昨年の一月号には、「
人類の
征服に対する
自然の
復讐」と
題して、
人類が
自然を
征服し
得たりとて、文明を勝ち
誇っている間に、
自然は日夜
絶えず
恐ろしい
復讐をしていることを
述べたが、かようなことは
単に
物質的、身体
的の方面にのみ
限られるものであろうか。
精神的、
思想的の方面にも、これと同様なことがあるのではなかろうか。次にこれらの点についていささか
論じて見よう。
仮にここに一つの国があると
想像して、その国で
最高の
権力を
握り
得た少数の人等が、全
国民にかようかようのことを
信ぜしめるのが
自分等のために
都合がよろしいと考えたことを、あらゆる
方法を用いて、
強制的に
人民に
信ぜしめ、少しでもこれと
異なった考えを発表せんと
試みる者があれば、
直ちにこれを
刑に
処して、その
思想を
未発(注:まだ起こらないこと)に
防ぐことをつとめたと
仮定したならば、その国は
如何なる
状態におちいり、
将来如何になり行くであろうか。
兵権(注:
軍を
指揮する
権力)を有する者が
兵力によっておさえつければ、
思想の発表を
防ぐことは実に何でもないゆえ、
権力者の注文と
異なる考えはむろん全く
現われなくなり、ただ
強制的の
信仰個条(注:キリスト教で、教会が
認める
信仰、信仰
告白、中心的
教義などが
箇条書きに
規準化されたもの)のみが全国内にすみずみまで行き
渡って、一人の
不信者もなきかのごとき
盛況を
呈すべきは言うまでもない。かようなありさまを見ると、あたかも
知識の進歩、
脳髄の
発達に
伴うて、つねに新たなる
思想を生ぜしめんとする
自然の
働きを、
人為によって
有効に
防ぎ
止め、全く
自然を
征服し
得たごとくに感ぜられ、
権力者およびこれに
隷属(注:他の
支配を受けて、その言いなりになること)する
手下の面々は、おのが計画の
成就せるをよろこび、かつ
誇るであろう。しかしながら、
自然はかように
征服せられても、ただおとなしく
従うのみで、決してこれに対して
復讐をせぬものであろうか。
以上仮定したごときことは、もとより今日の文明国においては決してあり
得べからざることで、
実際においてもまた決してない。しかしながら、まだ文明の
充分に進まなかった時代には、かようなことはあえて
珍しくはなかった。
特に三、四百年前のキリスト教
諸国にはいくらでも
例のあることで、かのガリレイが時の
権力者の
信仰個条と
異なった
地動説を
唱えたために、キリスト教の本山から
非常なる
迫害を受け、「それでも動く」と口の中でつぶやきながら地動
説を
撤回したという話のあるのも、わずかにその
一小例に
過ぎぬ。今より
述べんとすることは、
別にそのころの事実を調べたわけでもなく、また
現今の半開国の
状態を
基としたのでもなく、全く
机上の
空論に
過ぎぬが、昔のヨーロッパの一部にはあるいは
実際そのままにあてはまるかもしれぬ。
さておよそ世の中の進歩するのは、
物質的の方面でも、
精神的の方面でも、すべて自由研究の
結果であって、研究が自由にできればできるほどその
成績もいちじるしく、進歩も
速かなるはずである。もしある方面に
関して、自由に研究することを
禁じたならば、これとともにその方面の進歩も全く止まることは言うをまたぬ。時の
権力者が自分らに
都合のよい一定の
信仰個条を
製造して、これを全
国民に
強いる場合には、
思想界における自由の
研究は全くできなくなるゆえ、この方面の進歩はとうてい
望むことはできず、自由研究の空気が世の中から
除き
去らるれば、
勢いその
影響が他の方面にもおよんで、すべて研究ということが
充分に行なわれず、したがって国全体の進歩が止まり、たちまち研究の自由な
隣国とは、とても
競争のできぬような
