固形の論理

　我（われ）らは先年ベルグソン（Henri Bergson）の「創造（そうぞう）的（てき）進化」（L'evolution creatrice）と云（い）ふ書物を読んだ時に一つ気に入つた言葉を見付（みつ）けた。それは序文（じょぶん）の第一頁（ぺーじ）にある「固形（こけい）の論理（ろんり）」（la logique des solides）と云（い）ふ言葉である。ベルグソンは之（これ）に就（つ）いて次の如（ごと）くに云（い）うて居（い）る。我（われ）等（ら）人間の論理（ろんり）は固形（こけい）を基（もと）とした論理（ろんり）である故（ゆえ）、幾何（きか）学に於（おい）ては成功（せいこう）するが、生物界に持つて行くと忽（たちま）ち差支（さしつか）へる。幾何（きか）学では、論理（ろんり）を唯一（ゆいつ）の道具として考へれば、何所（どこ）までも間違（まちが）ひでなく、之（これ）を応用（おうよう）した器械（きかい）は必（かなら）ず理論（ろんり）の通りに動くが、絶（た）えず進化し変（へん）じつゝある生物の方に当て嵌（は）めやうとすると直に頓挫（とんざ）する。一とか多とか、原因（げんいん）、結果（けっか）とか云（い）ふ如（ごと）き、総（す）べての考への源（みなも）となるべきことさへ、中々、生物には、うまく適（てき）せぬ。即（すなわ）ち生物には個体（こたい）の境（さかい）が判然（はんぜん）せず、一疋（ぴき）とも数疋（ひき）とも断言（だんげん）し難（がた）いものが幾（いく）らも有る。また、生物の身体が多くの細胞（さいぼう）から成（な）り立つて居（い）ることは目の前に見えて居（い）ても、細胞（さいぼう）が集まつて身体を成（な）したのやら、身体が分れて細胞（さいぼう）と成（な）つたのやら、何（いず）れが何（いず）れか明言は出来ぬ。以上（いじょう）はベルグソンの書いた文句（もんく）を忠実（ちゅうじつ）に翻訳（ほんやく）した訳（わけ）ではないが、大体の意味は先（ま）づ斯（か）くの如（ごと）くである。
　凡（およ）そ書物を読んで愉快（ゆかい）を感じるのは色々の場合があるが、自分が漠然（ばくぜん）と脳（のう）中に考へながら未（いま）だ明（あきらか）な文句（もんく）に形造（づく）らずに居（い）たことが、巧（たくみ）な言葉で面白く云（い）ひ現（あら）はされて居（い）るのを読んだときは特（とく）に愉快（ゆかい）である。書物を読んで楽しむと云（い）ふ中には、書物を通じて自分の考へを楽しむ場合が誰（だれ）にも多からうと推察（すいさつ）する。我（われ）らが「固形（こけい）の論理（ろんり）」と云（い）ふ言葉を見て頗（すこぶ）る気に入つたのは、此（こ）の種類（しゅるい）の愉快（ゆかい）を感じたからであつた。流石（さすが）は常（つね）に短かくて適切（てきせつ）な言葉を案出（あんしゅつ）するフランス人だけあつて、実に気の利（き）いた名称（めいしょう）を考へ当てたものであると感服した。それ故（ゆえ）今、進化論（ろん）より見たる人類（じんるい）の論理（ろんり）の批判（ひはん）を述（の）べるに当つて、此（こ）の言葉を借（か）りて題目としたが、借（か）りて来たのは単（たん）に題目だけであつて、内容（ないよう）は悉（ことごと）く我（われ）ら一人の考へであることは勿論（むろん）である。


