理科教育の根底

　近頃（ちかごろ）は理科奨励（しょうれい）の声が頗（すこぶ）る高い。立派（りっぱ）な理化学研究所が新設（しんせつ）せられ、理科や医科の研究者には補助（ほじょ）金が与（あた）へられ、地方の中学校、師範（しはん）学校に於（お）ける物理化学の設備（せつび）を完全（かんぜん）にするために何十万円かの金が支出（ししゅつ）せられた。また理科教育研究会と云（い）ふ新らしい会が出来て「理科教育」と題する特殊（とくしゅ）の雑誌（ざっし）までが発行せられるに至（いた）つた。明治（めいじ）維新（いしん）以来（いらい）五十年の間、殆（ほとんど）ど顧（かえり）みられなかつた理科教育が今日急に斯（か）く流行し出したのは何故（なぜ）であるかと云（い）ふに、之（これ）は無論（むろん）ヨーロッパ大戦争（せんそう）の影響（えいきょう）で薬品、染料（せんりょう）、ブリキ、硝子（ガラス）板、その他、種々（しゅしゅ）の日用品の輸入（ゆにゅう）が止まつて、日常（にちじょう）の生活に甚（はなは）だしい不自由を感ずるに至（いた）つたからである。理科の進歩が、民族（みんぞく）将来（しょうらい）の発展（はってん）に極（きわ）めて必要（ひつよう）であることは、今日始まつた訳（わけ）ではないが今までは、国民（こくみん）全体が、此事（このこと）を痛切（つうせつ）に感ずる様な機会（きかい）に一度も出遇（であ）はなかつた為（ため）に、何時も目前の問題にのみ気を取られて居（い）る政治（せいじ）家や実業家などは、理科の研究を以（もっ）て、隙人（ひまじん）の道楽仕事の如（ごと）くに見做（みな）し、少しも之（これ）に注意を払（はら）はなかつた。然（しか）るに今回図（はか）らずも、其（この）の欠陥（けっかん）が著（いちじる）しく現（あら）はれたので、遽（にわか）に騒（さわ）ぎ出し、足元から鳥が立つた如（ごと）くに、急に理科研究の奨励（しょうれい）を唱（とな）へ出したのである。
　我国（わがくに）現今（げんこん）の理化学全盛（ぜんせい）の状態（じょうたい）は、以上の如（ごと）くにして生じたもの故（ゆえ）、無論（むろん）一種（いっしゅ）の変態（へんたい）現象（げんしょう）であつて、一歩々々順序（じゅんじょ）を蹈（ふ）んで進み来つた訳（わけ）ではない。其（こ）の為（ため）でもあらうが、今日小学校や中学校で理科の授業（じゅぎょう）を見るに如何（いか）にも急場の間（ま）に合せの如（ごと）く、たゞ理科の範囲（はんい）内の事実を成（な）るべく多く教へて、生徒（せいと）に覚（おぼ）えさせることにのみ力を用ひ、肝心（かんじん）の理科進歩の根底（こんてい）なる研究心の養成（ようせい）は頗（すこぶ）る閑却（かんきゃく）せられて居（い）る。折角（せっかく）の奨励（しょうれい）も根底（こんてい）を忘（わす）れて枝葉（しよう）のみに力を尽（つく）す様では、其（こ）の効果（こうか）は甚（はなは）だ覚束（おぼつか）ないもので、随（したが）つて今日の理科熱（ねつ）も、暫時（ざんじ）の後には、従来（じゅうらい）教育界に流行した他の熱（ねつ）と同様に冷却（れいきゃく）し去るのでは無（な）からうかと思はれる。真に理科の進歩を図（はか）るならば、先づ其（こ）の根底（こんてい）を造（つく）ることに努（つと）めねばならぬ。


　最近（さいきん）五十年間に於（お）ける我国（わがくに）文明の進歩は実に驚（おどろ）くべきもので、実際（じっさい）これだけの短い時の間に、之（これ）だけの大なる進歩をなした例（れい）は他には無（な）い。汽車、汽船、電信（でんしん）、電話、飛行機（ひこうき）、潜航艇（せんこうてい）を始めとして、他の文明国に有るだけの物は我国（わがくに）にも有ると云（い）ふのは誠（まこと）に立派（りっぱ）なことで、我国（わがくに）が今日の位地（いち）までに進み得（え）たのは、全く絶（た）えず文明に進むことに力を尽（つく）した結果（けっか）である。