何事に
限らず
未来を
説くのは決して
容易ではない。昔から「
一寸先は
暗」と
云ふ通り、次の
瞬間に
如何なることが起るかは、
前以て知ることの
出来ぬが
常である。多少
学術上の
根拠を有する天気
予報でさへ当らぬことが多い
故、
世間からは当るも
八卦、当らぬも
八卦と同様に
見做されて
居る。されば今日の所では
未来の予言は
到底普通の人間には
出来ぬことで、
若し
之を
為し
得る者があつたならば、
其者は
必ず人間
以上の
所謂予言者の
類でなければならぬ
如くに思はれて
居る。
然しながら、
未来のこととても、
総べてが全く予言の
出来ぬもののみとは
限らぬ。来年の
暦に何月何日には
日蝕が有つて、何時何分何秒に始まつて、何時何分何秒に終ると明記してあるが、それが
必ず
確に当る。今年
現はれるハレー
彗星なども
幾十年も前から
既に今年
現はれるべきことが天文学者には知れてあつて、今後また何十何年目に
再び
現れ出ると
云ふ事までが明かに
解つて
居る。他の方面に
於て予言が
総べて
不可能なる
如くに見ゆるに反し、天体に
関してのみ
斯く
正確に予言の出来るのは
何故であるかと
云ふに、
之は決して
特別な
秘密がある
訳ではなく、たゞ
既往に
於ける天体の運動を
正確に
測定し、
其の運動を
支配する
法則を
探り
求め、
之を
将来に当て
嵌めて、予言するのみである。されば他のこととても、天文学で
将来を
推測するのと同一の
方法によつて考へたならば、多少の予言の
出来ぬことはない。
我らが今
此所に
聊か
人類の
将来に
就いて
論ずるのは、決して予言者を
以て
自ら
任ずる
次第ではなく、
単に天文学者が天体を
観測し研究するのと同一の
態度を取り、生物界の
既往の
変遷を調べ、それより生物
各種の
栄枯盛衰(注:
栄えたり
衰えたりを
繰り返す人の世のはかなさをいう)を
支配する
法則を
探り
求め、
之を
人類の場合に当て
嵌めて、
其の
将来を
推測しやうと
試みたに
過ぎぬ。天体の運動の
簡単なるに反し、生物界に起る
現象は
極めて
複雑であつて、
到底数学
的に計算は
出来ぬから、時を
指して予言することは
素より
出来ぬが、
唯その進み行く方向と、
終に
達すべき
終局点とだけは
恐らく
誤りなく
推測し
得るであらうと
信ずる。
之より先づ、
人類が
如何にして
生存競争場裡に他の動物に打ち勝ち、今日見る
如き
優勢の
位地を
占め
得るに
至つたかを考へ、次に
地質学上の
各時代に
全盛を
極めた
諸種の動物が、
如何にして一時
斯かる
勢力を
得るに
至つたか、また
何故それが
遂に
亡び
失せたかを調べ、それ等を
基として
人類の
将来に
就いて
我らの
推測する所を
順次述べて見やう。
さて
人類は他の動物に
比して
如何なる点が
優つて
居たので
総べて他の動物に打ち勝つて、今日の
位地を
占め
得るに
至つたかと考へるに
恐らく
誰でも
直に気の
附くことであらうが、それは
思考力、
推理力の
器官なる
脳髄の
発達せることと運転の自由
自在なる手を有することとである。
仮に人間の手に
屈伸自在の指がなくて、
其代りに馬や牛に見る
如き
蹄が着いてあつたと
想像して、それでも人間が今日の
位地まで
達し
得たであらうか、
否かと考へれば、
人類の進歩に取つて手が
如何に
欠くべからざる物であつたかゞ
直に知れる。手に指がなかつたならば、第一、物が
握れぬから
如何なる
簡単な
器械をも使ふ事が
出来ぬが、
若しも人間に
器械を使用する
能が
無かつたならば、
到底他の動物に
優るべき
目醒ましい
働きは
出来なかつたに
違ひない。人間が他の動物に打ち勝つたのも、文明人が
野蛮人を
征服したのも全く
器械の力に
依るのである。人間の外にも
幾分かの
器械を用ひる動物が全くない
訳ではないが人間の
如くに一から十まで
器械ばかりを使ふものは他にない
故、実に「人間は
器械を使ふ動物なり」と
云ふ
定義を
下しても
差支へはない。また
脳髄の方が
充分に
発達しなかつたと
想像すると、
此の場合にも人間は決して今日の
位地に
達し
得なかつたに
疑ない。
凡そ
如何なる
器械でも、
之を用ひるに当つては手を使ふと同時に
必ず
脳をも使ふもので、
器械を
造るに当つては
更に多く
脳を用ひる。
脳で
工夫した
器械を
造つて使用して
居れば、手はその
為に
漸々熟練して
益々精巧に
働き
得る様になり、手を
働かして
経験が
積れば
脳はそのため
更に進歩して前よりも
一層よく考へ
得る様になり、両方で相助け合うて、両方ともに
益々発達する。
脳の
思考力、
推理力が進めば、自分に
比して
遙に
筋肉の強いもの、
感覚の
敏いもの、
爪牙の
鋭いものに対しても
智力によつて
容易に打ち勝つことが出来るが、
人類が他の動物に打ち勝つたのも、文明人が
野蛮人を
征服したのも
総べて
此の
方法に
依つたのである。
元来
如何なる
器官でも
突然一足飛びに
発達するものではなく、
必ず
其の
履むべき
順序を
経て
漸々進み来るもので、
人類の
脳なども手と
器械とに
依つて
獲る
経験の重なるに
随うて
発達したのであるが、
之と大
関係の有るのは言語である。今日の所では言語を有する動物は人間のみである
故、
或る人が「人は言語を有する動物なり」と
云ふ
定義を下したのも
尤もである。
通常言語は口で
云ふものの
如くに
見做されて
居るが、実は口は
単に言語に
必要な音声を発するだけの
器官であつて、真に言語を使ふ
器官は
脳であるから、
我々は
常に
脳で物言うて
居ると
云ふた方が
寧ろ正しい。言を
換へれば、言語なるものは
脳の
働きに使ふ
器械であつて、手が
種々の
器械を用ひて
働く
如くに、
脳は言語を用ひて
働くのである。
器械も
初めは
石斧や
石棒の
如き
粗末なものであつたのが、終に自動車やライノタイプ(注:
印刷版型を
作成する
装置)など
頗る
精巧なものが出来た
如く、言語も
初めは
至つて
粗末なものであつたのが、
漸々進歩して
精巧なものとなり、
脳は
其の
精巧な言語を使うて、
益々推理の力を進め
智力を
増し、何事をもよく
工夫して、
終に他の
諸動物に打ち勝つて今日の
優勢なる
位地に
達したのである。
人類の起りを
想像するに、
恐らく今日より何百万年か何千万年かの昔に
其頃生存して
居た
猿類の中の
或る
一種が
樹上の生活より地上の生活に
移り、後足のみで体を
支へ直立して
歩み、
斯くして自由になつた前足を用ひて
簡単な
器械を使ひ始め、
或は石を拾うて
敵に投げ、
或は
枝を
折つて
敵を
防ぐべき
棒となし、
或は石を打ち合せ、
割れて
鋭い
刃の生じたものは
之を
斧または刀として用ひ、小さい
片は
鏃として
矢の先に
結び
附け、石を打ち合せ
或は木を
摩り合せて
居るとき
偶然火を発する事を
屡々経験する間には、
遂に自由に火を
造る
方法を
覚え、
随意に火を用ひ
得る様になつた
以上は、
之によつて
土器を
焼くことも出来、次には
鉱物を
熱して
青銅、鉄さへも
採つて、
種々の
