理想的団体生活

　われわれのつねに見慣（みな）れている陸上（りくじょう）の動物は、犬でも猫（ねこ）でも、鳥でも、雀（すずめ）でもみな一匹（いっぴき）ずつ相離（あいはな）れて、おのおの独立（どくりつ）の生活をしているゆえ、動物とさえいえば、すべて単独（たんどく）の生活をなすものであるごとき感じが起こるが、広く動物界を調べて見ると、多数相（あい）集まって団体（だんたい）を造（つく）って生活している種類（しゅるい）も決して少なくはない。特（とく）に海中に棲（す）む動物には団体（だんたい）生活を営（いとな）むものがすこぶる多い、また池沼（ちしょう）などの淡水（たんすい）中に棲（す）む動物にもいくらかかような例（れい）がある。かような動物の生活状態（じょうたい）を詳（つまびら）かに観察（かんさつ）してみると、普通（ふつう）の単独（たんどく）生活をなす動物とは全く相異（あいこと）なり、多数が力をあわせて誠実（せいじつ）に全団体（だんたい）の維持（いじ）繁栄（はんえい）のために働（はたら）いているありさまは、実に理想（りそう）的（てき）と称（しょう）すべきほどで、われわれ人間のごとき不完全（ふかんぜん）な団体（だんたい）生活をなす者から真にうらやましく思われるものがあるゆえ、ここにその生活状態（じょうたい）の一斑（いっぱん）を紹介（しょうかい）してみよう。
　淡水（たんすい）中に産（さん）する団体（だんたい）動物の例（れい）としては苔虫（こけむし）の類（るい）が最（もっと）も適当（てきとう）であろう。この虫は古い池、大きな湖（みずうみ）などに産（さん）するもので、霞（かすみ）が浦（うら）の土浦（つちうら）近傍（きんぼう）にもたくさんにいる。東京市内でも、小石川の植物園内の池、大塚（おおつか）の高等師範（しはん）学校構内（こうない）の池などでも採（と）れる。数年前までは本郷（ほんごう）の帝国（ていこく）大学の構内（こうない）の古池にも盛（さか）んに繁殖（はんしょく）していたが、惜（お）しいことにはこのごろは全く断絶（だんぜつ）してしもうたようである。この虫は一匹（いっぴき）ずつはまことに小さなもので、長さがわずかに一分（注：３ｍｍ）ばかりに過（す）ぎぬくらいの円筒（えんとう）形をなし、一端（いったん）は水草の葉の表面などに固着（こちゃく）し、他の端（はし）の中央には口があり、口の周囲（しゅうい）には数十本の糸のごとき細い指（ゆび）があって、これを用いて水中を流れてくる微細（びさい）な食物を取って食うのである。一匹（いっぴき）ずつはかような形のものであるが、あたかも両側（りょうがわ）の脇腹（わきばら）とでもいうべきところから芽（め）を生じて繁殖（はんしょく）し、芽（め）はたちまち成長しておのおの一匹（いっぴき）の虫となり、またその脇腹（わきばら）から芽（め）を出して繁殖（はんしょく）するゆえ、初（はじ）め一匹（いっぴき）のものもしばらくの間に増加（ぞうか）してついには数百匹（すうひゃっぴき）、もしくは数千匹（すうせんびき）の塊（かたまり）となってしまう。かく多数となっても芽生（がせい）（注：無性生殖（せいしょく）のひとつ。母体上に小さな芽状（がじょう）の突起（とっき）が生じて、しだいに大きくなって新個体となるもの）したままで、親子、兄弟の身体が互（たが）いに連絡（れんらく）しているゆえ、同一の血液（けつえき）が全団体（だんたい）を通じて循環（じゅんかん）している。また神経（しんけい）のごときも一匹（いっぴき）ごとに備（そな）わってある神経（しんけい）系（けい）が細い糸で互（たが）いに相つながっているゆえ、感覚（かんかく）も一匹（いっぴき）から全団体（だんたい）に伝（つた）わって、喜怒（きど）哀楽（あいらく）をともにするようにできている。