脳髄の進化

丘浅次郎




 人間の身体の内にある種々しゅしゅ器官きかんは、いずれを取ってもその進化の経路けいろを調べて見て、おもしろくないものはないが、その中でもとく脳髄のうずいは物を考える道具であるゆえ、それが今日のありさままでに発達はったつしきたった由来ゆらいを研究することは、学問をおさめる人等にとってはきわめて興味きょうみもあり、かつ有益ゆうえきなことであろう。ここにはただその大略たいりゃくだけをいて、それより生ずる考えをひととおりべるつもりである。
 われわれの頭の皮をはぎ去り、頭骨ずこつを切り開いて見ると、その中にはおよそ三きん(注:1.8Kg)ばかりの、白くて豆腐とうふのごとくにやわらいものが充満じゅうまんしているが、これがすなわち脳髄のうずいである。その全形は頭部全体の外形と同様にほぼ卵形たまごがたで、上から見るとたての深いみぞによって左右両半球に分かれ、その表面には全部不規則ふきそく凸凹でこぼこがあって、あたかも蒲鉾かまぼこじょうの山と、その間の谷とが複雑ふくざつに入りまじっているごとくである。さらに後部のやや下面にあたるところを見ると、ここには他とことなって、細かい横しわの重なっている部分があるが、これだけを小脳しょうのうと名づけ、先の部分を大脳だいのうと名づけて区別くべつする。なおその他には延髄えんずいというて、脳髄のうずいから脊骨せぼねの内にある脊髄せきずいのほうへつづ途中とちゅうにあたる小さな部分がある。
 かような部分よりなり立った脳髄のうずいは、何のはたらきをする器官きかんであるかというに、大脳だいのうは第一に自己じこ存在そんざいを知る意識いしきの作用をつとめるところで、もし頭骨ずこつを切り開いて大脳だいのうをあらわし、その表面に少しく圧力あつりょくくわえるか、または頸部けいぶ血管けっかんしばって大脳だいのうへ行く血液けつえきの流れを暫時ざんじ止めて、酸素さんそ欠乏けつぼうを生ぜしめたりすれば、その人はたちまち意識いしきうしなうて人事不省ふしょうのありさまにおちいってしまう。魔睡薬ますいやくはたらきもこれと同じく、全く大脳だいのうの作用を一時止めるにある。かくのごとくにして大脳だいのうはたらきの止まった人間、または試験しけんのために大脳だいのうを切りのぞいた犬ねこなどは、あたかも睡眠すいみん中のごときありさまで、呼吸こきゅう脈搏みゃくはく等はほぼ平常へいじょうのとおりであるが、ただ意識いしきのみが消えせて、一種いっしゅ自働じどう器械きかいとなってしまう。なおくわしくいえば、大脳だいのうは知、じょう、意のごときいわゆる精神せいしんてきの作用をする器官きかんであって、この器官きかん完全かんぜんそなわり、かつ完全かんぜんはたらる場合においてのみ、かかる精神せいしんてき作用が十分にあらわれるのである。小脳しょうのうはたらきについてはいまだことごとく知れぬ点もあるが、従来じゅうらい実験じっけんによると、身体各部かくぶの運動を調和一致いっちせしめて、ある一定の目的もくてきにかなわしめることである。たとえば、はとなどの頭から小脳しょうのうのみを取りのぞくと、意識いしき、知、じょう、意などは少しもそんせず、かつ身体各部かくぶの運動の力もそんするが、全身の一致いっち調和した整然せいぜんたる運動は全くできなくなってしまう。また延髄えんずい脊髄せきずいは、の前へ急に光った物でもくれば知らずして眼瞼まぶたじるごとき、刺激しげきおうじて意識いしきてきに行なういわゆる反射はんしゃ運動の中枢ちゅうすうである。

「人の脳髄の側面」のキャプション付きの図
人の脳髄のうずい側面そくめん

 大脳だいのうは知、じょう、意などのごとき高等なる精神せいしんてき作用をつかさどる器官きかんなることは今べたとおりであるが、その中でもとくに目立って感ずるのは知力との関係かんけいである。種々しゅしゅの動物を集めてその脳髄のうずいを調べてみると、知力の進んだものほど大脳だいのうもよく発達はったつしていることがはなはだ明らかに知れる。また人間だけについていうても全くそのとおりで、無知むち野蛮やばん人種じんしゅと知力の進んだ文明人種じんしゅとをくらべて見ると文明人のほうがいちじるしく大脳だいのう発達はったつしている。医者のほうには「病理びょうり生理せいりを教える」ということわざがあるが、実際じっさいいずれの方面においても、異常いしょうの場合を研究して、始めて平常へいじょう状態じょうたいにおける関係かんけい明瞭めいりょうにわかることが往々おうおうある。