普通教育の
課程中の
各学科が
如何にして教育上の
目的を
達することが出来るかと考へるに
大抵二通りに分けることが出来る。第一は学校で教へた
事柄其物が後になりて役に立つと
云ふ方で、第二は教へる
事柄其物よりも
之を
授ける間に
或る
種類の
脳力を
煉磨し
之を
発達せしめる方である。
或る
目的のために
筋力を用いれば
其目的を
達すると同時に
或る部の
筋肉が
発達すると同じく、
或る
目的のために
脳力を用いれば
其目的を
達すると同時に
脳髄の
或る部が
発達するものである。
例へば船を進める
目的を
以て
櫓を
漕げば船が進行すると同時に
自然に
漕手の
筋肉が
発達すると同じく、
歴史の事実を
覚えるために書物を
暗誦すれば事実を
覚えると同時に
自然に学ぶ者の暗記力も
発達するものである。それ
故博物学の教育上の
価値を
論ずるに当つても
此二通りに分けて考へるのが
便利であらう。
先づ
普通教育中で
博物学を
授ける間に
如何なる
脳力を
煉磨し
発達せしめることが出来るかと
云ふに第一は
観察記載の力、次は
分類整頓の力、次は
推理の力である。
博物学の
教授が
観察力の
養成に
必要であるとのことは古来
誰も
皆云つて
居ることで、中には
博物学の教育上の
価値は
之だけに止まる様に考へて
居るものも少なくない。元来
観察力とは
五感器を正しく用い
成るべく
誤りの少ない様に物を見聞きする力を
云ふのであるが、
此力は決して
打捨て
置きても
充分に
発達するものではない。
恰も
書画は
唯手を
以て
筆を動かせば
善いのであるが、
余程練習しないと筆が思ふ様に動かぬのと同じことで、物を見るべき
眼球は生れながら
誰も
皆持つては
居るが、
之を用いて正しく物を
観察するには
余程の練習を
要するものである。
通常世間の人は
眼を
以て物を
視ると
云ふが、実は決して
左様ではない。
我々は
眼球の
奥へ
映つた
像を
脳髄で
判断して
初めて何々を見たと
承知するのであるから、
寧ろ
脳髄を
以て物を
視ると
云つた方が
宜しい
位である。
眼球は
丸で写真の
器械と同じ様な
構造を持つて
居るから
其奥に
映る
像は先づ実物
其儘の形であると
云つて
宜しいが、
我我は
此像を
材料とし
脳髄で
判断して
初めて何々を見たと思ふのであるから自分で見たと思ふものと、
実際眼球の
底へ
映つた
像とは大に
違ふことが
屡々ある。
彼の
一筆書きの文人画などは
皆此理を
応用したものである。
例へば上図の
如く
僅かに四五本の曲線を引けば
之が
誰にも人物の
如くに見えるのは決して
眼球の
底へ
精密な人物の
像が
映るからではない。
眼球の
底へ
映るのは
無論画にあると同じだけの四五本の曲線が
倒に小さく
映るのであるが
脳髄が
已往の
経験より
得たる
総則を
標準として
之を
判断し
想像力を
働かせて
彼の四五本の曲線を人物に
造つてしまふからである。
途に落ちて
居る
繩が
蛇に見えたり、秋の野の
尾花が
幽霊に見えたりするのは
皆此類に
過ぎない。
此観察の力と
云ふものは
我国では今まで
打捨てられてあつた
故観察力の
乏しいことの
実例は
幾らでも
挙げることが出来る。今一つ二つ
述べて見るが
或る所で小学校の教員に「うなぎ」と
云ふ魚は
胎生か
卵を生むものかと
尋ねられたことが有つた。
此問に対し「うなぎ」は
卵を生むに定まつたもので、「うなぎ」が形の
備はつた子を
産むことは一切見たことも聞いたこともないと答へると、
其人の
云ふにはいや学理上では「うなぎ」は
卵生となつて
居るかも知れぬが、「うなぎ」の
腹を開いて見ると中から「うなぎ」と
寸分も形の
違はぬものが出て来る、
其ものには頭もあり
尻もあり口もあり
眼もあり、
脊が黒くて
腹が白い、全く「うなぎ」に
相違ないから
実際「うなぎ」は
慥に
胎生するものである、今実物を持て来て見せると
云つて「うなぎ」の
腹の開いたのを持つて来た。そこで
何様なものがあるかと思つて見たら、「うなぎ」の子だと
云ふものは
一種の
蛔虫で
種名も
属名も
已に定まつて
居る
普通のものであつた。
蛔虫のことであるから
無論其ものに
眼もなければ
尾もなく、
又脊と
腹との
区別も明ではない。
唯細くて長いと、白と黒との
模様のあることが「うなぎ」に
似て
居るだけで
其他には少しも「うなぎ」に
似た所はない。
其所で
其人に実物を注意して
尚一応観察して見る様にと
云つたら、
稍久しく
眺めて後
成る程「うなぎ」とは大分
違ひますと
云ふて
初めて
得心した様子であつた。
之も
彼の
繩が
蛇に見えるのと同じ
理屈で、
観察の力が
乏しい
故、
想像力の
働きで「うなぎ」にして
仕舞ふのである。
又ある所で両頭の「いもり」と
云ふものを見たことがあるが、
之は
普通のいもりの
尾の先を少し
怪我したものであつた。
傷の所が他の所より少し
凹んで
居るので横から見ると
幾分か口らしくも見えるが、
素より
尾のことであるから
眼もなければ鼻もなし、少しでも注意して見れば頭と
間違ふ
気遣ひは
無いが、
平生観察の力が
乏しいから前の
一筆書の
画と同様、
想像力で
之を頭と見て
仕舞つたのである。小さい
瓶の中に入れてある「いもり」の
尾でさへ頭に見える
位では
薄暗い所や遠い所にあるものには
何程見損なひがあるやら知れぬ。
此両頭の「いもり」なども
其頃立派に新聞に出て
居たことから考へて見ると、
時時新聞に出て来る
怪物噺しも多くは
此類であらうと思はれる。
斯様な
次第であるから
世間に
観察力に
乏しい人が多いと
兎角種々の
怪談や
迷信が
流行する。
其中には
唯可笑しい
許りで
毒にも薬にもならぬものもあるが、
又其為に世間に
損害を
及ぼすものも少なくない。
祈祷者などに
瞞されて
目前の
不思議を
信じたりするのは全体の
智恵が足らぬからでもあるが、
畢竟観察力と
推理力の足らぬ
結果である。
要するに
迷信は出来るだけ打ち
破るが
善い。
然して
之を打ち
破るには
観察力を
養成するのが第一に
必要である。
博物学は
観察力の
養成に
有効であると
云ふが、
如何な
方法で教へても
有効であるとは決して
云へぬ。
何れの学科でも
教授の
方法次第にて
結果も大に
異なるものであるが、
殊に
博物学の
如き学科にては
其教育上の
価値の
有無は全く
教授法の
如何によりて定まると
云つて
宜しい。
観察力を
養成するためには
博物学の
教授法は
唯生徒自身で
直接に実物を
観察せしめると
云ふ
一法がある
許りで
其他には
方法は
無い。
必ず
直接に実物を学ばせ、
観察して
得たる所を
順序正しく
記載させることが
勘要である。教科書の
如きは
単に
生徒の筆記の
労を
省くだけのものであるから、決して
之を読ませたり
暗誦させたりして
済ますべきものでは
無い。
博物学に
於ては実物を
以て教科書と
心得、
常に実物から学ぶ
積りで
遣らなければならぬ。
素より数の多い動物植物を一々実物に
就て学ぶことは出来もせず
又必要もない。
唯普通の動植物の中から
適当なもの
幾種かを
撰み、教室内では
之だけに
就て
観察の
演習をさせれば
充分である。
斯くして
数種の動植物を
生徒自身に
観察せしむれば、
生徒は
此等の動植物に
就ては
正確なる
観念を
得るを
以て他の動植物の話しを聞くに当つても
此正確なる
観念を
基とし
比較して考へ、
従つて
明了に
理解する事が出来る様になる。
斯様に実物を用い、
生徒自身に
直接に実物より学ばせる
如き
方法を
