人間生活の矛盾

丘浅次郎





 今日の世の中ほど人間のすることがたがいに矛盾むじゅんした時代はかつてあったであろうか。新聞紙は世間を写すかがみであるというが、日々の新聞に出て来る記事をくらべて見ると、実にあい矛盾むじゅんすることばかりである。賭博とばく最中さいちゅう警官けいかんんで数名をとらえたという記事にならんで、十円の債券さいけんで千円の割増金わりましきんをかち仕合しあわせ者の肖像しょうぞうが出ている。わずか十円の才覚さいかく(注:すばやく頭をはたらかせて物事に対応する能力)ができぬために母子三人が水にんだというこうとなりに、何とかの茶碗ちゃわんが一万円で売れたと書いてある。一方で支那しなの有名な小説しょうせつ忠実ちゅうじつ翻訳ほんやくすると、他方では風俗ふうぞくがいするからというてその発売をし止める、兵式へいしき教師きょうし国防こくぼうゆるがせ(注:物事をいいかげんにするさま)にすべからざることをくと、学生らは国際こくさい精神せいしんに反するというてこれを排斥はいせきする。ダンスがはやれば、剣舞けんぶおどろかし、祭りの寄附金きふきんを出さぬと御輿みこしで店先をこわす。数え上げたら際限さいげんがないほどに人間社会は矛盾むじゅんちているが、さて、一体これは何故なぜであるか。かような世の中へ生れて来てはじめから世の中はかようなものと思うている人々には何の不思議ふしぎでもないかも知れぬが、少しく生物学でもおさめて、他の社会生活をいとなむ動物の生活状態じょうたい見聞けんぶんした者にとっては、これはたしかに大いなる疑問ぎもんである。
 わたしはこの問題をくために、いろいろと考えた結果けっか、すでに二十年ほど前に一つの学説がくせつを思いいた。その要点ようてん掻摘かいつまんでいえば、次のごとくである。人間は原始時代にはみな、今日の野蛮人やばんじんや多くの猿類えんるいのごとくに小さな団体だんたいつくって相たたかうていた。まさった団体だんたいが勝ってさかえ、おとった団体だんたいけてほろびることがえずり返されている間には、自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして、社会本能ほんのう階級かいきゅう本能ほんのうのような人間の団体だんたい生活に必要ひつよう本能ほんのう(注:動物個体こたいが、学習・条件じょうけん反射はんしゃ経験けいけんによらず、生まれつきに持つ行動様式)が次第しだい発達はったつした。ここに社会本能ほんのうというのは、生れながらに社会奉仕ほうしをせずにいられぬという本能ほんのうで、階級本能ほんのうというのは生れながらに目上の者をあがめずにはいられぬという本能ほんのうである。これまで団体だんたいてき精神せいしんとか服従ふくじゅう本能ほんのうとかとなえてきたが、誤解ごかいまねおそれがあることに心付こころづいたから右のごとくに名をあらためる。さて、団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうたがつづくかぎりは、これらの本能ほんのうはどこまでも発達はったつするはずであったところ、人間だけは他の動物とちがうて、何ごとをするにも道具をもちゆるために、人間の団体だんたいはその後、次第しだいに大きくなり、ついにあまり大きくなりぎて、団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつした。その結果けっかとして、以上いじょう本能ほんのう次第しだい退化たいかするをまぬがなかったが、社会本能ほんのう退化たいかすれば人は自己じこ本位ほんいとなり、階級本能ほんのう退化たいかすれば人は自由解放かいほう要求ようきゅうする。団体だんたい生活をする者の一人一人が自己じこ本位ほんいになり、階級制度せいどおさまっていた世の中に自由解放かいほうさけぶ者が出て来ては、いずれの方面にも矛盾むじゅんずるのは当然とうぜんで、時のるとともに、矛盾むじゅんがだんだんいちじるしくなり、ついに今日の状態じょうたいまでにたつしたのである。
 以上いじょうわたし懐手ふところで式に思いついた学説がくせつで、根拠こんきょもすこぶる薄弱はくじゃくであることは、わたし自身も充分じゅうぶん承知しょうちしているから、そのあやまりであることがわかりさえすれば、いつでもこれを引込ひっこめるつもりである、今まではなはだ簡単かんたんながら何回か発表したことはあるが、あまり人のよろこぶような目出めでたいせつでもないゆえ、たいがいは黙殺もくさつせられた、ただ小野俊一しゅんいち君、川村多実二たみじ君、土田しげる君などが、その存在そんざいみとめて反駁はんばくしてくださったにぎぬ。しかして、これらの諸君しょくんの反対せつを読んでみてもわたしせつあやまりであることがわたしにはさらに納得なっとくができぬのみか、日々見聞みききする事件じけんはことごとくわたしせつ裏書うらがきするように思われ、人間生活に矛盾むじゅんの多い理由は、わたしせつによればきわめて容易ようい了解りょかいができるが、わたしせつによらねばほとんど解釈かいしゃく仕方しかたがないように感ぜられるゆえ、なお一度要点ようてんだけを披露ひろうしてみようかと考えたのである。
 前にべた概略がいりゃくからでも知れるとおり、わたし学説がくせつは、自然しぜん淘汰とうたせつもととして、その上に自身独創どくそうせつみ立てたものであるから、もしも自然しぜん淘汰とうたせつり立たぬものと定まれば、わたしせつ当然とうぜんたおれてしまう。また、自然しぜん淘汰とうたせつみとめるとしても、人間の団体だんたいが大きくなりぎて、団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつし、そのため社会本能ほんのうや階級本能ほんのう退化たいかしたというわたし独創どくそうせつに対しては、無論むろん反対の考えを持つ人もあるであろう。されば、わたし学説がくせつは、あたかも二階つくりの建築物けんちくぶつのごときもので、一階がくずされれば無論むろん全部がたおれる、また二階だけをこわして一階をのこすこともできる。とにかく、一階がなければ、二階をその上にせることができぬゆえ、議論ぎろん順序じゅんじょとして、まず何故なぜわたし自然しぜん淘汰とうたせつを、もっともたしからしい仮説かせつとして採用さいようするかをべる。


 世の中にはいま生物せいぶつ進化しんかろん自然しぜん淘汰とうたせつとを混同こんどうしている人さえある。生物進化ろんとは生物の各種かくしゅは長い間には次第しだい変化へんかするもので、のち子孫しそんくらべるとはじめの先祖せんぞは大いにちがうていたととなえるろんであるが、このことは今日ではもはやたしかな事実として知られ、後日にいたってまたくつがえされるようなことはけっしてない。アメリカのある州では昨年さくねんの春から、これを学校で教えることをきんじたが、ちょうど地動説ちどうせつを教えてはならぬというのと同じで、いずれも事実である以上いじょうは、とうていおさえ通すことはできぬ、生物進化の事実を知るにいたったのは、生物学が次第しだいに進歩し来った結果けっかであるから、だれせつなどと名づくべき性質せいしつのものではないが、自然しぜん淘汰とうたせつの方はこれとちがい、生物進化の事実のって起る理由を説明せつめいするためにダーウィンが考え出したせつであるゆえ、これはダーウィンせつしょうして差支さしつかえはない。