして、急に本来の性質せいしつあらためることはとうてい不可能ふかのうであるゆえ、まず当分の間は、他人の迷惑めいわくかえりみぬという人間の性質せいしつはなおらぬものとみなしておくほかにいたし方はない。ひっきょう人心が堕落だらくしたとか、世道せどう廃頽はいたいしたとかいうのは、ただ人間のこの性質せいしつを表面にあらわす程度ていどが、従来じゅうらいよりもなおいっそうはげしくなってきたというにぎぬ。今日まで人間が、他人の迷惑めいわくかえりみぬという本来の性質せいしつをある程度ていどまでさえかくしてあらわさぬのは、全く社会の制度せいどもとづくことゆえ、もし社会の制度せいど不備ふびの点があったならば、この性質せいしつはたちまちはげしくあらわれいでざるをえない。英国えいこくのある政治家せいじかの言うた言葉に「政治せいじかなめ容易よういに悪をなしがたき社会をつくるにあり」とあるが、人間のこの性質せいしつがとうていなおらぬものと定まった以上いじょうは、社会の制度せいどのほうを充分じゅうぶんに研究して、その欠点けってんを調べ、もしなしえるべくば、これをあらためて人間のこの性質せいしつのはげしくあらわれえぬような社会をつくらんとつとめるほかに道はないであろう。
 今日の社会は新たにあつらえてつくったものではなく、太古たいこ野蛮やばん時代から漸々ぜんぜん進歩し変遷へんせんしてでき上ったのであるゆえ、その現在げんざい制度せいどの中には、太古たいこ野蛮やばん時代からの遺風いふうとしてそんする不条理ふじょうりなものも決して少なくはない。これはあたかも人間の身体にほねはたらかす筋肉きんにくのなおそんしているのと同じで、もとより当然とうぜんのことであるが、その中には、全く無害むがいなものもあり、大いに趣味しゅみあるものもある。しかしまたはなはだ有害ゆうがいであろうと思われるものもある。とく財産ざいさんかんする制度せいどの中には、社会的しゃかいてき生活に不適当ふてきとうであり、したがって世道せどう人心にとってたしかに有害ゆうがいであるとわれらのしんずるものが一つある。
 われらは決して現今げんこん財産ざいさん制度せいどをことごとく有害ゆうがいと考えるのではない。他人の迷惑めいわくかえりみぬ人間が集まって、財産ざいさん共有きょうゆうすることのできぬは見やすいことわりであるゆえ、各個人かくこじん財産ざいさん私有しゆうすべきはもとより当然とうぜんなことである。わずかに三四名の同業者が連合れんごうして商売を始めても、利益りえきを等分に取ることにすれば、多くはたらいた者はそんというような考えが生じて、たちまち紛紜ふんうんが起こるくらいであるゆえ、何百万、何千万の人が財産ざいさん共有きょうゆうにするなどとはゆめにもできることでない。また人に賢愚けんぐ強弱のべつがある以上いじょうは、各個かくこ財産ざいさんにも貧富ひんぷべつあるべきはもとより当然とうぜんである。はたらいた者がみ、なまけた者が貧乏びんぼうし、えらい者がだましてもうけ、おろかなる者がだまされてそんし、わかい時に苦労くろうした者が老後ろうご安楽あんらくらし、わかい時に道楽どうらくをした者が老後ろうご困窮こんきゅうしてらすのは自然しぜんのことであるゆえ、たれもこれに対して不服ふふくとなえることはできぬ。また各個人かくこじん財産ざいさん私有しゆうする以上いじょうは親が財産ざいさんを子にゆずることももとより当然とうぜんである。親と子とは身体こそはなれてはいるが、同一の生命の引続ひきつづきともいうべきものゆえ、たといおろかな息子が親の一生かかってためた財産ざいさんゆずられたとて、他人がかれこれいうべきすじは少しもない。他の動物の中にも親が私有しゆう財産ざいさんを子にゆずるものはいくらもある。