以て
博物学を
授けるときは、
生徒の
観察力の進むと同時に
尚品性陶冶の上に
著しい
効能が
現はれる。それは何から起るかと
云ふに、
博物学科は
普通教育中で事実を教へる他の学科と
違ひ、
授ける事実は
大抵生徒自身で実物に
就て
検することが出来るからである。
歴史で教へる
事柄は今とは時が
隔つて
居るから今
眼の前に見ることが出来ず、地理で教へる
事柄は近いものもあるが多くは場所が
隔つて
居るから
之も
矢張今
眼の前に見ることが出来ぬが、
唯博物学だけは教へる
事柄の大部分は実物が
眼の前にあるから、聞いたこと、読んだことは
皆実物に
照し合せて自分で
尚之を
検して見ることが出来る。午前書物で読んだことを
午后は実物に
就て
実験し、
昨日講義で聞いたことを今日は自分の
眼で
直接に見ると
云ふ様なことは
歴史や地理では中々出来ぬ。
尤も
歴史などでも
其々の時代の
有様を見せるのが
必要だと
云ふて
種々の古物
標本を集めて用いるが、昔し
公卿の着た着物は
之であるとか、
維新前の大名の行列は
此通りであるとか
云ふことは、実物を列べたり
真似を
遣つて見せたりすれば
解かるが、
信長が
殺されたと
云ふ様なことは一度切りで
済んで
仕舞つたこと
故又見せることは出来ぬ。それ
故嘘か真実か分らないが
唯書物に書いてあるからと
云つて
信ずるか、
或は先生が
斯う
云つたからと
云つて
信ずるより外には仕方がない。
博物学では実物が
何時でも
得られるから
此点では大に他の学科と
違つて
居る。
博物学を
授くるには
此特性を
充分に
利用しなければならぬ。
博物学で
此特性を
捨てては他の学科で
此代りを
為し
得るものは
無いのである。
しかし人間の命は短かいもので、
其中の
在学時期は
又短かいもの
故、
其間に自身に実物に
就いて
観察し
得ることは
極めて
少からざるを
得ない。それ
故我々の
信じて
居ることの
中大部分は自分の
直接に
実験しないことである。百中の九十九は他人の
実験したことを
唯聞いて
信じて
居るのである。
之は
拠ないことであるが、
普通教育中の他の学科を見ると、
博物学の外は
皆書物に書いてあるからと
云つて
信じ、先生が
斯う
云つたからと
云つて
信ずるより
致し方のない学科ばかりである
故、
之を学ぶ間には
生徒には
自然に読んだものを
皆信じ、聞いたことを
皆信ずる
習慣が生じ
易い。
之に対し
此弊を
防ぐものは
博物学の外には
無い。
博物学では
容易に実物が
得られるから、書物で読んだこと、他人から聞いたことは一通り自分で
試してみることが出来る。
試した上で読んだこと聞いたことが正しかつたら
初めて
成程と
承知する。
又若し
其事柄が自分で
試して見ることの出来ぬことである時は、
曾て自分で
実験したことを
基とし、それに
準じ
判断して、
之は
信じて
宜しいと思へば
初めて
之を
信ずる。
常に
斯かる
心掛けを
以て
博物学を
修めると
此習慣が
外の事にも
推し
及んで、自分の知り
得たことは先づ自分で実行して見る様になり、
随つて軽々しく事を
信ずると
云ふ
弊を
防ぐことが出来る。
我国の人は
特に軽々しく事を
信ずる
癖が
著しい様であるから、
普通教育中に
充分此点に注意するの
必要があると思ふ。
読んだこと聞いたことを軽々しく
信ずるの
弊が
無くなると同時に、
又知つたことは
必ず
之を行なひ、知ることと行なふことが
一致する様になつて来る。
徒らに口で
議論する
許りでなしに口に
唱へることは
実際に
践み
躬ら行ふと
云ふ
美風も
次第に
養成することが出来さうなものである。
以上は
観察力の
養成に
就き
適当なる
教授法の
結果を
述べたのであるが、
博物学を学ぶ間に
煉磨され
発達する次の
脳力は
分類整頓の力である。
此事は
従来余り重く考へられて
居なかつた様であるが、
分類と
云ふことは何学を
修めるにも
必要で、
分類と
云ふことの真意を
悟るは
総ての思想に
大なる
影響を
及ぼすものであるから、
特に
此所に
掲げることとした。
博物学で取り
扱ふ所のものは
種類が
非常に多い。動物、植物を合せて
勘定して見たら
慥には分らぬが百万
以上もある。
之を取調べる学科であるから
自然昔から
分類と
云ふことが
必用で、
博物学が今まで
段々発達して来るに
随ひ、
分類も
始終益々細かくなつて来た。それ
故普通教育で
博物学を
授けるときにも他の学科に
比べて見ると
分類と
云ふことが多少
勝つて
居る。
其分類は何を
基礎とするかと
云ふに
矢張観察の
結果に
依るので、
似て
居るものの間に
相違の点を見出し、
違つたものの間に
相似た点を
求め、
異同の多少を考へ、
相似たるものを集め、
相異なれるものを
離して
分類の
系統を
造り、
総ての
種類を
其中へ
編入するのである。
現今世に行はれて
居る
博物学の教科書を開いて見ると始めから終りまで
分類ばかりのものがある。
勿論動物学でも植物学でも
分類で始まり
分類で終るべきものでは
無いが、
之を見ても
博物学には
分類と
云ふことが他の学科より多いことが
解かる。実物に
就て
之を
段々経験して行く中には多数の事物を
分類し
整頓するの
習慣が
付いて来る。
之だけでも中中
有益であるが、実物に
就て
分類整頓の
演習をさせて生ずる所の
利益は
尚其他に
著しいものがあるのである。
博物学を教へるに当り
分類の大意を
授け実物に
就て
分類の
演習をさせれば、
其間に
凡そ
分類と
云ふものは
総て人間が
便宜上造つたもので、
天然には決して
分類と
云ふことは
無いと
云ふことを
生徒に
悟らせることが出来る。
之が
極めて大切なことで
博物学
以外の
一般の思想にも
非常に
著しい
影響を
及ぼすものである。
博物学の書物を開いて見ると
十字花科(注:アブラナ科)の花は
斯様々々、
石竹科(注:ナデシコ科)の花は
斯様とか、
軟体動物の
特徴は何々、
節足動物の
特徴は何々と明かに記してあるが、実物を
沢山集めて調べて見ると中々
分類の
境と
云ふものは
判然しないもので、実物を集めることが多ければ多いほど
分類は
益々困難になり、
分類は決して
充分には出来ぬものであるとの考へが起る。動物と植物との
区別でさへ
到底出来ぬものと
云ふことが
解かつて
居る
位であるから、それより
以下の
境界は
尚更のことで
到底判然と定めることは出来ぬ。
綱や
目の間に明かな
境界を立て
分類することが出来ると思つたのは昔のことで、動植物の新
種類が日々発見されるに
従ひ、昔し
判然二
種類と思つて
居たものも
次第次第に
其間の
境界が分らなくなつて来る。
例へば「とかげ」の
類と
鳥類とは一見しても
非常に
明了に
区別がある様であるが、
種類を
沢山に集めて見ると「とかげ」の中にも後足だけで立つものがあり、鳥の中にも歯の生へたものがあり、
又羽毛が生へて
居ることは鳥の様であるが
尾の長いことは「とかげ」の様で、
誰に見せても鳥とも「とかげ」とも
鑑定の
付かぬものがある。
恰も
頂上だけを見れば明かに二つある山も、
其裾野を調べると、
何所で二山の
境界を
付けて
宜いか分らぬ様になるのと同様である。
天然に
分類の
境の
無いことは、
陸地の表面には
唯山川の
凸凹があるだけで、
郡村の
境界がないのと同じである。
又虹の色は七色
慥にあるが、
其間には
判然な
境を
付けることが出来ぬのと同じである。
斯様なことに注意させるには
博物学が
最も
適当であらうと思ふ。
以上は
唯博物学の
