世の中には
便宜上つねに用いる語で、しかも
便宜上、その意味を
判然と定めずにおく語がいくらもある。人道なる語もその一つで、列国間にこの語を用いる場合のごときは、あまり深くその
定義を
穿鑿せぬほうが都合がよろしい。しかしながら
一般に
個人間に用いるときには、人道なる語は「多少の
労力あるいは
金銭を
費やして他の人あるいは人に近き動物の苦しみを
減ずること」すなわち
利他同情の
行為を意味するように見受けるから、ここにはこの意味に取って人道なるものの正体をいささか
論じてみたいと思う。
まず第一に
上述のごとき人道なるものは
実際に
存するものか、または
幽霊のごとくに
単にうわさだけにとどまって、
実際には
存在せぬものかと考えてみるに、もし各人が人道を行なうならば世の中は
毫も
争いがなく、真に平和
極楽の
黄金世界であるべきはずなるに、
実際を見ると世間は全くその正反対で、他人はいかに
迷惑しようとも、自分さえよろしければ
差支えないという
主義が行なわれ、大にしては国と国との間の
戦いより、小にしては
記念絵端書を買わんとする
争いにいたるまで、他人を
蹴飛ばし
踏み
倒しても、ただ自分さえ先へ進み出て
目的を
達すればよいというありさまで、
法律の
制裁だになくば、わが
靴に
塗る
脂をえんがために他人を打ち
殺すことをもあえて
辞せぬような人がどこにも
充満し、実に人間とは
利己心の
凝固結晶したものかと思われるほどであるゆえ、かかる方面のみを見ると人道なるものはどこに
存するかと
疑わざるをえぬような心地がする。
しかしながら、また広く他人の
行為を
観察し、かつ自分の内心を
顧みると、他人の悲しみを聞けばともに悲しくなり、他人の苦しみを見れば、これを助けたく感ずる
利他同情の心の
存在していることもまたたしかな事実である。仕合せの悪い
悲惨な
境遇にある人の話を聞けば、
自然に
涙が出て、どうにかして
救うてやりたいとの心が生じ、重い荷をひく馬が坂で、苦しんでいるところを見れば、実に
憐れである、助けてやりたいとの気になるが、この
同情の心は決して表面を
飾るための
偽でもなく、教えられて
覚えた
結果でもなく、真に生まれたときから
備わっている
本能的性質である。その
程度は
各人決して一様ではないが、とにかくかかる
性質がある
程度において、たれの心の中にも
存在することだけは決して
疑うべからざることで、これがすなわちいわゆる人道なるものの
源である。
現今のありさまから考えてみると、人間には
利他同情の心は
利己心に
比してはきわめて
少量に
存することも
断言ができよう。
約言すれば人間の心は
九割九分の
利己心と一分の
利他心とを
備えているのである。
かくの
如く人間は自分のためのみを思う
利己心と、他人のためをも思う
利他心とを同時に
兼ね
備えているのであるから、そのなすことには
非常なる
矛盾がある。ただ一発で大きな
軍艦を
轟沈して数百人の
将卒を同時に
殺すための
水雷を毎日
盛んに
製造している
側には、
敵の
負傷兵までも
鄭重に
看護する計画をしている。商売の
競争では他人を
精神に
異状を
呈せしめるまでに苦しめながら、
精神病者を
収容するために
公共の金を出して病院をも
建てる。一方では
敵はどこまでも
攻め
滅ぼさねばならぬ、
途中で和を
講ずるのは
屈辱であると
論ずる学者があるかと思えば、他方では
敵も人なり
我も人なり、よろしく
相愛すべしと教える
教師もある。その他、
例をあげたら
限りがないほどに、人間のなすことは
矛盾で
充満している。それゆえ
単に今日のこのありさまだけを見ると、実に人間なるものはとうてい
解釈することのできぬ
謎中の
謎のごとくに見える。
倫理学の
諸問題もひっきょうはこの
謎を
解かんと苦心するところから起こることで、この
謎の
不可解である間は、すべての問題がみな
根柢において
不可解たるをまぬがれず、
専門の学者らがいかに
詭辯を
弄しても、とうてい
満足な
説明を
得られぬことは明らかである。
さて
詳かに人間をみるに、
不可解の
謎のごとくに思われるものは、ただその
行為のみではない。その身体の
構造においてもたくさんの
謎がある。たとえば
耳殻を自由に動かしうる人はほとんどないにもかかわらず、たれにも
耳殻を動かすべき
数個の
筋肉がある。また
胎内発育の
途中には一時
