民種改善学の実際価値

　ここに民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学というのは、近来西洋諸国（しょこく）で盛（さか）んに用いられるEugenicsという字を訳（やく）したものである。この字には善種（ぜんしゅ）学とか、優良（ゆうりょう）種族（しゅぞく）学とか、人種（じんしゅ）改良（かいりょう）学とかいう訳語（やくご）もあるが、私（わたし）は数年前から、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学という字をあてて、これが最（もっと）も適当（てきとう）と考えるから、そのまま用いることにした。この学問は有名なチャールス・ダーウィンの従弟（じゅうてい）にあたるフランシス・ゴルトンの唱（とな）え出したところであるが、この人は今より十年前に「法律（ほうりつ）にも感情（かんじょう）にもさからわずに人間種族（しゅぞく）の改良（かいりょう）のでき得（う）べきこと」という題で一回の講演（こうえん）をした。またそれから三年を経（へ）てユージェニックスと題する小さい書物を書いて民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学の範囲（はんい）、目的（もくてき）、方法（ほうほう）等を明らかに述（の）べたが、これによってユージェニックスという語が定められ、一般（いっぱん）に用いられることになった。ゴルトンは若（わか）いときから種々（しゅしゅ）の方面の学問研究に骨折（ほねお）った人で、特（とく）に遺伝（いでん）に関（かん）して古人のまだ言わなかった新しい学説（がくせつ）を出して学者間に重んぜられていたが、ユージェニックスという語を造（つく）ったのみならず、ロンドン大学のあるところに自分の費用（ひよう）で、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学の研究所を創立（そうりつ）し、専門（せんもん）家にそれぞれ研究せしめて、その研究の報告（ほうこく）の公（おおやけ）にせられたものが今日までにすでに十五、六冊（さつ）も出ている。その他英国（えいこく）には民種（みんしゅ）改善（かいぜん）教育協会（きょうかい）というものもできて、これからはやや通俗（つうぞく）的（てき）に書いた雑誌（ざっし）を発行して、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学に関（かん）する知識（ちしき）を普及（ふきゅう）することをつとめている。ドイツでは近来人種（じんしゅ）の衛生（えいせい）ということをやかましく唱（とな）えるようになったが、これも民種（みんしゅ）改善（かいぜん）とほぼ同じ意味の語である。ゴルトンは今年一月十七日に日本流の勘定（かんじょう）にすると九十歳（さい）の高齢（こうれい）で死んだが、その遺言（ゆいごん）によって、ロンドン大学に民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学の講座（こうざ）が新たに設（もう）けられたということである。かような次第（しだい）で、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）という学問はきわめて新しいにかかわらず非常（ひじょう）な速力で評判（ひょうばん）が高くなり、近ごろは多少流行的（てき）に盛（さか）んに唱（とな）えられているが、今日東京で流行する縞柄（しまがら）が数ヵ月の後（のち）にはへんぴな地方へも流行しおよぶごとくに、西洋でやかましく唱（とな）えられる学説（がくせつ）が、数年遅（おく）れて日本で隆盛（りゅうせい）をきわめることは従来（じゅうらい）の例（れい）によっても確（たし）かであるゆえ、おそらく民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学もここ一、二年の間には、わが国でも急に盛（さか）んに唱（とな）えられ、どの雑誌（ざっし）を見ても、かならず一つや二つのこの学に関（かん）する論文（ろんぶん）を見るときがくるであろう。しかして従来（じゅうらい）の例（れい）によると、わが国ではいかなる学説（がくせつ）でも盛（さか）んに流行する間は、だれもかれもこれを唱（とな）えるが、半年か一年の後には全くこれを忘（わす）れて顧（かえり）みるものもなくなるのが規則（きそく）のごとくであるが、その原因（げんいん）をたずねると、一は国民性（こくみんせい）のしからしむるところで、とうてい避（さ）くべからざることかもしれぬが、一は流行の当時にその学説（がくせつ）の真価（しんか）をきわめず、無暗（むやみ）にありがたがって買いかぶり過（す）ぎるに基（もと）づくようである。