人類の生存競争

　世には人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）と他の動物の生存競争（せいぞんきょうそう）とは全く種類（しゅるい）の違（ちが）うたものであると考える人がある。中には高等動物になればなるほど、生存（せいぞん）の競争（きょうそう）がゆるやかになり、下等動物に見るがごとき咬（か）み合い殺（ころ）し合うような残酷（ざんこく）なことはなくなってしまう、今日人類（じんるい）に生存競争（せいぞんきょうそう）のなお絶（た）えぬのはいまだ人類（じんるい）が不完全（ふかんぜん）なるゆえであって、人類（じんるい）が今日よりも進歩さえすればついに全く生存競争（せいぞんきょうそう）はなくなるという説（せつ）を唱（とな）える人もある。また世の文明が進めば、今日おのおの独立（どくりつ）している国々はすべて連邦（れんぽう）となり、全世界を統一（とういつ）した一大合衆国（がっしゅうこく）ができて国と国との争（あらそ）いはなしにすむようになると論（ろん）ずる人もある。われらから見ればこれはいずれもよほど間違（まちが）うた説（せつ）で、もしまじめにかような説（せつ）を信（しん）ずる人が多数にあったならば、国としての平素（へいそ）の用意に悪い影響（えいきょう）をおよぼすかもしれぬから、ここにいささか他の動物に比（ひ）して人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）を論（ろん）じてみようと思う。
　動物でも植物でもおよそ生きている物は実際（じっさい）生存（せいぞん）しうべき数に比（ひ）して数倍、数百倍もしくは数万倍の子を産（う）み、その上、代の重なるごとに幾何（きか）級数的に増加（ぞうか）してゆくゆえ、最（もっと）も少数の子を産（う）む種類（しゅるい）といえども、もし、それがことごとく生存（せいぞん）し繁殖（はんしょく）したならばたちまち非常（ひじょう）な数となるわけで、とうてい生存（せいぞん）のための競争（きょうそう）をまぬがれえない。人間は他の動物に比（ひ）すると子を産（う）むことのはなはだ少ないものではあるが、それでも女一人が平均四人半以上の子を産（う）む勘定（かんじょう）になっているゆえ、生存競争（せいぞんきょうそう）をまぬがれえぬことは全く他の動植物と同じである。しかしながら人間では生存競争（せいぞんきょうそう）のありさまがよほど他の動物の状態（じょうたい）とは違（ちが）うて個人（こじん）と個人（こじん）とが咬（か）み合い殺（ころ）し合うことはいたってまれで、かえって個人（こじん）と個人（こじん）とが互（たが）いに助け合う場合も少なくないゆえ、その点だけを見ると人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）は、他に比（ひ）してすこぶるゆるやかであるごとくに見える。動物は高等なものになるほど生存競争（せいぞんきょうそう）がゆるやかになるなどという説（せつ）はおそらくこれに基（もと）づいたものであろう。
　およそ動物を互（たが）いに比較（ひかく）して甲乙（こうおつ）いずれのほうの生存競争（せいぞんきょうそう）がはげしいかを論（ろん）ずる場合には、各（かく）動物の生存競争（せいぞんきょうそう）の全部を残（のこ）りなく観察（かんさつ）して、互（たが）いにくらべねばならぬ。甲（こう）動物の生存競争（せいぞんきょうそう）の一部と乙（おつ）動物の生存競争（せいぞんきょうそう）の全部とを比較（ひかく）して、甲（こう）におけるよりも乙（おつ）のほうが競争（きょうそう）が劇烈（げきれつ）なりなどと考えるのはむろん大なる誤（あやま）りである。動物には各個体（かくこたい）が単独（たんどく）に生活するものと、多数の個体（こたい）が集まって団体（だんたい）を造（つく）るものとがあって、単独（たんどく）生活をする動物ならば個体（こたい）間の生存競争（せいぞんきょうそう）がその動物の生存競争（せいぞんきょうそう）の全部であるが、団体（だんたい）生活をする動物では生存競争（せいぞんきょうそう）は主として団体（だんたい）と団体（だんたい）との間に行なわれ、個体（こたい）間の競争（きょうそう）のごときはわずかにその一小部分に過（す）ぎぬ。