せんだって
或る
雑誌を見たら、その中に次のようなことが書いてあった。すなわち、
人類はその本来の
性質として自由を
要求するものである。その
証拠には、いつの世、
如何(注:どのように)なる時代にも自由の
叫びを聞かぬことはないと
論じてあったが、これと同様の考えが他の書物や
雑誌などにもしばしば出てくるところから
推す(注:あることを
根拠として、他のことを
判断する)と、かく
信じている人が、世間にはずいぶん多くあるらしい。
我ら(注:わたし)はこの点に
関して少しく
異なった
説をもっておるゆえ、その
大略を
述べて、読者の
参考に
供しようと思う。
我らの
議論は、生物の進化ということを
基として、その上に組み立てたものゆえ、進化を
認めぬ人等にはもちろん通用せぬ。今日なお生物学者間に
論争のあるような
詳細なところには
関係はないが、少なくとも次に
述べる三つの
要点だけは、これを
承知している人でなければ、
我らの
論ずるところを
了解することができぬであろう。それゆえこの
三ヶ条を
誤りなりと考える人は、その先を読んでも全くむだであることをあらかじめ
断っておく。
三ヶ条の第一は、生物
各種は決して天地
開闢(注:世界の
初め)の昔から今日見るとおりの
種類が
存在していたわけではなく、ことごとく
漸々(注:だんだん)の進化によって生じきたったもので、
初めの
先祖と後の
子孫とはいちじるしく
異なっている。人間のごときも、
或る時代までさかのぼれば、
猿と人間との間のようなもので、さらにその先までさかのぼれば、さらに
一層下等の動物であった。また生物は今日
何種類かに分かれているものでも、昔にさかのぼるとみな
共同の
先祖から出ている。はじめ
一種類であった者の
子孫でも、
甲は
或る方面に、
乙は他の方面に進化すれば、その
結果として、後には
二種類とならざるを
得ない。人間も今でこそ、他の
猿類と明らかに
区別せられているが、遠い昔まで
系図を
探れば、
猿と
共同の
先祖から起こったものである。これだけは、
解剖学、発生学、化石学などの研究の
結果、すでに
確かなことと見なされ、生物学を
修めた者の中には、もはやこれに対して
疑いをはさむ人は一人もない。
第二には、生物の有するすべての
性質は、みな長い間の
自然淘汰(注:時の
経過とともに、
優良なものが生き
残り、
劣悪なものがひとりでに
滅びていくこと)によって今日の
程度までに
発達しきたったとのことである。
自然界には
生存のためにはげしい
競争が
絶えず行なわれ、勝った者は生き
残り、
敗けた者は
亡び
失せる。しこうして(注:そうして)、
敵に勝つ者は勝ち
得るだけの
性質を
備えていたことは言うまでもないが、かかる
性質の
最もすぐれた者だけが
子孫を
遺せば、代の重なるにしたごうてその
性質は
漸々発達し、ついには
驚くべき有力なものとなる。
鷹の
鋭い
眼でも、
鹿の速い足でも、
獅子の
牙でも
蛇の
毒でもみなかようにしてできあがったものである。
各性質を
発達せしめるものは、
自然淘汰のほかにないとは言われぬが、
自然淘汰が
働けば
勝敗の
標準となる
性質が
絶えず進歩することは
確かであろう。
第三には、前の反対に、
自然淘汰が
働かぬときは、
淘汰せられぬ
性質が次第に
退化するとのことである。まっくらな
洞穴のうちでは、
視力の
優劣は
生存競争の勝負に
関係せぬゆえ、
眼に対する
自然淘汰が行なわれず、そのため
眼は
次第に
退化して、ついにはわずかに
痕跡をとどめるだけとなる。アメリカの大きな
洞穴のうちに
住する
盲魚や
盲蝦はかくして生じたものである。また
飛んで
逃げねばならぬような
敵のいないところでは、
翼の強弱は
生存上あまり問題にならず、そのため
翼はだんだん小さくなり、ついには外からは見えぬほどになる。ニュージーランドの
無翼鳥はかくして生じたものである。人間の
牙が短いのも、文明人の鼻の
鈍いのも、おそらく
牙や鼻を
標準とした
淘汰が長らく行なわれなかった
結果であろう。
例をあげれば、なお、いくらでもあるが、いずれの場合においても、
自然淘汰の
働きが
止めば、その時から
退化が始まることはすこぶる
確かなように思われる。
さて動物には
単独の生活を
営むものと、
団体を
造って生活するものとがある。
各個単独に生活する
種類では
個体と
個体とが相向うて
戦うが、
団体生活を
営む
種類では
団体と
団体とが相向うて
戦いする。
個体間の
生存競争にはまさったほうの
個体が勝つが、
団体間の
生存競争にはまさったほうの
団体が勝つ。されば長い間の
自然淘汰の
結果として、
単独動物の
各個体には、
単独競争に
適する
性質が
発達すべきはずであるが、
実際の動物界を
見渡すと全くそのとおりで、
単独動物には、
自己と
子供とを
護るにたるだけの
性質が
備わり、
団体動物には、また
団体として
敵に負けぬだけの
性質が
発達している。
団体間の
競争において
敵に勝つために
最も
必要な
性質は
協力一致ということである。
団体の強さはそのうちの
個体がことごとく
協力一致するというところにあるゆえ、いささかでもこの点で
敵に
劣る
団体は
競争に勝てる
見込みがない。されば長い間、
団体間の
競争が
続き、
常に勝った
団体のみが生き
残ったとすれば、
自然淘汰の
結果として、この
性質がだんだん
発達するはずであるが、事実は全くそのとおりで、およそ
団体生活をする動物ならば、
協力一致の行なわれていないものは決してない。ただし、これを行なうために取るところの形式は、動物の
種類によってさまざまに
違う。
我らはかつて
或るところで「
団体生活の
