実用を重んずるの弊

丘浅次郎





 如何いかなる金言でも応用おうようみちあやまると、かならへい(注:よくない習慣しゅうかんがい)がともなうをまぬがれぬ。実用を重んずるということも、それだけを考えると、決して悪かるべきはずはないが、思慮しりょあさい教育家の手にかかると、ずいぶん不利益ふりえき結果けっかを生ぜぬともかぎらぬ。それゆえ、ここにいささか普通ふつう教育においては、如何いかなることを実用と名付なづくべきかをろんじて、読者の参考さんこうきょうしたいと思う。
 われらのしんずるところによれば教育の目的もくてきは、数多民族みんぞく競争きょうそう場裡じょうり(注:競争している場所の範囲はんい)に立って、よく生存せいぞんし、よく発展はってんえるべきわが民族みんぞく後継者こうけいしゃつくるにある。されば、教育は徹頭てっとう徹尾てつびこの目的もくてきにかなうことをようする。この目的もくてきもっともよくかなう教育が、すなわちもっと実際じっさいに用をなす教育であって、それ以上いじょうに実用てきな教育は決してない。もし、この目的もくてきにかなわず、またはこの目的もくてき撞着どうちやく(注:つじつまが合わないこと。矛盾むじゅん)する部分があるならば、これは実用に反するものとして一刻いっこくも速く教育からのぞき去らねばならぬ。普通ふつう教育において実用という言葉を用いる場合には、かならずつねにこの意味をわすれぬようにしたいものである。


 しかるに教育者の中には近眼きんがんの者があって、実用といえば、何でも直ちに食えるものか、直ちに売れるものでなければならぬように考え、動物のことを教えるならば、鰹節かつおぶしし方やするめかわかし方をさずけるのが、すなわち実用を重んずるゆえんであると心得こころえている。実用という字をかような意味に取り、普通ふつう教育でかような実用にのみ重きをおいたならば、これは普通ふつう教育の当然とうぜんなすべき重要じゅうようなる一任務いちにんむわすれている次第しだいであって、そのがいの生ずることは決して少なくなかろう。何故なぜというにかかる人々が実用を重んずるといううらには、とにかく、原理げんりの研究を軽んずるというへいがついて回わるゆえ、かような目前の実用のみを重んずる教育が行なわれると、さらぬだに(注:そうでなくてさえ)研究きらいのわが民族みんぞくは、さらに一層いっそう原理げんりの研究をおこたって、とうてい他の民族みんぞくに追い着くことができぬからである。前に重要じゅうようなる一任務いちにんむと言うたのは、すなわち、実物から直接ちょうせつに研究して原理げんり会得えとくせんとする理科りかてき研究心の養成ようせいをさしたのであるが、わが民族みんぞく将来しょうらいにとって、その大切なることは、個々ここの目前の実用事項じこうを知らしめるのにしてほとんど同日のろんでない(注:差が大きくて同じあつかいはできない)。


 他の民族みんぞく競争きょうそうするにあたっては相手を知り、おのれを知ることが何よりも大切である。とくにおのれのおとれるところを充分じゅうぶん承知しょうちし、何らかの方法ほうほうによって、これをおぎなうようにつとめることを一日もおこたってはならぬ。今回の戦争せんそうでドイツからの輸入ゆにゅう途絶とぜつしたために、薬品、染料せんりょう等のあたいが数十倍に騰貴とうきしたのでも知れるとおり、わが国では、理科知識ちしき応用おうようがいまだはなはだ幼稚ようちでドイツなどにくらべると、とくにいちじるしくおとっている。理科知識ちしき応用おうようは文明進歩の主なる要素ようそであって、そのいちじるしくおとっている民族みんぞくは平時にも戦時せんじにもとうてい勝つ見込みこみがない。わが民族みんぞく将来しょうらいを考えると、この点は今後よほどの努力どりょく必要ひつようとするであろう。
 ドイツが何故なぜかく、さかんに理科知識ちしき応用おうようたかというに、これは理科の原理げんりの研究がさかんに行なわれたからである。原理げんりの研究が進めば、新たな原理げんりが発見せられ、新たな原理げんりが発見せられれば、直ちにこれを応用おうようした新たな器械きかいや、新たな方法ほうほうが発見せられる。建築けんちくにくらべれば、原理げんりは一階、応用おうようは二階のごとき物で、原理げんりを知らずに応用おうようのできるわけはない。先年ドイツで大規模だいきぼの理科研究会が設立せつりつせられたさいにも、はじめから原理げんりの研究にもっとも重きをおいて、一見実用とはきわめてえんの遠いように見える研究にも随分ずいぶん費用ひようをかけて奨励しょうれいしている。これがすなわちドイツに理科知識ちしき応用おうようさかんな理由で、なおそのみなもとたずねれば、何ごとでもおくそこまで研究しつくさねば止まぬという研究心の旺盛おうせいなことである。しかるにわが国の人は目前の実用のみを知って原理げんり研究をみとめず、大学に水産すいさん学科をおくと言えば政治家せいじかでも実業家でも直ちに賛成さんせいするが、その基礎きそとなるべき動物学や植物学の研究がいまだ進んでいないことは少しもかまわずにいる。すべてがこの調子であっては、如何いか柔術じゅうじつ上手じょうずでも、如何いかに日光のお宮が立派りっぱでも、今後他の民族みんぞくを追いせる見込みこみはない。学理は一つであっても、これを実地に応用おうようする方法ほうほうは、時と所との事情じじょうによりことならねばならぬは当然とうぜんのことゆえ、原理げんりを知らずに、応用おうよう方法ほうほう真似まねしたのでは、不結果ふけっかに終わることのあるべきはもちろんである。従来じゅうらい実際家じっさいかから、学理と実際じっさいとはちがうなどと言われて大いに学理なるものの信用しんようを落としたのも、みな、原理げんりの研究をせずして、ただ他国における応用おうよう方法ほうほうをそのまま輸入ゆにゅうしたためである。真の応用おうようはまず深く原理げんりきわたしかめてからでなければとうていできるものでない。