併（しか）しながら今日までに文明の進み来つたのは、悉（ことご）く他国の文明を移（うつ）し入れたゞけで、独力（どくりょく）で工夫（くふう）した部分は殆（ほとんど）ど一つもない。他人の苦しんで発明したことを其（この）まゝ真似（まね）しただけである故（ゆえ）、速（すみやか）に進歩し得（え）たのは当然（とうぜん）である。之（これ）を物に譬（たと）へて云（い）へば、西洋諸国（しょこく）の文明の進み来つたのは、根のある樹木（じゅもく）に自然（しぜん）に花が咲（さ）いた如（ごと）く、我国（わがくに）文明の急に進んだのは、他の樹木（じゅもく）に咲（さ）いた花を取つて来て此方（こちら）の枯枝（かれえだ）に結（むす）び附（つ）けた如（ごと）くである。外観（がいかん）上には両方とも同様に見え、写真にでも取つたら、何の相違（そうい）も無（な）いかも知れぬが、其（こ）の将来（しょうらい）は大に違（ちが）ふ。根のある方の枝（えだ）には、新に蕾（つぼみ）が生じ新な花が咲（さ）くが、根の無（な）い方は、決して新な蕾（つぼみ）が生ずることもなく、新な花が咲（さ）くことも無（な）い。若（も）しも他の樹木（じゅもく）に負けぬだけに花を持たせやうと思へば、絶（た）えず新らしい花を取り来つて、之（これ）を結（むす）び附（つ）けねばなちぬ。我国（わがくに）の文明が幼稚（ようち）であり、他の国からは弱国（じゃっこく）の如（ごと）くに見做（みな）されて居（い）た時代には、何でも隠（かく）さずに教（おし）へて呉（く）れた故（ゆえ）、西洋の文明を我国（わがくに）に移（うつ）すことが比較的（ひかくてき）に容易（ようい）であつたが、今後は中々その様な訳（わけ）には行かぬ。それ故（ゆえ）、独力（どくりょく）で文明を進める外に道は無（な）い。然（しか）るにドイツ国の如（ごと）きは、戦争（せんそう）以前から已（すで）に日本人には容易（ようい）に工場の奥（おく）を見せぬ様であつたが、戦争（せんそう）後には各国（かくこく）ともに外国人には深く注意する様になり、今まで開放して置（お）いた所をも厳重（げんじゅう）に秘密（ひみつ）にする傾（かたむ）きが生ずるであらう。随（したが）つて外国の新発明を直に習うて帰ることが段々（だんだん）と六（むつ）かしく成（な）る。前の譬（たと）へで云（い）へば、今後は他所の枝（えだ）に咲（さ）いた花を取つて来て、自分の枝（えだ）に糊（のり）で貼（は）り附（つ）けることが、容易（ようい）に出来なくなるものと覚悟（かくご）せねばならぬ。
　今日我国（わがくに）で理科を奨励（しょうれい）するに当つては、此（こ）の点を充分（じゅうぶん）に考へて将来（しょうらい）独力（どくりょく）で、理科の進歩する様に、其（こ）の根底（こんてい）から造（つく）ることを努（つと）めねばならぬ。如何（いか）に金を掛（か）け器械（きかい）を整（ととの）へても、単（たん）に理科的の事柄（ことがら）を教師（きょうし）が教（おし）へて、生徒（せいと）に覚（おぼ）えしめるだけでは、中々理科の根底（こんてい）を造（つく）ることは出来ぬ。西洋諸国（しょこく）で今日までに斯（か）く理科の知識（ちしき）と其（こ）の応用（おうよう）とが著（いちじる）しく進み来つた根底（こんてい）は何であるかと云（い）ふに、之（これ）は全く強い研究心を有することである。何事でも理窟（りくつ）を究（きわ）めずには置（お）かぬと云（い）ふ強い研究心が有ればこそ、各方面に発明も発見も出来るのである。研究心の無（な）い所には決して独創的（どくそうてき）の新工夫（くふう）は出来る筈（はず）がない。我国（わがくに）今日の教育上の急務（きゅうむ）は実に研究心の養成（ようせい）にある。研究心の養成（ようせい）さへ充分（じゅうぶん）に出来たならば、其（こ）の先は自然（しぜん）に任（まか）せて置（お）いても進歩すべき筈（はず）で、恰（あたか）も根の発達（はったつ）した樹木（じゅもく）には自然（しぜん）に花が咲（さ）くのと同じ理窟（りくつ）である。理科を授（さず）けるに当つて一々の事実を教（おし）へることも決して不必要（ふひつよう）と云（い）ふ訳（わけ）ではなく、之（これ）にも充分（じゅうぶん）に意を用ひねばならぬが、独力（どくりょく）進歩の根底（こんてい）なる研究心の養成（ようせい）は、更（さら）に幾倍（いくばい）も必要（ひつよう）であることを忘（わす）れてはならぬ。