今この虫を例（れい）にとって、団体（だんたい）動物の生活状態（じょうたい）を述（の）べるにあたって、身体の構造（こうぞう）、各器官（かくきかん）の作用等はすべて省略（しょうりゃく）し、ただ多数相集まって、力をあわせて生活しているありさまのみを述（の）べ、なおなるべくわかりやすくするために、これを人間社会のありさまに比較（ひかく）して論（ろん）ずる。また団体（だんたい）という文字は画（かく）の多い面倒（めんどう）な字でしばしばこれを用いることはいかにもわずらわしいから、国という字をそのかわりに用いることにする。

い　一個体（いちこたい）
［＃「苔虫の国の一部」のキャプション付きの図入る］
苔虫（こけむし）の国の一部

　まず苔虫（こけむし）類（るい）の国を見て第一に気の付（つ）くことは、国内に一匹（いっぴき）として無（む）職業（しょくぎょう）の者、働（はたら）かぬ者のないことである。数百匹（ひき）ないし数千匹（ひき）もある虫は一匹（いっぴき）ごとにその指を延（の）ばし、指の表面に密生（みっせい）している細毛を動かして水の流れを起こし、水中に浮（う）かべる微細（びさい）な藻類（そうるい）をおのれの口のほうへ送ろうとつとめていて、決して一匹（いっぴき）として働（はたら）かずに、安閑（あんかん）として他の厄介（やっかい）となっている者はない。しかしてこれに対して各自（かくじ）の得（え）る報酬（ほうしゅう）が、またきわめて公平であって、決して少なく働（はたら）いて多くの報酬（ほうしゅう）を得（え）る者もなければ、多く働（はたら）いて少ししか報酬（ほうしゅう）をもらわぬこともない。すべてが同様に働（はたら）き、これに対してすべてが公平な割合（わりあい）に報酬（ほうしゅう）を得（え）ているのであるから、不平（ふへい）の生ずる原因（げんいん）が全くないのである。働（はたら）かぬ者もやはり一匹（いっぴき）分の滋養（じよう）分を消費（しょうひ）するゆえ、働（はたら）かぬ者の多い国ではそれらの分まで働（はたら）く者の頭へかかってくるにきまってある。また一国の治安（ちあん）を妨害（ぼうがい）する大原因（げんいん）は不平（ふへい）党（とう）の多いことである。されば働（はたら）かぬ者もなく、不平（ふへい）もないという状態（じょうたい）は実にうらやましいことと言わねばならぬ。
　また苔虫（こけむし）類（るい）の国では滋養（じよう）分に剰余（じょうよ）の生じた場合にはすべてこれを一国全体の所有として適宜（てきぎ）に利用（りよう）するのみで、決してこれをわけて一匹（いっぴき）ずつの所有を定めるごときことはない。すなわち財産（ざいさん）は全国共有（きょうゆう）であって、私有（しゆう）の財産（ざいさん）というものは少しもない。それゆえ、貧富（ひんぷ）の区別（くべつ）もなく、資本（しほん）家と労働（ろうどう）者との区別（くべつ）もなく、富（とみ）の圧制（あっせい）もなければ、貧（ひん）の苦しみもない。したがって不正（ふせい）な手段（しゅだん）で富（とみ）を増（ま）そうという悪い心も生ぜず、抽籤（ちゅうせん）に当たって大金を獲（え）ようという卑（いや）しい根性（こんじょう）も起こらぬ。もしかかる社会にあって一匹（いっぴき）の虫が財産（ざいさん）の一部を私（し）したならば、その所業はとりもなおさず盗（ぬす）むことにあたるゆえ「財産（ざいさん）は盗品（とうひん）なり」と言うたプルドンの言葉は苔虫（こけむし）の国には実際（じっさい）そのままにあてはまるのである。