十人十色というて人の考え方は一人一人でちがうから、ダーウィンのせつに対して反対の考えを持ち自説じせつを発表する人も無論むろんあるわけで、実際じっさい今日までに幾人いくにんもあった。しかし、かような学説がくせつがいくつあって、たがいに相たたかうていても、またその中のどれが勝って、どれがけても、生物の進化という事実に何の影響えいきょうおよぼさぬはいうまでもない。先日どこかで「ダーウィンの生物進化ろんほうむる」という演題えんだいを見たが、この中には、二つのあやまりがふくまれてある。第一には「ダーウィンの生物進化ろん」であるが、前にべたとおり、生物進化の事実は生物学の進歩によって次第しだいに知りたことで、今日ではけっしてろんなどと名づくべき性質せいしつのものでない。第二には「生物進化ろんほうむる」であるが、生物の進化はすでにあった事実であるから、これをほうむって、なかったものとすることはだれにもできぬ。これをほうむると考えるのは、ただ無智むちな者だけである。「ダーウィンの自然しぜん淘汰とうたせつほうむる」ならば演題えんだいとしては正しく、かつ実際じっさいに、そのとおりの意見を持っている学者も幾人いくにんかあろう。
 自然しぜん淘汰とうた大要たいようは今日たいがいの人が知っているからくわしく説明せつめいする必要ひつようはないが、その骨子こっしだけをかいつまんでいうと、このせつは、遺伝いでん変異へんい淘汰とうたとの三つの事実をみとめて、その上に立つものである。遺伝いでんとは子が親にることで、これは目前の事実である。変異へんいとは同じ親から生れた兄弟でもかならず少しずつちがうことで、これまた目前の事実である。のこるところは淘汰とうただけであるが、これは生物の蕃殖はんしょくするりつと、実際じっさいに生きのこ子供こどもの数とをくらべ、生存せいぞんには競争きょうそうともない、まさった者が勝ちおとった者がけて、多数の中から少数のもっともまさった者だけが生きのこると推断すいだんした結論けつろんである。さて、これだけの事実があるとすれば、これにもとづいて生物の進化し来った道筋みちすじ容易たやす説明せつめいすることができる。たとえば、ここに何疋なんびきかのうさぎがいて、おおかみに追われたとすると、足のおそいものはみなころされて、もっとも足の速いものだけが生きのこる。これが子を生めば遺伝いでんによって足の速いという性質せいしつを子につたえるが、子供こども同士どうしの間には変異へんいによって多少の優劣ゆうれつがあり、足の大いに速いものと少しく速いものとができる。これらがまたおおかみに追われると、またもっとも足の速いものだけが生きのこって、その性質せいしつを子につたえる。かようなことが何代もつづけば、一代ごとの変化へんかはいささかであるとしても、終には重なっていちじるしい相違そういあらわれ、先祖せんぞくらべると子孫しそんの方がはるかに足の速いものになる理窟りくつである。
 以上いじょう簡単かんたん説明せつめいするために想像そうぞうれいげたのであって、すべての場合が、このとおりに簡単かんたんなわけではけっしてないが、このせつは、はじめて聞くと、いかにももっともに思われ、とくに動植物に一般いっぱんに見られる適応てきおう性質せいしつ発達はったつし来った因縁いんねん心持こころもちよく了解りょかいすることができるので、生物学者仲間なかまからは非常ひじょうに歓迎かんげいせられ、一時は学界を風靡ふうび(注:風が草木をなびかせるように、多くの者をなびき従わせること)するいきおいであった。適応てきおう性質せいしつとは、各種かくしゅの動植物が、その生活状態じょうたいおうじてそなえた必要ひつよう性質せいしつで、つねにてきに追われるうさぎの足が速いのも、生きた鳥を取って食うたかつめくちばしとがするどいのも、の上に住むさるが手足でえだにぎるのも、海中を泳ぐくじらが魚のごとき形をしているのもそのれいである。適応てきおう性質せいしつそなえていねば生きてはいられぬゆえ、いかなる動植物でもこの性質せいしつを持たぬものはないが、これが自然しぜん淘汰とうたせつ面白おもしろかれたゆえ、このせつはしばらくは極度きょくどに持てはやされ、生物進化の現象げんしょうは、このせつのみでことごとく説明せつめいせられるというて、自然しぜん淘汰とうた万能ばんのうとなえる学者までができた。しかし何ごとも極端きょくたんに走ると、かならず反対者があらわれるもので、自然しぜん淘汰とうたせつに対しても、その後種々しゅしゅ攻撃こうげきの声が起り、何か新しい学説がくせつが発表せられるごとに自然しぜん淘汰とうたせつ根底こんていからくつがえされたという評判ひょうばんが立ち、アメリカの新聞などで見るとすでに何回ほうむり去られたかわからぬ。しからば、このせつは今日ではいかなる状態じょうたいにあるかというに、イギリス、フランス、ドイツなどの代表てき動物学者の最近さいきん著書ちょしょ講演こうえんからさつすると、事の大小軽重を慎重しんちょう吟味ぎんみしてせつを立てる落ちいた学者たちは今でも充分じゅうぶんにその価値かちみとめ、これをてては、その代りとなるべき学説がくせつはないと考えているようである。


 わたしは今から二十二年前にちょした『進化論しんかろん講話こうわ』にも書いていたとおり、自然しぜん淘汰とうたせつをもってもっとも真実に近い仮説かせつみとめ、自然しぜん淘汰とうたをもって、生物進化の起った原因げんいんの中のはなはだ重大なものと考えている。しかしすでに同書の中にもことわっておいたとおり、わたし自然しぜん淘汰とうたをもって生物進化の唯一ゆいつ原因げんいんとは思わぬ。かりに一対の動物があって、代々二疋にひきずつの子を生み、生れた子がみな育って、少しの淘汰とうたもなしに、子孫しそん連綿れんめんとつづいたとしても、長い間には次第しだいかわって行くであろうと考える。このことについては、横道にわたるゆえ、今はろんずるのを見合せ、たんわたしが今もなお自然しぜん淘汰とうたせつる理由をいうてみると、それはいまだこのせつに代るべき適当てきとう学説がくせつを見出さぬからである。わたしはこの方面には大いに興味きょうみを持っているから、ことなったせつが発表せられるごとにかならずこれを読んでみたが、いまだ一回も、そのために自然しぜん淘汰とうたせつてねばならぬと感じたことはない。
 多くの場合には、論者ろんじゃがこのせつをあまりせまく考えたり、誤解ごかいしたりしているのであって、もしもしんにこれを了解りょかいしていたならば、何もかれこれというにおよばず、双方そうほうを両立させていて何の差支さしつかえもないと思うた。自然しぜん淘汰とうたせつてると説明せつめいのできなくなる現象げんしょうが生物界には無数むすうにある。前にべたいわゆる適応てきおう性質せいしつはことごとくそれであるが、代々まさったもののみが生きのこって、その性質せいしつを子につたえたとすれば各種かくしゅの動物にえさを取る装置そうちや、てきからのがれる能力のうりょくがよく発達はったつしているのは当然とうぜんと思われ、漠然ばくぜんながらも、一応いちおうはわけがわかったような心持ちがする。これに反して、もしも自然しぜん淘汰とうたというようなことが全くなかったとすれば、木の葉と寸分すんぶんちがわぬ木の葉蝶このはちょうや、くわえだと少しも見分けがつかぬ枝尺取えだしゃくとりなどのごとき、無心むしんながらたくみにてきの目をくらましているものがいかにしてしょうじたやら、全く不可思議ふかしぎというの外はない。
