生物学講話

丘浅次郎



+目次
+第一章 生物の生涯しょうがい
+第二章 生命の起こり
+第三章 生活なん
+第四章 寄生きせい共棲きょうせい
+第五章 食われぬほう
+第六章 詐欺さぎ
+第七章 本能ほんのうと知力
+第八章 団体だんたい生活
+第九章 生殖せいしょく方法ほうほう
+第十章 たまご精虫せいちゅう
+第十一章 雌雄しゆうべつ
+第十二章 恋愛れんあい
+第十三章 産卵さんらん妊娠にんしん
+第十四章 身体の始め
+第十五章 胎児たいじの発育
+第十六章 長幼ちょうようべつ
+第十七章 親と子
+第十八章 教育
+第十九章 個体こたいの死
+第二十章 種族しゅぞくの死


第一章 生物の生涯しょうがい


 長い浮世うきよに短い命、いっそ太くくらそうと考える男もあれば、如何いかに細くともただ長く長く生きながらえたいと思う老爺ろうやもある。恋人こいびとわれぬくらいならばむしろ死んだほうがましと、わか身体からだを汽車にかせるむすめもあれば、くずてた手足と鼻も分らぬ顔とを看板かんばんにして、道行く人のじょうすがりながらなお生きんとよくするらい病のいざりもある。十人十種じゅっしゅあいことなる所行しょぎょうは、いづれも当人らのあいことなった人生かんもとづくことで、こうのなすことはおつには不思議ふしぎに思われ、一方の決心覚悟かくごは他方からは全く馬鹿ばか馬鹿ばかしく見える。著者ちょしゃはかつてる有名な漢学のろう先生が、にぶり、耳も聞こえず、教場へ出ても前列の生徒せいとにさえ講義こうぎが分からぬほどに耄碌もうろくしながら、他人に長寿ちょうじゅ秘法ひほうたずねられて、自分は毎晩まいばんとこについてから手と足とはらももとを百遍ひやつぺんずつしずかにでると、得意気とくいげに答えているのをそばから聞いて、う者をも、こたえる者をも愍然びんぜんに思わざるをなかったが、これもやはり人生かんあいことなったゆえであろう。かように人々によって人生かんのいちじるしくことなるのは、もとより先祖せんぞからの遺伝いでんにより、当人とうにん性質せいしつにもより、過去かこ経歴けいれきにもより、現在げんざい境遇きょうぐうにもよることであろうが、その人の有する知識ちしき如何いかにも大いにあずかって力あることはうたがいない。しこうして、その知識ちしきという中にも、生物学上の知識ちしきのあるなしは人生かんの上にすこぶるいちじるしい影響えいきょうおよぼすものであることは、著者ちょしゃかたしんずるところである。
 そもそも、生物学とは動物学と植物学との総称そうしょうであるゆえ、生物学講話こうわという表題を見て、読者はあるいは学校で用いる教科書を敷衍ふえんしたごときものかと思われるかも知れぬが、本書はけっして、さような性質せいしつのものではない。本書はむしろ生物学の範囲はんい内からもっぱら人生かんあいれると考えられる事項じこうえらみ出し、これを通俗つうぞくてきべて生物学をおさめぬ一般いっぱんの読者の参考さんこうきょうするのが目的もくてきである。それゆえこれと関係かんけいのやや少ない方面は全く省略しょうりゃくしておいた。たとえばこの種類しゅるいの虫のはねには斑点はんてんが一つよりないが、かの種類しゅるいの虫のはねには斑点はんてんが二つあるとべるごとき記載きさいてき分類ぶんるい学、ここの山にはこのようなけものがいる、かしこの海にはあのような魚がいるというごとき生物の地理分布ぶんぷ学、こうの動物の筋肉きんにく繊維せんいには横紋おうもんがあるが、おつの動物の筋肉きんにく繊維せんいには横紋おうもんがないとろんずるごとき比較ひかく組織そしき学等は、いっさいりゃくしてべない。されば、本書はけっして生物学のすべての方面を平等にのこりなく講述こうじゅつするものでないことを、まず最初さいしょにことわっておかねばならぬ。
 さて、人間も一種いっしゅの生物であるから、生物学をおさめた者から見ると人間の生活中にあらわれる各種かくしゅの作業は、みなそれぞれ生物界にこれに類似るいじすることまたはこれと匹敵ひってきすることがかならずある。人間が生まれ死ぬごとくに他の生物も生まれて死ぬ。人間がこいするごとくに他の生物もこいする。人間に苦と楽とがあるごとくに他の生物にも苦と楽とがある。人間社会に戦争せんそう同盟どうめいがあるとおりに生物界にも戦争せんそう同盟どうめいがある。しこうして人生をみるにあたってこれらと比較ひかくして考えるのと、人間だけをべつはなして他と比較ひかくせずに考えるのとでは、結論けつろんの大いにことなるべきは言うを待たぬ。芝居しばいで同じ役者が同じ役をつとめても、背景はいけいちがえば見物人の感じも大いにことなるのと同じ理屈りくつで、人生をみるにあたっても、何を背景はいけいとするかによって、結論けつろんもいちじるしくことなるをまぬがれぬ。本書において今よりこうとするところは、すなわちかかる背景はいけいとして役に立つべき事項じこうを生物学の中からり出してならべたものである。ねがわくば読者は本書の内容ないよう背景はいけいと見立てて、人間なるものを舞台ぶたいの上にれ来たって日々の狂言きょうげんえんぜしめ、自分は棧敷さじきからながめている心持ちになって虚心きょしん平気に人生を評価ひょうかすることをこころみられたい。遊興ゆうきょうの場、愁歎しゅうたんの場、仇討あだうちまく情死じょうしまくなどが、それぞれ適当てきとうな生物学てき背景はいけいの前でえんぜられるときは、見物人に如何いかことなった感じをあたえるであろうか。もしかくすることによっていくぶんかなりとも、人生の真意義いぎをよくかいしたるごとき感じが読者に起こったならば、著者ちょしゃは本書をあらわした目的もくてきたつせられたこととしてまこと満足まんぞくに思う次第しだいである。

一 食うてんで死ぬ


 人間と普通ふつうの生物とを比較ひかくして見ると、ささいな点ではもとより無数むすう相違そういがあるが、その生涯しょうがい要点ようてんつまんで見ると、全く一致いっちしているということができる。少なくとも生まれて食うてんで死ぬということだけは、人間でも他の生物でもごうも相違そういはない。動物のほうは人間とあいている点が多いゆえ、この事も明らかであるが、人間とは大いにことなるごとくに見える植物でも、理屈りくつはやはり同様である。まず親木に実が生じ、たねが落ちて一本の若木わかぎが生ずるのは、木が生まれたのである。それからその木が空中に枝葉えだはを広げて炭酸たんさんガスをい、地中に根をばして水と灰分かいぶんとを取るのは、すなわち食うているのである。かくてだんだん成長せいちょうして、花をかせ、実を生じ、種子しゅしらせて、多くの子をみ、寿命じゅみょうが来ればついに死んでしまうのであるから、これまた生まれて食うてんで死ぬにほかならぬ。しこうして一匹いっぴきの動物一本の植物をとって言えば、その生涯しょうがいの中に生まれる時とむ時とがべつにあるが、数代をつづけて考えると、生まれるとむとは同じであって、たんに同一の事件じけんを親のほうからはむといい、子のほうからは生まれると言うているにすぎぬ。それゆえこれを一つとして数えると、生物の生涯しょうがいなるものは、食うてんで死ぬという三箇条さんかじょう総括そうかつすることができる。
 かくのごとく、ただ食うてんで死ぬということだけは、どの生物でもあい一致いっちするが、しからば、如何いかに食うか、如何いかむか、如何いかに死ぬかとたずねると、これは実に種々しゅしゅ様々さまざまであって、そこに生物学の面白みがそんするのである。たとえば食うと言うても、進んで食物をもとめるものもあれば、とどまって食物の来るのを待つものもある。武力ぶりょくで相手に打勝うちかつものもあれば、だましてこれをおとしいれるものもある。同じえさを多数のものがもとめる場合には競争きょうそうの起こるはもちろんであるが、競争きょうそうにあたっては、あるいは筋肉きんにくの強いものが勝ち、あるいは感覚かんかくするどいものが勝ち、あるいは知力のすぐれたものが勝つ。中には他の生物の食いのこしをもとめて生活しているものもある。また食うほうにのみ熱中ねっちゅうしていると、自身が他に食われるおそれがあるゆえ、安全に食うためには、一方に防御ぼうぎょおこたることはできぬ。しこうして防御ぼうぎょするにあたっても、主として筋肉きんにくを用いるもの、感覚かんかくによるもの、知力をたのむものなど、おのおの種類しゅるいにしたごうて相違そういがある。えさめるにも、身をまもるにも、多数力をあわせることはすこぶる有利ゆうりであるが、かく集まってできた団体だんたい中には、てきほろぼし終わるやいなや直ちに獲物えものの分配についてはげしいあらそいの起こるごとき一時てき集団しゅうだんもあり、またいつまでも真に協力きょうりょく一致いっちつづける永久えいきゅうてきの社会もある。次にむというほうについて見ても、たんたまごはなすだけで、さらに後をかまわぬものもあれば、んでからこれを大切に保護ほごするものもある。たまごを長く胎内たいないにとどめて幼児ようじの形の十分にそなわつた後にむものもあれば、んだ後さらにこれを教育して競争きょうそう場裡じょうりに生活のできるまでに仕立てるものもある。とくめすをしてたまごましめる前の雌雄しゆうの間の関係かんけいいたっては実に種々しゅしゅ様々さまざまで、中には奇想きそう天外てんがいより落つるとでもいうべき思いがけぬ習性しゅうせいを有するものも少なくない。また同じく死ぬと言うても、その仕方は色々あって、全身一時に死ぬものもあれば、一部だけが死んでのこりは生きのこるものもあり、瞬間しゅんじに死ぬものもあれば、きわめて緩慢かんまんに死ぬものもある。親の死骸しがいが子の食糧しょくりょうとなるものもあれば、兄が死なねば弟が助からぬものもある。また同じ種類しゅるい個体こたい次第しだいにことごとく死んでしまうて、種族しゅぞくが全く絶滅ぜつめつすることもある。かように数えて見ると、生物の食いよう、みよう、死にようには、実に千変せんぺん万化ばんか相違そういがあって、人間の食いよう、みよう、死にようは、ただその中の一種いっしゅにすぎぬ。何事でもその本性ほんしょうを知ろうとするには、他物と比較ひかくすることが必要ひつようで、これをおこたるととうてい正しい解釈かいしゃくられぬことが多い。たとえば地球は何かという問題に対して、ただ地球のみを調べたのでは、いつまですぎても適当てきとうな答はできぬ。これに反して、他の遊星を調べ、その運動を支配しはいする理法りほうさぐもとめ、これにらし合わせて地球を検査けんさして見ると、はじめてその太陽けいぞくするいち小遊星であることが明らかに知れる。人間の生死にかんする問題のごときもおそらくこれと同様で、ただ人間のみについて考えていたのでは、いつまでも真の意味を了解りょうかいべきのぞみが少ないではなかろうか。

二 食わぬ生物


 普通ふつうに人の知っている生物は、かなず物を食うて生きている。何を食うか、如何いかに食うか、いつ食うかは、それぞれことなるが、とにかく食うことは食う。小鳥るいのごとくに、一日でもえさあたえることをわすれるとたちまち死んでしまうほどに、えず食物を要求ようきゅうするものもあれば、蛇類へびるいのごとくに、一度十分に物を食えば、その後は数箇月すうかげつも食わずに平気でいるものもある。ひるのごときは一回血をいためると、やく二年は生きている。しかしその後はやはり食物をようする。しからば、生まれてから死ぬまで少しも物を食わぬ生物はないかというと、そのようなものも全くないことはない。たとえば輪虫わむしるいおすなどはその一である。

「輪虫 雌(左) 雄(右)」のキャプション付きの図
輪虫わむし めす(左) おす(右)

 輪虫わむしというのは、顕微鏡けんびきょうを用いねば見えぬほどのきわめて小さな虫であるため、いっこう世間の人に知られてはいないが、池やぬまの水草の間、ひさしのといの中などに、どこにもたくさんいる普通ふつうなものである。その形は図にしめしたとおりで、体の前端ぜんたんにやや円盤えんばんじょうの部分があり、その周辺しゅうへんあらい毛がならんで生え、つねにこれをり動かして水中に小さな渦巻うずまきを起こし、微細びさいな食物を口へ流し入れる。これを顕微鏡けんびきょうで見るとあたかも車輪しゃりんが回転しているごとくであるゆえ、学名も、通俗つうぞく名も、みな「車輪しゃりんを有する虫」という意味に名づけてある。ところが不思議ふしぎなことには池からこの虫を採集さいしゅして見ると、いずれもめすばかりでおすはほとんど一匹いっぴきもいない。それゆえ昔はこの虫のおすは学者の間にも知られなかった。しかしよく注意して調べると、おすもときどき発見せられる。しかしておすめすとを比較ひかくして見ると、体の大きさも内部の構造こうぞうもいちじるしくちがい、おすのほうははるかに小さく、かつ口もなければちょうもなく、体の内部はほとんど生殖器せいしょくきだけというてよろしいほどで、たまごからかえって出ると、直ちにいそがしく水中をおよぎ回って、めすさがもとめ、これに出遇であえばたちまち交尾こうびして暫時ざんじの後には死にせるのである。すなわち輪虫わむしおす寿命じゅみょうは生まれてからわずかに数日にすぎぬが、その間に物を食うということはけっしてない。条虫じょうちゅうなどは口も腸胃ちょういもないが、他の動物のちょう内に住んでつねにけた滋養じよう物にかっていることゆえ、体の表面から食物がんで来るが、輪虫わむしおすはこれとことなり、自由に水中をおよいでいるのであるから、真に一生涯いっしょうがい中に少しも物を食わぬ生物である。
 しかしながらよく考えて見ると、輪虫わむしおす自身は一生涯いっしょうがい何も食わずに生活するが、かく食物なしに活動しるのは、生まれながら身体内に一定の滋養じよう分をたくわえているからである。輪虫わむしたまご比較ひかくてきに大きなものであって、中に比較ひかくてき多量たりょう滋養じよう分をふくんでいるゆえ、たまごの内でおすの身体ができるにあたって、その身体の内にははじめから若干じゃっかん滋養じよう分がある。輪虫わむしおすは、あたかも満腹まんぷく状態じょうたいたまごからかえり、そのつづく間だけ生存せいぞんして、しかる後に死に去るのであるから、これは全く食物を体内にふくませて親がんでくれたおかげと言わねばならぬが、たまごの内の滋養じよう分はかつて親の食うた食物の中からこし取られたものゆえ、子が一生涯いっしょうがい食わずに生きていられるのは、実は親が子の分までも食うておいた結果けっかにすぎぬ。されば食わずに生活のできるということは、親がまえもって子に代わって食うておいた場合にかぎることであって、一種類いっしゅるいの生物が絶対ぜったいに食物なしに生活しるというごときことのないのは明らかである。

三 まぬ生物


 次に子をまぬ生物はないかと考えると、これにも普通ふつうれいがいくらかある。

「蜜蜂の雄 蜜蜂の雌 働き蜂」のキャプション付きの図
蜜蜂みつばちおす 蜜蜂みつばちめす はたらはち

世人も知るとおり、蜜蜂みつばちありるいにはおすめすとのほかにはたらはちとかはたらありとか名づけるものがあるが、これらは一生涯いっしょうがい他のんだ子供こどもやしない育てるだけで、自身に子をむということは決してない。蜜蜂みつばちでもありでも多数集まって社会をつく昆虫こんちゅうであるが、その社会の大部分をすものは右のはたらはちまたははたらありであって、おすめすとはいずれも実に少数にすぎず、蜜蜂みつばちにおいては子をめすはただ女王としょうするもの一匹いっぴきよりほかにはない。しこうしてこの少数の雌雄しゆうは子をむことを専門せんもんの仕事とし、全社会のために生殖せいしょくはたらきを引き受けている。したがって食物を集めること、てき攻撃こうげきふせぐこと、つくること、子を育てることなどは、すべてはたらはちまたははたらありの役目となり、朝からばんまで非常ひじょういそがしくはたらいているゆえ、通常つうじょう人のれるはちありは、みなはたらはちはたらありのみである。しからばはたらはちはたらありなるものは雌雄しゆう両性りょうせいのほかに一種いっしゅ特別とくべつせいを有するかというと、けっしてさようではない。なぜかと言うに、解剖かいぼうによって体の内部の構造こうぞうを調べて見ると、小さいながら卵巣らんそう輸卵ゆらんかんも明らかにそなえているから、たしかにめすと見なすべきものである。ただこれらの生殖せいしょく器官きかんはみなはなはだ小さくて実際じっさいそのはたらきをなすにてきせぬというにすぎぬ。言をえればはたらはちはたらあり生殖せいしょく器官きかん退化たいかしためすである。これから考えて見ると、蜜蜂みつばちありめすは、分業の結果けっか二種類にしゅるいの形に分かれ、一は生殖せいしょく器官きかんとく発達はったつして、全社会のために生殖せいしょくはたらきを引き受けるにてきするものとなり、他は生殖せいしょく器官きかん退化たいかして生殖せいしょくはたらきができなくなり、その代わりに他の体部のはたらきが進んで、食物を集めること、子を育てることなどは、十分にできるようになったものと見なさねばならぬ。

「雄蟻 雌蟻 働き蟻」のキャプション付きの図
おすあり めすあり はたらあり

 右のほかにもなお、一度も子をまずに生涯しょうがいを終わる生物は、人の見慣みなれぬような海産かいさんの下等動物にはたくさんにれいがあるが、いずれも団体だんたいつくって生存せいぞんする種類しゅるいで、その中の個体こたいの間に分業が行なわれ、栄養えいようをつかさどるものと、生殖せいしょくはたらきをするものとのべつが生じたものである。かくのごとく一個体いちこたいをとって見ると、子をまずに一生涯いっしょうがいを終わるものはあえてめずらしくはないが、種族しゅぞく全体として子をまなかったならば、その種族しゅぞくはむろん一代かぎりで種切たねぎれとなるに定まっているゆえ、そのようなものは実際じっさいにはけっしてない。生物でありながら、子をまぬものは、かなず子をむ役を同僚どうりょうゆずって、自分はその他の仕事を引き受けている個体こたいかぎることである。

四 死なぬ生物


「生あるものはかなず死あり」とは昔から人の言うところであるが、実際じっさい生物界に死なぬ生物はないかとたずねると、「死」という言葉の意味のとりようによっては、死なぬ生物がたしかにある。長寿ちょうじゅ何人なんぴとのぞむところ、死は何人もおそれるところであると見えて、不老ふろう不死ふし仙薬せんやくの話はいつの世にもえぬが、かような薬を用いずとも、元来死ぬことのない生物があると聞いたらこれをうらやましがる人がたくさんあるかも知らぬ。まず如何いかなるものが「死なぬ生物」と名づけられているかをべて見よう。


「アメーバ」のキャプション付きの図
アメーバ

 動物でも植物でも顕微鏡けんびきょうで見なければ分からぬような微細びさいなものは、多くは全身がただ一個いっこ細胞さいぼうからっている。もっとも前にべた輪虫わむしなどは例外れいがいとしてやや高等のものであるが、かかるものをのぞけば、他はたいてい構造こうぞうのすこぶる簡単かんたんなもので、そのもっと簡単かんたんなものにいたっては、あたかも一滴いってきの油か、一粒ひとつぶめしのごとくで、手足もなければ、臓腑ぞうふもない。しばしば書物で引き合いに出される「アメーバ」という虫などもその一例いちれいであるが、その他になお「ぞうりむし」、「つりがねむし」、「みどりむし」、「バクテリア」などはみなこのるいぞくする。よる海水を光らせる夜光虫は、やや形が大きくて、肉眼にくがんでも「数の子」のつぶのごとくに見え、風の都合つごうで海岸へ多数にせられると、水が全体に桃色ももいろに見えるほどになるが、これも一匹いっぴきの体はただ一個いっこ細胞さいぼうからっている。死なぬ生物ととなえられるのはかようなたん細胞さいぼうの生物である。

「夜光虫」のキャプション付きの図
夜光虫

 このるいの生物は、生殖せいしょく方法ほうほうがきわめて簡単かんたんで、親の身体が二つにれて二匹にひきの子となるのであるゆえ、何代ても死骸しがいというものがない。るとか、すとか、または毒薬どくやくそそぐとかして、わざわざころせばむろん死骸しがいのこるが、自然じぜんまかせておいたのでは、老耄ろうもう結果けっか死んで遺骸いがいのこすというごときことはないから、もしも死骸しがいとなることを「死ぬ」と名づけるならば、これらの生物はたしかに死なぬものである。普通ふつうの生物では死ぬということと、死骸しがいのこすということとはつねに同一であるゆえ、死ねばかな死骸しがいのこるもののごとくに思うが、死ぬとは個体こたいとしての生存せいぞん消滅しょうめつすることとも考えられるゆえ、この意味からいうと、こうの虫が二分しておつへいとになった時には、こうの虫はすでに死んだと言えぬこともない。

「「アメーバ」の分裂」のキャプション付きの図
「アメーバ」の分裂

一例いちれいとして「アメーバ」るいの生活状態じょうたいべて見ると、この虫は淡水たんすい、海水または湿地しっちの中に住み、身体はやわらかくてあたかも一滴いってきの油のごとく、つねに定まった形はなくて流れるがごとくに徐々じょじょい歩き、微細びさいな食物をもとめて身体のどこからでもこれを食い入れ、滋養じよう分を消化した後は、かすき去りにして他処たしようて行く。かくして少しずつ生長し、一定の大きさにたつすると体の中程なかほどにくびれたところが生じ、はじめはまず瓢蕈ひようたんのごとき形とり、次にはくびれがだんだん細くなって、ついにやわらかいもちを引きちぎるように切れて二匹にひきとなってしまう。これはもと一匹いっぴきのものがえて二匹にひきとなるのであるから、たしかに一種いっしゅ生殖せいしょくにはちがいないが、世人がつねに見慣みなれている生殖せいしょくとはことなり、んだ親の身体と生まれた子の身体との区別くべつがないゆえ、何代ても親がいて死ぬというごとき事が起こらず、したがって死骸しがいが生ずるということはけっしてない。さればもしも死骸しがいとなることを死ぬと名づけるならば「アメーバ」はたしかに死なぬ生物である。しからば「アメーバ」は昔から今日まで同一の個体こたい生存せいぞんつづけているかといえば、もちろんけっしてさようではない。一匹いっぴきが分かれて二匹にひきとなるごとに、前の一匹いっぴき生存せいぞんは終わって新たな二匹にひき生存せいぞんが始まるのであるから、一個体いっこたいとしての生存せいぞん期限きげんは、親が分かれて自身が生じたときから、自身が分かれて子となるまでのわずかに数十時間にすぎぬ。
 さてかようなものをとらえて、これは死ぬ生物であるとか、死なぬ生物であるとかろんずるのは畢竟ひつきよう言葉のたわむれで、その原因げんいんは人間の言葉の十分なことにそんする。元来、人間の言葉は日常にちじょうの生活の用をべんずるためにできたもので、世が進み経験けいけんすにしたごうて次第しだい発達はったつし来たったが、「死」という言葉のごときも、もと人間や犬、ねこの死をいいあらわすためにできたものゆえ、これとことなった死にようをする生物にはそのままには当てはまらぬ。世の中には死なぬ生物があるといえば、素人しろうとには不思議ふしぎに聞こえ、したがって世の注意を引いて評判ひょうばんが高くなるが、実際じっさいを見るとただ死にようがちがうというだけである。従来じゅうらい不完全ふかんぜんな言葉を用いて、生物を死ぬものと死なぬものとに分かち、「アメーバ」のごときものを、そのいずれにぞくするかと議論ぎろんすることは、ほとんど時間を浪費ろうひするにすぎぬかとも思われるが、およそ生殖せいしょくによって個体こたいの数の増加ぞうかし行く生物ならば、かく個体こたいにはかな生存せいぞんに一定の期限きげんがあって、同一の個体こたい無限むげん生存せいぞんするというごときことのないのはたしかである。

五 生物とは何か


 前にべたとおり、生物の生涯しょうがいは食うてんで死ぬという三箇条さんかじょうつずめてみることができるが、これだけはまずすべての生物に通じたことで、生物以外いがいには見られぬ。食わぬ生物、まぬ生物、死なぬ生物など、一見しては例外れいがいのごとくに思われるものがないでもないが、これらもよく調べて見ると、けっして真に食わずまず死なぬわけではなく、ただ親がたくさんに食うておいてくれたゆえに、子は食うにおよばぬとか、姉が余分よぶんんでくれるゆえに、妹はむにおよばぬとかいうごとき分業の結果けっかにすぎぬ。また死ぬ死なぬは、たんに言葉のあらそいで、個体こたい生存せいぞんに一定の期限きげんのあることは、死なぬとしょうせられる生物でも他にして少しもわりはない。されば、生物とは何かという問いに対しては、森羅しんら万象ばんしょうの中で食うてんで死ぬものをかく名づけると答えてたいてい差支さしつかえはなかろう。
 しからばいわゆる生物にはこれにるいすることは全くないかというと、その返答は少々困難こんなんである。普通ふつうの石や金が食いもせずみもせぬことは明瞭めいりょうであるが、鉱物こうぶつ結晶けっしょう次第しだいに大きくなるのは、外から同質どうしつの分子をとって自分の身体をすのであるから、いくぶんか物を食うて生長するのにている。また一個いっこ結晶けっしょうやぶれて二片にへんとなった後に、各片かくへんきずえて二個にこ完全かんぜん結晶けっしょうとなる場合のごときは、如何いかにも種類しゅるい生殖せいしょくほうている。しかしながらこれらのれいではいずれもはじめから同質どうしつの分子が表面に付著ふちゃくするだけで、前からあった部分はもとのままで少しも変化へんかせぬゆえ、もとより生物が物を食い子をむのとは大いにちがう。生物が物を食うのは、自分とちがうたものを食うて自分と同じものとする。たとえば、牛に食われた草はへんじて牛の身体となり、こいに食われた蚯蚓みみずへんじてこいの身体となるが、かかることは生物では容易よういに見いだせない。それゆえちょっと考えると、この事の有無うむをもって明らかに生物と生物との区別くべつができるようであるが、よく調べて見ると、無機むき化合物の中にも多少これにるいすることを行なうものがあるから、結局けっきょく生物と生物の間には判然はんぜんたるさかいは定められぬことになる。また一方理屈りくつから考えて見ても判然はんぜんたるさかいのないのが当然とうぜんである。
 元来、生物の身体は如何いかなる物質ぶしつからっているかと分析ぶんせきして見ると、植物でも動物でもみな、炭素たんそ水素すいそ酸素さんそ窒素ちっそなどというきわめて普通ふつうにありふれた元素げんそのみからできていて、けっして生物のみにあって生物には見いだされぬというごとき特殊とくしゅ成分せいぶんはない。これらの元素げんそは水や空気や土の中にほとんど無限むげん存在そんざいするもので、これが植物にわれて暫時ざんじ植物の体となり、次に動物に食われて暫時ざんじ動物の体となり、動物が死ねばさらに分解ぶんかいしてもとの水、空気、土に帰ってふたたび植物にわれる。されば今かり炭素たんそ窒素ちっそかの一分子いちぶんし行衛ゆくえを追うて進むとすれば、る時は生物となり、る時は生物となってつねに循環じゅんかんする。しこうして生物から生物になるときにも、生物から生物になるときにも、けっして突然とつぜん変化へんかするわけではなく、無数むすうの細かい階段かいだん漸々ぜんぜん一歩ずつ変化へんかするのであるから、とうていここまでが生物でここから先が生物であるというごとき判然はんぜんしたさかいのあるはずがない。これらについては次の章とおわりの章とでさらにべるゆえ、ここにはりゃくするが、自然じぜん界における生物と生物との間にはけっして線をもって区画することのできるような明らかなさかいはなく、あたかも夜が明けて昼となり、日がれて夜となるごとくにうつり行くものゆえ、生命の定義ていぎなるものを考え出そうとするとかな失敗しっぱいに終わる。スペンサーのあらわした『生物学の原理』という書物の中には、哲学てつがく者流の論法ろんぽうで「生活の現象げんしょうとは内的ないてき関係かんけい外的がいてき関係かんけいえず適応てきおうして行くことである」との定義ていぎげてあるが、これは様々さまざまに考えたすえにできあがった定義ていぎが、生物にあてはまるほかに、空にある雲にもあてはまるので、さらに雲を除外じょがいするように訂正ていせいしてたところの最後さいご定義ていぎである。そのくわしい説明せつめい暗記あんきしてもおらず、またここにげる必要ひつようもないゆえりゃくするが、著者ちょしゃのごとき哲学てつがく者にあらざる者から見ると、かかる定義ていぎたんに言葉の使い分けのたくみなる見本として面白いのみで、真の知識ちしきとしては何の価値かちもないように思われた。本書においては、生物とは何ぞやという問いに対して、生命の定義ていぎをもって答えるごときことをせず、ただ生物は食うてんで死ぬという事実だけをみとめて、今よりこれについて少しく詳細しょうさいべて見よう。これだけの事実は生物の九割きゅわり九分きゅうぶ以上いじょうにはてきし、生物の九割きゅわり九分きゅうぶ以上いじょうにはてきせぬものゆえ、いわゆる定義ていぎなるものよりはよほどたしかである。


第二章 生命の起こり


 さて生物は如何いかに食い如何いか如何いかに死ぬかをべる前に、一通り生命の起こりについていておく必要ひつようがある。すでにでき上がっている生物の生活状態じょうたいろんずるにあたっては、それがはじ如何いかにして生じたものであってもかまわぬように思われるが、事柄ことがらによってはその生じた起こりを考えぬとあやまりにおちいりやすいこともあり、とくに死についてろんずる場合のごときは、けっして生の起源きげん度外視どがいしするわけにはゆかぬ。しこうして生命の起こりという中には種々しゅしゅの問題がふくまれてある。たとえば今、目の前にある生物のかく個体こたい如何いかにして起こったかという問題もあれば、その生物個体こたいぞくする種族しゅぞく如何いかにして起こったかという問題もあり、さらにさかのぼれば、いったい地球上の生物は最初さいしょ如何いかにして生じたかという問題もかねばならぬ。また生物の身体をせる生きた物質ぶしつは日々取り入れる食物がへんじて生ずるほかにみちはないが、死んだ食物が如何いか変化へんかして生きた組織そしきとなるか、ねつや運動は原因げんいんなしにはけっして生ぜぬものであるが、生物の日々あらわす運動やねつはそもそもどこにその原因げんいんがあるかというような問題も自然じぜんに生ずる。これらはいずれもなかなかの大問題であるが、その中には今日の知識ちしきをもってややたしかな解決かいけつのできるものと、ほとんど何の返答もできぬほどの困難こんなんなものとがある。たとえば生物のかく個体こたい如何いかにして起こったかというのは発生学上の問題で、これはすでに研究も進んでいるゆえ大体においてはあやまりのない答えをすることができよう。また、生物の各種かくしゅ族は如何いかにして起こったかということは生物進化論しんかろんくところで、今日においても詳細しょうさいの点にかんしてはなお学者間に議論ぎろんはあるが、大要たいようだけはすでに確定かくていしたものと見なして差支さしつかえはなかろう。これに反して、地球上にははじ如何いかにして生物が生じたかという問題は実験じっけん証明しょうめいすることもできず、遺物いぶつから推察すいさつするわけにもゆかず、ただ想像そうぞうによるのほかはないゆえ、これまでずいぶん放題ほうだいと思われるような仮説かせつさえも真面目まじめとなえられたことがあり、今日といえどもいまだたしかな返答をすることはできぬ。次に生物の体内における物質ぶしつ変遷へんせんや力の転換てんかんはいわゆる生物化学および生物物理学の研究するところで、近来はそのための専門せんもん雑誌ざっしもでき、報告ほうこくの数から見るとすこぶる目醒めざましい進歩をした。一昨々年さおととしの秋、英国えいこく理学奨励しょうれい会の席上せきじょうでシェーフェルという生理学者が生命の起こりについて演説えんぜつしたのも、生物化学の進歩にもとづいたことであったが、この演説えんぜつはロイターから世界各国かっこく電報でんぽうで知らせたゆえ、「生命人造じんぞうろん」などという勝手な見出しで新聞紙にげられ、わが国でも一時評判ひょうばんになった。いまだわかからぬほうを見ると、実になお前途ぜんと遼遠りょうえんの感があるが、今日までの研究の結果けっか、一歩ずつこの問題の解決かいけつの方向に進み来たったことはうたがいない。本章においては、以上いじょうしょ問題についてきわめて簡単かんたんべて、各種かくしゅ生物の生活状態じょうたいろんずる前置まえおきとしておく。

一 個体こたいの起こり


 一人ずつの人間、一匹いっぴきずつの犬やねこが、如何いかにして生じたかという問いは、前にげた問題の中では一番答えやすいものである。すなわちまず親があり、親の生殖せいしょくはたらきによって新たに生じたものであると答えることができる。犬、ねこのごとく胎生たいせいするもの、にわとり家鴨あひるのごとく卵生らんせいするものの区別くべつはあるが、つねに人の見慣みなれている高等動物では、子がかなず親から生まれることはいずれの場合にもきわめて明瞭めいりょうである。しかし少しく下等の動物になると、たまご幼虫ようちゅうがすこぶる小さいために容易よういに見えず、その結果けっかとしてどの子がどの親から生まれたか少しもわからぬことがめずらしくない。昔の草本そうほんの書物を見ると、生物の生ずるには胎生たいせい卵生らんせい化生けしょう湿生しっしょうの四とおりのでき方があると書いてあるが、胎生たいせい卵生らんせいとはべつ説明せつめいにもおよばぬとして、化生けしょうとは如何いかなることかというと、これは生物せいぶつもしくは他種たしゅの生物から突然とつぜん変化へんかして生ずるのであって、腐草くちくさ化してほたるとなるとか、すずめ海中に入ってはまぐりとなるとかいうのがそのれいである。山のいもうなぎになるとかどじようが「いもり」になるとか「けら」が「よもぎ」になるとかいうごとき伝説でんせつは、どこの国にもあって一般いっぱんしんぜられていた。また湿生しっしょうというのはなんらのたねもなしに、ただ湿気しっけのある所に自然じぜんに生ずるので、俗話ぞくわで「く」というのがすなわちそれである。たとえば古い肉にうじいたとか、新しいほりうなぎいたとか、はらの中に蛔虫かいちゅういたとかいうるいが、みなこれにぞくする。さてかような化生けしょうとか湿生しっしょうとかによって、生物のできることは実際じっさいにあるものであろうか。
 実物について実際じっさいに調べて見ると、昔から化生けしょうとか湿生しっしょうとかとなえ来たったものはことごとく観察かんさつあやまりで、生物からある種類しゅるいの生物が突然とつぜん生じたり、甲種こうしゅの生物が突然とつぜんへんじて乙種おつしゅの生物となったりすることはけっしてない。

「ひとで」のキャプション付きの図
ひとで

海岸地方では漁夫りょふがしきりに「ひとで」が貝をむと主張しゅちょうすることがあるが、その理由を聞いて見ると、ただ「ひとで」のはらの中にはいつでもかなず小さな貝があるというにすぎぬ。「ひとで」は主として貝を食うもので、小さな貝ならばこれを丸呑まるのみにするゆえ、そのはらの中に貝殻かいがらのあることはもとより当然とうぜんであるが、漁夫りょふはそのようなことにはかまわずあいかわらず「ひとで」は貝をむものと思いんでいる。田のもみが小えびになるという地方もあるがこれも同様なあやまりである。また針金虫はりがねむしといって長さ二尺にしゃく(注:60cm)以上いじょうにもなる実際じっさい針金はりがねのようにきわめて細長い虫があるが、これを馬のの長い毛が水中に落ちてへんじたものとしんじているところがある。おそらく細さと長さとから考えて、馬のの毛よりほかにこれにた物はないと定めてかくしんずるのであろうが、この虫の幼虫ようちゅうは「かまきり」のはらの中に寄生きせいしている細長い虫で、子供こどもらは「元結もとゆい」と名づけてよく知っている。

「冬虫夏草」のキャプション付きの図
冬虫とうちゅう夏草かそう

田圃たんぼ道などを散歩さんぽするとしばしば昆虫こんちゅうが植物にへんじかかったかと思われるものを見つけることがある。これは冬虫とうちゅう夏草かそうといって、昔の書物には冬は虫になり夏は草になるなどと書いてあるが、実は「けら」、「いなご」、「せみ」などの身体にきん付着ふちゃくし、虫の体からしるうて成長せいちょうしてみきばしたものにすぎぬ。「いもり」はどじょうからへんじて生ずるという地方があるが、これはおそらく「いもり」の幼児ようじきわめてどじょうの子にているところから起こったあやまりであろう。かくのごとく、従来じゅうらい化生けしょうと思われたものはていねいに調べて見るとことごとく観察かんさつあやまりであって、甲種こうしゅの生物が突然とつぜんへんじて乙種おつしゅの生物を生ずるというたしかなれいは今日のところでは一つもない。
 また湿生しっしょうというほうもこれと同様で、如何いか湿しめっていても今まで何もなかった所へ親なしに子だけが偶然ぐうぜん生ずるというごときことはけっしてない。古い肉にうじが生ずるのははえんで来てたまごけるからであって、もし肉を目のこまかいあみおおうておいたならば、いつまでたっても決してうじは生ぜぬ。

「蚕の繭より蛆のはい出すさま」のキャプション付きの図
かいこまゆよりうじのはい出すさま

かいこうて見ると往々おうおうまゆに小さなあな穿けてうじがはい出すことがあるが、これもくわの葉のうらはえたまごけておいたのをかいこが食うゆえに、その体内に生じたものである。人間のはらの中に蛔虫かいちゅう条虫じょうちゅうが生ずるのも理屈りくつは全く同様で、きわめて小さなたまご幼虫ようちゅうかをいつのまにか知らずに食ったゆえ、それがはらの中で成長せいちょうして大きな虫となるのである。中には微細びさい幼虫ようちゅうが人間の皮膚ひふ穿うがって体内に入りんで来るものもある。これらの場合には、たまご幼虫ようちゅうもすこぶる微細びさいであるゆえよほどくわしく調べぬと、いつどこからはいったかわからず、したがって世人は自然じぜんはらの中でいたもののごとくに思うている。コップにいっぱいの清水きよみずを入れ、その中にわらを少しけておき、数日の後に顕微鏡けんびきょうでその水を見ると、実に無数むすうの小さな虫がおよいでいて、一滴いってきの中に何百ぴきも何千ひきも数えることができるが、だれもこの虫をわざわざ入れたおぼえはないゆえ、水の中で自然じぜんに生じたもののごとくに考えるのも無理むりではない。しかしながらかような微細びさいな虫にもみなそれぞれ親があって、決して偶然ぐうぜんに生ずるものではない。その証拠しょうこにははじわらけた水を一度煮立にたてて、その中にある虫のたねをことごとくころしてしまい、次にこれを密閉みっぺいして外から虫のたねまぎんで来ることのないようにふせいでおくと、いつまで待っても決して虫は生ぜぬ。わらけた水の中に自然じぜんに虫がくかかぬかというごときことは、ちょっと考えるといずれでもよろしいようで、かかる問題に実験じっけん研究を重ねるのは、全く好事家こうずかなぐさめにすぎぬごとくに思われたが、いったんその研究の結果けっか、生物は決してたねなしには生ぜぬとのことがたしかになった後は、直ちにこれが広く応用おうようせられるにいたった。たとえば今日もっとも便利べんりな食物貯蔵ちょぞうほう鑵詰かんづめであるが、これは人の知るとおり、まずかんに入れた食物をねつしてその中の黴菌ばいきんころし、次にこれを密閉みっぺいして他から黴菌ばいきんまぎむのをふせぐのであるから、全く上述じょうじゅつの学理を応用おうようしたものである。また外科医学が進歩して、思いきった大手術しゅじゅつができるようになったのは、一つは消毒しょうどくほう完全かんぜんになった結果けっかであるが、傷口きずぐちにも繃帯ほうたいにも医者の手にも器械きかいにも、決して黴菌ばいきんかぬような工夫くふうのできたのは、みな以上いじょうの学理の応用おうようにほかならぬことである。もし生物が親なしに偶然ぐうぜん生ずるものならば、密閉みっぺいしたかんの内にも自然じぜん黴菌ばいきんが生じて食物をくさらせることもありべく、また如何いか傷口きずぐち繃帯ほうたい消毒しょうどくしておいても、そこへ化膿かのうきんが発生して、きず自然じぜんみ始めることがありべきはずであるに、そのようなことが実際じっさいにないのは、如何いか微細びさいな生物でも決してたねなしには生ぜぬという証拠しょうこである。
 ようするに、一匹いっぴきずつの生物個体こたいの生ずるにはかなずまずその親がなければならぬ。人間や、犬、ねこ、馬、牛のごとき大きなものはもちろんのこと、一滴いってきの水の中に数百も数千もいるような微細びさい黴菌ばいきんといえども、親なしに自然じぜんにわいて生ずるごときことは決してない。しかしてその親なるものはかなずその生物と同種どうしゅ同属どうぞくのものであって、けっして従来じゅうらい言いつたえられたごとくに、甲種こうしゅの生物が突然とつぜん乙種おつしゅの生物に変化へんかするというごときことはない。生物個体こたいの起こりを一言で言えば、如何いかなる種類しゅるいのものでもかなずまずこれと同種どうしゅの生物が生存せいぞんし、そのものの生殖せいしょくによってはじめて生ずるのである。

二 種族しゅぞくの起こり


 さて生物のかく個体こたいはみなそれと同種どうしゅの親からまれ生じたものとすれば、何代前までさかのぼって考えても、今日世界に生存せいぞんしているだけの生物の種族しゅぞくが、そのころにもあったわけになるが、もしさようとすれば今日知られている数十万しゅの生物はいずれも天地開闢かいびやくはじめから未来みらい永劫えいごう少しも変化へんかせぬものであろうか、それともまた長い間には少しずつ変化へんかして、昔の先祖せんぞと今の子孫しそんとの間には、いくぶんかの相違そういがあるのではなかろうかとの問題が是非ぜひとも起こらざるをない。すなわち生物のかく種族しゅぞく如何いかにして起こったものであるかとの問題が生ずるが、この問いに答えるのは生物進化論しんかろんである。しこうして進化論しんかろんはそれだけでも一つの大論たいろんで、かつそのためにはべつ適当てきとうな書物もあることゆえ、ここにはくわしいことはりゃくして、たん要点ようてんだけを短く書くにとどめる。
 昔地球上に住んでいた生物が今日のものと同じであったかいなかは、古い地層ちそうからり出された化石を調べて見れば大体はわかることである。今日地質ちしつ学者は地層ちそうの生じた時代をその新古によっていくつかに区別くべつするが、かく時代の地層ちそうから出た化石を比較ひかくして見ると、もっとも古いところから今日まで同一種類しゅるいの生物の化石が引きつづいて出るというれいは一つもない。時代がちがえば化石も多くはことなって、今を去ることの遠ければ遠いほどその時代の地層ちそうから出る化石は、われらの見慣みなれている今日の生物とはいちじるしくことなっている。さればだいたいにおいては地球上の生物の種類しゅるいは時のうつりゆくとともに、順次じゅんじ変遷へんせんし来たったものであるということはあらそわれぬ事実である。
 また今日生きている生物の身体を解剖かいぼう比較ひかくして見ても、そのたまごから発育する状態じょうたいを調べて見ても、生物各種かくしゅ次第しだい変遷へんせんして今日の姿すがたたつしたものであると見なさねば、とうてい説明せつめいのできぬような事実を無数むすうに発見する。一々のれいをあげることはりゃくするが、うさぎねずみでは十分にはたらいている上顎うわあごの前歯が、牛羊では胎児たいじのときに一度生じてまれぬ前にまた消えせることや、魚類ぎょるいでは生涯しょうがい開いているえらあなが人間やにわとりの発生の途中とちゅうにも、形だけ一度はできて後にたちまちなくなること、もしくはおよぐためのくじらひれも、ぶための蝙蝠こうもりつばさも、に登るためのさるの手も、地をるための「もぐら」の前足も、骨骼こっかくにすると根本の仕組みが全くあい一致いっちすることなどを見ると、如何いかに考えても生物の各種かくしゅ最初さいしょからたがいに関係かんけいに生じて、そのまま少しもわらずに今日まで引きつづき来たったものとは思われぬ。なお生物各種かくしゅの地理上の分布ぶんぷのありさま、または各種かくしゅ相互そうご関係かんけいなどを調べて見ると、如何いかなる種類しゅるいでも長い時代の間に漸々ぜんぜん変化へんかして、今日見るとおりのものとなったと結論けつろんするほかにみちはない。
 古生物学、比較ひかく解剖かいぼう学、比較ひかく発生学、生物地理学等の研究の結果けっか総合そうごうして、その結論けつろんつずめて言うと、およそ生物の各種かくしゅはけっして最初さいしょから今日のとおりのものができたのではなく、その始めは如何いかなるものであったかは知れぬが、長い間に漸々ぜんぜん変化へんかして現在げんざい見るごときものとなったのである。しこうして、変化へんかするにあたってはつねに少しずつその種族しゅぞくの生活にてきするようにへんじ、だいたいにおいては身体の構造こうぞう簡単かんたんより複雑ふくざつに、下等より高等に進み来たったのである。もっともいったん複雑ふくざつ構造こうぞうを持った高等の生物が、さらに簡単かんたんな下等のものに退化たいかしたと思われるれいもあるが、これはいずれも特別とくべつの場合で、寄生きせい虫や固著こちゃく生活をいとなむ生物のごとくに、体の構造こうぞう簡単かんたんであるほうが、その種類しゅるいの生活にとく都合つごうのよろしいときにかぎられる。また今日数種すうしゅに分かれている生物でも、その昔にさかのぼると共同きょうどう先祖せんぞから起こったらしく思われることがすこぶる多い。世人の飼養しようする動物、栽培さいばいする植物にはほとんど無数むすうにその実例じつれいがあるが、野生の動植物においてもおそらくこれと同様で、はじ一種いっしゅのものも後には子孫しそんの中に種々しゅしゅ体形性質せいしつなどのあいことなったものが生じて、ついに多くの種類しゅるいに分かれたのであろう。されば全体に通じていえば、生物なるものは昔より今日にいたるまでの間につね一種いっしゅより数種すうしゅに分かれ、簡単かんたんより複雑ふくざつに進み来たったものと見なすことができる。しこうして、この考えを先から先へとし進めると、ついに地球上にはじめて生じた生物はおそらくただ一種いっしゅであって、かつもっとも構造こうぞう簡単かんたんな下等のものであったにちがいないとの結論けつろんたつするが、これは実際じっさい如何いかであったかは、もちろんたしかな証拠しょうこをあげてろんずることはできぬ。生物の各種族かくしゅぞく如何いかにして生じたものであるかという問いに対して、進化論しんかろん一応いちおうたしかな答えはできるが、そもそも生物なるものははじ如何いかにして生じたものであるかと、さらにその先の問題を出せば、これに対しては事実にもとづいたたしかな返答はできぬ。人間とさるとは共同きょうどう祖先そせんから起こったとか、哺乳ほにゅうるいはすべてはじめは「カンガルー」などのごとき有袋ゆうたいるいであったらしいとかいうごとき、比較ひかくてき近代にぞくすることはずいぶんたしかに知ることができるが、時代が遠ざかれば遠ざかるほど我々われわれ知識ちしきはあいまいになって、もっとも古い時代までさかのぼると何もわからなくなる。これはわが国の歴史れきしでも明治めいじ時代のことならば相応そうおうくわしくわかるが、神代は'藐焉ばくえんとして測度そくどすべからざると同じ理屈りくつである。

三 生物のはじ


 かように生物の個体こたいの起こりと種族しゅぞくの起こりとについては、ある程度ていどまでたしかな答えができるが、そもそも生物なるものは最初さいしょ如何いかにして生じたものであるかとの問いに対しては、今日のところ、学問上たしかと見なせる答えはない。しかし答えのできぬところを何とか答えたいのが人間の知的ちてき要求ようきゅうであると見えて、今まで種々しゅしゅ様々さまざま想像そうぞうせつが持ち出された。その中にははじめから相手にするに足らぬと思われるものもあれば、また比較ひかくてき無理むりの少ない穏当おんとうせつと思われるものもある。地球ははじねつしたガスのかたまりで、次にはけた岩のかたまりとなり、その後段々だんだん冷却れいきゃくして今日のありさまになったものであろうとは、天文学上たしからしいせつであるが、これから考えると、地球の表面には最初さいしょから生物があったわけではなく、地面がさめて生物にてきする状態じょうたいになってから生物があらわれたものにちがいない。しからばいつごろ如何いかなる生物がはじめて生じたかとたずねると、前に言うたとおり想像そうぞうせつをもって答えるのほかにしかたはない。る人は地球上の生物の先祖せんぞは、流星の破片はへんにでも付著ふちゃくして天からって来たのであろうといたが、これなどは如何いかにも真らしからぬのみならず、かりに真としても流星についていた生物は如何いかにして生じたかという問いがさらに起こるゆえ、たん疑問ぎもん一段いちだん先へおしやっただけで、実は何の解決かいけつをもあたえぬ。またる人は、地球のなおねつして温度の高かったころは、今日とちがって種々しゅしゅ化学的かがくてき変化へんかさかんに起こったであろうから、無機むき物から生物の生ずるのに必要ひつよう条件じょうけんそなわっていたのであろうとろんじているが、これはあるいはさようかも知れぬ。しかしながらその条件じょうけんとは如何いかなることであったかは全くわからず、したがって今日はそのような条件じょうけんそなわっていないと断然だんぜん言い切ることもできぬ。当今多数の学者は、生物が無機むき物から生じたのは地球の歴史れきし中のる時期に起こったことで、今日はもはやそのころとは地球の状態じょうたいことなっているゆえ、無機むき物から直ちに生物の生ずるごときことは決してないと考えているようであるが、このせつ実際じっさい如何いかほどの根拠こんきょを有するものであろうか。
 親なくして生物の生ずることは決してないという今日の考えは、多くの実験じっけん結果けっかであって、その応用おうようあやまりのないところを見ると、おそらくうたがいなくたしかなことであろうが、地球が昔は生物の生活にてきせぬ火のかたまりであったとすれば、その後いつか一度はじめて生物の生じたという時があったにちがいなく、その生物には親はなかったに相違そういない。また今日といえどもどこかで、生物から漸々ぜんぜん生物ができているかもはかりがたい。何故なぜというにもっとも簡単かんたんな生物はもっとも微細びさいなもので、げん黴菌ばいきんるいには千倍二千倍に拡大かくだいせねば明らかに見えぬものもあり、病源びょうげんの中には微生物びせいぶつであることがよほどたしかに思われながら、さい高度の顕微鏡けんびきょうを用いてもその正体を見いだすことのできぬものもある。それゆえ無機むき化合物から漸々ぜんぜん複雑ふくざつな分子が組立てられ、ついに生物ができたとしても、これは決して直ちに形には見えぬであろう。我々われわれが見てこれは明らかに生物であると考えるものは、すでに生物としていくぶんか進歩したもので、まだこの程度ていどたつせぬ前のものは、あるいはこれを見ることができぬやも知れぬ。されば種々しゅしゅ実験じっけんによって、生物は決して親なしに生ずものでないということがたしかになっても、これはすでにいくぶんか進歩した明らかな生物についてのろんであって、出来できはじまりの生物が無機むき物から漸々ぜんぜん生ずることも、決してないと断言だんげんすることはできぬ。
 前にもべたとおり、生物の個体こたいかなず親から生じ、生物の種族しゅぞくは長い間に漸々ぜんぜん変化へんかしてついに今日の姿すがたたつしたものとすれば、今日の生物はみな長い歴史れきし結果けっかである。かく長い歴史れきし結果けっかとして生じた生物各種かくしゅと同じものが、今日それだけの歴史れきしずして突然とつぜん生ずることはとうていできそうに思われぬが、その歴史れきし最初さいしょの生物にたものが、今もなお生じつつあるごときことはないかとの問いに対しては、いな確答かくとうするだけの証拠しょうこはない。著者ちょしゃの考えによれば、無機むき物から生物になるまでには無数むすう階段かいだんがあって、その間のうつり行きは、あたかも夜が明けて昼となるごとく、決してこれより前は生物これより後は生物と、判然はんぜんさかいを定めて区別くべつすべきものではない。地球の表面にはじめて生物ができたという時もおそらくかような具合で、簡単かんたんな化合物から漸々ぜんぜん複雑ふくざつな化合物が生じ、いつとはなしについに生物と名づくべき程度ていどまでに進み来たったのであろう。されば今日といえども、かようなことの行なはれべき条件じょうけんそなわってある場合には、生物から生物の生ずることがあるべきはずで、もしかような場合を真似まねることができたならば、人為的じんいてき生物から生物をつくることもできぬとはかぎるまい。新聞や雑誌ざっしに時々出て来る生物の人造じんぞうというのは、現今げんこん人の知っているごとき進歩した生物を試験しけんかん内で突然とつぜん生ぜしめるとのことであるゆえ、これはおそらく無理むりな注文であろうが、生物の出来できはじめの程度ていどのものをつくるということならば、これは決して不可能ふかのうであると言い放つことはできぬであろう。ようするに、生物のなかったところに新たに生物の生ずるのは如何いかなる場合であるかという問いに対しては、われらの知識ちしききわめて貧弱ひんじゃくであって、今日のところとうてい満足まんぞくな答えはできぬ。ただ実験じっけんによって、消毒しょうどくした'缶かんの内に自然じぜん黴菌ばいきんの生ずるごときことはないということを、たしかに知りたのみである。

四 刹那せつなの生死


 生物の個体こたいが生活をつづけるにはつねに外界から食物を取らねばならぬが、植物と動物とではその食物に大なる相違そういがある。まず普通ふつうの植物は何を食うているかというと、空中からは炭酸たんさんガスを取り、地中からは水と灰分かいぶんとをうのであるが、これらのものが材料ざいりょうとなり、あい集まって次第しだいに植物体の組織そしきができる。ためしに材木ざいもくけば、炭酸たんさんガスと水蒸気すいじょうきはいとになってしまうが、これは一度植物の体内で組合わせられたものを、ねつによってふたたもと材料ざいりょうにくだきはなしたと見なすことができる。しこうして植物がはい、水および炭酸たんさんガスのごとき無機むき成分せいぶんから、自身の体をつくるにあたって必要ひつようなるものは日光である。緑葉りょくようを日光がらせば、緑葉内で水の成分せいぶんなる酸素さんそ水素すいそ炭酸たんさんガス中の炭素たんそとがむすいて澱粉でんぷんが生じ、次に澱粉でんぷん砂糖さとうへんじ、けて植物体の各所かくしょに流れ行き、あるいはたつして、新たな組織そしきつくることもあれば、また根やくきの中で貯蔵ちょぞうせられることもあろう。葡萄ぶどうの中の砂糖さとうも、甘藷さつまいもの中の澱粉でんぷんも、大豆だいずの中の油も、みなかようにして生じたものである。

「澱粉実験」のキャプション付きの図
澱粉でんぷん実験じっけん

日光があたれば緑葉内に澱粉でんぷんつぶの生ずることは、きわめて簡単かんたん試験しけんで、だれでも自身にためして見ることができる。すなわち黒い紙かすず板かで葉の一部をおおい、暫時ざんじ日光にらした後にこれをヨジウムえきければ、日光のあたっていたところだけはその中に生じた澱粉でんぷんつぶがヨジウムにれてむらさき色になるが、かげになっていたところはかようなことがない。もしアルコールで葉の緑色をいてしまえばそこは白くなるから、澱粉でんぷんつぶのできたところとの相違そういがすこぶる明瞭めいりょうに見える。かような次第しだいで、植物はつねに日光の力をり、無機むき成分せいぶんより有機ゆうき成分せいぶんをつくり、これを用いて生活しているのである。
 これに反して、動物のほうはすでにできている有機ゆうき成分せいぶんを食わねば命をたもつことができぬ。動物の中には植物を食うものと、動物を食うものとがあるが、食われる動物はかなず植物を食うもの、または植物を食うものを食うものであるゆえ、動物の食物は、そのみなもとまでさかのぼればかなず植物である。されば植物なしに動物のみが生存せいぞんするということはとうていできぬ。しこうして動物のはき出す炭酸たんさんガスや、その排泄はいせつする屎尿しにょうは、また植物の生活にくべからざるものである。

「試験管に生物を入れたもの」のキャプション付きの図
試験しけんかんに生物を入れたもの

すなわち植物と動物とは相よりあいたよって生活しているありさまゆえ、もし適当てきとうりょうの植物と動物とを硝子ガラスの中に密閉みっぺいして外界との交通を全く遮断しゃだんしても、日光さえ受けさせておけば長く生存せいぞんするはずであるが、実際じっさいためして見るとそのとおりで、ガラスの試験しけんかんに海水を入れ、海藻かいそうを少しと小さな「いそぎんちゃく」一匹いっぴきとを入れてかん上端じょうたんじれば、海岸から遠いところへ生きたまま容易ようい運搬うんぱんもでき、また長くうてもおける。かくのごとく植物は日光の力によってえず無機むき成分せいぶんから有機ゆうき成分せいぶんを組立て、これを動物に供給きょうきゅうし、動物は有機ゆうき成分せいぶんを食うてこれを破壊はかいし、もと無機むき成分せいぶんとしてこれを植物に返するのであるから、同一の物質ぶしつつね循環じゅんかんしてる時は無機むき成分せいぶんとなり、る時は有機ゆうき成分せいぶんとなって、動植物の身体に出入しているということができよう。
 昔は化合物を分けて有機ゆうき化合物と無機むき化合物との二組とし、有機ゆうき化合物のほうは、動植物の生活作用によってのみ生ずるものであって、人為的じんいてき無機むき物からつくることはできぬと考えたが、今より九十年ばかり前に有機ゆうき化合物の一種いっしゅなる尿素にょうそ人造じんぞうたのをはじめとして、今日では多数の有機ゆうき化合物を化学的かがくてきに組立てて製造せいぞうるにいたった。あいあかねなどの染料せんりょうは昔はその植物がなければできぬものであったのが、今はたくさんに人造じんぞうせられるから、面倒めんどうな手間をけてあいあかね培養ばいようするにおよばなくなった。有機ゆうき化合物中のもっとも複雑ふくざつ蛋白質たんぱくしつでさえ、近年は人造じんぞうほうによってややこれにたものをつくることができる。されば有機ゆうき化合物、無機むき化合物という名称めいしょう便宜上べんぎじょう今も用いてはいるが、その間にはけっして判然はんぜんたるさかいがあるわけではなく、分子の組立てが一方は複雑ふくざつで一方は簡単かんたんであるというにすぎず、しかもその間には無数むすう階段かいだんがある。緑葉りょくようの内で澱粉でんぷんが生ずると言うても、むろん炭素たんそ酸素さんそ水素すいそ突然とつぜん集まって澱粉でんぷんになるのではなく、一歩一歩分子の組立てが複雑ふくざつになって、ついに澱粉でんぷんという階段かいだんまでにたつするのである。また動物が死ねば、その肉や血は分解ぶんかいして水、炭酸たんさんガス、アンモニアなどになってしまうが、これまた急激きゅうげきにかくへんずるのではなく、一段いちだんずつ簡単かんたんなものとなり、無数むすう変化へんかを重ねてついにきわめて簡単かんたん無機むき化合物までになり終わるのである。無機むき化合物から有機ゆうき化合物となり、有機ゆうき化合物から無機むき化合物になる間の変化へんかは今日なお研究中であってくわしいことは十分にわからぬが、その一足飛いっそくとびに変化へんかするものでないことだけはたしかである。
 生物個体こたいの身体の各部かくぶについてその物質ぶしつ起源きげんをたずねると、以上いじょうべたごとく決して同一分子ぶんしが長く変化へんかせずにとどまっているわけではなく、一部分ごとにそこの物質ぶしつえず新陳しんちん代謝たいしゃする。毛やつめを見ればこの事はもっとも明白であるが、他の体部とてもやはり同様で、役をすませた古い組織そしきじゅんを追うててられ、これをおぎなうためには新しい組織そしきが後から生ずる。昔の西洋書には人間の身体は七年ごとに全くかわると書いてあるが、これはもとよりあてにならぬせつで、障子しょうじのごときものも紙は度々たびたびりかえる必要ひつようがあるが、かまちのほうは長く役に立つのと同様に、人間の身体の中にも速やかにわる部分とおそわる部分とがあろう。たとえば血液けつえきのごとくえずさかんに循環じゅんかんしているものは新陳しんちん代謝たいしゃもすこぶるすみやかであろうが、骨骼こっかくなどは新陳しんちん代謝たいしゃがやや緩慢かんまんでも差支さしつかえはない。しかしとにかくつねに新陳しんちん代謝たいしゃすることはたしかであるゆえ、生物の体が昨日きのうも今日も明日も同じに見えるのはただ、形が同じであるというだけで、その実質じっしつは一部分ずつえず入れわっている。そのありさまはあたかもかわの形はわらぬが、流れる水の暫時ざんじも止まらぬのにている。生物は一種いっしゅごとに体質たいしつちがうゆえ、人間が牛肉を食うても、決して牛の筋肉きんにくがそのまま人間の筋肉きんにくとはならぬ。まずこれを分解ぶんかいして人間の組織そしきをつくる材料ざいりょうとして用いるにてきするものとし、さらにこれを組立て直して人間の組織そしきとするのであるが、食物をかように分解ぶんかいするのが消化のはたらきである。またいったんできあがった血液けつえき筋肉きんにくなどもこれをはたらかせれば少しずつ分解ぶんかいしてろう廃物はいぶつとなり、大小便べんとなって体外に排出はいせつせられる。ちちのみを飲む赤児あかごや、めし豆腐とうふとを食うた大人の大小便べんに色のついているのを見ても、大小便べんたんに飲食物中から滋養じよう分を引き去ったのこりのみでないことは知れる。かように考えると、生物の身体は一方においては時々じじ刻々こくこく新たに生じ、他方においては時々じじ刻々こくこく死しててられているのであるが、この事については世人はべつ不思議ふしぎとも思わずにいる。人間の身体は無数むすう細胞さいぼうの集まりであるが、その一個いっこ一個いっこ細胞さいぼうを見たならば、今生まれるものもあり、今死ぬものもあり、わかいものもあり、いたものもあって、あたかも一国内の一人一人を見ると同じであろう。かくのごとく体内の細胞さいぼうの生死は時々じじ刻々こくこく行なわれていても、これは当人とうにんが知らずにいるゆえ、べつに問題ともせず、ただ細胞さいぼうの集まりなる個体こたいの生と死にかんしてのみ、昔からさまざまの議論ぎろんたたかわせていたのである。生物の起こりにかんする議論ぎろんはほとんど際限さいげんのないことで、しかもその大部分は仮説かせつにすぎぬゆえ、以上いじょうべただけにとどめておく。


第三章 生活なん


 生物の生涯しょうがいは食うてんで死ぬという三箇条さんかじょうにつづめることができるが、まずその中の食うことから考えて見るに、食物の種類しゅるいにも、その食いかたにも、これを方法ほうほうにも、実に種々しゅしゅ雑多ざった差別さべつがある。生きるためには食わねばならぬということに例外れいがいはないが、食物の中には滋養じよう分を多くふくむものと少なくふくむものとがあり、したがって時々少量しょうりょうの食物を食えば事の足りる生物もあれば、また多量たりょうの食物を昼夜えず食わねば生きていられぬ生物もある。しかしながらいずれにしても食物のほうには一定の制限せいげんがあり、生物の繁殖はんしょく力のほうにはほとんどかぎりがないから、食うためには是非ぜひともはげしい競争きょうそうが起こらざるをない。植物のごときは、日光の力をりて炭酸たんさんガス、水、灰分かいぶんなどから有機ゆうき成分せいぶんをつくって生長し、これらの物はいたるところにあるゆえ、競争きょうそうにもおよばぬようであるが、適度てきどに日光があたり適度てきど湿気しっけそなえた地面に制限せいげんがあるゆえ、やはり競争きょうそうをまぬがれぬ。しかも一株ひとかぶにつき数百、数千もしくは数万も生ずる種子しゅしの中で、平均へいきんわずかに一粒ひとつぶのぞくほかはみな生存せいぞんのぞみのないことを思えば、如何いかにその競争きょうそう激烈げきれつであるかが知れる。されば生物の生涯しょうがい徹頭てっとう徹尾てつび競争きょうそうであって、食物を多く食うものも、少なく食うものも、肉食するものも、草食するものも、食うためにはえずはたらかねばならず、しこうしてはたらいたならばかなず食えるかというと、大多数のものは如何いかはたらいてもとうてい食えぬ勘定かんじょうになっていて、暫時ざんじなりとも安楽あんらくに食うてゆけるものは金持ちの人間と寄生虫きせいちゅうとのほかにはない。しかもかような寄生虫きせいちゅうるいが目前やや安楽あんらくな生活をしているのは、数多あまた難関なんかんを切りけて来た結果けっかで、はじめ数百万もみ出されたたまごの中のわずかに一二つぶだけが、この境遇きょうぐうたつするまで生存せいぞんたのであるから、その生涯しょうがいの全部を見ればむろんはげしい競争きょうそうである。本章においては動物が食物をるために用いる、種々しゅしゅことなった方法ほうほうの中から若干じゃっかんえらんで、そのれいをあげて見よう。

一 とどまって待つもの


 動物の中には自身は動かずにえさのくるのを待っているものがある。

「くもの巣」のキャプション付きの図
くもの

たとえば、「くも」のごときは庭や林のの間にあみり終われば、その後はただ虫がんで来て引っかかるのを待つだけである。かかるところだけを見ると、さも安楽あんらくらしく見えるが、はじあみをつくるときの「くも」の骨折ほねおりはなかなか容易よういでない。「くも」が糸をたくみにつかうことは昔から人に知られたところで、ギリシアの神話や支那しな西遊記さいゆうきの本などにも、その話が出ているが、「くも」のはらを切り開いて見ると、糸の材料ざいりょうをつくるせんと糸の表面をねばらすためのとりもちのごときものを出すせんとがあり、糸ははら後端こうたんの近くにある数個すうこ紡績ぼうせき突起とっきの先からつむぎ出され、足のつめくしによって適当てきとうの太さのものとして用いられる。はじめはねばらぬ太い糸を用いてえだからえだ足場あしばをかけ、全体のあみの形がほぼ定まると、次に細かいねばる糸を出して細かくあみの目をつくり上げる。こころみに指を「くも」のれて見ると、太い糸は強いだけでねばらず、細い糸は指に粘着ねんちゃくする。小さな虫が「くも」のれると、あたかもとりもちざおでされた「とんぼ」のごとくにげることのできぬのはそれゆえである。また「くも」はただ、あみさえればえさがとれるかというと、決してさようにはゆかぬ。一箇所いっかしょにとどまって、えさの来るを待っているのであるから、あたかも縁日えんにちの夜店商人と同じく、往来おうらいさかんない場所をえらぶことが必要ひつようであるが、い場所を見つけても、そこがすでに他の「くも」に占領せんりょうせられている場合には如何いかんともできぬ。その上、いったんあみっても雨風のために無駄むだになることもあれば、大きな虫や鳥のためにやぶられることもあるから、しばしば、つくり直さねばならぬ。

「蟻地獄」のキャプション付きの図
あり地獄じごく

またえんの下などのごとき雨のかからぬ地面には小さな摺鉢すりばち形の規則きそく正しいくぼみがいくつもあるのを見つけるが、そのそこには一匹いっぴきずつ小さな虫がかくれている。これは「うすばかげろう」という昆虫こんちゅう子供こどもで、「くも」と同じく自身は動かずにえさの来るのを待っている種類しゅるいぞくする。この虫はこのんでありを食するが、摺鉢すりばち形のあなのところへありが来かかると、土がかわいているためにあなそこまで転がり落ちるゆえ、直ちにそれをとらえて食う。もしありふたたあなからはい出しそうにでもすれば、扁平へんぺいな頭をもって土をすくい、ありを目がけて打ちつけ、土とともにありふたたそこまで落ちて来るようにするから、いったんこのあなすべり落ちたありはとうてい命はない。それゆえこのあなのことをぞくあり地獄じごくと名づける。ちょっとのんきな生活のごとくに見えるが、同じところに多数のあり地獄じごくならんであるゆえ、あたかも区役所の門前もんぜん代書だいしょ人の店がならんでいるごとくで、中にはあまりお客の来ぬためにうえしのばねばならぬものもあろう。

「みちおしえ」のキャプション付きの図
みちおしえ

また天気のよい日に田舎いなか道を歩いていると、青色と金色との斑紋はんもんがあって、美しい光沢こうたくのある甲虫かぶとむしんではとまり、とまってはびして、あたかも道案内あんないをするごとくに先へ進んで行くのをしばしば見ることがある。これは「みちおしえ」という虫であるが、この虫の幼虫ようちゅうなどもとどまってえさを待つほうである。すなわち地面に小さなあなをつくりその中にかくれて、他の昆虫こんちゅうが知らずに近づくのをうかがい、急にこれをとらえて食する。
 陸上りくじょうの動物にはとどまってえさの来るを待つものは割合わりあいに少ないが、水中にむ動物にはかようなものはきわめて多い。その理由は陸上りくじょうにおいては動物のえさとなるものは多くは固着こちゃくして動かぬか、または勝手に運動するものかであって、風にきまわされるごときものはほとんどない。それゆえ、牛や羊が如何いかに大きな口を開いて待っていても、自然じぜんに口の中へ草の葉がんではいることは決してないが、海水の中には動物のえさとなるべき微細びさい藻類もるいや動物の破片はへんなどがいくらでも浮游ふゆうして急にそこしずんでしまわぬゆえ、気長に待ってさえいれば口の近所までえさの流れて来ることはすこぶる多い。ゆえにこれを集めて口に入れるだけの仕掛しかけがあれば、相応そうおうに食物はられる。たとえば「かき」のごときは、岩石の表面に付着ふちゃくして一生涯いっしょうがい他にうつることはないが、からを少しく開いてえず水をうていれば、必要ひつようなだけの食物は水とともにからの内にはいり来たって口にたつする。「あわび」のるいは全く固着こちゃくしてはいないが、つねに岩の一箇所いっかしょかたい着いているから固着こちゃく同然どうぜんである。「はまぐり」、「あさり」などは徐々じょじょと動くが、その食物を方法ほうほうは「かき」と同じで、全くとどまって待つ仲間なかまぞくする。

「ほや」のキャプション付きの図
ほや

青森や北海道ほっかいどうへんさかんに食用にする「ほや」という動物は実にとどまってえさの来るのを待つことでは理想てきのもので、身体はたまご形をなし、根をもって岩石に固着こちゃくし、全身かわのごときふくろつつまれているゆえ、動物学上ではこの種類しゅるいの動物を被嚢ひのうるいと名づけるが、その革嚢かわぶくろにはただわずかに二箇所にかしょだけにあながあり、一方からは水がまれ、一方からは水がき出される。「ほや」の体内にはいり来たった水はえらを通って直ちに出口のあなのほうへ出てゆくが、海水中にいている微細びさい藻類もるいなどは、食道のちょう通過つうかし、消化物だけは出口のところにたつして水とともに流れ出る。この点からいえば一方のあなは真に口で、他のあな肛門こうもんに相当するが、そうじて固着こちゃくしている動物では、口と肛門こうもんとが接近せっきんして、両方がならんで前を向いていることが多い。これはあたかも勧工場かんこうばの入口と出口とがならんで往来おうらいのほうへ向いているのと同じ理屈りくつで、とどまったままで食物を食い、かすき出すにはもっとも便利べんりな仕組みである。

「ふじつぼ」のキャプション付きの図
ふじつぼ

なお海岸へ行って見ると、「ふじつぼ」、「かめのて」、「いそぎんちゃく」、海綿かいめんなどが一面に岩についていて、これをまねばほとんど歩けぬほどのところがあるが、これらはいずれもとどまってえさを待つ動物である。またそれより少しく深いところに行けば、「さんご」や海松みる海柳うみやなぎなどと植物に形のた動物がたくさんにあるが、これらも食物の取りようは、「いそぎんちゃく」と全く同様である。

「さんご礁」のキャプション付きの図
さんごしょう

 とどまってえさの来るを待つ動物は、げるえさを追いまわすわけでないから、ほとんど筋肉きんにくはたらかせる必要ひつようがなく、またえさのゆくえをさがすにおよばぬから、や耳のごとき感覚器かんかくきもいらぬ。筋肉きんにく感覚器かんかくきを用いなければ疲労ひろうすることもなく、食物をようすることもきわめて少ないが、少ない食物ならばわざわざもとめずとも口のへんまで流れって来る。そのありさまは、あたかも社会に出て活動すればもうかると同時に費用ひようもかかるが、隠遁いんとんしてらせば、収入しゅうにゅうも少ない代わりに出費しゅっぴも少なく、結局けっきょくしずかに生活ができるのと同様である。しかしとどまってえさを待つにてきする場所には、かような生活をする動物が集まって来て、それぞれよい位置いちを取ろうとしてたがいにおし合うゆえ、生存せいぞんのための競争きょうそうはやはりまぬがれることはできぬ。

二 進んでもとめるもの


 たいがいの動物は自身に進んでえさもとめるものであるから、この組の中には食物の種類しゅるいもこれを取る方法ほうほうも実に千態せんたい万状ばんじょうで、とうていこれをべつくすいとまはない。植物を食うものもあれば動物を食うものもあり、同じく植物を食うという中にも、葉を食うもの、根をかじるもの、果実かじつを食うもの、若芽わかめをついばむもの、花のみつうもの、みきしんをかむものなどがあり、大きなえさを一部ずつ食うものもあれば、小さなえさを多く集めて一度に丸のみにするものもある。しかしていずれの場合においても動物の口の形、歯の構造こうぞうなどを見れば、おのおの、その食物の食い方によくてきしている。進んでえさもとめる動物のえさの取り方をのこらず列挙れっきょすることはもちろんできぬから、ここには、ただその中から多少つねとことなったと思われるもの数種すうしゅをかかげるにとどめる。

「なまけもの」のキャプション付きの図
なまけもの

 南アメリカの森林に住む「なまけもの」という小犬ぐらいの大きさのけものはつねに緑葉を食物としているが、四肢ししともに指の先には三日月じょうに曲がった大きなつめがあって、これをえだにかけ、を下に向けてぶら下がりながら木の葉を食うている。木の葉は近い所にいくらでもあって、けっして遠方までさがしに行く必要ひつようがなく、かつしげった森林ではとなれるえだえだとがあいれているから、次のうつるにあたってもわざわざ地面までりるにはおよばぬ。それゆえ、このけものは生まれてから死ぬまでえだからぶら下がって生活して、一度も地上へりて来ることはない。さるなどがえだにぎっているのは、指をまげる筋肉きんにくはたらきによることゆえ、死ねば指の力がなくなりえだにぎることもできなくなるが、「なまけもの」は曲がったつめえだにかけているのであるから、死んでもぶら下がったままでけっして落ちて来ない。ねむるときにもむろんそのままである。

「せんざんこう」のキャプション付きの図
せんざんこう

 アフリカ、アジアの熱帯ねつたい地方から台湾たいわんにかけて穿山甲せんざんこうという奇妙きみょうけものがいる。このけものが太くて全身大きなかたうろこおおわれているゆえ昔の本草ほんそうの書物にはりくこいなどと名をつけて魚類ぎょるいの中に入れてあるが、はらがわを見れば普通ふつう獣類じゅうるいと同じく一面に毛がはえている。つねにありってありを食うているが、そのため前足のつめとくに太くてするどい。またしたは「みみず」のような形で非常ひじょうに長く、かつくびの内にある唾腺だせんから出るきわめてねばった唾液だえきはあたかもとりもちをつけたごとくによく粘着ねんちゃくする。あり白蟻しろあり熱帯ねつたい地方にはずいぶん大きなのがあって、一つれば何十万も何百万もありが出るが、これをたちまちなめて食うにはかようなしたはもっとも重宝ちょうほうであろう。

「軍艦鳥」のキャプション付きの図
軍艦ぐんかん

 次に鳥類ちょうるいうつって、その中でえさの取り方のおもしろいれいをあげると、まず海鳥の中に「軍艦ぐんかん鳥」と名づけるものがある。この鳥は足の指の間にみずかきのある純粋じゅんすいの水鳥であるが、自身で水におよいで魚を取るということはほとんどなく、いつもかもめなどが魚をとらえたのを見つけて、それを空中で横取りすることを本職ほんしょくとしている。さればむしろ海賊かいぞく鳥と名づけたほうが適当てきとうであるが、海賊かいぞくも商船の数にしてあまり多数になると職業しょくぎょうり立たぬごとく、この鳥もかもめなどにくらべてはるかに少数だけより生活することができぬから、自然じぜん同僚どうりょう間に縄張なわばりのあらそいも生じてけっして油断ゆだんはならぬであろう。

「かわがらす」のキャプション付きの図
かわがらす

これと反対に水鳥でないものが水の中へもぐりれいには「かわがらす」がある。この鳥は名前のとおり羽毛が黒色であるが、足の指を見ると「つぐみ」や「ひよどり」のごとき普通ふつう鳥類ちょうるいと少しもちがわず、みずかきなどは少しもないが、つねに水辺みずべにいて指をもって水草のくきをつかみ、それをつたうてあさい水のそこまで行き小さな虫類むしるいなどをとらえて食う。体形は全く水鳥みずどりるいことなるにかかわらず、かく水のそこまでもぐりむのは、おそらく先祖せんぞ以来いらい因襲いんしゅうやぶり、冒険ぼうけんてきに新領土りょうど開拓かいたくこころみて成功せいこうしたものとでもいうことができよう。

「蛾と蜂鳥」のキャプション付きの図
蜂鳥はちどり

 鳥類ちょうるいくちばしはおのおの食物の種類しゅるいおうじて形のことなるもので、穀粒こくつぶを拾うすずめでは太く、虫を食ううぐいすでは細く、魚をはさむ「かわせみ」でははなはだ長く、をすくう「よたか」ではすこぶる短く、「きつつき」では真直まっすぐで、鸚鵡おおむでは曲がっているなどは人の知るとおりであるが、同じ仲間なかまの鳥で、ほとんど一種いっしゅごとにくちばしの形のちがうのはアメリカ熱帯ねつたい地方にさんする蜂鳥はちどりである。

「蜂鳥のくちばし」のキャプション付きの図
蜂鳥はちどりのくちばし

このるいは鳥の中でもっとも小形のもので、すずめよりもはるかに小さく栂指おやゆび一節いっせつにも足らぬが、あたかも昆虫こんちゅうるいちょうと同じようにつねに花のみつうて生きている。たいがい孔雀くじゃくのごとき色と光沢こうたくとをそなえているゆえ、そのびまわっているところはまるで宝玉ほうぎょくらしたごとくでまことに美しい。ちょうが花のみつうにはおのおの専門せんもんがあって、つつの長い花に来るものはふんが長く、あさい花に来るものはふんが短いが、蜂鳥はちどりもこれと同様で、おのおの花の形状けいじょうおうじて長い真直ぐなくちばしを持った種類しゅるいもあれば、いちじるしく曲がったくちばしそなえた種類しゅるいもあって、あたかもじょうかぎとのごとくに相手が定まっている。ついでながらべておくが、およそ鳥類ちょうるいの中で蜂鳥はちどりほどたくみにぶものはない。その花蜜かみつうときのごときは、空中の一点にとどまって進みもせず退しりぞきもせず、あたかも糸でってあるかのごとくに静止せいしし、みつい終われば電光でんこうのごとくにび去るが、他の鳥にはかようなげいはとうていできぬ。もし飛行機ひこうきで空中の一点に暫時ざんじなりとも静止せいしすることができたならば、偵察ていさつ用、攻撃こうげき用ともにその効用こうよう莫大ばくだいであろうが、今日の飛行機ひこうきではこの事は不可能ふかのうである。蜂鳥はちどりはかく自由自在じざいぶ代わりに、つばさを動かすことも非常つねすみやかで、そのため空気に振動しんどうを起こしてはちあぶぶときのごとき一種いっしゅひびきを生ずる。蜂鳥はちどりという名称めいしょうはこれより起こったものである。古き書物には蜂鳥はちどり往々おうおうくものにかかって命を落とすことがあると書いてあるが、これは信偽しんぎのほどは請合うけあわれぬ。

「いすか」のキャプション付きの図
いすか

 鳥のくちばしにはずいぶん奇妙きみょうな形のものがある。「いすか」のくちばしの上下あい交叉こうさしていることはだれも知っているが、これは「いすか」にとっては都合つごうがよい。「いすか」がまつの実を食うところを見るに、足でつかんでくちばし鱗片りんぺんの間にしいれ、一つ頭をったかと思うと、そのおくにあるまつたねはすでに「いすか」の口にうつっているが、すずめや「やまがら」のような真直ぐなくちばしではとうていかくすみやかにはとれぬにちがいない。せっかくの目論見もくろみが「いすか」のくちばしと食いちがうことは人間にとってははなはだ都合つごうの悪いことであるが、「いすか」はもしもくちばしが食いちがうていなかったならば、日々の生活に差支さしつかえが生ずるであろう。

「嘴曲がりしぎ」のキャプション付きの図
くちばし曲がりしぎ

また「そりはししぎ」にしぎ一種いっしゅでは、細長いくちばしの先のほうが右に曲がってすこぶる自由らしく見えるが、これは海浜かいひん泥砂でいさの上に落ちている貝殻かいがらを起こして、その下の虫をさがしたりするにはかえって具合いがよろしい。

「窓嘴鶴」のキャプション付きの図
まど嘴鶴くちばしつる

外国産がいこくさんつるるいには、口をじても上下のくちばしがよくまらず、その間に大きなまどのあいているものがあるが、これもはまぐりなどをくわえるにはあるいは便利べんりかも知れぬ。すべて動物にはそれぞれ専門せんもんえさがあって、口の構造こうぞうはそれを取るにてきするようになっているから、なかなか他の習性しゅうせいことなったものが、急に競争きょうそうわろうとしても困難こんなんである。

「とびはぜ」のキャプション付きの図
とびはぜ

 魚類ぎょるいはすべて水中に住むものゆえ、昔からとうていできぬことを「木によって魚をもとむるごとし」と言うているが、よく調べて見ると、魚でありながら陸上りくじょうに出るものが全くないこともない。熱帯ねつたい地方から東京湾とうきょうわんあたりまでの海岸に住む「とびはぜ」という小さな魚があるが、これなどはしおの引いたときは、すなどろかわいた上を何時間もかえるのごとくにはねまわって、やわらかい虫を拾うて食うている。比較ひかくてき大きな眼玉めだまが頭の頂上ちょうじょうならんでいるので、容貌ようぼうまでがいくぶんかかえるめいて見える。

「木登り魚」のキャプション付きの図
木登り魚

さらにおどろくべきは印度インド地方にさんする「きのぼりうお」という淡水たんすい魚で、形はややふなて大きさは一尺いっしゃく(注:30cm)近くにもなるが、えら仕掛しかけが普通ふつうの魚とは少しくちがうので、水から出ても容易よういには死なず、鰓蓋えらぶたの外面にある小さなかぎを用いてみきを登ることができる。されば東印度インドまで行けば、「木によって魚をもとめる」という語は、物事のできぬたとえとしては通用せぬ。
「みずたまうお」のキャプション付きの図
みずたまうお
長さ5,6すん(注:15〜18cm)の淡水たんすい魚なり。東印度インドかわさんす。水上を昆虫こんちゅうねらい口より一滴いってきの水をき当てこれを落としてとらえ食う。

 なお東印度インドにに「水玉みずたまうお」というおもしろい淡水たんすい魚がいる。これは身長五六寸ごろくすん(注:15〜18cm)の扁平へんぺいな魚であるが、自身は水の中にいながらたくみに空中の虫をとらえて食う。その方法ほうほうは、まず水面までかび出で、口を水面上にき出して、んでいる昆虫こんちゅうをねらって一滴いってきの水玉をき当てるのである。当てられた虫は水玉とともに水中へ落ちてたちまち食われてしまう。「あんこう」のるいは海のそこにいて、上顎うわあごの前方から突出つきだしている鉤竿かぎさおのごときものを動かし、たくみに小さな魚類ぎょるいさそうて急にこれを丸呑まるのみにするが、数百ひろ(注: 1尋=約1.8m)の深いそこで年中日光のたつせぬ暗黒なところにいる「あんこう」のるいには、鉤竿かぎざおの先が光ってあたかも提燈ちようちん差出さしだしているごときものもある。みな口が非常ひじょうに大きくて、口を開けば直ちにおくまでが見えるかと思うほどであるが、深海のそこむ魚にはこれよりもはるかに口の大きな種類しゅるいがいくらもある。

「おおのどうお」のキャプション付きの図
おおのどうお

ここに図をかかげた「おおのどうお」としょうするものは、身体はほとんど全部口であるともいうべきほどで、口だけを切り去ったら、ただ細長いだけとなって身体は何ほどものこらぬ。ただし二千ひろ(注:9000m)以上いじょうの深い海に住む魚であるゆえ、えさもとめるにあたって何故なぜかようなおどろくべく大きな口が必要ひつようであるか、その習性しゅうせいくわしいことはわからぬ。

「「ひとで」魚を食う」のキャプション付きの図
「ひとで」魚を食う

 進んでえさもとめる動物のれいとしてなお一つ「ひとで」るいえさの食い方をべよう。「ひとで」るいあさい海のそこに住む星形の動物で、どこの国でも「海の星」という名がつけてあるが、体にはただうらと表とのべつがあるだけで前も後もない。うらからはたくさん細長い管状かんじょうの足を出し、足をのばして何かに足の先の吸盤きゅうばんいつき、次に足をちぢめて身体をそのほうへ引きずって漸々ぜんぜん進行する。このんで貝類かいるいを食するから、かきや真珠しんじゅ養殖ようしょく場には大害たいがいをなすものであるが、その食い方を見るに、小さな貝ならば体の裏面りめんの中央にある口で丸呑まるのみにし、口にはいらぬような大きな貝ならば、まず五本のうででこれをかかえ、裏返うらがえしにして口より出し、これをもって貝をつつんでその肉をかしてい入れるのである。「ひとで」が暫時ざんじかかえていた貝をとって見ると、貝殻かいがらはもとのままで少しもきずはないが、内はすでに空虚くうきょになっている。海水の中に「ひとで」と魚とをいっしょにうておくと、往々おうおう「ひとで」が魚を食うことがあるが、その時も同様な食い方をする。
 以上いじょうかかげた若干じゃっかんれいによってもわかるとおり、進んでえさもとめることは大多数の動物の行なうところで、その方法ほうほうにいたっては、世人のつねに見慣みなれているもののほかにずいぶん意表に出た食いようをするものがある。しこうして如何いかなる場合にも、同様な方法ほうほうで食うている競争きょうそう者がたくさんにあるからけっして楽はできぬ。