頸の
両側に
魚類におけると同様な
鰓孔ができて、後にはふたたび
閉じて消えてしまう。その他なお数十の
謎が人間の身体にはあるが、これらの
謎は研究者が、ただ人間の
現在の身体のみを調べていた間はすべて全く
不可解であった。しかるに広く他動物を
比較研究した
結果、生物進化の大原理が発見になってから、人間の身体をこの原理に
照らして考えてみると、
従来全く
不可解であった
謎もいくぶんかわかるようになり、
初めの
疑問も
漸々解けて今ではさらに一歩進んだ先の
謎を
解こうとつとめる
階段に
達したのである。身体に
関する
謎はかくのごとく
漸々解けてきたが、さてひるがえって
行為に
関する
謎はいかなるふうに研究せられているかと見るに、いまだはなはだ
幼稚であって、千年前も今日もあまりいちじるしくは
変わらず、
往古の
謎は
現今もなお
依然としてそのままの
謎である。
議論の発表せられたこと、書物の
著わされたことは実に
無数であるが、その
結果として昔の
疑問の
氷解せられたことはほとんど一つもない。これはなぜかというに、われらの考えるところによれば、全く研究の
方法を
誤っているからである。人間もすべて他の動物とともに
共同の
先祖から
降り、同一の進化の
法則に
従うて今日の
状態までに
発達しきたったものである以上はその
行為を研究するにあたっても、動物を研究するのと同様の
方法をとり、広く全動物界を
見渡してあれこれ相
比較し、人間をもその一部とみなして研究するのほかにとうてい
解釈の
途はない。
眼界を広くするほど思想が公平になって、一部分を
過重する
謬が
減じ、ついに真理を発見するにいたるものゆえ、今後人間の
行為を研究する人はよろしくこの
方法をとって、真理をさぐるべきであろうと思う。
まず
利己心のほうから考えてみるに、これは動物全体の
通性で、いやしくも、生活している以上は、
必ず
利己心がそこに
存する、実は
利己心の
実現によってわずかに生命が
保たれるのである。生物の
増加繁殖する
割合は実におびただしいものゆえ、いかなる動物でも
生存のための
競争をまぬがれず、すでに
競争という以上は
敵の
迷惑のごときはもとより
顧みるべきいとまはなく、ただ
利己心を
実現せしめるよりほかはない。されば
生存という語の中には
競争ということも、
利己心ということも
含まれているわけで、
生存競争とわざわざ文字を重ねる
必要はないくらいに思われ、
利己心なしの生活というのはあたかも
吹かぬ風、
燃えぬ
炎というごとく、全く考えられぬことのように思われる。世人がつねに平和の
符号とみなしている
鳩のごときも、その生活のありさまを見れば
徹頭徹尾競争であって、
一粒ごとに一本の
完全なる植物となるべき
豆粒を毎日
無数に食い、その
豆粒だけの植物の生命を
奪うことによって
自己の生命を
保っているのである。また
一匹の
鳩が豆を食えばその豆の
量だけは他の
鳩および他の豆食動物の
餌から引き去られるわけゆえ、いずこにか、そのために
餓死すべき者の生ずるは
当然である。
爪もなく、
牙もなく、血をも流さぬゆえに、表面のみを見る人は、
鳩の生活をきわめて
平和的のもののごとくに感ずるが、
自然界の全局面から見ればその
利己心のはげしさは決して他の動物に
劣ることはない。およそこの世に生まれ出た動物は
利己心をたくましくするか、死ぬかの
二途のうち一を
選ぶのほかはないのであるから、
利己心はすべての動物の第一的
性質で、生活とは
利己心の
実現であるというてもあえて
誤りではないのである。
しかしながら動物には
単独の生活を
営むものと
団体を
造って生活するものとあって、この二者の間で
利己心
実現の
方法もいくぶんか
違う。
団体動物では上下
交々利を
征めては国が
危ういという
文句のとおり、もし
団体内の
各個体が
各自利己心をたくましくしたならば
団体としての
生存ができぬゆえ、かかる動物には
必ず
各個体にいくぶんかの
利他的、
同情的の
行為が行なわれている。これは
団体動物に
共通の
性質であるゆえ、
団体動物道とも名づくべきもので、さらに略して
単に「道」と
称してもよろしいが、この「道」なるものが行なわれるによって
団体がまとまり、
団体としての
利己心を外に向こうて
発揮することができるのである。一二の
例をあげてみるに、
猿のごときものも