およそ学説（がくせつ）として世に公（おおやけ）にせられるほどのものならば、みな相当の理屈（りくつ）のあるはもちろんのことで、その点だけを聞くといかにももっともに思われるから、その真価（しんか）を判断（はんだん）するだけの眼識（がんしき）のない輩（やから）はたちまちこれに雷同（らいどう）して、一時はその説（せつ）が天下を風靡（ふうび）するというありさまになる。しかしながらこれを実地に応用（おうよう）してみると、もとより予期しただけの効果が現われるはずはないゆえ、暫時（ざんじ）にして前の反対に、その学説（がくせつ）の全部を捨（す）てて顧（かえり）みぬようになるのである。純粋（じゅんすい）な理論（りろん）上の学説（がくせつ）で、実際（じっさい）の生活社会と縁（えん）の遠いものならば、いかなる学説（がくせつ）が流行し、いかなる学説（がくせつ）が衰（おとろ）えようともあえて問うにおよばぬが、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学のごときわが民族（みんぞく）の将来（しょうらい）に偉大（いだい）な影響（えいきょう）を生ずべき実際（じっさい）的（てき）の学問が、他の学説（がくせつ）と同様に一時流行してのちにたちまち忘（わす）れられるようではまことに遺憾（いかん）であるゆえ、いまだ流行の盛（さか）んにならぬうちにその実際（じっさい）価値（かち）を冷静（れいせい）に論（ろん）じて、流行後、たちまち捨（す）てられるごときことを防（ふせ）ぐの一助としたいと思う。
　人種（じんしゅ）を改良（かいりょう）しようということは、今から二十数年前にわが国でも一度唱（とな）えられたことがあったが、その時の人種（じんしゅ）改良（かいりょう）は、日本人よりもまさった西洋人と雑婚（ざっこん）して西洋人の血を日本人に加（くわ）えて、人種（じんしゅ）を良（よ）くしようという考えであった。これは西洋風の舞踏（ぶとう）が奨励（しょうれい）せられ、日本語の発音にも西洋人をまねるほどに、万事西洋を崇拝（すうはい）した心酔（しんすい）時代であったゆえで、その後はもはやこのようなことを論（ろん）ずる人はなくなった。このたび唱（とな）えられる民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学も、人間を改良（かいりょう）することを目的（もくてき）とするのであるが、昔の人種（じんしゅ）改良（かいりょう）論（ろん）とはまったく違（ちが）うて、外国から良（よ）い人種（じんしゅ）を連（つ）れてきて雑種（ざっしゅ）を造（つく）るのではなく、在来（じゅうらい）の人間の中から身体、精神（せいしん）ともに優良（ゆうりょう）で、次代の国民（こくみん）を造（つく）るに最（もっと）も適当（てきとう）なりと認（みと）められる人々だけに生殖（せいしょく）せしめ、身体精神（せいしん）ともに劣等（れっとう）で、必（かなら）ず劣等（れっとう）な子孫（しそん）を遺（のこ）すに相違（そうい）ないと思われる人々には生殖（せいしょく）をさせぬようにして、一代ごとに漸々（ぜんぜん）人間の種族（しゅぞく）を改善（かいぜん）してゆこうという考えに基（もと）づいたもので、一言で言えば、生物学上の理（ことわり）を人類（じんるい）社会に応用（おうよう）しようと企（くわだ）てるのである。十九世紀（せいき）の後半における生物学研究の結果（けっか）として、生物の進化ということが確実（かくじつ）になって以来（いらい）、人の飼養（しよう）し、培養（ばいよう）する動植物は、この理（ことわり）に従（したが）うて盛（さか）んに改良（かいりょう）せられ、比較（ひかく）的（てき）短い年月の間にすでに驚（おどろ）くべき結果（けっか）を得（え）ている。中にも北米カリフォルニア州のバーバンクという人のごときは、種々（しゅしゅ）の植物を人為（じんい）的（てき）に改良（かいりょう）して、刺（とげ）のないシャボテンまでも造（つく）りだした。かくのごとく、動物でも植物でも、一代ごとに種（たね）を選（えら）んで生殖（せいしょく）せしめさえすれば、その種類（しゅるい）を改良（かいりょう）することは必（かなら）ずできるのであるから、動物の一種（いっしゅ）なる人間もむろんこの方法（ほうほう）によって改良（かいりょう）のできるはずである。