教育と博物学

丘浅次郎





総論そうろん


 普通ふつう教育の課程かてい中のかく学科が如何いかにして教育上の目的もくてきたつすることが出来るかと考へるに大抵たいてい二通りに分けることが出来る。第一は学校で教へた事柄ことがら其物そのものが後になりて役に立つとふ方で、第二は教へる事柄ことがら其物そのものよりもこれさずける間に種類しゅるい脳力のうりょく煉磨れんまこれ発達はったつせしめる方である。目的もくてきのために筋力きんりょくを用いればその目的もくてきたつすると同時にる部の筋肉きんにく発達はったつすると同じく、目的もくてきのために脳力のうりょくを用いればその目的もくてきたつすると同時に脳髄のうずいる部が発達はったつするものである。たとへば船を進める目的もくてきもつげば船が進行すると同時に自然しぜん漕手こぎて筋肉きんにく発達はったつすると同じく、歴史れきしの事実をおぼえるために書物を暗誦あんしょうすれば事実をおぼえると同時に自然しぜんに学ぶ者の暗記力も発達はったつするものである。それゆえ博物はくぶつ学の教育上の価値かちろんずるに当つてもこの二通りに分けて考へるのが便利べんりであらう。
 先づ普通ふつう教育中で博物はくぶつ学をさずける間に如何いかなる脳力のうりょく煉磨れんま発達はったつせしめることが出来るかとふに第一は観察かんさつ記載きさいの力、次は分類ぶんるい整頓せいとんの力、次は推理すいりの力である。

観察かんさつ力の養成ようせい


 博物はくぶつ学の教授きょうじゅ観察かんさつ力の養成ようせい必要ひつようであるとのことは古来だれみなつてることで、中には博物はくぶつ学の教育上の価値かちこれだけに止まる様に考へてるものも少なくない。元来観察かんさつ力とは五感器ごかんきを正しく用いるべくあやまりの少ない様に物を見聞きする力をふのであるが、この力は決して打捨うちすきても充分じゅうぶん発達はったつするものではない。あたか書画しょがただ手をもつふでを動かせばいのであるが、余程よほど練習れんしゅうしないと筆が思ふ様に動かぬのと同じことで、物を見るべき眼球がんきゅうは生れながらだれみな持つてはるが、これを用いて正しく物を観察かんさつするには余程よほどの練習をようするものである。通常つうじょう世間せけんの人はもつて物をるとふが、実は決して左様さようではない。我々われわれ眼球がんきゅうおくつたぞう脳髄のうずい判断はんだんしてはじめて何々を見たと承知しょうちするのであるから、むし脳髄のうずいもつて物をるとつた方がよろしいくらいである。眼球がんきゅうまるで写真の器械きかいと同じ様な構造こうぞうを持つてるからそのおくうつぞうは先づ実物其儘そのままの形であるとつてよろしいが、我我われわれこのぞう材料ざいりょうとし脳髄のうずい判断はんだんしてはじめて何々を見たと思ふのであるから自分で見たと思ふものと、実際じっさい眼球がんきゅうそこつたぞうとは大にちがふことが屡々しばしばある。一筆書いっぴつがきの文人画などはみなこのことわり応用おうようしたものである。

第1図

たとへば上図のごとわずかに四五本の曲線を引けばこれだれにも人物のごとくに見えるのは決して眼球がんきゅうそこ精密せいみつな人物のぞううつるからではない。眼球がんきゅうそこうつるのは無論むろんにあると同じだけの四五本の曲線がさかさまに小さくうつるのであるが脳髄のうずい已往いおう経験けいけんよりたる総則そうそく標準ひょうじゅんとしてこれ判断はんだん想像そうぞう力をはたらかせての四五本の曲線を人物につくつてしまふからである。みちに落ちてなわへびに見えたり、秋の野の尾花おばな幽霊ゆうれいに見えたりするのはみな此類このるいぎない。
 この観察かんさつの力とふものは我国わがくにでは今まで打捨うちすてられてあつたゆえ観察かんさつ力のとぼしいことの実例じつれいいくらでもげることが出来る。今一つ二つべて見るがる所で小学校の教員に「うなぎ」とふ魚は胎生たいせいたまごを生むものかとたずねられたことが有つた。此問このといに対し「うなぎ」はたまごを生むに定まつたもので、「うなぎ」が形のそなはつた子をむことは一切見たことも聞いたこともないと答へると、其人そのひとふにはいや学理上では「うなぎ」は卵生らんせいとなつてるかも知れぬが、「うなぎ」のはらを開いて見ると中から「うなぎ」と寸分すんぶんも形のちがはぬものが出て来る、そのものには頭もありしりもあり口もありもあり、が黒くてはらが白い、全く「うなぎ」に相違そういないから実際じっさい「うなぎ」はたしか胎生たいせいするものである、今実物を持て来て見せるとつて「うなぎ」のはらの開いたのを持つて来た。そこで何様なにようなものがあるかと思つて見たら、「うなぎ」の子だとふものは一種いっしゅ蛔虫かいちゅう種名しゅめい属名ぞくめいすでに定まつて普通ふつうのものであつた。蛔虫かいちゅうのことであるから無論むろんそのものにもなければもなく、またはらとの区別くべつも明ではない。ただ細くて長いと、白と黒との模様もようのあることが「うなぎ」にるだけで其他そのほかには少しも「うなぎ」にた所はない。其所そこその人に実物を注意してなお一応いちおう観察かんさつして見る様にとつたら、ややひさしくながめて後る程「うなぎ」とは大分ちがひますとふてはじめて得心とくしんした様子であつた。これなわへびに見えるのと同じ理屈りくつで、観察かんさつの力がとぼしいゆえ想像そうぞう力のはたらきで「うなぎ」にして仕舞しまふのである。またある所で両頭の「いもり」とふものを見たことがあるが、これ普通ふつうのいもりのの先を少し怪我けがしたものであつた。きずの所が他の所より少しへこんでるので横から見ると幾分いくぶんか口らしくも見えるが、もとよりのことであるからもなければ鼻もなし、少しでも注意して見れば頭と間違まちが気遣きづかひはいが、平生へいぜい観察かんさつの力がとぼしいから前の一筆書いっぴつがきと同様、想像そうぞう力でこれを頭と見て仕舞しまつたのである。小さいびんの中に入れてある「いもり」のでさへ頭に見えるくらいでは薄暗うすぐらい所や遠い所にあるものには何程なにほど見損みそこなひがあるやら知れぬ。この両頭の「いもり」なども其頃そのころ立派りっぱに新聞に出てたことから考へて見ると、時時ときどき新聞に出て来る怪物かいぶつはなしも多くは此類このるいであらうと思はれる。
 斯様かよう次第しだいであるから世間せけん観察かんさつ力にまずしい人が多いと兎角とかく種々しゅしゅ怪談かいだん迷信めいしん流行りゅうこうする。其中そのなかにはただ可笑おかしいばかりでどくにも薬にもならぬものもあるが、また其為そのために世間に損害そんがいおよぼすものも少なくない。祈祷者きとうしゃなどにだまされて目前もくぜん不思議ふしぎしんじたりするのは全体の智恵ちえが足らぬからでもあるが、畢竟ひっきょう観察かんさつ力と推理すいり力の足らぬ結果けっかである。ようするに迷信めいしんは出来るだけ打ちやぶるがい。しかしてこれを打ちやぶるには観察かんさつ力を養成ようせいするのが第一に必要ひつようである。

博物はくぶつ教授きょうじゅには実物より学ばしむべきこと


 博物はくぶつ学は観察かんさつ力の養成ようせい有効ゆうこうであるとふが、如何いか方法ほうほうで教へても有効ゆうこうであるとは決してへぬ。いずれの学科でも教授きょうじゅ方法ほうほう次第しだいにて結果けっかも大にことなるものであるが、こと博物はくぶつ学のごとき学科にてはその教育上の価値かち有無うむは全く教授きょうじゅほう如何いかによりて定まるとつてよろしい。観察かんさつ力を養成ようせいするためには博物はくぶつ学の教授きょうじゅほうただ生徒せいと自身で直接ちょくせつに実物を観察かんさつせしめると一法いっぽうがあるばかりで其他そのほかには方法ほうほうい。かなら直接ちょくせつに実物を学ばせ、観察かんさつしてたる所を順序じゅんしょ正しく記載きさいさせることが勘要かんようである。教科書のごときはたん生徒せいとの筆記のろうはぶくだけのものであるから、決してこれを読ませたり暗誦あんしょうさせたりしてますべきものではい。博物はくぶつ学においては実物をもつて教科書と心得こころえつねに実物から学ぶつもりでらなければならぬ。もとより数の多い動物植物を一々実物について学ぶことは出来もせずまた必要ひつようもない。ただ普通ふつうの動植物の中から適当てきとうなもの幾種いくしゅかをえらみ、教室内ではこれだけについ観察かんさつ演習えんしゅうをさせれば充分じゅうぶんである。くして数種すうしゅの動植物を生徒せいと自身に観察かんさつせしむれば、生徒せいと此等これらの動植物については正確せいかくなる観念かんねんるをもつて他の動植物の話しを聞くに当つてもこの正確せいかくなる観念かんねんもととし比較ひかくして考へ、したがつて明了めいりょう理解りかいする事が出来る様になる。