団体内に
負傷者ができた時には
同僚が相集まって、きわめて
親切にこれを
看護し、もし死ぬ者でもあれば、
多勢その
周囲に集まって
泣涕した後に
死骸を運び去って他の者の知らぬところに
隠してしまう。アフリカの内地で
銃猟をした人の日記に、
猿を
撃ったが
死骸は
連れの
猿等が運び去ったゆえ、ついに取ることができなかったというごとき
文句を見るはしばしばである。また
幼児をのこして母親が死ねば他の
牝猿がただちにこれを引き受けてわが子同様に
愛し育てる。これらは
猿の
団体に行なわれる「道」であるから「
猿道」とも名づくべきものである。また
象の
団体が進行するときには
屈強な
牡象が
周囲に
並び、
牝や
子供は中に立たせ、弱き者を助け
幼き者を
導いて進むが、これはすなわち「
象道」である。また
海狸(注:ビーバー)の
団体が
水辺におるときに
敵が近づけば、
最初にこれを見出した
一匹が
尾をもって水をたたき、その音を聞いて他の者はみな水中に
飛び入って生命を
全うするが、これは「
海狸道」である。さらに
蟻、
蜂等のごときいわゆる社会的
昆虫の
行為を見ると、「
蟻道」または「
蜂道」の進んでいることは実に
驚くべきほどで、
働き
蟻や
働き
蜂が終日休まず
骨を
折って
働いていることは、一として他を
利するためならざるはない。自分
一個のためならば
少量の食物で事が足りるのであるから、かく朝から
晩まで
刻苦勉励するにはおよばぬはずである。しかるにかく終日食物を
探しまわり、
一生懸命にこれを
巣に運ぶのは全く同じ
巣の内にいる
同僚および
幼児を
養わんがためで、その
熱心なることはとうてい
養育院の
掛り員が
義務的に世話をしているのとは同日の
論でない。かように
列挙して見ると、
団体動物には一として「道」の行なわれておらぬものはなく、人道はただその中の一に
過ぎぬのであるから、これのみを
別に
離して取り
扱うべき理由は決してない。
以上
述べたとおり
団体競争をする動物では、その
個体に
必ず多少の
利他同情の心が
備わってあるが、かかる動物を
並べてあれこれ相
比較して見ると
利他心の
発達の度には
種々の階級があって、
個体間の
利他心の進んでいるものほど
団体の
結合が強く、したがって
団体としての
利己心が
発達している。
団体内の
各個体がいかに強くとも、
同僚互いに相助ける心がなかったならば、
協力一致せる
敵団体の
勢いにはとうていかなわず、たちまち負けてしまうゆえ、
個体間の
利他心はその
団体の
戦闘力を
増進せしめる
手段ともみなすべきもので、この点の進歩した
団体ほど
生存の
競争に勝つ
見込みが多い。かように考えてみると、
利他心なるものは決してそれ自身に
初めから
存したものではなく、
団体生活の進むに
伴のうて
利己心から
漸々転化しきたった第二的
性質で、
個体を標準としてこそ他を
利する心であるが、
団体を標準として
論ずれば、やはり
利己心の一部分に
過ぎぬのである。言いかえれば、
団体動物における
個体間の
利他心は
団体的利己心の内に向こうて
顕われた形とみなすことができる。また他の物にたとえて言えば、
団体動物に行なわれる「道」は
団体が外に対して
戦うための後方
勤務ともいうべきもので、やはり
戦争事業の
重要なる一部分を
形造るものである。
団体動物の
個体に
現われる
利他心には
発達の
程度に
種々の階級があって、決して一様でないことは前にも
述べたが、したがって道の行なわれる
程度にも動物の
種類によりいちじるしい
相違がある。
現に万物の
霊なる人間社会では人道の行なわれることの
微々たるに反し、小さい
昆虫なる
蟻や
蜂の社会には
蟻道、
蜂道がほとんど理想的に行なわれているが、これはなぜかというに、全く
団体間に
自然淘汰の行なわれることの多少に
基づくことである。
蟻、
蜂のごとき
昆虫類では
団体の
盛衰存亡がすこぶるすみやかであるゆえ、その間に
自然淘汰が
充分に行なわれ、
生存に
適する
団体は勝って
栄え、
生存に
適せぬ
団体は負けて
滅び、たちまちのうちに
団体の代が重なり、
自然淘汰の
結果が
現われ、
団体生活に
適する
性質がだんだん
発達し、
本能として子孫に伝わり、ついに今日見るごとき
理想的団体生活を
営みうる
程度に
達したのである。これに反して人間のほうは、