民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学はこの根本の理屈（りくつ）を基（もと）として、実際（じっさい）の社会にこの理（ことわり）を応用（おうよう）すべき途（みち）を講究（こうきゅう）する学問であるが、これにはまず遺伝（いでん）の現象（げんしょう）を研究して、その法則（ほうそく）を採（と）り求（もと）めることが必要（ひつよう）である。それゆえ今日、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）に関（かん）する研究といえば大部分は遺伝（いでん）の研究である。ロンドンの民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学研究所から出した報告（ほうこく）のごときもそのとおりである。
　さて人間が社会を造（つく）り国家をなして多数相対立している以上（いじょう）は、身体、精神（せいしん）の優良（ゆうりょう）なることは何よりも大切である。他にいかにすぐれた点があるとしても、身体および精神（せいしん）の健康（けんこう）状態（じょうたい）が他国の人に比（ひ）して劣（おと）っていては、今後の列国競争（きょうそう）場裡（じょうり）に有利（ゆうり）なる位置（いち）を占（し）めるべき見込（みこ）みはない。されば、身体精神（せいしん）の健康（けんこう）いかんということは、国家、民族（みんぞく）にとって最（もっと）も重大な問題であるが、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学は学理の示（しめ）すところに従（したが）うて、その向上をはかるものであるゆえ、政治（せいじ）の局（きょく）にあたる者も教育に従事（じゅうじ）する者も、一日もゆるがせにすべからざる性質（せいしつ）の学科といわねばならぬ。近来この学が西洋諸国（しょこく）で非常（ひじょう）にやかましく唱（とな）えられているのはそれゆえである。
　民種（みんしゅ）の改善（かいぜん）をはかるには、なにゆえにまず詳細（しょうさい）に遺伝（いでん）の現象（げんしょう）を研究する必要（ひつよう）があるかというに、人間の身体および精神（せいしん）に現（あら）われる種々（しゅしゅ）の欠点（けってん）の中には、子孫（しそん）に遺伝（いでん）するものと、遺伝（いでん）せぬものとがある。子孫（しそん）に遺伝（いでん）せぬものは、その欠点（けってん）が親一代限（かぎ）りで消えて子に伝（つた）わらぬから、別（べつ）にその欠点（けってん）のある者の生殖（せいしょく）をとめる必要（ひつよう）はないが、子孫（しそん）にかならず伝（つた）わると定まった病を有する者は、厳重（げんじゅう）にその繁殖（はんしょく）を防（ふせ）がねばならぬ。また病気自身が遺伝（いでん）せずとも、その病気にかかりやすい素質（すじょう）が遺伝（いでん）すればその子孫（しそん）は多くはその病気にかかるゆえ、病気が遺伝（いでん）したも同様である。果樹（かじゅ）の苗（なえ）を仕立てるときに、病（やまい）にかかった苗（なえ）を見いだせばみなこれを焼（や）き捨（す）てるが、これは最（もっと）も完全（かんぜん）な方法（ほうほう）で、もし人間にもこの方法（ほうほう）が行なわれたならば、数代をいでずして人類（じんるい）の病気を大部分根絶（こんぜつ）することができるであろう。されば、身体についても精神（せいしん）についても、いかなる病気、いかなる奇形（きけい）は子孫（しそん）に遺伝（いでん）するかを研究して、確（たし）かに遺伝（いでん）すると定まったものに対しては、その生殖（せいしょく）を取り締（し）まる必要（ひつよう）がある。かくのごとく一方では、国民（こくみん）の身体、精神（せいしん）ともに平均（へいきん）の状態（じょうたい）を漸々（ぜんぜん）高めてゆくことをはかると同時に、十万人に一人とか百万人に一人とか、きわめてまれに現（あら）われる異常（いじょう）の天才についてもよくその系統（けいとう）を調べ、これによって天才の現（あら）われる原因（げんいん）、機会（きかい）等を研究し、もし天才の現（あら）われる場合を予期することができたならば、これに適当（てきとう）な境遇（きょうぐう）を与（あた）えて全国民（こくみん）のために、その偉大（いだい）なる能力（のうりょく）を発揮（はっき）せしめることをはからねばならぬが、これまた遺伝（いでん）現象（げんしょう）の研究に待つほかはない。