二型」と題してこのことについて
述べたことがあるが、その
大要をつまんで言えば次のごとくである。
動物の
団体に
協力一致の行なわれるには二つの
型がある。一つは
仮に平等の
型と名づけておくが、これは
蟻や
蜜蜂などの
団体に見るところのもので、
各個体が生まれながらの
本能に
従うて行なうことが、そのままの
自然に
協力一致の
実をあげることになる。この
類では
団体内の
各個体はことごとく平等の
位を有し、
導く者もなければ、
導かれる者もなく、止める者もなければ止められる者もない。人が女王と
呼ぶものも、実は
生殖専門の
職工であって、決して他を
司配(注:支配)するわけでもなければ、また他の
尊敬を受けるわけでもない。他の一つは
仮に階級の
型と
名付けておくが、これは
猿の
団体などに見るところのもので、
一団体内の
腕力の
最も強く、
経験に
最も
富んで、
戦争の
最も
巧みな
一疋が
大将となって
無上(注:この上もないこと)の
権威をふるい、他はことごとくその
司配を受け
絶対に
服従している。
大将が死ねば、
残った者の中で
腕力の
最も強く、
経験に
最も
富んで、
戦争の
最も
巧みな者が、ただちにその
位を
継いで
無上の
権威をふるう。
威張ることと
服従することとはちょっと見ると正反対のごとくに思われるが、実は同一物の表と
裏とに
過ぎず、
服従に
甘んずる者は、
位置をかえ
得れば、すなわち大いに
威張る者である。
次官の前で平身
低頭した
課長が、次の部屋で
属官を
叱り
飛ばすのを見ても、このことは明らかに知れる。一言で言うと、この
型では
階級的精神が心まで
染み
込んで、目上の者には
絶対に
服従するという
性質が生まれながらに
備わっているのである。
同じく
団体生活を
営む動物であっても、平等の
型と階級の
型とでは
協力一致の実をあげるための形式がかように全く
違う。しかも、二者のいずれが行なわれるとしても、
結局は
団体内の
各個体のなすことがことごとく
一致して、
団体が、それだけ
強固になることゆえ、
型は正反対に見えても、
実際はただ同一の
目的を
達するための
異なった
手段というに
過ぎぬ。平等の
型に
属する
団体の間に
生存競争が長く
続けば、
自然淘汰の
結果として、生まれながらに、
自己の
団体のためには一身を
捧げるという
本能がおいおい
発達する。また階級の
型に
属する
団体の間に
生存競争が長く
続けば、同じく
自然淘汰の
結果として、
絶対服従の
性質がままます
完全になってゆく。今日の
蟻や
蜜蜂の有する
驚くべき
団体的本能や、
或る
獣類の有するいちじるしい階級
制度はかくして生じたものであろう。
ただし、同じく
協力一致の
実をあげるための
方便(注:
方法)とはいうても、平等の
型と階級の
型とでは、
初めから
趣向が
違い、進めば進むほど
互いに相遠ざかるものゆえ、一方の
型で
或る
程度まで進みきたったものが、
途中からにわかに他の
型に転ずることはとうていできぬ。一つの
型から他の
型に
移るには、一たん出発点まで引き返して、さらに
改めて出直すのほかに
途はないのである。
人間が原始時代にいかなる生活をしていたかは、今日からは、ただ
遺物や
骨片などから
憶測するのほかはないゆえ、むろん
確かなことはわからぬが、身体の
構造が
如何にも
猿類に
似ているところから
推すと、多分
猿類と同様に
適度の大きさの
団体を
造って、
互いに相
戦うていたものと思われる。しこうして、また
猿類におけると同様に、
各団体には
一疋の
大将があって、この者が
無上の
権威をふるい、
残りの者はことごとく
絶対に
服従していたらしい。
現に今日でも
野蛮人には
各蕃社(注:
台湾の
先住民族の
集落や
集団に対する
呼称)に
必ず一人の
酋長があって、
無上の
権力を有し、他は
絶対にその
命令に
従うているが、これはおそらく原始時代の
状態からそのまま引き
続ききたったものであろう。してみると人間の
団体生活は、その出発点からすでに明らかに階級の
型に
属していたものと考えねばならぬ。
野蛮人の
酋長がその部下に対して
無上の
権威をふるい、少しでも自分の
機嫌を
損じた者はその場で
斬り
捨てるところなどを見ると、
如何にも
無理非道な(注:
残酷な)ように感ずるが、
酋長につねづね
無上の
権力を持たせておくことは
敵と
戦うにあたって、わが
団体を強からしめるために
最も
必要である。
猿でも人間でも、
幼いときには力も弱く、
知恵もたらず、他の
保護を受けねばとうてい
生存はできぬ。だんだん
成長して青年、
壮年となっても、いまだ世の中の
経験が
不充分であるゆえ、
敵に対する
懸引などはなかなか思うようにならぬ。さればかような動物の
団体では、
最も
老練(注:多く
経験を
積んで、物事に
慣れ、
巧みであること)なる
一疋を
大将と
仰ぎ、すべてその指図に
従うて
進退するのが
最も
得策である。
大将の有する
貴重な
経験を
大将一人のみの所有とし、他の者等の
戦闘能率を高めるために、これを
利用せぬということは、すこぶる
拙なる(注:へたな)
方法であるのみならず、
銘々が
未熟な考えに
基づいて勝手な動作をすれば、全体の
統一が
欠けるために
団体がきわめて
薄弱にならざるをえない。これに反して、万事を
大将に
委任してその
指揮に
従えば、青年や
壮年でもみなひとかどの役に立ち、その上、
団体全部が同一の
方針で進むゆえ、
敵に対してはなはだ強くなる。
戦時には
指揮者の
命令に
絶対に
服従することが何よりも
必要であって、
命令の理由を問い返すようでは、とうてい
戦いはできぬ。しこうして、
