先達て
京阪地方へ旅行した
際に、
或る人から「
貴君は、
何故、理科大学の正科(注:本科。
正規に
卒業をめざす
課程)を
修めずに
撰科(注:
規定の
学課の一部のみを
選んで学ぶ
課程)を出たか」と
尋ねられた。この問に答へると、同時に、昔の
試験制度や、学校教育に対する感想が
胸に
浮んだ
故、それ等を合せて、次に
簡単に
述べて
置く。
自叙伝(注:自分の生い立ち・
経歴などを、ありのままに自分で書いたもの)の
一節とも
見做すべきもので、世に公にすべき
性質のこととも考へぬが、
嘗て
或る
雑誌に
誤つて出されたこともあるから、
寧ろ自分で書いた方が
宜しからうと思ふ。
明治十五六年の
頃には大学は東京に一つあるだけで、それが
法理文三学部と医学部とに分れ、三学部は一つ橋(注:東京都千代田区)に、医学部は
本郷(注:東京都文京区)にあつた。三学部には四ヶ年
程度の
予備門(注:
帝国大学の
予備教育
機関)が
附属してあつて、大学に入るには、先づ、
此所から進まねばならぬ仕組になつて
居たから、丁度、今日の高等学校に相当して
居た。学年は九月に始まつて
翌年の七月に終り、大学の
卒業式等も毎年七月にあつた。
私は
明治十五年の夏か秋か、
兎に
角、学年の始まる前に、
予備門の入学
試験を受けた。
而して、
試験の第一日に漢文と
英語との
試験があつて、
忽ち
不合格になつたと
記臆して
居る。それから二三ヶ月の後に、
補欠の
試験が行はれたので、
之を受けて見たら
好成績で
合格した。この時
私は、入学
試験などは実に当てにならぬものと思ふた。
何故と
云ふに、前の
試験に第一日に
不合格となつたその同じ人間が、
余り勉強もせずに、次の
試験に見事に
及第(注:
合格)したからである。次の
試験は
補欠試験であつたから、
之に
合格した者は、前の
試験に
合格した
連中が一学期を
経過した所へ、横から入り
込んで同じ級に
加はる
訳であつた。
特に
補欠試験には
応募人員は中々多かつた中から、
僅に少数の者が
採用せられたのであるから、
最も
優秀のものでなければ
合格は出来なかつた
筈である。
随つて、後の
試験に
優等で
合格する様な者ならば、前の
試験には先づ
合格した
筈であると思はれるのに、
実際はその反対で、
私は
稍々容易であるべき前の
試験では第一日に
跳ねられ
困難であるべき次の
試験には
好成績で入学が出来た。
私は、その時から今日まで、
試験は
一種の
富籤の様なもので、運のよい者が当たり、運の悪いものが
外れるのであると
信じて
居る。
尤も
補欠試験の
際には、第一日に
英語の書取りがあつて、
私はそれがよく出来たのが、大に
与つた(注:
関わった)のではないかとも考へる。次の日に、ストレンジと
云ふ
英語の
教師が、
大勢の
受験生の前に立つて、この中にオカと
云ふボーイは
居るかと
云ふから、
此所に
居ると立ち上つて答へたら、
私の前までやつて来て、
昨日の書取りにノー・ミステーク(注:
誤りなし)は
御前一人であつたと
云ふて
呉れた。
斯くして
予備門の一年級に入学したが、二年級に進むときの学年
試験は
無事では
無つたらしい。その理由は、
私の日本
歴史の点が
極端に悪かつたためである。
私は
賤ヶ嶽(注:
羽柴秀吉(後の
豊臣秀吉)と
織田家最古参の
重臣柴田勝家との
戦い)の七本
鎗を
加藤清正と
福島正則との二本より知らなかつた
故、点の悪かつたのに
不思議はないが、その時の
歴史の先生は、
私の他の学科の点数が
余り悪くないのに、
歴史一科だけで
落第させるのは
可愛さうであるとて、
特に
救ふて進級させたのであつた。この事は、その先生が、
私一人を
呼び出して、
誡めながら
特に話されたから、決して
間違ひではないと思ふ。
斯様な
次第で、
甚だ
危いながら
私は第二年級に進んだが、この度は、また西洋