三 えさを作るもの


 動物はえさを見つけしだい直ちに食うのがつねであるが、中には後に食うために食物をたくわえておくものもある。さる人参にんじんを'ほおの内にたくわえ、はとが豆を餌嚢えぶくろの内にため、駱駝らくだが水をの内にためることは人の知るとおりであるが、かように身体内にたくわえるのでなく、べつの内などに食物をたくわんでおく種類しゅるいも少なくない。

「もぐらの巣」のキャプション付きの図
もぐらの

たとえば「もぐら」のごときはつねに「みみず」を食うているが、地中で「みみず」を見つけるごとに直ちに食うのではなく、多くはこれをの内にたくわえておく。しこうして達者たっしゃなままでおけばげ去るおそれがあり、ころしてしまえばたちまちくさる心配があるが、「もぐら」は「みみず」の頭の尖端せんたんだけを食い切って生かしておくゆえ、「みみず」はげることもできずくさりもせず、生きたままで長くの内にたくわえられ、必要ひつようおうじて一匹いっぴきずつ食用にきょうせられる。また畠鼠はたねずみるいはあぜ道などの土中にをつくり、米や麦のみ来たってその中にたくわえておくが、さる人参にんじんせまい'頬嚢ほおぶくろに入れるのとちがい、いくらでもたくわえられるゆえ、このねずみ繁殖はんしょくすると農家の収穫しゅうかくはいちじるしくげんずる。はなはだしい時はほとんど収穫しゅうかくがないほどになるが、かかるときはどくじた団子だんごいたり、ねずみ伝染病でんせんびょうを起こさせる黴菌ばいきんたねらしたり、村中大騒おおさわぎをしてその撲滅ぼくめつはかっている。「もず」はかえるや「いなご」をとらえると、これをとがったえだし通しておくが、田舎いなか道を散歩さんぽするといくらもそのひからびたのを見る。昔から「もず」の「はやにえ」というて歌にまでんだものはこれである。

「みさご」のキャプション付きの図
みさご

また海辺うみべに住んで魚を常食じょうちょくとする「みさご」というたかは、とらえた魚を岩の上の水溜みずたまりに入れたままでてておくことがしばしばあるが、漁師りょうしはこれを「みさごずし」と名づけている。これらも不完全ふかんぜんながら食物をたくわえるれいである。その他、蜜蜂みつばちの中にみつたくわえ、「じがはち」があなの中に「くも」をたくわえるなど、類似るいじれいはいくらもある。とく穀物こくもつたくわえるありるいになると、雨のった後に穀粒こくつぶを地上にならべ、日光に当てて一度を出させ、次にそのみ切ってもやしをふたたの内に運んで貯蔵ちょぞうするなど、実におどろくべきことをする。しかし以上いじょうべたところはみな、後日の用意に食物をたくわえておくというだけで、とくに食物をつくるのではない。

「収穫蟻」のキャプション付きの図
収穫しゅうかくあり

 アメリカ合衆国がっしゅこくのテキサスへんありには一種いっしゅ収穫しゅうかくありと名づけるものがある。これは昔の博物はくぶつ書には、自身にわざわざ種子しゅしいて、えずよく世話をしておわりにり入れまですると書いてあったために、非常ひじょうに有名になった。ありがわざわざ種子しゅしくということは真実でないらしいが、一種いっしゅの草だけを保護ほごし、他の雑草ざっそうのぞいて、おわりにじゅくして落ちたたねを拾い集めての内にたくわえることは事実である。
「収穫蟻」のキャプション付きの図
収穫しゅうかくあり
中央にあるは地下のありに入るべき入口。列をなして多数にいいるは収穫しゅうかくあり働蟻はたらきあり周囲しゅういの草は「ありの米」と名づくる禾本かほん科の植物。産地さんちは北アメリカの中部。

このあり普通ふつうありと同じく地中にをつくるが、の入口のあなを中心としておよそ一坪ひとつぼ二坪ふたつぼかの円形の地面には、ただ一種いっしゅのいつも定まった草のみが生えていて、他の草のまじっていないところを見ると、如何いかにもありがわざわざその草のたねいたごとくに見えるが、これはおそらく落ちたたねから生えるのであろう。しこうしてこの草は米や麦と同じく禾本かほん科の植物で、くきの先にができて細かい粒状つぶじょうの実がなるゆえ、その地方では「ありの米」とんでいる。このありのことはわが国の小学読本にも出ているが、たしかに農業をいとなむものというても差支さしつかえはない。

「葉切蟻」のキャプション付きの図
葉切はきりあり

 なお南アメリカの熱帯ねつたい地方にはきん培養ばいようするありがある。これは葉切りありと名づける大形のありで、は地面の下につくるが、つねに多数で出歩いてに登り、するどあごで葉をみ切り、一匹いっぴきごとに一枚いちまいの葉をくわえて、あたかも日傘ひがさでもさしたごとき体裁ていさいに帰ってくる。

「蟻の菌畠」のキャプション付きの図
ありきんはたけ

この事はだれにもいちじるしく目にれるゆえ、昔は何のためかと大なる疑問ぎもんであったが、その後の周到しゅうとうなる研究の結果けっかによると、この葉はに持ち帰られてからさらに他のはたらありによってきわめて細かくくだかれ、きん栽培さいばいするための肥料ひりょうに用いられることが明らかに知れた。
 にはところどころに直径ちょっけい一尺いっしゃく(注:30cm)以上いじょうもある大きな部屋があって、細い隧道ずいどう(注:トンネル)でたがいに連絡れんらくし、部屋の内でははたらありが葉をくだいたものではたけをつくり、そこへ一種いっしゅきん繁殖はんしょくさせる。このきん松蕈まつたけ椎蕈しいたけなどと同じようなかさのできるるいであるが、ありの中でははたらありがしじゅう世話しているために、傘状かさじょうにはならずただ細い糸のごとき根ばかりがしげって、ありえさとなるのである。

「白蟻の菌畠」のキャプション付きの図
白蟻しろありきんはたけ

 白蟻しろありにもきんをつくる種類しゅるいがいくらもある。白蟻しろありというと素人しろうとはやはりあり一種いっしゅかと思うが、昆虫こんちゅう学上から見るとあり白蟻しろありとは全くべつるいではなはだえんの遠いものである。しかしながら両方ともに数万も数十万も集まって社会をつくって生活するゆえ、習性しゅうせいにはあいたところが少なくない。きん培養ばいようのごときもその一つで、白蟻しろありにおいてもほぼ同様のことが行なわれている。ただしきん種類しゅるいも、その作りようもいささかありとはちがい、また白蟻しろあり種族しゅぞくによってもちがう。白蟻しろありきんやしなはたけは、ありのごとくに木の葉をくだいたものではなく、白蟻しろあり自身のふんであるが、白蟻しろありは主として木材もくざいを食するものゆえ、そのふん木材もくざいを細かくくだいたごときものである。木材もくざいはまことに滋養じよう物にとぼしいものであるが、白蟻しろありふんはたけ繁茂はんもするきん多量たりょう窒素ちっそふく滋養じよう分にんでいるゆえ、白蟻しろありのためにははなはだ大切な食料しょくりょうである。ありのほうはわざわざ木の葉をくだいてはたけをつくるのであるから、真にきん培養ばいようすることがたしかであるが、白蟻しろありのほうは自身のふんかたまりきん繁茂はんもしているのであるから、あるいは自然じぜんに生ずるものではなかろうかとのうたがいも起こるが、はたらありを遠ざけておくとたちまち部屋中がかびだらけになるところを見ると、白蟻しろありの場合においても、やはりはたらあり不断ふだん努力どりょくによって、きんがつねに適度てきど培養ばいようせられていることがたしかに知れる。これらはいずれも後にえさとなるべきものを、前もって作るのであるから、明らかに一種いっしゅの農業である。

「白蟻」のキャプション付きの図
白蟻しろあり
一種類いっしゅるいの中に見られる種々しゅしゅ形態けいたいことなった個体こたいしめ

 樹木じゅもくみきの中に生活する小さな甲虫こうちゅうの中にもきん利用りようするものがある。「ゴム」、茶、甘蔗かんしょ蜜柑みかんなど熱帯ねつたい地方の有用植物は、みきを食う小甲虫こうちゅうのために年々大害たいがいを受けるが、これらの虫類むしるいのつくった細い随道ずいどうの内面には、ところどころに微細びさい菌類きんるいがたくさんに生じ、甲虫こうちゅうは少しずつこれを食うて生きている。これなども不完全ふかんぜんながらあり白蟻しろありきんを作るのに比較ひかくすることができよう。農業などのごとき、やや遠き未来みらい成功せいこうを予期して現在げんざい労働ろうどう従事じゅうじするということは、生物界にけっして多くはないが、しかしその皆無かいむでないことは以上いじょう数例すうれいによってたしかに知ることができる。

四 ころして食うもの


 動物には植物を食うものと動物を食うものとがあるが、いずれにしても食われただけのえさは死んで消化せられるのであるゆえ、すべてころされるのであるが、植物はきもさけびもせぬためころして食うという感じを起こさぬ。これに反して、動物のほうは、められれば多少抵抗ていこうし、きずつけられればいたみの声を発し、力がきれば悲しく鳴くなど、いよいよころされ食われてしまうまで、一刻いっこく一刻いっこくと死に近づく様子が如何いかにもあわれに見える。しこうして植物を食う動物と、動物を食う動物とはいずれが多いかというと、陸上りくじょうでは植物が繁茂はんもしているために、植物を食う動物も多数にあるが、一度海岸をはなれて大洋へ出て見ると、ほとんどことごとく肉食動物ばかりで、植物を食するものというてはわずかに表面にかんでいる微細びさい種類しゅるいのみにすぎぬ。さればころして食うことは動物生活のつねであって、前にべたとどまってえさを待つものも、進んでえさもとめるものも、結局けっきょくころして食うのである。ただし同じくころして食うという中にも、相手とたたかい、その抵抗ていこうに打ち勝ってころすものもあれば、抵抗ていこうの弱い者をさがして食うものもあり、ころしてから食うものもあれば、食うてからころすものもあり、また中には死骸しがいもとめて食うものなどもあって、種属しゅぞくちがえば、ころしようや食いようにも種々しゅしゅあいことなるところがある。
 獅子ししとらわしたかなどのようないわゆる猛獣もうじゅう猛禽もうきんるいは、あくまで強い筋肉きんにくするど爪牙そうがとをもって比較ひかくてき大きなえさを引きいてころすが、「たこ」、「いか」のるい、「えび」、「かに」のるいなども、同様の手段しゅだんで生きたえさを引きいて食う。昆虫こんちゅうの中でも益虫えきちゅうと名づけて他の虫類むしるいを食う種類しゅるいは、多くはあごの力によってえさころすものである。「とんぼ」などはその一例いちれいで、さかんに他の昆虫こんちゅうるいを生きたままとらえて食うが、それがため養蜂家ようほうかに対してははなはだしくがいあたえる。「げじげじ」なども夜間燈火とうかの近くにうて来ての来るのを待ち受け、多数の長い足ではねさえて動かさず、たちまち頭からはじめるが、その猛烈もうれつなることは、とらが羊を食うのと少しもちがわぬ。ねこねずみり、たかすずめることはだれも知るとおりで、このぐらいにたがいの力がちがうと容易よういに食われてしまうが、動物にはえさころすにあたって何か特殊とくしゅ手段しゅだんを用いるものもある。そのもっとも普通ふつうなのはどくをもってめることで、けものや鳥にはどくのあるものは少ないが、蛇類へびるいにははげしいどくを有するものがたくさんにあり、熱帯ねつたい地方では年々そのために命を落とす人間が何万もある。毒蛇どくへびえさを食うときにはまず口を開いて上顎うわあご前端ぜんたんにある長いきばを直立させ、これですみやかに打って傷口きずぐち毒液どくえき注射ちゅうしゃするのであるが、その運動も速いがどくのきくのも実にすみやかなもので、打たれたかと思うとえさになる動物はたちまち麻痺まひを起こし、こしけて動けなくなってしまう。

「さそり」のキャプション付きの図
さそり

「くも」、「むかで」にさされるとどくのためにはげしくいたむが、「さそり」のの先の毒針どくはりはさらにおそろしい。なお海産かいさん動物にも有毒ゆうどくのものはいくらあるか知れぬ。

「大蛇うさぎを殺す」のキャプション付きの図
大蛇だいじゃうさぎをころ

 大きなへびえさころすには長い身体をきつけ、順々じゅんじゅんめて窒息ちっそくさせ、さらに骨片こっぺんなどもれるまで圧縮あっしゅくする。熱帯ねつたい地方にさんするへびには、長さが四間(注:7.2m)も五間(注:9m)もあるものがあるが、かような大蛇だいじゃはずいぶん馬や牛でもころすことができる。またわになどは陸上りくじょうの動物が水をみに来るところを水中で待っていて、急にくわえて水中に引き入れおぼれさせてからこれを食うのである。
 えさとなる動物を生きたまま引きいて食う動物は、自然じぜん性質せいしつ残忍ざんにんで、たんに引きくことをたのしむごとくに見える。「いるか」のるいはつねに「いか」をしょくとするが、「いるか」が「いか」のぐんを見つけると、食えるだけこれを食うのみならず、食われぬものもみなころす。かようなあとを船でとおると、半分にみ切られ死んでいる「いか」が無数むすういている。これは「いるか」にかぎらず他の猛獣もうじゅうるいにも多少そのかたむきがあるように見える。
 えさまずに丸呑まるのみにするものには生きたまま食うものが多い。つるさぎが「どじょう」を食うのもそのれいであるが、もっともいちじるしいのはへびである。へびかえるむところを見るに、まず後足を口にくわえ、次に体の後端こうたんからはじめて漸々ぜんぜんみ終わるが、かえるはなお生きているゆえいてへびかせると、かえるはそのままはねてげて行く。へびが自身の直径ちょっけいの数倍もある大きな動物を丸呑まるのみにするのもおどろくべきことであるが、深海の魚類ぎょるいなどには、身体の大きさにしてさらに大きなものをむものがある。

「魚をのんだ魚」のキャプション付きの図
魚をのんだ魚
まれた魚の尾鰭おびれの上に重なって見えるはんだ魚のはらびれ

ここに図をかかげた魚などは自身より大きな魚をんだので、まれた魚は二つに曲がって、ようやくんだ魚のの中におさまっている。
 肉食動物の中には、自身でえさころさずに死骸しがいの落ちているのをさがして食うて歩く種類しゅるいもある。エジプトの金字塔きんじとうの絵などに、よくとらおおかみとの中間のような猛獣もうじゅうの画いてあることがあるが、これは「ヒエナ」というけもので、つねに屍体したいもとめて食物とする。

「はげわし」のキャプション付きの図
はげわし

鳥の中では「はげわし」としょうするものが屍体したいくさりかかったのを食うので有名である。このるいの鳥は日本の内地には一種いっしゅもいないが、朝鮮ちょうせんからアジア大陸たいりく、ヨーロッパ大陸たいりくへんにはたくさんいる。くびはやや長く、頭とくびとは露出ろしゅつして、あたかも坊主ぼうずのごとくであるが、馬や牛の死骸しがいでもあるとたちまちそこへ集まって来て、皮をやぶり、はらの中へくびんでくさったちょうじんなどをむさぼり食する。

「しでむし」のキャプション付きの図
しでむし

昆虫こんちゅうの中に「しでむし」というのがあるが、これなども屍体したいを食うのが専門せんもんで、ねずみや「もぐら」の屍体したいでも見つけると、そのところの土をってしまいに土中にめてしまい、後にこれを食うのである。海岸の岩の上などにたくさんに活発に走りまわっている「ふなむし」も、このんで屍体したいを食うもので、海浜かいひんに打ち上げられた動物の屍骸しがいはたちまちのうちにこれに食いつくされ、ただ骨骼こっかくのみが綺麗きれいに後にのこる。

五 生血をうもの


 血は動物体の大切なもので、血をうしなうては命はたもてぬ。食物が消化せられて滋養じよう分だけが血の方へ吸収きゅうしゅうせられるのであるから、血はほとんど動物体の精分せいぶんを集めたものというてよろしい。動物を全部食えば、毛、つめほねなどのごとき消化物もともに消化器しょうかきの内を通過つうかするが、血にはかようなかすがない。それゆえもし血だけをいとってしまえば、遺骸いがいて去っても、あまりしくはない。肉食する動物の中には実際じっさいえさとらえると、血だけをうてのこりはててかえりみず、その肉を食う手間でむしろ第二のえさとらえてその血をおうとする贅沢ぜいたくなものがある。「いたち」などはその一例いちれいで、にわとりとらえてころしても、ただ、血をうだけで肉はそのままのこしてある。「くも」が「はえ」をとらえてもただ血をうて皮をてる。南アメリカの「こうもり」にも生血いきちうとて評判ひょうばんの高いものがある。血を十分にうてしまえば、われた動物は、むろん死ぬにきまっているが、う動物が小さくて、われる動物が大きな場合には、わずかに血の一部分をうだけであるゆえ、われたほうは死ぬにいたらず、うたほうだけが十分に滋養じよう分をる。「のみ」、、「だに」、「しらみ」などはかようなれいで、つねに相手に少しく迷惑めいわくをかけるだけで、これをころさずにしばしば生血をうて生活している。ひるなどは毎回やや多くの血をうゆえ、血をとる療法ちりょうとして昔から医者に用いられた。広く動物界を見渡みわたすと、陸上りくじょうのものにも、海産かいさんのものにも、他の生血をうて生きているものはなおたくさんにある。金魚やこいの表面にいつく「ちょう」、さめ皮膚ひふ付着ふちゃくしている「さめじらみ」、そのほか普通ふつうには知られていない種類しゅるいがすこぶる多い。しこうして血をうには相手の動物の皮膚ひふきずをつけ、もしくは細かいあな穿うがつことが必要ひつようであるから、血をう動物にはむろんそれだけの仕掛しかけはそなわってある。

「ひるの体の前端」のキャプション付きの図
ひるの体の前端ぜんたん
はら面より切り開きて3あごしめ

たとえば、医用ひるには口の中に三個さんこの小さな円鋸まるのこじょうあごがあり、これを用いて人の皮膚ひふきずをつける。それゆえひるわれたあと虫眼鏡むしめがねで見ると、あたかも三つ目きりいたごとき形の切れ目がある。貝類かいるい魚類ぎょるいの血をひるには口の中に細長いかんがあり、これを口からばし出して、相手の皮膚ひふし入れる。の口は細いはりをたばねたごとく、「のみ」、「なんきんむし」の口は医者の用いる注射ちゅうしゃはりのごとくで、いずれも尖端せんたん皮膚ひふみ、咽喉いんこう筋肉きんにくをポンプのごとくにはたらかせて血液けつえきむ。

「南京虫」のキャプション付きの図
南京虫なんきんむし


「南京虫の口」のキャプション付きの図
南京虫なんきんむしの口

「しらみ」、「だに」などの口の構造こうぞうもほぼ同様である。かような口の構造こうぞうは血をうには至極しごくみょうであるが、その代わりほかの食物を食うには全くてきせぬ。およそ何事によらず全く専門せんもんてき発達はったつしてしまうと、それ以外いがいにはいっこう役に立たぬようになるが、動物の口の構造こうぞうなども一種いっしゅの食い方だけに都合つごうのよいように十分発達はったつすると、すべてほかの食い方にはとうてい間に合わなくなる。それゆえ、血をうて生きている動物は、血をう相手のない時は、たといの前にほかの食物がどれほどあっても食うことができぬのがつねであり、したがって一度血をう機会にうた時にはらいっぱいに血をんでおく必要ひつようがある。血をうたをたたきころすと、身体の大きさに似合にあわぬほどの多量たりょうの血の出ることは人の知るとおりであるが、ひるるいのごときも、身体の構造こうぞうはあたかも血をいれるためのふくろのごとくで、頭からしりまでがほとんど全部胃嚢いぶくろであると言える。

「ひるの解剖図」のキャプション付きの図
ひるの解剖かいぼう
の全身にちたるをしめ

身体がかくのごとくであるのみならず、性質せいしつもこれにともなうて血をはじめると、はらいっぱいにいためるまではけっして口をはなさぬ。ヨーロッパさんの医用ひるは日本さんのものよりははるかに大きくておよそ五倍も多く血をうが、医者がこれを用いる時にはしりのほうを切っておく。かくするとい入れた血はしりの切れ口から[#「口から」は底本では「から口」]体外へ流れ出るゆえ、いつまでたってもはらいっぱいにならず、ひるはいつまででも血をうている。
 動物の中には植物の液汁えきじるうて生活するものがあるが、植物の液汁えきじるはやはり滋養じよう分を体内に循環じゅんかんさせるもので、あたかも動物の血液けつえきに相当する。それゆえ、これをう動物の口の構造こうぞうは血をう動物と同じようで、細長い管状かんじょうになっているものが多い。

「ありまき」のキャプション付きの図
ありまき

「ばら」やきく若芽わかめに集まる「ありまき」、稲田いなだ大害たいがいあたえる「うんか」のるいはそのれいであるが、かような昆虫こんちゅう種類しゅるいはすこぶる多くて、陸上りくじょうの植物には虫に液汁えきじるわれぬものがほとんど一種いっしゅもないくらいである。植物は季節きせつおうじてさかんに繁茂はんもしかつ、固定こていして動かぬものゆえ、その液汁えきじるう虫は実に十分な滋養じよう分をひかえ、あたかも無尽蔵むじんぞう食料しょくりょうたくわえたごとくで生活はきわめて安楽あんらくらしく見えるが、これまたけっしてさようなわけでない。何故なぜというに、滋養じよう分が十分にあれば繁殖はんしょくさかんになるのが動物のつねで、「ありまき」でも「うんか」でも、たちまちのうちに非常ひじょうえるが、数が多くなると生活が直ちに困難こんなんになる。一匹いっぴきずつでは植物にいちじるしいがいあたえぬ小虫でも、多数になれば液汁えきじるわれる植物はれてしまうが、植物がれれば液汁えきじる供給きょうきゅうえるから昆虫こんちゅう生存せいぞんができなくなる。またかような昆虫こんちゅうえれば、これをえさとしている動物も同じくえて、ややもすればこれを食いくそうとするかたむきが生ずる。なおその他にも種々しゅしゅのことが生ずるために、植物の液汁えきじる無尽蔵むじんぞうのごとくに見えながら、これをう虫はけっして無限むげん繁殖はんしょく跋扈ばつこすることをゆるされぬ。

六 泥土でいどむもの


 血液けつえきは全部滋養じよう分よりなるゆえ、これをう動物は一回はらたせば長くえをしのぶことができるが、これと正反対にきわめて少量しょうりょう滋養じよう分よりふくまぬ粗末そまつな食物を、昼夜ちゅうや休まず食いつづけることによって生命をつないでいる動物もある。
「みみず」のごときはその一例いちれいでつねに土を食うているが、土の中には腐敗ふはいした草の根など僅少きんしょう滋養じよう分をふくんでいるだけで、その大部分は、消化物として、たんに「みみず」の腸胃ちょうい通過つうかするにすぎぬ。血をう動物を、かり戦争せんそうさいなどに一度に大金をもうけるものにたとえれば、「みみず」のごときは真の薄利はくり多売主義しゅぎの商人のごとくで、口から入れてしりへ出す食物のりょうは実に莫大ばくだいであるが、その中からしとって、自身の血液けつえきのほうへ吸収きゅうしゅうする滋養じよう分ははなはだ少ない。されば「みみず」は生命をたもつに足りるだけの滋養じよう分をるためには、えず土を食いつづけておらねばならぬ。「みみず」は地中にかくれているので人の目にれぬが、ところによってはずいぶん多数に棲息せいそくしていて、それが一匹いっぴきごとにえず土を食うてはふんを地面に出すゆえ、「みみず」の腸胃ちょういを通りけて地中から地面にうつされる土のりょうは、年にもれば実におびただしいことである。

「みみずの糞」のキャプション付きの図
みみずのふん

熱帯ねつたい地方の大形の「みみず」では、一匹いっぴきが一度に地面に排出はいせつする糞塊ふんかいでもここの図にしめしたごとくになかなか大きい。

「ぎぼしむし」のキャプション付きの図
ぎぼしむし

 あさ海底かいていすなの中には「ぎぼしむし」としょうする細長いひものような形の動物がいるが、これなども全くみみずと同様な生活をしている。全身黄色ですこぶるやわらかく、手につまんでぶら下げようとすると、腸胃ちょういの中のすなの重みで身体がいくつかに切れてしまう。いちじるしくヨードフォルムのかおりのすることはだれも気のつく点である。普通ふつうのもので長さが二三しゃく(注:60〜90cm)、大きなものになると五しゃく(注:1.5m)以上いじょうもあるが、前端ぜんたんには伸縮しんしゅく自在じざいな「ぎぼし」じょうの頭があり、これを用いてすなり、えずすなを食いながらすなの中をしずかに匍匐ほふくしているから、この虫の身体を通過つうかするすなりょうはすこぶる多い。時々体の後端こうたんすなの表面のところまで出してちょうの内にあるすな排出はいせつするが、すな粘液ねんえきのためにやや棒状ぼうじょうかたまって出て来る。しこうしてかようなすなぼうははなはだ長くて後からおいおい出て来るゆえ、次第しだいにうねうねと曲がってあたかも太い饂飩うどんのごとくにすなの表面にたまるが、波の動くために直ちにこわれてわからなくなる。しかし春の大潮おおしおなどに浅瀬あさせのかわいたところへ行って見ると、「ぎぼしむし」のふんすな饂飩うどんのごとくにかしこにもここにもうずたかくたまっている。

「ぎぼしむしの糞」のキャプション付きの図
ぎぼしむしのふん

ここにかかげた図は房州ぼうしゅう(注:千葉県)館山湾たてやまわん内のあらわれたところでとった写真であるが、これによってもおよそ一匹いっぴきの「ぎぼしむし」が一回にどれほどのすな排出はいせつするかたいがいの見当がつくであろう。
 かわいた材木ざいもくを食う虫なども、ずいぶん多量たりょうに食物をとらねばならぬ。箪笥たんすきりの木を食う虫、やなぎ行李こうりやなぎや竹を食う虫なども、しばしば人をこまらせるものであるが、その食物は滋養じよう分をふくむことがいたって少ないゆえ、小さい虫ながらつねに食いつづけるために、そのがい存外ぞんがいにはなはだしい。かような虫に食われた箪笥たんすやなぎ行李こうりをたたくと、際限さいげんなく木材もくざいこなが出て来るが、これはみな一度虫のはらの中を通過つうかしたふんのかわいたものである。木造もくぞう建築けんちく大害たいがいを生ずる白蟻しろありも、食物に滋養じよう分がとぼしいために多量たりょうにこれを食うのでがいもすこぶるはなはだしい。

「船食虫(郭大図)」のキャプション付きの図
船食虫(郭大かくだい図)

港の桟橋さんばし棒杭ぼうくいなどは「わらじむし」にた小さな虫にさかんに食われるが、これなどもえず食いつづけるゆえたちまち棒杭ぼうくいあなだらけにして弱らせる。この船食虫は往々おうおう海底かいてい電信でんしんのおおい物をかじってがいをおよぼすことがあるが、つねにかた材木ざいもくを食うために強いあごそなえているゆえ、かようなこともできるのであろう。

「船食虫の害」のキャプション付きの図
船食虫のがい

 以上いじょうべたとおり、動物のえさ種類しゅるいとこれを食う方法ほうほうとには、種々しゅしゅことなったものがあるが、如何いかなる方法ほうほうでどのような食物を食うとしても、絶対ぜったい安楽あんらくというものはけっしてない。滋養じよう分にんだえさを食おうとすれば競争きょうそう激烈げきれつであり、滋養じよう分にとぼしい食物で満足まんぞくすれば日夜休まず食うことにのみ努力どりょくせねばならぬ。食物が不足ふそくなればえに苦しまねばならず、食物が十分にあればさかんに繁殖はんしょくする結果けっかとしてたちまち食物の不足ふそくが生ずる。草食すればえさゆたかな代わりに他動物におそわれる心配があり、肉食すればえさ供給きょうきゅう際限さいげんがあるため、縄張なわばりの区域くいきを定めてとなりのものと対抗たいこうせねばならぬ。進んでえさもとめれば体を動かすゆえはらり、とどまってえさを待てば、いつ満腹まんぷくするをるか見定めがつかぬ。されば如何いかなる生物も生まれてから死ぬまで、それぞれ特殊とくしゅ方法ほうほうによってえさもとめ、他とはげしく競争きょうそうしながらかろうじて生命を継続けいぞくしているのであって、安楽あんらくらせるという保険ほけんつきの生物は一種いっしゅたりともあるべきはずはない。この事は生物の生活状態じょうたい観察かんさつするにあたっては、一刻いっこくわすれるべからざる重大な事項じこうである。

七 共食ともぐ


 動物の中には同一どういつ種族しゅぞくのものがたがいに食い合い、同胞どうほうころして自身が生活する者がいくらもある。ちょっと考えると、かような共食ともぐいは生存せいぞん競争きょうそう極端きょくたんな場合で、普通ふつうの食物が皆無かいむになった時にのみ行なわれる非常ひじょう手段しゅだんのように思われるが、少しく注意して見るとつねづねたくさんにあることでけっしてめずらしくはない。今ここに二三のもっとも普通ふつうれいをあげて見よう。

「蛇蛇をのむ」のキャプション付きの図
へびへびをのむ

 獣類じゅうるい獣類じゅうるいが食い、魚類ぎょるい魚類ぎょるいが食うというごとき、同部類ぶるいぞくするもののあい食うことまでも共食ともぐいと見なせば、そのれいはすこぶる多くなるが、かようなものをのぞき、真に同一種どういっしゅのものの共食ともぐいだけとしても、相応そうおうれいをあげることができる。昆虫こんちゅうなどでも同一種どういっしゅのものを一つのかごにたくさん入れておくと、共食ともぐいをはじめるものがずいぶん多い。「いなご」、「ばった」なども共食ともぐいをするが、「かまきり」のごときつねに肉食するものではとくにはなはだしい。食物を十分にあたえておいても、やはり共食ともぐいをはじめる。魚類ぎょるいにも一つのはちにいっしょに入れておくと、大きいほうが小さいほうを食うてしまうごときものはたくさんにある。たまごからかえったばかりの小さな幼魚ようぎょなどは、注意してべつはなしておかぬとたいがいは親に食われる。大きなかえる同種どうしゅの小さなかえるをのむことのあるのは、これまでたびたび見た人もあるが、日本に有名な「大さんしょううお」もさかんに共食ともぐいをする動物で、かつてオランダへ雌雄しゆう二匹にひき送ったものなどは、途中とちゅうおすめすを食うてしまうて、おす一匹いっぴきだけがふとって先方に着した。
 かえるや「さんしょううお」のたまごうておくと、幼児ようじはたくさんに生まれて出るが、しばらくうているうちにだんだん数がげんじて、はじめ数百ひきいたものが、後にはわずか数匹すうひきになることがあるが、これも主として共食ともぐいの結果けっかである。る時「さんしょううお」の幼児ようじをたくさんうておいたまま、二週間ばかり旅行して帰って見たら、ただ一匹いっぴきだけ非常ひじょうに大きくなってのこっていた。かようなことはほかの動物についてもしばしば経験けいけんするところである。蟹類かにるいも多く共食ともぐいするが、海岸のあさいところに普通ふつうにいる「やどかり」なども、一匹いっぴきがその腹部ふくぶ貝殻かいがらからき出したところをかのものが見つけると、直ちに走りってこれをはさみ切り食いはじめる。それゆえ身体の成長せいちょうにつれて、小さな貝殻かいがらてて大きな貝殻かいがらに住みえる必要ひつようのあるときにも、きわめて用心してそばにのものがいるときにはけっしてけて出ない。
 女の子供こどもがもてあそぶ「うみほおずき」はにし(注:巻貝)のるい卵嚢らんのうであるが、その中にははじたまご十個じゅっこも二十もある。はじめはみな同じようにそろうて発育するが、そのうちにだんだん相違そういが生じて大きな強いものと、小さな弱いものとができ、小さなものは大きなほうに食われてしまうゆえ、成長せいちょうして卵嚢らんのうから出るころには数がいちじるしくげんずる。これなどは臨時りんじに起こることでなく、産卵さんらんごとにかなず行なわれるのであるから、その種族しゅぞくの予定の仕事で、あたかもにわとりひな卵殻らんかく内で黄身をうて成長せいちょうするのと同じく、少数の幼児ようじに十分の滋養じよう物をあたえる方便べんとも見なすことができる。
 共食ともぐいの中で一種いっしゅことなるのは、自身の一部を自身で食うことである。「たこ」ははらると自分の足を先のほうから一本ずつ食うとは漁師りょうしらのつねに言うところであるが、あまりみょうなことゆえ信偽しんぎのほどをうたがうていたが、十年ばかり前に小さな「たこ」を半年ばかりうておいたら、ついに自分の足を三本食うて五本だけになった。かようなれいはほかの種類しゅるいの動物についてあまり聞かぬが、よく調べて見たらなおいくらもこれとたことがあるかも知らぬ。
 以上いじょうはいずれも真の共食ともぐいのれいであるが、共食ともぐいという言葉の意味を少しくゆるくすれば、その範囲はんいきわめて広くなる。もしも生物が生物を食うことを共食ともぐいと名づけるとすれば、生物の生命は大部分共食ともぐいによってたもたれるといわねばならぬ。無機むき物から有機ゆうき成分せいぶんをつくるのは緑色の植物のみであるゆえ、そのほかの生物はすべて直接ちょくせつまたは間接かんせつにこれを食うている。肉食でも、草食でも、寄生きせいでも共食ともぐいでも、みなこうの生物の肉であった物質ぶしつが、おつの生物の肉に姿すがたえるにすぎぬゆえ、生きた物質ぶしつ総量そうりょう勘定かんじょうすれば、べつ増減ぞうげん損得そんとくもない。かように広くろんずると、共食ともぐいは生物の常態じょうたいとも見えるが、同一種類しゅるい内の共食ともぐいは一定の度をえると、生きのこった少数のものが、食われた多数のものに代わるだけのはたらきをなしず、そのため種族しゅぞくにとってはすこぶる不利益ふりえきなことになるをまぬがれぬであろう。


第四章 寄生きせい共棲きょうせい


 前章にべたところはいずれも生物が各自かくじ独立どくりつに生活する場合であったが、なおそのほかに一種いっしゅの生物が他種たしゅの生物からその滋養じよう分の一部を横取りして生活をいとなんでいることがしばしばある。寄生きせい生活と名づけるのはすなわちこれであるが、この場合には、相手の生物にりすがって、多少これに迷惑めいわくをかけながら生活するのであるから、独立どくりつ生活とは大いにおもむきことなるところがあるゆえ、今若干じゃっかんのいちじるしいれいによってそのおもなる相違そういの点をあげて見よう。
 それについてまずことわっておかねばならぬことは、寄生きせい生活と独立どくりつ生活との間にはけっして判然はんぜんたる境界きょうかいの ないことである。肉食動物でも草食動物でも、食うほうの生物が小さくて、食われるほうの生物がはるかに大きかったならば、わずかに一小部分ずつを食われる のであるゆえ、大きなほうは急に死ぬようなことがなく、小さいほうはつねにこれに食いついていることができるが、かような場合に小なるほうの生物を寄生きせい生物と名づける。しかし大小はもとより比較ひかくてきの言葉であって、その間には無数むすう階段かいだんがあるゆえ、いずれにぞくせしむべきか判然はんぜんせぬ場合がいくらもある。「いたち」は一度に血をうてにわとりころしこれをて去るゆえ、寄生きせい動物とは名づけぬが、かりに「いたち」が百分の一の大きさとなり、にわとりいたままで生活をつづけるものと想像そうぞうすれば、これはたしかに寄生きせい動物である。かく考えると、寄生きせい動物なるものは畢竟ひつきよう小なる猛獣もうじゅうにすぎぬ。また如何いかに小さくとも、つねに食いついてはなれぬものでなければ寄生きせい動物とは名づけぬ。たとえば、は人の血をうても普通ふつうには寄生きせい虫とはいわぬ。これに反して、「あたましらみ」はつねに人体をはなれぬゆえ、寄生きせい虫と名づけられる。「のみ」、「しらみ」などはその中間にくらいする。
 されば寄生きせい生活と独立どくりつ生活との間にはけっして判然はんぜんとした境界きょうかいがあるわけではなく、半分寄生きせい生活をいとなむものもあれば、時々寄生きせい生活を行なうものもある。かように程度ていどちが寄生きせい生物を数多くならべて、順々じゅんじゅん比較ひかくして見ると、独立どくりつ生活から寄生きせい生活にうつり行く順序じゅんじょも知れ、寄生きせい程度ていどが進むにしたごうて、身体に如何いかなる変化へんかあらわれるかをも知ることができる。

一 吸着きゅうちゃく必要ひつよう


 寄生きせい生活に第一に必要ひつようなものは吸着きゅうちゃく器官きかんである。宿主生物の体の表面に付着ふちゃくする場合にも、ちょうの内にとどまる場合にも、吸着きゅうちゃくの力が足らぬとたちまちはなされ、またはし出されるおそれがあるが、寄生きせい生活をする生物が宿主からはなれたのは、さるから落ちたのよりははるかにあわれでとうてい命はたもてぬ。されば、如何いかなることがあっても宿主にはなれぬように、たしかにいついていることは寄生きせい生活の第一義だいいちぎであるが、そのために用いられる器官きかん吸盤きゅうばんかぎとである。同じ仲間なかまの動物で独立どくりつの生活をしているものと、何かに寄生きせいしているものとをならべて比較ひかくして見ると、後者のほうに吸着きゅうちゃく器官きかんのいちじるしく発達はったつしていることが直ちに知れる。

「八目うなぎ」のキャプション付きの図
八目やつめうなぎ

たとえば魚類ぎょるいでは寄生きせいするものは一般いっぱんに少ないが、八目やつめうなぎるいはほかの魚類ぎょるい皮膚ひふいついて肉を食うゆえ、まず寄生きせい生活に近いものである。しこうしてその口は普通ふつう魚類ぎょるいのごとく上下あごそなえてかむのではなく、たんに円く開いてあたかも煙管きせる雁頸がんくびのごとく、物にい着けば、「たこ」の足のいぼと同じようで容易よういはなれぬ。これを普通ふつう魚類ぎょるいの口の構造こうぞうにくらべると、吸着きゅうちゃくてきすることにおいては雲泥うんでいちがいがある。

「ふなむし」のキャプション付きの図
ふなむし

「ふなむし」は海岸の岩の上や船の中などを活発に走りまわって容易よういとらえられぬほどゆえ、その七対ある足は相応そうおうに長いが、尖端せんたんが細く真直ぐであるから物にかじりつくことはできぬ。

「小判虫」のキャプション付きの図
小判こばん

これに反して、たいそのほかの大きな魚の口の中などにいついている小判こばん形の虫は、「ふなむし」と同じ仲間なかまの動物であるが、足は七対ななついともに太くて短く、つめ鉤状かぎじょうに曲がって先がとがっているゆえ、しがみついていると容易よういにははなれぬ。この虫と「ふなむし」とをならべて比較ひかくして見ると、体の形状けいじょうふしの数も足の数も足のふしの数もすべて同じであるが、一方は独立どくりつして走り歩き、一方は他動物に寄生きせいしているだけの相違そういで、かように吸着きゅうちゃく仕掛しかけがちがう。「ふなむし」のるいには種々しゅしゅ寄生きせい程度ていどことなるものがあるが、これらをじゅん見渡みわたすと、吸着きゅうちゃく装置そうちが一歩一歩完全かんぜんになるありさまが明らかに知られる。

「独立だに」のキャプション付きの図
独立どくりつだに

「だに」のるいには独立どくりつの生活をするものと、寄生きせいするものとがあるが、これもくらべて見ると、寄生きせいするものほど、足が短くてつめ鉤状かぎじょうに曲がっている。土の上や水の中を自由に運動しているるいでは八本の足がみな身体の直径ちょっけいより長いが、犬や牛などに寄生きせいする「だに」では足はすこぶる短く、かつふんを深く皮膚ひふの中へし入れているゆえなかなかはなれぬ。

「ひぜんのむし」のキャプション付きの図
ひぜんのむし

「ひぜんのむし」も「だに」の一種いっしゅであるが、これなどは人間の皮膚ひふの中に細かい随道ずいどう縦横じゅうおうって住んでいるので、足はきわめて短く、ほとんどあるかないかわからぬほどである。しかしつめだけは明らかにある。こいや金魚の表面につく「ちょう」は「みじんこ」のるいであるが、普通ふつうの「みじんこ」とはちがうて左右の上顎うわあご変形へんけいして「たこ」のいぼのごときものとなり、これを用いてたしかに魚の皮膚ひふいついている。かような吸盤きゅうばん独立どくりつ生活をする「みじんこ」ではけっして見ることはできぬ。「ひる」は身体の構造こうぞうからいうと「みみず」と同じるいぞくするが、「ひる」の中でも魚類ぎょるいかめなどにいついている種類しゅるいになると、ほとんど一生涯いっしょうがい同じところに吸着きゅうちゃくしているゆえ立派りっぱ寄生きせい虫である。年中土を食うている「みみず」には、頭からしりまでどこにも吸盤きゅうばんかぎもないに反し、「ひる」のほうには体の両端りょうたんに強い吸盤きゅうばんがあって、これでいつくと如何いかに魚がもがいてもけっしてはなれることはない。

「魚に「ちょう」の吸いついているさま」のキャプション付きの図
魚に「ちょう」のいついているさま

「さなだむし」や「ジストマ」は寄生きせい虫の模範もはんともいうべきものであるが、みな固着こちゃく器官きかん発達はったつしている。「さなだむし」のほうには種類しゅるいによってあるいは吸盤きゅうばん、あるいは曲がったかぎ、あるいは吸盤きゅうばんかぎとが頭のはしにあって、これを用いてちょう粘膜ねんまく付着ふちゃくしている。また「ジストマ」のほうは、腹面ふくめんの前方に二個にこ吸盤きゅうばんたてならんでいるが、これをもって同じく粘膜ねんまくなどにいつく。漢字で二口虫と書くのは、二個にこ吸盤きゅうばんが口のごとくに見えるからである。

「条虫の頭」のキャプション付きの図
条虫じょうちゅうの頭

 かくのごとく寄生きせい動物には吸着きゅうちゃく器官きかん発達はったつして、如何いかなることがあってもけっして宿主動物をとりがさぬようにできているが、その代わり運動の器官きかんははなはだしく退化たいかするをまぬがれぬ。前に比較ひかくした「独立どくりつだに」と「ひぜんのむし」とでも、「ふなむし」とたいの口の小判こばん虫とでも、吸着きゅうちゃく仕掛しかけの進んだほうは運動の力はおとろえている。けだし寄生きせい動物は、後生大事に宿主動物にかじりついていさえすれば生活ができるから運動の必要ひつようがないのみならず、少しでも自由の運動をこころみれば、宿主動物とのえんが切れるおそれがあって生活上すこぶる危険きけんであるゆえ、自然じぜん必要ひつよう器官きかん発達はったつし、不必要ふひつよう器官きかん退化たいかして、つめは大きくなり、足は短くなるというような結果けっかを生じたのであろう。種々しゅしゅ程度ていど寄生きせい生物を通覧つうらんすると、吸着きゅうちゃく器官きかん発達はったつと運動器官きかん退歩たいほとはつねに並行へいこうし、両方とも寄生きせい生活の程度ていど比例ひれいしているように見える。すなわち時々寄生きせいするものや、なか寄生きせいするものには、運動の器官きかんがなおそなわっているが、宿主やどぬし動物からはなれぬようになれば、吸着きゅうちゃく器官きかん完備かんびして運動の器官きかんがなくなり、「さなだむし」や「ジストマ」のごとき模範もはんてき寄生きせい虫になると、自由運動の力は全く消滅しょうめつしてしまう。

二 消化器しょうかき退化たいか


 寄生きせい動物は独立どくりつに生活するものとはちがい、ほかの動物が食物を消化してその滋養じよう分をしとったえきうのであるから、自分でさらにこれを消化する必要ひつようがない。それゆえ寄生きせい動物では消化の器官きかん退化たいかするばかりで、とくに他動物のちょうの中に寄生きせいするものの中には、全く消化器官きかんのない種類しゅるいもある。宿主動物の外面にいついている寄生きせい虫は、血液けつえきいとるにてきした特殊とくしゅの口がなければならぬが、宿主動物の内部に住んでいる寄生きせい虫は、全身滋養じようえきの中にひたされていることゆえ、皮膚ひふの全面からこれを吸収きゅうしゅうさえすれば、べつに口がなくとも差支さしつかえはない。
 いったい動物の消化器官きかん発達はったつは食物の如何いかによって大いにちがうもので、ちょうの長さなども肉食動物と、草食動物とでは非常ひじょう相違そういがある。羊とひょうとはほぼ同大であるが、ひょうちょうは体の長さの三倍よりないに反し、羊のちょうはその二十七、八倍もある。かように長いちょうせまはらの中にしまってあるから、いきおい何回も曲がりくねっている。支那しな人が屈曲くっきょくした山道を形容けいようして「羊腸ようちょう」というのはもっともな語である。動物園へ行って見ても、ひょうはらはいつも小さいが、山羊のはら太鼓たいこのようにふくれている。これもちょうの長短とその内容ないよう物の多少とによって起こる相違そういである。何故なぜ草食動物はちょうが長くて、肉食動物はちょうが短いかというに、草の葉には滋養じよう分が少なくてかすが多いゆえ、これを消化して吸収きゅうしゅうするにはよほど手間がかかるが、肉のほうは滋養じよう分にんでいるゆえ、けてえきとなり、すみやかに吸収きゅうしゅうせられるからであろう。人間でも植物を多く食う国の人はちょうが長く、肉を多く食う国の人はちょうが短い。かつその排出はいせつする糞便ふんべんも肉食の人は少量しょうりょうであるが、植物のみを食う人のは太くてみごとである。さればちょうの長さをはかれば、それによってその動物が肉食せいのものか、草食せいのものかおよその判断はんだんができる。

「ジストマ」のキャプション付きの図
ジストマ

 動物の中で滋養じよう分のもっとも多い、消化物のもっとも少ない、もっともぜいたくな食物をとるのは寄生きせい虫である。寄生きせい虫の食物は多くは宿主動物の血液けつえきか、または組織そしきをうるおすリンパえきなどであるが、これらは、その動物が食物を消化してその滋養じよう分だけを吸収きゅうしゅうしてつくるものゆえ、ほとんどかすふくまぬ純粋じゅんすい滋養じよう物である。それゆえ、これをうている寄生きせい虫には肛門こうもんのないものがいくらもある。蛔虫かいちゅうは人のちょうの内にいてちょう内容ないよう物を食うているゆえ、口も食道もちょう肛門こうもんもあるが、はいかんの内に寄生きせいする「ジストマ」のるいになると、口とちょうとはあるが、その先は行きどまりになって肛門こうもんはない。おそらく、これらの虫は生まれてから死ぬまで食物を食うだけで、けっして、糞便ふんべん排出はいせつすることはないのであろう。また「さなだむし」のるいはつねにちょうの内に住んで、けた滋養じよう分の中にけられているゆえ、ただ全身の表面からこれを吸収きゅうしゅうするだけで、とくに体内の一箇所いっかしょい入れるということはない。それゆえこのるいには口も腸胃ちょうい肛門こうもんもなく、消化の器官きかんかげも形もない。このようなことは外界に独立どくりつ生活する動物ではゆめにもありべからざることである。生活するには食わねばならず食うには消化器しょうかきようすることは、独立どくりつ生活する動物の通則つうそくであるが、寄生きせい動物は、食うて消化することは宿主動物にさせておき、でき上がった滋養じよう分を分けてもらうのであるゆえ、自身に消化器しょうかきがなくとも生活ができる。

「かにとその寄生虫」のキャプション付きの図
かにとその寄生きせい
(イ)根状こんじょうの頭の基部きぶ (ロ)生殖せいしょくあな

 全く消化器しょうかきを持たず、しかも宿主やどぬし動物の身体の全部から滋養じよう分をい取りながら、自身は宿主動物の外面に付着ふちゃくしているおもしろい寄生きせい虫がある。海岸の岩の間を走っているかにとらえて見ると、往々おうおうはらに丸い団子だんごのごときもののついているのを発見するが、この丸いものは一種いっしゅ寄生きせい虫で、たまごから孵化ふかした時の姿すがたを見ると「ふじつぼ」、「かめのて」などの仲間なかまであることがたしかに知れる。この虫はかにぞくふんどしと名づける部の根元に付着ふちゃくし、全身があらわれているが、そのい着いている部をさぐって見ると、長くかにの体内に入りみ、あたかもの根のごとくにえだに分かれ数多くの細い糸となって、内臓ないぞうはもとより足のつめの先からの中、はさみ末端まったんまでもたつしている。これを用いてかにの全身から滋養じよう分をい取るありさまは、全く樹木じゅもくが根によって地中から養分ようぶんむのと同じである。しこうして根のごとき形をしているのは、実はこの虫の頭部にあたるゆえ、このるい根頭こんとうるいと名づける。
 動物が運動するのも感覚かんかくするのも、一はえさをとるためであるが、寄生きせい動物はえさもとめ歩く必要ひつようがないゆえ、運動の器官きかん退化たいかすると同時に感覚かんかく器官きかんもだんだんおとろえる。独立どくりつ動物と寄生きせい動物とを比較ひかくして見ると、寄生きせい動物のほうは運動の器官きかん退化たいかしていることは前にもべたが、感覚かんかく器官きかんもこれと同様で、「ジストマ」や「さなだむし」などのごとき模範もはんてき寄生きせい虫には、も耳も鼻も全くない。いったい動物の感覚かんかく発達はったつはよほどまでは、その動物の運動の速さに比例ひれいするもので、運動の速い動物では一刻いっこくごとに今まで遠くはなれていた新たな外界にせつすることゆえ、前もってこれにおうずる手段しゅだんとして視覚しかくなどはとく発達はったつする必要ひつようがある。鳥類ちょうるい飛翔ひしようはすべての動物中でほかにるいのないすみやかな運動ほうであるが、これにともなうて鳥類ちょうるい視力しりょくするどさは他動物の遠くおよぶところでない。されば運動せずに固着こちゃくして生活する寄生きせい動物には、比較ひかくてき感覚かんかく発達はったつせぬのは当然とうぜんのことと思われる。

「とんぼの頭部」のキャプション付きの図
とんぼの頭部

昆虫こんちゅうなどでも、すみやかにぶ「とんぼ」、運動のおそい「かめむし」、犬、ねこの毛の間に住む「のみ」とじゅんを追うてくらべると、のだんだん小さくなることが知れるが、「のみ」の種類しゅるいになるとは全くない。

「かめむしの頭部」のキャプション付きの図
かめむしの頭部

これを見ても運動の必要ひつようのない寄生きせい生活をする動物では、感覚かんかくおよび神経系しんけいけい次第しだい々々に退化たいかするものであることはたしかである。

三 生殖器せいしょくき発達はったつ


 かくのごとく寄生虫きせいちゅうるいでは運動の器官きかん感覚かんかく器官きかんとはいちじるしく退化たいかするが、その代わりにさかんに発達はったつするのは生殖せいしょく器官きかんである。動物のはたらきには、滋養じよう分を集めてためるほうと、これをついやしててるほうとがあるが、消化は滋養じよう分を取るほうであり、運動と感覚かんかくとはこれをついやすほうにぞくする。これを簿記ぼきの帳面に記入するとすれば、消化吸収きゅうしゅういりの部で、運動と感覚かんかくとは出の部に書きまねばならぬ。もしもる動物が毎日食うただけの滋養じよう分を運動と感覚かんかくとによって全くついやしてしもうたならば、その動物の体重はえもせずりもせず、ちょうど出入平均へいきんのありさまにとどまる。成長せいちょうした人間の体重がいちじるしく増減ぞうかせぬのは、かような状態じょうたいにあるからである。これに反して、生まれて間のない赤んぼうは、ただちちをのむだけで、ろくに動きもせずにねむっているゆえ、滋養じよう分の輸入ゆにゅう超過ちょうかのためにさかんに成長せいちょうし、わずか四箇月よんかげつで体重が二倍になり、一箇年いっかねんで三倍にもなる。また学校へ行くころになると、運動がはげしくなって、滋養じよう分をついやすことがすこぶる多いが、これをおぎなうてなおその上に成長せいちょうせねばならぬから、食欲しょくよくさかんなことはおどろくばかりである。ところが、寄生きせい虫は如何いかというと、宿主の外面にいついているものでも、滋養じよう分に不足ふそくはなく、体内にいるもののごときは、全身滋養じようえきひたされているために、消化器しょうかき必要ひつようがないほどであるが、運動も感覚かんかくもほとんどせず、滋養じよう分をつこうてらすことがきわめて少ないゆえ、ただたまるのほかはない。しこうして、滋養じよう分が多くあるときには、繁殖はんしょくさかんになるのは動物のつねであって、人間のごとくに随意ずいいの生活をするものでも、統計とうけいをとって見ると豊年ほうねんには子の生まれる数がえ、飢饉ききん年には子の生まれる数がる。寄生きせい虫のごときは、滋養じよう分の出納すいとうがいつも不平均ふへいきんで、入のほうがはるかに多いが、これがすべて繁殖はんしょく資料しりょうとなるゆえ、この方面においては全動物界中に寄生きせい虫に匹敵ひってきするものはけっしてない。ためしに一匹いっぴきたまごの数をかぞえても、おく以上いじょうにおよぶものは寄生きせい虫のみである。また胎生たいせいするものでは、このはさらにいちじるしい。犬、ぶたなどはずいぶん子をむことの多いほうであるが、一回に十匹じゅっぴきむことはまれであり、ねずみのごときも、十二匹じゅうにひき以上いじょうむことはほとんどない。しかるにぶたの肉から人のちょううつり来る「トリキナ」という寄生きせい虫などは、親と同じ形状けいじょう胎児たいじを一度に二千匹にせんびきむ。かく多数のたまごみ、多数の子を生ずるには、むろん卵巣らんそう子宮しきゅうなどのごとき生殖せいしょく器官きかんが大きくなければならぬが、独立どくりつ生活をする動物にくらべて如何いかほど大きいかは、同じ組にぞくする虫類むしるいで、独立どくりつせるものと寄生きせいせるものとをならべて見ると明瞭めいりょうにわかる。たとえば前に名をかかげた船虫とたいの口の中にいる小判こばん虫とをくらべて見るに、船虫のほうが体がやや扁平へんぺいで身軽にできているが、小判こばん虫のほうは丸くふとってすこぶるあつい。しこうして、この丸くふとった身体の内部をたしているのは主として卵巣らんそうである。

「「ジストマ」の生殖器」のキャプション付きの図
「ジストマ」の生殖器せいしょくき
(い)卵黄巣らんおうそう (ろ)卵巣らんそう (は)フウレルかん (に)睾丸こうがん (ほ)子宮しきゅう (へ)受精嚢じゅせいのう (と)排泄はいせつかん (ち)睾丸こうがん

「ジストマ」のごとき真の内部寄生きせい虫であると、消化の器官きかんきわめて小さく簡単かんたんで、内臓ないぞうといえばほとんど生殖器せいしょくきのみである。その代わり生殖器せいしょくきはすこぶる複雑ふくざつで、睾丸こうがんもあれば卵巣らんそうもあり、輸精ゆせいかん輸卵ゆらんかん成熟せいじゅくしたたまごをいれておく子宮しきゅうをはじめ、たまごの黄身をつくるための卵黄腺らんおうせん、これより卵黄らんおうの出て行く卵黄らんおうかんたまごから分泌ぶんぴつするための殻腺かくせんなどがあって、ほとんど体の全部をしめめている。それゆえ「ジストマ」の解剖かいぼうといえば、すなわちその生殖器せいしょくき解剖かいぼうともいうべきほどで、それがまた一種いっしゅごとに細かい点で相違そういしているゆえ、「ジストマ」の種類しゅるい識別しきべつするには、まずその生殖器せいしょくきを調べなければならぬ。これをもっても寄生きせい虫の身体では、生殖せいしょく器官きかん如何いか重要じゅうよう位置いちめているかがわかる。
 さらに条虫じょうちゅうるいになると、消化器しょうかきは全くなくなり、吸着きゅうちゃく器官きかんも頭のはしだけにかぎられてあるゆえ、一節いっせつずつを取って見ると、その内部はことごとく生殖せいしょく器官きかんのみでたされている。たまごじゅうくするころのものは、生殖器せいしょくきはすこぶる複雑ふくざつで、あたかも「ジストマ」と同じく種々しゅしゅの部分からり立っているが、たまごじゅくし終わると、ただ子宮しきゅうのみがのこって、卵巣らんそう睾丸こうがん卵黄腺らんおうせん殻腺かくせんなど残余ざんよの部分は漸々ぜんぜん消えてしまう。その代わり子宮しきゅうはだんだん大きくなって、ほとんど一節いっせつの大部をめるようになる。

「条虫片節2種」のキャプション付きの図
条虫じょうちゅう片節へんせつしゅ
(イ)豚肉ぶたにくよりくるもの (ロ)牛肉よりくるもの

牛からくる条虫じょうちゅうでもぶたからくる条虫じょうちゅうでも成長せいちょうしたものは、長さが四間(注:7.2m)以上いじょうもあってふしの数が一千をえるが、後端こうたんに近いところではふしがみな大きくて、生殖せいしょく器官きかん子宮しきゅうばかりとなっている。一節いっせつずつはなれて、大便だいべんとともに出て来るのはかようなものにかぎる。
 前にれいにあげたかにはら付着ふちゃくしている嚢状のうじょう寄生きせい虫なども、生殖せいしょく器官きかんばかりが大きく発達はったつして、そのほかの内臓ないぞうはほとんど何もない。この虫は頭部がの根のごとき形にのびて、かにの全身にはびこり滋養じよう分をい取ることはすでにべたが、ことに卵巣らんそう睾丸こうがんのところから滋養じよう分をしぼりとるゆえ、かにはそのため全く生殖せいしょく力をうしなうて子をむことができなくなる。その代わり、寄生きせいかにのほうはそれだけの滋養じよう分がまわってくることゆえ、たまご非常ひじょうに多くできて、身体はあたかも無数むすう卵粒らんりゅうつつんだふくろのごとくになってしまう。実にこのかになどは理想てき寄生きせい生活をなすものと言うてよろしいほどで、かにかせがせてその滋養じよう分をいとり、しかもこれをころすまでにはしぼらず、ただ、子をむというごときぜいたくをさせぬ程度ていどにとどめておいて、自身は運動の器官きかんも持たず、感覚かんかく器官きかんそなえず、い取った滋養じよう分は全部生殖せいしょく資料しりょうに用いてかぎりなく子をんでいるのである。

四 成功せいこうの近道


 いったん宿主やどぬし動物の体内にはいった後は寄生きせい虫の生活はよほど安楽あんらくであるが、そこへはいりむまでは容易よういなことではない。宿主動物の外部にいつくだけならばあえて困難こんなんというほどではないが、そのちょうはいきもなどの内まではいりもうとするには、尋常じんじょう一様の手段しゅだんでは成功せいこうがおぼつかない。如何いかなる動物でも、自分の体内にてきのはいりくるのをふせがずにいるものはなく、そのためにはなんらか相当な仕掛しかけがそなわってあるゆえ、寄生きせい虫は正体をあらわしたままで正々堂々どうどうと表門からはいりむことはとうていできぬ。たとえば「ジストマ」でも条虫じょうちゅうでも蛔虫かいちゅうでも、そのままの形で口、鼻もしくは肛門こうもんからはいって、ちょうまで無事ぶじたつすることはむろんのぞみがない。もっとも十二指腸じゅうにしちょう虫や、そのほかの若干じゃっかん寄生きせい虫は、幼虫ようちゅう時代のきわめて微細びさいなときに水の中におよいでいて、もし人が皮膚ひふ露出ろしゅつしてかような水にれると、直接ちょくせつ皮膚ひふにもぐりはいって血液けつえき、リンパなどの通路にたつし、それより迂回うかいしてちょうにいたるものであるが、これらの例外れいがいのぞけば、たいがいの寄生きせい虫はみな口からはいりんでくる。ぞくに「病は口から」というが、寄生きせい虫の場合には実際じっさい口から起こるのがつねである。しからば如何いかにして人に知られぬように口の関門かんもん通過つうかするかというに、これはたまごまたは小さな幼虫ようちゅうの時代に食物などにじてはいりくるのであるが、次に二三のれいによってその経過けいか筋道みちすじべて見よう。

「条虫の幼虫」のキャプション付きの図
条虫じょうちゅう幼虫ようちゅう

 普通ふつうに人間のちょう寄生きせいする条虫じょうちゅう三種類さんしゅるいあるが、そのうち二種にしゅあいたもので、両方ともふしたてに長い長方形で、成熟せいじゅくすると一節いっせつずつはなれて出るが、ほかの一種いっしゅふしはばが広くてたてははなはだ短く、かついくふし連続れんぞくしたままで排出はいせつせられる。わが国でもっとも多いのはこのほうである。これらの条虫じょうちゅうが人間の体内にはいりむのは、むろんその形のはなはだ小さい時であるが、前の二種にしゅの中の一種いっしゅ豚肉ぶたにくの間に、一種いっしゅは牛肉の間にはさまり、後の一種いっしゅさけますなどの肉の中にかくれ、いずれも肉とともに食われて人の腸胃ちょういたつする。豚肉ぶたにくの間にはさまれている条虫じょうちゅう幼児ようじ直径ちょっけい三分(注:9mm)ばかりのたまご形のふくろで、その表面の一点から中へ向こうて条虫じょうちゅうの頭が、あたかも手袋てぶくろの指を裏返うらがえしにしたごとくに裏返うらがえしになってついている。ふくろの中には水があるゆえ、かような嚢状のうじょう幼虫ようちゅうを指につまんで、力を加減かげんしながらやや強くあつすると、頭部がび出て真の条虫じょうちゅうの頭のとおりになる。嚢状のうじょうの部は後に必要ひつようのないところで、食われるさいにかみやぶられても何の差支さしつかえもない。ただ頭さえ無事ぶじちょう到着とうちゃくすれば、直ちに吸盤きゅうばんをもってちょう粘膜ねんまくいつき、すみやかに成長せいちょうして一箇月いっかげつの後には大きな条虫じょうちゅうり終わる。牛肉の間にはさまっているほうは、これよりも小さいから見のがしやすいが、その構造こうぞうにはほとんどわりはない。またさけますの肉の間にあるのは形が細長くやや太い木綿糸もめんいとのごとくでびれは一寸いっすん(注:3cm)にもなる。これらはいずれもやわらかい虫で、火でねつすればたちまち死ぬゆえ、牛豚肉ぎゅうぶたにくでも魚肉でも十分にるかくかして食えば、けっして条虫じょうちゅうが生ずることはないが、とかく肉類にくるいは中央が少しく生で赤色をびているくらいのほうが味がいので、十分に火の通らぬものを食するゆえ、よく条虫じょうちゅうができるのである。

「みそさなだの幼虫」のキャプション付きの図
みそさなだの幼虫ようちゅう

 ねずみ解剖かいぼうして見ると、ほとんど毎回肝臓かんぞうの中に豌豆えんどうぐらいの白いやわらかなふくろいくつももれているのを見出すが、これを取り出して切り開いて見ると、中から条虫じょうちゅう幼虫ようちゅうが出て来る。長さは時によってちがうが、大きいのはのばすと一尺いっしゃく(注:30cm)にもたつする。しかしこれは幼虫ようちゅうであって、そのままねずみの体内にとどまっていたのでは、いつまで待っても成長せいちょうせぬ。もしねこがこれを食うと、ちょうの中で成熟せいじゅくして「ふとくびさなだ」と名づけるねこ固有こゆう条虫じょうちゅうとなる。

「魚さなだ」のキャプション付きの図
魚さなだ

またかつお刺身さしみを食うと、往々おうおう肉の上を白い虫のはうのを見ることがある。きわめてやわらかい虫で、頭から四本の細い角を出したり入れたりするが、これも条虫じょうちゅう幼児ようじで、もしさめがこれを食えば、そのちょうの中に行って成長せいちょうした条虫じょうちゅうとなる。寄生きせい虫は宿主やどぬし動物が死ぬと、自身も暫時ざんじの後には死ぬものゆえ、この虫の生きてはいまわっているのはかつおの肉の新しい証拠しょうこで、古い肉にうじの生じたのとは全くわけがちがう。かつおさかんにとれる地方では人がみなこの事を知っているゆえ、生きた寄生きせい虫がうていなければかつお刺身さしみをほめぬ。人間の腸胃ちょういにはいれば、この虫はたちまち死んで消化せられるから少しも心配はいらぬ。「肝臓かんぞうジストマ」はわが国にもっとも多い寄生きせい虫であるが、近年の研究の結果けっか、その幼児ようじが「もろこ」・「はや」などのごとき淡水たんすい魚類ぎょるい筋肉きんにくの間にはさまっていることが知れた。これをねこか人間かが食うと、肝臓かんぞう内にはいりんでたちまち成熟せいじゅくし、日々多数のたまごを生ずるようになる。条虫じょうちゅうのごとくちょうの内にいるものとはちがい、駆虫薬くちゅうやくを用いて退治たいじするわけにゆかぬから、ほとんどこれをのぞみちはない。羊の肝臓かんぞう寄生きせいする「ジストマ」の幼児ようじは、きわめて小さな粒状つぶじょうをなし、牧草ぼくそうの葉に付着ふちゃくして羊に食われるのを待ち、もし食われれば直ちに肝臓かんぞうにはいって成長せいちょうする。すべて宿主動物の内部に生活する寄生きせい虫は、かくのごとくにいつも宿主動物のこのんで食するものの内にひそんでこれとともに体内にはいりむのであるが、中には往々おうおう意表に出でた手段しゅだんを取るものがある。

「(イ)「ジストマ」の幼虫を含めるかたつむり。一方の角が太いのはその中に幼虫の一枝がはいっているため。」のキャプション付きの図
(イ)「ジストマ」の幼虫ようちゅうふくめるかたつむり。一方の角が太いのはその中に幼虫ようちゅうの一えだがはいっているため。
(ロ)その幼虫ようちゅうえだの先の太いところはかたつむりの角の中に入りむ部分。

その一例いちれいをあげて見るに、木の実を食う鳥類ちょうるい寄生きせいする一種いっしゅの「ジストマ」では、その幼児ようじは「かたつむり」に一種いっしゅ陸産りくさん貝類かいるいの体内に生活しているが、あたかも「つくねいも」のごとききわめて不規則ふきそくな形をしてかつその表面からいくつも長いえだのような突起とっきを出している。また貝のほうはうすい黄色のからを持ち、頭には「かたつむり」のごとくに四本の角があって、長い二本の尖端せんたんにはがあるが、「ジストマ」の幼虫ようちゅうの体から生じたえだは、この角の中までび入り、太くなって角をしいの実のごとき形までにふくらませ、かつ赤い色や緑の色を生じて、きわめて目立つようにする。鳥はこれを見つけて木の実とあやまり、角だけをついばみとって食うが、角の中には「ジストマ」の幼虫ようちゅうから生じたえだがあり、その中には成長せいちょうすれば「ジストマ」になれるだけの部分がふくまれてあるゆえ、たちまち鳥のちょうの内で発育して、何匹なんびきかの成熟せいじゅくした寄生きせい虫になる。また角を食い取られた貝のほうは一時は角をうしなうが、ふたたびこれを生ずる性質せいしつがあるゆえ、暫時ざんじの後にはもとにふくして角がそろう。しこうして体の内にいる寄生きせい虫の幼児ようじの本体からは、さらにえだびて新しく生じた角の中にはいりみ、ふたたびこれをしいの実のごとくにふくらませ、かつ赤と緑との色を生ずると、また鳥がこれを見つけて食う。かく一度寄生きせい虫の幼児ようじが貝の肉の内にはいりむと、これがもととなって何回でも鳥のちょうの内にその種類しゅるい成熟せいじゅくした虫が生ずることになるが、これなどは淡水たんすい魚類ぎょるいの肉にはさまれて人の体内にはいり来る「肝臓かんぞうジストマ」等にして、さらに手段しゅだん巧妙こうみょうである。
 以上いじょうべたとおり、宿主やどぬし動物の体内へ寄生きせい虫がはいりむには、その動物のこのんで食するえさの内にひそんで待っているのが最上さいじょう方便ほうべんであり、えさの内にはいるには、まずそのえさが食物とするものの内にかくれているにくはない。それゆえ、内部に寄生きせいする種類しゅるいたまごから成長せいちょうするまでの発育の順序じゅんじょを調べて見ると、二度も三度も宿主をえて、しまいに終局の宿主にたつし、そこで始めて成熟せいじゅくして産卵さんらんするにいたるものがすこぶる多い。ねこちょうにはいろうとするにあたって、ただ目的もくてきなしにとどまって待ったのでは、いつねこに食われる機会きかいうかほとんどのぞみがないが、ねこのもっともこのねずみの体内にはいっていれば、よほど食われる見込みこみが多い。またねずみの体内にはいるにはねずみこのんで食いそうな食物にじて待っているよりほかに上策じょうさくはない。あたかも金持ちや貴人きじんに取り入るのに、きならばをもって、うたいきならばうたいをもって近づくのが、もっとも成功せいこうのぞみある早道であると理屈りくつわらぬ。しかしかような方法ほうほうくじを引くのと同じような性質せいしつのもので、真に目的もくてきたつするものはわずかに一部分にすぎず、多くは失敗しっぱいに終わるをまぬがれぬ。たとえばねずみの食物にじていなければ、ねずみに食われる機会きかいのないことはもちろんであるが、ねずみの食物にじていたとてかなねずみに食われるとはかぎらぬ。
 ねずみと同様の食物を食う者は他にいくらもあるから、せっかくねずみの食物にじていても、にわとりに食われるかも知れず、または水に流され、風にばされなどして、ついに何物にも食われずに終わるやも知れぬ。また運よくねずみに食われてその体内にはいりたとしても、ねずみねこに食われずして、いたちたぬきたかふくろうかに食われたならば、寄生きせい虫の幼児ようじはそのまま消化せられてほろびねばならぬ。されば寄生きせい虫の生涯しょうがいは始めから終わりまで投機とうきてきであって、終局の宿主のはらの内に到着とうちゃくするまでには幾度いくどか幸運を重ねなければならず、成功せいこうした上は多少安楽あんらくらせるが、一匹いっぴき成功せいこうせしめるためには、何千何万かは犠牲ぎせいとなって途中とちゅう失敗しっぱいせざるをぬゆえ、寄生きせい虫は無限むげん繁殖はんしょく力を有しながら、実際じっさいはけっしてその割合わりあい増加ぞうかすることはない。

五 共棲きょうせい


 二種にしゅあいことなった生物が、一方は滋養じよう分をい取られ、他は滋養じよう分をい取りながら、共同きょうどうの生活をしていればこれを寄生きせいと名づけるが、このほかに二種にしゅの生物がいくぶんずつかたがいに利益りえき交換こうかんするためか、もしくは一方だけが利益りえきるためにあい密着みっちゃくして生活する場合がある。これを共棲きょうせいと名づける。

「地衣の一種 梅の木苔」のキャプション付きの図
地衣ちい一種いっしゅ うめの木こけ

植物界でももっともいちじるしい共棲きょうせいれい樹木じゅもくみきや、石の表面に付着ふちゃくしている地衣ちいるいであるが、これは人も知るとおり、菌類きんるい藻類そうるいとの雑居ざっきょしているもので、藻類そうるい有機ゆうき分をつくって菌類きんるい供給きょうきゅうし、菌類きんるい藻類そうるいをつつんで保護ほごし、両方からあい助けてはじめて完全かんぜんな生活ができる。しかもその雑居ざっきょの仕方がきわめて親密しんみつで、顕微鏡けんびきょうで見なければきんとの識別しきべつができぬゆえ、昔は両方の相合あいあいしたものを一種いっしゅの植物と見なしていた。また動物と微細びさい藻類そうるいとの共棲きょうせいはいくらもある。たとえば淡水たんすいさんする「ヒドラ」には緑色の種類しゅるいがあるが、これは「ヒドラ」の体内にたん細胞さいぼう緑藻りょくそうが多数に生活しているためで、藻類そうるいは「ヒドラ」に保護ほごせられ、「ヒドラ」は藻類そうるいからいくぶんか滋養じよう分をて、双方そうほうから助け合うている。

「「やどかり」と「いそぎんちゃく」」のキャプション付きの図
「やどかり」と「いそぎんちゃく」

 動物間の共棲きょうせいでもっとも有名になったのは、「やどかり」と「いそぎんちゃく」とのあい助けることである。あさい海で手繰たぐりあみなどを引かせると、「やどかり」の住む貝殻かいがらの外面に「いそぎんちゃく」の付着ふちゃくしているのがいくらも取れるが「いそぎんちゃく」は自身には速く運動する力がないが、「やどかり」がさかんにはい歩いてくれるために、つねにわったところへうつり行くことができて、したがってえさせつする機会きかいも多くられる。また「やどかり」のほうは「いそぎんちゃく」のいたくさすのをおそれて、いずれの動物も近寄ちかよらぬゆえ、てき攻撃こうげきをまぬがれて、安全に身をまもることができる。イタリア国ナポリの水族館で同じ水槽すいそうの中に「いそぎんちゃく」のついた「やどかり」と「たこ」とが入れてあったとき、「たこ」はがんらい「えび」、かにるいこのんで食うものゆえ、「やどかり」を取って食おうとして足をばしてつかみかかったところが、たちまち「いそぎんちゃく」にさされおどろいて足をちぢめ、その後はけっして「やどかり」をめなくなった。

「「やどかり」とさんご類の群体」のキャプション付きの図
「やどかり」とさんごるい群体ぐんたい

「やどかり」にはまた「さんご」にた動物の群体ぐんたいからの代わりに用いている種類しゅるいがある。これは始め小さいときに住んでいた貝殻かいがらの表面に「さんご」のような虫が固着こちゃくし、これが芽生がせいによって扁平へんぺい群体ぐんたいをつくり、「やどかり」の成長せいちょうするとともに群体ぐんたいのほうも成長せいちょうして、あたかも貝殻かいがらと同じような螺旋らせんじょうの形となったのである。海岸を散歩さんぽすると、往々おうおうかような群体ぐんたい骨骼こっかくだけがはまに打ち上げられているのを見つけるが、形は貝類かいるいからのとおりで、しかもしつはやややわらかく、色はやや黒く、内面はなめらかで、外面には短いはりがたくさん出ているゆえ、以上いじょう関係かんけいを知らぬ者には何のからであるかちょっと鑑定かんていができかねる。その他「やどかり」には赤色のきれいな塊状かいじょう海綿かいめんを家とし、これをかついではい歩く種類しゅるいもある。

「「いそぎんちゃく」をはさむ蟹」のキャプション付きの図
「いそぎんちゃく」をはさむかに

これらはいずれも前の「いそぎんちゃく」の場合と同じく「やどかり」は身をまもるの便宜べんぎ、相手の動物は「やどかり」の運動力を利用りようして、両方ともに生活上の都合つごうがよろしい。なおかにるい一種いっしゅにはつねに左右のはさみに「いそぎんちゃく」を一匹いっぴきずつはさんでいて、てきめに来るとこれをき出して、辟易へきえきさせるものがある。この場合にはかにが「いそぎんちゃく」を護身ごしん用の武器ぶきとして利用りようするだけで、「いそぎんちゃく」のほうはあるいは迷惑めいわくかも知れぬが、はさむかにも、はさまれる「いそぎんちゃく」も種類しゅるいがつねに定まっているところを見ると、これまた一種いっしゅ共棲きょうせいであって、けっして偶然ぐうぜんの思いつきではない。

「ほっす貝」のキャプション付きの図
ほっす貝

 相模灘さがみなだの深いそこから取れる有名な海綿かいめんに、払子貝ほつすがいというものがあるが、そのガラス糸をたばねたような細長いの表面には、いつもかな一種いっしゅの「さんご虫」がたくさんに付着ふちゃくしている。しこうしてこの「さんご虫」は払子貝ほっすがいよりほかのところにはけっしていない。今では払子貝ほっすがい一種いっしゅ海綿かいめんであって、その海綿かいめん体の一部であることを小学校の生徒せいとでも知っているゆえ、江の島えのしまへん土産みやげにも全部完全かんぜんしたものを売っているが、昔はだけをはなし、さかさに立てて植木鉢うえきはちに植えたものが店にならべてあった。しこうしてそのくきと見える部の表面に、「たこ」の足のいぼた形のものが一面にあるのは、すなわちこの「さんご虫」のひからびた死骸しがいである。

「鯨のふじつぼ」のキャプション付きの図
くじらのふじつぼ

またくじらの体の表面にはところどころに大きな「ふじつぼ」が付着ふちゃくしているが、この種類しゅるいの「ふじつぼ」はくじらの体にかぎって付着ふちゃくし、そのほかの場所にはけっしていないゆえ、これも一種いっしゅ共棲きょうせいである。海亀うみがめこうについている「ふじつぼ」もつねに種類しゅるいが一定して、海亀うみがめこうよりほかのところにはけっしていない。すべてこれらの場合には、大きなほうの動物はただ場所をし、小さなほうの動物はただ場所をりるだけで、それ以外いがいべつ利益りえき交換こうかんするごときことはないように見える。

「こばんいただき」のキャプション付きの図
こばんいただき

「さめ」やその他の大きな魚類ぎょるいの表面には、往々おうおう「こばんいただき」という奇態きたいな魚がついていることがある。この魚は「さば」、「かつを」などにるいするものであるが、頭部の背面はいめん小判こばん形の大きな強い吸盤きゅうばんがあって、これを用いて他の魚類ぎょるいの口の近辺きんぺんい着き、その魚のおよぐにまかせてどこまでもしたがうて行く。いったい「さめ」のるいするどい歯をもって他の大魚の肉をかみいて食うものゆえ、そのたびごとに肉の小片しょうへんが水中にあふかぶが、「こばんいただき」はかような肉の残片ざんぺんを口に受けてえさとするのである。それゆえまず魚類ぎょるい中の乞食こじきとなづけてもよろしかろう。海岸の漁師りょうし町では往々おうおうこの魚の生きたのを子供こどもがもてあそんでいることがあるが、たらいに海水を入れた中へ放すと、直ちにそこへでも横側よこがわへでも頭でい着いてけっしてはなれず、頭のほうへ向こうてならば動かすことができるが、にぎって後のほうへ引いてはとうてい動かず、力まかせに引っると、たらいごと動く。かように強くい着くさががあるゆえ、オーストラリアの北にあたるる地方では、土人がこの魚のなわをしばりつけ、海亀うみがめのいるところに放してい着かせ、なわ手繰たぐせてかめとらえる。この魚などはつねに「さめ」や「あかえい」に付着ふちゃくしているゆえ、くじらと「ふじつぼ」とを共棲きょうせいと見なせば、これも同じ理屈りくつ共棲きょうせいと名づけねばならぬ。またかりに、「こばんいただき」がつねに「さめ」の口の内面にい着いているものと想像そうぞうすれば、かな寄生きせいと名づけられるに相違そういない。かくのごとく共棲きょうせいは一面には、ただ場所をりるだけの独立どくりつ生活にうつり行き、一面には寄生きせい生活にうつりゆいて、をその間にはけっして判然はんぜんたる境界きょうかい定めることはできぬ。


第五章 食われぬほう


 生物界の活動が大部分はえさを食うためである以上いじょうは、どの種族しゅぞくのどの個体こたいでも、食われぬじゅつひいでたものでなければ生命はたもたれぬ。今日生存せいぞんする六十しゅの動物を見るに、みななんらかてきに食われぬための方法ほうほうそなえている。しかしえさとらえて食うがわ方法ほうほうも進歩しているゆえ、なかなか安心してはいられず、食う方法ほうほうと食われぬ方法ほうほうとの競争きょうそうに勝ったもののみが、よく天寿てんじゅまっとうすることができるのである。動物がてき攻撃こうげきに対して身をまも方法ほうほうは実に種々しゅしゅ雑多ざったで、これだけを集めて書いても大部な書物になるくらいゆえ、ここにはいちいちくわしいことを記述きじゅつするわけにはゆかぬが、その方法ほうほうあいことなったもの若干じゃっかんをあげ、それぞれ二三の実例じつれいによってこれを説明せつめいしておこう。
 ここにちょっとことわっておくべきことは、動物が自ら身をまも方法ほうほうでも、えさとらえて食う方法ほうほうでも、一種いっしゅごとにその相手とするものはほぼ定まっていて、けっしてすべてのものに対して同等に有効ゆうこうというわけにはゆかぬ。たとえばかたからをおおって身をまもるにしても、多数のてきはこれでふせぐことができるが、そのからをもやぶるほどに力の強いてき、またはそのからかすほどの強い劇薬げきやく分泌ぶんぴつするてきうてはとうていかなわぬ。しからば如何いかに強いてきが来ても、これをふせべきあつからそなえたらばよろしかろうと考えるかも知らぬが、それでは普通ふつうてきふせぐためにはあつすぎて不便ふべんである。如何いかなる器官きかんでも、これをつくって維持いじしてゆくにはかな資料しりょうようする。しこうして器官きかんが大きければ大きいほど、これにようする資料しりょうも多いから必要ひつよう以上いじょうからあつくすることは、すなわち滋養じよう分を浪費ろうひすることにあたる。きわめてまれに出遇であ特殊とくしゅ強敵きょうてきをもふせんがために、日常にちじょう莫大ばくだい滋養じよう分を浪費ろうひするのと、普通ふつうてきふせぐに有効ゆうこうなる程度ていどにやめて滋養じよう分を節約せつやくし、剰余じょうよ生殖せいしょくの方面に向けるのとではいずれがさくとくたるものであるかは問題であるが、多くの場合には後のほうがわりがよろしい。かような関係かんけいからたいていの動物では、その護身ごしん方法ほうほうには一定の標準ひょうじゅんがあって、相手と見なすてき動物はほぼ定まってある。ここにべる食われぬ方法ほうほうというのも、かく動物の標準ひょうじゅんとするてきに対して有効ゆうこうならば、それで目的もくてきにかなうたものと見なさねばならぬ。
 なお一つ言うべきことは、先方からめて来るのを待たず、当方より食うてかかるのも、食われぬほう一種いっしゅである。およそ如何いかなる武器ぶきでも、攻撃こうげきにも防御ぼうぎょにも役に立つもので、同一のけん鉄砲てっぽうとで、てきめることも味方をまもることもできるとおり、動物でもめる装置そうちそなわってあるものは、とくに食われぬためのみの方法ほうほうを取るにはおよばぬ。かたこうをおおったかめてきうごとに、頭と手足ととをちぢめるに反し、「すっぽん」はてきを見れば進んでかみつこうとする。それゆえこうやわらかくてもこれをおそう動物はかえって少ない。ここにはてきめるのと同一の武器ぶきを用いて身をまもる場合はいっさいりゃくしてべぬこととする。

一 げること


「三十六計ぐるにかず」とは昔からよく言うことであるが、生物界においてもてきにまさった速力を有すること、およびてきの来たりざるところへすみやかにうつることは、食われぬほうの中でもっとも有効ゆうこうなものである。およそすみやかにび、走り、およぐ動物は、多くはこの方法ほうほうを用いている。しかし、またこれらをえさとする動物は、さらにこれにまさった速力が必要ひつようであるが、かようなてき出遇であうてはむろん成功せいこうを期することはできぬ。獣類じゅうるい中ではうさぎねずみ等のけつるい鹿しか、羊等の食草類そうしょくるいがそのもっとも著名ちょめいれいであるが、これらは毎日げることによってのみ、その身を全うしるもので、万一足が弱くなった場合には一刻いっこく生存せいぞんはおぼつかない。鳥類ちょうるいのごときはほとんど全部速力をたのみとしている。山間やまあい渓流けいりゅうで美しく鳴く「かじかかえる」、夏草の間を走る「とかげ」、「かなへび」を始め、とらえようとしても容易よういとらえがたいのはみなたくみにげるからである。池の表面におよぐ「めだか」でも、水の上を走る「あめんぼ」でも、なかなかあみですくえぬことはだれも子供こどものころの経験けいけんで知っている。
 すみやかにげる動物に必要ひつようなことは、てきのいまだ近くまでり来たらぬうちにこれを知ることである。それにはるための、もしくはくための耳、またはぐための鼻が大いに発達はったつしていることが肝要かんようである。うさぎは耳の長いので有名であるが、他の獣類じゅうるいでもすみやかにげるものならばみな相応そうおうに耳が大きい。鳥類ちょうるい鉄砲てっぽう打ちを容易よういに近づかせぬのはするどいからであるが、鹿しかなどは少しでもあやしいかおりがすると、たちまち遠くへげて行く。それゆえ風上からはとうてい近づくことはできぬ。かようにげる動物には運動の器官きかんのほかに、感覚かんかく器官きかんかな発達はったつしているゆえ、これをとらえて食うものはかなずそれ以上いじょう発達はったつした運動、感覚かんかく器官きかんそなえねばならぬ。げる動物と追う動物とは、つねにこの両方面の競争きょうそうをしているわけで、これに負けたものは、食われて死ぬか食わずに死ぬか、いずれにしても生存せいぞんができぬ。
 たんてきと速力をきそうだけではあたかも競馬けいばのごとくで、もし少しでもてきより早くつかれたならば、かなやぶれねばならぬが、てきの追いかけて来られぬところへうつれば一時はとにかく安全である。たとえばおおかみに追われてに登るとか、とらめられて水中にもぐるとかいうごときほうをとれば、当座とうざ危難きなんをまぬがれ、つかれを休め、力を回復かいふくすることもできる。

「ももんが」のキャプション付きの図
ももんが

動物の中には、このほうを用いててきからのがれるものがすこぶるたくさんある。しげった山に住む「むささび」、「ももんが」などはその一例いちれいで、つねにえだ昇降しょうこうして果実かじつを食うているが、「てん」に追いめられたりすればたちまちえだはなれ、前足と後足とを開いてその間のまくり、空中を滑走かっそうして谷の向こうにあるまでもげて行く。

