人類の誇大狂

　精神病（せいしんびょう）患者（かんじゃ）の中には一種（いっしゅ）自分が非常（ひじょう）に有力な神聖（しんせい）なものである如（ごと）くに思ひ込（こ）んで、万事その積（つも）りで行ふ者がある。例（たと）へば自分が実際（じっさい）人力車夫（しゃふ）であるにも拘（かかわ）らず、総理（そうり）大臣（だいじん）に成（な）つた積（つも）りで、伊藤（いとう）を外務（がいむ）大臣（だいじん）にしやうか、井上（いのうえ）を内務（ないむ）大臣（だいじん）にしやうかなどと、其様（そのよう）なことばかりを考へ、医者が来れば之（これ）を秘書官（ひしょかん）の如（ごと）くに取扱（とりあつか）ひ、時々筆（ふで）を取つて、某（ぼう）を何県知事に任（にん）ずるとか、某（ぼう）を従（じゅう）何位（なんい）に叙（じょ）するとかいふ辞令（じれい）書を書いて居（い）る患者（かんじゃ）がある。また自分が実際（じっさい）、天秤棒（てんびんぼう）を担（かつ）ぐ八百屋（やおや）であるにも拘（かかわ）らず、神か仏（ほとけ）に成（な）つた積（つも）りで、総（す）べて極（きわ）めて尊大（そんだい）に構（かま）へる病人がある。斯様（かよう）な病症（びょうじょう）を医者の方では誇大狂と名づける。
　扨（さて）この誇大狂（こだいきょう）と云（い）ふ病気は瘋癲（ふうてん）病院（注：精神（せいしん）病院）に入つて居（い）る金箔（きんぱく）附（つき）の狂気（きょうき）に限（かぎ）ることであらうか。自分は健全（けんぜん）な積（つも）りで病院などには入らずに居（い）る我々（われわれ）は、決して此病（このやまい）に罹（かか）つては居（お）らぬか。我々（われわれ）は自分が実際（じっさい）あるよりは、遙（はるか）に高尚（こうしょう）な神聖（しんせい）な有力なものである如（ごと）くに思ひ込（こ）んで居（い）る様なことは決して無（な）いであらうか。此等（これら）の問題に答へるには、先づ我々（われわれ）の今日有する実験（じっけん）上の知識（ちしき）を基（もと）として虚心（きょしん）平気に宇宙（うちゅう）に於（お）ける人類（じんるい）の位置（いち）を考へ、其（そ）の結果（けっか）に照（て）らして判断（はんだん）しなければならぬが、斯（か）くして見ると、我々（われわれ）普通（ふつう）一般（いっぱん）の人間も多少この病気に罹（かか）つて居（お）らぬ者は無（な）い様である。
　抑々（そもそも）宇宙（うちゅう）とはどの位（くらい）の広さの有るものかと考へるに、晴天の夜に当つて天を仰（あお）げば、一面に星が見えるが、我（わ）が太陽系（たいようけい）に属（ぞく）する若干（じゃっかん）の遊星（ゆうせい）を除（のぞ）けば、他は総（す）べて太陽と同じ様な恒星（こうせい）で、肉眼（にくがん）で見えるものだけを算（かぞ）へても四五千はある。天文学者は地球に達（たつ）する光の強弱に依（よ）つて星を数等に分けるが、肉眼（にくがん）で見えるのは、其（そ）の中の一等星から六等星位（ぐらい）までに過（す）ぎぬ故（ゆえ）、極（きわ）めて小部分のみである。今日の望遠鏡（ぼうえんきょう）を用ひて見れば十九等星、二十等星などと称（しょう）する微（かすか）な星までも見える故（ゆえ）、その数を総計（そうけい）すると、少なく見積（みつも）つても二千万以上（いじょう）は有（あ）らう。然（しか）して此等（これら）の星は地球からどの位（ぐらい）の距離（きょり）にあるかと云（い）ふに、其（そ）の最（もっと）も近いものでも、地球まで光線が達（たつ）するには殆（ほとん）ど四年位（ぐらい）を要（よう）する。其（そ）の次に最（もっと）も近いものからは凡（およ）そ六年半を要（よう）する。