 今日の財産ざいさん制度せいどの中で、社会的しゃかいてき生活にてきせず、したがって人心堕落だらく原因げんいんとなるものはただ土地、物品、金銭きんせん等をして個人こじん利子りしを取るという制度せいどである。これもたん一個人いちこじんについて考えてみると、べつ不正ふせいなことであるとは言われぬが、その社会全体におよぼす影響えいきょうを調べてみると、すこぶる有害ゆうがいなものであることはあらそわれぬ。物をして個人こじんを取るという制度せいどの行なわれている上は、ある手段しゅだんによって一定がく以上いじょう財産ざいさんをえた者は、もはや少しもはたらかずに贅沢ぜいたくらしてゆくことができるが、一社会の中に遊んでいながら他人のつくった米を食い、他人のった衣服いふくを着て、他人よりも贅沢ぜいたくらしている者のそんすることは、その社会のために有益ゆうえきであるやいなやすこぶるうたがわしい。とくにその者の一生涯いっしょうがいのみならず子孫しそん代代、未来みらい永劫えいごうまで遊んで贅沢ぜいたくらせるというにいたっては、実に何とひょうしてよろしいかわからぬ。またかように財産ざいさんを有する者らがなおはたらいたならばいかにり行くかというに、その結果けっかは今日実際じっさいに見るとおり、富者ふしゃはますますみ、貧者ひんしゃはますます貧乏びんぼうし、一方には遊んでいながら贅沢ぜいたくのありたけをつくす者が生ずると同時に、他方には日夜休まずにかせぎつづけてもめしの食えぬ者が無数むすうに生ずる。社会がかような状態じょうたいになっては、世道せどう廃頽はいたいし、人心の堕落だらくするはもとよりくべからざることである。
 池や湖でも軽いちりは表面にかび、重いほこりそこしずんで、つねに最上層さいじょうそうの水と最下層さいかそうの水とがもっとも不潔ふけつであると同様に、人間の社会においてももっとも堕落だらくするものはいつも最上層さいじょうそう富者ふしゃ最下層さいかそう貧者ひんしゃとであって、世道せどう廃頽はいたいはまずこの二層にそうから始まり、漸次ぜんじ社会一般いっぱんうつり広まるのである。とくにおのれよりもなおいっそう上にくらいする者にならおうとするは人間の通性つうせいであって、上のこのむところは下でただちに真似まねするゆえ、上層じょうそう堕落だらく暫時ざんじのうちに社会全部を堕落だらくせしめるにいたる。人は今日の世の中を黄金万能ばんのうの世とぶが、実際じっさいそのとおりで、黄金さえあればずいぶん不正ふせいなことをしても社会の制裁せいさいをまぬがれることがあり、代議士だいぎしや新聞や博徒ばくとなどを買収ばいしゅうして、無理むりにも自分の思うことをし通して実行することもできる。かかるありさまをの前に見ている世間一般いっぱんの人間が、黄金を渇望かつぼうし、いかなる手段しゅだんによってでも黄金をえんともがきくるうは、人情にんじょうの弱点としてやむをえない。ただでさえ人口増加ぞうかのために次第しだい困難こんなんになりゆく生活が、富者ふしゃがますます結果けっかとして、さらにすみやかに困難こんなんとなり、富者ふしゃ贅沢ぜいたくを目の前に見て、知らずしらず借金しゃっきんをしてまで表面をかざ風俗ふうぞくが生じ、衣食いしょくの足らざるために礼節れいせつをかえりみるべき余地よちがなくなって、ついに道義どうぎは地に落ちるのである。