　比較（ひかく）解剖（かいぼう）学、比較（ひかく）発生学、動物化石学、動物分布（ぶんぷ）学等の事実に基（もと）づいて考へれば、人類（じんるい）は決して初（はじ）めより今日の通りの人類（じんるい）として、存在（そんざい）して居（い）た訳（わけ）ではなく、或（あ）る時代まで溯（さかのぼ）れば、猿類（えんるい）と共同（きょうどう）の先祖（せんぞ）に達（たつ）することは、最早（もはや）疑（うたが）ふことの出来ぬ確（たしか）な事実である。而（しこう）して、其（そ）の先祖（せんぞ）は、又（また）それよりも更（さら）に下等な動物より進化し来つたものと考へねばならぬ。斯（か）くの如（ごと）く人間は下等な動物から次第（しだい）々々（しだい）に進化して、終（つい）に今日の有様までに達（たつ）したものとすれば、今日の人間の有する性質（せいしつ）や能力（のうりょく）は、身体に関（かん）するものでも、精神（せいしん）に関（かん）するものでも、悉（ことごと）く長い間の発達（はったつ）の歴史（れきし）を有することは明である。此（こ）の方面から考へて見ると、今日の人間が理窟（りくつ）を考へるときに用ひる論理（ろんり）の如（ごと）きも、脳髄（のうずい）の他の働（はたら）きと同じく、初（はじ）め簡単（かんたん）なものから、一定の径路（けいろ）を経（へ）て、一歩々々今日の程度（ていど）までに進み来つたものと見做（みな）さねばならぬ。
　さて、広く動物界を見渡（みわた）すに、如何（いか）なる器官（きかん）を取つて見ても、絶対（ぜったい）に完全（かんぜん）と名づくべきものは決して無（な）い。驚（おどろ）くべきほど巧妙（こうみょう）に出来た器官（きかん）でもよく調べて見ると何（いず）れも、生存（せいぞん）競争（きょうそう）の相手に負けぬと云（い）ふ程度（ていど）以上（いじょう）には進んで居（い）ない。人間の眼（め）の如（ごと）きも、随分（ずいぶん）巧妙（こうみょう）な器械（きかい）ではあるが、精密（せいみつ）に調査（ちょうさ）して見ると、不（ふ）完全（かんぜん）な点が幾（いく）らでも見出される。嘗（かつ）てヘルムホルツが眼球（がんきゅう）の構造（こうぞう）を研究して、「この眼（め）の細工は甚（はなは）だ拙（つたな）し、宜（よろ）しく之（これ）を製造（せいぞう）者に返すべし」と云（い）うたことは有名な話しであるが、光学の理論（ろんり）に照（て）らせば、人間の眼球（がんきゅう）は欠点（けってん）だらけである。併（しか）しながら日常（にちじょう）の生活には、此（こ）の眼球（がんきゅう）で充分（じゅうぶん）に間に合ひ、決して何の不（ふ）自由をも感ぜぬ。鳩（はと）の翼（つばさ）でも、鹿（しか）の足でも、鷹（たか）の眼（め）でも兎（うさぎ）の耳でも、一つとして巧妙（こうみょう）な構造（こうぞう）を持たぬものは無（な）いが、其（そ）の程度（ていど）は、何時（いつ）も、此所（ここ）まで進めば、容易（ようい）に敵（てき）に負ける虞（おそれ）はないと云（い）ふ点に止まつて、決して、それ以上（いじょう）に出ない。されば、人間の脳髄（のうずい）の如（ごと）きも、生存（せいぞん）に必要（ひつよう）な程度（ていど）以上（いじょう）には余（あま）り進んで居（い）ないものと見做（みな）すのが当然（とうぜん）であらうが、脳髄（のうずい）が絶対（ぜったい）に完全（かんぜん）でないとすれば、其（そ）の働（はたら）きの一部なる論理（ろんり）的（てき）思考力も無論（むろん）絶対（ぜったい）に完全（かんぜん）なものではあり得（え）ない理窟（りくつ）である。仮（かり）に人間よりも尚（なお）一層（いっそう）完全（かんぜん）な脳（のう）を持つて居（い）る者が、今日の人間の脳（のう）を精密（せいみつ）に調査（ちょうさ）したならば、恐（おそ）らくヘルムホルツが眼（め）に対して云（い）ふた如（ごと）くに、「この脳（のう）の細工は甚（はなは）だ拙（つたな）し、宜（よろ）しく製造（せいぞう）者に返すべし」と云（い）ふであらうと想像（そうぞう）する。進化論（ろん）の上に立つて、今日の人間の論理（ろんり）なるものを見れば、論理（ろんり）を絶対（ぜったい）に信頼（しんらい）して、論理（ろんり）の法則（ほうそく）に従（したが）うて、論（ろん）を進めれば、何所（どこ）まで行つても、其（そ）の結論（けつろん）は常（つね）に正しいと思ふのは、生物の進化と云（い）ふことを忘（わす）れた人々の誤（あやま）つた考へであると断言（だんげん）せざるを得（え）ない。
