人道の正体

丘浅次郎





 世の中には便宜べんぎ上つねに用いる語で、しかも便宜べんぎ上、その意味を判然はんぜんと定めずにおく語がいくらもある。人道なる語もその一つで、列国間にこの語を用いる場合のごときは、あまり深くその定義ていぎ穿鑿せんさくせぬほうが都合がよろしい。しかしながら一般いっぱん個人こじん間に用いるときには、人道なる語は「多少の労力ろうりょくあるいは金銭きんせんついやして他の人あるいは人に近き動物の苦しみをげんずること」すなわち利他りた同情どうじょう行為こういを意味するように見受けるから、ここにはこの意味に取って人道なるものの正体をいささかろんじてみたいと思う。
 まず第一に上述じょうじゅつのごとき人道なるものは実際じっさいそんするものか、または幽霊ゆうれいのごとくにたんにうわさだけにとどまって、実際じっさいには存在そんざいせぬものかと考えてみるに、もし各人が人道を行なうならば世の中はごうあらそいがなく、真に平和極楽ごくらく黄金おうごん世界であるべきはずなるに、実際じっさいを見ると世間は全くその正反対で、他人はいかに迷惑めいわくしようとも、自分さえよろしければ差支さしつかえないという主義しゅぎが行なわれ、大にしては国と国との間のたたかいより、小にしては記念きねん絵端書えはがきを買わんとするあらそいにいたるまで、他人を蹴飛けとばしたおしても、ただ自分さえ先へ進み出て目的もくてきたっすればよいというありさまで、法律ほうりつ制裁せいさいだになくば、わがくつあぶらをえんがために他人を打ちころすことをもあえてせぬような人がどこにも充満じゅうまんし、実に人間とは利己りこ心の凝固ぎょうこ結晶けっしょうしたものかと思われるほどであるゆえ、かかる方面のみを見ると人道なるものはどこにそんするかとうたがわざるをえぬような心地がする。
 しかしながら、また広く他人の行為こうい観察かんさつし、かつ自分の内心をかえりみると、他人の悲しみを聞けばともに悲しくなり、他人の苦しみを見れば、これを助けたく感ずる利他りた同情どうじょうの心の存在そんざいしていることもまたたしかな事実である。仕合せの悪い悲惨ひさん境遇きょうぐうにある人の話を聞けば、自然しぜんなみだが出て、どうにかしてすくうてやりたいとの心が生じ、重い荷をひく馬が坂で、苦しんでいるところを見れば、実にあわれである、助けてやりたいとの気になるが、この同情どうじょうの心は決して表面をかざるためのいつわりでもなく、教えられておぼえた結果けっかでもなく、真に生まれたときからそなわっている本能的ほんのうてき性質せいしつである。その程度ていど各人かくじん決して一様ではないが、とにかくかかる性質せいしつがある程度ていどにおいて、たれの心の中にも存在そんざいすることだけは決してうたがうべからざることで、これがすなわちいわゆる人道なるもののみなもとである。現今げんこんのありさまから考えてみると、人間には利他りた同情どうじょうの心は利己りこ心にしてはきわめて少量しょうりょうそんすることも断言だんげんができよう。約言やくげんすれば人間の心は九割きゅうわり九分の利己りこ心と一分の利他りた心とをそなえているのである。
 かくのごとく人間は自分のためのみを思う利己りこ心と、他人のためをも思う利他りた心とを同時にそなえているのであるから、そのなすことには非常ひじょうなる矛盾むじゅんがある。ただ一発で大きな軍艦ぐんかん轟沈ごうちんして数百人の将卒しょうそつを同時にころすための水雷すいらいを毎日さかんに製造せいぞうしているそばには、てき負傷兵ふしょうへいまでも鄭重ていちよう看護かんごする計画をしている。商売の競争きょうそうでは他人を精神せいしん異状いじょうていせしめるまでに苦しめながら、精神せいしん病者を収容しゅうようするために公共こうきょうの金を出して病院をもてる。一方ではてきはどこまでもほろぼさねばならぬ、途中とちゅうで和をこうずるのは屈辱くつじょくであるとろんずる学者があるかと思えば、他方ではてきも人なりわれも人なり、よろしく相愛あいあいすべしと教える教師きょうしもある。その他、れいをあげたらかぎりがないほどに、人間のなすことは矛盾むじゅん充満じゅうまんしている。それゆえたんに今日のこのありさまだけを見ると、実に人間なるものはとうてい解釈かいしゃくすることのできぬなぞ中のなぞのごとくに見える。倫理りんり学のしょ問題もひっきょうはこのなぞかんと苦心するところから起こることで、このなぞ不可解ふかかいである間は、すべての問題がみな根柢こんていにおいて不可解ふかかいたるをまぬがれず、専門せんもんの学者らがいかに詭辯きべんろうしても、とうてい満足まんぞく説明せつめいられぬことは明らかである。