憐れな
境遇におちいるおそれがある。西洋
歴史中のいわゆる暗黒時代とは、おそらくかようは
思想界の自由研究を
阻害した時代であって、その間に世の中が少しも進歩しなかったのは、全く
自然が
復讐をしたのであると見なすこともできよう。
「
触らぬ神に
祟り
無し」という
諺が昔からあるが、この意味の
文句が
最もしばしば
応用せられたのは、おそらく、
権力者が
暴威をもって
或る
信仰を強いた国の
思想界においてであろう。かような国では、
強制信条(注:強制された
信仰の
箇条)に対していささかでも
異存のあることをほのめかせば、たちまち
禍が身におよぶゆえ、心の中ではおのおの自分の真なりと
信ずるところを
信じながら、
公には決して口へ出さぬ。されば
権力者の
指揮に
従うて、
強制信条を
伝える
僧侶、学者だけは、うるさく声を発するが、真の
思想家は
沈黙を守るのほかに
途はない。発表を
許された
言論は、ただ一
種類に
限られるから、
思想界はきわめて
貧弱になって、その進歩は全く
止んでしまう。このことは、かような時代の
哲学や
倫理学の
状況にはいちじるしく
現われている。すなわち
哲学においても、
根柢から自由に考えて、真に真理を
探り
求めんとすれば、時に
権力者の
選定した
強制信条と
矛盾する
議論をも出さざるを
得ぬゆえ、かような時世に
哲学で立ってゆく
利巧な学者などは、みな
巧みに人間の
実際生活に直ちに
触れるごとき問題を
避け、
深遠なとか、玄幽(注:
幽玄。物事の
趣が
奥深くはかりしれないこと)なとかいう
夢のごとき
理屈のみを
微細に
論じているか、さもなくば、
論理法を曲げたりねじったりして、当時の
強制信条と
一致するような
結論に
達する
別誂え(注:
特に注文する)の
哲学系統を組み立てようとつとめた。
倫理学のほうでは、このことはさらにはなはだしく、少しでも
強制信条と
抵触する
議論は
絶対に
許されぬから、かような時代の
倫理学者はなるべく
理論を
避け、
実践を重んずるという
口実のもとに、ひたすら
強制信条を
敷衍(注:おしひろげること)し
注釈することにのみ力をつくした。されば
哲学や
倫理学に
関して
如何に多くの
著述ができ、
如何に
厚い書物が
印刷せられ
製本せられてもいずれも
反古(注:役立たないもの)同様のものばかりで、後世に
遺るほどの
価値あるものは、もとより
一冊なりとも
現われるはずはなかった。
かような時代にも、他の時代におけると同じく、学者間にはつねに
競争や
嫉妬があって、
誰も他を追い
越して、早く出世しようと
骨を
折ったが、その
努力はすべて、
一種特別の方面にのみ向けられた。自由に考えることは全く
禁ぜられてあるゆえ、すべての
努力は、
如何にすれば
強制信条と
一致する
結論に
達し
得べきかという問題に向うて注がれ、この
技術の
巧みな学者ほど
権力者からむろん重く用いられた。されば、
哲学でも、
倫理学でも、この一方面のみには
非常に
発達して、ほとんど
一種の
芸術と見なすべき
程度に進んだが、これは
思想の自由なところではとうてい見れらぬことである。三、四百年前のヨーロッパにはかような
著書が
沢山にあるが、今名を
暗記しているものがないゆえ、ここに
例を
掲げることは
略する。
かような国へ、他国から他の
宗教を
伝えきたっときにも、またよほど
奇態なありさまが生じた。元来他国で起こった
宗教は、もちろんこちらの国の
強制信条とはことごとく
一致するはずのものでないゆえ、かかる
宗教を
伝える者は始めから
大なる
迫害を受け、
権力者の
御用をつとめる学者
連からは、国家に
有害なものとして
盛んに
攻撃せられるので、
如何に本国から
補助せられてもなかなかやってゆくことがむずかしかった。その間には内地人の