　然（しか）らば人間の論理（ろんり）なるものは如何（いか）なる程度（ていど）まで役に立つものかと云（い）ふに、我（われ）らの考へによれば、日常（にちじょう）の生活から余（あま）り遠く離（はな）れぬ所までならば、先づ充分（じゅうぶん）に間に合ふが、其（そ）の先は何とも受け合はれぬ。何事でも人間の為（な）すことは、先づ手近な所から始めて、各（かく）方面に遠心的（てき）に拡（ひろ）がつて行く。例（たと）へば、物の大きさにしても最初（さいしょ）は肉眼（にくがん）で見える物だけであつたのが、顕微鏡（けんびきょう）や望遠鏡（ぼうえんきょう）が出来てから、小さい方と、大きい方へ段々（だんだん）見える範囲（はんい）が拡（ひろ）がつた。また数にしても、最初（さいしょ）は両手の指で数へられる位（くらい）の小さな整数だけを用ひて居（い）たのが、後には無限（むげん）大とか無限（むげん）小とかまで考へ、割（わ）つたり、掛（か）けたり、数をオモチヤにして、終（つい）には有り得（え）べからざる理外の数に就（つ）いて論（ろん）ずるに至（いた）つた。原因（げんいん）結果（けっか）の関係（かんけい）の如（ごと）きも、其（そ）の通りで、初（はじ）めは単（たん）に日々の生活に直接（ちょくせつ）に触（ふ）れるものだけに就（つ）いて考へたのが、後には、次第（しだい）に遠い所まで考へを進め、人間は何のために存在（そんざい）するか、宇宙（うちゅう）には如何（いか）なる目的（もくてき）が有るかなどと、論（ろん）ずる様になつた。斯（か）くの如（ごと）く何事も進歩するに随（したが）うて、手近な所から段々（だんだん）と遠ざかつて行くが、遠ざかるに随（したが）うて、人間の論理（ろんり）の効力（こうりょく）は次第（しだい）次第（しだい）に怪（あや）しく成（な）つて行く如（ごと）くに思はれる。


　然（しか）るに人間の論理（ろんり）を何所（どこ）まで進めても常（つね）に正しくて決して誤（あやま）らぬ如（ごと）くに感ぜられる方面が一つある。それは数学であるが、元来数学なるものは、土台から屋根まで全部悉（ことごと）く人間の論理（ろんり）で成（な）り立つて居（い）る。一言で云（い）へば、数学は人間の論理（ろんり）が造（つく）つた純粋（じゅんすい）の産物（さんぶつ）である。夫（それ）故（ゆえ）、其所（そこ）へ人間の論理（ろんり）を持つて行けば、よく当て嵌（は）まるのは素（もと）より当然（とうぜん）のことであつて、何の不思議（ふしぎ）も無（な）い。また物理学の如（ごと）きは、殆（ほとん）ど全部数学の応用（おうよう）と見做（みな）すべきものであつて、実験（じっけん）によつて知り得（え）たことを数学的（てき）に計算し、如何（いか）なる現象（げんしょう）にも一々定まつた法則（ほうそく）の有ることを見出して、今日の程度（ていど）までに進み来つた。而（しこう）して、器械（きかい）を造（つく）るに当つて、此等（これら）の法則（ほうそく）を当て嵌（は）めれば、何時（いつ）も必（かなら）ず予期した通りの結果（けっか）が現（あら）はれて、決して誤（あやま）ることは無（な）い。それ故（ゆえ）、数学、物理学、乃至（ないし）は器械（きかい）製作（せいさく）の方面ばかりを見て居（い）ると、人間の論理（ろんり）は不（ふ）完全（かんぜん）なものでは無（な）からうかとの疑（うたが）ひを起すべき機会（きかい）に一度も出遇（であ）はず、随（したが）つて、斯（か）かる疑（うたが）ひを全く起さずに済（す）む。