軽々しくしんずるのへいふせぐこと


 斯様かように実物を用い、生徒せいと自身に直接ちょくせつに実物より学ばせるごと方法ほうほうもつ博物はくぶつ学をさずけるときは、生徒せいと観察かんさつ力の進むと同時になお品性ひんせい陶冶とうやの上にいちじるしい効能こうのうあらはれる。それは何から起るかとふに、博物はくぶつ学科は普通ふつう教育中で事実を教へる他の学科とちがひ、さずける事実は大抵たいてい生徒せいと自身で実物についけんすることが出来るからである。歴史れきしで教へる事柄ことがらは今とは時がへだたつてるから今の前に見ることが出来ず、地理で教へる事柄ことがらは近いものもあるが多くは場所がへだたつてるからこれ矢張やはりの前に見ることが出来ぬが、ただ博物はくぶつ学だけは教へる事柄ことがらの大部分は実物がの前にあるから、聞いたこと、読んだことはみな実物にてらし合せて自分でなおこれけんして見ることが出来る。午前書物で読んだことを午后ごごは実物につい実験じっけんし、昨日きのう講義こうぎで聞いたことを今日は自分の直接ちょくせつに見るとふ様なことは歴史れきしや地理では中々出来ぬ。もっと歴史れきしなどでも其々それぞれの時代の有様ありさまを見せるのが必要ひつようだとふて種々しゅしゅの古物標本ひょうほんを集めて用いるが、昔し公卿くげの着た着物はこれであるとか、維新いしん前の大名の行列はこの通りであるとかふことは、実物を列べたり真似まねつて見せたりすればかるが、信長のぶながころされたとふ様なことは一度切りでんで仕舞しまつたことゆえまた見せることは出来ぬ。それゆえうそか真実か分らないがただ書物に書いてあるからとつてしんずるか、あるいは先生がつたからとつてしんずるより外には仕方がない。博物はくぶつ学では実物が何時いつでもられるから此点このてんでは大に他の学科とちがつてる。博物はくぶつ学をさずくるにはこの特性とくせい充分じゅうぶん利用りようしなければならぬ。博物はくぶつ学でこの特性とくせいてては他の学科で此代このかわりをるものはいのである。
 しかし人間の命は短かいもので、其中そのなか在学ざいがく時期はまた短かいものゆえ其間そのあいだに自身に実物にいて観察かんさつることはきわめてすくなからざるをない。それゆえ我々われわれしんじてることのうち大部分は自分の直接ちょくせつ実験じっけんしないことである。百中の九十九は他人の実験じっけんしたことをただ聞いてしんじてるのである。これよんどころないことであるが、普通ふつう教育中の他の学科を見ると、博物はくぶつ学の外はみな書物に書いてあるからとつてしんじ、先生がつたからとつてしんずるよりいたし方のない学科ばかりであるゆえこれを学ぶ間には生徒せいとには自然しぜんに読んだものをみなしんじ、聞いたことをみなしんずる習慣しゅうかんが生じやすい。これに対し此弊このへいふせぐものは博物はくぶつ学の外にはい。博物はくぶつ学では容易よういに実物がられるから、書物で読んだこと、他人から聞いたことは一通り自分でためしてみることが出来る。ためした上で読んだこと聞いたことが正しかつたらはじめて成程なるほど承知しょうちする。またその事柄ことがらが自分でためして見ることの出来ぬことである時は、かって自分で実験じっけんしたことをもととし、それにじゅん判断はんだんして、これしんじてよろしいと思へばはじめてこれしんずる。つねかる心掛こころがけをもつ博物はくぶつ学をおさめるとこの習慣しゅうかんほかの事にもおよんで、自分の知りたことは先づ自分で実行して見る様になり、したがつて軽々しく事をしんずるとへいふせぐことが出来る。我国わがくにの人はとくに軽々しく事をしんずるくせいちじるしい様であるから、普通ふつう教育中に充分じゅうぶん此点このてんに注意するの必要ひつようがあると思ふ。

実践じっせん躬行きゅうこう習慣しゅうかんつくること


 読んだこと聞いたことを軽々しくしんずるのへいくなると同時に、また知つたことはかならこれを行なひ、知ることと行なふことが一致いっちする様になつて来る。いたずらに口で議論ぎろんするばかりでなしに口にとなへることは実際じっさいみずから行ふと美風びふう次第しだい養成ようせいすることが出来さうなものである。

分類ぶんるい整頓せいとん


 以上いじょう観察かんさつ力の養成ようせい適当てきとうなる教授きょうじゅほう結果けっかべたのであるが、博物はくぶつ学を学ぶ間に煉磨れんまされ発達はったつする次の脳力のうりょく分類ぶんるい整頓せいとんの力である。此事このこと従来じゅうらいあまり重く考へられてなかつた様であるが、分類ぶんるいふことは何学をおさめるにも必要ひつようで、分類ぶんるいふことの真意をさとるはすべての思想におおいなる影響えいきょうおよぼすものであるから、とく此所ここげることとした。
 博物はくぶつ学で取りあつかふ所のものは種類しゅるい非常ひじょうに多い。動物、植物を合せて勘定かんじょうして見たらたしかには分らぬが百万以上いじょうもある。これを取調べる学科であるから自然しぜん昔から分類ぶんるいふことが必用ひつようで、博物はくぶつ学が今まで段々だんだん発達はったつして来るにしたがひ、分類ぶんるい始終しじゅう益々ますます細かくなつて来た。それゆえ普通ふつう教育で博物はくぶつ学をさずけるときにも他の学科にくらべて見ると分類ぶんるいふことが多少まさつてる。その分類ぶんるいは何を基礎きそとするかとふに矢張やはり観察かんさつ結果けっかるので、るものの間に相違そういの点を見出し、ちがつたものの間にあいた点をもとめ、異同いどうの多少を考へ、あいたるものを集め、あいことなれるものをはなして分類ぶんるい系統けいとうつくり、すべての種類しゅるいその中へ編入へんにゅうするのである。現今げんこん世に行はれて博物はくぶつ学の教科書を開いて見ると始めから終りまで分類ぶんるいばかりのものがある。勿論むろん動物学でも植物学でも分類ぶんるいで始まり分類ぶんるいで終るべきものではいが、これを見ても博物はくぶつ学には分類ぶんるいふことが他の学科より多いことがかる。実物についこれ段々だんだん経験けいけんして行く中には多数の事物を分類ぶんるい整頓せいとんするの習慣しゅうかんいて来る。これだけでも中中有益ゆうえきであるが、実物につい分類ぶんるい整頓せいとん演習えんしゅうをさせて生ずる所の利益りえきなお其他そのほかいちじるしいものがあるのである。