歴史の点が
何時も
極端に悪かつた。百点の
満点に対して十五点や二十点を取つたことが
幾度もあつた様に
覚えて
居る。その
頃、
私が
歴史の出来ぬことは
著名(注:有名)になつたと見えて、
歴史の時間には
稽古(注:
授業)が始まると先づ
最初に、先生が
私に問を出し、それに対して、
私が知らぬと答へるのは
常例になつた。
之では、
如何にしても進級させる
訳には行かなかつたと見えて、第三年級に
昇るべき学年
試験では
私は
落第と定まつた。
尤も、この時にも点の悪かつたのは、たゞ
歴史一科目だけであつて、その他の科目は
大抵相当な
成績であつた。第二年級に
留められて、なほ一度その
課程を
修めたが、西洋
歴史の点は
相変らず悪く、そのため、学年
試験の
結果は
再び
落第と決定せられた。二度も同じ
稽古を
繰り返したのであるから、他の学科の
成績は相当に
良くて、数学や図画には百点とか九十五点とか
云ふ様な上等の点が
附いて
居た。それ
故、
総点数の
席次は中
以上であつたが、
歴史の点が二十点か十五点かであつたために、
落第となつたのである。
落第が二度
続くと
退校になる
規則であつた
故、
私は
退校になつた。病気
退学の
願書を出せといふことであつたから、その様な
願書を
差し出したが、
願の
趣許可す、
但し
再入学を
出願することを
許さずと
朱(注:赤色)で書いて下つて来た。
体裁は
私の方から
退校を
願ひ出た形になつて
居るが、事実は
云ふまでもなく学校の方から
投り出されたのである。
私が二年と二学期、
予備門に
居た間に
頗る点の悪かつた科目は、
歴史の
外に漢学(注:中国
伝来の学問の
総称)と作文とがあつた。点数表には
落第点は
附いてなかつたが、事実は
落第点
以下であつて、一度は作文に
朱で大きく「
落第」と書かれたのが返つて来た。漢学の方は、点の悪いのは
無理もなかつた。
何故と
云ふに、
私は
予備門に入るまで漢学の
稽古をしたことがなく、その上、学ばうと
云ふ気がなかつた
故、少しも勉強しなかつたからである。
之に反して、作文の点の悪かつたのは、何も
私に作文の力が
劣等であつた
故とばかりは思はれぬ。
私の考へによれば、作文とは自分の
云ひたいと思ふことを、読む人によく
解からせる様な文章を作る
術であるが、
私が
予備門に
居た
頃の作文はその様なものではなかつた。
寧ろ
成るべく多数の人に
解らぬやうな文章を作る
術であつた。
例へば、
金烏が西の山に入つたとか、
玉兎が東の海に出たとか
云ふ様に、
謎か、
判じ物(注:文字や絵画にある意味を
隠しておき、それを当てさせる遊び)のやうな言葉を使ふて文を
綴り(注:書き)、一番
解らぬ文を書いた者が一番上等の点を
貰ふたやうに
覚えて
居る。その上、「
豊臣秀吉を
論ず」とか「
足利尊氏を
評す」とか
云ふ
類の題を
課せられるから、書く
種を持たぬ者は何も書くことは出来ぬ。
或る時、
例の
如く、「
豊臣秀吉」と
云ふ題が出たので
私は先生に、「何も知らぬから、書くことが出来ません」と
云ふたら、「日本人で
豊臣秀吉の
事蹟(注:事実の
痕跡)を知らぬ
奴があるものか」と
云ふて先生が取り上げなかつた。それ
故、止むを
得ず、
殆ど白紙のまゝで
答案を出した。
之などは少しも作文の
試験ではなくて、
寧ろ
歴史か何かの
試験である様に感じたが、
何れにしても
予備門に
於ける
私の作文の点が
頗る
劣等であつたことは事実である。
甚だ
可笑しいことは、作文に
常に
落第点を
附けられて
居た
私が、その後に書いた文章が、
今日の中学校や、高等女学校の国文教科書の中に名文の
例として
幾つも
載せられて
居ることである。
最近大日本図書会社から
出版になつた女子
現代文読本や、近く
文部省から発行になる高等科か
補修科(注:
浪人生を