今日多くの人々が、数学を以（もつ）て総（す）べての科学の基礎（きそ）なりと考へ、一々の科学の価値（かち）は、其（そ）の数学を応用（おうよう）し得（え）る程度（ていど）によつて判定（はんてい）せらる可（べ）きものであるなどと唱（とな）へるほどの数学万能（ばんのう）論者（ろんじゃ）までが出来たのは恐（おそ）らく其（そ）の為（ため）であらう。


　之（これ）に反して人間の論理（ろんり）なるものは、自然（しぜん）物の方に当て嵌（は）めて見ると忽（たちま）ち差支（さしつか）へが生ずる。何故（なぜ）かと云（い）ふに、自然（しぜん）物は絶（たえ）えず変化（へんか）し続（つづ）けて一刻（いっこく）も止まることがない。自然（しぜん）界に見えるのは総（す）べて変化（へんか）の連続（れんぞく）であつて、固定（こてい）とか静止（せいし）とか云（い）ふことは、何所（どこ）を探（さが）しても決して見出されぬ。固定（こてい）せる如（ごと）く、静止（せいし）せる如（ごと）くに見えるのは、たゞ変化（へんか）が稍（やや）遅（おそ）いためであつて、恰（あたか）も大きな円周（えんしゅう）の一部が直線に見えるのに均（ひと）しい。然（しか）るに人間の論理（ろんり）は、物を暫時（ざんじ）固定（こてい）して居（い）る如（ごと）くに見做（みな）し、それを基礎（きそ）として、其（そ）の上に築（きづ）き上げたもの故（ゆえ）、明らかに固形（こけい）の性質（せいしつ）を帯（お）びて居（い）る。我（われ）らが、ベルグソンの「固形（こけい）の論理（ろんり）」と云（い）ふ言葉を見て大に気に入つたのは、此（こ）の意味を最（もっと）も短かく、而（しか）も最（もっと）も適切（てきせつ）に云（い）ひ現（あら）はして居（い）るからである。固定（こてい）した尺度（しゃくど）を以（もつ）て、固定（こてい）せぬものを測（はか）らうとすれば差支（さしつか）への起るべきは云（い）ふまでもない。之（これ）に就（つ）いて我（われ）らが、実に不思議（ふしぎ）の感に堪（た）へぬのは、日頃（ひごろ）自然（しぜん）物を研究しながら、此事（このこと）に心附（こころづ）かぬ学者の甚（はなは）だ多いことである。昔から用ひ来つた具眼（ぐがん）の士（し）と云（い）ふ言葉は、他の者を悉（ことごと）く眼（め）の無（な）い盲人（もうじん）に見立てた頗（すこぶ）る痛快（つうかい）な言葉であるが、自然（しぜん）物を扱（あつか）ひながら、此（こ）の極（きわ）めて重要（じゅうよう）な点に気の附（づ）かぬ様な人は、果（はた）して眼（め）を具（そな）へて居（い）ると云（い）へるであらうか。
　自然（しぜん）物は昔から今まで絶（たえ）えず変化（へんか）して来た。それ故（ゆえ）、昔の物と今の物とは大に違（ちが）ふが、而（しか）も其（そ）の途中（とちゅう）に切れた所は無（な）い。また自然（しぜん）物は同時に存在（そんざい）して居（い）る同種（どうしゅ）の物でも一つ一つに変異（へんい）が有つて、二つが絶対（ぜったい）に相（あい）同じと云（い）ふことは決してない。一つの自然（しぜん）物が分れて二つに成（な）るときには、次第（しだい）次第（しだい）に分れる故（ゆえ）、明らかに一つである時と明らかに二つである時との間に自然（しぜん）の移（うつ）り行きが有る。海の底（そこ）に住む或（あ）る種（しゅ）の動物には、実物を目の前に見ながら、それが一疋（ぴき）であるやら、十疋（ぴき）であるやら、何とも断定（だんてい）の出来ぬものが稀（まれ）でない。