武器を
造り
得るまでに進むであらうが、
此の
程度まで進んだ
以上は、
最早人類の
敵として
恐るべきものは一つも
無く、自分に
危害を
加へる
獣類は
悉く
退治し、自分の
種属は
漸々蕃殖して全世界に
拡がり、終に
戦と
云へば
人類相互の
戦のみを意味する今日の
有様までに進み来つたのであらう。また
斯く手を用ひて
為ることが進歩する間には、
経験の重なるに
連れて、
脳の
働きも速かに
発達し、終には
困難な
無形の
事柄をも
抽象的に
思考するまでに進み来つたのであらう。
我々人類は
斯くの
如く
脳と手との
働きに
依つて、今日
占め
居る
位地までに
達したのであるが、さて今後は
如何に
成り行くであらうか。
「
歴史は
繰り返す」と
云ふ
諺がある。
之は
恐らく時の
古今を問はず同じ
原因があれば
必ず同じ
結果が生ずることを
云ふたものであらう。
然らば
或る事の
将来を
論ずるに当つては、
嘗て
既往の
歴史中に起つた
似寄りの
事件の
成り行きを調べて、
参考し
比較する事は
甚だ
必要である。今
人類の
将来を
論ずるに当つても、先づ
人類より
以前に
此の地球上に
全盛を
極めて
居た
各種の動物が、終に
如何なる運命に
遇ふたか、また
何故その様な運命に
遇ふたかを
詳しく研究して
参考せねばならぬ。
人類以前に地球上に
全盛を
極めて
居た動物の
例を
挙げれば、古生代(注:約5億4,200万〜約2億5,100万年前)に
於ける
魚類、
両棲類、中生代(注:約2億5,217万年前〜約6,600万年前)に
於ける
爬虫類、第三期(注:6,430万年前〜2,600万年前)に
於ける
獣類などである。
此等は
各々その時代に
於ては、
恰も今日の
人類の
如くに絶対に
優勢なる
位地を
占めて、
仮にも
之に
敵し
得る動物は決して他に
無かつた。
特に中生代の
蜥蜴類の
旺盛を
極めて
居た
勢は
殆ど
想像も
及ばぬ
程で、
近頃発掘せられた化石のみに
就いて見ても北アメリカから出たアトラントサウルスといふ
蜥蜴などは体の長さが十六間(注:28.8m)もあつて、今日の
最大の
鯨よりも
更に大きい。こんな動物がうろ/\と
陸上を
匍ひ
廻つて
居たときの
実際の様子は
如何であつたらうか。また
其頃の海の中にはイタチオサウルス、プレシオサウルスなどと名づける
鯨のやうな大きな
蜥蜴類が
無数に
游いで
居た。また空中には
翼を有する
蜥蜴類が
沢山に
飛んで
居たが、
其の中で、プテラノドンと
云ふ
種類などは
翼を
拡げると三間半(注:6.3m)もあつて、今日
最大の
飛ぶ鳥なる南米のコンドル
鷲に
比べて
殆ど三倍も大きい。
斯くの
如く、
其の時代に
於ては
陸上を走るものも、水中を
游ぐものも、空中を
翅けるものも
悉く
蜥蜴類のみで、
聊かでも
之に
匹敵すべき動物は他に
無かつたのである。次に第三期に
於ける
獣類もその通りで、
単に身体の大きさのみに
就いて
云うても、ヂノテリウムと
称する
象類の
如きは
頭骨だけでも長さが一間(注:1.8m)近くある。マケロヅスと
云ふ
虎には
牙の大さが
殆ど短刀ほどあり、
鹿には左右の
角が二間(注:3.6m)
以上に
拡がつたものがある。されば
此の時代に
於ける
獣類は中生代の
蜥蜴類と同じく、
如何なる動物が出て来やうが
到底亡ぼされる
如きことは
夢にも有り
得べからざる
勢であつた。
然るに
其の
成り行きは
如何と見ると、中生代の大きな
蜥蜴類も、第三期の
恐ろしい
獣類も、両方ともに
実際に
於ては
忽ちにして
亡び
失せ、次の時代には
殆ど
全滅の
姿と
成り終つたのである。
中世代の大蜥蜴アトラントサウルス 一時
絶対の
優勢を
占めて向ふ所全く
敵なしとも
云ふべき
有様にあつた
此等の動物が、
何故に
忽ち
衰へ
亡びるに
至つたかは、大に研究すべき問題である。
此の問題に
就いては、古生物学の書物にも何も
論じてなく、生物学者等の間には何の
説もない様で、
普通には
唯これ等の動物よりもなほ
一層優つたものが
現はれた
為に、
生存競争に
敗れて
亡びたのであらうと
簡単に思はれて
居るが、
我らの考へでは
此の問題は
斯様に
簡単に
解決せらるべきものではなく、
更に深く研究を
要する。第一、
既に
優勢の
位地に立つて
居ると
云ふことは、
生存競争上その動物に取つて
大に
有利な点である
故、
仮に同等の
競争者が
現はれたと
想像しても、決して
容易に負ける理由はない。
一種の動物が
絶対に
優勢の
位地を
占めて
居る
以上は、
残りの動物は
之に
比して
悉く
劣等の
位地に立つて
居ることは
勿論であるが、今まで
劣者の
位置に立つて
居たものの中から
或る
一種が
突然急
速力を
以て進歩し、今まで
絶対に
優勢を
保つて
居たものを追ひ
越し、
忽ち
之を
全滅せしめると
云ふことは
容易に有るべき事でない。山が海となり、海が山となつて天地も
覆るかと思ふ様な大
変動が地球の表面に起つた場合はいざ知らず、
斯かる
天変地異が
無い
以上は、
其時の
劣者の中から、
其時の
最優者を
忽ち
亡ぼすべきほどの力を有するものが
現はれやうとは
容易に
信ぜられぬ。
然らば前に
述べた
如き一時
全盛を
極めた動物
種属が
何故に
忽ち
滅びたかと
云ふに、
我らの考によれば、
其の動物
種属自身の内に、自ら
滅亡すべき
原因が生じて
此の
原因が内から
働くのと、外から
攻める
敵の力とが相合して
遂に
之を
滅亡せしめたのである。
第三期の巨獣ヂノテリウムの頭骨
凡そ物が
亡びるには二通りの
原因がある。一は外に
在つて外から
働く
原因で、他は内に生じて内から
働く
原因である。
我国の
歴史に
就て見ても、平家が
亡びて
源氏が
興つたのは、決して平家が
引続き
健全に
発達して
優勢を
占め
居るべき
筈の所へ、
源氏が
更にそれ
以上に
優つたものとなつて、
競争の
結果これを
倒したのではない。
若しも平家に内から
亡びるべき
原因が
無かつたならば、
競争上
遙に
不利益な
位地にあつた
源氏が、後より
之を追ひ
越して
倒す
望みは
到底無かつたであらう。
彼の
驕れる平家が
久しからずして
亡びたのは、平家の
亡びるべき
原因が
既に内から
働いて、
最早危く
成りかゝつた所を
源氏が外から
突き
倒した
故、
恰も内部の
朽ちた
枯木が
些細の風にも
倒れる
如くに、
容易に
亡びたのである。
常に
生存競争の
劇しい世の中にあつては、
如何に一時
優勢を
保つた動物でも、内から
亡びる
原因が
働いて、
其の運命が
傾いて来た場合には、今まで
劣等の
位地にあつたものの
為に、
忽ち
倒されてしまふことは
当然である。中生代に天下を
我物顔に
横行したイタチオサウルスやプレシオサウルスが
僅に一時代
限りで
滅び
失せたのも、第三期の
恐るべき
猛獣、
驚くべき
巨象が
暫くで全く死に
絶えて後に
子孫を
遺さぬのも、全く平家の
亡びたのと同様の理由に
基づくのである。
一時
絶対の
優勢を
保ち
得た動物
種属を内から
働いて
滅亡せしめた