 さてつまびらかに人間をみるに、不可解ふかかいなぞのごとくに思われるものは、ただその行為こういのみではない。その身体の構造こうぞうにおいてもたくさんのなぞがある。たとえば耳殻じかくを自由に動かしうる人はほとんどないにもかかわらず、たれにも耳殻じかくを動かすべき数個すうこ筋肉きんにくがある。また胎内たいない発育の途中とちゅうには一時くび両側りょうがわ魚類ぎょるいにおけると同様な鰓孔えらあなができて、後にはふたたびじて消えてしまう。その他なお数十のなぞが人間の身体にはあるが、これらのなぞは研究者が、ただ人間の現在げんざいの身体のみを調べていた間はすべて全く不可解ふかかいであった。しかるに広く他動物を比較ひかく研究した結果けっか、生物進化の大原理が発見になってから、人間の身体をこの原理にらして考えてみると、従来じゅうらい全く不可解ふかかいであったなぞもいくぶんかわかるようになり、はじめの疑問ぎもん漸々ぜんぜんけて今ではさらに一歩進んだ先のなぞこうとつとめる階段かいだんたっしたのである。身体にかんするなぞはかくのごとく漸々ぜんぜんけてきたが、さてひるがえって行為こういかんするなぞはいかなるふうに研究せられているかと見るに、いまだはなはだ幼稚ようちであって、千年前も今日もあまりいちじるしくはわらず、往古おうこなぞ現今げんこんもなお依然いぜんとしてそのままのなぞである。議論ぎろんの発表せられたこと、書物のあらわされたことは実に無数むすうであるが、その結果けっかとして昔の疑問ぎもん氷解ひょうかいせられたことはほとんど一つもない。これはなぜかというに、われらの考えるところによれば、全く研究の方法ほうほうあやまっているからである。人間もすべて他の動物とともに共同きょうどう先祖せんぞからり、同一の進化の法則ほうそくしたがうて今日の状態じょうたいまでに発達はったつしきたったものである以上はその行為こういを研究するにあたっても、動物を研究するのと同様の方法ほうほうをとり、広く全動物界を見渡みわたしてあれこれ相比較ひかくし、人間をもその一部とみなして研究するのほかにとうてい解釈かいしゃくみちはない。眼界がんかいを広くするほど思想が公平になって、一部分を過重かじゅうするあやまりげんじ、ついに真理を発見するにいたるものゆえ、今後人間の行為こういを研究する人はよろしくこの方法ほうほうをとって、真理をさぐるべきであろうと思う。
 まず利己りこ心のほうから考えてみるに、これは動物全体の通性つうせいで、いやしくも、生活している以上は、かなら利己りこ心がそこにそんする、実は利己りこ心の実現じつげんによってわずかに生命がたもたれるのである。生物の増加ぞうか繁殖はんしょくする割合わりあいは実におびただしいものゆえ、いかなる動物でも生存せいぞんのための競争きょうそうをまぬがれず、すでに競争きょうそうという以上はてき迷惑めいわくのごときはもとよりかえりみるべきいとまはなく、ただ利己りこ心を実現じつげんせしめるよりほかはない。されば生存せいぞんという語の中には競争きょうそうということも、利己りこ心ということもふくまれているわけで、生存せいぞん競争きょうそうとわざわざ文字を重ねる必要ひつようはないくらいに思われ、利己りこ心なしの生活というのはあたかもかぬ風、えぬほのおというごとく、全く考えられぬことのように思われる。世人がつねに平和の符号ふごうとみなしているはとのごときも、その生活のありさまを見れば徹頭てっとう徹尾てつび競争きょうそうであって、一粒ひとつぶごとに一本の完全かんぜんなる植物となるべき豆粒まめつぶを毎日無数むすうに食い、その豆粒まめつぶだけの植物の生命をうばうことによって自己じこの生命をたもっているのである。また一匹いっぴきはとが豆を食えばその豆のりょうだけは他のはとおよび他の豆食動物のえさから引き去られるわけゆえ、いずこにか、そのために餓死がしすべき者の生ずるは当然とうぜんである。つめもなく、きばもなく、血をも流さぬゆえに、表面のみを見る人は、はとの生活をきわめて平和的へいわてきのもののごとくに感ずるが、自然しぜん界の全局面から見ればその利己りこ心のはげしさは決して他の動物におとることはない。およそこの世に生まれ出た動物は利己りこ心をたくましくするか、死ぬかの二途にとのうち一をえらぶのほかはないのであるから、利己りこ心はすべての動物の第一的性質せいしつで、生活とは利己りこ心の実現じつげんであるというてもあえてあやまりではないのである。
