自由平等の由来

丘浅次郎




 せんだって雑誌ざっしを見たら、その中に次のようなことが書いてあった。すなわち、人類じんるいはその本来の性質せいしつとして自由を要求ようきゅうするものである。その証拠しょうこには、いつの世、如何いか(注:どのように)なる時代にも自由のさけびを聞かぬことはないとろんじてあったが、これと同様の考えが他の書物や雑誌ざっしなどにもしばしば出てくるところからす(注:あることを根拠こんきょとして、他のことを判断はんだんする)と、かくしんじている人が、世間にはずいぶん多くあるらしい。われら(注:わたし)はこの点にかんして少しくことなったせつをもっておるゆえ、その大略たいりゃくべて、読者の参考さんこうきょうしようと思う。
 われらの議論ぎろんは、生物の進化ということをもととして、その上に組み立てたものゆえ、進化をみとめぬ人等にはもちろん通用せぬ。今日なお生物学者間に論争ろんそうのあるような詳細しょうさいなところには関係かんけいはないが、少なくとも次にべる三つの要点ようてんだけは、これを承知しょうちしている人でなければ、われらのろんずるところを了解りょうかいすることができぬであろう。それゆえこの三ヶ条さんかじょうあやまりなりと考える人は、その先を読んでも全くむだであることをあらかじめことわっておく。
 三ヶ条さんかじょうの第一は、生物各種かくしゅは決して天地開闢かいびゃく(注:世界のはじめ)の昔から今日見るとおりの種類しゅるい存在そんざいしていたわけではなく、ことごとく漸々ぜんぜん(注:だんだん)の進化によって生じきたったもので、はじめの先祖せんぞと後の子孫しそんとはいちじるしくことなっている。人間のごときも、る時代までさかのぼれば、さると人間との間のようなもので、さらにその先までさかのぼれば、さらに一層いっそう下等の動物であった。また生物は今日何種類なんしゅるいかに分かれているものでも、昔にさかのぼるとみな共同きょうどう先祖せんぞから出ている。はじめ一種類いっしゅるいであった者の子孫しそんでも、こうる方面に、おつは他の方面に進化すれば、その結果けっかとして、後には二種類にしゅるいとならざるをない。人間も今でこそ、他の猿類えんるいと明らかに区別くべつせられているが、遠い昔まで系図けいずさぐれば、さる共同きょうどう先祖せんぞから起こったものである。これだけは、解剖かいぼう学、発生学、化石学などの研究の結果けっか、すでにたしかなことと見なされ、生物学をおさめた者の中には、もはやこれに対してうたがいをはさむ人は一人もない。
 第二には、生物の有するすべての性質せいしつは、みな長い間の自然しぜん淘汰とうた(注:時の経過けいかとともに、優良ゆうりょうなものが生きのこり、劣悪れつあくなものがひとりでにほろびていくこと)によって今日の程度ていどまでに発達はったつしきたったとのことである。自然しぜん界には生存せいぞんのためにはげしい競争きょうそうえず行なわれ、勝った者は生きのこり、けた者はほろせる。しこうして(注:そうして)、てきに勝つ者は勝ちるだけの性質せいしつそなえていたことは言うまでもないが、かかる性質せいしつもっともすぐれた者だけが子孫しそんのこせば、代の重なるにしたごうてその性質せいしつ漸々ぜんぜん発達はったつし、ついにはおどろくべき有力なものとなる。たかするどでも、鹿しかの速い足でも、獅子ししきばでもへびどくでもみなかようにしてできあがったものである。かく性質せいしつ発達はったつせしめるものは、自然しぜん淘汰とうたのほかにないとは言われぬが、自然しぜん淘汰とうたはたらけば勝敗しょうはい標準ひょうじゅんとなる性質せいしつえず進歩することはたしかであろう。
 第三には、前の反対に、自然しぜん淘汰とうたはたらかぬときは、淘汰とうたせられぬ性質せいしつが次第に退化たいかするとのことである。まっくらな洞穴ほらあなのうちでは、視力しりょく優劣ゆうれつ生存せいぞん競争きょうそうの勝負に関係かんけいせぬゆえ、に対する自然しぜん淘汰とうたが行なわれず、そのため次第しだい退化たいかして、ついにはわずかに痕跡こんせきをとどめるだけとなる。アメリカの大きな洞穴ほらあなのうちにじゅうする盲魚めくらうお盲蝦めくらえびはかくして生じたものである。またんでげねばならぬようなてきのいないところでは、つばさの強弱は生存せいぞん上あまり問題にならず、そのためつばさはだんだん小さくなり、ついには外からは見えぬほどになる。ニュージーランドの無翼鳥むよくちようはかくして生じたものである。人間のきばが短いのも、文明人の鼻のにぶいのも、おそらくきばや鼻を標準ひょうじゅんとした淘汰とうたが長らく行なわれなかった結果けっかであろう。れいをあげれば、なお、いくらでもあるが、いずれの場合においても、自然しぜん淘汰とうたはたらきがめば、その時から退化たいかが始まることはすこぶるたしかなように思われる。


 さて動物には単独たんどくの生活をいとなむものと、団体だんたいつくって生活するものとがある。各個かくこ単独たんどくに生活する種類しゅるいでは個体こたい個体こたいとが相向うてたたかうが、団体だんたい生活をいとな種類しゅるいでは団体だんたい団体だんたいとが相向うてたたかいする。個体こたい間の生存せいぞん競争きょうそうにはまさったほうの個体こたいが勝つが、団体だんたい間の生存せいぞん競争きょうそうにはまさったほうの団体だんたいが勝つ。されば長い間の自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして、単独たんどく動物の各個体かくこたいには、単独たんどく競争きょうそうてきする性質せいしつ発達はったつすべきはずであるが、実際じっさいの動物界を見渡みわたすと全くそのとおりで、単独たんどく動物には、自己じこ子供こどもとをまもるにたるだけの性質せいしつそなわり、団体だんたい動物には、また団体だんたいとしててきに負けぬだけの性質せいしつ発達はったつしている。
 団体だんたい間の競争きょうそうにおいててきに勝つためにもっと必要ひつよう性質せいしつ協力きょうりょく一致いっちということである。団体だんたいの強さはそのうちの個体こたいがことごとく協力きょうりょく一致いっちするというところにあるゆえ、いささかでもこの点でてきおと団体だんたい競争きょうそうに勝てる見込みこみがない。されば長い間、団体だんたい間の競争きょうそうつづき、つねに勝った団体だんたいのみが生きのこったとすれば、自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして、この性質せいしつがだんだん発達はったつするはずであるが、事実は全くそのとおりで、およそ団体だんたい生活をする動物ならば、協力きょうりょく一致いっちの行なわれていないものは決してない。ただし、これを行なうために取るところの形式は、動物の種類しゅるいによってさまざまにちがう。われらはかつてるところで「団体だんたい生活の二型にがた」と題してこのことについてべたことがあるが、その大要たいようをつまんで言えば次のごとくである。