敵に対する場合だけには、
指揮者の
命令に
服従するが、他の時にはその
命令に
従わぬというような
脳髄の使い分けはすこぶる
困難であるゆえ、
大将にはつねづねから
無上の
権威を持たせておかねばならぬ。
要するに、生まれて後の
経験によって
次第に
知恵の
増すような
神経系統を
備えている動物では、
団体生活を
営む
以上は、階級の
型を
採用するのほかに
良策はないのである。
団体が小さい間は
指揮者が一人ありさえすれば、それで
充分に事が足りるが、
団体がやや大きくなると、一人の
指揮者が自身で
直接に全部に
命令をくだすことができなくなる。かくなれば、
酋長は部下の中から
最も力も強く、
経験にも
富んだ者を
選み出して、その者に一部の
指揮を
委任するのほかにいたし方はないが、
団体の大きさが
増すにしたがい、かかる
指揮者もだんだんと数が
殖えねばならぬ。かような
次第で、階級
型の
団体は
或る大きさに
達すると、
若干の
指揮する者と、
残余の
指揮せられる者との二階級に分かれ、
指揮する階級の中には、さらには
幾段かの
細別ができて、全体があたかも
雛段のごとき
体裁となり、
最も上に
位する者は
無上の
権威をふるい、
最も下に
位する者は
絶対に
服従し、その間の階級にいる者は、上に対しては
絶対に
服従しながら、下に向うては
無上の
権威をふるう。さてこの
程度までに階級
制度の進みきたった
団体が
二個相向うて
戦う場合には、
如何なる
性質の
発達したもののほうが勝つ
見込みが多いかというに、それはやはり
服従性の
一層すぐれたほうの
団体である。上の階級の者のためには
身命をもなげうって
惜しまぬという
精神の
旺盛な
団体は、人数が何万人あっても心は一つであるが、この
精神の
薄い
団体では、一万の人数には一万の心があるゆえ、二者が相対して
戦う場合には
勝敗は
初めから定まっている。されば階級
型の
団体が
相戦うときには、他の
条件がすべて同じとすれば、いつも
服従性が一歩でも先へ進んだものが勝ちを
占め、かような
戦いが何回となく
繰り返される間には、
自然淘汰の
働きによって
服従性は
次第に
養成せられ、ますます
完全に近きものとならざるをえない。
人間の
団体生活は
初めから階級
型に
属したゆえ、多少の
服従性は
初めから
備わってあったであろうが、その後、
団体間のはげしい
競争が長く
続いた間に、
服従性は
盛んに
発達しきたった。階級
制度と
服従性とは体と用との
別に
過ぎぬゆえ、階級
制度なしには
服従性は行なわれず、
服従性なしには階級
制度は
成り立たぬ。すなわち
服従性と階級
制度とはつねに相
伴うて進み、
服従性が
極度まで
発達すれば、階級
制度も実にいかめしい(注:近よりにくい感じを与えるほど
立派で
威厳がある)ものとなる。いずれの
民族の
歴史を見ても、
必ず一度はかような時代があるが、
封建時代がちょうどそれに相当する。人間の
服従性が
如何なる
程度まで
達し
得るかは、目前にある
無数の
例によって知ることができるが、そのいずれにも通じた
特徴は、
人為の
階級別を何よりも重んじ、上に
位する者を神のごとくに
崇めることである。
例えば、上の階級の者から
褒美でももらえば、これを
無上の
光栄とこころえ、家の
宝物として
子々孫々まで
伝える。
単に「
御苦労じゃ」と
一言言われただけでもうれしくてたまらず、ただちに
同僚に
触れてまわる。
或るイギリス人の話しに、その人の
朋友(注:友人)が
或る時ビクトリア女王と
握手する
機会を
得たが、その後決して右の手を
洗わなかったと、
笑いながら言うたが、これなども
服従性の
発達した社会では少しもめずらしいことではない。何
公爵とかが買物をすれば、その店は
非常に
名誉として、ただちにこのことを
看板にも
掲げ、
広告文にも
載せる。また宿屋に
泊れば、
亭主は
恐悦至極(注:この上なく
喜ぶこと)に
堪えず、何とかしてこのことを後の
泊り客に
洩れなく
示したいと思うて、何
公爵御宿、何
伯爵御宿と書いた大きな
札を客の通路に
懸けておく。昔は
将軍が
鷹狩にきて
腰を
掛けた石とか、手を
洗うた
井戸とかがただちに
史蹟名勝となり、
将軍の飲む茶を
運搬する
際には、みな
土下座をしてこれを
礼拝した。今は、それほどのことはないらしいが、
普通の人がすればなんでもないことを昔の
殿様がすれば、新聞紙に二号活字の見出しを
付けて、
挿絵入りで
掲げられるところを見ると、
服従心の
程度はあまり
変わってはいないように思われる。
肩書きを重んじたり、
席次(注:
座席の
順序)を
厳重に定めたりするのは、階級
制度の
特徴として、
服従性の
最も
露骨に
現われた形であるが、その
例はあまり多くてとうてい
枚挙にいとまはない。
英雄(注:
才知・
気力・
武力に
優れ、
偉大な
事業をなしとげる人)
崇拝のごときも、
我らの考えによれば、
服従性の
盛んであった時代からの
遺物である。
人間の有する
服従制は前にも
述べたとおり、むかし人間の
団体が小さくて数多くあったころに、
団体間の
生存競争に
伴う
自然淘汰の
結果として
次第に
発達しきたったものであるが、もしもこの
自然淘汰がいつまでも
続いたならば、人間の
服従性はどこまでも進歩し、これによって
団体の
統一が
保たれ、
各個人には生まれながらに、
服従と階級との
観念のみが
脳髄に
浸みとおっていて、自由とか平等とかいうことは
夢にも見ずに終わったであろう。
しかるに人間には他の
団体動物には見られぬ
特別の
事情のために、
団体間の
競争が
充分に行なわれなくなり、したがって、これに
伴う
自然淘汰も