また苔虫（こけむし）のある種類（しゅるい）では一国内の個体（こたい）の間に分業が行なわれて食物を集める者、これを消化する者など、もっぱら国の富（とみ）を増（ま）すことをつとめる側（がわ）の者と、敵（てき）の攻撃（こうげき）を防（ふせ）いで国を護（まも）る側（がわ）の者とが明（あき）らかに分かれているが、かような場合にも、単（たん）に生活に必要（ひつよう）な各種（かくしゅ）の作用を個体（こたい）間に分担（ぶんたん）して、各自（かくじ）その専門（せんもん）の職務（しょくむ）が異（こと）なっているというまでで、少しもその間に貴賤（きせん）尊卑（そんぴ）の区別（くべつ）がない。直接（ちょくせつ）に敵（てき）に向こうて国を護（まも）る者は、あたかも他の者が資料（しりょう）を供給（きょうきゅう）してくれるによって自分らの働（はたら）きができるのであることを十分に感じているごとく、決して分外（ぶんがい）に威張（いば）ることを欲（よく）せず、また国の富（とみ）を増（ま）す方面に従事（じゅうじ）している者は、自分は直接（ちょくせつ）には敵（てき）にあたらぬが、国を護（まも）る仕事に対しては充分（じゅうぶん）に一匹（いっぴき）だけの任務（にんむ）をつくしているとの自覚（じかく）があるために、決して心にもない世辞（せじ）（注：相手に取り入ろうとして言う、心にもない言葉）追従（ついしよう）（注：おべっかを使うこと）をいうて他を傲慢（ごうまん）（注：おごりたかぶって人を見くだすこと）ならしめる必要（ひつよう）を感ぜぬごとく、両方が一致（いっち）して対等（たいとう）の位地（いち）を保（たも）ちながら、ともに国のために力をつくしているように見受ける。かくのごとく苔虫（こけむし）類（るい）の国では現在（げんざい）従事（じゅうじ）している職業（しょくぎょう）によってさえ貴賤（きせん）上下の区別（くべつ）がないくらいであるゆえ、彼（かれ）は生まれながらにして貴族（きぞく）である、これは生まれながらにして平民（へいみん）であるというような不公平（ふこうへい）な階級別（べつ）が全くない。多数集まっている個体（こたい）の中には神経（しんけい）筋肉（きんにく）ともに多少の優劣（ゆうれつ）のあるはまぬがれぬが、優者（ゆうしゃ）は優者（ゆうしゃ）だけに劣者（れっしゃ）は劣者（れっしゃ）だけにそれぞれその分に応（おう）じて国のために働（はたら）くのみで、決して世襲（せしゅう）の爵位（しゃくい）や財産（ざいさん）によって、神経（しんけい）筋肉（きんにく）ともに劣等（れっとう）の者が上流の位置（いち）を占（し）め、神経（しんけい）筋肉（きんにく）ともに優等（ゆうとう）の者が、そのためにかえって下に押（お）し詰（つ）められて生活に苦しむというごとき、各個体（かくこたい）にとっては不（ふ）公平な、国全体にとっては不利益（ふりえき）な制度（せいど）がないのはいささかうらやましい次第である。
　以上（いじょう）のごときことはしばらくおくとして、われらが苔虫（こけむし）の国を見て真にうらやましさにたえぬのは国内の各個体（かくこたい）の間に少しも争（あらそ）いのないことである。何故（なにゆえ）に少しも争（あらそ）いがないかというに、苔虫（こけむし）類（るい）では国内の各個体（かくこたい）は私有（しゆう）財産（ざいさん）がないくらいであるゆえ、隣（となり）の者と相争（あいあらそ）う理由が少しもなく、相互（そうご）におのれの欲（よく）するところはこれを他に施（ほどこ）し、おのれの欲（よく）せざるところはこれを他に施（ほどこ）さぬによるのである。