触らぬ神の祟り

丘浅次郎





 昨年さくねんの一月号には、「人類じんるい征服せいふくに対する自然しぜん復讐ふくしゅう」とだいして、人類じんるい自然しぜん征服せいふくたりとて、文明を勝ちほこっている間に、自然しぜんは日夜えずおそろしい復讐ふくしゅうをしていることをべたが、かようなことはたん物質ぶしつてき、身体てきの方面にのみかぎられるものであろうか。精神せいしんてき思想しそうてきの方面にも、これと同様なことがあるのではなかろうか。次にこれらの点についていささかろんじて見よう。
 かりにここに一つの国があると想像そうぞうして、その国で最高さいこう権力けんりょくにぎた少数の人等が、全国民こくみんにかようかようのことをしんぜしめるのが自分等じぶんらのために都合つごうがよろしいと考えたことを、あらゆる方法ほうほうを用いて、強制きょうせいてき人民じんみんしんぜしめ、少しでもこれとことなった考えを発表せんとこころみる者があれば、ただちにこれをけいしょして、その思想しそう未発みはつ(注:まだ起こらないこと)にふせぐことをつとめたと仮定かていしたならば、その国は如何いかなる状態じょうたいにおちいり、将来しょうらい如何いかになり行くであろうか。兵権へいけん(注:ぐん指揮しきする権力けんりょく)を有する者が兵力へいりょくによっておさえつければ、思想しそうの発表をふせぐことは実に何でもないゆえ、権力けんりょく者の注文とことなる考えはむろん全くあらわれなくなり、ただ強制きょうせいてき信仰しんこう個条かじょう(注:キリスト教で、教会がみとめる信仰しんこう、信仰告白こくはく、中心的教義きょうぎなどが箇条書かじょうがきに規準化きじゅんかされたもの)のみが全国内にすみずみまで行きわたって、一人の不信者ふしんじゃもなきかのごとき盛況せいきょうていすべきは言うまでもない。かようなありさまを見ると、あたかも知識ちしきの進歩、脳髄のうずい発達はったつともなうて、つねに新たなる思想しそうを生ぜしめんとする自然しぜんはたらきを、人為じんいによって有効ゆうこうふせめ、全く自然しぜん征服せいふくたごとくに感ぜられ、権力けんりょく者およびこれに隷属れいぞく(注:他の支配しはいを受けて、その言いなりになること)する手下てしたの面々は、おのが計画の成就じょうじゅせるをよろこび、かつほこるであろう。しかしながら、自然しぜんはかように征服せいふくせられても、ただおとなしくしたがうのみで、決してこれに対して復讐ふくしゅうをせぬものであろうか。
 以上いじょう仮定かていしたごときことは、もとより今日の文明国においては決してありべからざることで、実際じっさいにおいてもまた決してない。しかしながら、まだ文明の充分じゅうぶんに進まなかった時代には、かようなことはあえてめずらしくはなかった。とくに三、四百年前のキリスト教諸国しょこくにはいくらでもれいのあることで、かのガリレイが時の権力けんりょく者の信仰しんこう個条かじょうことなった地動ちどうせつとなえたために、キリスト教の本山から非常ひじょうなる迫害はくがいを受け、「それでも動く」と口の中でつぶやきながら地動せつ撤回てっかいしたという話のあるのも、わずかにその一小例いちしょうれいぎぬ。今よりべんとすることは、べつにそのころの事実を調べたわけでもなく、また現今げんこんの半開国の状態じょうたいもととしたのでもなく、全く机上きじょう空論くうろんぎぬが、昔のヨーロッパの一部にはあるいは実際じっさいそのままにあてはまるかもしれぬ。
 さておよそ世の中の進歩するのは、物質ぶしつてきの方面でも、精神せいしんてきの方面でも、すべて自由研究の結果けっかであって、研究が自由にできればできるほどその成績せいせきもいちじるしく、進歩もすみやかなるはずである。もしある方面にかんして、自由に研究することをきんじたならば、これとともにその方面の進歩も全く止まることは言うをまたぬ。時の権力けんりょく者が自分らに都合つごうのよい一定の信仰しんこう個条かじょう製造せいぞうして、これを全国民こくみんいる場合には、思想しそう界における自由の研究けんきゅうは全くできなくなるゆえ、この方面の進歩はとうていのぞむことはできず、自由研究の空気が世の中からのぞらるれば、いきおいその影響えいきょうが他の方面にもおよんで、すべて研究ということが充分じゅうぶんに行なわれず、したがって国全体の進歩が止まり、たちまち研究の自由な隣国りんごくとは、とても競争きょうそうのできぬようなあわれな境遇きょうぐうにおちいるおそれがある。西洋歴史れきし中のいわゆる暗黒時代とは、おそらくかようは思想しそう界の自由研究を阻害そがいした時代であって、その間に世の中が少しも進歩しなかったのは、全く自然しぜん復讐ふくしゅうをしたのであると見なすこともできよう。