原因は何であるかと
云ふに、
我らの見る所によれば、
何れの場合にても
必ず
初め
其の
種属を急に
勃興せしめた
原因と同一のものである。
之は
一寸聞くと
甚だ
不思議に思はれるであらうが、少し
詳しく調べると
其の理由が明かになつて来る。
凡そ何事でも
一利あれば
必ず
一害あるは
免れ
難い事で、人の
伝記などを読んで見ても、同一の
性質が
其人の長所であると同時に、また短所でもあると
云ふやうな
文句を
往々見るが、動物の有する
諸種の
性質にも
之と同様なことがある。
或る動物は体の大きく
筋肉の強いことに
依つて他の
種属に打ち勝ち、
或る動物は
武器の
鋭いことに
依つて他の
種属に打ち勝ち、
其他それ/″\
異なつた方面に他に
優れた所があつた
為に、
優勢の
位地に
達し
得たであらうが、
仮に身体が大きく力が強かつた
為に他に打ち勝つた動物に
就いて見るに、体の大きく力の強いと
云ふことは
確に
生存競争上他の動物に勝つに都合の
好い
性質ではあるが、また生活に
多量の食物を
要すること、
成長に多くの年月を待たねばならぬこと、
蕃殖の
遅かるべきこと、
働作に
敏捷を
欠くこと、
其他なほ
種々の
不利益なことが
必然に
附帯して来る
故、一定の度を
超えれば、体の大なることは
却つて
生存競争上に都合が悪くなる
訳である。また
牙や
角の大きく
鋭いことは
之を用ひて
敵を
倒すには
無論極めて
有利な
性質であるが、
之とても、
牙や角だけが
単独に
発達し
得るものではなく、
之を
載せるための
頭骨、
顎骨も、
之を運用すべき
筋肉も、
其の
筋肉を
養ふべき
血管も
共に
発達せざるを
得ぬ
故、
牙や角が大きくなれば、それだけ、
其の動物の
負担が重くなつて、
之も一定の度を
超えると、
恰も
不相当に多くの
海陸軍を
造つた
貧乏国が、
武器を
維持するために
重税を
課する
結果として、
総べて他の方面が
疲弊し、終には国全体が
衰へざるを
得ぬ
如くに、やはり
生存競争には
却つて
不適当なものと
成つてしまふ。
凡そ
或る
性質を
備へたるが
為に
総べて他の
種属に打ち勝つて、
絶対に
優勢の
位置に進んだ動物は、後には
更に
其の
性質を用ひて
相互に
競争するを
免れぬもので、
筋力で天下を取つた
種属は後には
自己の
種属内で
相互に
筋力を
以て
争ひ、
牙で
優勢を
占めた
種属は後には
自己の
種属内で
相互に
牙を
以て
闘ふ
故益々体の大きなもの、
牙の強いものでなければ
生存することが出来ず、
斯くして
初め
其の
種属をして他に
優らしめた
性質は
何所までも
際限なく進まねば止まぬ有様となるが、前に
述べた通り、
如何に
初め
生存競争に
都合の
好かつた
性質でも
或る
程度を
超えると
却つて
生存競争に
不利益なものとなり、
且つ身体が
或る一定の生活
法に
適する様に
専門的に遠く
変化すると
総べて他の方面には、それだけ
不適当なものと
成らざるを
得ず、
随つてそれだけ
融通の
利かぬものと
成り、終に
生存競争上
不利益な
位地に
陥つて、
漸次他の
種属のために
滅されるに
至つたのである。
以上述べたことを
尚詳しく
論ずれば、多くの
実例を
挙げて
証拠立てることが
出来るが、
斯くては
余り
専門学の
範囲に
深入りすることと
成る
故、
此所には
略する。たゞ
我らの考への
要点を
述べれば次の
如くである。
即ち
地質学上の
各時代に
優勢の
位地を
占めて
居た
諸種の動物が後に
至り
忽ち
亡び
失せたのは、決して
単に他の
種属のために
攻められて
敗けた
訳ではなく、
寧ろ
其の
亡びる
原因が内部に生じたのに
因るのである。
然して、
其の内部に生じた
原因と
云ふのは、
即ち
初め
其の
種属をして
総べて他の動物に
勝つて
優勢の
位地に
達せしめた
原因と同一のものである。シヤミセンガイやオウムガイの様な
何所の
隅に生きて
居るか分らぬ
程の
微々たる生活を
営んで
居るものは、
却つて古生代から今日まで
引続いて細長く
生存して
居るに反し、一時急に
盛になつて、
暫くは
絶対に
優勢を
保つて
居たやうな動物が、
悉く次の時代に
滅び
失せたと
云ふことは、
我らが
此所に
述べた
如き
原因によると考へるの外には
到底説明の
仕様は
無い様である。
斯くの
如く化石学上の
例の
示す所によると、一時地球の表面に
優勢の
位地を
占めて
居た動物
種属は、何れも
初め
其の
種属をして他の動物に打ち勝つて、
優勢の
位地に
達せしめた
其同じ
性質が、やがて
却つて
禍をなして、その
為に
悉く
亡び
失せてしまふたが、さて
人類は
如何であらうか。
人類だけは
独り他の動物とは全く
違うて、
人類をして、今日の
優勢なる
位地に
達せしめた
脳と手との力に
依り、言語と
器械とを使用して、今後も
永久限りなく
益々栄え行くであらうか。
将また他の動物と同一の
法則に
従うて、
嘗ては
人類をして他の動物に打ち勝たしめ、文明人をして
野蛮人を
征服し
得せしめた
其の
脳と手との
働きが、やがて
却つて
禍をなして、
人類をして、
恰も空に向うて投げた石が
降ち来るときの
如きパラボラ線(注:放物線)を画いて
一刻毎に速力を
増しつゝ
滅亡の運命に向うて進ましめ
居る
如きことは
無いであらうか。
前に
述べた通り
人類が今日の
有様までに進んだのは、全く言語と
器械とを用ひて
働く
脳と手との力に
因つたものであるが、
此の力の
発達に
伴うて
如何なる事が起つたかと
云ふに、
凡そ
器械を用ひる
以上は所有
権と
云ふものが生じ、
財産なるものが
現はれ、同時に
財産を
貸して
利子を取る
制度も起るが、
其の
必然の
結果として、終に
貧富の
懸隔が
甚だしくなり、
富める者は
益々富み、
貧しきものは
益々貧しく、一社会の中に、遊びながら
贅沢の
極を
尽す少数の
極富者と、
如何に
働いても生活に
必要な
衣食さへも
充分に
獲られぬ
無数の
極貧者とを生ずるに
至る。西洋
諸国では今日
既に
此有様に
達して
居るが、世の進むに
随ひ
此傾向は
益々烈しくなるに
違ひない。金の有り
余る
富豪と、生活の
為には
如何なる
恥をも
忍ぶ
貧民とが
並び
存すれば、
其間に
宜しからぬ
現象の起るは
当然の理で、
之のみでも世道の
頽廃、人心の
堕落の
原因としては
充分である。
富者の
華美な生活を見、金力によつて
殆ど何事をも
為し
得ざることなき
有様を
目撃する多数の人々が、同じく一生を送るならば
我も
斯くの
如くにして
暮したいと思ふは
無理ならぬこと
故、
世間一般にたゞ
金銭にのみ重きを
置く様になり、
如何なる苦しみを
忍んでも
金銭を
溜めやうと決心する事を
奮発と名づけ、何等かの
方法に
依つて
金銭を
溜め
得たことを
成功と
称し、父兄は
行末を思うて
子弟に
奮発を
強ひ、
雑誌は
成功者の
例を
挙げて
盛に青年を
煽動するゆゑ、
益々金銭のための
競争が
劇しくなるが、一人をして
富豪ならしめる
為には、数万人が
貧苦を
