人間の身体の内にある
種々の
器官は、いずれを取ってもその進化の
経路を調べて見て、おもしろくないものはないが、その中でも
特に
脳髄は物を考える道具であるゆえ、それが今日のありさままでに
発達しきたった
由来を研究することは、学問を
修める人等にとってはきわめて
興味もあり、かつ
有益なことであろう。ここにはただその
大略だけを
説いて、それより生ずる考えをひととおり
述べるつもりである。
われわれの頭の皮をはぎ去り、
頭骨を切り開いて見ると、その中にはおよそ三
斤(注:1.8Kg)ばかりの、白くて
豆腐のごとくに
柔いものが
充満しているが、これがすなわち
脳髄である。その全形は頭部全体の外形と同様にほぼ
卵形で、上から見ると
縦の深い
溝によって左右両半球に分かれ、その表面には全部
不規則な
凸凹があって、あたかも
蒲鉾状の山と、その間の谷とが
複雑に入りまじっているごとくである。さらに後部のやや下面にあたるところを見ると、ここには他と
異なって、細かい横
皺の重なっている部分があるが、これだけを
小脳と名づけ、先の部分を
大脳と名づけて
区別する。なおその他には
延髄というて、
脳髄から
脊骨の内にある
脊髄のほうへ
続く
途中にあたる小さな部分がある。
かような部分よりなり立った
脳髄は、何の
働きをする
器官であるかというに、
大脳は第一に
自己の
存在を知る
意識の作用をつとめるところで、もし
頭骨を切り開いて
大脳をあらわし、その表面に少しく
圧力を
加えるか、または
頸部の
血管を
縛って
大脳へ行く
血液の流れを
暫時止めて、
酸素の
欠乏を生ぜしめたりすれば、その人はたちまち
意識を
失うて人事
不省のありさまにおちいってしまう。
魔睡薬の
働きもこれと同じく、全く
大脳の作用を一時止めるにある。かくのごとくにして
大脳の
働きの止まった人間、または
試験のために
大脳を切り
除いた犬
猫などは、あたかも
睡眠中のごときありさまで、
呼吸、
脈搏等はほぼ
平常のとおりであるが、ただ
意識のみが消え
失せて、
一種の
自働器械となってしまう。なお
詳しくいえば、
大脳は知、
情、意のごときいわゆる
精神的の作用をする
器官であって、この
器官が
完全に
備わり、かつ
完全に
働き
得る場合においてのみ、かかる
精神的作用が十分に
現われるのである。
小脳の
働きについてはいまだことごとく知れぬ点もあるが、
従来の
実験によると、身体
各部の運動を調和
一致せしめて、ある一定の
目的にかなわしめることである。たとえば、
鳩などの頭から
小脳のみを取り
除くと、
意識、知、
情、意などは少しも
損せず、かつ身体
各部の運動の力も
存するが、全身の
一致調和した
整然たる運動は全くできなくなってしまう。また
延髄、
脊髄は、
眼の前へ急に光った物でもくれば知らずして
眼瞼を
閉じるごとき、
刺激に
応じて
無意識的に行なういわゆる
反射運動の
中枢である。
人の脳髄の側面
大脳は知、
情、意などのごとき高等なる
精神的作用をつかさどる
器官なることは今
述べたとおりであるが、その中でも
特に目立って感ずるのは知力との
関係である。
種々の動物を集めてその
脳髄を調べてみると、知力の進んだものほど
大脳もよく
発達していることがはなはだ明らかに知れる。また人間だけについていうても全くそのとおりで、
無知の
野蛮人種と知力の進んだ文明
人種とをくらべて見ると文明人のほうがいちじるしく
大脳が
発達している。医者のほうには「
病理が
生理を教える」という
諺があるが、
実際いずれの方面においても、
異常の場合を研究して、始めて
平常の
状態における
関係が
明瞭にわかることが
往々ある。
精神病者を死後に
解剖して
大脳に
病的変化のあったことを見いだし、これによって生前の病の
原因を
察し
得る場合もあるが、
特におもしろいのは
天然の
奇形である。
幼児が
胎内で発育する
途中に、何らかの
原因によって、
頭骨の
成長が早く止まって、
大脳もきわめて小さいままで生まれ、他の体部は大きくなっても、頭だけがはなはだ小さい
奇形児ができることがあるが、これは
天然が行なう
実験とも名づくべきもので、その生活