 しかしながら動物には単独たんどくの生活をいとなむものと団体だんたいつくって生活するものとあって、この二者の間で利己りこ実現じつげん方法ほうほうもいくぶんかちがう。団体だんたい動物では上下交々こもごもめては国があやういという文句もんくのとおり、もし団体だんたい内の各個体かくこたい各自かくじ利己りこ心をたくましくしたならば団体だんたいとしての生存せいぞんができぬゆえ、かかる動物にはかなら各個体かくこたいにいくぶんかの利他りた的、同情どうじょう的の行為こういが行なわれている。これは団体だんたい動物に共通きょうつう性質せいしつであるゆえ、団体だんたい動物道とも名づくべきもので、さらに略してたんに「道」としょうしてもよろしいが、この「道」なるものが行なわれるによって団体だんたいがまとまり、団体だんたいとしての利己りこ心を外に向こうて発揮はっきすることができるのである。一二のれいをあげてみるに、さるのごときものも団体だんたい内に負傷ふしょう者ができた時には同僚どうりょうが相集まって、きわめて親切しんせつにこれを看護かんごし、もし死ぬ者でもあれば、多勢おおぜいその周囲しゅういに集まって泣涕きゆうていした後に死骸しがいを運び去って他の者の知らぬところにかくしてしまう。アフリカの内地で銃猟じゅうりょうをした人の日記に、さるったが死骸しがいれの猿等さるらが運び去ったゆえ、ついに取ることができなかったというごとき文句もんくを見るはしばしばである。また幼児ようじをのこして母親が死ねば他の牝猿めすざるがただちにこれを引き受けてわが子同様にあいし育てる。これらはさる団体だんたいに行なわれる「道」であるから「猿道さるどう」とも名づくべきものである。またぞう団体だんたいが進行するときには屈強くつきよう牡象おすぞう周囲しゅういならび、めす子供こどもは中に立たせ、弱き者を助けおさなき者をみちびいて進むが、これはすなわち「象道ぞうどう」である。また海狸うみだぬき(注:ビーバー)の団体だんたい水辺みずべにおるときにてきが近づけば、最初さいしょにこれを見出した一匹いっぴきをもって水をたたき、その音を聞いて他の者はみな水中にび入って生命をまっとうするが、これは「海狸道うみだぬきどう」である。さらにありはち等のごときいわゆる社会的昆虫こんちゅう行為こういを見ると、「蟻道ありどう」または「蜂道はちどう」の進んでいることは実におどろくべきほどで、はたらありはたらはちが終日休まずほねってはたらいていることは、一として他をするためならざるはない。自分一個いっこのためならば少量しょうりょうの食物で事が足りるのであるから、かく朝からばんまで刻苦こっく勉励べんれいするにはおよばぬはずである。しかるにかく終日食物をさがしまわり、一生懸命いっしょうけんめいにこれをに運ぶのは全く同じの内にいる同僚どうりょうおよび幼児ようじやしなわんがためで、その熱心ねっしんなることはとうてい養育よういく院のかかり員が義務的ぎむてきに世話をしているのとは同日のろんでない。かように列挙れっきょして見ると、団体だんたい動物には一として「道」の行なわれておらぬものはなく、人道はただその中の一にぎぬのであるから、これのみをべつはなして取りあつかうべき理由は決してない。
 以上べたとおり団体だんたい競争きょうそうをする動物では、その個体こたいかならず多少の利他りた同情どうじょうの心がそなわってあるが、かかる動物をならべてあれこれ相比較ひかくして見ると利他りた心の発達はったつの度には種々しゅしゅの階級があって、個体こたい間の利他りた心の進んでいるものほど団体だんたい結合けつごうが強く、したがって団体だんたいとしての利己りこ心が発達はったつしている。団体だんたい内の各個体かくこたいがいかに強くとも、同僚どうりょうたがいに相助ける心がなかったならば、協力きょうりょく一致いっちせるてき団体だんたいいきおいにはとうていかなわず、たちまち負けてしまうゆえ、個体こたい間の利他りた心はその団体だんたい戦闘せんとう力を増進ぞうしんせしめる手段しゅだんともみなすべきもので、この点の進歩した団体だんたいほど生存せいぞん競争きょうそうに勝つ見込みこみが多い。