遠いものに至（いた）つては、光線が地球まで達（たつ）するには数千年も掛（か）かる程（ほど）である。光線は一秒間に七万五千里（注：約30万キロメートル）も走る極（きわ）めて速力の速いもので、三千七百万里（注：約１億4,960万キロメートル）も距（へだ）つてある太陽から僅（わずか）に八分余（あまり）（注：約８分19秒）で地球に達（たつ）することが出来るが、此（こ）の非常（ひじょう）な速力を以（もつ）て数千年も掛（か）からねば届（とど）かぬと云（い）ふ様な距離（きょり）は到底（とうてい）我々（われわれ）には明（あきらか）に想像（そうぞう）することも出来ぬ。
　仮（かり）に或（あ）る人が地球から最（もっと）も近いアルファ、ケンタウリと云（い）ふ恒星（こうせい）まで移住（いじゅう）して、其所（そこ）から太陽系（たいようけい）の方を眺（なが）めたならば如何（いか）に見えるであらうかと云（い）ふに、たゞ太陽だけが一点の輝（かがや）く星と見えるのみで、其（そ）の周囲（しゅうい）を廻転（かいてん）する水星、金星、地球（ちきゅう）、火星等の如（ごと）きものは素（もと）より少しも見えぬに違（ちが）ひない。宇宙（うちゅう）の広さに比（くら）べては、我（わ）が太陽系（たいようけい）の如（ごと）きは殆（ほとん）ど何の大さもない一の点に過（す）ぎぬ。宇宙（うちゅう）には望遠鏡（ぼうえんきょう）で見えるだけでも、我（わ）が太陽系（たいようけい）と同等なものが二千万以上（いじょう）もあること故（ゆえ）、この地球（ちきゅう）の如（ごと）きは、宇宙（うちゅう）を公平に見渡（みわた）す際（さい）には到底（とうてい）勘定（かんじょう）に入（はい）る程（ほど）のものではない。然（しか）るに我々（われわれ）は此（こ）の微細（びさい）な地球（ちきゅう）の表面に住んで居（い）ながら、天地人を三才（さんさい）などと名づけて、天も人も同じ等級のものの如（ごと）くに信（しん）じて居（い）たのである。
　次に此（こ）の宇宙（うちゅう）の歴史（れきし）はどの位（ぐらい）の長さの有るものかと考へるに、之（これ）には殆（ほとん）ど手掛（てが）かりも無（な）い故（ゆえ）、計算の仕様もないが、我（わ）が地球（ちきゅう）のみに就（つい）て論（ろん）じても、到底（とうてい）百億年（ひゃくおくねん）とか千億年（せんおくねん）とか云（い）ふ様な短かいことではない（注：現在（げんざい）の知識（ちしき）では地球（ちきゅう）の年齢（ねんれい）は45.4±0.5億年（おくねん）。どうやって計算したのだろう？）。海の底（そこ）へ泥（どろ）が溜（たま）つて生じた所謂（いわゆる）水成岩（すいせいがん）（注：堆積岩（たいせきがん））の厚（あつ）さだけを測（はか）つても、日本の里数（注：１里＝3.92727273 キロメートル）にして十里以上（いじょう）もあるが、年々少し宛（づつ）溜（たま）つた泥（ろろ）が厚（あつ）さ十里以上（いじょう）もある堅牢（けんろう）な岩石になる迄（まで）には、凡（およ）そどの位（ぐらい）の年数を要（よう）するものであるか、我々（われわれ）には到底（とうてい）想像（そうぞう）も出来ぬ。然（しか）して水成岩（すいせいがん）の出来ぬ前の地球（ちきゅう）の歴史（れきし）がどの位（ぐらい）あつたか知れず、また地球（ちきゅう）の出来ぬ前の宇宙（うちゅう）の歴史（れきし）がどの位（ぐらい）あつたか知れぬ。されば我我（われわれ）から見れば宇宙（うちゅう）は其（そ）の広さに於（おい）て際限（さいげん）が無（な）い如（ごと）くに、其（そ）の古さに於（おい）ても際限（さいげん）の無（な）いものと見做（みな）さねばならぬ。