一言で云（い）へば自然（しぜん）界は縦（たて）に見渡（みわた）しても、横に見渡（みわた）しても、たゞ変化（へんか）と連続（れんぞく）とがあるだけ故（ゆえ）、物に譬（たと）へれば、恰（あたか）も無量（むりょう）の液体（えきたい）が流れて居（い）る如（ごと）くである。其所（そこ）へ静止（せいし）と云（い）ふ考へと、境界（きょうかい）と云（い）ふ考へとを出発点とした人間の論理（ろんり）を持つて来て、之（これ）によつて、万物を律（りつ）しやうとすれば、其（そ）の当て嵌（は）まらぬのは素（もと）より当然（とうぜん）と考へられる。我（われ）らは大正五年八月の「心理研究」に「境界（きょうかい）なき差別（さべつ）」と題する文を掲（あ）げて「差別（さべつ）は有り境界（きょうかい）は無（な）し」と云（い）ふのが宇宙（うちゅう）の真相であらうとの考へを発表したが、斯（か）く考へねばならぬ論拠（ろんきょ）として、差別（さべつ）あつて境界（きょうかい）の無（な）い物の例（たと）を各（かく）方面から幾（いく）つも掲（あ）げて置（お）いた。それ故（ゆえ）同じ様な例（れい）を繰（くり）り返すことは省（はぶ）いて、此所（ここ）にはたゞ概括（がいかつ）した所を述（の）べるに止める。


　以上（いじょう）の如（ごと）くに論（ろん）ずると、人間の論理（ろんり）は自然（しぜん）物には徹頭（てっとう）徹尾（てつび）当て嵌（は）まらぬと云（い）ふ説（せつ）の如（ごと）くに聞えるかも知れぬが、決して左様な訳（わけ）ではない。此（こ）の文の初（はじ）めに述（の）べて置（お）いた通り、人間の普通（ふつう）の生活に於（おい）ては、之（これ）を自然（しぜん）物に当てゝ用ひても充分（じゅうぶん）に間に合ふ。人間が総（す）べて、他の動物に打ち勝つたのも、文明人が野蛮（やばん）人を征服（せいふく）したのも、畢竟（ひっきょう）は論理（ろんり）で勝ちを制（せい）したのである。されば、論理（ろんり）は人間に取つては実に他に換（かえ）へ難（がた）い貴重（きちょう）な武器（ぶき）であるが、其（そ）の貴重（きちょう）なる所以（ゆえん）は無論（むろん）、之（これ）を自然（しぜん）界に当てゝ決して誤（あやま）らぬ点にある。此（こ）の程度（ていど）までならば、人間の論理（ろんり）は何の差支（さしつか）へも生ぜぬのみならず、之（これ）なしには一日も生存（せいぞん）することが出来ぬ。我（われ）らが前に、自然（しぜん）物に当て嵌（は）めると忽（たちま）ち差支（さしつか）へると云（い）うたのは、此（こ）の程度（ていど）を超（こ）えて、それ以上（いじょう）の研究をする場合に限（かぎ）ることである。
　日常（にちじょう）の生活に於（おい）て、人間の論理（ろんり）を自然（しぜん）物に当てゝ、よく当て嵌（は）まるのは何故（なぜ）かと云（い）ふに、之（これ）は人間が先づ頭の内で、自然（しぜん）物を論理（ろんり）の当て嵌（は）まる様な形の模型（もけい）に造（つく）り改（あらた）め、然（しか）る後に、之（これ）に論理（ろんり）を当て嵌（は）める故（ゆえ）である。而（しか）も大概（たいがい）の人は此事（このこと）を自身には少しも感ぜず、全く無意識（むいしき）に行うて居（い）る。其（そ）の有様は恰（あたか）も人が物を見るときに、其（そ）の物体の像（ぞう）が、我（われ）が眼（め）の網膜（もうまく）に小さく倒（さかさま）に写つて居（い）ることを知らずに居（い）るのに異（こと）ならぬ。我（われ）らが斯（か）く云（い）ふのは、決してDing an sich（注：物自体）とかPhenomena（注：現象）に対するNoumena（注：本体）とか云（い）ふ様な六（むつ）かしいことではない。