　今日小学校などで行はれて居（い）る理科教授（きょうじゅ）の実際（じっさい）を見るに、五十人以上の多数の生徒（せいと）を教室に集め、何列かの机（つくえ）に行儀（ぎょうぎ）よく着席（ちゃくせき）せしめ、一々教師（きょうし）の号令（ごうれい）によつて、実験（じっけん）せしめたり、観察（かんさつ）せしめたりして居（い）る。之（これ）は昔し、実物なしに、ただ書物を読ませたり、講釈（こうしゃく）して聞かせたりするだけで理科の教授（きょうじゅ）を済（す）ませたのに比（くら）べれば、勿論（むろん）優（まさ）つて居（い）るには違（ちが）ひないが、実物に触（ふ）れ自身に実験（じっけん）さへさせれば、それで理科の教授（きょうじゅ）は目的（もくてき）を達（たっ）したものと考へては大なる間違（まちが）ひである。事実を覚（おぼ）えさせるだけならば之（これ）で充分（じゅうぶん）であらうが、研究心を養成（ようせい）することは、斯様（かよう）な方法（ほうほう）では到底（とうてい）出来ぬ。特（とく）に実用に重きを置（お）くと称（しょう）して、直に役に立つやうな事柄（ことがら）ばかりを教材（きょうざい）に選（えら）む場合には、尚更（なおさら）たゞ教（おし）へて覚（おぼ）えさせることのみが主となつて、研究心の養成（ようせい）の方は全く忘（わす）れられて居（い）る。


　抑（そもそ）も研究心は如何（いか）にして養成（ようせい）することが出来るかと云（い）ふに、之（これ）は生徒（せいと）各自（かくじ）に自由に物を見させ、考へさせ、疑（うたが）はせ、而（しこう）して独力（どくりょく）によつて、其（こ）の疑（うたが）ひを解（と）かうと努（つと）めさせることに依（よ）つてのみ出来るのである。同じ物を見ても、生徒（せいと）各自（かくじ）が之（これ）に就（つ）いて不思議（ふしぎ）と思ふ点は決して同じではない。甲（こう）が或（あ）る点に注意して、それに就（つ）いて考へて居（い）る間に、乙（おつ）は恐（おそ）らく他の点に注意して、それに就（つ）いて何か疑問（ぎもん）を起して居（い）るかも知れぬ。されば、研究心を養成（ようせい）するための理科教授（きょうじゅ）は、生徒（せいと）一人一人を別々（べつべつ）に勝手に働（はたら）かせることが第一に必要（ひつよう）な条件（じょうけん）である。教師（きょうし）は一人一人の生徒（せいと）の相談相手となり、生徒（せいと）の疑（うたが）ひを起した点に就（つ）いては教師（きょうし）も同じ疑（うたが）ひを有する如（ごと）き態度（たいど）を取り生徒（せいと）が言葉で尋（たず）ねたことに対し、教師（きょうし）が直ちに言葉を以（もっ）て答へ、それで、其（こ）の問題が解決（かいけつ）せられ終つたものの如（ごと）くに見做（みな）す癖（くせ）の生ずることを避（さ）けて、生徒（せいと）と共共（ともども）に観察（かんさつ）、実験（じっけん）、推理（すいり）の方法（ほうほう）によつて実物から、其（こ）の答を求（もと）める様にしなければ成（な）らぬ。真の理科教授（きょうじゅ）は徹頭（てっとう）徹尾（てつび）生徒（せいと）をして独立（どくりつ）自由に脳（のう）を働（はたら）かしめ、教師（きょうし）はたゞ個人的（こじんてき）に生徒（せいと）の相談相手となるべきである。