さわらぬ神にたたし」ということわざが昔からあるが、この意味の文句もんくもっともしばしば応用おうようせられたのは、おそらく、権力けんりょく者が暴威ぼういをもって信仰しんこうを強いた国の思想しそう界においてであろう。かような国では、強制きょうせい信条しんじょう(注:強制された信仰しんこう箇条かじょう)に対していささかでも異存いぞんのあることをほのめかせば、たちまちわざわいが身におよぶゆえ、心の中ではおのおの自分の真なりとしんずるところをしんじながら、おおやけには決して口へ出さぬ。されば権力けんりょく者の指揮しきしたがうて、強制きょうせい信条しんじょうつたえる僧侶そうりょ、学者だけは、うるさく声を発するが、真の思想しそう家は沈黙ちんもくを守るのほかにみちはない。発表をゆるされた言論げんろんは、ただ一種類しゅるいかぎられるから、思想しそう界はきわめて貧弱ひんじゃくになって、その進歩は全くんでしまう。このことは、かような時代の哲学てつがく倫理学りんりがく状況じょうきょうにはいちじるしくあらわれている。すなわち哲学てつがくにおいても、根柢こんていから自由に考えて、真に真理をさぐもとめんとすれば、時に権力けんりょく者の選定せんていした強制きょうせい信条しんじょう矛盾むじゅんする議論ぎろんをも出さざるをぬゆえ、かような時世に哲学てつがくで立ってゆく利巧りこうな学者などは、みなたくみに人間の実際じっさい生活に直ちにれるごとき問題をけ、深遠しんえんなとか、玄幽(注:幽玄ゆうげん。物事のおもむきおく深くはかりしれないこと)なとかいうゆめのごとき理屈りくつのみを微細びさいろんじているか、さもなくば、論理ろんりほうを曲げたりねじったりして、当時の強制きょうせい信条しんじょう一致いっちするような結論けつろんたつするべつあつらえ(注:とくに注文する)の哲学てつがく系統けいとうを組み立てようとつとめた。倫理学りんりがくのほうでは、このことはさらにはなはだしく、少しでも強制きょうせい信条しんじょう抵触ていしょくする議論ぎろん絶対ぜったいゆるされぬから、かような時代の倫理学りんりがく者はなるべく理論りろんけ、実践じっせんを重んずるという口実こうじつのもとに、ひたすら強制きょうせい信条しんじょう敷衍ふえん(注:おしひろげること)し注釈ちゅうしゃくすることにのみ力をつくした。されば哲学てつがく倫理学りんりがくかんして如何いかに多くの著述ちょじゅつができ、如何いかあつい書物が印刷いんさつせられ製本せいほんせられてもいずれも反古ほご(注:役立たないもの)同様のものばかりで、後世にのこるほどの価値かちあるものは、もとより一冊いっさつなりともあらわれるはずはなかった。
 かような時代にも、他の時代におけると同じく、学者間にはつねに競争きょうそう嫉妬しっとがあって、だれも他を追いして、早く出世しようとほねったが、その努力どりょくはすべて、一種いっしゅ特別とくべつの方面にのみ向けられた。自由に考えることは全くきんぜられてあるゆえ、すべての努力どりょくは、如何いかにすれば強制きょうせい信条しんじょう一致いっちする結論けつろんたつべきかという問題に向うて注がれ、この技術ぎじゅつたくみな学者ほど権力けんりょく者からむろん重く用いられた。されば、哲学てつがくでも、倫理学りんりがくでも、この一方面のみには非常ひじょう発達はったつして、ほとんど一種いっしゅ芸術げいじゅつと見なすべき程度ていどに進んだが、これは思想しそうの自由なところではとうてい見れらぬことである。三、四百年前のヨーロッパにはかような著書ちょしょ沢山たくさんにあるが、今名を暗記あんきしているものがないゆえ、ここにれいげることはりゃくする。
 かような国へ、他国から他の宗教しゅうきょうつたえきたっときにも、またよほど奇態きたいなありさまが生じた。元来他国で起こった宗教しゅうきょうは、もちろんこちらの国の強制きょうせい信条しんじょうとはことごとく一致いっちするはずのものでないゆえ、かかる宗教しゅうきょうつたえる者は始めからおおいなる迫害はくがいを受け、権力けんりょく者の御用ごようをつとめる学者れんからは、国家に有害ゆうがいなものとしてさかんに攻撃こうげきせられるので、如何いかに本国から補助ほじょせられてもなかなかやってゆくことがむずかしかった。その間には内地人の利巧りこう伝道者でんどうしゃ種々しゅしゅ考案こうあんをめぐらして、ついにはその国の強制きょうせい信条しんじょうと両立のできるようにつくろい(注:補修ほしゅうする)直し、本国のものとは大分ことなったぬえてき(注:得体えたいの知れない存在そんざい)のものとしてつたえたが、かくては伝道者でんどうしゃの口でくところと、御経おきょう文句もんくに明記してあることとの間に矛盾むじゅんが生じて、結局けっきょくあまりさかんにはなりなかった。