範囲内のことだけに
就て
述べたのであるが、
其考へを
推し広めて他のことにも当て
嵌めて見ると大に
誤を
防ぐことが出来る。一体
分類すると
云ふ
以上は
沢山あるものの間に
境を
付けなければならぬ。
境を
付けるには物の
区域を定めなければならぬ。
此区域と
云ふことは
天然に明かにあるものか
如何かと考へて見るに、
天然には決して
判然した
区域と
云ふものは
無い様に思はれる。
其所へ
区域を定めるのは
唯人間が
便宜上することである。
簡単な
例を取て見るに、
一枚の紙には四方に
判然とした直線の
境がある様に見へるが、
之を
顕微鏡で見ると紙の
繊維が
乱れた
竹籔の
如くになつて
居る。それ
故此紙の長さなり
横幅なりを
精密に
測るには
何所から何所までを
測つて
宜しいやら分らぬ。
又物指しの方でも
幾ら
精密に
造つても
幅の
無い線を画くことは出来ぬから、
一尺と
云つても
一尺の
符の
何方側までやら分らぬ。
又通常物の大さを
云ふにも
何尺何寸何分と
云ふて
其以下の小数は
略して
仕舞ふが
之も
便宜上のことで、
実際に
於ては
奇麗に
何寸何分で小数の
付かぬものは
殆んど
無い
訳である。されば日々
我々の
付ける物の
境界と
云ふものは
皆便宜上定めたもので、
必要以下のことは
皆四捨五入流に切り
捨てて
顧みない
故判然とした様に見へるので、
精密に調べると何の
境でも決して
判然としたものはないのである。
又別の
例を取つて見るに、
通常人は何年何月何日の何時に生れたと
云つて生れた時を一点の
如くに
認して話しをするが、
精密に調べると、生れると
云ふには生まれ始まる時もあり、生まれ終る時もある。それ
故其人の生れてからの命の長さを計るには
何時から
測つて
宜しいか分らぬ。
斯様なことは
如何様でも
宜しい様であるが場合によつては
此問題の定め様に
依つて
随分著しく
違つた
結果を生ずることがある。
例へば
或る人が
子供の生れ
掛つて生れ終らぬ時に
其子供を
殺したとすると、生れ始めたのを生れたと見れば
之は
殺人犯になるから
罪が重くなる。
之に反して生れ終つたのを生れたと見れば
之は
堕胎になるから
幾分か
罪が軽くなる。
又尚精密にして生れ始めたのを生れたと
認すと定めた所で、生れ始めるには生れ始め始めもあり生れ始め終りもあるから
矢張決して時の一点とする
訳には行かず、
幾ら
精密にしても
判然な
境は中々
付けられるものではない。
唯平常は
斯様に
精密に調べる
必要がないから、小数は
四捨五入で
略して何時何分に生れたと
称して
置くのであるが、
常に
斯く
称して
居ると
終には知らず知らずに人の命の
初めには
判然な
境がある様な気がする様になつて
仕舞ふ。
習慣と
云ふものは実に
恐ろしいもので、
或る所に
便宜上境を
付けて
置いても、
屡々之を話したり聞いたりして
居る間には知らず知らず
斯かる
境界が
天然に
判然存在して
居る様な心持となり、
遂には
斯かる
境界が
天然に
存在して
居るものと
断定して、
之を
基礎として
其先を
議論し
誤たる
結論に
達することが
往々ある。
習慣の力の
著しい
例を一つ
挙げて見るが、地球は丸いものであるから
其表面の一点の
位置を
云ひ
現はすには
縦横の線を
想像し、
之を
標準としなければならぬ。それ
故地球
儀の表面には
経度緯度の線が引いてあるが、
我々は全地球を一目に見ることは出来ず、
唯地球の代りに地球
儀を
見馴れて
居る
故、
習慣は
恐ろしいもので地球の表面には何だか
実際縦横の
筋が
附て
居る様な気がして、
此筋が
無いと何だか地球らしく見えない。
又大抵の画には地球は
北極を上に向け
凡そ二十三度半
程曲つて
居るが、
之も全く地球
儀から起つた
習慣で、
宇宙の真中に地球が転がつて
居るときには上も
無ければ下もなし、左も右も前も後も全く
区別はない
訳である。
然るに南半球を上にして地球の画を書くと何だか地球が
倒立をして
居る様に思ふ。何事も
斯様な
理屈であるが
無形的のものを研究する学科を
修めるには、
特に
以上の
如き
誤に落ち入らぬ様に注意することが
必要である。
何学科でも
分類の入らぬものは
無いが、
抑も
何故我々は
分類をするかと
云ふに、
之は
我々の
脳髄が
境の
判然しない
種々のものを
一塊の
儘で
了解して
仕舞ふ力がないからである。
恰も物を食ふときに大きな物は一口に食へぬから
片端から
順々に
割つて食ふのと同様である。大きな
煎餅を食ふに
割らなければ食へぬと同じく、心理学でも教育学でも
皆事柄を
分類して一つ
宛にしなければ
了解が出来ぬ。しかし
常に
斯くする
習慣が
付くと前の地球
儀の
例と同じで、
天然に
分類があるかの
如くに感じ、自分で
割つた
事柄に一々
判然した
境界がある様な気がするに
到り、
遂には
斯かる
境界が
存在するものと
断定して
論ずる様になる。
哲学、
倫理学、心理学、教育学等の日々
絶へぬ
議論の中には
斯様な
源因から起つたものが少なく
無い。
仏教の四苦(注:根本的な苦。生・老・病・死)だとか、
五薀(注:人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。色、受、想、行、識)だとか
云ふ
分ちも教育学で
云ふ
六種の
興味だとか、
智育、体育、
徳育の
区別だとか
云ふのも、
皆上に
述べた意味に取れば
間違ひは
無い。
斯様に
分類と
云ふことの真意を
悟らせるには
博物学を
適当の
方法で教へるのが一番である。
次に
博物学
教授によつて
練磨し
発達せしむることの出来る
脳力は
推理の力である。教育の書物などを読んで見ると
博物学は
観察記載の学問であるとか、
分類の学問であるとか書いて、それ切りで終つて
居るのがあるが、
博物学は決して左様なものではない。
観察実験によつて
得た所の
智識は
之を
建築に
例へて
云へば一つ々々の
煉瓦なり
瓦なりの様なもので、
之から用いようと
云ふ
材料に
過ぎない。
又分類と
云ふのは
斯様な
智識を
整頓して
置くので、
建築に
例へると赤い
煉瓦は
此所、白い
煉瓦は
彼所と
揃へて
置くのと同じである。いくら
煉瓦や
瓦を集め、
之を
整頓しても
建築が
済んだとは
云へないと同様で、
観察実験で集めた
智識を
分類で
整頓して
置くだけでは
博物学とは
云へない。
凡そ科学と名の
付くものは
皆第一には事実を調べ、次に
其依て起る所の理由を
探るを
務めとするものであるが、
博物学の
如きも
其通りで、
煉瓦や
瓦を
適当な
方法に
積み上げて
初めて
一個の
建物が出来ると同じく、
観察実験に
依つて集めた
材料を
推理法に
依り
積み立て、
源因結果の
理を
幾分か
明にするを
得て
初めて真の
博物学と
云ふことが出来るのである。
然して
此際に用いる
推理の
法は主として
所謂帰納的推理法で
即ち
一個一個の事実を
基としそれより全体に通ずる
理を
求める
法である。
故に
博物学を
適当な
方法に
依つて教へれば
帰納的に物を
論じて行く力を
練磨し
発達せしめることが出来る。
普通教育の学科の中には多少
此種類の
推理法を用いる学科が
無いではない。
例へば語学の
如きも
帰納的推理の力を
養成する
方便として
有効であると
説く人があるが、
博物学は有形の実物から
帰納的に考へて行く学科であるから
此力を
養成するには他の学科に
比べて
遙に
優つて
居ることは
疑ひない。
斯くの
如く
博物学を
修める間に