「とびかえる」のキャプション付きの図
とびかえる

「とかげ」のるいにも肋骨ろっこつを左右に開き、その間のまくを用いて空中を滑走かっそうするものがあり、雨蛙あまがえるるいには、四足ともに指が長くみずかきが広くこれをひらけばあたかも蝙蝠傘こうもりがさのごとき形となって、やや遠いところまでえだからえだへ空中をるものがあるが、これらはいずれも昆虫こんちゅうとらえ食うものゆえ、その空中にび出すのは、てきからげるための時もあり、また自らえさもとめるための時もあろう。ぶ「とかげ」もかえるもともに印度インド熱帯ねつたい地方のさんである。

「とびうお」のキャプション付きの図
とびうお

 飛魚とびうおが水上にび出すのもてきからのがれるためである。水中では飛魚とびうおを追いかけとらえて食おうとする大魚がたくさんにいるが、これからげるために、飛魚とびうおはまず全身の筋肉きんにくはたらかせ、で水をねて空中におどり出で、ほとんど身体と同じ長さの大きな胸鰭むなびれおおぎのごとくに開き、空中に身をささえながら三四回も波形を画いた後に、出発点よりはやく二丁(注:218m)もへだたったところでふたたび水中に帰る。かくすれば水中のてきからはげられるが、空中にはまた'鴎かもめるい飛魚とびうおび出すのをねらうて、とらえ食おうと待ち受けているゆえ、何匹なんびきかはかなずそのえさとなるをまぬがれぬ。どこへ行っても生活はけっして安楽あんらくではない。

「ペンギン鳥」のキャプション付きの図
ペンギン鳥

 以上いじょうはいずれもてきを後にのこして空中へび出すものであるが、てきに食われぬために水中へむ動物もたくさんある。「おっとせい」、「あしか」、「あざらし」のような海獣かいじゅうは身体の形状けいじょう遊泳ゆうえいてきして、陸上りくじょうでは運動がすこぶるへたであるゆえ、てきえば直ちに水中にんでげる。「かわうそ」なども危険きけんえばまず水中にむ。南極なんきょくに近いほうの無人島むじんとう非常ひじょうに数多く棲息せいそくする「ペンギン鳥」も、つねには岩の上に一面にならんでいるが、められればたちまち水中にんでげる。つばさがきわめて短く、かつ羽毛がほとんどうろこのごとくであるゆえ、むろんこの鳥は空中に飛翔ひしょうすることはできぬが、その代わり水中にはいればつばさを用いてあたかも魚のごとくに自由自在じざい遊泳ゆうえいする。がんかもおよぐのは全く足の運動によるが、「ペンギン鳥」では足はただかじの役をつとめるだけである。なおげることによって身をまもる運動はいくらでもあって、だれも知っているものが多いから、わざわざれいをあげることは以上いじょうだけにとどめておく。

二 かくれること


 かくれるという中には、てきに見える場所からてきに見えぬ場所へうつることと、平常へいじょうから見えぬ場所にとどまっていることとがふくまれてあるが、両方ともに動物界にはそのれいがたくさんにある。たくみにかくれることは、てきに食われぬほうの中で、もっとも有効ゆうこうなしかも労力ろうりょくついやすことのもっとも少ない経済けいざいてきなものであるが、しかしまたこれをさがし出すことを専門せんもんとする動物がかなずあるゆえ、かくれたりとてけっして全く安全とはいわれぬ。ただしかくれなければ数百数千のてきおそわれるべきところを、かくれているためにわずかに二三の特殊とくしゅてきめられるだけですむのであるから、かくれただけの効能こうのうはもちろんある。そのうえ獅子ししとらのごとき無敵むてき猛獣もうじゅうでも、安心して休息するためにはやはりかくれ場所をようするゆえ、動物中で真にかくれる必要ひつようのないものは、おそらく大洋の表面にかんでいる水母くらげのごとき種類しゅるいのほかにはなかろう。
 てきが近づけばたちまちかくれる動物はすこぶる多い。これは見えるところから見えぬところへうつるのであるからげるのの一種いっしゅであるが、その時即座そくざ鑑定かんていによって適当てきとうかくれ場所をもとむものと、あらかじめかくれ場所をつくっておき、つねにその近辺きんぺんのみにいて、てきが見えればたちまちそこへげ帰るものとある。海岸の岩や石垣いしがきの上にたくさん走りまわっている船虫は、人のかげを見れば直ちにもっとも近い割目われめにはいむだけで、べつのごとき定まった場所はないが、砂浜すなはまに多数にいる小蟹こがに各自かくじに一つずつあな穿うがち、つねにその近くにいて、もし人が来たり近づくと、みないっせいに自分のあなむ。しおのひいたときに、はさみ砂粒すなつぶをはさんでえさもとめ食う挙動きょどうが、あたかもまねくごとくであるゆえ、ぞくに「潮招しおまねき」と名づける。走ることがきわめてすみやかで、かつあなが近くにあるゆえ、とらえることはすこぶるかたい。きつねたぬきでもうさぎるいでも、追われれば直ちにあなむものゆえ、これをりょうするにはとくに足の短い猟犬りょうけんの助けをかりらねばならぬ。
 てきの多い世の中に、全身を露出ろしゅつしていることはよほど不安ふあんの感じを起こすものと見えて、海産かいさん動物を飼養しようする場合に、もしすな石塊いしころを入れてかくれ家をつくってやると長く元気に生活するが、ただ水ばかりの中に入れておくと、暫時ざんじまとなしにはいまわった後にだんだん衰弱すいじゃくして死ぬものが多い。動物を採集さいしゅに行った人はだれでもよく知っているとおり、あらわれたところのみをさがしては何もおらぬようなときにも、石をくつがえし、どろり、皮をがし、えだを打ちなどすると、意外に多くの動物が出て来る。海のそこから取って帰った石を海水にけておくと、二三日すぎて水が少しくさりかかるころになって、はじめ見えなかった虫がたくさんにはい出すことがあるが、これは石のあなの中にかくれていたのが苦しくなって、出て来るのである。とく不思議ふしぎに見えるのは、岩にあな穿うがって、その中に生きた貝が、はまりんでいることで、しじみはまぐり同類どうるい二枚貝にまいがい如何いかなる方法ほうほうで岩石にあな穿うがち、その中へかたくはまって取り出せぬようになるかは、よほどくわしく研究せぬと明らかにならぬ。ところによると海岸の岩に一面にあながあって、その中に「にほ貝」という貝殻かいがらうすい貝が一匹いっぴきずついる。

「石食い貝」のキャプション付きの図
石食い貝

また海岸の岩をやぶると、中から「石食い貝」または「石まて」と名づける、しいの実を長くしたごとき形の貝がたくさん出て来るが、これらは自身で穿うがったあなの中にかくれていたものである。「にほ貝」は夜光を発するゆえ、イタリアの漁師りょうし子供こどもなどはこれをかんで口中を光らせ、暗いところで人をおどろかしてたわむれる。

「船食い貝」のキャプション付きの図
船食い貝

 海中には材木ざいもくあな穿うがってその中にかくれる貝もある。岩にあなをあけるとはちがい、人のつくった桟橋さんばし船底ふなぞこの木をあなだらけにするゆえ、なかなか大きな損害そんがいを生ずる。

「船食い貝の害」のキャプション付きの図
船食い貝のがい

日本で風流ふうりゅう住宅じゅうたく周囲しゅういへいに用いる船板には、表面にわん曲した長いくぼみがたくさんに見えるが、これがみな、「船食い貝」のしわざであって、このために船は廃物はいぶつとなり、板のみが後に利用りようせられているのである。たいていの二枚貝にまいがいは、はまぐりでも「あさり」でも「かき」でもしじみでも、からじればやわらかい肉は全部その内におさまるが、「船食い貝」だけは、普通ふつうの貝とはちがい、体は「みみず」のような細長い形でほとんど全部露出ろしゅつし、からは左右ともきわめて小さく、わずかに体の前端ぜんたんをおおうにすぎぬ。幼時ようじは水中をおよいでいるが、材木ざいもくの表面に付着ふちゃくすると直ちにこれにあな穿うがってはいりみ、だんだん随道ずいどうをのばしてその内面にうす石灰質せっかいしつかべをつくり、自身はその内部にかくれて、ただ体の後端こうたんだけを材木ざいもくの表面に出している。多くの二枚貝にまいがいには体の後端こうたんに二本のくだならんであって、からを開いている間はえずその一本から水をい入れ、他の一本から水をき出しているが、い入れられる水の中にはいつも微細びさい藻類そうるいなどがかんでいるゆえ、貝はこれを食うて生きていることができる。
「船食い貝」の生活もかような具合で、材木ざいもくの中にかくれてはいるが、体の後端こうたんを表面まで出しているところから考えると、やはり水とともに微細びさいえさんで食うのであろう。今では大きな船はみな鋼鉄こうてつでつくるから、この貝のために受ける損害そんがい非常ひじょうげんじたが、昔の木造もくぞう船のこうむったがいは実にはなはだしいものであった。それゆえこの貝の学名には「船のおそれ」という意味の字がつけてある。

「とたてぐも」のキャプション付きの図
とたてぐも

 くもるいの中には地中にあなをつくって、その中にかくれているものが幾種類いくしゅるいもあるが、その中で「とたてぐも」と名づけるものは、糸をんであなの入口にちょうどはまるだけの円形の開き戸をつくり、つねはこれをじておくので外面からはあなのあり場所が少しもわからぬ、平地にもがけのところにもあって、けっしてめずらしいものではないが、ふたの外面にはその周囲しゅういと同じように、赤土のところならば赤土、こけのあるところならばこけがつけてあるから、よほど注意して見てもなかなか見出しにくい。今からもはや三十年ばかりも前になるが、東京本郷ほんごうの大学構内こうないの池のかたわらで、このるいの「くも」が偶然ぐうぜん見つけられたのは、「くも」の体に寄生きせいしたきんあなふたを下からしあけて、地上へのび出していたからであった。この「くも」は箱の中にうておいても、たくみに土中どちゅうあな穿うがふたをつくるから、つまびらかにその挙動きょどう観察かんさつすることができるが、もっともおもしろいことは戸のうらに二つ小さなくぼみをつくっておき、もし何者かが来て、外から戸を開こうとすると、「くも」は内から足のつめをこれにけて開けさせぬように力をめて引いている。

「かくれかに」のキャプション付きの図
かくれかに

 てきに対して身をまもるためには、岩や木や土の中にかくれるもののほかに、生きた動物の体内にかり住居じゅうきょを定めるものがある。はまぐりや「たいらぎ」の貝の内には往々おうおう小さなかにがいるが、このかにはつねに肉の間にかくれていて、からの開いているときでも外へははい出さぬ。しかしただ場所をりているだけで、貝の血をうのでもなく肉を食うのでもないゆえ、けっして寄生きせいとは名づけられぬ。支那しなの古い書物には'さきつ'さきつという名で、このかにのことが出ているが、その説明せつめいを見ると、はまぐりにはがないゆえ、てきが近くへ来ても知ることができぬが、かかる場合には'さきつ'がつねに宿をりている恩返おんがえしに、はさみで軽く貝の肉をはさんで警告けいこくすると、貝は急にからじて貝もかにもともにてき攻撃こうげきをまぬがれると書いてある。これはもとより想像そうぞうであるが、全くるいことなった二種にしゅの動物が共同きょうどうの生活をしているのを見て奇妙きみょうに思い、考えついたことであろう。つねに貝の内部に住んでいて、生活の状態じょうたいがやや寄生きせい動物にているゆえ、いくぶんか寄生きせい動物の通性つうせいそなえ、こうやわらかく、足は短く、体は丸くえて、はきわめて小さい。たまごむことのすこぶる多いのも、やはり寄生きせい動物とあいている。種類しゅるいの「なまこ」を切り開いて見ると、内からこれと同じようなかにの出て来ることがしばしばある。

「かくれうお」のキャプション付きの図
かくれうお

「なまこ」はちょっと見ると、どこが頭かどこがしりかわからぬようであるが、生きているのを観察かんさつすると、頭のほうには口があって、その周囲しゅうい枝分えだわかれした指のごときものがならび生じて、つねに微細びさいな食物を口の中へ運び入れている。またのほうには大きな肛門こうもんがあって、人間が呼吸こきゅうするのとほぼ同じくらいの回数でえず開閉かいへいして多量たりょうの海水をい入れたりき出したりする。されば「なまこ」のしりの内はつねに新たな海水が出入りして、小さな動物の住むにはてきするものと見えて、かに往々おうおうその中にかくれていることは、前にべたが、なお、そのほかに一種いっしゅの魚が住んでいることがある。前のかにを「かくかに」といい、この魚を「かくれ魚」としょうするが、いずれもたんに「なまこ」の体内の空所を利用りようしているにすぎぬから、「なまこ」にがいをおよぼすことなしに、自身はやや安全に生活ができる。「かくれ魚」は形がいくぶんか「あなご」にた細長い魚である。日光に当たらぬゆえ色はよほど白い。大きなえさを食いたいとか大勢おおぜい集まってにぎやかにらしたいとか思う普通ふつう魚類ぎょるいにくらべると、競争きょうそうおそれる意気地なしのように見えるが、紛々ふんぷんたる魚界の俗事ぞくじ余所よそにして、「なまこ」のしりの内にゆうゆう自適じてきしている「かくれ魚」は、いわゆる風流人にたところがないでもなかろう。

「同穴海綿」のキャプション付きの図
同穴どうけつ海綿かいめん

かくかに」でも「かくれ魚」でも、このんで貝や「なまこ」の体内にかくれているだけで、もし出ようと思えば随意ずいいに出ることができる。げんあみにかかった「なまこ」のしりからは、往々おうおうかくれ魚」がはね出ることがある。これに反して海綿かいめんの体内にかくれている「えび」のるいは、全く海綿かいめん組織そしきつつまれて一生涯いっしょうがい外に出ることができぬ。そのもっともいちじるしいれいは、相模灘さがみなだの深いところなどから取れる偕老かいろう同穴どうけつと名づける美しい海綿かいめんで、その内部にはかな雌雄しゆう一対のえびが同棲どうせいしている。海綿かいめんの体は中空の円筒えんとう形で、骨骼こっかくは全部無色むしょく透明とうめい硅質かくしつはりからできているゆえ、かわかした標本ひょうほんを見るとあたかも水晶すいしょうの糸でんだかごのごとくで実にうるわしい。西洋人がこの海綿かいめんのことを「あいの女神ビーナスの花籠はなかご」と名づけるのはもっともである。ただし普通ふつう花籠はなかごとはちがい、かごの口には目の細かいあみがあるゆえ、そのあな通過つうかるほどの小さなものでなければかごの内に出入りはできぬ。されば、この海綿かいめんの内に住んでいる「えび」は、ろうの内にめられたごとくで終身その外へは出られぬ。おそらくおさない時に水流とともに海綿かいめんの体内にはいりみ、その中で成長せいちょうしてついに出られなくなったのであろうが、それがかな雌雄しゆう一対にかぎるのは、後にはいり来るものがあっても、これを食いころすか、追いのけるかして、家庭の平和をたもつことにつとめるからであろう。

「同穴えび (左)雌 (右)雄」のキャプション付きの図
同穴どうけつえび (左)めす (右)おす

かくのごとく同穴どうけつ海綿かいめんの内に住む同穴どうけつえびは、水流とともにはいり来る少量しょうりょうえさを食うて満足まんぞくし、外に出て大いに活動するというような野心はゆめにも起こさず、明けてもれても夫婦ふうふし向いで、おすのほうも厳重げんじゅう貞操ていそうを守り、しゅ女権じょけん論者ろんじゃの理想とするところを実現じつげんしているのである。
 以上いじょうべたとおり、てき攻撃こうげきをまぬがれるにはかくれることはもっとも有効ゆうこうであって、たいがいの動物はかなずこれをこころみるものであるが、ただかくれていることによってのみ身をまもる動物では、身体の形状けいじょう構造こうぞうにもこれにおうじた変化へんかあらわれ、あたかも寄生きせい動物などのごとくに、運動の器官きかん感覚かんかく器官きかんとは少しずつ退化たいかし、生殖せいしょく器官きかん発達はったつして、子をむ数は比較ひかくてきに多くなるのがつねであるように思われる。

「「いか」墨を吹く」のキャプション付きの図
「いか」すみ

「たこ」、「いか」のるいてきうたとき身をかくすに一種いっしゅ特別とくべつ方法ほうほうを用いる。すなわち墨汁ぼくじゅうを出し、これを海水にじて漏斗じょうごからき出すのであるが、かくすれば海水中ににわかに大きな不透明ふとうめいな黒雲が生ずるから「たこ」、「いか」の体は全くてきから見えなくなり、黒雲が漸々ぜんぜんうすくなって消えせるころには、すでにどこか遠くへげ去った後であるゆえ、てき如何いかんともすることができぬ。「たこ」、「いか」のどうを切って見ると、ちょうがわに多少銀色の光沢こうたくびた楕円だえん形の墨嚢すみぶくろがあるが、これを少しでもきずつけると、たちまち中からきわめてすみが流れ出てそこらじゅうが真黒になる。このような特別とくべつ隠遁いんとんじゅつを用いて身をまもるものは、全動物界の中におそらく「たこ」、「いか」のるいよりほかにはなかろう。

三 ふせぐこと


 げもかくれもせずしててきふせぐものの中には、攻撃こうげき用の武器ぶきを用いて対抗たいこうするものと、たんに受動てき防御ぼうぎょ装置そうちのみによって、てきをして断念だんねんせしめるものとがあるが、ここには攻撃こうげき用の武器ぶきを用いるもののれいはいっさいはぶいて、ただ純粋じゅんすい防御ぼうぎょ装置そうちによる場合をいくつかかかげて見よう。

「しゃこ」のキャプション付きの図
しゃこ

 まずてき攻撃こうげきをいながらふせ普通ふつう方法ほうほうは、堅固けんご甲冑かっちゅうをもって身をつつむことである。これは貝類かいるいでは一般いっぱんに行なわれている方法ほうほうで、巻貝まきがいでも二枚貝にまいがいでも、多くはてきえば直ちにからじるだけで、そのほかにはなんらの手段しゅだんをもとらず、ただてき断念だんねんして去るのを根気よく待っている。「たにし」や「しじみ」のようなうす貝殻かいがらでもかれらの日常にちじょう出遇であてきに対しては相応そうおう有効ゆうこうであるが、「さざえ」、はまぐりなどになるとからはなかなか堅固けんごで、われわれでも道具なしにはとうていこれを開くこともやぶることもできぬ。さらに琉球りゅうきゅう小笠原おがさわら島など熱帯ねつたいの海にさんする、夜光貝とか「しゃこ」とかいう大形の貝類かいるいでは、貝殻かいがらがすこぶるあついゆえ、防御ぼうぎょの力もそれにじゅんじて十分である。夜光貝は「さざえ」のるいぞくするが、往々おうおう人間の頭ぐらいの大きさにたつし、貝殻かいがらあつくてかたく、かつ真珠しんじゅようの美しい光沢こうたくがあるゆえ、種々しゅしゅの細工に用いられる。また「しゃこ」ははまぐりと同じく二枚貝にまいがいであるが、大なるものは長さが四しゃく(注:1.2m)あまりもあり、重さが五六十かん(注:187〜225kg)にもたつする。からあつさは七八すん(注:21〜24cm)もあって純白じゅんぱく緻密ちみつであるゆえ、装飾そうしょく品をせいするにはもっとも適当てきとうである。それゆえ、昔から七宝しっぽうの一に数えられ、珊瑚さんごの柱、'蝦'蛄しやこの屋根とあいならべて竜宮りゅうぐうの歌にうたわれる。フランスパリのサン・シュルピスの寺では、この貝殻かいがら手水鉢ちょうずばち応用おうようしている。
 貝殻かいがらあつければ、てきを十分にふせぐという利益りえきがある代わりに、その重い目方のために、運動が非常ひじょうさまたげられるという不便べんしのばねばならぬ。されば貝類かいるいはすべて運動のおそいのがつねで、よく進行のおそいたとえに用いられる「かたつむり」などは、貝類かいるい仲間なかまではなお速いほうの部にぞくする。「しやこ」のごとき重いものは、一定の場所にとどまって全く動かぬ。海岸の岩石には「かき」や「へびがい」が一面に付着ふちゃくしているところがあるが、いずれもあつ貝殻かいがらをただ一つのたよりにしててき攻撃こうげきをまぬがれている。「かき」のほうはえらで水流を起こして微細びさいえさを集めて食い、「へびがい」のほうは、粘液ねんえきを出して微細びさいえさをこれに付着ふちゃくせしめ、粘液ねんえきとともにこれを食う。「へびがい」は「さざえ」などと同じく巻貝まきがいるいであるが、貝殻かいがらき方がわめて不規則ふきそくである上に、岩の表面に固着こちゃくしているゆえ、これを貝類かいるいと思わぬ人が多い。なおこれらの貝類かいるいのほかに、「ふじつぼ」や「ごかい」のるい石灰質せっかいしつかたかんをつくる虫などがたくさんに付着ふちゃくしているが、これらは動物の種類しゅるいが全くちがうにかかわらず、てきふせ方法ほうほう一致いっちしているために、外観がいかんにも習性しゅうせいにも固着こちゃく貝類かいるいによほどたところがある。それゆえ、少し古い書物には「ふじつぼ」をいつも「かき」などと同じ貝類かいるい仲間なかまに入れてある。また石灰せっかいくだをつくる虫のほうは、はじめて海岸へ採集さいしゅに行く人がしばしば「へびがい」のるい混同こんどうする。

「陸上にすむ大亀」のキャプション付きの図
陸上りくじょうにすむ大亀おおかめ

 次に全身こうでおおわれているので有名な動物は亀類かめるいである。普通ふつう石亀いしがめでもこうはなかなかかたいから、頭、と四足とをちぢめていれば、犬にかませても平気でいるが、琉球りゅうきゅう八重山やえやま島に箱亀はこがめでは、腹面ふくめんこう蝶番ちようつがいのごとき仕掛しかけで中央が曲折きょくせつするから、頭、ちぢめたところをも全くざして少しも空隙くうげきのこさぬ。熱帯ねつたい地方の島にさんする大形のかめになると、こうもそのわりあつく力も強いから、大人がくつのまま乗っても苦もなくはい歩く。ただしうさぎかめとの寓話ぐうわにもあるとおり、かめの歩みはすこぶるおそいが、これはこうをもっててきふせぐことができるゆえ、急いでげ去る必要ひつようがないからである。だれよりも重いかぶとよろいを着て、だれよりも速く走ろうというのはとうてい無理むりな注文で、何事においても一方で勝とうとするには、他のほうでおとることを覚悟かくごしなければならぬ。昆虫こんちゅうるいの中でも皮のうすい「とんぼ」はぶことが速いが、あつよろいを着た「かぶとむし」は運動がすこぶる緩慢かんまんである。

「まつかさうお」のキャプション付きの図
まつかさうお

 魚類ぎょるいがいして游泳ゆうえい敏活びんかつなもので、つまんで拾えるようなものは滅多めったにないが、「はこふぐ」、「すずめふぐ」、「まつかさうお」のごとき堅固けんごよろいで身をかためているものはおよぐことがすこぶるまずい。他の魚ではうろこが屋根のかわらのごとくに重なり合うてならんでいるゆえ、身体を屈曲くっきょくするときに邪魔じゃまにならぬが、「はこふぐ」などではかたあつうろこ敷石しきいしのように密接みっせつしているから、身体はまさに箱のごとくで、少しも曲げることができず、したがって力強く水をはねることができぬ。それゆえ、もしたらいの水の中に、これらの魚を入れて手で水をかきまわすと、水の流れにされていっしょにくるくるまわる。これをこいさけが急流をさかのぼるにくらべれば実に雲泥うんでい相違そういである。

「アルマジロ」のキャプション付きの図
アルマジロ

 獣類じゅうるいの中でも、穿山甲せんざんこうや「アルマジロ」は甲冑かっちゅうをもっててき攻撃こうげきふせぐ。穿山甲せんざんこううろこはあたかも魚類ぎょるいうろこのごとくにならんでいるが、「アルマジロ」のほうはまるでかめのごとくで、どう堅固けんごこうでおおわれている。いずれも普通ふつう獣類じゅうるいとは見たところが大いにちがうゆえ、獣類じゅうるいと見なされぬことが多い。穿山甲さんぜんこうが古い書物では魚類ぎょるいの中に入れてあることは前にもべたが、「アルマジロ」のほうは、先年東京で南米産物さんぶつ展覧会てんらんかいのあったせつ、地を害虫がいちゅうというふだをつけられ、虫類むしるい取扱とりあついを受けていた。このけものてきうと頭もも四足もちぢめて全身を球形にし、ただかた甲冑かっちゅうのみを外にあらわすゆえ、犬でもひょうでもこれを如何いかんともすることができぬ。アルゼンチン国では、このけものこうきぬうらけ、を曲げてとして婦人ふじん用の手提てさげかばんに用いる。

「いばらがに」のキャプション付きの図
いばらがに

 てき攻撃こうげきふせぐために、全身にとがったはりを有する動物も幾種いくしゅかある。次頁じぺーじに図をかかげた棘蟹いばらがになどはそのもっともいちじるしいれいで、ほとんど手をれることもできぬ。カラフトへんで年々多量たりょう'缶詰かんづめにする味のかには、これほどにとげはないが、やはりこれと同じるいぞくする。

「針千本」のキャプション付きの図
はり千本

また河豚ふぐ一種いっしゅで「はりせんぼん」という魚も全身に太いはりがはえている。通常つうじょうは後に向いて横になっているゆえあまり游泳ゆうえいさまたげにならぬが、もしもてきうと体を球形にふくらせてはりをことごとく直立せしめるゆえ、さながら大きな「いがくり」のごとくになって、とてもつかまえることはできぬ。獣類じゅうるいの中でこれにたものは「山荒やまあらし」である。このけものは、うさぎなどと同じく、齧歯類げっしるいという仲間なかまぞくし、植物せいの物ばかりを食ういたって怯儒きようだなものであるが、全身にペンじくぐらいの太いとがった毛がはえて、物におそれる時はこの毛がみな直立するゆえ、たいがいの食肉じゅうもかみつくわけにゆかぬ。

「はりとかげ」のキャプション付きの図
はりとかげ

オーストラリア地方にさんする「とかげ」の一種いっしゅにも全身とげだらけで、おそろしげに見えるものがある。長さは一尺いっしゃく(注:30cm)に足らぬぐらいであまり大きな動物ではないが、顔を正面から見ると、二本の角のような太いとげがあるために多少おにているので、数年前に新聞紙上におにのアルコールけという見出しで評判ひょうばんせられたことがあった。

「うに」のキャプション付きの図
うに

かように全身にはりのはえた動物は色々あるが、もっとも普通ふつうな例といえばまず海胆うにるいであろう。食用にする「雲丹うに」はこのるい卵巣らんそうからせいするのであるが、岩のあるいそにはどこにもさんし、形が丸くとげつつまれて、少しも「いがくり」にことならぬ。とげがとがっているから、たいていのてきはこれをおそうことをあえてせぬ。とくに「がんがせ」としょうする一種いっしゅのごときは、はりがすこぶる細長いゆえ、手のたなごころからこうのほうへつきけるというて、漁夫りょふらは非常ひじょうにおそれている。
 かたこうでも、するどはりでも、てき攻撃こうげきふせ器械きかいてき装置そうちであるが、そのほかになお、化学的かがくてき方法ほうほうを用いて身をまもるものがある。たとえば「ひきがえる」のごときは、てきうてもげることもおそく、かくれることもへたである。しかし、皮膚ひふの全面にある大小のいぼからちちのごとき白色のえきを出すが、このえきや口の粘膜ねんまくれると、しみていたいゆえ、犬などもけっして、「ひきがえる」には食いつかぬ。魚類ぎょるいには「おこぜ」、「あかえい」などのごとくに、どくはりでさすものが幾種いくしゅもある。

「まめはんみよう」のキャプション付きの図
まめはんみよう

豆につく「はんみょう」という昆虫こんちゅうはこれをとらえると、足のふしから激烈げきれつえき分泌ぶんぴつするが、強く皮膚ひふ刺激しげきするゆえ、このしゅの虫をかわかせば、発泡剤はっぽうざいとして用いられる。また「くらげ」、「いそぎんちゃく」のるいは、体の外面に無数むすう微細びさいふくろそなえ、てきえばこれよりどくえきを注ぎ出してふせぐが、えさとらえるにもこれを用いるから、これは防御ぼうぎょ攻撃こうげき、両用の武器ぶきである。

「スカンク」のキャプション付きの図
スカンク

アメリカにさんする「スカンク」といういたちけものは、非常ひじょう悪臭あくしゅうのあるガスを発するので有名であるが、これもてきふせぐための化学的かがくてき方法ほうほう一種いっしゅといえる。臭気しゅうきを出すせん肛門こうもん両側りょうがわにある。
 海綿かいめんるいは全身いずれの部分にも角質かくしつまたは硅質かくしつ骨骼こっかくが、網状あみじょうをなして広がっているゆえ、他の動物のために食われることはほとんどない。海岸の岩の表面には黄色、赤色、ねずみ色などの海綿かいめんが一面にはえているところがあるが、固着こちゃくしてげもかくれもせず、かぶともかぶらず、とげも出さず、どくふくまず、臭気しゅうきを放たず、しかもてきおそわれることのないのは、全く身体が食えぬからである。「かれは食えぬやつだ」などとは、よく聞く言葉であるが、動物中でまさに食えぬものといえば、おそらくまず海綿かいめんぐらいなものであろう。

四 おどかすこと


 てきめて来たときにまず示威じいてき挙動きょどうしめしてこれをの退しりぞけんとするものがある。ねずみのごとき小さなものでも、追いつめるとかみつきそうな身構みがまえをして、一時てき躊躇ちゆうちよせしめ、その間にひまをうかごうて急にげ出すが、たいがいの動物はこれにたことをする。かめ貝類かいるいのごときあつからそなえたもの、「くらげ」、「さんご」、海綿かいめんのごとき神経系しんけいけい発達はったつしていないものなどはべつであるが、その他の動物は、たとい日ごろ弱いものでも危急ききゅう存亡そんぼうの場合には威嚇いかくてき態度たいどをとるもので、それがずいぶんこうそうする。せっかくつかまえた虫が食いつきそうにするのでおどろいて手を放し、虫にげられてしまうというようなことは、動物を採集さいしゅする人でなくとも、子供こどものころの経験けいけんでよく知っているであろう。

「蟹の威嚇せる態」のキャプション付きの図
かに威嚇いかくせるたい

弁慶べんけいがに」や「磯蟹いそがに」なども、これをとらえようとすると両方のはさみし上げ、広く開いて今にもはさみそうにしながらげて行く。「えび」のるいてきうと、そのほうへ頭を向け威張いばってにらみながら徐々じょじょ退却たいきゃくする。またてきをおどかすには身体を大きく見せて威厳いげんを整えることが有効ゆうこうであるゆえ、「ひきがえる」などはてきが来れば空気をはらにのみ入れて体を丸くふくらせなる。河豚ふぐるいが食道に空気をんで、球形にふくれるのも、やはり護身ごしん目的もくてきとする一種いっしゅ示威じい運動である。

「蛾の幼虫」のキャプション付きの図
幼虫ようちゅう

 このしゅの運動でとくにおもしろいれい蝶蛾ちょうがるい幼虫ようちゅうに見られる。「すずめちょう」、「せずしすずめ」などの幼虫ようちゅうは大きな芋虫いもむしであるが、その中の一種いっしゅでは頭から第四番目のふしへんに、眼玉めだまのごときいちじるしい斑紋はんもんが左右一対ならんである。子供こどもらはこれを目と名づけるが、むろん真のではない。しかしてきえば、この芋虫いもむしは体の前部をちぢめて短く太くするゆえ、以上いじょう斑紋はんもんはあたかも眼玉めだまであるかのように見え、全体がおこった顔のようになる。小鳥や蜥蜴とかげなどはおどろいてこれをついばむことを断念だんねんし、ほかへえさもとめに行くから、芋虫いもむしは命を拾うことになる。る人がこころみにこれをにわとりあたえたところが、牡鶏おんどりでもこれをついばむことを躊躇ちゅうちょしたものが幾匹いくひきもあり、ついに一匹いっぴきゆうしてこれを食い終わった。されば強いてきに対しては、一時これを躊躇ちゅうちょせしめるだけのこうよりないが、やや小さなてきなればこれをおそれしめて首尾しゅびよくその攻撃こうげきをまぬがれることができる。かような幼虫ようちゅう眼玉めだまのごとき斑紋はんもんのないものでも、てきえば急に体の前部をちぢめて太くしたり、そり返って腹面ふくめんを見せたりして、てきをおどかそうとこころみる。

「うちすずめ」のキャプション付きの図
うちすずめ

「うちすずめ」としょうするは、後翅うしろはねへび目状めじょうの大きな黒い斑紋はんもんがある。はねをたたんでいる時は、前翅まえばねにおおわれているゆえ少しも見えぬが、てきうと急にはねを二対とも広く開くゆえ、後翅うしろはねの表面があらわれ、にわかに紅色べにいろの地に大きな眼玉めだまのごときものが二つならんで見えるので、小鳥などはきもをつぶしてげる。これも強いてきをもふせぐというわけにはゆかぬが、一部のてきに対しては十分に身をまもるの役に立つことである。るいには、前翅まえはねが目立たぬ色を有するに反し、後翅うしろはね鮮明せんめい色彩しきさいといちじるしい斑紋はんもんとをていするものがなかなか多いから以上いじょうのごときことの行なわれる場合はけっしてまれではなかろう。

「腹を見せる蛙」のキャプション付きの図
はらを見せるかえる

 ヨーロッパから朝鮮ちょうせんまでにさんするかえる一種いっしゅ普通ふつうの色であるが、はらには一面に美しい朱色しゅいろまたは橙色だいだいいろ斑紋はんもんのあるものがある。形は「ひきがえる」にてさらに小さく、運動もあまり活発ではないが、てきうと急に転覆てんぷくして腹面ふくめんを上にし、かつそり返って腹面ふくめんをわざわざし上げ、四足をも曲げて、きわめて奇態きたい姿勢しせいをとるくせがあるゆえ、はじめて見る人は如何いかにも不思議ふしぎに思う。これもおそらく一時てきおどろかせ、気味悪く思わせて危難きなんをまぬがれるための習性しゅうせいであろう。
 今までしずかにしていたものが急に動き出すことも、往々おうおうてきおどろかすに足りる。くものるい車輪しゃりんのようなあみって虫の来るのを待っているが、もし人が近づいてあみれようとすると、にわかに身体をってあみり動かすことがある。小鳥などに対しては、おそらく一時攻撃こうげきを見合わせしめるだけの効能こうのうはあろう。またてきの近づいたとき一種いっしゅの声を発して、今にこちらから攻撃こうげきを始めるぞという態度たいどしめすのも、一時てきをして近づかしめぬ方便ほうべんである。

「がらがら蛇」のキャプション付きの図
がらがらへび

へびへびるいてきに対するときに、かなず空気をくようなするどい音を発することはだれも知るとおりであるが、アメリカにさんする毒蛇どくへびるいは、特別とくべつ装置そうちがあって、てきが近づくとしきりにこれを鳴らしつづける。その装置そうちというのは、かた角質かくしつで、はしのところにいくつも重なってはまっている。けることはないが、一つずつ自由に動けるゆえ、へび振動しんどうさせると、歯車はぐるますみやかに回転するところへ、金棒かなぼうでも当てたような一種いっしゅ不快ふかいひびきを生ずる。教科書などには、原名を直訳ちょくやくして「がらがらへび」と名づけてあるが、むしろアメリカ在住ざいじゅうの日本人のつけた「鈴蛇すずへび」という名前のほうが、の鳴らし方を適切てきせつあらわしている。

「しびれうなぎ」のキャプション付きの図
しびれうなぎ

 電気を発することも一種いっしゅ威嚇いかくほうである。「しびれえい」の生きたのに手をれると、はげしく電流を感ずるゆえ、だれも思わず手を放すが、海底かいていんでいるときにもてきが近づくごとに電気を発してこれをおどろかしているのであろう。電気を発する魚は「しびれえい」のほかに、アフリカのかわさんする「しびれなまず」、南アメリカのかわさんする「しびれうなぎ」などがあるが、いずれもずいぶん強い電気を出すので有名である。ただし電気は攻撃こうげきにも防御ぼうぎょにも有効ゆうこうに用いられるから、けっしてたんに相手を威嚇いかくするためのみのものではない。なお動物には光を発するものがあるが、これも多少てきおどろかせ、またはおそれしめるに役に立つことであろう。

「ほたるいか」のキャプション付きの図
ほたるいか

陸上りくじょうではほたるのほかにはほとんど光る動物はないゆえ、はなはだるいが少ないように思うが、海へ行けば富山湾とやまわんの名物なる「ほたるいか」を始めとして、「くらげ」や「えび」の子などにいたるまで光を発する種類しゅるいはすこぶる多い。それが何の役に立つかは場合によってもとよりちがうであろうが、少なくも一部のものはてき恐怖きょうふねんを起こさせて、その攻撃こうげきをまぬがれているように思われる。

五 あきらめること


 すでに身体の一部をてきとらえられた時、思い切ってその部だけをてれば、生命はうしなわずにすむが、これも全身を食われぬための一種いっしゅ方法ほうほうである。人間でも手なり足なりにしようの悪い腫物はれものができて、そのままにしておいては一命にもかかわるという場合には、これを切りてるのほかにさくはないとおり、身体の一部分がすでにてきの手におちいった上は、あきらめてこれをてきあたえるよりほかに自分をすく手段しゅだんはない。ただし人間では、一度切りてた手や足がふたたび生ずるのぞみはなく、手術しゅじゅつ後は一生涯いっしょうがい片輪かたわで終わらねばならぬゆえ、かかる場合にすこぶる思い切りがたい感じがあるが、動物の種類しゅるいによっては、一度うしなうた部分を容易ようい回復かいふくするゆえ、身体のある部分をうしなうことは少しも苦にならぬ。しこうしてかようなさいに体の一部が切れ去るのは、てきがくわえて引く力によるのではなく、動物自身のほうに一定の仕掛しかけがあって、随意ずいいにその部を切りてるのである。それゆえこの方法ほうほう自切じせつと名づける。
「とかげ」のがたやすく切れ取れることは人の知るところであるが、これが自切の一例いちれいである。夏庭先などへ出て来て、にわとりにつつかれた場合には、「とかげ」はだけをてて自身はすみやかに石垣いしがきの間にんでしまうが、後にのこったは、どうから切れても直ちには死なず、長く活発にはねまわるゆえ、にわとりはこれのみに気をとられて、げた身体のほうを追及ついきゅうせぬ。かくすれば「とかげ」はむろん一時はなしとなるが、えさを食うて生活してさえおれば、暫時ざんじの内にまた元のとおりのができる。もっとも中軸ちゅうじくにあたる骨骼こっかくはもとのとおりにはならぬが外見では、ただ色が少しうすいだけで、古いと少しもちがわぬ。子供こどもらがくつで軽くんでも直ちに切れるくらいであるから、てることは「とかげ」にとってはすこぶる簡単かんたんなことで、もしこれによって命を全うすることができるならば、一時うしな不自由ふじゆうのごときはほとんど言うに足らぬであろう。
「ばった」、「いなご」などの昆虫こんちゅうるいも、足を一本つまんでとらえると、その足だけのこしてげ去ることが多い。ただし寿命じゅみょうが短いゆえでもあろうが、一度うしなうた足をふたたび生ずるにはいたらぬ。夜出て来て障子しょうじなどを走る「げじげじ」も、さえてとらえようとすればかな幾本いくほんかの足をのこしてげて行く。

「てんぼ蟹」のキャプション付きの図
てんぼかに

海岸へ行ってかにを多数にとらえて見ると、往々おうおう足やはさみ満足まんぞくそろうていないものがあるが、これらはなんらか危険きけんうたさいて去ったのであろう。中には七本の普通ふつうの足と一本のきわめて小さい足を持ったもの、左のはさみ普通ふつうの大きさで、右のはさみはその十分の一もないものなどがあるが、これは一度うしなうたあとへ新たな足かはさみかが生じていまだ間がないゆえ、十分に成長せいちょうせぬものである。「潮招しおまねかに」の一種いっしゅぞくに「てんぼかに」などと名づけているものがあるが、そのおすはさみは一方だけ非常ひじょうに大きくて、身体の格好かっこうり合わずすこぶる奇観きかんていする。しかしかような大きなはさみでも、切りはなした後にはふたたび生じてもとのごとくになる。スペインの海岸地方では、このかにはさみだけをゆでて紙袋かみぶくろに入れ、あたかも南京豆なんきんまめなどのごとく大道店で売っているのを子供こどもらが買うて食う。一袋ひとふくろの中にははさみの数が何十もあるが、はさみかに一匹いっぴきについて一つよりないゆえ、一袋ひとふくろはさみを取るにはかに何十匹なんじゅっぴきころさねばならず、すこぶるむだなように考えられるが、その地方ではけっしてかにをいちいちころすのではなく、ただ一方のはさみを切り取るだけで、自身は生きたままがしてやり、新しいはさみが大きくなったころまたこれをとらえてはさみだけを切り取るのである。かつて人の話に、ぶたももの肉を一斤いっきん(注:600g)ぐらいそぎ取っても、しばらくでなおるゆえ、一匹いっぴきうておけば年中肉が食えると聞いたが、かにはさみつめもあたかもこれと同様なつくり話のように聞こえる。しかしこのほうは実際じっさいである。

「くもひとで」のキャプション付きの図
くもひとで

 海岸の石を起こすと、その下に「ひとで」、「くもひとで」などがたくさんにいるが、このるいうしなうた体部をふたた回復かいふくする。とくに「くもひとで」のほうはうでがもろくて、よほど鄭重ていちょう取扱とりあつうてもうで途中とちゅうれて、完全かんぜん標本ひょうほんられぬことが多い。しかしたちまちれ口から新たなうでの先が生じてびるゆえ、他のものとそろうようになる。何匹なんびきとらえて見ると、うで中途ちゅうとだんがあって、それより先はにわかに細くなって、色のうすいものがたくさんにあるが、これはみなれた後に復旧ふきゅうしかかっているところである。すなわち「くもひとで」のるいも、てきに体の一部をとらえられた場合には、すみやかにその部をててって、全身てきに食われることをまぬがれるが、後にまた少時で回復かいふくするから、損失そんしつはわずかに一時のことにすぎぬ。命を全うせんがために身体の一部を犠牲ぎせいきょうすることは、普通ふつうの動物にとってはずいぶん苦しい事であるが、ここにれいにあげたごとき回復かいふく力のさかんな動物から見れば、実に何でもないことで、かつ日々行なう予定の仕事である。列強の圧迫あっぱくえかねて、やむをず一部分ずつを割愛かつあいするろう大国などから見れば、これらの動物は如何いかにもうらやましく思われるであろう。
 以上いじょう若干じゃっかんれいについてべたとおり、てきに食われぬためにはさまざまの手段しゅだんがあって、尋常じんじょうに勝負を決することのほかに、げるほうかくれるほうめられても平気でいるほう脅喝きようかつによって一時をしのぐほう、身体の一部を切り取らせてあきらめるほうなどがつねに用いられている。目的もくてきとするところは一つであるが、それぞれ一長一短があって、いずれを最上さいじょうさくということはできぬ。ようするに自然じぜん界には絶対ぜったい完全かんぜんなというものはけっしてなく、何事もただ間に合うという程度ていどまでに進んでいるだけであるが、食う方法ほうほうでも、食われぬ方法ほうほうでも、他と競争きょうそうして自分の種族しゅぞくを後にのこすのに間に合いさえすれば、それで目的もくてきにかのうていると見なさねばならぬ。


第六章 詐欺さぎ


 てきめるに当たっても、その攻撃こうげきふせぐに当たっても、てきをくらませて、自分のいるのをさとらしめぬことはすこぶる有利ゆうりである。てきが知らずにいれば、不意ふいにこれをめてたやすく打ちとることもできる。てきが知らずに通りせば、全く危難きなんをまぬがれることができる。いずれにしてもこのくらい、都合つごうのよいことはないゆえ、生物界においては、詐欺さぎは食うためにも食われぬためにもきわめて広く行なわれている。しこうしてだましてらす動物は代々だますことに成功せいこうせねば生活ができず、その相手の動物は代々だまされぬことに成功せいこうせねば餓死がしするをまぬがれぬから、一方のだます手際てぎわと他方のだまされぬ眼識がんしきとは、つねに競争きょうそうのありさまであいともなうてますます進んで行く。あたかも器械きかい精巧せいこう錠前じょうまえつくれば、直ちに盗賊とうぞくがこれを開く工夫くふうを考え出すゆえ、さらになおいっそう巧妙こうみょう錠前じょうまえつくらねばならぬのと同じである。されば精巧せいこう錠前じょうまえ盗賊とうぞくつくらせると言いるごとく、動物界に見るたくみな詐欺さぎ手段しゅだんは、みなそのてきなる動物が進歩発達はったつせしめたと言うことができよう。すなわち詐欺さぎのつたないものは、代々てきが間引き去ってくれるゆえ、たくみなもののみが代々後にのこって、ついに次にべるごときものが生じたのであろう。

一 色のいつわ


 動物の色が、その生活する場所の色とあい同じためにすこぶるまぎらわしいれいは、ほとんど際限さいげんなくある。

「樹皮に似た蛾」のキャプション付きの図
樹皮じゅひ

緑色の「いなご」が緑色のいねの葉に止まっているとき、黄色い胡蝶こちょうが黄色いの花に休んでいるとき、土色のすずめが土の上にりているとき、ねずみ色のねずみ色のみきにとまっているときなど、いずれもよほど注意せぬと見落しやすい。また潮干しおひに海へ行って見ると、あさそこすなの上に「かれい」、「こち」、「はぜ」、「かに」などがいるがいずれもみな砂色すないろすなのような斑紋はんもんがあるので、静止せいししていると少しも見えぬ。それゆえ、ときどき知らずに「かざみ」などをんで、急にはい出されて大いにびっくりすることがある。アジア、アフリカ等の広い砂漠さばくに住する動物は獅子しし駱駝らくだ羚羊かもしかなどの大きなけものからねずみ、小鳥などにいたるまで、さまざまの種類しゅるいことなった動物が、のこらず淡褐色たんかっしょく砂漠さばく色をていしている。これと同様に年中雪のえぬ北極ほっきょく地方へ行くと、きつねでもくまでも全身純白じゅんぱくで、雪の中ではほとんど見分けがつかぬ。

「雷鳥」のキャプション付きの図
雷鳥らいちょう
(上)冬の羽毛 (下)夏の羽毛

 右にてややおもしろいのは、日本の東北地方にいる「越後えちごうさぎ」や高山こうざん頂上ちょうじょうむ「雷鳥らいちょう」である。これらは冬雪のもっているころは純白じゅんぱくで雪とまぎらわしく、夏雪のないころは褐色かっしょくで地面の色によくている。周囲しゅういの色のわるころには、そこに住む鳥獣ちょうじゅうの毛もわって同様に変化へんかするのも、やはりかように変化へんかせねばてきめられて生存せいぞんができぬゆえであろうが、さてかかる性質せいしつはもと如何いかにして起こり、如何いかにして完成かんせいしたかは、なかなか困難こんなんな問題で容易ようい説明せつめいはできぬ。しかしかりに外界の色はいくぶんずつか動物の色に影響えいきょうをおよぼすもので、その上、冬は雪の色にもっともたもの、夏は地面の色にもっともたものだけが代々生きのこるものと想像そうぞうすれば、以上いじょうのごとき事実は必然ひつぜん生ずべき理屈りくつと思われる。

「帯くらげ」のキャプション付きの図
おびくらげ

 海の表面に浮游ふゆうしている動物には、無色むしょく透明とうめいなものがすこぶる多い。これを集めて見ると、ほとんどあらゆる種類しゅるいの代表者があって、中にはこのような動物にも透明とうめい種類しゅるいがあるかとおどろくようなものも少なくない。くらげには全く透明とうめいなものがいくらもあるが、「おびくらげ」としょうする帯状おびじょうのくらげなどは、長さが二尺にしゃく(注:60cm)、はば二寸にすん(注:6cm)近くあるものでも、あまり透明とうめいなためにれぬ人にはの前にいても見えぬことがある。ただしる角度のところからながめると、うす虹色にじいろつやが見えてすこぶる美しいゆえ、ヨーロッパではこのくらげのことを「あいの女神ビーナスのおび」と名づける。また貝類かいるい普通ふつう不透明ふとうめいなものばかりであるが、海の表面にかんでいる特別とくべつ種類しゅるいになると、身体が全く無色むしょく透明とうめいではなはだ見いだしにくい。大きなものは長さ一尺いっしゃく(注:30cm)にもたつするが、普通ふつう貝類かいるいとはよほど外形がちがうから、知らぬ人はこれを貝類かいるいと思わぬかもしれぬ。「たこ」の仲間なかまでも「くらげたこ」としょうする一種いっしゅのごときは全身ほとんど無色むしょく透明とうめいで、ただ眼玉めだま二つだけが黒く見えるにすぎぬゆえ、そこに「たこ」がいることにはだれも気がつかぬ。正月のかざりにつける伊勢いせえびは、生では栗色くりいろれば赤色になって、いずれにしても不透明ふとうめいであるが、その幼虫ようちゅう時代には全く体形が親とはちがうて、水面みなもかんでいる。しこうしてそのころには全く無色むしょく透明とうめいで、ガラスでつくったごとくであるから、よほど注意せぬと見逃みのがしやすい。
 魚類ぎょるいにも、往々おうおう無色むしょく透明とうめいなものがある。うなぎ、「あなご」などの幼魚ようぎょは多くは海のそこに近くんでいるが、あみにかかったものを見ると、きわめて透明とうめいで水の中ではとうてい見えぬ。魚類ぎょるいでも鳥類ちょうるい獣類じゅうるいでも血は赤いものと定まっているが、鰻類うなぎるい幼魚ようぎょでは血も水のごとくに無色むしょくである。それゆえ、人のに見える部分はただ、頭にある一対の小さな眼玉めだまだけにすぎぬ。漁師りょうしは昔からこの魚を見てはいるが、鰻類うなぎるい幼魚ようぎょとは知らず、別種べっしゅの魚と見なして「ビイドロ魚」と名づけている。

「かつおのえぼし」のキャプション付きの図
かつおのえぼし

 海岸から少しくおきへ出て、かつおなどの取れるへんまで行くと、海の表面に「かつおのえぼし」と名づける動物がたくさんにいている。その一つを拾い上げて見ると、あたかも小さな空気まくらの下へふさをつけたごとき形のもので、水上にあらわれている部分は白色、水中にひたっている部分はあい色である。ふさのごとくに見えるものは、実は「さんご」や「いそぎんちゃく」にた動物個体こたいの集まりで、つねに小さな魚類ぎょるいなどを食うているが、これをとらえるために伸縮しんしゅく自在じざいな長いひも幾本いくほんとなく水中にれている。しこうしてこのひもにはところどころに特殊とくしゅどくとげがあって、人間の皮膚ひふにでもれると、せつしたところだけ赤くなってはげしくいたむくらいであるゆえ、小さい魚などはこれにうとたちまちころされ、引きずり上げられて食われてしまう。されば、この動物が小魚こざかなとらえるには水中に見えぬことが必要ひつようであるが、黒潮くろしおの水の中であい色をしているのは、そのためにはもっとも都合つごうがよろしい。また水面上にあらわれている部分が白色であるのは、波の泡立あわだっているのとまぎらはしくて、うえから見てはなかなか区別くべつができぬ。このほかに「かつをのかむり」と名づける動物も、同様のところに住み同様の生活をしているが、外形がややことなるにかかわらず、やはり水上の部は白色、水中の部は濃藍こいあい色である。
 以上いじょうはいずれも動物の色がつねにその住む場所の色と同じであるために、そこにいながらあたかもおらざるごとくによそおうて、食うことおよび食われぬことに便宜べんぎているものであるが、る動物では体の色が行く先々でわって、どこへ引っしてもあいわらず留守るすを使うことができる。
「カメレオン」のキャプション付きの図
カメレオン
アフリカの北部にさんする「やもり」るい一種いっしゅにして,つねに樹上じゅじょうみ,昆虫こんちゅうを見れば急に長きしたばしその先端せんたん粘着ねんちゃくせしめてとらえ食う。随意ずいいに体色をへんじてそのいるところと同色となるをもって有名なり。

この点でもっとも有名なのは「カメレオン」のるいである。皮膚ひふの内にある種々しゅしゅ色素しきそがあるいはかくれあるいはあらわれるために、その混合こんごう程度ていどしたがうて実にさまざまの色が生ずる。しこうして、その色はいつも自分のいる場所の色と同じにすることができて、緑葉の間におれば全く緑色となり、褐色かっしょくえだの上では褐色かっしょくとなり、白紙の上にけばほとんど白に近いあわ灰色はいいろとなり、炭の上にせればきわめてい暗色となるから、いつも外界の物とまぎらはしくて見つけがたい。いったいこの動物はえだにとどまって、んで来る昆虫こんちゅうを待っているもので、これをとらえるにあたってはきわめて長いしたを急にのばし、あたかも子供こどもが、とりもち竿さおで「とんぼ」を取るごとくにしてとらえるが、身体の色がいつも周囲しゅういと同じであるゆえ、虫は何も知らずにその近辺きんぺんまでんで来る。つねには長いしたを口の中におさめているゆえ、下顎したあごの下面は半球形にふくれ、かつ左右の別々べつべつに動かすゆえ、容貌ようぼう如何いかにも奇怪きかいに見える。身体の色が周囲しゅういの色と同じであることは、昆虫こんちゅうおどろかしめぬためのほかに、てき攻撃こうげきをまぬがれるの役にも立つであろうから、これは食うためにも、食われぬためにも至極しごく有利ゆうりなことであろう。わが国にさんする雨蛙あまがえるなども、いる場所しだいで随分ずいぶんいちじるしく色をえるもので、緑葉にとまっている間はあざやかな緑色でも、枯木かれきの皮の上にくればこれに褐色かっしょくになる。なおその他、体の色を種々しゅしゅへんずる動物のれいはいくらもあるが、多くは周囲しゅういの色にまぎれて身をかくすためである。

二 形のいつわ


 色や模様もようのみならず身体の形までが何か他物にていれば、てきをくらますにはむろんさらに都合つごうがよろしい。

「木の葉虫」のキャプション付きの図
木の葉このは

琉球りゅうきゅう八重山やえやまへんさんする「木の葉ちょう」が枯葉かれはていることや、内地に普通ふつうに見るくわの「枝尺取えだしゃくとり」がくわ小枝こえだにそのままであることは、小学読本にも出ていてあまり有名であるゆえ、ここにはりゃくして二三の他のれいをあげて見るに、東印度インドさんする「木の葉このは虫」などはそのもっともいちじるしいもので、「いなご」のるいでありながら身体は平たくて木の葉のごとく、六本の足の節々ふしぶしまでがそれぞれ平たくて小さな葉のように見え、はねの上にたたんでいると、はねすじがあたかも葉脈はみゃくのごとくに見える。しこうして全身緑色であるゆえ、緑葉の間にいるとだれの目にもれぬ。印度インドコロンボの博物館はくぶつかんには、玄関げんかんの入口に生きた「木の葉虫」がたくさんうてあったが、その真に緑色の木の葉にていることはだれもおどろかぬものはない。この虫にかぎらず、およそ他物に酷似こくじするには、色も形もともにその物と同じでなければならぬゆえ、形のている場合にはむろん色もきわめてよくている。
 同じく「いなご」るいのものに「七節ななふし」という昆虫こんちゅうがある。これは体が棒状ぼうじょうに細長く、足を前と後とに一直線にばすと、全身があたかも細いえだのごとくに見えてすこぶるまぎらわしい。中央アメリカにさんする「七節ななふし」のるいには、体の表面からこけのごとき形の扁平へんぺい突起とっきがたくさんに出ているが、つねにこけのはえているような場所に住んでいるゆえ、見分けることがとく困難こんなんである。

「木の葉かまきり」のキャプション付きの図
木の葉かまきり

「かまきり」のるいにもたくみに木の葉をまねているものがある。内地さん普通ふつうのものでも色が緑または枯葉かれは色であるゆえ、緑葉や枯草かれくさの間にいると容易よういにはわからぬが、東印度インドさんする一種いっしゅではどうの後半も扁平へんぺいであり、後足の一節いっせつも平たくなっているので、灌木かんぼくえだにとまっていると、その葉とまぎらはしくてとうてい区別くべつができぬ。

「蘭の花かまきり(右)」のキャプション付きの図
らんの花かまきり(右)

さらにたくみなのは、らんの花にたものである。これも印度インドさんであるが、身体の各部かくぶがそれぞれらんの花の各部かくぶて、全部そろうと形も色もらんの花のとおりになる。胸部きょうぶはばが広くて上向きの花瓣かべんのごとく、腹部ふくぶも平たくて下向きの花瓣かべんのごとく、前翅まえはね後翅うしろはねとは両側りょうがわに出ている花瓣かべんのごとくで、かつつねにこれを左右に開いているゆえ、よほど注意して観察かんさつせぬと虫か花か識別しきべつができぬ。この「かまきり」はかような花にまぎらわしい形をして、花に交じって待っていると、多くの昆虫こんちゅうが花とあやまって近よって来て、容易よういとらえられ食われるのである。

「蟻くも」のキャプション付きの図
ありくも
右側みぎがわの葉の上部にいるのはありたくも。下部にいるのは真のあり

「くも」のるいにもたくみに他物をまねてえさとらえるものがいくつもある。庭園のの葉の上には往々おうおうすこぶるありた「くも」が走り歩いているが、これは「ありくも」と名づけてつねにありとらえて食う種類しゅるいである。いったいならばありには足が六本あり「くも」には足が八本あって、身体の形状けいじょうも大いにちがうはずであるが、「ありくも」ではどうの形も色も全くありのとおりであるのみならず、一番前の足はあり触角しょっかくのように前へし出してあたかも物をさぐるごとくに動かし、のこりの六本の足だけではいまわるゆえ、挙動きょどう如何いかにもありらしく見える。これはアフリカの土人が砂漠さばく駝鳥だちょうとらえんとするにあたって、まず駝鳥だちょうの皮をかぶり、その挙動きょどうをまねしておどろかしめぬように駝鳥だちょうに近づき、急に矢を放ってこれをころすのと同じ趣向しゅこうで、すこぶる巧妙こうみょう詐欺さぎである。また草原には時々緑色で細長い「くも」がいるが、これは四本の足を前へ、四本の足を後へ、一直線にそろえてばすと、全身が細長い緑色のぼうのごとくになって、しのなどの若芽わかめとほとんど区別くべつができぬ。かように「くも」るいには種々しゅしゅ他物をまねるものがあるが、その中でも一番ふるっているのは、おそらく鳥のふん種類しゅるいであろう。これについては熱帯ねつたい地方を旅行した博物はくぶつ学者のおもしろい報告ほうこくがいくらもある。る一人は終日大形のちょうとらえようとさがしまわったすえ、の葉の上にある鳥のふん一匹いっぴきとまっているのを見つけ、大喜おおよろこびでき足し足これに近づいたところが、ちょうはいっこうげる様子もないので、しずかに指をもってこれをとらえた。しかるにちょうどうは半分に切れて、一方は鳥のふん付着ふちゃくしたままではなれなかったゆえ、不思議ふしぎに思うて指でれて見たところが、今まで鳥のふんであると思うたものは、実は一匹いっぴきの「くも」であって、を下にし、腹側はらがわを上に向け、足をちぢめていたのである。新たに落ちた鳥のふんは、中央の部はあつくて純白じゅんぱく色と黒色との交じった斑紋はんもんがあり、周辺しゅうへんの部は少しく流れてうすい半透明とうめいそうができるが、この「くも」は糸をもって木の葉の表面に適宜てきぎの大きさのうすそうをつくり、その中央にを下にしてすべらぬように足のかぎで身をささえながら、終日静止せいししてちょうの来たり近づくのを待っている。かような計略けいりゃくがあろうとはゆめにも知らぬから、ちょうはいつものとおり鳥のふんと思うて「くも」の上に止まり、たちまちとらえられ血をわれるのである。

「木の葉蟹」のキャプション付きの図
木の葉このはかに

 海産かいさん動物にも他物をまねててきをくらますものがずいぶんたくさんにある。かにでも運動のおそ種類しゅるいは何かの方法ほうほうてき攻撃こうげきをのがれようとつとめるが、「木の葉かに」と名づけるものでは、こう両側りょうがわから不規則きそくな平たい突起とっきが出て、あたかも海藻かいそうのごとくに見えるから、海藻かいそうの上に止まっているときはほとんどこれと見分けられぬ。また「石ころかに」ではこう石塊いしくれのごとき形で、その裏面りめんには足やはさみがちょうどはまるようになっているゆえ、足をちぢめていると全身が丸で小石のとおりになる。

「海草魚」のキャプション付きの図
海草魚

魚類ぎょるいの中でも「たつのおとしご」や「ようじうを」などが褐色かっしょくの間にいると、すこぶるまぎらわしくて見いだしにくいものであるが、オーストラリアへんの海にさんする「海草魚」のごときは、身体の各部かくぶから海藻かいそうのようなびらびらしたものが生じ、これが水にられているゆえ、海藻かいそうの間に静止せいししているときは、そこに魚がおろうとはとうていだれにも気がつかぬ。

三 擬態ぎたい


 以上いじょうべたごとく、動物にはてきをくらますために、色も形も他物にたものがすこぶる多く、ただ色だけが周囲しゅういの色に一致いっちしているものは、ほとんど枚挙まいきょにいとまないほどであるが、またその反対に周囲しゅういとはいちじるしく色がちがうてそのため、格段かくだん立って見える動物がないこともない。かようなものはたいてい昆虫こんちゅうなどのごとき小形のもので、しかも味が悪いか、悪臭あくしゅうはなつか、どくがあるか、はりでさすか、何か一角いつかど護身ごしん方法ほうほうそなえている種類しゅるいかぎる。たとえばはちのごときはその一例いちれいで、家ののきをつくる普通ふつう黄蜂きばちでも、樹木じゅもくの高いえだに大きなをこしらえる熊蜂くまばちでも、身体には黄色と黒との入り交じったいちじるしい模様もようがあって、遠方からでも直ちにそのはちであることが知れる。これは前にべた種々しゅしゅの動物が、詐欺さぎ手段しゅだんによって、相手のをくらますのとちがうて、かえっててきの注意を引いてそんであるごとくに思われる。が、この場合には少しく事情じじょうちがう。すなわちはちにはするどはりがあって、これにさされるとすこぶるいたいから、一度こりた鳥はけっしてふたたびこれをとらえようとはせぬ。とく熊蜂くまばちのごとき大きなはちはさすこともはげしくて、子供こどもなどは往々おうおうそのために死ぬことさえある。先年京都の文科大学の先生たちが山へ遠足に出かけ、途中とちゅう山蜂やまばちを見つけてたたいたところが、数百匹すうひゃっぴきはちび出してめかかったのでみなみな大いに狼狽ろうばいしたとの記事が新聞に出ていたが、えらい人々でも閉口へいこうするくらいであるから、たいていの動物がこれをけいして遠ざけるのはもっともである。しこうしてけいして遠ざけられるためには、まずもって他とたやすく識別しきべつせられる必要ひつようがあるが、いちじるしい色彩しきさいをそなえているのはそのためにはすこぶる都合つごうがよろしい。昆虫こんちゅうなどのごとき小形の動物で、とくに目だつような色のものは、多くはかような理屈りくつで、生存せいぞん上他と識別しきべつせられることを利益りえきとする種類しゅるいかぎるようである。
 しかるに不思議ふしぎなことには、味も悪くなく悪臭あくしゅうも放たずどくもなくさしもせぬ昆虫こんちゅうで、しかもいちじるしい色彩しきさいを有するものが何種類しゅるいかある。しこうしてこれらは、よく調べて見るとかなず同じ地方にさんして鳥類ちょうるいなどにけいして遠ざけられている種類しゅるいのいずれかにすこぶるよくている。

「すかしば」のキャプション付きの図
すかしば

たとえばるいに「すかしば」と名づけるものがあるが、他の蛾類がるい通常つうじょう灰色はいいろまたはねずみ色でいっこう目だたぬに反し、体には黄色と黒との横縞よこじまがあってすこぶるいちじるしい。いったい、ちょうるい鱗翅りんしるいというて、はねは一面細かい鱗粉りんぷんでおおわれて不透明ふとうめいであるのが規則きそくであるに、このではさなぎの皮をぐやいなやはねふるうて鱗粉りんぷんを落としてるゆえ、例外れいがいとして全く透明とうめいである。その上他のるいは昼はかくれ夜になってびまわるものであるが、このは昼間日光の当たっているところをこのんでんでいる。かくのごとく白昼はくちゅう身をあらわすことを少しもおそれぬが、そのんでいるところを見るとまるではちのとおりであるゆえ、はち見誤みあやまられててき攻撃こうげきをまぬがれることができる。外見がはちていれば、てき攻撃こうげきをのがれるのぞみが多いゆえ、「すかしば」のほかにもちょっと、はち昆虫こんちゅうはいくらもあるが、かようにてきに食われぬために、他種類たしゅるいることを擬態ぎたいと名づける。
 くわの木につく「とらかみきり」もすこぶるはちている。これは甲虫こうちゅうで、名前のとおり「かみきりむし」の一種いっしゅであるが、他のものとはちがい、体に黄色と黒とのあらい横縞よこじまがあるゆえ、よほどはちまぎらわしい。その上、頭、むねどうなどの大きさの割合わりあいや、その間のくびれ具合いなども、普通ふつうの「かみきりむし」とはことなって、かえってはちの外形に近い。はちている昆虫こんちゅうるい甲虫類こうちゅうるいのほかにもなおいくらもある。はえと同じ仲間なかま昆虫こんちゅうにも、んでいる姿すがたがあたかもはちのとおりに見えるものが少なくない。それゆえかような種類しゅるいは、子供こどもなどはつねに蜂類はちるい混同こんどうしておそれている。
 擬態ぎたいのもっともおもしろいれいは外国さん蝶類ちょうるいにある。蝶類ちょうるいの中には飛翔ひしょうすみやかで、たくみにてきからげるもの、色や形が他物にてきの注目をまぬがれるもの、味がすこぶる悪いために鳥のほうがけてついばまぬものなどがあるが、味の悪い種類しゅるいとくにあざやかな色をていし、ゆらゆらとおそくせがある。しかるに南アメリカさんちょうなどを調べると、味の悪くないるいぞくしながら自分らの仲間なかまとははねの形も色もいちじるしくちがうて、かえって味の悪い種類しゅるいと見分けのつかぬほどにているものが幾種いくしゅも見いだされる。はねの形や色は如何いか変化へんかしてもはねみゃく容易よういわらぬゆえ、かようなちょうはねみゃく検査けんさせられては素性すじょうかくすわけにはゆかぬが、これなどは実に擬態ぎたい模範もはんともいうべきもので、見誤みあやまらせててき攻撃こうげきをまぬがれることに成功せいこうしているのである。

「昆虫の擬態」のキャプション付きの図
昆虫こんちゅう擬態ぎたい

 なお上に図をかかげたのは、皮がかたくて食えぬ虫と、味が悪くて食えぬ虫、およびこれらにた他の昆虫こんちゅうるい擬態ぎたいである。下のだんにならべたのはいずれも甲虫類こうちゅうるいで、きわめて皮のあつい「こくぞうむし」と、味の悪い「てんとうむし、」また上のだんのは、これらにた「かみきりむし」と「いなご」とであるが、その中でも、「いなご」のるい甲虫こうちゅうとは全くべつの組にぞくするにもかかわらず、あたかも「こくぞうむし」や「てんとうむし」のごとくに見えるように、体の形状けいじょうが全く変化へんかしている。「いなご」の中にはありのとおりに見える種類しゅるいがあるが、これなどは身体がまさにありのごとき形になって、むねはらとの間にくびれができたのではなく、彩色さいしょくによってたくみにあり姿すがたをまねているにすぎぬ。また南アメリカにさんするあり一種いっしゅで、つねに木の葉をかみ切って一枚いちまいずつくわえて歩くもののあることは前にべたが、このありに交じって歩く一種いっしゅのありまきるい昆虫こんちゅうは、から緑色の平たい突起とっきたてに生じて、あたかもありが緑葉をくわえているごとくに見える。これなどは擬態ぎたいの中でももっとも巧妙こうみょうなもののれいで実におどろくのほかはない。

四 しのびのじつ


 動物の中には、てきをくらますために他物をもって身体をおおうものがある。庭園の樹木じゅもくなどにたくさんにく「蓑虫みのむし」はその一例いちれいで、の皮や枯葉かれは破片はへんせ集めて小さなつつをつくり、その中に身をしずめているゆえ、なかなか生体が見えぬ。蓑虫みのむしはみな小さなるい幼虫ようちゅうで、つねに木の葉を食する害虫がいちゅうであるが、「かいこ」などと同じく幼時ようじには口から糸を出すことができるゆえ、これを用いてさまざまな物をつなぎ合わせてつつをつくるのである。

「いさごむし」のキャプション付きの図
いさごむし

またとは全くべつ昆虫こんちゅうるいで、その幼虫ようちゅうが他物を集めてつつをつくるものがある。これは「いさご虫」と名づけるもので、幼虫ようちゅうは水の中に住み、糸をもって細かい砂粒すなつぶなどをつなぎ合わせ、その中に身体を入れ、頭と足だけを出して水中を匍匐ほふくし食物をさがして歩く。枯葉かれはじくの皮のすじなどを集めて、あたかも陸上りくじょう蓑虫みのむしと同じようなつつをつくるものは、みぞの中にも普通ふつうにいるが、石粒いしつぶを集めるものであると、つつの形がいくぶんか人形らしくなることもある。周防すおう(注:山口県南東部)の錦帯橋きんたいきょうへん土産みやげに売っている「人形石」としょうするものは、このるい幼虫ようちゅうの住んだつつである。これらの幼虫ようちゅう成長せいちょうすると水上に出て皮をぎ、「とんぼ」にた虫となって空中をぶが、幼時ようじはかくのごとく他物をもって身をおおい、てきをくらましているありさまは陸上りくじょう蓑虫みのむしと少しもことならぬ。
 樹木じゅもくみきのへこんだところをさがすと、「やにさしがめ」と名づける虫が往々おうおういるが、これは体の表面にあぶらのようなものですなつぶをたくさんにけているため、足をちぢめて静止せいししていると、すなつぶだけのごとくに見えて、虫のいることはちょっと知れにくい。また海岸の岩石に多数に付着ふちゃくしている「いそぎんちゃく」にも、体の表面に砂粒すなつぶけているものがすこぶる多い。口をじ体をちぢめているときは、ただすなばかりに見えるゆえ、目の前に「いそぎんちゃく」がたくさんいてもたいていの人は知らずにとおりすぎる。かつて房州ぼうしゅう(注:千葉県南端)館山湾たてやまわんおきの島で、三尺さんしゃく(注:90cm)四方のところに、百匹ひゃっぴき以上いじょうもかぞえたことがあるが、かように多数にいるところでも、ただ表面を見ただけでは少しもこれに気がつかぬ。

「平家蟹」のキャプション付きの図
平家へいけかに

平家へいけかに」はこうの表面に凸凹でこぼこがあって、それがあたかもうらおこっている人の顔のごとくに見えるので有名であるが、これも姿すがたかくすことがすこぶるうまい。普通ふつうかにには足が四対あって、走るときにはこれをことごとく用いるが、平家へいけかにでは、四対ある足の中で前の二対だけははうのに用いられ、後の二対は上向きに曲がって、つねに空いた貝殻かいがらささえる役をつとめる。それゆえこのかにが海のそこ静止せいししているときは、あたかも死んだはまぐり貝殻かいがら一枚いちまいはなれて落ちているごとくに見えて、その下にかにかくれていることは少しも分からぬ。かように平家へいけかには年中貝殻かいがら背負せおうて歩き、自身のこう露出ろしゅつすることがないが、つねに保護ほごせられている体部がしだいに弱くなるのは自然じぜん規則きそくであると見えて、他のかにるいにくらべるとこうがややうすくて、内部にある種々しゅしゅ器官きかんのある位置いちが表面から明らかに知れる。普通ふつうかにではこうあつくて、その表面は平滑へいかつであるが、平家へいけかにでは筋肉きんにく付着ふちゃくしているところなどがいちじるしくへこんでいるゆえ、心臓しんぞうのあるところ、のあるところ、えらのあるところ、肝臓かんぞうのあるところが、みな判然はんぜんさかいせられ、その形が偶然ぐうぜん人のおこった顔にているので、平家へいけの人々の怨霊おんりゆうであるなどとの伝説でんせつを仕組まれた。ただしこのかにはけっして平家へいけ討死うちじにした壇の浦だんのうらへんかぎさんするものではなく、日本沿岸えんがんにはどこにもいるであろう。げん東京湾とうきょうわんでもあみを引くといくらもかかってくる。また前の二対の足は匍行ほこうに用いられるから、普通ふつうかにの足と同じ形状けいじょうであるが、後の二対は役目がちがうから形もよほどちがうて短く小さく、かつ先端せんたんつめ貝殻かいがらたもつことのできるように半月形に曲がっている。その上、根元の位置いちこうの上面のほうへうつって、こう後端こうたんに近いところからあたかもきばがはえているごとくに左右へき出しているので、顔の相がますますおにらしく見える。このかになまのときはどろのような色であるが、かにでもえびでもると、他の色素しきそ分解ぶんかいして赤色のものがのこるゆえ、一度ゆでたら、先年帝劇ていげき平家へいけかにという外題の狂言きょうげんにたくさん出したような赤いものとなるであろう。
 足で他物をささえて身体をかくかには、平家へいけかにのほかにも幾程いくほどもある。その中でもっとも普通ふつうなものは海綿かいめん背負せおうているかにであるが、やはりこのるいでも、四対の足のうち、後の二対は短くて上向きになり、その先端せんたん鉤状かぎじょうつめでつねに海綿かいめんを引っけてはなさぬようにしている。しこうして海綿かいめんのほうには、またちょうどかにの丸いこうのはまるだけのくぼみがあって、あい重なっているときはその間に少しも空隙くうげきがない。その上おもしろいことには、このくぼみの内面の両側りょうがわには二つずつ小さなあながあって、足のつめがこれにかかるようにできている、されば、このかにはどこへ行くにも海綿かいめん背負せおうたままでもしあぶないと思うときにはたちまち静止せいしし、足やはさみを引きめてあたかも海綿かいめんだけのごとき外観がいかんよそおうて、たくみにてき攻撃こうげきをまぬがれるのである。
 平家へいけかにでも「海綿かいめんかに」でも、足を用いてわざわざ他物をの上にささえているのであるが、かにるいは海草や海綿かいめんなどを自身のこうや足の表面に直ちに植えけて姿すがたかくしている。海のあさいところであみを引くとかようなかにはいくらもかかってくるが、海草などにじているとほとんどにつかぬ。かにるい昆虫こんちゅうなどと同じく成長せいちょうする間にたびたび皮をぐが、えた当座とうざはむろん皮は綺麗きれいである。しかるに外国の水族館で飼養しようした実験じっけんによると、このるいかに脱皮だっぴ後直ちに適当てきとうな海草や海綿かいめんえらんで、自身でこれをこう粘着ねんちゃくせしめ、暫時ざんじの後にはふたたび全身がほとんど見えぬほどに、他物をもっておおわれてしまう。

「熊坂貝」のキャプション付きの図
熊坂貝くまさかがい

 巻貝まきがいの中にも「熊坂貝くまさかがい」と名づけるものがあるが、これも同様の手段しゅだんで身体をかくしている。この貝は摺鉢すりばちをふせたようなたけひく巻貝まきがいであるが、貝殻かいがらの外部には一面に他の貝殻かいがらまたは小石などをけているゆえ、海底かいてい静止せいししているときには、そこに生きた貝がいるとはとうてい見えぬ。小石や貝殻かいがら破片はへんなどが、この貝の貝殻かいがらの表面に付着ふちゃくしているありさまは、あたかもセメントてかためたごとくであるゆえ容易よういにははなれぬ。この貝をたくさん集めて見ると、その中には小石のみをつけたもの、小さな巻貝まきがいからのみをつけたもの、主として二枚貝にまいがい破片はへんをつけたものなどがあるが、これはいずれもその住んでいる海のそこに落ちている物が、場所場所によって同じでないゆえ、それぞれ自分のいるところに普通ふつうな物を取ってつけているのであろう。

五 死んだ真似まね


 イソップ物語の中に、二人の友達ともだちが森の中でくま出遇であうたとき、げおくれた一人が地上に横たわり、死んだ真似まねをして無事ぶじに助かったという話があるが、実際じっさい動物の中には死んだえさは食わぬものがある。かような動物に出遇であうた時は、動くことはすこぶる危険きけんで、一時死んだ真似まねをしていればその攻撃こうげきをまぬがれることができる。小さな動物には、つねにこの方法ほうほうを用いて食われることをまぬがれているものがけっして少なくない。昆虫こんちゅうるい採集さいしゅする人はだれも知っているであろうが、甲虫こうちゅうなどにも指でつまむとたちまち足をちぢめたままで転がしても落としても少しも姿勢しせいあらためず、全く死んだとおりに見せるものがいくらもある。また、「くも」のるいにもとらえると直ちに死んだ真似まねをして、足をちぢめて動かぬものがすこぶる多い。これらはいずれもとらえられそうになっても、げもせずかくれもせずたん静止せいしするだけであるゆえ、採集さいしゅ者のほうからいうとこのくらい都合つごうのよいことはない。
 かような動物が実際じっさいどれほどまでてき攻撃こうげきをまぬがれるかは、自然じぜんの生活状態じょうたいくわしく観察かんさつしなければわからぬことであるが、相手となる動物について実験じっけんして見ても大体の見当はつく。昆虫こんちゅうるいを主として食う「ひきかえる」で実験じっけんして見るに、何でも動くものには直ちに注目するが、動かぬものは少しもかえりみない。小さく丸めた紙片しへんでも、巻煙草まきたばこ吸殻すいからでも、糸でって上下に動かして見せると、たちまち近づいて来て一口にのんでしまうが、毛虫や甲虫こうちゅうのごとき日ごろもっともこのんで食うものでも、死んで動かぬようになったのは知らずにいる。また「とんぼ」などもつねに昆虫こんちゅうるいを食うているものであるが、ほとんど頭の全部をなすほどの大きなはいわゆる複眼ふくがんであって、幾万いくまん小単眼しょうたんがんの集まったものゆえ、動く物体を識別しきべつするにはとく有効ゆうこうである。博覧会はくらんかい共進会きょうしんかいへ行って見ても、脳漿のうしようしぼって工夫くふうした巧妙こうみょう器械きかいの前には見物人が少なくて、たんに人形がくびっているだけのくだらぬ広告こうこく周囲しゅういには、人が黒山のごとくに集まっているところから考えると、普通ふつうの人間も「ひきかえる」と同様に、ただ動くものにのみ注意するようであるが、死んだ真似まねをしていれば、かかる性質せいしつてきからは見のがされるのぞみが多い。また小鳥類ことりるいなどはするどで、えず注意して昆虫こんちゅうさがしているゆえ、その攻撃こうげきをまぬがれることは容易よういでないが、中にはくちばしれて見て、はい出せばこれをついばみ、動かなければ死んだものと見なして、ててかえりみぬものもあるから、死んだ真似まねをするものの何割なんわりかは無事ぶじに助かることになろう。いずれにしても、この方法ほうほう護身ごしんのためにこうそうする場合がけっして少なくない。
 死んだ真似まねをするものは、昆虫こんちゅうや「くも」のような小さな動物のみにかぎるわけではない。獣類じゅうるいの中でも、たぬきなどは昔から死んだ真似まねをするので有名なもので、いけどられてから打たれてもたたかれても少しも動かず、少々皮をはがれても知らぬ顔で我慢がまんするとまで言いつたえられている。しこうしててき油断ゆだんすれば、そのすきをうかごうてにわかにね起きげだそうとする。「たぬき寝入ねいり」という言葉は、おそらくこれから起こったのであろう。猛獣もうじゅうの中には生きたものでなければ食わぬという習性しゅうせいのものもあろうから、たぬき計略けいりゃくこうそうして、たくみに助かることもしばしばありることと思われる。
 死んだ真似まねをすることは、危険きけんに身をさらして僥倖ぎようこうを待つのであるから、かなずしも安全な方法ほうほうとは言えぬが、種類しゅるいの相手に対しては、もっとも容易よういなしかも労力ろうりょくようすることのもっとも少ない経済けいざいてき護身ごしん方法ほうほうである。たとえて言えば、言論げんろんの自由をゆるされぬ国で、新思想家が沈黙ちんもくによって刑罰けいばつをまぬがれているのと理屈りくつわらぬ。ただし自分がたしかに死んでいるかいなかをたしかめるためにてきがさまざま検査けんさする間、少しも生活の徴候ちょうこうあらわさずしてしのぶことは、おおいなる苦痛くつうであると同時に大なる冒険ぼうけんであるから、どの種類しゅるいの動物でもこれを行なうて利益りえきがあるというわけにはゆかず、ただこの方法ほうほうによって有効ゆうこうてき攻撃こうげきをまぬがれべきのぞみのある若干じゃっかん種類しゅるいだけが、専門せんもんにこれを行なうているにすぎぬ。
 以上いじょう種々しゅしゅことなったれいをあげてべたとおり、相手をあざむくということは自然じぜん界にはきわめて広く行なわれている。色や形を他物にせて、自分のいることを相手に心づかさぬことは、えさを取るにあたってもてきふせぐにあたっても同じく有効ゆうこうであるが、これを十分有効ゆうこうならしめるには、それぞれこの目的もくてきにかのうた特殊とくしゅ習性しゅうせいそなえねばならぬ。たとえば、の花の色と同じ黄色のちょうが、平気で赤い牡丹ぼたんの花に止まるようでは何の役にも立たず、如何いかくわの「えだ尺取しやくとり」がくわ小枝こえだていても、えだと一定の角度をなして止まり、体を真直ぐにして少しも動かずにいるという習性しゅうせいがなければ、とうていてきをくらますことはできぬ。それゆえ、かような動物を見ると、あたかもみな、故意こいてきあざむくことをつとめているかのごとくに思われる。また擬態ぎたいのごときも、十分こうそうするには種々しゅしゅ条件じょうけんそなわらねばならぬ。たとえば、如何いかたくみにる味の悪いちょうていても、そのちょう普通ふつうにおらず、したがって鳥類ちょうるいがそのちょうの味の悪いことを知らぬというような地方ではむろん何のこうもない。また擬態ぎたいせられるちょうよりも、これを擬態ぎたいする虫のほうが多くなれば、この場合にも無効むこうになるおそれがある。何故なぜかというに、えにせまって冒険ぼうけんてきになった鳥、または経験けいけんとぼしいわかい鳥が、このちょうをついばむとき、まず擬態ぎたいのほうを食いあてれば、その味の悪くないことをおぼえて、ことごとくこれを食おうとするから、たちまち擬態ぎたいする虫も擬態ぎたいせられるちょうも、ともに恐慌きょうこうをきたすにいたるからである。なおその他の場合においても、詐欺さぎ完全かんぜんに行なわれるには種々しゅしゅ事情じじょうがこれにてきしていなければならぬが、適当てきとう事情じじょうもとにおいては、詐欺さぎは食うためにも食われぬためにも、すこぶる有効ゆうこう方法ほうほうである。
 ようするに、動物はえさを食うため、てきに食われぬためには、あらゆる手段しゅだんを用いている。一種いっしゅごとについていえば、あるいは速力によるもの、あるいは堅甲けんこうによるもの、または勇気ゆうきによるもの、回復かいふく力によるものなど、各種かくしゅにもっともてきする方法ほうほうをとっているが、全部を通覧つうらんするとほとんど如何いかなる方法ほうほうでも用いられ、生きるという目的もくてきのためにはけっして手段しゅだんえらばぬごときかんがある。しこうして詐欺さぎはただその中の一部分にすぎぬ。人間社会では武器ぶきをもって正面からたたかうのは立派りっぱなこと、詐欺さぎで相手をおとしいれるのは卑劣ひきょうなことと見なし、その間には雲泥うんでい相違そういがあるごとくに感ずるが、全生物界を見渡みわたせば、いずれも同一の目的もくてきたつするためのことなった手段しゅだんにすぎず、けっして甲乙こうおつろんずべきものではない。すなわち詐欺さぎてきをくらますのも、かたこうてききばふせぐのも理屈りくつは全く同じことで、詐欺さぎたくみなものとこうあついものとは生存せいぞんし、詐欺さぎのへたなものと、こううすいものとはほろびる。だましたものとだまされなかったものとが代々助かって生きのこり、だましなかったものとだまされたものとがえて死ぬかころされるかするのは、あたかも水が高いところからひくいほうへ流れるとか、天秤てんびんの一方が上がれば一方が下がるとかいうのと同じく、ほとんど自明の理のごとくに思われる。ただ団体だんたいをつくって生活する動物では、同一団体だんたいの内の個体こたいの間に詐欺さぎさかんに流行したならば、その結果けっかとして協力きょうりょく一致いっちが行なわれず、全団体ぜんだんたい戦闘力せんとうりょくげんじ、てきなる団体だんたい対抗たいこうすることが困難こんなんになって、しまいに団体だんたい維持いじ生存せいぞんができなくなるが、団体だんたいほろびればむろんその中のかく個体こたいはともに滅亡めつぼうをまぬがれぬ。全生物界の中で詐欺さぎを行なうたためにばつの当たるのは、かような場合にかぎることである。


第七章 本能ほんのうと知力


 動物が生活している間は、えさを食うためてきに食われぬためにも、また子をみ子を育てるためにも、まず外界の状況じょうきょうを知り、外界に変化へんかが起きれば直ちにこれにおうずべきさくこうぜねばならぬが、主としてこのしょうに当たるものは神経系しんけいけいである。もとより神経系しんけいけい判然はんぜん発達はったつしていない生物でも、生きている以上いじょうは多少この能力のうりょくがなければならぬが、神経系しんけいけい発達はったつしたものにくらべれば、そのはたらきがはるかににぶい。