一団体内の
個体の数もはなはだ多く、その生命も
比較的長いゆえ、
団体の
盛衰存亡はすこぶる
緩慢でその間に
自然淘汰の
働くべき余地がきわめて少ない。特に文明が進んで
通信交通の
途が開けるにしたがい、
一団体として
結合しうる
個体の数が
漸次多くなり、
野蛮時代に
比すれば、
団体は
漸次大きくなるゆえ、その間に
自然淘汰の行なわれることもますます少なくなってしまう。人間の
先祖がいまだ
猿同様であって、少数の
個体が集まって
団体をなし、
団体との間ではげしく
生存競争していたころにはつねに
生存に
適する
団体のみが生き
残り、
生存に
適せぬ
団体は
滅び
失せて、
団体間に
自然淘汰が行なわれ、その
結果として、
団体的生活に
必要な
本能すなわち
利他心がある
程度まで
発達したであろうが、人間らしくなってからは
上述の理由で、その進歩がほとんどとまって、かつて
猿同様の時代にえただけの
本能的利他心がほとんどそのまま今日まで
伝わっているようである。
否、少しずつ
退歩してきたのではないかと思われる。されば公平に
比較してみると、今日の人道なるものは
猿道とは
伯仲の間で、
蟻道、
蜂道等に
比すればはるかに
低い
程度に位するものと言わねばならぬ。
人間の持って生まれる
利他心はかくのごとく
微々たるものであるが、
個体間の
利他心は
団体動物の
生存には
必要なものゆえ、いやしくも
団体として
生存せんと
欲する以上は
個体間の
利他心を
増進せしめるか、あるいはこれと同様の
結果を
得べき他の
方法を
求めることをつとめねばならぬ。
蟻、
蜂の
類が生まれながら
自然になすことが、ことごとく
蟻道、
蜂道にかなっているのは、長い間
自然淘汰の行なわれた
結果であるゆえ、今日人間がこれを
望んだとて
一足飛びに
達しえられるわけのものではない。われわれはわれの持って生まれた
微なる人道の
萌芽を
人工的に
補い助け、
人工的にわが
団体の
結合を
強固にし、
敵に対してわが
団体の
勢力を
発展するように力をつくすのほかはない。人間には
爪も
牙もないが、
水雷や
大砲を
造って一時に数百人を
殺すことができる。人間には
疾走に
適した足はないが、鉄道を
敷いて一日に数百里も走ることができる。すべて
天然の足らざるところを
人工的に
補い助け、他の動物が
自然淘汰の
結果として、えたところのものより以上のものを自分の
智恵で
造り出して、
敵に打ち勝つのが人の人たるゆえんであるが、人道においてもこれと同じく、
特に
人工的の
制度を
設け、
制裁を
加えてしいて人道を行なわしめ、あるいは
賞与を
与えておだてて人道を行なわしめ、生来の
微なる人道の
萌芽を
補い助けなければならぬ。人間の
団体は
往古より今日まで
絶えずこの点で
競争していた
次第であって、この点が
衰えて
各個人が
個人として
利己心のみをたくましうするようになれば、その
団体はたちまち
敵団体のために
敗られてしまう。人間の
団体の生活に
法律および
道徳の
必要なのはすなわちこの理由によるのである。
人間は
団体生活をなし、
団体同志で
競争して生きているものであるが、その
競争の
単位となる
団体は
民族である。以上
述べたところを
特に人間にあてはめて言うてみれば、
一民族内の
個体間の
利他心は、その
民族が外に対して
民族的利己心を
実現するために
必要なもので、この二者はほとんど同一物の両面ともみなすことができる。
戦争するには
挙国一致が
必要であり、
挙国一致は
個体の
利他心によって
初めてできるものであるゆえ、
戦争と人道とは
非常に
親密な
関係がある。すなわち外に対して
戦争として
現われる
民族的利己心が内に向こうては
個人間の人道を
要求するのである。世の中には
戦争と人道とをもって全く相反するもののごとくに考えている人も多いが、
団体動物の生活を
比較研究し人道なるものの真意を
確かめてみると、
戦争と人道とは同一物の
表面と
裏面とのごときものであって、われわれは人道によってのみよく
戦争しうると言うてもよろしい。しかして人間の生来の
利他心は実に
微々たるもので、これにゆだねておいたのではとうてい
必要なだけの人道は行なわれぬゆえ、
法律、
道徳をもって、しいて人道を行なわしめる
必要が生ずるのであるが、
上述の理由により、人道なるものはつねに自分の