天然てんねんには分類ぶんるいさかいなきこと


 博物はくぶつ学を教へるに当り分類ぶんるいの大意をさずけ実物につい分類ぶんるい演習えんしゅうをさせれば、其間そのかんおよ分類ぶんるいふものはすべて人間が便宜上べんぎじょうつくつたもので、天然てんねんには決して分類ぶんるいふことはいとふことを生徒せいとさとらせることが出来る。これきわめて大切なことで博物はくぶつ以外いがい一般いっぱんの思想にも非常ひじょういちじるしい影響えいきょうおよぼすものである。博物はくぶつ学の書物を開いて見ると十字花科じゅうじはなか(注:アブラナ科)の花は斯様かよう々々、石竹科せきちくか(注:ナデシコ科)の花は斯様かようとか、軟体なんたい動物の特徴とくちょうは何々、節足せっそく動物の特徴とくちょうは何々と明かに記してあるが、実物を沢山たくさん集めて調べて見ると中々分類ぶんるいさかいふものは判然はんぜんしないもので、実物を集めることが多ければ多いほど分類ぶんるい益々ますます困難こんなんになり、分類ぶんるいは決して充分じゅうぶんには出来ぬものであるとの考へが起る。動物と植物との区別くべつでさへ到底とうてい出来ぬものとふことがかつてくらいであるから、それより以下いか境界きょうかい尚更なおさらのことで到底とうてい判然はんぜんと定めることは出来ぬ。こうもくの間に明かな境界きょうかいを立て分類ぶんるいすることが出来ると思つたのは昔のことで、動植物の新種類しゅるいが日々発見されるにしたがひ、昔し判然はんぜん種類しゅるいと思つてたものも次第しだい次第しだい其間そのかん境界きょうかいが分らなくなつて来る。たとへば「とかげ」のるい鳥類ちょうるいとは一見しても非常ひじょう明了めいりょう区別くべつがある様であるが、種類しゅるい沢山たくさんに集めて見ると「とかげ」の中にも後足だけで立つものがあり、鳥の中にも歯の生へたものがあり、また羽毛が生へてることは鳥の様であるがの長いことは「とかげ」の様で、だれに見せても鳥とも「とかげ」とも鑑定かんていかぬものがある。あたか頂上ちょうじょうだけを見れば明かに二つある山も、その裾野すそこを調べると、何所どこで二山の境界きょうかいけていか分らぬ様になるのと同様である。天然てんねん分類ぶんるいさかいいことは、陸地りくちの表面にはただ山川の凸凹でこぼこがあるだけで、ぐんそん境界きょうかいがないのと同じである。またにじの色は七色たしかにあるが、其間そのかんには判然はんぜんさかいけることが出来ぬのと同じである。斯様かようなことに注意させるには博物はくぶつ学がもっと適当てきとうであらうと思ふ。
 以上いじょうただ博物はくぶつ学の範囲はんい内のことだけについべたのであるが、その考へをし広めて他のことにも当てめて見ると大にあやまりふせぐことが出来る。一体分類ぶんるいすると以上いじょう沢山たくさんあるものの間にさかいけなければならぬ。さかいけるには物の区域くいきを定めなければならぬ。この区域くいきふことは天然てんねんに明かにあるものか如何いかにかと考へて見るに、天然てんねんには決して判然はんぜんした区域くいきふものはい様に思はれる。其所そこ区域くいきを定めるのはただ人間が便宜上べんぎじょうすることである。簡単かんたんれいを取て見るに、一枚いちまいの紙には四方に判然はんぜんとした直線のさかいがある様に見へるが、これ顕微鏡けんびきょうで見ると紙の繊維せんいみだれた竹籔たけやぶごとくになつてる。それゆえこの紙の長さなり横幅よこはばなりを精密せいみつはかるには何所どこから何所までをはかつてよろしいやら分らぬ。また物指ものさしの方でもいく精密せいみつつくつてもはばい線を画くことは出来ぬから、一尺いっしゃくつても一尺いっしゃく何方側どちがわまでやら分らぬ。また通常つうじょう物の大さをふにも何尺なんしゃく何寸なんずん何分なんぶふてそれ以下いかの小数はりゃくして仕舞しまふがこれ便宜上べんぎじょうのことで、実際じっさいおいては奇麗きれい何寸なんすん何分なんぶで小数のかぬものはほとんんどわけである。されば日々我々われわれける物の境界きょうかいふものはみな便宜上べんぎじょう定めたもので、必要ひつよう以下いかのことはみな四捨五入ししゃごにゅう流に切りててかえりみないゆえ判然はんぜんとした様に見へるので、精密せいみつに調べると何のさかいでも決して判然はんぜんとしたものはないのである。またべつれいを取つて見るに、通常つうじょう人は何年何月何日の何時に生れたとつて生れた時を一点のごとくににんして話しをするが、精密せいみつに調べると、生れるとふには生まれ始まる時もあり、生まれ終る時もある。それゆえ其人そのひとの生れてからの命の長さを計るには何時いつからはかつてよろしいか分らぬ。斯様かようなことは如何様いかようでもよろしい様であるが場合によつてはこの問題の定め様につて随分ずいぶんいちじるしくちがつた結果けっかを生ずることがある。たとへばる人が子供こどもの生れつて生れ終らぬ時にその子供こどもころしたとすると、生れ始めたのを生れたと見ればこれ殺人犯さつじんはんになるからつみが重くなる。これに反して生れ終つたのを生れたと見ればこれ堕胎だたいになるから幾分いくぶんつみが軽くなる。またなお精密せいみつにして生れ始めたのを生れたとにんすと定めた所で、生れ始めるには生れ始め始めもあり生れ始め終りもあるから矢張やはり決して時の一点とするわけには行かず、いく精密せいみつにしても判然はんぜんさかいは中々けられるものではない。ただ平常へいじょう斯様かよう精密せいみつに調べる必要ひつようがないから、小数は四捨五入ししゃごにゅうりゃくして何時何分に生れたとしょうしてくのであるが、つねしょうしてるとついには知らず知らずに人の命のはじめには判然はんぜんさかいがある様な気がする様になつて仕舞しまふ。
 習慣しゅうかんふものは実におそろしいもので、る所に便宜上べんぎじょうさかいけていても、屡々しばしばこれを話したり聞いたりしてる間には知らず知らずかる境界きょうかい天然てんねん判然はんぜん存在そんざいしてる様な心持となり、ついにはかる境界きょうかい天然てんねん存在そんざいしてるものと断定だんていして、これ基礎きそとしてその先を議論ぎろんあやまりたる結論けつろんたつすることが往々おうおうある。習慣しゅうかんの力のいちじるしいれいを一つげて見るが、地球は丸いものであるからその表面の一点の位置いちあらはすには縦横じゅうおうの線を想像そうぞうし、これ標準ひょうじゅんとしなければならぬ。それゆえ地球の表面には経度けいど緯度いどの線が引いてあるが、我々われわれは全地球を一目に見ることは出来ず、ただ地球の代りに地球見馴みなれてゆえ習慣しゅうかんおそろしいもので地球の表面には何だか実際じっさい縦横じゅうおうすじついる様な気がして、このすじいと何だか地球らしく見えない。また大抵たいていの画には地球は北極ほっきょくを上に向けおよそ二十三度半ほど曲つてるが、これも全く地球から起つた習慣しゅうかんで、宇宙うちゅうの真中に地球が転がつてるときには上もければ下もなし、左も右も前も後も全く区別くべつはないわけである。しかるに南半球を上にして地球の画を書くと何だか地球が倒立とうりつをしてる様に思ふ。何事も斯様かよう理屈りくつであるが無形むけいてきのものを研究する学科をおさめるには、とく以上いじょうごとあやまちに落ち入らぬ様に注意することが必要ひつようである。

分類ぶんるいの真意


 何学科でも分類ぶんるいの入らぬものはいが、そもそ何故なぜ我々われわれ分類ぶんるいをするかとふに、これ我々われわれ脳髄のうずいさかい判然はんぜんしない種々しゅしゅのものを一塊いっかいまま了解りょうかいして仕舞しまふ力がないからである。あたかも物を食ふときに大きな物は一口に食へぬから片端かたっぱしから順々じゅんじゅんつて食ふのと同様である。大きな煎餅せんべいを食ふにらなければ食へぬと同じく、心理学でも教育学でもみな事柄ことがら分類ぶんるいして一つずつにしなければ了解りょかいが出来ぬ。しかしつねくする習慣しゅうかんくと前の地球れいと同じで、天然てんねん分類ぶんるいがあるかのごとくに感じ、自分でつた事柄ことがらに一々判然はんぜんした境界きょうかいがある様な気がするにいたり、ついにはかる境界きょうかい存在そんざいするものと断定だんていしてろんずる様になる。哲学てつがく倫理りんり学、心理学、教育学等の日々へぬ議論ぎろんの中には斯様かよう源因げんいんから起つたものが少なくい。仏教ぶっきょうの四苦(注:根本的な苦。生・老・病・死)だとか、五薀ごうん(注:人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。色、受、想、行、識)だとかわかちも教育学で六種ろくしゅ興味きょうみだとか、智育ちいく、体育、徳育とくいく区別くべつだとかふのも、みな上にべた意味に取れば間違まちがひはい。斯様かよう分類ぶんるいふことの真意をさとらせるには博物はくぶつ学を適当てきとう方法ほうほうで教へるのが一番である。

推理すいり力の養成ようせい


 次に博物はくぶつ教授きょうじゅによつて練磨れんま発達はったつせしむることの出来る脳力のうりょく推理すいりの力である。教育の書物などを読んで見ると博物はくぶつ学は観察かんさつ記載きさいの学問であるとか、分類ぶんるいの学問であるとか書いて、それ切りで終つてるのがあるが、博物はくぶつ学は決して左様なものではない。観察かんさつ実験じっけんによつてた所の智識ちしきこれ建築けんちくたとへてへば一つ々々の煉瓦れんがなりかわらなりの様なもので、これから用いようと材料ざいりょうぎない。また分類ぶんるいふのは斯様かよう智識ちしき整頓せいとんしてくので、建築けんちくたとへると赤い煉瓦れんが此所ここ、白い煉瓦れんが彼所あそこそろへてくのと同じである。いくら煉瓦れんがかわらを集め、これ整頓せいとんしても建築けんちくんだとはへないと同様で、観察かんさつ実験じっけんで集めた智識ちしき分類ぶんるい整頓せいとんしてくだけでは博物はくぶつ学とはへない。およそ科学と名のくものはみな第一には事実を調べ、次にそのて起る所の理由をさぐるをつとめとするものであるが、博物はくぶつ学のごときもその通りで、煉瓦れんがかわら適当てきとう方法ほうほうつみみ上げてはじめて一個いっこ建物たてものが出来ると同じく、観察かんさつ実験じっけんつて集めた材料ざいりょう推理すいりほうみ立て、源因げんいん結果けっかことわり幾分いくぶんあきらかにするをはじめて真の博物はくぶつ学とふことが出来るのである。しかして此際このさいに用いる推理すいりほうは主として所謂いわゆる帰納きのうてき推理すいりほうすな一個いっこ一個の事実をもととしそれより全体に通ずることわりもとめるほうである。ゆえ博物はくぶつ学を適当てきとう方法ほうほうつて教へれば帰納きのうてきに物をろんじて行く力を練磨れんま発達はったつせしめることが出来る。普通ふつう教育の学科の中には多少この種類しゅるい推理すいりほうを用いる学科がいではない。たとへば語学のごときも帰納きのうてき推理すいりの力を養成ようせいする方便ほうべんとして有効ゆうこうであるとく人があるが、博物はくぶつ学は有形の実物から帰納きのうてきに考へて行く学科であるからこの力を養成ようせいするには他の学科にくらべてはるかまさつてることはうたがひない。