 いずれにしても、一定の信仰しんこういて思想しそうの自由を束縛そくばくするところでは、哲学てつがくでも倫理りんりでも、創作そうさくでも評論ひょうろんでも、きわめて窮屈きゅうくつ範囲はんいより一歩も外へみ出すことができぬゆえ、全く進歩が止まってしまう。たたりをおそれて人々が自己じこ思想しそうを発表せねば、だれとくばつをこうむる者がない代わりに、いつまでたっても思想しそう界が進歩せず、たちまちにして世の大勢たいせいにおくれ、全国民こくみんがことごとく自然しぜん復讐ふくしゅうあまんじて受けねばならぬ時がくるのである。


 権力けんりょく者が強制きょうせい信条しんじょう選定せんていするにあたっては、たいてい国民こくみん従来じゅうらいあがめきたった神をりて、これに自分らに都合つごうのよい種々しゅしゅの新意義いぎをつけくわえるが、これはおそらく、国民こくみんになじみのない神を新規しんき製造せいぞうするよりははるかに便宜べんぎであるゆえであろう。すなわちキリスト教国ならば「エホバ」の神を持ち出し、神様とこの国との間には他にるいのない深い関係かんけいがあるとき、むかしわれわれの先祖せんぞが海をわたるにあたって、船のなかったときに、神様がなみを左右に開いて海底かいていを歩かせて下さったとか、暗夜あんやには火の柱を立てて、みち案内あんないをしてくださったとか、さまざまな昔話を聞かせてありがたがらせ、かくして、何ごとをも神様のおおせとして絶対ぜったい服従ふくじゅうせしめんとくわだてる。しこうしてかような昔話も信仰しんこう強制きょうせいする方便ほうべんとして、権力けんりょく者はこれを重大視じゅうだいしするゆえ、少しでもこれに対してうたがいをはさむごとき言論げんろんゆるされぬ。さればかような国では、その国の歴史れきし強制きょうせい信条しんじょう敷衍ふえん(注:おしひろげること)に都合つごうのよいように組み立てられ、これと抵触ていしょくする部分はことごとくのぞき去られ、架空かくう伝説でんせつでも、これに利用りようのできるものは適宜てきぎ(注:その場に合っていること)に脚色きゃくしょくして編入へんにゅうせられる。まじめな歴史れきしの研究などはとうていかような国では行なわれるのぞみはない。
 そもそも、自国の真の歴史れきしを知ることは、その国民こくみん将来しょうらい発展はってんを計画するに当たって、きわめて必要ひつようなことである。個人こじんの間の競争きょうそうにおいても、てきを知り、おのれを知ることが大切であるとおり、他国民こくみんとの競争きょうそうに当たっても、まず自国民こくみん真価しんかを知らねばならぬ。もし自国民こくみん真価しんかを知らず、みだりにうぬぼれて、力にあまる相当そうとうなことをくわだてたならば、ついには如何いかなる窮境きゅうきょう(注:行きまったくるしい立場)におちいるやもしれぬ。かの、みずから「えらまれたるたみ」としょうしていた「ユダヤ人」が、ついに国をさなかったのも、あるいはかようなうぬぼれの結果けっかかもわからぬ。強制きょうせい信条しんじょうと、これに附随ふずいする特製とくせい歴史れきしとの行なわれる国では、その国民こくみん自己じこ真価しんかを知ることができず、つねに大いにうぬぼれるかたむきがあるから、その将来しょうらいにはずいぶん危険きけんともなうであろう。しこうして、その原因げんいんは何かといえば、やはり、ふれればたたる神をまつって研究の自由をさまたげ、思想しそう界の自然しぜん発達はったつを止めたからである。