精神せいしん病者を死後に解剖かいぼうして大脳だいのう病的びょてき変化へんかのあったことを見いだし、これによって生前の病の原因げんいんさっる場合もあるが、とくにおもしろいのは天然てんねん奇形きけいである。幼児ようじ胎内たいないで発育する途中とちゅうに、何らかの原因げんいんによって、頭骨ずこつ成長せいちょうが早く止まって、大脳だいのうもきわめて小さいままで生まれ、他の体部は大きくなっても、頭だけがはなはだ小さい奇形児きけいじができることがあるが、これは天然てんねんが行なう実験じっけんとも名づくべきもので、その生活状態じょうたいを調べると、普通ふつうの人間の大脳だいのうはたらきを知るためには大いに参考さんこうになる。かような奇形児きけいじは十さいになっても二十歳はたちになっても精神せいしん状態じょうたいはあたかも一さいか二さい幼児ようじのごとく、知、じょう、意ともにきわめて程度ていどひくいが、とくに知力にいたっては普通ふつう人との相違そういが実にはなはだしい。猿男さるおとことか狐娘きつねむすめとか名をけて、時々見せ物に出ているのは多くはかような奇形児きけいじである。
 以上いじょうべたごとく、われわれの精神せいしんてき作用なるものはすべて大脳だいのうはたらきで、とくに学問のもとなる知力にいたっては、大脳だいのう発達はったつ直接ちょくせつ比例ひれいしていることが明らかであるが、これからし考えて見ると、われわれの大脳だいのうはいかなる経歴けいれき通過つうかして、今日の程度ていどのものまでに進化しきたったかということを知るのは、何学問をおさめる者にとってもきわめて必要ひつようなことである。とく哲学てつがく倫理りんり、教育、宗教しゅうきょう等のごとき主として大脳だいのうの力のみをたよりとして研究する種類しゅるいの学科ではよほどこの点に注意せねばならぬ。大脳だいのうは学問の道具とも見なすべき器官きかんであるゆえ、何学問をおさめる者も、まずその道具なる大脳だいのう歴史れきしを知り、そのはたらきの真価しんかを明らかにしておくことが肝要かんようであるが、前述ぜんじゅしょ学科ではとくにこの事が大切である。もしこの点に注意せず、大脳だいのうはたらきを絶対ぜったい信頼しんらいしてかかると、たちまち大なるあやまりにおちいり種種しゅしゅ空論くうろんを考え出して、後世の物笑ものわらいとなるに終わるやもしれぬ。
 今日生存せいぞんしている動物種属しゅぞく現在げんざいのありさままでに進化しきたった経路けいろはすべて過去かこ歴史れきしぞくするゆえ、実際じっさいこれを目の前に見ることはもちろんできぬが、人間社会におけると同じく、昔の事蹟じせき探知たんちえるべき材料ざいりょうは今日なおたくさんにそんしてあるゆえ、これらを手掛てがかりとしていくぶんか正確せいかく過去かこ歴史れきしを知ることができる。たとえば古物や古文書によって古い昔の歴史れきしが知れるごとくに、化石によってずいぶん古代の動物のありさまを知りることもある。また現今げんこん口碑こうひ儀式ぎしき等が歴史れきし研究の参考さんこうとなるごとくに、現今げんこんの動物を比較ひかく解剖かいぼうして、ある動物の進化の経路けいろを知るための材料ざいりょうることもある。されば今日生物学において、各生物の進化の経路けいろさぐり出すための手掛てがかりは、比較ひかく解剖かいぼう学上の事実、発生学上の事実、化石学上の事実等であるが、脳髄のうずいの進化のごときもこの三種類しゅるいの事実からし考えれば、大体だけは明らかに知ることができる。小脳しょうのうその他ののう部のことはしばらくおき、ここには主として知力の器官きかんなる大脳だいのうの進化の経路けいろだけをこの三方面からろんじてみよう。
 まず脊椎せきつい動物の中から若干じゃっかんれいを取り出して、その大脳だいのう比較ひかくしてみるに、さい下等のものからさい高等の人間にいたるまで、階段だんかいてき漸々ぜんぜん進みきたったあとが明らかに知れる。ここにげた略図りゃくずのうち、第1は人間の脳髄のうずいの上面を少しく後からななめに見たところであるが、ほとんど全部が大脳だいのうのみからり立ち、小脳しょうのうはわずかに後縁こうえんのところに少しくあらわれているだけである。大脳だいのうは前にもべたとおりたてみぞによって左右の両半球に分かれ、各半球の表面には複雑ふくざつ雲形うんけい凸凹でこぼこがある。