 動物の団体だんたい協力きょうりょく一致いっちの行なわれるには二つのかたがある。一つはかりに平等のかたと名づけておくが、これはあり蜜蜂みつばちなどの団体だんたいに見るところのもので、かく個体こたいが生まれながらの本能ほんのうしたがうて行なうことが、そのままの自然しぜん協力きょうりょく一致いっちじつをあげることになる。このるいでは団体だんたい内の各個体かくこたいはことごとく平等のくらいを有し、みちびく者もなければ、みちびかれる者もなく、止める者もなければ止められる者もない。人が女王とぶものも、実は生殖せいしょく専門せんもん職工しょっこうであって、決して他を司配しはい(注:支配)するわけでもなければ、また他の尊敬そんけいを受けるわけでもない。他の一つはかりに階級のかた名付なづけておくが、これはさる団体だんたいなどに見るところのもので、一団体いちだんたい内の腕力わんりょくもっとも強く、経験けいけんもっとんで、戦争せんそうもっとたくみな一疋いっぴき大将たいしょうとなって無上むじょう(注:この上もないこと)の権威けんいをふるい、他はことごとくその司配しはいを受け絶対ぜったい服従ふくじゅうしている。大将たいしょうが死ねば、のこった者の中で腕力わんりょくもっとも強く、経験けいけんもっとんで、戦争せんそうもっとたくみな者が、ただちにそのくらいいで無上むじょう権威けんいをふるう。威張いばることと服従ふくじゅうすることとはちょっと見ると正反対のごとくに思われるが、実は同一物の表とうらとにぎず、服従ふくじゅうあまんずる者は、位置いちをかえれば、すなわち大いに威張いばる者である。次官じかんの前で平身低頭ていとうした課長かちょうが、次の部屋で属官ぞっかんしかばすのを見ても、このことは明らかに知れる。一言で言うと、このかたでは階級かいきゅうてき精神せいしんが心までんで、目上の者には絶対ぜったい服従ふくじゅうするという性質せいしつが生まれながらにそなわっているのである。
 同じく団体だんたい生活をいとなむ動物であっても、平等のかたと階級のかたとでは協力きょうりょく一致いっちの実をあげるための形式がかように全くちがう。しかも、二者のいずれが行なわれるとしても、結局けっきょく団体だんたい内の各個体かくこたいのなすことがことごとく一致いっちして、団体だんたいが、それだけ強固きょうこになることゆえ、かたは正反対に見えても、実際じっさいはただ同一の目的もくてきたつするためのことなった手段しゅだんというにぎぬ。平等のかたぞくする団体だんたいの間に生存せいぞん競争きょうそうが長くつづけば、自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして、生まれながらに、自己じこ団体だんたいのためには一身をささげるという本能ほんのうがおいおい発達はったつする。また階級のかたぞくする団体だんたいの間に生存せいぞん競争きょうそうが長くつづけば、同じく自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして、絶対ぜったい服従ふくじゅう性質せいしつがままます完全かんぜんになってゆく。今日のあり蜜蜂みつばちの有するおどろくべき団体だんたいてき本能ほんのうや、獣類じゅうるいの有するいちじるしい階級制度せいどはかくして生じたものであろう。
 ただし、同じく協力きょうりょく一致いっちじつをあげるための方便ほうべん(注:方法ほうほう)とはいうても、平等のかたと階級のかたとでは、はじめから趣向しゅこうちがい、進めば進むほどたがいに相遠ざかるものゆえ、一方のかた程度ていどまで進みきたったものが、途中とちゅうからにわかに他のかたに転ずることはとうていできぬ。一つのかたから他のかたうつるには、一たん出発点まで引き返して、さらにあらためて出直すのほかにみちはないのである。


 人間が原始時代にいかなる生活をしていたかは、今日からは、ただ遺物いぶつ骨片こっぺんなどから憶測おくそくするのほかはないゆえ、むろんたしかなことはわからぬが、身体の構造こうぞう如何いかにも猿類えんるいているところからすと、多分猿類えんるいと同様に適度てきどの大きさの団体だんたいつくって、たがいに相たたかうていたものと思われる。しこうして、また猿類えんるいにおけると同様に、各団体かくだんたいには一疋いっぴき大将たいしょうがあって、この者が無上むじょう権威けんいをふるい、のこりの者はことごとく絶対ぜったい服従ふくじゅうしていたらしい。げんに今日でも野蛮人やばんじんにはかく蕃社ばんしゃ(注:台湾たいわん先住せんじゅう民族みんぞく集落しゅらく集団しゅうだんに対する呼称こしょう)にかならず一人の酋長しゅうちょうがあって、無上むじょう権力けんりょくを有し、他は絶対ぜったいにその命令めいれいしたがうているが、これはおそらく原始時代の状態じょうたいからそのまま引きつづききたったものであろう。してみると人間の団体だんたい生活は、その出発点からすでに明らかに階級のかたぞくしていたものと考えねばならぬ。
 野蛮人やばんじん酋長しゅうちょうがその部下に対して無上むじょう権威けんいをふるい、少しでも自分の機嫌きげんそんじた者はその場でてるところなどを見ると、如何いかにも無理むり非道ひどうな(注:残酷ざんこくな)ように感ずるが、酋長しゅうちょうにつねづね無上むじょう権力けんりょくを持たせておくことはてきたたかうにあたって、わが団体だんたいを強からしめるためにもっと必要ひつようである。さるでも人間でも、おさないときには力も弱く、知恵ちえもたらず、他の保護ほごを受けねばとうてい生存せいぞんはできぬ。だんだん成長せいちょうして青年、壮年そうねんとなっても、いまだ世の中の経験けいけん不充分ふじゅうぶんであるゆえ、てきに対する懸引かけひきなどはなかなか思うようにならぬ。さればかような動物の団体だんたいでは、もっと老練ろうれん(注:多く経験けいけんんで、物事にれ、たくみであること)なる一疋いっぴき大将たいしょうあおぎ、すべてその指図にしたがうて進退しんたいするのがもっと得策とくさくである。大将たいしょうの有する貴重きちょう経験けいけん大将たいしょう一人のみの所有とし、他の者等の戦闘せんとう能率のうりつを高めるために、これを利用りようせぬということは、すこぶるつたなる(注:へたな)方法ほうほうであるのみならず、銘々めいめい未熟みじゅくな考えにもとづいて勝手な動作をすれば、全体の統一とういつけるために団体だんたいがきわめて薄弱はくじゃくにならざるをえない。これに反して、万事を大将たいしょう委任いにんしてその指揮しきしたがえば、青年や壮年そうねんでもみなひとかどの役に立ち、その上、団体だんたい全部が同一の方針ほうしんで進むゆえ、てきに対してはなはだ強くなる。戦時せんじには指揮しき者の命令めいれい絶対ぜったい服従ふくじゅうすることが何よりも必要ひつようであって、命令めいれいの理由を問い返すようでは、とうていたたかいはできぬ。しこうして、てきに対する場合だけには、指揮しき者の命令めいれい服従ふくじゅうするが、他の時にはその命令めいれいしたがわぬというような脳髄のうずいの使い分けはすこぶる困難こんなんであるゆえ、大将たいしょうにはつねづねから無上むじょう権威けんいを持たせておかねばならぬ。ようするに、生まれて後の経験けいけんによって次第しだい知恵ちえすような神経しんけい系統けいとうそなえている動物では、団体だんたい生活をいとな以上いじょうは、階級のかた採用さいようするのほかに良策りょうさくはないのである。