一人一人の生徒（せいと）を別々（べつべつ）に取り扱（あつ）ふことは、今日の如（ごと）くに五十人も六十人も一室に集めて、一人の教師（きょうし）が之（これ）を教（おし）へるのでは到底（とうてい）出来ぬ。我（われ）らの考へによれば、他の学科は暫（しばら）く我慢（がまん）するとしても、理科の時間だけは、一組の生徒（せいと）の数を十人か十五人位（くらい）として、之（これ）に一人の教師（きょうし）が附（つ）くことにしなければ、充分（じゅうぶん）の効果（こうか）を挙（あ）げることは出来ぬ。教師（きょうし）が教（おし）へ生徒（せいと）が習ふだけの学科は、生徒（せいと）の人数が多くとも授業（じゅぎょう）が出来ぬこともないが、理科の如（ごと）くに、生徒（せいと）各自（かくじ）をして独立（どくりつ）に脳（のう）を働（はたら）かしめる必要（ひつよう）のある学科では、一組の人数が多いか少ないかは第一の問題であつて、他の問題の如（ごと）きは、之（これ）が決した後のことである。今日小学校に於（お）ける理科教授（きょうじゅ）法（ほう）を研究して居（い）る人々は、多くは一組の生徒（せいと）数は現在（げんざい）のまゝで動かすべからざるものと、初（はじ）めから定めて置（お）き、扨（さて）それだけの人数を一室に集めて教（おし）へるには、如何（いかが）なる方法（ほうほう）が最（もっと）も宜（よろ）しいかと云（い）ふ問題に就（つ）いて、種々（しゅしゅ）考案（こうあん）を廻（めぐ）らして居（い）るが、我（われ）らから見れば一組の生徒（せいと）数を十人か十五人までに減（げん）ずることが先決問題であつて、之（これ）が行はれぬと定まれば、如何（いか）に他の点に工夫（くふう）を凝（こ）らしても其（こ）の効果（こうか）は五十歩百歩で、極（きわ）めて不充分（ふじゅうぶん）なるを免（まぬが）れぬ。生徒（せいと）の数が多ければ、授業（じゅぎょう）は勢（いきお）ひ団体的（だんたいてき）とならざるを得（え）ず、団体（だんたい）を取扱（とりあつ）ふには勢（いきお）ひ兵隊（へいたい）の調練（ちょうれん）の如（ごと）くになつて、教師（きょうし）の号令（ごうれい）に従（したが）うて、一同揃（そろ）うて、観察（かんさつ）を始めたり、また号令（ごうれい）に従（したが）うて一同揃（そろ）うて観察（かんさつ）を止めたり為（なさ）ねばならぬ。如何（いか）に実物を生徒（せいと）の銘々（めいめい）に持たせても、斯（か）く束縛（そくばく）せられては、何（いず）れの点も得心（とくしん）の行くまで考へて見ることは出来ぬ。之（これ）に反して、若（も）しも生徒（せいと）の数が少なければ、同じ机（つくえ）に対して相並（あいなら）んで腰（こし）を掛（か）けて居（い）る生徒（せいと）でも、必ずしも同一の事を為（な）すの必要（ひつよう）はなく、銘々（めいめい）、勝手な方から始めて、勝手な方へ進んで行つても差支（さしつか）へは無（な）い。即（すなわ）ち脳（のう）の働（はたら）きが全く自発的（じはつてき）であつて、疑（うたが）はしいと心附（こころづ）いたことは遠慮（えんりょ）なく疑（うたが）ひ、其（こ）の疑（うたが）ひを解（と）くためにはまた自発的（じはつてき）に脳（のう）を働（はたら）かせて、其（こ）の方法（ほうほう）を工夫（くふう）し、自己（じこ）の努力（どりょく）によつて、其（こ）の問題を解決（かいけつ）し得（え）たときには頗（すこぶ）る愉快（ゆかい）に感ずる。要（よう）するに理科の教授（きょうじゅ）は若（も）しも教師（きょうし）が教（おし）へ、生徒（せいと）が覚（おぼ）えると云（い）ふことだけを以（もっ）て満足（まんぞく）する積（つも）りならば、今日の通りでも宜（よろ）しいが、将来（しょうらい）独力（どくりょく）を以（もっ）て理科の進歩する様にと望（のぞ）むならば、思ひ切つて、一組の生徒（せいと）の数を減（げん）じ、生徒（せいと）をして各自（かくじ）勝手に自発的（じはつてき）に脳（のう）を働（はたら）かしめ得（う）る様な仕組に改（あらた）めて掛（か）かることが必要（ひつよう）であらう。