われらは二十年あまりも苔虫（こけむし）類（るい）の生活のありさまを観察（かんさつ）し、ガラスの細管（さいかん）に微細（びさい）な藻類（そうるい）を吸（す）い入れて二匹（にひき）の苔虫（こけむし）の間にこれを吹（ふ）き出し、その相争（あいあらそ）うや否（いな）やを試験（しけん）したこともしばしばあるが、二匹（にひき）ともにただ自分の指を広げている範囲（はんい）内にきた食物を取るだけで、その中間に流れきた食物のごときは早く触（ふ）れたほうの個体（こたい）が静（しず）かにこれを取り収（おさ）め、二匹（にひき）相争（あいあらそ）うごときことは決してない。もっとも同一の血液（けつえき）が全国内を循環（じゅんかん）しているのであるゆえ、いずれが食物を取っても、その滋養（じよう）分は平等に分配せられるから、同一物を相争（あいあらそ）うて取る必要（ひつよう）は少しもないのである。
　かくのごとく苔虫（こけむし）の国では各自（かくじ）がおのれの欲（よく）するところはすべてこれを他に施（ほどこ）し、おのれの欲（よく）せざるところは決してこれを他に施（ほどこ）さぬから、罪悪（ざいあく）ということが全くない。それゆえ、罪悪（ざいあく）を防（ふせ）ぐための設備（せつび）は毫（ごう）も入要（いりよう）がない。修身（しゅうしん）、道徳（どうとく）というようなことは彼（かれ）らの国民（こくみん）には何の必要（ひつよう）もないのである。東洋でも西洋でも道徳（どうとく）の教えの終局（しゅうきょく）の目的（もくてき）は各個人（かくこじん）をしておのれの欲（よく）するところを他に施（ほどこ）さしめるにあるが、苔虫（こけむし）類（るい）では生まれながらこの性質（せいしつ）が備（そな）わっているから、道徳（どうとく）を教える余地（よち）がさらにない。たいていの人間社会の道徳（どうとく）個条（かじょう）は苔虫（こけむし）のほうへ行ったならばかえって赤面しなければならぬくらいである。近ごろ流行の武士道（ぶしどう）のごときももとよりよい部分もあるには相違（そうい）なかろうが、元来（がんらい）封建（ほうけん）時代の産物（さんぶつ）であって、主人の子供（こども）の身代わりにわが子を殺（ころ）して忠義（ちゅうぎ）と心得（こころえ）るような奴隷的（どれいてき）服従（ふくじゅう）を奨励（しょうれい）するごとき部分もあるゆえ、今日の人間の向上の目標（もくひょう）としては決して最（もっと）も適当（てきとう）なものとは思われぬ。これに比（ひ）すれば一国内の人民（じんみん）がことごとく公平の待遇（たいぐう）を受け、互（たが）いに相輔（あいたす）け相親しみ、協力（きょうりょく）一致（いっち）して、自国の繁栄（はんえい）をはかるという苔虫（こけむし）道のほうがはるかに高尚（こうしょう）なものと言わねばならぬ。また苔虫（こけむし）の国には罪悪（ざいあく）が全くないから、宗教（しゅうきょう）というものの必要（ひつよう）もない。ひっきょう（注：要するに）宗教（しゅうきょう）なるものも道徳（どうとく）と同じくその終局の目的（もくてき）とするところは各個人（かくこじん）がおのれの欲（よく）するところを他に施（ほどこ）すような浄土（じょうど）楽園を地上に造（つく）るにあるので、克己（こつき）復礼（ふくれい）（注：自分の欲望をおさえて、礼儀にかなった行動をとること）を主眼（しゅがん）とする孔子（こうし）の教えも転迷（てんめい）開悟（かいご）（注：迷いを転じて、悟りを開くこと）を唱道（しょうどう）する仏（ほとけ）の教えも、神者（かみは）愛也（あいなり）と説（と）くキリストの教えもみなこの目的（もくてき）に達（たっ）するための種々（しゅしゅ）の方便（ほうべん）に過（す）ぎぬ。