これは大脳だいのうの中でもっと重要じゅうよう皮質ひしつ部が発達はったつして、表面がいちじるしく増加ぞうかした結果けっかで、有名な学者の脳髄のうずいなどではこの凸凹でこぼこもっとも整うている。第2はさる脳髄のうずいであるが、これは大体においては人間の脳髄のうずいによくている。その相違そういの点は脳髄のうずい全体に対して大脳だいのうがやや小さく、小脳しょうのうがやや大きく、かつ大脳だいのうの表面の凸凹でこぼこがいくぶんか簡単かんたんなことである。第3は犬の脳髄のうずいで、これでは小脳しょうのうがほとんど全部あらわれ、大脳だいのうさるしてなお一段いちだん小さく、かつ表面の凸凹でこぼこも少しく簡単かんたんになり、その前端ぜんだんには新たに一対の小さな突起とっきあらわれている。この突起とっき嗅神経葉きゅうしんけいようと名づけるもので、鼻へゆく神経しんけいもとであるが、この部は人間やさるでは大脳だいのうの下にかくれてあるゆえ、上面からは見えぬ。第4のうさぎ脳髄のうずいは、大体は犬のにてはいるが、大脳だいのうがさらにいっそう小さく、その表面にはほとんど凸凹でこぼこがなく、ほぼ平滑へいかつになって、人間やさるのにくらべると、外観がいかん上いちじるしく相違そういして見える。第5はにわとり脳髄のうずいであるが、大脳だいのう小脳しょうのうはよほどうさぎのに近い、しかしながら大脳だいのうの後に一対の丸い部分が新たにあらわれた。これは視神経ししんけい葉というてにゆく神経しんけいもとである。人間、さる、犬、うさぎ等のごとき獣類じゅうるいにもこの部は存在そんざいしてあるが、大脳だいのう小脳しょうのうとの間にかくれているゆえ、大脳だいのう小脳しょうのうとの間をし開いてのぞかなければ見えぬ。にわとりではこの部がとく発達はったつしているというよりも、他の部分とく大脳だいのう発達はったつ程度ていどがややひくくて、この部をおおいかくすに足りぬゆえ、外面にあらわれているのである。第6はわに脳髄のうずいで、大脳だいのうにわとりよりもなお小さく、視神経ししんけい葉はいちじるしくあらわれている。第7のかえる脳髄のうずいでは大脳だいのうはさらに小さく、その両半はおのおの前なる嗅神経きゅうしんけい葉とたてにつづいて、あたかも細い瓢箪ひようたんを二つならべたごとき形をていしているが、この瓢箪ひようたんの前半は嗅神経きゅうしんけい葉で、後半のみが大脳だいのうである。また全脳髄のうずいに対しては視神経ししんけい葉がいちじるしく大きく、その後にあたる小脳しょうのうははなはだ発達はったつ程度ていどひくい。最後さいごの第8図にしめしてある魚類ぎょるい脳髄のうずいにいたっては大脳だいのうがはなはだ小さいために、はじめてこれを見る人はいずれが大脳だいのうであるか識別しきべつに苦しむくらいである。脳髄のうずいの中ほどにあって、大部分をめている一対の丸いかたまりは、ちょっと見るとあたかも大脳だいのうであるかのごとくに思われるが、実はこれが視神経ししんけい葉であって、その前にならんでいるやや小さい一対の球のほうが真の大脳だいのうである。なおその後にある一個の大塊おおかたまり小脳しょうのうであるが、かくのごとく、名は大脳だいのう小脳しょうのうとつけてあっても、魚類ぎょるいなどでは小脳しょうのうのほうがはるかに大脳だいのうよりは大きい。以上いじょう略図りゃくずについて説明せつめいしたとおり、脊椎せきつい動物の中からいくつかのれいり出して比較ひかくして見ると、大脳だいのう発達はったつ程度ていどにはたくさんの階段かいだんがあって、これをならべて通覧つうらんすれば、一端いったんより他端たたんまで漸々ぜんぜん進化しきたった経路けいろがほぼ明瞭めいりょうに知れる。ここにことわっておくべきことは、以上いじょう略図りゃくずは全脳髄のうずいの大きさに対する大脳だいのう発達はったつ程度ていどしめすために、何動物の脳髄のうずいをも同じ大きさになおして画いたが、実際じっさいにおいてはむろん高等の動物ほど脳髄のうずいの大きさも大きく、人間では脳髄のうずいりょうが体重の四十分の一くらいもあるに、ぶりまぐろでは体重の一万分の一にも足らぬほどゆえ、大脳だいのう絶対ぜったいの大きさの相違そういは、ここにげた図よりはさらに数倍も数十倍もはなはだしいのである。

「脊椎動物脳髄比較」のキャプション付きの図
1.人間 2.さる 3.犬 4.うさぎ 5.にわとり 6.わに 7.かえる 8.魚類ぎょるい