　何事でも進歩改良（かいりょう）を図（はか）るには、先づ進歩の妨（さまた）げとなるものを除（のぞ）くことが肝要（かんよう）である。理科の進歩を望（のぞ）むならば、理科の進歩の妨（さまた）げとなるものを先づ除（のぞ）かねばならぬ。理科の事柄（ことがら）を授（さず）けて、生徒（せいと）をして単（たん）に之（これ）を覚（おぼ）えしめるだけならば、別（べつ）に之（これ）を妨（さまた）げるものは無（な）いが、将来（しょうらい）の理科の進歩を図（はか）るために、研究心を養成（ようせい）しやうと努（つと）める場合には、其（こ）の妨（さまた）げをなすものは沢山に有る。研究の源（みなもと）は疑（うたが）ひにある故（ゆえ）、研究心を養成（ようせい）するには、先づ疑（うたが）うて掛（か）かる癖（くせ）を附（つ）けることが第一に必要（ひつよう）であるが、物を疑（うたが）うて掛（か）かる精神（せいしん）の態度（たいど）と、何事でも云（い）ひ聞かされたことを其（この）まゝに信ずる精神（せいしん）の態度（たいど）とは到底（とうてい）両立せぬ。研究心とは、自分の成（な）る程（ほど）と思はぬ事は何所（どこ）までも追求（ついきゅう）して、真偽（しんぎ）を確（たしか）めねば承知（しょうち）せぬ心で、他人が何と云（い）うても、充分（じゅうぶん）得心（とくしん）の行かぬ間は決して之（これ）に従（したが）はぬ。之（これ）と全く正反対に位（くらい）するのは圧制的（あっせいてき）に或（あ）る信仰（しんこう）を強（し）ひられながら、之（これ）を平気で信じ、而（しか）も強（し）ひられて居（い）ることを心附（こころづ）かずに居（い）る如（ごと）き心の状態（じょうたい）である。若（も）しも世の中が、斯様（かよう）な人人のみであつたならば、研究と云（い）ふことは少しも行（おこな）はれず、随（したが）つて発明も発見も決して出来ぬであらう。研究には考へ方の自由なることを要（よう）し、考へ方が自由ならば他より信仰（しんこう）を強（し）ひられても、之（これ）に服従（ふくじゅう）することは出来ぬ。されば同一の脳髄（のうずい）を以（もっ）て、両方を同時に兼（か）ねることは不可能（ふかのう）であつて、一方が進めば、他方は退（しりぞ）くの外はない。真に民族（みんぞく）の将来（しょうらい）を考へて、理科の進歩を望（のぞ）むならば、研究心を養成（ようせい）することが何よりの急務（きゅうむ）であり、研究心を盛（さかん）ならしめるには、自由に考へることを許（ゆる）さねばならぬ。一方で研究心を盛（さかん）ならしめる様に努（つと）めながら、他方では自由に考へることを厳禁（げんきん）したならば、恰（あたか）も機関車（きかんしゃ）に石炭を盛（さかん）に燃（も）やしながら、強く歯止めを掛（か）けて居（い）る様なもので、如何（いかが）なる結果（けっか）を生ずるか、頗（すこぶ）る危（あぶな）いものである。尤（もっと）も、研究心が発達（はったつ）しなければ斯（か）かる心配は少しも無（な）い。
　小学校や、中学校の日々の日課（にっか）の中には、或（あるい）は教師（きょうし）の態度（たいど）によつて、或（あるい）は学科の性質（せいしつ）によつて、或（あるい）は何等（なんら）か特殊（とくしゅ）の都合（つごう）によつて、教師（きょうし）の云（い）ふことを其（この）まゝ強（し）ひて生徒（せいと）に信（しん）ぜしめやうとする如（ごと）きものは無（な）いであらうか。当然（とうぜん）起るべき疑（うたが）ひをも云（い）ひ出さしめず、頭から押（お）さへ付（つ）けて斯（か）く信（しん）ぜよと命令する如（ごと）き場合は無（な）いであらうか。若（も）し有りとすれば、理科奨励（しょうれい）のためには、先づ斯（か）かることから除（のぞ）いて掛（か）からねばならぬ。