 かように考えると、わが国の普通ふつう教育で、目下の急務きゅうむとするところは大いに研究心を養成ようせいし、何ごとにも研究の大切なることをさとらしめ、卒業そつぎょうの後も、今日の実業家や政治家せいじかのごとくに、目前の実用以外いがいの研究を無用視むようしすることのないように仕立てるにある。しこうしてこの目的もくてきのためには、目前の実用とえんの遠いような教材きょうざいによるを便利べんりとする場合もしばしばあろうが、これはやはり広い意味における実用の範囲はんいぞくする。直ちに食える物か、直ちに売れる物でなければ、実用でないごとくに心得こころえて、他の教材きょうざい排斥はいせきするようなことでは、前にべたごとき真の教育の目的もくてきたつすることは決してできぬ。この点は、小学校、女学校の理科、中学校、師範しはん学校の物理化学、博物はくぶつ等の学科の内容ないようにくちばしをれる校長や、教育論者ろんじゃとくによく了解りょうかいしておいてもらいたいことである。
 われらは教育に実用を重んずることには大賛成さんせいである。したがって、実用てきの部分を速かにあらためねばならぬことも日ごろ深く感じている。しかしわれらの言う実用とは決して目前の実用を指すのではなく、この文の始めにべたとおり他の民族みんぞくとの競争きょうそうに負けぬような後継者こうけいしゃつくるに有効ゆうこうであることを意味するのである。この意味において、普通ふつう教育をさらに実用てきにする必要ひつようのあるのは、かえって、理科以外いがいの方面に多い。大将たいしょうの「将」と小便しょうべんの「小」と芭蕉ばしょうの「蕉」と承知しょうちの「承」とを一々仮名かなで書き分けることや「これ」と「これ」と「これ」と「これ」とをやかましく使い分けるごときは、われらから見れば、きわめて実用てきで、これにるいすることは普通ふつう教育からはなるべくすみやかにのぞかねばならぬ。今日のわが国の状態じょうたいから言うと、普通ふつう教育中の理科は国民こくみんに理科てき研究心を起こさせ、何ごとにも実物からの研究が必要ひつようであることをさとらせたならば、これが何よりの真の実用であるゆえ、この目的もくてきのためには、いわゆる実用てき教材きょうざいを思い切りげんじても決してしくはないと考える。もとより実地応用おうようれいさずけることは結構けっこうであって、理科教材きょうざいの一部としてぜひ必要ひつようであるが、みだりに実用に重きをおくとしょうして、目前実用になるもののみをえらみ、そのほかの教材きょうざい度外視どがいしするようでは、かえって真の意味における理科の実用を滅却めっきゃくすることに当たる。われらは今日多くの校長や、教育論者ろんじゃや中には理科を受け持っている教員までが、実用という字をせまい意味にとり、そのため真の意味における実用をわすれているように見受けるゆえ、ここに日ごろ考えていたことの一端いったんべたのである。
(大正四年七月)







底本:丘浅次郎著作集U「煩悶と自由」有隣堂
   1968(昭和43)年 7月20日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1915(大正4)年9月   「向上」に掲載
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