もっとも完結（かんけつ）した団体（だんたい）を造（つく）るものでは団体（だんたい）間の生存競争（せいぞんきょうそう）が、すなわちその動物の生存競争（せいぞんきょうそう）の全部であって、同一団体（だんたい）に属（ぞく）する個体（こたい）の間には少しも競争（きょうそう）はない。されば、単独（たんどく）生活をする野獣（やじゅう）の生存競争（せいぞんきょうそう）と、団体（だんたい）生活をする人類（じんるい）の個人（こじん）間の生存競争（せいぞんきょうそう）とを比較（ひかく）して、あれは猛烈（もうれつ）なり、これはゆるやかなりと論（ろん）ずるのは全く標準（ひょうじゅん）の異（こと）なったものをくらべているので、実は大間違（おおまちが）いなことである。真に人類（じんるい）と他の動物との生存競争（せいぞんきょうそう）を比較（ひかく）しようと思わば、よろしく人間社会に現（あら）われる各（かく）階段（かいだん）の生存競争（せいぞんきょうそう）を合計し、これを人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）の総額（そうがく）と見なして論（ろん）ずべきわけであるが、かくして見ると、われら人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）のはげしさはごうも野獣類（やじゅうるい）に劣（おと）らぬのみならず、むしろはるかにこれを超（こ）えていると言わねばならぬ。
　そもそも人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）はいかなるものの間に行なわれるかというに、個体（こたい）間にも行なわれ、団体（だんたい）間にも行なわれ、団体（だんたい）という中にももっとも大なるものからもっとも小なるものまで、その間に無数（むすう）の階級があるが、いずれの階級の団体（だんたい）でも、互（たが）いの間にはことごとく生存競争（せいぞんきょうそう）が行なわれているのである。県会議員（ぎいん）や市会議員（ぎいん）になりたがる候補（こうほ）者間の競争（きょうそう）、同じ町内に同じ商売をする店と店との競争（きょうそう）、長らくある事業を独占（どくせん）していた旧（きゅう）会社と新たに設（もう）けられた同種（どうしゅ）の会社との競争（きょうそう）、なるべく多数を占（し）めて早く勢力（せいりょく）を張（は）らんとする政党（せいとう）間の競争（きょうそう）などは常（つね）に目前に見ることであり、毎日の新聞紙上にも出てくるゆえ、特（とく）に例（れい）をあげる必要（ひつよう）はない。かくのごとく人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）はいずれの階段（かいだん）にも必（かなら）ずあるが、そのいちばん上に位する階段（かいだん）は現在（げんざい）のところでは国である。人類（じんるい）が国を成（な）して生存（せいぞん）し、国と国とが互（たが）いに対立している以上は、国内における個人（こじん）間の競争（きょうそう）でも、小団体（しょうだんたい）間の競争（きょうそう）でも、むろん敵国（てきこく）に対して自国を危（あや）うくする心配のない程度（ていど）に限（かぎ）られねばならぬ。道徳（どうとく）や法律（ほうりつ）はそのためにできたもので、もし国内の者がみな道徳（どうとく）や法律（ほうりつ）を眼中（がんちゅう）におかず絶対（ぜったい）に相争（あいあらそ）うたならば、その国はたちまち敵（てき）の乗ずるところとなって、一刻（いっこく）も存在（そんざい）することはできぬ。すなわち人類（じんるい）の個人（こじん）間または小団体（しょうだんたい）間の競争（きょうそう）はなおその上に位（くらい）する国という団体（だんたい）のために常（つね）に制限（せいげん）せられているから、単独（たんどく）生活をして思うままに最後（さいご）の勝負までを争（あらそ）う野獣（やじゅう）の生存競争（せいぞんきょうそう）とは全くわけが違（ちが）う。