空論くうろんくること


 くのごと博物はくぶつ学をおさめる間に帰納きのうてき推理すいりの力が発達はったつすれば自然しぜんに何をやるときにもこの論法ろんぽうしたがつて考へる習慣しゅうかんが出来て来る。これまた非常ひじょうに大切なことであると思ふ。何故なぜふに帰納きのうてき推理すいりほうでは現在げんざいの事実を集め、それより全体に通ずる理を考へ、結果けっかより源因げんいんさぐ方法ほうほうを取るからその結論けつろんにはあやまりがきわめて少ない。厳重げんじゅうこの論法ろんぽうを用いればその結論けつろん個々ここの事実に通じたるる広き事実をあらはすにぎないから、理論りろん実際じっさいとが全く一致いっちする。世の中には理論りろん実際じっさいとは丸で別物べつのもである様に考へてる人が多い様であるが、これは全く空理、空論くうろんが世の中に流行りゅうこうするからである。事実を正しく観察かんさつ調査ちょうさこれを集めて材料ざいりょうとして帰納きのうてきろんじて行けば、その結論けつろんすなわち事実であるから実際じっさい相違そういするわけはない。常識じょうしきまた普通識ふつうしきふのはすなわ現在げんざいの事実を材料ざいりょうとし帰納きのうてきろんじた結果けっかである。この常識じょうしきふものは一個人いちこじんの生活にも社会の発達はったつにもきわめて必要ひつようのものであるが、博物はくぶつ学にて帰納きのうてき推理すいり習慣しゅうかんつくる事につておおいこれを進めることが出来る。
 我国わがくにでは空理、空論くうろんが中々さかんである。そのれいげ始めたら切りがいがその源因げんいんみなもととなるべき事実を充分じゅうぶん観察かんさつしないゆえか、また論法ろんぽうぎゃくであつたり粗漏そろうであつたりするゆえである。もとより何事にも帰納きのうてき論法ろんぽうばかりで間に合ふものではない。現在げんざいある事実の源因げんいんさぐるには帰納きのうほうが主であるが、新に何物かを工夫くふう創造そうぞうするにはかなら帰納きのうほう結論けつろん個々ここの場合へ演繹えんえきてきろんおよぼさなければならぬ。しか源因げんいんより結果けっかし、一の原理より個々ここの場合へ考へおよぼす論法ろんぽう余程よほど鄭重ていちょうに考へぬとんでもない結論けつろんたつするのおそれがある。東海道膝栗毛ひざくりげふ書物の中に六部ろくぶじい懺悔ざんげ話しがあるが此種このしゅ論法ろんぽうあやまやすいことを明にしめしてる。その六部ろくぶは次のごとくに考へた。先づ東京すなわち昔の江戸えどへ来て見た所が毎日非常ひじょうに風がいて往来おうらいすなだらけである、すなへばかならず人々のすな這入はいつて盲目めくらになる人が大勢おおぜい出来るであらう、盲目めくらになれば体屈たいくつであるからかならず三味線を引くにちがひない、左様さようすれば三味線しゃみせん沢山たくさんるから、ねこみなころされるに定まつてる、ねこみなころされればねずみあばれ出して箱をのこらずきずつけるに相違そういないから箱商売を始めたらかなら非常ひじょうに大繁昌はんじょうをするであらうと考へて、箱を沢山たくさんに仕入れて店を出したが、一向売れなかつたゆえつくづく浮世うきよいやになつて六部ろくぶつたとのことである。これもとより一個いっこわらひ話しにぎないが、宗教しゅうきょう哲学てつがくや教育学のごと無形むけい事柄ことがらろんずる場合には随分ずいぶん右の話に負けぬ様な論法ろんぽうも少なくい様に見える。ことに青年時代には自分の考へた空理、空論くうろんを実行し様とよくするかたむきがあるが、常常つねづね事実を集め、これより帰納きのうてきろんじて行く習慣しゅうかんけてけば、たとへ一方で空理、空論くうろんを考へても、自分で自分の空理空論くうろん間違ちがつてることに気がき、それを其儘そのまま実行する様なあやまちをけることが出来る。この事はもっと現今げんこんの社会に必要ひつようであると思ふ。

迷信めいしんを打ちやぶること


 観察かんさつの力が進み推理すいりの力がして来れば多くの迷信めいしん打破うちやぶることが出来る。これまた中々必要ひつようのことである。抑々そもそも迷信めいしんふものはみな観察かんさつあやまりか推理すいりほう粗漏そろうなのにもとづくものであるから、常識じょうしきが進むにしたがひ空理空論くうろん間違まちがいに気がくと同じく観察かんさつ推理すいりの力が進めば迷信めいしん自然しぜんに消へるものである。今まで世の中の文明開化につて来た道筋みちすじかえりみるに、迷信めいしんを一つずつ打ちやぶつて一歩づつ進んで来た。現象げんしょうの起る源因げんいんを一つずつ発見し、前には偶然ぐうぜんに起ると考へた現象げんしょうもそれぞれ定まつた法則ほうそくしたがつて生ずるものであるとふことを次第しだい々々に発見し、一歩づつ進んで今日の有様にたつしたのであるから、一つ迷信めいしんを打ちやぶるのは一歩だけ文明の方向に進むことに当るとつてよろしい。もっと我々われわれ現在げんざいの有様を考へて見るとあたか暗闇くらやみの夜に薄暗うすぐらい小さな提灯ちょうちんを下げて徘徊はいかいしてる様な有様で、前も後も左も右もきわめて近い所の外は全く見えず、また自分の足元といえども精密せいみつには到底とうていわからない。智識ちしきの光をもつてららせば何事といえども明了めいりょうわからざるものなしと大声に演説えんぜつすれば、く者は愉快ゆかいを感じ、ふ者も得意とくいであるが、実はこれぼう利口りこうだとはれてうれしがる子供こども愉快ゆかいと同じで有つて全く一時の幻覚げんかくぎない。実際じっさい我々われわれ智識ちしきしょうする所のものは薄暗うすぐら提灯ちょうちんの様なものでただ足元のまわりをわずかだけてらし、大怪我けがなしに前へ歩るくことの出来るに足りるだけのものである。その証拠しょうこには如何いかなる問題でも少しく先までたずねると何時いつかならずわからずで仕舞しまいとなる。たとへば場所も少しく遠い所のことは全くわからぬ。時も少し昔のことは全たくわからぬ。未来みらいのことは尚更なおさらである。大きいことも際限さいげんへれば全たくわからず、小さいことも際限さいげんへれば全くわからぬ。されば我々われわれ智識ちしき周囲しゅういからわからぬことで取りかこまれてる。それゆえ全く迷信めいしんえることは到底とうていのぞむべからざることである。また源因げんいん結果けっか関係かんけいを考へてもその通りで、源因げんいん結果けっかふは相対あいたいした言葉で、一の事に対して源因げんいんであるものも他の事に向つては結果けっかである。その源因げんいんの起る源因げんいんは何であるか、その源因げんいんの起る源因げんいん源因げんいんは何であるかと順々じゅんじゅんたずねれば何所どこまでも際限さいげんはない。あたかも長いくさりの様なもので一つずつが前のに対しては結果けっかとなり次のに対しては源因げんいんとなつてあいつながつてるから、推理すいりほうつて一の現象げんしょうの起る理由、法則ほうそくを発見しても、またその源因げんいんは何であるかとふ問は依然いぜんとしてそんしてる。しか源因げんいん結果けっか源因げんいん結果けっかあいつらなつてくさりを一つでも先へ新しく発見すれば、それだけが人類じんるい領分りょうぶんになつた様なもので、現象げんしょう源因げんいんかれば我々われわれその現象げんしょうを自由に用ひて人間の幸福をし社会を進歩させることが出来る。たとへば落雷らくらいは電気の作用であるとふことがかればこれけることも出来る。鉄瓶てつびんふたの動くのは蒸気じょうきの力にるとふことがかれば、これ利用りようして車をまわさせることも出来る。それゆえ我々われわれは力をつくして源因げんいん結果けっかくさりを一つずつ先へとさぐもとめ、これ応用おうようして人生をえきすることをつとめなければならぬ。しかるにし世の中に迷信めいしんが流行し、迷信めいしん勢力せいりょくを有してると尽力じんりょくしてたる智識ちしきこれ応用おうようして社会をすることが出来ぬ。かる次第しだいであるから世の文明を進めるには一方では実際じっさい現象げんしょうを研究しさぐたる理法りほう応用おうようして世をえきすることをつとむるが必要ひつようであると同時に、他の方では此等これらの学理応用おうようさまたげとなる迷信めいしんを打ちやぶることがきわめて必要ひつようである。しかして迷信めいしんを打ちやぶるために観察かんさつの力や推理すいりの力を養成ようせいするには、適当てきとう方法ほうほうを用いて博物はくぶつ学をさずけることがはなは有効ゆうこうであると思ふ。
 以上いじょうろんじた所はみな博物はくぶつ学をさずくる間に煉磨れんま発達はったつせしむべき脳力のうりょく関係かんけいしたことばかりであるが、これから博物はくぶつ学の内容ないようの教育上の価値かちついべよう。これべるには先づこれを実用上の効用こうようと思想上の効用こうようとの二つに分けるが便利べんりである。