地質（ちしつ）学者は水成岩（すいせいがん）の出来た時期を原始代（注：25億年前〜５億5,000万年前）、太古代（注：約５億4,200万〜約２億5,100万年前）、中古代（注：約２億5,217万年前〜約6,600万年前）、近古代（注：約6,500万年前〜現代まで）等に分ち、更（さら）に之（これ）を多くの期に分けるが、人骨（じんこつ）や石器（せっき）などが出て、慥（たしか）に人類（じんるい）が生存（せいぞん）して居（い）たと思はれるのは其（そ）の中の最後（さいご）の一期だけで、其（そ）の間に出来た地層（ちそう）の厚（あつ）さは全水成岩（すいせいがん）の厚（あつ）さに比（くら）べると僅（わずか）に数百分の一よりない故（ゆえ）、極（きわ）めて短かいものである。宇宙（うちゅう）の歴史（れきし）に対しては一個人（いちこじん）の命の長さなどが勘定（かんじょう）に入らぬは勿論（むろん）、人類（じんるい）なるものの歴史（れきし）も殆（ほとん）ど何の長さもない一点の如（ごと）くである。然（しか）して口碑（こうひ）や文字で今日まで伝（つた）はつてある歴史（れきし）は、又（また）この短い人類（じんるい）の歴史（れきし）の中の最後（さいご）の一小部分に過（す）ぎぬが、我々（われわれ）は之（これ）に「宇宙（うちゅう）の歴史（れきし）」（Universal History）などと云（い）ふ大層（たいそう）な名前を附（つ）けて居（い）たのである。
　地球（ちきゅう）の表面には人間の外に尚（なお）数十万種（しゅ）の生物が住んで居（い）るが、此等（これら）と人間との関係（かんけい）は如何（いか）と云（い）ふに、之（これ）は進化論（ろん）の書物を読めば直（ただち）に解（わ）かることである。即（すなわ）ち人間も他の動物と共同（きょうどう）な先祖（せんぞ）から分れ降（くた）つたもので、犬でも猫（ねこ）でも、豚（ぶた）でも人間でも、遠く溯（さかのぼ）れば先祖（せんぞ）は同一である、特（とく）に猿類（えんるい）とは比較（ひかく）的（てき）近い頃（ころ）までは全く区別（くべつ）は無（な）かつた。今日の動物分類（ぶんるい）学に依（よ）れば、人類（じんるい）は動物中の脊椎（せきつい）動物門の哺乳類（ほにゅうるい）の中なる猿類（えんるい）の中の狭鼻（きょうび）類（るい）と称（しょう）する一亜目（いちあもく）に属（ぞく）するもので、猩々（しょうじょう）、 狒々（ひひ）等（ら）と同じ亜目（あもく）の中に編入（へんにゅう）せられてあるが、之（これ）は以上（いじょう）の関係（かんけい）を現（わら）はしたものである。この進化論（ろん）なるものは今日の所では、学問上已（すで）に確定（かくてい）した事実で、最早（もはや）彼此（あれこれ）その当否（とうひ）を議論（ぎろん）すべき性質（せいしつ）のものではない、現今（げんこん）なほ之（これ）を疑（うたが）ふ人のあるのは唯（ただ）生物学上の知識（ちしき）の不足（うそく）に基（もとづ）くことである。人間も他の獣類（じゅうるい）と共同（きょうどう）な先祖（せんぞ）から分れ降（くた）つたことは最早（もはや）疑（うたが）ふべからざる事実で、其（そ）の所業（しょぎょう）に至（いた）つても、一は天真の儘（まま）に行ひ、一は表を飾（かざ）り裏（うら）を隠（かく）して行ふと云（い）ふ相違（そうい）を除（のぞ）けば、両方ともに殆（ほとん）ど相（あい）同じく、孰（いず）れも食慾（しょくよく）と色慾（しきよく）との為（ため）に働（はたら）いて、知らず識（し）らず自己（じこ）の種属（しゅぞく）の維持（いじ）に務（つと）めて居（い）るに過（す）ぎぬが、我我（われわれ）は今日まで親類（しんるい）縁者（えんじゃ）なる他の動物等を特（とく）に畜生（ちくしょう）と名づけ、自分だけは、万物の霊（れい）と称（しょう）して、彼等（かれら）とは全く相離（あいはな）れた一種（いっしゅ）の霊妙（れいみょう）不可思議（ふかしぎ）なものの如（ごと）くに思ひ込（こ）んで居（い）たのである。