 近来驕奢きようしやのふうのさかんになったことはあまねく人の知るところであるが、これが上層じょうそう富者ふしゃより起こり始まったものであることはたれもうたがわぬところであろう。また男女間の風儀ふうぎ堕落だらくしたというが、学校の教師きょうしがしたならばたちまち免職めんしょくになるべきことでも、富豪ふごうもしくは、これに関係かんけいある有力者がすれば何らの制裁せいさいをも受けぬのみならず、新聞紙上に風流ふうりゅう韻事いんじとしてつたえられ、世人はただこれをうらやむばかりである。その他、近ごろ世人の射倖心しやこうしんさかんになったこともおどろくべきほどであるが、これもその原因げんいんたずねれば、世に遊びながら贅沢ぜいたくをつくし境遇きょうぐうの人があるゆえである。人は勤勉きんべん力行りっこうによってとみられるというが、勤勉きんべん力行りっこうによらずして、勤勉きんべん力行りっこうによってえるべきより以上いじょうとみを有する人がある以上いじょうは、人情にんじょうのつねとして正直に勤勉きんべん力行りっこうするをおろなるがごとく感じ、一掴いっかく千金せんきん手段しゅだんを考えざるをえぬゆえ、今日のごとく富籤とみくじが流行し、相場そうばさかんに行なわれ、工芸こうげい奨励しょうれい目的もくてきとする博覧会はくらんかいの入場けんにも富籤とみくじをつけ、学校生徒せいとの用いる字引の書物にまで福引けんえて売り出すにいたるのである。かようなるいは数え始めたならば実に際限さいげんがないゆえ、ここに列挙れっきょすることをりゃくするが、以上いじょうべたごとく今日の人心堕落だらく原因げんいんは、主として富者ふしゃがますますみ、貧者ひんしゃがますます貧乏びんぼうになるような制度せいどそんするのによると断言だんげんさぜるをえない。
 しからば今日の人心堕落だらくと、物質的ぶっしつてき文明の進歩との間には、何らの関係かんけいもないかというに、全く関係かんけいがないとはいわれぬ。しかし、その関係かんけいは決して原因げんいん結果けっかとの関係かんけいではない。元来物質的ぶっしつてき文明なるものは、便利べんりすために人の苦心し研究した結果けっかであるゆえ、何ごとをもいちじるしくすみやかにするものである。たとえば昔歩いて一ヵ月かかって旅行したところも、今日では汽車に乗って一日で行ける。昔一日かかって手で細工した物も今日では機械きかいを用いて一時間に製造せいぞうする。かくのごとく物質的ぶっしつてき文明なるものは、万事はなはだしく時をちじめるものゆえ、財産ざいさん制度せいど不備ふびの点がある場合には、そのあく結果けっかあらわれるまでにようする時日をいちじるしく短縮たんしゅくする。土地、物品、金銭きんせんして個人こじん利子りしを取るという制度せいどそんする以上いじょうは、その自然しぜん結果けっかとして、富者ふしゃがますますみ、貧者ひんしゃがますます貧乏びんぼうすることはとうていまぬがれぬゆえ、たとい物質的ぶっしつてき文明が進まなくても、いつか一度は世道せどう人心にいちじるしいあく影響えいきょうをおよぼす時期がくるにはちがいないが、物質的ぶっしつてき文明が進歩すれば、この変化へんかの速力をはげしくし、たちまちにして少数の最富者さいふしゃ無数むすう最貧者さいひんしゃとを生じて、人心の堕落だらくがいちじるしくあらわれるゆえ、あたかも物質的ぶっしつてき文明が進んだ結果けっかとしてただちに人心が堕落だらくするごとくに見えるのである。これを物にたとえて言えば、あたかも線香せんこうに火を点じていているようなもので、線香せんこうに火を点じた以上いじょうは、拾てておいても終わりまでえつくさねばやまぬものであるが、そばからこれをけば、さらにいっそうすみやかにえつくすというにぎぬ。