実用上の利益りえき


 我々われわれの生活に必要ひつようなる衣食住いしょくじゅう材料ざいりょういずれもこれ自然しぜん界より取るの外にいたし方なきものゆえ自然しぜん物を研究する博物はくぶつ学が我々われわれ日々の生活に対し実用上有効ゆうこうであることは無論むろんであるが、なおこれあきらかにするためにかく方面より一二のれいげて見るに、先づ農業、山林、水産すいさん等には博物はくぶつ学の研究が何より必要ひつようである。此等これら直接ちょくせつに植物を培養ばいようし動物をひて、それより利益りえきおさめるものであるから、その動植物の性質せいしつ構造こうぞうを知り、これがいする虫類むしるい菌類きんるいを研究して駆除くじょ方法ほうほうこうじ、これえきある虫類むしるい鳥類ちょうるい等を調べて保護ほごの道を考へねばならぬが、此等これらみな全く博物はくぶつてきの研究である。また工業についてもその通りで工業の材料ざいりょうみな天産物てんさんぶつであるが、中にも動植物から材料ざいりょうを取る工業や、醸造じょうぞう醗酵はっこうとうをなす場合には博物はくぶつてき研究の結果けっか応用おうようする事につてはじめて充分じゅうぶんに進歩して行くものである。さらに医学上、衛生えいせい上の事項じこういたつては博物はくぶつ学研究の必要ひつようなお一層いっそういちじるしい。人体の病気のみなもとなるものには生物がきわめて多く、人間に寄生きせいする虫類むしるいだけでも数百しゅあるから、やまいなお健康けんこうふくし病をさけ健康けんこうたもつつのほうこうずるには先づ此等これらの生物の習性しゅうせい構造こうぞう生活の状態じょうたい等から調べてらなければならぬ。当時非常ひじょう発達はったつして消毒しょうどく方法ほうほうごときも物の腐敗ふはいするは生物のはたらきに源因げんいんすると博物はくぶつてき学理を応用おうようしたものである。くのごと博物はくぶつ学研究の実用上の効用こうようすべての方面に中々多くあつて枚挙まいきょするひまはないほどである。

普通ふつう教育にてさずくべき事項じこう


 しか普通ふつう教育では専門家せんもんか養成ようせいするわけでないから普通ふつう教育中の博物はくぶつ学は決して直接ちょくせつかる実用上の利益りえきもとむべきものではない。ただ後になり実務じつむ従事じゅうじするに当り専門家せんもんかの話す学理がほどかるだけの素養そようが出来ればよろしいのである。それには動植物界の普通ふつうなる事実を一通り心得こころえさせ、生物界の組み立ちに正確せいかくなる考へを持たせることが必要ひつようである。地理科で地理上の事実をさずけ、歴史れきし科で歴史れきし上の事実をさずけると同じく、博物はくぶつ学科でも博物はくぶつ界の事実をさずけ、絹糸きぬいと如何いかな虫から何様なにようして取るか、木綿もめん如何いかな植物から何様して取るかとふ様な人生に直接ちょくせつ関係かんけいある事柄ことがらついてはことに注意してさずけなければならぬが、生物界の組み立てに正確せいかくな考へを持たす様にみちびくのはさら勘要かんようである。絶対ぜったいてき正確せいかくな考へを持たすことはもとより出来ぬが、時代相当の正確せいかくな考へを持たせなければ時代相当の学理の話しがわからず、したがつてその応用おうようはかどらぬわけゆへその時代相当の正確せいかくな考へを持たせることはきわめてのぞましいことである。たとへば生物は元来たねい所へ自然しぜんいて出るものでないとか、一種いっしゅの動植物は決して突然とつぜん他のしゅの動植物に変化へんかすることはい、して虫が草につたり竹が魚につたりすることは決して有りないことであるとか、または同じ所に住んでる動植物は生存せいぞんたがいあい関係かんけいしてるもので、其中そのなか一種いっしゅ増減ぞうげん等の変化へんかがあれば他のかく種類しゅるいへものこらず多少影響えいきょうおよんで行くもので、つねいちじるしい変化へんかの見えぬのはたがいの間の勢力せいりょく物質ぶっしつ出納すいとう平均へいきんしてるにるとふ様なことなどは是非ぜひともさとらせてかねばならぬ。
 斯様かよう普通ふつう教育で生物界にかんする正確せいかくなる観念かんねんあたへ、世間に生物学てきわけかりたる人が多くなれば、生物学上の学理を実地に応用おうようすることも容易よういとなり、社会をえきすること益々ますます多くなるべきはずである。それゆえ博物はくぶつ学科内容ないようの実用に対する教育上の価値かちも決して軽んずべからざるものである。

思想しそう上の利益りえき


 次ぎに博物はくぶつ内容ないよう我々われわれの思想上におよぼす影響えいきょうを考へて見るに、これきわめて大なるもので、の有名なる進化論しんかろんごときはほとんどすべての学科に大変化へんかおこしたほどである。博物はくぶつ学の材料ざいりょうから帰納きのうてき推理すいりほうつてみ立てた所の結論けつろんただ進化論しんかろんばかりではい、其他そのほかにも種々しゅしゅある。此等これら結論けつろん我々われわれの思想に如何いかなる影響えいきょうおよぼすかをくには、いきおひ一々其例そのれいげてろんじなければならぬが、此所ここにはただ二三のいちじるしいれいげてその一斑いっぱんべるだけに止める。

生物体にける新陳しんちん代謝たいしゃ


 たとへば生物は如何いかなるものでも生活してる間はつねに外界から物質ぶっしつを取りこれ自己じこの身体と同一なるものにつくあらためてるものである。これは生物は如何いかなるものでも生活してる間はへず身体のる部分が分解ぶんかい消耗しょうもうしてたれて行くからそれをおぎなつぐなつて、なお余分よぶんがあれば成長せいちょう生殖せいしょくして行くためである。それゆえ動物でも植物でも昨日きのう見た所と今日見た所と同じであるのは、水晶すいしょう方解石ほうかいせき結晶けっしょう昨日きのうままに今日も存在そんざいしてるのとは全たく存在そんざい為様しざまちがふ。鉱物こうぶつ結晶けっしょう存在そんざいしてるのはその内へ他から新しき物質ぶっしつ這入はいつて来ることもまたその内から古い物質ぶっしつが出て行くこともない。すなわ物質ぶっしつ其儘そのままに止まつて存在そんざいしてるが、生物の生活してる間はへず物質ぶっしつの入りかわりがあり、形はきゅうまま存在そんざいしててもその実質じっしつしばらくも止まらぬものである。これを生物体にける物質ぶっしつ新陳しんちん代謝たいしゃと名ける。これだけは生物界の個々ここ現象げんしょうから帰納きのうてき推理すいりした結論けつろんであるが、これから考へて見ると我々われわれの身体が去年見ても今年見てもほぼ同じであるのはあたかも水はへず流れきたり流れ去つてもかわの形はきゅうのままであるのと同様で、かわらぬものはただ形ばかりで実質じっしつつね新陳しんちん代謝たいしゃしてるのである。また生活のはたらきは如何いかかと考へて見るに我々われわれの身体へ這入はいて来る物質ぶっしつにも生活の力なく、我々われわれの身体から出て行く物質ぶっしつにも生活の力なく、生活の現象げんしょうあらはれるのはただ其間そのあいだの人間とふ形をそなへてる時だけである。して見ると生活と現象げんしょう物質ぶっしつる形をそなへてる間だけにあらはれるものゆえこれを前のれいくらべてへば流れ入る水にも流れ出る水にも岸のやなぎかげうつらぬが、その水が池とふ形をなしてる間だけその平らな表面にかげうつるのと同じとへるであらう。斯様かように考へて見ると精神せいしんだとかたましいだとかふものも、矢張やはり池の水にうつやなぎかげ同然どうぜんただ物質ぶっしつが集まつて人間とふ形をそなへてる間だけにあらはれる現象げんしょうではあるまいかとのねん自然しぜんに起る。その結果けっかとして霊魂れいこん不滅ふめつせつなどを聞いても容易よういしんぜられなくり、物質ぶっしつはなれてわれ存在そんざいすることをもうたがはしく思ふ様になつて来る。斯様かよう次第しだいであるから自然しぜん界の研究は少しく考へてかれば哲学てつがく宗教しゅうきょう親密しんみつ関係かんけいを有する様につて来る。しかして自然しぜん界の研究は実物の観察かんさつもととし帰納きのうてき推理すいりして行くものゆえはなはだしい空理空論くうろんに走るわずらいすくない。ゆえに何人も一通りは生物学の理論りろん承知しょうちしてることはのぞましいことであるが、こと無形むけいの学問をおさめんとする人には是非ぜひともこれ必要ひつようであらうと考へる。