それゆえ、苔虫（こけむし）類（るい）のような罪悪（ざいあく）のないところへ行っては、伝道（でんどう）の手掛（てが）かりさえもない。現今（げんこん）の宗教（しゅうきょう）はいずれも異（こと）なった方面から麓（ふもと）の道を分け登ろうと試（こころ）みているところであるが、苔虫（こけむし）類（るい）はすでに頂上（ちょうじょう）に達（たっ）して静（しず）かに高嶺（たかね）の月を眺（なが）めているのである。されば釈迦（しゃか）に説法（せっぽう）という諺（ことわざ）はあるが、苔虫（こけむし）に説法（せっぽう）はさらにそれよりもいっそう不必要（ふひつよう）である。　宗教（しゅうきょう）も道徳（どうとく）もともに罪悪（ざいあく）を未然（みぜん）に防（ふせ）ごうとつとめるもので、その理想とするところは罪悪（ざいあく）のない世の中であるが、苔虫（こけむし）類（るい）はすなわちすでにこのありさまにあるのである。苔虫（こけむし）類（るい）の社会は宗教（しゅうきょう）や道徳（どうとく）の理想とするところを実現（じつげん）しているのであるゆえ、この点から論（ろん）ずるときわめて尊（とおと）いもので、われわれ人間の向上の目標（もくひょう）物とすべき価値（かち）が充分（じゅうぶん）にある。各（かく）学校で毎週一時間や二時間ずつ修身（しゅうしん）倫理（りんり）の陳腐（ちんぷ）な講釈（こうしゃく）をして聞かすよりは、苔虫（こけむし）類（るい）の群体（ぐんたい）を顕微鏡（けんびきょう）で見せ、その団体（だんたい）生活の状態（じょうたい）を詳（くわ）しく説（と）き聞かせたほうが、はるかに有益（ゆうえき）ではなかろうかと思われる。また人間は「去（さ）る者日にうとし」（注：死んだ者は日が経（た）つにつれ世間から忘（わす）れられていく）というて、つねに目の前にその物を見ないと、とかく忘（わす）れやすい傾（かたむ）きがあるゆえ、仏教（ぶっきょう）などでは種々（しゅしゅ）の仏像（ぶつぞう）を建立（こんりゅう）して、人々をして日夜これを忘（わす）れしめぬ計画をしているが、祖師（そし）（注：宗派（しゅうは）を開いた人）がただ理想としたのみで、ついに達（たっ）し得（え）なかったところを苔虫（こけむし）類（るい）は現実（げんじつ）に示（しめ）しているのであるから、祖師（そし）の像（ぞう）や仏（ほとけ）の像（ぞう）を建（た）てるよりは苔虫（こけむし）の拡大（かくだい）像（ぞう）を建立（こんりゅう）したほうがはるかに理（り）にかなっている。特（とく）に近ごろのようにくだらぬ人間の銅像（どうぞう）をここにもかしこにも建（た）てるのにくらべれば、苔虫（こけむし）の銅像（どうぞう）を建（た）てて、この虫のごとくにおのれの欲（よく）するところを他に施（ほどこ）せよ、この虫のごとくに早く小我（しょうが）の境（さかい）を脱（だ）して大我（だいが）の域（いき）に進めよ、という訓戒（くんかい）をつねに眼（め）の前に示（しめ）しておいたほうが、世道（せどう）人心（じんしん）を益（えき）するに幾倍（いくばい）の効（こう）があるかわからぬ。