誰（だれ）の目にも見えて居（い）る明白な事実である。一例（いちれい）を挙（あ）げて見るに、果物（くだもの）屋の店で、一個（こ）七銭（せん）の林檎（りんご）を五つ買うて、三十五銭（せん）払（はら）うて行く人は、既（すで）に林檎（りんご）を模型（もけい）化して居（い）る。何故（なぜ）と云（い）ふに、林檎（りんご）の実物は、大さでも、色でも、成熟（せいじゅく）の程度（ていど）でも腐敗（ふはい）の多少でも一個（こ）一個（こ）に幾（いく）分（ぶん）づゝか違（ちが）うて、二個（こ）が全く相（あい）等しいと云（い）ふことは決して無（な）い。即（すなわ）ち実物は、たゞ相（あい）異（こと）なつた物が沢山（たくさん）に列んで居（い）るだけで、標準（ひょうじゅん）となるべき一と云（い）ふものも無（な）ければ、一の五倍の五と云（い）ふものも無（な）い。一の五倍は五であると勘定（かんじょう）して、代価（だいか）を払（はら）うて居（い）る人は、頭の中で林檎（りんご）を皆（みな）絶対（ぜったい）に相（あい）同じ模型（もけい）に改造（かいぞう）して、それに数学を当て嵌（は）めて勘定（かんじょう）して居（い）るのである。而（しか）も成（な）るべく大きなのをと、慾深（よくぶ）く選（え）り探（さが）して居（い）る所を見ると、実物の差（さ）が全く見えぬ訳（わけ）でも無（な）い様であるが、勘定（かんじょう）するときに自分の脳（のう）中で造（つく）つた模型（もけい）が皆（みな）絶対（ぜったい）に同じことゝ、今目前に見て居（い）る実物が一つ／＼相（あい）異（こと）なることゝの矛盾（むじゅん）に就（つ）いては少しも気に止めずに居（い）る。また果物（くだもの）屋の店には七銭（せん）六銭（せん）五銭（せん）と一々札（ふだ）を立てゝ林檎（りんご）を組分けにして積（つ）んであるが、之（これ）は大概（たいがい）荷が着いたときには何の組分けも無（な）かつたのを亭主（ていしゅ）が、色や大きさなどによつて、適宜（てきぎ）に分類（ぶんるい）したものに過（す）ぎぬ。それ故（ゆえ）、七銭（せん）の方の一番小さなものと、六銭（せん）の方の一番大きなものとの間には、殆（ほとん）ど何の相違（そうい）も無（な）い。然（しか）るに七銭（せん）のを五つと六銭（せん）のを五つと買うた人が、六十五銭（せん）を払（はら）うて、何の不思議（ふしぎ）をも感ぜずに立ち去るのは何故（なぜ）かと云（い）ふに、それは脳（のう）の中で七銭（せん）のものは互（たがい）に皆（みな）同じく六銭（せん）のものも互（たがい）に皆（みな）同じく、七銭（せん）のと、六銭（せん）のとの間には判然（はんぜん）と一定量（りょう）の差（さ）が有る如（ごと）くに模型（もけい）化して居（い）るからである。此（こ）の場合には自然（しぜん）には境界（きょうかい）の無（な）い所に勝手に境界（きょうかい）を定め、一（ひとつ）の境界（きょうかい）と、隣（とな）りの境界（きょうかい）との間は絶対（ぜったい）に同じであると見做（みな）して掛（か）かるのである故（ゆえ）、恰（あたか）も斜面（しゃめん）を階段（かいだん）に直しただけの細工を加（くわ）へて居（い）る。万事が此（こ）の通りである故（ゆえ）、数学が自然（しぜん）物にも当て嵌（は）まる如（ごと）くに見えるのは、実は、自然（しぜん）物その物に当て嵌（は）まる訳（わけ）ではなく、たゞ脳（のう）中に造（つく）つた自然（しぜん）物の模型（もけい）に当て嵌（は）まると云（い）ふに過（す）ぎぬ。