生活する物質ぶっしつ始終しじゅうへざること


 また通常つうじょう世人は生物のかく個体こたいみな生れる時に始まり、死する時に終り、一個いっこごとに始めもあり終もあり、個々ここ独立どくりつ存在そんざいするごとくに話すが、実際じっさいを調べて見ると決してかるものではい。今生きてる生物個体こたいは元はかくその親なる生物個体こたいの一部分であつたのである。今生きてる生物個体こたいは行く行くは死んでくなつて仕舞しまふが、かく個体こたいの一部分は子孫しそんりて生きのこり、次の代の生物個体こたいとなる。子孫しそんとなるべき体部は子孫しそんの出来ぬ前より親の身体の一部として存在そんざいしてるものである。たとへば生れたばかりの子供こども解剖かいぼうして見ればその体の内にのちその子供こども子孫しそんとなるべき部分を見出すことが出来る。一個いっこの生物個体こたいの身体は決してその個体こたいの出来るときにはじめて生ずるものでない。すでその前より親の身体の内に存在そんざいするものであつて、その親の身体も元はその親の親の身体の一部をなしてたものである。それゆえ生物の体をせる生活物質ぶっしつ実際じっさいは代々連続れんぞくしてるもので、生物の始めより現今げんこんまで決して途中とちゅうへたことはい。へて言へば現今げんこん生きてかく個体こたいの身体はその祖先そせんの身体の直接ちょくせつの引きつづきである。個体こたいは代々生れては死にながらその生活物質ぶっしつ祖先そせんより直接ちょくせつ子孫しそん連続れんぞくして行く有様ありさまあたか一枚いちまいずつの葉は生じたりかれれ落ちたりながらみきは一直線に先へ先へと成長せいちょうして新しき葉を生ずるごとくである。それゆえ現在げんざい生きてる生物個体こたいかくきわめて長き歴史れきしを持てて、その歴史れきし結果けっかとして存在そんざいしてるものとはなければならぬ。これだけは生物界の個々の現象げんしょうから帰納きのうてきろんじた結論けつろんであるが、斯様かよう次第しだいであるから生物学の研究する生物界の現象げんしょうことごと歴史れきしてき元素げんそふくんでる。これが生物学が同じ理科中の物理学、化学等といちじるしく相違そういしてる点である。物理学、化学で取りあつかふ所のねつとか、光とか、分子とか、化合物とかふものには歴史れきしてき元素げんそが少しも這入はいつてない。たとへば酸素さんそのことを研究するにはただ現在げんざい酸素さんそなるものを取りさへすればよろしい。その酸素さんそ昨日きのう水銀とむすいて赤い色のかたまりしてたか、またはマンガンとむすいて黒いこなであつたかとふ事は少しも頓着とんちゃくするにおよばぬ。それゆえ物理学や化学の学理は時とふことに関係かんけいなしに、何時いつでも其儘そのままで通用するが、生物学の方では左様に簡単かんたんには行かぬ。生物学ではその取りあつかふ所のものが一個いっこ一個みな長い歴史れきし結果けっかであつて、各々おのおのて来た歴史れきしみなちがふにしたがひ、その結果けっかなるかく個体こたいにはそれぞれみな多少の相違そういがある。十人集まれば顔色も十種じゅっしゅあり量見りょけん十種じゅっしゅあるのは、此事このこと眼前がんぜんれいである。それゆえ生物学においては個々ここの事実から帰納きのうてきに理をしてろんずる時にも、またその結論けつろん実際じっさい応用おうようしようとふ時にもつねかならこの歴史れきしてき元素げんそ勘定かんじょうに入れて考へなければならぬ。この注意をおこたりかく生物個体こたい如何いかなる歴史れきして来たかとふことにかまひなく、生物界の現象げんしょう説明せつめいし、生物学の学理を応用おうようしようとすればかならず空理空論くうろんに落ちて到底とうてい充分じゅうぶん結果けっかることは出来ぬものである。
 人間の社会も生物界現象げんしょうの一部であるから、この社会の中で我々われわれつね出遇であう事柄ことがらみな歴史れきしてき元素げんそふくんでる。しかきわめて複雑ふくざつなる歴史れきしを有して事柄ことがらが多い。ゆえに社会の出来事に対しては充分じゅうぶんその歴史れきしを考へてらねばならぬ。その歴史れきし勘定かんじょうに入れずにたん現在げんざいの有様だけからろんじて処理しょりしようとこころみれば失敗しっぱいすることがきわめて多いものである。それゆえ今から世に出ようとふ人々を養成ようせいする普通ふつう教育では一通り歴史れきしてきの考へを入れて事物をろんずるの習慣しゅうかんつくることは、社会へ出る準備じゅんびとしてはなは有益ゆうえきである。とく経験けいけんも少なき青年時代の者は兎角とかくただ眼前がんぜんの事実より立論りつろんして、往々おうおう極端きょくたんなるせつを持ち出すのくせがありそのため失敗しっぱいするものも少なからぬ様に見えるから、在学ざいがく中よりかるへいふせぐの手段しゅだんとして歴史れきしてき元素げんそふくみたる推理すいりほうの実習をなさしめることはきわめてのぞましい。しかしてかる推理すいりほうは生物学にてつねに用いる所であるから、此点このてんからつても生物学の思想上におよぼす影響えいきょうは決して僅少きんしょうではいと考へる。