帰納的推理の力が
発達すれば
自然に何をやるときにも
此論法に
従つて考へる
習慣が出来て来る。
之が
又非常に大切なことであると思ふ。
何故と
云ふに
帰納的推理法では
現在の事実を集め、それより全体に通ずる理を考へ、
結果より
源因を
探る
方法を取るから
其結論には
誤りが
極めて少ない。
厳重に
此論法を用いれば
其結論は
個々の事実に通じたる
或る広き事実を
云ひ
現はすに
過ぎないから、
理論と
実際とが全く
一致する。世の中には
理論と
実際とは丸で
別物である様に考へて
居る人が多い様であるが、
之は全く空理、
空論が世の中に
流行するからである。事実を正しく
観察調査し
之を集めて
材料として
帰納的に
論じて行けば、
其結論は
即ち事実であるから
実際と
相違する
訳はない。
常識又は
普通識と
云ふのは
即ち
現在の事実を
材料とし
帰納的に
論じた
結果である。
此常識と
云ふものは
一個人の生活にも社会の
発達にも
極めて
必要のものであるが、
博物学にて
帰納的推理の
習慣を
造る事に
依つて
大に
之を進めることが出来る。
我国では空理、
空論が中々
盛である。
其例を
挙げ始めたら切りが
無いが
其源因は
皆基となるべき事実を
充分に
観察しない
故か、
又は
論法が
逆であつたり
粗漏であつたりする
故である。
素より何事にも
帰納的論法ばかりで間に合ふものではない。
現在ある事実の
源因を
探るには
帰納法が主であるが、新に何物かを
工夫し
創造するには
必ず
帰納法で
得た
結論を
個々の場合へ
演繹的に
論じ
及ぼさなければならぬ。
然し
源因より
結果を
推し、一の原理より
個々の場合へ考へ
及ぼす
論法は
余程鄭重に考へぬと
飛んでもない
結論に
達するの
恐れがある。東海道
膝栗毛と
云ふ書物の中に
六部爺の
懺悔話しがあるが
此種の
論法の
誤り
易いことを明に
示して
居る。
其六部は次の
如くに考へた。先づ東京
即ち昔の
江戸へ来て見た所が毎日
非常に風が
吹いて
往来が
砂だらけである、
斯く
砂が
舞へば
必ず人々の
眼に
砂が
這入つて
盲目になる人が
大勢出来るであらう、
盲目になれば
体屈であるから
必ず三味線を引くに
違ひない、
左様すれば
三味線が
沢山入るから、
猫が
皆殺されるに定まつて
居る、
猫が
皆殺されれば
鼠が
暴れ出して箱を
残らず
噛み
傷けるに
相違ないから箱商売を始めたら
必ず
非常に大
繁昌をするであらうと考へて、箱を
沢山に仕入れて店を出したが、一向売れなかつた
故つくづく
浮世が
嫌になつて
六部に
成つたとのことである。
之は
素より
一個の
笑ひ話しに
過ぎないが、
宗教や
哲学や教育学の
如き
無形の
事柄を
論ずる場合には
随分右の話に負けぬ様な
論法も少なく
無い様に見える。
殊に青年時代には自分の考へた空理、
空論を実行し様と
欲する
傾きがあるが、
常常事実を集め、
之より
帰納的に
論じて行く
習慣を
付けて
置けば、
例へ一方で空理、
空論を考へても、自分で自分の空理
空論の
間違つて
居ることに気が
付き、それを
其儘実行する様な
過ちを
避けることが出来る。
此事は
最も
現今の社会に
必要であると思ふ。
観察の力が進み
推理の力が
増して来れば多くの
迷信を
打破ることが出来る。
之が
又中々
必要のことである。
抑々迷信と
云ふものは
皆観察の
誤りか
推理法の
粗漏なのに
基くものであるから、
常識が進むに
従ひ空理
空論の
間違に気が
付くと同じく
観察推理の力が進めば
迷信は
自然に消へるものである。今まで世の中の文明開化に
成つて来た
道筋を
顧るに、
迷信を一つ
宛打ち
破つて一歩づつ進んで来た。
或る
現象の起る
源因を一つ
宛発見し、前には
偶然に起ると考へた
現象もそれぞれ定まつた
法則に
随つて生ずるものであると
云ふことを
次第々々に発見し、一歩づつ進んで今日の有様に
達したのであるから、一つ
迷信を打ち
破るのは一歩だけ文明の方向に進むことに当ると
云つて
宜しい。
尤も
我々の
現在の有様を考へて見ると
恰も
暗闇の夜に
薄暗い小さな
提灯を下げて
徘徊して
居る様な有様で、前も後も左も右も
極近い所の外は全く見えず、
又自分の足元と
雖ども
精密には
到底解らない。
智識の光を
以て
照らせば何事と
雖ども
明了に
解らざるものなしと大声に
演説すれば、
聴く者は
愉快を感じ、
云ふ者も
得意であるが、実は
之は
坊は
利口だと
云はれて
嬉しがる
子供の
愉快と同じで有つて全く一時の
幻覚に
過ぎない。
実際我々の
智識と
称する所のものは
薄暗い
提灯の様なもので
唯足元の
廻りを
僅かだけ
照し、大
怪我なしに前へ歩るくことの出来るに足りるだけのものである。
其証拠には
如何なる問題でも少しく先まで
尋ねると
何時も
必らず
解らずで
仕舞となる。
例へば場所も少しく遠い所のことは全く
解らぬ。時も少し昔のことは全たく
解らぬ。
未来のことは
尚更である。大きいことも
或る
際限を
越へれば全たく
解らず、小さいことも
或る
際限を
越へれば全く
解らぬ。されば
我々の
智識は
周囲から
解らぬことで取り
囲まれて
居る。それ
故全く
迷信の
絶えることは
到底望むべからざることである。
又源因結果の
関係を考へても
其通りで、
源因と
云ひ
結果と
云ふは
相対した言葉で、一の事に対して
源因であるものも他の事に向つては
結果である。
其源因の起る
源因は何であるか、
其源因の起る
源因の
源因は何であるかと
順々に
尋ねれば
何所までも
際限はない。
恰も長い
鎖の様なもので一つ
宛の
環が前の
環に対しては
結果となり次の
環に対しては
源因となつて
相繋がつて
居るから、
推理の
法に
依つて一の
現象の起る理由、
法則を発見しても、
又其源因は何であるかと
云ふ問は
依然として
存して
居る。
然し
源因・
結果、
源因・
結果と
相連なつて
居る
鎖の
輪を一つでも先へ新しく発見すれば、それだけが
人類の
領分になつた様なもので、
或る
現象の
源因が
解かれば
我々は
其現象を自由に用ひて人間の幸福を
増し社会を進歩させることが出来る。
例へば
落雷は電気の作用であると
云ふことが
解かれば
之を
避けることも出来る。
鉄瓶の
蓋の動くのは
蒸気の力に
依ると
云ふことが
解かれば、
之を
利用して車を
廻させることも出来る。それ
故我々は力を
尽して
源因・
結果の
鎖の
輪を一つ
宛先へと
探り
求め、
之を
応用して人生を
益することを
務めなければならぬ。
然るに
若し世の中に
迷信が流行し、
迷信が
勢力を有して
居ると
斯く
尽力して
得たる
智識も
之を
応用して社会を
利することが出来ぬ。
斯かる
次第であるから世の文明を進めるには一方では
実際の
現象を研究し
探り
得たる
理法を
応用して世を
益することを
務むるが
必要であると同時に、他の方では
此等の学理
応用の
妨げとなる
迷信を打ち
破ることが
極めて
必要である。
然して
迷信を打ち
破るために
観察の力や
推理の力を
養成するには、
適当な
方法を用いて
博物学を
授けることが
甚だ
有効であると思ふ。
以上論じた所は
皆博物学を
授くる間に
煉磨し
発達せしむべき
脳力に
関係したこと
許りであるが、
之から
博物学の
内容の教育上の
価値に
就て
述べよう。
之を
述べるには先づ
之を実用上の
効用と思想上の
効用との二つに分けるが
便利である。
我々の生活に
必要なる
衣食住の
材料は
孰れも
之を
自然界より取るの外に