状態を調べると、
普通の人間の
大脳の
働きを知るためには大いに
参考になる。かような
奇形児は十
歳になっても
二十歳になっても
精神の
状態はあたかも一
歳か二
歳の
幼児のごとく、知、
情、意ともにきわめて
程度が
低いが、
特に知力にいたっては
普通人との
相違が実にはなはだしい。
猿男とか
狐娘とか名を
付けて、時々見せ物に出ているのは多くはかような
奇形児である。
以上述べたごとく、われわれの
精神的作用なるものはすべて
大脳の
働きで、
特に学問の
基なる知力にいたっては、
大脳の
発達と
直接に
比例していることが明らかであるが、これから
推し考えて見ると、われわれの
大脳はいかなる
経歴を
通過して、今日の
程度のものまでに進化しきたったかということを知るのは、何学問を
修める者にとってもきわめて
必要なことである。
特に
哲学、
倫理、教育、
宗教等のごとき主として
大脳の力のみをたよりとして研究する
種類の学科ではよほどこの点に注意せねばならぬ。
大脳は学問の道具とも見なすべき
器官であるゆえ、何学問を
修める者も、まずその道具なる
大脳の
歴史を知り、その
働きの
真価を明らかにしておくことが
肝要であるが、
前述の
諸学科では
特にこの事が大切である。もしこの点に注意せず、
大脳の
働きを
絶対に
信頼してかかると、たちまち大なる
誤りにおちいり
種種の
空論を考え出して、後世の
物笑いとなるに終わるやもしれぬ。
今日
生存している動物
種属が
現在のありさままでに進化しきたった
経路はすべて
過去の
歴史に
属するゆえ、
実際これを目の前に見ることはもちろんできぬが、人間社会におけると同じく、昔の
事蹟を
探知し
得べき
材料は今日なおたくさんに
存してあるゆえ、これらを
手掛かりとしていくぶんか
正確に
過去の
歴史を知ることができる。たとえば古物や古文書によって古い昔の
歴史が知れるごとくに、化石によってずいぶん古代の動物のありさまを知り
得ることもある。また
現今の
口碑、
儀式等が
歴史研究の
参考となるごとくに、
現今の動物を
比較解剖して、ある動物の進化の
経路を知るための
材料を
獲ることもある。されば今日生物学において、各生物の進化の
経路を
探り出すための
手掛かりは、
比較解剖学上の事実、発生学上の事実、化石学上の事実等であるが、
脳髄の進化のごときもこの三
種類の事実から
推し考えれば、大体だけは明らかに知ることができる。
小脳その他の
脳部のことはしばらくおき、ここには主として知力の
器官なる
大脳の進化の
経路だけをこの三方面から
論じてみよう。
まず
脊椎動物の中から
若干の
例を取り出して、その
大脳を
比較してみるに、
最下等のものから
最高等の人間にいたるまで、
階段的に
漸々進みきたった
跡が明らかに知れる。ここに
掲げた
略図のうち、第1は人間の
脳髄の上面を少しく後から
斜めに見たところであるが、ほとんど全部が
大脳のみから
成り立ち、
小脳はわずかに
後縁のところに少しく
現われているだけである。
大脳は前にも
述べたとおり
縦溝によって左右の両半球に分かれ、各半球の表面には
複雑な
雲形の
凸凹がある。これは
大脳の中で
最も
重要な
皮質部が
発達して、表面がいちじるしく
増加した
結果で、有名な学者の
脳髄などではこの
凸凹が
最も整うている。第2は
猿の
脳髄であるが、これは大体においては人間の
脳髄によく
以ている。その
相違の点は
脳髄全体に対して
大脳がやや小さく、
小脳がやや大きく、かつ
大脳の表面の
凸凹がいくぶんか
簡単なことである。第3は犬の
脳髄で、これでは
小脳がほとんど全部
現われ、
大脳は
猿に
比してなお
一段小さく、かつ表面の
凸凹も少しく
簡単になり、その
前端には新たに一対の小さな
突起が
現われている。この
突起は
嗅神経葉と名づけるもので、鼻へゆく
神経の
基であるが、この部は人間や
猿では
大脳の下に
隠れてあるゆえ、上面からは見えぬ。第4の
兎の
脳髄は、大体は犬のに
似てはいるが、
大脳がさらにいっそう小さく、その表面にはほとんど
凸凹がなく、ほぼ
平滑になって、人間や
猿のにくらべると、
外観上いちじるしく