利巧な
伝道者は
種々考案をめぐらして、ついにはその国の
強制信条と両立のできるようにつくろい(注:
補修する)直し、本国のものとは大分
異なった
鵺的(注:
得体の知れない
存在)のものとして
伝えたが、かくては
伝道者の口で
説くところと、
御経の
文句に明記してあることとの間に
矛盾が生じて、
結局あまり
盛んにはなり
得なかった。
いずれにしても、一定の
信仰を
強いて
思想の自由を
束縛するところでは、
哲学でも
倫理でも、
創作でも
評論でも、きわめて
窮屈な
範囲より一歩も外へ
蹈み出すことができぬゆえ、全く進歩が止まってしまう。
祟りを
恐れて人々が
自己の
思想を発表せねば、
誰も
特に
罰をこうむる者がない代わりに、いつまでたっても
思想界が進歩せず、たちまちにして世の
大勢におくれ、全
国民がことごとく
自然の
復讐を
甘んじて受けねばならぬ時がくるのである。
権力者が
強制信条を
選定するにあたっては、たいてい
国民が
従来祟めきたった神を
借りて、これに自分らに
都合のよい
種々の新
意義をつけ
加えるが、これはおそらく、
国民になじみのない神を
新規に
製造するよりははるかに
便宜であるゆえであろう。すなわちキリスト教国ならば「エホバ」の神を持ち出し、神様とこの国との間には他に
類のない深い
関係があると
説き、むかしわれわれの
先祖が海を
渡るにあたって、船のなかったときに、神様が
浪を左右に開いて
海底を歩かせて下さったとか、
暗夜には火の柱を立てて、
道案内をしてくださったとか、さまざまな昔話を聞かせてありがたがらせ、かくして、何ごとをも神様の
仰せとして
絶対に
服従せしめんと
企てる。しこうしてかような昔話も
或る
信仰を
強制する
方便として、
権力者はこれを
重大視するゆえ、少しでもこれに対して
疑いをはさむごとき
言論は
許されぬ。さればかような国では、その国の
歴史も
強制信条の
敷衍(注:おしひろげること)に
都合のよいように組み立てられ、これと
抵触する部分はことごとく
除き去られ、
架空な
伝説でも、これに
利用のできるものは
適宜(注:その場に合っていること)に
脚色して
編入せられる。まじめな
歴史の研究などはとうていかような国では行なわれる
望みはない。
そもそも、自国の真の
歴史を知ることは、その
国民が
将来の
発展を計画するに当たって、きわめて
必要なことである。
個人の間の
競争においても、
敵を知り、おのれを知ることが大切であるとおり、他
国民との
競争に当たっても、まず自
国民の
真価を知らねばならぬ。もし自
国民の
真価を知らず、みだりにうぬぼれて、力にあまる
不相当なことを
企てたならば、ついには
如何なる
窮境(注:行き
詰まった
苦しい立場)におちいるやもしれぬ。かの、
自ら「
選まれたる
民」と
称していた「ユダヤ人」が、ついに国を
成さなかったのも、あるいはかようなうぬぼれの
結果かもわからぬ。
強制信条と、これに
附随する
特製の
歴史との行なわれる国では、その
国民は
自己の
真価を知ることができず、つねに大いにうぬぼれる
傾きがあるから、その
将来にはずいぶん
危険が
伴うであろう。しこうして、その
原因は何かといえば、やはり、
触れば
祟る神を
祭って研究の自由を
妨げ、
思想界の
自然の
発達を止めたからである。
またかような時代には、教育は
如何なるありさまにあるかと考えるに、おそらく、その
内容にははなはだしい
矛盾があって、あたかも油と水とを一つの
桝に入れたごとき
体裁であったろうと思われる。そのわけは、およそ
強制信条なるものは、元来、
権力者が自分の
都合から
割り出して
選定したものであるゆえ、
議論としてはとうてい
成り立つものではない。