生物の進化


 去る第十九世紀せいき中にもっとも人間の思想上に大影響えいきょうおよぼし、生物に関係かんけいせるしょ学科の革命かくめいを引き起した議論ぎろんはダーウィンの生物進化のせつである。これは中々の大諭たいろんであるから、此所ここその大意をべるわけには行かぬが、普通ふつう教育と大関係かんけいがある様に思はれるから、其点そのてんだけをげて見るに、先づ第一には生物進化の事実と、生物進化にかんする議論ぎろんとを区別くべつして考へなければならぬ。生物進化の事実は生物界に起る現象げんしょうを広く集めて帰納きのうてきろんじた結果けっかであるから、ただ広く通じる事実であつて、決して、人の思ひいた理論りろんではない。これは実物を取つて生物を調べて見ればだれでも直接ちょくせつに見ることの出来るものゆえうたがはうと思つても到底とうていうたがふことの出来ぬものである。これうたがふものは全く生物界の事実を知らぬからである。それゆえ現今げんこんの所ではいやしくも生物学をおさめた者で生物進化の事実をうたがふ者は一人もない有様である。また生物進化にかんする議論ぎろんとは、生物進化の事実は如何いかなる源因げんいんり、如何いかなる条件じょうけんの下に、如何いかなる具合に生じたものであるかとふ様に生物進化の事実のよつて起る所を説明せつめいしようとこころみるもので、これにはいま不充分ふじゅうぶんな所が沢山たくさんにある。
 一個いっこ一個の生物進化の事実を集め、これ総括そうかつし生物界全体に当てめてろんずると次のごとき考へにたつする。すなわち生物のかく種類しゅるいは決して開闢かいびゃく(注:天と地が初めてできた時)の昔より未来みらい永劫えいごう形状けいじょう性質せいしつかわらぬものではない。一代と次の代との間には目立つほど相違そういは見えぬが、数千代すうせんだい、数万代あるい数億代すうおくだいと代を重ねる間に自然しぜん形状けいじょう性質せいしつともに変化へんかし、また同一の祖先そせんよりも種々しゅしゅことなりたる外界の有様にてきせる種々しゅしゅことなりたる子孫しそんを生じ、ついに今日見るごとき有様の生物界を生じたのであらう。されば現在げんざいの生物各種かくしゅみなたがいに多少血縁けつえんつながりあるものにて、形状けいじょう性質せいしつあいたるものほどたがい血縁けつえんの近きものと考へねばならぬ。人間も生物の一である以上いじょうこの規則きそくれず、形状けいじょうもっとたる「さる」るいとはもっとも近き親類しんるいにて「いぬ」「ねこ」とも、いずれ昔しは同一の祖先そせんより起り出たるものなりとろんずるより外にいたし方なし。
 また生物進化の事実を説明せつめいするためにダーウィン自然しぜん淘汰とうたせつを出したが、此説このせつもととする遺伝いでん変質へんしつ等の現象げんしょう実際じっさい目前に見へる事実で、生物増加ぞうか割合わりあいおよその結果けっかとして起る所の生存せいぞん競争きょうそうふこともまたうたがふべからざることであるから、此等これらの事実の上にてたる自然しぜん淘汰とうたせつ最早もはや事実とみとめてよろしいものである。此事このことついては異論いろんとなへる生物学者はほとんどい。当今学者の相駁あいばく相弁あいべんじて議論ぎろんこれよりなお一段いちだん先きのことで、たとへば生物進化の現象げんしょう自然しぜん淘汰とうたのみにて説明せつめいが出来るか、また自然しぜん淘汰とうた以外いがいにも生物進化の原動力があるかとか、遺伝いでんとは如何いかにして起る現象げんしょうであるかとか、変質へんしつ源因げんいん法則ほうそく如何いかであるかとかふ様な問題についてである。此等これらの問題に対してはただ沢山たくさん仮想かそうせつがあるだけでいまたしかかな解答かいとうは一つもゆえ普通ふつう教育とは直接ちょくせつ関係かんけいはない。元来がんらい我々われわれ智識ちしきは四方からわからぬことでかこまれていずれの方面へ向つても少し研究を進めて行けばたちまちからぬことに衝突しょうとつするものゆえ、そこへたつすると事実の調べがまぬ内、材料ざいりょういま充分じゅうぶんに集まらぬ内に、人は仮想かそうせつを考へ出して、あたへられたる問題を解釈かいしゃくせんとつとめるのである。実着じっちゃくに考へた仮想かそうせつは研究の鉾先ほこさき有望ゆうぼうな方向に向はせ、したが学術がくじゅつの進歩をうながすのこうがあるから専門せんもん学者に取つては中々有益ゆうえきなものであるが、これ専門せんもん学者だけにかんしたことで普通ふつう教育には近い関係かんけいい様であるから此所ここには此等これら仮想かそうせつついてはべる必要ひつようい。
 普通ふつう教育とふものは時代相当でなければならぬ。地動説ちどうせつたしかつた後に普通ふつう教育で天動説てんどうせつさずけるのは時代おくれであると同じく、生物進化の事実のたしかかつてる二十世紀せいきの今日に進化論しんかろんの大意をさずけぬのは大に時代おくれである。最早もはや今日の有様では生物進化論しんかろんの大意を承知しょうちすることは普通ふつうの教育ある人のかならず有すべき資格しかくと見てよろしからうと考へる。当今とうこん出版しゅっぱんになる書物や雑誌ざっしには進化論しんかろんのことが引き合ひにることがすこぶる多いが、その元なる進化論しんかろんの大意を知つてなければ充分じゅうぶんこれ了解りょうかいすることが出来ぬ。また進化論しんかろんが世に出てから多くの学科のおもむきあらたまり、進化論しんかろんしたがつて組み立て直した様なものもある。心理学でも、社会学でも、教育学でも多少進化論しんかろん影響えいきょうこうむつて変化へんかして来た。ゆえに新しく出来た此等これらの学科の書物を読み学ぶには進化論しんかろん素養そよう是非ぜひ必要ひつようである。
 くのごと進化論しんかろんの大意を承知しょうちすることは勉学上にも入用であるが、進化論しんかろんの大意を知つてから社会一般いっぱん事物じぶつ観察かんさつして見ると大に考へ方がかわつて来る。先づ自然しぜん界にける人間の位置いちふことについての考へが大に公平になつて来て、人間をもつ宇宙うちゅう間にただ一種いっしゅ他の生物とは全くことなりたる霊妙れいみょう不思議ふしぎなものと思はず、人間も他の生物と同様に、同じ進化の規則きそくしたがひ同じ様な道筋みちすじを通つて今日の姿すがたまでに進んで来たものと考へる様になり、したがつて人間のあたいを高く見過みすぎることをまぬがれる。我々われわれの身体を解剖かいぼうして見ると所々方々しょしょほうぼう進化論しんかろんらねばその意味を了解りょうかいすることの出来ぬ構造こうぞうを見出すが、これよりして考へて見ると、我々われわれ精神せいしんてき作用の器官きかんともふべき脳髄のうずい矢張やはり進化の結果けっか今日見るごときものにつたとより思はれぬ。此事このことは一方人間胎児たいじのうの発生を取り調べ、一方人間ののう禽獣きんじゅう虫魚ちゅうぎょのうとを比較ひかくして見ると実にあきらかうたがふことが出来ぬ様になる。すなわち人間ののうは決して幾億年いくおくねんの昔より今の通りで有つたわけではく、はじめは形も小く構造こうぞう簡単かんたんそのはたらきのごときもきわめて粗末そまつであつたらうと思はれる不完全ふかんぜんなものから、次第しだい次第に進化しついに今日我々われわれの持ちごとき大形にして複雑ふくざつなものにつたと考へねばならぬ。さて斯様かように考へて見ると我々われわれ脳髄のうずい不完全ふかんぜんなものから次第しだいに進んで来たものであるから、今日の有様をもつ絶対ぜったい完全かんぜんであるやいなやをうたがはねばならぬ。未来みらいのことはもとよりたしかにはわからぬが日蝕にっしょく月蝕げっしょく予報よほうがそれぞれ当るを見れば、既往きおうのことを調べそのことの起る規則きそくさぐり知れば、これつて未来みらいのことを多少予言の出来ぬことはない。脳髄のうずいついて考へて見るに、今まで進化して次第しだい々々に複雑ふくざつ完全かんぜんつて来たものとすれば、今より後も生活の状態じょうたいいちじるしき変化へんかなき以上いじょう矢張やはり同じ方向に向つて進化して行くであらうとさつするより外にいたし方がい。し今より後もなおますます進化して行くものとすれば、現今げんこん我々われわれの持つて脳髄のうずいは進歩の中程なかほどるのであるから決して絶対ぜったいてき完全かんぜんとはへぬ理屈りくつである。しからばそのはたらきなる精神せいしんてき作用も決して完全かんぜん無欠むけつであるとの断言だんげんは出来ぬ。
 以上いじょうごとき考へを持つにいたれば、自分の脳力のうりょくだけを用いてあみみ出した理屈りくつもつ万世ばんせ不易ふえき真理しんりだなどと披露ひろうする事は到底とうてい出来なくなり、また他人のろんずる所をもつ万世ばんせ不易ふえきの真理だと信仰しんこうすることも到底とうてい出来なくなる。したが脳力のうりょくだけを用いて考へ出した理屈りくつ観察かんさつり集めた材料ざいりょうから帰納きのうてきろんじてたつした常識じょうしき衝突しょうとつする場合には常識じょうしきの方を取つて、しばら理屈りくつの方をひかへ、おもむろそのあやまりの起つた源因げんいんさぐる様になり、脳力のうりょくばかりをたのみにしてり出した理屈りくつ其儘そのまま実行する様なことがくなる。かる次第しだいであるから進化論しんかろん適当てきとう方法ほうほうさずくれば常識じょうしき発達はったつさせる助ともなるものである。此事このこととく無形むけいの学科をおさめる人々に必要ひつようである。何故なぜへば無形むけいの学科では研究の方法ほうほうただ自分の脳力のうりょくばかりにるの外にはないのであるから、はじめからのうの力を完全かんぜん無欠むけつと思つてかかると、常識じょうしきと正反対の結論けつろんたつした時に常識じょうしきの方をててわがみ出した理屈りくつの方に執着しゅうちゃくする。かる人が大勢おおぜいあり、かることが度重なると世間からは学者とふものは迂遠うえんなものである、学理とふものは実際じっさいとは反対のものであるなどと評判ひょうばんが起り、実物を研究する学科までが往々おうおうそのへとなつて世間からけいして遠ざけられる様になり、学理の応用おうようふことも自然しぜん妨害ぼうがいを受けることとなる。これは実に残念ざんねんなこととはなければならぬ。
 進化論しんかろんもととして人間の脳力のうりょくのことを考へて見るに、脳髄のうずいすべて他の器官きかんと同じく、生存せいぞん競争きょうそうくわはるには此位このくらい発達はったつしなければならぬとふ所まで発達はったつして、決していちじるしく其以上それいじょう余分よぶん発達はったつしたものではない。ゆえいずれの脳力のうりょくでもみな生存せいぞん競争きょうそう必要ひつようなる程度ていどまでには発達はったつしてるが、中々はるか其以上それいじょう発達はったつする余裕よゆうからうと思はれる。しかおよそ一の作用をつとめるためにはその器官きかんにはその作用をつとめることが出来るだけの一定の構造こうぞうければならぬ。しかして一定の構造こうぞうを有すればその器官きかんその構造こうぞうを用いて出来る他のはたらきをもつとめることをる。たとへば味噌みそするるためには摺子木すりこぎは長きぼうの形をしてなければならぬが、ぼうの形をして以上いじょう摺子木すりこぎ一種いっしゅぼうとして他の役に用いることが出来ると同じく、生存せいぞん競争きょうそう必要ひつようなる推理すいりはたらきをるため脳髄のうずいの中にこれ必要ひつような一定の構造こうぞう発達はったつすれば、この構造こうぞうを用いて生存せいぞん競争きょうそう以外いがい推理すいりをもすことが出来る。脳髄のうずいが今の有様までに発達はったつしたのは生存せいぞん競争きょうそう上の必要ひつようから起つたのであるが、発達はったつした以上いじょうこれ生存せいぞん競争きょうそう直接ちょくせつ関係かんけいなき方面にも用いることが出来る。直接ちょくせつ生存せいぞん競争きょうそう関係かんけいなきのうはたらきはおそらく斯様かような意味のものであらうかと考へる。宗教しゅうきょう哲学てつがくごときものものうかるはたらきの結果けっかであると見れば、決してまよむにいたらずしてしか充分じゅうぶんに研究することが出来るであらう。
 少し横道の話しであるが教育のにんに当る人を養成ようせいするには是非ぜひとも生物学の大体を教へ生物進化の理を一通りさとらせて必要ひつようがあらうと思ふ。その理由は外でもない、常識じょうしき養成ようせいするにはこれきわめて有効ゆうこうであらうと考へるからである。従来じゅうらいの教育学や教授きょうじゅほうは多くはる人が自己じこ脳力のうりょくばかりをたよりにしてみ出した心理学や倫理りんり学からり出したもので、実際じっさいの事実から帰納きのうてきろんじた所が少ないゆえ理論りろんとしてははなは高尚こうしょうなものでもあらうが常識じょうしきからは少しく遠ざかると思はれる所も少なくない。それゆえ現今げんこんの様な時代には一方で教育学や教授きょうじゅほう理論りろんさずけると同時に、他の方では出来るだけ常識じょうしき養成ようせいして理論りろんへんし形式に拘泥こうでいすることのい様に注意しなければならぬ。就中なかんずく教授きょうじゅほうなどは同様に養成ようせいされたものが大勢おおぜい集まり毎日同様な模型もけいしたがつて教授きょうじゅしてると、習慣しゅうかん結果けっかその模型もけいらなければ教授きょうじゅほうでない様な気になり、あたか肴屋さかなやが自分のなまぐ[#「魚+星」、U+9BF9]さいのに気がかぬと同じく、他人から見ると余程よほど常識じょうしきに外れてる様に思はれる事でも当人等は平気でこれを実行するにいたるのおそれがある。これふせぐには実物から帰納きのうてきろんじて行く習慣しゅうかんつくるがもっと有効ゆうこうで、これをなすには博物はくぶつ学がもっと適当てきとうである。