相違して見える。第5は
鶏の
脳髄であるが、
大脳や
小脳はよほど
兎のに近い、しかしながら
大脳の後に一対の丸い部分が新たに
現われた。これは
視神経葉というて
眼にゆく
神経の
基である。人間、
猿、犬、
兎等のごとき
獣類にもこの部は
存在してあるが、
大脳と
小脳との間に
隠れているゆえ、
大脳と
小脳との間を
押し開いてのぞかなければ見えぬ。
鶏ではこの部が
特に
発達しているというよりも、他の部分
特に
大脳の
発達の
程度がやや
低くて、この部をおおい
隠すに足りぬゆえ、外面に
現われているのである。第6は
鰐の
脳髄で、
大脳は
鶏よりもなお小さく、
視神経葉はいちじるしく
現われている。第7の
蛙の
脳髄では
大脳はさらに小さく、その両半はおのおの前なる
嗅神経葉と
縦につづいて、あたかも細い
瓢箪を二つならべたごとき形を
呈しているが、この
瓢箪の前半は
嗅神経葉で、後半のみが
大脳である。また全
脳髄に対しては
視神経葉がいちじるしく大きく、その後にあたる
小脳ははなはだ
発達の
程度が
低い。
最後の第8図に
示してある
魚類の
脳髄にいたっては
大脳がはなはだ小さいために、
初めてこれを見る人はいずれが
大脳であるか
識別に苦しむくらいである。
脳髄の中ほどにあって、大部分を
占めている一対の丸い
塊は、ちょっと見るとあたかも
大脳であるかのごとくに思われるが、実はこれが
視神経葉であって、その前に
並んでいるやや小さい一対の球のほうが真の
大脳である。なおその後にある一個の
大塊は
小脳であるが、かくのごとく、名は
大脳、
小脳とつけてあっても、
魚類などでは
小脳のほうがはるかに
大脳よりは大きい。
以上略図について
説明したとおり、
脊椎動物の中からいくつかの
例を
選り出して
比較して見ると、
大脳の
発達の
程度にはたくさんの
階段があって、これをならべて
通覧すれば、
一端より
他端まで
漸々進化しきたった
経路がほぼ
明瞭に知れる。ここに
断わっておくべきことは、
以上の
略図は全
脳髄の大きさに対する
大脳の
発達の
程度を
示すために、何動物の
脳髄をも同じ大きさになおして画いたが、
実際においてはむろん高等の動物ほど
脳髄の大きさも大きく、人間では
脳髄の
量が体重の四十分の一くらいもあるに、
鰤や
鮪では体重の一万分の一にも足らぬほどゆえ、
大脳の
絶対の大きさの
相違は、ここに
掲げた図よりはさらに数倍も数十倍もはなはだしいのである。
1.人間 2.
猿 3.犬 4.
兎 5.
鶏 6.
鰐 7.
蛙 8.
魚類脊椎動物脳髄比較
以上は
脊椎動物の
大脳の
発達に
無数の
階段のある中から
便宜上ただ
若干のものを
選み出して
互いに
比較しただけであるが、その中の下等に
位するものは、どのくらいの知力を有するかを
示すために
一例をあげれば、次のごとき
実験がある。ヨーロッパには
鱸に
似た
河魚で、小さな
魚類を
貪食する
種類があるが、ある人がこの魚を水族箱に入れて
養い、箱の中央へ
一枚のガラス板を入れて仕切りを
造り、他の
側へつねにこの魚の
餌となる
小魚類を
放ったところが、
最初は
透明なガラス板のあることには気が
付かず、小魚を
捕え食おうとしては、ガラス板に鼻を打ち
付け、また食おうとしては、またガラス板に鼻を打ち
付け、数日間かようのことの
続いた後には、もはや小魚を
捕えようと
試みぬようになってしもうた。この時にいたって中間のガラス板を取り
除いたところが、かの魚には小魚を
捕えることと、鼻の
痛いこととの
結合した
印象が
脳中にのこつていたものと見え、あたかもかの小魚は鼻の
痛くなるものであると
覚え
込んだかのごとくに、顔の前へ小魚が
游いできてもこれを
捕えようとはしなかった。今日は下等動物の心理や、
習性を研究することが大分
盛んになり、米国などでは、
特にそのための
専門雑誌が発行せられるまでに進んで、この方面の
知識もよほど
増して来たが、それらの研究によると、
如何なる下等動物にも、なおいくぶんかの知力のあることは
確かで、ここに
述べた
魚類のごときも、その知力、
推理力ははなはだ
低いが、われわれのにくらべれば、ただ
程度がいちじるしく