致し方なきもの
故、
自然物を研究する
博物学が
我々日々の生活に対し実用上
有効であることは
無論であるが、
尚之を
明にするために
各方面より一二の
例を
挙げて見るに、先づ農業、山林、
水産等には
博物学の研究が何より
必要である。
此等は
直接に植物を
培養し動物を
飼ひて、それより
利益を
収めるものであるから、
其動植物の
性質構造を知り、
之を
害する
虫類や
菌類を研究して
駆除の
方法を
講じ、
之に
益ある
虫類、
鳥類等を調べて
保護の道を考へねばならぬが、
此等は
皆全く
博物学
的の研究である。
又工業に
就ても
其通りで工業の
材料は
皆天産物であるが、中にも動植物から
材料を取る工業や、
醸造、
醗酵等をなす場合には
博物的研究の
結果を
応用する事に
依つて
初めて
充分に進歩して行くものである。
更に医学上、
衛生上の
事項に
至つては
博物学研究の
必要が
尚一層著しい。人体の病気の
源となるものには生物が
極めて多く、人間に
寄生する
虫類だけでも数百
種あるから、
病を
治し
健康を
復し病を
避け
健康を
保つの
法を
講ずるには先づ
此等の生物の
習性構造生活の
状態等から調べて
掛らなければならぬ。当時
非常に
発達して
居る
消毒の
方法の
如きも物の
腐敗するは生物の
働きに
源因すると
云ふ
博物学
的学理を
応用したものである。
斯くの
如く
博物学研究の実用上の
効用は
総ての方面に中々多くあつて
枚挙する
隙はない
程である。
然し
普通教育では
専門家を
養成する
訳でないから
普通教育中の
博物学は決して
直接に
斯かる実用上の
利益を
求むべきものではない。
唯後に
成て
実務に
従事するに当り
専門家の話す学理が
成る
程と
解かるだけの
素養が出来れば
宜しいのである。それには動植物界の
普通なる事実を一通り
心得させ、生物界の組み立ちに
就き
正確なる考へを持たせることが
必要である。地理科で地理上の事実を
授け、
歴史科で
歴史上の事実を
授けると同じく、
博物学科でも
博物界の事実を
授け、
絹糸は
如何な虫から
何様して取るか、
木綿は
如何な植物から何様して取るかと
云ふ様な人生に
直接の
関係ある
事柄に
就ては
殊に注意して
授けなければならぬが、生物界の組み立てに
就き
正確な考へを持たす様に
導くのは
更に
勘要である。
絶対的正確な考へを持たすことは
素より出来ぬが、時代相当の
正確な考へを持たせなければ時代相当の学理の話しが
解らず、
随つて
其応用も
捗らぬ
訳ゆへ
其時代相当の
正確な考へを持たせることは
極めて
望ましいことである。
例へば生物は元来
種の
無い所へ
自然に
湧いて出るものでないとか、
一種の動植物は決して
突然他の
種の動植物に
変化することは
無い、
況して虫が草に
成つたり竹が魚に
成つたりすることは決して有り
得ないことであるとか、
又は同じ所に住んで
居る動植物は
生存上
互に
相関係して
居るもので、
其中一種に
増減等の
変化があれば他の
各種類へも
残らず多少
影響の
及んで行くもので、
常に
著しい
変化の見えぬのは
互の間の
勢力、
物質の
出納が
平均して
居るに
因ると
云ふ様なことなどは
是非とも
悟らせて
置かねばならぬ。
斯様に
普通教育で生物界に
関する
正確なる
観念を
与へ、世間に生物学
的に
訳の
解かりたる人が多くなれば、生物学上の学理を実地に
応用することも
容易となり、社会を
益すること
益々多くなるべき
筈である。それ
故博物学科
内容の実用に対する教育上の
価値も決して軽んずべからざるものである。
次ぎに
博物学
内容の
我々の思想上に
及ぼす
影響を考へて見るに、
之は
極めて大なるもので、
彼の有名なる
進化論の
如きは
殆んど
総ての学科に大
変化を
起した
程である。
博物学の
材料から
帰納的推理法に
依つて
積み立てた所の
結論は
唯進化論ばかりでは
無い、
其他にも
種々ある。
此等の
結論が
我々の思想に
如何なる
影響を
及ぼすかを
説くには、
勢ひ一々
其例を
挙げて
論じなければならぬが、
此所には
唯二三の
著しい
例を
挙げて
其一斑を
述べるだけに止める。
例へば生物は
如何なるものでも生活して
居る間は
常に外界から
或る
物質を取り
之を
自己の身体と同一なるものに
造り
改めて
居るものである。
之は生物は
如何なるものでも生活して
居る間は
絶へず身体の
或る部分が
分解し
消耗して
捨たれて行くからそれを
補ひ
償つて、
尚余分があれば
成長し
生殖して行くためである。それ
故動物でも植物でも
昨日見た所と今日見た所と同じであるのは、
水晶や
方解石の
結晶が
昨日の
儘に今日も
存在して
居るのとは全たく
存在の
為様が
違ふ。
鉱物の
結晶の
存在して
居るのは
其内へ他から新しき
物質の
這入つて来ることも
無く
又其内から古い
物質が出て行くこともない。
即ち
物質が
其儘に止まつて
存在して
居るが、生物の生活して
居る間は
絶へず
物質の入り
換りがあり、形は
旧の
儘で
存在して
居ても
其実質は
暫くも止まらぬものである。
之を生物体に
於ける
物質新陳代謝と名ける。
之だけは生物界の
個々の
現象から
帰納的に
推理した
結論であるが、
之から考へて見ると
我々の身体が去年見ても今年見ても
略同じであるのは
恰も水は
絶へず流れ
来り流れ去つても
河の形は
旧のままであるのと同様で、
変らぬものは
唯形ばかりで
実質は
常に
新陳代謝して
居るのである。
又生活の
働きは
如何かと考へて見るに
我々の身体へ
這入て来る
物質にも生活の力なく、
我々の身体から出て行く
物質にも生活の力なく、生活の
現象の
顕はれるのは
唯其間の人間と
云ふ形を
備へて
居る時だけである。して見ると生活と
云ふ
現象は
物質が
或る形を
備へて
居る間だけに
顕はれるもの
故、
之を前の
例に
比べて
云へば流れ入る水にも流れ出る水にも岸の
柳の
影が
映らぬが、
其水が池と
云ふ形をなして
居る間だけ
其平らな表面に
影が
映るのと同じと
云へるであらう。
斯様に考へて見ると
精神だとか
魂だとか
云ふものも、
矢張池の水に
映る
柳の
影と
同然に
唯物質が集まつて人間と
云ふ形を
備へて
居る間だけに
現はれる
現象ではあるまいかとの
念が
自然に起る。
其結果として
霊魂不滅の
説などを聞いても
容易に
信ぜられなく
成り、
物質を
離れて
我の
存在することをも
疑はしく思ふ様になつて来る。
斯様な
次第であるから
自然界の研究は少しく考へて
掛かれば
哲学や
宗教と
親密な
関係を有する様に
成つて来る。
然して
自然界の研究は実物の
観察を
基とし
帰納的に
推理して行くもの
故、
甚だしい空理
空論に走る
患が
尠ない。
故に何人も一通りは生物学の
理論を
承知して
居ることは
望ましいことであるが、
殊に
無形の学問を
修めんとする人には
是非とも
之が
必要であらうと考へる。
又通常世人は生物の
各個体は
皆生れる時に始まり、死する時に終り、
一個毎に始めもあり終もあり、
個々独立に
存在する
如くに話すが、
実際を調べて見ると決して
斯かるものでは
無い。今生きて
居る生物
個体は元は
各其親なる生物
個体の一部分であつたのである。今生きて
居る生物
個体は行く行くは死んで
無くなつて
仕舞ふが、
各個体の一部分は
子孫と
成りて生き
残り、次の代の生物
個体となる。
子孫となるべき体部は
子孫の出来ぬ前より親の身体の一部として
存在して