 またかような時代には、教育は如何いかなるありさまにあるかと考えるに、おそらく、その内容ないようにははなはだしい矛盾むじゅんがあって、あたかも油と水とを一つのますに入れたごとき体裁ていさいであったろうと思われる。そのわけは、およそ強制きょうせい信条しんじょうなるものは、元来、権力けんりょく者が自分の都合つごうからり出して選定せんていしたものであるゆえ、議論ぎろんとしてはとうていり立つものではない。たとえば神様は実にありがたいものである、なんじらはその御恩ごおんわすれてはあいらぬぞ、神様のおぼしめしによってなんじらを司配しはいする法王ほうおう殿どの命令めいれいには絶対ぜったい服従ふくじゅうせねばならぬぞ、というごときことでも、または、救世主きゅうせいしゅが手でさわっただけで、盲人もうじんが開き、跛者はしゃ(注:足の自由な人)が走り出し、癩病らいびよう患者かんじゃがたちまちなおったとか、今の法王ほうおう殿どの敬神けいしん博愛はくあいとくんでおられるありがたいお方であるとかいうごときことでも、議論ぎろんをしてはとうてい相手を心服しんぷくせしめることはできぬゆえ、権力けんりょく者はまず議論ぎろんなどをせぬ幼年ようねん時代からかような考えを頭の中へそそんで、自然しぜんに全国民こくみんにかくしんぜしめようとくわだてる。すなわち子供こどもの教育に従事じゅうじする者どもに命じて、油絵の前にお辞儀じぎをさせたり、讃美歌さんびかを歌わせたり、御経おきょうを読むあいだつつしんで立たせたりして、まだ何ごとをもわきまえぬ頑是がんぜ(注:分別ふんべつ)ない子供こどもらに、始めから少しもうたがいをいだ余地よちあたえぬようにと尽力じんりょくする。されば、かような時代の学校で児童じどうさずけることは、むろん主として強制きょうせい信条しんじょう敷衍ふえんであるが、強制きょうせい信条しんじょうでも、これに附随ふずいしたつくり話でもみな真実として教えるのであるから、実は teachティーチ (注:おしえる)するのではなくて cheatチート (注:だまし取る)するのである。したがって、これに従事じゅうじする教員を teacher とよぶぶのは実は cheater (注:詐欺師さぎし)という字の「アナグラム」(注:単語たんごまたは文の中の文字をいくつか入れえることによって、全くべつ意味いみにするあそび)を用いているにぎぬ。しかし、教育が終始しゅうし一貫いっかんしてだますばかりならば、その内容ないように何も矛盾むじゅんは起こらぬが、隣国りんごくの進歩を見ては、だますほかに、国民こくみん知識ちしきを進めることをもつとめねばならず、ここにおいて教育の仕事に、たがいに調和ちょうわのできぬ矛盾むじゅんが生ずるのである。
 四方の隣国りんごくがみな速かに進歩するのに、自分の国だけが進歩におくれては将来しょうらいがきわめて心細い。しこうして、四方の隣国りんごくさかんに進歩するのは、自然しぜんの物と自然しぜん現象げんしょうとをつまびらかに研究して、その結果けっか、知りたことを人生に応用おうようするゆえである。されば、権力けんりょく者も、国の維持いじ生存そんぞくのためには、いやでもこれらの知識ちしきを進めるようにつとめねばならず、そのためには学校の課目かもくのなかにも自然しぜん科学を組み入れてさずけさせる。ところが強制きょうせい信条しんじょうや、特製とくせい歴史れきし話などとはちがうて、この方面の学科では、如何いか教師きょうしがだまそうとしても自然しぜん承知しょうちせぬゆえ、決してだましとおすことはできぬ。それゆえ、かような時代の学校では、二種にしゅの全くことなったことを同時に行なわねばならぬ。すなわち一方においては強制きょうせい信条しんじょう敷衍ふえんしてさずけ、子供こどもをだまして、その思考力の発達はったつさえておかねばならず、他方において、自然しぜん物を自由に研究せしめ、自身の力で真をさぐもとめるように子供こどもみちびいて、その思考力の進歩をうながさねばならぬ。前に水と油とを同じますに入れたような状態じょうたいと言うたのはこのことである。かように相反して、とうてい融和ゆうわすることのできぬ二種にしゅの仕事を同時に行なおうとすれば、決して両方ともに充分じゅうぶんにできるはずがない。もし一方に重きをおけば、他方はぜひとも閑却かんきゃく(注:いい加減かげんにほうっておくこと)せられるに定まっている。権力けんりょく者が強制きょうせい信条しんじょう普及ふきゅうに重きをおくだけ、それだけ自然しぜん現象げんしょうの研究は教育上軽んぜられ、したがってその方面の研究が進まず、ついには四方の隣国りんごくさかんに進歩するに反し、自己じこの国だけは、その足元にもれぬほどのおくれ方をして、生存せいぞん次第しだい困難こんなんになるをまぬがれぬ。教育は元来、他の民族みんぞくの間にはさまって、自己じこ民族みんぞくが長く立派りっぱ生存せいぞんつづることを目的もくてきとし、これにてきするように子供こどもを仕立てるべきはずのものであるに、権力けんりょく者が自分らだけに都合つごうのよい信仰しんこう個条かじょう人民じんみん強制きょうせいするところでは全くその目的もくてきわってしまい、民族みんぞく将来しょうらいの運命に向かっては、かえってはなはだ不利益ふりえきなことを行なうにいたりやすい。教育に従事じゅうじする者が、みな相応そうおうほねっておるにかかわらず、真の効果こうかが少しもあがらず、国民こくみん思想しそうがかえって退歩たいほして、国運もおいおい下り坂に向かうごときことのあるのは、全く一定の信仰しんこう強制きょうせいして、思想しそう界の進歩を人為じんいてきに止めたからである。