低いというだけで、
性質においてはほぼ同一である。他の
例をあげることは
略するが、いずれの動物でも
大脳の
働き具合はみな
単に進歩の
程度に
相違があるに
過ぎぬ。
い
大脳 ろ
視神経葉 は
小脳 に
延髄人脳発生図
次に
胎内における人間の
脳髄の発生の
順序を見るに、
比較解剖の
結果とほぼ同様な事実を見いだすことができる。人間の
脳髄は
胎内発生の
初期より
成人になるまでの間に
漸々発達するものゆえ、これにも
無数の
階段があるが、今その中から
便宜上、ほぼ前に
掲げた
比較解剖図にあるものに相当すると思われる
若干の
階段を
選み出し、発育の
程度に
従うて、前とは
順序を
倒にして、まず
最も
発達の
低いほうから
説明してみるに、
受胎後およそ三週間くらいの
胎児では、全
脳髄の中で
視神経葉にあたる部分のみが
非常に大きく、その前に二つ
並んである
大脳両半球の始まりははるかにこれより小さいから、ほとんど
魚類の
脳髄と同
程度にあるというてよろしかろう。次に五週間くらいになると、
大脳の
発達が、他の
脳部よりもやや速いために
脳髄全体に対する
大脳の大きさがいちじるしく進んで、ほぼ
蛙の
脳髄におけると同じ
程度に
達する。八週間すなわち二ヵ月くらいになると
大脳がさらに大きくなって、
大脳、
小脳、
視神経葉等の
割合がほぼ
鰐の
脳髄におけると相
匹敵する。なお進んで三ヵ月から五ヵ月の間にいたれば
大脳の
発達の
程度は
鶏もしくは
兎の
階段に相当し、
大脳はすでに全
脳髄中の
最も大なる部分となり、その後にはやや小なる
小脳を
備え、二者の間からはなお
視神経葉が
現われている。ただしこのころまでは
大脳の表面は全く
平滑で少しも
凸凹の
褶がないが、これからおいおい
大脳の
皮質部が
比較的速かに
発達して、そのため表面に
凸凹が生じ、六ヵ月を
過ぎ七ヵ月ともなれば、
大脳の表面にはほとんど犬と
比較すべき
程度の
褶が見え、八ヵ月では全く
猿と同じくらいのありさままでに進んでくる。かく
大脳が
発達する間には他の
脳部ももとより
成長してはいるが、その
成長の速度が
大脳に
比してはるかに
劣るゆえ、
視神経葉のごときは早く
大脳の
陰に
隠れて見えなくなり、
小脳も
漸々比較的小なる部分となって、ついに人間
固有の
脳髄の
形状をなすにいたるのである。
以上述べたごとく、人間の
大脳なるものは決して
最初から今日のごときありさまにできたものではなく、
初めは
脳髄の中でもはなはだ小さい部分をなすに
過ぎなかったものが、
漸々進化してついにわれわれの見る通り、全
脳髄の大部分を
占めるほどに大きくなったものなることは
比較解剖学上からいうても、発生学上からいうても、
真らしいことである。また化石のほうを調べてみても、先年オランダ領インドで発見せられた「
猿人」(
Pithecanthropus)という
猿と人間との中間に
位する動物では、
脳髄のはいるべき
頭骨内の
腔所の広さがほぼ
猿と人間との中間くらいであり、また古い
石器時代の人間の
遺骨を調べて見ても、
脳髄のあるべき
頭骨内の
腔所が今日の人間にくらべるとはるかに
狭いことなどから考えると、
大脳の
漸々進化しきたったものなることは、これらの三組の事実のことごとく
証明するところで、もはや決して
疑うことはできぬ。
人と猿人との頭骨比較
さて生物の身体における
各器官が
漸々進化するのは何によるかといえば、これは主として自然
淘汰の
働きによることで、
生存に
必要な
器官の
最もよく
発達したものが、代々生き
残って
子孫をのこした
結果、ついに今日の
域までに進みきたったのである。してみると、
大脳とても、
胃、
腸、
肺、
肝等のごとき他の
臓腑と同じく、
生存競争に
加わり
得る
程度までにより進んではおらぬわけで、
日常普通の生活には間に合うが、決して
絶対に
完全のものと見なすことはできぬ。全体
自然界には、どこを
見渡してももはや少しも
改良を
施すべき
余地がないというような
絶対の
完全ということは決してない。すでにダーウィンも言うたとおり、
自然界においては「
競争すべき相手と同等か、あるいは少しくそれに