　苔虫（こけむし）の国には罪悪（ざいあく）がないゆえ、罪悪（ざいあく）を未然（みぜん）に防（ふせ）ぐべき宗教（しゅうきょう）道徳（どうとく）がいらぬと同じく罪悪（ざいあく）を未然（みぜん）に制（せい）すべき法律（ほうりつ）も全く必要（ひつよう）がない。したがって法律（ほうりつ）に関係（かんけい）したものは一つもいらぬ。明白な事件（じけん）を二年も三年もかかって調べる裁判所（さいばんしょ）もなければ、疑（うたが）いもない大悪人の無罪（むざい）を主張（しゅちょう）する弁護士（べんごし）もない。これを思うと、今日の人間の団体（だんたい）生活は実に不完全（ふかんぜん）きわまるもので、苔虫（こけむし）などとはとうてい比較（ひかく）すべき価値（かち）はないのである。われらは長く苔虫（こけむし）類（るい）の生活状態（じょうたい）を見なれた結果（けっか）として往々（おうおう）自身を苔虫（こけむし）の地位（ちい）において、人間界のできごとを観察（かんさつ）する習慣（しゅうかん）が生じ、何事を見るにあたっても苔虫（こけむし）的（てき）見地（けんち）から批評（ひひょう）を下すを禁（きん）じえない場合があるが、帝都（ていと）の中央に大審院（だいしんいん）（注：最高（さいこう）裁判所（さいばんしょ））や司法省（しほうしょう）の大廈（たいか）高楼（こうろう）（注：高層（こうそう）ビル）が巍然（ぎぜん）（注：高くそびえたっているさま）として立っているのを見、またこれを写真にとり絵端書（えはがき）などに造（つく）って誇（ほこ）っている世上のありさまを見て、かかる立派（りっぱ）な建築（けんちく）物を要（よう）するほどに司法（しほう）事業の繁昌（はんじょう）するのは誇（ほこ）ってよいことか、恥（は）じてよいことかなどと考え、たまたまその近傍（きんぼう）を通行する際（さい）には「虫の思わんことも恥（は）ずかし」など、思わず独語（どくご）することがある。また罪悪（ざいあく）のない世の中には警察（けいさつ）は全く無用（むよう）であり、政府（せいふ）なるものもほとんど用はない。苔虫（こけむし）の国には政府（せいふ）と人民（じんみん）との区別（くべつ）がないから、政府（せいふ）が圧制（あっせい）して人民（じんみん）が塗炭（とたん）に苦しむというごときことは決してない。人間社会では無（む）政府（せいふ）、無（む）警察（けいさつ）といえば、乱暴（らんぼう）、狼籍（ろうぜき）（注：乱暴（らんぼう）な行い）、惨酷（ざんこく）、悲惨（ひさん）なありさまを指すのであるが、苔虫（こけむし）社会では国民（こくみん）こぞって利害（りがい）得失（とくしつ）を共（とも）にし、各自（かくじ）がおのれの欲（よく）せざるところを決して他に施（ほどこ）さぬから、かかる制度（せいど）は初（はじ）めから必要（ひつよう）がないのである。なお人間社会にはあって、苔虫（こけむし）社会にはない罪悪（ざいあく）の種類（しゅるい）を数え立てたら、ほとんど際限（さいげん）がないゆえ、これを略（りゃく）するが、帰（き）するところは一方では各自（かくじ）がおのれの欲（よく）するところを他に施（ほどこ）して決して相争（あいあらそ）わぬに反し、一方では各自（かくじ）がおのれの欲（よく）せざるところをすべて他に施（ほどこ）して日夜相闘（あいたたか）うているという一事に存（そん）するのである。
　一言で言えば苔虫（こけむし）の社会では、一国内が絶対（ぜったい）に平和である。一国内の個体（こたい）はすべて相助け協力（きょうりょく）一致（いっち）して国力を増進（ぞうしん）せしめることに力をつくしているのであるが、国力が増（ま）せばその力はことごとく外に向こうて発展（はってん）するゆえ、列国間の競争（きょうそう）のはげしいことにいたっては苔虫（こけむし）類（るい）は人間社会に一歩も譲（ゆず）らない。およそ生物が増加（ぞうか）し繁殖（はんしょく）している間は、ある形における戦争（せんそう）はとうてい避（さ）くべからざるもので、全生物界の平和なることは決して望（のぞ）むべからざることである。