中絶(注:
途中で打ち切って、やめること)の
姿となった。
特別な
事情とは、人間は
脳と手との
働きがすぐれているために
種々の道具を
造り用いるということである。
団体生活を
営む動物は人間のほかにいくらでもあるが、
団体と
団体とが相対して
戦うときに道具を用いる動物は人間
以外に
一種もない。その
結果として、人間と他の動物との間には
団体発達の上にいちじるしい
相違が生じた。元来
団体なるものは、他の
条件がすべて相ひとしい場合には、大きいほうが強いに定まっている。
衆寡敵せず(注:多数と少数では相手にならない)とはすなわちこのことである。されば
団体と
団体とで
競争する場合にはできるだけわが
団体を大きくすることが
得策であるが、道具を使うことを知らぬ動物では
団体の大きさにおのずから一定の
制限があって、それ
以上には大きくなり
得ない。なぜというに、あまり大きくなり
過ぎると、
各部分の間の
連絡を
保つことが
困難になり、全体の
統一ができなくなって、
戦闘上、かえって
不利におちいるおそれが生ずる。人間でも
野蛮時代には道具がきわめて
幼稚であるために
団体はとうてい大きくはならぬ。
酋長の
叫び声の聞こえる
範囲、
酋長の
指揮棒の見える
範囲以内に集まり
得る人数
以上になると、
命令の
伝達に
差支えるゆえ、全部が
進退を一にすることができず、大いに
困難を感ずる。それゆえ、
野蛮人には、ただ小さな
蕃社が数多く
並び
存するだけで、国と
名付くべきほどの大きさには決して
適せぬ。しかるに人知が進むと、
通信にも
運輸にもだんだんに
巧みな道具を用いるゆえ、
団体は
如何に大きくなっても、そのためになんの
不便も起こらぬ。
特に近世のごとくに科学が
発達し、その
利用が
盛んになって
電信や電話で
命令をくだし、汽車や自動車で
兵糧(注:
戦争時における
軍隊の
食糧)を運ぶような時代には、
団体はいくら大きくとも、そのために
差支かえの生ずるごときことは決してない。かような
次第で、人間の
団体ばかりは、他の動物の
団体とは
違い、
無制限に大きくなることができたが、
団体の大きさが
或る
程度を
超えると、
団体間の
競争の勝負が
非常に手間取り、かつ一方が
敗けても、全部
残らず
殺されるわけではなく、わずかに一小部分の人間が命を落とすに止まり、
残余の者は
相変わらず
生存し
続けて子を
産むゆえ、
団体を
単位とした
自然淘汰は少しも行なわれぬようになる。しこうして、
自然淘汰の
働きが止めば、その時まで
自然淘汰によって
養成せられきたった
性質が
退化し始めることは全生物界に通じた動かすべからざる
法則である。
団体間の
生存競争が
盛んであって、
団体を
単位とした
自然淘汰が
絶えず行なわれれば、
団体生活に
必要な
性質がだんだんと
発達する。しこうして
団体生活に
最も
必要なことは
協力一致であるが、階級
型の
団体では
協力一致の実をあげるには
服従性によるのほかはない。それゆえ、人間の
団体が小さくて、
盛んに相
戦うていたころには、
服従性が休まずに
発達しきたったが、
団体が大きくなり
過ぎたために、
自然淘汰の
働きが
中絶した
暁にはこの
性質は
当然退化しはじめる。しこうして
服従性の
退化が
或る
程度まで
達すると、そのときに
初めて、自由とか平等とかいう考えが
現われ出るのである。夜がだんだん明けるときに暗さが
減ずると同じ
割合に光が
増すごとくに、
服従と階級とが
薄らぐだけ、自由と平等とが明らかになってくる。暗さが
減ずるというても、明るさが
増すというても、ただ
用いる言葉が
違うだけで
事柄は全く同一であるとおり、自由平等の考えが
現われ出るというのと、
服従、階級の考えが消えはじめるというのとは、
単に同じ事実を
別の言葉で言い
現わしているに
過ぎぬ。
人は
理屈を考えるに当たって、
銘々自分の自由に
論理を進めているごとくに感じているが、実は
結論だけは生まれながら
無意識的に
胸の中にすでにできあがっているものと見えて、
服従性の
発達したころの人間は、
如何なる
議論を組み立てても、その
結論はいつも
必ず、上の階級の者には
絶対に
服従せよ、これが人間の取るべき
唯一の道であるというところに
帰着する。しこうして、
誰もこれを聞いてなるほどと思い、少しも
不審(注:
疑わしく思うこと)を起こさぬ。しかるに
服従性がある
程度まで
退化すると、生まれながらの
脳の
微細なる
構造がすでにいくぶんか
変化しているゆえ、かような
議論にはとうてい
承知ができず、昔からの階級
制度が
如何にも
不合理に見えはじめる。
彼も人なり、
我も人なり、しかるに
彼は上に立って
権威をふるい、
我はその下にあって
服従せねばならぬという理由はどこにあるかと考えては、とうてい
我慢ができず、かかる
不合理なる
状態に
生存するよりはむしろ
生存せざるほうが
優しなりと思うて、「
我に自由を
与えよ、しからざれば、死を
与えよ」と
叫ぶにいたる。しこうして一たん、物の見方がかように
変化すると、その後は
服従性の上に
築き上げた
従来の階級
制度は
徹頭徹尾(注:
最初から
最後まで)
不合理であるごとくに思われ、これを
崩さねば
人類の幸福は
得られぬと
信じて、今まで上の階級にあった者等に対してはげしく
反抗する者がだんだんと出てくる。かくなってはもはや、
団体の全部が
協力一致することはとうていむずかしい。人知が進んでからの人間の
競争は大部分、
知識の
競争であるゆえ、
敵なる
団体に負けぬためには、わが
団体内の
各員の
知識を
増さねばならぬが、
知識を
増すには教育が
必要である。しこうして教育が進めば