されば、数学が自然（しぜん）物に当て嵌（は）まる程度（ていど）は、自然（しぜん）物を模型（もけい）化する細かさの程度（ていど）に比例（ひれい）するもので、粗（あら）い模型（もけい）では実物との差（さ）が甚（はなは）だしい故（ゆえ）少しく丁寧（ていねい）に吟味（ぎんみ）すると忽（たちま）ち勘定（かんじょう）が合はなく成（な）るが、微細（びさい）な所まで実物に似（に）た模型（もけい）ならば大概（たいがい）の所までは勘定（かんじょう）に間違（まちが）ひが出ない。例（たと）へば斜面（しゃめん）を階段（かいだん）に直すにしても、階段（かいだん）を出来るだけ細かくすれば、それだけ実物と模型（もけい）とが似（に）て来る故（ゆえ）、勘定（かんじょう）の狂（くる）ひが、それだけ減（げん）ずる。人の造（つく）る器械（きかい）は、初（はじ）め模型（もけい）を考へ、出来るだけ之（これ）に近く製作（せいさく）したもの故（ゆえ）、数学的（てき）の計算がよく当て嵌（は）まるのは当然（とうぜん）である。斯（か）く考へて見ると、数学なるものゝ存在（そんざい）する所は、たゞ人間及（およ）び人間と同じく物を数へ得（え）る動物の脳（のう）の中だけであつて、それ以外（いがい）の宇宙（うちゅう）には影（かげ）だにも無（な）い。此（こ）の点に於（おい）ては、数学は夢（ゆめ）と同じ仲間（なかま）に属（ぞく）する。


　以上（いじょう）は主として固形（こけい）論理（ろんり）の代表者なる数学に就（つ）いて論（ろん）じたが、他の方面に於（おい）ても理窟（りくつ）は之（これ）と同じく、人間の論理（ろんり）なるものは、運用に当つて、先づ対象（たいしょう）物を模型（もけい）化して掛（か）かる。而（しこう）して、模型（もけい）化すれば其（その）物は已（すで）に模型（もけい）であつて、実物自身ではない。哲学（てつがく）者などには、往々（おうおう）、人間の論理（ろんり）を信頼（しんらい）するの余（あま）り、宇宙（うちゅう）を自分の論理（ろんり）に当て嵌（は）まる様な形に模型（もけい）化し、それが模型（もけい）であることには心附（こころづ）かず、却（かえ）つて、之（これ）を実相であると信（しん）じて、現（げん）に目の前に見えて居（い）る実物の方を仮（かり）の姿（すがた）である如（ごと）くに考へる者もあるが、我（われ）らから見れば、之（これ）は全く物の本末（ほんまつ）を取り違（ちが）へて居（い）るのである。数学も論理（ろんり）も人生に欠（か）くべからざるもので、今まで極（きわ）めて有効（ゆうこう）であつた通り、今も尚（なお）極（きわ）めて有効（ゆうこう）であることは云（い）ふまでもないが、其（そ）の絶対（ぜったい）に完全（かんぜん）なものでないことに気が附（つ）いた以上（いじょう）は、之（これ）を用ひ誤（あやま）らぬ様に注意せねばならぬ。前にも述（の）べた如（ごと）く、普通（ふつう）一般（いっぱん）の日常（にちじょう）の生活には別段（べつだん）その必要（ひつよう）もないが、純（じゅん）理学や哲学（てつがく）などの如（ごと）くに俗（ぞく）世界から稍々（やや）離（はな）れた方面に思考力を働（はたら）かせる人等は、此（こ）の点に就（つ）いて、特（とく）に警誡（けいかい）を要（よう）する。而（しこう）して論理（ろんり）が適当（てきとう）な範囲（はんい）を超（こ）えて其（そ）の先まで出過（です）ぎたときに、之（これ）を矯（た）め直すものは、実物に触（ふ）れて獲（え）た経験（けいけん）より外には無（な）い。