　自分は人間を止（や）めて、虚心（きょしん）平気で宇宙（うちゅう）を横から眺（なが）めて居（い）る心持に成（な）つて見ると、宇宙（うちゅう）に於（お）ける人間の価値（かち）は略々（ほぼ）次の如（ごと）くである。先づ際限（さいげん）も無（な）い広い空間に幾（いく）千万かの大きな火の玉が転がつて、各々（おのおの）輝（かがや）いて居（い）る。其（そ）の中の一つに近づいて丁寧（ていねい）に調べて見ると、其時（そのとき）まで見えなかつた光を放たぬ小さな玉が幾（いく）つか其（そ）の周囲（しゅうい）を廻転（かいてん）して居（い）ることを発見する、此（こ）の小さな玉の中の一個（いっこ）が地球（ちきゅう）である。更（さら）に近よつて此（こ）の地球（ちきゅう）の表面を検査（けんさ）すると、象（ぞう）の身体に虱（のみ）が附（つ）いたよりも遙（はるか）に微細（びさい）な生物が無数（むすう）に住んで居（い）ることを見出すが、其（そ）の若干（じゃっかん）を摘（つ）み取つて、之（これ）を廓大（かくだい）して見ると、其（そ）の中に人類（じんるい）と云（い）ふ一種（いっしゅ）が混（ま）じて居（い）るのである。次に稍々（やや）昔の頃（ころ）から今日まで宇宙（うちゅう）の変遷（へんせん）を見物して居（い）た積（つも）りに成（な）つて見ると、人類（じんるい）の過去（かこ）は略々（ほぼ）次の如（ごと）くである。宇宙（うちゅう）全体から見れば、殆（ほとん）ど勘定（かんじょう）にも入らぬ此（こ）の地球（ちきゅう）の歴史（れきし）の中の或（あ）る時期に至（いた）つて、地球（ちきゅう）の表面に無機（むき）物から漸々（ぜんぜん）変化（へんか）して極（きわ）めて簡単（かんたん）な生物が生じ、之（これ）が先祖（せんぞ）となつて、其（そ）の子孫（しそん）が発達（はったつ）進化し、時と共（とも）に種類（しゅぞく）の数が増加（ぞうか）して、終に今日見る如（ごと）き数十万種（しゅ）の動植物が出来たが、人間はたゞ其（そ）の中の一種（いっしゅ）で、他の動物と全く同一の自然（しぜん）の法則（ほうそく）に従（したが）ひ、全く同一の進化の原理に基（もとづ）いて発達（はったつ）し来つたもので、今日もなほ変遷（へんせん）の途中（とちゅう）に居（い）るのである。
　以上（いじょう）述（の）べた所は決して勝手に想像（そうぞう）したことではなく、単（たん）に星学上、地質（ちしつ）学上、生物学上の研究によつて、已（すで）に確定（かくてい）した事実だけを列べたに過（す）ぎぬ。星を覗（のぞ）き、地殻（ちかく）を調べ、生物を検査（けんさ）しさへすれば、誰（だれ）でも自分の眼（め）で見ることの出来る実際（じっさい）の事実ばかりを述（の）べたのであるから、誰（だれ）が何と議論（ぎろん）しても上述（じょうじゅつ）の事項（じこう）は決して動かすことの出来ぬ性質（せいしつ）のものである。されば今日の所では之（これ）を以（もつ）て真実と見做（みな）し、之（これ）と矛盾（むじゅん）することを誤（あやまり）と見做（みな）すの外に致（いた）し方はない。して見ると、一刻（いっこく）でも以上（いじょう）説（と）いた如（ごと）き宇宙（うちゅう）に於（お）ける人類（じんるい）の価値（かち）を忘（わす）れて、実際（じっさい）あるよりは遙（はるか）に高尚（こうしょう）な有力な神聖（しんせい）なものである如（ごと）くに思ひ込（こ）むことは、総（す）べて誇大狂（こだいきょう）の範囲（はんい）に属（ぞく）するものと見做（みな）すべきであらう。