銘々自身で物を考える力が
自然に
増すゆえ、見る物ごとに、その理由を
追究し、いささかでも
理屈に合わぬと思うことがあれば決して
満足ができぬ。
団体を
単位とした
自然淘汰が止んだために、
協力一致の
性質が
退化し、生まれながらに有する
服従性の
量がいちじるしく
減少したところへ、
知識が進んで何ごとにも理由を聞かねば
承知せぬという
性質が
増してくれば、その
結果として、古来の階級
制度に対する
反抗はますます
盛んにならざるを
得ない。昔から自由の
叫びの聞こえ始めるのはいつも
或る
程度まで文明の進んだ時であって、
野蛮人の間にはかつてこの声を発した者はない。早く文明に進んだ
民族は早く自由を
叫び始め、おそく文明に進んだ
民族はおそく自由を
叫び始め、まだ文明に進まぬ
民族は今日もなお自由を
叫ばずにいる。しこうして自由を
欲する
程度までに進んだ者が、自分の
過去をかえりみ、またはいまだその
程度まで進まぬ
同胞(注:自身と同じ
国民や
民族などのこと)を見ると、あたかも
無心に
眠りつつある者のごとくに思われ、自分は
眠りから
目覚めたごとくに感じ、
我らは他の者等よりも先に目が
覚めたという
一種の
誇りを
禁じえない。当人はもちろん大いに進歩したつもりでいるが、
裏面から見ればこれはかつて、人間の
団体を
強固ならしめるに
有効であった
服従性がいちじるしく
退化した
徴しである。
人間には他の動物と
違うて、
服従性の
退化に
伴い、階級
制度に対する
反抗を
一層激烈ならしめる
特殊の
事情が
存する。人間は何をするにも
必ず道具を用いるが、道具を用いる
以上は、
当然私有財産なるものが起こり、これを
貸して
利を取るということも始まる。また物と物とを取り
換える
不便を
避けるために
貨幣(注:
商品の
交換価値を表し、商品を交換する
際に
媒介物として
用いられ、同時に
価値貯蔵の
手段ともなるもの)と
名付ける
調法至極(注:この上なく
貴重な
宝物)な道具が
造られてからは、物の
価は
貨幣を
標準とするようになり、物を安く買うて高く売ることを
専門とする商売という
職業を生じた。文明が開けず、道具がすべて
粗末であったころには、たとえ物を
貸して
利を取っても、また安く買い高く売って、その間でもうけても、
利得は知れたもので、あえて問題になるほどにはいたらなかったろうが、道具がだんだん
精巧になり、したがって
価がはなはだ高くなってくると、
貧富の
差が
次第にいちじるしく
現われ、道具の進歩に
比例して、その
懸隔が
非常にいちじるしくなった。多く
働いた者が多くの
利を
得、少なく
働いた者が少ない
利を
得、
巧みな者が多くもうけ、
下手な者が少なくもうけるというのならば、
各人の
所得に
差があっても、
誰も
不平の
唱えようはないが、遊んでいて
莫大な金をもうける者と、いくら
稼いでもその日その日の
飯が食えぬ者とが、同じ社会の中に
隣び住んでいるのを見ては、
富の分配のきわめて
不公平なることに
気付かずにはおられぬ。
資本家のもうける金はことごとく
労働者の手で
造ったものである。しかるに
労働者にはきわめて
少額の
賃銀を
与えて
虐待しながら、
利益の全部を
資本家が
壟断(注:
市場を見回し、
品物を売るのに
適した場所を
探して
利益を
独占したという
故事から)するのは、取りも直さず
当然労働者に
属すべきものを
資本家が
盗んでいることに当たると考えては、
一刻も
我慢ができず、
同志の者が
徒党(注:ある
目的のために
仲間や
一味などを
組むこと)を組んで
資本家に
利益の分配を
迫る。これは
如何とも
防ぎがたい
成り行きで文明国にストライキの
絶えぬは止むをえない。かくのごとく
資本と
労働との間にはげしい
闘争が起これば、
従来の階級
制度はむろんその
禍の中に
巻き
込まれ、今まで階級
制度のために
過分の
利益を
収めていた上級の者等は、
資本家と同じく
労働階級の
反抗の
的となる。それゆえ、上の階級の者と
資本家とは
互いに手を
握って階級
制度の
防禦に
尽瘁(注:全力を
尽くすこと)し、下の階級の者と
労働者とは多数をたのんで
猛烈に
攻め
寄せる。同じ
団体の内部がかく二組に分かれて
相争うようになっては、これを
調停して昔の世の中に
戻すことはとうてい
容易(注:
簡単)ではない。
文明の進むにしたごうて
貧富の
差がいちじるしくなり、その間にはげしい
争いの起こるにいたった
直接の
原因は、道具がだんだん
精巧になったということであるが、さらにその先の
原因を
尋ねると、これまた
団体を
単位とした
自然淘汰が
中絶したために、
団体生活に
必要な
性質が
退化したことにほかならぬ。
団体生活に
必要な
性質とは、言うまでもなく
協力一致であるが、もしも人間にこの
性質が
充分に
発達していたならば、
仮に
貧富の
差が生じたとしても、
富者は
財産の全部を
団体のために
提供するであろうから、なんの問題も起こるわけがない。しかるに
実際においては、この
性質がすでにいちじるしく
退化していたところへ、
貧富の
懸隔が急にはなはだしくなったので、社会の
制度に
不備の点のあることが
覿面(注:
結果・
効果が
即座に
現れること)に
現われ、そのため、自由平等を
要求する
改造の思想が
盛んに火の手をあげるにいたったのである。
以上は、
団体を
単位とした
自然淘汰が止んだために、階級
型団体の
協力一致に
必要なる
服従性が
退化して、それと同時に自由平等の考えが
現われ出たことを
簡単に
述べたのであるが、
如何なる
性質でも決して
突然立派なものが
現われることはない。また
立派なものが