 しからば物質的ぶっしつてき文明を一時見合わせて、せめては人心堕落だらくの速力を少しくゆるめてはいかがというろんが出るかもしれぬ。げん物質的ぶっしつてき文明の進歩をもって世道せどう廃頽はいたい原因げんいんあやまり見なす人々は「自然しぜんに帰れ」などとさけんで、現代げんだいの文明をのろいののしっているが、これはとうてい行なわれぬのみならず、国力発展はってんの上にすこぶる有害ゆうがい議論ぎろんである。そもそも物質的ぶっしつてき文明なるものは、今日の世の中における国家存立そんりつ必要ひつよう条件じょうけんで、これを退しりぞけては生存せいぞんがおぼつかないゆえ、一刻いっこくでもその進歩をとめることはできぬ。もしも地球上に国がただ一つよりなかったならば、その場合には物質的ぶっしつてき文明を進めるもはいするも随意ずいいであろうが、多数の国がたがいににらみ合うて対立している現世げんせでは、物質的ぶっしつてき文明をとめることはすなわちほろびることにあたるのである。今日のたたかいは決して大和やまとたましいのみではできぬ。てきと味方との愛国心あいこくしんの度がほぼ相等しいときには、一歩でも先へ文明の進んでいるほうが勝つ機会きかいが多い。国際こくさい公法こうほうがいかほど研究せられても、万国平和会議かいぎが何回開かれても、また各国かくこく元首げんしゅが打ちそろうて「列国間の関係かんけいが今日ほどに円満えんまんなりしことはかつてなし」と乾盃かんぱいくりり返してべても、強い国の強く、弱い国の弱いことはかわらぬゆえ、その間に戦争せんそうの起こった場合には、かならおおかみと羊との間のあらそいと同様の結果けっかに終わるべきはもちろんである。さればいやしくも自己じこぞくする民族みんぞく維持いじ発展はってんをねがう者は、今日の世の中では一刻いっこく物質的ぶっしつてき文明の進歩を休めて安心してはおられぬものと覚悟かくごせねばならぬ。他国で十里走る飛行船ひこうせんつくったら、わが国では三十里走る飛行船ひこうせんつくり、他国で三日間水中をもぐる潜航艇せんすいていつくったら、わが国では十日間水中をもぐる潜航艇せんすいていつくるくらいの心掛こころがけをもって、軍事ぐんじかぎらずすべて他の方面にも物質的ぶっしつてき文明を進めてゆかねば、今日の劇烈げきれつ競争きょうそう場裡じょうり優者ゆうしゃ位地いちたもつことはできぬ。とくにわが国のごとき、物質的ぶっしつてき文明においてははるかに他の数国におとっている国で、早くも物質的ぶっしつてき文明をのろう者のあることは、将来しょうらいの国運進歩に対し、まことにうれうべきことであろう。
 物質的ぶっしつてき文明に進むことは国の存立そんりつくべからざることであるとすれば、今日のごとき土地、物品、金銭きんせんして個人こじん利子りしを取るという制度せいどそんする間は、富者ふしゃはたちまちみ、貧者ひんしゃはますますまずしくなり、したがって人心が堕落だらくし、世道せどう廃頽はいたいすることはとうていまぬがれぬとして我慢がまんするほかはない。およそいかなることでも原因げんいんを元のままにそんせしめおいて、結果けっかのみをのぞき去ろうとするのは、ろう多くしてこうのまことに少ないことである。かく考えて、今日世に行なわれている救済きゅうさい方法ほうほうを見ると、いずれもみなはなはだ姑息こそくなものばかりで、その効力こうりょく僅少きんしょうなるべきはもとより当然とうぜんである。学校教育においてはとく訓育くんいくに重きをおくとしょうして、品性ひんせい陶冶とうやするとか、人格じんかくを高めるとかやかましく言うてはいるが「ろんより証拠しょうこ」ということわざもあるとおり、議論ぎろんよりは実例じつれいのほうが人心に深い印象いんしょうあたえるものゆえ、不正ふせいなことをしても何の制裁せいさいをも受けず、はなはだしい不品行ふひんこうなことをしても世間から尊敬そんけいせられている者の実例じつれいをつねにの前に見ている生徒せいとらに対して、倫理りんり講義こうぎのあまり有効ゆうこうならざるは言うまでもない。いかに第一流の学者が集まって、わが将来しょうらい徳育とくいく方針ほうしんいかんとろんじても、いかにくわしく孔子こうしの道と老子ろうしの道との異同いどうを知り、山鹿素行やまがそこう倫理説りんりせつ伊藤仁斎いとうじんさい倫理説りんりせつとを比較ひかくしうるりょう教員をかく学校に配布はいふしても、品行をつつしまざる富者ふしゃおよび有力者を社会の上位じょういに立たしめおく制度せいどそんする間は、訓育くんいく上の好結果こうけっかえるべきのぞみは実に少ない。