　さて斯様（かよう）に考へて、今日の哲学（てつがく）、倫理（りんり）、教育、宗教（しゅうきょう）などの書物を見ると、殆（ほとん）ど一冊（いっさつ）として誇大狂（こだいきょう）の徴候（ちょうこう）を現（あら）はして居（い）ぬものはない。特（とく）に哲学（てつがく）などと云（い）ふものは、僅（わずか）に三斤（注：１．８キログラム）ばかりの、然（しか）も尚（なお）進化の途中（とちゅう）にある所の自己（じこ）の脳髄（のうずい）の働（はたら）きのみに依（よ）つて宇宙（うちゅう）万物を解釈（かいしゃく）し尽（つく）さうと務（つと）めるのであるから、誇大狂（こだいきょう）の中でも随分（ずいぶん）甚（はなはだ）しい方である。先年或（あ）る少年が宇宙（うちゅう）の解（かい）すべからざることを苦に病（や）んで華厳（けごん）の滝（たき）へ飛（とび）び込（こ）んだとて世間大評判（ひょうばん）であつたが、若（も）しそれが真の原因（げんいん）であつたとしたならば、此等（これら）は誇大狂（こだいきょう）の極端（きょくたん）に達（たつ）したものであらう。其（そ）の当人及（およ）び親族等に対しては実に気の毒（どく）の情（じょう）に堪（たえ）えぬが、冷（ひややか）に其（そ）の所行（しょぎょう）を観察（かんさつ）すれば、子守の脊（せ）に負はれて居（い）る幼児（ようじ）が僅（わずか）に一尺（注：３０ｃｍ）にも足らぬ短かい腕（うで）を延（の）ばして十万里（注：平均38万4,400ｋｍ）も先にある月を取らうとして、手が届（とど）かぬとて泣（な）き出したのと理窟（りくつ）は少しも違（ちが）はぬ。幼児（ようじ）は自分の腕（うで）が一尺（いっしゃく）にも足らぬことも、月が十万里距（へだ）つてあることも考へず、たゞ腕（うで）さへ延（の）ばせば手が届（とど）く筈（はず）であると思ひ込（こ）んで掛（か）かる故（ゆえ）、幾（いく）ら腕（うで）を延（の）ばしても手が届（とど）かぬとて泣（な）き出すのであるが、哲学（てつがく）者の方も之（これ）と同様で、宇宙（うちゅう）の大なることも、自分の小なることも、また自分の脳髄（のうずい）が尚（なお）進歩の中段（ちゅうだん）にあることも皆（みな）忘（わす）れて、たゞ考へさへすれば宇宙（うちゅう）は解釈（かいしゃく）し尽（つく）せる筈（はず）であると思ひ込（こ）んで掛（か）かる故（ゆえ）、幾（いく）ら考へても解（わか）らぬとて苦に病（や）むのである。今日の実験（じっけん）学上の知識（ちしき）を基（もと）として虚心（きょしん）平気に考へて見ると、脳髄（のうずい）なるものも、胃（い）、腸（ちょう）、肺（はい）、肝（かん）等（など）の如（ごと）き他の臓腑（ぞうふ）と同様に、たゞ生存（せいぞん）競争（きょうそう）に必要（ひつよう）な程度（ていど）までにより発達（はったつ）しては居（お）らぬ故（ゆえ）、俗人（ぞくじん）的（てき）の普通（ふつう）の生活には僅（わずか）に間に合うて行くが、それより遙（はるか）に高尚（こうしょう）な目的（もくてき）のために用ひては其（そ）の効力（こうりょく）は頗（すこぶる）る覚束（おぼつか）ないものと認（みと）めねばならぬ。我々（われわれ）が宇宙（うちゅう）を解釈（かいしゃく）し尽（つく）し得（え）ぬは素（もと）より当然（とうぜん）のことで、幼児（ようじ）の腕（うで）が月に届（とど）かぬのと少しも違（ちが）うたことはない。