 強制きょうせい信条しんじょうおよびこれに附随ふずいする種々しゅしゅつくり話は、いずれも証拠しょうこしめして論理ろんりてき会得えとくせしめべきことではない。それゆえ、子供こどもらにこれをときき聞かせ、頭からただしんぜしめようとすれば、いきお迷信めいしんを助長することにあたる。普通ふつうの考えをもってはとうていしんずることのできぬことをみだりにしんずるのがすなわち迷信めいしんであるが、強制きょうせい信条しんじょうは多くの場合には健全けんぜんな人間の考えをもってはしんじがたい部分をふくんでいるゆえ、これをしんずるのはすでに迷信めいしん範囲はんいぞくする。しこうして、力をつくして一種いっしゅ迷信めいしん普及ふきゅうを図り、そのさかんなることをのぞ以上いじょうは、他の迷信めいしんをもあながちに排斥はいせきするみちはない。ハリストス(注:キリスト)の奇蹟きせきしんじうるように養成ようせいせられた脳髄のうずいは、モハメットの不思議ふしぎをも同じくしんるわけであるゆえ、かようなところでは迷信めいしんふせぐことはとうていのぞまれぬ。キロマンシー(注:手相てそううらない)でもアストロロジー(注:ほしうらない)でも「ツイガンカ」のカルタ判断はんだんでもことごとくさかんに行なわれ、世間一統いっとう迷信めいしんの空気がちても、これをやぶることはできぬ。なぜかと言えば、これらの迷信めいしんやぶるための論法ろんぽうは、もし強制きょうせい信条しんじょうのほうに向けたならば、同じくそれをもやぶ論法ろんぽうであるゆえ、強制きょうせい信条しんじょう尊重そんちょうする以上いじょうは、容易よういりまわすことができぬからである。かような次第であるから、一種いっしゅ迷信めいしん強制きょうせいする国では、他の迷信めいしん隆盛りゅうせいをきわめるであろうが、迷信めいしんと自由研究とは正反対のものゆえ、迷信めいしんさかんな国では研究は決して進まず、研究が進まねばたちまち隣国りんごくよりはいちじるしくおくれてしまう。昇天祭しょうてんさい(注:キリストの昇天を記念きんねんする日。復活祭ふっかつさいから5週目の木曜日)にまいらせられたり、一生に一度はぜひエルサレムへまいれなどと教えられても、ただそのままにしんしたがうだけで、その理由を問い返す心が少しも起こらぬようになっては、すでに研究心が全く麻痺まひしているのであるから、いずれの方面に向うても、ろくな発明も発見もできるはずはない。迷信めいしんさかんな国では年々迷信めいしんのためについやす時間と費用ひよう労力ろうりょくとが実に莫大ばくだいであるほかに、かく方面の進歩がすべてさまたげられるのであるから、迷信めいしんの少ない国との対等の競争きょうそうはとうていむずかしく、隣国りんごくとの懸隔けんかくがますますはなはだしくなるであろうが、一定の迷信めいしんを強いる以上いじょうは、かような状態じょうたいに立ちいたるのをけることはできぬ。


 迷信めいしんさかんに行なわるれば、常識じょうしきおとろえざるをない。常識じょうしきとは、経験けいけんもとづいた実際じっさいてき判断はんだん力を言うのであるから、常識じょうしき迷信めいしんとはとうてい一致いっちせず、常識じょうしきせば迷信めいしんげんじ、常識じょうしきがくだれば迷信めいしんのぼる。常識じょうしき発達はったつした国民こくみんならば、何ごとでも常識じょうしき適当てきとう判断はんだんすることができるゆえ、規則きそくのごときも大要たいようを定めておくだけでよろしいが、常識じょうしきのない国民こくみんは何ごともこまかいくわしいすえすえまでも規則きそくを定めておかぬと取扱とりあつかいができぬ。常識じょうしき発達はったつした国民こくみんと、常識じょうしきのない国民こくみんとでは年々事務じむを取りあつかう間にどのくらいの時間と労力ろうりょくとの消費しょうひ相違そういがあるかしれぬ。されば、常識じょうしきは、なるべく発達はったつさせたい者であるが、常識じょうしきとは経験けいけんもとづく独立どくりつ判断はんだん力であるゆえ、これが発達はったつすればすべての迷信めいしんやぶり去られ、したがって強制きょうせい信条しんじょうもその根柢こんていがあぶなくなる。