 団体だんたいが小さい間は指揮者しきしゃが一人ありさえすれば、それで充分じゅうぶんに事が足りるが、団体だんたいがやや大きくなると、一人の指揮しき者が自身で直接ちょくせつに全部に命令めいれいをくだすことができなくなる。かくなれば、酋長しゅうちょうは部下の中からもっとも力も強く、経験けいけんにもんだ者をえらみ出して、その者に一部の指揮しき委任いにんするのほかにいたし方はないが、団体だんたいの大きさがすにしたがい、かかる指揮しき者もだんだんと数がえねばならぬ。かような次第しだいで、階級かた団体だんたいる大きさにたつすると、若干じゃっかん指揮しきする者と、残余ざんよ指揮しきせられる者との二階級に分かれ、指揮しきする階級の中には、さらには幾段いくだんかの細別さいべつができて、全体があたかも雛段ひなだんのごとき体裁ていさいとなり、もっとも上にくらいする者は無上むじょう権威けんいをふるい、もっとも下にくらいする者は絶対ぜったい服従ふくじゅうし、その間の階級にいる者は、上に対しては絶対ぜったい服従ふくじゅうしながら、下に向うては無上むじょう権威けんいをふるう。さてこの程度ていどまでに階級制度せいどの進みきたった団体だんたい二個にこ相向うてたたかう場合には、如何いかなる性質せいしつ発達はったつしたもののほうが勝つ見込みこみが多いかというに、それはやはり服従ふくじゅうせい一層いっそうすぐれたほうの団体だんたいである。上の階級の者のためには身命しんめいをもなげうってしまぬという精神せいしん旺盛おうせい団体だんたいは、人数が何万人あっても心は一つであるが、この精神せいしんうす団体だんたいでは、一万の人数には一万の心があるゆえ、二者が相対してたたかう場合には勝敗しょうはいはじめから定まっている。されば階級かた団体だんたいあいたたかうときには、他の条件じょうけんがすべて同じとすれば、いつも服従ふくじゅうせいが一歩でも先へ進んだものが勝ちをめ、かようなたたかいが何回となくり返される間には、自然しぜん淘汰とうたはたらきによって服従ふくじゅうせい次第しだい養成ようせいせられ、ますます完全かんぜんに近きものとならざるをえない。
 人間の団体だんたい生活ははじめから階級かたぞくしたゆえ、多少の服従ふくじゅうせいはじめからそなわってあったであろうが、その後、団体だんたい間のはげしい競争きょうそうが長くつづいた間に、服従ふくじゅうせいさかんに発達はったつしきたった。階級制度せいど服従ふくじゅうせいとは体と用とのべつぎぬゆえ、階級制度せいどなしには服従ふくじゅうせいは行なわれず、服従ふくじゅうせいなしには階級制度せいどり立たぬ。すなわち服従ふくじゅうせいと階級制度せいどとはつねに相ともなうて進み、服従ふくじゅうせい極度きょくどまで発達はったつすれば、階級制度せいども実にいかめしい(注:近よりにくい感じを与えるほど立派りっぱ威厳いげんがある)ものとなる。いずれの民族みんぞく歴史れきしを見ても、かならず一度はかような時代があるが、封建ほうけん時代がちょうどそれに相当する。人間の服従ふくじゅうせい如何いかなる程度ていどまでたつるかは、目前にある無数むすうれいによって知ることができるが、そのいずれにも通じた特徴とくちょうは、人為じんい階級別かいきゅうべつを何よりも重んじ、上にくらいする者を神のごとくにあがめることである。たとえば、上の階級の者から褒美ほうびでももらえば、これを無上むじょう光栄こうえいとこころえ、家の宝物たからものとして子々孫々ししそんそんまでつたえる。たんに「御苦労ごくろうじゃ」と一言ひとこと言われただけでもうれしくてたまらず、ただちに同僚どうりょうれてまわる。るイギリス人の話しに、その人の朋友ほうゆう(注:友人)がる時ビクトリア女王と握手あくしゅする機会きかいたが、その後決して右の手をあらわなかったと、わらいながら言うたが、これなども服従ふくじゅうせい発達はったつした社会では少しもめずらしいことではない。何公爵こうしゃくとかが買物をすれば、その店は非常ひじょう名誉めいよとして、ただちにこのことを看板かんばんにもかかげ、広告文こうこくぶんにもせる。また宿屋にとまれば、亭主ていしゅ恐悦きょうえつ至極しごく(注:この上なくよろぶこと)にえず、何とかしてこのことを後のとまり客にれなくしめしたいと思うて、何公爵こうしゃく御宿おやど、何伯爵はくしゃく御宿おやどと書いた大きなふだを客の通路にけておく。昔は将軍しょうぐん鷹狩たかがりにきてこしけた石とか、手をあらうた井戸いどとかがただちに史蹟しせき名勝めいしょうとなり、将軍しょうぐんの飲む茶を運搬うんぱんするさいには、みな土下座どげざをしてこれを礼拝れいはいした。今は、それほどのことはないらしいが、普通ふつうの人がすればなんでもないことを昔の殿様とのさまがすれば、新聞紙に二号活字の見出しをけて、挿絵さしえ入りでかかげられるところを見ると、服従ふくじゅう心の程度ていどはあまりわってはいないように思われる。肩書かたがきを重んじたり、席次せきじ(注:座席ざせき順序じゅんじょ)を厳重げんじゅうに定めたりするのは、階級制度せいど特徴とくちょうとして、服従ふくじゅうせいもっと露骨ろこつあらわれた形であるが、そのれいはあまり多くてとうてい枚挙まいきょにいとまはない。英雄えいゆう(注:才知さいち気力きりょく武力ぶりょくすぐれ、偉大いだい事業じぎょうをなしとげる人)崇拝すうはいのごときも、われらの考えによれば、服従ふくじゅうせいさかんであった時代からの遺物いぶつである。
 人間の有する服従ふくじゅうせいは前にもべたとおり、むかし人間の団体だんたいが小さくて数多くあったころに、団体だんたい間の生存せいぞん競争きょうそうともな自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして次第しだい発達はったつしきたったものであるが、もしもこの自然しぜん淘汰とうたがいつまでもつづいたならば、人間の服従ふくじゅうせいはどこまでも進歩し、これによって団体だんたい統一とういつたもたれ、かく個人こじんには生まれながらに、服従ふくじゅうと階級との観念かんねんのみが脳髄のうずいみとおっていて、自由とか平等とかいうことはゆめにも見ずに終わったであろう。