例えば神様は実にありがたいものである、
汝らはその
御恩を
忘れては
相成らぬぞ、神様のおぼしめしによって
汝らを
司配する
法王殿の
御命令には
絶対に
服従せねばならぬぞ、というごときことでも、または、
救世主が手でさわっただけで、
盲人の
眼が開き、
跛者(注:足の
不自由な人)が走り出し、
癩病患者がたちまちなおったとか、今の
法王殿は
敬神博愛の
徳に
富んでおられるありがたいお方であるとかいうごときことでも、
議論をしてはとうてい相手を
心服せしめることはできぬゆえ、
権力者はまず
議論などをせぬ
幼年時代からかような考えを頭の中へ
注ぎ
込んで、
自然に全
国民にかく
信ぜしめようと
企てる。すなわち
子供の教育に
従事する者どもに命じて、油絵の前にお
辞儀をさせたり、
讃美歌を歌わせたり、
御経を読むあいだつつしんで立たせたりして、まだ何ごとをもわきまえぬ
頑是(注:
分別)ない
子供らに、始めから少しも
疑いを
抱く
余地を
与えぬようにと
尽力する。されば、かような時代の学校で
児童に
授けることは、むろん主として
強制信条の
敷衍であるが、
強制信条でも、これに
附随した
造り話でもみな真実として教えるのであるから、実は
teach
(注:
教える)するのではなくて
cheat
(注:だまし取る)するのである。したがって、これに
従事する教員を
teacher と
呼ぶのは実は cheater
(注:
詐欺師)という字の「アナグラム」(注:
単語または文の中の文字をいくつか入れ
替えることによって、全く
別の
意味にする
遊び)を用いているに
過ぎぬ。しかし、教育が
終始一貫してだますばかりならば、その
内容に何も
矛盾は起こらぬが、
隣国の進歩を見ては、だますほかに、
国民の
知識を進めることをもつとめねばならず、ここにおいて教育の仕事に、
互いに
調和のできぬ
矛盾が生ずるのである。
四方の
隣国がみな速かに進歩するのに、自分の国だけが進歩におくれては
将来がきわめて心細い。しこうして、四方の
隣国が
盛んに進歩するのは、
自然の物と
自然の
現象とをつまびらかに研究して、その
結果、知り
得たことを人生に
応用するゆえである。されば、
権力者も、国の
維持生存のためには、いやでもこれらの
知識を進めるようにつとめねばならず、そのためには学校の
課目のなかにも
自然科学を組み入れて
授けさせる。ところが
強制信条や、
特製の
歴史話などとは
違うて、この方面の学科では、
如何に
教師がだまそうとしても
自然が
承知せぬゆえ、決してだましとおすことはできぬ。それゆえ、かような時代の学校では、
二種の全く
異なったことを同時に行なわねばならぬ。すなわち一方においては
強制信条を
敷衍して
授け、
子供をだまして、その思考力の
発達を
押さえておかねばならず、他方において、
自然物を自由に研究せしめ、自身の力で真を
探り
求めるように
子供を
導いて、その思考力の進歩を
促さねばならぬ。前に水と油とを同じ
桝に入れたような
状態と言うたのはこのことである。かように相反して、とうてい
融和することのできぬ
二種の仕事を同時に行なおうとすれば、決して両方ともに
充分にできるはずがない。もし一方に重きをおけば、他方はぜひとも
閑却(注:いい
加減にほうっておくこと)せられるに定まっている。
権力者が
強制信条の
普及に重きをおくだけ、それだけ
自然現象の研究は教育上軽んぜられ、したがってその方面の研究が進まず、ついには四方の
隣国が
盛んに進歩するに反し、
自己の国だけは、その足元にも
寄れぬほどの
遅れ方をして、
生存が
次第に
困難になるをまぬがれぬ。教育は元来、他の
民族の間にはさまって、
自己の
民族が長く
立派に
生存し
続け
得ることを
目的とし、これに