忍ばざるべからざるは計算上明かである
故、
総べての
奮発者が
悉く
成功することは
到底望むべからざることで、
実際には
其の多数は
何時までもたゞ
劇しい
競争を
続け、苦しみながら
遂に一生を終るのである。肉体の
慾には何れも
際限があるが、
金銭に対する
慾には
際限が
無いから、
富者は
其の
生存競争に
有利なる
地位を
利用して、
更に
富を
増さうと
努め、
貧者は
益々之に苦しめられ、終には毎日朝から
晩まで
牛馬の
如くに
働いても、
生存に
必要な食物、
衣服さへ
充分に
獲られぬ
程になる。
要するに、今後は
貧富の
懸隔が
益々甚だしくなり、一度
貧困に
陥つたものは
如何に
奮発しても
容易に頭を上げることは出来ず、
金銭のための
競争が
何所までも
劇烈になつて、
従来の
道義や
人情を
顧みては
居られぬ様な世の中に
成り行くものと思はねばならぬ。
また人間は何事にも
器械を用ひる
結果として、生活が
次第に
自然の
状態に遠ざかり、火を点じて、夜も明るくし、炭を
焚いて冬も
暖くする。
更に進んで夏も氷を
造り、電気
扇を回転せしめて
暑を
防ぐが、
斯く
器械の力に
依つて
天然に反した生活をすると身体は
次第に
天然に対する
抵抗力が
減じ、
段々懦弱(注:気持ちに
張りがなく、だらけていること)になつて、
僅の
寒暑に
曝されても
直に病気に
罹るやうになる。西洋人が
靴下を
脱ぐと風を引くと
云うて
恐れるのは
既に
其例である。また火を用ひて食物を
煮て食ふ様になつてからは
剛い物を
噛む歯の力が
漸々減じて、歯は弱く
且悪くなる。
野蛮人に
比しては文明人の方が
一般に歯が弱く、同じ国の内では下等社会よりも上等社会の方が
一般に歯が悪いことは歯医者のよく知る所である。
料理の
法が進めば
胃がそれだけ弱くなつて、終には
食時毎にタカヂヤスターゼ(注:食べ物の消化を助ける薬)を飲まねば
飯が消化せぬ様な人も生ずる。
出産の
如きも元来
普通な生理
的の作用であるから決して
困難な
筈なく、
獣類の
牝に
出産の
際に
同僚の助けを
求める者のないのは
無論のこと、
人類でもアフリカやオーストラリヤの土人は
姙婦が旅行中に
出産する場合には
暫時同伴者と
離れ、
藪蔭で
出産を
済ませ、
傍の
小河で
幼児を
洗うて、
直に自分の
背に乗せ、早足で同行者に追ひ
附いて、平気で旅行を
続けるが、本来かく
軽便であるべきものが、文明国になると、生死にも
関する大
事件となり、
必ず
産婆、
看護婦、
産科医者の助けを
借りなければ
産めぬ事に定まり、
其上に
難産の
割合が
次第に
増して行く。
斯く身体が
段々弱くなつて、
防寒具、
避暑具、
防湿具、
頸巻、
手袋、
耳覆ひ、
呼吸器、
塵除け
眼鏡、ゼム、
清心丹、タカヂヤスターゼ
其他種種雑多の物の中、何か一つ
欠けても
忽ち
病に
罹るやうに
成れば、生命を
保つに
必要な物の品数が
非常に多くなり、それだけ
生活費が高くなつて、生活
難が度を
増し、
生存の
競争になほ
一層の
努力を
要することに
成る。
特に
葬式に
其の日だけ
看護婦を
傭ひ
込んで、車で
供をさせる
程に
虚栄心に
満ちた人間が、
富豪の
贅沢な生活を
常に目の前に見て
居るのである
故、
幾らあつても
尚その上に
金銭の
不足を感じ、一にも
金銭、二にも
金銭と
唯それのみを思ひ
煩うて一日も安んぜぬ様に
成るに
違ひない。
生存競争が
劇甚となつて、
烈しく
競争せねば自分の
生存が
危いと
云ふ
不安の
念が
一刻も
念頭を
離れぬ様になると、
無意識的に
競争して
居たときとは
違ひ、
唯それだけでも
甚だしく
神経を
刺戟するが、人間が
便利或は
娯楽のために
造る
器械も、また
烈しく
神経を
刺戟するもの
計りである。今日でも
一寸外へ出れば
直に電車か汽車に乗るが、
其の
喧しい
響きは
聴神経を通じて強く
脳の
中枢を
刺戟する。
慣れると
余り
喧しく感じなくなるが、
之は
唯その
響が
意識に入らぬだけで、
実際耳と
神経と
脳との
刺戟せられて
居ることは
毫(注:すこし)も
減じない。活動写真を見る人は
単に画が動く
如くに感じて
居るが、
実際は一秒に十回
以上の
割で
劇烈な光と暗黒とが
交る
交る
眼の
網膜と
視神経と
脳とを
刺戟して
居るのである。
斯く
神経系に対する
刺戟が
多過ぎるために
神経は
次第に
衰弱し、
其の
働きが
過敏となり、
病的となつて
些細な事をも
甚だしく気に
掛け、
僅なことをも
非常に
心配し、少しく
逆境に立つと
忽ち
失望落胆し、
或は
自暴自棄となつて、軽々しく
自殺し、
若くは
重罪を
犯すやうになる。今日でも
統計の
示す所に
依ると、
精神病者、
自殺者、
犯罪者の数は一年
毎に
増して行くが、今後は
其の
原因が
増加するに
随ひ、
更に
一層甚だしくなるものと
覚悟せねばならぬ。
また教育が進んで
脳の
働きが
発達すると、万事自身の
智力で
判断し
識別する力が
増す
故、
若しも社会に
不条理な
制度が
存在するときは
忽ち
之に気が
附き、
劇しく
其の
不都合を感じ、
其のために
不利益な
位地に立つて
居るものは
堪へ
難い
不平を起すに
至る。
無智の
野蛮時代や半開時代には
何様にかして
餓ゑず
凍えず、安全に
暮し
得るものは、それで
満足して、
貧乏な自分の
隣りに
富裕な人が
稍々贅沢に
暮して
居ても、
各々その分である
如くに
心得て、
敢へて
何故に
彼と
我との間に
斯くの
如き
貧富の
差があるかと考へもせぬが、世の中が進み、
知識が開けるに
随つて、何事に
就ても
其の理由を知らうと
欲し、
若し
不条理極まると思ふことを発見した場合には、
之に対して
不平、
不満の
念を
禁じ
得なくなる。
我よりも
体格脳力ともに
慥に
劣つて
居る
彼が、
何故社会に
於て
我よりも上に
位して
居るか、
我れが毎日
衣食を
得るために
斯く苦しみつゝあるに、
彼は
何故、
快楽に
耽りながら安らけく世を
渡つて行くか、
正直に
働く
我に
一顧をも
与へざる世間は、
何故に
強慾不正なる
彼を
斯くまでに
尊敬するかと考へては、
益々劇烈な
不平が起り、
過多の
刺戟のために
神経が
過敏になつて
居るところへ
此の
不平の
念が
現れるから、
愈々我慢が
出来なく
成る。今日の
虚無党(注:ロシア
皇帝暗殺などの
非常手段に
訴えた1870〜80年代の
革命家たち)と
云ひ、
社会党と
云ひ、
無政府党と
云ふは、何れも
此の
不平の
為に生じた
結社で、西洋の文明国には一国として
比類のものの
無い所はないが、
不平の
原因の
消滅せぬ間は、今後も
益々盛に
蔓るものと思はねばならぬ。また
此の
不平と、生活
難と、世間からの
圧迫とが一度に重なり合ふと、
鬱憤の
余り
如何なる
蛮行をも
敢てする
輩が
続出する。今日までも
暗殺、
謀反等が
屡々行はれたが、今後はなほ
一層頻繁に起るに
違ひない。
野生の動物には
生存競争の
結果、
常に
自然淘汰が行はれ、
筋肉体力の
劣つたもの、
感覚の
鈍いもの、