 また、自然しぜん淘汰とうたせつ以上いじょうは、生存せいぞん競争きょうそうさい勝敗しょうはい標準ひょうじゅんとなった性質せいしつ次第しだい発達はったつし来ったとろんずるがごとくに、勝敗しょうはい標準ひょうじゅんとならなかった性質せいしつはだんだん退化たいかし来ったとみなされねばならぬが、その実例じつれいと思われるものは数多く知られてある。おそろしいてきがいないために必要ひつようのない所では、鳥のつばさ優劣ゆうれつ勝敗しょうはい標準ひょうじゅんとならぬが、かような鳥のつばさ次第しだい退化たいかする。げんにニュージーランドの鴫駝鳥しぎだちょうつばさはかくしてほとんど見えぬほどに小さくなってしまった。年中真闇まっくら洞穴どうけつの中では優劣ゆうれつ勝敗しょうはい標準ひょうじゅんとならぬが、かような所に住む動物は次第しだい退化たいかする。アメリカのマンモスどうに住む盲魚もうぎょめくらエビはかくしてついうしなうにいたった。このようなれいはなおいくつでもげることができるが、これらから見ると、淘汰とうたが行なわれぬ場合には、今まで淘汰とうたによって発達はったつし来った性質せいしつもたちまち退化たいかし始めるのが、生物界に通じた規則きそくであるごとくに思われる。
 なおここに一つ自然しぜん淘汰とうたせつ関連かんれんしてわたしが数年前に考え出したことがある。だれいまだ発表したことのない、全くわたし自身の独創どくそうてきの考えであるゆえ、本来ならば充分じゅうぶんに思想をまとめてから専門学せんもんがく上の報告ほうこくとして公けにすべきはずであるが、ちょうどよい機会きかいであるから一言その要点ようてんだけをここにべる。それは自然しぜん淘汰とうたとホルモン(注:生体内の特定とくてい器官きかんはたらきを調節ちょうせつするための情報じょうほう伝達でんたつにな物質ぶっしつ)との関係かんけいについてである。動物の身体各部かくぶの間には思いがけぬ関係かんけいがあって、ある器官きかん変化へんかが起ると、遠くへだたった所にいちじるしい影響えいきょうおよぼすことがまれでない。たとえば、男の子のわかうち睾丸こうがんを切りのぞくと、成長せいちょうしてもひげが生えぬ。牡鹿おじかならば角が生ぜぬ。甲状腺こうじょうせん不完全ふかんぜんであると赤んぼうがいつまでも大きくならず、下垂体かすいたい異常いじょう発達はったつすると手足ばかりが無暗むやみに大きくなる。胸線きょうせんが早く変質へんしつすると、五六歳ごろくさい子供こどもが大人のとおりに成熟せいじゅくし、副腎ふくじん故障こしょうがあると、皮膚ひふ色素しきそたまって、唐金色からかねいろ(注:青銅せいどう色。どうすずとの合金の色)になる。これらはみなホルモンのはたらきによることで、ひげつのが生えるのは睾丸こうがんの中にできたホルモンが血液けつえきとともにあごひたいまでまわって行きそこの組織そしき刺戟しげきするからであり、子供こどもが身体の小さい中に早くも大人のごとくに成熟せいじゅくすることのないのは、胸線きょうせんつくったホルモンが生殖線せいしょくせんまでたつして、その早熟そうじゅく制止せいししているからである。かように、全身の成長せいちょうも、一部の発達はったつも、付属物ふぞくぶつ形状けいじょうも、皮膚ひふの色も、みなホルモンの司配しはいをうけ、あるいは促進そくしんせられあるいは抑制よくせいせられている。されば自然しぜん淘汰とうたによってある性質せいしつ発達はったつするという場合には、多くはそれと同時に、その性質せいしつ発達はったつうながしたホルモンを生ずる器官きかん発達はったつもしくは、その発達はったつめていたホルモンを生ずる器官きかん退化たいかを意味する。ここに一種いっしゅ獣類じゅうるいがあって、その獣類じゅうるいにとっては、つのの大きなことがたとえば生存せいぞん競争きょうそう上に有利ゆうりであったと仮定かていすると、長い間には自然しぜん淘汰とうたによって角は次第しだいに大きくなるのであろうが、それと同時に角の発達はったつうながしたホルモンを生ずる器官きかん発達はったつし、角の発達はったつをその程度ていどまでに止めさせていたホルモンを生ずる器官きかん退化たいかする。いくら角の大きいのが競争きょうそうに勝つに都合つごうがよいというても、これにはもとより際限さいげんがあることで、ある程度ていどたつした後には、これ以上いじょうに大きくなることはかえって生存せいぞん不利益ふりえきになる。普通ふつう自然しぜん淘汰とうただけではけっしてある器官きかん過度かど発達はったつする気遣きづかいはないように思われるが、自然しぜん淘汰とうたによって角の大きさと同時に、角を大きくするホルモンを生ずる器官きかん発達はったつしたとすれば、のちいたって、角が過度かどに大きくなることは、ありべき理窟りくつになる。またそれと反対に、もしも角の大小が生存せいぞん競争きょうそうにおける勝敗しょうはい標準ひょうじゅんでなくなったとすれば、角は次第しだい退化たいかして小さくなるであろうが、この場合にもホルモンのことを考えに入れると、自然しぜん淘汰とうたはたらきの範囲はんいが広くもなり、かつ大いにわかりやすくなるように思う。従来じゅうらいは古代の絶滅ぜつめつした動物に見るごときある体部の過度かどの発育や、不用ふよう器官きかん次第しだい退化たいかしてついかげをもとどめなくなることは、自然しぜん淘汰とうたせつによって説明せつめいすることの困難こんなんなものの一つとみなされていたが、ここにべたわたしせつは、この点で従来じゅうらい自然しぜん淘汰とうたせつの足らぬところをおぎない、力をえて難関なんかん無事ぶじこえさせてやることができる。
 以上いじょうわたし懐手式ふところでしきに考えだした独創どくそう理論りろんで、根拠こんきょ薄弱はくじゃくなきわめてたよりないものではあるが、また、ありべきことのように感ずるから、ついでをもって、表して次第しだいである。自然しぜん淘汰とうたせつかんしては、これだけで止めとして、次に人類じんるい過去かこぞくするわたし学説がくせつうつる。


 原始時代における人間の生活状態じょうたいは、今日から調べてもなかなかたしかなことはわからぬが、まず下等の野蛮人やばんじんやある猿類えんるいに見るごとくに数多くの小さな団体だんたいつくり、団体だんたい団体だんたいとがえずあらそいながら生活していると仮定かていする。もっともえずあらそいというてもあらそわぬ時が一刻いっこくもなかったものという意味ではない。ちょうど、日本にはえず地震じしんがあるというても実際じっさいりつづけてはいないのと同じに、はげしいたたかいはおそらく何年目に一回かあったぐらいであろう。しかし、その時にはずいぶんあらそいが激烈げきれつでとくに飢饉ききんでもあれば負けた方はみな食われてしもうたかも知れぬ。長い年月の間にかようなことが何回となくり返され、毎回勝った団体だんたいが生きのこけた団体だんたいが死にほろびたとすると、自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして、勝った団体だんたいをして勝たしめた性質せいしつ次第しだい発達はったつしたにちがいない。個体こたい個体こたいとのたたかいにはまさった方の個体こたいが勝ち、団体だんたい団体だんたいとのたたかいにはまさった方の団体だんたいが勝つは当然とうぜんであるが、いかなる団体だんたいまさって勝つかとたずねると、もしも他の条件じょうけんがことごとく対等たいとうである場合には、相手の団体だんたいくらべて少しでも、よりよく協力きょうりょく一致いっちじつたものの方が勝つに定まっている。