居るものである。
例へば生れた
許りの
子供を
解剖して見れば
其体の内に
後に
其子供の
子孫となるべき部分を見出すことが出来る。
一個の生物
個体の身体は決して
其個体の出来るときに
初めて生ずるものでない。
已に
其前より親の身体の内に
存在するものであつて、
其親の身体も元は
其親の親の身体の一部をなして
居たものである。それ
故生物の体を
成せる生活
物質は
実際は代々
連続して
居るもので、生物の始めより
現今まで決して
途中で
絶へたことは
無い。
語を
換へて言へば
現今生きて
居る
各個体の身体は
其祖先の身体の
直接の引き
続きである。
個体は代々生れては死にながら
其生活
物質は
祖先より
直接に
子孫へ
連続して行く
有様は
恰も
一枚宛の葉は生じたり
枯れ落ちたり
為ながら
幹は一直線に先へ先へと
成長して新しき葉を生ずる
如くである。それ
故現在生きて
居る生物
個体は
各極めて長き
歴史を持て
居て、
其歴史の
結果として
存在して
居るものと
云はなければならぬ。
之だけは生物界の個々の
現象から
帰納的に
論じた
結論であるが、
斯様な
次第であるから生物学の研究する生物界の
現象は
悉く
歴史的の
元素を
含んで
居る。
之が生物学が同じ理科中の物理学、化学等と
著しく
相違して
居る点である。物理学、化学で取り
扱かふ所の
熱とか、光とか、分子とか、化合物とか
云ふものには
歴史的の
元素が少しも
這入つて
居ない。
例へば
酸素のことを研究するには
唯現在酸素なるものを取りさへすれば
宜しい。
其酸素が
昨日水銀と
結び
付いて赤い色の
塊を
為して
居たか、
又はマンガンと
結び
付いて黒い
粉であつたかと
云ふ事は少しも
頓着するに
及ばぬ。それ
故物理学や化学の学理は時と
云ふことに
関係なしに、
何時でも
其儘で通用するが、生物学の方では左様に
簡単には行かぬ。生物学では
其取り
扱ふ所のものが
一個一個
皆長い
歴史の
結果であつて、
各々の
経て来た
歴史が
皆違ふに
随ひ、
其結果なる
各個体にはそれぞれ
皆多少の
相違がある。十人集まれば顔色も
十種あり
量見も
十種あるのは、
此事の
眼前の
例である。それ
故生物学に
於ては
個々の事実から
帰納的に理を
推して
論ずる時にも、
又其結論を
実際に
応用しようと
云ふ時にも
常に
必ず
此歴史的の
元素を
勘定に入れて考へなければならぬ。
若し
此注意を
怠たり
各生物
個体が
如何なる
歴史を
経て来たかと
云ふことに
構ひなく、生物界の
現象を
説明し、生物学の学理を
応用しようとすれば
必ず空理
空論に落ちて
到底充分の
結果を
得ることは出来ぬものである。
人間の社会も生物界
現象の一部であるから、
此社会の中で
我々が
常に
出遇ふ
事柄は
皆歴史的の
元素を
含んで
居る。
然も
極めて
複雑なる
歴史を有して
居る
事柄が多い。
故に社会の出来事に対しては
充分に
其歴史を考へて
掛らねばならぬ。
若し
其歴史を
勘定に入れずに
単に
現在の有様だけから
論じて
処理しようと
試みれば
失敗することが
極めて多いものである。それ
故今から世に出ようと
云ふ人々を
養成する
普通教育では一通り
歴史的の考へを入れて事物を
論ずるの
習慣を
造ることは、社会へ出る
準備として
甚だ
有益である。
特に
経験も少なき青年時代の者は
兎角唯眼前の事実より
立論して、
往々極端なる
説を持ち出すの
癖があり
其ため
失敗するものも少なからぬ様に見えるから、
在学中より
斯かる
弊を
防ぐの
手段として
歴史的元素を
含みたる
推理法の実習をなさしめることは
極めて
望ましい。
然して
斯かる
推理法は生物学にて
常に用いる所であるから、
此点から
云つても生物学の思想上に
及ぼす
影響は決して
僅少では
無いと考へる。
去る第十九
世紀中に
最も人間の思想上に
大影響を
及ぼし、生物に
関係せる
諸学科の
革命を引き起した
議論はダーウィン
氏の生物進化の
説である。
之は中々の
大諭であるから、
此所に
其大意を
述べる
訳には行かぬが、
普通教育と大
関係がある様に思はれるから、
其点だけを
挙げて見るに、先づ第一には生物進化の事実と、生物進化に
関する
議論とを
区別して考へなければならぬ。生物進化の事実は生物界に起る
現象を広く集めて
帰納的に
論じた
結果であるから、
唯広く通じる事実であつて、決して、人の思ひ
付いた
理論ではない。
之は実物を取つて生物を調べて見れば
誰でも
直接に見ることの出来るもの
故、
疑はうと思つても
到底疑ふことの出来ぬものである。
之を
疑ふものは全く生物界の事実を知らぬからである。それ
故現今の所では
苟しくも生物学を
修めた者で生物進化の事実を
疑ふ者は一人もない有様である。
又生物進化に
関する
議論とは、生物進化の事実は
如何なる
源因に
依り、
如何なる
条件の下に、
如何なる具合に生じたものであるかと
云ふ様に生物進化の事実の
依て起る所を
説明しようと
試みるもので、
之には
未だ
不充分な所が
沢山にある。
一個一個の生物進化の事実を集め、
之を
総括し生物界全体に当て
嵌めて
論ずると次の
如き考へに
達する。
即ち生物の
各種類は決して
開闢(注:天と地が初めてできた時)の昔より
未来永劫形状性質の
変らぬものではない。一代と次の代との間には目立つ
程の
相違は見えぬが、
数千代、数万代
或は
数億代と代を重ねる間に
自然に
形状性質ともに
変化し、
又同一の
祖先よりも
種々の
異なりたる外界の有様に
適せる
種々の
異なりたる
子孫を生じ、
終に今日見る
如き有様の生物界を生じたのであらう。されば
現在の生物
各種は
皆互に多少
血縁の
繋がりあるものにて、
形状性質の
相似たるものほど
互に
血縁の近きものと考へねばならぬ。人間も生物の一である
以上は
此規則に
漏れず、
形状の
最も
似たる「さる」
類とは
最も近き
親類にて「いぬ」「ねこ」
等とも、
孰れ昔しは同一の
祖先より起り出たるものなりと
論ずるより外に
致し方なし。
又生物進化の事実を
説明するためにダーウィン
氏は
自然淘汰の
説を出したが、
此説の
基とする
遺伝、
変質等の
現象は
実際目前に見へ
居る事実で、生物
増加の
割合及び
其結果として起る所の
生存競争と
云ふことも
亦疑ふべからざることであるから、
此等の事実の上に
建てたる
自然淘汰の
説は
最早事実と
認めて
宜しいものである。
此事に
就ては
異論を
唱へる生物学者は
殆んど
無い。当今学者の
相駁し
相弁じて
居る
議論は
之より
尚一段先きのことで、
例へば生物進化の
現象は
自然淘汰のみにて
説明が出来るか、
又は
自然淘汰以外にも生物進化の原動力があるかとか、
遺伝とは
如何にして起る
現象であるかとか、
変質の
源因、
法則は
如何であるかとか
云ふ様な問題に
就てである。
此等の問題に対しては
唯沢山の
仮想説があるだけで
未だ
慥かな
解答は一つも
無い
故、
普通教育とは
直接の
関係はない。
元来我々の
智識は四方から
解らぬことで
囲まれて
居て
何れの方面へ向つても少し研究を進めて行けば
忽ち
解からぬことに
衝突するもの
故、そこへ
達すると事実の調べが
済まぬ内、
材料が
未だ
充分に集まらぬ内に、人は
仮想説を考へ出して、
与へられたる問題を
解釈せんと
務めるのである。
実着に考へた
仮想説は研究の
鉾先を
或る
有望な方向に向はせ、
随て
学術の進歩を
促がすの
効があるから
専門学者に取つては中々
有益なものであるが、