「ぞうり虫」のキャプション付きの図
ぞうり虫

たとえば一滴いってきの水の中にも無数むすう棲息せいそくる「アメーバ」や「ぞうりむし」のごとき微細びさいな動物には、べつ神経しんけいと名づくべき器官きかんはないが、光に当てれば薄暗うすぐらいほうへげ、酸素さんそあたえればそのほうへって来る。すなわちこれらの虫も、外界の変化へんかを感じ、外界の現状げんじょうを知り、不快ふかいのほうをけて心持ちのよいほうへうつろうとするが、これは神経系しんけいけい発達はったつした動物ならば、みな神経しんけいを用いて行なうはたらきである。ただ「アメーバ」や「ぞうりむし」にはとく神経系しんけいけいというものがなく、全身の生きた物質ぶしつをもってこれを行なうているというにすぎぬ。また植物でも「おじぎそう」のごときは感覚かんかくがすこぶる鋭敏えいびんで、ちょっとれても直ちに葉がじて下りる。

「アメリカ蠅取草」のキャプション付きの図
アメリカはえ取草

米国さんの「はえ取草」は、葉の表面にはえが来てとまると、たちまち葉をじてこれをとらころして食うので有名である。しかもおもしろいことには、これらの植物に麻酔薬ますいやくをかがせると、あたかもねむったごとくになって少しも動かぬ。その他「ひまわり」の花が朝は東を向き夕は西を向き、「かたばみ」の葉は昼は開き夜はじるなど、外界の変化へんかおうじて姿勢しせいことにするものはいくらもあるが、植物にはとく神経しんけいと見なすべきものはないから、これらの運動はただ身体の生きた組織そしき感覚かんかく力にもとづくことであろう。
 そもそも動物体における神経系しんけいけいの役目は、外界からの刺激しげきによって外界の事情じじょうを知り、これにおうじて身をしょするにあるが、実際じっさい身をしょするにあたってはたらくのは、主として筋肉きんにくである。しかしこれだけのはたらきは、かなずしも神経系しんけいけい筋肉きんにくとがなければできぬというわけではなく、程度ていどまでは神経しんけい筋肉きんにくなしに行なわれている。ただし、これを神経系しんけいけい発達はったつした動物にくらべて見ると、その程度ていど雲泥うんでいがあることは、あたかも野蛮人やばんじんはだれでも自分で家をつくりるが、文明国の専門せんもん技師ぎしてた大建築けんちく物とはとうてい比較ひかくにならぬのと同じ理屈りくつであろう。その代わり建築家けんちくか以外いがいの文明人はかんなの持ちようさえも知らず、すみやかに小家をてる手際てぎわにおいては遠く普通ふつう野蛮人やばんじんにかなわぬごとく、神経しんけいそなえた動物の神経しんけい以外いがい組織そしきは、「アメーバ」や「ぞうりむし」等のごとく刺激しげきおうじて適当てきとうに身をしょすることはとうていできぬ。

一 神経系しんけいけい


 植物の全部と動物中の最下等さいかとうのものとにはとく神経しんけいと名づくべきものはないが、それ以上いじょう普通ふつうの動物にはかなず身体の内に、とくに外界からの刺激しげきに感じ、これを他の体部へ伝達でんたつする力をそなえた組織そしきがある。この組織そしきは「ヒドラ」、「さんご」等のごとき下等の動物では、くもののごとくにうすく全身に広がっているにすぎぬが、それより以上いじょうの動物になると、しだいに明らかになって白い糸のごとき形にあらわれ、さらにその中に幹部かんぶとも名づくべき部分を区別くべつるようになる。幹部かんぶというのは、人間でいえばすなわちのう脊髄せきずいのことで、これと身体の各部かくぶとを連絡れんらくする細い糸がいわゆる神経しんけいである。それゆえ、神経しんけいなるものはやや高等の動物では一端いったんかな幹部かんぶつらなり、他端たたんは身体のいずれかの部分に終わっている。外界に変化へんかが起これば、まず身体の外面にある、耳、鼻、口、皮膚ひふ等が刺激しげきを受け、神経しんけいはこれを幹部かんぶ伝達でんたつする。次に幹部かんぶはさらにべつ神経しんけいを通じて筋肉きんにく刺激しげきつたえ、筋肉きんにく収縮しゅうしゅくして身体を適宜てきぎに運動させる。かくのごとく、普通ふつうの動物が外界の変化へんかおうじて適宜てきぎに身をしょしてゆくには、外界からの刺激しげきを受けつけるための感覚かんかく器官きかんと、これを処理しょり判断はんだんするための神経系しんけいけい幹部かんぶと、幹部かんぶよりの命令めいれいしたがうて収縮しゅうしゅくし運動するための筋肉きんにくとをようするが、これらのものをたがいに連絡れんらくするのは神経しんけいである。されば神経しんけいはあたかも電信でんしん針金はりがねのようなもので、、耳ないし皮膚ひふの内にある発信器はっしんきと、幹部かんぶ内の受信器じゅしんきとの間、もしくは幹部かんぶ内の発信器はっしんき筋肉きんにくせんの内にある受信器じゅしんきとの間にられてあることにあたる。また神経系しんけいけい発達はったつせぬ動物はあたかもいまだ電信でんしんのない開国のようなもので、各部かくぶの間の通信つうしんにはあるいは烽火のろしをあげ、あるいははたり、または飛脚ひきゃくを走らせ、駕籠かごばせなどして、それ相応そうおうに間に合わせているのに比較ひかくすることができよう。

「ヒドラ」のキャプション付きの図
ヒドラ

 前に名をあげた「ヒドラ」という動物は体の構造こうぞうきわめて簡単かんたんで、あたかも湯呑ゆのみコップ、またはそこのある竹のつつのごとき形をていし、口の周囲しゅういから生えている数本の糸のような指で食物をとらえて食うが、べつ肛門こうもんというものがないゆえ、消化物はまた口からき出してしまう。ぬまや池の水草に付着ふちゃくしている普通ふつう淡水たんすいさん動物で、つねに「みじんこ」などを食うているゆえ、採集さいしゅ飼育しいくきわめてたやすい。ふたまたのはりで口のところをさえながら、細いガラスぼうしりのほうからくと、あたかもふくろうら返すごとくに「ヒドラ」のやわらかい身体をうら返すことができるが、かくすると、この動物の外界に対する内外の位置いち'顛倒てんとうするから、宇宙うちゅうが「ヒドラ」のはらの内にはいったともいえる。著者ちょしゃ幼年ようねんのころ「ヒドラ」に宇宙うちゅうをのませてやるというて、しばしばこれを裏返うらがえして遊んだが、かくしてもそのままけば自然じぜんにもとにふくして、また平気で「みじんこ」などを食うている。かような簡単かんたんな動物であるから、その神経系しんけいけいのごときもきわめてあわれなもので、わずかに少数の神経しんけい細胞さいぼうが、身体の諸部しょぶ散在さんざいしているにすぎぬ。「さんご」、「いそぎんちゃく」のごとき海産かいさん動物も神経系しんけいけい発達はったつ程度ていどはほぼこれと同じである。ただしくらげるいになると、つねに浮游ふゆうしているから、、耳のはじめともいうべき簡単かんたん感覚かんかくそなわり、神経しんけい組織そしきもいくぶんか発達はったつして、かさ周辺しゅうへん沿うて細いの形にあらわれている。

「えびの神経」のキャプション付きの図
えびの神経しんけい

 神経系しんけいけい幹部かんぶ形状けいじょうは動物の種類しゅるいによって根本からちがうものがあるから、すべてを一列にならべて、これを高等、かれを下等と断定だんていするわけにはゆかぬ。だれも知っているような普通ふつうの動物だけについていうても、あいことなるかたが三つはたしかにある。すなわち一つは「えび」、かに昆虫こんちゅうるいなどのもの、一つは「たこ」、「いか」、貝類かいるいなどのもの、一つは獣類じゅうるい鳥類ちょうるいより魚類ぎょるいまでをふく脊椎せきつい動物のものであるが、そのうち、「えび」、かに昆虫こんちゅう等では身体が多くのふしからなっているとおり、神経系しんけいけい幹部かんぶ各節かくせつに一つずつあって、これが神経しんけいによってあたかもくさりのごとくに前後たがいにつらなっている。また「たこ」、「いか」などは身体にふしがないごとく、神経系しんけいけい幹部かんぶのほうも一塊いっかいとなって、食道を取りいている。これなどはいずれも人間ののう脊髄せきずいなどとは根本から仕組みがちがうゆえ、形の上からはあいくらべてろんずることはできぬ。
 次に脊椎せきつい動物を見ると、これにももっとも簡単かんたんなものからもっとも発達はったつしたものまでさまざまの階段かいだんがある。このるいではかなず身体の中軸ちゅうじくに一本の脊骨せぼねがあって、その背側はいそく神経系しんけいけい幹部かんぶがとおっているが、もっとも下等の脊椎せきつい動物になると、これにのう脊髄せきずいという区別くべつがない。

「なめくじ魚」のキャプション付きの図
なめくじ魚

たとえばあさい海のそこすなの中にいる「なめくじ魚」のるいでは、身体の中軸ちゅうじく背側はいそくに長いひもの形の神経系しんけいけい幹部かんぶはあるが、全部脊髄せきずいのごとくで、とくのうと名づくべき太い部分が見当たらぬ。元来のうなるものは脊髄せきずいのつづきで、ただその前端ぜんたんのいちじるしく発達はったつした部分にすぎぬゆえ、のうがなければ、神経系しんけいけい幹部かんぶは全く脊髄せきずいのみからっているごとくに見える。のうがあれば、これをつつ保護ほごするための頭骨ずこつるが、「なめくじ魚」のごときのうのない動物ではむろん頭骨ずこつ発達はったつせぬから、身体の前端ぜんたんとくに頭と名づくべき部分がない。それゆえ、動物学上では、このるい無頭類むとうるいと名づける。かようにのうはないが、この動物の生きているところを見ると、なかなか運動も活発で、とくすみやかにすなの中へもぐりむことなどはすこぶるたくみである。さればこの動物の神経系しんけいけい幹部かんぶは、簡単かんたんながらもこの動物の日常にちじょうの生活に対して、用が足りるだけの程度ていどには発達はったつしているものと考えねばならぬ。

「魚の脳」のキャプション付きの図
魚ののう
(い)大脳だいのう (ろ)視神経しんけいよう (は)小脳しょうのう

 普通ふつう魚類ぎょるいでは脊髄せきずい前端ぜんたんにつづいて明らかなのうがあるが、これを人間ののうなどにくらべると、その形状けいじょうがよほどちがう。人間ののうならば、のうの大部分をなすものはいわゆる大脳だいのうであって、小脳しょうのうはただその後端こうたんの下面にかくれているにすぎぬが、魚類ぎょるいのうでは大脳だいのうははなはだ小さくて、のう前端ぜんたん付属ふぞく物のごとくに見え、小脳しょうのうのほうが、はるかにこれよりも大きくて、のうの後部の大半をなしている。しこうしてのうの中央部にあって、あたかも大脳だいのうのごとくに見える左右一対の大塊たいかいは何であるかというに、これは視神経ししんけいようもしくは中脳ちゅうのうと名づけるもので、人間ののうでは、大脳だいのう小脳しょうのうとの間のれ目を開いてのぞかなければ見えぬほどの小さなかくれた部分である。かようなしだいで、魚ののうにも人間ののうにも、同じだけの部分がそなわってはあるが、各部かくぶ発達はったつ程度ていど非常ひじょう相違そういがあって、人間で大きな大脳だいのう魚類ぎょるいではすこぶる小さく、人間で小さな中脳ちゅうのう魚類ぎょるいでははなはだ大きい。もっとものう全体の重量じゅうりょうが人間では体重の四十分の一もあるに反し、「まぐろ」などではわずかに三万分の一にも当たらぬから、実際じっさいの大きさをいえば、魚類ぎょるい中脳ちゅうのうはけっして人間よりも大きなわけではなく、ただ他ののう部にして大きいというまでである。実験じっけん観察かんさつによると、大脳だいのう知情意ちじょうい等のいわゆる精神的せいしんてき作用をつかさどり、小脳しょうのうは全身の運動の調和を図るというように、のう各部分かくぶぶんには、それぞれ分担ぶんたんの役目がちがうから、各部かくぶの大きさのいちじるしくちがう動物では、その作用にも種々しゅしゅ相違そういのあるべきは言うをまたぬ。かえるるいでは大脳だいのうがやや大きいが、やはり大脳だいのう視神経ししんけいよう小脳しょうのうとが前後に一列にならんでいる。

「鰐の脳」のキャプション付きの図
わにのう
(い)大脳だいのう (ろ)視神経ししんけい葉 (は)小脳しょうのう

図にしめしたわにのうは、かえるのうしてただ大脳だいのうが少しく大きいだけである。

「鳥の脳」のキャプション付きの図
鳥ののう
(い)大脳だいのう (ろ)視神経ししんけい葉 (は)小脳しょうのう

また鳥類ちょうるいでは、大脳だいのうがさらに大きく、その後縁こうえん小脳しょうのうあいせつし、そのため視神経ししんけい葉は左右へし出され、のう側面そくめんに丸くはみ出している。
 獣類じゅうるいのうはすべての動物の中でもっとも大きく、かつだいたいにおいては全く人間ののう構造こうぞう一致いっちしている。ただ大脳だいのう発達はったつ程度ていどには種々しゅしゅ階段かいだんがあって、そのひくいものでは大脳だいのうの表面が平滑へいかつで少しも凸凹でこぼこがないが、その高いものほど表面が広くなり、それがために大脳だいのうの表面には回転、裂溝れっこうなどと名づける雲形の複雑ふくざつ凸凹でこぼこが生じて、ついに人間に見るような形のものとなる。

「兎の脳」のキャプション付きの図
うさぎのう
(い)大脳だいのう (ろ)視神経ししんけい葉 (は)小脳しょうのう

二三のれいをあげて見れば、うさぎねずみなどでは大脳だいのうの表面はほとんど平滑へいかつで、回転も裂溝れっこうもないが、馬でも鹿しかでも大脳だいのうの表面には若干じゃっかんみぞがあってやや複雑ふくざつに見える。

「犬の脳」のキャプション付きの図
犬ののう
(い)大脳だいのう (ろ)小脳しょうのう

犬ではさらに回転が多く、さるるいではよほど人間の大脳だいのうてくる。とくさるの中でも猩々しょうじょうなどのような大形の種類しゅるいでは、大脳だいのうの表面にある回転、裂溝れっこう配置はいちが、だいたいにおいては人間のとよくていて、いちいちの部分をたがいに比較ひかくすることができる。近来大脳だいのうはたらきを実験じっけんてきに研究するには、生きた動物の頭骨ずこつを切り開いてのう露出ろしゅつせしめ、その表面の各部かくぶを弱い電気で刺激しげきして、その動物の知覚ちかくと運動とに如何いかなる結果けっかあらわれるかを調べるが、欧米おうべいの学者がきそうて猩々しょうじょうるいをその材料ざいりょうに使いたがるのは、全くそののうが人間ののうによくていて、研究の結果けっかを直ちに人間に当てはめることができるからである。
 以上いじょうべたとおり神経系しんけいけい幹部かんぶ形状けいじょうや、その発達はったつ程度ていどは、動物の種類しゅるいによって大いにちがうが、もし同じ構造こうぞうを有するものは作用もあい同じと仮定かていすれば、魚類ぎょるいより人間までをふく脊椎せきつい動物ののう脊髄せきずいはたらきは、性質せいしつはたいていあい同じで、ただその程度ていど相違そういがあるものと考えねばならず、またかに、「えび」や「たこ」、「いか」などでは神経系しんけいけい幹部かんぶ形状けいじょうが根本からちがうが、これは同じ目的もくてきたつするために、あいことなる形式をとったと見なすべきもので、あたかも同じく空を機械きかいに、飛行船ひこうせんもあれば飛行機ひこうきもあり、また飛行船ひこうせんの中にもガスふくろかたほねのあるものもあればないものもあり、飛行機ひこうきの中にも単葉たんようもあれば複葉ふくようもあり、なおべつ工夫くふうすれば子供こども玩具がんぐの竹のとんぼと同じ理屈りくつ応用おうようした航空機こうくうきもできるのと同じことであろう。しこうしてその目的もくてきとするところはいずれも、外界の変化へんかおうじて適宜てきぎに身をしょするということであって、そのはたらきの程度ていど各種かくしゅの動物の現在げんざいの生活状態じょうたいしたがうて、それぞれ間に合うぐらいのところをかぎりとしているのである

二 反射はんしゃ作用


 外界の変化へんかおうじて適宜てきぎに身をしょすることは、もとより如何いかなる生物にも必要ひつようなことで、このはたらきのない生物はとうてい生活する資格しかくがないが、神経系しんけいけいのない生物は全身をもってこの事を行ない、神経系しんけいけいのある生物では主として神経系しんけいけいがそのしように当たり、神経系しんけいけいに明らかな幹部かんぶそなわってある動物では、主として幹部かんぶがこれをつかさどることになっている。ただし神経系しんけいけい発達はったつには無数むすう階段かいだんがあって、一歩一歩進み来たったものゆえ、神経系しんけいけいのあるものとないものとの間にも、神経系しんけいけいに明らかな幹部かんぶのあるものとないものとの間にも、けっして判然はんぜんたる区別くべつはないから、以上いじょうはたらきがいずれの部分で行なわれるか、かと断言だんげんのできぬ場合もむろんあるべきはずである。
 さて食われぬために外界の事情じじょうおうじて適宜てきぎに身をしょするはたらきには、また種々しゅしゅの行ない方がある。たとえば人間について見ても、ねむっている人の足の先へ火のついた線香せんこうを持って行くと、たちまち足を引きめるが、めた後にたずねて見ると何も知らぬ。またの前へ急にとがった刀の先をきつけると直ちにじるが、これもけっして刀は危険きけんであるから眼瞼まぶたじて内なる眼球がんきゅう保護ほごせずばなるまいと考えた結果けっか行なうことでなく、刀の先が見えたと思うころには、眼瞼まぶたはすでにひとりでじている。かくのごとく外界から刺激しげきが来たときに、全く知らずにもしくは知って考えるひまもなしに、直ちにこれにおうじた運動をするのを反射はんしゃ作用と名づける。また生まれたばかりの赤んぼうの口に乳首ちくびを入れると、直ちにうてのむが、これはだれに教えられたのでもなく、自分で習うたのでもなく、生まれながら自然じぜんにこの能力のうりょくそなえているのである。かように自然じぜんに持って生まれた能力のうりょくによって、よく外界の事情じじょうおうじたはたらきをなしることを本能ほんのうと名づける。またかくすればかくなるべきはずと考え、目的もくてき相応そうおうした手段しゅだん工夫くふうして、自身でよく承知しょうちしながら行なうことはみな知力のはたらきで、人間が日々ほねってわざわざ行なう仕事の大部分はこのるいぞくする。生物の行為こうい観察かんさつすると、その多くは以上いじょう三種類さんしゅるいかたの中のいずれかに相当するが、その間の区別くべつはけっして判然はんぜんたるものではなく、いずれにぞくせしめてよろしいかわからぬ場合もすこぶる多い。とく反射はんしゃ作用と本能ほんのうとの間にはほとんど区別くべつがつけられぬ。たとえば赤子の口に乳首ちくびを入れてやれば直ちにいつくのは、持って生まれた本能ほんのうによるが、そのはたらきはやはり一種いっしゅ反射はんしゃ作用である。畢竟ひっきょう反射はんしゃ作用とか、本能ほんのうとか、知力とかいう言葉は、人知の進むにしたが必要ひつようおうじて、一つずつつくったもので、それぞれ若干じゃっかんのいちじるしい行動にかぶらせた名称めいしょうにすぎぬ。
 まず反射はんしゃ作用について考えて見るに、これにも簡単かんたんなものから複雑ふくざつなものまで種々しゅしゅ程度ていどがあるが、わざわざ自然じぜんことなった状態じょうたいにおいてためして見る場合のほかは、すべて自身の安全を図るに必要ひつようはたらきをするように思われる。医者が脚気かっけ患者かんじゃ診察しんさつするとき、ひざの下を手で軽く打ってあしがはねるかいなかをこころみるが、これなどは反射はんしゃ作用のもっとも簡単かんたんれいで、健康けんこうな人ならばひざの下のけん刺激しげきを受けると、直ちにももの前面の筋肉きんにく収縮しゅうしゅくしてわれ知らず脚部きゃくぶが動くのである。しかし普通ふつうの人間が普通ふつうの生活をしているときには、ひざの下のけんに医者が手で打つのと同じような刺激しげきを受けるという機会きかいはほとんどないであろうから、これにおうじて脚部きゃくぶをはね上げる反射はんしゃ作用のはたらきがあっても何の役にも立たぬ。これに反してなお少しく複雑ふくざつ反射はんしゃ作用になると、みな何らか生活上の効用こうようがある。たとえば鼻のあな紙撚かみよりを入れて内面の粘膜ねんまく刺激しげきすると、反射はんしゃ作用で直ちにくさめが出るが、これなどは鼻の中に異物いぶつのはいり来たった場合にこれをのぞき去るために必要ひつようである。子供こどもの鼻のあなまって空気の流通が悪くなると、注意が散漫さんまんになり、学業の成績せいせきもしだいに下落するとさえ言われるから、鼻の内を掃除そうじするための反射はんしゃ作用は生活上ずいぶん大切なものであろう。また急いで食するときめしつぶ気管かんのほうへでもはいると、喉頭いんとうの内面の粘膜ねんまく刺激しげきするため、反射はんしゃ作用で直ちにせきをするが、その結果けっかとして喉頭いんとう内の異物いぶつは口からき出される。肺病はいびょう患者かんじゃがつねにせきをするのも、はい組織そしきがだんだんこわれて粘液ねんえきとなり、喉頭いんとうまで出て来てえずこれを刺激しげきするからであるが、せきは気道を掃除そうじするはたらきとして生活上必要ひつようなものである。強い光にえばひとみが小さくなり、暗いところへ行けばひとみが大きくなって、適当てきとうりょうの光線を眼球がんきゅう内へ入れるのも時機じきにかのうた反射はんしゃ作用であるが、生活上さらに大切な反射はんしゃ作用はすなわち呼吸こきゅうの運動である。呼吸こきゅう程度ていどまでは故意こい加減かげんすることができるが、平常へいじょうはほかの事をなしながら知らずに呼吸こきゅうしている。しこうして、その行なわれるのは、はい内にたまる炭酸たんさんガスがはいの内面を刺激しげきして、反射はんしゃ作用で肋間筋ろっかんきん横隔膜おうかくまく収縮しゅうしゅくせしめる結果けっかである。睡眠すいみん中もえず呼吸こきゅうの行なわれるのはそのためである。されば、もしこの反射はんしゃ作用がなかったならば、人間はもとより他の多くの高等動物も一日も生活はできぬ。
 実験じっけん研究の結果けっかによると、物を知るはたらきは大脳だいのうのつかさどるところのごとくに思われるが、もし大脳だいのうかぎるとすれば、大脳だいのうを切り去った動物は物を知る力がないはずであるゆえ、そのなすことはみな反射はんしゃ作用によると見なさねばならぬ。ところがかえるなどでためして見ると、大脳だいのうを切り去っても、なかなか複雑ふくざつはたらきをする力がのこっている。生理の実験じっけんとしてどこの学校でもよくやることであるが、大脳だいのう部を切り去ったかえるを平らな板にせておくと、行儀ぎょうぎよくすわっていつまでも動かずにいるが、少しずつ板をななめにすると、平均へいきんうしわぬように体の姿勢しせいを少しずつへんじ、板がいちじるしくななめになって、すべり落ちる危険きけんが生ずると、徐々じょじょとはい出して上方に進み、板のふちまで行って、安全にすわれるところで止まる。また大脳だいのう部を切り去ったかえる皮膚ひふの一点にうす酸類さんるいって見ると、直ちに手足をそのところえ向け、曲げたりばしたり、種々しゅしゅ工夫くふうして、これをぬぐい去ろうとつとめる。これらの挙動きょどうは、いずれもよく目的もくてきにかのうたことで、もし人間がこれをなしたならば、見る者はかな意志いしにより知力をはたらかせてなしているものと見なすにちがいない。かくのごとく反射はんしゃ作用はその複雑ふくざつなものになると、ほとんど知力を用いてなす運動と同じ程度ていどのことができるが、これらはおそらくみなその動物の生活中に、てきに食われぬためか、えさを食うためか、子をむためか、子を育てるためか、何かのさい直接ちょくせつもしくは間接かんせつに役に立つことで、かつその動物の生活にとって必要ひつよう程度ていどまでに発達はったつしているのであろう。

三 本能ほんのう


 動物の中には、人間が知力によってなすこととよくたことを、生まれながら自然じぜんになしるものがあるが、本能ほんのうとは始めかような場合に当てはめて用いた言葉である。たとえば、蜜蜂みつばちがその規則きそく正しい六角形の部屋をつくること、「かいこ」がさなぎになる前に丈夫じょうぶまゆをつくつってその内にかくれること、くもがたくみにあみって昆虫こんちゅうとらえること、あり地獄じごく摺鉢すりばちじょうあなってありをおとしいれることなどは、いずれもその動物にとっては大切なことであるが、一つとして他から習うて行なうのではなく、生まれたままで、なんらの経験けいけんもなく、なんらの練習もせずに、直ちに着手してしかも間違まちがいなく成功せいこうする。これが如何いかにも不可思議ふかしぎに見えるので、人間の知力などと区別くべつして、このはたらきを本能ほんのうと名づけた。とくに昔は何とかして人間と他の動物とのあいへだたる距離きょりをなるべく大きくしたいとの考えから、人間には知力があるが動物にはけっして知力はない。動物は如何いかたくみに目的もくてきにかのうた挙動きょどうをしても、これは本能ほんのうによるのであってけっして人間のごとくに知恵ちえはたらかせた結果けっかではないと、いた学者が多かった。かようなしだいで昔は本能ほんのう範囲はんいきわめて広くし、動物のなすことならば何でも本能ほんのうによると見なしたが、近来はまた本能ほんのうの意味を非常ひじょうにせまくして、その大部分を反射はんしゃ作用の中に入れる人もある。本能ほんのうという言葉の定義ていぎについては今日なお議論ぎろん最中さいちゅうであるが、ここにはめんどうなろんはぶいてかり経験けいけんにもよらず、知力をも用いずして、生活の目的もくてきにかのうた行為こうい自発的じはつてきになすことを本能ほんのうと名づけ、そのいちじるしいれいをいくつかかかげるだけとする。
 植物のたねからの出るとき、くきになるべきほうはかなず上に向かいてび、根になるべきほうはかなず下へ向かいてび、如何いか位置いち転倒てんとうしておいても、その後に生長する部はかなずこの方角に向く。もし植物にこの性質せいしつがなかったならば、種子しゅしから芽生めばえの生ずるとき、根が空中に向かい、葉が地中にはいりんで、生活のできぬこともしばしばあろうから、この性質せいしつは植物の生活にとってはきわめて大切なものであるが、これなども、経験けいけんにもよらず、知力をも用いずしてなすことゆえ、やはり一種いっしゅ本能ほんのうと見なしてつかえがなかろう。

「植物の向日性」のキャプション付きの図
植物の向日せい

また芽生めばえの植物に箱をかぶせて光をさえぎり、ただ一方にのみまどを開けておくと、くきは光の来る方角に向かいそろうてななめにびる。これは植物の生活にくべからざる日光をできるだけ十分に受けるに必要ひつよう本能ほんのうであるが、日光という刺激しげきうてこれにおうずる運動をするのであるから、一種いっしゅ反射はんしゃ作用とも言うことができる。その他植物の葉がなるべく日に当たるような位置いちに向くことも、根が湿気しっけの多いほうへびることもみな本能ほんのうであってかつ反射はんしゃ作用でもある。
 動物がえさとらえ食うためにさまざまの手段しゅだんを用いることは、前に若干じゃっかんれいをあげてべたが、その中の多くは本能ほんのうによるはたらきである。くもがあみるのも、あり地獄じごくあなをつくるのも、みな生まれながらにその能力のうりょくそなえているので、どこにいても独力どくりょくたくみにえさをとる装置そうちをつくり上げる。これは人間にたとえていえば、あたかも工業学校を卒業そつぎょうしただけの学力を、赤子が生まれながら持っているわけに当たるゆえ、人間からは如何いかにも不思議ふしぎに思われるが、広く動物界を見渡みわたすとかようなれいはいくらでもある。

「海狸」のキャプション付きの図
海狸かいり

獣類じゅうるいの中でも北アメリカのかわ海狸かいり(注:ビーバー)などは大規模だいきぼの土木工事を起こすので名高いが、これをなすには、まず多数の海狸かいりが立木のみきを前歯でかじってたおし、長さ三尺さんじゃく(注:90cm)ないし一間いっけん(注:1.8m)ぐらいの手ごろな材木ざいもくいくつとなくつくる。次にこれを用いて森の間を流れるかわをせき止めるのであるが、そのためにはこの材木ざいもく河底かわぞこたてみ、べつえだをもってその間をつなぎ、よしるい空隙くうげきじ、どろって堤防ていぼうをつくり終わる。でき上がったつつみは長さが二丁(注:218m)もあり、高さは一間(注:1.8m)あまり、はばは二三間(注:3.6〜5.4m)もあるから、獣類じゅうるいの仕事としてはずいぶんおどろくべき大きなものである。この堤防ていぼうのために、かわの水はせき止められ広い湖水こすいのごときところができるが、海狸かいりの住家としてはこれがもっとも都合つごうがよろしい。海狸かいりは足にみずかきそなえた水獣すいじゅうで、てきえば直ちに水中にみ、どろをつくるに当たっても、一方は水中へげ出せるように道がつけてあるくらいゆえ、あさい水が広い面積めんせきのところに広がっているのは生活に便利べんりである。海狸かいりが多数力をあわせて堤防ていぼうをつくるのは、すなわち自分らの生活に都合つごうのよろしい場所をつくるためであるが、これらは動物の本能ほんのうの中でもずいぶんいちじるしいほうであろう。海狸かいりは動物園にうてあるものでも、材木ざいもくあたえるとこれをかんで手ごろの大きさとし、堤防ていぼう用としていくつもそろえるところを見ると、この動物の神経系しんけいけいは、現在げんざい境遇きょうぐう如何いかにかかわらず、先祖せんぞ代々の因襲いんしゅうしたがうて、はたらくものと思われる。
 蝶蛾類ちょうがるいさなぎ時代は、芋虫いもむし、毛虫などの幼虫ようちゅうから、大きなはねそなえた成虫せいちゅうに形のわる過渡かと時代で、外面からは実に活発に見えるが、内部はきわめていそがしい。しかも運動のできぬ時期であって、てきおそわれた場合にげもかくれもせられぬから、多くの蝶蛾類ちょうがるいではまえもってまゆをつくって、あらかじめ自身をまも工夫くふうをする。「かいこ」のまゆたんたわらのごとき形であるが、他の種類しゅるいまゆにはずいぶん、形のわったおもしろいものも少なくない。

「すかし俵」のキャプション付きの図
すかしたわら

栗虫くりむし幼虫ようちゅうには白色の長い毛が一面にはえているので、一名を白髪太郎しらがたろうというが、これがさなぎになる時には、内部のよく見える網状あみじょうまゆをつくる。ぞくに「すかしたわら」とぶのはこれであるが、空気の流通をさまたげずして、しかもたいていのてきふせるようにすこぶるたくみにできている。

「つりがます」のキャプション付きの図
つりがます

また山繭やままゆ一種いっしゅはあたかもふくろ一端いったんるしたごとき形の「りがます」と名づけるまゆをつくる。これらはいずれもなかなかおもしろくできて、考えて見れば実に不思議ふしぎであるが、道ばたの雑木林ぞうきばやし普通ふつうにあるゆえ、だれも見慣みなれて不思議ふしぎとも思わぬ。さらに巧妙こうみょうまゆには次のごときものがある。すなわち卵形たまごがたまゆ一端いったん一端いったんは開いてあって、開いたはしあな周囲しゅういからは、かたい糸が筆ののごとき形に外へ向いてならんで、あなの入口をざしている。そのありさまはあたかも一種いっしゅべんのごとくで、まゆの内から成虫せいちゅうが出るときには、これをし開いて何のさまたげもなく出られるが、外からは何物もまゆの内へはいりむことができぬ。しこうして、かようにたくみなものをつくるのも本能ほんのうはたらきである。
 子をみ育てるはたらきのほうには、本能ほんのうのもっともおどろくべきれいが少なくない。他は後の章にゆずって、ここにはただ一つだけれいをあげて見るに、琉球りゅうきゅう八重山やえやまさんの有名な「木の葉このはちょう」は、産卵さんらんするにあ当って、その幼虫ようちゅうの食物とする「山藍やまあい」のはえている場所のちょうど上にあたる樹木じゅもくえだみつけておくということである。これはおそらく山藍やまあいという草は谷間にはえるたけひくい草で、日当たりがきわめて悪いために昆虫こんちゅうるいたまごの発育するにはすこぶる不利益ふりえき位置いちにあるゆえであろう。一体蝶類ちょうるいはいずれも、その幼虫ようちゅうの食する植物にたまごみつけるもので、紋白蝶もんしろちょうならば大根だいこん等に、揚羽あげはならば「からたち」などに、それぞれ定まっているが、「木の葉ちょう」は山藍やまあいの葉にはみつけず、ちょうどその上にあたる高い樹木じゅもくえだたまごみつけておくと、それからかえって出た小さな幼虫ようちゅうは、口から糸をき糸にぶら下がってえだから地上へり、ちょうどその下にはえている山藍やまあいの葉にたつして、直ちにこれを食うことができるのである。昔ならばたしかに造化ぞうかみょうとでも言うたにちがいない。

四 知力


 えさを食うためてきに食われぬために、動物が行なうことの中には、人間が知力を用いてなすことと程度ていどちがうが、性質せいしつは同じであるごとくに思われるものがすこぶる多い。たとえば、さるが番人のすきをうかごうて桃林ももばやしからももぬすんで行くのも、ねこねずみの出て来るのを待って根気よくあなのそばに身構みがまえているのも、人間の挙動きょどうにくらべてほとんど何の相違そういもない。昔、人間と他の動物との間の距離きょりをなるべく大にしたいと思うたころには、さるももぬすむのと、人がももぬすむのと、またねこねずみあなをうかがうのと、人が鉄砲てっぽうを持ってうさぎあなをうかがうのとを厳重げんじゅう区別くべつし、一方は本能ほんのうはたらき、一方は知力のはたらきと見なしたであろうが、虚心きょしん平気に両方の挙動きょどうをくらべて見ると、その間に根本的こんぽんてき相違そういがあるものとはけっして考えられぬ。今かりに自分がねこになったと想像そうぞうしたならば、ねずみとらえるにあたっては、やはり実際じっさいねこのするとおりのことをするであろう。またかりに自分がさるになったと想像そうぞうしたならば、ももぬすむにあたっては、やはり実際じっさいさるのするとおりのことをなすにちがいない。されば、一方のみを知力のはたらきと見なし、他方は知力のはたらきでないなどとろんずべき根拠こんきょは少しもない。かように考えると、知力を有するものはけっして人間のみにかぎるわけではなく、動物界には広くこれをそなえたものがある。ただし、その発達はったつ程度ていどには種々しゅしゅ階段かいだんがあって、るところまでくだるともはや本能ほんのう区別くべつすることが全くできなくなってしまう。
 さるももぬすみ、ねこねずみとらえるのを知力のはたらきとすれば、他の動物のこれにるいする挙動きょどうも同じく知力のはたらきと考えねばならず、順々じゅんじゅんにくらべて進むと、しまいには「さんご」の虫が「みじんこ」るいとらえて食うのまでも、知力があずかっているとろんぜねばならぬことになる。さらに一歩進めば「はえ取り草」がはえとらえるのも知力のはたらきの範囲はんい内に入れねばならぬとの結論けつろんたつするが、かくてはあまり広くなって際限さいげんがない。著者ちょしゃ自身の考えによれば、知力といい本能ほんのうというも、いずれも外界の変化へんかおうじて適宜てきぎに身をしょする神経系しんけいけいはたらきの中で特殊とくしゅ発達はったつした部分を指す名称めいしょうで、そのいちじるしいれいたがいに比較ひかくすればあいことなる点が明らかであるが、程度ていどひくいものの間にはけっして境界きょうかいはない。他物にたとえていえば、知力と本能ほんのうとはあたかもあいとなりれる二つの山のいただきのようなもので、そこに絶頂ぜっちょうが二つあることはだれの目にも明らかに見えているが、少しく下へりると、山と山とはあい連絡れんらくしてその間に何のさかいもなくなる。生物はすべて食うてんで死ぬものであるが、食うてんで死にるには、つねに外界に対して適宜てきぎ応接おうせつして、目的もくてきにかのうた行動をとらなければならぬ。しこうして神経系しんけいけいのある動物では主として神経系しんけいけいがそのしょうに当たるが、動物の種類しゅるいによって生活の状態じょうたいも大いにちがうから、種類しゅるいの動物では神経系しんけいけいはたらきは一方に発達はったつして、ついに知力と名づくべき程度ていどに進み、他の種類しゅるいの動物では他の方面に発達はったつして、明らかに本能ほんのうと名づくべきものとなったのであろう。また簡単かんたん反射はんしゃ作用はあたかも山のふもと比較ひかくすべきもので、本能ほんのうとも知力とも名づけることはできぬが、さればとてまた本能ほんのうからも知力からも明らかな境界きょうかい線を引いて区画することはできぬ。今日、知力、本能ほんのうなどにかんしては学者間に際限さいげんなく議論ぎろんたたかわされているが、著者ちょしゃの見るところによるとその大部分は、本来境界きょうかい線のなかるべきところに強いて境界きょうかい線を定めようとこころみ、その境界きょうかい線をどこのへんに定めようかと、議論ぎろんしているにすぎぬようである。 なお一つれいをあげて見るに、子供こども金魚きんぎょはちうてある「弁慶べんけいかに」と「石亀いしがめ」とをとらえようとすると、かにのほうははさみを上げてれればはさむぞとおどかしながらげ行き、かめのほうは頭も足も引きめて動かずにいるが、これらの挙動きょどうを、人間がさみしい道で人相の悪い男に出遇であうたさいに、ピストルに手をけて相手の顔をにらみながらすれちがうて行く挙動きょどう、もしくは泥棒どろぼうが雨戸をこじ開けんとする音を聞いて、中から戸をさえてふせいでいる挙動きょどうにくらべると、その間に性質せいしつ上の相違そういがあろうとは思われぬ。したがって、一方を知力のはたらきと見なす以上いじょうは、他を知力のはたらきでないと言うべき論拠ろんきょはない。かようにくらべて見ると、ついには「いそぎんちゃく」が体をちぢめ、「おじぎ草」が葉を下げるのまで順々じゅんじゅんに引きつづいて、どこにも判然はんぜんたる境界きょうかいもうけることはできぬ。

「馬に文字を教う」のキャプション付きの図
馬に文字を教う
ドイツのクラルという人その飼馬かいうまツァリフに文字を教えかく文字に対して左右の前足をもって一定の度数だけ板をたたかしむ。たとえばAには左一回右一回とか,Bには左一回右二回とかいうごとし。馬は字を指ししめさるればこれにおうじ,かねておぼえたるとおりの度数だけ板をたたき,物をたずねらるれば字をつづりてたたき答う。また数をくわげんじ,るなどの問題に対しても正しき答えをなす。

 さて知力のもっとも発達はったつした動物は言うまでもなく人間であるが、これは今のたとえでいうと、一方の山の頂上ちょうじょうにあたる。しからば人間についで知力の発達はったつした動物は何かというに、これは脳髄のうずい構造こうぞうが人間にもっともよく獣類じゅうるいであって、その中でもとく大脳だいのうの表面に凸凹でこぼこの多いさる、犬、馬などは知力も相応そうおうに進んでいる。今よりすでに十四、五年も前の事であるが、ドイツである人のうていた悧巧りこうな、ハンスという馬が、字も読め数もかぞえられるというて大評判だいひょうばんであった。たとえば五と七とをくわえるといくつかとたずねると、馬は前足で床板ゆかいたを十二たたいて答えたのであるが、その当時これを調べた心理者の鑑定かんていによると、馬が前足で床板ゆかいたをたたいてちょうど答えの当たる数までたつすると、たずねた人が知らずに頭を一ミリメートルの何分の一とかを動かすので、馬はするどくもこれを識別しきべつしてたたくことを止めるゆえ、あたかも算術さんじつができたかのごとくに見えるのである。実はけっしてかぞえる力などがあるわけではないとの事であった。しかし、この説明せつめいには満足まんぞくせぬ人があって、その後さらにべつの馬をうて種々しゅしゅ試験しけんつづけたところが、馬に文字をおぼえさせ、これを自分でつづって人の問いに答えさせることも容易よういにできるようになった。この種類しゅるい試験しけんについては、今日では数多く報告ほうこくがあって、すでに馬のほかに犬やぞうについても同様の結果けっかている。著者ちょしゃは自身にかような試験しけんを行のうたことはないが、犬や馬について日常にちじょう見ていることからして、以上いじょうのごときことは程度ていどまでは当然とうぜん行なわれべきことと考えていたゆえ、べつ不思議ふしぎにも思わぬが、人間の知力と他の動物ののうはたらきとの間に根本こんぽんてき相違そういがあるようにろんじたい人等は、種々しゅしゅ論法ろんぽうを用いて、右様みぎようはたらきが知力の結果けっかでないことを証明しょうめいしようとほねっている。
 ここに一つことわっておくべきは、本能ほんのうでも知力でも、時々無駄むだはたらきをすることである。はまぐり貝殻かいがら如何いかかたくても「つめた貝」にはあなをうがたれ、はちはり如何いかにはげしくさしても「はちくま」というたかには平気で食われるごとく、防御ぼうぎょ装置そうちにはそれぞれ標準ひょうじゅんとするところがあって、例外れいがいのものに対しては有効ゆうこうでありぬとおり、本能ほんのうでも知力でもその動物の日常にちじょうの生活を標準ひょうじゅんとして発達はったつし来たったものゆえ、生活の条件じょうけんえると、ずいぶん目的もくてきにかなわぬはたらきをする。たとえば「走りぐも」はをつくらずつねに草の間を走りまわり、たまごめば糸をもってまゆの形にこれをつつみ、どこへ行くにも大事に持っているが、いてこれをうばい取って、その代わりに紙屑かみくずを同じくらいの大きさに丸めたものを投げてやると、直ちにこれをかかえきわめて大切に保護ほごして持ち歩く。これなどは、本能ほんのう盲目的もうもくてきはたらいて無駄むだなことにほねっているのであるが、紙屑かみくずでも何でもかまわず大切に保護ほごするまでに発達はったつした本能ほんのうこそ、この「くも」の生活にとってはもっとも必要ひつようなものである。知力のほうでもこれと同様に、往々おうおう生活の目的もくてきのためには何の役にも立たぬはたらきをすることがある。程度ていどまで知力の発達はったつすることは、人間の生活にとっては必要ひつよう条件じょうけんであるが、相応そうおうな知力を出しるまでにのう構造こうぞうが進歩すると、これを生活に必要ひつようなより以外いがいの方面にもはたらかせる。しかしこの場合には知力が如何いかほどまで有効ゆうこうに用いられているかは大いにうたがわしい。如何いかにしてこの魚をとらえようか、如何いかにしてかのけものころそうかと考えて、あみりようや落しあなりようを工夫くふうし、如何いかにしてこう蕃社ばんしゃめようか如何いかにしておつの部落からの攻撃こうげきふせごうかと思案しあんして、やり穂先ほさきの形を改良かいりょうし、味方同志どうしの暗号を定めなどするのは、すべて知力のはたらきであるが、かようなことができるまでにのう構造こうぞうが進歩すると、退屈たいくつのときにはこれを用いて種々しゅしゅのことを考え始め、何でも物の起こる原因げんいんを先の先まで知ろうとつとめれば、哲学てつがくが生じ、人間以外いがいに何か目に見えぬ強い者がいるとしんずれば、宗教しゅうきょうが始まり、不完全ふかんぜん推理すいりによって勝手に物と物との間に因果いんが関係かんけいをつければさまざまの迷信めいしんあらわれる。これらはいずれも生存せいぞん必要ひつような知力の発達はったつしたために生じた副産物ふくさんぶつであるゆえ、いわば知力の脱線だっせんした結果けっかと見なすことがてきよう。その後、物の理屈りくつを考える力が進めば、脱線だっせんてきの方面にもますますこれを用いて、哲学てつがく宗教しゅうきょう迷信めいしんさかんになり、そのため莫大ばくだい費用ひよう労力ろうりょくとをついやして少しもしまぬようになる。有名なエジプトの金字塔きんじとうのごときも畢竟ひっきょう、知力が無駄むだな方向にはたらいたための産物さんぶつにすぎぬ。無線むせん電話や「ラジウム」や飛行機ひこうき潜航艇せんこうていを用いるにいたったまでに、人間の知力がつねに生存せいぞんのために有効ゆうこうであったことはいうまでもないが、その間に宗教しゅうきょう迷信めいしんのために、人間がどのくらい無駄むだな仕事をしたかと考えると、これはまた実におどろくべきもので、今日といえどもなお「走りぐも」が丸めた紙屑かみくずを大事にかかえ歩くのと同じようなことをしながらごうあやしまずにいるのである。
 本能ほんのうとか知力とかちがうた名をつけてはいるが、まるところいずれも生存せいぞんに間に合うだけの神経系しんけいけいはたらきであって、これらのはたらきがてきしておとっていては生存せいぞんができぬゆえ、代々少しずつ進歩し来たったのであろうが、その進歩の程度ていどはいつも生存せいぞん競争きょうそうにあたっててきに負けぬというところを標準ひょうじゅんとして、けっしてこれをえてはるかに先まで進むことはない。されば人間の知力のごときも、生存せいぞん競争きょうそうにおける武器ぶきとしてはようやく間に合うてゆくが、もとより絶対ぜったい完全かんぜんなものではなく、とく生存せいぞん競争きょうそう以外いがいひま仕事の方面に向けてはたらかせる場合には、その結果けっかはすこぶる当てにならぬものと思われる。本能ほんのうによってはたら昆虫こんちゅうや「くも」は、その境遇きょうぐうえてためして見るとさかんに無駄むだな仕事をするが、知力のほうもこれと同様で、当然とうぜんはたらかせるべき方面以外いがいに向けてためして見ると、大間違おおちがいの結論けつろんたつすることがあるゆえ、そのため今後もずいぶん無駄むだ骨折ほねおりをなしつづけることであろう。

五 意識いしき


 人が目をさましているときは意識いしきがあると言い、熟睡じゅくすいしているときは意識いしきがないと言う。しからば意識いしきとは何かとたずねると、これは容易よういに答えられぬ。何故なぜかというに、意識いしきのある状態じょうたいとない状態じょうたいとの間には自然じぜんうつり行きがあって、判然はんぜんたる境界きょうかい線を定めることができぬからである。だれも自身に経験けいけんのあるとおり、夜寝床ねとこにはいってじていると、いつとはなしに意識いしき朦朧もうろうとなって、暫時ざんじうとうとしたる後についに真にいってしまう。また急に起こされた時には、直ちに意識いしき明瞭めいりょうにならず、方角もわからず、物の識別しきべつもできぬようないわゆるぼけたありさまを通過つうかしてようやく精神せいしん判然はんぜんする。赤子の生まれたばかりの時にはとりたてて意識いしきと名づくべきほどのものもないようであるが、日数が重なる間にしだいに人間らしく、わらったりおこったりするようになり、長い時日じじつの後にいたって普通ふつう一人前の意識いしき完全かんぜんになり終わる。また病人が死ぬときにもまず意識いしき混濁こんだくして昏睡こんすい状態じょうたいにおちいり、一歩一歩真の意識いしき境遇きょうぐうに近づいてゆく。かくのごとく人間だけについて言うても、明瞭めいりょう意識いしきのある状態じょうたいから、全く意識いしきのない状態じょうたいまでの間に無数むすう階段かいだんがあるが、他の生物は如何いかにと見ると、ここにも意識いしきには種々しゅしゅ程度ていどちがうたものがあるごとくに思われる。昔のる有名な学者は意識いしきを有するものは人間ばかりで、他の生物には意識いしきはない。かれらはたん自働じどう器械きかいのごときもので、あたかも時計や、ぜんまい仕掛しかけの玩具がんぐなどのごとくに器械きかいてきに動いているにすぎぬといたが、これなどは人間と他の生物とを絶対ぜったい区別くべつしたいと思うたころの考えで、今日虚心きょしん平気に判断はんだんすると、全く何の根拠こんきょもないせつである。生物の中には、つきや挙動きょどうから鑑定かんていすると人間におとらぬ明瞭めいりょう意識いしきそなえたものもあれば、人間のぼけたときくらいの程度ていど以上いじょう意識いしきの進まぬものもあり、また一生涯いっしょうがい昏睡こんすい状態じょうたいごすものもある。野蛮人やばんじんが、鳥獣ちょうじゅうはもとより草木金石にいたるまで、自分と同じ程度ていど意識いしきがあるごとくに考えるのもあやまりであるが、昔の西洋の学者が、その正反対に人間以外いがいの生物には意識いしきはないとろんじたのも同じくあやまりと言わねばならぬ。
 著者ちょしゃが実物を見て考えるところによれば、多くの生物にはたしかに人間のと同じような意識いしきがある。ただしその程度ていどはけっして同じでない。本能ほんのうや知力も各種かくしゅの生物によって発達はったつ程度ていどちがい、それぞれその生活に必要ひつよう程度ていどにまでより進んでいないが、意識いしきなるものも各種かくしゅの生物が食うてんで死ぬのに必要ひつようなだけの程度ていどより以上いじょうにはのぼらぬ。すなわち一生涯いっしょうがい昏睡こんすい状態じょうたいにあっても、食うてんで死ぬのに差支さしつかえのない生物には、昏睡こんすい状態じょうたい以上いじょう意識いしきあらわれず、ぼけ程度ていど意識いしきさえあれば食うてんで死ねる生物には、ぼけ程度ていどより以上いじょう意識いしきは生ぜぬ。すきをうかごうて電光のごとくに魚をぬすみ去るねこ意識いしきと、しずかに草を食うている芋虫いもむし意識いしきと、追われてもげずかれても平気でいる「くらげ」の意識いしきとの間には、もちろんはなはだしい相違そういはあるが、人間が生まれてから死ぬまでの間、または起きてからねむるまでの間には、これらと同等の階段かいだん順次じゅんじ経過けいかするゆえ、その間に境界きょうかいを定めることはできぬ。意識いしき状態じょうたいから有意識ゆういしき状態じょうたいに進むありさまは、あたかも夜が明けて朝となり、また昼となるごとく、いつとはなしに変化へんかして行くから、両端りょうたんをくらべるとその間の相違そういはいちじるしいが、ここまでは意識いしきがなく、そこより先は意識いしきがあるというごとき境界きょうかいはどこにもない。かようなところにいて境界きょうかいを定めようとすれば、あたかも汽車や電車の賃金ちんぎん十二歳じゅうにさい以下いか半額はんがくとか、五歳ごさい以下いか無賃むちんとか定めるごとくに、相談によって便宜べんぎ勝手なところにさかいをつくるよりほかにいたし方はないであろう。
 意識いしき程度ていどが、各種かくしゅの生物の生活に必要ひつようなところまでより進まぬごとく、意識いしき範囲はんいも、各種かくしゅの生物の生活に必要ひつようなだけより以上いじょうにはおよばぬようである。がんらい意識いしき神経系しんけいけいはたらきの全部にわたるわけではなく、わずかにその一部をふくむだけで、あたかもやみの夜に懐中かいちゅう電燈でんとうらしたところだけが明るく見えるのと同じく、残余ざんよの部分は全く意識いしきの外にある。一例いちれいをあげて見るに、われわれがる物体をる時には、その物体のぞう眼球がんきゅうおく網膜もうまくの上にさかさまに小さくえいずるが、この事は少しも意識いしきせられぬ。また種々しゅしゅ実験じっけんでわかるとおり、網膜もうまくの上にえいじたぞうをそのままに感ずるわけではなく、これを材料ざいりょうとして一種いっしゅ判断はんだん力をはたらかせ、その結果けっかを感ずるのであるが、この判断はんだんはたらきも意識いしき範囲はんい以外いがいにある。しこうして、ただその結論けつろんだけを直感てきに知ることができる。網膜もうまく如何いかなるぞうえいじようとも、また先祖せんぞ以来いらい感覚かんかく記憶きおくや、その連絡れんらく記憶きおく如何どうであろうとも、そのようなことは知っても生活上何の役にも立たぬゆえ、意識いしきの中にあらわれぬが、自身の前面に当たる外界の一部に、自分よりやく何尺なんじゃくへだたるところに何ほどの大きさの如何いかなる形の物があるかを知るのは生活上もっとも肝要かんようであるゆえ、ただこれだけが意識いしきせられるのである。されば意識いしき範囲はんい内にあらわれるのは、神経系しんけいけいはたらきの中で生活上明瞭めいりょう意識いしきする必要ひつようのある部分だけであって、その他のはたらきは、たといこれと密接みっせつ関係かんけいのあるものでも、みな意識いしき以外いがいかくれている。これに類似るいじしたことはわれわれの日常にちじょうの生活中にもいくらもある。たとえば時計を用いるには時刻じこくの読みようと、かぎきようと、はりの動かしようとを知っていれば十分であって、内部の細かい機械きかい仕掛しかけなどは知らずとも差支さしつかえはない。また電話をかけるには、呼出よびだしようと切りようとを知っていればよいので、べつに電話器械きかい構造こうぞう理屈りくつを知っている必要ひつようはない。生物の有する意識いしきなるものもこれと同様で、神経系しんけいけいはたらきを全部知っている必要ひつようはないゆえ、他の部分はすべて意識いしき縄張なわばり内にのこしておいて、ただ直接ちょくせつに知る必要ひつようのある部分だけを引き受けているのである。意識いしきあらわれることは、みな意識いしき範囲はんい内における神経系しんけいけいはたらきを基礎きそとし、かつこれと密接みっせつ関係かんけいのあることは言うまでもない。
 本章においては主として知力のことをべて、じょうはたらき、意のはたらきのことは全くはぶいたが、著者ちょしゃの考えによればこれもやはり前と同様の関係かんけいで、各種かくしゅの生物が食うてんで死ぬのに必要ひつよう程度ていどまでには発達はったつしているが、けっしてそれ以上いじょうには進んでいない。しかもそれが意識いしきあらわれるのは当事者が自覚じかくする必要ひつようのある部分だけにかぎる。じょうの力、意の力が意識いしき範囲はんい内ではたらき、その結末けつまつだけが意識いしきせられる場合には、何故なぜにこのような事がしたいか、何故なぜにかような事をなさずにいられぬかは、むろん自身にもわからず、ただ本能ほんのうてきにその事をなし終わるであろうが、かくすれば、それがかな種族しゅぞく生存せいぞんのために役に立つ。すなわち当事者が自身の行為こういの理由を知っていても知らずにいても、それは種族しゅぞく生存せいぞんのためにはいずれでも差支さしつかえはない。ただ必要ひつようなだけのことが行なわれさえすればよろしいのである。身体に水分が不足ふそくすればかわきを感じて水が飲みたくなり、水を飲めば水の不足ふそくはたちまちおぎなわれるごとく、意識いしきして感ずるのはただ直接ちょくせつ必要ひつようなことだけでよろしい。それよりおくのことはかなずしも感ずるにおよばぬ。かように考えて見ると、意の力、じょうの力をそなえて、生物がてきふせぎ、子を育てなどしているありさまは、あたかも電車の運転手がハンドルの回しようと、歯止めのけようとだけを知って、日々車台を運転せしめているごとくで、そもそも如何いかなる理由で車のが回転するかという問題などはてておいても少しも差支さしつかえはない。ただ緑のはたが出れば進み、赤いはたが見えれば止まりさえすればよいのである。しこうして実際じっさい如何いかなる生物でも意識いしき内にあらわれる神経系しんけいけいはたらきは、かなずかかる性質せいしつの部分のみにかぎられているように見受ける。
 なお各種かくしゅの生物が食うてんで死にるために有する種々しゅしゅ構造こうぞう習性しゅうせい通覧つうらんして、心づかずにいられぬ点が一つある。それはほかでもない。いずれの構造こうぞうでも習性しゅうせいでも種族しゅぞく全体としての生存せいぞん有利ゆうりであればよろしいので、例外れいがいの場合に少数の個体こたい犠牲ぎせいとなることは全く度外視どがいしせられている。言をえていえば、自然じぜんなる者は種族しゅぞく生存せいぞんを図るにあたって、いつも全局を通じての利益りえき標準ひょうじゅんとし、多少の無駄むだは始めから覚悟かくごしているのである。本章にべた本能ほんのうでも知力でも反射はんしゃ作用でも、みな各種かくしゅの生物の種族しゅぞく全体にとっては必要ひつようなものであるが、特殊とくしゅの場合に若干じゃっかん個体こたいが、そのため生活の目的もくてきにかなわぬ所業しょぎょうをなすことをけられぬ。「走りぐも」が紙屑かみくずの丸めた球を卵塊らんかいあやまって大切に保護ほごするのは、本能ほんのうのために無益むえき労力ろうりょくついやしているのであるが、るい燈火とうかを見てんでくるごとき場合には、本能ほんのうのために命をててしまう。しかしながら、「走りぐも」が紙屑かみくずたまご間違まちがえるのは、人がわざわざ試験しけんして見るきわめてまれな場合にかぎることで、これは全く勘定かんじょうにははいらず、また人が燈火とうかをともし始めたのは、地球の長い歴史れきし中の最後さいごぺーじで、しかも燈火とうかの光のたつする区域くいきは、地球の表面の広さから見ればほとんど言うにたらぬから、もしをして燈火とうかに向かわしめる神経系しんけいけい構造こうぞうが、の生活上他の方面に有効ゆうこうはたらきをなしているものとすれば、差引さしひ勘定かんじょうむろんはるかにとくになっている。半紙をくにあたって、始めからごう無駄むだの出ぬようにでき上がりだけの寸法すんぽうにつくろうとすれば、これはすこぶる困難こんなんなことで、如何いかに手数をかけてもなかなか行なわれがたい。これに反して、始めから若干じゃっかん無駄むだ見越みこし、でき上がりの寸法すんぽうよりもやや大きくいて、後に周辺しゅうへん余分よぶんのところをち切ることにすれば、すこぶる容易ようい目的もくてきたつすることができる。生物界における本能ほんのう、知力ないしじょうの力、意の力なども、これと同じ理屈りくつで、無駄むだな部分をち切ってあまったところが生活上の役に立てば、それですでに目的もくてきにはかのうている。特殊とくしゅの場合に出遇であうた本能ほんのうはたらきや、生活に必要ひつようなより以外いがいの方面に向けた知力のはたらきなどは、時としては若干じゃっかん個体こたい生存せいぞんのために無益むえきまたは有害ゆうがいなこともあるが、これはあたかも半紙のくずのようなもので、各種かくしゅ族の全体の経済けいざいからいえば、ててもけっしてそんにならぬくらいのものであろう。


第八章 団体だんたい生活


 同種類しゅるいの生物個体こたいが多数あい集まっていることは、えさとらえるにあたってもてきふせぐにあたってもすこぶる都合つごうのよいことが多い。一匹いっぴきずつではとうていかなわぬ相手に対しても、多数集まれば容易よういに勝つことができる。また非常ひじょうに強いてきめられてさんざんな目にうたとしても、多数に集まっていればその中のいくぶんかはかななんをまぬがれて生存せいぞんし、後継者こうけいしゃのこすことができる。とく生殖せいしょく目的もくてきに対しては、同種族どうしゅぞくのものが同所に多数集まっていることはきわめて有利ゆうりであって、一匹いっぴきずつが遠くあいはなれているのとはちがい、すべてのものがのこらず手近いところに配偶者はいぐうしゃを見いだして、さかんに子をむことができる。されば事情じじょうゆるかぎり、同種類しゅるいの生物は同じところに集まって生活しているほうが、食うにもむにもはるかに好都合こうつごうであるにちがいない。
 そもそも生物は親なしにはけっして生まれぬものゆえ、一生涯いっしょうがい絶対ぜったい単独たんどくというものは一種いっしゅたりともあるべからざる理屈りくつで、少なくとも親から生まれたときと、子をんだときとは、同種類しゅるいの生物が何匹なんびきか同じところに接近せっきんしているにちがいない。とくに多数の生物では、同時に生まれる子の数が相応そうおうに多いから、これらがそのままとどまって生活すれば、すでに一つの群集ぐんしゅうがそこに生ずる。しこうしてあい集まって生活しておれば、上にべたごとき利益りえきがある。かようなしだいで、同種類しゅるいの生物が一所に集まって生存せいぞんすることは自然じぜん結果けっかであるように思われる。しかるに単独たんどくの生活を送る生物もけっして少なくないのは何故なぜかというと、これは生活なんのために一家いっか離散りさんしたのであって、生存せいぞん必要上ひつようじょう群集ぐんしゅう生活を思い切るように余儀よぎなくせられたものにかぎる。たとえば陸上りくじょうの食肉獣類じゅうるいには群棲ぐんせいするものはほとんどない。これは獅子ししとらなどのごときものが一箇所いっかしょに多数集まって生活し、多数の牛や鹿しかころして食うたならばたちまち食物の欠乏けつぼうを生じ、みなそろうて餓死がしせねばならぬからである。これに反し、草食獣類じゅうるいのほうはえさがたくさんにあるゆえ、大群たいぐんをなして生活していても、急に食物が皆無かいむになる心配はない。昆虫こんちゅうるいなどでも木の葉を食う毛虫はえだ一面に群集ぐんしゅうしていることがあるが、虫をとらえて食とする「かまきり」や「くも」るいなどは、一匹いっぴきずつはなれてえさもとめている。もっとも肉食するものでも、えさとなる動物が多量たりょうそんする場合には、群棲ぐんせいしても差支さしつかえはない。「おっとせい」、「あざらし」のるいは肉食じゅうであるが、そのえさとなる魚類ぎょるいきわめて多量たりょうさんし、あたかも陸上りくじょう牧草ぼくそうのごとくであるゆえ、数千も数万も同一箇所かしょ根拠こんきょ地に定めて生活している。つまるところ、生物が群棲ぐんせいするか単独たんどくらすかは、食物供給きょうきゅうりょう関連かんれんしたことで、群棲ぐんせいしてはとうてい食物をられぬ種類しゅるいの動物だけが、親子兄弟はなればなれになって世をわたっているのである。
 同じ種類しゅるいの生物個体こたいが、ただあい集まっているだけでも生活上に種々しゅしゅ都合つごうのよいことがあるが、もしも多数のものが同一の目的もくてきたつするために力をあわせてあい助けたならば、その効力こうりょくは実に偉大いだいなもので、たいがいのてきおそれるにたらぬようになる。かく個体こたいが食うにもむにも死ぬにも、すべて自己じこぞくする団体だんたい維持いじ生存せいぞん目的もくてきとしたならば、その集まった団体だんたいは、生存せいぞん競争きょうそうにあたって、個体こたいよりも一段いちだん上の単位たんいとなるから、めるにもふせぐにも勝つ見込みこみがすこぶる多い。かような団体だんたいを社会と名づける。実際じっさい動物界を見渡みわたすと昆虫こんちゅうるいの中でも、はちありなどのごとき社会をつくって生活する種類しゅるいはいたるところにさかんないきおいで跋扈ばつこし、場合によっては獅子ししとらのような大獣だいじゅうをさえも苦しめることがある。個体こたいのただ集まった群集ぐんしゅうと、全部一致いっちして活動する社会との間には、順々じゅんじゅんうつり行きがあるが、同じく社会と名づけるものの中にも種々しゅしゅ階段かいだんがあって、そのもっとも進んだものになると、個体こたい間の関係かんけいが、ねこや犬で普通ふつうに見るところとは全くちがうて、ほとんど一個体いちこたいの体内における器官きかん器官きかんとの関係かんけいのごとくになっている。次に若干じゃっかんれいによって、これらの関係かんけいを一とおりべて見よう。

一 群集ぐんしゅう


 種類しゅるいの動物が、一箇所いっかしょにたくさん集まっていることのあるは、だれにも気のつくいちじるしい事実である。たとえば春から夏にかけて、あたたかな時節じせつになると、毛虫がたくさんに出てくるが、中にはひふが見えぬほどにみきにもえだにもいっぱいにいることがある。また薔薇ばらきくはぎその他の草花類そうかるいの新しいのところに、「ありまき」がし合うほどに一面に集まっていることがある。田畝でんぽの流れに「めだか」がおよいでいるのを見ても、禁猟きんりょう地の池にかもかんでいるのを見ても、みなかなむれをなしていて、単独たんどくはなれているものはほとんどない。かく多数に集まる原因げんいんは場合によってかなずしも一ようではないが、あい集まっている以上いじょうはとにかく、群集ぐんしゅうもとづく利益りえきていることはたしかである。
 生物の中には風にかれ波に流されて、同じところに無数むすうに集まるものがある。「夜光虫」などはその一例いちれいで、海岸へせられたところを見ると水が一面に桃色ももいろになるほどで、その数は何億匹なんおくひきいるか何兆匹なんちょうびきいるかとうてい想像そうぞうもできぬ。「かずの子」の一粒ひとつぶにもおよばぬ小さな虫が、ほとんど水を交じえぬほどに密集みっしゅうして、数里にわたる沿岸えんがんの波打ちぎわに打ちせられていることがしばしばあるが、わずか二三十匹にさんじゅっぴきずつガラスびんに入れて、五十銭ごじゅせんにも売っている標本ひょうほん商の定価ていか表にしたがうたならば、世界中のとみをことごとく集めてもその一小部よりほかは買えぬであろう。ただし、これは潮流ちょうりゅう都合つごうあくたるのと同じくたん器械きかいてきに集まるのであるから、自身からもとめてわざわざ集まる他の生物の群集ぐんしゅうとはもとよりおもむきちがう。時々海水をくさらせて水産すいさん業者に大害たいがいあたえる赤潮あかしお微生物びせいぶつも、ほぼこれと同じような具合いで、突然とつぜん無数むすうってくることがあるかと思うと、その翌日よくじつはまるで一匹いっぴきも見えぬこともある。もっともえず繁殖はんしょくするゆえ、その増加ぞうかするのはたんに他から集まるのみではない。同じ方角の風がきつづくと、おきのほうから「かつおのえぼし」が無数むすうはまって来て、何万となく打ち上げられたものが腐敗ふはいして臭気しゅうきを放つので、そのへんの者が大いに迷惑めいわくするようなことも時々ある。
 動物にはそれぞれ生活に必要ひつよう条件じょうけんがあるが、かような条件じょうけんそなわってあるところには、これにてきする動物が集まってくる。日光をこのむものは日なたに集まり、日光をきらうものは日蔭ひかげに集まる。掃溜はきだめをって「やすで」のかたまりを見出すのはそれゆえである。食物が多量たりょうにあるところへはむろんこれを食うものが集まってくる。毛虫や芋虫いもむし大群たいぐんをなしている場合はすなわちかかる原因げんいんによる。また「ありまき」のごときものは、運動のおそいために遠くへ行かずみな生まれたところの近辺きんぺんにとどまるので、大群たいぐんを生ずることがある。

「かげろうの群集」のキャプション付きの図
かげろうの群集ぐんしゅう

「かげろう」という「とんぼ」にた虫の幼虫ようちゅうは長い間水中に生活しているが、それが孵化ふかするときは何万となく、同時に水からび出すゆえ暫時ざんじ大群たいぐんが生じ通行人の顔や手にとまって、うるさくてえられぬ。「いなご」が非常ひじょう大群たいぐんをなして移動いどうし、いたるところで緑色の植物をのこらず食いつくすことは昔から有名な事実であるが、これもおそらく同じ時にたまごがそろうて孵化ふかした結果けっかであろう。
 右のごときもののほかに、動物には自ら同種どうしゅあいもとめてわざわざ群集ぐんしゅうをつくって生活するものが少なくない。

「ごんずい」のキャプション付きの図
ごんずい

あさいところに住む海産かいさん魚類ぎょるいの中に、形が「なまず」にて、口の周囲しゅうい幾本いくほんかのひげを有する「ごんずい」と名づける魚があるが、これなどはとく群集ぐんしゅうこのむもので、水族館にうてあるものを見ても、つねに多数あい集まって、ほとんど球形の密集団みっしゅうだんをつくっている。五分ごぶ(注:1.5cm)か一寸いっすん(注:3cm)にも足らぬ幼魚ようぎょでも明らかにこの性質せいしつあらわし、球形のかたまりになっておよぎ歩くゆえ、漁師りょうし子供こどもらはこれを「ごんずい玉」とんでいる。ためしに竹竿てけざおをもってかような「ごんずい玉」を縦横じゅうおうに切りみだすと、一時は多少散乱さんらんするが、竹竿てけざおをのけるやいなや、直ちにもとのとおりの球形にふくする。「ごんずい」は小さな球形の群集ぐんしゅうをつくるゆえとくに立つが、見渡みわたし切れぬほどの大群集ぐんしゅうをつくる魚類ぎょるいも少なくない。いわしにしんなどはそのれいで、大きな地引きあみを引き上げるところを見物すると、実に無尽蔵むじんぞうのごとくに思われるが、そのさかんに密集みっしゅうしているところでは、魚がたがいにし合うために、海の表面より上へあらわれ出るぐらいであるという。その他、かつおでもさばでもたらでも一定のところへ非常ひじょうにたくさんにってくるので、漁獲ぎょかくりょうもすこぶる多く、したがって水産物すいさんぶつ中の重要じゅうようなものと見なされるのである。

「あほうどりの群集」のキャプション付きの図
あほうどりの群集ぐんしゅう

 鳥類ちょうるい獣類じゅうるいにも群居ぐんきょするものははなはだ多い。その中でもとくにいちじるしいのは海鳥や海獣かいじゅうるいで、遠洋の無人島むじんとうにおける海鳥群集ぐんしゅうのありさまは、実地を見たことのない人にはとうてい想像そうぞうもできぬ。南鳥島みなみとりしまとか東鳥島とかいう名も、島中が鳥でいっぱいになっているところからつけたのであろう。海鳥は魚類ぎょるい常食じょうちょくとするからふんの中に多量たりょうりんふくまれてある。それゆえ海鳥のふん肥料ひりょうとしてははなはだ有効ゆうこうなもので、あたい相応そうおうに高い。海鳥の群集ぐんしゅうしている島にはこの貴重きちょうふんが何百年分も堆積たいせきしているゆえ、これをり取ると一角ひとかど富源ふげんとなる。無人島むじんとうにいる海鳥の中で主なるものは「あほうどり」で、つばさひろげると四尺よんしゃく(注:1.2m)あまりもある大鳥であるが、人が来てもげることを知らず、ただ魚の消化したくさしるけるだけゆえ、ぼうで打ちころすことは何でもない。南極なんきょく近くにいる「ペンギン鳥」も、ほとんど無数むすうむらがっているところがあるが、これらの鳥はただ集まっているというだけで、たがいにあい助けるというごときことはけっしてせず、あたかも電車の乗合客のように、あいののしりながらし合うている。「ペリカン」なども、動物園や見世物で一二匹いちにひきを見るとすこぶるめずらしい鳥のごとくに思われるが、その集まっているところにはほとんど無限むげんにいる。

「おっとせいの群集」のキャプション付きの図
おっとせいの群集ぐんしゅう

「あざらし」、「おっとせい」のごとき海獣かいじゅうはみな大群たいぐんをなして生活する。「海豚いるか」なども、何十匹なんじゅぴきかそろうて汽船と競争きょうそうして泳いで行くのを見かけることがある。陸上りくじょうの動物でも羊、山羊やぎ、「しか」、「かもしか」などを始め、うさぎねずみるいにいたるまで、植物を食う獣類じゅうるいには群棲ぐんせいするものがはなはだ多い。これらはみな単独たんどくの生活をおそれ、なるべく群集ぐんしゅうからはなれぬように注意し、万一少しくはなれることがあっても、直ちに群集ぐんしゅうのほうへ帰ってくる。しかし群集ぐんしゅうの中ではたがいにあい助けることはなく、食物をうばい合うてけんかをするものもえぬ。る書物に、人間の社会を冬期における「はりねずみ」の群集ぐんしゅうににたとえて、全くあいはなれては寒くてたまらず、また密接みっせつしすぎてはいたくてこまる。その中間にあたる適度てきど距離きょりが、いわゆる礼儀れいぎ遠慮えんりょであると書いてあったが、普通ふつうの動物の群集ぐんしゅうも多くはこれにたものであろう。ただし一匹いっぴき危険きけんを見つけてげ出せば、他はこれに雷同らいどうして全部のこらずげ去るという便宜べんぎはある。
 野牛のれがとらなどにおそわれた場合には、強い雄牛おうしは前面にならんでてきに向かい、弱いおす子供こどもはなるべくおくへ入れて保護ほごするが、かような団体だんたいは「あほうどり」や「ペンギン鳥」の群集ぐんしゅうとはいくぶんかちがい、若干じゃっかん個体こたい共同きょうどう目的もくてきのために力をあわせてはたらくのであるゆえ、多少社会を形造かたちづくる方向に進んだものと見なせる。またおおかみなども多数あい集まって、牛のごとき大きなけものめることがあるが、これもその時だけは一つの社会を組み立てていると言える。ただし元来たがいにあい助ける性質せいしつのないものが、ただえさを食いたいばかりに合同しているのであるから、相手をたおしてしまえば、利益りえき分配についてせつ一致いっちせず、たちまちたがいにあいたたかわざるをぬようになる。これらのれいを見てもわかるとおり、簡単かんたん群集ぐんしゅうから複雑ふくざつな社会までの間には種々しゅしゅことなった階段かいだんがあって、臨時りんじの社会、不完全ふかんぜんな社会などを順々じゅんじゅんならべて見ると、その間に判然はんぜんたる境界きょうかいのないことが明らかに知れる。

二 社会


 水中に生活する動物には芽生がせいによって繁殖はんしょくするものがいくらもあるが、これらの動物は多くは親と子との身体が一生涯いっしょうがいはなれずあいつづいたままでいるゆえ、だんだん大きな群体ぐんたいができる。

「さんごの群体」のキャプション付きの図
さんごの群体ぐんたい

たとえば「さんご」の虫なども、はじたまごから生ずる時は一匹いっぴきであるが、しだいに芽生がせいしてしまいに樹枝状じゅしじょう群体ぐんたいとなり終わる。そのありさまを人間にくらべて見たならば、あたかも一人が椅子いすこしをかけていると、その人のこしへんから横にが生じ、それが少しずつ大きくなり、しまいに完全かんぜん成人せいじんとなって、となり椅子いすこしをかけ、またその人のこしへんから横にが生えて、三人、四人としだいに人数が増加ぞうかして行くごとくである。かようにして生じた群体ぐんたいでは一個いっこ一個いっこの身体はたがいに連続れんぞくしていて、同じ血液けつえきが全部に循環じゅんかんし、同じ滋養じよう物が全部に分配せられるから、生活上には全部があたかも一匹いっぴきの動物のごとくにはたらき、かく個体こたいたがいにあいあらそうということはない。かり甲乙こうおつ個体こたいの中間のところへえさになる物が流れったとしても、こうおつか近いほうがしずかにこれをとらえて食うだけで、引っぱり合うてあらそうごときことはけっしてせぬ。ただしこうが食うてもおつが食うても、その消化した滋養じよう分はとなりからとなりへと流れて順々じゅんじゅんに分配せられるから、はじあいあらそうて食う必要ひつようはない。このような動物では生存せいぞん競争きょうそうにおける単位たんい一匹いっぴきずつあいはなれた個体こたいではなく、多数の個体こたいの集まった群体ぐんたいである。したがって、生存せいぞんのためにあいたたかうにあたってはかな群体ぐんたい群体ぐんたいとが対抗たいこうし、かく個体こたいは、ただ自分のぞくする群体ぐんたい戦闘力せんとうりょくすために同僚どうりょうと力をあわせて必死ひっしはたらくだけで、となりの者とあいあらそうごときことは絶対ぜったいにない。

「淡水こけむし」のキャプション付きの図
淡水たんすいこけむし

海産かいさん固着こちゃく動物にはかようなれいがたくさんにあるが、淡水たんすいの池やぬまむ「こけむしるい」なども、生活の状態じょうたいは全くこのとおりで、実に理想てき団体だんたい生活をいとなんでいるということができる。
 身体のたがいに連続れんぞくしている動物の群体ぐんたいでは、上にべたごとき団体だんたいてき生活が完全かんぜんに行なわれるのがあたり前のように思われるが、個体こたい一個いっこ一個いっこあいはなれている動物にも理想てき団体だんたい生活をいとなんでいるものがある。

「ありの巣」のキャプション付きの図
ありの

昆虫こんちゅうの中の蜜蜂みつばちあり白蟻しろありなどはそのいちじるしいれいであるが、これらにおいても、各個体かくこたいがただ自己じこぞくする団体だんたい維持いじ繁栄はんえいとのためにのみ力をつくす点は、身体の連続れんぞくした群体ぐんたいして少しも相違そういはない。かような個体こたいの集まりを社会または国と名づける。蜜蜂みつばちでもありでも白蟻しろありでも数千数万もしくは数十万の個体こたいが、力をあわせて共同きょうどうをつくり、えさを集めるにもてきふせぐにもつねに一致いっちして活動する。外へ出てえさもとめるものは朝からばんまで出歩いて熱心ねっしんに勉強し、とられるだけは集めてくるが、これはむろん自身一個いっこのためではない。またの内にとどまって、子を育てるものは、あるいは幼虫ようちゅうえさを食わせたり、さなぎをあたたかいところへうつしたりして一刻いっこくも休んではいない。はちありたまごから出た幼虫ようちゅうは小さなうじのようなもので、足もなくも見えずてておいてはとうていひとりで生活はできぬから、係りの者が毎日その口に滋養じよう物を入れてまわる必要ひつようがあって、これを育てるにはなかなか手数がかかる。またてきふせぐにあたっては、かく個体こたいは始めから命をてる覚悟かくごでいる。ありはちはら後端こうたんするどはりそなえ、かつ一種いっしゅさん分泌ぶんぴつしてはり注射ちゅうしゃするから、されるとすこぶるいたいが、蜜蜂みつばちなどが他のものをすと、はりは相手の傷口きずぐちみ根元からちぎれるゆえ、一度てきしたはちはらの後部に大きな傷口きずぐちができて、そのため命を落とすにいたる。しかし、自身の死ぬことによって、自身のぞくする社会をてきからふせぐことにいくぶんかでも貢献こうけんすることができる場合には、ありはちは少しも躊躇ちゅうちょせず直ちになんにおもむいて命をてるのである。徴兵ちょうへい忌避きひ者の多い人間の社会にくらべては実に愛国心あいこくしんが理想の程度ていどまで発達はったつしているごとくに見えるが、これがみなその虫の持って生まれた本能ほんのうはたらきである。
 動物の中にはたくさんの個体こたいが集まって多少共同きょうどうの生活をいとなみながら、ありはちほどに完結かんけつした社会をつくるにはいたらぬものがいくらもある。

「鳥類の共同の巣」のキャプション付きの図
鳥類ちょうるい共同きょうどう

アフリカのある地方にさんする鳥類ちょうるい一種いっしゅに、八百匹はっぴゃくひきないし千匹せんびきも集まって樹木じゅもくの上に共同きょうどうの屋根をつくり、その下に一組あてでをこしらえるものがある。ただしこれは風雨に対してを守るために力をあわせるだけで、一匹いっぴき危険きけんうた場合に他のものがこれを助けるというまでにはいたらぬ。されば、「共和きょうわ政治せいじ鳥」という俗称ぞくしょうがつけてはあるが、大統領だいとうりょう選挙せんきょして政治せいじゆだねるらしい形跡けいせきは見えぬ。また前にれいにあげた海狸かいりなどは、多数集まってはたらいている時にはかなず番をする役のものがあって、危険きけんのおそれがあれば、直ちに平たいで水面を打って相図あいずをすると、そのひびきを聞いてみなのこらず水中へんでげてしまう。かような団体だんたいはすでに多少の組織そしきそなわって、事実たがいにあい助けているから、もはや社会という名をかぶらせてもよろしかろう。「おっとせい」や「あしか」などが、多数岸に上がってねむる場合にもこれと同様のことをする。野牛の団体だんたいについては前にもべたが、ぞうのごときもむれをなして森の中を進む時には、かなず強いおす周囲しゅうい警護けいごし、めす子供こどもは中央の完全かんぜんなところを歩かせる。さるるいには猩々しょうじょうなどのごとく、夫婦ふうふ子供こどもとで一家族をつくって生活しているものもあるが、また多数集まって群居ぐんきょしているものもある。しこうして群居ぐんきょしている場合には、むろん程度ていどまでは協力きょうりょく一致いっちしてはたらくが、個体こたいの間にはかなずしも争闘とうそうがないわけではなく、あちらでもこちらでも小さなあらそいはえず行なわれている。さるむれでは、その中でもっとも力の強くもっともきばの大きなおす大将たいしょうとなって総勢そうぜい指揮しきし、強制きょうせいてきに全部を一致いっちさせているが、さる程度ていど群集ぐんしゅうには生活上この仕組みがかえって目的もくてきにかのうているように思われる。
 以上いじょう二三のれいでもわかるとおり、動物の社会にもさまざまの程度ていどのものがあるが、はちありで見るごとき完全かんぜんな社会は如何いかにして生じたかと考えるに、比較ひかくてき小さな群集ぐんしゅうが数多くあいならんで存在そんざいしてえずはげしく競争きょうそうしたと仮定かていすると、その結果けっかとしてかなずかような完結かんけつした社会ができ上がるべきはずである。群集ぐんしゅう群集ぐんしゅうとがあいたたかうときには、協力きょうりょく一致いっちする性質せいしつの少しでもまさったほうが勝つ見込みこみが多く、とくに味方のためには命をもしまぬものの集まりと、危難きなんえば友をててげ去るものの集まりとがあい対する場合には、前者の勝つべきはもちろんであるゆえ、これらの性質せいしつのすぐれた群集ぐんしゅうがつねに勝って生存せいぞんし、そのおとった群集ぐんしゅうえずけて滅亡めつぼうし、年月の重なる間にはますますこれらの性質せいしつが進歩して、ついに今日はちありの社会に見るごとき程度ていどまで発達はったつしたのであろう。さればあり勤勉きんべんはち勇気ゆうきもともに生存せいぞん必要ひつようなる性質せいしつとして、自然じぜん淘汰とうた結果けっか次第しだい次第しだいに進み来たったもので、一個体いっこたい標準ひょうじゅんとして見るとそんになる場合がしばしばあるが、そのぞくする団体だんたい標準ひょうじゅんとして見ると、むろんきわめて有効ゆうこうである。すなわちあり挙国きょこく一致いっちも、はち義勇ぎゆう奉公ほうこうも、実は団体だんたいが食うてんで死ぬために必要ひつようなことで、種族しゅぞく生存せいぞん目的もくてきからいえば「山荒やまあらし」がとげを立て、「スカンク」が臭気しゅうきを放つのと同じ役に立っている。ただ同一の目的もくてきたつするために、それぞれことなった手段しゅだんっているというにすぎぬ。
「「ひひ」石を投ぐ」のキャプション付きの図
「ひひ」石を投ぐ
ひひのるい口吻こうふん突出つきだせるをもって,横より見れば顔の形やや犬にたり。するどきばをそなう。つねに岩石等の上に群居ぐんきょし,さかんに石を投げててきふせぐがゆえに容易よういに近づきがたし。図にしめすはアフリカさん一種いっしゅなり。

三 分業と進歩


 社会が完結かんけつすると同時に生ずることは分業である。身体の連続れんぞくした動物の群体ぐんたいを見るに、個体こたい形状けいじょうはたらきも全部一ようのものもあるが、個体こたいの間に分業が行なわれ、分担ぶんたんの仕事がおのおの専門せんもんに定まって、体の形状けいじょうもこれにおうじていくとおりか区別くべつのできるようになった種類しゅるいがすこぶる多い。

「さんご類の分業」のキャプション付きの図
さんごるいの分業
群体ぐんたい中の個体こたい八匹ぱっぴきだけをしめ
左より一番目と八番目との個体こたい群体ぐんたい防御ぼうぎょを引き受けるもの。二番目,五番目,六番目の個体こたいえさを食うことを専門せんもんとするもの。三番目,四番目,七番目の個体こたい生殖せいしょくをつかさどるもの。

淡水たんすいさんする「こけむし」では一群体ぐんたい内の個体こたいは形がただ一とおりよりなく、「さんご」などでも表面から見える個体こたいはみな形があい同じであるが、「さんご」にた動物で、「やどかり」のからの外面に付着ふちゃくした群体ぐんたいをつくるものには個体こたい三種類さんしゅるいべつがあって、一種いっしゅは食物をとらえて食うことをつかさどり、一種いっしゅはただ生殖せいしょくのみを役目とし、他の一種いっしゅてきに対して群体ぐんたい防御ぼうぎょすることのみをおのがつとめとしている。この動物の構造こうぞうは「ヒドラ」を数多く集めて、しりのところでたがいに連絡れんらくさせ、これをしばのごとくに一平面の上に広げたと想像そうぞうすれば、たいがいの見当はつくが、その「ヒドラ」のごとき形の個体こたいを調べて見ると、触手しょくしゅも長く口も発達はったつして、えさを食うにてきすると思われる形のものが多数をめている間に交じって、形がやや細く触手しょくしゅも短いものがいくつもある。しこうしてこれらのものには、かなず体の中央からあたかもかきの木のえだかきの実がなっているごとくに、小さな丸い実のごときものがき出しているが、これがすなわち生殖せいしょく器官きかんで、成熟せいじゅくすればその中から子がおよぎ出すのである。一群体ぐんたいうち個体こたいは、ことごとく身体がたがいに連絡れんらくして滋養じよう分はいずれにも行きわたるから、食物をとらえて食う役目の個体こたいがよく勉強してくれさえすれば、生殖せいしょくをつかさどるほうの個体こたいは四方から十分に滋養じよう分をて、さかんに子をみつづけることができる。