適するように
子供を仕立てるべきはずのものであるに、
権力者が自分らだけに
都合のよい
信仰個条を
人民に
強制するところでは全くその
目的が
変わってしまい、
民族の
将来の運命に向かっては、かえってはなはだ
不利益なことを行なうにいたりやすい。教育に
従事する者が、みな
相応に
骨を
折っておるにかかわらず、真の
効果が少しもあがらず、
国民の
思想がかえって
退歩して、国運もおいおい下り坂に向かうごときことのあるのは、全く一定の
信仰を
強制して、
思想界の進歩を
人為的に止めたからである。
強制信条およびこれに
附随する
種々の
造り話は、いずれも
証拠を
示して
論理的に
会得せしめ
得べきことではない。それゆえ、
子供らにこれを
説き聞かせ、頭からただ
信ぜしめようとすれば、
勢い
迷信を助長することにあたる。
普通の考えをもってはとうてい
信ずることのできぬことをみだりに
信ずるのがすなわち
迷信であるが、
強制信条は多くの場合には
健全な人間の考えをもっては
信じがたい部分を
含んでいるゆえ、これを
信ずるのはすでに
迷信の
範囲に
属する。しこうして、力をつくして
一種の
迷信の
普及を図り、その
盛んなることを
望む
以上は、他の
迷信をもあながちに
排斥する
途はない。ハリストス(注:キリスト)の
奇蹟を
信じうるように
養成せられた
脳髄は、モハメットの
不思議をも同じく
信じ
得るわけであるゆえ、かようなところでは
迷信を
防ぐことはとうてい
望まれぬ。キロマンシー(注:
手相占い)でもアストロロジー(注:
星占い)でも「ツイガンカ」のカルタ
判断でもことごとく
盛んに行なわれ、世間
一統に
迷信の空気が
充ちても、これを
破ることはできぬ。なぜかと言えば、これらの
迷信を
破るための
論法は、もし
強制信条のほうに向けたならば、同じくそれをも
破り
得る
論法であるゆえ、
強制信条を
尊重する
以上は、
容易に
振りまわすことができぬからである。かような次第であるから、
一種の
迷信を
強制する国では、他の
迷信も
隆盛をきわめるであろうが、
迷信と自由研究とは正反対のものゆえ、
迷信の
盛んな国では研究は決して進まず、研究が進まねばたちまち
隣国よりはいちじるしくおくれてしまう。
昇天祭(注:キリストの昇天を
記念する日。
復活祭から5週目の木曜日)に
詣らせられたり、一生に一度はぜひエルサレムへ
参れなどと教えられても、ただそのままに
信じ
従うだけで、その理由を問い返す心が少しも起こらぬようになっては、すでに研究心が全く
麻痺しているのであるから、いずれの方面に向うても、ろくな発明も発見もできるはずはない。
迷信の
盛んな国では年々
迷信のために
費す時間と
費用と
労力とが実に
莫大であるほかに、
各方面の進歩がすべて
妨げられるのであるから、
迷信の少ない国との対等の
競争はとうていむずかしく、
隣国との
懸隔がますますはなはだしくなるであろうが、一定の
迷信を強いる
以上は、かような
状態に立ちいたるのを
避けることはできぬ。
迷信が
盛んに行なわるれば、
常識は
衰えざるを
得ない。
常識とは、
経験に
基づいた
実際的の
判断力を言うのであるから、
常識と
迷信とはとうてい
一致せず、
常識が
増せば
迷信は
減じ、
常識がくだれば
迷信は
昇る。
常識の
発達した
国民ならば、何ごとでも
常識で
適当に
判断することができるゆえ、
規則のごときも
大要を定めておくだけでよろしいが、
常識のない
国民は何ごともこまかい
詳しい
末の
末までも
規則を定めておかぬと
取扱いができぬ。
常識の
発達した
国民と、
常識のない
国民とでは年々
事務を取り
扱う間にどのくらいの時間と
労力との
消費に
相違があるかしれぬ。されば、