脊椎動物脳髄比較せきついどうぶつのうずいひかく

 以上いじょう脊椎せきつい動物の大脳だいのう発達はったつ無数むすう階段かいだんのある中から便宜べんぎ上ただ若干じゃっかんのものをえらみ出してたがいに比較ひかくしただけであるが、その中の下等にくらいするものは、どのくらいの知力を有するかをしめすために一例いちれいをあげれば、次のごとき実験じっけんがある。ヨーロッパにはすずき河魚かぎょで、小さな魚類ぎょるい貪食どんしょくする種類しゅるいがあるが、ある人がこの魚を水族箱に入れてやしない、箱の中央へ一枚いちまいのガラス板を入れて仕切りをつくり、他のがわへつねにこの魚のえさとなる小魚類しょうぎょるいはなったところが、最初さいしょ透明とうめいなガラス板のあることには気がかず、小魚をとらえ食おうとしては、ガラス板に鼻を打ちけ、また食おうとしては、またガラス板に鼻を打ちけ、数日間かようのことのつづいた後には、もはや小魚をとらえようとこころみぬようになってしもうた。この時にいたって中間のガラス板を取りのぞいたところが、かの魚には小魚をとらえることと、鼻のいたいこととの結合けつごうした印象いんしょうのう中にのこつていたものと見え、あたかもかの小魚は鼻のいたくなるものであるとおぼんだかのごとくに、顔の前へ小魚がおよいできてもこれをとらえようとはしなかった。今日は下等動物の心理や、習性しゅうせいを研究することが大分さかんんになり、米国などでは、とくにそのための専門せんもん雑誌ざっしが発行せられるまでに進んで、この方面の知識ちしきもよほどして来たが、それらの研究によると、如何いかなる下等動物にも、なおいくぶんかの知力のあることはたしかで、ここにべた魚類ぎょるいのごときも、その知力、推理すいり力ははなはだひくいが、われわれのにくらべれば、ただ程度ていどがいちじるしくひくいというだけで、性質せいしつにおいてはほぼ同一である。他のれいをあげることはりゃくするが、いずれの動物でも大脳だいのうはたらき具合はみなたんに進歩の程度ていど相違そういがあるにぎぬ。

「人脳発生図」のキャプション付きの図
 い 大脳だいのう ろ 視神経ししんけい葉  は 小脳しょうのう  に 延髄えんずい

人脳発生図

 次に胎内たいないにおける人間の脳髄のうずいの発生の順序じゅんじょを見るに、比較ひかく解剖かいぼう結果けっかとほぼ同様な事実を見いだすことができる。人間の脳髄のうずい胎内たいない発生の初期しょきより成人せいじんになるまでの間に漸々ぜんぜん発達はったつするものゆえ、これにも無数むすう階段かいだんがあるが、今その中から便宜べんぎ上、ほぼ前にげた比較ひかく解剖かいぼう図にあるものに相当すると思われる若干じゃっかん階段かいだんえらみ出し、発育の程度ていどしたがうて、前とは順序じゅんじょさかさまにして、まずもっと発達はったつひくいほうから説明せつめいしてみるに、受胎じゅたい後およそ三週間くらいの胎児たいじでは、全脳髄のうずいの中で視神経ししんけい葉にあたる部分のみが非常ひじょうに大きく、その前に二つならんである大脳だいのう両半球の始まりははるかにこれより小さいから、ほとんど魚類ぎょるい脳髄のうずいと同程度ていどにあるというてよろしかろう。次に五週間くらいになると、大脳だいのう発達はったつが、他ののう部よりもやや速いために脳髄のうずい全体に対する大脳だいのうの大きさがいちじるしく進んで、ほぼかえる脳髄のうずいにおけると同じ程度ていどたっする。八週間すなわち二ヵ月くらいになると大脳だいのうがさらに大きくなって、大脳だいのう小脳しょうのう視神経ししんけい葉等の割合わりあいがほぼわに脳髄のうずいにおけると相匹敵ひってきする。なお進んで三ヵ月から五ヵ月の間にいたれば大脳だいのう発達はったつ程度ていどにわとりもしくはうさぎ階段かいだんに相当し、大脳だいのうはすでに全脳髄のうずい中のもっとも大なる部分となり、その後にはやや小なる小脳しょうのうそなえ、二者の間からはなお視神経ししんけい葉があらわれている。ただしこのころまでは大脳だいのうの表面は全く平滑へいかつで少しも凸凹でこぼこひだがないが、これからおいおい大脳だいのう皮質ひしつ部が比較ひかくてきすみやかに発達はったつして、そのため表面に凸凹でこぼこが生じ、六ヵ月をぎ七ヵ月ともなれば、大脳だいのうの表面にはほとんど犬と比較ひかくすべき程度ていどひだが見え、八ヵ月では全くさると同じくらいのありさままでに進んでくる。かく大脳だいのう発達はったつする間には他ののう部ももとより成長せいちょうしてはいるが、その成長せいちょうの速度が大脳だいのうしてはるかにおとるるゆえ、視神経ししんけい葉のごときは早く大脳だいのうかげかくれて見えなくなり、小脳しょうのう漸々ぜんぜん比較ひかくてき小なる部分となって、ついに人間固有こゆう脳髄のうずい形状けいじょうをなすにいたるのである。