「くだくらげ」のキャプション付きの図
くだくらげ
(イ)浮子うきの役をつとめる個体こたい (ロ)運動をつかさどる個体こたい (ハ)食物を食う個体こたい (ニ)群体ぐんたい中軸ちゅうじく (ホ,ヘ)保護ほごする個体こたいかげかくれたる食物を食う個体こたい (ト)生殖せいしょくをつかさどる個体こたい (チ)保護ほごする個体こたい (リ)食物を食う個体こたい (ヌ)保護ほごする個体こたいいんに物を食う個体こたいかくれたるところ (ル)保護ほごする個体こたい (ヲ)食物を食う個体こたい (ワ)触手しょくしゅの糸

 群体ぐんたい内で個体こたいの間に分業の行なわれているもっともいちじるしいれいは、おそらく「くだくらげ」と名づける動物であろう。これもその構造こうぞうは、あたかも数多くの「ヒドラ」をたばにしたごときものであるが、分業の結果けっかかく個体こたい形状けいじょうにいちじるしい相違そういが生じ、すべてがあい集まってはじめて一匹いっぴきの動物をなせるかのごとくに見える。すべて「くだくらげ」のるい群体ぐんたいをなしたままで海面にかんでいるが、その中軸ちゅうじくとして一本の伸縮しんしゅく自在じざいの糸をそなえ、この糸に、「ヒドラ」のごとき構造こうぞう個体こたいが列をなして付着ふちゃくしているものが多い。しこうしてこの数多い個体こたいの間にはほとんど極度きょくどまでに分業が行なわれ、かく個体こたいは自身の分担ぶんたんする職務しょくむのみを専門せんもんにつとめ、そのためそれぞれ特殊とくしゅ形状けいじょうていして、中にはその一個体こたいなることがわからぬほどに変形へんけいしているものさえある。まず中軸ちゅうじくなる糸の上端じょうたんのところには、中にガスをふくんだふくろがあって浮子うきの役をつとめているが、ていねいに調べて見ると、これも一匹いっぴき個体こたいであってぜん群体ぐんたいかすことだけを自分の職務しょくむとし、それにおうじた形状けいじょうそなえて他の作用はいっさいつとめぬ。次に透明とうめいなガラスのかねのごときものが数個すうこならんでいるが、生きているときはこのかねがみな「くらげのかさ」のごとくに伸縮しんしゅくして水をき、その反動によってぜん群体ぐんたいおよがせる。もっとも一定の方向に進行せしめるわけではなく、たんに同じところにとどまらぬというだけであるが、浮游ふゆうせいえさもとめるには、これだけでも大いに効能こうのうがある。それより下の部には、木の葉のごとき形のものがところどころに見えるが、これは他の個体こたいを自分のかげにおおいかくして保護ほごすることを専門せんもんのつとめとする。前の鐘形しょうけいの物と同じく、これもそれぞれが一個体いっこたいであってその発生を調べると、はじめ「ヒドラ」と同じ形のものが、次第しだい変形へんけいしてついにかようになったのである。木の葉の形の物のかげからび出ているのは、食物を食うことを専門せんもんとする個体こたいで、形状けいじょうはまず「ヒドラ」と同じく円筒えんとう形で、その一端いったんに口をそなえている。ただし「ヒドラ」とはちがうて口の周囲しゅうい触手しょくしゅがない。さすが食うことを専門せんもんとするだけあって、きわめて大きく口を開くことができて、時とするとあたかも朝顔あさがおの花の開いたごとき形にもなる。またこれに交じって指のような形で口のない個体こたいがあるが、これは物にれて感ずることをつとめる。そのそばからは一本長い糸がれているが、これはすなわち伸縮しんしゅく自在じざい触手しょくしゅであって、その先にはてきすための微細びさい武器ぶきかたまりになってついている。「くだくらげるい」にはげしくすものの多いのはそのためである。このるいは水中で触手しょくしゅを長くばし、浮游ふゆうしている動物にれると、この武器ぶきを用いて麻酔ますい粘着ねんちゃくせしめ、触手しょくしゅちぢめて物を食う個体こたいの口のところまで近づけてやるのである。そのほか、べつ生殖せいしょくのみをつかさどる個体こたいがところどころにかたまっているが、これは大小のつぶの集まりで、あたかも葡萄ぶどうふさのごとくに見える。「くだくらげ」の一群体ぐんたいはかように種々しゅしゅ雑多ざった変形へんけいした個体こたいの集まりで、各種かくしゅ個体こたいは生活作用の一部ずつを分担ぶんたんし、えさとらえる者はただとらえるのみで、これを食う者にわたし、食う者はただ食うだけで、えさが口のそばにたつするまで待っている。く者はくだけおよぐ者はおよぐだけの役目を引き受けて、他の仕事は何もせず、木の葉の形した個体こたいのごときは、たんに他のものにかくれ場所をあたえるだけで、ほとんど何らの生活作用をもなさぬ。かく個体こたい構造こうぞうがみな一方にのみへんしているありさまは、これを人間にうつしたならば、あたかも口と消化器しょうかきのみ発達はったつして、手も足もない者、手だけが大きくて他の体部のことごとく小さな者、だけがむやみに大きな者、生殖器せいしょくきのみが発達はったつしてどうも頭も小さな者というごとき奇形きけい者ばかりをひも珠数じゅずつなぎにしたごとくであるが、これが全部力をあわせると何の自由もなしに都合つごうよく生活ができるのである。

「同一の種類に属ししかも形状を異にする働き蟻4種」のキャプション付きの図
同一の種類しゅるいぞくししかも形状けいじょうことにするはたらありしゅ

 個体こたい一個いっこ一個いっこはなれながら社会をつくって生活する動物にも分業の行なわれているものが多い。蜜蜂みつばちのごときものでも、生殖せいしょくをつかさどる雌蜂めはち雄蜂おはちのほかに、の内外のすべての仕事を一手に引き受けてはたらはたらはちというものがあって、個体こたい形状けいじょう三種類さんしゅるいになっているが、ありるいではさらに分業が進んで、個体こたい形状けいじょうにも種類しゅるいの数がふえている。雌蟻めすあり雄蟻おすありのほかにはたらありのあることははちと同じであるが、はたらありの中にまたさまざまの分担ぶんたんが行なわれ形状けいじょうことなったものがいく種類しゅるいもある。地面に少し砂糖さとうらして多数のありの集まって来たところを見ると、あご非常ひじょうに大きく、したがって頭のいちじるしく大きなものが普通ふつうはたらありに交じつてところどころにいるが、これは兵蟻へいありというて、とくてきに対して自分の団体だんたいを守ることを専門せんもんとするはたらありである。また普通ふつうの仕事をするはたらありの中にねこねずみほどに大きさのちがう二組を区別くべつすることのできる種類しゅるいもある。

「壺蟻」のキャプション付きの図
壺蟻つぼあり

これらはどこの国でも見かけることであるが、北アメリカのメキシコにさんするあり一種いっしゅでは、はたらありの中の若干じゃっかんのものは、ただみつをのみんではらの中にたくわえることだけを専門せんもんの役目とし、生きながら砂糖さとうつぼの代わりをつとめる。他のはたらありの集めて来たみつをいくらでも引き受けてのみむから、身体の形状けいじょうもこれに準じて変化へんかし、頭とむねとは普通ふつうのものとあまりちがわぬが、はらだけは何層倍なんそうばいにも大きくふくれてあたかもゴムたまのごとくになっている。しこうして活発に運動することはもちろんできぬゆえ、ただ足でかべに引きかかって静止せいししているが、その何匹なんびきもならんでいるところを見ると、たなの上につぼがならべてあるのと少しもちがわぬ。みつ入用いりようが生ずると、他のはたらありがこの「壺蟻つぼあり」のところへ来て、その口から一滴いってきずつみつを受け取ってゆくのであるから、はたらきにおいてもたな砂糖さとうつぼと全く同じである。前にべた「くだくらげ」のガスふくろでもこの「壺蟻つぼあり」でもそれぞれ一匹いっぴき個体こたいでありながら、たんに物をいれるうつわとしてのみ用いられているのであるから、個体こたい標準ひょうじゅんとして考えると何のために生きているのか、ほとんどその生存せいぞん意義いぎがないごとくに見える。しかし団体だんたい標準ひょうじゅんとして考えると、かような自我じが没却ぼっきゃくした個体こたい存在そんざいすることは、その団体だんたいの生活には有利ゆうりであって、かかるものがわっているために全団体ぜんだんたい都合つごうよく食うてんで生存せいぞんしつづけるのである。団体だんたい団体だんたいとが競争きょうそうする場合には一歩でも分業の進んだもののほうが勝つ見込みこみが多いから、長い年月の間には次第しだいに分業の程度ていどが進んで、しまいに浮子うきの代わりつぼの代わりなどを専門せんもんにつとめる個体こたいまでができたのであろう。

四 協力きょうりょく束縛そくばく


 単独たんどくに生活する動物では成功せいこうすれば自身だけが利益りえき失敗しっぱいすれば自身だけが損害そんがいをこうむるのであるから、わらいたいときにわらい、きたいときにくのも勝手であるが、多数あい集まって力をあわせてきに当たる場合には大いにおもむきちがい、つねに全団体ぜんだんたい利害りがいを考えて、各自かくじ挙動きょどう加減かげんしなければならぬ。わらいたいときにも、もし自分のわらうことが団体だんたいにとって不利益ふりえきならば、わらわずにえていなければならず、きたいときにも、もし自分のくことが団体だんたいのために不利益ふりえきならば、かずにしのばねばならぬ。これがすなわちいわゆる義務ぎむであって、義務ぎむのために自由の一部を制限せいげんせられることは、団体だんたい生活をいとなむ動物のまぬがれぬところである。しかし団体だんたい生活によって生ずる生活上の利益りえきは、この損失そんしつつぐなうてなおあまりあるゆえ、種族しゅぞく全体の利害りがいからいえば、個体こたいの自由の制限せいげんせられることはすこぶる有望ゆうぼうな方面に進み行くものと見なすことができる。「自由をあたえよ。しからざれば死をあたえよ」とのさけび声は如何いかにも壮快そうかいに聞こえるが、絶対ぜったいの自由は団体だんたい生活をする動物には禁物きんもつであって、もしこれをゆるしたならば、団体だんたい即座そくざ分解ぶんかいして、てきなる団体だんたい競争きょうそうすることができなくなる。団体だんたい内の一部の者が暴威ぼういふるうてのこりの者を圧制あっせいするために、個体こたい間に反抗はんこう精神せいしんさかんになって、自分のぞくする団体だんたいをものろうごとき者の生ずることは、その団体だんたい生存せいぞん上大いに不利益ふりえきであるゆえ、かかる場合に圧制あっせい者に対して自由をさけぶもののあるのは当然とうぜんであるが、団体だんたい生活をなす以上いじょうは、条件じょうけんきの自由よりほかにゆるすことのできぬはろんを待たぬ。
 群体ぐんたいをつくって生活する動物でも、個体こたい間にいまだ分業の行なわれぬ種類しゅるいならば、一匹いっぴきずつにはなしても生存せいぞんができぬこともないが、いくぶんかでも分業が進んで、個体こたい間に形状けいじょうや作用のあいことなったものの生じた場合には、これを別々べつべつはなしてはとうてい完全かんぜんな生活をいとなむことはできぬ。かりに大工と仕立屋と百姓ひゃくしょうとが一箇所いっかしょに住んでいると考えれば、大工は三人分の家をて、仕立屋は三人分の衣服いふくい、百姓ひゃくしょうは三人分の田をたがやして、三人ともに安楽あんらくらせるが、これを一人ずつにはなしたならば、大工も縫針ぬいばりを持たねばならず、仕立屋も肥桶こえおけをかつがねばならず、きわめて不得手ふえてなことをもつとめねばならぬであろうから、衣食住いしょくじゅうともにすこぶる自由なるをまぬがれぬ。個体こたい間に分業の行なわれている動物を一匹いっぴきずつにはなしたならば、いつでもこれと同様な不便ふべんが生ずる。人間ならばだれも身体の形状けいじょうが同じであるから、大工が縫針ぬいばりを持ち、仕立屋が肥桶こえおけをかつぐこともできるが、群体ぐんたいをつくる動物では、かく個体こたい形状けいじょう構造こうぞうがそれぞれその受持ちの役目におうじて、変化へんかしているものが多いゆえ、一匹いっぴきずつはなしてはとうてい一日も生活ができぬであろう。たとえば、「くだくらげ」の群体ぐんたいをばらばらにはなしたと仮定かていすると、鐘形しょうけい個体こたいおよぐだけで餓死がしし、葉状ようじょう個体こたいかげかくれるものがないから何の役にも立たず、物を食う個体こたいは口を大きく開いていてもえさをくれるものがなく、触手しょくしゅえさとらえて収縮しゅうしゅくしてもこれを持って行く先がない。かような動物では種々しゅしゅ個体こたいが集まって、始めて完全かんぜんな生活ができるのであるから、個体こたいたがいにはなれることができぬ。しこうして他とはなれることができぬということはすでに大なる束縛そくばくである。
 蜜蜂みつばちありの社会では個体こたいの身体はあいはなれているが、各自かくじ分担ぶんたんが定まってみなそろわねば完全かんぜんな生活ができぬという点では、「くだくらげ」と同様である。雌蜂めはち雄蜂おはちだけではたまごむだけはできても、これを保護ほごするもつくれず、たまごから孵化ふかした幼虫ようちゅう養育よういくすることもできぬ。またはたらはちだけでは子が生まれぬから一代かぎりで種族しゅぞく断絶だんぜつする。はたらありのほうでもこれと同様であるが、メキシコ産の壺蟻つぼありのごときにいたっては、一匹いっぴきずつにはなしては全く生存せいぞん意義いぎがなくなる。さればはちでもありでも、ただ自己じこぞくする団体だんたいのためにのみ力をつくすように束縛そくばくせられているのである。ただし、「くだくらげ」でも、はちありでもかく個体こたいは事実上かように束縛そくばくせられてはいるが、これを人間社会で用いる普通ふつうの意味の束縛そくばくと名づくべきかいなかはすこぶるうたがわしい。何故なぜというに、束縛そくばくといえばかなずその反対に自由のあることを予想する。自由に動きたがるものに、制限せいげんを定めることがすなわち束縛そくばくであるが、束縛そくばくせずともそれ以外いがいのことをなさぬものに対しては束縛そくばくという文字は当てはまらぬ。くだくらげでもはちありでも長い年月の団体だんたいてき競争きょうそうて、自然じぜん淘汰とうた結果けっか今日のありさままでにたつしたのであるから、かく個体こたい神経系しんけいけいは、ただ団体だんたいのためにのみ力をくす本能ほんのうあらわれるように発達はったつして、生まれながらに団体だんたい有利ゆうりなことのみを行なうのである。ありが終日はたらくのはなまけたいところをつとめてはたらくのではなく、はたらかずにいられぬ性質せいしつを持って生まれたゆえにはたらくのである。はちてきすのは、自己じこぞくする団体だんたい危険きけんを知り、大切なる命をもててかかるわけではなく、てきがくればこれをさずにはいられぬ性質せいしつを生まれながらそなえているゆえである。かような次第しだいで、かく個体こたいは自身の役目だけをつとめる天性てんせいを持って生まれ、あい集まって団体だんたいをつくっているのであるから、そのつとめ以外いがいのことはとくきんぜずとも行なうことはない。したがってきんぜられても少しも束縛そくばくとは感ぜぬ。あたかも呼吸こきゅうきんぜられはいが消化をきんぜられても束縛そくばくとは名づけられぬのと同様である。
 かようにろんじて見ると、団体だんたい生活のために個体こたいの行動を束縛そくばくせられるのは、ただ同一の目的もくてきのために力をあわせてはたら群集ぐんしゅう、もしくは低度ていどの社会だけである。単独たんどく生活をいとなむ動物は何の束縛そくばくをも受けぬ。もっとも魚が水より出られぬとか、かえるが海をわたれぬとかいうごとき、天然てんねん束縛そくばくはむろんあるが、その他の束縛そくばくは少しもない。「さんご」や「こけむし」のごとき群体ぐんたいをなす動物では個体こたいの身体がみなたがいに連絡れんらくし、全群体ぜんぐんたいがあたかも一匹いっぴきのごとくに生活して、かく個体こたいはただその一部分としてはたらくゆえ、またとく束縛そくばくと名づくべきことは起こらぬ。またありはちの社会では、かく個体こたい神経系しんけいけいがただ団体だんたい生活にのみてきするように発達はったつし、身体はあいはなれていても生活上にはかく社会が全く完結かんけつして、あたかも一個体いっこたいのごとくにはたらくゆえ、大なる束縛そくばくが行なわれていながら、何らの束縛そくばくともならぬ。ただ多くの鳥類ちょうるい獣類じゅうるい群集ぐんしゅうのごとき場合には、かく個体こたいには個体こたい標準ひょうじゅんとした生存せいぞん競争きょうそうに勝つべき性質せいしつ発達はったつし、これがあい集まって力をあわせんとつとめているのであるから、かく個体こたいには自分を中心としたよくがあり、他と力をあわすには多少このよくさえねばならぬ。団体だんたいをなして生活するためにかく個体こたいが行動を束縛そくばくせられるのはこのようなるいかぎることである。

五 制裁せいさい良心りょうしん


 束縛そくばくのないところでは束縛そくばくやぶるものもなく、したがって制裁せいさいくわえる必要ひつようも起こらぬが、鳥類ちょうるい獣類じゅうるいのごとき、各自かくじ勝手の欲情よくじょうをそなえたものが群集ぐんしゅうをつくって共同きょうどうの生活をしているところで、もし一匹いっぴきのものが、自分一個いっこ欲情よくじょうのために全団体ぜんだんたい不利益ふりえき行為こういをした場合には、これに制裁せいさいを加えねばならぬ。団体だんたい生活をなす動物が全団体ぜんだんたい利害りがい標準ひょうじゅんとして自分一個いっこの自由の一部を犠牲ぎせいとするのはその個体こたい義務ぎむであるが、団体だんたいの一員として、団体だんたい生活より生ずる利益りえきにあずかりることは、これに対する権利けんりである。されば義務ぎむをつくさぬ者には制裁せいさいとして、その権利けんり剥奪はくだつすればよろしいのであるが、団体だんたいをなす動物では、自己じこぞくする団体だんたい以外いがいのものはみなてきであるゆえ、団体だんたいの一員たる権利けんりうばわれたものは、残余ざんよのものからてきとして取扱とりあつかわれ、衆寡しゅうぼてきせずしてとうていころされ終わるをまぬがれぬ。ただし二個にこ以上いじょう団体だんたいあい対立して競争きょうそうしている場合には、各団体かくだんたいともにその内の員数のることは、戦闘せんとう力を減少げんしょうするから大いにいましむべきであるゆえ、たん折檻せつかんくわえて将来しょうらいいさめるだけでころさずにおくこともつねである。猿類えんるいには団体だんたい生活をいとな種類しゅるいがたくさんあるが、各団体かくだんたいには力の強い経験けいけんんだおす大将たいしょうとなって全体を指揮しきし、つねに一致いっちの行動をとるようになっている。大将たいしょうめいにそむいた者はきびしくばつせられ、暫時ざんじはこれにりて全く温良おんりょう臣民しんみんとなる。ただし日数をる間には、また前の刑罰けいばつわすれて、大将たいしょうの命にしたがわぬようなことも生ずる。

「からすの巣」のキャプション付きの図
からすの

「からす」なども近所にをつくるものの中に、となりより材料ざいりょうぬすみ来たったもののあることが知れると、多数集まってその一匹いっぴきの「からす」をめ、かわるがわるつついてついにこれをころしてしまう。これはただ一例いちれいにすぎぬが、共同きょうどう目的もくてきのために力をあわせてはたらく動物の群集ぐんしゅうには、かなず何かこれにるいすることがある。鳥類ちょうるい獣類じゅうるいともにかような習性しゅうせいを有するものはすこぶる多いが、多数の個体こたいが集まって組合をつくる場合には、その秩序ちつじょ安寧あんねいたもつためには何らかの規約きやくが行なわれなければならず、したがってこれをやぶるものは組合から制裁せいさいを受けねばならぬ。しこうして制裁せいさい程度ていどには軽重があって、ころされ終わるものもあれば、半殺はんごろしぐらいでゆるされるものもある。
 以上いじょうべたところから考えて見るに、大部の道徳どうとく書や複雑ふくざつ法典ほうてんを所持しているものは、人間以外いがいの動物にはむろん一種いっしゅもないが、義務ぎむ権利けんり規約きやく制裁せいさいなどの芽生めばえのごときものは種々しゅしゅの動物の群集ぐんしゅうですでに見るところである。またぜんとか悪とか良心りょうしんとか同情どうじょうとかいう言葉も、かような程度ていどの社会には多少あてはまらぬこともない。これらの関係かんけいは人間のごとき大きな複雑ふくざつ団体だんたいでは種々しゅしゅ事情じじょうのために判然はんぜんせぬようになっているが、比較ひかくてき小さな団体だんたいがいくつも相対あいたいしてはげしく競争きょうそうしている場合を想像そうぞうするともっとも明瞭めいりょうに知れる。団体だんたいの一員である以上いじょうは、各団体かくだんたいはあるいは戦線せんせんに立つかあるいは後方勤務きんむ従事じゅうじするかいずれかにおいて奮闘ふんとうし、団体だんたい不利益ふりえきになることはけっしてせぬようにつつしまねばならぬが、人間の社会でぜんと名づけることは、これを小さな団体だんたいで実行すればみな戦闘せんとう力をすことのみである。また悪と名づけていることはみな戦闘せんとう力をげんずることばかりである。たとえば同僚どうりょうころすことは悪というが、これは戦闘せんとう力をげんずる。同僚どうりょう危険きけんすくうことはぜんというが、これは戦闘せんとう力をす。虚言きょげんは悪というが、これは同僚どうりょうあやまらせて戦闘せんとう力をげんずる。正直はぜんというがこれは同僚どうりょうたがいにしんじて戦闘せんとう力をす。一個体こたいが命をてたために全団体ぜんだんたいが助かればこれは最上さいじょうぜんであり、一個体こたいあやまったために全団体ぜんだんたいほろびればこれは極度きょくどの悪である。大きな団体だんたいでは、自殺じさつかく個体こたいの勝手のように思われるが、百匹ひゃっぴきよりなる小団体だんたいでは一匹いっぴき自殺じさつすれば戦闘せんとう力が明らかに百分の一だけげんずるゆえ、悪と名づけねばならぬであろう。小さな団体だんたいではかく個体こたい行為こうい全団体ぜんだんたいのために有利ゆうりであったか、有害ゆうがいであったかが直ちに明らかに見えるゆえ、ぜんのほめられ悪のばつせられる理由もきわめて明瞭めいりょうに知られ、ぜんのほめられずしてかくれ、悪のばつせられずしてのがれるごときことはけっしてない。しこうして悪のかなばつせられることを日ごろ知っておれば、自分がたまたま悪をおかしたときには、ばつののがるべからざることをおそれてなかなか平気ではいられぬ。これがすなわち良心りょうしんともいうべきものであろう。小団体しょうだんたい同志どうしの間に生存せいぞん競争きょうそうがはげしく行なわれ、ぜんを行なう個体こたいより団体だんたいはつねに生存せいぞんし、悪を行なう個体こたいより団体だんたいほろせれば、しまいにはかく個体こたいが生まれながらにぜんのみを行なう団体だんたいが生じ、今日のあり蜜蜂みつばちのごとくにぜんもなく悪もなく良心りょうしんもなく制裁せいさいもなしに、すべての個体こたいがただ自分のぞくする団体だんたいのためのみにはたらくものとなるであろう。これに反して各団体かくだんたいがますます大きくなり、団体だんたい間の競争きょうそうよりも団体だんたい内の個体こたい間の競争きょうそうのほうがはげしくなれば、ぜんかなずしもしょうせられず、悪もかなずしもばつせられず、規約きやくやぶられ良心りょうしん萎靡いびして、単独たんどく生活をいとなむ動物の状態じょうたいにいくぶんか近づくをまぬがれぬであろう。
 生物の生涯しょうがいは食うてんで死ぬのであるが、食うてんで死のうとすればえずてきたたかわねばならぬ。しこうして団体だんたい形造かたちづくることはてきたたかうにあたって、めるにもふせぐにもすこぶる有効ゆうこう方法ほうほうである。身体のたがいに連絡れんらくしている群体ぐんたいでは、全部があたかも単独たんどく生活をいとなむ一個体こたいのごとくにはたらくが、若干じゃっかんはなれた個体こたいがいっしょに集まっていくぶんか力をあわせ不完全ふかんぜんな社会をつくり、共同きょうどうてきたたかいながら食うてんで死のうとすれば、そこに義務ぎむ権利けんりとが生じ、是非ぜひ善悪ぜんあくとの区別くべつができ、同情どうじょう良心りょうしんはじめてあらわれる。小団体しょうだんたいの間にはげしい競争きょうそうの行なわれることが長くつづけば、各団体かくだんたいはますます団体だんたい生活にてきする方向に進歩し、その内のかく個体こたい神経系しんけいけい次第しだい変化へんかして、生まれながらに義務ぎむぜん同情どうじょうとを行なわずにはいられぬものとなるであろうが、人間などのごとくに団体だんたいが大きくなって、その間の勝負が急にかたづかなくなると、この方面の進歩はむろん止まってしまい、いったん発達はったつしかかった同情どうじょう愛他あいたの心は、ふたた個体こたい各自かくじ生存せいぞん必要ひつよう自己じこ中心の欲情よくじょうのために圧倒あっとうせられるようにならざるをない。しかも意識いしきあらわれるところは神経系しんけいけいはたらきの一小部分であって、その根底こんていはすべて意識いしき範囲はんい内にかくれているゆえ、今日の人間の所業しょぎょうにはぜんもあれば悪もあり、同情どうじょうもすれば残酷ざんこくなこともして、自分にも不思議ふしぎに思われるほどにあい矛盾むじゅんしたことがふくまれるであろう。人類じんるいにおける道徳どうとく観念かんねん如何いかにして起こり、如何いかなる経路けいろて今日の状態じょうたいまでにたつしたかは、もとより大問題であって、そのためにはずいぶん大部な書物もできているくらいであるから、むろん本書の中にかたわらくせるわけのものではない。それゆえここには生物全体について以上いじょう簡単かんたんべただけにとどめておく。


第九章 生殖せいしょく方法ほうほう


 前章までは主として食うため食われぬために生物の行なうことをべたが、何故なぜ食うこと食われぬことにかくまで力をくすかといえば、これは子をみ終わるまで生きびんがためにほかならぬ。されば食うことはむための準備じゅんびとも考えられるが、しからば何のためにむかとたずねると、これはまたさらに多く食わんがためともいえる。一匹いっぴきが一代かぎりではどれほども食えぬが、繁殖はんしょくして数多くなれば、それだけ多く食え、さらに繁殖はんしょくすればさらに多く食える。食うのはむためで、むのは食うためだといえば、いずれが目的もくてきかわからぬようであるが、およそ生物の生活は他物をとって自体とするにあることを思うと、食うのもむのもそのためであって、けっして一方だけを目的もくてきと見なすことはできぬはずである。言をえれば個体こたいの食うこととむこととによって種族しゅぞくの生活がり立っているから、一方だけにはなしては生活を継続けいぞくすることができぬ。他物を食うて自己じこの身体にくわえれば、自己じこの身体はむろんそれだけ大きくなるが、これがすなわち成長せいちょうである。しかしながら生物の各種かくしゅには種々しゅしゅ原因げんいんから、それぞれ個体こたいの大きさに定まりがあってこれをえることはできぬゆえ、さらに食うてさらに大きくなろうとすれば、数がえるよりほかにみちはない。これがすなわち繁殖はんしょくである。かように考えると、繁殖はんしょく個体こたい範囲はんいえた成長せいちょうであると言うてもよろしい。ただ一つ不思議ふしぎなのは何故なぜ普通ふつうの動植物では個体こたいえるためには、まえもって男女両性りょうせい相合あいあいすることが必要ひつようかという点であるが、これについては今日もなお議論ぎろんがあってたしかなことはいまだ知られていない。あるいはいたる体質たいしつわかくするためともいい、または生まれる子に変異へんいを多くするためともいい、その他にも種々しゅしゅせつがある。著者ちょしゃ自身はむしろ食うためにはたらいて古くなった体質たいしつをさらに多く食うにてきしたわか体質たいしつ回復かいふくするためであろうというせつかたむいているが、いずれにしても生殖せいしょくのために男女の相合あいあいすることは、種族しゅぞく生存せいぞん上何かとく有利ゆうりな点があることだけはうたがいない。犬でもねこでもにわとりでもかいこでも世人の普通ふつうに知っている動物にはみな雌雄しゆうべつがあって、生殖せいしょくにあたってはかな雌雄しゆう相合あいあいするゆえ、生殖せいしょくといえばすなわち雌雄しゆう相合あいあいすることであるごとくに考えるが、広く生物界を見渡みわたすと、雌雄しゆう関係かんけいのない生殖せいしょくほうもあれば、雌雄しゆうべつはあっても雌雄しゆう相合あいあいするにおよばぬ生殖せいしょくほうもある。しこうしてこれらのあいことなった生殖せいしょくほう順々じゅんじゅんにくらべてゆくと、しまいには日ごろ生殖せいしょくとは名づけていない身体の変化へんかまでたつして、その間にさかいもうけることができぬ。されば生殖せいしょくの真の意義いぎを知ろうとするには、まず生物界にげんに行なわれている種々しゅしゅ生殖せいしょくほうから調べてかからねばならぬ。

一 雌雄しゆう異体いたい


 雌雄しゆう異体いたいとは個体こたい二種にしゅべつがあって、一方はおす一方はめすである場合をいう。普通ふつうに人の知っている動物はほとんどみなかようになっている。人間をはじめ獣類じゅうるい鳥類ちょうるいはもとよりへび、「とかげ」、かめかえる、および魚類ぎょるいにいたるまで脊椎せきつい動物はことごとく雌雄しゆう異体いたいである。また日常にちじょう人の目にれる昆虫こんちゅうるい、「えび」、「かに」のるいなども雌雄しゆうかなべつである。それゆえ雌雄しゆう異体いたいは動物の通性つうせいのごとくに思われ、わざわざこれをろんずる必要ひつようがないかのごとくにも感ぜられるが、生物には雌雄しゆうべつのないものも少なくないゆえ、それらにくらべて雌雄しゆう異体いたいの動物にのみとくそなわっている性質せいしつについて考えて見よう。
 個体こたい雌雄しゆうべつがあって、その間に生殖せいしょくの行なわれる動物の中にもさまざまのものがある。からすさぎのごとくに一見しては雌雄しゆうべつのわからぬものもあれば、鹿しかにわとりのごとくに遠くからでも雌雄しゆう区別くべつ判然はんぜんと知れるものもある。犬やかめのごとくに交尾こうびして暫時ざんじはなれぬものもあれば、「うに」、「なまこ」などのごとくに雌雄しゆうあいれずして生殖せいしょくするものもある。これらの相違そういおよびその生じた原因げんいんについては後の章にべることとしてここにはりゃくするが、雌雄しゆう異体いたいの動物にはかようにあいことなる性質せいしつのほかに全部に通じた肝要かんような点がある。それはすなわち雌性しせい個体こたいらん細胞さいぼうを生じ、雄性ゆうせい個体こたい精虫せいちゅうを生ずることであって、この一事にかんしてはけっして例外れいがいはない。らん細胞さいぼうを生ずる個体こたいならば如何いかなる形状けいじょうていし、如何いかなる性質せいしつそなえていてもこれはめすであって、精虫せいちゅうを生ずる個体こたいならば如何いかなる形状けいじょうていし、如何いかなる性質せいしつそなえていてもこれはおすである。雌雄しゆう異体いたいの動物が生殖せいしょくするさいには、めすの身体からはなれたらん細胞さいぼうおすの身体からはなれた精虫せいちゅうとが一個いっこずつ相合あいあいして、新たなる一個体こたい基礎きそをつくる。しこうして雌雄しゆうの身体性質せいしつ等に相違そういのある場合には、これはみならん細胞さいぼう精虫せいちゅうとをあい出遇であわしめるため、または新たに生じた個体こたい保護ほごやしなうためのものである。雌雄しゆう両性りょうせいによる生殖せいしょくは、種々しゅしゅ生殖せいしょくほうの中でもっとも進んだもっとも複雑ふくざつなものであるが、雌雄しゆうの間にいちじるしい相違そういのある種類しゅるいでは、さらにいっそうはたらきが複雑ふくざつになっているゆえ、ただこれだけを見るとすこぶる不思議ふしぎに思われ、何か神秘しんぴてき事情じじょうふくまれてあるかのごとくにも感ぜられる。しかしこれを他の簡単かんたん生殖せいしょくほうにくらべて見ると、始めてその理屈りくつがやや明瞭めいりょうになってくる。そのありさまはあたかも人間だけを調べたのでは人間とは如何いかなるものであるかがとうていわからぬが、他の下等動物と比較ひかくして見ると、その素性すじょうが明らかに知れるのと同じである。
 らん細胞さいぼうを生ずる器官きかん卵巣らんそうであって、精虫せいちゅうをつくる器官きかん睾丸こうがんであるゆえ、めすとは卵巣らんそうを有する個体こたいおすとは睾丸こうがんをそなえた個体こたいというて差支さしつかえはない。一方は卵巣らんそうを一方は睾丸こうがんをそなえているというほかに何の相違そういもない雌雄しゆうは、外見上には少しも区別くべつができぬ。「うに」や「なまこ」はこのるいぞくする。しかしおすの身体からはなれた精虫せいちゅう確実かくじつらん細胞さいぼうまでたつせしめるには、これをめすの身体の内へうつし入れるのがもっとも有効ゆうこうである。しこうして、おす精虫せいちゅうめすの体内へうつし入れる器官きかん交接器こうせつきであるが、これをそなえた動物になると、如何いか雌雄しゆう形状けいじょうあいていてもその部さえ見れば容易ようい区別くべつすることができる。犬、ねこなどはこの程度ていどにある。なお雌雄しゆう異体いたいの動物には、雌雄しゆうによって体形の非常ひじょう相違そういするものがあり、中にはおすめすとが同一種どういっしゅの動物とは思われぬほどのものもあるが、これらについてはさらに後の章にくわしくべるゆえここにはりゃくする。
 とにかく、雌雄しゆう異体いたい生殖せいしょくは、すべての生殖せいしょくほうの中でもっとも進んだもので、それだけ他にまさった利益りえきはあるにちがいないが、物にはかなそんとくとがあるもので、雌雄しゆう異体いたい生殖せいしょくにもまた多少不利益ふりえきな点がないでもない。たとえばこのるいぞくする動物では、一匹いっぴきずつはなしておけば全く生殖せいしょくができぬ。かり一匹いっぴき雌鼠めすねずみねずみ一匹いっぴきもいないはなれ島へ漂着ひょうちゃくしたと想像そうぞうするに、もしその後他のねずみ漂流ひょうりゅうして来なかったならば一代かぎりで死んでしまう。また偶然ぐうぜん第二回の漂着ひょうちゃく者があったとしても、もしこれが同じくめすであったならば、二匹にひきっても子をのこすことはできぬ。めすめすとが出遇であうても、おすおすとが出遇であうても子をむことができぬゆえ、雌雄しゆう異体いたいの動物では、二匹にひき個体こたい偶然ぐうぜんあい出遇であうたときに子を機会きかいは五わりにより当たらぬ。それゆえ、新領土りょうど種族しゅぞく分布ぶんぷするにあたっては、雌雄しゆうべつのあることはよほどのそんになる。もっとも同種類しゅるい個体こたいが多数に近辺きんぺんにいる場合にはかような不都合ふつごうはむろん起こらぬ。

二 雌雄しゆう同体


 雌雄しゆう同体とは一匹いっぴき個体こたい雌雄しゆう両性りょうせい生殖せいしょく器官きかんをかねそなえていることである。雌雄しゆう異体いたいのものにくらべると、その種類しゅるいの数ははるかに少ないが、世人の通常つうじょう知っている動物の中にもいくつもれいがある。
「かたつむり」、「なめくじ」、「みみず」、「ひる」などはみな雌雄しゆう同体であるが、その他「ジストマ」、条虫じょうちゅうのごとき寄生きせい虫も一匹いっぴきごとに両性りょうせい生殖器せいしょくきそなえている。これらの動物では、一匹いっぴきの身体の内に睾丸こうがん卵巣らんそうとがあって精虫せいちゅうらん細胞さいぼうとが両方とも生ずるから、場合によっては自分のらん細胞さいぼうに自分の精虫せいちゅうくわえて、一匹いっぴき完全かんぜん生殖せいしょくをすることもできる。しかし二匹にひきあいってたがいに精虫せいちゅうを相手の体内に入れ合うのがほとんど規則きそくである。雌雄しゆう異体いたいの動物とはちがい、この仲間なかまの動物は二匹にひき出遇であいさえすればかな生殖せいしょくができるという便利べんりがある。運動のすみやかな動物に雌雄しゆう同体のものが一種いっしゅもなく、一匹いっぴき両性りょうせいをかねたものはことごとくおそ匍匐ほふくする種類しゅるいばかりであるのも一つはこのゆえであろう。

「かたつむりの生殖器」のキャプション付きの図
かたつむりの生殖器せいしょくき
(い)卵巣らんそうけん睾丸こうがん (ろ)輸卵ゆらんかんけん輸精ゆせいかん (は)蛋白たんぱくせん (に)輸精ゆせいかん (ほ)輸卵ゆらんかん (へ)受精嚢じゅせいのう (と)同かん (ち)輸精ゆせいかんつづき (り)付属ふぞくせん (ぬ)矢のふくろ (る)触手しょくしゅ (を)輸精ゆせいかん末端まったん (わ)口 (か)鞭状べんじょうせん (よ)足 (た)ちょうの前部 (れ)心 (そ)外套がいとうまく (つ)ちょうの後部 (ね)筋肉きんにく (な)外套がいとうまくふち

「かたつむり」のるいはすべて雌雄しゆう同体であって、これを解剖かいぼうして見ると内部の生殖器せいしょくき種々しゅしゅの部分からりすこぶる複雑ふくざつである。まずもっともおくくらいするのは卵巣らんそうけん睾丸こうがんともいうべき器官きかんで、らん細胞さいぼう精虫せいちゅうもひとしくその内で生ずる。輸卵ゆらんかん輸精ゆせいかんとは始め共通きょうつうう途中とちゅうから別々べつべつにあるが、その末端まったんふたたび合して一つのあなとなり、頭部の右側みぎがわで体外に開く。このあなは口より少しく後へったところであるゆえ。いて人間にくらべていえばあたかも右の'ほお頸筋けいきんぐらいのところにあたる。あなの内は直ちに輸卵ゆらんかんにつづくほうと輸精ゆせいかんにつづくほうとの二途にとに分かれているが、輸精ゆせいかんにつづくほうはやや細くて、内に一本の長くやわらかい陰茎いんけいがあり、つねにはかくれているが、二匹にひき交接こうせつするときにはこれを生殖せいしょくあなからき出して、相手の生殖せいしょくあなにさし入れる。また輸卵ゆらんかんにつづくほうは、相手の陰茎いんけいを受けるためのちつであって、そのおくには相手から入り来たった精虫せいちゅうを一時たくわえておくための小さなふくろがつづいている。なおそのほかに、粘液ねんえき分泌ぶんぴつするせん蛋白たんぱくを生ずるせんなどがあって、複雑ふくざつになっているが、とくにおもしろいのはちつの出口に近いところ、すなわち相手の陰茎いんけいの入り来たるところのそばに一つのふくろがあって、その中に「恋愛れんあいの矢」と名づけるするどくとがったはりがおさまってある。キューピッドの放つ恋愛れんあいの矢は心臓しんぞうすそうであるが「かたつむり」の恋愛れんあいの矢は直接ちょくせつに相手の交接器こうせつき刺激しげきして、輸精ゆせいかん筋肉きんにく収縮しゅうしゅくせしめ、精虫せいちゅうを出させるようにはたらく。

「かたつむりの交接」のキャプション付きの図
かたつむりの交接こうせつ

「かたつむり」が交接こうせつするときには、二匹にひきあい接近せっきんして長い間たがいに体をすりせからみ合わせなどして、如何いかにも恋愛れんあいじょうえぬらしい挙動きょどうをつづけた後に、生殖せいしょくあなたがいに密接みっせつせしめ、双方そうほうから交接器こうせつきを相手の体内にさし入れる。生殖せいしょくあなは頭の右側みぎがわにあるゆえ、これをたがいに密接みっせつせしめたときは、あたかも'ほおをすり合わせているかのごとき体裁ていさいである。獣類じゅうるい交接こうせつ交尾こうびというならば、「かたつむり」の交接こうせつはむしろ交頭と名づけねばならぬ。かくしてしばらくあいつながっていた後に、交接器こうせつきき取り自分の体内におさめてわかれていく。たまごむのはそれより後のことで、その時には、各自かくじ勝手にやわらかい土のところに一塊いっかいとしてむのである。「なめくじ」の交接こうせつも全くこれと同様である。

「うみうし」のキャプション付きの図
うみうし

 海岸へ行って見ると、海草のおいしげったところに「うみうし」というものがいくらもうている。体はえ太って、頭からは二本のやわらかい角がはえ、徐々じょじょと草の上をはいながらこれを食うて歩く様子は如何いかにも牛を思い出させるが、この動物はやはり「かたつむり」や「なめくじ」の仲間なかまである。ただし海中に住んでいるものゆえ、えらをもって水を呼吸こきゅうする。えらは体の背側はいそくにあるが、やわらかいひだようのものでおおわれているからほかからは見えぬ。またえら保護ほごするために、うすい皿のような貝殻かいがらがあるが、これもほかからは見えぬ。しかし動物が死んでやわらかい体部がくさけてしまうと、貝殻かいがらだけがのこってはまに打ち上げられる。「立浪貝たつなみがい」と名づける貝はこれである。さてこの「うみうし」のるい生殖器せいしょくき構造こうぞうは「かたつむり」と大同小異だいどうしょうい生殖せいしょくあな位置いちはやや後にあるが、精虫せいちゅうを相手の体内にうつし入れるための管状かんじょう交接器こうせつきは頭の右側みぎがわのところにあるゆえ、二匹にひきあいってたがいにこれを相手の生殖せいしょくあなにさし入れようとすれば、いきおい体をたがちがいの方角に向けねばならぬ。春から夏へかけて海水もぬるくなるようなあさいところでは、海草の間に「うみうし」が二匹にひきすつあたかも二つともえのごとき形になってつながっているのをしばしば見つける。

「みみずの交接」のキャプション付きの図
みみずの交接こうせつ

「みみず」も雌雄しゆう同体であるが、その生殖器せいしょくき模様もようは「かたつむり」などのとはよほどちがう。まず生殖器せいしょくきが体外に開くあなが数多くある。すなわち精虫せいちゅうの出るあなが一対、たまごの出るあなが一対、および相手から精虫せいちゅうを受け入れるためのあなが二三対もある。ただしこの数は「みみず」の種類しゅるいによって少しはちがう。また内部の構造こうぞうを見ると、「みみず」では卵巣らんそう睾丸こうがんとは全くべつであって、それぞれ一対ずつそなわり、それより体外へ出るまでの輸卵ゆらんかん輸精ゆせいかんも一対ずつべつになっている。それゆえ、「みみず」では体内で自分のたまごに自分の精虫せいちゅうわせることはけっしてできぬ。交接こうせつするときには二匹にひきたがちがいに向かいて体をあい近づけ、皮膚ひふの表面より分泌ぶんぴつした粘液ねんえきではなれぬようにむすびついて、たがいに精虫せいちゅうを相手の体内に送り入れる。精虫せいちゅうはそのさいには相手の受精嚢じゅせいのうにはいるだけでいまだたまごとはあいれず、後にいたりたまごが生まれるときにはじめて受精嚢じゅせいのうから出され、親の体外でたまごせつする。かくしてたまごはさらに多量たりょう蛋白たんぱくつつまれ、かたまりじょうをなして地中にみつけられるのである。「ひる」るい雌雄しゆう同体であるが、生殖器せいしょくき構造こうぞうはいくぶんか「みみず」とはちがい、受精嚢じゅせいのうはなく、輸精ゆせいかん輸卵ゆらんかんともに体外へ出るあなは、体の中央線に当たって一つずつあるだけで、輸精ゆせいかんの出口の内にはかんじょう交接器こうせつきがある。しこうして交接こうせつするときには二匹にひきあい接して、たがいに自分の交接器こうせつきを相手の輸卵ゆらんかん末端まったんにさし入れ、その内へ精虫せいちゅうを送りむのである。産卵さんらん模様もようは「みみず」によくている。
 条虫じょうちゅうでは一節いっせつごとにめすおすとの生殖せいしょく器官きかんが一組ずつそろうてあるが、双方そうほうともに種々しゅしゅの部分からりすこぶる複雑ふくざつである。生殖器せいしょくきの体外につくあなはただ一個いっこであるが、その内部は直ちに二本のかんに分かれている。すなわち一方は輸精ゆせいかんのつづきで、出口にかん状の交接器こうせつきそなえ、他のほうは交接こうせつさいに相手から精虫せいちゅうの入り来たるちつであって、その先は輸卵ゆらんかん殻腺かくせん子宮しきゅうなどに連絡れんらくしている。それゆえ条虫じょうちゅうでは生殖器せいしょくきの出口をじ、自身の輸精ゆせいかんから自分のちつ精虫せいちゅううつしてたまごむことができぬこともない。しかしとく交接器こうせつきをそなえているところから考えると、相手をもとめて精虫せいちゅう交換こうかんするのがつねであって、自分一個いっこの体内で自分のらん細胞さいぼう精虫せいちゅうとを出遇であわせるのはおそらくやむをぬ場合にかぎることであろう。肝臓かんぞう肺臓はいぞう寄生きせいする「ジストマ」のるいも、生殖器せいしょくき構造こうぞう条虫じょうちゅう大同小異だいどうしょういであるから、これもおそらく相手をもとめて精虫せいちゅうをやり取りするのがつねであろう。
 以上いじょうかかげたれいはいずれも一生涯いっしょうがいを通じて雌雄しゆう生殖器せいしょくきそなえたものであるが、動物の中には年齢ねんれいによって雌雄しゆうせい変化へんかするものもある。たとえば深い海にさんする「盲鰻めくらうなぎ」という八目やつめうなぎた魚は、わかいときはおすであるが年をとるとめすとなる。

「サルパ」のキャプション付きの図
サルパ

また海の表面にいている「サルパ」としょうする動物は、体が透明とうめいでちょっと「くらげ」のごとくに見えるが、これは生まれた時はめすで後にはおすへんずる。これらは一匹いっぴきの動物で雌雄しゆうねているから雌雄しゆう同体と名づけねばならぬが、生殖せいしょく器官きかんおすの部とめすの部との成熟せいじゅくする時がちがうから、はたらきからいうと雌雄しゆう異体いたいのものとことならぬ。

「左右性の異なる蛾」のキャプション付きの図
左右せいことなる

また昆虫こんちゅうなどには往々おうおう左がめすで右がおすというように身体の両半のせいことなるものが見つけられるが、これは全くできそんじの奇形きけいであって、けっしてかような特別とくべつ種類しゅるいが定まってあるわけではない。

三 単為たんい生殖せいしょく


 雌雄しゆう異体いたいの動物でも雌雄しゆう同体の動物でも、生殖せいしょくいとなむにあたってはまずらん細胞さいぼう精虫せいちゅうとの相合あいあいすることが必要ひつようであるが、若干じゃっかんの動物では精虫せいちゅう関係かんけいなくらん細胞さいぼうだけから子ができることがある。かような場合にはこれを単為たんい生殖せいしょくまたは処女しょじょ生殖せいしょくと名づける。昆虫こんちゅうるいの中では植物のえだ群集ぐんしゅうして液汁えきじるう「ありまき」、水中に住む動物では魚類ぎょるいえさになる「みじんこ」のるいなどは、つねに単為たんい生殖せいしょくによってさかんにふえる。その他にもなおいくつもれいをあげることができる。「ありまき」には種類しゅるいがなかなか多いが、いずれも植物のわかくきえだに止まり、細長いふんをその中にさし入れて液汁えきじるう。形は小さいが繁殖はんしょくさかんでたちまち何千にも何万にもなるゆえ、植物はそのため大害たいがいをこうむるにいたる。繁殖はんしょくほう詳細しょうさいな点は種類しゅるいによっていろいろ相違そういがあり、中にはきわめて複雑ふくざつ関係かんけいしめすものもあるが、もっとも簡単かんたんな場合でも他の普通ふつうな動物にくらべるとよほどこみいっている。まず春あたたかくなったころにたまごから孵化ふかしてめすが生まれ出て、植物のしるうてたちまち成熟せいじゅくし、おすなしにたまごみ、そのたまごからはまためすが出て、またおすなしにたまごむ。かくして何代も繁殖はんしょくをつづけて秋にいたり少しくすずしくなってくると、こんどはたまごからめすおすとが出て、これがあいって前のとはややちがうたからあつたまごむ。このたまごは直ちにはかえらず、そのまま冬を翌年よくねんの春になって始めて、それからめすが出て、ふたたび同じ歴史れきしり返すのである。以上いじょうはもっとも簡単かんたんな場合をしめしたので、実際じっさいはこれよりなおいっそう複雑ふくざつ経過けいかしめすものが多い。また卵生らんせいでなく、子の形ができてから生まれることもつねである。夏日「ありまき」がに止まっているのを見ていると、腹部ふくぶ後端こうたんから小さな子が続々ぞくぞく生まれ出て、直ちにはい歩くのをしばしば見かける。されば「ありまき」のるいではめすおすとがそろうているのは、一年のうちでもる短い時期にかぎることで、その他の時にはただめすばかりである。しかもそのめす雌雄しゆうそろうてあるときのめすとはちがうて、おのおの独身どくしんで子を特殊とくしゅめすである。たいていの「ありまき」ではめすばかりの間ははねがなくて、ただおそくはうだけであるが、雌雄しゆうがそろうてあらわれるころには両方ともはねがあって数多くびまわり、遠いところまで自分のしゅ分布ぶんぷする。「ありまき」とありとの関係かんけいは有名なもので、ありは「ありまき」の腹部ふくぶ後端こうたんからしたり出るあましるをなめる代わりに、つねにこれを保護ほごしててきからふせいでやる。それゆえ「ありまき」は運動がおそくとも多少安全な場合もあるが、また「ありまき」を食うことを専門せんもんとする昆虫こんちゅうもたくさんにあるゆえ、よほどさかんに繁殖はんしょくせぬと種切たねぎれになるおそれがないでもない。しこうしてそのためには普通ふつう生殖せいしょくほうによらず、単為たんい生殖せいしょくという手軽な変則法へんそくほうによるのがもっとも有効ゆうこうであろう。「ありまき」では、ほとんど今日うた植物のしるが明日は子となって生まれるのであるから、生殖せいしょく個体こたい範囲はんいえた成長せいちょうであるということが、実に適切てきせつにあてはまる。

「(い,ろ,は)みじんこ類 (に,ほ,へ)けんみじんこ類」のキャプション付きの図
(い,ろ,は)みじんこるい (に,ほ,へ)けんみじんこるい

 天水桶てんすいおけなどの中にたくさんおよいでいる「みじんこ」は「えび」、「かに」などと同じく甲殻類こうかくるいぞくするが、身体は「のみ」ほどの大きさよりない。これも魚類ぎょるいなどにさかんに食われるから、てきめられぬすきに急いで繁殖はんしょくせぬと種族しゅぞく維持いじがむずかしい。「ありまき」も「みじんこ」もともにてきに対して身をまも装置そうちとく発達はったつせず、その代わり繁殖はんしょくのほうに全力を注いで、いくら食われてもなおのこるようにつとめる動物である。すなわち旺盛おうせい生殖せいしょく力を唯一ゆいつ武器ぶきとして生存せいぞんしている。それゆえ「みじんこ」なども「おに留守るす洗濯せんたく」ということわざのごとく、あつい夏の間にすこぶるさかんに繁殖はんしょくするが、その方法ほうほうはすべて単為たんい生殖せいしょくによる。「みじんこ」のたくさんおよいでいるところをすくい取って見ると、たいていはめすばかりでおすはほとんどない。しかもそれがみな子を持っている。普通ふつうの「みじんこ」の身体は、あたかも羽織はおり外套がいとうを着たごとくに、一種いっしゅからでおおわれていて、からどうとの間には空所があるが、夏さかんに生まれるたまごは直ちに親の体からははなれず、暫時ざんじこの空所にとどまって、その中ですみやかに発育し、親と同じ形になって水中へおよぎ出すのである。「みじんこ」を度のひく顕微鏡けんびきょうでのぞいて見ると、親のにあるから内側うちがわ何匹なんびきも小さな子がし合うているが、これは単為たんい生殖せいしょくによってできた子であるゆえ、一匹いっぴきとして父を有するものはない。秋のすえになって水がつめたくなるとおすも生まれ、めすとくからあつい大きなたまごむが、このたまごは冬氷がっても死なずに翌年よくねんの春孵化ふかして、その中からまためすが出てくる。ただしこのめすだけには明らかに父がある。しこうしてこのめすがまたさかんに子をんで夏の間に無数むすうにふえる。かくのごとく水中の「みじんこ」の生殖せいしょく模様もようは、だいたいにおいては陸上りくじょうの「ありまき」の生殖せいしょくあいたもので、双方そうほうともにすみやかに繁殖はんしょくするときには単為たんい生殖せいしょくにより、冬をして種族しゅぞく継続けいぞくせしめるにあたっては雌雄しゆう両親のそろうた生殖せいしょくほうを行なうのである。

「貝みじんこ」のキャプション付きの図
貝みじんこ

「みじんこ」の中でもしじみはまぐりの形にた「貝みじんこ」と名づけるるいには、冬になっても単為たんい生殖せいしょくをつづけ、そのため今日まで一度もおすが見いだされぬものもある。
 以上いじょうはいずれも個体こたいの数をすみやかに増加ぞうかさせるための単為たんい生殖せいしょくであるが、他の場合には単為たんい生殖せいしょくか両親生殖せいしょくかによって生まれる子に雌雄しゆうの生ずるれいがある。

「雌の蜜蜂の腹部の内臓を左側より見たる図」のキャプション付きの図
めす蜜蜂みつばち腹部ふくぶ内臓ないぞう左側ひだりがわより見たる図
図の中央より左にあたり米粒こめつぶをならべたごとくに見えるものは卵巣らんそう卵巣らんそうよりでたるかん輸卵ゆらんかん輸卵ゆらんかんの上に見える球形の小嚢しょうのう受精嚢じゅせいのう

その有名なものは蜜蜂みつばちであるが、蜜蜂みつばちの一社会にはたまごめすはただ一匹いっぴきよりない、これがいわゆる女王である。おすはこれに対して数百匹すうひゃっぴきもあるが、実際じっさいめす交尾こうびするものは、その中でただ一匹いっぴきよりない。しこうして女王がこのおす交尾こうびするのは一生涯いっしょうがい中にただ一回で、それより後たまごむにあたっては、たまご精虫せいちゅうくわえることも精虫せいちゅうくわえずしてたまごのみをみ出すことも、女王の随意ずいいである。交尾こうびすればむろん雄蜂おばちから女王の体内に精虫せいちゅうがはいりむが、女王の生殖器せいしょくきにはこれを受け入れるための受精嚢じゅせいのうがあるゆえ、まずその中へおさめておき、後にいたって産卵さんらんするとき、このふくろの口を開いて精虫せいちゅうを出すこともできれば、それをじて精虫せいちゅうを出さぬようにもできる。されば女王のんだ子には父のあるものと父のないものとがあるが、父のあるものはすべてめすになり、父のないものはすべておすになる。しこうしてめすまれてからの養育よういくのしかたにより、あるいははたらはちともなりまたは女王ともなる。かようなしだいで雄蜂おはちは母からまれ、母にはおっとがあるがこれはただ義理ぎりの父とでもいうべきもので、真に血を分けた父ではない。同じ母からまれた兄弟でありながら、姉や妹にはみな父があって、兄や弟には父がないというのは、動物界でも他にあまりるいのないれいで、これにはまた何か種族しゅぞく生存せいぞん上に都合つごうのよい点がかなずあったのであろうと思われるが、今日のところではいまだたしかな理由はわからぬ。

四 芽生がせい


 単為たんい生殖せいしょくでは、ただらん細胞さいぼうだけから子ができるのであるが、これはらん細胞さいぼう精虫せいちゅうとがそろうてあるべきはずのところを一方がけているというわけであるゆえ、やはり雌雄しゆう両性りょうせい区別くべつのある範囲はんいを出ない。それゆえ、雌雄しゆうによる生殖せいしょくでも単為たんい生殖せいしょくでも、雌雄しゆうが同体であっても異体いたいであっても、みなこれを有性ゆうせい生殖せいしょくと名づける。これに反して雌雄しゆう両性りょうせいべつとは全く無関係むかんけい生殖せいしょくほうも生物界にはずいぶん行なわれている。たとえば一個体こたいからが生じ、その成長せいちょうして新しい独立どくりつの一個体こたいとなることもある。また一個体こたいが分かれて二片にへんとなり、各片かくへん成長せいちょうしてついに二個にこ完全かんぜん個体こたいとなることもある。かような芽生がせいまたは分裂ぶんれつなどによる生殖せいしょく総称そうしょうして無性むせい生殖せいしょくと名づける。有性ゆうせい生殖せいしょく無性むせい生殖せいしょくとは、その模範もはんてきれいをくらべて見ると、全くたがいに無関係むかんけいのごとくに思われるが、種々しゅしゅことなったれいのこらず集めて見ると、いずれの組にぞくするか判断はんだんに苦しむようなものもあるゆえ、けっしてその間に明瞭めいりょう境界きょうかいを定めべきものでない。「自然じぜんは一足びをさず。」という古諺こげんは、この場合にもよく当てはまるようである。
 淡水たんすいさんする「ヒドラ」という小さな虫についてはすでに前の章でもべたが、夏この虫を金魚きんぎょはちうて「みじんこ」などを食わせておくと、円筒えんとう形の身体の側面そくめんのところに小さなこぶのごとき突起とっきあらわれ、次にこぶびて短い横枝よこえだとなり、えだ末端まったんには口が開き、口の周囲しゅういには細い糸のような触手しょくしゅが何本か生じて、二、三日のうちにまるで親と同じ形の子ができ上がる。ただし体の内部はまだ親と連絡れんらくしているゆえ、親の食うたものも子の食うたものも消化してしまえばたがいにあい流通りゅうつうする。そのうちに親の身体からはさらにべつの方角にが生じ、子の身体からは小さなまごが生じて、しばらくは小さな樹枝状じゅしじょう群体ぐんたいをつくるが、子はやや大きくなると親の身体からはなれて独立どくりつするゆえ、永久えいきゅうてきの大きな群体ぐんたいをつくるにはいたらぬ。

「ヒドラ」のキャプション付きの図
ヒドラ

「ヒドラ」の芽生がせいによって繁殖はんしょくするありさまを明らかに説明せつめいするために、かりにこれを人間にたとえていうと、まず親の横腹よこはら団子だんごのような腫物はれものができ、これが次第しだいに大きくなり横にび出し、いつとはなしに頭、くびどうなどの区別くべつが生じ、頭には、鼻、口、耳などが漸々ぜんぜんあらわれ、かたへんからは両腕りょううでが生じてついに親と同じだけの体部をそなえた一人前の子供こどもとなる。子供こども最初さいしょの間は親の身体につながり、親から滋養じよう分の分配を受けているが、小学校を卒業そつぎょうするくらいの大きさにたつすると親からはなれて随意ずいいな場所にうつり行き、親も子もともに芽生がせいによってさらに繁殖はんしょくする。かように想像そうぞうして見たら「ヒドラ」の生殖せいしょくほう如何いかなるものか明らかに知ることができよう。

「赤さんごの群体」のキャプション付きの図
赤さんごの群体ぐんたい

「ヒドラ」は芽生がせいをしても、子が暫時ざんじの後に親からはなれ去るゆえ、群体ぐんたいをなすにいたらぬが、「さんご」のるいなどではできただけの個体こたいがみなあいつながったままではなれぬゆえ、種々しゅしゅの形の大きな群体ぐんたいができる。しこうして群体ぐんたいをささえかく個体こたい保護ほごするために、石灰質せっかいしつかた骨骼こっかく分泌ぶんぴつするゆえ、死んだ後まで群体ぐんたいの形はそのままにのこる。あたいの高い装飾そうしょく用の「赤さんご」はかようにして生じた「さんご虫」の群体ぐんたい骨骼こっかくである。樹木じゅもくにもそれぞれえだぶりに相違そういがあるごとく、動物の群体ぐんたいにもの出方によってこけじょうひろがるもの、竹のように直立するもの、丸いかたまりになるもの、鳥の羽の形にたものなどができる。「赤さんご」の群体ぐんたい樹枝状じゅしじょうになっているゆえ、「さんごじゅ」とも書き、昔は西洋の博物はくぶつ学者もこれを植物と思うていた。がいして固着こちゃく生活をいとなむ動物には芽生がせいによって群体ぐんたいをつくるものが多い。これは運動する動物とはちがうて、数多くの個体こたいあいつながっていても生活上差支さしつかえが生ぜぬためと、群体ぐんたいをなしていたほうが個体こたいの食物の過不及かふきゅう平均へいきんして全体として生存せいぞん上に利益りえきが多いからであろう。「こけ虫」るい群生ぐんせい「ほや」るいなどはかような仲間なかまで、いたるところの海岸の岩石の表面などにさかんに繁茂はんもしている。

「芽生するくらげ」のキャプション付きの図
芽生がせいするくらげ

 海面にかんでいる動物にも芽生がせい繁殖はんしょくする種類しゅるいがいくらもある。くらげの中でも種類しゅるいかさふちまたはさかんにを生じ、は直ちに小さな「くらげ」の形になって暫時ざんじ親の「くらげ」に付着ふちゃくしていた後に、一つ一つはなれて勝手におよいで行く。「かつおのえぼし」なども、一匹いっぴきのごとくに見えるものは実は一群体ぐんたいであって、始め一個体こたいから芽生がせいによって生じたものである。また前に名をあげたが「サルパ」としょうする透明とうめいな動物では、身体の一部から細長いひもが生じ、そのひもに多数のふしができ、後にはかくふし一匹いっぴきずつの個体こたいとなる。それゆえ、同時にできたたくさんの「サルパ」がくさりのごとくに一列につらなったままで海の表面にいているのをつねに見かける。この場合には同時に多数の個体こたいがそろうて発育するゆえ、一回に一匹いっぴきずつを生ずる普通ふつう芽生がせいとはいささかおもむきちがうがこれもやはり芽生がせい一種いっしゅである。
 以上いじょうかかげたれいではいずれもが親の身体の外面に生ずるから、それがであることが明らかに知れるが、が親の身体の内部にできると往々おうおう芽生がせいとは考えられぬような場合が生ずる。海の水は冬でも温かいゆえ、海産かいさんの動物は冬をすために特殊とくしゅ方法ほうほうるにおよばぬが、池やぬまに住む動物は、寒くなって親が死ぬときに、こおっても死なぬような種子しゅしをのこしておかぬと種族しゅぞくが全く断絶だんぜつする。それゆえかような動物は冬になるととくあつからをかぶったたまごむか、またはとくあつからをかぶった一種いっしゅを生ずる。

「こけ虫の冬芽」のキャプション付きの図
こけ虫の冬芽とうが

淡水たんすいさんの「こけ虫」や海綿かいめんは冬のこぬ間にさかんにかような冬芽とうがをつくるが、親の身体の内でできてしかも形がたまごているゆえ、近いころまでは学者もこれを真のたまごと思いあやまっていた。わが国ではいまだに淡水たんすい海綿かいめん冬芽とうがを「ふなたまご」などととなえている地方がある。さて親の体内に生じた冬芽とうがと真のたまごとはいずれの点であいことなるかというに、たまごならば全体でただ一個いっこ細胞さいぼうであるが、冬芽とうがのほうは始めから多くの細胞さいぼうの集まったもので、ただそれが球形きゅうけいかたまりになっているというまでである。植物のにもそのままびて親の身体のつづきとなるものと、親の身体からははなれてべつに新しい一株ひとかぶもとをつくるものとがある。「ゆり」の種類しゅるいではくきと葉とのすみのところに黒い小さな玉ができて、これが地上へ落ちると一本の「ゆり」が生ずるが、「こけ虫」や海綿かいめん冬芽とうがはこれと同じような理屈りくつで、発育すれば一匹いっぴき個体こたいになりべきだけの細胞さいぼうかたまりが親の身体からはなれ、あつからにおおわれて寒い時節じせつを安全に通過つうかし、翌年よくねんになって一匹いっぴき個体こたいまでにでき上がるのである。それゆえ、もしもこれだけの細胞さいぼう最初さいしょ一個いっこ細胞さいぼうから生じたならば、単為たんい生殖せいしょくたまごから発生したのと少しもちがわぬ。「ジストマ」の繁殖はんしょくする途中とちゅうにも一匹いっぴきの虫の体内に多数の子が生ずる時期があるが、これなどは実に内部の芽生がせいかあるいは単為たんい生殖せいしょくかほとんど判断はんだんができかねる。有性ゆうせい生殖せいしょく無性むせい生殖せいしょくとは全く別物べつもののごとくに考える人もあるが、有性ゆうせい生殖せいしょく中の単為たんい生殖せいしょくと、無性むせい生殖せいしょく中の体内芽生がせいとをくらべて見ると、その間にはかようなあいまいな場合があって、けっして判然はんぜんさかいが定められるものではない。

五 分裂ぶんれつ


 普通ふつうの「みみず」でも身体を二つに切ったくらいではなかなか死なぬが、みぞの中にたくさんいる「糸みみず」などは、一匹いっぴきを二つに切ると両半とも長く生活し、頭のないほうには新しい頭が生じ、のないほうには新しいが生じて、二匹にひき完全かんぜんな虫になる。さればかような動物は切られたためにかえって繁殖はんしょくすることになるが、実際じっさい「糸みみず」のるいには分裂ぶんれつによって個体こたいの数のすことを普通ふつう生殖せいしょくほうとしているものがいくらもある。「ものあら貝」にい着いている小さな「糸みみず」のるいを取って拡大かくだいして見ると、かなず身体の中央にくびれがあって、後半の前端ぜんたんのところにすでに頭ができかかっているものが多い。すなわちこの虫では体が切れて二片にへんとなる前に、すでに前半には尾端びたんができ、後半には頭部が生じ、そのままなおつながっているのである。普通ふつうの「糸みみず」は切られてから各片かくへんがその足らぬところをおぎなうために新しい、もしくは頭を生ずるが、このるいでは切れることを予期して、切れても少しも差支さしつかえの起こらぬようにあらかじめ準備じゅんびして待っている。まさに切れはなれんとする程度ていどのものでは、後半にはすでに立派りっぱな頭ができ上がって咽頭いんとう神経しんけいなどもほとんど完全かんぜんになっているから、あたかも二匹にひきの虫をとらえ来たって、一方のしりに一方の頭をつなぎ合わせたごとくで、前の者が食うたえさは、その者の肛門こうもんから後の者の口へうつり、引きつづいて後端こうたん肛門こうもんをすぎて体外へ出て行く。

「ごかい類の分裂」のキャプション付きの図
ごかいるい分裂ぶんれつ

 海に住む「ごかい」のるいではさかんに分裂ぶんれつほうによって繁殖はんしょくするものがある。ただし前後同じ大きさの両半に切れるのではなく、体の後端こうたんに近いところにくびれが生じ、始め小さな後半がしだいに大きくなってしまいに完全かんぜん一匹いっぴきとなるのであるから、分裂ぶんれつ芽生がせいとの中間の生殖せいしょくほうである。そのうえ二匹にひきはなれぬ間に両方ともさらに何回も同様な生殖せいしょくほうくりり返すゆえ、しまいには大小さまざまの個体こたいくさりのごとくにならんで臨時りんじ群体ぐんたいができる。ただしかく個体こたい成長せいちょうするにしたごうて、ふるくくびれたところから順々じゅんじゅんに切れはなれる。

「館山湾で捕れたごかい類(約四倍大)」のキャプション付きの図
館山湾たてやまわんれたごかいるいやく四倍大)

ここにかかげたのは先年房州ぼうしゅう館山湾たてやまわんれた「ごかい」るいの写生図であるが、大小数匹すうひき個体こたいがあたかも汽車の客車のごとくに前後に連続れんぞくしている具合いは、分裂ぶんれつ生殖せいしょくの見本としてもっともよろしかろう。「いそぎんちゃく」も分裂ぶんれつによって繁殖はんしょくする。多くの種類しゅるいでは体は引臼ひきうす茶筒ちゃづつのごとき円筒えんとう形であるゆえ、上から見ればまるいのがつねであるが、分裂ぶんれつせんとするときには、まず楕円だえん形になり、次にひょうたんのごとき形になる。それより両半はしだいにあい遠ざかり、ひょうたんのくびれはだんだん細くなって、しまいに体の下部より分かれ始め、最後さいごにはわずかに一本の細い糸で両半が連絡れんらくしているだけになり、さらに後にはこの細い糸も切れて全く二匹にひきに分かれてしまう。これだけの事は「いそぎんちゃく」を長く海水中にうておくと容易よういに見られる。「さんご」のるいにも全くこれと同様な分裂ぶんれつを行なうものがすこぶる多い。「菊目石きくめいし」と名づけるものはその一例いちれいである。

「いそぎんちゃくの分裂」のキャプション付きの図
いそぎんちゃくの分裂ぶんれつ

「いそぎんちゃく」はかく個体こたいあいはなれて独立どくりつに生活しているゆえ、分裂ぶんれつ完全かんぜんに行なわれ、始め一匹いっぴきのものがのちにはかな二匹にひきになり終わるが、「さんご」るいのごとき群体ぐんたいをつくる動物では分裂ぶんれつ往々おうおう不完全ふかんぜんに行なわれ、一匹いっぴき二匹にひきに分かれ終わるまでにいたらず、途中とちゅうで止まって両半がさらにおのおの分裂ぶんれつを始めることがある。すなわちひょうたんのくびれが細くならぬ間に両半がさらにひょうたん形になり、その新しいくびれが深くならぬうちに四半分しはんぶんずつのものがさらにおのおのひょうたんの形になりかかる。かように分裂ぶんれつし始めるだけで分裂ぶんれつし終わらぬ生殖せいしょくほうが引きつづいて行なわれると、むろん多数の身体のあいつながった一群体ぐんたいが生ずるが、個体こたいの間のくびれが不明瞭ふめいりょうでどこにあるかわからぬような場合には、その群体ぐんたいの中に何匹なんびき個体こたいがあるかかぞえることができぬ。

「脳さんご」のキャプション付きの図
のうさんご

のうさんご」としょうするさんごの一種いっしゅはその一例いちれいで、群体ぐんたいであることはだれにも明らかに知れるが、個体こたいさかいがないゆえ、一匹いっぴき二匹にひき勘定かんじょうすることはできぬ。げんえれば、この動物の身体は群体ぐんたいとして存在そんざいするだけで個体こたいには分かれていない。一体、「のうさんご」という名は、そのかたまり状の骨骼こっかくの表面に個体こたいの区画が少しも見えず、あたかも人間の脳髄のうずいの表面に見るごとき彎曲わんきよくした凸凹でこぼこがあるところからつけたのであるが、この「さんご」の海中に生きているところを見ると、石灰質せっかいしつ骨骼こっかくの外面にはきわめてやわらかい身体のうすそうがあり、その表面には食物を食うための若干じゃっかんの口と、食物をとらえるための多数の触手しょくしゅとが、波形をなしてならんでいる。これを人間にくらべていえば、百人分の身体をあつめて一塊いっかいとし、これを百畳敷ひゃくじょうじき座敷ざしきうすばして広げ、百箇所ひゃっかしょに口をつけ、二百本のうでを口の間にならべ植えつけたごとくであろう。食物が流れれば、もっとも近くにあるうででこれをとらえ、もっとも近くにある口の中へ入れる。個体こたい境界きょうかいなどはあってもなくても、食うてんで死ぬるには何の差支さしつかえもない。世人はつねに個体こたいに分かれた動物のみを見慣みなれているために、個体こたいに分かれぬ動物のことには考えおよぼさぬが、生物はすべて種族しゅぞくとして食うてんで死ぬのに都合つごうのよい形をるもので、個体こたいに分かれているほうが食うてんで死ぬに都合つごうのよい種類しゅるいでは、個体こたい判然はんぜんと分かれ、その必要ひつようのない種類しゅるいではかなずしも個体こたいに分かれるにはおよばぬ。人間は自分らが個体こたいに分かれているゆえ、何事でも個体こたい区別くべつもととして定めてあるが、これはあまり当然とうぜんのことでかえってだれも気がつかずにいる。しかし生物界にはここにべたような個体こたい差別さべつのない社会もあるゆえ、哲学てつがく者などが物の理屈りくつを考えるときに、たわむれにこれをも参考さんこうして見るとおもしろかろう。権利けんりとか義務ぎむとかいう個体こたい間のやかましい関係かんけいは言うにおよばず、毎日用いる「君」とか「ぼく」とかいう言葉までが、かような社会へ持ってゆけば全く意味をうしなうてしまう。しかもいずれでも食うてんで死ぬことはできる。
「ひとで」のるいにもつねに分裂ぶんれつによって繁殖はんしょくするものがある。普通ふつうの「ひとで」でもうでが一本切れたときには、直ちにその代わりが生ずるが、熱帯ねつたい地方にさんする種類しゅるいには、自身で体を二分し各片かくへん成長せいちょうしてしまいに二匹にひき完全かんぜん個体こたいとなるものがある。

「ひとでの分裂生殖」のキャプション付きの図
ひとでの分裂ぶんれつ生殖せいしょく

「ひとで」の体は中央のどうと、それより出ている五本のうでとからるが、普通ふつうの「ひとで」ではうでが一本切れると、どうのほうからふたたうでを生じて体が完全かんぜんになる。しかし切れたうでのほうはそのまま死んでしまう。しかるに種類しゅるいのものではどうから新たにうでが生ずるほかに、切れたうでのほうからは新たにどうと四本のうでとが生じて都合つごう二匹にひきになる。人間にくらべていえば、右のうでを一本切り取るとどうのほうからは右のうでが新たに生じ、その切り取った右のうで傷口きずぐちから肉がしてまずどうができ、次に頭と左のうでと両足とがび出て、しまいに二人の完全かんぜんな人間になることにあたる。これは分裂ぶんれつではあるが、体の一小部分が基礎きそとなって残余ざんよの部分がことごとく新たに生ずるのであるから、よほど芽生がせいにもている。畢竟ひつきよう分裂ぶんれつといい芽生がせいというのも一個体いっこたい二片にへんに分かれるときの両半の大いさによることで、もしも両半の大いさがほぼあいひとしければこれを分裂ぶんれつと名づけ、両半の大いさがいちじるしくちがうて大きいほうはもとの個体こたいそのままに見える時には、これを芽生がせいと名づけるにすぎぬ。前にれいにあげた「ごかい」るい分裂ぶんれつ生殖せいしょくでも、今ここにべた「ひとで」の分裂ぶんれつ生殖せいしょくでも、見ようによっては芽生がせい一種いっしゅと名づけられぬこともなかろう。

六 再生さいせい


 ここに再生さいせいというのは、一度死んだ者がふたたび生き返ることではない。一度うしなうた体部をふたたび生ずることである。てきおそわれたとき、身体の一部を自身で切りててげ去るもののあることは、すでに前の章でべたが、かような動物では再生さいせい能力のうりょくがよく発達はったつして、たちまちの間にうしなうた体部を回復かいふくする。

「ひとでの再生」のキャプション付きの図
ひとでの再生さいせい

たとえば、「かに」は足を切られてもふたたび足が生じ、「ひとで」はうでの先をられてもたちまちうでの先がびる。これはその動物にとってはもっとも必要ひつようなことで、もしこの力がなかったならばたとい一応いちおうてき攻撃こうげきをまぬがれても、その後食うてんで死ぬのにたちまち差支さしつかえが生ずるにちがいない。しかしながら再生さいせいということはかような動物にかぎったわけではなく、よく調べて見ると如何いかなる動物でもこの力のそなわっていないものはない。元来再生さいせいとは、うしなうた部分をふたたるだけであって、べつにそのために個体こたいの数がふえるわけでないゆえ、生殖せいしょくという中にはむろんはいらぬが、分裂ぶんれつ芽生がせいのごとき無性むせい生殖せいしょくにくらべて見ると、その間にはけっしてさかいが定められぬほどに性質せいしつあいひとしいものゆえ、参考さんこうのためにこの章にくわえておく。
 分裂ぶんれつ生殖せいしょくでは、親の身体が二分して二匹にひきの子となるのであるから、できたばかりの子は、大きさが親の半分よりないというほかに、身体の部分が半分不足ふそくしている。「いそぎんちゃく」のごとくにたてに切れるものでは、右の半分には左半身だけ足らず、左の半分には右半身だけ足らぬ。また「ごかい」のごとくに横に切れるものでは、前の半分には後半身が足らず、後の半分には前半身が足らぬ。それゆえ分裂ぶんれつによって生じたかく個体こたいは、まずこれらの不足ふそくする体部を生じなければ完全かんぜんなものとはならぬが、不足ふそくする体部を生ずるのはすなわち再生さいせいである。されば分裂ぶんれつ生殖せいしょく再生さいせいとははなるべからざるもので、再生さいせいによっておぎわなければ、とうてい分裂ぶんれつ生殖せいしょくは行なわれぬ。芽生がせいもこれと同様で、ほとんど極度きょくどまで発達はったつした再生さいせい力と見なすことができる。「こけ虫」の横腹よこはらに生じた小さなこぶから一匹いっぴきの新しい「こけ虫」ができるのも、一本のうでの切れ口から新しい「ひとで」のほとんど全部が生ずるのも、発生の模様もようは全く同じであり、「いもり」の足が一度切られた後にふたたび生ずるのも、人間のうで胎内たいない漸々ぜんぜんでき上がるのも、ほとんど同一の経路けいろ通過つうかするのを見れば、分裂ぶんれつ芽生がせい成長せいちょうもみな同一の現象げんしょうことなった姿すがたにすぎぬように思われ、かようなれいを数多くならべて見ると、個体こたいの数をふやす生殖せいしょくも、その根本をたずねれば、個体こたいの大きさを成長せいちょうと同じ性質せいしつのものであることが明らかに知れる。次に人体にも普通ふつうに行なわれている再生さいせいれいをあげて見よう。
 うしなうた手や足をふたたび生ずるほどのいちじるしい再生さいせい力は高等の動物には全く見られぬ。「いもり」の切られた足がふたたび生ずるのをのぞけば、脊椎せきつい動物には目だつほどの再生さいせいれいはほとんどない。しかし目だたぬ再生さいせいならばいたるところにえず行なわれている。たとえばわれわれが湯にはいって皮膚ひふをこするとたくさんにあかが出るが、あかはけっして外から付着ふちゃくしたちりや内からみ出したあぶらばかりではない。その大部分は皮膚ひふの表面からけずり取られた細胞さいぼうである。それゆえ、あかが取れただけ皮膚ひふうすくなるべきはずであるに、何度湯にはいって何度こすっても皮膚ひふ実際じっさいうすくならぬのは、全く皮膚ひふの下のそうえず新たな細胞さいぼうがふえるからである。人間や獣類じゅうるい皮膚ひふ表皮ひょうひ真皮しんぴとの重なったもので、表皮はさらに表面のかわいた角質層かくしつそうと、その下のれた粘質層ねんしつそうとに分けることができる。皮膚ひふを深くすりむくとむろん血が出るが、きわめてうすくすりむいたときには血が出ずしてたん湿しめった表面があらわれる、これがすなわち粘質層ねんしつそうである。さてあかとなって取れるのは、いうまでもなく角質層かくしつそうの上部であるが、新たな細胞さいぼうえずふえているのは粘質層ねんしつそうの下部である。粘質層ねんしつそうの下にある真皮しんぴまでは血管けっかんが来ているから、粘質層ねんしつそうの下部にくらいする細胞さいぼうはこれより滋養じよう分をてつねに増殖ぞうしょくし、ふるい細胞さいぼうをたんだん上のほうへし上げると、その細胞さいぼう次第々々しだいしだい形状けいじょう成分せいぶん変化へんかし、始めれて丸くあったものが、漸々ぜんぜん扁平へんぺいになり角質かくしつわって、ついに皮膚ひふの表面までたつするのである。されば皮膚ひふあつさは始終同じであっても、けっして同じ細胞さいぼうが長くとどまっているわけではなく、表面のふるい細胞さいぼうえずあかとなっててられ、深いそう細胞さいぼうがつねにふえてこれをおぎなうているから、あたかもたきの形は昨日きのうも今日も同じでありながら、たきの水の一刻いっこくも止まらぬのとよくている。 かように細胞さいぼう新陳代謝しんちんたいしゃすることは、けっして皮膚ひふかぎったわけではない。身体の内部においても理屈りくつはほぼ同様である。食道や腸胃ちょういの内面の粘膜ねんまくでも、けっして同じ細胞さいぼうがいつまでもとどまっているのではなく、つねに新しい細胞さいぼうと入れわっている。その他如何いかなる組織そしきでも生きている間は細胞さいぼうの入れわらぬものはないが、とくに毎日いそがしく全身を循環じゅんかんして、瞬時しゅんじも休まぬ赤血球のごときは、一箇いっこ一箇いっこ寿命じゅみょうははなはだ短いもので、暫時ざんじ役をつとめた後は新たにできたものと交代する。身体内ではつねに新たな細胞さいぼうができて、ふるい細胞さいぼうあとをふさぐゆえ、すりむけたところも少時でなおり、傷口きずぐちもしだいにえる。赤痢せきりや「ちょうチフス」できずの内面がこわれたのが後にいたって全快ぜんかいするのも、同じく新しい細胞さいぼうが生じてふるい細胞さいぼう不足ふそくおぎなうからであるゆえ、これなども立派りっぱ再生さいせいと言える。かくのごとく再生さいせい如何いかなる動物の生活にも必要ひつようなことで、日々の生活はほとんど再生さいせいによってたもたれるというてよろしいが、人間や獣類じゅうるいでは表皮ひょうひ不足ふそくのこりの表皮ひょうひからおぎない、粘膜ねんまく不足ふそくをつづきの粘膜ねんまくからおぎなうぐらいの程度ていどにとどまり、指を一本うしなうてもこれをふたたび生ずる力はない。それゆえ、「かに」が足をふたたび生じ、「ひとで」がうでふたたび生ずるのを見て、よほど不思議ふしぎなことのごとくに感ずるが、よく考えて見ると、これはあかとして取れた表皮ひょうひ細胞さいぼうをその下層かそうからつねにおぎなうているのにくらべて、ただ程度ていどちがうのみである。低度ていど再生さいせいと高度の再生さいせいとの間にはもとより判然はんぜんたる境界きょうかいはないが、高度の再生さいせい分裂ぶんれつ芽生がせい等の無性むせい生殖せいしょくとの間にも境界きょうかいがなく、体内芽生がせい単為たんい生殖せいしょくとの間にも、いずれともつかぬあいまいな場合があるとすれば、世人が生殖せいしょくといえば、ただそれのみであるごとくに思うている雌雄しゆう交接こうせつようする有性ゆうせい生殖せいしょくから、世人が生殖せいしょくとは何の関係かんけいもないごとくに考えている表皮ひょうひ再生さいせいまでの間に順々じゅんじゅんうつり行きがあるわけで、その間にはどこにも明瞭めいりょう境界きょうかい線はなく、すべて新しい細胞さいぼう増殖ぞうしょくもとづくことである。ただその結果けっかとして個体こたいの数がふえれば生殖せいしょくと名づけ、個体こたいの大きさがせば成長せいちょうと名づけ、一度うしなうた部をおぎなう場合にはこれを再生さいせいと名づけて区別くべつするにすぎぬ。


第十章 たまご精虫せいちゅう


 前章にべたとおり、生物の生殖せいしょくには種々しゅしゅことなった方法ほうほうがあるが、その中でもっとも進んだ、かつもっとも広く行なわれているものは、むろん雌雄しゆうによる有性ゆうせい生殖せいしょくである。人間をはじめとして多数の高等動物では、生殖せいしょくといえばすなわちこの方法ほうほうのみで、その他には個体こたいの数をふやすみちはない。しこうして雌雄しゆうの間には生殖せいしょく器官きかん構造こうぞうことにするほかに、雌雄しゆうあいもとめるための特殊とくしゅ性質せいしつそなえたもの、生まれた子を育てるための特殊とくしゅ構造こうぞうを有するものなどがあり、とくに多数あい集まって団体だんたいをつくる種類しゅるいでは、雌雄しゆうべつもとづく複雑ふくざつ心理的しんりてき関係かんけいも生じて、生物界における各種かくしゅ現象げんしょう中でももっとも興味きょうみの深いものがある。雌雄しゆう相合あいあいするため、ならびに子を育てるために、両性りょうせいの間に分業の行なわれる場合には、めすのほうに乳房ちぶさが大きくなり、おすのほうにきばするどくなるというごとき身体上の変化へんかのほかに、慈愛じあい勇気ゆうき堪忍かんにん冒険ぼうけんなどのごとき精神せいしん上の性質せいしつも、めすおすとの間に不平均ふへいきんに分かたれ、心理しんり状態じょうたいもいちじるしくことなるにいたるであろうから、長い間かような分業の行なわれていた動物では、おす心理しんりてきめす理解りかいすることができなくなり、めす挙動きょどうを見て永久えいきゅう不可解ふかかいなぞのごとくに感ずるかも知れぬ。しかもかくあいことなるにいたったみなもとをただせば、一方は卵巣らんそう内にらん細胞さいぼうを生じ、一方は睾丸こうがん内に精虫せいちゅうを生じて、たがいに性質せいしつあいことなった生殖せいしょく細胞さいぼうを体内に生ずるからである。されば雌雄しゆうべつもとづく身体の構造こうぞう精神せいしんの作用をろんずるにあたっては、まずらん細胞さいぼう精虫せいちゅうとの由来を十分明らかにしておかねばならぬ。

一 細胞さいぼう


 さて普通ふつうの動植物の身体が無数むすう細胞さいぼうより集まりることは、今日ではほとんどだれでも知っているようであるが、たまご精虫せいちゅうとの素性すじょうを明らかにするには、まず細胞さいぼう組織そしきのことをややくわしくべておく必要ひつようがあるゆえ、ねんのためここに一とおり細胞さいぼうのことから説明せつめいする。
 そもそも生物の身体が細胞さいぼうからなることの始めて知れたのは、今よりわずかに七八十年前のことで、それ以前いぜんにはかようなことには少しも心づかずにいた。しこうしてその後にも細胞さいぼうという考えはだんだん変化へんかして今日まで進み来たったゆえ、同じ細胞さいぼうという文字を用いても七・八十年前と今日とでは大分意味もことなっている。植物の組織そしきではかく細胞さいぼう膜質まくしつかべがあって、たがいの間のさかいがすこぶる判然はんぜんしている。