常識は、なるべく
発達させたい者であるが、
常識とは
経験に
基づく
独立の
判断力であるゆえ、これが
発達すればすべての
迷信は
破り去られ、したがって
強制信条もその
根柢があぶなくなる。
子供のうちから
迷信で
固めておけば、その
迷信に向うては
疑いを起こさぬ代わりに、
常識が全く
発達せず、したがって国のために
不利益であり、
常識の
発達するような
教育法を
施せば、すべての
迷信を
破り去って、
強制信条までも
批評眼をもって見るようになるから、
権力者には少し
都合が悪い。もし
権力者がかような場合に
迷信のほうを
強制すれば、これは次代の
国民の
常識を
犠牲に
供する
仕業であって、
国民はそのため
将来、大なる
損害を受けねばならぬ。
またかような時代には、たとえ
常識のある人でも、これを運用することはできぬ。他の
迷信に対しては
常識的の
批評をくだしても
差支えはないが、
強制信条中の
迷信に対しては全く
批評を
許されない。死んだ者が三日目によみがえって、天に
昇ったなどとはとうてい
信ぜられぬとか、
亭主と
同棲せぬ女がはらんだのは
聖霊のためでなくて、おおかた
情夫があったのであろうとか、
法王とても同じ人間である
以上は人間
共通の弱点を
具えているであろう。
特に大寺院の
奥で
競争を知らずに育てられたのであるから、
普通の世間へ出したら、とても一人前には通用せぬ人間であろうなどとは、
常識のある人ならば
誰でも考えそうなことであるが、三四百年前のヨーロッパでこのようなことを口に出したらおそらく命はなかったであろう。されば、
常識で物事を
判断し
処置すると、どこで
強制信条と
抵触せぬとも
限らず、すこぶる
険呑(注:
危ないさま)であるゆえ、ささいなことまでも本山に
伺うた上でなければ、言うことも行なうこともできぬ。
常識を
働かせることを止められたために生ずる
損失は、その
源をただせば、すべて
迷信の
強制に
基づくことである。
強制信条は、多くは神と自分の国との間に
一種特別の
関係があるごとくに
説くを
便利とする。すなわち神は自分らのみの神であって、他国にはこれに
類するものはないとか、神の
特別の
恩恵を受ける者は自分のみであるとか言うて、自国をもって、すべての他国にまさったものと
信ぜしめ、したがって、
強制信条のごときも、自
国民のみは、その
精神を
解し
得るが、他国人にはとうてい
解し
得ざるものであると教え
込み、これがすなわち自分の国が他の国々に
秀でるゆえんであるなどとうぬぼれさせる。これは
権力者の
選定した
信仰個条を
普及せしめるに当たって、おろかな人間の弱点を
捕える
巧妙な
策ではあるが、そのため
国民は、他の
国民からは
不可思議な
国民、
解すべからざる
国民として
仲間以外のものと見なされ、
交際の上に
非常な
不利益を受けねばならぬ。
子供のうちから
強制信条のもとに教育せられた者は、自分らの
特殊の
精神状態はとうてい他の
国民等の
了解し
得べきところでないと、教えられたとおりに
得意になっているが、
民族の
発展の上にはこれがどのくらい大きな
障害となるかしれぬ。どこの人間でもうぬぼれのないものはないが、自分で
最もすぐれたりと思うておるヨーロッパの
諸国民は、
特にうぬぼれもはげしいから、
互いに他
国民の文明の
程度を
測るには、自分が他
国民を
了解し
得る
程度を
標準とし、
了解のできぬ
国民は、これを
野蛮国と見なして
盛んに
軽蔑する。かの国は
不思議な国なり、かの
国民の心理
状態はとうてい自分らの
了解し
得ざるところであると
評するのは、すなわちかの
国民は
野蛮である、とうてい自分らと
伍すべきものでな言というのと同じ意味である。ところで他
国民には
不可解なる