其他、
生存に
不適当のものは
亡びて、
適者のみが
生存する
故、
生存に
適する
性質は代を追うて
僅かづつ
発達し、決して
退歩することは
無いが、
人類には、何物とでも
交換の出来る
貨幣が流通する様に
成つた後は、
自然淘汰の
働きが
中絶した。
人類に
於ても
生存競争が
劇烈で、
敗者は
生存が
出来ぬのであるから、
確に
一種の
淘汰が行はれて
居るには
違ひないが、今日
人類の
生存競争に
於て
勝敗の
定まる
標準は
必ずしも身体の
勝れたこと、
精神の
優つたことではなく、多くは全く
別種の
関係から
勝敗が決する
故、
常に
極めて
劇しい
生存競争がありながら、
優者のみを
生存せしめると
云ふ
淘汰は起らぬ。身体も
健全で
智力も
相応に
発達した者が
貧に
迫つて
自殺することもあれば、
病身な
愚物が医者と
看護婦とを
傭ひ
得る
金銭の力で、
無事に
生存して子を
遺すこともある。
立派な人間に育つべき
体質の
嬰児がたゞ
貧家に生れた
計りに、
栄養不良で
夭死することもあれば、両親の
何れに
似ても
碌な者には
成りさうもない月足らずの
児が、
贅沢な定温
哺育箱の助けに
依つて安全に
成長することもある。
斯くの
如く今日の
人類には身体の
健全と、
精神の
優秀とを
標準とした
淘汰は全く行はれぬが、
淘汰が
止めば
其時まで
淘汰の
標準であつた点が
直に
退化し始めるのは、生物学上動かすべからざる
確な事実である。
暗黒な
洞の内に
在つて
眼の
優劣を
標準とした
自然淘汰が
無いと、
其の動物の
眼は
次第に
退化する。
追ひ
掛ける
獣類の
居ない所に住んで、
飛ぶ力の
優劣を
標準とした
自然淘汰が
無いと、
其鳥の
翼は
次第に小さく弱くなる。アメリカの
大洞内に
居る
盲魚や、ニユージーランドに
産する
無翼鳥は
斯くして出来たものである。されば
人類も肉体
及び
精神の
優劣を
標準とした
淘汰が行はれぬ
結果、両者ともに
漸次退化すべきは数の
免かれざる所で、今後は
必ず
著しく
退化の
現象が
現はれるであらう。
現に今日でも西洋
諸国では
既に
人類の
退化現象の少なからぬに気が
附き医者、
法律家、社会学者などが集まつて、
喧しく
之を
論じ、
其ために
専門の
機関雑誌をも発行して、
之を
防止する
方法を
講じて
居るが、
淘汰の行はれぬ
限りは
退化は
止むを
得ぬ
故、
到底致し方は
無いのである。
以上略述した通り、
人類は
初め
諸動物に打ち勝つ
際に、大に役に立つた
脳と手との
働きが、
其後何所までも
発達した
為に、
其の
必然の
結果、生活が
自然の
状態に遠ざかつて、身体が弱くなり、
貧富の
懸隔が
甚だしくなつて、
生存競争が
烈しくなり、
神経は
衰弱し、
不平は
増進して、
世道人心は
益々堕落するの
外なきに
至つたが、
此等は
総べて広い意味に
於ける
退化の
現象に
属する。今日とても
既に
世道の
廃頽、人心の
堕落を
嘆く人は
幾らもあるが、
其の
原因が
人類自身の
性質の内部に起つたものである
以上は、今後も引き
続いて同一の方向に進むであらう。さて
斯かる
退化の
現象が今日
以後、
更に歩を進めたならば、
人類の身体上、
精神上、社会上に
如何なる
変化を生ずるであらうか。
之は
我々が今から
慎重に研究して
置くべき大問題である。
先づ生活の
困難、
人心の
堕落が今後身体上に
如何なる
結果を生ずべきかを考へるに、第一に
影響を
蒙るのは
性慾に
関する方面である。生活の
費用の高まるに
随ひ、
結婚して一家を
支へ、
妻子を
養ふことは
段々容易でなくなり、
相応の
資産を
造つた後でなければ
結婚が
出来ぬ所から、
自然に
晩婚の風が生じ、中年
以後まで
結婚せぬ者も
段々多くなる。
然るに
性慾は
人類自然の
肉慾の中で
最も力強いもので、青春
燃ゆるが
如き時期に当つては、
到底理性に
依つて
冷かに
制御し
得べきものではない。それ
故、
公に
結婚の
出来ぬ場合には、
何等か他の
方法に
依つて
其の
満足を
求め、
其の
結果として
裏面の
風儀が
次第に
乱れるは
止むを
得ぬ。
亦女子は身体の
構造上、
資本を
要せずして
金銭を
儲け
得べき
方法が
備はつてある
故、生活の
困難な場合、
若しくは
虚栄心を
満足せしむべき
金銭の
不足を感ずる場合には、
暫時肉体を
貸して
之を
補はうとするに
至り
易い。
甚しきに
至つては学校の
授業料を
得んが
為に、
密かに
稼ぐ女学生までも出来る。
斯くして
公然の
結婚に
依らずして
性慾の
満足を
得べき
簡便な
方法が
到る所に出来る上は、青年は
悉く
之に
依つて
満足を
求め
得て、
晩婚は
素より一生
独身で
暮す男子も多くなり、今日でも西洋
諸国では
既に、
嫁ぐべき相手が
無いために
拠なく
独身で
暮す女子が
非常に
沢山にある。
斯様な世の中になれば
梅毒、
痳病、
軟性下疳などの
花柳病(注:性病。性行為感染症)が
忽ち
拡がつて止まる所を知らぬであらうが、
梅毒は
甚しく身体を弱くし
特に
神経系を
犯せば
痳痺性痴呆などと
云うて、長くても二三年で
必ず死ぬ
恐ろしい
精神病を生ずる。その上、
梅毒は
必ず
子孫へ
伝はる
故、この病が世の中に
蔓延すると、一代毎に
一般の
健康が
衰へるは
云ふ
迄もない。先年ドイツ国ベルリンの大学で学生中に
花柳病に
罹つて
居ない学生の
稀なるを知つて大に
愕き、
特に
講義を開いて
花柳病の
恐るべきことを学生に
説き聞かせた。
性慾の発動を
講義に
依つて
停止することが出来たか
否かは知らぬが、
性慾に
基く病が
確に世の進むと
共に
勢を
得て
益々拡がり行くは
疑を
容れぬ。西洋人が「開化(
Civilization)は
梅毒化(
Syphilisation)なり」と
云ふのは全く
実際に
的中した言葉である。
また公に
結婚する者も、生活
難の
増すに
随ひ、
其の
目的が
一変して、
従来の
如く
清き家庭を
造つて、
健全なる
後継者を
産み育てる
為ではなく、男は
富者の
娘を
娶つて出世の
手掛りと
為やうと
図り、女も
富者に
嫁して、生活
難の
心配なく
且つ
栄燿(注:大いに栄えて、はぶりのよいこと)に世を送らうとするから、
随つて
結婚の
自然の
結果なる
姙娠を
嫌ひ、あらゆる
方法を考へて
之を
避けやうとする。
性慾の
満足は家の内外に
求めながら、子を育てる
面倒を
免れやうとする者が
増加すれば、
一般の
産児の数が
漸々減少するのは
当然のことで、
現にフランスの
如きは、
其ため国力の
衰へる
虞があるので、
種々その
救済の
方法を
講じて
居る。また
児を
産んでも、
其の
養育を人手に
委せて、自身は楽を
為やうとする女が多くなると、
乳を
分泌する
性質が
退化して、西洋では今日
既に
児を
産んでも
乳の出ぬ女の数が年々多く
成つて
居るが、今後は
此の
現象も
更に進むであらう。
人類の生活が
次第に
自然の
状態に遠ざかるに
随ひ、身体が
漸々薄弱になり、
神経が