 しかるに人間には他の団体だんたい動物には見られぬ特別とくべつ事情じじょうのために、団体だんたい間の競争きょうそう充分じゅうぶんに行なわれなくなり、したがって、これにともな自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつ(注: 途中とちゅうで打ち切って、やめること)の姿すがたとなった。特別とくべつ事情じじょうとは、人間はのうと手とのはたらきがすぐれているために種々しゅしゅの道具をつくり用いるということである。
 団体だんたい生活をいとなむ動物は人間のほかにいくらでもあるが、団体だんたい団体だんたいとが相対してたたかうときに道具を用いる動物は人間以外いがい一種いっしゅもない。その結果けっかとして、人間と他の動物との間には団体だんたい発達はったつの上にいちじるしい相違そういが生じた。元来団体だんたいなるものは、他の条件じょうけんがすべて相ひとしい場合には、大きいほうが強いに定まっている。衆寡しゅうかてきせず(注:多数と少数では相手にならない)とはすなわちこのことである。されば団体だんたい団体だんたいとで競争きょうそうする場合にはできるだけわが団体だんたいを大きくすることが得策とくさくであるが、道具を使うことを知らぬ動物では団体だんたいの大きさにおのずから一定の制限せいげんがあって、それ以上いじょうには大きくなりない。なぜというに、あまり大きくなりぎると、かく部分の間の連絡れんらくたもつことが困難こんなんになり、全体の統一とういつができなくなって、戦闘せんとう上、かえって不利ふりにおちいるおそれが生ずる。人間でも野蛮やばん時代には道具がきわめて幼稚ようちであるために団体だんたいはとうてい大きくはならぬ。酋長しゅうちょうさけび声の聞こえる範囲はんい酋長しゅうちょう指揮しきぼうの見える範囲はんい以内いないに集まりる人数以上いじょうになると、命令めいれい伝達でんたつ差支さしつかえるゆえ、全部が進退しんたいを一にすることができず、大いに困難こんなんを感ずる。それゆえ、野蛮人やばんじんには、ただ小さな蕃社ばんしゃが数多くならそんするだけで、国と名付なづくべきほどの大きさには決しててきせぬ。しかるに人知が進むと、通信つうしんにも運輸うんゆにもだんだんにたくみな道具を用いるゆえ、団体だんたい如何いかに大きくなっても、そのためになんの不便ふべんも起こらぬ。とくに近世のごとくに科学が発達はったつし、その利用りようさかんになって電信でんしんや電話で命令めいれいをくだし、汽車や自動車で兵糧りょうろう(注:戦争せんそう時における軍隊ぐんたい食糧しょくりょう)を運ぶような時代には、団体だんたいはいくら大きくとも、そのために差支さしつかえの生ずるごときことは決してない。かような次第しだいで、人間の団体だんたいばかりは、他の動物の団体だんたいとはちがい、無制限むせいげんに大きくなることができたが、団体だんたいの大きさが程度ていどえると、団体だんたい間の競争きょうそうの勝負が非常ひじょうに手間取り、かつ一方がけても、全部のこらずころされるわけではなく、わずかに一小部分の人間が命を落とすに止まり、残余ざんよの者は相変あいかわらず生存せいぞんつづけて子をむゆえ、団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたは少しも行なわれぬようになる。しこうして、自然しぜん淘汰とうたはたらきが止めば、その時まで自然しぜん淘汰とうたによって養成ようせいせられきたった性質せいしつ退化たいかし始めることは全生物界に通じた動かすべからざる法則ほうそくである。
 団体だんたい間の生存せいぞん競争きょうそうさかんであって、団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたえず行なわれれば、団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつがだんだんと発達はったつする。しこうして団体だんたい生活にもっと必要ひつようなことは協力きょうりょく一致いっちであるが、階級かた団体だんたいでは協力きょうりょく一致いっちの実をあげるには服従ふくじゅうせいによるのほかはない。それゆえ、人間の団体だんたいが小さくて、さかんに相たたかうていたころには、服従ふくじゅうせいが休まずに発達はったつしきたったが、団体だんたいが大きくなりぎたために、自然しぜん淘汰とうたはたらきが中絶ちゅうぜつしたあかつきにはこの性質せいしつ当然とうぜん退化たいかしはじめる。しこうして服従ふくじゅうせい退化たいか程度ていどまでたつすると、そのときにはじめて、自由とか平等とかいう考えがあらわれ出るのである。夜がだんだん明けるときに暗さがげんずると同じ割合わりあいに光がすごとくに、服従ふくじゅうと階級とがうすらぐだけ、自由と平等とが明らかになってくる。暗さがげんずるというても、明るさがすというても、ただもちいる言葉がちがうだけで事柄ことがらは全く同一であるとおり、自由平等の考えがあらわれ出るというのと、服従ふくじゅう、階級の考えが消えはじめるというのとは、たんに同じ事実をべつの言葉で言いあらわしているにぎぬ。
 人は理屈りくつを考えるに当たって、銘々めいめい自分の自由に論理りろんを進めているごとくに感じているが、実は結論けつろんだけは生まれながら無意識むいしきてきむねの中にすでにできあがっているものと見えて、服従ふくじゅうせい発達はったつしたころの人間は、如何いかなる議論ぎろんを組み立てても、その結論けつろんはいつもかならず、上の階級の者には絶対ぜったい服従ふくじゅうせよ、これが人間の取るべき唯一ゆいつの道であるというところに帰着きちゃくする。しこうして、だれもこれを聞いてなるほどと思い、少しも不審ふしん(注:うたがわしく思うこと)を起こさぬ。しかるに服従ふくじゅうせいがある程度ていどまで退化たいかすると、生まれながらののう微細びさいなる構造こうぞうがすでにいくぶんか変化へんかしているゆえ、かような議論ぎろんにはとうてい承知しょうちができず、昔からの階級制度せいど如何いかにも不合理ふごうりに見えはじめる。かれも人なり、われも人なり、しかるにかれは上に立って権威けんいをふるい、われはその下にあって服従ふくじゅうせねばならぬという理由はどこにあるかと考えては、とうてい我慢がまんができず、かかる不合理ふごうりなる状態じょうたい生存せいぞんするよりはむしろ生存せいぞんせざるほうがしなりと思うて、「われに自由をあたえよ、しからざれば、死をあたえよ」とさけぶにいたる。しこうして一たん、物の見方がかように変化へんかすると、その後は服従ふくじゅうせいの上にきづき上げた従来じゅうらいの階級制度せいど徹頭てつとう徹尾てつび(注:最初さいしょから最後さいごまで)不合理ふごうりであるごとくに思われ、これをくずさねば人類じんるいの幸福はられぬとしんじて、今まで上の階級にあった者等に対してはげしく反抗はんこうする者がだんだんと出てくる。かくなってはもはや、団体だんたいの全部が協力きょうりょく一致いっちすることはとうていむずかしい。人知が進んでからの人間の競争きょうそうは大部分、知識ちしき競争きょうそうであるゆえ、てきなる団体だんたいに負けぬためには、わが団体だんたい内の各員かくいん知識ちしきまささねばならぬが、知識ちしきすには教育が必要ひつようである。