これに反して、人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）における最大（さいだい）単位（たんい）なる国と国との競争（きょうそう）になると、もはや少しも制限（せいげん）せられるところがないから、全く猛獣（もうじゅう）の相戦（あいたたか）うのと異（こと）ならず、強ければ勝って栄（さか）え、弱ければ負けて衰（おとろ）える。これは歴史（れきし）上の事実を見ても現在（げんざい）の状態（じょうたい）を見ても、きわめて明らかに知れることで、人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）もこの階級まで押（お）し詰（つ）めてくると、虎（とら）や狼（おおかみ）の咬（か）み合い殺（ころ）し合いと毫末（ごうまつ）も違（ちが）わぬ。
　団体（だんたい）として敵（てき）に当たる場合には内部の一致が何よりも必要（ひつよう）であるが、団体（だんたい）生活をする動物には自然（しぜん）にこの性質（せいしつ）が備（そな）わっている。敵国（てきこく）と戦（たたか）う際（さい）には挙国（きょこく）一致（いっち）と称（しょう）して、人民（じんみん）は重い税（ぜい）を払（はら）わせられながら一言の苦情（くじょう）も言わぬ。目の前に商売がたきの店があると挙店（きょてん）一致（いっち）も行なわれやすく、倒（たお）すべき相手の会社ができると挙社（きょしゃ）一致（いっち）も容易（ようい）に行なわれる。すべて外に敵（てき）がある間は内部は固（かた）く団結（だんけつ）するが、敵（てき）がなくなるととかく内部に争（あらそ）いが起こる。手腕（しゅわん）ある政治（せいじ）家はこの辺（へん）の消息（しょうそく）に通じ巧（たく）みに国民（こくみん）の敵愾心（てきがいしん）を外に向けて国内の紛擾（ふんじょう）を避（さ）けることがある。団体（だんたい）の内部の争（あらそ）いのために費（つい）やす力は団体（だんたい）が外に向うて働（はたら）く力から引き去られるゆえ、かかる団体（だんたい）は充分（じゅうぶん）に敵（てき）と戦（たたか）うことはできぬ。内部に毫（ごう）も争（あらそ）いのない理想的（りそうてき）の団体（だんたい）は全力を敵（てき）に向けることができるゆえ、かかる団体（だんたい）間の競争（きょうそう）はきわめて劇烈（げきれつ）である。これらのことを総合して考えてみると、団体（だんたい）が外に向うて行なう競争（きょうそう）と、その内なる各（かく）部の間の競争（きょうそう）とは、一定の関係（かんけい）を有し、一方が増（ま）せば他方が減（げん）じて、つねに相反対に増減（ぞうげん）するものなることが分かる。人類（じんるい）のごときは国と国とで相争（あいあらそ）うゆえ、国内の各（かく）部分の間に無制限（むせいげん）の競争（きょうそう）は行なわれがたく、また国内の各（かく）部分の間に競争（きょうそう）があるゆえ、国と国との間にも思い切った殺（ころ）し合いは容易（ようい）にできず、いずれも充分（じゅうぶん）な働（はたら）きができない。人類（じんるい）の国と国との間には絶（た）えず小紛擾（しょうふんじょう）がありながら、容易（ようい）に大戦争の始まらぬのは、全く各（かく）国ともにその内部に競争（きょうそう）があるためである。さればこの姿（すがた）を見て、人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）は他の動物に比（ひ）してゆるやかなりと思うのは、これまた大なる誤（あやま）りと言わねばならぬ。
　生存競争（せいぞんきょうそう）なるものはいかなる場合においても、必（かなら）ず物資（ぶしつ）の供給（きょうきゅう）と需要（じゅよう）との不権衡（ふけんこう）から生ずるのである。それゆえ、生存競争（せいぞんきょうそう）のはげしさは全く需要（じゅよう）と供給（きょうきゅう）との不権衡（ふけんこう）の程度（ていど）に比例（ひれい）せざるをえない。二匹（にひき）の犬に二匹（にひき）分の肉を分けて与（あた）えれば争（あらそ）いは起こらぬが、一匹分（いっぴきぶん）の肉を見せるとただちに喧嘩（けんか）が始まる。十名の新入学を許（ゆる）すべきところへ、二十名の志願者（しがんしゃ）があればとうてい競争（きょうそう）は避（さ）けられぬが、もし五十名の志願者（しがんしゃ）があればさらに劇烈（げきれつ）に競争（きょうそう）せねばならぬ。