子供こどものうちから迷信めいしんかためておけば、その迷信めいしんに向うてはうたがいを起こさぬ代わりに、常識じょうしきが全く発達はったつせず、したがって国のために不利益ふりえきであり、常識じょうしき発達はったつするような教育法きょういくほうほどこせば、すべての迷信めいしんやぶり去って、強制きょうせい信条しんじょうまでも批評ひひょうがんをもって見るようになるから、権力けんりょく者には少し都合つごうが悪い。もし権力けんりょく者がかような場合に迷信めいしんのほうを強制きょうせいすれば、これは次代の国民こくみん常識じょうしき犠牲ぎせいきょうする仕業しわざであって、国民こくみんはそのため将来しょうらい、大なる損害そんがいを受けねばならぬ。
 またかような時代には、たとえ常識じょうしきのある人でも、これを運用することはできぬ。他の迷信めいしんに対しては常識じょうしきてき批評ひひょうをくだしても差支さしつかえはないが、強制きょうせい信条しんじょう中の迷信めいしんに対しては全く批評ひひょうゆるされない。死んだ者が三日目によみがえって、天にのぼったなどとはとうていしんぜられぬとか、亭主ていしゅ同棲どうせいせぬ女がはらんだのは聖霊せいれいのためでなくて、おおかた情夫じょうふがあったのであろうとか、法王ほうおうとても同じ人間である以上いじょうは人間共通きょうつうの弱点をそなえているであろう。とくに大寺院のおく競争きょうそうを知らずに育てられたのであるから、普通ふつうの世間へ出したら、とても一人前には通用せぬ人間であろうなどとは、常識じょうしきのある人ならばだれでも考えそうなことであるが、三四百年前のヨーロッパでこのようなことを口に出したらおそらく命はなかったであろう。されば、常識じょうしきで物事を判断はんだん処置しょちすると、どこで強制きょうせい信条しんじょう抵触ていしょくせぬともかぎらず、すこぶる険呑けんのん(注:あぶないさま)であるゆえ、ささいなことまでも本山にうかがうた上でなければ、言うことも行なうこともできぬ。常識じょうしきはたらかせることを止められたために生ずる損失そんしつは、そのみなもとをただせば、すべて迷信めいしん強制きょうせいもとづくことである。


 強制きょうせい信条しんじょうは、多くは神と自分の国との間に一種いっしゅ特別とくべつ関係かんけいがあるごとくにくを便利べんりとする。すなわち神は自分らのみの神であって、他国にはこれにるいするものはないとか、神の特別とくべつ恩恵おんけいを受ける者は自分のみであるとか言うて、自国をもって、すべての他国にまさったものとしんぜしめ、したがって、強制きょうせい信条しんじょうのごときも、自国民こくみんのみは、その精神せいしんかいるが、他国人にはとうていかいざるものであると教えみ、これがすなわち自分の国が他の国々にひいでるゆえんであるなどとうぬぼれさせる。これは権力けんりょく者の選定せんていした信仰しんこう個条かじょう普及ふきゅうせしめるに当たって、おろかな人間の弱点をとらえる巧妙こうみょうさくではあるが、そのため国民こくみんは、他の国民こくみんからは不可思議ふかしぎ国民こくみんかいすべからざる国民こくみんとして仲間なかま以外いがいのものと見なされ、交際こうさいの上に非常ひじょう不利益ふりえきを受けねばならぬ。子供こどものうちから強制きょうせい信条しんじょうのもとに教育せられた者は、自分らの特殊とくしゅ精神せいしん状態じょうたいはとうてい他の国民こくみん等の了解りょうかいうるべきところでないと、教えられたとおりに得意とくいになっているが、民族みんぞく発展はってんの上にはこれがどのくらい大きな障害しょうがいとなるかしれぬ。どこの人間でもうぬぼれのないものはないが、自分でもっともすぐれたりと思うておるヨーロッパのしょ国民こくみんは、とくにうぬぼれもはげしいから、たがいに他国民こくみんの文明の程度ていどはかるには、自分が他国民こくみん了解りょうかい程度ていど標準ひょうじゅんとし、了解りょうかいのできぬ国民こくみんは、これを野蛮やばん国と見なしてさかんに軽蔑けいべつする。かの国は不思議ふしぎな国なり、かの国民こくみんの心理状態じょうたいはとうてい自分らの了解りょうかいざるところであるとひょうするのは、すなわちかの国民こくみん野蛮やばんである、とうてい自分らとすべきものでな言というのと同じ意味である。ところで他国民こくみんには不可解ふかかいなる信仰しんこう個条かじょうを国内に強制きょうせい普及ふきゅうせしめると、その国民こくみんと他国民こくみんとの間には思想しそうの上に非常ひじょうなへだたりが生じて、他国民こくみんはすべてその国を仲間なかま以外いがいのものと見なし、ついにはこれをきらい、その発展はってんさえさまたげようとつとめるにいたる。かようになっては、その国民こくみん未来みらいはすこぶる苦しいことにならざるをえない。