しこうして教育が進めば銘々めいめい自身で物を考える力が自然しぜんすゆえ、見る物ごとに、その理由を追究ついきゅうし、いささかでも理屈りくつに合わぬと思うことがあれば決して満足まんぞくができぬ。団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたが止んだために、協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかし、生まれながらに有する服従ふくじゅうせいりょうがいちじるしく減少げんしょうしたところへ、知識ちしきが進んで何ごとにも理由を聞かねば承知しょうちせぬという性質せいしつしてくれば、その結果けっかとして、古来の階級制度せいどに対する反抗はんこうはますますさかんにならざるをない。昔から自由のさけびの聞こえ始めるのはいつも程度ていどまで文明の進んだ時であって、野蛮人やばんじんの間にはかつてこの声を発した者はない。早く文明に進んだ民族みんぞくは早く自由をさけび始め、おそく文明に進んだ民族みんぞくはおそく自由をさけび始め、まだ文明に進まぬ民族みんぞくは今日もなお自由をさけばずにいる。しこうして自由をよくする程度ていどまでに進んだ者が、自分の過去かこをかえりみ、またはいまだその程度ていどまで進まぬ同胞どうほう(注:自身と同じ国民こくみん民族みんぞくなどのこと)を見ると、あたかも無心むしんねむりつつある者のごとくに思われ、自分はねむりから目覚めざめたごとくに感じ、われらは他の者等よりも先に目がめたという一種いっしゅほこりをきんじえない。当人はもちろん大いに進歩したつもりでいるが、裏面うらめんから見ればこれはかつて、人間の団体だんたい強固きょうこならしめるに有効ゆうこうであった服従ふくじゅうせいがいちじるしく退化たいかしたしるしである。


 人間には他の動物とちがうて、服従ふくじゅうせい退化たいかともない、階級制度せいどに対する反抗はんこう一層いっそう激烈げきれつならしめる特殊とくしゅ事情じじょうそんする。人間は何をするにもかならず道具を用いるが、道具を用いる以上いじょうは、当然とうぜん私有しゆう財産ざいさんなるものが起こり、これをしてを取るということも始まる。また物と物とを取りえる不便ふべんけるために貨幣かへい(注:商品しょうひん交換こうかん価値かちを表し、商品を交換するさい媒介物ばいかいぶつとしてもちいられ、同時に価値かち貯蔵ちょぞう手段しゅだんともなるもの)と名付なづける調法ちようほう至極しごく(注:この上なく貴重きちょう宝物たからもの)な道具がつくられてからは、物のあたい貨幣かへい標準ひょうじゅんとするようになり、物を安く買うて高く売ることを専門せんもんとする商売という職業しょくぎょうを生じた。文明が開けず、道具がすべて粗末そまつであったころには、たとえ物をしてを取っても、また安く買い高く売って、その間でもうけても、利得りとくは知れたもので、あえて問題になるほどにはいたらなかったろうが、道具がだんだん精巧せいこうになり、したがってあたいがはなはだ高くなってくると、貧富ひんぷ次第しだいにいちじるしくあらわれ、道具の進歩に比例ひれいして、その懸隔けんかく非常ひじょうにいちじるしくなった。多くはたらいた者が多くの、少なくはたらいた者が少ないたくみな者が多くもうけ、下手へたな者が少なくもうけるというのならば、各人かくじん所得しょとくがあっても、だれ不平ふへいとなえようはないが、遊んでいて莫大ばくだいな金をもうける者と、いくらかせいでもその日その日のめしが食えぬ者とが、同じ社会の中にならび住んでいるのを見ては、とみの分配のきわめて不公平ふこうへいなることに気付きづかずにはおられぬ。資本家しほんかのもうける金はことごとく労働者ろうどうしゃの手でつくったものである。しかるに労働者ろうどうしゃにはきわめて少額しょうがく賃銀ちんぎんあたえて虐待ぎゃくたいしながら、利益りえきの全部を資本家しほんか壟断ろうだん(注:市場しじょうを見回し、品物しなものを売るのにてきした場所をさがして利益りえき独占どくせんしたという故事こじから)するのは、取りも直さず当然とうぜん労働者ろうどうしゃぞくすべきものを資本家しほんかぬすんでいることに当たると考えては、一刻いっこく我慢がまんができず、同志どうしの者が徒党ととう(注:ある目的もくてきのために仲間なかま一味いちみなどをむこと)を組んで資本家しほんか利益りえきの分配をせまる。これは如何いかともふせぎがたいり行きで文明国にストライキのえぬは止むをえない。かくのごとく資本しほん労働ろうどうとの間にはげしい闘争とうそうが起これば、従来じゅうらいの階級制度せいどはむろんそのわざわいの中にまれ、今まで階級制度せいどのために過分かぶん利益りえきめていた上級の者等は、資本家しほんかと同じく労働ろうどう階級の反抗はんこうまととなる。それゆえ、上の階級の者と資本家しほんかとはたがいに手をにぎって階級制度せいど防禦ぼうぎょ尽瘁じんすい(注:全力をくすこと)し、下の階級の者と労働者ろうどうしゃとは多数をたのんで猛烈もうれつせる。同じ団体だんたいの内部がかく二組に分かれてあいあらそうようになっては、これを調停ちょうていして昔の世の中にもどすことはとうてい容易ようい(注:簡単かんたん)ではない。
 文明の進むにしたごうて貧富ひんぷがいちじるしくなり、その間にはげしいあらそいの起こるにいたった直接ちょくせつ原因げんいんは、道具がだんだん精巧せいこうになったということであるが、さらにその先の原因げんいんたづねると、これまた団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつしたために、団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつ退化たいかしたことにほかならぬ。団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつとは、言うまでもなく協力きょうりょく一致いっちであるが、もしも人間にこの性質せいしつ充分じゅうぶん発達はったつしていたならば、かり貧富ひんぷが生じたとしても、富者ふしゃ財産ざいさんの全部を団体だんたいのために提供ていきょうするであろうから、なんの問題も起こるわけがない。しかるに実際じっさいにおいては、この性質せいしつがすでにいちじるしく退化たいかしていたところへ、貧富ひんぷ懸隔けんかくが急にはなはだしくなったので、社会の制度せいど不備ふびの点のあることが覿面てきめん(注:結果けっか効果こうか即座そくざあられること)にあらわれ、そのため、自由平等を要求ようきゅうする改造かいぞうの思想がさかんに火の手をあげるにいたったのである。