人類（じんるい）の国と国との競争（きょうそう）もこれと同じく、アジアやアフリカになお取るべき広い地面のある間は劇烈（げきれつ）な競争（きょうそう）にもおよばぬが、すみずみまで分割（ぶんかつ）して、経営（けいえい）しつくした暁（あかつき）にはいかに成（な）り行くことか、おそらく今日よりさらに劇烈（げきれつ）な競争（きょうそう）を避（さ）けることはできぬであろう。世界の人口の増加（ぞうか）するにしたがい、個人（こじん）間にも、団体（だんたい）間にも生存競争（せいぞんきょうそう）のますますはげしく成（な）り行くはまぬがれざるところであるが、個人（こじん）と個人（こじん）との間には道徳（どうとく）や法律（ほうりつ）の制裁（せいさい）があるに反し、国と国との間にはかようなものは一切ないから、弱い国は今後ますます逆境（ぎゃっきょう）におちいり、ついには他に滅（ほろ）ぼされるのほかはない。今日小さくて弱い国が大きく強い国の間にはさまれて独立（どくりつ）している例（れい）もあるが、これはやはり列国の生存競争（せいぞんきょうそう）の結果（けっか）で、決して隣（となり）の国が内心からその国の独立（どくりつ）を尊重（そんちょう）しているわけではない。それゆえ、今後ある機会（きかい）に遇（あ）えばおそらくいずれかに併呑（へいどん）せられるをまぬがれぬであろう。また決して他の国を攻（せ）め取らぬという平和主義を看板にしている国もあったが、かかる国は必（かなら）ず土地が広く人口が少なくて、他国を取る必要（ひつよう）のない国柄（くにがら）のもののみである。しかもこれはいつまでも続（つづ）くわけではなく、人口が稠密（ちゆうみつ）となって形勢（けいせい）が変（か）わってくると、いつの間にか先の宣言（せんげん）を忘（わす）れて、他国を攻撃（こうげき）するにいたるが、実にやむを得（え）ざることである。されば平和主義（しゅぎ）を唱（とな）える国はもちろんほめておくべきであるが、いつまでもこれが続（つづ）くと考えるのは大間違（ちが）いで、他日敵国（てきこく）となるの資格（しかく）は充分（じゅうぶん）あるものと覚悟（かくご）しなければならぬ。要（よう）するに人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）における最大（さいだい）単位（たんい）なる国と国との間の競争（きょうそう）はとうてい避（さ）けがたいことであって、今後人口の増加（ぞうか）、土地の開拓（かいたく）とともにますます劇烈（げきれつ）になるものとみなすのが適当（てきとう）である。
　しからば国と国とが連合（れんごう）することがあるのはなぜかというに、これは連合（れんごう）しなければ自分の生存（せいぞん）が危（あや）うくなるごときときに限（かぎ）るのである。狼（おおかみ）でさえも一匹（いっぴき）で手に合わぬものに対するときは力をあわせる。たとえば大きな牛を取るときなどは四五十匹（ひき）も狼（おおかみ）が団結（だんけつ）することさえあるが、国と国との連合（れんごう）同盟（どうめい）などいうものは全くこれと同様である。一匹（いっぴき）の兎（うさぎ）を見つけたときにはこれを奪（うば）い取るために互（たが）いにかみ合い殺（ころ）し合う狼（おおかみ）どもが、大きな牛に対するときは多数力をあわせてかかる。ひとり攻撃（こうげき）のときのみならず、防御（ぼうぎょ）のときにも同様のことをする。かくのごとくつねに単独（たんどく）の生活をする獣類（じゅうるい）でも強い敵（てき）に向かえば暫時（ざんじ）同盟（どうめい）するが、人類（じんるい）の国もまたこの例（れい）に漏（も）れない。国と国との同盟（どうめい）などは全く生存（せいぞん）の必要（ひつよう）より起こったもので、必要（ひつよう）がなければ決して起こるはずはない。文句（もんく）には種々（しゅしゅ）立派（りっぱ）なことが書いてあるかもしれぬが、その飾（かざ）りをはぎ去って、正体をあらわせば、その真意義（いぎ）は狼（おおかみ）の協力（きょうりょく）と毫（ごう）も異（こと）なるところはない。必要（ひつよう）があればいつでも同盟（どうめい）し、必要（ひつよう）がなくなればいつでも同盟（どうめい）をやめる。過去（かこ）の歴史（れきし）これを証明（しょうめい）し、現在（げんざい）の事実これを明示し、将来（しょうらい）の趨勢（すうせい）もまたそのとおりであろうと思う。国と国とが同盟（どうめい）すれば一国では取ることのできぬ国を取って分割（ぶんかつ）することもできる。また一国では防（ふせ）ぐことのできぬ共同（きょうどう）の敵（てき）を防（ふせ）ぎとめることもできる。約言（やくげん）すれば国と国とが相争（あいあらそ）うのは本来の常態（じょうたい）であって、同盟（どうめい）は単（たん）に一時の便法（べんほう）に過（す）ぎぬのである。