過敏になることは前にも
述べたが、
生存の
競争が
劇しくなるに
伴うて、自分の
生存が
何時危くなるかも知れぬといふ
心配が
瞬時も
念頭を
離れぬと、
常に
不安の
念に
堪へ
得ず、
漸々苦悶の
状態に
陥り、
若し
何等かの
手段に
依つて
一刻でも
圧迫の
烈しい
現実世界を
忘れて、
借金取りも
鶯の声に聞える
夢幻の
境に遊ぶことが出来れば、
之を
無上の
快楽と感ずるに
至る。
酒や
煙草が
到る所に
盛に用ひられるのは
其のためである。
初めて文明人に
接触した
野蛮人が、何よりも
先づ
酒と
煙草とを
欲しがるのも、
恐らく
無意識的ながら、
器械を用ひて
責めて来る文明の
圧迫を
暫時だけでも
忘れたい
為であらう。
酒も
煙草も
有毒な
成分を
含むで
居る
故、
多量に
続け用ひると
中毒を起す。
酒精(注:アルコール)の
中毒によつて
震戦性譫妄症(注:アルコールの
離脱症状のひとつ)に
罹り、
煙草の
中毒によつて
視力を
鈍衰することは世人の知る
如くであるが、
更に
恐るべきは
子孫の
体質を
害することである。医学上の
統計によると
精神病者、
低能者、
体質異常者は
殆ど
悉く
其の父母もしくは
祖父母等に
酒客(注:酒飲み)を有するものである。
然し
酒と
煙草とは
極めて重い
税を
課して、
経済上
容易に飲めぬやうにして外部から
強制的に
防ぐことも出来、また
煙草には
製造者が
如才なく
芋の葉や
蓮の葉を
乾して
刻み
込むから、
其の
害毒は
或は
恐れるに足らぬかも知れぬ。
世の開けぬ中は
農産物が
其まゝで
直接に
費消者の手に
渡る
故、飲食物に
混ぜ物が
無いが、
製造工業が
盛になると飲食物も一ヶ所で
多量に
製造し、一時
貯蔵して
置くために
防腐剤を
加へることもあり、また
法外の
儲を
得やうとして、
容積重量を
増すために
種々の物を
混ずることもある。
酒にサリチル
酸を
加へ、
砂糖、
温飩粉に
房州砂を
混ぜ、
醤油にサツカリン(注:人工
甘味料。トルエンなどから
合成される)を入れることなどは今日
既に
盛に行はれて
居るが、これ等も長い間には少しつつ身体を
害せぬとも
限らぬ。
また
製造工業の
発達に
伴ひ、人の仕事が
益々細かく分業
的になつて、身体の
働きも一方に
偏する様になり、耳を用ひる
職業の者は耳のみを
過度に用ひ、
眼を使ふ
職業の者は
眼のみを
過度に使ひ、
其ため
各職業に
固有の病も出来て来る。
其上に
職業によつては年中
絶えず
綿屑を
吸ひ
込むとか、
塩酸の
煙を
嗅ぐとか、
自然の生活には決して
無い
有害物に
触れる
故、
之によつても身体は
漸々、悪くなる。
田舎が
衰微して都会が
盛大になる
程、この
害の
範囲は広くなり、
其の
結果も
著しく
現はれる。
以上は主として
不自然の生活より起る身体の
退化を
述べたのであるが、次に
智力の進歩に
伴うて
精神上に
如何なる
変化が生ずるかと考へるに、教育が進み
知識が
増せば
次第に何事に
就いても
其の理由を知らうと
欲し、
且つ自身の
判断力に
訴へて
其の
当否を
鑑別しやうと
試みる様になり、
従来たゞ
他動的に教へられて
其まゝ
信じ来つた事に対しても
疑を
挾む様に
成つて来る。
之は
従来単に、
知識上の
権威に
服従して
居たのが、
其の
支配から
脱して
独立に考へ様とするのであるから、
精神的解放とも
云ふべき事で、
其の
結果として
総べての方面に
懐疑の
念が生ずる。
其中で
精神上に
最も
著しい
影響を
及ぼすのは
道徳上に
関する
懐疑である。
尤も
金銭の
遣り取りに
忙しい多数の人々は
従来とても、ただ
習慣に
従うて行動するだけで、
道徳上の
議論などは丸で
眼中に
置いて
居なかつたし、また今後とても、多数の人々は
実際の
生存競争に追はれて、
此様な問題を考へる
暇も
無く世を
渡るであらうが、少しく学問でもする人は
道徳の
説く所と目前の事実とを
対照して
疑を
挾まざるを
得ぬ様になる。
例へば書物には
善人は
終に
栄え、悪人は終に
亡びる
如くに書いてあるが、
実際には
貧富の
懸隔、
生存競争の
劇甚のために、
善人が
亡び悪人が
栄える方が
却つて多い様に見え、
正直に一生
懸命に
働いて
居た者が
不意に
災難に
遇うて
悲惨極まる
境遇に
陥ることもあれば、
不正直な
横着極まる事をして
莫大の
財産を
造つたものが、自分一代は
云ふに
及ばず、
孫の代まで
富み
栄えて
居る
例もある。
積善(注:
善行を
積み重ねること)の家が
忽ち
断絶して、
積悪の家に
却つて
余慶(注:子孫が受ける幸福)のある事もある。
斯様な事実を目前に見ては、
道徳とはそも何物であるかとの
疑念が起るは
当然で、「
善は
善なるが
故に
為すべし、悪は悪なるが
故に
為すべからず」と
云ふ
如き
不得要領(注:要点がはっきりしないこと)な
説法には
到底承知が
出来なくなり、
従来の
道徳は
根柢から
改めて
吟味せねばならぬとの
観念が
浮ぶ。一方で
理論上
道徳に
関して
疑を
抱く者の生ずる間に他方には
更に一歩を進めて、
実際の
処世上、
道徳なるものを安く
見縊り、自分一身の
損得から
打算して、
生存競争上、
道徳に
従ふを
利とする場合には
道徳を
尊重し、
道徳を
破るを
利とする場合には
道徳を
捨てて
顧みぬ
輩が多数に生ずる。西洋
諸国で、他の方面の
道徳が
甚しく
衰へたに
拘らず、商業上の
道徳が
堅く守られて
居るのは
斯様な
動機から起つたことであるから、これを
以て他の方面の
徳義を
測るの
標準とすることは
出来ぬ。
人心が
斯かる
程度に
達した上は、
道徳が
彼等に対して何の
威厳をも
保ち
得ぬは
勿論である。
生存競争が
烈しくなれば、
目的のために
手段を
択んでは
居られぬ様になり、
不正な事も聞き
慣れては
日常の
如くに思はれ、
一旦成功さへすれば、世間は
其の
光輝に
暈まされて、
如何なる
手段に
依つたかは
忘れて問はぬ。
斯かる
例が
無数に
現はれるに
随ひ、
道徳の
価値は
益々認められなくなつて、
終には
過去の時代に
存した古物の
如くに思はれ、
実際の生活には全く
度外視せられるに
至るやも
測り
難い。世には
往々、今日は
旧道徳が
破壊せられ、新
道徳が
未だ定まらぬ
過渡時代であるから、
世道人心が多少
混乱の
状態にあるは止むを
得ぬと
説く人もあるが、
以上述べた
如くに考へると、
所謂新
道徳なるものは、何を
根柢として
何時出来上るものであるか真に
心細い
次第である。
生活
難の
増すに
随うて、
往々宗教の
叫び声が一時多くなることもあるが、
我らの考へに
依れば、
之は決して
或る人人の
論ずる
如き
信仰の
復活と
見做すべきものでは
無く、ただ
競争場裡の
不安の
念に
堪へずして何物にか
掴み
附いて
慰安を
求めやうと
試みるのであるから、
恰も
溺れんとする者が
浮かんで
居る
藁にも
掴み
附かうとするのと同じであつて、
無智の
爺婆が安心して
信仰して
居たのに
比すると全く
趣が
違ふ。人が