　以上（いじょう）述（の）べたとおり、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学の基（もと）づくところの理屈（りくつ）はきわめて明瞭（めいりょう）で、もし適当（てきとう）な方法（ほうほう）が考え出され一般（いっぱん）に実行せられたならば、国民（こくみん）の身体、精神（せいしん）ともに次第（しだい）に改善（かいぜん）せらるべきは毫（ごう）も疑（うたが）いないことである。また今日ただちに実行しうべき方法（ほうほう）も多少ないこともない。現（げん）に北米合衆国（がっしゅうこく）の多くの州では、すでに種々（しゅしゅ）の法律（ほうりつ）を設（もう）けて、遺伝（いでん）性（せい）の病気のある者の生殖（せいしょく）を制限（せいげん）している。例（たと）えば、精神（せいしん）病にかかった者は全治（ぜんち）してもなお三年間は結婚（けっこん）を禁（きん）ずるとか、医師（いし）の証明（しょうめい）書がなければ結婚（けっこん）をゆるさぬとか、癲癇（てんかん）や常習（じょうしゅう）的（てき）酒呑（さけの）みには結婚（けっこん）をさせぬとかいうごとき規則（きそく）の設（もう）けてあるところがすこぶる多い。このような種類（しゅるい）の規則（きそく）ならば、別（べつ）に今日の社会の組織（そしき）や政治（せいじ）の仕組みを改（あらた）めなくてもただちに行なうことができる。
　民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学の立場から現今（げんこん）の社会の状態（じょうたい）を見ると、はなはだ遺憾（いかん）に思われることが少なからず行なわれている。医は仁術（じんじつ）なりというが、もし進歩した医術（いじゅつ）の力によって、先天的（てき）にきわめて虚弱（きょじゃく）な体質（たいしつ）を有する者を助け生存（せいぞん）せしめ生殖（せいしょく）せしめて、さらに虚弱（きょじゃく）なる子を遺（のこ）させるごときことがあったならば、決して次代の国民（こくみん）に対して仁（じん）なりとはいわれぬ。次代の国民（こくみん）はかかる虚弱（きょじゃく）な厄介（やっかい）者を引き受けたるために、各自（かくじ）の負担（ふたん）が重くなり、かえって医術（いじゅつ）の進まなかった昔を慕（した）うかもしれぬ。慈善（じぜん）はもとより結構（けっこう）なことであるが、単（たん）に目前の感情（かんじょう）に動かされて、社会的（てき）生存（せいぞん）に適（てき）せぬ精神（せいしん）上の不具者（ふぐしゃ）を憐（あわれ）み助けて生殖（せいしょく）せしめ、さらにいっそうの不具者（ふぐしゃ）を遺（のこ）させるごときことがあったならば、これまた決して次代の国民（こくみん）に対して慈悲（じひ）なりとはいわれぬ。次代の国民（こくみん）はかかる不具者（ふぐしゃ）の存（そん）するために非常（ひじょう）な迷惑（めいわく）をこうむり、かえって先代の残酷（ざんこく）なる慈悲（じひ）をのろうかもしれぬ。その他財産（ざいさん）、門閥（もんばつ）等の関係（かんけい）から、虚弱（きょじゃく）な愚物（おろかもの）が生存（せいぞん）し繁殖（はんしょく）し、身体、精神（せいしん）ともに、それよりはるかにまさった者がかえって生活難（なん）のために子を遺（のこ）し得（え）ぬこともつねに見るところであるが、これらも純粋（じゅんすい）に民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学の上のみからいうと何とかして位置（いち）を取りかえてやりたいものである。要（よう）するに今日の民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学はまだ単（たん）に実験（じっけん）、観察（かんさつ）、統計（とうけい）によって遺伝（いでん）の現象（げんしょう）を精密（せいみつ）に調べているだけで、ただちに実行のできる事項（じこう）ははなはだ少ない。もし民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学の要求（ようきゅう）するところが全部実行せられたならば、人間も他の動植物と同じく、比較（ひかく）的（てき）短い年月の間にいちじるしく改良（かいりょう）のできるべきはむろんであるが、社会の制度（せいど）が大体において現今（げんこん）のままである以上（いじょう）は、これはとうてい実現（げんじつ）の望（のぞ）みのない空想に過（す）ぎぬ。