対象として
設置された学科)かの読本にも一つづつ出て
居る
筈である。
私は自分の文章が名文であるなどとは
毛頭思ふては
居ないが、読本や教科書の
編纂(注:整理・
加筆などをして書物にまとめること)者は、国文の
摸範として
生徒に
示すに足るものと
鑑定して
掲げられたことと思ふ。
予備門を追ひ出されてからも、
態々作文の
稽古をしたことは一度もなく、全く
自己流の文章を書いて来たのであるから、事によつたら、
私が国文読本に
掲げられる様な文章を書くに
至つたのは、昔し、作文にどんな点を
附けられても平気で
構はずに
居た
結果かも知れぬ。
斯様に考へると、
歴史の方にも、それに
似たことがある。
私は元来、決して
歴史なるものが
嫌ひであつた
訳ではない。一二年前の夏休みにウエルスの世界
歴史といふ本を通読したが、
頗る面白く感じた。
私が
嫌ふたのは
誰が何月の何日に死んだとか、
何所の
戦争が何月何日に始まつたとかいふ様な年月日を
暗誦することであつた。今でも、その様なことを
覚えたいとは少しも思はぬ。
斯様な
些細なことを
抜きにして、
更に大きく、この
原因があつたために、この
結果が生じたと
云ふ様な、物の
変遷の理由を
究める
歴史ならば、
私は
大好きである。
現に生物の進化といふことは一つの
歴史であつて、その
普通の
歴史に
異なる所は、ただ年月が
遙に長いと
云ふ点に
過ぎない。
私はこの
歴史には大に
興味を持つて、世間にその
智識を
弘めたいと思ひ、今から二十三年前に「
進化論講話」と題する書物を書いたが、この書物は世間から
非常な
歓迎を受け、
震災(注:
関東大震災)後にも直に
新版が出来て今日まで
相変らず
購読者がある。
之も事によつたら、
予備門時代に、
歴史にどんな悪い点を
附けられても、平気で
捨て
置いた
結果かも知れぬ。
私の
歴史の点が悪かつたのは、
私が
歴史と名づけるものと、先生や学校当局が
歴史と名づけるものとが
相違して
居たためであつたと、
附会け(注:
無理やり
関連付ける)られぬこともなからう。
兎に
角、
私は
明治十八年の夏に
予備門から
放逐せられた。そこで、
止むを
得ず、大学の
撰科に入らうと決心し、
翌年の夏、
試験を受けて、
滞りなく(注:
無事に)入学することが出来た。
初め
予備門に入つた
頃は
未だ何の
専門を
修めるとも決定しては
居なかつたが、
私が
始終図書館から絵入りの動物学の書物を
借りて見て
居たり、動物の絵を
画いて楽しんで
居たりするのを見て、友人等が動物学者といふ
綽名を
附けたので、自分でも
自然とその気持ちになり、
退校の
際には
已に理科大学の動物学科の
課程を
修めやうと心を定めて
居た。さて入学して見ると、
席をならべて、同じ
講義を
聴き、同じ
実験をする
仲間の
連中は、
落第せぬ前の
予備門の同級生で、後に動物学科を
卒業した
稲葉昌丸君、
岸上鎌吉君、植物学科を
卒業した
三好学君、
岡村金太郎君などであつた。それから三年間は
無事に
過ぎて、
以上の
諸君は
首尾よく理学
士に
成られたが、
私は
更に、そのまゝ
撰科に
残つて
明治二十四年の二月まで動物学教室の
厄介になつて
居た。その後ドイツ国に
留学し、
明治二十七年に日本に帰り、
暫時、
失業状態に
在つた後、
明治二十八年に山口高等学校に
務めることになり、
明治三十年に東京高等
師範学校に転じて、
終に今日に
及んだのである。
私が大学の
撰科に入つたのは、正科に入る
資格がなかつたからである。大学の正科には
予備門を
無事に
通過した者でなければ入れぬ
規則であつた
故、
私の様に二度も
落第を
続けて
退校になつた者は
無論志願し
得べきことではなかつた。
併し、
撰科に入つてから学んだことは正科の人々と何ら
異なつた所はない。同じ
講義を
聴き、同じ
実験をやり、同じ