しかして協力きょうりょく一致いっちの実をげるには自身のことはておいて、まず団体だんたいのためにはたらかずにはられぬという本能ほんのうが、生れながらにかく個人こじんそなわってあることが必要ひつようである。この本能ほんのうを社会本能ほんのうと名づける。人間のすることは、意志いしによって、するかせぬかを決し、智力ちりょくによってその方法ほうほう工夫くふうするように見えるものが多いから、団体だんたい内の協力きょうりょく一致いっちのごときもただ決心一つで行なわれると思う人があるかも知れぬが、それはけっして実行のできるものでない。人間のすることを総括そうかつして考えてみると、意志いしはただ本能ほんのうゆる範囲はんい内においてのみ自由で、その以外いがいにはない。智力ちりょくの方も、それと同じく途中とちゅう理窟りくつは何とこじけても結論けつろんだけははじめから本能ほんのうによってきまっている。畢竟ひっきょう智力ちりょくなるものは無意識むいしきてき本能ほんのう命令めいれいを受け、意識いしきてきにその方法ほうほうを研究するもので、結局けっきょく本能ほんのうの実行機関きかんぎぬ。団体だんたいてき精神せいしんというと、何となく、当人の意識いしきしている部分が大いにくわわっているように聞えるが、自然しぜん淘汰とうたによって、発達はったつするのは、ただ基礎きそとなる社会本能ほんのうだけであって、けっして外にあらわれた意識いしきてき精神せいしんではない。さて社会本能ほんのう次第しだいに進歩してつい完全かんぜんいきたつすると、その団体だんたいはいかなる状態じょうたいになるかというに、それは今日のありはちの社会に見るごとくに、各自かくじはまったく社会奉仕ほうしねんたされ、そのなすことはことごとく社会にとって有利ゆうりなことばかりである。だれかれもがただ社会の利益りえきをはかりみな同一の目的もくてきねらうて行動すれば、その間に矛盾むじゅんの起るべき理由は少しもない。
 ありはちの社会では社会本能ほんのうだけが発達はったつすれば、それで、完全かんぜんな社会生活をいとなむことができるが、人間の蕃社ばんしゃ(注:台湾の先住民)では相手の蕃社ばんしゃ競争きょうそうするにあたってなお一つ必要ひつようなことがある。ありはちならうこともおぼえることもなしにだれも生れながらに、一疋いっぴきだけの仕事ができるのとちがい、人間はおさないときには力も弱く知慧ちえらず、とうてい一人前のはたらきはできぬのが、成長せいちょうするにしたがい、他人の真似まねをして経験けいけんつもるとともに力も強く利巧りこうにもなり、はじめて完成かんせいした戦闘員せんとういん資格しかくそなえるにいたるのである。そのうえ、生れきによって、武勇ぶゆう抜群ばつぐんのものもできれば、一生陣笠じんがさ(注:雑兵ぞうひょうの仲間)で終るものもあろう。かように戦闘力せんとうりょくのさまざまにちがうものが大勢おおぜい集まっててきなる蕃社ばんしゃたたかう場合には、たとい、社会本能ほんのう発達はったつしてめいめいは自分の蕃社ばんしゃのために討死うちじにする覚悟かくごであっても、一人一人が随意ずいいの行動を取っては、全体としての統一とういつたもてず、したがって能率のうりつが上がらぬは明らかである。かような場合に、全体の統一とういつをはかり、各員かくいんの力をできるだけ有効ゆうこうに用いしめるには、蕃社ばんしゃ中のもっとも力が強く、もっとも知慧ちえがあり、もっとも経験けいけんんでもっとも戦争せんそうたくみな一人を大将たいしょうあおぎ、みなの者がその指図しじしたがうのが一番得策とくさくである。かりに、ここに二つの蕃社ばんしゃがあって、一方の蕃社ばんしゃでは、めいめいが随意ずいいの行動をとり、他の蕃社ばんしゃでは一人の大将たいしょうがあってのこりの者はことごとくその指図しじしたがうて進退しんたいするとしたならば、戦争せんそうしていずれが勝つかはいわずとも知れている。少しく蕃社ばんしゃが大きくなると一人の大将たいしょうでは全部を直接ちょくせつ指図しじすることができぬから、部下の中からもっとも適任てきにんみとめる者を数名えらび出して、これに補佐ほさの役を命じ、蕃社ばんしゃがさらに大きくなると、大将たいしょう補佐ほさだけでは手が足らぬゆえ、さらに補佐ほさ補佐ほさ任命にんめいし、かくして命令めいれいを下すがわにも若干じゃっかんの階級ができるが、かように蕃社ばんしゃ内の制度せいどがやや複雑ふくざつになっても各自かくじがおのれの目上の者に服従ふくじゅうしていさえすれば、蕃社ばんしゃはりっぱに統一とういつせられ、戦争せんそうの場合にはもっとも有効ゆうこうたたかうことができる。しかしてこのことが行なわれるには、各自かくじが生れながらに目上の者には服従ふくじゅうせずにはいられぬという本能ほんのうそなえていることが必要ひつようである。この本能ほんのう階級かいきゅう本能ほんのうと名づける。蕃社ばんしゃ蕃社ばんしゃとがあいたたかうていたような時代が長くつづき、その間に、階級本能ほんのうの少しでも多く発達はったつした蕃社ばんしゃがいつも勝ってさかえたとすれば、自然しぜん淘汰とうた結果けっかとして、この本能ほんのう次第しだいに進歩し、はじめは模倣もほう、次には服従ふくじゅう、終りには崇拝すうはいとしてあらわれるにいたったであろう。
 前に社会本能ほんのうについてもべたとおり、人間の意志いし本能ほんのうゆる範囲はんい内においてのみ自由で、当人はいかに自分の勝手に考えたり行なうたりしているつもりでも、やはり無意識むいしき本能ほんのう命令めいれいには服従ふくじゅうしている。それゆえ、階級本能ほんのう発達はったつした社会では、哲学てつがくでも道徳どうとくでも、宗教しゅうきょうでも教育でも目上の者に服従ふくじゅうすることを人生における最上さいじょうぜんとみなし、目上の者を極度きょくど崇拝すうはいして、その者にほめられるのを何よりも名誉めいよ、その者にしかられるのを何よりの恥辱ちじょくと考える。目上の者からほめたしるしの物をもらえば有難ありがたくてたまらずつねにこれをおびびて人にほこり、もらえなかった連中れんちゅうは、これを見て非常ひじょうにうらやましがる。幾人いくにんか集まればいつも話のだいは階級のことにきまっている。階級本能ほんのう発達はったつすると、人間の頭は生れながらに、全く階級の観念かんねん司配しはいせられ、目上の者には服従ふくじゅうせずにはいられず、子は親に服従ふくじゅうつまおっと服従ふくじゅうし、幼者ようしゃ老人ろうじんうやまい、弟子でし師匠ししょうかげまぬ。団体だんたい間の競争きょうそう結果けっかとして社会本能ほんのう発達はったつすれば各人かくじんは一点の私心ししんをもはさまず、ことごとく、蕃社ばんしゃ全体の利益りえきのためのみに行動し、またそれと同時に階級本能ほんのう発達はったつすれば、蕃社ばんしゃ内の上下の区別くべつ判然はんぜんと定り、下は上をうやまうて忠勤ちゅうきんをつくすから、その間になんら矛盾むじゅんの起るべき道理どうりがない。その当時の蕃人ばんにんらは何とも思わずにくらしていたであろうが、後の世からり返って見ると、実に黄金時代ともいうべき状態じょうたいであった。もしも団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうたがいつまでもつづいたならば、さらに完全かんぜんな黄金時代に到着とうちゃくしたでもあろうが、人間の団体だんたいは、そのようにはならなかった。