信仰個条を国内に
強制し
普及せしめると、その
国民と他
国民との間には
思想の上に
非常なへだたりが生じて、他
国民はすべてその国を
仲間以外のものと見なし、ついにはこれを
嫌い、その
発展を
押さえ
妨げようとつとめるにいたる。かようになっては、その
国民の
未来はすこぶる苦しいことにならざるをえない。
いったい、いずれの
国民にも
国自慢はあるが、
子供の時から、自分の国は
特別の神様と
特別の
関係のある他に
比類なき
国柄であると教えこまれた
国民は、
国自慢もその
極度に
達して、他国人に自国の
欠点を
列挙せられ
自己の
思想の
幼稚なことをあざけられても、その言いまわし方が
腕曲であると、自国の長所をほめられているつもりで
喜んでいる。
軽蔑せられながら、
尊敬せられていると思うほどにうぬぼれが強いと、先方とこちらとの間に
意志が
疏通するわけがないから、他国人もついには遠まわしに当てこすることを止めて、
直接法で明らかに短所を
罵倒するようになる。かようになってはほかに向うて
民族の
発展を図ることはいよいよむずかしい。しこうして、この
源は何かとたずねると、
初めに
常識とかけはなれた
強制信条を国内に
施したからである。
以上述べたごとく、
権力者が、自分らに
都合のよい一定の
信仰個条を
強制して、少しでもこれと
異なった考えを発表した者を
厳罰に
処した国では、
思想界の進歩は全く止まり、
哲学でも
倫理でも、他国には通ぜぬ
畸形なものとなり、
歴史の自由研究はできぬゆえ、
国民は自国の真の
歴史を知らず、やたらにうぬぼれて短所をかえって長所と
心得るにいたり、教育は
欺きだますことと、知力を
啓発することとを同時に行なわんとするために
効果が全く
現われず、とうてい四方の
隣国とは知力に
基づく
競争ができなくなり、
強制信条で
一種の
迷信を
保護奨励する
以上は、他の
種々雑多の
迷信をも
退けることはできず、また
常識によって物を
論じ事を行なえば、どこで
強制信条と
抵触せぬとも
限らず、すこぶる
険呑であるゆえ、まず
常識を用いざるほうが安全となり、その
結果として、他国からは全く
不思議な
不可解な、
精神的にはなお
未開の
状態にある
特殊国と見なされ、
仲間からはずされて、四方の
隣国をみな
敵とせざるを
得ぬような運命におちいる。
強制信条の定めてある国では、これに
抵触することを言えばたちまち
禍が身におよぶゆえ、
誰も
沈黙を守るのほかはない。すなわち
祟りを
恐れて神に
触らずにいるのであるが、神に
触る者がなければ、むろん
罰をこうむる者もなく、神は全く
祟らなかったごとく見えるかもしれぬ。しかしながら、
誰もが神の
祟りを
恐れて、神に
触らずにいると、その
国民はついにここに
述べたごとききわめて
不利益な
状態におちいってしまう。されば、
触った者に
祟る神は実は
触らぬときにもひそかに
祟っているのである。
触った者のあるときに、その一人にその時だけ
祟る神は、
誰も
触らぬときは全
国民に
永久に
祟る。すなわち一人に
祟らぬ代わりに、
頭割りに全体に
祟り、一時に
祟らぬ代わりに、五十年か百年かの
年賦で
祟るのである。しこうして、その
祟りは長く
続けばつづくほど
積り重なって、ついにはとうてい取り返しのつかぬようなことになるから、実に
戦慄すべきほど
恐ろしい
祟りである。
自然は
人類に
征服せられて、決して
復讐せずにいるものではない。
物質的、身体
的の方面ばかりでなく、
思想的、
精神的の方面においても
人為で
自然を
圧迫すれば、
必ずそのために
自然の
復讐を受けねばならぬ。
人類の知力が進歩し、
脳髄が
発達すれば、それに
伴うて
常に新しい
思想の生じ出るのは
自然の動きである。
権力者が一定の