試験を受けて同じく進級した。三年目には同じ様に
卒業論文を書き、それがまた、
翌年の理科大学
紀要(注:教育
機関や
各種の研究所・
博物館などが
定期的に発行する
学術雑誌)に同じ様に
出版せられた。
即ち事実に
於ては
私は本科生と同じだけのことを学んだのであるが、
斯く
撰科生と本科生とは同一のことを学んで同一の学力を
得るものであるに
拘らず、世間や学校当局からの取り
扱ひには
甚だしい
相違がある。
例へば学生と
称するのは本科生だけであつて、
撰科生は
単に
生徒と
呼ばれるとか、本科生は
卒業すれば
学士の
称号が
貰へるが、
撰科生は
卒業しても何の
称号も
貰へぬとか
云ふことに定めてあるが、これ
等の
規定は、考へ様によつては、世間や学校当局が、自分等は実力よりも形式を
尊ぶ人間であると
吹聴して
居る様なもので、
寧ろ
恥ずべきことの
如くにも思はれる。
併し世間
一般が
斯様な有様である
故、
大抵の人は
撰科には入りたがらず、本科に入り
得なかつた者が
止むを
得ず入るから、
撰科生は
皆肩身の
狭い
日蔭者の
如くに、世間からも
見做され、自分でも思ふて
居るらしい。
私の考へによれば、本科を
尊び、
撰科を
卑むのは大に
間違ふたことである。
小学校や中学校の
如き所では、
生徒の
分別もまだ定まらぬから、学校の方で一定の
課目を組み合せて、
誰にも、その通りに
修業させるのが
当然であるが、
最早大学までも進んで来た者に対しては、学校では
単に
誰々が何々の
講義をすると
云ふことだけを
示して、どれを
聴くかは全く
生徒の勝手に
任せて
置くが
宜しい。
斯くすれば
銘々が自分の
修めたい学科だけを
修めて、
嫌な学科には
出席せぬから、
自然大に勉強も出来る。
料理屋で食事するときに定食を命ずるか、一皿づゝ自分の
好むものを
註文するか、いづれも出来るが、大学の正科は
恰も
料理屋の定食の様なもので、その中には
銘々の
好きなものもあれば、
嫌ひなものもある。その代り
品数に
比して
価が安い。
料理の定食ならば、
嫌ひな物は食はずに
置けばボーイがその
儘、持つて行くが、正科の
課目は
左様に楽には行かず、食はずに
置けば
落第するから、
嫌でも目を白黒にしながら
咽喉(注:のど)だけは通さねばならぬ。
課目の
撰択を
生徒自身の自由に
任せて
置けば、
生徒は一皿づゝ自分の
好きな物を
註文するから持つて来ただけのものは
皆喜んで
甘く食ふ事が出来る。たゞ品数に
比して、
価が少々高くなることは止むを
得ない。
私は大学に
於ける
課目の
撰択は全部ア・ラ・カルト(注:お客が
好みによって一品ずつ注文できる
料理)式にするが
宜しいと考へて
居る。
即ち真の意味に
於ける
撰科制度である。全部が
撰科制度になつて、正科などと
云ふ
窮屈なものが
無くなれば、
無論撰科といふ名も
不要になる。正科とは、
生徒から見れば、自分とは
趣味や
嗜好の
違ふた他人が、勝手に
造つた学科の組み合せであるから、
之を平等に
修めるには一定
量の
我慢を
要する。世間や学校当局が本科生を
尊重するのは、
或は、よく
我慢したことを
誉める意味かも知れぬ。
学課の組み合せは、
卒業生を
採用する
官庁や、会社などから、
予め
註文して
置くならば、これは
当然のことである。自分の役所へは何々の
講義を
聴いた者を
採用するとか、
此所の会社へは何学と何学とを
修めた者を
採用するとか
云ふことを
予め知らして
置けば、その役所なり会社なりに
傭ふて
貰ひたい者は、その
註文に合ふやうな
学課の組み合せを自分で
造るであらう。学校自身で一定の組み合せを
造り、
誰も
彼も、その通りに
修めなければ
卒業はさせぬと定めて、
嫌な物でも
無理に
食はせるのは、それだけ
好きな方へ
発達するのを
妨げて
居ることに当る