 以上いじょうべたごとく、人間の大脳だいのうなるものは決して最初さいしょから今日のごときありさまにできたものではなく、はじめは脳髄のうずいの中でもはなはだ小さい部分をなすにぎなかったものが、漸々せんぜん進化してついにわれわれの見る通り、全脳髄のうずいの大部分をめるほどに大きくなったものなることは比較ひかく解剖かいぼう学上からいうても、発生学上からいうても、まことらしいことである。また化石のほうを調べてみても、先年オランダ領インドで発見せられた「猿人えんじん」(Pithecanthropusピテカンツロプス)というさると人間との中間にくらいする動物では、脳髄のうずいのはいるべき頭骨ずこつ内の腔所くうしょの広さがほぼさると人間との中間くらいであり、また古い石器せっき時代の人間の遺骨いこつを調べて見ても、脳髄のうずいのあるべき頭骨ずこつ内の腔所くうしょが今日の人間にくらべるとはるかにせまいことなどから考えると、大脳だいのう漸々ぜんぜん進化しきたったものなることは、これらの三組の事実のことごとく証明しょうめいするところで、もはや決してうたがうことはできぬ。

「人と猿人との頭骨比較」のキャプション付きの図
人とさる人との頭骨ずこつ比較ひかく

 さて生物の身体における各器官かくきかん漸々ぜんぜん進化するのは何によるかといえば、これは主として自然淘汰とうたはたらきによることで、生存せいぞん必要ひつよう器官きかんもっともよく発達はったつしたものが、代々生きのこって子孫しそんをのこした結果けっか、ついに今日のいきまでに進みきたったのである。してみると、大脳だいのうとても、ちょうはいかん等のごとき他の臓腑ぞうふと同じく、生存せいぞん競争きょうそうわり程度ていどまでにより進んではおらぬわけで、日常にちじょう普通ふつうの生活には間に合うが、決して絶対ぜったい完全かんぜんのものと見なすことはできぬ。全体自然しぜん界には、どこを見渡みわたしてももはや少しも改良かいりょうほどこすべき余地よちがないというような絶対ぜったい完全かんぜんということは決してない。すでにダーウィンも言うたとおり、自然しぜん界においては「競争きょうそうすべき相手と同等か、あるいは少しくそれにまさる」ということが「完全かんぜん」の標準ひょうじんであって、われわれが自然しぜん物のある性質せいしつ完全かんぜんなりとひょうするのはつねにこの標準ひょうじんらして言うことである。今日生存せいぞんしているすべての動物にくらべては人間の大脳だいのうもっと発達はったつし、人間の知力がもっとも進んでいることはむろんであるが、もはや進化の極点きょくてんたっして、これ以上いじょうにははたらきが進むことのできぬというほどに発達はったつし終わったものでは決してない。 人間の今日の脳髄のうずい絶対ぜったい完全かんぜんなものでないという証拠しょうこは、少しく注意して人間の所行しょぎょう観察かんさつすれば、ほとんど無限むげんに見いだすことができる。ゆめではずいぶんはなはだしい不合理ふごうりなことも少しもうたがわずに、たん当前あたりまえのことのごとくに感ずるものであるが、広く世間を見渡みわたせば、昼間立派りっぱに目のめておるときにも、きわめて不合理ふごうりなことを平気でしんじている人もはなはだ多い。未開みかい野蛮やばん人はしばらくおいて、文明開化にほこ欧米おうべい地方においてもばかげた迷信めいしんほどこれを確信かくしんする人が多いようなかたむきが見えるが、かように一方の人がたしかに迷信めいしんと思うことを他の人はかたしんじてうたがわぬということも、脳髄のうずいがいまだ発達はったつし終わったものでないという明らかな証拠しょうこの一つであろう。哲学てつがく者ははじめから自分ののう力だけは絶対ぜったい完全かんぜんであるものと認定にんていし、思弁しべんてき宇宙うちゅうの真理を看破かんぱしつくそうとくびをひねって、大脳だいのうの発育変遷へんせんというごときことには全く心付こころづきもせぬようであるが、しょ動物の大脳だいのう比較ひかくし、人間の大脳だいのうの進化の経路けいろさぐもとめ、これにらして人類じんるい全体を総括そうかつし考えてみると、無智むち迷信めいしん者も、有名な哲学てつがく者も、実は五十歩百歩の間柄あいだがらで、その間にいちじるしい相違そういがあるにはちがいないが、同一の先祖せんぞから起こって、同一の方向に進みきたり、なお今後もさらに先へ進もうとする途中とちゅうにあることゆえ、絶対ぜったい完全かんぜんなものでないという点においてはいずれも同じである。