しかして実際（じっさい）行なわれうべきことは、わずかに今日アメリカの諸州（しょしゅう）で実施（じっし）しているごとき結婚（けっこん）に関（かん）する取締（とりしま）りくらいだけであろうが、これだけでも励行（れいこう）さえすれば相当の効果（こうか）はあらわれるはずである。近年の統計（とうけい）によると、文明諸国（しょこく）では精神（せいしん）病者、自殺（じさつ）者、犯罪（はんざい）者等の数が年々増加（ぞうか）して、人間の平均（へいきん）の状態（じょうたい）がたしかに退化（たいか）するようであるゆえ、各国（かっこく）ともに退化（たいか）問題が学者間にやかましいが、今後の列国競争（きょうそう）場裡（じょうり）に独立（どくりつ）の国民（こくみん）として立ってゆくには、一刻（いっこく）でもわが種族（しゅぞく）の退化（たいか）を防（ふせ）ぎ、一歩でも他の種族（しゅぞく）にまさった状態（じょうたい）に踏（ふ）みとどまるようにつとめねばならぬが、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学の要求（ようきゅう）するところは、たとい一部分でも行なわれさえすればかならず、それだけの効能（こうのう）はあろう。前に民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学は民族（みんぞく）の将来（しょうらい）に関（かん）してきわめて重要（じゅうよう）な学問であると言うたのはすなわちこの意味においてである。
　およそいかなる学説（がくせつ）でも、その実際（じっさい）の価値（かち）を判断（はんだん）するにはまずその説（せつ）の実行のできる範囲（はんい）を考えてかからねばならぬ。いかによく考えられた学説（がくせつ）でも、とうてい実行のできぬものならば、その実際（じっさい）の価値（かち）は皆無（かいむ）である。民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学のごときも、その理屈（りくつ）はきわめて明瞭（めいりょう）で、もし行なわれさえすれば、いちじるしく効果（こうか）のあがるべきは確（たし）かであるが、社会の制度（せいど）が今日のままであり人間の性質（せいしつ）が今日のままである間は、実行のできる範囲（はんい）ははなはだ狭（せま）からざるをえず、したがって最初（さいしょ）その効能（こうのう）を過重視（かじゅうし）する者は後にいたってかならず失望（しつぼう）するをまぬがれぬ。結婚（けっこん）に関（かん）する取締（とりしま）りのごときも、人間の性質（せいしつ）が一変（いっぺん）して次代の国民（こくみん）のためには何物を犠牲（ぎせい）に供（きょう）するもあえて辞（じ）せぬというようにならぬ以上（いじょう）は、充分（じゅうぶん）な効果（こうか）を予期することはできぬ。内縁（ないえん）の夫婦（ふふ）が何の制裁（せいさい）もなく子孫（しそん）を遺（のこ）しうる社会では、公（おおやけ）の結婚（けっこん）を取り締（し）まったとて、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）のための効能（こうのう）はまことに少ないに違（ちが）いない。しかしながらこれとても、種々（しゅしゅ）の方面からあるいは教えあるいは責（せ）めて、できるだけ実行を促（うなが）したならば、やはりそれだけの効能（こうのう）は現（あら）われるであろうから、その基礎（きそ）となるべき事項（じこう）を学術（がくじゅつ）的（てき）に精密（せいみつ）に研究する必要（ひつよう）は充分（じゅうぶん）にある。人類（じんるい）およびその他の生物における遺伝（いでん）の現象（げんしょう）を調査（ちょうさ）し、その結果（けっか）に基（もと）づいて自己（じこ）の種族（しゅぞく）の退化（たいか）を防（ふせ）ぐことは実に今日における急務（きゅうむ）であって、不充分（ふじゅうぶん）ながらもこれを除（のぞ）いては他に良法（りょうほう）は決してない。
　以上（いじょう）述（の）べたのは決して今日西洋諸国（しょこく）で盛（さか）んに唱（とな）えられている民種（みんしゅ）改善（かいぜん）の価値（かち）を軽んじたわけではない。わが民族（みんぞく）の将来（しょうらい）にとって重大な影響（えいきょう）をおよぼすべき学問であると信（しん）ずるゆえ、近くその流行を見る際（さい）に、初（はじ）めこれを過重視（かじゅうし）したちまちにしてこれを捨（す）て去るごとき人のなるべく少なからんことを希望（きぼう）するのあまり、その実際（じっさい）の真価（しんか）について考えるところを簡単（かんたん）に述（の）べただけである。