「葱の葉の表皮」のキャプション付きの図
ねぎの葉の表皮ひょうひ

こころみに草の葉を取って、その表面の薄皮うすかわをはぎ取り、これを度のひく顕微鏡けんびきょうでのぞくと、無数むすうのほぼ同大の区画があって、あたかも細かい小紋こもん模様もようのごとくに見えるが、その区画の一つ一つがすなわち細胞さいぼうである。またコルクの一片いっぺんうすけずって顕微鏡けんびきょうで見ると、一面にあなだらけでまるではちのようであるが、そのあなの一つ一つが細胞さいぼうである。ただしこの場合には全部がひからびているゆえ、細胞さいぼうはただかべばかりとなって内部は全く空虚くうきょである。かように植物では細胞さいぼうを見ることが比較的ひかくてき容易よういであるゆえ、最初さいしょ細胞さいぼうの発見せられたのも植物であった。しこうして最初さいしょ細胞さいぼうかべのみを重く考え、細胞さいぼう一種いっしゅふくろと見なし、植物の体はかような顕微鏡けんびきょうてきの小さなふくろ無数むすうに集まってれるものと思った。しかしだんだん調べて見ると、ふくろかべかなずしもなくてならぬものではなく、かえってその内容ないようのほうが生活上もっとも大切なものであることが明らかになった。そのわけは植物でも、の出たてのわかやわらかい部分を取って見ると細胞さいぼうかべきわめてうすく、もっともわかいところではあるかないかほとんどわからぬほどで、ただ内容ないようのほうが充満じゅうまんしている。

「藻類の細胞の内容が壁から離れて水中へ游ぎ出し後にいたって新たに壁を生ずるを示す。」のキャプション付きの図
藻類そうるい細胞さいぼう内容ないようかべからはなれて水中へおよぎ出し後にいたって新たにかべを生ずるをしめす。

また淡水たんすいさん微細びさい藻類そうるいなどを顕微鏡けんびきょうで見ていると、往々おうおう細胞さいぼう内容ないようだけがかべからはなれ、かべれ目から水中へおよぎ出すことがある。はじめてこれを見つけた学者は、植物がへんじてにわかに動物にったと言うて大騒おおさわぎをしたが、かようにおよぎ出した内容ないよう物は、直ちにかべ分泌ぶんぴつして完全かんぜん藻類そうるいとなり、内容ないようけ出したかべのほうは、ついにそのままれてしまう。

「結締組織の星形細胞6箇」のキャプション付きの図
結締けってい組織そしき星形ほしがた細胞さいぼう


「肝臓の球形細胞10箇」のキャプション付きの図
肝臓かんぞう球形きゅうけい細胞さいぼう10


「'頬の内面の扁平細胞3箇」のキャプション付きの図
'ほおの内面の扁平へんぺい細胞さいぼう

すなわち真に生活するのはふくろの内部をたす半流動体のやわらかい物質ぶしつであって、かべはただこれをつつ保護ほごするにすぎぬ。今日ではこのやわらかい生きた物質ぶしつ原形質げんけいしつと名づける。されば昔植物の体は無数むすう小嚢しょうのうより集まりれるもののごとくに考えたのはあやまりであって、実は原形質げんけいしつ小塊しょうかい無数むすうに集まったものである。しこうして各小塊かくしょうかいはその周囲しゅうい細胞さいぼう膜質まくしつ分泌ぶんぴつしてかべをつくり、後には原形質げんけいしつは死んでなくなり、細胞さいぼうかべのみがのこるゆえただふくろのように見える。なおかく細胞さいぼうをなせる原形質げんけいしつ小塊しょうかいの中央には、あたかもももうめの実の中央にかくがあるごとくにかな一個いっこ特別とくべつな丸いものが見える。これを同じくかくと名づける。それゆえ今日では細胞さいぼう定義ていぎを次のごとくに言うことができる。すなわち細胞さいぼうとは一個いっこかくを有する原形質げんけいしつ小塊しょうかいであると。植物でも動物でも身体は多数の細胞さいぼうの集まりであるというのは、かような意味の細胞さいぼうであって、けっして昔考えたようなふくろのことではない。細胞さいぼうという訳語やくごもこれに対する原語もともにふくろという意味の字であるが、これは昔細胞さいぼう一種いっしゅふくろと考えたころからの遺物いぶつであって、今日ではただ習慣しゅうかん上用いつづけているにすぎぬ。
 動物でも植物でもその身体には、やわらかいところやかたいところ、ぬれたところやかわいたところと種々しゅしゅことなった部分があるが、これはみなその部をなせる細胞さいぼう形状けいじょう性質せいしつや集まり方に相違そういがあるによる。

「軟骨組織」のキャプション付きの図
軟骨なんこつ組織そしき
細胞さいぼう間質かんしつの多きをしめ

たとえば人間の身体にもかわいた表皮ひょうひやぬれた粘膜ねんまくやわらかい筋肉きんにくかたほねなどがあるが、それぞれその部分の細胞さいぼうちがう。しこうして細胞さいぼうは細長いものや平たいもの、やわらかいものやかたいものが、雑然ざつぜんと一ところにじているごときことはけっしてなく、かなず同じような細胞さいぼうばかりで数多く集まっている。なわち扁平へんぺい細胞さいぼうならば多数集まってそうをなし、細長い細胞さいぼうならば多数ならんでたばとなり、かわいてかた細胞さいぼうあい集まってつめなどのごときかわいてかたい部分をつくり、ぬれてやわらかい細胞さいぼうは'ほおの内面のごときぬれてやわらかい部分をつくる。かように同種どうしゅ細胞さいぼうの数多く集まったものを組織そしきと名づける。細胞さいぼう組織そしきをつくるにあたっては、たがいに直接ちょくせつあいれて集まることもあれば、またかく細胞さいぼう物質ぶしつ分泌ぶんぴつし、細胞さいぼうはその物質ぶしつのためにへだてられてあいれずに集まっている場合もある。かような物質ぶしつ細胞さいぼう間質かんしつという。細胞さいぼう間質かんしつによって細胞さいぼうへだてられているありさまは、あたかも煉瓦れんががモーターでへだてられているごとくであるが、組織そしき種類しゅるいによっては細胞さいぼう間質かんしつ細胞さいぼうよりもはるかに分量ぶんりょうの多いものもある。かような場合には細胞さいぼう間質かんしつかたければ組織そしき全体もかたく、細胞さいぼう間質かんしつ弾力だんりょくがあれば組織そしき全体にも弾力だんりょくがあることになる。ほね組織そしきかたいのは細胞さいぼう間質かんしつ石灰せっかいふくんでかたいからであり、骨膜こつまくけん組織そしきの強じんなのは細胞さいぼう間質かんしつ繊維せんいせいで強いからである。両方とも細胞さいぼう自身はすこぶるやわらかい。
 以上いじょうべたごとく、細胞さいぼうにも組織そしきにもさまざまの種類しゅるいがあるが、これはみな身体を組み立てる材料ざいりょうであって、如何いかなる器官きかんでもそのいずれかよりらぬものはない。身体を家屋にたとえて見れば、種々しゅしゅ組織そしきは板、柱、かべたたみなどに相当するもので、はいきもちょうなどの器官きかんはあたかも玄関げんかん居間いま座敷ざしき、台所などにあたる。すなわちこれらの器官きかんは形もちがはたらきもことなるが、いずれも若干じゃっかん組織そしきの組み合わせでできているという点はあいひとしい。されば細胞さいぼうが集まって組織そしきをなし、組織そしきが組み合うて器官きかんをなし、器官きかんって全身をなしているのであるから、細胞さいぼうは身体構造こうぞう上の単位たんいとも見なすべきもので、これをよく了解りょうかいすることは身体の如何いかなる部分をろんずるにあたっても必要ひつようである。しこうしてかく細胞さいぼう寿命じゅみょうは全身の寿命じゅみょうしてはるかに短いゆえ、えず新陳しんちん交代しているが、子供こども漸々ぜんぜん成長せいちょうするのも、病気でやせたのが回復かいふくするのもみなその間に細胞さいぼうの数がふえることによる。あたかも毎日人が生まれたり死んだりしている間に、三千五百万人が四千万人五千万人となって、日本民族みんぞくが大きくなったのと同じである。また人間でも他の生物でも親なしには突然とつぜん生ぜぬとおり、細胞さいぼうのふえるのもけっして細胞さいぼうのないところへ偶然ぐうぜん新たな細胞さいぼうが生ずるというごときことはなく、かなずすでにあった細胞さいぼう繁殖はんしょくによって数がしてゆくのであって、そのさいには毎回まず始め一個いっこ細胞さいぼうかく分裂ぶんれつして二個にことなり、次に細胞さいぼう体も二個にこに分かれてその間にさかいができ、しまいに二個にこ完全かんぜん細胞さいぼうになり終わるのである。ただし場合によってはかく分裂ぶんれつしただけで細胞さいぼう体は分かれぬこともあり、また細胞さいぼう細胞さいぼうとのさかいが消えせてあいつながってしまうこともあるゆえ、実物を調べて見るといくつとかぞえてよいかわからぬようなことも往々おうおうある。

「細胞なき海藻類」のキャプション付きの図
細胞さいぼうなき海藻かいそうるい

とく種類しゅるい海藻かいそうでは、大きな体が全く境界きょうかいのない原形質げんけいしつからなり、その中に無数むすうかく散在さんざいしているだけゆえ、細胞さいぼうという字は全く当てはまらぬ。生物体は細胞さいぼうよりるというのはけっして間違まちがいではないが、かような例外れいがいとも見える場合のあることをわすれてはならぬ。

二 原始動物の接合せつごう


 普通ふつうの動植物の身体をなせる細胞さいぼうは、おのおのその専門せんもんの役目をつとめるにてきするように変化へんかしているゆえ、種類しゅるいことなったものが多数にあい集まって、始めて完全かんぜんな生活をいとなむことができる。もしも一つずつにはなしてたがいにあい助けることをさまたげたならば、かく細胞さいぼうはとうてい長く生活することはできず、暫時ざんじの後にはかなず死んでしまう。たとえば細胞さいぼう胃液いえきを出して蛋白質たんぱくしつを消化するはたらきはあるが、呼吸こきゅうもできず運動もできぬから独立どくりつしては生きてはいられぬ。またはい細胞さいぼう酸素さんそい入れ炭酸たんさんガスを排出はいしゅつして呼吸こきゅうする性質せいしつそなえているが、食う力も消化する力もないゆえ、血液けつえきはなれては命をたもつことはできぬ。しかるに広く生物界を見渡みわたすと、かようなもののほかに細胞さいぼうが一つ一つで長く生活しているものがある。これはすなわちたん細胞さいぼう生物と名づける顕微鏡けんびきょうてききわめて小さな生物で、そのうち植物らしいものを原始植物、動物らしもいのを原始動物と名づける。高等の動物と植物とではその間の相違そういがいちじるしいからだれも間違まちがうものはないが、顕微鏡けんびきょうで見るような下等の動植物になると、その間の区別くべつがすこぶるあいまいでとうてい判然はんぜんした境界きょうかいは定められぬ。それゆえ種類しゅるいたん細胞さいぼう生物は、動物学の書物には動物としてかかげてあり、また植物学の書物には植物としてげてある。

「みどり虫」のキャプション付きの図
みどり虫
(イ)口 (ロ)しゅう細胞さいぼう (ハ)かく

たとえば「みどり虫」や「虫藻ちゅうそう」のるいはみなかような仲間なかまぞくする。

「虫藻」のキャプション付きの図
虫藻ちゅうそう

たん細胞さいぼうの生物は全身が単一たんいつの細細よりるが、この一つの細胞さいぼうをもって、運動もすれば消化もし、呼吸こきゅうもすれば感覚かんかくもする。しこうして生殖せいしょくするにあたっては、通常つうじょう簡単かんたん分裂ぶんれつほうによって二匹にひきずつに分かれるが、多くの種類しゅるいではなおそのほかにときどき二匹にひきずつあい接合せつごうして身体の物質ぶしつぜ合わすことが行なわれる。これは高等生物の雌雄しゆう生殖せいしょくによくたことで、たしかにその起源きげんとも見なすべききわめておもしろい現象げんしょうであるゆえ、次に少しく詳細しょうさいべておこう。

「ぞうり虫の分裂」のキャプション付きの図
ぞうり虫の分裂ぶんれつ

 花瓶かびん内の古い水を一滴いってき取ってこれを顕微鏡けんびきょうで調べて見ると、その中に長楕円ちょうだえん形で全身に繊毛せんもうをかぶった虫が活発におよぎまわっているが、これは「ぞうり虫」と名づける一種いっしゅの原始動物である。体の前端ぜんたんに近いほうの腹側はらがわ漏斗じょうごじょうくぼみがあるが、これはこの虫の口であって、黴菌ばいきん藻類そうるい破片はへんなどの微細びさいな食物がえずここから体内へ食い入れられる。つねにいそがしそうにおよぎまわって食物をさがもとめ、砂粒すなつぶなどにつきあたればこれをけて迂回うかいし、さらにあちらこちらとおよぐ様子を顕微鏡けんびきょうでのぞいていると、如何いかにも運動も活発、感覚かんかく鋭敏えいびんであるように思われ、まるでねずみか「モルモット」でも見ているような心持ちがする。かくえず食物をもとめてこれを食い、漸々ぜんぜん成長せいちょうして一定の度にたつすると体が二つに分かれて二匹にひきとなるが、そのさいにはまずかくがくびれて二つとなり、一個いっこは体の前方に一個いっこは体の後方にうつり、次に身体が横にくびれてあたかもひょうたんのごとき形になり、しまいに切れて二匹にひきはなれた虫となってしまう。「ぞうり虫」の繁殖はんしょくほう通常つうじょうはかような簡単かんたん分裂ぶんれつほうによるが、しかしこの方法ほうほうのみによっていつまでも繁殖はんしょくしつづけることはできぬらしい。る人の実験じっけんによると、如何いかに食物を十分にあたえ生活に差支さしつかえのないように注意してうても、分裂ぶんれつ生殖せいしょくを何度もくりり返して行なうていると、虫がだんだん弱ってきて、身体も小さくなりいきおいもおとろえ、二百代目か三百代目にもなると、ついには自然じぜんにことごとく死にえる。しからば「ぞうり虫」が実際じっさい種切たねぎれにならずに、どこにもさかんに生活しているのは何故なぜであるかというに、これは分裂ぶんれつ生殖せいしょくをつづける間におりおり系統けいとうことにする虫が二匹にひきずつって接合せつごうするからである。接合せつごうによって二匹にひきの虫が体質たいしつじ合わせると、いったんおとろえかかった体力を回復かいふくいきおいがさかんになって、さらに分裂ぶんれつによって繁殖はんしょくしっづけるようになるのである。

「ぞうり虫の接合」のキャプション付きの図
ぞうり虫の接合せつごう

 かように二匹にひきの「ぞうり虫」が接合せつごうするところを見るに、まずはらはらとを合わせ、口と口とでいつき、たがいにできるだけ身体を密接みっせつせしめ、次に腹面ふくめんの一部が癒合ゆうごうし、身体の物質ぶしつあいずる。このさいもっともいちじるしいのはかく複雑ふくざつ変化へんかをすることであるが、結局けっきょくいずれの虫もかくが二分し、一半はその虫の体内にとどまり、一半は相手の虫の体内にうついてその内にあるかくむすびつき、両方ともに新たなかくができる。これだけのことがむと、今まであい密接みっせつしていた二匹にひきの虫はふたたはなれて、おのおの勝手なほうへおよいで行き、さらにさかんに分裂ぶんれつする。しこうしてかく接合せつごうするのはかな血縁けつえんのやや遠いもの同志どうしであって、同一の虫より分裂ぶんれつによって繁殖はんしょくしたばかりのものはけっしてたがいに接合せつごうせぬ。それゆえ一匹いっぴきの「ぞうり虫」を他と離隔りかくしてうておくと、ただ分裂ぶんれつして虫の数がふえるだけで、一度も接合せつごうが行なわれず、後には漸々ぜんぜん体質たいしつが弱ってくる。そこへべつうつわうてあったべつの「ぞうり虫」の子孫しそんを入れてやると、非常ひじょうに待ちこがれていたかのごとく、ことごとく相手をもとめて同時に接合せつごうする。これから考えて見ると、接合せつごうとはいくぶんか体質たいしつちがうたものが二匹にひきってその体質たいしつじ合うことで、体質たいしつの全くあい同じものの間にはこれを行なうても何のこうもなく、また実際じっさいに行なわれることのないものらしい。絵の具でも、べにと青とをぜればむらさきというべつの色となるゆえぜたかいがあるが、同じべにべにとではぜても何の役にも立たぬのとおそらく同様な理屈りくつであろう。

「夜光虫の接合」のキャプション付きの図
夜光虫の接合せつごう

 海の表面に無数むすうかんで夜間美しい光を放つ「夜光虫」もたん細胞さいぼう生物であるが、これもつねには分裂ぶんれつによって繁殖はんしょくし、その間にときどき接合せつごうをする。夜光虫の身体はあたかもなしかりんごのごとき球形で、の根本にあたるところに口があるが、二匹にひき接合せつごうする時にはこの部分をたがいに合わせて身体を密接みっせつさせ、始めはひょうたんのごとき形となり、後にはしだいにけ合うてしまいには全く一個いっこの球となってしまう。「ぞうり虫」では接合せつごうする二匹にひきの虫の身体は始終判然はんぜんしたさかいがあり、ただ一箇所いっかしょで一時癒着ゆちゃくするだけにすぎぬが、夜光虫のほうでは、始め二匹にひきの虫が接合せつごうによって全く一匹いっぴきとなり終わり、同時にそのかく相合あいあいして一個いっことなる。しこうして接合せつごうの後には、この一匹いっぴきとなった大きな虫が続々ぞくぞく分裂ぶんれつして繁殖はんしょくすること、あたかも接合せつごう後の「ぞうり虫」などと同じである。

「(右)つりがね虫の普通の一匹」のキャプション付きの図
(右)つりがね虫の普通ふつう一匹いっぴき
(左)とどまって待つ大きな一匹いっぴきのところへ、群体ぐんたいからはなれて水中をおよぎ来たった小さな一匹いっぴきが、まさに接合せつごうせんとするさま。

「ぞうり虫」でも夜光虫でも、接合せつごうする二匹にひきの虫は外見上全く同様で少しも区別くべつがないが、原始動物の中には接合せつごうする二匹にひきの形に明らかな相違そういの見えるものがある。池やぬまの水草にたくさんに付着ふちゃくしている「つりがね虫」はその一例いちれいであるが、この虫は夜光虫や「ぞうり虫」が遊離ゆうりしているのとはちがい、長いをもって固着こちゃくしているゆえ、あたかも根の生えた植物のごとくで、勝手にどこへでも行くことはできぬ。始めは一匹いっぴきの虫も分裂ぶんれつによってだんだんふえるが、みな同じところにとどまり、をもってたがいにつながっているゆえ、しまいにはえだのような形の群体ぐんたいをつくるにいたる。通常つうじょう水草などにいているのはかかる姿すがたのものである。ところがこの虫もときどき接合せつごうする必要ひつようがあるが、それには系統けいとうことなった二匹にひきの虫が出遇であわねばならず、そのためにはかなず運動をようする。二匹にひきともに動くか、または一匹いっぴきだけが動くか、いずれにしても全く動かずにいては二匹にひきあい接蝕せっしょくする機会きかいはない。さて実際じっさいには「つりがね虫」は如何いかにして接合せつごうするかというに、そのころになると、分裂ぶんれつ生殖せいしょくによって二種類にしゅるい個体こたいができ、一種いっしゅは身体が大きくて内に滋養じよう分の顆粒かりゆうふくみ、群体ぐんたいえだからはなれずにあるが 他の一種いっしゅは体が小さくて有力な繊毛せんもうをそなえ、自分の群体ぐんたいからはなれて水中へおよぎ出し、他の群体ぐんたいたつしてそこに相手をもとめる。しこうして接合せつごうするときには小さいほうの虫は大きなほうの体内にもぐりみ、これと融合ゆうごうして全く一個いっこ細胞さいぼうとなってしまう。かくのごとく、「つりがね虫」では接合せつごうする二匹にひきの虫が、形も挙動きょどうも明らかにちがうが、その相違そういは高等動物の生殖せいしょく細胞さいぼうなるたまご精虫せいちゅうとの相違そういと全く同性質せいしつのものゆえ、大きなほうをめすと名づけ小さなほうをおすと名づけてもけっして無理むりではなかろう。接合せつごう目的もくてきとして二匹にひきの虫がたがいにあいしたあいもとめることは、原始動物に普通ふつうに見るところであるが、この二匹にひきの間に雌雄しゆう相違そういの明らかにあらわれる場合は、「つりがね虫」のほかにもなおたくさんある。

「(右)マラリア病原虫が人の赤血球に寄生せるところ。(左)同虫の雄と雌との接合するところ。」のキャプション付きの図
(右)マラリア病原虫が人の赤血球に寄生きせいせるところ。(左)同虫のおすめすとの接合せつごうするところ。

人間の血液けつえき内に寄生きせいしてマラリア病を起こす微細びさいな原始動物なども、普通ふつうには分裂ぶんれつによって繁殖はんしょくする。患者かんじゃ隔日かくじつ発熱はつねつするのは、この虫の分裂ぶんれつ生殖せいしょくに毎回四十八時間をようするゆえである。しかし患者かんじゃ血液けつえきうと、病原虫はの体内で漸々ぜんぜん変形へんけいし、大小二種にしゅの虫ができてたがいに接合せつごうするが、その形状けいじょう相違そういは「つりがね虫」などにおけるよりもはるかにいちじるしく、めすのほうは球形でだれが見てもらん細胞さいぼうと思われ、おすのほうは小さな頭から細長いが生えて、普通ふつう精虫せいちゅうと少しもちがわぬ。
 以上いじょうべたごときたん細胞さいぼう生物では、いずれも種族しゅぞくを長く継続けいぞくさせるためには、ときどき系統けいとうことにする虫が二匹にひきずつ接合せつごうして体質たいしつあいずることが必要ひつようであるが、二匹にひきの虫が出遇であうには運動をせねばならず、接合せつごうすみやかに分裂ぶんれつするにはあらかじめ滋養じよう分をたくわえておかねばならぬ。しかるに、活発におよぐにはなるべく身軽なことが便利べんりであり、滋養じよう分をたくわえれば身体が重くなって運動がさまたげられる。それゆえこの二つの必要ひつよう条件じょうけんは、あい接合せつごうすべき二匹にひきで一方ずつ分担ぶんたんし、長い年月の間にそれぞれそれにてきするように身体が変化へんかしたるものと推察すいさつせられるが、かく想像そうぞうすると全く実際じっさいに見るところと一致いっちする。すなわち一方は体が次第しだいに小さくなり、運動の装置そうちのみが発達はったつして活発なおすとなり、一方は滋養じよう分をためて体がだんだん大きくなり、ついに重い動かぬめすとなったと考えねばならぬ。

三 たまご


 動物のたまごの中でもっともよく人の知っているのはいうまでもなくにわとりたまごである。それゆえたまごのことをべるには、まずにわとりたまごを手本として他のものをこれにくらべるのが便利べんりであろう。にわとりたまごは外面に石灰質せっかいしつからをおおっているが、ゆでたまごからをむいて見ると、その下にはなお二枚にまいのきわめてうすまくがあり、まれてやや時をたまごであると、この二枚にまいうすまくたまご鈍端どんたんのところで少しくはなれてその間に空気をふくんでいる。むいたゆでたまごの一方がへこんでいるのはそのためである。以上いじょうだけの皮につつまれたたまご内容ないようはだれも知るとおり白身と黄身とであるが、黄身の表面にはまた一枚いちまい透明とうめいうすまくがある。生のたまごの黄身をはしではさむと形のくずれるのはこのまくやぶるによる。かくにわとりたまごにはさまざまの部分があるが、その中には是非ぜひなくてならぬ主要しゅよう部と、ただこれをつつ保護ほごするための付属ふぞく部との区別くべつがある。まずたまご如何いかにして生ずるかを見るに、牝鶏めんどりはらを切り開いてちょうなどを取り去ると、正面の脊骨せぼねがわつぶのそろわぬ小球が数多く集まったあたかも葡萄ぶどうふさのごとき器官きかんがあるが、これが卵巣らんそうであって、ここではただたまごの黄身だけができる。葡萄ぶどうつぶのごとくに見えるものは後に一つずつたまごの黄身となるものである。また卵巣らんそうのそばから始まって、肛門こうもん内側うちがわまでたつするわん曲した太いかん輸卵ゆらんかんであって、卵巣らんそうはなれた黄身はこのかん通過つうかする間に、そのかべから分泌ぶんぴつした白身によってつつまれる。かくして白身と黄身とのそろうたたまご輸卵ゆらんかんの出口に近い太いところまで来てしばらくとどまるが、その間に石灰質せっかいしつからがつけくわえられ、はじめて完全かんぜんたまごとなってみ出されるのである。

「鶏卵の断面」のキャプション付きの図
鶏卵けいらん断面だんめん

 かくのごとく、にわとりたまごの中でも白身やからは、たまごみ出される途中とちゅうに外からつけわったもので、後ににわとりとなるのはただ黄身だけであるゆえ、真のたまごというのは、どうしても黄身ばかりと見なさねばならぬ。しからば黄身とは何かというに、卵巣らんそうを調べて見ると、黄身が大きくなる順序じゅんじょが明らかにわかるが、その始めは小さな球形の普通ふつう細胞さいぼうで、成熟せいじゅくするにしたがいだんだん脂肪しぼうその他の滋養じよう分を細胞さいぼう体の内にためみ、ついに他の細胞さいぼうではとうてい見られぬほどの大きさにたつするのである。さればたまごの黄身なるものもやはり一個いっこ細胞さいぼうで、ただ滋養じよう分を多量たりょうふくむためにとくに大きくなったものというにすぎぬ。しこうして卵巣らんそうからはなれて輸卵ゆらんかんにはいった以上いじょうは、親とたまごとの組織そしき連絡れんらくえるが、いまだ卵巣らんそう内にあって卵巣らんそうの一部を形造かたちづくっている間は、らん細胞さいぼうもたしかにその部分の組織そしきぞくし、したがって親の身体をせる幾千億いくせんおくかの細胞さいぼう仲間なかまわっている。すなわちたまごが生まれるとは、親の身体の一細胞さいぼうが親からはなれて独立どくりつすることである。
 たまごには鳥のたまごのように大きなものから、顕微鏡けんびきょうてききわめて小さなものまでさまざまある。へびかめ、「とかげ」、わになどのたまごは形も大きく内部もすこぶる鳥のたまごて、ただからもろくないだけである。海岸地方では海亀うみがめたまごをいくらも食用として売りに歩いているが、大蛇だいじゃわにたまごもオムレツなどにつくればうまく食える。

「さめの卵」のキャプション付きの図
さめのたまご

魚類ぎょるいたまご通常つうじょうつぶが小さいがさめるいのはすこぶる大きく、かわのごとき丈夫じょうぶな長方形のふくろつつまれ、その四隅よすみから出た細長いひもは海草の根などにけられてある。ぞくさめの「け守り」と名づけて、江の島えのしまへん土産みやげに売っているのはこれである。

「うみほおずき」のキャプション付きの図
うみほおずき

また海産かいさんにしるいは小さなたまごいくつずつか卵嚢らんのうつつんで数多くみつけるが、その卵嚢らんのうがすなわち女の子が玩具がんぐにする「ほおずき」である。平たい「うみほおずき」、細長い「なぎなたほおずき」、こっけいな「ひょっとこほおずき」などさまざまの種類しゅるいがあるが、仕事しながらえずしゃべるのをふせ方便ほうべんとして、製糸せいし機織はたおり工女の口に入れさせるために、今ではわざわざ海中ににしるい飼育しいくえさあたえてさかんに「ほおずき」をませ、千葉県だけでも年々数万円の産額さんがくるにいたった。その他、蚕種さんしゅかずの子などは、もっとも人に知られたたまごであるが、「うに」や「ひとで」などのたまごになると、すこぶる小さくてほとんど肉眼にくがんでは見えず、あたかもにわとり卵巣らんそう内におけるでき始めのらん細胞さいぼうと同じく、たんに球形をしたはだか細胞さいぼうにすぎぬ。

「人間の卵」のキャプション付きの図
人間のたまご

 以上いじょう卵生らんせいする動物のたまごれいであるが、たまごかなずしも卵生らんせいする動物にかぎってあるわけではない。哺乳ほにゅうるいのごとき胎生たいせいする動物でも胎児たいじの始めはかなず一つのたまごである。しかし鳥類ちょうるいなどのたまごとはちがうてすこぶる小さいから、その発見せられたのも比較ひかくてき近いことで、昔はだれもこれを知らずにいた。人間の女などは年に十二三回もたまごみ落としていながら、あまり小さいゆえ当人とうにんさえ気がつかぬ。人間のたまごでも犬、ねこ、馬、牛のたまごでも形も大きさもみなほぼ同様で、直径ちょっけいわずかに一分の十五分の一(注:0.2mm)にも足らぬ小球であるから、肉眼にくがんではただはりの先でいたあなほどにより見えず、顕微鏡けんびきょうでのぞいて見てもほとんど何のことなるところもない。すなわちたまごの時代には、人間でもさるでも犬でもねこでも全く同じである。哺乳ほにゅうるいたまごの外面にはややあつ透明とうめいまくがあるが、このまく度外視どがいしして内容ないようだけを「うに」や「ひとで」などの微細びさいたまごにくらべて見ると、いずれも嚢状のうじょうの大きなかくと多少の顆粒かりゅうとをふくんだ原形質げんけいしつのかたまりで、その一個いっこ細胞さいぼうなることは明らかに知れる。されば鳥のたまごなどにしてちがう点は、一は滋養じよう分をほとんどふくまぬために小さく、他は滋養じよう分を多量たりょうふくむために大きく、一は親の体内で発育するためにたんまくをもっておおわれ、他は親の体外で発育するためにさらに白身とからとでつつまれているというだけで、いずれも一個いっこ細胞さいぼうである点にいたってはごう相違そういはない。

「婦人の解剖 卵巣を示す」のキャプション付きの図
婦人ふじん解剖かいぼう 卵巣らんそうしめ
(い)子宮しきゅう (ろ)膀胱ぼうこう (は)卵巣らんそう (に)輸卵ゆらんかん (ほ)直腸ちょくちょう

 婦人ふじんはらを正面から切り開いてちょうなどを取り去ると、膀胱ぼうこうの後にあたかも茄子なすをさかさにしたごとき形の子宮しきゅうが見えるが、その左右に一つずつ長さ一寸いっすん(注:3cm)あまりのお多福豆のような卵巣らんそうがある。

「卵巣の断面」のキャプション付きの図
卵巣らんそう断面だんめん

鳥類ちょうるい卵巣らんそうまたは世人がつねに「たいの子」とか「かれいの子」とかんでいる魚類ぎょるい卵巣らんそうとはちがい、哺乳ほにゅうるい卵巣らんそうは一見して直ちにたまごのかたまりとは思われぬが、よく調べて見ると、やはり大小不同ふどう卵細胞らんさいぼうの集まりったもので、その中の成熟せいじゅくしたものから順々じゅんじゅんはなれ出るのである。しこうしていったんはなれ出た後は、あるいは精虫せいちゅうと合して子宮しきゅう内で新たな個体こたいもととなるか、あるいは精虫せいちゅうわずしてそのまま死ぬか、いずれにしても親の身体との組織そしき連絡れんらくえるが、それまではたしかに母親の身体の一部をなしていたものである。
 なおたまごについて考うべきことは、その大きさと数とである。前にもべたとおりたまごに大小の相違そういのあるのは、全くそのふく滋養じよう分の多少にもとづくことであるが、滋養じよう分を多くふくむ大きなたまごは、それより子の発育するときに速かに大きく強くなりるという利益りえきがあるが、その代わりたまごが数多くできぬという不便ふべんをまぬがれぬ。これに反して小さなたまごのほうは、無数むすうに生まれ便宜べんぎがある代わりに、そのたまごより生ずる幼児ようじ滋養じよう分の不足ふそくのためにきわめて小さく弱いときから早くも独力どくりょく冒険ぼうけんてきの生活をこころみねばならぬ不利益ふりえきがある。たとえていえば、新領土りょうどへ少数の者に富裕ふゆう資本しほんを持たせてるか、または資本しほんなしの人間を無数むすうに送りむかというごとくで、いずれにも一得いっとく一失いっしつがあるゆえ、こうてきする場合もあればおつのほうがかえって有効ゆうこうである場合もあろう。また胎生たいせいする動物では、たまご如何いかに小さくてもえず親から滋養じよう分を供給きょうきゅうし、長くかかって少数の子を十分に発育せしめるのであるから、あたたかもはじめ手ぶらで出かけた社員に月々多額たがく創業費そうぎょうひを送っているようなもので、結局けっきょく大きなたまごを数少なく生むのと同じことにあたる。卵生らんせい胎生たいせいも、たまごの大きいのも小さいのも、みなそれぞれの動物の生活状態じょうたいおうじたことで、利害りがい損得そんとく差引さしひ勘定かんじょうして、種族しゅぞく生存せいぞん上少しでもとくになるほうが実行せられているようである。

四 精虫せいちゅう


 たまごには大きなものや小さなものがあるが、もっとも小さなたまごでも細胞さいぼうとしてはよほど大きい。人間のたまごなどはたまごの中ではずいぶん小さなほうであるが、それでも肉眼にくがんで見えるゆえ、普通ふつう細胞さいぼうがみな顕微鏡けんびきょうてきであるのにくらべると、なおすこぶる大きいといわねばならぬ。さればもっとも小さなたまごのほかは昔からだれでもよく知っていたが、その相手となるべき精虫せいちゅうのほうは、細胞さいぼうの中でもとくに小さく、かつ形状けいじょう普通ふつう細胞さいぼうとはいちじるしくちがうゆえ、その発見せられ了解りょうかいせられたのも、たまごにくらべてははるかに新しいことである。

「人間の精虫」のキャプション付きの図
人間の精虫せいちゅう

そもそも精虫せいちゅうはじめて見つけられたのは、今より二百何十年か前のことで、あたかもオランダ国で顕微鏡けんびきょうが発明せられて間もないころとて、何でも手当たり次第しだいにのぞいて見ているうち、る時一人のわかい学生が、屠所としょから新しい羊の睾丸こうがんをもらうて来て、そのしる郭大かくだいして見たところが、たんにごった粘液ねんえきのごとくに思うていた物の中に、小さなつぶ無数むすうに活発におよいでいるので、大いにおどろいてさっそく師匠ししょうのレウェンフークという人に知らせた。この人は、水中の微生物びせいぶつなどを顕微鏡けんびきょうで調べことごとく写生して大部な書物をあらわしたそのころの顕微鏡けんびきょう学の大家であったが、かようなものははじめて見ることゆえ、もとよりその真の素性すじょうを知るはずはなく、ただ運動が活発で、如何いかにも生きた動物らしく見えるところからして、これを寄生きせい虫と鑑定かんていし、精液せいえきの中にんでいるゆえ「精虫せいちゅう」という名をつけた。すなわち精虫せいちゅうの実物を見ることは見たが、これを条虫じょうちゅうや「ジストマ」などのごとき偶然ぐうぜん寄生きせい虫と見なし、これがたまご相合あいあいして新たな一個体こたいつくるべき、生殖せいしょく上もっとも重要じゅうよう細胞さいぼうであろうとはゆめにも心づかなかったのである。
 その後さまざまの動物の精液せいえきを調べて見ると、いずれにもかな無数むすう精虫せいちゅうおよいでいるので、これは偶然ぐうぜんにはいりんだ寄生きせい虫ではなく、精液せいえきにはかなふくまれている一要素ようそであろうと考えるにいたった。動物がたまごむことも、たまご精液せいえきくわわるとたまご孵化ふかし発育することも前からわかっていたが、精液せいえき中に虫のごときものがつね無数むすうおよいでいるのを見ると、たまご孵化ふかするにいたらしめるものは精液せいえき液体えきたいであるか、またはその中の精虫せいちゅうであるかという疑問ぎもん当然とうぜん生じた。そこでこのうたがいを解決かいけつするために、イタリアのスパランザニという熱心ねっしんな研究家が次のごとき試験しけんを行なうた。まず一つのうつわに水をり、その中にめすかえるの体内から取り出した成熟せいじゅくしたたまごをたくさんに入れ、べつおすかえるの体内から取り出した精液せいえき濾紙ろしでこして精虫せいちゅうのぞき去ったえきだけをくわえて見た。ところが精虫せいちゅうふくんだままの精液せいえき[#「精液」は底本では「精虫」]くわえるとたまごはことごとく発育して幼児ようじるが、精虫せいちゅうのぞいた精液せいえきじたのではたまごは一つも発育せず、ことごとくそのままに死んでしもうた。この実験じっけんで、精虫せいちゅうなるものは精液せいえき中のもっとも主要しゅような部分でたまご孵化ふかするにいたらしめるのは全くそのはたらきによることが明らかになった。精虫せいちゅうのあることを知らぬ間は、子は全くたまごから生ずるもののごとくに思うていたところ、子のできるには精虫せいちゅう必要ひつようであることが明らかになってからは、急に精虫せいちゅうに重きをおくようになり、べつして獣類じゅうるいのごときたまごの知れぬ動物においては、後に子とって生まれるのは精虫せいちゅう自身であると考えられ、如何いかなる動物でも子にるのはおす精虫せいちゅうであって、たまごのごときはたんにこれに滋養じよう分を供給きょうきゅうするにすぎぬとのせつさかんにとなえられるにいたった。

「昔の精虫の画」のキャプション付きの図
昔の精虫せいちゅうの画

すなわち女のはらはたけで、男がそこへたねくものと考えたのであるが、不完全ふかんぜん顕微鏡けんびきょうを用い、かかる想像そうぞうをたくましうしてのぞいたゆえ、実際じっさい精虫せいちゅう子供こどもの形に見えたものか、そのころの古い書物には、人間の精虫せいちゅうをあたかも頭の大きな赤子から細長いがはえているごとき形に画いてある。
 さて精虫せいちゅう実際じっさい如何いかなる形のものかというに、「えび」、「かに」や、蛔虫かいちゅうなどの精虫せいちゅうのごとくにいちじるしく他と形のことなったものもあるが、これらはむしろ例外れいがいであって、一般いっぱんには高等動物でも下等動物でもほとんど同じである。人間のでも犬、ねこ、馬、牛のでも、ないしははまぐり、「あさり」、「さんご」、海綿かいめんのごときもののでも、精虫せいちゅうといえばみな形があいたもので、いずれも小さな頭から細長いが生じ、これをり動かして液体えきたいの中をおよぎまわることができる。

「種々の動物の精虫」のキャプション付きの図
種々しゅしゅの動物の精虫せいちゅう
(い)さる (ろ)ねこ (は)犬 (に)もぐら (ほ)馬 (へ)鹿しか (と)うさぎ

もっとも詳細しょうさいに調べると、動物の種類しゅるいちがえば、その精虫せいちゅうの形にもさまざまの相違そういがあり、精虫せいちゅうを見ただけでその種類しゅるい識別しきべつるごとき場合もあるが、多くはただ頭が長いとか短いとか、真直ぐであるとか曲がっているとか、全体が少し大きいとか小さいとかいうぐらいの比較的ひかくてきささいな相違そういにすぎぬ。かくのごとく精虫せいちゅうには一種いっしゅ固有こゆうの形が定まってあり、普通ふつう細胞さいぼうとはよほど形状けいじょうちがうゆえ、でき上がっておよいでいる精虫せいちゅうを見たのでは、それがおのおの一個いっこ細胞さいぼうであるかいなかは容易ようい判断はんだんしがたい。
 精虫せいちゅうのできるところは睾丸こうがんの内であるが、たいがいの動物では、睾丸こうがんはほかの臓腑ぞうふと同じくはらの内にかくれてある。たとえば魚類ぎょるいなどでは睾丸こうがんはらの内にある白い豆腐とうふのようなもので、ぞくにこれを「白子しらこ」と名づける。ただ獣類じゅうるいだけでは睾丸こうがん特別とくべつ皮膚ひふふくろつつまれはらより外にたれている。顕微鏡けんびきょうで調べて見ると、獣類じゅうるい睾丸こうがんは細いかんのかたまったごときもので、そのかんかべをなせる細胞さいぼうがしばしば変形へんけいして精虫せいちゅうるのである。すなわち始め普通ふつう細胞さいぼうと同じく、原形質げんけいしつ細胞さいぼう体と嚢状のうじょうかくとをそなえた細胞さいぼうが一歩一歩変化へんかし、かくは小さくなって精虫せいちゅうの頭となり、細胞さいぼう体の一部はびて精虫せいちゅうとなり、いつとはなしに精虫せいちゅうの形ができ上がると、しまいにほかの細胞さいぼう仲間なかまからはなれ、輸精ゆせいかん通過つうかして粘液ねんえきとともに体外へ排出はいせつせられるにいたる。されば精虫せいちゅうは形はいちじるしくちがうが、やはりそれぞれ一個いっこ細胞さいぼうであって、ただ特殊とくしゅ任務にんむくすために、それにてきする特殊とくしゅ形状けいじょうを有するだけである。でき上がった精虫せいちゅうは、自由に運動してあたかも独立どくりつせる小虫のごとくに見えるが、睾丸こうがん組織そしきからはなれ出す前にはたしかに親の身体の一部をしていたので、この点においては精虫せいちゅうたまごごうちがいはない。

「精虫の発生」のキャプション付きの図
精虫せいちゅうの発生

 ほとんどすべての動物でらん細胞さいぼうが球形なるに反し、精虫せいちゅうが糸のごとき形をていするのは何故なぜかというに、これは双方そうほうともその役目におうじたことで、始めはいずれも普通ふつう細胞さいぼうであるが、たまごのほうはできるだけ多量たりょう滋養じよう分をふくむにてきした形をとり、精虫せいちゅうのほうはできるだけ自由な運動をなしるような形をとったのである。自由に運動するには身体の軽いほうが便利べんりで、抵抗ていこうを受けぬためには身体の細いほうがよろしい。また同じ一斗いっと(注:18リットル)のもちでも、大きな鏡餅かがみもちにすれば一つか二つよりつくれぬが、金柑きんかんほどの小餅こもちにすれば何千もできるごとく、小さければ小さいほど数が多くできる利益りえきがある。それゆえ精虫せいちゅうたまごにくらべるとはるかに小さいのがつねで、人間などでも精虫せいちゅうは長さがわずかに一分の五十分の一(注:0.08mm)にも足らず、頭のはばは一分の千分の一(注:3μm)にもたつせぬから、その体積たいせきたまごにくらべてわずかに二百万分の一にもあたらぬ。その代わり多いことは実におどろくばかりで、たまごが年々わずかに十数個じゅうすうこより成熟せいじゅくせぬに反し、精虫せいちゅうは毎回何万びき数のも排出はいしゅつせられる。

五 受精じゅせい


 動物植物ともに単為たんい生殖せいしょくによりらん細胞さいぼうのみで繁殖はんしょくする場合もあるが、これはむしろ例外れいがいであって、まずたまご精虫せいちゅうとが相合あいあいしなければ子ができぬのが一般いっぱん規則きそくである。らん細胞さいぼう精虫せいちゅうとの合することを受精じゅせいと名づける。にわとりのような大きなたまごきわめて微細びさい精虫せいちゅうとが相合あいあいするところを顕微鏡けんびきょうで見ることは困難こんなんであるが、小さなたまごならばこれに精虫せいちゅうのはいりむありさまを実際じっさいに調べることは何の雑作ぞうさもない。たとえば夏めすの「うに」を切り開いて成熟せいじゅくしたらん細胞さいぼうを取り出し、海水をったガラス皿の中に入れ、これを顕微鏡けんびきょうで見ていながら、べつおすの「うに」から取り出した精虫せいちゅうを海水にじたものを、一滴いってきその中へ落としくわえると、無数むすう精虫せいちゅうり動かして水中をおよぎ、らん細胞さいぼう周囲しゅういに集まり、どのらん細胞さいぼうもたちまち何十ぴきかの精虫せいちゅう包囲ほういせられるが、そのうちただ一匹いっぴきだけがらん細胞さいぼうの中へもぐりみ、残余ざんよのものはみなそのまま弱って死んでしまう。以上いじょうは人工受精じゅせいと名づけて臨海りんかい実験じっけん場などで、学生の実習として年々行なうことであるが、注意して観察かんさつすると、なおさまざまなことを見いだす。まず第一には精虫せいちゅうたまご出遇であうのは、決して目的もくてきなしにおよぎ回っているうちに偶然ぐうぜんあいれるのではなく、ほとんど一直線にたまごを目がけて急ぎ行くことに気がつく。そのさい精虫せいちゅうはあたかも目なくして見、耳なくして聞くかのごとく、もっとも近いたまごをねろうて一心不乱ふらんおよぎ進むが、これは如何いかなる力によるかというに、下等植物の精虫せいちゅうが、ことごとく砂糖さとうやりんごさん溶液ようえきのほうへ進み行くれいを見ると、あるいはたまごが何か物質ぶしつ分泌ぶんぴつし、それが水にじてしだいに広がって近辺きんぺんにいる精虫せいちゅう刺激しげきし、精虫せいちゅうはその物質ぶしつみなもとのほうへおよぎ進むので、しまいにたまごたつするのかも知れぬ。いずれにせよ、たまご精虫せいちゅうを自分のほうへ引きせる一種いっしゅの引力を有し、精虫せいちゅうはこの引力に対してとうてい反抗はんこうすることができぬものらしく見える。

「うにの卵の受精」のキャプション付きの図
うにのたまご受精じゅせい

 またらん細胞さいぼうはとどまって動かず、精虫せいちゅうのほうが夢中むちゅうになって急ぐのを見ると、引力があるのはたまごのほうばかりのように思われるが、精虫せいちゅうたまご接近せっきんしてからの様子を調べると、実は精虫せいちゅうのほうにも一種いっしゅの引力があって、たまごはそのために引きせられるものらしい。その証拠しょうこには、精虫せいちゅうがいよいよらん細胞さいぼうの近くまでくると、その到着とうちゃくするのを待たず、たまごのほうからも表面より突起とっきを出してこれをむかえ、一刻いっこくも早く相合あいあいせんとつとめる。この瞬間しゅんじにおけるらん細胞さいぼう挙動きょどうを、支那しなの文人に見せたならば、かなずこれを形容けいようして「落花らっかじょうあれば流水心あり。(注:散る花には、流れる水にそって流れて行きたいという気持ちがあり、流れる水には散った花を浮かべて流れて行きたいという気持ちがある)」とでも言うにちがいない。精虫せいちゅうにくらべるとたまごははるかに大きいゆえ、たとい精虫せいちゅうに引力があっても、丸ごとにそのほうへ引きせられるわけにはいかぬが、相手がそばまでくると、それに面した部の原形質げんけいしつは引力のために引きせられ、突起とっきとなって進み近づくのであろう。つまるところ、異性いせい生殖せいしょく細胞さいぼうの間にはたがいにあい引く力があるが、たまごのほうは重いために動きず、身軽な精虫せいちゅうのみが相手をもとめてさかんにおよぎ回るのである。

「兎の卵の受精」のキャプション付きの図
うさぎたまご受精じゅせい

 かくらん細胞さいぼう周囲しゅういには何十ぴき精虫せいちゅうが集まってくるが、最初さいしょ一匹いっぴきたまごからの突起とっきむかえられてその内にもぐりむと、らん細胞さいぼうは直ちに少しく収縮しゅうしゅくして表面に一枚いちまいまくを生ずる。しこうしていったんこのまくができた上は、他の精虫せいちゅう如何いからん細胞さいぼうせつせんとつとめても、これにへだてられてとうてい目的もくてきたつすることはできぬ。そのありさまはあたかもすでに他にしたむすめ縁談えんだんを申しんだのと同様である。ただしあらかじめ薬を用いてたまご麻酔ますいさせておくと、一つのたまごの中へ何匹なんびきもの精虫せいちゅう続々ぞくぞくとはいりむ。世間には「むすめ一人に婿むこ八人。」というたとえがあるが、受精じゅせいのために一らん細胞さいぼう周囲しゅういに集まる精虫せいちゅうはずいぶん多数にのぼるのがつねで、これらがみなり動かしてたまごの中へ頭をき入れようと努力どりょくするために、たまごが転がされているのをしばしば見かける。らん細胞さいぼう粘液ねんえきつつまれたもの、膠質こうしつまくをかぶるものなどが多いゆえ、らん細胞さいぼうに近づくまでには、精虫せいちゅうはこれらをつらぬき進まねばならず、そのため精虫せいちゅうの頭の先端せんたん往々おうおう穴掘あなほり道具のごとき形をていしている。多数の精虫せいちゅうはおのおのわれ一番にらん細胞さいぼうたつせんと、粘液ねんえき膠質こうしつの中を競争きょうそうして進むが、この競争きょうそう精虫せいちゅうにとっては実に生死のわかれ目で、第一着のもの一匹いっぴきだけは目的もくてきどおりにらん細胞さいぼう相合あいあいし、新たな一個体こたいとなって生存せいぞんつづけ、第二着以下いかのものはことごとく拒絶きょぜつせられ、暫時ざんじもがいたのちつかれ弱って死んでしまう。生物界には、個体こたい間にも団体だんたい間にもいたるところにはげしいあらそいがあるが、いまだ個体こたいとならぬ前の精虫せいちゅうの間でも、競争きょうそうはかくのごとく激烈げきれつである。
 精虫せいちゅうたまご相合あいあいすることができねば死に終わるが、らん細胞さいぼうのほうも精虫せいちゅうわねばそのままほろびる。単為たんい生殖せいしょくをする若干じゃっかんの動物をのぞけば、たまごが発育するには精虫せいちゅう相合あいあいすることが絶対ぜったい必要ひつようで、もし精虫せいちゅう機会きかいがなければ、たといたまごが生まれてもけっして育たぬ。牝鶏めんどりばかりでも食用にてきする立派りっぱたまごむが、これからひなをかえすことはできぬ。しかも近来は薬品を用いて、種々しゅしゅの動物のたまご精虫せいちゅうなしに程度ていどまで発育せしめることができて、かえるたまごなどはただはりの先でつついただけでもひとりで発育せしめることが知れたが、かような人工てき単為たんい生殖せいしょくほうで、何代までも子孫しそん継続けいぞくせしめることができるかいなかはすこぶるうたがわしい。元来らん細胞さいぼうは子の発育にようするだけの滋養じよう分をたくわえており、蜜蜂みつばちるいのごとき同一のたまごが、受精じゅせいせずとも発育するれいもあるゆえ、ある刺激しげきを受けて、不自然ふじぜんに発育することも当然とうぜんありべきことであるが、自然じぜん界において単為たんい生殖せいしょくがただ特殊とくしゅの場合にかぎられていることから考えると、精虫せいちゅうはたらきはけっしてたんらん細胞さいぼう刺激しげきあたえるだけではない。もし薬品を用いて、完全かんぜん精虫せいちゅうの代わりをつとめしめることができるものならば、人間社会もゆくゆくは女と薬とさえあればすむわけで、男は全く無用むようの長物となるであろうが、自然じぜん単為たんい生殖せいしょくをする動物でさえ、一定の時期にはかなおすが生じて雌雄しゆう生殖せいしょくすることを思うと、おす必要ひつようなる理由はなお他にそんすることが知れる。されば如何いかなる生物でも有性ゆうせい生殖せいしょくにあたっては、らん細胞さいぼう精虫せいちゅうとが相合あいあいすることは絶対ぜったい必要ひつようであって、けっして長くこれをくことはできぬ。いつまでも種族しゅぞく継続けいぞくさせるためには、その種族しゅぞくたまご精虫せいちゅうとをなんらかの方法ほうほうによって、いつかどこかで相合あいあいせしめることが絶対ぜったい必要ひつようであるが、この事を眼中がんちゅうにおいて、各種かくしゅ生物の身体の構造こうぞうや生活の状態じょうたい見渡みわたすと、その全部がことごとくたまご精虫せいちゅうとを出遇であわしめるためにできているごとくに感ぜられる。生物の生涯しょうがいは、食うてんで死ぬにあるとはすでに前にべたが、物を食うのはすなわちらん細胞さいぼう精虫せいちゅう成熟せいじゅくせしむるためで、子をむのはすなわちらん細胞さいぼう精虫せいちゅうとの相合あいあいした結果けっかである。しこうしてるためには、自身の生殖せいしょく細胞さいぼう異性いせい生殖せいしょく細胞さいぼうとを出遇であわしめるように全力をくしてつとめねばならぬ。えとこいとが、浮世うきよの原動力といわれるのはこのゆえである。また死ぬのは、たまご精虫せいちゅうとが相合あいあいして後継者こうけいしゃができたためにもはや親なるものの必要ひつようのなくなったときで、死ぬ者はのこしくもあろうが、種族しゅぞく生存せいぞんから見るとすこぶる結構けっこうなことである。
 かように考えると受精じゅせいということは、生物界の個々の現象げんしょう解釈かいしゃくすべきかぎのごときもので、生物の生涯しょうがい了解りょうかいするにはまず受精じゅせいの重大なる意義いぎみとめねばならぬ。生物の生涯しょうがいが、受精じゅせい準備じゅんび受精じゅせい結果けっかとよりり立つことを思うと、かく個体こたい生殖せいしょく細胞さいぼうを生ずるというよりは、むしろかく個体こたい生殖せいしょく細胞さいぼうのためにそんするというべきほどで、かく個体こたいは生まれてから死ぬまで、つねに生殖せいしょく細胞さいぼう支配しはいを受けているというてよろしい。生物個体こたいの一生はあたかもあやつり人形のようなもので、舞台ぶたいだけを見ると、かく個体こたいがみな自分の料簡りようけんで、思い思いの行動をしているごとくであるが、実はらん細胞さいぼう精虫せいちゅうとが天井てんじょうの上にかくれて糸をあやつっている。鹿しかが角でき合うのも、孔雀くじゃくを広げるのも、七つ八つの女のべに白粉おしろいをつけたがるのも、わかい書生が太いつえを持って豪傑ごうけつを気どるのも、そのあやつられていることにおいてはあいひとしい。しこうして、精虫せいちゅうらん細胞さいぼうとがかくあやつる目的もくてきは何かといえば、受精じゅせいによって種族しゅぞくを長く継続けいぞくせしめることにある。「女の女たるゆえんは卵巣らんそうにある。卵巣らんそうのぞき去った女は決して女ではない。」と言うた有名なる医学者があるが、これは女にかぎったことではなく、生物個体こたい性質せいしつは、肉体上にも精神せいしん上にも、その生殖せいしょく細胞さいぼうせい関係かんけいするところがすこぶる深い。次の二章においてはもっぱらこれらの相違そういについてべるつもりである。


第十一章 雌雄しゆうべつ


 めすとはたまご個体こたいおすとは精虫せいちゅうを生ずる個体こたいのことであるが、この両者の相違そうい程度ていどは動物の種類しゅるいによっていちじるしくちがい、一見して直ちに区別くべつのできるほどの差別さべつのあるものもあれば、また注意して調べてもめすおすかわからぬようなものもある。動物園にはいって見ても、孔雀くじゃく鹿しかは遠方からおすめすかわかるが、さるや犬は近づいて見なければたしかにわからず、さぎつるなどはそばまで来てもなかなか区別くべつができぬ。さらに他の動物を調べると、「なまこ」などのごとくに外面からはもとより、内部を解剖かいぼうして見てもめすおすかが容易よういにわからぬようなものもあれば、またその反対にめすおすとがあまりちがいすぎるので、だれも同一どういっ種類しゅるいぞくするものと心づかぬほどのものもある。かくさまざまにちがうた種類しゅるいをなるべく数多く集め、雌雄しゆうの全くないものからそのもっともいちじるしいものまでじゅんを追うてならべて見ると、動物の雌雄しゆうべつは、如何いかなる道筋みちずじ次第しだいに進み来たったものであるか、大体のありさまを推知すいちすることができる。
 雌雄しゆうの身体構造こうぞうあいことなる個所かしょを調べると、その中にはたまご精虫せいちゅうとを相合あいあいせしめることに直接ちょくせつに役にたつ部分と、間接かんせつにその目的もくてきたつせしめるためのものとがある。おす精虫せいちゅうを送り出す器官きかんがありめすにこれを受け入れる装置そうちがあるごときは、直接ちょくせつに役にたつほうであるが、このしゅ器官きかん発達はったつは、たまご精虫せいちゅうとが如何いかなる方法ほうほう相合あいあいするかによって大いにちがう。またとく鋭敏えいびん感覚かんかくをもって異性いせい所在しょざいを知り、美しい色やいい声をもって異性いせいを引きよせる仕掛しかけは、同じ目的もくてきのための間接かんせつ方便ほうべんであるが、これは神経系しんけいけい発達はったつともなうことで、さい下等の動物ではあまり見られぬ。その他、子を保護ほごし育てる動物ではめすおすとの役目がちがい、したがって身体にもこれにじゅんじた相違そういがある。獣類じゅうるいめすのみに乳房にゅうぼうが大きく、「たつのおとしご」のおすのみにはらふくろがあるごときはそのれいであるが、これは受精じゅせい結果けっか完全かんぜんならしめるための補助ほじょ器官きかんで、子をみ放しにする動物にはけっしてない。

一 べつなきもの


 原始動物中の「ぞうりむし」や夜光虫などは、あい接合せつごうする二個にこ細胞さいぼうの間になんの相違そういも見えぬゆえ、これらこそは真に雌雄しゆうべつのないものといえるが、その他の動物では、たとい雌雄しゆうべつが少しもないごとくに見えても、その生殖せいしょく細胞さいぼうを見れば、明らかにたまご精虫せいちゅうとの区別くべつがある。すなわち生殖せいしょく細胞さいぼう区別くべつのぞいては、他になんの区別くべつもないというにすぎぬ。
 海中に住む「うに」、「ひとで」、「なまこ」などは外形を見て雌雄しゆうのわかるものはほとんどない。解剖かいぼうして体の内部を調べても、雌雄しゆうべつが明らかに知れぬことさえしばしばある。このようなるいでもおすの体内には睾丸こうがんがありめすの体内には卵巣らんそうがあるが、睾丸こうがん卵巣らんそうとはそのる場所も一致いっちし、見たところもきわめてよくたもので、わずかに色が少しくちがうくらいである。たまごつぶあらい動物ならば、卵巣らんそうは一目してたまごのかたまりのごとくに見えるが、「なまこ」などではたまごがすこぶる小さくて肉眼にくがんではとうてい見えぬゆえ、顕微鏡けんびきょうを用いなければおすめすかの鑑定かんていがむずかしい。「うに」の卵巣らんそう雲丹うにせいする原料げんりょうで、生のをいて食うとはなはだうまい。また「なまこ」の卵巣らんそうは「このわた」中のもっともうまいところで、これをかわかしたものを「くちこ」と名づける。いずれもたいや「ひらめ」の「子」とちがうて卵粒らんりゅうは見えぬ。これらの動物には輸卵ゆらんかんとか輸精ゆせいかんとか名づくべきものがほとんどなく、精虫せいちゅう睾丸こうがんから、らん細胞さいぼう卵巣らんそうから直ちに体外へ出されるが、その出口のあなにも雌雄しゆう相違そういは全くない。たまごきわめて小さいゆえ、そのみ出されるあなもはなはだ小さくて、おす精虫せいちゅうを出すあなと何らことなったところはない。「うに」では肛門こうもん周囲しゅういに五つ、「ひとで」では五本のうでまたのところ、「なまこ」では頭部の背面はいめんの中央に一つ、生殖せいしょく細胞さいぼうみ出されるあながあるが、注意して見ぬと知れぬほどの小さなものである。
 さてかような動物が生殖せいしょくするときには、如何いかにしてたまご精虫せいちゅうとを出遇であわしめるかというに、これは実に簡単かんたんきわめている。すなわち生殖せいしょく細胞さいぼう成熟せいじゅくする期節きせつがくると、めすは勝手に海水中へたまごき出し、おすは勝手に海水中へ精虫せいちゅうき出すだけであるが、たまご精虫せいちゅうが小さなあなからき出されるところを横から見ていると、人が煙草たばこけむりを鼻のあなからき出しているのと少しもちがわぬ。彼処かしこではおす精虫せいちゅうき出し、此処ここではめすたまごき出すと、たまご精虫せいちゅうとは水中をただようている間にあい近づく機会きかいて、精虫せいちゅうたまご周囲しゅういおよぎ集まり、かくして受精じゅせいが行なわれるのである。されば「うに」や「ひとで」の子供こどもにも父と母とはたしかにあるが、まれる前にすでにえんが切れているから、親と子との間には始めから何の関係かんけいもない。父はわが子の母を知らず、母はわが子の父を知らず、しかも何千か何万かのおすめすとが同じ海に住んでいることゆえ、どのめすんだたまごがどのおす精虫せいちゅう相合あいあいするかわからぬ。かかる動物では、受精じゅせいは全く独立どくりつせる生殖せいしょく細胞さいぼうの、たがいにあいもとめる力によってのみ行なわれるのである。
 右のごとき方法ほうほうによる受精じゅせいは、むろん水中に住む動物でなければ行なわれぬ。しこうして水中でたまご精虫せいちゅうとの出遇であうのは、よほどまでは僥倖ぎょうこうによることゆえ、たまごの多数が受精じゅせいせずしてそのままほろびることもないとはかぎらぬ。とくに水中には小さなたまごや弱い幼虫ようちゅうさがして食うてき非常ひじょうに多くいるから、精虫せいちゅうわぬ前に他の餌食えじきとなるものもたくさんあろう。また小さな幼虫ようちゅうとなってから食われるものもすこぶる多かろう。さればこのるいの動物は、かような損失そんしつをもことごとく見越みこしてよほど多くのたまごまぬと、種族しゅぞく保存ほぞん見込みこみが十分に立たぬわけであるが、実際じっさいうておいて見ると、その生殖せいしょく細胞さいぼうみ出されることは実に非常ひじょうなもので、水族箱内の海水が全部白くにごるほどになる。植物でも虫媒花ちゅうばいか花粉かふん無駄むだっていることは少ないが、まつなどのごとき風媒ふうばい植物の花粉かふんおどろくほど多量たりょうに生じて、あたかも硫黄いおうの雨でも降ったかのごとくに地上一面に落ちるのも、おそらくこれと同じ理屈りくつであろう。
 たまご精虫せいちゅうもまず親の身体からはなれ、しかる後に水中で勝手に受精じゅせいするような動物は、「うに」や「なまこ」のほかにもなおいくらもある。普通ふつうに人の知っているものかられいを出せば、はまぐり、「あさり」、しじみなどの二枚貝にまいがいるいがみなこれにぞくする。はまぐりでもしじみでも一匹いっぴきずつことごとくおすめすかであるが、貝殻かいがらだけで区別くべつのできぬはもちろん、切り開いて内部を見ても全く同様である。それゆえ、多数の人々はつねに食いなれていながら、おすめすとがあることさえ心づかぬ。一体雌雄しゆうの体形上の相違そういは、主としておす精虫せいちゅうめすの体内へうつし入れるための器官きかん、または両性りょうせいあい近づかしめるための装置そうちにあるゆえ、雌雄しゆうあい近づく必要ひつようのないような動物に、雌雄しゆう体形の相違そういのないのは当然とうぜんである。「くらげ」や「さんご」などもめすおすとがあるが、身体の形にはなんの相違そういもない。

二 解剖かいぼう上のべつ


 外形では雌雄しゆうべつがないようでも、身体を切り開いて内部を見ると、直ちにおすめすかが知れる動物もなかなか多い。昔から「だれからす雌雄しゆうを知らんや。」というが、これはからす解剖かいぼうせぬ人のいうことで、はらを切り開けば、雌雄しゆうはだれにも直ちにわかる。めすならば卵粒らんりゅうの明らかな卵巣らんそうと太い輸卵ゆらんかんとがあり、おすならば一対の睾丸こうがんと細い輸精ゆせいかんとがあって、そのきわめて明らかであるから、けっして間違まちがえる気づかいはない。鳥類ちょうるいの中にはにわとり孔雀くじゃくなどのごとく雌雄しゆうによって形のちがうもの、雉子きじかもなどのごとく色のちがうものもあるが、からすのように雌雄しゆうの全くわからぬものもすこぶる多い。わしたかふくろうのごとき食肉鳥、文鳥ぶんちょう、「カナリヤ」のごとき小鳥類ことりるいつるさぎ等のごとき水鳥類みずどりるいも多くは雌雄しゆう全く同色同形で、たとい僅少きんしょう相違そういがあっても、素人しろうとにはわからぬくらいのものである。かえるへびかめるいも外形では雌雄しゆう区別くべつがわからぬことが多く、魚類ぎょるいなどもほとんど全部雌雄しゆう同じように見える。もっともめすたまごのためにはらのふくれていることが多いゆえ、はらの丸さ加減かげん雌雄しゆう鑑定かんていのできる場合もある。いずれにしても、これらのるいはちょっとはらを切り開いて見さえすればおすめすか直ちに知れる。さてかような動物では受精じゅせい如何いかにして行なわれるかというに、これは水中と陸上りくじょうとでは大いにちがわざるをない。前にもべたとおり、水中にむ動物では、おすめすとが別々べつべつき出した生殖せいしょく細胞さいぼうが、水中で随意ずいい出遇であうことができるが、陸上りくじょう産卵さんらんする動物では、そのような体外受精じゅせいはとうてい行なわれぬ。植物ならば、花粉かふんが風にばされて遠方まで空中を運ばれることがあるが、動物の精虫せいちゅうかわけばたちまち死ぬゆえ、液体えきたい外に出ることができず、したがってらん細胞さいぼうたつするまでえずれつづけていなければならぬ。それゆえ陸上りくじょうの動物では、精虫せいちゅうかなず何らかの方法ほうほうおすの体からめすの体へ直ちにうつし入れられる必要ひつようがある。外形上雌雄しゆうべつのわからぬような動物の受精じゅせい方法ほうほうを見ると、実際じっさい体外で受精じゅせいするものと、体内で受精じゅせいするものとがあり、体外で受精じゅせいするものはことごとく水中で産卵さんらんする種類しゅるいのみにかぎっている。
 親の身体を出てから、たまご精虫せいちゅうとが水中で出遇であうことの難易なんいは、両親のいる場所がたがいに遠いか近いかによって非常ひじょうちがう。たがいに遠くあいへだたったところで、一方ではたまごを、一方では精虫せいちゅうき出したのでは、その間に受精じゅせいの行なわれるのぞみはきわめて少ないが、接近せっきんしたところで同時に生殖せいしょく細胞さいぼうせば、ほとんど全部受精じゅせいすることができよう。それゆえ、体外受精じゅせいをする動物は多くは一個所いっかしょ群居ぐんきょしているもので、「うに」などのごときも、小船からのぞいて見ると、あさ海底かいていの岩のくぼみにいくつとなくならんでいる。しかしこれは雌雄しゆうあい近づくために、わざわざ遠方から集まって来たのではなく、ただ同じところに育ったものである。魚類ぎょるいのごとき運動の自由なものになると、これとちがい同じく体外受精じゅせいが行なわれるのであるが、産卵さんらんになるとおすめすを追うて接近せっきんし、めす産卵さんらんすると同時にこれに精虫せいちゅうくわえようとつとめる。金魚や緋鯉ひごいはちうておいても、たまごむころになるとおすがしきりにめすを追いかけておよぎまわるが、これはただ生まれたたまごに直ちに精虫せいちゅうをそそぐためであって、けっして真の交尾こうびが行なわれるのではない。さけなどは日ごろは深い海に住みながら、産卵さんらん季節きせつが近づくと遠くかわをさかのぼってあさいところまでたつし、砂利じゃりってくぼみをつくり、そこでめすたまごめばおすが直ちに精虫せいちゅうくわえる。そのころのさけたまご精虫せいちゅうもともに十分に成熟せいじゅくして、生まれるばかりになっているゆえ、手で体をにぎってはらをしぼれば直ちにあふれ出るが、かくして出したたまご精虫せいちゅうとを水中でじ、なお清水きよみず中にうておくと漸々ぜんぜん発育してついに幼魚ようぎょとなる。これはさけの人工孵化ふかほうしょうして、今日ところどころでさけをふやすために行なうているが、このようなことはむろん体外受精じゅせいをする動物でなければ行なわれぬ。もっともまれには普通ふつう魚類ぎょるいにも真に交尾こうびするものがある。

「魚の交尾の一例」のキャプション付きの図
魚の交尾こうび一例いちれい

ここに図をしめしたのはその一例いちれいで、直立しているのはめすきついているのはおすであるが、おすめすとは生殖器せいしょくきの開口を密接みっせつせしめるゆえ、精虫せいちゅうは少しも水中にでることなしに直ちにおすの体からめすの体にうつり入ることができる。またうなぎさけとは反対で、つねにはかわや池にいるが、たまごみに海までくだるものゆえ、人工てき受精じゅせいせしめることはとうていのぞまれぬ。養魚場ようぎょじょううているうなぎは、すべておさない時にとらえたものにえさあたえて成長せいちょうさせるだけにすぎぬ。うなぎ胎生たいせいすると言いつたえている地方もあるが、これははらの内にいる蛔虫かいちゅうるい寄生きせい虫を、「うなぎの子」であると早合点はやがてんしたためで、全く観察かんさつあやまりである。
 かえる魚類ぎょるいと同じく体外受精じゅせいをするものであるが、産卵さんらんさいおすめすかたきついているゆえ、あたかも交尾こうびしているかのごとくに見える。しこうしてかくきつくのは一種いっしゅ反射はんしゃ作用であって、産卵さんらん期におすはら皮膚ひふをなでると、何物にでもきつくのみならず、いったんきついたものは、脳髄のうずいを切り去っても決してはなさぬ。ぞくに「かえる合戦かっせん」と名づけるのは産卵さんらんのために多数のかえるの集まったのであるが、かかるさいにはおすかえるかたくしめられて死ぬものがたくさんにできるくらいである。おすが長くきしめているうちにめすかな産卵さんらんするが、それと同時におす精虫せいちゅうをだし、しかる後にうでをゆるめめすはなして、また自由に生活する。さればたまご精虫せいちゅうとの出遇であうのは親の体外であるが、両親が密接みっせつして同時に生殖せいしょく細胞さいぼうを出すゆえ、たまご受精じゅせいせぬおそれは少しもない。「いもり」も水中で産卵さんらんするが、このるいでは受精じゅせいめすの体内で行なわれる。ただし精虫せいちゅうおすの体から直ちにめすの体へうつされるのではなく、おすがまず水底みずぞこ精虫せいちゅう一塊いっかいみ落とすと、めすが後からこれを肛門こうもんでくわえ、自身の体内へとり入れる。「いもり」はたまご一粒ひとつぶずつ遠くはなして、水草などにみつけるが、体内で受精じゅせいがすんでいるゆえ、かかることが髄意ずいいにできる。もしかえるのようにおすがしじゅうきついていたら、これはとうていできぬことであろう。
 鳥類ちょうるいは他の陸上りくじょう動物と同じく、受精じゅせいはすべてめすの体内で行なわれる。生まれたたまごはすでに受精じゅせい後何時間かをたものである。水中とちがうて、精虫せいちゅうおすの体からかな直接ちょくせつめすの体にうつされねばならぬが、普通ふつう鳥類ちょうるいおすには精虫せいちゅうめすうつし入れるための特別とくべつ器官きかんもなく、まためすにこれを受けるための装置そうちもない。それゆえ精虫せいちゅううつし入れるにあたっては、雌雄しゆうはただ生殖器せいしょくきの出口なる肛門こうもんを少しく開いて、暫時ざんじたがいにおし合わすにすぎぬ。そのさまはあたかも肛門こうもん接吻せっぷんするごとくであるが、かくすればかえるや「いもり」の場合とちがい、精虫せいちゅうは少しも外界にれず、無駄むだなしに全部親の体から体へとうつ便べんがある。

三 局部きょくぶべつ


 以上いじょうべたとおり、外形では雌雄しゆうべつのわからぬような動物でも、はらの内にはかな卵巣らんそう睾丸こうがんがあって、何らかの方法ほうほうによってたまご精虫せいちゅうとを出遇であわしめる。すなわちる者は体外で受精じゅせいが行なわれ、る者はめすの体内に精虫せいちゅううつし入れられるが、おす直接ちょくせつめすの体内に精虫せいちゅうを入れる場合には、これを確実かくじつに行なうために特殊とくしゅ器官きかんをそなえている者も少なくない。たとえば普通ふつう鳥類ちょうるいにはかような交接器こうせつきはないが、がんかものごとき水鳥類みずとりるいおすには生殖器せいしょくきの出口に肉質にくしつ突起とっきがあって、交接こうせつするときこれをめす肛門こうもん内にさし入れる。駝鳥だちょうではおす交接器こうせつきとくに大きくて長さが一尺いっしゃく(注:30cm)以上いじょうもある。かような交接器こうせつきが体外へ突出つきだしているときには一目してそのおすなることが知れるが、平常へいじょうはこれを体内におさめ入れているため、そとから見ては雌雄しゆうの局部の相違そういが少しもわからぬ。
 へび、「とかげ」のるい平常へいじょうおす交接器こうせつきあらわれていぬゆえ、雌雄しゆうの形がちがわぬように見えるが、実は肛門こうもん内に立派りっぱ交接器こうせつきをそなえている。しかもそれが左右両側りょうがわにそれぞれ一つずつある。おすへびとらえてそのはらを強くしめると、肛門こうもんから一対の突起とっきがでるが、これを見て足と思いあやまり、へびにも足があるとか、足のあるへびを発見したとかいうことがしばしばある。せんだってもる新聞紙に奇蛇きじゃと題して、埼玉県さいたまけんる村で一対の足をそなえたへびとらえた。その足にはおのおの三十六本のつめが生えてあったという記事が出ていたが、これはむろん雄蛇おすへび交接器こうせつきで、つめというのはその表面にある角質かくしつのとがった突起とっきちがいない。左右一対あって位置いちこしのところにあたるゆえ、素人しろうとがこれを足かと思うのも無理むりではないが、実は交接こうせつするときめすの体内にさし入れる部分である。かめるいおすには大きな交接器こうせつきがあって、交接こうせつのときにはこれを長い間、めすの体内にさし入れているが、つねには肛門こうもん内にめているゆえ、そとからは少しも見えぬ。
「ハイエナ」のキャプション付きの図
ハイエナ

 交接器こうせつきがつねに体外にあらわれている動物では、如何いかに他の体部が同じであっても、その局部さえ見れば雌雄しゆうべつは直ちにわかる。とくに多数の獣類じゅうるいおすでは、生殖せいしょくせんなる睾丸こうがん皮膚ひふふくろつつまれて交接器こうせつきの後にれているゆえ、めすとの相違そういがさらに明瞭めいりょうに知れる。もっともぞうのごとくに睾丸こうがんはらの内にあるもの、「いたち」、「かわうそ」のごとく陰嚢いんのうの小さなものもあり、「ハイエナ」というおおかみ猛獣もうじゅうなどは、動物園で生きたのをうていながら雌雄しゆうがなかなかわからぬようなこともあるが、牛や山羊やぎなどの飼養しよう畜類ちくるいでは陰嚢いんのうがすこぶる大きくれているから、遠方から見ても、雌雄しゆう間違まちがえる気づかいはない。また交接器こうせつき自身にもずいぶん巨大きょだいなものがあって、北氷洋に住する「セイウチ」などでは、その中軸ちゅうじくほねが人間のももほねよりも大きい。
 普通ふつう魚類ぎょるいは前にもべたとおり体外受精じゅせいをするゆえ、交接器こうせつきそなえる必要ひつようはないが、さめ、「あかえい」のるい例外れいがいで、これらはすべて雌雄しゆう交接こうせつし、たまごかなめすの体内で受精じゅせいする。多くは卵生らんせいであるが胎生たいせいする種類しゅるいも決して少なくない。おす交接器こうせつき腹鰭はらびれ後辺ごへんにある左右一対の棒状ぼうじょう器官きかんで、交接こうせつのときにはおすはこれをめす輸卵ゆらんかん末部まつぶにさし入れ、体をのごとくに曲げて暫時ざんじめすの体にきついている。されば同じ魚類ぎょるいでも、こいふな雌雄しゆうはちょっと判断はんだんしにくいが、さめや「あかえい」ならば、体の外面にある交接器こうせつき有無うむによって、一目して、そのせいを知ることができる。

「くもの雌雄」のキャプション付きの図
くもの雌雄しゆう

 精虫せいちゅうめすの体内にうつし入れるためのおす交接器こうせつきは、輸精ゆせいかん末端まったんにあたるところがそのままびて円筒えんとうじょう突起とっきとなっているのがもっとも普通ふつうであるが、広く動物界を見渡みわたすと、かなずしもそれのみとはかぎらず、なかには思いがけぬ体部が交接こうせつ器官きかんとして用いられる場合がある。たとえば「くもるい」のごときはその一つで、おすは体の前部にある短い足状あしじょうのものを交接器こうせつきとして用いる。「くも」の身体は通常つうじょうひょうたんのごとくにくびれて、前後両半に分かれているが、前半はすなわち頭とむねとのごうしたもので、ここからは四対の長い足のほかになお一対の短い足のごときものが生じ、後半ははらであって、その下面には細いれ目のような生殖器せいしょくきの開き口が見える。短い足のごときものは運動の器官きかんではなく、ただ物をさぐれ感ずるの用をなすものゆえ、これを「しょく足」と名づける。交接こうせつするにあたっては、おすは決して自分の生殖器せいしょくき直接ちょくせつめすの体にれるごときことをせず、まず精虫せいちゅうをもらして自身のしょく足の先に受け入れおき、を見てめすに近づき、その生殖器せいしょくきの開口にしょく足をさし入れて精虫せいちゅううつすのである。「くも」るいでは通常つうじょうめすおすよりも形も大きく力も強くて、ややもすればおすとらころすゆえ、おす交接こうせつを終われば急いでげてゆく。おすしょく足は精虫せいちゅうをいれるために先端せんたんが太くふくれているゆえ、その部の形さえ見ればおすめすかは直ちに知れる。「たこ」、「いか」るいおす精虫せいちゅうめすの体内にうつし入れるためには足を用いる。八本または十本ある足の中のる一本は、産卵さんらん期が近づくと形が少しくへんじ、先端せんたんに近い部分の皮膚ひふやわらかくなり、表面にしわなどができて他の足とはよほどことなったものとなるが、交接こうせつするにあたっては、おすはまず自分の輸精ゆせいかんから出した精虫せいちゅうをこの変形へんけいした足の先に受け入れ、次いでめすに近づき、めすの頭とどうとの間のれ目にこの足をさしみ、輸卵ゆらんかんのなかへ精虫せいちゅううつし入れるのである。すべて「たこ」、「いか」のるいではどう外套がいとうまくと名づけるあつい肉のふくろつつまれ、輸卵ゆらんかんでも輸精ゆせいかんでも肛門こうもんでもみなその内側うちがわに開いているゆえ、外面からは少しも見えず、したがって雌雄しゆうがその生殖器せいしょくきの開き口をたがいにあい接触せっしょくせしめることはとうていできぬ。

「たこの交接」のキャプション付きの図
たこの交接こうせつ

図にしめしたのはフランスのる水族館で、普通ふつうの「たこ」のおすがその変形へんけいした足の先を、小さなめす外套がいとうまく内へさし入れているところである。

「たこぶねの雄」のキャプション付きの図
たこぶねのおす

「たこ」の一種いっしゅに「たこぶね」と名づけるものがある。おす普通ふつうの「たこ」のごとく全身はだかであるが、めすには奇麗きれいな船形のからがあって、たまごむとそのおくに入れて保護ほごする。

「たこぶねの雌」のキャプション付きの図
たこぶねのめす

このからも他の貝類かいるいのと同じく、体の外面に生じたものであるがはまぐり、「あさり」や「たにし」、「さざえ」のとはちがい、肉とつながったところがなく全くはなれているゆえ、生きた「たこぶね」のめすをあまりひどくつつくと、ついにはからてて中身だけが水中をおよげてゆく。かくはだかになっためす如何いかにも不安ふあんの様子でしきりにおよぎまわるが、そこへもとの空殻あきからを持ってゆくとたちまちこれにつかみつき、体をそのうちへ入れもとのごとき姿すがたとなる。書物には往々おうおう「たこぶね」のめす貝殻かいがらにのり、二本の扁平へんぺいな足をのごとくに上げ、のこり六本の足をかいのごとくに用いて水をぎながら水面を進んでゆくところの図がかかげてあるが、これは全くの想像そうぞうであって、実際じっさいには決してさようなげいはできぬ。何故なぜかというに、とく扁平へんぺいになっている二本の足はからをつくり、かつつねにこれをささえているための道具で、もしこれをはなしてのごとくに上へ向けたならば、からたもつものがなにもなくなってしまう。さて「たこぶね」は如何いかにして受精じゅせいするかというに、おすの足の中の一本がとく変形へんけいして交接こうせつ器官きかんとなることは普通ふつうの「たこ」と同じであるが、「たこぶね」ではおすめすに近づき、この足でめすいつくと足は中途とちゅうから切れはなれ、おすは足の先をておいてどこかへおよいでゆく。すなわちめすに近づき足でいつくまでがおすの役目で、これがすめばおす随意ずいいおよぎ去り、その後はただのこった足の先と、めすとの間に交接こうせつが行なわれるのである。この足はおすの体からはなれた後にも急には死なず、吸盤きゅうばんいつきながら外套がいとうまくのなかへはい入り、輸卵ゆらんかんおく精虫せいちゅううつし入れた後は、自然じぜんに生活の力が消えて廃物はいぶつとなり終わるのである。かりに人間にたとえて見れば、男が手の指の間に精虫せいちゅうかたまりをはさみ、とおりがかりのむすめかたをたたくと、その手は手首のところから切れはなれ、手をなくした男は勝手なほうへ行ってしまい、あとにのこった手だけが自分の力ではうて、腰巻こしまきの中までもぐりこんでゆくのに相当する。はじめてめすの体内にこの足を見つけた人は、おすの足の切れたものとはもちろん心づかず、その伸縮しんしゅくするようすから一種いっしゅ寄生きせい虫であろうと判定はんていして、これに「百の吸盤きゅうばんを有する虫」という意味の学名をつけた。この学名は、その寄生きせい虫でないことの明らかになった今日でも、「いか」、「たこ」るい交接こうせつ用の足を言いあららわす名称めいしょうとしてつねに用いられている。
 おすのほうに交接器こうせつきがある以上いじょうは、めすの身体にこれを受け入れるだけの装置そうちのあるは当然とうぜんのことと思われるが、小さな虫類むしるいを調べて見るとかなずしもさようとはかぎらぬ。輪虫わむしと名づける淡水たんすいさんの小虫のことはすでに前の章でべたが、この虫のるいではおすには体の外面に突出つきだした錐状きり交接器こうせつきがあるが、めすにはこれを受けるべき何らの構造こうぞうもない。それゆえ交接こうせつするときにはおすはとがった交接器こうせつきをもって、どこでもかまわずめすの体をきとおし、そのなかへ精虫せいちゅうを注ぎいれる。そのありさまは皮下ひか注射ちゅうしゃ器械きかいで「モルヒネ」や血清けっせい注射ちゅうしゃするのとすこしもちがわぬ。精虫せいちゅうはのちに組織そしきの間の空隙くうげきをもぐり歩いて、ついにらん細胞さいぼうたつしこれと相合あいあいするのである。

四 外観がいかんべつ


 動物の中には、雌雄しゆうの色、形などがいちじるしくちがうて、そのため遠方からでも容易よういせい識別しきべつのできるものがすくなくない。獣類じゅうるいでは鹿しか獅子しし鳥類ちょうるいでは孔雀くじゃくにわとりなどがもっとも人に知られたれいであるが、他のるいからもこれにれいをいくらもあげることができる。しこうしてかようなものを集めて通覧つうらんすると、雌雄しゆうことなる点が生殖せいしょくの作用と直接ちょくせつ関係かんけいする場合としからざる場合とがあって、相違そういのもっともいちじるしいものはかえって交接こうせつとは直接ちょくせつ関係かんけいせぬ方面に多い。鹿しかの角、孔雀くじゃくなどはすべてこの部にぞくする。
 生殖せいしょくの作用にやや直接ちょくせつ関係かんけいを有する器官きかんが、雌雄しゆうによっていちじるしく相違そういするれいをあげれば次のごときものがある。淡水たんすいさんする「みじんこ」るいを取って郭大かくだいして見るに、おすの顔の前面には嗅感器きゅうかんきなる鼻の毛がたばをなして長くき出ているが、めすではこれがきわめて短いゆえ、鼻の毛の突出とつしゅつする程度ていどを見れば雌雄しゆうは直ちに識別しきべつができる。いうまでもなく、おす嗅覚きゅうかくによってめすのいるところを知りこれに近づくのである。「ひげこめつき」としょうする甲虫かぶとむしもこれと同様で、おす触角しょっかく櫛状くしじょうをなしていちじるしく立派りっぱであるゆえ、ひげさえ見ればめすおすかは直ちにわかる。池やぬまに住む「げんごろう」という甲虫こうちゅうは、おすの前足は吸盤きゅうばんがあってはばが広いがめすのは細いゆえ、この点で直ちに雌雄しゆう識別しきべつができる。おすはこの吸盤きゅうばんを用いてめす背面はいめんいつき、体をはなさぬようにする。「きりぎりす」や「くつわむし」のるいではめすの体の後端こうたんからは長い産卵さんらんかん突出とつしゅつし、おすにはこれがないゆえ子供こどもでもその雌雄しゆうを知っている。