 以上いじょうは、団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたが止んだために、階級かた団体だんたい協力きょうりょく一致いっち必要ひつようなる服従ふくじゅうせい退化たいかして、それと同時に自由平等の考えがあらわれ出たことを簡単かんたんべたのであるが、如何いかなる性質せいしつでも決して突然とつぜん立派りっぱなものがあらわれることはない。また立派りっぱなものが突然とつぜん消えてなくなることもない。あらわれるに当たっては、はじめかすかなものから次第しだい発達はったつして完全かんぜんなものとなる。また消えるにあたっても少しずつおとろえてついに全く痕跡こんせきを止めぬにいたる。服従ふくじゅうせいは一名を階級てき精神せいしんまたは奴隷どれい根性こんじょうと言うてもよろしいが、この根性こんじょう減退げんたいしてその反対の自由平等の精神せいしん増加ぞうかしきたるのもむろん一朝一夕いっちょういっせき(注:わずかな期間きかん)に激変げきへんする次第しだいではない。ところが、およそ物がわるときには二通りのわり方がある、一は全部がそろうて次第しだいしだいにわってゆくわり方で、他は一小部分ずつが急に変化へんかし、ついに変化へんかが全体に行きわたわり方である。夜が明けて明るくなるのは前者のれいで、ありたけ(注:あるだけ全部ぜんぶ)の物が同じ程度ていどで少しずつ明るく見えてくる。これに反して、雨がって地面がれる時には、地面全体の水分がどこも平等にしてついに水におおわれるわけではなく、はじめはここかしことしずくの落ちたところにれた点ができ、かかる点がだんだんしてついに全部がれるにいたる。人間が年を取るにしたごうて頭の毛がうすくなるのもこれと同様で、だれでも頭の毛がことごとく打ちそろうて最初さいしょまず鼠色ねずみいろになり、次にあわ鼠色ねずみいろになり、一歩一歩色があわくなって、ついに純白じゅんぱくになるのではない。白髪しらがのでき始めには純黒じゅんこくの毛の密生みっせいしているところに、突然とつぜんここに一本、かしこ(注:あそこ)に一本とびに生じ、次第しだい次第しだいにその数がえて、一時は胡麻ごましおとなり、さらに年々白がし黒がって、ついに全くの白髪しらがになり終わるのである。人間の奴隷どれい根性こんじょう退化たいかして、自由思想しそうの発生するのはちょうどこのとおりである。そのはじめてあらわれるときには、階級思想のまだみなぎっておるごとくに見えていた世の中へ、突発とっぱつてきに少数の新思想家が生まれいで、それを手始めとして次第しだいに新思想家の数がしてゆく。はじめて生えた白髪しらが容赦ようしゃなくられるごとくに、はじめて生まれた新思想家はそのときの社会から迫害はくがいせられ、のぞてられる。しかし白髪しらがの生える年齢ねんれいたつした以上いじょうは、いくら白髪しらがいても、後からまた白髪しらがが生えるのと同じく、新思想家の生まれる時期にたつした以上いじょうは、いくら新思想家を撲滅ぼくめつ(注:こそぎなくしてしまうこと)しても、後から直ちに新思想家が生まれ、かつ次第しだいにその数がしてゆく。白髪しらがかくすには白髪しらがぞめという方法ほうほうがあるが、新思想家に圧迫あっぱくくわえて、その意見を発表させぬことはちょうどこれに比較ひかくすることができよう。写真にでも写せば見事な黒髪くろかみと見えるが、めを落して見たら意外に白髪しらがが多いのできもをつぶすかもしれぬ。
 今日の文明国は思想の方面においては、いずれも胡麻ごましおあたまのごとき状態じょうたいにある。こうの国とおつの国との相違そういは、ただ黒が多いとか、白が多いとかいう程度ていど差別さべつぎぬ。同じ頭に黒い毛と白い毛とがとなり合うて生えているごとくに、ふるい思想の人と新しい思想の人とが、のきならべて(注:家がぎっしりならんだようす)生活している。されば、これらの人々が銘々めいめい自分の思うことを発表すれば、種々しゅしゅさまざまの相ことなった意見が出て、その間にはげしい衝突しょうとつの起こるはもちろんである。せんだって読売新聞に「偉人いじんでよ」という題の投書とうしょが出たことがあったが、その翌日よくじつには「偉人いじん拒否きょひ」と題する右の反駁はんばく文(注:他人の主張しゅちょう批判ひはんに対してろんじ返す文)が出た。偉人いじん出でよというのは、われよろこんで、その人に服従ふくじゅうすべしという意味がむろんこもっているゆえ、これは階級てき精神せいしんのいまだ退化たいかせぬ人の声である。これに反して、偉人いじん拒否きょひというのは、同じ人間を自分の頭の上にいただくことをいさぎよしとせぬのであるゆえ、これは自由平等をもとめるさけびである。かように全く相反する思想が同じ新聞につづいて出るのを見ても、今が胡麻ごましお時代であることが明らかに知れる。一方に華族かぞく(注:近代日本の貴族きぞく階級のこと)廃止はいしろんとなえる者があるかと思えば、他方には正三位しょうさんみ(注:位階いかいおよび神階しんかいのひとつ)何某なにがし(注:不定称ふていしょう指示しじ代名詞だいめいし)を会員募集ぼしゅう看板かんばんにかつぐ者があり、かしこでローマ字の採用さいよう主張しゅちょうすれば、ここでは漢字のはいすべからざることをいている。神社に御詣おまいりせよと教える教師きょうしがあれば、偶像ぐうぞう礼拝れいはいすべからずとさとす牧師ぼくしがあり、公爵こうしゃくでも伯爵はくしゃくでも用があればその方からこいと威張いば論客ろんきゃくもあれば、男爵だんしゃく閣下かっか御親筆ごしんぴつ(注:その人がみずから書いた筆跡ひっせき)を大切に保存ほぞんしておる村長もある。その他、雑誌ざっしを読んでも、講演こうえんを聞いても、往来おうらいを歩いても、宿屋にとまっても、人々の考え方が如何いかにさまざまであるかということに心付こころづかずにはおられぬ。今日の思想界は実に渾沌こんとん(注:入りまじって区別くべつがつかず、はっきりしない様子ようす)たる状態じょうたいにあって、この先、如何いか片付かたづくやら全く分からぬという不安ふあんの感じがだれの頭にもあるらしく見える。