誤解（ごかい）を防（ふせ）ぐために此所（ここ）に一言して置（お）くが、我等（われら）は斯（か）く云（い）へばとて、決して総（す）べての哲学（てつがく）を無用視（むようし）する訳（わけ）ではない。物の原因（げんいん）を探（さぐ）り理由を求（もと）めると云（い）ふ哲学（てつがく）的（てき）精神（せいしん）は何（いず）れの学問にも必要（ひつよう）で、此（こ）の精神（せいしん）なしには殆（ほとん）ど学問なるものは成（な）り立たぬ。また各科（かくか）に分れた専門（せんもん）学の研究の結果（けっか）を此（こ）の精神（せいしん）を以（もつ）て綜合（そうごう）し統一（とういつ）するために、特（とく）に哲学（てつがく）の必要（ひつよう）なることをも確（たしか）に認（みと）める。我等（われら）はたゞ経験（けいけん）を度外視（し）した如（ごと）き従来（じゅうらい）の哲学（てつがく）系統（けいとう）では役に立たぬと思ふのみである。
　世の中にはまた厭世（えんせい）主義（しゅぎ）などと称（とな）へて、実際（じっさい）の此世（このよ）の成（な）り行きを罵（ののし）つて自ら高しとする人々があるが、之（これ）も誇大狂（こだいきょう）の増進（ぞうしん）した結果（けっか）である。厭世（えんせい）論（ろん）者の云（い）ふ所を約言（やくげん）すれば、たゞ此世（このよ）の中が自分の理想（りそう）通りには成（な）つて居（い）ない、此様（このよう）な世の中ならば寧（むしろ）ろ無（な）い方が遙（はるか）に優（まさ）つて居（い）ると云（い）ふに過（す）ぎぬ。成（な）る程（ほど）実際（じっさい）の世の中を見れば、決して芝居（しばい）でする如（ごと）くに、最後（さいご）の幕（まく）に至（いた）つて善人（ぜんにん）は必（かなら）ず栄（さか）え、悪人は必（かなら）ず亡（ほろ）びるとは限（かぎ）らぬ。寧（むし）ろ正が倒（たお）れ邪（じゃ）が蔓（はびこ）るのが今の世の常態（じょうたい）で、正直で一生懸命（けんめい）に（かせ）いでも其日（そのひ）其日を喰（く）ひ兼（かね）ねて居（い）る者が更（さら）に思はぬ災難（さいなん）に遇（あ）ふこともあれば、横着至極（しごく）不届（ふとどき）千万なことをして、大金を儲（もう）けた者が、一生涯（いっしょがい）は素（もと）より、子や孫（まご）の代まで栄華（えいが）に暮（くら）して居（い）ることもある。然（しか）しながら之（これ）は明（あきらか）に今日までの社会の制度（せいど）に不条理（ふじょうり）な点があつたにも基（もとづ）くこと故（ゆえ）、之（これ）を見て自己（じこ）の属（ぞく）する社会の改良（かいりょう）に志（こころざ）すならば人間の分相当（そうとう）のこととして敢（あえ）へて不思議（ふしぎ）はないが、単（たん）に懐手（ふところで）をしながら憤（いきどお）つて見たり、世を厭（きら）うたりするのは、確（たしか）に人類（じんるい）の真価（しんか）を見誤（みあやま）り自分の小なることをも打忘（うちわす）れた結果（けっか）である。凡（およ）そ世の中を進歩せしめるには、理想と云（い）ふことも素（もと）より大切であるが、理想には出来る理想と出来ぬ理想とがある。単（たん）に理想としてはユートピアに書いてある様に、小便（しょうべん）壷（つぼ）や罪人（ざいにん）の鎖（くさり）を黄金で造（つく）つて、世人に黄金を卑（いやし）む癖（くせ）を生ぜしめやうと考へるのも勝手であるが、実際（じっさい）に行はれぬ様な理想ならば何の役にも立たぬ。