突然消えてなくなることもない。
現われるに当たっては、はじめ
微なものから
次第に
発達して
完全なものとなる。また消えるにあたっても少しずつ
衰えてついに全く
痕跡を止めぬにいたる。
服従性は一名を階級
的精神または
奴隷根性と言うてもよろしいが、この
根性が
減退してその反対の自由平等の
精神が
増加しきたるのもむろん
一朝一夕(注:わずかな
期間)に
激変する
次第ではない。ところが、およそ物が
変わるときには二通りの
変わり方がある、一は全部が
揃うて
次第しだいに
変わってゆく
変わり方で、他は一小部分ずつが急に
変化し、ついに
変化が全体に行き
渡る
変わり方である。夜が明けて明るくなるのは前者の
例で、ありたけ(注:あるだけ
全部)の物が同じ
程度で少しずつ明るく見えてくる。これに反して、雨が
降って地面が
濡れる時には、地面全体の水分がどこも平等に
増してついに水におおわれるわけではなく、
初めはここかしこと
滴の落ちたところに
濡れた点ができ、かかる点がだんだん
増してついに全部が
濡れるにいたる。人間が年を取るにしたごうて頭の毛が
薄くなるのもこれと同様で、
誰でも頭の毛がことごとく打ち
揃うて
最初まず
濃い
鼠色になり、次に
淡い
鼠色になり、一歩一歩色が
淡くなって、ついに
純白になるのではない。
白髪のでき始めには
純黒の毛の
密生しているところに、
突然ここに一本、かしこ(注:あそこ)に一本と
飛び
飛びに生じ、
次第次第にその数が
殖えて、一時は
胡麻塩となり、さらに年々白が
増し黒が
減って、ついに全くの
白髪になり終わるのである。人間の
奴隷根性が
退化して、自由
思想の発生するのはちょうどこのとおりである。その
初めて
現われるときには、階級思想のまだみなぎっておるごとくに見えていた世の中へ、
突発的に少数の新思想家が生まれいで、それを手始めとして
次第に新思想家の数が
増してゆく。
初めて生えた
白髪が
容赦なく
抜き
去られるごとくに、
初めて生まれた新思想家はそのときの社会から
迫害せられ、
除き
捨てられる。しかし
白髪の生える
年齢に
達した
以上は、いくら
白髪を
抜いても、後からまた
白髪が生えるのと同じく、新思想家の生まれる時期に
達した
以上は、いくら新思想家を
撲滅(注:
根こそぎなくしてしまうこと)しても、後から直ちに新思想家が生まれ、かつ
次第にその数が
増してゆく。
白髪を
隠すには
白髪染という
方法があるが、新思想家に
圧迫を
加えて、その意見を発表させぬことはちょうどこれに
比較することができよう。写真にでも写せば見事な
黒髪と見えるが、
染めを落して見たら意外に
白髪が多いので
胆をつぶすかもしれぬ。
今日の文明国は思想の方面においては、いずれも
胡麻塩頭のごとき
状態にある。
甲の国と
乙の国との
相違は、ただ黒が多いとか、白が多いとかいう
程度の
差別に
過ぎぬ。同じ頭に黒い毛と白い毛とが
隣り合うて生えているごとくに、
旧い思想の人と新しい思想の人とが、
軒を
並べて(注:家がぎっしり
建ち
並んだようす)生活している。されば、これらの人々が
銘々自分の思うことを発表すれば、
種々さまざまの相
異なった意見が出て、その間にはげしい
衝突の起こるはもちろんである。せんだって読売新聞に「
偉人出でよ」という題の
投書が出たことがあったが、その
翌日には「
偉人拒否」と題する右の
反駁文(注:他人の
主張や
批判に対して
論じ返す文)が出た。
偉人出でよというのは、
我は
喜んで、その人に
服従すべしという意味がむろんこもっているゆえ、これは階級
的精神のいまだ
退化せぬ人の声である。これに反して、
偉人拒否というのは、同じ人間を自分の頭の上にいただくことをいさぎよしとせぬのであるゆえ、これは自由平等を
求める
叫びである。かように全く相反する思想が同じ新聞に
続いて出るのを見ても、今が
胡麻塩時代であることが明らかに知れる。一方に
華族(注:近代日本の
貴族階級のこと)
廃止論を
唱える者があるかと思えば、他方には
正三位(注:
位階および
神階のひとつ)
何某(注:
不定称の
指示代名詞)を会員
募集の
看板にかつぐ者があり、かしこでローマ字の
採用を
主張すれば、ここでは漢字の
廃すべからざることを
説いている。神社に
御詣りせよと教える
教師があれば、
偶像を
礼拝すべからずとさとす
牧師があり、
公爵でも
伯爵でも用があればその方からこいと
威張る
論客もあれば、
男爵閣下の
御親筆(注:その人がみずから書いた
筆跡)を大切に
保存しておる村長もある。その他、
雑誌を読んでも、
講演を聞いても、
往来を歩いても、宿屋に
泊っても、人々の考え方が
如何にさまざまであるかということに
心付かずにはおられぬ。今日の思想界は実に
渾沌(注:入りまじって
区別がつかず、はっきりしない
様子)たる
状態にあって、この先、
如何に
片付くやら全く分からぬという
不安の感じが
誰の頭にもあるらしく見える。
単に
現今のありさまだけを見ると、かように
渾沌たるごとくに思われるが、これを生物学の方面から考えると、決して
無規律に
渾沌たるわけではなく、そこにはかくならざるべからざる理由があって、予定のとおりにこの
状態に
達したものであることが知れる。前にも
述べたとおり、人間の
団体は
初め小さかったころには、
自然淘汰がよく行なわれて、その間は
団体生活に
適する
性質が
絶えず
発達した。しかるにその後、
団体が
次第に大きくなったために、
自然淘汰の
働きが
鈍くなり、ついには全く止んで、そのときから
団体生活に
適する
性質がだんだんと
退化しきたった。
元来が
団体生活を
営む動物でありながら、
団体生活に
適する
性質が