 いかなる器官きかんでも生存せいぞん競争きょうそう必要ひつよう上、ある点まで発達はったつすれば、その本来の目的もくてきこうて用いるほかに、副弐的ふくじてき目的もくてきのためにも用いることができる。一の器官きかんがあるはたらきをなすためには、これをなしるだけの一定の構造こうぞうがそなわらねばならぬが、一定の構造こうぞうがそなわってある以上いじょうは、この構造こうぞうをもってなしえるべき他のはたらきをもなすことができる。たとえば味噌みそるためには摺子木すりこぎぼうの形を有することが必要ひつようであるが、ぼうの形を有しておる以上いじょうは、これを一種いっしゅぼうとして犬の頭を打つために用いることもできる。また風を起こすためには団扇うちわ扁平へんぺいでなければならぬが、扁平へんぺいである以上いじょうはこれを一種いっしゅ薄板うすいたとしてはえをたたくために用いることができる。人間の大脳だいのうもこれと同様で、生存せいぞん競争きょうそう上、容易よういてきに負けぬだけの策略さくりゃくを考え、また容易ようい同僚どうりょうにだまされぬだけに用心をなし程度ていどまでに思考力が発達はったつしてきたのであるが、いったんこの程度ていどまでに思考しるだけの仕掛しかけが大脳だいのう内にできあがった以上いじょうは、これを日常にちじょうの生活以外の方面に向こうて用いることができる。従来じゅうらい哲学てつがくとか宗教しゅうきょうとかいうものは主としてかかる性質せいしつのもので、思考力をその本来の目的もくてきなる生存せいぞん競争きょうそうより以外の方面に用いておるのであるから、あたかも摺子木すりこぎで犬を打ち、団扇うちわはえをたたいておるごとき関係かんけいのものであろう。この心得こころえをもって、従来じゅうらい哲学てつがく宗教しゅうきょうをとりあつかえば、決してまよむにいたらずしてしかも十分にその実際じっさいを研究することができようかと思う。
 前にべたとおり、われわれ人間は古い昔に脊椎せきつい動物の共同きょうどう先祖せんぞより起こり、魚類ぎょるいかえるわににわとりうさぎ、犬、さる等のごとき大脳だいのうそなえた時代を通りし、知力もこれと同じ順序じゅんじょに進みきたって、ついに今日のごときもっと発達はったつした大脳だいのうと、他に比類ひるいなき知力とを有する程度ていどまでに到着とうちゃくした次第しだいであって、その間にわれわれの先祖せんぞはおのおのその時代にしたがい、あるいは魚類ぎょるい、あるいは蛙類かえるるい、ないしは犬類いぬるいまたは猿類えんるいを相手として、はげしき生存せいぞん競争きょうそうをなし、ついに知力によって、これらのてきに打ち勝ち、もはや天下におそるべきてきなき全盛ぜんせいいきたっして、今日ではもっぱら知力を用いて相互そうご呑噬どんぜいたくましうするよりほかなき境遇きょうぐうにいたったのである。換言かんげんすればわれわれの今日有する大脳だいのうは長い歴史れきし結果けっかであって、いつもその時代の生存せいぞん競争きょうそう必要ひつよう程度ていどまでに発達はったつし、つねに先へ先へと進んできたのである。
 なお考えねばならぬのは、大脳だいのうはたらきが外界からの影響えいきょうをこうむっていちじるしくわることである。たとえば酒精アルコールふくんだ飲料いんりょうを用いると知、じょう、意ともにたちまち調子がわって、つねにしずかな人もさかんんにさわぎ出し、無口むくちの人も急にしゃべるようになり、あるいはきあるいはおこって一時はあたかも狂気きょうきのごとくに見える。さればさけは昔から「気違きちがい水」とも名づけきたったが、のうはたらきの調子をくるわせるものはさけのほかにもなおたくさんにある。気違きちが茄子なすと名づける果実かじつのごときもこれを食えば、一時全く狂気きょうきのごとくになって、全家ぜんかこぞって神輿しんよをかついで村中をけまわったなどというれいもある。