　この間、ある雑誌（ざっし）を見たところが「国と国との間には法律（ほうりつ）も道徳（どうとく）もないから、いかなる手段（しゅだん）をも遠慮（えんりょ）なく用いて、ただ勝つことをつとめよという人があるが、これは大間違（おおまちが）いである、現（げん）に今日日本は正義（せいぎ）のために戦（たたか）い、露国（ろこく）（注：ロシア）は真偽（しんぎ）かまわぬ国であるから、世界はみな日本に同情（どうじょう）を表しておるではないか、正義（せいぎ）は実に最強（さいきょう）の武器（ぶき）である」と書いてあったが、われらから見るとこれこそ大いに間違（まちが）った議論（ぎろん）である。もし同情（どうじょう）というものが言葉だけであるならば何の役にも立たず、決して弱国をして勝たしめるごとき効力（こうりょく）はない。かりに先年英国（えいこく）（注：イギリス）とトランスバールと戦（たたか）うたときに世界中でトランスバールをほめ立てたと想像（そうぞう）しても、決してそのためにかの国が英国（えいこく）に勝ちえたろうとは思われぬ。動物でも甲（こう）と乙（おつ）とが争（あらそ）うときにそのために利益（りえき）を得（う）るところの丙（へい）は必（かなら）ず喜ぶが、国と国との間も全くそのとおりで、甲乙（こうおつ）二国の戦（たたか）うている間に利益（りえき）を占（し）め得（える）べき位置（いち）に立つ第三者の国が大いに喜（よろ）ぶのはもちろんである。一国の勝利（しょうり）が自国にも利益（りえき）をおよぼす時でなければ、決して喜（よろ）ぶべきはずはない。一国が負けて弱ったのを喜（よろ）ぶのはすなわち自分の敵国（てきこく）たるべき資格（しかく）のある国が弱ったからこれを喜（よろ）ぶのである。今度の戦争（せんそう）でも露国（ろこく）の負けたことを喜（よろ）ぶ国はもちろん多いであろうが、日本の勝利（しょうり）を利害（りがい）得失（そんとく）に関（かん）せずして喜（よろ）ぶものはおそらく日本一国だけであろう。今日諸外国（しょがいこく）からわが国に寄（よ）せてくれる同情（どうじょう）に対しては大いにその厚意（こうい）を謝（しゃ）せなければならぬが、その同情（どうじょう）なるものが真にいかなる価値（かち）を有するものであるかは、今後諸外国（しょがいこく）がわれに対する所行によって漸々（ぜんぜん）明瞭（めいりょう）になるであろう。
　以上は国を人類（じんるい）生存競争（せいぞんきょうそう）の最高（さいこう）単位（たんい）と見なして述（の）べたのであるが、実は国より上になお一つ生存競争（せいぞんきょうそう）の単位（たんい）がある。それはすなわち人種（じんしゅ）であって、人種（じんしゅ）間の生存競争（せいぞんきょうそう）は今後ますますいちじるしくなるであろうと思われる。もっとも今日は幾（いく）つかの異（こと）なった人種（じんしゅ）が相集まって国をなしているところがあるが、これは自ら守る目的（もくてき）のためだけで、かく相集まらなければ、自分らの生存（せいぞん）が危（あや）ういという場合のみに限（かぎ）られてある。かかる国は外に対しては一国であるが、内では人種（じんしゅ）と人種（じんしゅ）との軋轢（あつれき）が絶（た）えない。もし自分を守るために他人種（たじんしゅ）と合して一国をなす必要（ひつよう）がなくなれば、その国は当然（とうぜん）数ヵ国に分裂（ぶんれつ）してしまうに違（ちが）いない。かりにロシアやドイツも弱くなって滅（ほろ）びるようなことがあるとすれば、オーストリアとハンガリーとは結合（けつごう）しておりそうもない。その他ボヘミアとか何とかみな離（はな）ればなれになるかもしれぬ。つまり異人種（いじんしゅ）が集まって一国をなすのは周囲（しゅうい）の境遇（きょうぐう）がしからしむるので、敵（てき）に周囲（しゅうい）から締（し）められて合同しているありさまはあたかも桶（おけ）に輪（わ）がはまっているので木片（もくへん）がばらばらに離（はな）れぬのと同じ理である。すなわち人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）の根本は人種（じんしゅ）間の競争（きょうそう）であって、これはいかなる境遇（きょうぐう）にあっても決して絶滅（せつめつ）せしめうべき望（のぞ）みはない。