之は
専門学者だけに
関したことで
普通教育には近い
関係が
無い様であるから
此所には
此等の
仮想説に
就ては
述べる
必要が
無い。
普通教育と
云ふものは時代相当でなければならぬ。
地動説が
慥に
成つた後に
普通教育で
天動説を
授けるのは時代
遅れであると同じく、生物進化の事実の
慥に
解かつて
居る二十
世紀の今日に
進化論の大意を
授けぬのは大に時代
遅れである。
最早今日の有様では生物
進化論の大意を
承知することは
普通の教育ある人の
必ず有すべき
資格と見て
宜しからうと考へる。
当今出版になる書物や
雑誌には
進化論のことが引き合ひに
出で
居ることが
頗る多いが、
其元なる
進化論の大意を知つて
居なければ
充分に
之を
了解することが出来ぬ。
又進化論が世に出てから多くの学科の
趣が
改まり、
進化論に
従つて組み立て直した様なものもある。心理学でも、社会学でも、教育学でも多少
進化論の
影響を
蒙むつて
変化して来た。
故に新しく出来た
此等の学科の書物を読み学ぶには
進化論の
素養が
是非必要である。
斯くの
如く
進化論の大意を
承知することは勉学上にも入用であるが、
進化論の大意を知つてから社会
一般の
事物を
観察して見ると大に考へ方が
変つて来る。先づ
自然界に
於ける人間の
位置と
云ふことに
就ての考へが大に公平になつて来て、人間を
以て
宇宙間に
唯一種他の生物とは全く
異なりたる
霊妙不思議なものと思はず、人間も他の生物と同様に、同じ進化の
規則に
従ひ同じ様な
道筋を通つて今日の
姿までに進んで来たものと考へる様になり、
随つて人間の
価を高く
見過ぎることを
免がれる。
我々の身体を
解剖して見ると
所々方々に
進化論に
依らねば
其意味を
了解することの出来ぬ
構造を見出すが、
之より
推して考へて見ると、
我々の
精神的作用の
器官とも
云ふべき
脳髄も
矢張進化の
結果今日見る
如きものに
成つたとより思はれぬ。
此事は一方人間
胎児の
脳の発生を取り調べ、一方人間の
脳と
禽獣虫魚の
脳とを
比較して見ると実に
明で
疑ふことが出来ぬ様になる。
即ち人間の
脳は決して
幾億年の昔より今の通りで有つた
訳では
無く、
初めは形も小く
構造も
簡単で
其働きの
如きも
極めて
粗末であつたらうと思はれる
不完全なものから、
次第次第に進化し
終に今日
我々の持ち
居る
如き大形にして
複雑なものに
成つたと考へねばならぬ。
扨斯様に考へて見ると
我々の
脳髄は
不完全なものから
次第に進んで来たものであるから、今日の有様を
以て
絶対に
完全であるや
否やを
疑はねばならぬ。
未来のことは
素より
慥には
解らぬが
日蝕や
月蝕の
予報がそれぞれ当るを見れば、
既往のことを調べ
其ことの起る
規則を
探り知れば、
之に
依つて
未来のことを多少予言の出来ぬことはない。
脳髄に
就て考へて見るに、今まで進化して
次第々々に
複雑に
完全に
成つて来たものとすれば、今より後も生活の
状態に
著しき
変化なき
以上は
矢張同じ方向に向つて進化して行くであらうと
察するより外に
致し方が
無い。
若し今より後も
尚益進化して行くものとすれば、
現今我々の持つて
居る
脳髄は進歩の
中程に
在るのであるから決して
絶対的に
完全とは
云へぬ
理屈である。
然らば
其働きなる
精神的作用も決して
完全無欠であるとの
断言は出来ぬ。
以上の
如き考へを持つに
至れば、自分の
脳力だけを用いて
編み出した
理屈を
以て
万世不易の
真理だなどと
披露する事は
到底出来なくなり、
又他人の
論ずる所を
以て
万世不易の真理だと
信仰することも
到底出来なくなる。
随て
脳力だけを用いて考へ出した
理屈が
観察に
依り集めた
材料から
帰納的に
論じて
達した
常識と
衝突する場合には
常識の方を取つて、
暫く
理屈の方を
控へ、
徐に
其誤りの起つた
源因を
探る様になり、
脳力ばかりを
頼みにして
割り出した
理屈を
其儘実行する様なことが
無くなる。
斯かる
次第であるから
進化論を
適当の
方法で
授くれば
常識を
発達させる助ともなるものである。
此事は
特に
無形の学科を
修める人々に
必要である。
何故と
云へば
無形の学科では研究の
方法は
唯自分の
脳力ばかりに
依るの外にはないのであるから、
初めから
脳の力を
完全無欠と思つて
掛ると、
常識と正反対の
結論に
達した時に
常識の方を
捨てて
我編み出した
理屈の方に
執着する。
斯かる人が
大勢あり、
斯かることが度重なると世間からは学者と
云ふものは
迂遠なものである、学理と
云ふものは
実際とは反対のものであるなどと
云ふ
評判が起り、実物を研究する学科までが
往々其巻き
添へとなつて世間から
敬して遠ざけられる様になり、学理の
応用と
云ふことも
自然に
妨害を受けることとなる。
之は実に
残念なことと
云はなければならぬ。
進化論を
基として人間の
脳力のことを考へて見るに、
脳髄も
総て他の
器官と同じく、
生存競争に
加はるには
此位に
発達しなければならぬと
云ふ所まで
発達して、決して
著しく
其以上に
余分に
発達したものではない。
故に
何れの
脳力でも
皆生存競争に
必要なる
程度までには
発達して
居るが、中々
遙か
其以上に
発達する
余裕は
無からうと思はれる。
然し
凡そ一の作用を
務めるためには
其器官には
其作用を
務めることが出来るだけの一定の
構造が
無ければならぬ。
然して一定の
構造を有すれば
其器官は
其構造を用いて出来る他の
働きをも
兼ね
務めることを
得る。
例へば
味噌を
摺るためには
摺子木は長き
棒の形をして
居なければならぬが、
棒の形をして
居る
以上は
摺子木を
一種の
棒として他の役に用いることが出来ると同じく、
生存競争に
必要なる
推理の
働きを
為し
得るため
脳髄の中に
之に
必要な一定の
構造が
発達すれば、
此構造を用いて
生存競争以外の
推理をも
為すことが出来る。
脳髄が今の有様までに
発達したのは
生存競争上の
必要から起つたのであるが、
発達した
以上は
之を
生存競争に
直接の
関係なき方面にも用いることが出来る。
直接に
生存競争に
関係なき
脳の
働きは
恐らく
斯様な意味のものであらうかと考へる。
宗教と
云ひ
哲学と
云ふ
如きものも
脳の
斯かる
働きの
結果であると見れば、決して
迷ひ
込むに
至らずして
然も
充分に研究することが出来るであらう。
少し横道の話しであるが教育の
任に当る人を
養成するには
是非とも生物学の大体を教へ生物進化の理を一通り
悟らせて
置く
必要があらうと思ふ。
其理由は外でもない、
常識を
養成するには
之が
極めて
有効であらうと考へるからである。
従来の教育学や
教授法は多くは
或る人が
自己の
脳力ばかりを
頼りにして
編み出した心理学や
倫理学から
割り出したもので、
実際の事実から
帰納的に
論じた所が少ない
故、
理論としては
甚だ
高尚なものでもあらうが
常識からは少しく遠ざかると思はれる所も少なくない。それ
故現今の様な時代には一方で教育学や
教授法の
理論を
授けると同時に、他の方では出来るだけ
常識を
養成して
理論に
偏し形式に
拘泥することの
無い様に注意しなければならぬ。
就中教授法などは同様に
養成されたものが
大勢集まり毎日同様な
模型に
従つて
教授して
居ると、
習慣の
結果其模型に
依らなければ
教授法でない様な気になり、
恰も
肴屋が自分の
※[#「魚+星」、U+9BF9]さいのに気が