優る」ということが「
完全」の
標準であって、われわれが
自然物のある
性質を
完全なりと
評するのはつねにこの
標準に
照らして言うことである。今日
生存しているすべての動物にくらべては人間の
大脳が
最も
発達し、人間の知力が
最も進んでいることはむろんであるが、もはや進化の
極点に
達して、これ
以上には
働きが進むことのできぬというほどに
発達し終わったものでは決してない。 人間の今日の
脳髄が
絶対に
完全なものでないという
証拠は、少しく注意して人間の
所行を
観察すれば、ほとんど
無限に見いだすことができる。
夢ではずいぶんはなはだしい
不合理なことも少しも
疑わずに、
単に
当前のことのごとくに感ずるものであるが、広く世間を
見渡せば、昼間
立派に目の
覚めておるときにも、きわめて
不合理なことを平気で
信じている人もはなはだ多い。
未開の
野蛮人はしばらくおいて、文明開化に
誇る
欧米地方においてもばかげた
迷信ほどこれを
確信する人が多いような
傾きが見えるが、かように一方の人がたしかに
迷信と思うことを他の人は
堅く
信じて
疑わぬということも、
脳髄がいまだ
発達し終わったものでないという明らかな
証拠の一つであろう。
哲学者は
初めから自分の
脳力だけは
絶対に
完全であるものと
認定し、
思弁的に
宇宙の真理を
看破しつくそうと
頸をひねって、
大脳の発育
変遷というごときことには全く
心付きもせぬようであるが、
諸動物の
大脳を
比較し、人間の
大脳の進化の
経路を
探り
求め、これに
照らして
人類全体を
総括し考えてみると、
無智の
迷信者も、有名な
哲学者も、実は五十歩百歩の
間柄で、その間にいちじるしい
相違があるには
違いないが、同一の
先祖から起こって、同一の方向に進みきたり、なお今後もさらに先へ進もうとする
途中にあることゆえ、
絶対に
完全なものでないという点においてはいずれも同じである。
いかなる
器官でも
生存競争の
必要上、ある点まで
発達すれば、その本来の
目的に
向こうて用いるほかに、
副弐的の
目的のためにも用いることができる。一の
器官がある
働きをなすためには、これをなし
得るだけの一定の
構造がそなわらねばならぬが、一定の
構造がそなわってある
以上は、この
構造をもってなし
得べき他の
働きをもなすことができる。たとえば
味噌を
摺るためには
摺子木は
棒の形を有することが
必要であるが、
棒の形を有しておる
以上は、これを
一種の
棒として犬の頭を打つために用いることもできる。また風を起こすためには
団扇は
扁平でなければならぬが、
扁平である
以上はこれを
一種の
薄板として
蠅をたたくために用いることができる。人間の
大脳もこれと同様で、
生存競争上、
容易に
敵に負けぬだけの
策略を考え、また
容易に
同僚にだまされぬだけに用心をなし
得る
程度までに思考力が
発達してきたのであるが、いったんこの
程度までに思考し
得るだけの
仕掛けが
大脳内にできあがった
以上は、これを
日常の生活以外の方面に向こうて用いることができる。
従来の
哲学とか
宗教とかいうものは主としてかかる
性質のもので、思考力をその本来の
目的なる
生存競争より以外の方面に用いておるのであるから、あたかも
摺子木で犬を打ち、
団扇で
蠅をたたいておるごとき
関係のものであろう。この
心得をもって、
従来の
哲学や
宗教をとりあつかえば、決して
迷い
込むにいたらずしてしかも十分にその
実際を研究することができようかと思う。
前に
述べたとおり、われわれ人間は古い昔に
脊椎動物の
共同の
先祖より起こり、
魚類、
蛙、
鰐、
鶏、
兎、犬、
猿等のごとき
大脳を
備えた時代を通り
越し、知力もこれと同じ
順序に進みきたって、ついに今日のごとき
最も
発達した
大脳と、他に
比類なき知力とを有する
程度までに
到着した
次第であって、その間にわれわれの
先祖はおのおのその時代にしたがい、あるいは
魚類、あるいは
蛙類、ないしは
犬類または
猿類を相手として、はげしき
生存競争をなし、ついに知力によって、これらの
敵に打ち勝ち、もはや天下に
恐るべき
敵なき
全盛の
域に