自分で勝手に人間なるものを高く買ひ被（かむ）り、実際（じっさい）の人間には到底（とうてい）適（てき）せぬ様な高尚（こうしょう）な理想の世界を想像（そうぞう）し、現在（げんざい）の世の中が其（その）通りに成（な）つて居（お）らぬと云（い）うて憤（いきどお）るのは、憤（いきどお）る方の無理（むり）であらう。石が下へ落ちるとか、水が低（ひく）い方へ流れるとか、強い者が勝つて弱い者が敗（ま）けるとか、適（てき）する者が栄（さか）え適（てき）せぬ者が亡（ほろ）びるとか云（い）ふ様な経験（けいけん）に基（もとづ）いた結論（けつろん）は、何時（いつ）でも何所（どこ）でも先づ間違（ちが）ひはないが、人間が自分の脳中（のうちゅう）で勝手に考へたことは、素（もと）より人間の脳中（のうちゅう）だけに限（かぎ）られてあつて、少しも宇宙（うちゅう）の知つたことではない。それ故（ゆえ）、人間が如何（いか）に論（ろん）じやうとも柳（やなぎ）は緑、花は紅（くれない）（注：宋（そう）時代の詩人、蘇東坡（そとうば）が春の景色（けしき）を自然のままで人工が加わっていないさま詠（うた）った言葉）で一向頓着（とんちゃく）はせぬ。宇宙（うちゅう）に於（お）ける人類（じんるい）の真価（しんか）を打ち忘（わす）れ、宇宙（うちゅう）が自分の注文通りに成（な）つて居（い）ないとて、肝癪（かんしゃく）を起して居（い）るのが所謂（いわゆる）厭世（えんせい）家の態度（たいど）である。
　他の例（れい）を挙（あ）げることは一切略（りゃく）するが、以上（いじょう）述（の）べた如（ごと）き考へを持つて、今日世に行はれて居（い）る倫理（りんり）、教育、哲学（てつがく）、宗教（しゅうきょう）等の書物を開いて見れば、誇大狂（こだいきょう）的（てき）妄想（もうそう）の例（れい）は幾（いく）らでも選（えら）み出すことが出来る。或（あ）る一種（いっしゅ）の方面に於（おい）ては特（とく）に近来に至（いた）つて著（いちじる）しい適例（てきれい）が殖（ふ）えた様である。元来誇大狂（こだいきょう）も他の狂気（きょうき）と同じく実際（じっさい）と違（ちが）うたことを真実と思ひ込（こ）んで居（い）るのである故（ゆえ）、その儘（まま）に捨（す）て置（お）いては病的（びょうてき）妄想（もうそう）を基礎（きそ）として其（そ）の上へ種々（しゅしゅ）の間違（まちが）うた議論（ぎろん）を積（つ）み上げ、之（これ）を実際（じっさい）に行はうとするから、結局（けっきょく）世の進歩の妨（さまた）げをなすに極（きわみ）つて居（い）る。それ故（ゆえ）、社会の進歩発達（はったつ）を計（はか）るには先（ま）づ之（これ）を治療（ちりょう）することが必要（ひつよう）である。然（しか）るに此（こ）の誇大狂（こだいきょう）と云（い）ふ病気は他の精神病（せいしんびょう）と同様に著（いちじる）しい遺伝性（でんせんせい）を有するもので、之（これ）を治（なお）することは中中一朝一夕（いっちょういっせき）には出来ぬ。今より三百何十年か前にコペルニクスが地動説（せつ）を唱（とな）へ出し、後（のち）ニュートンが引力の説（せつ）を公（おおやけ）にしたので地球（ちきゅう）は太陽系（たいようけい）に属（ぞく）する一遊星（いちゆうせい）に過（す）ぎぬことが明（あきらか）になり、地球（ちきゅう）を中心とする妄想（もうそう）は打ち破（やぶ）られ、また今より五十二年前にダーウィンが生物進化論（しんかろん）を確（たしか）め、自然（しぜん）淘汰（とうた）の説（せつ）を出したので、人間も哺乳（ほにゅう）獣（じゅう）の一種（いっしゅ）で、猿（さる）と共同（きょうどう）の先祖（せんぞ）から分れ降（くた）つたことが明（あきらか）になり、人類（じんるい）だけを特別（とくべつ）霊妙（れいみょう）なものとする妄想（もうそう）は打ち破（やぶ）られて、此（こ）の病気の治療（ちりょう）の道も漸々（ぜんぜん）備（ととの）はつて来た。