かように考えてみると、利他りた心なるものは決してそれ自身にはじめからそんしたものではなく、団体だんたい生活の進むにとものうて利己りこ心から漸々ぜんぜん転化しきたった第二的性質せいしつで、個体こたいを標準としてこそ他をする心であるが、団体だんたいを標準としてろんずれば、やはり利己りこ心の一部分にぎぬのである。言いかえれば、団体だんたい動物における個体こたい間の利他りた心は団体的だんたいてき利己りこ心の内に向こうてあらわれた形とみなすことができる。また他の物にたとえて言えば、団体だんたい動物に行なわれる「道」は団体だんたいが外に対してたたかうための後方勤務きんむともいうべきもので、やはり戦争せんそう事業の重要じゅうようなる一部分を形造かたちずくるものである。
 団体だんたい動物の個体こたいあらわれる利他りた心には発達はったつ程度ていど種々しゅしゅの階級があって、決して一様でないことは前にもべたが、したがって道の行なわれる程度ていどにも動物の種類しゅるいによりいちじるしい相違そういがある。げんに万物のれいなる人間社会では人道の行なわれることの微々びびたるに反し、小さい昆虫こんちゅうなるありはちの社会には蟻道ありどう蜂道はちどうがほとんど理想的に行なわれているが、これはなぜかというに、全く団体だんたい間に自然しぜん淘汰とうたの行なわれることの多少にもとづくことである。ありはちのごとき昆虫こんちゅう類では団体だんたい盛衰せいすい存亡そんぼうがすこぶるすみやかであるゆえ、その間に自然しぜん淘汰とうた充分ずいぶんに行なわれ、生存せいぞんてきする団体だんたいは勝ってさかえ、生存せいぞんてきせぬ団体だんたいは負けてほろび、たちまちのうちに団体だんたいの代が重なり、自然しぜん淘汰とうた結果けっかあらわれ、団体だんたい生活にてきする性質せいしつがだんだん発達はったつし、本能ほんのうとして子孫に伝わり、ついに今日見るごとき理想的りそうてき団体だんたい生活をいとなみうる程度ていどたっしたのである。これに反して人間のほうは、一団体いちだんたい内の個体こたいの数もはなはだ多く、その生命も比較ひかく的長いゆえ、団体だんたい盛衰せいすい存亡そんぼうはすこぶる緩慢かんまんでその間に自然しぜん淘汰とうたはたらくべき余地がきわめて少ない。特に文明が進んで通信つうしん交通のみちが開けるにしたがい、一団体いちだんたいとして結合けつごうしうる個体こたいの数が漸次ぜんじ多くなり、野蛮やばん時代にすれば、団体だんたい漸次ぜんじ大きくなるゆえ、その間に自然しぜん淘汰とうたの行なわれることもますます少なくなってしまう。人間の先祖せんぞがいまださる同様であって、少数の個体こたいが集まって団体だんたいをなし、団体だんたいとの間ではげしく生存せいぞん競争きょうそうしていたころにはつねに生存せいぞんてきする団体だんたいのみが生きのこり、生存せいぞんてきせぬ団体だんたいほろせて、団体だんたい間に自然しぜん淘汰とうたが行なわれ、その結果けっかとして、団体的だんたいてき生活に必要ひつよう本能ほんのうすなわち利他りた心がある程度ていどまで発達はったつしたであろうが、人間らしくなってからは上述じょうじゅつの理由で、その進歩がほとんどとまって、かつてさる同様の時代にえただけの本能的ほんのうてき利他りた心がほとんどそのまま今日までつたわっているようである。いな、少しずつ退歩たいほしてきたのではないかと思われる。されば公平に比較ひかくしてみると、今日の人道なるものはさる道とは伯仲はくちゅうの間で、蟻道ありどう蜂道はちどう等にすればはるかにひく程度ていどに位するものと言わねばならぬ。