徳育とくいくとの関係かんけい


 博物はくぶつ学の教育上の価値かちろんじたものを見ると、博物はくぶつ学をおさめると天然てんねん物をあいするねんが起り、したがつて倫理りんりてき養成ようせいのために大にこうが有ると書いてあるのが多い。多数の人がろんずる所から考へるとこのせつにも多少り所があるにちがからうが、博物はくぶつばかりが特別とくべつ倫理りんりてき養成ようせい関係かんけいが有るとはへぬ。元来倫理りんりてき養成ようせいには理屈りくつき聞かすことも必用ひつようであるが、それよりも模範もはんしめすのがもっとも大切である。教員自身の行ひが高尚こうしょう純潔じゅんけつければいくら口ばかりで講釈こうしゃくしてもかに子供こどもに横にふなとひ聞かすのと同じで何のえきにもならぬ。されば倫理りんりてき養成ようせいのためには校長をはじめ教員一同力をあわせてこれに当り、各自かくじ生徒せいとの手本となる気でなければ中々こうそうするものではない。しかしてその上でかく学科を受持つ教員がかくその学科の性質せいしつおうじてこれ倫理りんりてき養成ようせい目的もくてきに向け用いる様に心掛こころがければ多少の効能こうのうは有るであらうが、たん博物はくぶつ学の内容ないようさずけて自然しぜん界の美妙びみょうなる所を感服せしめ、それで倫理りんりてき効能こうのうあらはれるのを待つ様では全く何の役にも立たぬ。もっとも生物界の現象げんしょうには我々われわれの教へとなるべき事実は決して少なくない。寄生きせい生活のために性質せいしつ退化たいかすること、勉強の必要ひつようなること、耐忍にんたい力の大切なること、愛国心あいこくしんくべからざることなど数へ始めたら切りはいが、此等これらみな修身しゅうしんの教員がへず話して聞かししか通常つうじょうは一向に効能こうのうあらはれぬ所のものである。つまる所倫理りんりてき養成ようせい効果こうかあらはれるとあらはれぬは全く生徒せいとが教員等に敬服けいふくしてるかないかにつて定まることで、中々口で講釈こうしゃくする事柄ことがらだけにるのではない。それゆえ博物はくぶつ担当たんとうの教員が生徒せいと倫理りんりてき養成ようせいつい心掛こころがくべきことは他の学科担当たんとうの教員と全く同様で有つてよろしからうと思ふ。実は博物はくぶつ学をおさめてつね天然てんねん物にれたとてかなら天然てんねん物をあいする様になるやらならぬやらわからず、またかり天然てんねん物をあいする様になつた所で、それが悪念あくねんの生ずるをふせぐものか左様でないかこれたしかにはわからぬものゆえ博物はくぶつ学をおさめると天然てんねん物をあいするのねんが生じ、したがつて倫理りんりてき養成ようせいこうが有ると一項いっこうきわめて薄弱はくじゃくせつではないかとうたがつてるのである。

結論けつろん


 以上いじょうべたる所を結論けつろんすれば、博物はくぶつ学の教育上の価値かちは第一観察かんさつ力を煉磨れんまし、軽々しく事をしんずるのへいふせぎ、第二には分類ぶんるい整頓せいとんの力を養成ようせいあわせて分類ぶんるいの真意をさとらしめ、第三には帰納きのうてき推理すいり習慣しゅうかんつくりて空論くうろんに落ちることをふせぎ、常識じょうしき発達はったつせしめるにある。此等これらみな博物はくぶつ学をさずくる間に煉磨れんますべき脳力のうりょくかんしたことであるが、なお博物はくぶつ内容ないようの教育上の価値かちぐれば、第四には実用上の利益りえきで生物学の理論りろん応用おうよう了解りょうかいするに足るだけの素養そようつくり、第五には思想上の利益りえき人類じんるい観念かんねんを公平にするにある。くのごと博物はくぶつ学の教育上の効用こうようきわめて広いものであるが此等これらこうことごとあらはるるやいなやは全く教員其人そのひとおよ教授きょうじゅほう如何いかるとつてよろしい。
 しからば博物はくぶつ学を担当たんとうする教員は如何いかなる資格しかくそなへてなければならぬかとふに、普通ふつう智識ちしきを一通りたくわへてる上に博物はくぶつ学上の智識ちしき余程よほど充分じゅうぶんに持つてることが必要ひつようである。書物を読んでおぼえ、他人から聞いておぼえた智識ちしきばかりでなしに実物から直接ちょくせつ智識ちしき充分じゅうぶんに持つてることが必要ひつようである。普通ふつう教育でさずくべき博物はくぶつ学上の事項じこうもとより容易よういなことばかりであるが、これさずくる教員自身がようやくそれだけより知らぬ様なことでは到底とうていこれさずくることは出来ぬ。教員は教へることの十倍も二十倍も知つてはじめて充分じゅうぶんに教へることが出来るのである。教育学に通じ所謂いわゆる教授きょうじゅほう心得こころえることもすこぶる結構ではあるが、肝心かんじん教授きょうじゅすべきたね不充分ふじゅうぶんであつては折角せっかく教授きょうじゅほうもちい様がない。それゆえ博物はくぶつ担当たんとうの教員としては何よりも受持ちの学科につい充分じゅうぶんなる智識ちしきを持つてることが必要ひつようである。充分じゅうぶんなる智識ちしきさへあれば常識じょうしきもつ適当てきとう教授きょうじゅほう工夫くふうすることは決して困難こんなんではないと思ふ。
 博物はくぶつ学のごとき学科は、やすく教へるには余程よほど充分じゅうぶんなる学力をようする。学力の不充分ふじゅうぶんなる教員ほどその教へることが生徒せいとにはむつかしく聞こえる。これ一寸ちょっと聞くと理に合はぬ様であるが実際じっさい実物をろんずる学科であるから実物を広く研究した人は目前にある普通ふつうの実物に対しても説明せつめい差支さしつかへぬが、実物についての研究の足りぬ人はただ書物をたよりとし、偶々たまたま敷衍ふえんしてく所も他の書物からの受次にぎぬから目前にある普通ふつうの実物とはえんが遠いゆえそれでむつかしいのである。博物はくぶつ学を教育上有効ゆうこうならしめるには教員が生徒せいとわかやすく手近い学理を教へるだけの学力を持つてることが是非ぜひ必要ひつようであるが、これが中々容易よういなことではない。しか充分じゅうぶんに学力のある教員が博物はくぶつ学を普通ふつう教育の一部として考へ、常識じょうしきりて工夫くふうしたる適当てきとうなる教授きょうじゅほうしたがひてこれさずくるときは、本書にべたるだけの効能こうのう充分じゅうぶんあらはすことが出来るべきはずであると思ふ。
 なお教育上に博物はくぶつ学の効能こうのういちじるしくあらはれるかあらはれぬかは博物はくぶつ学科の時間わり配当のてき不適ふてきによつておおいちがふ。此書このしょげた通り博物はくぶつ学の教育上の効益こうえき種々しゅしゅあるがその種々しゅしゅ効益こうえきあらはれる度はこれを受くる生徒せいと年齢ねんれい学力に大関係かんけいがあるものゆえ博物はくぶつ学科中の各部かくぶ生徒せいと年齢ねんれい学力にじゅんかくその適当てきとうなる年級に配当することが必要ひつようである。たとへば観察かんさつ力を養成ようせいするために一個いっこ一個の実物の外部を実験じっけんさせるには中学一年級くらい生徒せいと適当てきとうで、生理学実験じっけんのために動物の内部構造こうぞうを調べさせるにはなお二三年も進んだ所が適当てきとうであらう。また生物進化論しんかろんの大意をさずけるには中学五年級の生徒せいとくらいでなければ到底とうてい充分じゅうぶんこれ了解りょうかいする力があるまい。斯様かよう次第しだいであるから時間わり配当がよろしくなければ到底とうてい博物はくぶつ学の教育上の効果こうか充分じゅうぶんおさめめることは出来ぬ。しかし学科の配当のことは主として当局者の考へにて定まることであつて、担当たんとうの教員はただゆるされたるせま範囲はんい内で多少の加減かげんをすることが出来るだけであるから、此事このことついてはただ当局者の充分じゅうぶんに注意することを希望きぼうするより外にはいたし方がない。
 以上いじょうべたる所は主として普通ふつう教育中の上半すなわち中学校程度ていどの部についろんじたのであるが、小学校程度ていどてもる度までは理屈りくつは同じである。もとより年の行かぬ小さな子供こどもには推理すいりの力も弱くまた抽象ちゅうしょうてきのことを理解りかいするだけには頭も発達はったつしてないから此等これらのことはのぞかねばならぬが、実物から観察かんさつせしめ記載きさいせしむることの利益りえきべつかわりはない。博物はくぶつ学とふ名前は小学校の課程かていの中にはいが博物はくぶつ学の材料ざいりょうは読本の中にも多くあり、作文の題となることも屡々しばしばあるから、其様そのようなときには矢張やはり博物はくぶつ学の教育上の価値かちを考へ博物はくぶつ学の特性とくせい利用りようして観察かんさつの力をやしな確信かくしんの道を開きて生徒せいと脳力のうりょく発達はったつを計る様に心掛こころがけたら其効そのこうは決して少なくはあるまい。






底本:「近代日本思想大系 9 丘浅次郎集」筑摩書房
   1974(昭和49)年9月20日 初版第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1901(明治34)年12月 『教育と博物学』「東京開成館」
校正:
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●表記について

「魚+星」    U+9BF9


●図書カード

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