　ここに人種（じんしゅ）と名づける区別（くべつ）にも種々（しゅしゅ）の階段（かいだん）がある。ドイツ人種（じんしゅ）、ラテン人種（じんしゅ）、スラブ人種（じんしゅ）などの区別（くべつ）もあれば、日本人、支那（しな）人等の区別（くべつ）もあるが、前者はみな白色人種（じんしゅ）に属（ぞく）し、後者はいずれも黄色人種（じんしゅ）に属（ぞく）するというごとくに、大きな別（わか）ちもあれば小さな別（わか）ちもある。従来（じゅうらい）は世界の有力な国はすべて白色人種（じんしゅ）によって造（つく）られ、その間で互（たが）いに相争（あいあらそ）うていたのであるが、もし今後黄色人種（じんしゅ）の中に有力な国ができて、白色人種（じんしゅ）の国と同等の位置（いち）を占（し）めるにいたったならば、国際（こくさい）間の競争（きょうそう）の状態（じょうたい）に新しい一変化（いちへんか）が生ずることがないであろうか。濠洲（ごうしゅう）（注：オーストラリア）を占領（せんりょう）した白色人種（じんしゅ）は「血は水よりも濃（こ）し」などと唱（とな）えて、有色人種（じんしゅ）の移住（いじゅう）を拒（こば）んでいるが、この傾向（けいこう）は決して濠洲（ごうしゅう）に限（かぎ）られたことではなく、いかなる人種（じんしゅ）にも他人種（たじんしゅ）を排斥（はいせき）する性質（せいしつ）は根本的（こんぽんてき）に生まれながら備（そな）わっていて、とうてい理屈（りくつ）をもってこれを拭（ぬぐ）い去ることはできぬ。北アメリカにおいて、黒人がいかにきらわれるか、南アフリカにおいて支那（しな）人がいかに虐待（ぎゃくたい）せられるかを見れば、異（こと）なった人種（じんしゅ）の相接触（あいせっしょく）するところではいかに互（たが）いに相排斥（あいはいせき）し合うものなるかが明瞭（めいりょう）に知れる。旅客に対して親切なることは決して同時にその人種（じんしゅ）を好（この）むという意味ではない。少数の旅客に対して親切をつくす国でも多数の移民（いみん）に対しては必（かなら）ず反対する。かようなわけであるゆえ、もし、黄色人種（じんしゅ）の国が多少勢（いきお）いを得（え）てきた場合には白色人種（じんしゅ）の国国は自然（しぜん）これに対し警戒（けいかい）を加（くわ）えることになって、他の点においては相反目する国々も、この点だけでは一致（いっち）しやすい。このことはわが国のごとき他の強国とは人種（じんしゅ）を異（こと）にするものの特（とく）に気をつけねばならぬ点で、ゆくゆくいかなる境遇（きょうぐう）に立ちいたるやもしれぬから、今よりこれに対して大いに覚悟（かくご）を要（よう）する。今後外交上の都合で何国と同盟（どうめい）することがあるかは知らぬが、真に頼（たの）むべきはただ自国の力のみであるゆえ、つねにこれを考えて、自国の強くなるように充分（じゅうぶん）努力（どりょく）せねばならぬ。
　要（よう）するに人類（じんるい）の生存競争（せいぞんきょうそう）も国と国、人種（じんしゅ）と人種（じんしゅ）との間の争（あらそ）いとなればただ強いほうが勝ち、弱いほうが負けるだけであって、他の動物の生存（せいぞん）者争（あらそい）に比（ひ）して毫（ごう）も異（こと）なるところはない。文明が進めば戦争（せんそう）がなくなるとか、生存競争（せいぞんきょうそう）がゆるやかになるとかいう説（せつ）を信（しん）じて国の将来（しょうらい）を楽観（らっかん）していると、その間にいかなることが始まらんとも限（かぎ）らぬゆえ、つねに大いに戒（いさ）めて、かかる考えの広がらぬようにたれも注意することが必要（ひつよう）であろう。