地獄極楽をその
儘に
信じ
得た時代には、
宗教は
風教(注:
徳をもって人々を教え
導くこと)の
維持にも
失意者の
慰安にも
有効であつたらうが、
一旦智力が進んで
懐疑の
念を生じた者に対しては、
到底多くの安心を
与へる力はない。
特に他人を
救ふ前に、
先づ自分を
救ふべき
必要のある今後の
宗教家によつて、
道徳が
幾分でも
維持せらるべきことは
頗る
望が少ない。
斯くて
道徳も
宗教も、今後は生活
難と
智力の
増進に
伴ふ
懐疑、
不安の
念を
鎮めることは出来ず、
生存競争の方は
一刻も休まず追ひ立てる
故、
人心はたゞ
堕落の方向に進むの外に
途なきに
至るであらう。
人類が社会を
形造つて
生存して
居る
以上は、
互に力を
協せ
相助けることが何よりも大切であるが、生活
難の
加はると
共に
人心が
堕落すると、
此事が
次第に
薄らいで行く。
各個人の間の
競争が
劇しくなると、自分一身の
生存を図ることに全力を
尽してもなほ
不足を感ずる
程である
故、
勢ひ他を
顧みることなどは
出来なくなり、
随つて何事を
為るにもたゞ自分一身の
利害損得から
割り出して計画せざるを
得ぬ様になつてしまふ。元来
人類の
如き
協力一致の
本能の
頗る
薄弱なるものには
制裁を
設けて
互に
相誡め、
協力一致の
破れぬやうにする仕組が
必要である。昔は
道徳、
宗教等に
依つて多少
之を
為し
得た。
然るに今後は
貧富の
懸隔、
知識の
増進等に
伴ふ
利己の
私慾主義が
勢を
得て、
宗教道徳は
共に
衰へるの外はない
故、たゞ
強制的に
働く
法律の外には、
人類に
協力一致の
働きを
為さしめ
得るものは
無くなる。
斯くなれば世は
私慾と
法律との
競走となり、
私慾は
巧に
法律の
空隙を
潜り、
法網に
触れずして
大に
儲け
得べき
方法を
講究して実行し、
之を
防ぐ
為には
更に
密なる新
法律が
造られ、
法律の数は
限りなく
増すであらうが、
錠前が
改良せられる毎に
盗賊の
錠前破りも
精巧になる
如くに、
法律が
密になれば、それだけ
之を
潜る
術も進歩し、
私慾は
相変らず
総べての方面に
盛に
働き
続けるであらう。(注:すなわち
庶民が
法律を
理解できぬゆえ法律家が
跋扈する世となるであろう)。
各個人が
悉く
私慾に
依つて
働く世の中になれば、
協力一致を
要する事業は
素よりよく行はれる
望はない。たとひ
協力一致の外形だけは
継続しても、
其の
内容は
私慾の集まりと
変つてしまふ。
例へば
団体の
自治の
如きも、元来は多数の人々に
適当と
認められ
選出された者が
衆に代つて
議員となるべきに、今後は
私慾主義の
跋扈するに
随ひ、
其の
位置を
利用して
儲けやうと思ふ者が、自分の方から
候補者と名乗つて
盛に運動し、うるさく
選挙者に
迫り、あらゆる
手段を取り、時には
兇器を持ち出してまでも、他を
排して自分が
当選しやうと
努める様になるに
違ひない。
福沢(注:
諭吉)
氏が
嘗て「世界国
尽し」の中に「
政体ありて主君なく、天下は天下の天下なり」と
謳ふた北米
合衆国の人に
云はせると、米国は
共和政治と
云ふ理想
的の
政体で、
各個人は
貧富上下の
別なく、
憲法によつて平等に
政治上の
権利を
与へられて
居ると
云ふが、今日
既に
上述の
如き
有様に進んで
居る
故、
仮に自分がニユーヨーク市の
住民になつたと
想像すると、自分の
実際に有する
政治上の
権利は、たゞ自分の
好まぬ
候補者を
選むか、
棄権するかの
二途の中、一つを
随意に
選び
得ると
云ふ
権利のみに
過ぎぬ。されば今後は
協力一致を
要する
働きは
漸々困難になり
終には
殆ど
不可能になるやも知れぬ。
智力が進めば
道徳に向うて
懐疑を
挾む様になると同じく、
従来の
伝説によつて
存する社会の
制度に対しても、
単に
盲目的に
服従して
居らぬ様になり、
批評的の
態度を取つて
之に
望むから、
不条理なりと思ふことには
反抗の
念を起さゞるを
得ない。
単に
祖先の
御蔭によつて、
愚劣な
子孫が
何時までも社会の
上位を
占め
得る
印度の
世襲的階級
制度などに対しては、第一に
斯かる
反抗の
念が起るであらうが、
之れが
劇しく
蔓つて
現在の
制度を
倒さうと
試みる者が
盛に
現はれては、社会の
秩序安寧が
破れる
憂がある
故、国を
治める局に当る者が力を
極めて
之を
押へやうとするのは
無理もない。
然しながら
斯かる思想は外部から
圧して発表させぬ様にすることは出来るが、心の中に思ふことまでを
防止することは
出来ぬ
故、今後は
智力の進むに
随ひ、なほ
一般に
拡まるは
免かれぬであらう。「
泣く
児と
地頭には勝たれぬ」と
云ふ
諺も有つて、時の強者に
反抗するは
損である
故、
大抵の人は自身の
利害から考へて、
容易に公には名乗らぬが、西洋
諸国では今日
既に
之に
類する
念は
殆ど
総べての人の内心に
存する様に見受ける。なほ
此等に
就いては
論ずべき事が
沢山にあるが、
余り長く
成るから止める。
人類の
将来などと
云ふ問題は
到底四十
頁や五十
頁で
詳に
論ぜられるものではないから、
此所には
素より
極めて大体の
筋道だけを
述べたに
過ぎぬが、
之に
依つても
人類が今
如何なる方向に進みつゝあるかと
云ふ事だけは多少
明かに知る事が出来やう。
即ち
人類は
其始め
脳と手との力に
依つて他の動物に打ち勝ち、
絶対に
優勢な
位地を
占めることを
得たが、
其の
脳と手との
働きの進んだ
結果、今後は
貧富の
懸隔が
甚しくなり、生活の
困難が
増し、身体は
退化し、
神経は
過敏となり、
不平懐疑の
念が進み、
私慾のみが
盛になつて、
協力一致の
働きが
出来なく
成るべき運命を有するに
至つたのである。
人類の場合に
於ても、
初め
生存競争上
最も
有効であつた
其の同じ
性質が
限りなく
発達して、後には
却て
禍をなして、今後は
滅亡の方向に進むの外なくなつたのであるから、
彼の中世代のアトラントサウルスが
初め他の動物に勝つ
際に
有効であつた体力が
過度に
発達し、
終にはその
為敏捷を
欠いて
滅亡したのと全く同一の
径路を進みつつあると
推測するの外はない。されば
其の
終局も
地質学上の
各時代に一時
全盛を
極めて
居た他の
諸動物と同じく、
恐らくは次の時代までに
略々全滅するを
免かれぬものと
見做すが
適当であらう。
斯様に考へて見ると、今日の
人類は
恰も
不治の病の
初期に
罹つて
居る
有様で、
各民族は
未だ軽いながらも
到底全快の
見込みのない
不治の病人に
比較すべきものである。
一個人が
不治の病の
初期に
罹つた場合には、他事を投げ
擲つて安楽に
静養する事も出来るが、地球の表面に
於ける
各民族は
常に
互に
睨み合うて、
僅の
隙でもあらば
相倒さうと待つて
居るのであるから、
専ら病を
養ふのみに
掛かつては
居られぬ。
必ず外に向うては
武備を
固めて
敵の
侮を
防ぎ、内は出来るだけの
方法を
講じて
一刻でも