とくにおもしろいのは亜酸化あさんか窒素ちっそしょうするガスで、これをうと、如何いかなる人もたちまち陽気ようきかれだして、きわめてご機嫌きげんがよくなるゆえ、一名これを「笑いガス」ともぶ。もし釈迦しやか呼吸こきゅうした雪山の空気の中にこのガスの若干じやつかんりょうじていたならば、仏教ぶっきょうもよほどことなったものができたかもしれず、もしショペンハウエルの部屋の空気の中に少しくこのガスをまじえておいたならば、哲学てつがくも全く根柢こんていからちがうたものとなったかもしれぬ。つまるところ、人間の大脳だいのうは、酸素さんそ二分と窒素ちっそ八分とのじた普通ふつうの空気を呼吸こきゅうし、従来じゅうらい食いなれた普通ふつうの食物を消化しながら、生存せいぞん競争きょうそうをしてゆくのに役に立つだけにできているものゆえ、これとことなった状態じょうたいにおけば、自然しぜんそのはたらきに変調へんちょうを生ずる次第しだいである。その他、はらがへればいかなる食物も美味に感じ、ひさしく独身どくしんでいた若者わかものには大概たいがい醜婦しゅうふも美人に見えるなど、身体上の関係かんけいから気分に変化へんかを生ずることもあり、また病気によってはあるいはわがままとなり、あるいは憂鬱ゆううつとなって、その日その日の思想しそうにいちじるしい影響えいきょうをおよぼすことなどはつねに人の知るとおりであるが、これらを見ても大脳だいのうはたらきは、種々しゅしゅ事情じじょうによってえず動かされていることが明らかに知れる。
 さらに考えねばならぬのは、神経しんけいけいはたらきは意識いしきあらわれた知、じょう、意の作用のほかにもなおそんすることである。刺激しげきおうじて、ただちに意識いしきてきはたら反射はんしゃ運動のことは前にべたが、動物にはべつ本能ほんのうというはたらきがあって、あたかも知力によって考え出したかと思われるごとき手段しゅだんを用いて、目的もくてきを知らずに目的もくてきにかのうたはたらきをする。たとえば蝶類ちょうるいがその幼虫ようちゅうえさとなる植物の葉にたまごみつけ、かいこさなぎとなる前にまずまゆつくってそのうちにかくれるごときはすなわち本能ほんのうはたらきであるが、これらは一生涯いっしょうがいにただ一回よりせぬことゆえ、前もって稽古けいこするわけでもなく、他を見習うて真似まねするのでもない。生まれながらにして、かくなさずにはおられぬ性質せいしつそなえておるのである。下等動物を調べてみると、本能ほんのうはたらきにはおどろくべきものがはなはだしく多くあり、中には実に不思議ふしぎえぬものもあるが、知力の進んだ動物では本能ほんのう漸々ぜんぜん少なくなり、知力のもっと発達はったつした人間にいたれば、本能ほんのうはただわずかに生まれてただちにちちもとめてうことと、一定の年ごろになると異性いせいもとめて相接あいせっせずにはおられぬこととの二つだけにとどまる。この二つはたれが教えずとも、たれに習わずとも生まれながらになしることで、かつなさずには我慢がまんができぬ。かく動物の種類しゅるいによって、本能ほんのうはたら範囲はんいに広いせまいの相違そういはあるが、いずれにしても生長して子をのこし、自己じこ種属しゅぞく維持いじするという目的もくてきにかのうたことばかりで、その以外に出るものはない。これよりして考えると、知力も本能ほんのう反射はんしゃ運動も、みな同一の目的もくてきのためにはたら神経しんけい作用のことなった方面にぎず、ともにはたらいて種属しゅぞく維持いじにつとめているのである。人間は昔からえず知力を武器ぶきとして競争きょうそうしきたったゆえ、知力はさかんんに発達はったつしたが、本能ほんのうのほうはかえって簡単かんたん程度ていどにとどまり、昆虫こんちゅうなどではこれに反し、本能ほんのう発達はったつ如何いかんによって直ちに生存せいぞん競争きょうそうにおける勝敗しょうはいが決するゆえ、本能ほんのうがますます進んでついにわれわれからは不思議ふしぎと思われる程度ていどまでにたっした。されば知力といい本能ほんのうというも、ともに種属しゅぞく維持いじ目的もくてきとするはたらきであって、いずれも自然しぜん淘汰とうたによって、今日の生存せいぞん必要ひつよう程度ていどまでに進みきたったとすれば、その中の一方のはたらきの発達はったつした動物に、他のほうのはたらきのあまり発達はったつしておらぬ理由もほぼ了解りょうかいすることができよう。神経しんけいけいはたらきには意識いしきあらわれる部と意識いしきあらわれぬ部とがあるが、知力はたん意識いしきあらわれるはたらきの中の一部分にぎぬ。ただ人間では脳髄のうずいの中で大脳だいのうのみが大きくなって他ののう部をおおいかくすとおりに、知力のみがとく発達はったつしてそのため他のはたらきはかげにかくれ、ほとんどなきがごとき感を生ずるにいたったのである。