 人間がすべての動物に打ち勝ったのはのうと手とのはたらきによって道具を作り用いたからであるが、人間同士どうしが相たたかうにあたっても無論むろん道具を用いた。他の条件じょうけんがことごとく同じである場合には少しでも精巧せいこうな道具を用いる団体だんたいの方が勝つ見込みこみが多いわけであるゆえ、長い間には道具はますます精巧せいこうなものとならざるをなかったが、道具が精巧せいこうになるにつれて、人間の団体だんたいと他の動物の団体だんたいとの間に、大いにおもむきをことにする点が生じた。それは人間の団体だんたいだけは他の動物の団体だんたいちがいどこまでも大きくなりたことである。およそ動物の団体だんたいには種々しゅしゅの理由のために大きさは一定の際限さいげんがあって、それをえて、大きくはなりない。蜜蜂みつはち団体だんたいが大きくなるとすぐに分封ぶんぽうを始めて、いくつにも分れるのは、そのれいである。人間も原始時代にはあまり大きくなることができず、いつまでも、小さいままに止まっている。野蛮人やばんじん蕃社ばんしゃが大きくならぬのは、あまり大きくなりぎると、全体としてまとまりがつかず進退しんたい統一とういつき、かえって不利益ふりえきなことが起るからであろう。しかして、そのさい統一とういつたもてぬ主な原因げんいんは、通信つうしん運輸うんゆとの不便ふべんである。しかるに道具が次第しだいに進歩し、精巧せいこう器機きかいが発明せられ、ついには電信でんしんや電話で命令めいれいつたえ、汽車や自動車で兵粮ひょうろうを運ぶようになると、いくら団体だんたいが大きくなっても、統一とういつにはなはだしい困難こんなんを感じない。ところで、昔から衆寡しゅうかてきせず(注:多数と少数では相手にならない)という文句もんくのとおり、他の条件じょうけんがすべて同じであるとすれば、一人でも人数の多い方が強くて勝つにきまっているゆえ、団体だんたいは、次第しだいに大きくなり、通信つうしん運輸うんゆ便べんが開けるとともに、その大きさがして、ついに今日の文明国に見るごとき、数千万人または数億人すうおくにんを数うるほどの大団体だいだんたいとなった。
 さて団体だんたいがある程度ていど以上いじょうに大きくなると、団体だんたい間にあらそいがえずあったとしても、その勝負は団体だんたいが小さかったときのごとくに徹底てっていてきではありなくなり、たとえ負けても、ただ一部分の者が命を落すだけで、大多数の者は平気で生存せいぞんしつづける。勝った者もけた者も同様に生存せいぞんしては、自然しぜん淘汰とうたは行なわれぬが、自然しぜん淘汰とうたが止めば、その時まで、自然しぜん淘汰とうたによってやしなわれ来った性質せいしつ退化たいかし始めるのが、生物界に通じた自然しぜん法則ほうそくである。人間も団体だんたいの大きさが、ある程度ていどしてからは、団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうたが行なわれなくなり、その時まで、自然しぜん淘汰とうたのために発達はったつし来った社会本能ほんのうや階級本能ほんのうは、その時から退化たいかし始め、その後は次第しだい退化たいかの度をして、ついに今日までにたつしたのである。以上いじょうべたとおりであるから社会本能ほんのうや階級本能ほんのう発達はったつ程度ていど標準ひょうじゅんとしてはかると、人間の過去かこ歴史れきしは、はじめは上り坂で後には下り坂になり、その中間にはいくぶんか、やや平らな所があって、全体の形はほぼパラボラ(注:放物線ほうぶつせん)にていたろうと思われる。今日の人間は遺伝いでんによって、上り坂時代の性質せいしつをなお相応そうおうそなえてりながらも、下り坂時代の新しい性質せいしつかさそなえているゆえ、同一人が考えること、なすことの中にも、たがいに矛盾むじゅんする分子がふくまれてあるをまぬがれぬ。また、はじ発達はったつした本能ほんのうが後に退化たいかする程度ていどは、変異へんいせいによって、一人一人にちがうから、これらの人々がめいめいに考えること、なすことの間にははなはだしい矛盾むじゅんが生ずるのは当然とうぜんである。上り坂のころには社会本能ほんのうや階級本能ほんのう発達はったつしたために、人間の考えることも、行なうこともすべて、それにもとづいていたが、下り坂になってからは、これらの本能ほんのう退化たいかして、その反対の自己じこを中心とする本能ほんのうや、自分の頭の上に他人をいただくことをいさぎよしとせぬ本能ほんのうを出し、そのために、人間の物の考え方がいちじるしくかわって来た。ただし、だれもの考えが歩調ほちょうそろえて変化へんかして行くわけではなく、方向だけは同じであっても遅速ちそくには非常ひじょう相違そういがあって、今日でもなお、階級本能ほんのう多量たりょうそなえている人もあれば、これを大分うしなうた人もある。これらの人々がめいめい勝手かってに物を考えれば、その考え方が大いに相違そういするのはもとより当然とうぜんであって、そのため、ここにもかしこにも意見の衝突しょうとつが起る。現代げんだいの人間生活にあらわれている矛盾むじゅんみなかくのごとき理由で生じたものである。かように素性すじょうが分ってみると、毎日の新聞に出て来る無数むすう紛擾ふんじょう(注:乱れもめること)も、そのもとづくところが明瞭めいりょうになり、いずれもけっして偶然ぐうぜんに発したものではなく、けようとしてもけることができぬ生物学上の深い根底こんていのあることが知れる。今日の社会の組織そしきは社会本能ほんのうや階級本能ほんのういま退化たいかしなかったころにできたもののそのままの引きつづきであるから、これらの本能ほんのうがあまり退化たいかしていない人間がその中に住めばあたかも魚が水の中に住むごとくに、少しの無理むりをも感ぜぬであろうが、社会本能ほんのう退化たいかすれば、上にくらいする者はかならずその地位ちいを悪用して下の者を圧制あっせいし始め、階級本能ほんのう退化たいかすれば、下にある者はかならず上の者をいただくことをきらうてこれに反抗はんこうし始める。今日いたる所に見られる新旧しんきゅう思想の衝突しょうとつとはすなわちこれである。社会本能ほんのう退化たいかもとづく損失そんしつは、全団体ぜんだんたいが一様にこれをこうむるゆえ、だれもとくにかれこれとはいわぬが、階級本能ほんのう退化たいかによって直接ちょくせつ損失そんしつをこうむるものは、無論むろん上にくらいする者だけであるゆえ、これらは極力きょくりょく旧制度きゅうせいど維持いじはかり、その城廓じょうかくに立てこもって、下の者の侵略しんりゃくふせぎ止めようとする。どこの国でも、げん権力けんりょくにぎっている者はきゅう思想を尊重そんちょうし、圧迫あっぱくを受けて苦しんでいる階級の者は新思想を歓迎かんげいし、往々おうおう極端きょくたんなことを考えたり、実行したりする者が出て来るが、これは階級本能ほんのうがすでに余程よほどまで退化たいかしてからでなければゆめにも思いつかぬことである。