されば苔虫（こけむし）類（るい）で国内が絶対（ぜったい）に平和であるのは、ただ競争（きょうそう）の単位（たんい）が一段（いちだん）昇（のぼ）って、個体（こたい）間の競争（きょうそう）がなくなり、列国間の競争（きょうそう）となったまでのことで、戦争（せんそう）なるものが全然（ぜんぜん）跡（あと）を絶（た）ったわけではない。国内が平和であるだけ、国力はすべて外に向こうて働（はたら）くから、もし一国の増進（ぞうしん）発展（はってん）の妨（さまた）げとなる物に出遇（であ）うた場合には、全力をつくして、これに打ち勝（か）とうと劇烈（げきれつ）に戦（たたか）う。狭（せま）い面積（めんせき）のところに多数の苔虫（こけむし）の国がならんでいるところを見ると、各国（かっこく）互（たが）いに国境（こっきょう）のところではげしく相圧（あいお）し合い、少しでも弱いほうはたちまち圧（お）し滅（ほろ）ぼされてしまうありさまは、あたかも政治（せいじ）地理図を見るのと同様な感じが起こる。しかして戦（たたか）うにあたっては、決して国境（こっきょう）の戦線（せんせん）に立つもののみがこれにあずかるのではなく、真に挙国（きょこく）一致（いっち）で、すべてが同様に働（はたら）くのである。苔虫（こけむし）類（るい）は芽生（がせい）で繁殖（はんしょく）してつねに周囲（しゅうい）に向こうてふえてゆくゆえ、戦線（せんせん）に立つものはいずれも屈強（くっきょう）な壮年（そうねん）者ばかりであるが、国の内部に留（とど）まっている老年（ろうねん）者の中にはむろん漸々（ぜんぜん）衰弱（すいじゃく）して死ぬ者もある。その死んだ者の身体はいかになるかというに、だんだん脂肪（しぼう）などに変質（へんしつ）して国内を循環（じゅんかん）する血液（けつえき）に輸送（ゆそう）せられ、国境（こっきょう）の戦線（せんせん）に達（たっ）して壮年（そうねん）者の兵糧（ひょうろう）となってしまう。すなわち戦争（せんそう）にあたっては親は戦線（せんせん）に立っているわが子に兵糧（ひょうろう）を供給（きょうきゅう）するために、自分の肉を罐詰（かんづ）めにして送付（そうふ）するのである。戦争（せんそう）を機（き）として不正（ふせい）の金儲（かねもう）けを企（くわだ）てる不忠（ふちゅう）不義（ふぎ）（注：主君にたいし、忠（ちゅう）をつくさないってこと）の者の多い人間社会では一人やや忠義（ちゅうぎ）な者があると非常（ひじょう）に目に立って後の世までも名をのこすが、苔虫（こけむし）の国ではすべての者が絶対（ぜったい）に義勇（ぎゆう）公（おうやけ）に奉（ほう）ずるのであるから、いずれをとっても人間社会の最（さい）忠義（ちゅうぎ）者よりはるかに以上（いじょう）の忠義（ちゅうぎ）者であって、その間に等差（とうさ）を付（つ）けて功（こう）を論（ろん）ずることはできぬ。
　さてかように苔虫（こけむし）類（るい）では一国内は実に絶対（ぜったい）の平和で、不平（ふへい）もなく争（あらそ）いもなく、真に挙国（きょこく）一致（いっち）で国のために働（はたら）いているありさまはわれわれ人間から見るとまことにうらやましさに堪（た）えぬ次第（しだい）であるが、さようにうらやましければ人間もその真似（まね）を試（こころ）みてはいかが、人間社会においても財産（ざいさん）を共有（きょうゆう）にして貧富（ひんぷ）の別（べつ）をなくし、階級制度（せいど）を廃（はい）して人民（じんみん）の位地（いち）を平等とし、互（たが）いに相輔（あいたす）け相親しみ私情（しじょう）を去ってもっぱら国のために力をつくすようにするがよろしいではないかという議論（ぎろん）が起こるかもしれぬが、これは今日とうていできぬことである。