 人間の持って生まれる利他りた心はかくのごとく微々びびたるものであるが、個体こたい間の利他りた心は団体だんたい動物の生存せいぞんには必要ひつようなものゆえ、いやしくも団体だんたいとして生存せいぞんせんとよくする以上は個体こたい間の利他りた心を増進ぞうしんせしめるか、あるいはこれと同様の結果けっかうるべき他の方法ほうほうもとめることをつとめねばならぬ。ありはちるいが生まれながら自然しぜんになすことが、ことごとく蟻道ありどう蜂道はちどうにかなっているのは、長い間自然しぜん淘汰とうたの行なわれた結果けっかであるゆえ、今日人間がこれをのぞんだとて一足いっそくびにたっしえられるわけのものではない。われわれはわれの持って生まれたわずかなる人道の萌芽ほうが人工的じんこうてきおぎない助け、人工的じんこうてきにわが団体だんたい結合けつごう強固きょうこにし、てきに対してわが団体だんたい勢力せいりょく発展はってんするように力をつくすのほかはない。人間にはつめきばもないが、水雷すいらい大砲たいほうつくって一時に数百人をころすことができる。人間には疾走しっそうてきした足はないが、鉄道をいて一日に数百里も走ることができる。すべて天然てんねんの足らざるところを人工的じんこうてきおぎない助け、他の動物が自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして、えたところのものより以上のものを自分の智恵ちえつくり出して、てきに打ち勝つのが人の人たるゆえんであるが、人道においてもこれと同じく、とく人工的じんこうてき制度せいどもうけ、制裁せいさいくわえてしいて人道を行なわしめ、あるいは賞与しょうよあたえておだてて人道を行なわしめ、生来のわずかなる人道の萌芽ほうがおぎない助けなければならぬ。人間の団体だんたい往古おうこより今日までえずこの点で競争きょうそうしていた次第しだいであって、この点がおとろえて各個人かくこじん個人こじんとして利己りこ心のみをたくましうするようになれば、その団体だんたいはたちまちてき団体だんたいのためにやぶられてしまう。人間の団体だんたいの生活に法律ほうりつおよび道徳どうとく必要ひつようなのはすなわちこの理由によるのである。
 人間は団体だんたい生活をなし、団体だんたい同志どうし競争きょうそうして生きているものであるが、その競争きょうそう単位たんいとなる団体だんたい民族みんぞくである。以上べたところをとくに人間にあてはめて言うてみれば、一民族いちみんぞく内の個体こたい間の利他りた心は、その民族みんぞくが外に対して民族的みんぞくてき利己りこ心を実現じつげんするために必要ひつようなもので、この二者はほとんど同一物の両面ともみなすことができる。戦争せんそうするには挙国きょこく一致いっち必要ひつようであり、挙国きょこく一致いっち個体こたい利他りた心によってはじめてできるものであるゆえ、戦争せんそうと人道とは非常ひじょう親密しんみつ関係かんけいがある。すなわち外に対して戦争せんそうとしてあらわれる民族的みんぞくてき利己りこ心が内に向こうては個人こじん間の人道を要求ようきゅうするのである。世の中には戦争せんそうと人道とをもって全く相反するもののごとくに考えている人も多いが、団体だんたい動物の生活を比較ひかく研究し人道なるものの真意をたしかめてみると、戦争せんそうと人道とは同一物の表面おもてめん裏面うらめんとのごときものであって、われわれは人道によってのみよく戦争せんそうしうると言うてもよろしい。しかして人間の生来の利他りた心は実に微々びびたるもので、これにゆだねておいたのではとうてい必要ひつようなだけの人道は行なわれぬゆえ、法律ほうりつ道徳どうとくをもって、しいて人道を行なわしめる必要ひつようが生ずるのであるが、上述じょうじゅつの理由により、人道なるものはつねに自分の民族みんぞく本位ほんいとすべきものである。
 しからば他の民族みんぞくに対する人道はいかにというに、以上べたところによれば、生存せいぞん競争きょうそう単位たんいなる民族みんぞく民族みんぞくとの間には、真の意味における人道は全くないはずである。また実際じっさいに行なわれたことも決してない。しかしながら、滋養じよう物なる砂糖さとう甘味かんみを感ずるために発達はったつしたしたは、不滋養ふじよう物なるサッカリンをもあまく感ずるごとくに、自己じこ団体だんたい利益りえきのために生じた個体こたい利他りた心は、他の団体だんたいぞくする個体こたいに対して利他的りたてき行為こういをなしたる時にも、満足まんぞくの感じをえるために他民族みんぞくに対して人道を行なうは決して悪いことはない。ただ他の民族みんぞく利益りえきあたえ、わが民族みんぞく損害そんがいあたえるごとき人道は大間違おおまちがいであって、決して真の人道ではない、真の人道はどこまでも自己じこ民族みんぞく本位ほんいとすべきものである。