信仰個条を
造ってこれを
国民に
強制し、
思想の進歩を止めるのは、すなわち
人為をもって
自然の
働きを
圧し止めるのであるから、たとえ一時は
自然を
征服し
得たかのごとき
外観を
呈しても、そのうちにはおいおい
復讐の
結果が
現われて、
早晩、
自然の
成り行きに
従うのほかなき時代が
到着する。
強制信条の
命脈は
如何にもがいても、それまでであるが、あらゆる
威力を用いて
強いてその時まで
継続せしめることは、ただ
触らぬ神の
祟りを長びかせ
積らせるだけに
過ぎぬであろう。
およそ世の中は、つねに自分で自由に考える力のあるきわめて少数の人々と、自分には考える力がなくて、すべて他人に考えてもらうきわめて多数の人々とから
成り立っている。きわめて多数の人々はつねに他の人の考えたことを聞いて、そのとおりに考えているだけゆえ、一定の
信仰を
強制せられても、自身には少しも
強制せられているとは感じない。されば、
強制信条の
圧迫を感ずるのはきわめて少数の人々のみである。数で言えば
強制信条のために
束縛を受けるのは、あるいはきわめて少数の人々だけであるかもしれぬが、
思想の
発達の上から言えば、これらの少数の人々が
最も大切な人々であって、これらの人々が新たな
説を発表しなかったならば、全国の
思想界は少しも進歩せぬ。
強制信条というてもきわめて少数の人々さえ、
我慢をして
黙しておれば、他は
別に
強制とも何とも感ぜぬ
輩のみであるゆえ、
無理に
強いることがはなはだ少ないようにも見えるが、
結果から言うとすこぶる重大なことである。
かつてある
僧侶がドイツ国ワイマールの大公のところへきて、ヘッケルのことを
訴え、
彼はかようかようのけしからぬことを
唱えている、キリスト教国の体面にも
関わることゆえ、かくのごとき
言論はよろしく
厳禁なさるが
適当であろうと言うた。大公はこれを聞いて「
御身はヘッケルは自分の
信ずるところを
唱えていると考えるか」と問い返し、
僧侶が「もとよりのこと」と答えたので、「それでは
御身も
彼も同一のことをしておるのではないか」と言うて、
僧侶の
勧めを取り上げなかった。真に
国民の進歩を
図る者は、かくのごとくに心をひろく持って、
如何なる
言論をも自由に発表させ、
互いに
相戦わせしめ、
思想界の
自然の
発達を
助勢し、自由研究の空気を国内にみなぎらせ、すべての方面の進歩を
促すべきはずである。ドイツ国が近年
非常な進歩をなしたのも、おそらく
各方面の自由研究が
盛んに行なわれたからであろう。
くりかえして言うが、
触れば
祟る神が祭ってある間は
誰も
祟りを
恐れてその神に
触らぬ。しかし、
誰も
触らなければ全く
祟りはないかというと、決してさようなわけではなく、前に
述べたとおり、全
国民に長く
祟り、しかもすこぶる
恐ろしい
結果を生ずるのである。しかしながらこの
祟りは
漸々現われてくるだけで、一時に目立って
現われぬゆえ、目前のことより分からぬ人間は全くその
祟りを知らずにいる。
凡庸な学者
達までが
祟りの
結果に気が
付くころは、
病でいえば、医者がすでに
匙を投げるほどになったころであって、もはや
回復の
望みはない。一定の
信仰を
強制することも、時と場合とによってはむろん
必要で、
愚昧(注:おろかで
道理に
暗いこと)な
人民を
率いて、国家の
危難を切り
抜けようとするときのごときは、おそらくこれによるのほかはなかろうが、
時勢の進歩にかまわず、どこまでもその
信仰を
強制し
続ければ、ついには前に
述べたごとき苦しい
状態におちいって、
次第に
滅亡せざるを
得ない。
かく考えると、
憲法によって、
信仰の自由を
保証せられている文明時代に生まれた
我々は、何と幸福ではないか。
(大正元年十一月)