 今日の世の中で第一に気のつくのは形式と精神せいしんとの矛盾むじゅんである。「人間万事うそばかり」という古い本を読んだことがあるが、社会本能ほんのう退化たいかしてからの社会では精神せいしんがすでにかわっているから、いかなる形式もすべてうそとならざるをない。たとえば代議士だいぎし制度せいどのごときも、本来ならば、選挙人せんきょにんが自分でこの人をと思う人をえらび、その人にたのんで代りをつとめてもらうべきはずであるのに、今ではだれからもたのまれもせぬ人間が自分で勝手かって候補者こうほしゃと名乗り、なにとぞわたしえらんでくださいと有権者ゆうけんしゃの家を戸別こべつ訪問ほうもんして、平身低頭ていとうしてたのんで歩く。また有権者ゆうけんしゃの方では、この人をと思うような人がなかったり、たといあっても、とうてい出てくれそうもなかったりして、むをず気に入らぬ人間に投票とうひょうするか、棄権きけんするかのいずれかにする。これが何で代議制だいぎせいと名づけられようか。しかもぜいを取りに来るときには、これは君らのえらんだ代議士だいぎし可決かけつしたことであるから、君ら自身が可決かけつしたのも同じである、ぐずぐずいわずに早く出せというて請求せいきゅうする。運動費うんどうひに何万円もついやすところを見れば、当選とうせんしてからかならずその何倍かのもうけがあるものと思われるが、かような自己じこ本位ほんいてき行為こういは、社会本能ほんのうがよほど退化たいかした後でなければとうていだれにもできぬことである。
 社会本能ほんのういま退化たいかしなかったころには、一国内は真に挙国きょこく一致いっち愛国心あいこくしん充満じゅうまんしていたろうが、この本能ほんのう退化たいかし始めてからは、愛国心あいこくしん次第しだい変化へんかして、本能ほんのうもとづいた無意識むいしきてきのものからだんだん智力ちりょくつくられた意識いしきてきのものにうつって来た。つねには容易よういに持ち上らぬ箪笥たんすが火事のときには楽々と運べるごとく、非常ひじょうさいには思いがけぬ力が出るもので、戦争せんそうでも始まると、今までかくれていた社会本能ほんのうがにわかにはたらいて、国家のためには身命しんめいなげう特志家とくしけ(注:篤志家ときしか。社会事業や慈善じぜん活動を積極せっきょく的に援助えんじょする人)が幾人いくにん続出ぞくしゅつするが、かようなときでさえ、大多数の人々は、わが国がけては自分がこまる、それゆえ是非ぜひともわが国を勝たせねばならぬと、心の中で意識いしきてき理窟りくつを考えた結論けつろん愛国心あいこくしんより外は持たぬ。しかして平時には、社会本能ほんのう退化たいかにつれて頭をもたげ出した自己じこ本位ほんい本能ほんのうが、無意識むいしきながら有力にはたらくゆえ、めいめいが意識いしきてきに考えることも、みなこの本能ほんのうの命ずるところにしたがうてことごとく自己じこ本位ほんいになり、その結果けっかとして、口にとなえることと身に行なうこととが全く矛盾むじゅんするにいたる。とくに車夫しゃふ車賃くるまちんもらうて車を引くように、愛国賃あいこくちんもらうて愛国あいこくする者や、愛国あいこくを売り物にして強請ゆすって歩いたり無銭むせん飲食いんしょくをしたりするやからいたっては、言行げんこう不一致ふいっちもまたすこぶるはなはだしい。しかして、これらはみな社会本能ほんのう退化たいかしたために生じた人間生活の矛盾むじゅんである。
 社会本能ほんのう充分じゅうぶん発達はったつすると、国内は完全かんぜん協力きょうりょく一致いっちするが、その代りに国と国とはことごとくてき同士どうしとなる。ありはち団体だんたいでは実際じっさいそのとおりになっている。人間も小さな団体だんたいつくってあいたたかうていたころには、やはり、そのとおりであったろうが、国が大きくなり、社会本能ほんのう退化たいかして、国内の人々の間に種々しゅしゅ矛盾むじゅん衝突しょうとつが生じてからは、国の勢力せいりょくの大部分は国内で消費しょうひせられ、それだけ外国とたたかう気分がうすらいだ。国としては相変あいかわらず敵愾心てきがいしん(注:敵に対していだいきどおりや、あらそおうとする意気込いきごみ)をそなえていても、個人こじん個人こじんとが出遇であうたときにかならず相ころし合わねばならぬという必要ひつようがなくなり、さかいせつしたところでは、そろそろ平気で交際こうさいし始めるにいたった。これはすなわち社会本能ほんのう退化たいかのために、国のたがゆるんだのである。その後、交通の便べんが開けるにしたがい、国と国との関係かんけい密接みっせつになり、汽車や汽船が到着とうちゃくするごとに多数の外国人が入りんで来るようになると、人々の考え方にもだんだんと変化へんかが生じ、はじめ何ごとにも自国本位ほんいであったのが、少しずつ国際こくさい関係かんけいをも尊重そんちょうするようになり、終には、国などという面倒めんどうなものははいして、だれかれもがたんに世界人となった方がよろしくはなかろうかなどと考える者までが生ずる。しかしながら、現在げんだいの世の中には、いま民族みんぞく区別くべつもあり、国の区別くべつもあって、強い国から侮辱ぶじょく圧迫あっぱくをこうむることもえずあるから、世界人では安心ができず、やはり国を強くしてかねばならぬとも考える。この点においても思想が二派にはに分れてたがいに衝突しょうとつするをまぬがれぬ。
 国際こくさい関係かんけいが多くなり、広くなるにしたがい、国際こくさい間の相談そうだんもたびたび開かれ、国際こくさい間の約束やくそくもしばしばむすばれる。万国為替かわせというような便利べんりなものができて、外国へ行っても電報でんぽう一本で何千円の金でもすぐに受け取れるから、地球上のどこへ行っても何の不便ふべんもなく、あたかも世界中が一か国になったごとくに感ずることもある。これからして世界が真に一国になってしまうことも不可能ふかのうではない。かつ実際じっさい一か国になってしまえば、戦争せんそうなどといういやなものがなくてすむであろうと考える人もできる。しかしかような便利べんり方法ほうほう元来がんらい相互そうご利益りえきのために智力ちりょく工夫くふうしたもので、その点では汽車や汽船の発明と同じ種類しゅるいぞくするから、けっしてこれをもって、国と国とが仲好なかよしになったしるしとみなすことはできぬ。容貌ようぼう気質きしつも、風俗ふうぞく習慣しゅうかんもいちじるしくちがうた人間がことごとく世界人として同列にならぶことは、外国を敵視てきしした社会本能ほんのうが全く消えた後でなければ、実現じつげん覚束おぼつかないようであるが、これらの点にかんしてもずいぶん相矛盾むじゅんした思想が世に行なわれている。


 現今げんこんの人間生活に見られる矛盾むじゅんの中に、もっとも多数をめているのは、階級本能ほんのう退化たいかもとづくものであろう。これも一同の者が歩調ほちょうそろえて退化たいかすれば何の矛盾むじゅんも起らぬが、速く退化たいかするものと、おそ退化たいかするもの、多く退化たいかした者と少なく退化たいかした者とがあって、これらが同時に相となりして生活しているゆえ、そこにはなはだしい矛盾むじゅんが生ずる。今日の社会制度せいどは大体において階級本能ほんのうさかんであったころにでき上ったものゆえ、この本能ほんのうをなお多量たりょうそなえている人間の考えたり行なうたりすることはちょうどよくそれにあてはまる。したがっていずれの方面でも、今日成功せいこうする人間はみなこの本能ほんのうのあまり退化たいかしていない連中れんちゅうばかりである。階級本能ほんのう退化たいかせぬ人間は社会を幾段いくだんかの階級に分け、一段いちだんでも下の者は一段いちだんでも上の者に絶対ぜったい服従ふくじゅうし、その奴隷どれいとなることを当然とうぜんとして、少しもそれが苦にならぬから、自然しぜんその間に親分と子分との関係かんけいが生じ、親分は子分を引立て、子分は親分の知遇ちぐう(注:人格じんかく能力のうりょくなどをみとめられて、あつ待遇たいぐうされること)に感じて、さらに気に入るようにつとめ、次第しだい次第しだいに高い階級までたつすることができる。これに反して、階級本能ほんのう退化たいかした人間は他人に頭を下げることがつらいから、とうてい他人の子分になる資格しかくがなく、したがって、時の権力者けんりょくしゃから引き立てられる見込みこみがない。それゆえ、いつまでもひくい階級にとどまらねばならぬ。自分がひくい階級にありながら少しも高い階級の者を尊敬そんけいする心が起らぬから、そのいうことは、無論むろん上の階級の人々の気に入らぬ。新旧しんきゅう思想の衝突しょうとつはかようにして生ずるが、思想の基礎きそとなる本能ほんのう相違そういがある以上いじょうは、何と理窟りくつめても、考えの一致いっちするのぞみはきわめて少なかろう。