「卵をつけた蟹」のキャプション付きの図
たまごをつけたかに

かに腹部ふくぶは前へれて体の裏面りめん密着みっちゃくしているが、これをぞくに「かにふんどし」という。ところでおすふんどしはばがせまく、めすふんどしはばが広いゆえ、ふんどしはばさえ見ればかに雌雄しゆうだれにでもわかる。かにたまごむと、これを体とふんどしとの間にはさみ孵化ふかするまではなさぬが、めすふんどしはばの広いのはそのために都合つごうがよろしい。以上いじょうべたごとき雌雄しゆう相違そういは、あるいはめすに近づくためあるいはめすはなさぬため、あるいはたまごむためあるいはたまご保護ほごするためで、いずれもみな生殖せいしょくの作用と直接ちょくせつ関係かんけいあるものばかりである。
 これに反して、鹿しかの角、獅子ししのたてがみのごときは直接ちょくせつには生殖せいしょく作用と関係かんけいせず、ただめすをうばい合うための争闘そうとうの具として、または威厳いげんを整えるための一種いっしゅ装飾そうしょくとして役に立つだけである。人間のひげなども同じ組にぞくする。かような性質せいしつ雌雄しゆう相違そうい獣類じゅうるいには割合わりあいに少ないが、鳥類ちょうるい昆虫こんちゅうるいなどにはきわめて普通ふつうで、かつずいぶんいちじるしいものがある。にわとり孔雀くじゃく雌雄しゆうによって形がちがい、雉子きじ錦鶏きんけいかも鴛鴦おしどりなどが雌雄しゆうによって毛色のちがうことは、だれも知っているが、「大るり」と名づける「もず」に形のた鳥は、おすは全身美しい瑠璃るり色、めすは全身茶色であるゆえ、はじめてその標本ひょうほんを見た西洋の学者は、雌雄しゆうべつ種類しゅるいと考え、おのおのに学名をつけた。その他にもほとんど同一しゅとは思えぬほどに雌雄しゆうことなる鳥類ちょうるいはたくさんあって、ニューギニアにさんする有名な極楽鳥ごくらくちょうのごときも、おすには実に美麗びれいな白茶色の長い羽毛がふさの形に両翼つばさかられているが、めすにはこのようなものが全くないゆえ、見たところがまるでちがう。

「くわがたむし」のキャプション付きの図
くわがたむし
(左)めす (右)おす

 昆虫こんちゅうるいには雌雄しゆうのいちじるしくちがれいはいくらでもあって、とうてい枚挙まいきょのいとまはない。甲虫こうちゅうの中で、「さいかちむし」のおすには頭部に大きな突起とっきがあるが、めすにはこれがない。「くわがたむし」のおすは左右のあごがすこぶる大きくて、あたかも鹿しかの角のごとくに見えるがめすはこれがはなはだ小さい。日本のほたる雌雄しゆうともにぶが、外国のほたるには、おすだけが空中をびまわりめすはねがなく、うじのごとき形で地上をはうている種類しゅるいがある。毛虫をうておくと、それからでるが、おすだけははねそなめすには全くはねのないような種類しゅるいもある。ちょうるいには雌雄しゆうで色や模様もようちがうものがとくに多い。「つまぐろひょうもん」というちょうおすは、ひょうの皮のごとくに黄色の地に黒い斑点はんてんがあるが、めすは前はねの外半分が黒いから直ちにわかる。また、「めすぐろひょうもん」では、めすはねおすのとは全くちがって、前後ともに全部黒色の中に白いもんがあるだけゆえ、だれの目にも同一種いっしゅちょうとは見えぬ。早くから日本のちょうるいを調べていた横浜よこはまのプライヤーという人のごときも、始めはこのちょうめすを全く別種べっしゅのものと思うていた。やなぎえだによく止まっている「こむらさき」というちょうは、雌雄しゆうともはねは元来茶褐色ちゃかっしょくであるが、おすは見ようによってむらさき色にかがやき、実に美しい。しかるにめすはどの方角から見ても、決してむらさき色に光ることはない。このようなれいはいくつでもあるが、かぎりがないゆえりゃくする。
 動物には雌雄しゆうによって身体の大きさの目だってちがうものもずいぶんある。獣類じゅうるいの中でも「おっとせい」のごときはおすめすしてはるかに大きく、身長は二倍以上いじょう重量じゅうりょうはほとんど十倍以上いじょうにもたつする。がいして獣類じゅうるいでは雌雄しゆうで大きさのちがう場合には、かなおすのほうが大きい。さるなどもおすのほうがめすよりも少しく大きいのがつねである。

「くもの一種」のキャプション付きの図
くもの一種いっしゅ
(大)めす (小)おす

これに反して昆虫こんちゅうるいには、おすよりもめすのほうが大きいものが多い。亭主ていしゅが小さくて細君さいくんのほうが大きいと、ぞくにこれを「のみ夫婦ふうふ」というが、実際じっさいのみにかぎらずはえでもでもめすのほうがいくらか大きい。これは一つは卵巣らんそうが大きくて、そのためはらふくれているゆえでもあろう。いね害虫がいちゅう「うんか」なども同種どうしゅのものを調べて見ると、いつもおすよりもめすのほうがいちじるしく大きい。外国にさんする「くも」るいの中にはその相違そういがさらにはなはだしく、おすはわずかにめすの十分の一にもおよばぬものがある。

五 極端きょくたんれい


 しかしながら他の動物を見ると、さらにおどろくべきほど雌雄しゆうの大きさのちがうものがある。

「寄生ふなむし」のキャプション付きの図
寄生きせいふなむし

いま二三のれいをあげて見るに、「ふなむし」、「わらじむし」のるいには他動物の体に寄生きせいする種類しゅるいがたくさんあるが、その中にはおす非常ひじょうに小さくて、一生涯いっしょうがいめすはら生殖器せいしょくきの開き口のそば付着ふちゃくしたままではなれぬようなものがある。一体かようなるいはつねづね人に知られぬものゆえ、少しく説明せつめいくわえておくが、「ふなむし」でも「わらじむし」でも体は長楕円ちょうだえん形で、その両側りょうがわから七対の足がそろうて生じ、これを用いてたくみにはい歩いている。ところが同じこのるいでも、他動物に寄生きせいする種類しゅるいでは体はえてやや丸く、足はきわめて短い代わりに、末端まったんつめ鉤状かぎじょうに曲がって容易よういにはずれぬようにできて、魚類ぎょるいの口の中やえらへん、「えび」のこう裏面りめんなどにかたくかじりついているが、図にしめした一種いっしゅでは、めすの体はほぼ円形で、その左右のふちにそうて短い小さな足が七個ななこずつ見える。しこうして腹面ふくめんの下のほうにななめいついている小虫のごときものは、この虫のおすである。おすはこのとおりあたかも犬に「だに」がいついたごとくに、めすはら固着こちゃくし、めすからはなれることなしに一生涯いっしょうがいを終わる。

「寄生けんみじんこ」のキャプション付きの図
寄生きせいけんみじんこ
(左)雌腹めすはら面より (右)おす側面そくめんより(い.おす

 天水桶てんすいおけの中などには「けんみじんこ」という小さな虫がたくさんいるが、この虫と同じ仲間なかまのもので、他動物に寄生きせいする種類しゅるいがいくらもある。上に図をかかげたのはかようなるいの中の一種いっしゅであるが、めす魚類ぎょるいえらの表面に寄生きせいし血をうて生きている。運動する必要ひつようはなく、滋養じよう物はありあまるところに住んでいるゆえ、体の形状けいじょうもいちじるしく変化へんかして、一見したところではほとんど「けんみじんこ」のるいとは思われぬ。体はえて丸くなり、「みじんこ」るい固有こゆうな体の環節かんせつは全く消えうせ、触角しょっかくも足もすべて太く短くなって、あたかも指のごとき形になっている。かようなめすの身体を腹面ふくめんからけんすると、その後端こうたんに近いところの生殖器せいしょくきの開き口のそばに、かな一匹いっぴきの小さな虫がいついているが、これがこの虫のおすである。おすのほうはめすとはちがい、やや「けんみじんこ」らしい形状けいじょうそなえているが、体の内部はほとんど睾丸こうがんでみたされているというてもよろしいほどで、その役目はただ大きなめす交接こうせつして、そのらん細胞さいぼう受精じゅせいさするだけである。めすくらべると、身長がわずかに十五分の一にも足らぬゆえ、かりめす普通ふつうの大きさの婦人ふじんにたとえれば、おすはわずかに指の長さほどの小さな男にあたるから、これなどは全動物中でも、雌雄しゆう相違そういのもっともはなはだしいものの一つであろう。

「ボネリヤ」のキャプション付きの図
ボネリヤ

 以上いじょうれいでは、おすめすくらべておどろくべきほど小さいにはちがいないが、それでもめすの身体の外面に付着ふちゃくしているゆえ、その同じ種類しゅるいおすなることがわかりやすい。しかるにる動物では、微細びさいおすが真に寄生きせい虫として一生涯いっしょうがいめすの体内にかくれている。海岸の泥砂でいさの中には、「いむし」というて、たいなどをえさとして用いられる虫がいるが、これによく種類しゅるいで、学名を「ボネリヤ」と奇態きたいな虫がある。日本の「いむし」はまるで甘藷さつまいものような形で、口より前に突出つきだしたところがほとんどなく、外国の「いむし」には口より前にさじのごとき形のふんと名づける小さな部分があるが、「ボネリヤ」ではこのふんがすこぶる長く、かつ先端せんたんが二つに分かれてあたかも丁の字のごとくに開いている。すべてこれらの虫はどろすなの中にかくれていて、水中にただよう微細びさい藻類そうるいなどを食物とするが、そのさいふんを用いてこれを集める。しかしてふんの長い種類しゅるいでは、体だけをかくふんを水中にばし、その表面にある顕微鏡けんびきょうてき繊毛せんもうを動かして、えさをしだいに口のほうへ送るのである。さて「ボネリヤ」はいくつとらえてもかなめすばかりでおす一匹いっぴきもないゆえ、昔はこの虫には実際じっさいおすがないものと思うていたが、だんだんくわしく調べて見て、ついにおすが見つけられた。しかもそのおす如何いかなるものかというに、めすとは比較ひかくにならぬほどに小さなもので、かつ形も全くこれとちがい、あたかも「ジストマ」のごとき扁平へんぺいな形をして、めす子宮しきゅうの入口に寄生きせいしている。めすの身体は長さが五寸ごすん(注:15cm)もあるが、おすのほうはわずかに一分いちぶの二分の一(注:1.5mm)にも足らぬから、おすめすの体内に寄生きせいしているありさまはあたかも五尺ごしゃく(注:1.5m)の人間に五分(注:1.5cm)の虫が寄生きせいしているのと同じ割合わりあいによりあたらぬ。おすは体の構造こうぞう簡単かんたんで、ちょうもなく、体内にはほとんど睾丸こうがんがあるのみにぎぬ。
 以上いじょうべたとおり、雌雄しゆうべつには種々しゅしゅ程度ていどがあって、全くべつのないものから、交接器こうせつきだけの相違そういするもの、ほとんど別種べっしゅかと思われるもの、おすめすの体内に寄生きせいするものまでの間には、実に無数むすう階段かいだんがある。しこうして雌雄しゆう程度ていど相違そういがあれば、したがって受精じゅせい方法ほうほう雌雄しゆうたがいの関係かんけいもいちいちことならざるをぬが、いずれの場合にも種族しゅぞく維持いじ差支さしつかえを生ぜぬという点だけはみなあいひとしい。言をかえれば、雌雄しゆう差別さべつ種々しゅしゅ程度ていどのあるのも、ひっきょう同一の目的もくてきをとげるためのことなった手段しゅだんというにぎぬ。「うに」の雌雄しゆうがおのおの勝手に生殖せいしょく細胞さいぼうき出しているのも、犬やねこおす熱心ねっしんめすを追い歩くのも、「ボネリヤ」のおすめすはらの内に生涯しょうがい寄生きせいしているのも、結局けっきょく受精じゅせい目的もくてきである。いずれの方法ほうほうにも一得いっとく一失いっしつあるをまぬがれぬが、得失とくしつ差引さしひ勘定かんじょうして、種族しゅぞく維持いじ見込みこみが十分に立てばいずれの方法ほうほうでもよろしいゆえ、各種かくしゅの動物はそれぞれの住所習性しゅうせいおうじた方法ほうほうをとっているのである。人間などは、直接ちょくせつ生殖せいしょく関係かんけいする体部のほかは男女ほとんど同形であり、かつ身体をあいれて体内受精じゅせいを行なうゆえ、社会の制度せいどでも道徳どうとく法律ほうりつでも、ことごとくこれにじゅんじてできているが、かり受精じゅせい方法ほうほう雌雄しゆう相違そうい程度ていどなどの全くちがう世の中を想像そうぞうしたならば如何いかであろうか。たとえば「うに」のごとくに、両親があいれぬとしたら如何いかに。もしくは「寄生きせいみじんこ」のごとくに、男が女の付属ふぞく物のごとくであったら如何いかに。かかる想像そうぞう無益むえきおろかなことと考えられるかも知らぬが、およそ物はほどほどのあいことなった場合を比較ひかくして見て、はじめて真相のわかることも多いゆえ、あるいはこれによってかえって人間の社会てき生活の根底こんていを知ることができるやも知れぬ。


第十二章 恋愛れんあい


 たまご精虫せいちゅうとを出遇であわせる方法ほうほうは実にさまざまであって、そのため親なる動物に種々しゅしゅ器官きかんそなわっていることは、前の章にべたとおりであるが、ただ設備せつびがととのうているだけでは何のこうもない。かなずこれを使用せずには我慢がまんができぬというきわめて強い本能ほんのうがこれにともなわねばならぬ。世に恋愛れんあいと名づけるものの根底こんていはすなわちここにそんする。この本能ほんのう満足まんぞくせしめるためには、動物は如何いかなる危険きけんをもおかし、如何いかなる妨害ぼうがいにもうち勝ち、往々おうおう命をもててかえりみぬが、かく種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくは、ただこの本能ほんのう満足まんぞくによってのみ行なわれべきことを思えば、これも決して無理むりでない。かく個体こたいがこの本能ほんのう満足まんぞくせしめるかいなかは、実はその個体こたいのみにかんする問題ではなく、種族しゅぞくの生命がつづくかえるかが、それによって決するのであるから、種族しゅぞくにとっては実に随一ずいいちの大問題である。もとよりかく種族しゅぞくの内には個体こたいが数多くあることゆえ、かなずしも一個いっこ一個いっこがことごとく子をのこさねば種族しゅぞく断絶だんぜつするというわけではないが、もしもかく個体こたいにこの本能ほんのうが強く発達はったつせず、したがってこの問題に対して冷淡れいたんであったならば、種族しゅぞくがたちまちえることはきわめて明らかである。

「恋愛鳥」のキャプション付きの図
恋愛れんあい

雌雄しゆうの間の恋愛れんあいてき挙動きょどうのとくにめだつれい鳥類ちょうるいに数多くあるが、そのなかでも「いんこ」の一種いっしゅで「恋愛れんあい鳥」と名づけるものは雌雄しゆう瞬時しゅんじもはなれず、しじゆう接吻せっぷんばかりしている。はとなどもおすめすとはくちばしをたがいにあいせつしてめ合うているのをつねに見かける。されば動物界におけるすべての動作の原動力は、一は個体こたい維持いじ目的もくてきとする食欲しょくよく、一は種族しゅぞく維持いじ目的もくてきとする色欲しきよくであって、追うのもげるのもたたかうのもたわむれるのもかなずこの二欲によくのいずれかが原因げんいんとなっている。しこうしてこのよく満足まんぞくせしめねばまぬことは、かく個体こたいの持って生まれた本能ほんのうであって、とうてい長くこれをおさえることはできぬ。動物の挙動きょどうを見ると、あたかもたまご精虫せいちゅうとにあやつられているごとくであるとは前に一度べたが、雌雄しゆうの間に行なわれる種々しゅしゅの動作を通覧つうらんすると、いよいよその感じが深くなり、かく個体こたいはそれぞれ自分の意志いしによって活動しているごとくに見えながら、実は何物かに動かされているのであろうと考えざるをない。すなわち、たまご精虫せいちゅうとが種族しゅぞくからの依頼いらいを受け、その維持いじ継続けいぞくをはかるためにかく個体こたい操縦そうじゅうしているかのごとくに思われる。しかし個体こたいはなれてべつ種族しゅぞくなるものはないから、種族しゅぞく依頼いらいと見ゆるものは、やはりかく個体こたい神経系しんけいけいまたは原形質げんけいしつ構造こうぞう成分せいぶん等にもとづく意識いしきはたらきと見なさねばならぬが、かくろんずると、恋愛れんあいなるものの根底こんてい意識いしき範囲はんいぞくし、そのはたらきの意識いしきせられる部分を恋愛れんあいと名づけているのであろう。本章においてこれよりくところは、諸種しょしゅの動物に見る恋愛れんあいのありさまであるが、その中には意識いしきのごとくに見えるものもあり、意識いしきあるごとくに見えるものもあり、その中間にあるものもあって、判然はんぜんと分けることはできぬ。しかし種々しゅしゅことなった場合を集めて比較ひかくして見ると、そもそも恋愛れんあいの始まるところから、そのもっともいちじるしくなるところまでの進歩の道筋みちすじがいくぶんかさつせられるであろう。

一 細胞さいぼうこい


「うに」、「ひとで」、「なまこ」のるい生殖せいしょくするにあたって雌雄しゆうあいれることなく、おのおの勝手に生殖せいしょく細胞さいぼうき出すだけであるが、かような動物では雌雄しゆうあい近よる必要ひつようがないゆえ、その間にすこしも恋愛れんあいはない。たがいにあい近づこうとよくするのは、恋愛れんあいの第一歩であるゆえ、近づくことをよくせぬようでは恋愛れんあいはまるで問題にならぬ。しかも恋愛れんあいがなくても、一部のたまご精虫せいちゅうとがどこかでかなあい出遇であうて受精じゅせいするのは何の力によるかというに、これはやはり一種いっしゅ恋愛れんあいである。ただし個体こたい間の恋愛れんあいではなくて細胞さいぼう間の恋愛れんあいであるから、親からいうと意識いしき恋愛れんあいで、親の意志いしとは全く無関係むかんけいである。すなわち海水中で、らん細胞さいぼう精虫せいちゅうとが偶然ぐうぜんあい近づけば、精虫せいちゅうは急いでらん細胞さいぼうおよぎつき、らん細胞さいぼうからは歓迎かんげい突起とっきをだして直ちに相合あいあいしてしまう。すでに親の体をはなれた後のことゆえ、親はその合同を助けることもできねばめることもできぬ。
 かくのごとき異性いせい生殖せいしょく細胞さいぼう間の恋愛れんあいはけっして「うに」や「なまこ」のような個体こたい間に恋愛れんあいのない種類しゅるいにかぎるわけではなく、いかなる動物、植物でもいやしくも有性ゆうせい生殖せいしょくいとな以上いじょうは、そのらん細胞さいぼう精虫せいちゅうとの間にはかなず強い恋愛れんあいがある。受精じゅせいによって新たな一個体いっこたいの生ずるには、らん細胞さいぼう精虫せいちゅうとが、体と体と合しかくかくと合して、真に一個いっこ細胞さいぼうとなることが必要ひつようであるゆえ、如何いかたまご精虫せいちゅうとを出遇であわしめる仕組みが完全かんぜんにできていても、肝心かんじんの両細胞さいぼう相合あいあいしなかったならば何の役にも立たぬ。あたかも如何いかに他人がほねって男女を出遇であわせても、当人とうにんらにその心がなければとうてい子ができぬのと同じ理屈りくつである。それゆえ如何いかなる生物でも、生殖せいしょく細胞さいぼう間の恋愛れんあい必要ひつようであるが、これはいつも個体こたい意志いしとはべつで、その当人とうにんといえども如何どうともすることはできぬ。たとえば如何いか道徳どうとく堅固けんご聖僧せいそうでもその精虫せいちゅうらん細胞さいぼうのそばへ持ちゆけば、かなず直ちにこれにき入るであろう。また如何いか貞操ていそうほまれれ高い婦人ふじんでも、そのらん細胞さいぼう周囲しゅうい精虫せいちゅうが集まってくれば、たちまち表面から突起とっきをだして先着者をむかえるであろう。これは当人とうにんからいえば意識いしき範囲はんいぞくすることで、如何いかなる念力ねんりきをもっても止めることはおそらく不可能ふかのうであろう。生殖せいしょく細胞さいぼうたがいにあい近づいた以上いじょうは、細胞さいぼう間の恋愛れんあいによってかな受精じゅせいするが、そこまで確実かくじつあい近よらしめるためには、種々しゅしゅ手段しゅだんをとらねばならぬ。個体こたい間の恋愛れんあいは、この目的もくてきのために生じたものである。
 恋愛れんあいする動物を有情ゆうじょうと見なせば、恋愛れんあいを知らぬものは当然とうぜんこれを非情ひじょうと名づけねばならぬが、水中にさんする動物には非情ひじょう種類しゅるいが決して少なくない。「うに」、「ひとで」、「なまこ」るいのほかにはまぐり、「あさり」、しじみのごとき二枚貝にまいがいるい、「くらげ」のるい、「さんご」のるい、その他海のそこには生涯しょうがい固着こちゃくして動かぬ動物が数多くあるが、これらはのこらず非情ひじょうの部にぞくする。同じ貝類かいるいの中でも「さざえ」、「たにし」、「ほらがい」などのごとき巻貝まきがいるいは、雌雄しゆうあいもとめて体内受精じゅせいを行ない、「たにし」や「にな」は形のそなわった大きな子を胎生たいせいするが、はまぐりしじみるいは全く「うに」、「なまこ」などと同じく、めすおすとがおのおの勝手に生殖せいしょく細胞さいぼうき出すだけゆえ、親と親との間に少しも恋愛れんあいはない。恋愛れんあいには二匹にひきあい近づくをようし、あい近づくには運動が必要ひつようであるゆえ、動かぬ動物はとうてい恋愛れんあいをする資格しかくがない。「くらげ」るいは動くことは動くが、ただかさ開閉かいへいして水をあおぎ、その反動によって方角を定めずただようにすぎぬゆえ、目的もくてきをうかがうてこれに近づくことはできぬ。また「さんご」や「いそぎんちゃく」のるいでは、おすき出した精虫せいちゅうは水に流されてめすの体に近づき、その口より体内にはいってたまごと合する。「いそぎんちゃく」には胎生たいせいする種類しゅるいもあるが、たまご受精じゅせいし発育するのも食物が消化せられるのも同じ場所であるから、かようなるいでは子宮しきゅうとの区別くべつがないことにあたる。子は成熟せいじゅくして親と同じ形になると、口からみ出される。すべて非情ひじょうの動物では、親はたん生殖せいしょく細胞さいぼうき出すだけで、その後は運を天にまかせておくのであるから、まつ銀杏いちようなどが花粉かふんを風にばさせるのと全く同様である。
 虫媒ちゅうばい植物の花には美しい色やよいかおりのものが多いが、これは昆虫こんちゅうさそうて花粉かふん運搬うんぱんさせるためのものゆえ、やはり広い意味の恋愛れんあい現象げんしょう範囲はんい内にぞくする。しかし動物界における色やかおりがつねに同種類しゅるい異性いせいの注意を引くためのものなるに反し、植物の花はただこれによってあまみつのある場所を昆虫こんちゅうしめし、美しい色、よいかおりの花にさえゆけば、自分の食欲しょくよく満足まんぞくせしめることができるとおぼえこませ、相手の本能ほんのう利用りようして、当方の花粉かふんを知らずしらず運ばせるのであるから、有情ゆうじょう[#「有情」は底本では「友情」]恋愛れんあいとは全くおもむきちがう。自身の精虫せいちゅうを他の生物にたくして、先方までとどけしめるものは、動物のほうには一種いっしゅもない。
 さて細胞さいぼう間のこい如何いかにして起こったものかというに、その真の原因げんいんはいっこうわからぬが、たん細胞さいぼうの原始動物にも、すでにそのそんすることは明らかである。系統けいとうことにする「ぞうりむし」が、おのおの相手をもとめて二匹にひきずつ接合せつごうするのは、すなわち細胞さいぼう間の恋愛れんあい実現じつげんで、夜光虫でも「つりがねむし」でも接合せつごうをする以上いじょうは、かなずこの本能ほんのうそなえている。しこうしてあい接合せつごうする二細胞にさいぼうの間に分業が起こり、一は大きく重く一は小さく軽くなると、重いほうは動かずに待ち、軽いほうが進んで近づくが、この相違そういがそのきわみたつすると、一方は明らかにらん細胞さいぼう一方は明らかに精虫せいちゅうと名づくべきものとなる。たん細胞さいぼう動物ではかく個体こたいの全身がただ一個いっこ細胞さいぼうよりるゆえ、接合せつごうする二匹にひきは全身があるいはたまごあるいは精虫せいちゅうの形を有せざるをぬが、普通ふつうの動物では身体は無数むすう細胞さいぼうよりなり、生殖せいしょくの役をつとめるのはわずかにその一部なる生殖せいしょく細胞さいぼうのみにかぎるゆえ、細胞さいぼう間の恋愛れんあいもただこれらの細胞さいぼうのみにつたわり、他の細胞さいぼうたん分裂ぶんれつによって、無性むせいてきに数をるのみとなったのであろう。

二 暴力ぼうりょく


 らん細胞さいぼう精虫せいちゅうとの間には細胞さいぼうこいがあってたがいにあいもとめることは、前にべたとおりであるが、この両種りょうしゅ生殖せいしょく細胞さいぼうあい近づかしめるためには、かなずしも雌雄しゆうの両個体こたいともに、相手に対する恋愛れんあいそなわらねばならぬということはない。こうおつ二個体にこたい双方そうほうからあいしたえば、直ちにあい接触せっしょくることはむろんであるが、かりこうが全く冷淡れいたんであるとしても、おつに強い恋愛れんあいがあれば結局けっきょく二匹にひきあい接蝕せっしょくすることになる。またこうおつをきらうてげ去ろうとしても、おつこうをして止むをず意にしたがわしめるだけの猛烈もうれつ恋愛れんあいがあれば、それでもたしかに二者の接触せっしょくが生ずる。動物界における雌雄しゆうの間の関係かんけいは実にさまざまであって、たがいにあいしたうものももとより多いが、おす暴力ぼうりょくをもってめす屈服くっぷくせしめ、強制きょうせいてき受精じゅせいを行なわせるのも決してめずらしくはない。とく獣類じゅうるい昆虫こんちゅうるいにはそのれいがいくらでもある。猿類えんるいのごときも往々おうおうこの方法ほうほうを用いる。

「ロシア産のくも類の一種」のキャプション付きの図
ロシアさんのくもるい一種いっしゅ

 一例いちれいとしてロシアの東部にさんする一種いっしゅの「くも」にた虫について、る人のくわしく観察かんさつしたところをべてみるに、この虫ではおす不意ふいめすおそうてそのはらを強くかむと、めすは直ちに気絶きぜつして半死の状態じょうたいとなり、全く抵抗ていこう力をうしなうが、おすはかく無抵抗むていこうになっためすの体をころがして、はらを上に向けしめ、その一方にある生殖せいしょくあなの中へ、自身の触足しょくあしを用いて思うがままに何回も精虫せいちゅうを入れる。かくてやや時刻じこくうつると、めすは正気に返り体の位置いちをもとにもどすが、おすはこれを見るや急いでげてしまう。何故なぜというにめすおすよりも体が大きく力も強く、かつすこぶる食をむさぼるものゆえ、おすといえどもその付近ふきん徘徊はいかいしていては至極しごく危険きけんなためである。これにるいする方法ほうほう受精じゅせいする種類しゅるいはなお他にも多くあるが、これらから見ると、自然じぜんは実に目的もくてきのためには手段しゅだんえらばぬもののように感ぜられ、結局けっきょく種族しゅぞく維持いじができさえすれば、そのために如何いかなる方法ほうほう受精じゅせいが行なわれようとも、それは各種かくしゅ習性しゅうせいにしたがい、適宜てきぎなもので差支さしつかえがないのであろう。種々しゅしゅの動物の身体を検査けんさして見ると、おすの身体にめすとらえてはなさぬための装置そうちを見いだすことがすこぶる多いが、これはたいがい強制きょうせいてきめすをして受精じゅせい承諾しょうだくせしめるためのものである。「げんごろう虫」のおすの前足の吸盤きゅうばんでも、おすかえるの前足にある皮膚ひふのざらざらしたこぶでも、みなこの目的もくてきに用いられる器官きかんである。
 獣類じゅうるいおすも多くは強制きょうせいてきめす服従ふくじゅうせしめるもので、あるいは追いまわしたり追いつめてこれをかんだりいたりったり、ずいぶんはなはだしい残酷ざんこくな目にあわせ、ついにめすをして抵抗ていこう断念だんねんするの止むなきにいたらしめる。これはおそらく無意味むいみなことではなく、その種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくにとってなにか有益ゆうえきな点があるのであろう。くわしいことはわからぬが、受精じゅせいのよく行なわれるためにはまず雌雄しゆう生殖器せいしょくき神経系しんけいけいも、それに都合つごうのよい状態じょうたいにならねばならぬが、おすが追いめすが追われなどしている間にこれらの器官きかん受精じゅせいを行なうにてきする状態じょうたいたつするのではなかろうか。もしさようであるとすれば、他から見て残酷ざんこくに見える所行しよぎようは実は受精じゅせいのための準備じゅんびである。雌雄しゆうちょう出遇であうても、決してすぐには交尾こうびせず、長い間あいたむわれているが、これも受精じゅせいを行なうにてきするまでに身体を準備じゅんびしているのであろう。動物園で獅子ししとら交尾こうびする前には、かなえたりかみ合うたりして、夫婦ふうふ大喧嘩おおげんかをするのもこれと同様で、ちょうが平和にあいたわむれるのも獅子しし残酷ざんこくにかみ合うのも目的もくてきは同じである。とく獣類じゅうるい受精じゅせい暴力ぼうりょくによって行なわれる場合には、代々もっとも強いおすしゅのこるわけとなって、種族しゅぞく発展はってんの上にもいくぶんかよい結果けっかを生ずるであろう。
 なお動物の種類しゅるいによっては、真に暴力ぼうりょくを用いるのでなく、ただ形式だけ暴力ぼうりょくを用いる真似まねをするものがある。これはむろん一種いっしゅのたわむれであるが、小鳥類ことりるいなどを見ると、往々おうおうめすおすが追いながら、ここかしことびまわっている。しかもげる者は決して真にげるつもりではなく、ただ交尾こうびまでに若干じゃっかんの時間を愉快ゆかいについやして、受精じゅせい準備じゅんびをするだけである。かような場合には、めす往々おうおう一時おすの見えぬところへかくれることがあるが、おすが直ちに見つければさらに他へげ、もしおすが近所ばかりをさがして容易よういに見つけぬと、めすはちょっと頭を出し、自分のいるところをおすに知らせてふたたかくれて待っている。すなわち子供こどもらのする「かくれんぼう」の遊戯ゆうぎと全く同じようなことをしてたわむれているのであるが、形式だけはおすは追いめすげ、ついに追いつめられて相手の意にしたがうような体裁ていさいになっている。これはただ一例いちれいにすぎぬが、鳥類ちょうるい獣類じゅうるいにはめすのならんでいる前で、おす戦争せんそう真似まねをして見せるものの少なくないことなどを考えると、真におす暴力ぼうりょくを用いるものから、さまざまの平和てき手段しゅだんによってめすをしてよろこんでおす要求ようきゅうおうずるにいたらしめるものまでの間には無数むすう階段かいだんがあり、しかもその目的もくてきはいずれの場合にも同一であって、ただ種族しゅぞく維持いじのために受精じゅせい完全かんぜんに行なわしめるにあることが知られる。

三 色とかおり


 雌雄しゆうの動物がたがいにあい近づくために、自己じこしめして相手の注意を引くには、感覚かんかくの力にうったえるのほかにみちはないが、そのさい如何いかなる感覚かんかくが主として用いられるかは、もとより動物の種類しゅるいによってちがう。のよく発達はったつした種類しゅるいならば、色や模様もようにより、耳のよく発達はったつした種類しゅるいならば、音声により、鼻のよく発達はったつした種類しゅるいならば、かおりによるのがつねで、おすが美しい色をしめせば、めすはこれを見てしたい来たり、めすがよいかおりを発すれば、おすはこれに引かれて集まる。鳥類ちょうるいと耳とがよく発達はったつして、なかでも視力しりょくは動物中の一番にくらいするが、鼻の感覚かんかくはあまりするどくない。それゆえ美しい色とよい声とで相手をさそうものはあるが、かおりを発するものはほとんどない。これに反して、獣類じゅうるいは鼻が非常ひじょうによく発達はったつして、ずいぶん遠くからでもかおりぎつける。犬が探偵たんていに用いられ、鹿しかが風上の猟師りょうしを知るのはこのためである。普通ふつう獣類じゅうるいの鼻の切り口を見ると、神経しんけいの広がっている粘膜ねんまくはあたかも唐草からくさのごとくに複雑ふくざつなひだをなして、その空気にれる面積めんせきは実におどろくべく広いが、これによってもそのぐ力の非凡ひぼんなことが推察すいさつせられる。されば獣類じゅうるいにはかおりを発して異性いせいを引きよせるもののすこぶる多いのも不思議ふしぎでない。人間ももし鼻の内面の粘膜ねんまくが犬などのごとくに複雑ふくざつなひだをなして、きゆう感が犬のごとくにするどかったならば、かなず絵画、彫刻ちょうこく詩歌しいか音曲おんぎょくよりもさらにいっそう高尚こうしょうかおり美術びじゅつができたに相違そういないが、人間の嗅感きゅうかくきわめてにぶいゆえ、美術びじゅつといえばほとんど目と耳とにうったえるものにかぎり、ついに鼻で味わう美術びじゅつ発達はったつするにはいたらなかった。昆虫こんちゅうるいなどには、音やかおりによって雌雄しゆうあい近づく種類しゅるいがすこぶる多くあるが、はるかに下等の動物には神経系しんけいけい構造こうぞう簡単かんたんで、感覚かんかく発達はったつ不完全ふかんぜんであるゆえ、両性りょうせいあいさそうために特殊とくしゅ手段しゅだんはあまり行なわれぬようである。
 まず色によって相手をさそうもののれいをあげて見るに、魚類ぎょるいの中には産卵さんらん期が近づくととくに体色が美麗びれいになって、いちじるしくつやすものがある。魚学者はこれを「婚礼こんれい衣装いしょう」と名づける。めすがこのためにさそわれるかいなかはいささか疑問ぎもんであるが、かように美しくなったおすかなめすを追いまわし、自身の体をめすの体にすりつけなどして、ついにめすをしてこのんでたまごむにいたらしめるから、やはり一種いっしゅさそいと見なしてよろしかろう。淡水たんすいさんする「たなご」、「おいかわ」のごとき普通ふつう魚類ぎょるいもこのれいである。

「さんしょううお (左)雌 (右)雄」のキャプション付きの図
さんしょううお (左)めす (右)おす

また「さんしょううお」のるいにも産卵さんらん期が近づくと、おすにそうてひれのごときひだが生じ、はばも広くなって、体色もいちじるしく美しくなるものがあるが、これも色によって相手をさそ一例いちれいである。かようなれいはなおいくらもあるが、動物中でもっとも美しい色をもって異性いせいの注意をもとめるものは何かと問えば、これはいうまでもなくちょうと鳥とであろう。しかし感覚かんかくの力の進んだ動物では、雌雄しゆうあいさそうにあたってもたん一種いっしゅ感覚かんかくのみにたよることはまれで、多くは種々しゅしゅ感覚かんかくに合わせうったえ、美しい色をしめすと同時に、よい声を聞かせおもしろいおどりを見せなどするもので、鳥類ちょうるいのごときもその動作のすこぶるこみいった場合もあるゆえ、これはさらに次のせつべることとしてここにはりゃくする。
 かおりによって雌雄しゆうあいさそれい獣類じゅうるいにはすこぶる多い。おす犬が如何いかめす犬のかおりに引きよせられて夢中むちゅうになるかは、つねに人の知るとおりであるが、たいがいのけものは犬と同じく、めすかおりさそわれる。「いたち」のるいを「わな」でとらえるにあたって、めすかおりをつけておくと、幾匹いくひきもつづいてかかる。またおすのほうが強いかおりを発してめすじょうを起こさせるもので、もっとも有名なのは「麝香鹿じやこうじか」であるが、そのにおう物質ぶしつ香料こうりょうとして人間にも用いられる。「海狸かいり」もこれにかおりを発するので知られているが、なおそのほかに「麝香じゃこうねこ」、「麝香じゃこうねずみ」などみなかおりから名前がつけられたのである。

「蝶の香毛」のキャプション付きの図
ちょうかおり

昆虫こんちゅうるいかおりをもって異性いせいさそうものはちょうるいに多い。ちょうは昼間びまわるゆえ、花のあたりでめすおすとが出遇であ機会きかいが多いが、は夜暗い時にぶゆえ、かおりによってたがいにその所在しょざいを知ることが必要ひつようである。かいこなどもめす生殖せいしょく門のところに小さなかおりを出すせんがあり、おすはこのかおりしたうて集まってくる。る人がためしにこの部だけを切りはなしておいたところが、そばへよってきたおすは、めすの体のほうにはすこしもかまわず、切りはなされたこの体部と交尾こうびしようとこころみた。昆虫こんちゅう学者はのこのさが利用りようし、めすおとりとして、往々おうおうめずらしい種類しゅるいおすを一夜に数尾すうびとらえることがある。たださがして歩いては滅多めったに見つからぬおすが、室内にうてあるめす周囲しゅうい百匹ひゃっぴき以上いじょうも集まってくることがあるが、ずいぶん遠方からかぎつけてくるものにちがいない。甲虫類こうちゅうるいでも、「こがね虫」などは触角しょっかく嗅感きゅうかんがよく発達はったつしているゆえ、かおりによってめす居所いばしょを知る力がきわめてするどい。かかるかおりはよほど長くのこるものと見えて、かつて一年も前にめすを入れたことのある空箱へ、おすがよってくることさえ往々おうおうある。
 色でもかおりでもけっしてたん異性いせい居所いばしょを知らせ合うためばかりではない。前のれいによっても知れるとおり、だいたいの場合にはこれによりて相手の本能ほんのうび起こし、その満足まんぞくよくせしめることができる。生殖せいしょく細胞さいぼう出遇であわせたいという本能ほんのうは、如何いかなる動物にもそなわってあるが、この本能ほんのうはいつでもはたらいているわけではなく、生殖せいしょく細胞さいぼう成熟せいじゅくするころだけいちじるしくあらわれる。しこうしてそのさい特殊とくしゅ感覚かんかくを通じて刺激しげきをあたえると、本能ほんのうが急に猛烈もうれつはたらいて、これを満足まんぞくせずにはいられぬという程度ていどまでにあがる。獣類じゅうるい蛾類がるいなどの発するかおりは、主としてこの意味のものである。人間でもかおり性欲せいよく興奮こうふんとの間には密接みっせつ関係かんけいがあるが、人間は獣類じゅうるいでありながらとくに鼻の粘膜ねんまく面積めんせきせまく、したがって嗅感しゅうかんがすこぶるにぶいゆえ、とうてい他の動物における嗅覚しゅうかくはたらきを正当にさつし知ることはできぬ。

四 歌とおどり


 動物の中でたくみに歌を歌うものは鳥類ちょうるい虫類むしるいとであるが、その他にも多少歌うものはいくらもある。

「手長猿」のキャプション付きの図
手長猿てながさる

獣類じゅうるいでは手長猿てながさるなどが調子を十一段じゅういちだんにも上下してあたかも音階を練習するごとくに歌う。かえるるいがやかましく鳴くことは人の知るとおりであるが、熱帯ねつたい地方ではえだで「とかげ」のるいがなかなかよく歌う。かように歌うものはずいぶんたくさんあるが、それがいずれもおすだけであることを考えると、その生殖せいしょくはたらきと何らかの関係かんけいを有するものなることが、はじめからさつせられる。
 昆虫こんちゅうの中で一番大きな声で鳴くのは'蝉せみであるが、おすの鳴いているところをながめていると、どこからかめすんできてそのそばに止まり、しばらく上下にうたりしておすの来たりせつするのを待っているごとくである。「すずむし」、「まつむし」などもおすがしきりに鳴きつづけていると、そのうちにかなめす近寄ちかよってくる。昆虫こんちゅうの中には'蝉せみのごとくにとくに発声だけの器官きかんをそなえたもの、「すずむし」、「まつむし」などのごとくにはねをすり合わせて美音を発するもののほかに、あごで物を打ってひびきを生ずるものがまれにある。しずかな古座敷ざしき障子しょうじちりのたまっているようなところには、往々おうおうかようなるいの小虫がいるが、おすひびきを生じはじめるとめすひびきを生じてこれに答え、次第しだい次第しだいあい近づく。ただし音声もかおりなどと同じく、たんに相手に自分の居所いばしょを知らしめるためではなく、主として相手の本能ほんのうび起こし、先方より進んでその満足まんぞくもとめしむるにいたるためである。鳥類ちょうるいでも獣類じゅうるいでも交尾こうび期には鳴声なきごえをたくみにまねすると、容易よういとらえることのできるものが多いのも、全くこれに原因げんいんする。鹿しかなどもそのころになると、笛のごときやさしい鳴声を発するが、これにした笛をくと、雌雄しゆうともに熱心ねっしんに耳をかたむけ急に本能ほんのうの力が猛烈もうれつはたらき出すように見える。
 鳥類ちょうるいおすめすの前で奇態きたい挙動きょどうをして見せることは、普通ふつうに人の知っているれいがいくつもある。七面鳥のおすなどもつねに全身の羽毛を立てて体を大きく見せ、めすの面前を如何いかにも強そうにいかめしく歩きながらときどき一種いっしゅひびきを発するが、これはまったくめすを感動せしめることを目的もくてきとするらしい。孔雀くじゃくおすがときどきその美しいを開いてめすに見せびらかすのもこれと同じことである。

「風鳥」のキャプション付きの図
風鳥ふうちょう

南洋にさんする「風鳥ふうちょう」のるいおすは羽毛のきわめて美しいものであるが、産卵さんらん期にはおすめすの前でわざわざつばさをひろげ美しい羽毛を左右に開いて見せる。動物園にうてある駝鳥だちょうおすもときどきめすの前にひざくびを後に曲げ、頭を左右にって奇態きたい姿勢しせいをとる。

「アルグス雉子」のキャプション付きの図
アルグス雉子きじ

東インドの島にさんする「アルグス」という大きな雉子きじは、ときどき両翼りょうよくを半円形に開きあたかも孔雀くじゃくひろげた時のごとき形をしてめすしめすが、その目的もくてきもむろん同じであろう。「アルグス」という名前は昔の西洋の神話からとったもので、がんらい百のを有し、同時に二つずつよりねむらぬというきわめてずの番にてきした怪物かいぶつの名前である。女神「ジュノー」が、そのおっと「ジュピター」の挙動きょどう監視かんしさせるためにつけておいたところが、睡薬すいみんやくのために百のがみなねむって職責しょくせきを全うすることができなかったので、「ジュノー」はおこってそののこらずけずりとり、これを孔雀くじゃくにうつしたと言いつたえられている。それゆえ、「アルグス雉子きじ」のつばさの羽には眼玉めだまいたあとが白茶色にたくさんのこっている。孔雀くじゃくの緑色に光りかがやくのにくらべて、かえって高尚こうしょうおもむきが多い。
「小屋鳥の一種」のキャプション付きの図
小屋鳥の一種いっしゅ
このるいはオーストラリア地方にさんする。大のえだを組み合わせてやや広き遊び小屋をつくり,美しき貝殻かいがら,花,玉虫,ガラスの破片はへんなどにてここれをかざり立て,そのなかにて雌雄しゆうともおどり楽しむ。べつにあり。

 以上いじょうのごとき特殊とくしゅ挙動きょどうをするものは鳥類ちょうるいにははなはだ多くあるが、そのほかになお面白い舞踊ぶとうをする種類しゅるいがある。そのもっとも著名ちょめいなのは、オーストラリアにさんする「小屋鳥」と名づけるるいで、この鳥は普通ふつうのほかにおどりをするための遊び場所を定め、または遊び小屋をこしらえる。

「小屋鳥の踊り場」のキャプション付きの図
小屋鳥のおどり場

おどり場所を定めておど種類しゅるいでは、まず樹木じゅもくかげになる平坦へいたんな地面をえらび、よく掃除そうじして清潔せいけつにし、裏面りめんの銀色に光る大きな木の葉などを集めてきて、裏面りめんを上に向けて適宜てきぎにこれをならべかざり、場所の周囲しゅういには白くなった蝸牛かたつむりからほねなどをらしておく。また小屋のつくりようは種類しゅるいによって少しずつちがうが、まずえだを多く集め、これをみつに組み合わせてゆかつくり、その両側りょうがわにはやや細長いえだをならべ立て、えだの上部をたがいに組みせて屋根とする。面白いことには、この鳥はさまざまのものを用いて小屋をできるだけかざりたてる。たとえば、鸚哥いんこ尾羽おはの赤いのや青いのをえだの間にはさみ、美しい貝殻かいがらやガラスの破片はへん、光った石などを入口の前にならべたりするが、往々おうおう土人の住家すみかからさらってくることもある。土人は鳥のこの習性しゅうせいを知っているゆえ、なにか美しい色の物が紛失ふんしつすると、また小屋鳥がぬすんでいったのではないかと、小屋のところへさがしにゆくが、たいがいはそこで見つかるという。また美しい色の花を用いて小屋をかざるが、これは毎日しおれると新しいのと取りえ、古い花は小屋のうしろへてる。鳥の大きさは多くはからすより小さく、小屋は大きなのも小さなのもあるが、まず二三尺にさんしゃく(注:60〜90cm)くらいのが多い。さてこの小屋は何の役に立つかというに、まったく娯楽ごらくのためで、雌雄しゆうは小屋にはいったり出たりしておどり、たがいに追いまわしたりして遊ぶうちに結局けっきょくめすよろこんでおすの意にしたがうようになるのである。

「鳥の踊り」のキャプション付きの図
鳥のおど

 獣類じゅうるいの中にも、おすおどってめすに見せるものがある。「かもしか」るいはそのれいであって、おすめすの集まっている前で高くおどりあがったりねまわったりする。たてがみのある種類しゅるいでは、そのさい毛がまいい立って見事になる。またおすめすの前でたわむれに喧嘩けんかのまねをして見せる種類しゅるいがいくらもあるが、めすはこれを見ている間に本能ほんのうび起こされ、おどりのすむころにはみずから進んでいずれかのおすしたがうてゆく。いったい獣類じゅうるいには交尾こうび期になると、めすうばい合うために、おす真剣しんけんに勝負し、ついに一方が死ぬほどの場合が多くあるが、かようなさいには、めすはそばから熱心ねっしんにこれを見物している。こうしてそのうちにだんだんじょうが起こってきて、時とすると偶然ぐうぜんその場所へ来合わせた他のおすのところへよりうて行くことさえある。これらの事から考えて見ると、鳥やけものなどのごとき神経系しんけいけい発達はったつした高等の動物では、争闘そうとう色情しきじょうとの間には密接みっせつ関係かんけいがあって、戦争せんそうしたおどりをやって見せてもじょうを起こさせることのできる場合があり、さらに転じては相手なしにひとりでたたかいの身振みぶりをえんじて見せても、同じ目的もくてきたつるにいたったのではなかろうか。鳥やけものおどりは如何いかにして起こったものか、その原因げんいんはけっして一とおりではないかも知れぬが、少なくもその一部分はたたかいの真似まねにはじまったことはよほど真らしい。人間でも野蛮人やばんじんおどりにはたたかいの真似まねが多く、しかもこれを女の前でして見せるのは、すこぶる獣類じゅうるいなどのおどりによくている。また精神せいしん病者の中には、相手を残酷ざんこくな目にわすか、自分が残酷ざんこくな目にうかして、はじめてじょう満足まんぞくるものがあるが、これなども多少獣類じゅうるいるものにたところがある。

「くもの踊り」のキャプション付きの図
くものおど

 小さな虫の中では、「くも」るいおすめすの前で種々しゅしゅ奇妙きみょうおどりをやって見せる。しりを上げたり体をったり左右へおどったりして、長い間めすの注意をうながすが、その挙動きょどうは左にかかげた図でもわかるとおり、実になんともいえぬ滑稽こっけいなものである。がんらい「くも」るいは肉食するもので、つねには雌雄しゆうといえどもあいはなれて生活し、めす滋養じよう分をふくんだたまごを多くまねばならぬゆえ、ずいぶん貪食どんしょくくせがあり、動くものには何にでもびかかるゆえ、おすもこれに近づくことはすこぶる危険きけんである。おす奇妙きみょうおどりをするのは、これによって、つねに食欲しょくよくのためにかくされている色欲しきよくをよび起こし、おすの近づくのをゆるすまでに心をやわらげるためであろう。

五 縁組えんぐみ


 動物の中には、どのおすとどのめすとの間にでも定まりなく交接こうせつの行なわれるものもあれば、生殖せいしょく期間だけ一匹いっぴきおす一匹いっぴきめすとが共同きょうどう生活をするものもあり、またたがいに相手を定めて生涯しょうがい一夫いっぷ一婦いっぷらすものもある。これにはみなそれぞれ理由のあることで、いずれの場合でもかなずその種族しゅぞく維持いじ差支さしつかえのないだけのことが行なわれている。すなわちこう種類しゅるいには夫婦ふうふの定めがあり、おつ種類しゅるいにはその定めがないのも、ただ同じ目的もくてきのためにことなった手段しゅだんが用いられているというにすぎぬ。偕老かいろう同穴どうけつという海綿かいめんの内部には、かな雌雄しゆう一対の「えび」がいて、この「えび」は死ぬまであいわかれることがないとは、すでに前にべたところであるが、これにるいする他のれいをあげて見るに、わが国に近ごろ有名な地方病を起こす寄生きせい虫がある。もと岡山おかやま、広島両県のさかいに近い片山村かたやまむらというところでもっともさかんであったために、片山かたやま病という名がついたが、その病原は、「ジストマ」にるいする一種いっしゅ寄生きせい虫で、つねに血管けっかん内の血液けつえきの中に生活する。他の「ジストマ」るいちがうて、この虫は雌雄しゆう異体いたいであり、おすはいくぶんかひらたいがめすはまるで糸のように細長い。こうしておす腹面ふくめんを内にして体をくだ状にき、その中につねにめすいているありさまは、あたかも有平あるへいしんにした煎餅せんべいのごとくである。雌雄しゆうともに腹面ふくめん前端ぜんたんに口があり、その後に吸盤きゅうばんがあるが、おすめすとははらはらとを向け合わせ、口と口とでたがいにいつき、おすめすきかかえたままけっしてはなれぬようにして、死ぬまで血液けつえきの中にただようている。

「片山病原虫」のキャプション付きの図
片山病原虫

偕老かいろう同穴どうけつの「えび」は同じ部屋の中に一生同棲どうせいして、けっして遠くへはなれぬというだけであるが、片山かたやま病の寄生きせい虫はおすが日夜めすいたままで一刻いっこくはなさぬから、このほうが親密しんみつの度がはるかに深い。

「鶏の寄生虫」のキャプション付きの図
にわとり寄生きせい

 またにわとりるい気管きかん寄生きせいして一種いっしゅの病気を起こす蛔虫かいちゅう寄生きせい虫があるが、この虫は雌雄しゆう交接こうせつしたままで一生涯いっしょうがいはなれることがない。めす生殖器せいしょくきの開くあな腹面ふくめんのなかほどにあり、おす生殖器せいしょくきは体の後端こうたんに開いているゆえ、二匹にひき交接こうせつするとあたかも丁の字のごとくになる。しかも交接こうせつしたままではなれることがないゆえ雌雄しゆうの体はあい接蝕せっしょくするところでゆ着して、しいてこれをはなさんとすればその部がやぶれる。この虫はめす産卵さんらんするあなおすのためにふさがれているゆえ、たまごむことができず、たまごめすの体内で発育し、後に親の体をやぶって自分で生まれ出るのである。片山かたやま病の寄生きせい虫にして、この虫のほうが雌雄しゆう関係かんけいがさらに親密しんみつである。
 以上いじょうはいずれも他の動物の体内に寄生きせいする下等の虫類むしるいであるゆえ、その雌雄しゆう一生涯いっしょうがいあいはなれずにいるのも、ただ種族しゅぞく継続けいぞくするために受精じゅせい確実かくじつにする手段しゅだんにすぎぬが、鳥類ちょうるい獣類じゅうるいのごとき高等な動物になると、べつに他の原因げんいんから、雌雄しゆう縁組えんぐみを定めて長く同棲どうせいする必要ひつようが生ずる。すなわちこれらの動物は子をみ放しにしては、種族しゅぞく継続けいぞく見込みこみがたたぬゆえ、んでからのちしばらくこれを保護ほご養育よういくせねばならぬが、子を保護ほご養育よういくするには、両親が力をあわせてこれに従事じゅうじすることがもっとも有効ゆうこうな場合も生ずる。子を育てる鳥類ちょうるい獣類じゅうるいの中には一夫いっぷ多妻たさいのものもあり、めすのみが子の世話をしおすはいっこうにかまわぬようなものもあるが、種類しゅるいによっては厳重げんじゅう一夫いっぷ一婦いっぷ生涯しょうがいいっしょにらすものもけっして少なくない。小鳥類ことりるいうた人はよく知っているとおり、たまごを温めるにも雌雄しゆうが交代し、ひなかえってからも両親でこれにえさを運ぶような種類しゅるいはいくらもある。一体鳥類ちょうるいにはかようなものが多く、雉子きじにわとりるいのぞけば、その他はつばめはとがんかも、白鳥、つるなどいずれもみな一夫いっぷ一婦いっぷで子を育てる。わしたかなども一夫いっぷ一婦いっぷで生活し、生殖せいしょくのほかの仕事にもつねに力をあわせてはたらく。たとえばえさをとるにあたっても共同きょうどうすることが多い。
 これに反して獣類じゅうるいには一夫いっぷ一婦いっぷのものはきわめてまれで、さいるい牝牡ひんぼ一対で生活すかという話はあるが、これも真偽しんぎのほどがうたがわしい。多くの場合では牝牡ひんぼはただ交尾こうびの時だけあい近づき、その他のときはべつに生活して、子を育てることはめすばかりでする。ねこや犬はそのれいである。ただしきつねなどは子が育つまではおすめすといっしょにいるが、子が相応そうおうな大きさまでに育つとおすは去ってしまう。また牝牡ひんぼがつねに集まって生活している種類しゅるいならばたいがい一夫いっぷ多妻たさいで、小鳥類ことりるいに見るごとき厳重げんじゅう一夫いっぷ一婦いっぷ縁組えんぐみは決してない。馬、牛、羊、鹿しかなども一匹いっぴきおすが多くのめすひきい、「おっとせい」などもおすは体がはるかに大きくて、たいてい一匹いっぴき二三十匹にさんじゅっぴきめす統御とうぎょしている。かような種類しゅるいでは生まれた子が成長せいちょうしても組をはなれぬので、老若ろうじゃく牝牡ひんぼを交えた大きなむれが生ずる。アフリカの平原にいる縞馬しまうま玲羊かもしかるい大群たいぐんや、アメリカの広野にいた野牛の大群たいぐんは、かくしてり立ったものである。

「ゴリラの家族」のキャプション付きの図
ゴリラの家族

猿類えんるいには数百匹すうひゃっぴき大群たいぐんをなすものもあるが、普通ふつう種類しゅるい十数匹じゅうすうひきないし数十匹すうじゅっぴきくらいずつが一団いちだんをつくって生活する。こうして各団かくだんにはかな一匹いっぴきの強いおすがあって絶対ぜったい権威けんいをふるい、その命にしたがわぬものは残酷ざんこくばつらす。その代わりてきでも近づいた時には、このおすがひとりふみ止まって部下のものを安全にらしめる。団中だんちゅうめすはことごとくこの一匹いっぴきおす妻妾さいしょうであって、もしも他のわかおすめすに近づきでもすれば、ほとんど死ぬほどの目にわされる。すべてのめすはつねにつとめて団長だんちょう機嫌きげんをとり、果物くだものなどを持ってきてささげ、団長だんちょうはいばってこれを食いながら両手で左右に一匹いっぴきずつめすかかえたりしている。すなわちこのおすきば勇気ゆうきとの実力によって、他よりおかすべからざる位置いちたもっているのである。猩々しょうじょうなどのごとき人間に近い大きなさるはつねに小さな家族をなして、親と子とがいっしょに生活しているが、これもけっして厳重げんじゅう一夫いっぷ一婦いっぷではないらしい。
 かくのごとく鳥類ちょうるいには一夫いっぷ一婦いっぷのものがすこぶる多いに反し、獣類じゅうるいのほうはたいがい一夫いっぷ多妻たさいであるのはなぜかというに、これはおそらく子を育てるにあたって、両親が同様の役をつとめるかいなかに関係かんけいすることであろう。鳥類ちょうるい卵生らんせいであるゆえたまごんだのちは、めすおすと同様に身が軽く、たまごを温めるにもひなを育てるにも、雌雄しゆうが同じ仕事をすることができるが、獣類じゅうるい胎生たいせいであって、長い間胎内たいないやしなうことも、生まれ出た乳汁ちちじるで育てることも、みなめす独占どくせん事業であるから、おすべつに世話のしようもない。鳥類ちょうるいではこわれやすいたまごを安全に温めるためのつくるにも、はや成長せいちょうするひなに十分のえさあたえるにも、雌雄しゆう二匹にひきが力をあわせてこれに従事じゅうじすることが種族しゅぞく維持いじ目的もくてきにもっともてきするゆえ、自然じぜん一夫いっぷ一婦いっぷの定まりが生じ、獣類じゅうるいのほうでは形のそなわって生まれた子に、めすちちを飲ませさえすれば種族しゅぞく維持いじ見込みこみが立つゆえ、おすはただ子の育つ間、てきに対してめすと子とをまもるものがあるにすぎぬのであろう。


第十三章 産卵さんらん妊娠にんしん


 受精じゅせいが体外で行なわれる動物では、たまごはいまだ子とらぬ前に親の体から出で去るゆえ、子が直ちに親からまれるということはないが、精虫せいちゅうめすの体内にはいりきたる種類しゅるいでは、子の生涯しょうがいはまず母の体内で始まり、期限きげんの後に生まれ出ることになる。この期限きげん内のめす状態じょうたい妊娠にんしんと名づける。その長さは動物の種類しゅるいによっていちじるしくちがい、かいこのごとくに数分にぎぬものもあれば、にわとりのごとくに十数時間をへるものもあり、また牛、馬、人間などのごとくに九箇月きゅうかげつないし一年にたつするものもある。精虫せいちゅうらん細胞さいぼうとが合しても、その大きさはらん細胞さいぼうだけの時と少しもちがわぬゆえ、速く生まれるものでは、子はほとんど受精じゅせい前のたまごと同じ姿すがたで生まれるが、長く母の体内にとどまるるいでは、その間に子はたえず発育変形へんけいしてもとのたまごとは全く形状けいじょうことなったものとなって世にあらわれる。通常つうじょうたまごのままで生まれるのを卵生らんせいといい、親と同じ形をそなえて生まれるのを胎生たいせいと名づけて区別くべつするが、卵生らんせいにも胎生たいせいにもさまざまな階段かいだんがあって、まれたたまごからの内に幼児ようじが十分に発育している場合もあれば、いまだ親の形にない不完全ふかんぜん幼児ようじはだかみ出されることもあるゆえ、この区別くべつはけっして重要じゅうようなものではない。ただ普通ふつうに人の知っている動物の中で、獣類じゅうるいはことごとく胎生たいせいし、鳥類ちょうるいのこらず卵生らんせいするゆえ、昔からとくに人の注意を引いたのである。

一 卵生らんせい


 卵生らんせい胎生たいせいとを比較ひかくして見るといずれにも一得いっとく一失いっしつがあって、種族しゅぞく保存ほぞんの上にいずれを有利ゆうりとするかは、その種族しゅぞく習性しゅうせいによってちがう。受精じゅせい後のたまごは親の体からいえばもはや一種いっしゅの荷物にぎぬゆえ、すみやかにたまごみ出してしまえば、親の身体はそれだけ早く軽くなり運動もらくになる代わりに、子はそれだけ多く外界の危険きけんにさらされる。何動物でもたまごの時代やたまごからかえったばかりの時代は、もっとも弱くもっとも死にやすいときであるゆえ、卵生らんせいする動物はとくたまご保護ほごする種類しゅるいのほかは、非常ひじょうに多くのたまごまぬと種族しゅぞく継続けいぞく見込みこみがたたぬ。しこうして数多くたまごめばたまごつぶいきおい小さくならざるをぬが、たまごが小さければそれより孵化ふかして出る幼児ようじも小さく弱いゆえ、それだけたまごの数を多くまねば安心ができぬ。これに反して、胎生たいせいのほうでは子の発育するはじめは、母の体内にあって十分に保護ほごせられているから、多数が死にうせるごとき心配はない。それゆえ少数のたまごを生じ、少数の幼児ようじむだけでも種族しゅぞく維持いじ見込みこみはたしかにたつ。この点を考えると、卵生らんせいにくらべて胎生たいせいのほうが明らかに一歩進んでいるようであるが、子を長く体内にとどめておけば、その間母親はよけいの子まで負うているわけゆえ、運動もいくぶんかさまたげられ、かつもし自分がころされる場合にははらの内な荷物をがともにころされて、後に子孫しそんのこすことができぬという不利益ふりえきがある。動物の種類しゅるいを数多くならべて見ると、全部胎生たいせいするものはただ獣類じゅうるいだけであって、その他はほとんどことごとくたまごむゆえ、全体としてはむろん卵生らんせいのほうがはるかに多数をめている。鳥類ちょうるいでも魚類ぎょるいでも昆虫こんちゅうでも貝類かいるいでもみな卵生らんせいである。しかし、たまごむものの中に例外れいがいとして、胎生たいせいする種類しゅるいのふくまれていることはけっしてめずらしくない。

「うみたなご」のキャプション付きの図
うみたなご

たとえば魚類ぎょるい中の「ほしざめ」、「あかえい」、「うみたなご」とか、蛇類へびるい中の「まむし」とか、昆虫こんちゅうるい中の「ありまき」とか、貝類かいるい中の「たにし」とかいうごときものは、いずれも卵生らんせいする部類ぶるいぞくしながら、自分は胎生たいせいする。かくのごとく、たいがいの組には例外れいがいとして胎生たいせいするものが一種いっしゅ二種にしゅはあるが、ただ鳥類ちょうるいだけはことごとく卵生らんせいであって、一種いっしゅとして例外れいがいはない。これはなぜかというに、鳥類ちょうるいは主として空中を飛翔ひしょうするもので、えさとらえるにもてきからげるにも、飛翔ひしょうたくみなることをようするが、妊娠にんしんは身を重くしてはなはだしく飛翔ひしょうさまたげるからである。そもそも飛翔ひしょうは動物の運動ほうの中でもっとも進歩したもので、もっとも速力の大なる代わりにもっとも多く筋力きんりょくようし、これをよくするものはわずかに鳥類ちょうるい、「こうもり」るい昆虫こんちゅうるいのほかにはない。他の運動ほうして飛行ひこう困難こんなんなることは、船や車が何千年の昔から用いられていながら、飛行機ひこうきがようやく近年になってできたのを見ても知れる。されば鳥類ちょうるいの身体は飛翔ひしょうのためには他の何物をも犠牲ぎせいきょうし、他の方面では如何いかなる不便ふべんをしのんでももっぱら飛翔ひしょうのよく行なわれるような仕組みになっている。鳥類ちょうるいほねのなかまで空気のはいっていることも、えず脱糞だっぷんして一刻いっこくちょう内に不用ふようの物をたくわえておかぬことも、尿にょう獣類じゅうるいにおけるごとき多量たりょう液体えきたいでなく、あたかも煉乳れんにゅうのごとくにくして少量しょうりょうなることも、みな身を軽くするための方便ほうべんにすぎぬ。生殖せいしょく器官きかんもそれと同じく、なるべく身を軽くして、しかもなるべく完全かんぜんな子の生まれるような手段しゅだんが行なわれ、卵生らんせいではあるが、卵生らんせい中のとく発達はったつしたものとなり、他に比類ひるいのない大きなたまごを生ずるにいたったのであろう。他の動物のたまごがみな小さくて多くの場合には人に知られぬに反し、鳥のたまごだけは太古から食用にきょうせられ、たんたまごと言えば直ちに鳥のたまごと思われるのもみなそのとくに大なるためであるが、その大なる理由は陸上りくじょうの高等動物なる鳥類ちょうるいが安全に種族しゅぞく継続けいぞくべき完全かんぜんひなを生ずるにたりるだけの多量たりょうの黄身をふくむからである。

「鳥の体と卵」のキャプション付きの図
鳥の体とたまご
(右)よくばぬ鳥 しぎ  (左)よくぶ鳥 つぐみ

 なお鳥類ちょうるいの中にも、親の身体の割合わりあいたまごのやや小さな種類しゅるいと大きな種類しゅるいとがあるが、これも飛翔ひしょうの力と関係かんけいしている。生存せいぞん上もっともよく必要ひつようのある鳥は、なるべく身を軽くするために、卵巣らんそう内のたまごもいくぶんか小さく、したがってまれたたまごもやや小さいが、雉子きじにわとりなどのごとくつねに地上にんでいて、ぶことが少々せつでも生存せいぞんのできるような鳥では、たまごは十分の滋養じよう分をふくんでいくぶんか大きくなる。

「ニュージランド産の鴫駝鳥とその卵」のキャプション付きの図
ニュージランドさん鴫駝鳥しぎだちょうとそのたまご

そこで、大きなたまごからかえって出るひなは発育もそれだけ進んでいるゆえ、始めからひとりで走りまわってえさもとめるが、小さなたまごから出たひないきおい発育が十分なるをまぬがれぬゆえ、かえっても始めの間は自分で何をすることもできぬ。小さなたまごむ鳥はつねに身が軽くて、よくべるという利益りえきがある代わりに、ひなかえってから骨折ほねおってこれを世話せねばならぬ面倒めんどうがあり、大きなたまごむ鳥は身体がいくぶんか重くなってぶ時には多少不便ふべんであるが、ひなかえってからの世話はよほどらくである。自然じぜん界はすべてこうしたもので、いずれの方面にも利益りえきばかりをることはとうていゆるされぬ。「そうは問屋でおろさぬ。」という世俗せぞくの言葉は、ここにもよく当てはまるように見える。

二 胎生たいせい


 胎生たいせいという中にも種々しゅしゅ階段かいだんがあって、けっして一ようではない。たとえば蛇類へびるいや「いもり」のるい胎生たいせいするものでは、そのまま生まれ出ても、子になるべき大きなたまごがただしばらく輸卵ゆらんかんすえにとどまり、子の形ができあがったころに生まれるにすぎぬゆえ、親はたんに子に場所をすだけで、名は胎生たいせいというても、実は卵生らんせいとあまりちがわぬ。これに反して獣類じゅうるいのごときは、はじ微細びさいらん細胞さいぼうが母の体内にとどまっている間に、えず母から滋養じよう分をうけて発育成長せいちょうし、ほぼ親と同じ形状けいじょうそなえたものとなってまれるのであるから、これこそ真に模範もはんてき胎生たいせいで、妊娠にんしん中の親子の関係かんけいきわめて親密しんみつである。かように両極端りょうきょくたんを取って比較ひかくするといちじるしくちがうが、その間にはむろんさまざまの途中とちゅう階段かいだんくらいするものがある。

「さめの子が黄身の嚢で輸卵管の内面に付着する状」のキャプション付きの図
さめの子が黄身のふくろ輸卵ゆらんかんの内面に付着ふちゃくするじょう

 魚類ぎょるい中でさめなどには、大きなたまごが親の輸卵ゆらんかんの出口に近いところにとどまって発達はったつするものがあるが、かかる場合には親はたんに場所をすにとどまらず、輸卵ゆらんかんの内面よりちちのごとき一種いっしゅ滋養じようえき分泌ぶんぴつして子に供給きょうきゅうし、子はこれを受けてすみやかに発育する。「あかえい」では妊娠にんしんすると、輸卵ゆらんかんの内面から細い糸のごとき突起とっきがたくさんに生じ、これより滋養じようえき分泌ぶんぴつするが、この突起とっきたばになって胎児たいじの後にある左右の噴水孔ふんすいこうからはいりみ、たつして滋養じよう分を直ちにその中へ送り入れる。また「ほしさめ」では胎児たいじはらからつづいている黄身のふくろが親の輸卵ゆらんかんの内面に密着みっちゃくし、ちょっと引張ひっぱったくらいではなかなかはなれぬが、これも親から子に滋養じよう分が供給きょうきゅうせられるための仕掛しかけであって、そのありさまは後にべる獣類じゅうるい胎盤たいばんに大いにたところがある。かような次第しだいで、たまごが長く親の輸卵ゆらんかん内にとどまる場合には、身体のたがいに密接みっせつしていることを利用りようして、親が子に少しずつ滋養じよう分をあたえ、その発育を助けることが行なわれ、かつ一歩一歩進みゆく様子が見えるが、子はそのためいっそう十分に発育して大きく強くなって生まれるゆえ、種族しゅぞく保存ほぞんのうえに有効ゆうこうであるはろんをまたぬ。魚類ぎょるいにかぎらず如何いかなる動物においても、輸卵ゆらんかんの一部でたまごがとどまって発育する場所はとくに太くなっているが、その部分を子宮しきゅうと名づける。
 また獣類じゅうるい模範もはんてき胎生たいせいであると言うたが、これもことごとくしかりとは言われぬ。すなわち獣類じゅうるいの中にも、その胎生たいせいのありさまには種々しゅしゅ程度ていどちがうたものがあって、きわめてまれな場合にはたまごの形で生まれるものさえある。卵生らんせいする獣類じゅうるいというのは、今日わずかにオーストラリア地方にかぎり棲息せいそくする二三のめずらしい種類しゅるいで、鳥類ちょうるいのごとくに生殖器せいしょくきの開き口と肛門こうもんとが一つになっているゆえ、総括そうかつして単孔類たんこうるいと名づける。

「かものはし」のキャプション付きの図
かものはし

家鴨あひるのごときくちばしを有する「かものはし」、「はりねずみ」にてしかもふんの長い「はりもぐら」などがそのれいであるが、これらは直径ちょっけい六七分(注:1.8〜2.1cm)の丸いたまごを一度に一個いっこずつむ。しかし生まれたばかりのたまごからを切り開いて見ると、中にはすでに相応そうおうに発育した幼児ようじの形ができているゆえ、鳥類ちょうるいなどの簡単かんたん卵生らんせいとはおもむきがちがう。かりにこれらのるいで、たまごまれるとたんにからやぶれたと想像そうぞうすれば、卵生らんせいと名づけてよいか胎生たいせいと名づけてよいか判断はんだんがむずかしかろう。

「針もぐらの子」のキャプション付きの図
はりもぐらの子

はりもぐら」はんだ子をさらにはらの外面にあるくぼみの中に入れて温めるが、「かものはし」のほうはつねに水中をおよぐものゆえ、たまごを身につけて歩くことはできぬ。たまごまれるまでとどまっているところは、鳥類ちょうるいにおけると同じく輸卵ゆらんかん末端まったんであるが、近来の研究によると、その部の粘膜ねんまくから一種いっしゅちちのごとき滋養じようえき分泌ぶんぴつし、子はそれをうて発育するとのことゆえ、この点もいくぶんか普通ふつう獣類じゅうるいている。
 獣類じゅうるい卵生らんせいするのはまれな例外れいがいであって、その他はことごとく胎生たいせいであるが、同じ胎生たいせいというなかにもまた種々しゅしゅ階段かいだんがある。

「カンガルー」のキャプション付きの図
カンガルー

たとえば大きな「カンガルー」は身のたけ六尺ろくしゃく(注:1.8m)以上いじょうもあってほとんど人間と同じくらいであるが、その妊娠にんしん状態じょうたいを見ると、人間の女が九箇月きゅうかげつの後に身長一尺いっしゃく六寸ろくすん(注:48cm)体重八百匁はっぴゃくもんめ(注:3kg)もある大きな子をむに反し、妊娠にんしんわずかに一箇月いっかげつでほとんど人の拇指おやゆび一節いっせつにもたらぬほどの小さな子をむ。

「カンガルーの幼児」のキャプション付きの図
カンガルーの幼児ようじ

この子は人間の胎児たいじのほぼ二箇月にかげつくらいのものに相当し、手足の指もいまだ判然はんぜんとはできぬくらいゆえ、そのままではとうてい生活はつづけられぬ。それゆえ母親はさらにこれをはらの前面にある特別とくべつふくろに入れ、ふくろの内にある乳房にゅうぼうの先を子の口にはめ、乳汁ちちじるをそそぎこんでなお数箇月すうかげつ養育よういくするが、かくしてできあがった子が、はじめて人間の生まれ立ての赤子と同じくらいの大きさにする。すなわち人間ならば子を九箇月きゅうかげつの間子宮しきゅうの内に入れておくところを、「カンガルー」は一箇月いっかげつだけ子宮しきゅう内に、のこ八箇月はちかげつはらのそとのふくろに入れてやしなうのである。「カンガルー」の子は一度乳房にゅうぼうを口に入れたら、そのままいつまでもはなさず、また乳房にゅうぼうはのびて子のまでもたっするゆえ、少々引張ひっぱったくらいでは子はけっして親の体からははなれぬ。それゆえ、昔ヨーロッパ人がはじめて「カンガルー」を見た時には、このけもの芽生がせいによって繁殖はんしょくすると思いあやまり、そのとおり報告ほうこくした。かく胎生たいせいする獣類じゅうるいの中にも、小さな子を早くみ出すものと、十分育つまで子をはらの内に入れておくものがあるのは、胎生たいせいの子をやしなうための仕掛しかけにさまざまの相違そういがあるからである。

三 子宮しきゅう


 鳥類ちょうるいなどではたまご卵巣らんそうはなれてから体外へ出るまでに通過つうかするかんを全部輸卵ゆらんかんぶが、獣類じゅうるいではこのかんを三部に区別くべつし、卵巣らんそうにもっとも近くてたまごたん通過つうかするだけの部を輸卵ゆらんかんまたは喇叭ラッパかんといい、その次にあって子がその内で育つところを子宮しきゅうといい、子宮しきゅうより体外に開くまでの間をちつという。この中でもっとも大切なところは子宮しきゅうであるが、種々しゅしゅことなった獣類じゅうるいをくらべて見ると、はじ鳥類ちょうるいのと少しもちがわぬような輸卵ゆらんかんが左右に一本ずつあるものが、下端かたんのほうから漸々ぜんぜんあい合着ごうちゃくしてついに人間に見るような一個いっこ子宮しきゅうが体の中央線にくらいするにいたるまでの進歩の道筋みちすじが明らかに知れる。

「かものはしの雌の生殖器」のキャプション付きの図
かものはしのめす生殖器せいしょくき

まず「かものはし」などを見ると、輸卵ゆらんかんは左右べつべつに肛門こうもん内側うちがわに開き、相合あいあいして一本となっているところはどこにもない。出口に近いところにたまごがしばらくとどまって、その内の子が発育するゆえ、その部を子宮しきゅうと名づけるが、鳥類ちょうるいと同じことで、とくちつしょうすべき部は全くない。

「カンガルーの雌の生殖器」のキャプション付きの図
カンガルーのめす生殖器せいしょくき

次に「カンガルー」のるいでは如何どうというに、このるいではちつの開口は一つのあなであるが、その内は直ちに二本に分かれている。これにじゅんじておすのほうの交接器こうせつきも左右二本に分かれてある。ちつが左右に分かれているゆえ、それよりおく子宮しきゅう輸卵ゆらんかんはもちろん左右に一つずつある。生殖器せいしょくきの開口と肛門こうもんとはべつあなであるが、共同きょうどう輪状りんじょう筋肉きんにくで、あたかも巾着きんちやくの口のごとくにくくられているありさまは、鳥類ちょうるいや「かものはし」のるい普通ふつう獣類じゅうるいとの中間にくらいするものといえる。「うさぎ」、「ねずみ」などを見るとちつ単一たんいつであるが、子宮しきゅうは明らかに二つならんであって、そのちつにつづくあなも左右べつべつに開いている。また犬、ねこなどになると、子宮しきゅうは下のほうは合して一つとなり、上のほうは左右に分かれているゆえ、あたかも人という字をさかさにしたごとくである。最後さいごさる、人間などでは子宮しきゅうは全く単一たんいつとなり、ただ喇叭ラッパかんだけが左右一対をなしている。かくのごとく種々しゅしゅ獣類じゅうるいをくらべて見ると、人間やさるなどのごとくに、ちつおくにただ一個いっこ茄子なすじょう簡単かんたん子宮しきゅうがあるのは、はじめ「かものはし」におけるごとき左右一対の長い輸卵ゆらんかんが出口のほうから少しずつあい合着ごうちゃくして、一歩一歩進み来たった最後さいご階段かいだんであることが明らかに知れるであろう。
 さて子宮しきゅうなるものは、これをそなえる個体こたい生存せいぞん標準ひょうじゅんとして考えると、なくとも日々の生活には差支さしつかえのないはずのものをしばらくたくわえおくふくろにすぎぬゆえ、尿にょうたくわえるための膀胱ぼうこうと同じ価値かちのものであるが、種族しゅぞく生存せいぞん標準ひょうじゅんとして見ると、きわめて重大な価値かちを有する。子宮しきゅう内に子を入れている間は、母親は種族しゅぞくの生命をおのが手にあずかっているようなもので、自分が死ねば種族しゅぞく将来しょうらいをもほろぼすことにあたる。すなわち子が早く死んで出ても、親は生きのこるが、親が死ねば子はとうてい助からぬゆえ、妊娠にんしん中の母親は種族しゅぞく維持いじの上にはもっとも大切なもので、この点では大いに父親とちがう。長い間よけいな重さをささえ、よけいな食物を食うのも、最後さいご非常ひじょうな苦しみをえるのも、一として自己じこ一身のためではなく、全く種族しゅぞくのためであるゆえ、妊娠にんしんは、いわば種族しゅぞくのために個体こたい奉公ほうこうをしているごときものである。されば妊娠にんしん中の婦人ふじん自己じこぞくする種族しゅぞく維持いじ繁栄はんえいのために一身をささげているわけにあたるゆえ、周囲しゅういの者よりは特別とくべつ待遇たいぐうをうけ、ただならぬ身として鄭重ていとう取扱とりあつかわれるが、自身も当然とうぜんのこととしてあえてこれをせぬ。受精じゅせいさいに他人に見られたならばじてえ入るべきほどの婦人ふじんが、受精じゅせい結果けっかなる妊娠にんしんをいくぶんかほこるがごとき態度たいどの見えるのは、おそらく種族しゅぞくのために重大な任務にんむくしているとの意識いしきてき自覚じかくが、どこかにひそんでいるゆえであろう。いずれにしても子宮しきゅう個体こたいの一小部分でありながら、全く種族しゅぞくのためにはたら特別とくべつ器官きかんであるゆえ、その影響えいきょうするところもすこぶる広く、子宮しきゅうに何か異常いじょうがあれば全身はそのために健康けんこううしなう。どこの病院に行っても婦人科ふじんかはあるが、男子科はない。しこうして婦人科ふじんかやまいというのは、ほとんどみな子宮しきゅう関係かんけいのある病ばかりである。

四 羊膜ようまく


 かえるたまごまたはさけたまごを生かしておき、その発生を調べて見ると、はじめ球形のたまご一粒ひとつぶ漸々ぜんぜん形が変わって全部がただ一匹いっぴきの子の身体のみとなるが、にわとりたまご雌雄しゆうに温めさせてその日々の発生を調べると、たまごからはただひなの身体のみができるのでなく、早くからひなの身体をつつうすまくふくろもできる。

「鶏卵内の発育」のキャプション付きの図
鶏卵けいらん内の発育
(い)ひなの体 (ろ)羊膜ようまく

このふくろを「羊膜ようまく」と名づける。にわとりたまごもがんらいは一個いっこ細胞さいぼうであるが、まれたたまご受精じゅせい後十数時間をへたものゆえ、その間に細胞さいぼうの数はふえて一平面にならびすでに明らかなそうをなしている。黄身の上面にかなず一つの小さな円い白いところがあるのは、すなわちこの細胞さいぼうそうである。ぞくにこれを「」ととなえて、これからひな玉ができるように言うが、それはむろんあやまりで、実はこれからひなの全身ができるのである。親鳥に温められると、この白いのごときところが漸々ぜんぜん大きな円盤えんばんじょうとなり、その周囲しゅういびてついに黄身をつつみおわり、その中央部すなわちはじめのあったへんでは、細胞さいぼう層が曲がったりれたりゆちゃくしたり切れたり、きわめて複雑ふくざつ変化へんかをへてついにひなとなるが、後にひなになる部分の周囲しゅういからは、細胞さいぼうそうがあたかも子供こどもの着物のい上げのごとき特別とくべつひだを生じ、このひだが四方からひなの身体をかこんで、たまごからかえって出るときまであたかもふくろに入れたごとくに全くつつんでいる。前に羊膜ようまくと名づけたものはすなわちこの細胞さいぼうそう薄膜はくまくである。かくのごとくにわとりなどでは、始め細胞さいぼうそうができて、その一部はひなの体となり、のこりの部はひなつつふくろとなるのであるから、これをたとえていえば、あたかもぬのうて人形をつくるにあたり、大きなぬのを切らずに用い、人形につづいたままののこりの部でその人形をつつんだごとくである。同一の材料ざいりょうの一部で人形をつくり、そのつづきでこれをつつふくろをつくったと想像そうぞうすれば、ちょうどひなたまごの内で、同じ細胞さいぼうそうからひなの身体とひなつつ羊膜ようまくとができるのと同じわけにあたる。
 発生中に羊膜ようまくのできることは、脊骨せぼねを有する動物の中でも鳥類ちょうるい獣類じゅうるいかめへび蜥蜴とかげるいにかぎることで、魚類ぎょるいかえる、「いもり」のるいには決してない。「いもり」と「やもり」とは外形がよくているのでずいぶん混同こんどうしている人も少なくないが、その発生を調べると、「いもり」のほうは羊膜ようまくができぬから魚類ぎょるいと同じ仲間なかまぞくし、「やもり」には立派りっぱ羊膜ようまくができるゆえ、むしろ鳥類ちょうるいのほうに近い。されば発生にもとづいて分類ぶんるいすると、脊椎せきつい動物を無羊膜むようまくるい有羊膜ゆうようまくるいとの二組にわかち、前者には魚類ぎょるい両棲りょうせいるいとを入れ、後者には哺乳ほにゅうるい鳥類ちょうるい爬虫類はちゅうるいを組みこむことができる。人間も他の獣類じゅうるいと同じく、発生中には羊膜ようまくができてつねに胎児たいじつつみ、胎児たいじ羊膜ようまく内の羊水の中にただようている。二箇月にかげつ三箇月さんかげつのころに流産りゅうざんすると小さな胎児たいじうす羊膜ようまくふくろつつまれたままで生まれ出るが、月満つきみちて生まれる場合には、羊膜ようまくはまずやぶれて羊水が流れ出で、それと同時に子が子宮しきゅうからでてくる。ただしまれには「袋児ふくろじ」ととなえて、羊膜ようまくやぶれずこれをかふったままでが生まれることもある。

「第4週の胎児と羊膜」のキャプション付きの図
第4週の胎児たいじ羊膜ようまく

 動物を通常つうじょう胎生たいせい卵生らんせいとに分けるが、以上いじょうべたとおり、羊膜ようまくを生ずるのは胎生たいせいするものと、卵生らんせいするものの一部とにかぎられてある。かえるにわとりも同じく卵生らんせいであるが、その発生を調べて見ると、羊膜ようまく有無うむについては卵生らんせいにわとり卵生らんせいかえるずして、かえって胎生たいせい獣類じゅうるいのほうにはるかに近い。大きなたまごむ鳥と微細びさいらん細胞さいぼうを生ずる獣類じゅうるいとに、なぜ羊膜ようまくができて、その中間の大きさのたまごかえるに、なぜ羊膜ようまくができぬかとの疑問ぎもんは返答がないように思われるが、だんだん調べて見ると、獣類じゅうるいはけっしてごく昔の先祖せんぞ以来いらいつねに微細びさいたまごばかりを生じたのではなく、最初さいしょはやはり今日のかめや「とかげ」のるい、もしくは「かものはし」などのごとき大きな黄身をふくんだたまごんだのが、その後次第しだい胎生たいせいの方向に進み、たまごは少しずつ小さくなって、ついに今日見るごとききわめて微細びさいらん細胞さいぼうを生ずるにいたったものらしい。かく考えねばならぬ論拠ろんきょは発生学上の詳細しょうさいな点にあるゆえ、ここにはりゃくするが、ただ羊膜ようまくの生ずるありさまだけから見ても、獣類じゅうるい鳥類ちょうるいとはともにはじ比較ひかくてき大きなたまご爬虫類はちゅうるいから起こり、鳥類ちょうるいのほうは飛翔ひしょう必要ひつよう上ますます完全かんぜん卵生らんせいのほうに進み、獣類じゅうるいのほうはたまごを安全ならしめるために長く体内にとどめおき、母体と子の体とのあい接蝕せっしょくするところから、その間に新たな関係かんけいが生じ、母体からえず滋養じよう分を供給きょうきゅうし、たまごはそのためあらかじめ多量たりょうの黄身をふくみおる必要ひつようがなくなり、ついに模範もはんてき胎生たいせいとなったのであろうと思われる。かように考えると、獣類じゅうるい微細びさいたまごから子が発生するにあたって、鳥類ちょうるいにおけると同じように羊膜ようまくの生ずるのは、ともに先祖せんぞ爬虫類はちゅうるいから遺伝いでんによってつたわったものとして、はじめて了解りょうかいすることができる。

五 胎盤たいばん


 人間も他の獣類じゅうるいとともにはじ卵生らんせい爬虫類はちゅうるいから起こったものなることは、羊膜ようまくの生ずるありさまからほぼ推察すいさつができるが、次に種々しゅしゅ獣類じゅうるい胎盤たいばん形状けいじょうを調べて見ると、人間は獣類じゅうるい中のいずれの仲間なかまぞくするかがすこぶる明瞭めいりょうにわかる。胎盤たいばんとは親の体から子の体へ滋養じよう分をあたえるための特殊とくしゅ器官きかんであるゆえ、胎生たいせいをせぬ動物にはもとよりあるはずはないが、胎生たいせいする動物でも胎内たいないの子が親にやしなわれぬ場合には胎盤たいばん必要ひつようはない。ただ胎児たいじが長い間親から滋養じよう分をて大きく成長せいちょうするような種類しゅるいでは、胎盤たいばんがよく発達はったつしなければならぬ。
「5箇月の胎児」のキャプション付きの図
箇月かげつ胎児たいじ
胎児たいじつつめるうすまくふくろはいわゆる羊膜ようまくなり.この図にては羊膜ようまくの一部をたてに切り開きて内なる胎児たいじ直接ちょくせつしめしたり.胎児たいじかたの上に乗れるやや大きひもへそ