退化するようになっては、これはもはやその
種族の運命の下り坂と見なさねばならぬ。かく
観察すると、人間の今まで
経過しきたった
道筋は、これを図式に
画けば、あたかも
抛物線(注:放物線)のごとき形を
現わすことができる。すなわち
初めのは上り坂で、後には下り坂となり、
頂上のところだけがやや円い。上り坂は
自然淘汰の
働きによって、
団体生活に
必要な
協力一致の
性質がだんだん
発達しつつあった時代に相当する。
頂上の円いところは
自然淘汰の
働きが
衰えて、
協力一致の
性質の進歩が大いに
鈍くなった時代に相当する。しこうして下り坂のほうは、その後、
次第にこの
性質が
退歩しきたった時代を代表する。
飛行機、
潜水艇、エッキス光線(注:X光線)、
無線電信と、新しい
器械が
続々と発明せられ、文明が急速力で前進するありさまを目前に見ながら、人間は今、すでに下り坂の
途中にありというのは、
如何にも
奇(注:
珍しいもの)を
好む
説のように聞えるかもしれぬが、人間を
単に
一種の
団体動物と見なし、他の動物に対するのと同一の
論法をもって
判断をくだせば、かく考えるほかに道はない。ただしこれは
我ら一人の
説であって、生物学者にも、生物学者
以外の人にも、これに
賛同の意見を発表した者はいまだ一人もないように
記憶するゆえ、そのつもりで読んでもらわねばならぬ。
さて、人間の今まで
経てきた道に上り坂と下り坂とがあったとすれば、今日の人間の有する
性質の中には、上り坂の時代に
発達したものと、下り坂になってから
発達したものとがあるべきはずである。耳を動かす
筋肉や、
盲腸の
虫様垂(注:
盲腸の下部についている
指状の
小突起)が、
不用になってからも長く形をとどめているごとくに、一たんできた
性質は時代が
変わっても決して直ちに消え
失せるものではない。それゆえ、上り坂の
際に
発達した
性質は、下り坂になって後も長く
継続して、新たにできた
性質と
並び
存する。上り坂のころに
発達した
性質とは、
自然淘汰によって
養成せられた
団体的の
性質で、
協力一致の実をあげるに
必要なものである。
例えば
同情とか、
博愛とか、上の者に
服従するとか、弱き者を助けるとかいうごとき
性質がみなその
仲間に
属する。これに反して下り坂になってから
発達した
性質は、いずれも
協力一致や
服従の
性質の
退化に
伴うて
現われきたったものゆえ、ちょうどその反対の
性質を
帯びている。すなわち
個人主義とか
利己主義とか、自由とか
独立とかいうのが、そのいちじるしい
例である。これらの相反する
種々の
性質が
並び
存していることを思えば、人間のなすことに
矛盾の多いのは
無理はない。しかも、上り坂の
性質と下り坂の
性質とは明らかに二組に分かれて相反するとは
限らず、一人で
個人主義と
服従性とを
兼ね
備えている者もできれば、自由と
博愛とを理想とする者もできる。それゆえ、人間社会の
矛盾はさらに
複雑になる。しかしながら、上り坂に
発達した
性質に
基づく思想と下り坂に
発達した
性質に
基づずく思想とは根本
的に正反対のものであるゆえ、一々の思想の
内容を調べて見れば、それがいずれの組に
属するかを
判断することは決して
困難でない。
我らの見るところによれば、今日の人間はすでに長らく
団体を
単位とした
自然淘汰の
働きが
中絶したために、
団体生活に
必要な
性質をよほど
失うている。すなわち、昔にくらべると、生まれながらに有する
協力一致の
性質が大いに
退化した。
協力一致をせずにはおられぬという
先天的の
性質が
退化すれば、
団体生活のいずれの方面にもいちじるしい
欠陥の生ずるは止むを
得ぬことで、おそらくこれを
防止する
方法はなかろう。今日世間にやかましい
政治問題とか
経済問題とか
労働問題とか
思想問題とかその他、何問題、何問題と数え切れぬほどある問題もひっきょう(注:
結局)はみな、
協力一致の
性質の
退化したために生じたものゆえ、これは
一括して
団体生活問題と
名付けることができる。かように
無数の問題が生じて、社会生活が
次第に
困難になりゆくのは、
我らから見れば、全く人間の
団体が大きくなり
過ぎたために、
自然淘汰の
働きがなくなった
結果であると思われるが、この点に
心付かぬ人等は、
責任を
互いに
譲り合い、あたかも今回の
欧州大戦(注:第一次世界大戦)で、ドイツはイギリスが悪いと言い、イギリスはドイツが悪いと言うて、
互いに
罵り合うごとくに、
誰も
彼もが自分
以外の者に
罪を負わせようとつとめている。二、三日前の新開に
御経を
予約で
出版する
広告文の
冒頭として、「科学文明の
積弊(注:長い間に
積もり重なった
弊害)その
極に
達し」うんぬんという
文句が見えたが、
宗教家は今日の社会の
欠陥をことごとく科学の進歩に
押し
付けようと
欲するらしい。しかし同じ新聞の
裏の
頁に、高野山で大中学校の
生徒が
結束して、
管長、学長に
辞職勧告をしたという
通信が出ていたところを見ると、
積弊がその
極に
達したものはあながち科学文明のみには
限らぬようである。世が
次第に
末に
成りゆく真の
原因を知らぬ人等は、なんでも手近にある物の中で、自分の気にいらぬものを、その
原因であると
誤り
信じ、しきりにこれに食うてかかるが、これは
穽にかかった
獅子が
怒って、かたわらにある物になんでも
噛みつくのと同じく、真の
敵が
誰であるかを知らぬために生ずる
過ちである。今日の思想界にはふるい思想と新しい思想とが入り
乱れて
存するうえに、
各自がみなこのような
誤りにおちいっておるゆえ、その
渾沌の
状を
呈するは
当然であるが、丸めた