付かぬと同じく、他人から見ると
余程常識に外れて
居る様に思はれる事でも当人等は平気で
之を実行するに
至るの
恐れがある。
之を
防ぐには実物から
帰納的に
論じて行く
習慣を
造るが
最も
有効で、
之をなすには
博物学が
最も
適当である。
博物学の教育上の
価値を
論じたものを見ると、
博物学を
修めると
天然物を
愛する
念が起り、
随つて
倫理的養成のために大に
効が有ると書いてあるのが多い。多数の人が
斯く
論ずる所から考へると
此説にも多少
拠り所があるに
違ひ
無からうが、
博物学
許りが
特別に
倫理的養成に
関係が有るとは
云へぬ。元来
倫理的の
養成には
理屈を
説き聞かすことも
必用であるが、それよりも
模範を
示すのが
最も大切である。教員自身の行ひが
高尚純潔で
無ければ
幾ら口
許りで
講釈しても
蟹が
子供に横に
這ふなと
云ひ聞かすのと同じで何の
益にもならぬ。されば
倫理的養成のためには校長を
初め教員一同力を
協せて
之に当り、
各自生徒の手本となる気で
居なければ中々
効を
奏するものではない。
然して
其上で
各学科を受持つ教員が
各其学科の
性質に
応じて
之を
倫理的養成の
目的に向け用いる様に
心掛ければ多少の
効能は有るであらうが、
単に
博物学の
内容を
授けて
自然界の
美妙なる所を感服せしめ、それで
倫理的の
効能の
現はれるのを待つ様では全く何の役にも立たぬ。
尤も生物界の
現象には
我々の教へとなるべき事実は決して少なくない。
寄生生活のために
性質の
退化すること、勉強の
必要なること、
耐忍力の大切なること、
愛国心の
欠くべからざることなど数へ始めたら切りは
無いが、
此等は
皆修身の教員が
絶へず話して聞かし
然も
通常は一向に
効能が
現はれぬ所のものである。つまる所
倫理的養成の
効果の
現はれると
現はれぬは全く
生徒が教員等に
敬服して
居るか
居ないかに
依つて定まることで、中々口で
講釈する
事柄だけに
依るのではない。それ
故博物学
担当の教員が
生徒の
倫理的養成に
就て
心掛くべきことは他の学科
担当の教員と全く同様で有つて
宜しからうと思ふ。実は
博物学を
修めて
常に
天然物に
触れたとて
必ず
天然物を
愛する様になるやらならぬやら
解らず、
又仮に
天然物を
愛する様になつた所で、それが
悪念の生ずるを
防ぐものか左様でないか
之も
慥には
解らぬもの
故、
博物学を
修めると
天然物を
愛するの
念が生じ、
随つて
倫理的養成に
効が有ると
云ふ
一項は
極めて
薄弱な
説ではないかと
疑つて
居るのである。
以上述べたる所を
結論すれば、
博物学の教育上の
価値は第一
観察力を
煉磨し、軽々しく事を
信ずるの
弊を
防ぎ、第二には
分類整頓の力を
養成し
併せて
分類の真意を
悟らしめ、第三には
帰納的推理の
習慣を
造りて
空論に落ちることを
防ぎ、
常識を
発達せしめるにある。
此等は
皆博物学を
授くる間に
煉磨すべき
脳力に
関したことであるが、
尚博物学
内容の教育上の
価値を
拳ぐれば、第四には実用上の
利益で生物学の
理論応用を
了解するに足るだけの
素養を
造り、第五には思想上の
利益で
人類と
云ふ
観念を公平にするにある。
斯くの
如く
博物学の教育上の
効用は
極めて広いものであるが
此等の
効の
悉く
現はるるや
否やは全く教員
其人及び
教授法の
如何に
依ると
云つて
宜しい。
然らば
博物学を
担当する教員は
如何なる
資格を
備へて
居なければならぬかと
云ふに、
普通の
智識を一通り
貯へて
居る上に
博物学上の
智識を
余程充分に持つて
居ることが
必要である。書物を読んで
覚え、他人から聞いて
覚えた
智識ばかりでなしに実物から
直接に
得た
智識を
充分に持つて
居ることが
必要である。
普通教育で
授くべき
博物学上の
事項は
素より
容易なこと
許りであるが、
之を
授くる教員自身が
漸くそれだけより知らぬ様なことでは
到底之を
善く
授くることは出来ぬ。教員は教へることの十倍も二十倍も知つて
居て
初めて
充分に教へることが出来るのである。教育学に通じ
所謂教授法を
心得て
居ることも
頗る結構ではあるが、
肝心の
教授すべき
種が
不充分であつては
折角の
教授法も
用い様がない。それ
故博物学
担当の教員としては何よりも受持ちの学科に
就て
充分なる
智識を持つて
居ることが
必要である。
充分なる
智識さへあれば
常識を
以て
適当な
教授法を
工夫することは決して
困難ではないと思ふ。
博物学の
如き学科は、
易く教へるには
余程充分なる学力を
要する。学力の
不充分なる教員ほど
其教へることが
生徒には
六かしく聞こえる。
之は
一寸聞くと理に合はぬ様であるが
実際実物を
論ずる学科であるから実物を広く研究した人は目前にある
普通の実物に対しても
説明に
差支へぬが、実物に
就ての研究の足りぬ人は
唯書物を
頼りとし、
偶々敷衍して
説く所も他の書物からの受次に
過ぎぬから目前にある
普通の実物とは
縁が遠い
故それで
六かしいのである。
博物学を教育上
有効ならしめるには教員が
生徒に
解り
易く手近い学理を教へるだけの学力を持つて
居ることが
是非必要であるが、
之が中々
容易なことではない。
然し
若し
充分に学力のある教員が
博物学を
普通教育の一部として考へ、
常識に
依りて
工夫したる
適当なる
教授法に
随ひて
之を
授くるときは、本書に
述べたるだけの
効能を
充分に
現はすことが出来るべき
筈であると思ふ。
尚教育上に
博物学の
効能の
著しく
現はれるか
現はれぬかは
博物学科の時間
割配当の
適不適によつて
大に
違ふ。
此書に
掲げた通り
博物学の教育上の
効益は
種々あるが
其種々の
効益の
現はれる度は
之を受くる
生徒の
年齢学力に大
関係があるもの
故、
博物学科中の
各部を
生徒の
年齢学力に
準じ
各其適当なる年級に配当することが
必要である。
例へば
観察力を
養成するために
一個一個の実物の外部を
実験させるには中学一年級
位の
生徒が
適当で、生理学
実験のために動物の内部
構造を調べさせるには
尚二三年も進んだ所が
適当であらう。
又生物
進化論の大意を
授けるには中学五年級の
生徒位でなければ
到底充分に
之を
了解する力があるまい。
斯様な
次第であるから時間
割配当が
宜しくなければ
到底博物学の教育上の
効果を
充分に
収めることは出来ぬ。
然し学科の配当のことは主として当局者の考へにて定まることであつて、
担当の教員は
唯だ
許されたる
或る
狭き
範囲内で多少の
加減をすることが出来るだけであるから、
此事に
就ては
唯当局者の
充分に注意することを
希望するより外には
致し方がない。
以上述べたる所は主として
普通教育中の上半
即ち中学校
程度の部に
就て
論じたのであるが、小学校
程度に
於ても
或る度までは
理屈は同じである。
素より年の行かぬ小さな
子供には
推理の力も弱く
又抽象的のことを
理解するだけには頭も
発達して
居ないから
此等のことは
除かねばならぬが、実物から
観察せしめ
記載せしむることの
利益は
別に
変りはない。
博物学と
云ふ名前は小学校の
課程の中には
無いが
博物学の
材料は読本の中にも多くあり、作文の題となることも
屡々あるから、
其様なときには
矢張博物学の教育上の
価値を考へ
博物学の
特性を
利用して
観察の力を
養ひ
確信の道を開きて
生徒の
脳力の
発達を計る様に
心掛けたら
其効は決して少なくはあるまい。