 今の世の中には、いまだ階級本能ほんのうのあまり退化たいかせぬ人間が多数をめていることは、いずれの方面を見てもすぐに知れる。社会の制度せいど階級かいきゅうてきにできているゆえ、おおやけの役に階級のべつがあって、これがすこぶる重大視じゅうだいしせられるのはむをぬが、それと何の関係かんけいもない方面でも、人間に等級をけてかく等級ごとに取扱とりあつかいをことにすることが広く行なわれている。有名な坊主ぼうずが地方を巡回じゅんかいすると、その入浴にゅうよくした湯を竹筒たけづつもらうてありがたがるという話を聞いたが、およそ階級本能ほんのう退化たいかせぬ人は上の等級の者と幾分いくぶんかでも関係かんけいすることがありがたくてたまらず、せめてはその肉体にれた湯でもおがもうと思うのであろう。いわゆる英雄えいゆう崇拝すうはいの心理はこのとおりである。しかし今日では、かような人間のたくさんいる中に交って、階級本能ほんのうの大分退化たいかした人たちもおいおいあらわれ、遠慮えんりょなく従来じゅうらいの階級制度せいど攻撃こうげきし、上の等級の者に対してわざわざ軽蔑けいべつの意を表するようになったが、そのためにも人間生活の矛盾むじゅんが一つえた。先日ロシヤの学士院がくしいんの人から郵便ゆうびん物を受け取ったが、その封筒ふうとう帝国ていこく時代ののこり物で、表面に皇立こうりつ学士院がくしいんという文字があり、「皇立こうりつ」だけはとくにかしら文字で印刷いんさつしてあったのをすみ黒々とていねいに消してあった。しかしてそのとなりりのペトログラードという字をレーニングラードに直してあったのを見ると、階級の破壊はかいを実行した革命派かくめいはの人々でも、心のおくには、やはり偉人いじん崇拝すうはいせずにはられぬ階級本能ほんのうが、依然いぜんとしてなおのこっているものと思われる(注:レーニン崇拝すうはいの表れ)。本能ほんのう退化たいかがなかなか手間てまの取れることはこの一事をもっても明らかである。
 階級本能ほんのう退化たいかせぬ人間が今もなおいかに多いかは、馬鹿ばか馬鹿ばかしい迷信めいしん相変あいかわらず跋扈ばっこしているのを見ても知れる。そもそも宗教しゅうきょうなるものは階級本能ほんのう全盛ぜんせいであった時代にのうはたらきの副産物ふくさんぶつとして生じたもので、神とかほとけとか教祖きょうそとかを自分の頭の上にいただいてありがたがるのであるから、階級本能ほんのう退化たいかした人間にはとうていしんぜられるものではない。とくに何の根拠こんきょもない馬鹿ばかげた迷信めいしんを、ただ他人から聞いてそのままにしんずるのは何ごとにも他人をたよらずにはられぬ階級本能ほんのう多量たりょうそなえた人間でなければできぬことである。あやしげな宗教しゅうきょう宣伝せんでん広告こうこく高位こうい高官こうかんの人々の名前がならんでいるのを見て、こんなえらい人らがどうしてこんな馬鹿ばかげたことをしんずるのかと不思議ふしぎがる人もあるが、実はこのくらい不思議ふしぎでないことはない。現在げんだいの階級制度せいどもと高位こうい高官こうかんに上るのは、階級本能ほんのういま退化たいかしていない人々にかぎるが、階級本能ほんのう退化たいかしていないことは馬鹿ばかげた迷信めいしんしんずる唯一ゆいつ資格しかくであるゆえ、ちょうどその人らがせんにあたったのである。どこの神様などとばれる山師やましらがまず第一に目をけるのはかかる人らである。安産あんざん御守おまもりや火除ひよけの御札おふだがすこぶるさかんに売れるのを見ても、階級本能ほんのう退化たいかは一様には行なわれず、あたかも盲腸もうちょう虫様ちゅうよう突起とっきが人によって、一寸いっすん(注:3cm)のもあれば七寸ななすん(注:21cm)のもあるごとくに、すでにいちじるしく退化たいかした人と、いまだ一向に退化たいかしない人があり、しかもあまり退化たいかしない人の方がなかなかに多数をめていることがわかる。
 階級本能ほんのうがとくにいちじるしく退化たいかすると、いわゆる天才なるものが生ずる。同じ種類しゅるいの植物を何千本も培養ばいようすると、その中にかならず一本や二本は目立って他とことなったものができるが、かような変異へんい突然とつぜん変異へんいと名づける。天才は突然とつぜん変異へんいによる階級本能ほんのう異常いじょう退化たいかもとづくものが多い。天才は他人のいうたことやなしたことを真似まねするだけでは満足まんぞくができず、是非ぜひとも自分で新たに道を開いて進まねば承知しょうちせぬが、これは階級本能ほんのう退化たいかせぬ人々のゆめにもくわだてぬことである。されば天才は平均へいきんの人間よりはいくらか価値かちの多い人間とみなさねばならぬが、その実際じっさい生涯しょうがいを見ると、多くはあまり出世しゅっせもせず、一生ひく地位ちいに止まり、不遇ふぐのうちに不平ふへいで死んでいる。かつて大西祝おおにしはじめ君(注:日本のカントと評価ひょうかされる)であったかだれであったか、「人うまれて天才たる幸か不幸ふこうか」と題してろんじたことがあるが、親分子分の関係かんけいり立っている階級制度せいどの世の中に天才が出世せぬのは当然とうぜんのことで、その理由も考えてみればきわめて明白である。すなわち天才は階級本能ほんのう異常いじょう退化たいかしているから、他人を自分の頭の上にいただくことをよくせず、したがって他人の子分となる資格しかくがない。子分となる資格しかくがなければ無論むろん親分を持つことができず、親分を持たねば抜擢ばってきしてもらえるのぞみがない。千里のこまも一生肥桶こえたごかされては、その天分を発揮はっきすることができず、自分よりおとった者の出世をながめながら我慢がまんしていなければならぬ。ショーペンハウエルは大学の教授きょうじゅつとめる哲学者てつがくしゃ帝大ていだい哲学者てつがくしゃという綽名あだなをつけて、その御用ごよう学者(注:権力者けんりょくしゃにおもねる学者)ぶりをさかんに罵倒ばとうしたが、大学の教授きょうじゅ滅多めったに天才のないのは右のような理由によるらしい。研究にもっとも便宜べんぎのある位地ちい凡庸ぼんようの者がめ、まさった者がそのため便宜べんぎのない所で苦しまねばならぬのは一つの矛盾むじゅんであるが、右のとおりの理由がある以上いじょうは、如何いかんともいたし方がなかろう。