糸屑を
解く心もちになって、気長に
各種の思想の
系統を
選り分け、
誤りの
横枝を切り
離しなどしたならば、実は決して、
無茶苦茶に
渾沌たるわけではなく、一々かくならざるべからざる理由のあることを見いだすであろう。
以上ひととおり、自由平等の
由来に
関する
我らの考えの
大略を
述べたが、そのついでをもって、自由、平等の
将来について
我らの思うところを
付け
加えておく。前に
述べたとおり、今日世の中にある思想の中には、人間の上り坂のころに
発達した
性質に
基づくものと、人間の下り坂になってから
発達した
性質に
基づくものとの
二種類があるが、これらの思想は今後
如何に
成りゆくであろうかというに、前者は、ただ前
世紀の
遺物として
生存し
続けているだけのものゆえ、
将来さらに
盛んになる時があろうとは思われぬ。
如何に
宗教家や教育者が
骨を
折っても、
同情心や
服従性のごときは、おそらくゆるゆると
退化してゆくのほかに
途はないであろう。後者はこれに反して、時の進むとともにますます
勢を
得て、反対者が
如何に
防禦に
努力しても、とうていその
蔓延することをさえぎり
得ぬであろう。自由とか平等とかいう思想は後者中の代表
的のものゆえ、今後どこまでも
盛んになるべきは言うをまたぬ。
自由平等の思想が、世間
一般に広がったならば、
如何なる世の中が生ずるであろうかというに、
我らは今日の社会生活の
欠陥は、生物学上、きわめて深いところにその
原因が
存すると考えるゆえ、たとえ、新しい思想に
基づいて、社会
制度の
改革を行なうたとしても、それで
救済ができるものとは決して思わぬ。今まで社会の
改造を
企てた人は
幾人あるか分からず、まだ
改造のできあがった
暁のありさまを
想像して、
小説本に書き
綴った書物だけでもすでに何十
種類もある。かく言う
我らも、二十一二
歳のころに「ナイランド旅行記」と題して、この
種の
夢物語を
幾枚か書き始めたことを
覚えている。
現代の社会の
欠陥を
指摘して、その
改良の
方策を
論じた書物にいたってはとうてい
枚挙にいとまがない。しかし、いずれの書物を読んで見ても、
現代の
欠陥を
指摘してあるところは
如何にも
痛快であるが、これを
救うべき
改造案のほうは、
誰のもみな
夢のごとくで、一つとして、実地に
応用のできるものはない。なぜと言うに、かかる書物の
著者には、
人類の生まれながらに有する
協力一致の
性質が
次第に
退化するという点に
心付いた者が一人もないからである。このきわめて
肝要な点を
忘れておるゆえ、
誰も自分の
唱える
改造案が
一種の
夢に
過ぎぬことに気が
付かぬ。これは今までに書かれた
理想郷の書物に
共通の
欠点であって、今後
出版になる
同種の書物にもおそらくことごとく、この
欠点が見いだされるであろう。
我らは
一昨年七月の『太陽』
誌上に「
戦後における
人類の
競争」と題する
一篇を
掲げて、その中に、「さて今回の
戦争が終わった後には、ともかくも一時は平和の
姿となるであろうが、これとてもむろん真の平和ではなく、国と国との
戦いが止めば、今度は国の内での
紛擾(注:もめること)が高まる。今まで
自衛上、止むを
得ず合同していた
異民族間の
権力争いや、
併合せられた
民族の
主権国に対する
反抗なども
盛んに
現われるであろうが、
最も
激烈に起こるのは、おそらく中世
以来の
世襲的特権階級に対する
一般人民の
争いや、
資本家に対する
労働者の
争いなどのごとき
人為階級間の
戦いであろう。これらはいずれも面白からぬことのみであるが、人知が進めば、かかることの生ずるをまぬがれず、
除けて進むことも、
飛び
越えて行くこともできぬ
厄介(注:めんどう)
至極(注:
極限・
極致に
達していること)な
難関である」と
述べておいた。これは人間は今下り坂にあって、
協力一致の
性質がおいおい
退化するとの考えからかく予言したのであったが、その後の事実は
不思議なほど一々予言のとおりとなった。
自由、平等ということについても、
我らは決して、これによって理想の世界が
現出しようとは思わぬ。自由平等を
熱心に
叫ぶ人は、これによって世の中をよくしようと考えているのであろうから、その
動機ははなはだ
貴い。また自由平等の思想は今後ますます
盛んになるであろうから、これを
得ねば
満足せぬ人間が
非常に多くなるに
違いない。しかしながら、自由平等を
目標として社会を
改造したならば、
果たして理想どおりの世の中となるやいなやはすこぶる
疑わしい。いつまでも
現状のままに
継続することは、多くの人のとうてい
堪えられぬところであるゆえ、ぜひともこれを
打破しなければならぬが、しからば
如何に
改造すべきかというとなかなか
名案が出ない。
協力一致の
性質が
退化した人間が集まっている
以上は、自由は
隣りの
迷惑をかまわぬ
乱暴な自由となり、平等はなんとも
始末のつかぬ悪平等となるおそれがある。
特に今まで長い間、
服従を強いられていた階級に急に
権力が
移ったならば、反動として
如何なる
狼籍(注:物が
乱雑に取り
散らかっているさま)がはじまるやら分からぬ。されば、いずれの文明国も当分は、
現状打破と
改造難との
板挾みとなって、苦しむことであろうと
推察する。自分の住む社会をよくすることは、むろん
誰も
努力せねばならぬことで、みなが
努力すれば
必ずそれだけの
効果はあがるべきはずであるが、よほどの
名案が出ぬ
以上はアルツィバシェフの
小説にある
労働者シュヴィリヨフが言うたごとくに、「新しい世の中はくるであろう、……よりよき世の中は決して」という
結果を見るに止まるであろう。
(大正八年十一月)