また勤倹きんけん貯蓄ちょちく奨励しょうれいこころみても、ただ勤倹きんけん貯蓄ちょちくのみによっては、一生涯いっしょうがいかかってもとうていわずかな財産ざいさんよりつくることはできず、今日莫大ばくだい財産ざいさんを所有している人々は、いずれも勤倹きんけん貯蓄ちょちく以外いがいのある方法ほうほうにてとみをえたことを世人が承知しょうちしているゆえ、やはり一掴いっかく千金せんきんの道のみをもとめ、投機とうき事業や不正ふせいな計画に熱中ねっちゅうするやからあとたぬ。あるいは宗教しゅうきょうによって浮世うきよ利欲りよくをあきらめしめ、他人はいかに贅沢ぜいたくらし、いかに世人から尊敬そんけいせられていようが、自分のみは清貧せいひんに安んじ、世間以外いがいに安心をもとめるようにみちびこうとしても、これまたはなはだ困難こんなんである。一人二人をして暫時ざんじかくあきらめしめることはあるいはできるかもしれぬが、国民こくみん全体をかようにあきらめしめて、風俗ふうぞくあらためるなどとは、今日の宗教しゅうきょう家の力ではむろん不可能ふかのうである。以上いじょうべたごとく、今日各方面かくほうめんから人心の堕落だらく世道せどう廃頽はいたい矯正きょうせいせんと力をつくしているにかかわらず、風俗ふうぞく依然いぜんとしてあらたまらず、かつなお堕落だらくせんとするかたむきの見えるのは、とりもなおさず、人心堕落だらくの真の原因げんいんが、なお依然いぜんとしてそんしている証拠しょうこである。今日行なわれている各種かくしゅ矯正きょうせい方法ほうほうは、一として人心堕落だらくの真の原因げんいんのぞくに有効ゆうこうなものはないゆえ、そのえず熱心ねっしんに行なわれているにかかわらず、世の風俗ふうぞくごうあらたまらぬ。原因げんいんを元のままにそんせしめおいて、結果けっかのみをのぞこうとするのは、あたかも樹木じゅもくの根に肥料ひりょうあたえながら、こずえ末端まったんみ取っているようなもので、たとい一時若干じやつかんの者をすくいえたりとするも、とうてい根本的こんぽんてき風俗ふうぞくあらためうるのぞみはない。
 またすでに堕落だらくした者や貧困ひんこんにおちいった者を助けるためには、今日多くの養育院よういくいん感化院かんかいんもあり、慈善じぜん会なども開かれるが、これはもとよりきわめて結構けっこうなことである。目前に水におぼれる者を見た場合に、なにゆえに水にはいったかというて、そのおぼれるにいたった理由などを聞きただすひまはない。理由にかんする議論ぎろんなどはてておいて、まずその者をすくうことが必要ひつようである。それゆえ、今日行なわれているごとき救助きゅうじょ方法ほうほうももとより肝要かんようなこととして奨励しょうれいしなければならぬが、毎日多数の堕落だらく者を生ぜしむべき原因げんいんが社会の制度せいどの中にそんする間は、かかる方法ほうほうのみではとうてい救助きゅうじょしつくせるものではない。今日多数の堕落だらく者の生ずるありさまは、あたかも中央のこわれ落ちた橋へ無数むすう群衆ぐんしゅうしかけてきて、先の危険きけんなことは知らずに、後から無暗むやみにおしているごとくであるゆえ、落ちた者をすくうと同時に、後からおす者を制止せいしすることが必要ひつようである。たんに落ちた者のみをすくうていたのでは、一人をすくう間には三人落ち、三人を助ける間には九人落ちて、とうてい手がまわらぬ。されば今日の慈善じぜん事業の結構けっこうなることはもとよりろんを待たぬが、これによって世の風俗ふうぞく改良かいりょうしようとすることは、すこぶるのぞみの少ないように思われる。