 階級本能ほんのう退化たいかには種々しゅしゅ程度ていどがあり、一方にはいまだに目上の者を崇拝すうはいせずにはられぬ人があるかと思えば、また他方には、いかなる者でもこれを軽蔑けいべつせずにはかぬ人があるが、大多数の者は今日その中間にくらいする。しかして、これらの人々の階級本能ほんのう退化たいかは、年々少しずつその度を高めて行くようである。その結果けっかは毎日の新聞紙上に出てくるとおり、下の者が上の者をうやまわなくなることで、けっして昔のように何ごともご無理むりごもっともでは通さず、少しでも自分らのとくにならぬことにはたちまち同志どうしを集めて反抗はんこうする。子は親に対し、生徒せいと教師きょうしに対し、傭人ようにんは主人に対し、労働者ろうどうしゃ資本家しほんかに対して一歩もゆずらぬ態度たいどしめし、そのため、紛擾ふんじょうえる時はない。しかしてその紛擾ふんじょうは、階級本能ほんのう退化たいかとともに、今後も次第しだいえ、解決かいけつもだんだんむつかしくなり行くように見える。


 以上いじょうべたとおり、今日の人間生活には、かぎりなく矛盾むじゅんふくまれてあるが、これは何と解釈かいしゃくすべきであるか、他の人々の考えは知らぬが、わたし一個いっこ学説がくせつによれば、これは当然とうぜんかくあるべきはずで、実は矛盾むじゅんでも何でもない。矛盾むじゅんの生ずべき理由がないのに、しかも矛盾むじゅんが生じたのならば、これこそ真の矛盾むじゅんであるが、矛盾むじゅんの生ぜざるべからざる原因げんいんがあって、その当然とうぜん結果けっかとして、矛盾むじゅんが生じたのならば、これは少しも矛盾むじゅんではない。前にべたとおりわたし学説がくせつによれば、人間の過去かこ歴史れきしには社会本能ほんのうと階級本能ほんのうとが発達はったつした上り坂の時代と、その退化たいかした下り坂とがあり、現今げんこんはその下り坂の途中とちゅうにあってさらに下に向ってり行く所である。今日の人間をかような歴史れきしの所有者として観察かんさつし、本能ほんのう退化たいか程度ていどかく個人こじんによって一様でないことを考慮こうりょすると、その生活にあらわれる数多くの矛盾むじゅんは、いずれもかくあるべきはずで、とうていけることのできぬものであったことが明らかに知れる。
 昔からいつの代にも世は澆李ぎょうき(注:世の終わり)であるとか、世がすえになったとかいい来ったが、わたし学説がくせつによればこれは実際じっさいをいうたもので、けっして厭世家えんせいか(注:人生を価値かちのないものと思っている人)の感傷かんしょうてき嘆息たんそくのみではない。二千年前も千年前も、百年前も、今日もいつもその時が世のすえであるというのはすなわち全部が下り坂であったからである。階級かたの社会をつくっている動物に社会本能ほんのうと階級本能ほんのうとが退化たいかすれば、その生活に破綻はたんの生ずるのは当然とうぜんのことで、退化たいかの度が進むにしたがい、破綻はたんはますます顕著けんちょにならざるをない。社会本能ほんのう退化たいかすれば、相互そうご扶助ふじょの行動がって、自己じこ本位ほんいの行動がし、階級本能ほんのう退化たいかすれば下は上をうやまわずいよいよおさがたくなって行く。その時に澆季ぎょうきという昔を今からり返って見れば、今の澆季ぎょうきよりは人情にんじょう風俗ふうぞくに、はるかに奥床おくゆかしいところがある。うれしとし世も後にこいしくなることは千年前も今日もかわりはない。思想の悪化ということは、生活なんなどのために、近頃ちかごろになっていちじるしく目立ち始めたかも知れぬが、実は何千年も前からすでにが開かれてあったのである。
 本能ほんのう退化たいかということに心づかぬ人たちは、社会生活に何らかの破綻はたんあらわれるごとに、これを制度せいど不条理ふじょうりな点があるためと解釈かいしゃくし、その改革かいかくをはかった。もとより階級本能ほんのうさかんなころつくられた制度せいどは、この本能ほんのう退化たいかにつれて、おいおい時勢じせいてきせぬものとなったから、これを適当てきとう改正かいせいすることは必要ひつようであったろうが、制度せいどさえあらためたら、それで社会生活が完全かんぜんに行なわれると考えるのは大間違おおまちがいである。いくら制度せいどばかりを改良かいりょうしても、肝心かんじんな社会本能ほんのう退化たいかしては、めいめいの了見りょうけん自己じこ本位ほんいてきになるために、満足まんぞく結果けっかられぬ。何度も姑息こそく(注:一時しのぎ)な改良かいりょうほどこしても社会生活が相変あいかわらず思うようにならぬのを見て、これは一回全部をくつがえして根底こんていから新たにきづき直さなければ駄目だめであると考える人も出てくるが、かような人がえると実際じっさい革命かくめいが行なわれるにいたる。しかし革命かくめいが行なわれた後の状態じょうたい如何いかにというと、一時だけ幾分いくぶんむねいた感じはあるかも知れぬが、社会生活の不完全ふかんぜんなことは、やはり従前じゅうぜんのとおりで苦しさはすばかりである。これでは革命かくめいなどはなかった方がましと考える人が無論むろん出てきて、これが相当そうとうな数にたつすると、革命派かくめいはたおそうとくわだてる。革命かくめいの直後にいつもかならず反革命はんかくめいの起るのは右のごとき理由による。階級本能ほんのう復旧ふきゅうせぬかぎりはいかなる改革かいかくこころみてもとうてい理想りそうてきな社会生活にもどすことはできぬ。
 社会生活の破綻はたんがだんだんと顕著けんちょになってきてはだれかれも苦しみにえぬゆえ、何とかしてこれをおさふせがなければならぬが、その役にあたったのが教育家と宗教しゅうきょう家とである。その中で宗教しゅうきょう家の方は、階級本能ほんのうさかんであったころにはすこぶるいきおいが強くて、ほとんど抵抗ていこうる者がなかったが、この本能ほんのう退化たいかとともに次第しだいおとろえ、しばらくは上にくらいする者の手先となって服従ふくじゅうあきらめとを説法せっぽうしつづけた後、今日では、とうてい昔の面影おもかげはなくなった。もっとも今の世の中にも階級本能ほんのうのあまり退化たいかせぬ人間はたくさんにあるゆえ、宗教しゅうきょう家のはたら範囲はんいいま相応そうおうに広くはあるが、この本能ほんのうは一代ごとに少しずつたしかに退化たいかして行くから、今後はけっして昔のごとくにははたらけぬに定っている。のこるところは教育家であるが、これまでの成績せいせきから判断はんだんすると、社会生活を理想に近づけるために、何ほどの効果こうかたやらすこぶるうたがわしい。教育家が次代の人間をいかようにも注文どおりにつくるようなことをいうのを聞いては、いささか片腹痛かたはらいたく感ぜぬでもないが、社会本能ほんのうや階級本能ほんのう退化たいかもとづく少年青年の悪変化あくへんかを、世間ではみな教育の行きとどかぬ結果けっか解釈かいしゃくし、そのしりをことごとく教育家のところへ持って行くのを見ては大いに同情どうじょうえぬこともある。教育家の今後のつとめは、無意識むいしきながら有力にはたらく社会本能ほんのうや階級本能ほんのう退化たいかに対し、じょう、意の意識いしきてき訓練くんれんによってその欠陥けっかんおぎなつくろうことであるが、それがいかなる程度ていどまで成功せいこうするかは、今後の世のり行きを見てはじめて知ることができるであろう。
(大正十四年十一月)





底本:「現代日本思想大系 26 科学の思想※(ローマ数字2、1-13-22)」筑摩書房
   1964(昭和39)年4月15日発行
初出:「中央公論」
   1926(大正15)年1月
入力:矢野重藤
校正:
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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