今日の社会の制度（せいど）に改革（かいかく）を要（よう）する点の多くあるはもちろんであるが、現在（げんざい）の制度（せいど）はいずれも初（はじ）め必要（ひつよう）があって起こり、社会の変遷（へんせん）とともに一定の経歴（けいれき）を過（す）ぎて今日のありさまに達（たっ）したものゆえ、たとい改良（かいりょう）を要（よう）するものがあるとしても、突然（とつぜん）これを廃（はい）することは決して得策（とくさく）でない。今日の制度（せいど）はみな人間の本来の性質（せいしつ）に基因（きいん）することで、人間がおのれの欲（よく）せざるところを他に施（ほどこ）すという我欲（がよく）を生まれながらに持っている以上（いじょう）は、法律（ほうりつ）も警察（けいさつ）も必要（ひつよう）であり、宗教（しゅうきょう）も道徳（どうとく）も廃（はい）するわけにはゆかぬ。されば今日の人間が一足飛（いっそくと）びに苔虫（こけむし）社会の真似（まね）をして財産（ざいさん）を共有（きょうゆう）にしようと思うごときはすこぶる無理（むり）である。かかるありさまを実現（じつげん）しようと企（くわだ）てるには、まずその前に人間の生まれつきの性質（せいしつ）を鋳直（いなお）し、その我欲（がよく）を去って苔虫（こけむし）同様なものとなす必要（ひつよう）があるが、これは人間に対して人間ならざるものとなれと注文することにあたるゆえ、むろん不可能（ふかのう）である。
　すべて理想（りそう）的（てき）と名のつくものは一としてただちに実現（じつげん）せられ得（える）べきものはない。現在（げんざい）の世の中に理想（りそう）的（てき）のものの決してないことはいずれの方面を見ても明らかに知れることで、理想（りそう）的（てき）の学者も、理想（りそう）的（てき）の教育家も実際（じっさい）の世の中には一人もない、理想（りそう）的（てき）の政治（せいじ）家、理想（りそう）的（てき）の代議士（だいぎし）はさらに少ない。若（わか）い人等（ら）の間には理想（りそう）的（てき）の夫（おっと）とか理想（りそう）的（てき）の妻（つま）とかいう言葉が盛（さか）んに行なわれるが、これらも結婚（けっこん）せぬ間の夢（ゆめ）であって、実際（じっさい）結婚（けっこん）したのちまで理想（りそう）的（てき）な男女は決してない。われらが本文の表題に理想（りそう）的（てき）という文字を冠（かむ）らせたのも、全くこの意味であって、苔虫（こけむし）類（るい）に見るごとき完全（かんぜん）なる団体（だんたい）生活は、現在（げんざい）の人間にとってはとうてい不可能（ふかのう）である。もし今日ただちに苔虫（こけむし）類（るい）のごとき理想（りそう）的（てき）の社会を造（つく）ろうと思う者があったならば、これは人間生来（せいらい）の欠点（けってん）を忘（わす）れた僣上（せんじよう）（注：身分をわきまえず、さしでた行為をすること）の沙汰（さた）と言わねばならぬ。しかしながら理想（りそう）的（てき）なるものは向上の目標（もくひょう）としては必要（ひつよう）なもので、これによって日々の進歩の方向を定めることのできるものゆえ、動物の中にはかかる理想（りそう）的（てき）の団体（だんたい）生活をなしている種類（しゅるい）があることを承知（しょうち）しておくことは、一身を修（おさ）めてゆくにあたっても、社会の制度（せいど）を改良（かいりょう）するにあたっても一つの参考（さんこう）ともなり、また目標（もくひょう）ともなるであろうとの考えから以上（いじょう）のとおりその大略（たいりゃく）を記述（きじゅつ）した次第（しだい）である。