前の時間には何でも教師（きょうし）の云（い）うた通りを信（しん）じ、次の時間には、何でも独創的（どくそうてき）に自由に考へると云（い）ふ様に、同じ脳髄（のうずい）を二通りに使ひ分けることは無理（むり）な註文（ちゅうもん）であつて、到底（とうてい）出来る筈（はず）のものでない。されば真に国の将来（しょうらい）を慮（おもんぱか）り、独力（どくりょく）によつて、何所（どこ）までも文明を進め得（う）る様にと望（のぞ）むならば、英断（えいだん）を以（もっ）て其（こ）の妨（さまた）げと成（な）るべき事柄（ことがら）を除（のぞ）くことが、先づ以（もっ）て必要（ひつよう）であらう。


　良（よ）い米を造（つく）るには良（よ）い種（たね）と良（よ）い田地（でんち）と、良（よ）い世話とが揃（そろ）はねばならぬ如（ごと）く、旺盛（おうせい）な研究心を生ぜしめるには、良（よ）い人種（じんしゅ）と良（よ）い社会と、良（よ）い教育とが揃（そろ）はねばならぬ。以上、述（の）べた所は、たゞ教育の一部に就（つ）いて論（ろん）じただけで、社会と人種（じんしゅ）との如何（いか）に就（つ）いては何も云（い）はなかつた。如何（いか）に教育法（ほう）を改（あらた）めて、研究心の養成（ようせい）に努（つと）めても、社会の状態（じょうたい）が之（これ）に適（てき）せねば、決して完全（かんぜん）な結果（けっか）を挙（あ）げることは出来ぬ。されば、理科の進歩を図（はか）るには社会の状態（じょうたい）から改（あらた）めて、理科の発達（はったつ）し得（う）る様にしなければ成（な）らぬが、之（これ）は素（もと）より一朝一夕（いっちょういっせき）に行はれるべき事でない。イギリス国民（こくみん）などは戦争（せんそう）以前には理科の発達（はったつ）に対して余（あま）りに不熱心（ふねっしん）であると云（い）うて、同国の理科の雑誌（ざっし）には絶（た）えず憤慨（ふんがい）口調の論説（ろんせつ）が出て居（い）たが、戦争（せんそう）が始まつてからは、余程（よほど）様子が改（あらた）まつた様である。恐（おそ）らく今後は従来（じゅうらい）よりも一層（いっそう）理科の進歩に都合（つごう）のよい状態（じょうたい）に成（な）るであらう。我国（わがくに）の如（ごと）きはイギリスなどに比（くら）べても及（およ）ばぬ所が頗（すこぶ）る多いから更（さら）に数倍の努力（どりょく）を要（よう）する。如何（いか）に研究に熱心（ねっしん）な者でも、食はずには生きて居（い）られぬ故（ゆえ）、安心して研究の出来る様な位置（いち）を数多く設（もう）けることも必要（ひつよう）である。戦争（せんそう）以前にドイツ国に造（つく）られた理科研究所でも、アメリカの若干（じゃっかん）の大学でも、役員は専（もっぱ）ら研究のみに従事（じゅうじ）することの出来る仕組に成（な）つて居（い）るが、之（これ）は頗（すこぶ）る羨（うらや）ましい状態（じょうたい）で、斯（か）く成（な）らねば研究は中々容易（ようい）でない。研究の志（こころざし）は有つても、食ふために止むを得（え）ず教員を務（つと）め、日々多くの時間を教（おし）へる方に費（ついや）さねばならぬ様では、到底（とうてい）碌（ろく）な仕事は出来ぬ。
　教育をも良（よ）くし、社会の状態（じょうたい）をも改（あらた）め、万事研究心の起り易（やす）い様に、また研究の行はれ易（やす）い様に仕組んでも、それでも、国民（こくみん）の研究心が盛（さかん）に成（な）らず、随（したが）つて何時（いつ）までも碌（ろく）な発明も発見も出来ぬ様ならば、之（これ）は人種（じんしゅ）が悪いのである故（ゆえ）、恰（あたか）も米の種（たね）が悪いのと同じく、如何（いか）に手を尽（つく）しても到底（とうてい）良（よ）い実を結（むす）ぶ望（のぞ）みは無（な）いものと諦（あきら）めねばならぬ。