 たん現今げんこんのありさまだけを見ると、かように渾沌こんとんたるごとくに思われるが、これを生物学の方面から考えると、決して無規律むきりつ渾沌こんとんたるわけではなく、そこにはかくならざるべからざる理由があって、予定のとおりにこの状態じょうたいたつしたものであることが知れる。前にもべたとおり、人間の団体だんたいはじめ小さかったころには、自然しぜん淘汰とうたがよく行なわれて、その間は団体だんたい生活にてきする性質せいしつえず発達はったつした。しかるにその後、団体だんたい次第しだいに大きくなったために、自然しぜん淘汰とうたはたらきがにぶくなり、ついには全く止んで、そのときから団体だんたい生活にてきする性質せいしつがだんだんと退化たいかしきたった。元来がんらい団体だんたい生活をいとなむ動物でありながら、団体だんたい生活にてきする性質せいしつ退化たいかするようになっては、これはもはやその種族しゅぞくの運命の下り坂と見なさねばならぬ。かく観察かんさつすると、人間の今まで経過けいかしきたった道筋みちすじは、これを図式にけば、あたかも抛物線ほうぶつせん(注:放物線)のごとき形をあらわすことができる。すなわちはじめのは上り坂で、後には下り坂となり、頂上ちょうじょうのところだけがやや円い。上り坂は自然しぜん淘汰とうたはたらきによって、団体だんたい生活に必要ひつよう協力きょうりょく一致いっち性質せいしつがだんだん発達はったつしつつあった時代に相当する。頂上ちょうじょうの円いところは自然しぜん淘汰とうたはたらきがおとろえて、協力きょうりょく一致いっち性質せいしつの進歩が大いににぶくなった時代に相当する。しこうして下り坂のほうは、その後、次第しだいにこの性質せいしつ退歩たいほしきたった時代を代表する。飛行機ひこうき潜水艇せんすいてい、エッキス光線(注:X光線)、無線むせん電信でんしんと、新しい器械きかい続々ぞくぞくと発明せられ、文明が急速力で前進するありさまを目前に見ながら、人間は今、すでに下り坂の途中とちゅうにありというのは、如何いかにも(注:めずらしいもの)をこのせつのように聞えるかもしれぬが、人間をたん一種いっしゅ団体だんたい動物と見なし、他の動物に対するのと同一の論法ろんぽうをもって判断はんだんをくだせば、かく考えるほかに道はない。ただしこれはわれら一人のせつであって、生物学者にも、生物学者以外いがいの人にも、これに賛同さんどうの意見を発表した者はいまだ一人もないように記憶きおくするゆえ、そのつもりで読んでもらわねばならぬ。
 さて、人間の今までてきた道に上り坂と下り坂とがあったとすれば、今日の人間の有する性質せいしつの中には、上り坂の時代に発達はったつしたものと、下り坂になってから発達はったつしたものとがあるべきはずである。耳を動かす筋肉きんにくや、盲腸もうちょう虫様垂ちゅうようすい(注:盲腸もうちょうの下部についている指状ゆびじょう小突起しょうとっき)が、不用ふようになってからも長く形をとどめているごとくに、一たんできた性質せいしつは時代がわっても決して直ちに消えせるものではない。それゆえ、上り坂のさい発達はったつした性質せいしつは、下り坂になって後も長く継続けいぞくして、新たにできた性質せいしつならそんする。上り坂のころに発達はったつした性質せいしつとは、自然しぜん淘汰とうたによって養成ようせいせられた団体だんたいてき性質せいしつで、協力きょうりょく一致いっちの実をあげるに必要ひつようなものである。たとえば同情どうじょうとか、博愛はくあいとか、上の者に服従ふくじゅうするとか、弱き者を助けるとかいうごとき性質せいしつがみなその仲間なかまぞくする。これに反して下り坂になってから発達はったつした性質せいしつは、いずれも協力きょうりょく一致いっち服従ふくじゅう性質せいしつ退化たいかともなうてあらわれきたったものゆえ、ちょうどその反対の性質せいしつびている。すなわち個人こじん主義しゅぎとか利己りこ主義しゅぎとか、自由とか独立どくりつとかいうのが、そのいちじるしいれいである。これらの相反する種々しゅしゅ性質せいしつならそんしていることを思えば、人間のなすことに矛盾むじゅんの多いのは無理むりはない。しかも、上り坂の性質せいしつと下り坂の性質せいしつとは明らかに二組に分かれて相反するとはかぎらず、一人で個人こじん主義しゅぎ服従ふくじゅうせいとをそなえている者もできれば、自由と博愛はくあいとを理想とする者もできる。それゆえ、人間社会の矛盾むじゅんはさらに複雑ふくざつになる。しかしながら、上り坂に発達はったつした性質せいしつもとづく思想と下り坂に発達はったつした性質せいしつもとづずく思想とは根本てきに正反対のものであるゆえ、一々の思想の内容ないようを調べて見れば、それがいずれの組にぞくするかを判断はんだんすることは決して困難こんなんでない。
 われらの見るところによれば、今日の人間はすでに長らく団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたはたらきが中絶ちゅうぜつしたために、団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつをよほどうしなうている。すなわち、昔にくらべると、生まれながらに有する協力きょうりょく一致いっち性質せいしつが大いに退化たいかした。協力きょうりょく一致いっちをせずにはおられぬという先天せんてんてき性質せいしつ退化たいかすれば、団体だんたい生活のいずれの方面にもいちじるしい欠陥けっかんの生ずるは止むをぬことで、おそらくこれを防止ぼうしする方法ほうほうはなかろう。今日世間にやかましい政治せいじ問題とか経済けいざい問題とか労働ろうどう問題とか思想しそう問題とかその他、何問題、何問題と数え切れぬほどある問題もひっきょう(注:結局けっきょく)はみな、協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかしたために生じたものゆえ、これは一括いっかつして団体だんたい生活問題と名付なづけることができる。かように無数むすうの問題が生じて、社会生活が次第しだい困難こんなんになりゆくのは、われらから見れば、全く人間の団体だんたいが大きくなりぎたために、自然しぜん淘汰とうたはたらきがなくなった結果けっかであると思われるが、この点に心付こころづかぬ人等は、責任せきにんたがいにゆずり合い、あたかも今回の欧州おうしゅう大戦たいせん(注:第一次世界大戦)で、ドイツはイギリスが悪いと言い、イギリスはドイツが悪いと言うて、たがいにののしり合うごとくに、だれかれもが自分以外いがいの者につみを負わせようとつとめている。二、三日前の新開に御経おきょう予約よやく出版しゅっぱんする広告文こうこくぶん冒頭ぼうとうとして、「科学文明の積弊せきへい(注:長い間にもり重なった弊害へいがい)そのきわみたつし」うんぬんという文句もんくが見えたが、宗教家しゅうきょかは今日の社会の欠陥けっかんをことごとく科学の進歩にけようとよくするらしい。しかし同じ新聞のうらぺーじに、高野山で大中学校の生徒せいと結束けっそくして、管長かんちょう、学長に辞職じしょく勧告かんこくをしたという通信つうしんが出ていたところを見ると、積弊せきへいがそのきわみたつしたものはあながち科学文明のみにはかぎらぬようである。世が次第しだいすえりゆく真の原因げんいんを知らぬ人等は、なんでも手近にある物の中で、自分の気にいらぬものを、その原因げんいんであるとあやましんじ、しきりにこれに食うてかかるが、これはおとしあなにかかった獅子ししおこって、かたわらにある物になんでもみつくのと同じく、真のてきだれであるかを知らぬために生ずるあやまちである。今日の思想界にはふるい思想と新しい思想とが入りみだれてそんするうえに、各自かくじがみなこのようなあやまりにおちいっておるゆえ、その渾沌こんとんじょうていするは当然とうぜんであるが、丸めた糸屑いとくずく心もちになって、気長に各種かくしゅの思想の系統けいとうり分け、あやまりの横枝よこえだを切りしなどしたならば、実は決して、無茶むちゃ苦茶に渾沌こんとんたるわけではなく、一々かくならざるべからざる理由のあることを見いだすであろう。