病勢の進むことを止めて
寿命を長くすることを
務めねばならぬ。今後に
於ける
各民族間の
競争は
恰も
不治の病人が相
闘うて
居る様なもの
故、
武備の
劣つたものが
先づ
敗ける
憂があるは
明であると同時に、病気の急に進んだ者も
忽ち
敵に
倒されるは
疑ない。されば
各民族ともに全力を
尽して、
此の両方面に
於て
常に他の
民族に
優るやうに
務めることが
必要である。
小医は人を
医し、大医は国を医すと
云ふが、
若し
人類の
不治の病なる世道の
廃頽を
医し
得る者があつたならば、これこそ大医の
更に大なるものである。世は
澆季(注:世の終わり)なりとは三千年の昔から
絶えず人の
云ひ来つたことであるが、
其間に
之を
憂へて、世を
救はうと
志した人は
素より多数に有つた。その中で死後の
崇拝者に
担がれて今日まで名を
伝へられたものにはキリスト、
孔子などがあるが、
此等の人々の教へた事は根本は
極めて
簡単で
且つ同一である。
即ち「
己の
欲する所、
之を人に
施せ」
若しくは「
己の
欲せざる所、
之を人に
施す
勿れ」と
云ふことに
帰着するが、
此の
訓へは実行が出来さへすれば、世道の
廃頽も
人心の
堕落も
即座に
撤回することが出来て、世は
忽ち
極楽浄土と
成る
筈であるから
極めて
結構であるが、
惜しいかな今の世の中では実行が
到底覚束ない。今日まで
之に
依つて世道
人心の
堕落を
防ぎ
得なかつたことは、
過去の
歴史の
証明する通りであるが、今後とても同様である。
生存競争の
劇烈な世の中では、
一刻でも他に先んじて
此の
訓へに
従ふた者は
忽ち取り返しの
附かぬ
苦境に
陥る
虞がある
故、一
民族内の
総べての
個人が、一、二、三の
号令と
共に
悉く打ち
揃うて
此の
訓へを守る様になる時の外は
到底その実行を
望むことは
出来ぬ。
根本的の
治療法が
無いとすれば、
其他の
方法を
求めるの外に道はないが、他の
方法は今日
既に文明
諸国に
沢山に行はれて
居る。
養育院、
感化院、
孤児院、
慈善会、
出獄者保護会、
安価食物
供給所、
無銭宿泊所、
労働者養老金、
貧困者慰問其他種々の
救済法は
皆この
類である。
此等は病の
原因を
除くのではなく
単に
現れた
症状に対する
療法である
故、
素より
姑息(注:一時しのぎ)なるを
免れぬが、
適当に行はれゝば、
其だけの
効は
充分にあるべき
筈である。時としてはトラスト
征伐(注:カルテル、トラスト(
企業の
独占の
形態の一つ)、コンツェルンの
独占活動を
規制する政策)、
累進的相続税法等の
稍々外科的治療に
類する
方法が
案出せられることもある。また身体の
退化を
防ぐためには、米国の
或る州で
現に行うて
居る
如くに、
遺伝性の悪病
患者には
強制的に
生殖を
禁ずることも出来る。
之に
就て
人権云々と
論ずる人もあるが、
斯かる
論は足の先が
壊疽に
罹つて
腐り始めたときに
細胞権を
云々して
患部を
切断することを
躊躇するのと同様な
迂論である。
人類の
過去に
鑑み
将来を
慮れば、前に
挙げた
如き
諸種の
救済法は
何れも今後
益々奨励して出来
得る
限り
協力一致の
精神を
失はぬやうに
努めねばならぬ。これが、
軍備の
充実と
共に、他の
民族の間に
介在して他の
民族に
敗けぬための
唯一の
手段である。
終りになほ一言したいことがある。
我等は
一昨年の一月
中央公論紙上に「
所謂文明の
弊の
源」と題する
一篇を
掲げたが、
其後或る人から
斯様な
論は読者をして
悲観に
陥らしめる
患はないかとの注意を受けた。今
此所に
述べたことに対しても
或は同様の
懸念をする人が
無いとも
限らぬが、
我等は
断じて左様な
心配は
無用であると考へるのである。
人間には一定の
寿命があつて
早晩死なねばならぬことは、
誰も
承知して
居らぬものはないが、
其のために
悲観に
陥つたと
云ふ人は
嘗て聞かぬ。また
此の地球は
其の始め火の
塊であつたのが、
漸々冷却して
固形の
地殻が生じ、
凹んだ所へ水が
溜り、
其の後
諸種の生物が生じて、今日の有様までに進み来つた。今後は
更に
冷却して今日の月に見る
如く、水は
凍つて氷となり、土は
凍つて石となり、空気も
凍つて
液体となり、
更に
固形体となるであらうが、
斯くなつては生物は
到底生活は
出来ぬ
故、今見る
如き生物は
其前に
総べて消え
失せて
趾を
留めぬであらうとは、地球を
論じた書物には
悉く明記してある。また太陽と
若干の
稍々大きな遊星と
無数の小遊星とより
成る太陽
系なるものも、
其の
初めは今日
望遠鏡で
実際幾つも見える
如き星雲であつたのが、
漸次凝固して今日の
姿までに
成つたのであるから、今後もなほ
変化し
続けるべきものである。
其の上、太陽はこれに
附属する
無数の星と
共にヘルクレス
星座の方へ
非常な速力で進みつゝあるとのこと
故、
終には
如何に
成り行くか分らぬ。年々
歳々何の
変化も
無い様に思ふのは、人の命が短かいために
変化を知るべき時間が
無いからで、
恰も大きな円の
周辺の一小部が直線と
異ならぬのと同じ
理である。
我等が
此所に
述べたのは、たゞ
人類は
脳と手との
働きの進んだ
結果、今日
既に
滅亡の方向に進みつゝある
故、地球が
冷却して生物が
全滅すべき時期を待たず、それより
遙に前に
滅び
失せるであらうと予言したのみである
故、
従来人の
云ひ来つたことに
比して
期限の少しく
違ふ
外には
余り多く
異つて
居らぬ。
盛者必滅とは
常に人の
唱へ来つたことで、始めあるもの
必ず終りあるは、これ
生滅の
法である。天長く地
久しくとか、
天地無窮とか、終り
無き世とか
云ふのは
梨子を「有りの実」と
唱び
硯箱を「当り箱」と名づけるのと同じく
縁喜を
祝ふ
仮の言葉で、数日の後には
必ず
枯れるに定まつた
松の切り
枝を立てて
常磐の
栄を
願ふ
徴しとするのと同じ心持で
常に
唱へて
居るに
過ぎぬ。
総じて、来るか来ぬか分らぬ
危害は、全く来ないものと
見做し、来ることは
確であつても、
其の来る時の定まらぬ
危害は当分は来ぬものと
見做して、気に
掛けずに生活して
居ることが
健康な人の
常態である。汽車に乗つて旅行すれば
何時衝突して
顛覆せぬとも
限らぬが、乗つてから
降りるまで
絶えずこれを
心配して
居る者は一人もない。また人間は
老少不定(注:人間の
寿命がいつ
尽きるかは、
老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないこと)と
云うて
何時死ぬか分らぬものであるが、毎日この事を考へて
悲観し
続ける者は一人もない。
斯様なことを
常に
憂ひて
暮すのはたゞ
幽鬱性の
精神病患者のみである。されば万一この文を読んで
悲観に
傾く人があつたならば、
其の人は
已に
現時流行の
神経衰弱症に
罹つて
居ると
診断せざるを
得ぬ
故、
我等は
其の人に向うて、
病勢の
募らぬ内に
速に
療養に取り
掛ることを切に
勧告する。
(明治四十二年十一月)