 いったい、いずれの国民こくみんにも国自慢くにじまんはあるが、子供こどもの時から、自分の国は特別とくべつの神様と特別とくべつ関係かんけいのある他に比類ひるいなき国柄くにがらであると教えこまれた国民こくみんは、国自慢くにじまんもその極度きょくどたつして、他国人に自国の欠点けってん列挙れっきょせられ自己じこ思想しそう幼稚ようちなことをあざけられても、その言いまわし方が腕曲わんきょくであると、自国の長所をほめられているつもりでよろこんでいる。軽蔑けいべつせられながら、尊敬そんけいせられていると思うほどにうぬぼれが強いと、先方とこちらとの間に意志いし疏通そつうするわけがないから、他国人もついには遠まわしに当てこすることを止めて、直接ちょくせつほうで明らかに短所を罵倒ばとうするようになる。かようになってはほかに向うて民族みんぞく発展はってんを図ることはいよいよむずかしい。しこうして、このみなもとは何かとたずねると、はじめに常識じょうしきとかけはなれた強制きょうせい信条しんじょうを国内にほどこしたからである。


 以上いじょうべたごとく、権力けんりょく者が、自分らに都合つごうのよい一定の信仰しんこう個条かじょう強制きょうせいして、少しでもこれとことなった考えを発表した者を厳罰げんばつしょした国では、思想しそう界の進歩は全く止まり、哲学てつがくでも倫理りんりでも、他国には通ぜぬ形なものとなり、歴史れきしの自由研究はできぬゆえ、国民こくみんは自国の真の歴史れきしを知らず、やたらにうぬぼれて短所をかえって長所と心得こころえるにいたり、教育はあざむきだますことと、知力を啓発けいはつすることとを同時に行なわんとするために効果こうかが全くあらわれず、とうてい四方の隣国りんごくとは知力にもとづく競争きょうそうができなくなり、強制きょうせい信条しんじょう一種いっしゅ迷信めいしん保護ほご奨励しょうれいする以上いじょうは、他の種々しゅしゅ雑多ざった迷信めいしんをも退しりぞけることはできず、また常識じょうしきによって物をろんじ事を行なえば、どこで強制きょうせい信条しんじょう抵触ていしょくせぬともかぎらず、すこぶる険呑けんのんであるゆえ、まず常識じょうしきを用いざるほうが安全となり、その結果けっかとして、他国からは全く不思議ふしぎ不可解ふかかいな、精神せいしんてきにはなお未開みかい状態じょうたいにある特殊とくしゅ国と見なされ、仲間なかまからはずされて、四方の隣国りんごくをみなてきとせざるをぬような運命におちいる。
 強制きょうせい信条しんじょうの定めてある国では、これに抵触ていしょくすることを言えばたちまちわざわいが身におよぶゆえ、だれ沈黙ちんもくを守るのほかはない。すなわちたたりをおそれて神にさわらずにいるのであるが、神にさらる者がなければ、むろんばつをこうむる者もなく、神は全くたたらなかったごとく見えるかもしれぬ。しかしながら、だれもが神のたたりをおそれて、神にさわらずにいると、その国民こくみんはついにここにべたごとききわめて不利益ふりえき状態じょうたいにおちいってしまう。されば、さわった者にたたる神は実はさわらぬときにもひそかにたたっているのである。さわった者のあるときに、その一人にその時だけたたる神は、だれさわらぬときは全国民こくみん永久えいきゅうたたる。すなわち一人にたたらぬ代わりに、頭割あたまわりに全体にたたり、一時にたたらぬ代わりに、五十年か百年かの年賦ねんぷたたるのである。しこうして、そのたたりは長くつづけばつづくほどつもり重なって、ついにはとうてい取り返しのつかぬようなことになるから、実に戦慄せんりつすべきほどおそろしいたたりである。