達して、今日ではもっぱら知力を用いて
相互に
呑噬を
逞うするよりほかなき
境遇にいたったのである。
換言すればわれわれの今日有する
大脳は長い
歴史の
結果であって、いつもその時代の
生存競争に
必要な
程度までに
発達し、つねに先へ先へと進んできたのである。
なお考えねばならぬのは、
大脳の
働きが外界からの
影響をこうむっていちじるしく
変わることである。たとえば
酒精を
含んだ
飲料を用いると知、
情、意ともにたちまち調子が
変わって、つねに
静かな人も
盛んに
騒ぎ出し、
無口の人も急にしゃべるようになり、あるいは
泣きあるいは
怒って一時はあたかも
狂気のごとくに見える。されば
酒は昔から「
気違い水」とも名づけきたったが、
脳の
働きの調子を
狂わせるものは
酒のほかにもなおたくさんにある。
気違い
茄子と名づける
果実のごときもこれを食えば、一時全く
狂気のごとくになって、
全家こぞって
神輿をかついで村中を
駆けまわったなどという
例もある。
特におもしろいのは
亜酸化窒素と
称するガスで、これを
吸うと、
如何なる人もたちまち
陽気に
浮かれだして、きわめてご
機嫌がよくなるゆえ、一名これを「笑いガス」とも
呼ぶ。もし
釈迦の
呼吸した雪山の空気の中にこのガスの
若干量が
混じていたならば、
仏教もよほど
異なったものができたかもしれず、もしショペンハウエルの部屋の空気の中に少しくこのガスをまじえておいたならば、
彼の
哲学も全く
根柢から
違うたものとなったかもしれぬ。つまるところ、人間の
大脳は、
酸素二分と
窒素八分との
混じた
普通の空気を
呼吸し、
従来食いなれた
普通の食物を消化しながら、
生存競争をしてゆくのに役に立つだけにできているものゆえ、これと
異なった
状態におけば、
自然その
働きに
変調を生ずる
次第である。その他、
腹がへればいかなる食物も美味に感じ、
久しく
独身でいた
若者には
大概の
醜婦も美人に見えるなど、身体上の
関係から気分に
変化を生ずることもあり、また病気によってはあるいはわがままとなり、あるいは
憂鬱となって、その日その日の
思想にいちじるしい
影響をおよぼすことなどはつねに人の知るとおりであるが、これらを見ても
大脳の
働きは、
種々の
事情によって
絶えず動かされていることが明らかに知れる。
さらに考えねばならぬのは、
神経系の
働きは
意識に
現われた知、
情、意の作用のほかにもなお
存することである。
刺激に
応じて、ただちに
無意識的に
働く
反射運動のことは前に
述べたが、動物には
別に
本能という
働きがあって、あたかも知力によって考え出したかと思われるごとき
手段を用いて、
目的を知らずに
目的にかのうた
働きをする。たとえば
蝶類がその
幼虫の
餌となる植物の葉に
卵を
産みつけ、
蚕が
蛹となる前にまず
繭を
造ってそのうちに
隠れるごときはすなわち
本能の
働きであるが、これらは
一生涯にただ一回よりせぬことゆえ、前もって
稽古するわけでもなく、他を見習うて
真似するのでもない。生まれながらにして、かくなさずにはおられぬ
性質を
備えておるのである。下等動物を調べてみると、
本能の
働きには
驚くべきものがはなはだしく多くあり、中には実に
不思議に
堪えぬものもあるが、知力の進んだ動物では
本能は
漸々少なくなり、知力の
最も
発達した人間にいたれば、
本能はただわずかに生まれてただちに
乳を
求めて
吸うことと、一定の年ごろになると
異性を
求めて
相接せずにはおられぬこととの二つだけにとどまる。この二つはたれが教えずとも、たれに習わずとも生まれながらになし
得ることで、かつなさずには
我慢ができぬ。かく動物の
種類によって、
本能の
働く
範囲に広い
狭いの
相違はあるが、いずれにしても生長して子をのこし、
自己の
種属を
維持するという
目的にかのうたことばかりで、その以外に出るものはない。これより
推して考えると、知力も
本能も
反射運動も、みな同一の
目的のために
働く
神経作用の
異なった方面に
過ぎず、ともに
働いて
種属の
維持につとめているのである。人間は昔から
絶えず知力を
武器として
競争しきたったゆえ、知力は
盛んに