然（しか）し此等（これら）に関（かん）する学科が未（いま）だ世間一般（いっぱん）に十分に普及（ふきゅう）せぬ故（ゆえ）、今日の所では、斯（か）くの如（ごと）くして治療（ちりょう）せられた者は尚（なお）僅（わずか）に星学、地質（ちしつ）学、生物学等の如（ごと）き理科の全体を広く覗（うかが）うた少数の人々に限（かぎ）られてあつて、其他（そのほか）に至（いた）つては、未（いま）だ先祖（せんぞ）代々からの遺伝（いでん）で此（こ）の病気に罹（かか）つて居（い）る。
　昔から盲（めくら）千人、目明（めあき）三人と云（い）ふ通り、理窟（りくつ）の解（わか）る人が何時（いつ）も世間に少ないのは素（もと）より免（まぬが）れぬが、せめて学問でもして世に先んじて進まうと云（い）ふ人々だけなりとも、一刻（いっこく）も速く誇大狂（こだいきょう）の範囲（はんい）を脱（だつ）して、実験（じっけん）科学上確定（かくてい）した事実に基（もとづ）き、公平な眼（め）を以（もつ）て人類（じんるい）を観察（かんさつ）し、其（そ）の結果（けっか）を利用（りよう）して世を益（えき）する方法（ほうほう）を工夫（くふう）して貰（もら）ひたいものである。社会は何時（いつ）も少数の導（みちび）く者と、多数の導（みちび）かれる者とから成（な）り立つて居（い）るが、書物や論説（ろんせつ）などを書いて世人を導（みちび）く側（がわ）に立つ人々だけなりとも、常（つね）に実験（じっけん）科学上確定（かくてい）した事実を眼（め）から離（はな）さぬ様にして、何事を考へるに当つても、宇宙（うちゅう）に於（お）ける人間の真の価値（かち）を忘（わす）れず、之（これ）を標準（ひょうじゅん）として打算（ださん）する様に致（いた）したいものである。星学、地質（ちしつ）学、生物学は誇大狂（こだいきょう）治療（ちりょう）学科とも称（しょう）すべき性質（せいしつ）の学科で、此等（これら）の大要（たいよう）（注：あらまし。概要（がいよう））を合せ心得（こころえ）て居（い）れば誇大狂（こだいきょう）を防（ふせ）ぐことも出来る故（ゆえ）、如何（いか）なる学問を修（おさ）めやうとする人々に対しても、其（そ）の専門（せんもん）の学科の傍（かたわ）ら常（つね）に上述（じょうじゅつ）の三学科の大要（たいよう）だけを学ぶことを切に希望（きぼう）せざるを得（え）ぬ。其（そ）の中でも特（とく）に生物学科は人間をも含（ふく）む生物界を研究して自然（しぜん）に於（お）ける人類（じんるい）の位置（いち）を明（あきらか）にする特殊（とくしゅ）の学科であるから凡（およ）そ人間に関（かん）する学問を修（おさ）める人々には、是非（ぜひ）とも其（そ）の大体を学んで置（お）く必要（ひつよう）があらう。斯（か）くして世人が皆（みな）自然（しぜん）に於（お）ける人類（じんるい）の位置（いち）を知り人間の脳力（のうりょく）の真価（しんか）を悟（さと）るやうに成（な）つたならば、今日世上に流行して居（い）る如（ごと）き空理空論（くうろん）は全く顧（かえりみ）る者が無（な）くなり、所謂（いわゆる）精神（せいしん）科学に於（おい）ても誇大狂（こだいきょう）のために議論（ぎろん）の出発点から、已（すで）に間違（まちが）ふ如（ごと）き虞（おそ）れがなく研究の方法（ほうほう）も追々（おいおい）改（あらた）まつて、終（つい）には実際（じっさい）と一致（いっち）する様な理論（りろん）に達（たつ）することが出来るであらう。