 自然しぜん人類じんるい征服せいふくせられて、決して復讐ふくしゅうせずにいるものではない。物質ぶしつてき、身体てきの方面ばかりでなく、思想しそうてき精神せいしんてきの方面においても人為じんい自然しぜん圧迫あっぱくすれば、かならずそのために自然しぜん復讐ふくしゅうを受けねばならぬ。人類じんるいの知力が進歩し、脳髄のうずい発達はったつすれば、それにともなうてつねに新しい思想しそうの生じ出るのは自然しぜんの動きである。権力けんりょく者が一定の信仰しんこう個条かじょうつくってこれを国民こくみん強制きょうせいし、思想しそうの進歩を止めるのは、すなわち人為じんいをもって自然しぜんはたらきをあつし止めるのであるから、たとえ一時は自然しぜん征服せいふくたかのごとき外観がいかんていしても、そのうちにはおいおい復讐ふくしゅう結果けっかあらわれて、早晩そうばん自然しぜんり行きにしたがうのほかなき時代が到着とうちゃくする。強制きょうせい信条しんじょう命脈めいみゃく如何いかにもがいても、それまでであるが、あらゆる威力いりょくを用いていてその時まで継続けいぞくせしめることは、たださわらぬ神のたたりを長びかせつもらせるだけにぎぬであろう。
 およそ世の中は、つねに自分で自由に考える力のあるきわめて少数の人々と、自分には考える力がなくて、すべて他人に考えてもらうきわめて多数の人々とからり立っている。きわめて多数の人々はつねに他の人の考えたことを聞いて、そのとおりに考えているだけゆえ、一定の信仰しんこう強制きょうせいせられても、自身には少しも強制きょうせいせられているとは感じない。されば、強制きょうせい信条しんじょう圧迫あっぱくを感ずるのはきわめて少数の人々のみである。数で言えば強制きょうせい信条しんじょうのために束縛そくばくを受けるのは、あるいはきわめて少数の人々だけであるかもしれぬが、思想しそう発達はったつの上から言えば、これらの少数の人々がもっとも大切な人々であって、これらの人々が新たなせつを発表しなかったならば、全国の思想しそう界は少しも進歩せぬ。強制きょうせい信条しんじょうというてもきわめて少数の人々さえ、我慢がまんをしてもくしておれば、他はべつ強制きょうせいとも何とも感ぜぬやからのみであるゆえ、無理むりいることがはなはだ少ないようにも見えるが、結果けっかから言うとすこぶる重大なことである。
 かつてある僧侶そうりょがドイツ国ワイマールの大公のところへきて、ヘッケルのことをうったえ、かれはかようかようのけしからぬことをとなえている、キリスト教国の体面にもかかわることゆえ、かくのごとき言論げんろんはよろしく厳禁げんきんなさるが適当てきとうであろうと言うた。大公はこれを聞いて「御身おんみはヘッケルは自分のしんずるところをとなえていると考えるか」と問い返し、僧侶そうりょが「もとよりのこと」と答えたので、「それでは御身おんみかれも同一のことをしておるのではないか」と言うて、僧侶そうりょすすめを取り上げなかった。真に国民こくみんの進歩をはかる者は、かくのごとくに心をひろく持って、如何いかなる言論げんろんをも自由に発表させ、たがいにあいたたかわせしめ、思想しそう界の自然しぜん発達はったつ助勢じょせいし、自由研究の空気を国内にみなぎらせ、すべての方面の進歩をうながすべきはずである。ドイツ国が近年非常ひじょうな進歩をなしたのも、おそらくかく方面の自由研究がさかんに行なわれたからであろう。
 くりかえして言うが、ればたたる神が祭ってある間はだれたたりをおそれてその神にさわらぬ。しかし、だれさわらなければ全くたたりはないかというと、決してさようなわけではなく、前にべたとおり、全国民こくみんに長くたたり、しかもすこぶるおそろしい結果けっかを生ずるのである。しかしながらこのたたりは漸々ぜんぜんあらわれてくるだけで、一時に目立ってあらわれぬゆえ、目前のことより分からぬ人間は全くそのたたりを知らずにいる。凡庸ぼんような学者たちまでがたたりの結果けっかに気がくころは、やまいでいえば、医者がすでにさじを投げるほどになったころであって、もはや回復かいふくのぞみはない。一定の信仰しんこう強制きょうせいすることも、時と場合とによってはむろん必要ひつようで、愚昧ぐまい(注:おろかで道理どうりくらいこと)な人民じんみんひきいて、国家の危難きなんを切りけようとするときのごときは、おそらくこれによるのほかはなかろうが、時勢じせいの進歩にかまわず、どこまでもその信仰しんこう強制きょうせいつづければ、ついには前にべたごとき苦しい状態じょうたいにおちいって、次第しだい滅亡めつぼうせざるをない。
 かく考えると、憲法けんぽうによって、信仰しんこうの自由を保証ほしょうせられている文明時代に生まれた我々われわれは、何と幸福ではないか。
(大正元年十一月)







底本:丘浅次郎著作集U「煩悶と自由」有隣堂
   1968(昭和43)年 7月20日
入力:矢野重藤
初出:1913(大正2)年1月 教育
校正:
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