 以上いじょうべきたったごとく、人間の知力の道具なる大脳だいのうは、決して最初さいしょから今日のとおりにできたものではなく、人類じんるいの進化とともに一歩ずつ進んでついに現在げんざい程度ていどまでに発達はったつしきたったのである。それゆえ、そのはたらく力も他のちょうはいかん等の臓腑ぞうふと同じく、普通ふつう状態じょうたいのもとにあって、生存せいぞん競争きょうそうわり程度ていどかぎりとしてその以上いじょうには出ない。しかして平常へいじょうことなった状態じょうたいのもとにおけば、このはたらきに変調へんちょうが起こる。これらのことは知力によって事物を研究せんとする人々の一刻いっこくわすれてはならぬところで、これをわすれると、知らずしらず空論くうろんに深入りしてついにはあやまりにおちいりやすい。人間の大脳だいのうの進化は前にべたとおりであるが、今日の生存せいぞん競争きょうそう状況じょうきょうかんがみて、未来みらいはかれば、今後ともなおますます進むものと断言だんげんせねばならぬが、大脳だいのうのさらに発達はったつした世の中から今日のありさまをかえりみたならば、今日大学者のろんずることも、あるいは小児しょうに戯言ざれごとのごとくに見えるやもしれぬ。かく考えると他人の主張しゅちょうする理論りろんを聞いて、いかにもっともらしく感じても、これをもって永久えいきゅう不変ふへんの真理としんずることもできなくなり、また自分がいかにもっともらしい理屈りくつを考えだしても、これをもって万世不易ばんせふえきの真理ととなえることもできなくなり、すべてのう力にてことわりし考える場合にはきわめて慎重しんちょう態度たいどを取って、推理すいり一段いちだんごとに、実際じっさいらして調査ちょうさするゆえ、はなはだしい誤謬ごびゅうにおちいるのをけることができよう。もっともいかなる学科でも、直ちに実験じっけん証明しょうめいすることのできぬようなかり学説がくせつ必要ひつようであるが、これはあたかも燈火とうからされた明るいところと、全く光のたっせぬ暗黒なところとの中間にある半明半暗はんめいはんあんのあたりを半ば想像そうぞうによって説明せつめいこころみているごときもので、むろん不完全ふかんぜんにはちがいないが、将来しょうらいの研究の方針ほうしんを定めるにあたっては大いに参考さんこうとなり、したごうて学問の進歩をすみやかならしめるためにはなはだ有効ゆうこうなものである。かかるかり学説がくせつ論者ろんじゃの見るところのことなるにしたがい、同一の問題に対していくとおりもことなったものが考え出され、暫時ざんじたがいに相戦あいたたかううごときこともあるが、確実かくじつ知識ちしき範囲はんいが広がるにともなうて、前に半明のところも後には全く明るくなり、学説がくせつ間のあらそいはたちまちいずれにか決着してしまい、決していつまでも数多の学説がくせつならそんするというようなことはない。人間の推理すいり力をこのくらいの程度ていどに用いることはいずれの学問においても有効ゆうこうで、かつ必要ひつようであるが、この程度ていどえて、経験けいけんにも実際じっさいにもはなはだ遠ざかったところまで、たん推理すいり力のみに依頼いらいして考えつくそうとすれば、その結果けっかかならず大なる誤謬ごびゅうにおわるであろう。もしたん沈思黙考ちんしもっこうして先から先へとことわりし考えたすえに、宇宙うちゅうの真理をことごとくさとりつくしたかのごとき感じが起こったならば、その時はすでに自分の精神せいしんにいくぶんか異常いしょうていしかかったものと見なして注意するがよろしい。脳髄のうずいの進化ということをつねにわすれぬ者は決してかかる状態じょうたいにおちいるおそれはないはずである。
(明治三十九年二月)







底本:「進化と人生(上)」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1906(明治39)年2月   脳髄の進化 早稲田大学哲学会にて講演
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