故、全体としては時と
労力との大きな
不経済と思はれる。
私が
最も
愉快に勉強することの出来たのは、ドイツ国に
居た三ヶ年間であつた。
此所ではヤレ本科だとか、ヤレ
撰科だとか
云ふ様なケチな
区別はなく、大学に
於ける学科の
撰択は全く
生徒自身の
随意であつて、
聴きたい
講義だけを
聴き、聞きたくない
講義は
聴かずに
済む。
私は
正規の
手続きを
経て、本式の学生となつたが、国中に大学が数多くあつて、どの大学から、どの大学へでも
随意に
移ることが出来た。
初め一年間はフライブルグ(注:ドイツ南西部、バーデン・ビュルテンベルク州の大学都市)の大学に
居たが、動物学の
教授、ワイスマン(注:アウグスト。ドイツの動物学者。フライブルク大学動物学研究所所長)の
学説を
余り感服しなかつたので、次の年にはライプチツヒ(注:ドイツ中東部、ザクセン地方の商工業都市)の大学に
移つて、後の二年間は、ロイカルト
教授(注:ルドルフ。ドイツの動物学者。
寄生虫学の
創始者)の
許で研究した。
斯様に
或る一人の学者を目指して、その
教を受けるためにその人の
居る大学に入学する場合には、真に自分はその人の
門弟であるとの感じが起る。
特にその人の日々
云ふて聞かせることが、一々、
尤と
納得せられるときには、
益々、その人を自分の
師として
尊む心持ちが出て来る。この意味で
私が、自分の
師と思ふて
居るのはロイカルト一人だけである。国内に大学が、ただ一つより
無く、何学を
修めるにも、その大学に入るの
外に道のない様な場合には、
生徒は
単にその学科を
修める
方便として入学するに
過ぎぬ
故、
偶々その時に
務めて
居た
教師と
生徒との
関係は
殆ど、
渡し船の
船頭と、乗り合せた客との
関係に
似て
居る。ドイツ国の
如くに二十
幾つもの大学があつて、
何所の大学には何の
誰、
何所の大学には何の
誰と同じ
専門の学者が多数に
居る所では、
生徒は
銘々、自分の
附きたいと思ふ先生の所へ行くことが出来る
故、その間の
関係は
最初から
特別である。その上、
課目の
撰択が勝手であるから、思ふ様に勉強が出来る。自分から進んでする勉強は、
斯かる
条件の下に
最もよく出来るものであらうと考へる。
二つの大学で、合せて、三年間学んだ後に、
私はドクトルの
学位を
得るための
試験を受けた。
論文も、口頭
試験も、Summa
cum laude(注:
首席で)
といふ
最高等の
評語を
以て
合格した。外国の
学位には、
随分如何はしいものがあるとの理由で、今日では、外国の
学位は
殆ど何の
価値もない
如くに言ひ
触らされ、有つても
無くても世間からは同様に
見做される様になつたが、
私がライプチツヒで受けた
試験は、その
頃の日本の大学の
卒業試験よりは大分、
程度が高かつた様に
記臆して
居る。
併し、
之はいづれにしても、
態々云ひ立てるほどの
事柄ではない。ドイツ国から帰つてからの
経歴に
就いては、
別に
云ふことも
無いから、何も書かぬ。
今日
私が
交際して
居る知人の中には、二度
落第して
退校になつた様な人は一人もない。して見ると、
私は多数の人の中の
稀な
例外であつた。身体に
稀な
例外の点があれば、
之を
畸形と名づける。
私は身体は
畸形ではないが、頭は
確に
畸形であるに
違ひない。
予備門で二度目に
落第したときに、友人等は
私に、
歴史の先生の家に
歎願(注:
熱心に
頼むこと)に行けと
親切に
勧めて
呉れたが、
私は
却つてそれをうるさく思ひ、半日ほど上野の森の中を
散歩して、帰つて来てから友人等に、先生の家へ三度行つたが三度とも
留守であつたなどと
出鱈目を
云ふた。
之なども、今から考へて見ると、
畸形の
証拠とも思はれる。
恐らく、今日
以後も、
畸形のまゝで
押し通すより
外に
途は
無からう。
(大正十五年四月)