人間の生存せいぞん競争きょうそうにおいては、民族みんぞく最高さいこう単位たんいとなっていることは古来の歴史れきしを読んでも、日々の新聞紙を見てもきわめて明らかなことで、その間の争闘とうそうは、方法ほうほうこそことなれ、単独たんどく生活をなす猛獣もうじゅうあらそいと、主義しゅぎにおいては少しもちがうたところはない。世界の地図を開いて見ると、アメリカ、アフリカ、オーストラリアのはててまでもすべて若干じゃっかんの強国で分け取って占領せんりょうしているが、昔からその土地に住んでいた土人と今これを征服せいふくしている欧州おうしゅう人とをくらべてみても決していずれが正、いずれがじゃ区別くべつすることはできぬ。ただおおかみが羊を食うごとく、きつねにわとりころすごとく、たんに一方が強くて、一方が弱かったというだけである。ヘッケルもこのありさまをみとめて著書ちょしょの中に「およ有機ゆうき生物のあらんかぎ暴力ぼうりょく正義せいぎに勝つ」と言い放っているが、わが国の「勝てば官軍かんぐん、負ければぞく」ということわざは同一の意味をさらに簡潔かんけつに言いあらわしている。かくのごとく人類じんるい生存せいぞん競争きょうそうにおいては各民族かくみんぞく自己じこの力のほかにたのむべきものなく、各自かくじ勢力せいりょく発展はってんせんとつねに尽力じんりょくしなければ生存せいぞんもおぼつかない。わが民族みんぞく利益りえきをそいで他の民族みんぞく利益りえきはかるごときはとうていのぞむべからざることである。しかしながら多数の民族みんぞくが相対立している場合にはあたかも個人こじん間におけるごとくに、たがいに交際こうさい円滑えんかつらしくするためには一種いっしゅ礼儀れいぎ挨拶あいさつ必要ひつようで、そのため一種いっしゅの人道らしきものが行なわれることもあるが、これは全く別問題べつもんだいぞくするゆえ、ここにはりゃくする。ただし、人間の社会ははなはだ複雑ふくざつなもので、すみずみまで明瞭めいりょうにしてしまってはかえっておもしろくないこともあるによって、このへんのところは曖昧あいまいにしておき、民族みんぞく間の人道のごときは深くろんぜず、ただこの語を善用ぜんようする工夫くふう肝要かんようであろう。てきをもあいすると言えばきわめてとおとく聞こえるが、これは個人こじん間においてのみ行なわれうべきことで、団体だんたい間においては自己じこころしててき位置いちゆずるのほかにてきあいしようはないゆえ、かかることば団体だんたい競争きょうそうをなすべき運命を有する人間にとっては全く不可能ふかのうの空想である。かにはいかにたてうことを理想としたとても、身体の性質せいしつがこれをゆるさねばいたし方がない。それよりはいかにもっともよく横にうべきかを研究したほうが利益りえきが多い。人間もそれと同じく、自分の性質せいしつにかなわぬできぬ理想をもとめんとするよりは、まず自分の真の性質せいしつを知り、自分のできる範囲はんい内においてもっともよきことをなすように心掛こころがけるのほかはない。なんじ自身を知れという古代からの文句もんくはこの意味に取るのがもっとも適当てきとうであると思う。
 人道にかんする問題は非常ひじょうに多くの研究をようする大問題であって、決して一回の短篇たんぺんろんじつくせるはずのものでない。とくにここにべたところはたんあらい点線で、われらの考えの輪廓りんかくを画いただけにぎず、例外れいがいとみなすべき場合はことごとくはぶき、親子間にあらわれる利他りた心のごときも全くりゃくしておいたゆえ、読者の胸中きょうちゅうにはたくさんの疑問ぎもんかんだであろうが、これらにかんしてはさらにを見てろんずるつもりである。もとよりわれら一個いっこ臆説おくせつぎぬが、ただ大体においては以上べたごときことは、過去かこ歴史れきしをも説明せつめいし、現在げんざいの事実にもあてはまり、また未来みらいのできごとにも符合ふごうするであろうとしんずるゆえ、人道を研究する専門せんもん学者の参考さんこうにもなろうかと思うてここにかかげたのである。
(明治三十八年十一月)





底本:「進化と人生(上)丘浅次郎集」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1906(明治39)年1月人道の正体 「中央公論」に掲載
校正:
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