　小学校用の算術（さんじつ）書には次の様な問題がよく出て居（い）る。大工四人で三ヶ月掛（か）かつて建（た）てる家を、大工六人で建（た）てたならば何ヶ月掛（か）かるかと云（い）ふ類（るい）であるが、計算の結果（けっか）二ヶ月と云（い）ふ答を得（え）て誰（だれ）も満足（まんぞく）して居（い）る。同じ論法（ろんぽう）で進めば、十二人でならば一ヶ月に、三百六十人でならば一日に、八千六百四十人でならば一時間に、三千百十万四千人でならば一秒に一軒（けん）の家が建（た）つ勘定（かんじょう）になる。論法（ろんぽう）に変（かわ）りは無（な）い故（ゆえ）、初（はじ）めの答が正しければ、終りの答も同じく正しい筈（はず）であるに、一秒で家が建（た）つと云（い）ふ計算は誰（だれ）も笑（わら）うて、真面目に取り上げぬ。其（そ）の理由は、既往（きおう）の経験（けいけん）に基（もと）づいて、斯（か）かることは決して出来ぬと確信（かくしん）して居（い）るからである。家を建（た）てると云（い）ふ様な、日常（にちじょう）生活の範囲（はんい）内の問題であると、間違（まちが）ひが直に知れるが、経験（けいけん）で誤（あやま）りを正す便宜（べんぎ）の無（な）い方面の問題であると、固形（こけい）の論理（ろんり）に捕（とら）はれた学者等は、之（これ）と全く同様な誤（あやま）りに陥（おちい）りながら、少しも心附（こころづ）かず、論理（ろんり）の導（みちび）く所には決して誤（あやま）り無（な）しと飽（あく）くまでも信（しん）じて、臆面（おくめん）なく誤（あやま）つた学説（がくせつ）を唱（とな）へる。数学の書物を開いて見ると、立体とは長さと幅（はば）と厚（あつ）さとの有るもの、面とは長さと幅（はば）とが有るだけで、厚（あつ）さの無（な）いもの、線とは長さが有るだけで、幅（はば）も厚（あつ）さも無（な）いもの、点とは長さも幅（はば）も厚（あつ）さも何も無（な）いものと云（い）ふ意味に書いてあるが、実物から獲（え）た経験（けいけん）によると、立体の最（もっと）も薄（うす）つぺらなのが面、面の最（もっと）も幅（はば）の狭（せま）いのが線、線の最（もっと）も短かいのが点である、即（すなわ）ち点を引き延（のば）ばせば線に成（な）り、線を打ち広げれば面と成（な）り、面を膨（ふく）らせば立体となつて点から立体までの間に何処（どこ）にも境界（きょうかい）は無（な）い。模型（もけい）と実物との間には何時（いつ）も斯（か）様な相違（そうい）が有る。
　前にも云（い）うた通り、固形（こけい）の論理（ろんり）は模型（もけい）には当て嵌（は）まるが、自然（しぜん）の実物には当て嵌（は）まらぬ。普通（ふつう）の場合には模型（もけい）に当て嵌（は）まりさへすれば、それで充分（じゅうぶん）に間に合うて行くが、先から先へと遠く考へを進める際（さい）には、一段（いちだん）毎（ごと）に経験（けいけん）に照（て）らし合せて検査（けんさ）せぬと頗（すこぶ）る危（あぶ）い。今日遺伝（いでん）を論（ろん）ずる学者達（たち）が生物の身体を遺伝（いでん）単位（たんい）なるものの集合であると見做（みな）し、各（かく）遺伝（いでん）単位（たんい）は永久（えいきゅう）不変（ふへん）の物であると考へて居（い）る如（ごと）きは、我（われ）らから見ると、全く固形（こけい）の論理（ろんり）に囚（とら）はれた誤（あやま）りであつて、其（そ）の当て嵌（は）まるのは、たゞ論者（ろんじゃ）等（ら）の脳（のう）中に画いて居（い）る模型（もけい）だけである。脳（のう）の中で考へる論理（ろんり）と、実物に触（ふ）れて獲（え）た経験（けいけん）とが、互（たがい）に釣（つ）り合ふ様にするのが、今日の所、最（もっと）も安全な脳髄（のうずい）の使ひ方かと推察（すいさつ）するが此（こ）の方面から見ると、自然（しぜん）物その物を研究の対象（たいしょう）とする生物学などは、若（も）しも此（こ）の点に心附（こころづ）いたならば固形（こけい）論理（ろんり）の狂奔（きょうほん）を止めるための手綱（たづな）として最（もっと）も適当（てきとう）なものでは無（な）からうか。