 以上いじょうべたとおり、世の論者ろんじゃが文明のへいと見なすものは決して物質的ぶっしつてき文明の進んだために生じた結果けっかではなく、その真の原因げんいんべつに他にそんするのである。今日文明のへいなりとしょうせられる人心の堕落だらく世道せどう廃頽はいたいに対して、種々しゅしゅことなった方面から、できるだけ力をつくして矯正きょうせいをつとめていても、かろうじて一時若干じやつかん個人こじんすくいうるのみで、社会一般いっぱん風俗ふうぞくあらためることは少しも効能こうのうがないのは、すなわち今日行なわれている矯正きょうせい方法ほうほうがすべて、人心堕落だらくの真の原因げんいんとは何らの交渉こうしょうもない証拠しょうこであろう。世俗せぞく善良ぜんりょうならしめんとつとめることは、いつの世でもいかなるところでも、まことに結構けっこうなことゆえ、従来じゅうらい行なわれているごとき方法ほうほうも、ますますさかんにすべきではあるが、真の原因げんいんが他に依然いぜんとしてそんする間は、その効力こうりょくは一定のきわめてせま範囲はんい以外いがいにいづることができぬものなるをはじめから承知しょうちしておらねばならぬ。とくに今後は物質的ぶっしつてき文明が従来じゅうらいしてなお数倍の速力をもって進むであろうと思われるから、人心の堕落だらく防止ぼうしすることは今日よりもいっそう困難こんなんになり、矯正きょうせい事業や慈善じぜん事業の効力こうりょくを買いかぶっている人は、つねに失望しつぼうにおちいるにちがいない。しかしてこれを見てつみ物質的ぶっしつてき文明の進歩に負わせる論者ろんじゃが、なおえず続出ぞくしゅつするであろう。
 終わりにことわっておくべきことは、われらは人間の財産ざいさんかんする学問などをおさめたことは全くないゆえ、これにかんする知識ちしき皆無かいむである。したがって野蛮やばん時代から今日までに自然しぜん発達はったつしきたった利子りし私有しゆうする制度せいどをあらためて、利子りしを取ることを国家の特権とっけんとするごとき変化へんかが、にわかにできうべきことかいなかはまったく知らぬ。またかりにあらためうべきものであるとしたところで、これを実行したあかつきに、今日以上いじょうに人心を堕落だらくせしむべき新たな事情じじょうが生ずることがなきやいなや、これもまったく知らぬ。また現今げんこん制度せいどをそのままにえおいて、ただその悪結果けっかのみをのぞきうべき不思議ふしぎ妙案みょうあんがなかるべきものかいなか、これもまったく知らぬ。われらはただ他の社会的しゃかいてき動物の生活状態じょうたい比較ひかくして、今日の人心堕落だらく原因げんいんは、主として富者ふしゃをしてますますならしめ、貧者ひんしゃをしてますますひんならしめ、遊んで贅沢ぜいたくらせる者と、かせいでも生活の立ちかねる者とを社会の中に生ぜしめる現今げんこん財産ざいさん制度せいど欠点けってんそんするとしんぜざるをえず、したがって世道せどう廃頽はいたいをもって物質的ぶっしつてき文明の進歩せる結果けっかと見なすごときは、原因げんいんを取りあやまれるすこぶる見当ちがいの議論ぎろんであり、かかるろんの広く世に行なわれることは、わが民族みんぞく将来しょうらいに対してたしかに不利益ふりえきであると考えるがゆえに、ここにその大略たいりゃくべたのみである。
(明治四十一年十一月)






底本:「進化と人生(下)丘浅次郎集」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1909(明治42)年1月 「中央公論」
校正:
YYYY年MM月DD日作成
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