発達したが、
本能のほうはかえって
簡単な
程度にとどまり、
昆虫などではこれに反し、
本能の
発達如何によって直ちに
生存競争における
勝敗が決するゆえ、
本能がますます進んでついにわれわれからは
不思議と思われる
程度までに
達した。されば知力といい
本能というも、ともに
種属の
維持を
目的とする
働きであって、いずれも
自然淘汰によって、今日の
生存に
必要な
程度までに進みきたったとすれば、その中の一方の
働きの
発達した動物に、他のほうの
働きのあまり
発達しておらぬ理由もほぼ
了解することができよう。
神経系の
働きには
意識に
現われる部と
意識に
現われぬ部とがあるが、知力は
単に
意識に
現われる
働きの中の一部分に
過ぎぬ。ただ人間では
脳髄の中で
大脳のみが大きくなって他の
脳部をおおい
隠すとおりに、知力のみが
特に
発達してそのため他の
働きはかげに
隠れ、ほとんどなきがごとき感を生ずるにいたったのである。
以上述べきたったごとく、人間の知力の道具なる
大脳は、決して
最初から今日のとおりにできたものではなく、
人類の進化とともに一歩ずつ進んでついに
現在の
程度までに
発達しきたったのである。それゆえ、その
働く力も他の
胃、
腸、
肺、
肝等の
臓腑と同じく、
普通の
状態のもとにあって、
生存競争に
加わり
得る
程度を
限りとしてその
以上には出ない。しかして
平常に
異なった
状態のもとにおけば、この
働きに
変調が起こる。これらのことは知力によって事物を研究せんとする人々の
一刻も
忘れてはならぬところで、これを
忘れると、知らずしらず
空論に深入りしてついには
誤りにおちいりやすい。人間の
大脳の進化は前に
述べたとおりであるが、今日の
生存競争の
状況に
鑑みて、
未来を
推し
測れば、今後ともなおますます進むものと
断言せねばならぬが、
大脳のさらに
発達した世の中から今日のありさまをかえりみたならば、今日大学者の
論ずることも、あるいは
小児の
戯言のごとくに見えるやもしれぬ。かく考えると他人の
主張する
理論を聞いて、いかにもっともらしく感じても、これをもって
永久不変の真理と
信ずることもできなくなり、また自分がいかにもっともらしい
理屈を考えだしても、これをもって
万世不易の真理と
唱えることもできなくなり、すべて
脳力にて
理を
推し考える場合にはきわめて
慎重な
態度を取って、
推理の
一段ごとに、
実際に
照らして
調査するゆえ、はなはだしい
誤謬におちいるのを
避けることができよう。もっともいかなる学科でも、直ちに
実験で
証明することのできぬような
仮の
学説も
必要であるが、これはあたかも
燈火で
照らされた明るいところと、全く光の
達せぬ暗黒なところとの中間にある
半明半暗のあたりを半ば
想像によって
説明を
試みているごときもので、むろん
不完全には
違いないが、
将来の研究の
方針を定めるにあたっては大いに
参考となり、したごうて学問の進歩を
速かならしめるためにはなはだ
有効なものである。かかる
仮の
学説は
論者の見るところの
異なるにしたがい、同一の問題に対して
幾とおりも
異なったものが考え出され、
暫時は
互いに
相戦うごときこともあるが、
確実な
知識の
範囲が広がるに
伴うて、前に半明のところも後には全く明るくなり、
学説間の
争いはたちまちいずれにか決着してしまい、決していつまでも数多の
学説が
並び
存するというようなことはない。人間の
推理力をこのくらいの
程度に用いることはいずれの学問においても
有効で、かつ
必要であるが、この
程度を
超えて、
経験にも
実際にもはなはだ遠ざかったところまで、
単に
推理力のみに
依頼して考えつくそうとすれば、その
結果は
必ず大なる
誤謬におわるであろう。もし
単に
沈思黙考して先から先へと
理を
推し考えた
末に、
宇宙の真理をことごとく
悟りつくしたかのごとき感じが起こったならば、その時はすでに自分の
精神にいくぶんか
異常を
呈しかかったものと見なして注意するがよろしい。
脳髄の進化ということをつねに
忘れぬ者は決してかかる
状態におちいるおそれはないはずである。
(明治三十九年二月)