 以上いじょうひととおり、自由平等の由来ゆらいかんするわれらの考えの大略たいりゃくべたが、そのついでをもって、自由、平等の将来しゅらいについてわれらの思うところをくわえておく。前にべたとおり、今日世の中にある思想の中には、人間の上り坂のころに発達はったつした性質せいしつもとづくものと、人間の下り坂になってから発達はったつした性質せいしつもとづくものとの二種類にしゅるいがあるが、これらの思想は今後如何いかりゆくであろうかというに、前者は、ただ前世紀せいき遺物いぶつとして生存せいぞんつづけているだけのものゆえ、将来しょうらいさらにさかんになる時があろうとは思われぬ。如何いか宗教家しゅうきょうかや教育者がほねっても、同情心どうじょうしん服従ふくじゅうせいのごときは、おそらくゆるゆると退化たいかしてゆくのほかにみちはないであろう。後者はこれに反して、時の進むとともにますますいきおいて、反対者が如何いか防禦ぼうぎょ努力どりょくしても、とうていその蔓延まんえんすることをさえぎりぬであろう。自由とか平等とかいう思想は後者中の代表てきのものゆえ、今後どこまでもさかんになるべきは言うをまたぬ。
 自由平等の思想が、世間一般いっぱんに広がったならば、如何いかなる世の中が生ずるであろうかというに、われらは今日の社会生活の欠陥けっかんは、生物学上、きわめて深いところにその原因げんいんそんすると考えるゆえ、たとえ、新しい思想にもとづいて、社会制度せいど改革かいかくを行なうたとしても、それで救済きゅうさいができるものとは決して思わぬ。今まで社会の改造かいぞうくわだてた人は幾人いくにんあるか分からず、まだ改造かいぞうのできあがったあかつきのありさまを想像そうぞうして、小説しょうせつ本に書きつづった書物だけでもすでに何十種類しゅるいもある。かく言うわれらも、二十一二さいのころに「ナイランド旅行記」と題して、このしゅ夢物語ゆめものがたり幾枚いくまいか書き始めたことをおぼえている。現代げんだいの社会の欠陥けっかん指摘してきして、その改良かいりょう方策ほうさくろんじた書物にいたってはとうてい枚挙まいきょにいとまがない。しかし、いずれの書物を読んで見ても、現代げんだい欠陥けっかん指摘してきしてあるところは如何いかにも痛快つうかいであるが、これをすくうべき改造かいぞうあんのほうは、だれのもみなゆめのごとくで、一つとして、実地に応用おうようのできるものはない。なぜと言うに、かかる書物の著者ちょしゃには、人類じんるいの生まれながらに有する協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ次第しだい退化たいかするという点に心付こころづいた者が一人もないからである。このきわめて肝要かんような点をわすれておるゆえ、だれも自分のとなえる改造かいぞうあん一種いっしゅゆめぎぬことに気がかぬ。これは今までに書かれた理想郷りそうきようの書物に共通きょうつう欠点けってんであって、今後出版しゅっぱんになる同種どうしゅの書物にもおそらくことごとく、この欠点けってんが見いだされるであろう。われらは一昨年いっさくねん七月の『太陽』誌上しじょうに「戦後せんごにおける人類じんるい競争きょうそう」と題する一篇いっぺんかかげて、その中に、「さて今回の戦争せんそうが終わった後には、ともかくも一時は平和の姿すがたとなるであろうが、これとてもむろん真の平和ではなく、国と国とのたたかいが止めば、今度は国の内での紛擾ふんじょう(注:もめること)が高まる。今まで自衛じえい上、止むをず合同していた異民族いみんぞく間の権力けんりょくあらそいや、併合がっぺいせられた民族みんぞく主権国しゅけんこくに対する反抗はんこうなどもさかんにあらわれるであろうが、もっと激烈げきれつに起こるのは、おそらく中世以来いらい世襲せしゅうてき特権とっけん階級に対する一般いっぱん人民じんみんあらそいや、資本家しほんかに対する労働者ろうどうしゃあらそいなどのごとき人為じんい階級間のたたかいであろう。これらはいずれも面白からぬことのみであるが、人知が進めば、かかることの生ずるをまぬがれず、けて進むことも、えて行くこともできぬ厄介やっかい(注:めんどう)至極しごく(注:極限きょくげん極致きょくちたつしていること)な難関なんかんである」とべておいた。これは人間は今下り坂にあって、協力きょうりょく一致いっち性質せいしつがおいおい退化たいかするとの考えからかく予言したのであったが、その後の事実は不思議ふしぎなほど一々予言のとおりとなった。
 自由、平等ということについても、われらは決して、これによって理想の世界が現出げんしゅつしようとは思わぬ。自由平等を熱心ねっしんさけぶ人は、これによって世の中をよくしようと考えているのであろうから、その動機どうきははなはだとうとい。また自由平等の思想は今後ますますさかんになるであろうから、これをねば満足まんぞくせぬ人間が非常ひじょうに多くなるにちがいない。しかしながら、自由平等を目標もくひょうとして社会を改造かいぞうしたならば、たして理想どおりの世の中となるやいなやはすこぶるうたがわしい。いつまでも現状げんじょうのままに継続けいぞくすることは、多くの人のとうていえられぬところであるゆえ、ぜひともこれを打破だはしなければならぬが、しからば如何いか改造かいぞうすべきかというとなかなか名案めいあんが出ない。協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかした人間が集まっている以上いじょうは、自由はとなりの迷惑めいわくをかまわぬ乱暴らんぼうな自由となり、平等はなんとも始末しまつのつかぬ悪平等となるおそれがある。とくに今まで長い間、服従ふくじゅうを強いられていた階級に急に権力けんりょくうつったならば、反動として如何いかなる狼籍ろうぜき(注:物が乱雑らんざつに取りらかっているさま)がはじまるやら分からぬ。されば、いずれの文明国も当分は、現状げんじょう打破だは改造かいぞうなんとの板挾いたばさみとなって、苦しむことであろうと推察すいさつする。自分の住む社会をよくすることは、むろんだれ努力どりょくせねばならぬことで、みなが努力どりょくすればかならずそれだけの効果こうかはあがるべきはずであるが、よほどの名案めいあんが出ぬ以上いじょうはアルツィバシェフの小説しょうせつにある労働者ろうどうしゃシュヴィリヨフが言うたごとくに、「新しい世の中はくるであろう、……よりよき世の中は決して」という結果けっかを見るに止まるであろう。
(大正八年十一月)







底本:「煩悶と自由」有隣堂
   1968(昭和43)年7月20日 発行
入力:矢野重藤
初出:1920(大正9)年1月 「雄辯」に掲載
校正:
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード

Topに戻る