民族を
本位とすべきものである。
しからば他の
民族に対する人道はいかにというに、以上
述べたところによれば、
生存競争の
単位なる
民族と
民族との間には、真の意味における人道は全くないはずである。また
実際に行なわれたことも決してない。しかしながら、
滋養物なる
砂糖の
甘味を感ずるために
発達した
舌は、
不滋養物なるサッカリンをも
甘く感ずるごとくに、
自己団体の
利益のために生じた
個体の
利他心は、他の
団体に
属する
個体に対して
利他的行為をなしたる時にも、
満足の感じをえるために他
民族に対して人道を行なうは決して悪いことはない。ただ他の
民族に
利益を
与え、わが
民族に
損害を
与えるごとき人道は
大間違いであって、決して真の人道ではない、真の人道はどこまでも
自己の
民族を
本位とすべきものである。人間の
生存競争においては、
民族が
最高の
単位となっていることは古来の
歴史を読んでも、日々の新聞紙を見てもきわめて明らかなことで、その間の
争闘は、
方法こそ
異なれ、
単独生活をなす
猛獣の
争いと、
主義においては少しも
違うたところはない。世界の地図を開いて見ると、アメリカ、アフリカ、オーストラリアの
果てまでもすべて
若干の強国で分け取って
占領しているが、昔からその土地に住んでいた土人と今これを
征服している
欧州人とをくらべてみても決していずれが正、いずれが
邪と
区別することはできぬ。ただ
狼が羊を食うごとく、
狐が
鶏を
殺すごとく、
単に一方が強くて、一方が弱かったというだけである。ヘッケルもこのありさまを
認めて
著書の中に「
凡そ
有機生物のあらん
限り
暴力は
正義に勝つ」と言い放っているが、わが国の「勝てば
官軍、負ければ
賊」という
諺は同一の意味をさらに
簡潔に言い
現わしている。かくのごとく
人類の
生存競争においては
各民族は
自己の力のほかに
頼むべきものなく、
各自勢力を
発展せんとつねに
尽力しなければ
生存もおぼつかない。わが
民族の
利益をそいで他の
民族の
利益を
計るごときはとうてい
望むべからざることである。しかしながら多数の
民族が相対立している場合にはあたかも
個人間におけるごとくに、
互いに
交際を
円滑らしくするためには
一種の
礼儀挨拶が
必要で、そのため
一種の人道らしきものが行なわれることもあるが、これは全く
別問題に
属するゆえ、ここには
略する。ただし、人間の社会ははなはだ
複雑なもので、すみずみまで
明瞭にしてしまってはかえっておもしろくないこともあるによって、この
辺のところは
曖昧にしておき、
民族間の人道のごときは深く
論ぜず、ただこの語を
善用する
工夫が
肝要であろう。
敵をも
愛すると言えばきわめて
尊く聞こえるが、これは
個人間においてのみ行なわれうべきことで、
団体間においては
自己を
殺して
敵に
位置を
譲るのほかに
敵を
愛しようはないゆえ、かかることば
団体競争をなすべき運命を有する人間にとっては全く
不可能の空想である。
蟹はいかに
縦に
匍うことを理想としたとても、身体の
性質がこれを
許さねば
致し方がない。それよりはいかに
最もよく横に
匍うべきかを研究したほうが
利益が多い。人間もそれと同じく、自分の
性質にかなわぬできぬ理想を
求めんとするよりは、まず自分の真の
性質を知り、自分のできる
範囲内において
最もよきことをなすように
心掛けるのほかはない。
汝自身を知れという古代からの
文句はこの意味に取るのがもっとも
適当であると思う。
人道に
関する問題は
非常に多くの研究を
要する大問題であって、決して一回の
短篇で
論じつくせるはずのものでない。
特にここに
述べたところは
単に
粗い点線で、われらの考えの
輪廓を画いただけに
過ぎず、
例外とみなすべき場合はことごとく
省き、親子間に
現われる
利他心のごときも全く
略しておいたゆえ、読者の
胸中にはたくさんの
疑問が
浮かんだであろうが、これらに
関してはさらに
機を見て
論ずるつもりである。もとよりわれら
一個の
臆説に
過ぎぬが、ただ大体においては以上
述べたごときことは、
過去の
歴史をも
説明し、
現在の事実にもあてはまり、また
未来のできごとにも
符合するであろうと
信ずるゆえ、人道を研究する
専門学者の
参考にもなろうかと思うてここにかかげたのである。
(明治三十八年十一月)