 獣類じゅうるい胎児たいじ羊膜ようまくつつまれた上をさらになお一つの膜嚢まくふくろつつまれているが、この膜嚢まくふくろは母親の子宮しきゅうの内面に密接みっせつしているから、親の体から子の体へ、滋養じよう分がうつり行くには、ぜひともこのまく通過つうかせねばならぬ。親から容易ようい滋養じよう分をい取りるために、このまくの外面からは、早くから無数むすうの細い突起とっきが生じ、親の子宮しきゅう粘膜ねんまくにはまりこむが、発生がやや進むと、胎児たいじの身体から血管けっかんび出して、この細い突起とっきの内までもたつする。かくなると、子の血管けっかんはあたかも樹木じゅもくの根が地中で細かく分岐ぶんきするごとくに、母の子宮しきゅう粘膜ねんまくの内に根をおろして、そこから滋養じよう分を吸収きゅうしゅうすることができる。子の血管けっかんが母の子宮しきゅう粘膜ねんまくに根をおろしているところが、すなわち胎盤たいばんであって、その形状けいじょう獣類じゅうるい種族しゅぞくによってさまざまにちがう。また胎盤たいばん胎児たいじはらとをつなぐひもはいわゆる臍帯せいたいであるが、主として胎児たいじから胎盤たいばんまで血の往復おうふくするやや太い動脈どうみゃく静脈じょうみゃくなわのごとくにれてできている。
 カンガルーのるいは前にもべたとおり、きわめて早く小さな子をみ出してしまうゆえ、胎盤たいばんは全くない。子はただ暫時ざんじ母の子宮しきゅう内に場所をり、そのかべからしみでる滋養じようえきを少しうだけにすぎぬゆえ、身体上からは親と子との関係かんけいはすこぶる簡単かんたんで、まれることもいたってたやすい。馬では胎児たいじつつ外嚢がいのうの全表面から細い血管けっかんがたくさんに出て、親の子宮しきゅう粘膜ねんまくにはまりこんでいる。

「羊の胎盤」のキャプション付きの図
羊の胎盤たいばん

また牛、羊では同じく細い血管けっかんがでているが、あたかもひょうの皮の斑紋はんもんのごとくにいくつものかたまりとなり、各塊かくかたまりふさのごとき形をなして子宮しきゅう粘膜ねんまく内にもれている。牛でも馬でも胎児たいじつつふくろ血管けっかんは、子宮しきゅう粘膜ねんまくしこまれた体裁ていさいになっているが、が生まれるときには母の子宮しきゅうかべから子の血管けっかんだけがけて、のあとから出で去るゆえ、そのさい母親の身体は一部たりとも切れうしなうことはない。すなわち今まではまっていたものが、はずれてはなれ去るだけである。ところが犬、ねこさる、人間などになると、胎児たいじつつ膜嚢まくのうの表面から突出つきだしている無数むすうの細い血管けっかんは、母の子宮しきゅう粘膜ねんまくかたむすびついてはなれぬようになり、子が生まれるときには、子の血管けっかんと親の子宮しきゅう内面の粘膜ねんまくの一部とは一塊いっかいとなって出てくる。これがすなわち胎盤たいばんであるが、牛、馬のとはちがうて、親の組織そしきの一部が切れはなれて子をつつまくとともに出るゆえ、そこの血管けっかん当然とうぜんやぶれて、出産しゅっさんさいにはいちじるしく出血する。犬、ねこ、「いたち」などの食肉獣しょくにくじゅうでは、胎盤たいばんはばの広いおびの形で胎児たいじどうのところをゆるくいているが、さるや人間では円盤えんばんじょうで、あたかもはすの葉をあつくしたごとくに見える。

「手長猿の胎児と胎盤」のキャプション付きの図
手長猿てながさる胎児たいじ胎盤たいばん

しこうして普通ふつう猿類えんるいでははすの葉を二枚にまいならべたごとき形がつねであるが、ただ猩々しょうじょう手長猿てながさるるいと人間とだけははす葉一枚いちまいのごとくである。されば普通ふつうさる猩々しょうじょうと人間とをならべ、胎盤たいばんの形にもとづいて分類ぶんるいすれば、人間と猩々しょうじょうとを合わせて一組とし、他の猿類えんるいあい対立せしめねばならぬが、この事は解剖かいぼう上、発生上、ならびに血清けっせい反応はんのう調査ちょうさなどの結果けっかと実によく符合すごうする。すなわち、人間と猩々しょうじょう手長猿てながさるなどのごとき高等の猿類えんるいとの間の血縁けつえん程度ていどは、高等のさるを有する普通ふつう猿類えんるいとの間の血縁けつえん程度ていどして、さらにいっそう近いことが明らかに知れる。

「臨月の胎児」のキャプション付きの図
臨月りんげつ胎児たいじ

 胎盤たいばん発達はったつ胎生たいせいをますます完全かんぜんならしめるものであるが、親と子との結合けつごう密接みっせつになるだけ、出産しゅっさんさいあいはなれることが困離こんなんになるをまぬがれぬ。ただ子宮しきゅう内に子をとどめておくだけならば出産しゅっさんきわめて容易よういであるが、その代わりに子を長く十分にやしなうことができず、胎盤たいばん完全かんぜん発達はったつすれば、子を長くやしなうにあたって不足ふそくのない代わりに、出産しゅっさんさいにはこれが母体からはなれるための臨時りんじ苦痛くつうが生ずる。子をつつまくの表面から出ている血管けっかん突起とっきが、簡単かんたん子宮しきゅう粘膜ねんまくし入っただけならば、あたかも地からくいくごとくに、それだけをき取ることができるが、血管けっかんが細く分かれて子宮しきゅう粘膜ねんまく内に根をおろしたようになると、これをはなすのは容易よういでない。あたかも根のったを力まかせに引きけば、多量たりょうの土がとれて大きなあながあくごとくに、そのとれたあとには大きなきずのこる。分娩ぶんべんさいの出血は、このきずから出るのである。また完全かんぜん胎盤たいばんによって子が十分にやしなわれ、大きくなればこれをせま産道さんどうからみ出すときの苦しみは一とおりではなくなる。されば胎生たいせいにも便べん不便ふべんとがついてまわり、一程度ていどまでたつした以上いじょうはもはやその先へは進まれぬ。人間のごときも、現在げんざいよりもなおいっそうのう発達はったつした頭の大きな赤子をむことはとうていのぞまれぬであろう。
 胎盤たいばんにおける親子の血管けっかん関係かんけいを見るに、如何いか密接みっせつしても直ちに連絡れんらくするところはけっしてない。すなわち同一の血が、親の体と子の体とを循環じゅんかんするごときことはけっしてなく、ただ子の血管けっかんが親の血管けっかんの多い組織そしき内に根のごとくにひろがっているだけである。子は血管けっかんを親の組織そしき内にばしひろげて親から滋養じよう分をい取るのであるゆえ、この点からいうと、獣類じゅうるい胎児たいじ一種いっしゅ寄生きせい虫とも見なすべきもので、母親は種族しゅぞく維持いじ目的もくてきのために一身を犠牲ぎせいきょうし、大きな寄生きせい虫の宿主となっている次第しだいである。卵巣らんそう内にあるらん細胞さいぼうはたしかに母の身体の一部であるが、すでに卵巣らんそうをはなれ受精じゅせいした後は、もはや新たな一個体こたいであって、ただ母の体内に場所をりているにすぎず、さらに血管けっかんばして母の身体から滋養じよう分をい取るようになれば、純然じゅんぜんたる寄生きせい生活にうつったわけで、まれ出るまでは一種いっしゅの内部寄生きせい虫である。またまれてからは、宿主の皮膚ひふの一部にいついて滋養じよう分を取るゆえ、一種いっしゅの外部寄生きせい虫となり、ちちを飲まなくなってからはありの内に寄生きせいしている甲虫こうちゅうなどと同様な寄生きせい虫となる。親がどくを食えば胎児たいじもそのがいをこうむり、親が病にかかれば胎児たいじにもその病がつたわりなどして、その間の関係かんけいはすこぶる密接みっせつではあるが、胎児たいじはけっして母の身体の一部をなすものではないゆえ、妊娠にんしん中に母に起こった変化へんかがそのとおりに子にもあらわれるということはない。日の出のゆめを見てはらんだら英雄えいゆう豪傑ごうけつが生まれたとか、妊娠にんしん中に火事を見ておどろいたら、生まれた子のひたいに火の形の赤いあざがあったとかいう話はしばしば聞かされるが、これはおそらくつくり話か思いちがいかであろう。もとより肉体と精神せいしんとの間には密接みっせつ関係かんけいがあるゆえ、母が妊娠にんしん中に心配をしたために虚弱きょじゃくが生まれたというごときことならば、ありべきように思われるが、妊娠にんしん中に論語ろんご講釈こうしゃくをきいたら聖人せいじんが生まれ、ジゴマの活動写真を見たら泥棒どろぼうが生まれるというごときことはまずなかろう。母親が妊娠にんしん中に摂生せっせいに意を用いることは、種族しゅぞく維持いじの上にもっとも大切なことゆえ大いにつとめなければならぬが、胎教たいきょうに言うごとき胎児たいじ品性ひんせい陶冶とうや妊婦にんぷ心掛こころがけによってできるやいなやはすこぶるうたがわしいと言わざるをえない。


第十四章 身体の始め


 自分の身体ははじ如何いかにしてできて、如何いかなる状態じょうたいの時代を順次じゅんじ経過けいかし来たったかを知ることは、人生について考えるにあたってもっとも必要ひつようである。これを知ると知らぬとでは、人生にかんする観念かんねん非常ひじょう相違そういを生じ、場合によっては正反対の結論けつろんにたっせぬともかぎらず、またこれを知っていてもしばらくわすれていると、やはりことなった観念かんねんいだくにいたりやすい。さればいやしくも人生をろんぜんとする者は、一とおり生物個体こたいの発生とくに人間の身体のでき始めの模様もようを知っておく必要ひつようがあろう。実はこの知識ちしきけた者は人生をろんずる資格しかくがないようにも考えられる。本章と次の章とでべるところは、人類じんるいおよび普通ふつう獣類じゅうるい個体こたい発生の歴史れきしの中から、もっとも重要じゅうようなと思われる点をいくつか拾い出して、その大体をんだものである。
 身体の発生についてとくわすれてはならぬのは、その始めのきわめて判然はんぜんたることである。いまだ顕微鏡けんびきょうを用いなかったころには、精虫せいちゅうはいうにおよばず、小さなたまごも知られずにあったゆえ、人間その他の獣類じゅうるいの子のできるのはあたかも無中むちゅうに有を生ずるごとき感があって、その間によほど神秘しんぴてき事情じじょうそんするように思われたが、今日では母の卵巣らんそうからはなれた一個いっこらん細胞さいぼうと、父の睾丸こうがんから出て母の体内に入りきたった無数むすう精虫せいちゅうの中の一匹いっぴきとが、喇叭ラッパかん内で出遇であ相合あいあいして一の細胞さいぼうとなるときが、すなわち子の生涯しょうがいの始めであることが明らかになった。精虫せいちゅうらん細胞さいぼう内にもぐりこみ、かくかくとが相合あいあいして、二つの細胞さいぼうが全く一つの細胞さいぼうとなりおわるまでは、いまだ子なる個体こたい存在そんざいせぬが、これだけのことがすめば、すでに子なる個体こたいがそこにいるゆえ、個体こたいの生命には判然はんぜんたる出発点がある。地球上にはじめて人間なるものがあらわれてから今日にいたるまでに、生まれては死に、生まれては死にした人間の数は、実に何千億なんせんおくとも何兆なんちょうともかぞえられぬほどの多数であろうが、これがみな一人一人かなず父の精虫せいちゅうと母のらん細胞さいぼうとの相合あいあいする時に新たにできたのであって、その前にはけっしてなかった人間である。しこうしてこれらの人間の精神せいしんてきの作用も毎回身体の発生にともなうてあらわれ、のうの大きさが一定の度にたっすれば意識いしきが生じ、のう健全けんぜんならばさまざまの工夫くふうをこらし、のう腫物はれものができれば精神せいしんくるい、心臓しんぞう麻痺まひによって血液けつえき循環じゅんかんが止まれば、のう酸素さんそがこなくなって、意識いしき消滅しょうめつしてしまう。これらは、肉体は死んでもたましいはいつまでものこるとしんずる人等のよろしく参考さんこうすべき事実であろう。

一 たまご分裂ぶんれつ


 人間も他の動物と同じく、個体こたいの始めは単一たんいつ細胞さいぼうである。受精じゅせいのすんだらん細胞さいぼうも、受精じゅせい前のらん細胞さいぼうも大きさは少しもちがわず、外見は同じようであるが、生存せいぞん上の価値かちには非常ひじょう相違そういがある。人間のたまご受精じゅせい前も受精じゅせい後も直径ちょっけいわずかに一分の十五分の一(注:0.2mm)にぎぬ球形の細胞さいぼうであるが、受精じゅせいする機会きかいをえられなかったものは、ただ母体の組織そしきからはなれた一の細胞さいぼうとして、その運命は皮膚ひふの表面や'ほおの内面から取れ去る細胞さいぼうと同じく、てられて死ぬのほかはない。これに反して、受精じゅせいのすんだたまごは始めしばらくは単一たんいつ細胞さいぼうであるが、これがもととなって種々しゅしゅ複雑ふくざつ変化へんか発育をとげて、ついに赤子となり成人せいじんとなるのであるから、すでにその種族しゅぞくを代表する一の個体こたいと見なさねばならぬ。法律ほうりつでは何箇月なんかげつ以上いじょう胎児たいじは人間と見なすが、それ未満みまん胎児たいじは物品と見なすという規定きていがあるとか聞いたが、これはもとより便宜上べんぎじょう必要ひつようから止むをえずつくった勝手の定めで、学問上からは何の根底こんていもない。理屈りくつから言えば、受精じゅせいのすんだたまごの時代までさかのぼっても、やはり一個いっこの人間にちがいないゆえ、われらはだれでもでき始めには、「アメーバ」や「ぞうり虫」と同格どうかくの一細胞さいぼうであったと言わねばならぬ。ただ「アメーバ」や「ぞうり虫」が独立どくりつ自営じえいの生活をしているに反し、親の体内に保護ほごせられ親から滋養じよう分の供給きょうきゅうを受けて、寄生きせいてきの生活をいとなんでいたというだけである。
 さてかようなたん細胞さいぼうのものがもととなって、如何いかにして無数むすう細胞さいぼうよりなる身体ができあがるかというに、これまた「アメーバ」や「ぞうり虫」の繁殖はんしょくと少しもちがわぬ分裂ぶんれつほうによる。

「兎の卵の分裂」のキャプション付きの図
うさぎたまご分裂ぶんれつ

次にかかげた図はうさぎ受精じゅせい後のたまご順々じゅんじゅん分裂ぶんれつして、細胞さいぼうの数のえてゆくありさまをしめしたもので、はじ一個いっこの球形の細胞さいぼうは二分して楕円だえん形のもの二個にことなり、これがまたそれぞれ二分して都合つごう四個よんことなり、さらに分裂ぶんれつして八個はちこ十六個じゅうろっこ三十二個さんじゅうにこ六十四個ろくじゅうよんこというように速かに数がすと同時に、かく細胞さいぼうの大きさはげんじてたちまちにして小さな細胞さいぼう一塊いっかいとなる。この時代には子の身体はあたかも鹿子餅こもちくわの実のごとくに見えるゆえ、桑実期そうじつきと名づける。これと同じ状態じょうたい独立どくりつ自営じえいの生活をしているものをもとめると、水中に棲息せいそくする原始虫類ちゅうるい群体ぐんたいがちょうどそのとおりで、数十もしくは数百の同様な細胞さいぼう一塊いっかいとなり、あいはなれぬように透明とうめい膠質こうしつのものでつながっている。すなわち「アメーバ」や「ぞうり虫」にたものがあい集まり、一群体ぐんたいをなして水中にかんでいるのであるゆえ、構造こうぞうからいうと桑実期そうじつき幼児ようじと少しもちがわぬ。

「原始虫類の群体」のキャプション付きの図
原始虫類ちゅうるい群体ぐんたい

 人間の受精じゅせいしたたまご分裂ぶんれつして細胞さいぼうの数のえるありさまを直接ちょくせつに見た者はいまだ一人もない。その理由は説明せつめいするにもおよばぬ明白なことで、人間のたまご精虫せいちゅうとが出遇であうことは毎夜各処かくしょで行なわれているが、受精じゅせい後直ちに女をころしてその輸卵ゆらんかん内を調べることは一回も行なわれぬゆえである。しかし人間のその後の発生が犬、ねこうさぎねずみなどと全く同様であり、かつこれらの獣類じゅうるい桑実期そうじつきにたっするまでの変化へんかがことごとく一致いっちしているところから考えると、人間でもうさぎでもこのころの発生状態じょうたいが全く同じであることはうたがいない。これは類推るいすいではあるがけっして間違まちがいのない推察すいさつで、あたかも明朝みょうちょうも太陽は東から出るであろうという推察すいさつと同じく、大地を打つつちははずれても、こればかりははずれぬというくらいにたしかなものである。すなわち人間の個体こたいのでき始めは、前にべたとおり単一たんいつ細胞さいぼうであるが、次には細胞さいぼうの数がえて原始虫類ちゅうるい群体ぐんたいと同様の時代を経過けいかする。しこうしてこの時代にはいまだすべての細胞さいぼうが同様であって、その間に少しも相違そういが見えず、また分業の行なわれる様子もない。る人の計算によると、成人せいじんの身体は三十余さんじゅうよちょう細胞さいぼうからなるとのことであるから、赤子の身体にはやく二兆にちょう細胞さいぼうがあると見なしてよろしかろうが、これがみな最初さいしょ単一たんいつ細胞さいぼう分裂ぶんれつした結果けっかである。一つから二つ、二つから四つというごとくに毎回二倍ずつにえるとして、何回分裂ぶんれつすればこの数にたつするかとかぞえて見ると、おおよそ四十回ですむ。されば赤子の身体は細胞さいぼうの数のみについていうと、あたかも「アメーバ」が四十回も引きつづいて分裂ぶんれつ生殖せいしょくを行なうただけの細胞さいぼう一塊いっかいをなしているものに相当する。ただ「アメーバ」のほうは何万何億なんおくえてもみな同じような細胞さいぼうであるが、人間のほうは発生が進むにしたがうて、細胞さいぼう間に分業が行なわれ、おいおい複雑ふくざつ組織そしき器官きかんができるので、おどろくほどちがった結果けっかを生ずるのである。

二 胃状いじょうの時期


 さてくわの実のごとき形になった子供こどもは、次には如何いかへんずるかというに、細胞さいぼうの数が相応そうおうえると、これがみな一層いっそうにならんであたかもゴムたまのごとき中空の球となり、さらに球の一方がくぼみ入り内部の空所がなくなって、ついに二重の細胞さいぼうそうよりなる茶碗ちゃわんのごときものとなる。これだけのことは如何いかなる動物の発生中にもかなずあるが、らん細胞さいぼう多量たりょうの黄身をふくんで大きいか、または黄身をふくまずして小さいかによって、明白に見えるものとしからざるものとがある。なぜというに、黄身をふくまぬ小さなたまご分裂ぶんれつするにあたっても、全部分かれて完全かんぜんに二つの細胞さいぼうとなることができるが、黄身をふくんだ大きなたまごであると、黄身がじゃまになって完全かんぜん分裂ぶんれつすることができぬ。にわとりたまごなどは細胞さいぼうがいくつに分かれても、最初さいしょの間は黄身の表面の一部にひらたくならんでいてくわの実のごとき形にはならぬ。

「なめくじうおの発生」のキャプション付きの図
なめくじうおの発生

しかし他の小さなたまごの発生に比較ひかくして調べて見ると、にわとりの発生にも、やはり桑実期そうじつきがあって、ただ黄身のためにさまたげられてくわの実のごとき形にならぬだけであることが明らかに知れる。球形になり茶碗ちゃわんの形になるときもこれと同様で、にわとりの発生では、この時代の変化へんかがなかなかわかりにくいが、黄身のない小さなたまごで調べるときわめて明瞭めいりょうになる。脊椎せきつい動物の中でもっとも下等なものに「なめくじうお」という長さ一寸いっすん(注:3cm)あまりの頭のない奇態きたいな魚があるが、そのたまごからの発生を見ると、以上いじょう茶碗ちゃわんの形になるまでの変化へんかがすこぶる明らかであるゆえ、脊椎せきつい動物の発生の見本として図をげておく。

「蛙の卵の分裂」のキャプション付きの図
かえるたまご分裂ぶんれつ

受精じゅせいのすんだらん細胞さいぼう分裂ぶんれつしてたちまちの間に無数むすうの小さな細胞さいぼうかたまりとなることだけならば、かえるたまごについても容易たやす観察かんさつすることができる。獣類じゅうるいたまごは、あたかも「なめくじうお」のたまごのごとく黄身をふくまず小さいが、その発生は少しくことなったところがある。しかし大体においてはこれと同様で桑実期そうじつきの次には、やはり二重の細胞さいぼうそうよりなる茶碗ちゃわん形の時代がくる。茶碗ちゃわんはまた深くなって湯呑ゆのみみやつぼの形になるが、この時代にたつすると、外のそう細胞さいぼうと内のそう細胞さいぼうとの間にだんだん相違そういあらわれ、外層がいそうのは小さくて数が多く、内層ないそうのは大きくて数がやや少なく、そのはたらきにも分業が始まり、外細胞さいぼうは主として感覚かんかくをつかさどり、内細胞さいぼうはもっばら消化をつとめるようになる。独立どくりつ自営じえいする動物でこれと同様の構造こうぞうを有するものは「ヒドラ」、「さんご」、「いそぎんちゃく」のるいであるが、これらはいずれも身体は湯呑ゆのみみのごとき筒形つつがたで、内外二枚にまい細胞さいぼうそうよりなり、一端いったんには口があり、他端たたんじている。発生の途中とちゅうとはちがい、自らえさとらえて食わねばならぬゆえ、そのための道具として口の周囲しゅうい若干じゃっかん触手しょくしゅそなえているが、これを取りのぞいて考えると、他の動物の湯呑ゆのみじょうの時期のものと構造こうぞうが全く一致いっちする。

「さんごの発生」のキャプション付きの図
さんごの発生

すなわち「さんご」は「なめくじうお」などの発生の道を、湯呑ゆのみじょうの時期までともに進みきたり、そこで成長せいちょうが止まったものと見なすことができる。言いえれば、我々われわれの発生の初期しょきには、一度「ヒドラ」、「さんご」などと同様な構造こうぞうを有する時代を経過けいかするのである。しこうして「さんごるい」の体内にある空所は食物を消化するところゆえ、ぶのが適当てきとうであるが、高等動物の発生中の湯呑ゆのみじょうの時期も、これにくらべて胃状いじょうの時代と名づける。すなわちわれら人間も発生のはじめには他のしょ動物と同じく、一度全身が胃嚢いぶくろのみである時代があって、神経しんけいほねのできるのはそれよりはるかに後である。文士ぶんし文句もんくに「筆は一本なり。はしは二本なり。衆寡しゅうぼてきせずと知るべし。」と、あったようにおぼえているが、発生を調べて見ても、食う器官きかんがまず最初さいしょにできて、思想の器官きかんはよほど後にあらわれる。人生第一の問題は何としてもパンの問題である。

三 体のびること


 単一たんいつ細胞さいぼう分裂ぶんれつしてまず細胞さいぼうかたまりとなり、次いで二重の細胞さいぼうそうよりなる胃状いじょうの時代にたつするまでは、変化へんか比較ひかくてき簡単かんたんであるが、これより先は構造こうぞうがだんだん複雑ふくざつになって、くわしく書けばそれだけでもすこぶる大部な書物となるほどであるゆえ、ここにはもとよりその一斑いっぱんをも十分にべることはできぬ。しかしながら、その中には人生を考える人々のためによい参考さんこうとなるであろうと思われる点がいくらもあるゆえ、その二三をえらんで要点ようてんだけを次に略述りゃくじゅつする。

「蛙の発生」のキャプション付きの図
かえるの発生

 胃状いじょうの時代にたつするまでは、子供こどもの身体は茶碗ちゃわん湯呑ゆのみみ、つぼなどと同じく、ただうらと表とがあるばかりで前後左右の差別さべつはないが、この時代をぎると、身体がおいおい前後にびて頭ととの区別くべつあらわれる。この変化へんかは、かえるたまごでもっとも容易よういに見ることができるゆえ、まずその図をかかげてこれに人間の子供こども比較ひかくして見よう。かえるたまご分裂ぶんれつして桑実期そうじつきぎ、胃状いじょうの時代にたつするまでは外形はつねに球のごとくで、前後もなければ左右もないが、この時代をぎると、球形の上面に細長いみぞが生じ、みぞ両側りょうがわはあたかも土手のごとくに高まるゆえ、みぞがいっそう明らかになる。このみぞのできる場所は後に身体のとなるがわで、みぞ両端りょうたんの向いている方角は身体の前端ぜんたん後端こうたんとにあたる。みぞ両側りょうがわの土手は、みぞ一端いったんかこんであい連絡れんらくし、とくに大きな土手をなしているが、これが後に頭となる部分である。これらの土手は後にのう脊髄せきずいとなるものゆえ、神経しんけいの土手と名づけ、その間のみぞ神経しんけいみぞと名づける。発生が進むにしたがい、神経しんけいの土手は高くなり、神経しんけいみぞは深くなり、ついにじてくだとなれば、体内にかくれて表面からは見えなくなる。神経しんけいみぞあらわれてからは、今まで球形のかえるの子の身体に前後の方角が明らかに知れるが、それよりは身体がおいおい前後の方向にびて長くなり、球形はへんじてたまご形となり、たまご形はへんじてうりの形となり、そのうちには、頭は頭、として形が判然はんぜんするようになり、いつとはなしに「おたまじゃくし」の形にてくるのである。

「第2週の胎児」のキャプション付きの図
第2週の胎児たいじ

 人間の子も桑実期そうじつき胃状いじょうの時代には、「ヒドラ」や「さんご」などと同様で、いまだ身体に前後の区別くべつがないが、第二週の終わりころにはすでにいちじるしく前後にびて、あたかも草履ぞうりのごとき形となる。前にもべたとおり、人間では他の獣類じゅうるい鳥類ちょうるいへび、「とかげ」などと同じく、早くから胎児たいじつつ膜嚢まくぶくろができるゆえ、かえるにくらべると発生の模様もようがいくぶんか複雑ふくざつになるをまぬがれぬが、これらの点をのぞいて身体だけをたがいにくらべて見ると、第二週の人間の胎児たいじは、やや長くなりかかったかえるの子にすこぶるよくている。すなわち図にしめしたとおり、体の背面はいめんの中央には一本の縦溝たてみぞがあるが、これが神経しんけいみぞである。またその下に小さなあなが見えるのは、神経腸しんけいちょうこうと名づけるもので、後に一時のう脊髄せきずい内の空所とちょう内の空所とを連絡れんらくするくだである。このくだかえるにもあれば鳥にもけものにもある。高尚こうしょうな思想をみ出す脳髄のうずいの内の空所と、大便だいべんたままり場所なる大腸だいちょうとが、発生中たとい一時なりともくだによって直接ちょくせつ連絡れんらくしていることは、はじめて聞く人には定めし奇怪きかいな感じをあたえるであろう。

四 ふしの生ずること


 胎児たいじの身体がたてびて大分長くなったかと思うと、直ちにその中央部に若干じゃっかんふしあらわれる。始めはわずかに三つ四つのふしがかすかに見えるだけであるが、たちまちふしの数も境界きょうかいもすこぶる明らかになる。

「兎の胎児」のキャプション付きの図
うさぎ胎児たいじ
(右)第8日目 (左)第9日目

図にしめしたのはうさぎの第八日目と第九日目との胎児たいじであるが、体の中軸ちゅうじくにあたるところに脊髄せきずいがあって、その左右両側りょうがわにいくつかのふしが見える。第八日目のものではその数が四つ、第九日目のものでは八つだけあるが、後にはさらにその数がえる。人間の胎児たいじでも全くこれと同様で、第十六日ないし第十八日くらいの胎児たいじを見ると、頭部をのぞいたほかは全身に明らかなふしが見えている。全体脊椎せきつい動物の身体は前後にならんだふしからなるもので、魚類ぎょるいなどではそれがもっとも明らかに見える。煮肴にざかなの皮をくと、その下の筋肉きんにくがあたかも板を重ねたごとくなっているのは、すなわちかようなふしである。人間や獣類じゅうるいでは、うでももを動かす筋肉きんにくが大きいために、どう筋肉きんにくふしが十分にあらわれぬが、それでもはらの前面の筋肉きんにく脊骨せぼねの後の筋肉きんにく肋骨ろっこつの間の筋肉きんにくなどには明らかにふしがある。胎児たいじわかいときにはいまだ手も足もなく、身体はたんぼうのごとくであるゆえ、どこにもふしきわめて明瞭めいりょうに見える。

「16日ないし18日における子宮内の胎児」のキャプション付きの図
16日ないし18日における子宮しきゅう内の胎児たいじ

 ふしが生ずると同時に、身体の内部に体腔たいくうしょうする広い空所ができる。けものでも鳥でも魚類ぎょるいでも、腹面ふくめんから切り開くと一つの広い空所があって、その内にきもちょうじんなどすべての臓腑ぞうふがしまってあるのを見るが、この空所がすなわち体腔たいくうであって、これをかこかべ体壁たいへきと名づける。はらかべ体壁たいへきの一部であるが、これを切り開くとちょうあらわれ、ちょうかべを切り開くとはじめてちょう内容ないよう物が見える。かように体壁たいへきちょうへきとの間には一つの広い空所があるが、これがすなわち体腔たいくうである。しかるに動物の中には体腔たいくうのあるものとないものとがある。たとえば「ヒドラ」とか「さんご」とかいうるいは、体の構造こうぞう簡単かんたんで、あたかも湯呑ゆのみみかつぼのごとき形をしているゆえ、体壁たいへきを切り開けば、直ちにはらの内にある食物があらわれるが、かようなるいには体腔たいくうはない。体腔たいくうのある動物と、ない動物とを比較ひかくすると、ある動物のほうがすべての点で進んでいるゆえ、体腔たいくう有無うむによって動物を高等と下等との二組に分けることができるが、人間の胎児たいじが十四五日ころから体内に体腔たいくうの生ずるのは、すなわち下等の体腔たいくうるいから高等のゆう体腔たいくうるいへ上りゆくところと見なすことができる。

「14日ころの胎児」のキャプション付きの図
14日ころの胎児たいじ

はじめて体腔たいくうのできる具合いは動物の種類しゅるいによって多少ことなるが、少しく進めばみな同様になってしまう。もっともわかりやすい一例いちれいをあげて言えば、「なめくじうお」ではちょうかべから左右対をなした若干じゃっかんふくろのごときものが生じ、後にこれがちょうからはなれ、たがいにあい連絡れんらくしかつひろがって体腔たいくうとなるのである。すなわち体腔たいくうはじちょうえだのごときものであったのが、後にちょうえんが切れて独立どくりつの空所となったわけにあたる。
 さて動物の中で体が長くてたくさんのふしがあり、かつ体腔たいくうそなえた種類しゅるい如何いかなるものがあるかというと、まず「みみず」、「ごかい」などである。「みみず」は体が円筒えんとうじょうで、前端ぜんたん後端こうたんとの区別くべつがあり、頭からまでことごとく同様のふしよりなり、これを切り開いて見ると筋肉きんにくしつ体壁かべの内には広い体腔たいくうがあって、体腔たいくうの内を長いちょうたてつらぬいているが、これだけの点は、大体において人間の第十六日ないし第十八日目の胎児たいじにも「みみず」にも共通きょうつうである。されば人間も胎内たいない発生の途中とちゅうには一度「みみず」、「ごかい」のるいとよく構造こうぞうを有する時代があると言うて差支さしつかえはない。

五 脊骨せぼねのできること


 人間を始めすべて獣類じゅうるい鳥類ちょうるい魚類ぎょるいかめへびかえるなどいわゆる脊椎せきつい動物の特徴とくちょうは身体の中軸ちゅうじく脊骨せぼねを有することであるが、この脊骨せぼねなるものはもちろん、はじめからすでにあるわけではなく、発生の進むにしたがうて次第しだいにできてゆくものである。しかもそのでき始めはけっして硬骨こうこつではなく、軟骨なんこつよりもさらにやわらかい一種いっしゅ特別とくべつ組織そしきからつくられ、脊骨せぼねに見るごときふしは一つもなくて、たんに一本のさくにすぎぬ。これが後にいたって軟骨なんこつとなり、さらに硬骨こうこつとなって、ついに成長せいちょうし終わった姿すがた脊骨せぼねとなるのであるが、いま了解りょうかいをたやすくするため、まず「なめくじうお」について脊骨せぼねのでき始まる具合いを説明せつめいし、つづいて人間の脊骨せぼねの発生をきわめて簡単かんたんべて見よう。骨格こっかくの発生などということは、実は一般いっぱんの読者には無味むみ乾燥かんそうで、さだめて読み苦しいことであろうとは思うが、脊骨せぼねは人間をもふく最高さいこう動物るいのいちじるしい特徴とくちょうであるゆえ、その始め如何いかにして生ずるかを知っておくことは、考えようによってはやはり人生をるときの重要じゅうよう参考さんこうとならぬともかぎらぬ。

「「なめくじうお」の脊索の発生」のキャプション付きの図
「なめくじうお」の脊索せきさくの発生

 ここにかかげた図は、いずれも「なめくじうお」の発生中の幼魚ようぎょ横断面おうだんめんしめしたものである。こいふな輪切わぎりにした切口にくらべて考えたならば、おおよその見当はつくであろうが、図の上部は魚の背面はいめん、図の下部は魚の腹面ふくめん、図の横側よこがわは魚の側面そくめんにあたる。小さな幼魚ようぎょ断面だんめんを四百倍以上いじょう郭大かくだいした図であるから、一個いっこ一個いっこ細胞さいぼうさかいが明らかに見えている。この四個よんこ横断面おうだんめんはそれぞれ少しずつ成長せいちょう程度ていどことなった幼魚ようぎょから取ったもので、(一)はたまごからかえったばかりのもの、(二)はそれよりやや後のもの、(三)はなお少しく後のもの、(四)はさらに発生の進んだものであるから、この四図を順々じゅんじゅんにくらべて見れば、その間に起こる構造こうぞう上の変化へんかが一目して知れる。体の表面をつつ細胞さいぼうそう皮膚ひふであるが、図ではこれが黒く画いてある。背側はいそく皮膚ひふの下に同じく黒い細胞さいぼうの列があるが、これは脊髄せきずいのできかかりで、後に神経系しんけいけいの中央部となるべきものである。また腹側はらがわ皮膚ひふの直下にあって、体内の大部分をめているのはちょうの切口である。これだけは四図ともにほぼ同様であるが、脊髄せきずいちょうとの間にあたるところが図によって少しずつちがう。そのうち、体の中央線のところに起こる変化へんかが、今よりこうとする脊骨せぼねのでき始まりであって、その左右両側りょうがわに見える変化へんかは前のせつべた体腔たいくうのでき始まるところである。体腔たいくうのでき方は簡単かんたんながらすでにべたゆえここにはりゃくして、脊骨せぼねのでき始まる具合いだけを見るに、はじめ何もなかったちょう背側はいそくかべにまず細い縦溝みぞが生じ、次にみぞ空隙くうげきは消えてみぞ両側りょうがわにあった細胞さいぼうのならび方が少しくわり、後にはこれらの細胞さいぼうだけで独立どくりつぼうとなり、ちょうとはわかれて脊髄せきずいちょうとの間にくらいするようになる。言うまでもなく、横断面おうだんめんではすべて切口だけがあらわれるゆえ、みぞはくぼみのごとくに見え、ぼうは円形に見える。すなわち(二)の図でちょうかべ背部せぶに下より上に向かうてれ目の見えるのは縦溝たてみぞである。(三)の図ではこのみぞがすでになくなり、(四)の図では脊髄せきずいちょうとの間に楕円だえん形のものが見えるが、これはちょうからわかれて独立どくりつしたぼうの切口である。このぼうは「なめくじうお」では生涯しょうがい身体の中軸ちゅうじくをなし、他の動物の脊骨せぼねに相当するが、ほねにもならず軟骨なんこつにもならぬゆえ、ただ脊索せきさくと名づける。
 人間の胎児たいじにおいても脊骨せぼねは発生の途中とちゅう突然とつぜん脊骨せぼねとして生ずるわけではなく、まずはじめは、脊索せきさくができる。しこうしてそのでき始まる具合いは、「なめくじうお」についてべたところと同じく、腸壁ちょうへきの中央線にあたる細胞さいぼうちょうからかれ、独立どくりつして一本のぼうとなるのである。第十三日くらいの胎児たいじではちょうかべはいまだ平らで脊索せきさくのできかかりも見えぬが、そのころからおいおいでき始めてたちまち身体の中軸ちゅうじくいた一本のぼうとなり、このぼう周囲しゅうい軟骨なんこつが生じ、脊骨せぼねの発育が進むにしたがうて内なるぼうすなわち脊索せきさく次第しだい次第しだいにそのりょうげんずる。脊索せきさくたん紐状ひもじょうのものでふしは全くないが、これをつつ軟骨なんこつにははじめから多くのふしがあって脊骨せぼねと同じ形にできる。一箇月いっかげつ半ころまでは胎児たいじ骨骼こっかくは全部軟骨なんこつのみからなっているが、七週くらいになると脊骨せぼね軟骨なんこつ各片かくへんの中央に一つずつ小さな点があらわれ、このところから漸々ぜんぜんかたほね変化へんかし始める。軟骨なんこつ葛餅くずもちほどに透明とうめいなものであるが、硬骨こうこつ石灰質せっかいしつふくんだ白色不透明ふとうめいなものゆえ、軟骨なんこつ内に化骨かこつしたところができればすこぶる明瞭めいりょうに知れる。とくに近来のエッキス光線で写真にでも取れば硬骨こうこつだけは明らかに暗いかげとなって写る。いったん化骨かこつし始めると、だんだん硬骨こうこつの部が大きくなり軟骨なんこつの部はそれだけげんずるゆえ、その割合わりあいを見て胎児たいじ月齢げつれい鑑定かんていすることもできる。生まれるころになっても、なお軟骨なんこつのままにのこっているところはいくらもある。
 かくのごとく人間の胎児たいじではまず脊索せきさくができ、次に脊索せきさく軟骨なんこつ脊骨せぼねと入れ代わり、次に軟骨なんこつ漸漸せんぜん硬骨こうこつ化して成人せいじんに見るごときかた脊骨せぼねができ上がるのであるが、脊椎せきつい動物を見渡みわたすと、これらの階段かいだんに相当する種類しゅるいがそれぞれある。すなわち「なめくじうお」は一生涯いっしょうがい脊索せきさくを有するだけでそれ以上いじょうに進まず、「やつめうなぎ」は一生涯いっしょうがい脊索せきさくそなえているが、そのほかに少しく軟骨なんこつの部分があり、「さめ」、「あかえい」のるいは全身の骨骼こっかく一生涯いっしょうがい軟骨なんこつでとどまるゆえ、このるいとく軟骨なんこつ魚類ぎょるいと名づける。「あかえい」のほねは日本でも肉とともに食うが、「さめ」の軟骨なんこつは「明骨めいこつ」ととなえて支那しな料理りょうりでは上等の御馳走ごちそうに使う。その他の脊椎せきつい動物では骨骼こっかくかな硬骨こうこつ軟骨なんこつとの両方からり立っている。
 以上いじょう本章においてべたところをり返って見ると、人間が個体こたいとしての発生の始めはきわめて微細びさい簡単かんたんなもので、まず最初さいしょには「アメーバ」のごときたん細胞さいぼうの時代があり、次に同じ細胞さいぼうの集まった原始虫類ちゅうるい群体ぐんたいのごとき時代があり、次に「ヒドラ」、「さんご」などのごとき時代があり、次に「みみず」のごとき時代があり、それより「なめくじうお」のごとき時代、「やつめうなぎ」のごとき時代、「さめ」のごとき時代などを順々じゅんじゅん経過けいかして、ついにけものらしい形状けいじょう構造こうぞうを有するにいたるのである。これだけは実物について調べれば直接ちょくせつに目の前に見られる事実で、けっしてうたがいをはさみべき性質せいしつのものでない。もし母の体にガラスのごとき透明とうめいまどがあったならば、これだけのことは何人なんびとの発生にも見えたはずのことで、王様でも乞食こじきでも西洋人でも黒人でもこの点は少しも相違そういはない。およそ何物でもその真の性質せいしつ価値かち等を正当に了解りょうかいするには、はじめて生じた時から今日にいたるまでの経過けいか参考さんこうすることがきわめて必要ひつようで、もしもこれをおこたり、ただでき上がった姿すがたのみについて判断はんだんするとずいぶんあやまった考えを生ぜぬともかぎらぬ。近ごろは「生」をろんずることがすこぶる流行するように見受けるが、人間についても、そのでき上がったもののみを見るにとどめず、そのたん細胞さいぼうであったころまでも考えに入れて、「みみず」時代には如何いかが、「なめくじうお」時代には如何どうというような問いをもうけて見たならば、あるいは議論ぎろんの立て方にも感情かんじょう程度ていどにも、大いにかわわることもあるであろう。


第十五章 胎児たいじの発育


 前章においては人間の胎児たいじのでき始めだけについてべたが、この章においてはさらに胎児たいじ全形の発育および二三の体部の漸々ぜんぜんでき上がる状態じょうたい簡単かんたんいて見ようと思う。人間は受胎じゅたいしてより生まれるまでに、おおよそ四十週すなわちまん九箇月きゅうかげつと十日ばかりかかるが、そのうち最初さいしょの一週間か十日間はたまご輸卵ゆらんかん通過つうかしながら分裂ぶんれつするだけでいまだ体の形をなすにいたらず、また三箇月さんかげつの終わりになると、すでに小さいながら体の形だけはでき上がり、わずか三寸さんずん(注:9cm)にもたらぬ身体にしては頭が割合わりあいに大きいが、も全くなくなり、手足の形もととのい、指も五本ずつそろうてうすつめまであるようになる。されば体形がいちじるしく変化へんかするのは、第二週から第三箇月かげつまでの間であって、それより後はただ各部かくぶ発達はったつが進み全身が大きくなるだけである。


一 全形


 まず胎児たいじ全身の形が如何いかわってゆくかを見るに、懐胎かいたい第一箇月かげつのなかほどには前に図(注:14日ごろの胎児の図)にしめしたとおり、ほとんど「みみず」の短いもののごとき形で、体の長さわずかに一分(注:3mm)にもたつせぬが、

「27日ごろの胎児」のキャプション付きの図
27日ごろの胎児たいじ

二十日目ごろになると、手足のでき始めがいぼのごとき形にあらわれ、体の長さも四分よんぶ(注:12mm)以上いじょうになる。これより後の体形の変化へんかは、いちいち文句もんくで書くよりは図によるほうが説明せつめいにも了解りょうかいにも便利べんりであろうと思うから、ここに第二週ごろから第二箇月かげつの終わりまでの胎児たいじの発生をしめした図をげて、読者とともにこれを見ることとする。

「胎児の発育」のキャプション付きの図
胎児たいじの発育
受精じゅせい後第2週より第2箇月かげつの終わりにいたるまでの

まず一番上の横列にしめしてあるのは、いずれも第三週間の胎児たいじで、左のはしのがおよそ十三四日くらい、右のはしのが二十日くらいのものであるが、かような初期しょき胎児たいじはいまだすこぶる小さいのみならず、我々われわれのつねに見なれている成人せいじんの身体にして形が非常ひじょうちがうゆえ、胎児たいじのどの部分が成人のどの部分になるか簡単かんたん説明せつめいすることは容易よういでない。この列の胎児たいじにはみな腹面ふくめんに丸いふくろがつながっているように画いてあるが、これは「黄身ふくろ」と名づけるうすまくふくろで、後に子供こどもの身体となるべきものではないゆえ、他の列の図と比較ひかくする場合には、これをのぞいて考えるがよろしい。図はことごとく実物の二倍大に画いてあるゆえ、二分の一にちぢめれば実物の大きさが知れる。次に第二列に画いてあるのは、みな一箇月いっかげつ下旬げじゅん胎児たいじで、そのうち左のはしのが二十三四日のもの、中央のは二十七八日のもの、右のはしのがおおよそ三十日くらいのものである。すなわち上二列を合わせて、懐妊かいにん第一箇月かげつ下半かはんにおける胎児たいじの発育をしめすことにあたる。この列の胎児たいじはいずれもが丸くし、とく頸筋けいきんへんで急に曲がっているゆえ、顔は直ちにはらに面している。また体の後端こうたんには明らかながあるが、これは前に向かうて曲がっているゆえ、ほとんど鼻の先にふれそうである。右のはしの図で見ると、一箇月いっかげつの終わりごろの胎児たいじでは頭とどうとはほとんど同じぐらいの大きさで、体の後端こうたん脊骨せぼねのつづきをふくんだ短いで終わり、どう上端じょうたん下端かたんに近いところから、うであしとができかかっているが、いまだ開かぬ松蕈まつたけのごとき形で手足らしいところは少しも見えぬ。いずれの図でも胎児たいじはらからは太いひもが出ているのを、根本ねもとに近く切りてたごとくに画いてあるが、このひもは後々までのこへその始りである。
 第三列より第五列までにならべてあるのは、第二箇月かげつ胎児たいじで、第三列の左のはしのはそのはじめ、第五列の右のはしのはその終わりにあたるものである。これらを順々じゅんじゅんにくらべて見るとわかるとおり、第二箇月かげつの間には顔もだんだん人間らしくなり、手足もしだいに形がそなわり、もすこぶる短くなって、その月の終わりには、もはやだれが見ても人間の胎児たいじと思われぬほどの形となる。しかしいまだ頭が非常ひじょうに大きく、足は手のわりには小さい。また男になるのか女になるのか少しもわからぬ。なお第三週第四週ごろの胎児たいじには、くび両側りょうがわ魚類ぎょるいに見ると同じような鰓孔えらあなが四つずつもあるが、第二箇月かげつの間にこれらの鰓孔えらあな次第しだいに見えなくなって、ただその中の第一番のものだけが、耳のあなとなって後までのこる。これによって見ると、陸上りくじょう動物の耳のあなは、魚類ぎょるい鰓孔えらあなの一つに相当することが明らかに知れる。
 胎児たいじの全形は三箇月さんかげつすえにはほぼでき上がるゆえ、三箇月さんかげつ以後いごはただ各部かくぶが大きくなるだけで、べつにいちじるしく変形へんけいするところはない。二箇月にかげつではいまだ男女のべつ判然はんぜんせぬが、三箇月さんかげつすえにはもはや外陰部がいいんぶ形状けいじょうが明らかになって、男か女かは一目いちもくして識別しきべつせられる。さらに五箇月ごかげつごろからは全身に細い毛が密生みっせいし、六箇月ろっかげつになると胎児たいじが動き始め、七箇月ななかげつにはよほど発育が進んで身長も一尺いっしゃく(注:30cm)以上いじょうとなり、もしみ出されても生存せいぞんるぐらいになる。かくて月満つきみちれば、大きな赤子となって生まれでるのである。以上いじょうべたとおり人間の胎児たいじは、けっしてはじめから成人せいじん縮小しゅくしょうしたごとき形にできるのではなく、最初さいしょは全く形のちがうたものができ、それより漸々ぜんぜん形状けいじょう変化へんかし、新たな器官きかんが生じなどして、ついに生まれるときの赤子の形ができる。たとえば体の後端こうたんにあるのごときも、はじめ明らかにあったものが後に消えせる。すなわち二十日ごろまでは手も足もなく、体は後ほど細くなり長いで終わってあたかも魚類ぎょるいのごとくであったのが、その後手足が生じ、手足がびても暫時ざんじが明らかに見えて「いもり」、「さんしょううお」または犬、ねこ胎児たいじと同じ形をていしている。体がさらに大きくなり、手足がなおびるとともに、はだんだん短くなり、三月目さんかげつめにいたると、は全くかくれて見えなくなる。しかしほねだけは成人せいじんになっても尾'テイ骨びていこつとしてのこり、人によってはこれを左右にり動かすための筋肉きんにくまでもそんしている。

「尾の残っている子供」のキャプション付きの図
のこっている子供こども

まれには前頁ぜんぺーじの図をしめしたごとくに、生まれた後にものこっていることがある。頭とどうとの大きさの割合わりあいうであしとの長さの割合わりあいなども発生の進むにした漸々ぜんぜんわってゆくが、生まれたばかりの赤子はなおそのつづきとしてどうにくらべると頭が大きく、前肢ぜんしにくらべると後肢こうしが短い。

二 顔


 おおよそ人間の身体中で一番人間らしいところ、すなわち他の獣類じゅうるいにくらべて一番ちがうた感じを起こすところはどこかといえば、だれでもかなず顔と答えるであろう。顔はただに人間と獣類じゅうるいとでちがうのみならず、一人一人にちがうて、如何いかによくていても、ならべて見ればかなずどこか相違そういがある。されば顔はその人の商標しょうひょうのごときもので、はら背中せなかうでももを見たのではだれであるか容易よういにわからぬが、顔さえ見ればけっして他と間違まちがえることはない。昔から肖像しょうぞうと言えばかなず顔の画のことで、今日入学試験しけんえ玉をふせぐために調べるものも顔の写真である。顔はかく重要じゅうような体部であるゆえ、ここに少しくその発生の模様もようべて見よう。

「二十八九日ごろの胎児(七倍半大)」のキャプション付きの図
二十八九日ごろの胎児たいじ(七倍半大)

 たん細胞さいぼう時代、細胞さいぼうのかたまりの時代、「ヒドラ」、「さんご」のごとき時代、「みみず」のごとき時代には、むろんいまだ顔と名づくべき部分はないが、その後になるとおいおい顔という部分が明らかになってくる。すなわち第四週ごろにはそろそろ頭の側面そくめん腹面ふくめんに、、鼻のごとき感覚かんかく器官きかんが生じ、その間に大きな口が開いて、すこぶる不恰好ぶかっこうながら一種いっしゅの顔ができる。前頁せんぺーじの図は第二十八九日ごろの胎児たいじであるが、これを見るとはいまだ頭の側面そくめんにあり、口は大きく「へ」の字形に横にびて、上顎うわあごはいまだ完全かんぜんにでき上がらず、鼻のあな両眼りょうがんの間にくらいして左右あい遠ざかり、かつそれぞれ口と連絡れんらくしているゆえ、「さめ」や「あかえい」の鼻によほどよくている。絶世ぜっせいの美人でも非凡ひぼん豪傑ごうけつでも一度はかなずこのような顔をしていたので、これから成長せいちょうしてするど掏摸すりの顔になるか、それとも間のけた善人ぜんにんの顔になるかは、まえもって知ることはとうていできぬ。

「第五週の終わりごろの胎児(五倍大)」のキャプション付きの図
第五週の終わりごろの胎児たいじ(五倍大)

 この図は第五週の終わりごろの胎児たいじの顔である。大体においては前の図とよくているが、上顎うわあご発達はったつがやや進み、鼻のあなと口との間の連絡れんらくみぞがだいぶ細くなり、かつ口もじている。はやはり頭の側面そくめんにあり、鼻はただあながあるだけで、いまだ左右にはなれている。人間では鼻といえば顔の前面へ突出つきだした山のごとき形のものと思うが、かく突出とつしゅつするのはよほど後のことであって、三箇月さんかげつぐらいの胎児たいじでも鼻はほとんど扁平へんぺいである。また上顎うわあごは左右両側りょうがわの部と、中央にある部とが後にあいつらなってでき上がるものであるが、その結果けっかとして鼻のあなと口とは表面ではえんが切れる。ただしそのうらのところではあい変らず連絡れんらくしていて、この連絡れんらく成長せいちょうの後までのこっている。鼻のあなからとおした紙撚かみこよりを口のほうへ引き出すことのできるのはそのためである。また上顎うわあごの中央部と、左右いずれかの側部そくぶとの間が完全かんぜんにつながらず、その間に多少くぼんだところがのこると、いわゆる「三口」のができる。

「第七週の終わりごろの胎児(五倍大)」のキャプション付きの図
第七週の終わりごろの胎児たいじ(五倍大)


「二箇月の終わりごろの胎児(三倍大)」のキャプション付きの図
二箇月にかげつの終わりごろの胎児たいじ(三倍大)

 前頁ぜんぺーじ下図は第七週の終わりの胎児たいじ、右図は第二箇月かげつの終わりの胎児たいじの顔である。このくらいまで進むと、すでにいくぶんか人間の顔らしくなる。ただしはいまだよほど左右に向かい、鼻は全く扁平へんぺいで下を向くべき鼻のあなは真正面を向いている。とくちがうて見えるのは、耳のあな位置いちで、ほとんど下顎あごの下にある。これよりのとの顔面の発育はただ一歩一歩赤子の顔にてくるだけで、もはやいちじるしい変化へんかはない。耳ははじあなばかりであったのが、二箇月にかげつのころ少しずつ耳殻じかくの形ができかかり、三箇月さんかげつにはよほど形も整うてくる。最初さいしょは円く開いたままであるが、四箇月よんかげつごろに眼瞼まぶたができ上がり、その後はじていて七箇月ななかげつから開くようになる。八箇月はちかげつでは下顎あごがやや大きくおとがいが明らかになり、九箇月きゅうかげつでは頭のかみく長くなる。

「手長猿の胎児」のキャプション付きの図
手長猿てながさる胎児たいじ

 人間の胎児たいじの顔は如何いかなる動物の顔にもっともよくているかというに、最初さいしょのうちはただ他の獣類じゅうるい胎児たいじているというだけで、成長せいちょうした動物でこれにたものはないが、二箇月にかげつ以後いこうのものはよほど猿類えんるいている。とく猿類えんるい胎児たいじとならべたならばほとんど取りえてもわからぬほどによくている。前頁ぜんぺーじにかかげた手長猿てながさる胎児たいじのごときは、これを三箇月さんかげつの終わりの人間の胎児たいじにくらべたら、どこがちがうかむしろ相違そういの点を見いだすのに苦しむぐらいであろう。

三 脳髄のうずい


 顔は人間が外見上自身を他の獣類じゅうるいから区別くべつし、万物のれいとして自負する点の一であるが、さらに人間が日夜そのはたらきを自慢じまんしておかぬ器官きかん脳髄のうずいである。人間が他の獣類じゅうるいほろぼしたのも、文明人が野蛮人やばんじん征服せいふくしたのも、主として脳髄のうずいはたらきによることゆえ、これを自慢じまんするのは当然とうぜんであるが、その代わりまた脳髄のうずいはたらきにたよりすぎて、他の獣類じゅうるいがかつてせぬようなおろかなことをなしていることもけっして少なくない。ただ両方を差引さしひ勘定かんじょうして、なお個体こたい維持いじ種族しゅぞく維持いじとに有効ゆうこうであったゆえ、それで脳髄のうずいとおといのであろう。それはしばらくべつとして、ここに胎児たいじ脳髄のうずいの発生の模様もようを一とおりべることとする。

「20日ごろの胎児の脳を示す(側面)」のキャプション付きの図
20日ごろの胎児たいじのうしめす(側面そくめん

 たいていの動物には、発生の初期しょきに一度はかなず全身が胃嚢いぶくろのごとき状態じょうたいの時代のあることを前にべたが、脊椎せきつい動物ではそれに次いでまずあらわれる器官きかんのう脊髄せきずいである。人間の胎児たいじでも、十二三日目のものにはすでに背面はいめんの中央にたてみぞがあるが、これはのう脊髄せきずいのでき始まりで、十五日ごろになるとみぞじてくだとなる。しこうしてくだ前端ぜんたんに近い部分には、いくつかややくびれたところができ、くびれとくびれとの間は少しくふくれて多少珠数じゅずた形になる。かようにふくれたところは大脳だいのう中脳ちゅうのう小脳しょうのう延髄えんずいなどのでき始まりで、最初さいしょは一直線にならんでいるが後には種々しゅしゅ屈曲くっきょくし、各部かくぶ発達はったつ程度ていどにも種々しゅしゅ相違そういが生じて、しまいに複雑ふくざつきわまる成人せいじん脳髄のうずいまでに進むのである。はじきわめて簡単かんたんくだから、後に複雑ふくざつきわまる脳髄のうずいになるまでの変遷へんせん逐一ちくいち調べると、おもしろいことがすこぶる多くあるが、本書ではとうていこれをくわしく記述きじゅつすることはできぬゆえ、ここにはただ大脳だいのう中脳ちゅうのう小脳しょうのうの大きさの割合わりあい次第しだいへんじてゆくありさまをべるにとどめておく。右の中で、大脳だいのう知情意ちじょうい等のいわゆる精神せいしんてきはたらきをするところで、物を記憶きおくするのも理をすのもこの部の役目であるから、人間にとってはすこぶる必要ひつようなところである。人間が他の獣類じゅうるいにまさるのは主としてこの部の発育の進んでいる点にある。小脳しょうのうは全身各部かくぶの運動を調和するところで、この部がきずつけば身体の一部一部は動いても、目的もくてきにかのうた一致いっち調和した全身の運動はできぬ。また中脳ちゅうのうは一名視神経ししんけい葉とも名づけるもので、主として視神経ししんけい連絡れんらくしている。
「2箇月の胎児の脳」のキャプション付きの図
箇月かげつ胎児たいじのう

 人間の第二十日ぐらいの胎児たいじでも、すでに脊髄せきずい前端ぜんたん脳髄のうずい各部かくぶ識別しきべつすることができるが、一番大きいのは中脳ちゅうのうで、小脳しょうのう大脳だいのうもこれよりはるかに小さい。すなわちこの点においては魚類ぎょるいのうと同じである。かりにこのまま成長せいちょうしたとすれば、その者の知力はおそらく魚類ぎょるい以上いじょうのぼらぬであろう。それより大脳だいのうは他の部にしてすみやかに成長せいちょうし、第八週の中ごろには大脳だいのうの左右両半球は中脳ちゅうのうよりもだいぶ大きくなるが、小脳しょうのうのほうはなおはるかに小さい。このころの脳髄のうずいを他の動物に比較ひかくすれば、まずかえる脳髄のうずいくらいの程度ていどにあたる。

「三箇月の胎児の脳(側面)」のキャプション付きの図
三箇月さんかげつ胎児たいじのう側面そくめん


「三箇月の胎児の脳、脊髄」のキャプション付きの図
三箇月さんかげつ胎児たいじのう脊髄せきずい

大脳だいのうはその後ますます発達はったつして三箇月さんかげつの終わりころにはすでに脳髄のうずい過半かはんめるにいたる。しかし後面から見ると、大脳だいのう両半球の下には中脳ちゅうのうがやや大きく見え、その下に小脳しょうのうがひらたく見える。

「四箇月の胎児の脳、脊髄」のキャプション付きの図
四箇月よんかげつ胎児たいじのう脊髄せきずい

四箇月よんかげつ胎児たいじでは大脳だいのうがさらに大きくなったために中脳ちゅうのう次第しだいにこれにおおわれ、わずかに大脳だいのう小脳しょうのうとの間に菱形ひしがたあらわれるだけとなり、六箇月ろっかげつ胎児たいじになると、大脳だいのうのうの大部分をなし、他の部はことごとくその下にかくれ、中脳ちゅうのうは、大脳だいのう小脳しょうのうのうとの間のみぞを開いてのぞかなければ見えぬ。

「6箇月の胎児の脳」のキャプション付きの図
箇月かげつ胎児たいじのう

この程度ていどたつすると、脳髄のうずいの大体の形状けいじょうはすでに成人せいじん脳髄のうずいのとおりであるゆえ、これより後の発育はただ大脳だいのうの表面に凸凹でこぼこが生じ、回転とみぞとがだんだんえさえすればよろしいのである。五箇月ごかげつ六箇月ろっかげつごろの胎児たいじ脳髄のうずい大脳だいのうの表面がいまだ平滑へいかつであるゆえ、ねずみうさぎなどののうているが、七箇月ななかげつくらいのものは大脳だいのうの表面にいくつか明らかなみぞができているから、大体犬などの脳髄のうずいによくている。また八箇月はちかげつになれば、大脳だいのうの回転もみぞもさらにえてちょうど猩々しょうじょう脳髄のうずいくらいになる。
 以上いじょうべたとおり人間の推理すいり器官きかんなる大脳だいのうは、胎児たいじの発生にしたがうて一日一日と大きくなり、る時は魚のごとく、る時はかえるのごとく、またねずみうさぎのごとく、また犬、猩々しょうじょうのごとく、次第しだいに進んでしまいに高等複雑ふくざつなものとなることは明らかであるが、おそらく人間の種族しゅぞく幾千いくせん万年かの昔から今日までに進化し来たった間にも、ほぼこれと同様な経路けいろみ来たったのであろう。かく考えると、人間の脳髄のうずいなるものも畢竟ひっきょう、人間種族しゅぞく生存せいぞん必要ひつようなだけの程度ていどまでに進んでいるもので、けっして絶対ぜったい完全かんぜんはたらきをするものとは思われぬ。自然じぜん界で完全かんぜんと名づけるのは、いつもその種族しゅぞく生存せいぞんに間に合う程度ていどすにぎぬゆえ、人間の脳髄のうずいなどもこれを生存せいぞん必要ひつようなよりほかの方面に向かうてはたらかせたならば、どのくらいまで信頼しんらいのできるものか、すこぶるあやしいとの感じが起こるであろうが、これは世のいわゆる学説がくせつなるものにとらわれず、経験けいけんしるししてこれを判断はんだん取捨しゅしゃるためにはきわめて大切なことである。空理空論くうろんはおおむね大脳だいのうはたらきを過信かしんするところからくるのであるゆえ、胎児たいじにおける脳髄のうずい発育のありさまを知ることは、やがて経験けいけんに重きをおいて事物を判断はんだんする常識じょうしき発達はったつせしめる助けともなるであろう。

四 手足


 脳髄のうずいは物を考える器官きかんであるが、いくら物を考えてもこれを実行することができなかったならば、何の役にもたたぬ。しこうしてこれを実行するにはかなず手をようする。また手をはたらかせてさまざまの事を実行すれば、新たな経験けいけんの重なるにしたがい、これを記憶きおくむすびつけるために、脳髄のうずい次第しだい発達はったつする。すなわち、のうをもって手の仕事を考え、手によってのう発達はったつうながすことになるゆえ、その一をいてはけっして十分なはたらきはできぬ。人間が他の獣類じゅうるいに打ち勝ちたのは、全くのうと手とのはたらきによる。ここに胎児たいじにおける手のできかたの大略たいりゃくべ、ついでをもって足の発生をもべる。
 次頁じぺーじの図にしめしたのは手のでき始まりからほぼその形のでき上がるまでの順序じゅんじょあらわしたもので、もっとも小さいのは三週間、もっとも発育の進んだのは三箇月さんかげつくらいの胎児たいじから取った手である。ことごとく同じ倍数に郭大かくだいしてあるゆえ、その間に大きさのしてゆく具合いは、図によって直ちに知ることができる。

「手の発育」のキャプション付きの図
手の発育

「い」図は手が始めてどうの上部の側面そくめんあらわれたところで、いまだたんひくいぼのごとき形のものにすぎぬ。「ろ」図ではこれが少しく大きくかつ高くなり、「は」図ではさらに大きくなり、根元に少しくくびれたところが生ずる。しかしこのころまではいまだ部分の間の区別くべつはなにもない。ただ末端まったん周辺しゅうへんに少しく扁平へんぺいになったふちが見えるだけである。さらに進んで「に」図になると、この扁平へんぺいふちがいちじるしくなり、「ほ」図においてはこの部にあついところとうすいところとがたがちがいにできる。あついところはすなわち後に指となるべき部で、その数ははじめから五つある。「へ」、「と」の両図では指がだんだん明らかになるが、いまだ一本一本にはなれず、みずかきのごときまくでみなあいつらなっている。「ち」図では指は先端せんたんのほうから次第しだいあい分かれうでもいちじるしく長くなり、ひじの曲がりかども明らかに見える。「り」図、「ぬ」図はともにただ手頸てくびから先だけをしめしたものであるが、「り」では指はいまだ太く短く、「ぬ」にいたってはじめて、指のはしつめができ、指の形が完全かんぜんになる。これから後は、ただ全体が大きく成長せいちょうするだけであって、とくに言うべきほどの変化へんかはない。

「足の発育」のキャプション付きの図
足の発育

 足のできる具合いはほとんど手と同じであるゆえ、前の図についてべたことは全部上の図にもあてはまる。ただ手の指の代わりに足のゆびひじの代わりにひざという字を用いさえすれば他にはなにも変更へんこうする必要ひつようはない。とくにでき始まりのころには、手も足も全く同じ形で、とうていこれを識別しきべつすることはできぬ。ただ一はどうの上部に生じ、一はどうの下部に生ずるゆえ、位置いち相違そういによって手であるか足であるかを知りるのである。発生の進むにしたがい手足の形状けいじょう相違そういも少しずつあらわれてくるが、それはきわめて些細ささいなことで、明らかに手と形がちがうようになるのは、ようやく「ち」図にしめすころからである。このころの足を手にくらべて見ると、ゆびがやや短いこと、拇趾おやゆびが他のゆびよりも小さくないことに目がつくが、「り」図、「ぬ」図ではこの事がさらに明らかになり、しまいに足に固有こゆう形状けいじょうていするにいたる。胎内たいないにおいては一体に足のほうが手よりも発育がおくれる気味で、手の指があらわれるころには足のゆびはいまだなにも見えず、足のゆびのでき始まるころには手の指はすでにやや長くなっている。したがって生まれ出た赤子もあしはよほど短いが、出生後はその反対に足のほうがさかんにのびるので、成人せいじんではあしのほうがうでしてはるかに大きくなる。さればうであしとの長さの割合わりあいからいうと、胎児たいじ猿類えんるいと同様であって、人間の人間らしいあしの長い形は、出生後の成長せいちょうによってはじめて完成かんせいするのである。足のうらはじめ内を向いているが、これも出生後おいおい下を向くようになる。

五 陰部いんぶ


 人間の身体中でもっとも人の好奇心こうきしんぶものは、なんというても陰部いんぶである。多くの動物におけるごとく、人にも男女のべつがあってそれぞれ陰部いんぶ形状けいじょうことにし、かつつねにこれを隠蔽いんぺいする習慣しゅうかんがあるために、公然こうぜんこれを熟視じゅくしする機会きかいあたえられぬゆえ、これに対する好奇心こうきしんいきおきわめて強からざるをない。解剖かいぼう図譜ずふのもっとも手摺てすれているところはかな陰部いんぶの絵のあるところで、共同きょうどう便所べんじょかべのらくがきも多くは陰部いんぶの一筆画であることからおしても、如何いか陰部いんぶが人の意識いしき支配しはいしているかがわかる。生殖器せいしょくきの一部として考えれば、外陰部がいいんぶはただ出入口にぎぬから、けっして肝要かんような部分ではない。これを睾丸こうがん卵巣らんそう子宮しきゅう等にくらべれば、あたかも主人と玄関番げんかんばんとのごとき関係かんけいで、その役目もむしろひくいものである。しかし主要しゅよう器官きかんが体内にひそんでいるに反し、この部だけは直接ちょくせつに外面にあらわれているゆえ、その調査ちょうさには困難こんなんが少ない。胎児たいじの発生においても、男女の内部生殖器せいしょくき比較ひかく研究するとよほど面白いことがあるが、これは解剖かいぼう学、発生学の特殊とくしゅ知識ちしきようするゆえ、ここには全くはぶいて、ただ外陰部がいいんぶの発育変化へんかのみについてべる。

「外陰部の発生」のキャプション付きの図
外陰部がいんぶの発生

 次頁じぺーじしめしたのはすべて人間の胎児たいじ外陰部がいいんぶ郭大かくだいした写真である。「い」は第六週の胎児たいじ、「ろ」は第八週の胎児たいじであるが、このころにはいまだ男女のべつはない。第六週のころには、体の後部の腹面ふくめんにあたり、左右両足の間に小さなたて裂目きれめが一つあるだけで、これが肛門こうもん生殖器せいしょくきの出口とをねている。すなわちこの点においては、鳥類ちょうるいもしくは獣類じゅうるい中の「かものはし」などと同様である。第八週になると、この裂目きれめ前端ぜんたんに小さな丸い突起とっきができ、裂目きれめ両側りょうがわにはあつふちが生じ、全部をかこんで土手のごとくに皮膚ひふの高まったところがあらわれる。「は」、「に」はこれより男の外陰部がいいんぶができる順序じゅんじょしめした図で、「は」は二箇月にかげつ半、「に」は三箇月さんかげつ胎児たいじであるが、この二図をくらべれば、一々の部分を説明せつめいせずとも、おいおいに形の整うてゆくありさまが大体わかるであろう。はじ一個いっこであって裂目きれめは後には前後の二つに分かれるが、後のは肛門こうもんとなり前のは尿道にょうどうの出口となる。三箇月さんかげつくらいの胎児たいじでは、外陰部がいんぶの形もほぼでき上がって、その男なることは明らかに知れるが、尿道にょうどうの口はいまだ陰茎いんけい末端まったんに開かずしてその下面に開いている。もしこのままに成長せいちょうすると、尿道にょうどう下裂かれつしょうする奇形きけいになる。また、裂目きれめがやや大きいとちょっと男か女かわからぬような、いわゆる半陰陽はんいんようのものができる。「ほ」、「へ」の両図は「い」、「ろ」のごとき状態じょうたいから、女の外陰部がいいんぶができる順序じゅんじょしめしたものであるが、この場合でも、前と同じくはじめ一つの裂目きれめは前後の二つに分かれ、後のは肛門こうもんとなり前のは陰部いんぶの開口となる。「ろ」図で裂目きれめ上端じょうたんに見える円い突起とっきは、男のほうではだんだん大きくなって陰茎いんけい亀頭きとうとなるが、女ではそれほど大きくならずに豆のような陰核いんかくとなる。また「ろ」図に見える土手のごとき皮膚ひふの高まりは、男のほうでは睾丸こうがんおさめるための陰嚢いんのうとなるが、女ではそのまま大きくなって大陰唇だいいんしんとなる。以上いじょうべたとおり、でき上がった男女の外陰部いんぶ比較ひかくすると、一は突出つきだし一はくぼんで、その間にいちじるしい相違そういがあるが、発生の始めにはいずれも全く同形で、二箇月にかげつの終わりまでは、男になるか女になるかは少しもわからぬ。それからようやく男女の相違そういが少しずつあらわれ発生の進むにしたがい、一歩一歩にあい遠ざかって、ついに男女の区別くべつきわめて明瞭めいりょうになり終わるのである。それゆえ男女の外陰部がいいんぶ形状けいじょうがいちじるしくちがいながら、その各部かくぶ分をたがいに比較ひかくして見ると、男のどの部が女のどの部にあたるというように、一々あてはめてくらべることができる。また発育が不完全ふかんぜんであるか、る部が過度かどに大きくなるかすれば、その結果けっかとして、男か女かわからぬような曖昧あいまい外陰部がいいんぶが生ずるわけで、実際じっさいかような畸形きけいもときどきある。男の子が生まれるか女の子が生まれるかは、あるいはすでに受精じゅせいの時に確定かくていしているかも知れず、またらん細胞さいぼう精虫せいちゅうに男の子になるべきものと女の子になるべきものとの二種にしゅべつがあるかも知れぬが、これは形にあらわれぬから全く知ることができぬ。外形にあらわれたところをいうと、人間の胎児たいじ二箇月にかげつまではいまだ男女のべつがなく、三箇月さんかげつ目にその区別くべつが生じ、しかも徐々じょじょあい遠ざかって、その月の終わりには胎児たいじせい判然はんぜんとわかるようになるのである。男と女とは身体上のみならず、精神せいしんてき方面にもいちじるしい相違そういがあって、たがいに了解りょうかいすることのできぬところも少なくないが、胎児たいじ発生の模様もようからして考えると、これもけっして根本からの相違そういではなく、同じ根底こんていから出発しながら、ことなった方向に発達はったつしたために、たがいにあいへだたるにいたったものと思われる。

「半陰陽」のキャプション付きの図
半陰陽はんいんよう

 前章と本章とでいたところは、人間の胎児たいじ発生中の若干じゃっかんの点についてきわめて簡単かんたんべたのであるが、かような変化へんかはけっして人間にかぎるわけでなく、如何いかなる動物でもらん細胞さいぼうから、成長せいちょうした形までに発育する途中とちゅうには、かなず多少これにるいする変遷へんせん通過つうかする。獣類じゅうるいならばほとんど終わりまで人間にた発生を経過けいかするが、鳥類ちょうるい途中とちゅうからいくぶんかちがい、魚類ぎょるいはさらに早くからちがうというように、人間にた動物ほど人間と同様の発生をする時期が長い。これらのことを詳細しょうさいに調べるとすこぶる面白い事実もたくさんにあるが、あまり長くなるゆえここにはすべてこれをはぶき、ただ動物発生の一例いちれいとして人間自身の胎児たいじについてべるにとどめておく。しかしたんに人間の胎児たいじの発生だけでも、これを知ると知らぬとでは、人々の知情意ちじょういはたらきによほどことなったところが生ずるであろう。たとえば仏教ぶっきょうではあきらめることの一方法ほうほうとして、美人を見てもかわ一重ひとえげばその下はきたならわしい肉やちょうであると考えさせるとのことであるが、同じ筆法ひっぽうろんずれば、胎内たいない第五週ころに鼻のあなと口とがつらなって、顔が「あかえい」にていたことや、肛門こうもん生殖器せいしょくきの出口とのべつがなく、たんに短い縦裂じゅうれつであったありさまなどを目の前に考えかべたならば、さらに有効ゆうこうに思い切ることができるやも知れぬ。


第十六章 長幼ちょうようべつ


 親からまれたばかりの幼児ようじたまごからかえったばかりの幼児ようじが、親にくらべて小さかるべきは言うまでもないが、ただ大きさの相違そういのみならず形状けいじょうまでがいちじるしくちがうような種類しゅるいもずいぶんある。たとえば人間の赤子やにわとりひなは大体において体形が親と同じであるが、ちょうたまごからかえった毛虫は親のちょうにくらべると、体形も習性しゅうせいもまるでちがうてほとんどたところはない。生まれた時すでに親にているものは、成長せいちょうするにはただ大きくなりさえすればよろしいが、はじめ親と形のちが種類しゅるいでは、成長せいちょうする間に体形がいちじるしくわらねばならぬ。親とことなった形をして独立どくりつ生活を始め、成長せいちょうするにしたがい体形がへんじて、ついに親と同じ姿すがたたつすることを変態へんたいと名づける。変態へんたいをする動物では、同一種類しゅるいぞくする個体こたいにも長幼ちょうようによってはなはだしい相違そういがあり、素性すじょうを知らぬ者にはとうてい同一しゅのものと思われぬものが多い。
 前にもべたとおり、たいがいの動物は発生のはじめにたん細胞さいぼうの時代があり、次にくわの実のごとき時代があり、次に胃嚢いぶくろのごとき時代があり、それより複雑ふくざつ変化へんかをへて成長せいちょうした形までにたつするのであるゆえ、発生の始めまでさかのぼれば、如何いかなる動物でも大変化だいへんかをへぬものはない。されば変態へんたいをする動物とか変態へんたいをせぬ動物とかいうのは、ただいちじるしい体形の変化へんかを生まれる前にすませるか、または生まれてから後に変化へんかするかという相違そういにすぎぬ。人間でも胎内たいないの発生までを見れば、毛虫がさなぎになりさなぎちょうになるよりもはなはだしい変化へんか経過けいかしているのである。獣類じゅうるい鳥類ちょうるい変態へんたいするものの一種いっしゅもないのは、一は長く胎内たいないにとどまって親から滋養じよう分の供給きょうきゅうを受け、一はたまご内にふくまれた多量たりょう滋養じよう物をついやして親と同じ形にたつするまでの変化へんかを、生まれ出る前にすませるゆえであろう。

一 変態へんたい


 動物の変態へんたいでもっともよく人に知られたれいは、おそらくかえる昆虫こんちゅうるいとであろう。

「アメリカ熱帯地方産のマルチニック蛙の発生」のキャプション付きの図
アメリカ熱帯ねつたい地方さんのマルチニックかえるの発生

かえる変態へんたいは全く今べたごとき性質せいしつのもので、もしもたまごが大きくあったならば、孵化ふかする前にすませべきはずの変化へんかたまごが小さくて滋養じよう分がたらぬために、止むを孵化ふかした後にするように見える。その証拠しょうこには外国さんかえるで大きなたまご種類しゅるいでは、変態へんたいは全くなくて、かえり立てから、すでに四肢ししそなえた親と同じ形の小さなかえるができる。わが国の普通ふつうかえるは、春先に池やぬまにおのおの千何百というたくさんの黒いたまごたまごからはまず「おたまじゃくし」がかえって出て水中をおよぎまわり、水垢みずあかなどを食うて、よほど大きくなってからはじめて陸上りくじょうにはい上がる。「おたまじゃくし」は最初さいしょは前足も後足もなくふってって泳ぎ、えらで水を呼吸こきゅうして少しも魚類ぎょるいちがわぬが、成長せいちょうが進むとまず後足が生じ、次に前足があらわれる。しかし水中にいる間は、足は小さくて運動には何の役にも立たぬ。しかるにいったん陸上りくじょうへ出ると、足はたちまち大きくなり、次第しだいちじみ、かくて小さなかえるの形ができ上がる。五六月ごろに道行く人につぶされるほど、たくさんに池の近辺きんぺんの路上にび歩いているかえるの子は、みなこれだけの変態へんたい経過けいかしたものである。たいがいのかえるはこのとおりの変態へんたいをするが、アメリカ熱帯ねつたい地方の島に広くさんする一種いっしゅ雨蛙あまがえるでは、たまごの中でかえるの形まで発育し、陸上りくじょう孵化ふかして直ちに陸上りくじょうはねねまわる。もっともたまごからでた時には、体の後端こうたんに短いしるしがついているが、これは半日もたたぬうちに取れて落ちる。かようにこのかえる普通ふつうかえるちがうて変態へんたいをせぬが、その代わりたまご非常ひじょうに大きくて、その生まれる数もはなはだ少ない。すなわち親は普通ふつう雨蛙あまがえるぐらいの大きさでありながら、たまご直径ちょっけい一分いちぶ五厘ごりん(注:4.5mm)以上いじょうもあり、数はわずかに十五か二十よりまれぬ。変態へんたいをせぬかえるはこのほかにもなお幾種類いくしゅるいもあるが、いずれも大きなたまごを数少なくむものばかりである。
 昆虫こんちゅうるいには変態へんたいをするものとせぬものとがあるが、これはかなずしもたまごの大きなものならば、たまごの内で経過けいかすべき変化へんかを、たまごの小さいものではむを孵化ふか後に行なうというわけではない。ちょうはちはえなどに見るいちじるしい変態へんたいは、むしろ一生涯いっしょうがいの仕事を前後の二期に分かち、おのおのその期のはたらきにてきする体形を有するために、次第しだい生じたもののごとくに思われる。前にもべたとおり、動物の生涯しょうがいの仕事は食うてむにあるが、昆虫こんちゅうるいる者では一生涯いっしょうがいを前後の二期に分かち、前期にはもっばら食うことばかりをつとめ、後期には主としてむことに力をつくし、これがすめば生活の役目を終わったものとして死んでしまう。たとえばちょうるいでいえば芋虫いもむし、毛虫などの幼虫ようちゅう時代には体形構造こうぞうともにもっぱら食うことにてきし、はねが生えて空中をびまわる、成虫せいちゅう時代には体形構造こうぞうともに全くむことにてきしている。これはおそらく、一生涯いっしょうがいを通じて、同一の体形を有し、同一の構造こうぞうをもって食うことむことをね行なうよりははるかに有利ゆうりであるために、一歩一歩幼虫ようちゅう成虫せいちゅうとの相違そうい程度ていどが進み来たった結果けっかであろう。されば昆虫こんちゅうるいでは「ばった」、「いなご」のごとくに、たまごから孵化ふかしたときすでに親にた形をていし、いちじるしい変態へんたいなしに成長せいちょうし終わるものは、進化の程度ていどのもっともひくいものであって、ちょうるいはちはえのごとき幼虫ようちゅう成虫せいちゅうとの相違そういのすこぶるいちじるしいものは、もと変態へんたいをせぬ先祖せんぞから起こり、一歩一歩進化して今日の状態じょうたいたつしたものと考えねばならぬ。しこうして幼虫ようちゅう成虫せいちゅうとの体形や構造こうぞうがあまりいちじるしく相違そういするるいでは、昨日きのうまで幼虫ようちゅうであったものが、今日は皮をいで直ちに成虫せいちゅうになるというわけにゆかぬゆえ、その間に構造こうぞう変更へんこうのために若干じゃっかんの時期をようする。通常つうじょうさなぎしょうするのはすなわちこの期間のものである。多くは静止せいしして動かぬゆえ、外から見てはもっとも活動の少ない時のごとくに思われるが、体内の組織そしきを調べると実に一生涯いっしょうがい中の最大さいだい変動へんどうの時期で、幼虫ようちゅう時代のしょ器官きかんはほとんど全部消滅しょうめつし、そのわずかにのこっている部から新たに成虫せいちゅうしょ器官きかんが生じ、しばらくの間にほとんど別物べつものかと思われるほどの成虫せいちゅうの体ができ上がるのである。
 かくのごとく、変態へんたいという中には、たまごが小さく滋養じよう分がたらぬため、親と同じ形までにたつせぬうちに生まれ出るより起こる場合と、一生涯いっしょうがいに行なうべき仕事を、前後に分けてつとめるために起こる場合とがある。かえる変態へんたいは前の場合のれいであって、このほうの変態へんたいたまごが大きくなるか、または胎生たいせいにでもなれば、せずにすむべきものである。げんにアメリカ熱帯ねつたい雨蛙あまがえる一種いっしゅでは、「おたまじゃくし」時代をたまごの中で経過けいかする。しかも生まれ出たかえるは、かつ食いかつ構造こうぞうそなえているゆえ、個体こたい生存せいぞんにも種族しゅぞく維持いじにも何らの差支さしつかえが生ぜぬ。これに反して、ちょう変態へんたいは後の場合のれいであって、このほうは如何いかに体を大きくしても、幼虫ようちゅう時代をその中で過ごさせ、直ちに成虫せいちゅう姿すがたで生まれいでしめることはできぬ。何故なぜというに、幼虫ようちゅう成虫せいちゅうとは、一生涯いっしょうがいの仕事なる食うこととむことをそれぞれ専門せんもんとして分担ぶんたんしているゆえ、いずれの一方をいても、種族しゅぞく生存せいぞんをつづけることができぬからである。実際じっさいにはこの両方の中間にくらいするような場合もたくさんにあるが、いずれにしても、幼者ようしゃ幼者ようしゃとして特別とくべつ任務にんむがあって、たん成長せいちょうするための階梯かいていとのみ見なすことのできぬものが多い。人間のごときはとく変態へんたいということはないが、やはり幼者ようしゃにはまた幼年ようねんのときでなければできぬような自然じぜんつとめがあって、けっして成人せいじんの小さなものとして取りあつかうべきものでなかろう。

二 えびるいの発生


 同じく変態へんたいをする動物の中でも、たまごの小さい種類しゅるいたまごの大きな種類しゅるいにくらべると子が早くかえるために、変態へんたいをよけいに経過けいかしなければならぬことは、さまざまの動物について明らかに見られる。

「伊勢えびの幼虫」のキャプション付きの図
伊勢いせえびの幼虫ようちゅう

「えび」るいのごときもその一例いちれいで、大きなたまごむ「えび」の種類しゅるいでは小さなたまご種類しゅるいにくらべると、一つ次のだんから変態へんたいを始める。いったい甲殻類こうかくるいはずいぶん変態へんたいのいちじるしいもので、何度も体形がわってのちに、はじめて成長せいちょうした形にたつするゆえ、親はよく知られながら、子の全く知られていない場合もいくらもある。「伊勢いせえび」のごときも親の形はだれも見知っているが、その幼時ようじガラス細工ざいくのごとくに透明とうめいで、海の表面にかんでいるころの美しい姿すがたを知っている人はまれであろう。また甲殻類こうかくるいには「えび」、かにのほかに「船虫」、「わらじ虫」、「みじんこ」、「ふじつぼ」など実にさまざまの形のものがあって、これがことごとく変態へんたいをするが、その出発点と見なすべき形は不思議ふしぎによく一致いっちしている。

「ナウプリウス」のキャプション付きの図
ナウプリウス

すなわち、「みじんこ」でも「ふじつぼ」でも、たまごからかえったばかりの幼虫ようちゅうは、体は楕円だえん形で、腹面ふくめんかならず三対の足をそなえ、これを用いて活発に水中をおよぎまわっているが、他の甲殻類こうかくるいもすべてそのとおりで、発生の途中とちゅうに一度はかなず三対の足をそなえた、いわゆる「ナウプリウス」時代を経過けいかする。「えび」るいの子もむろんこの時代を通過つうかするが、たまごの大きな種類しゅるいではこれをたまごの中ですませ、たまごの小さな種類しゅるいでは孵化ふかした後暫時ざんじこの形で独立どくりつ生活をする。たとえば青森、北海道ほっかいどうなどにさんする「ざりがに」としょうするはさみの大きな「えび」は、つぶの大きなたまごむが、これより孵化ふかする子供こどもは、「ナウプリウス」時代をたまごの内ですでにすませ、その次のだんの形となっている。しかるに「しばえび」などではたまごがはるかに小さいゆえ、その内ではようやく「ナウプリウス」の形までにより発育することができず、孵化ふかして後もしばらくはその形で生活している。すなわちたまごの大きな種類しゅるいでは、個体こたいの発生中に起こるべき体形の変化へんかの大部分をたまごの内ですますゆえ、孵化ふかして後の変態へんたいはそれだけ少なくなり、たまごの小さな種類しゅるいでは、滋養じよう分が早くきて子は早く生まれ出るゆえ、孵化ふかして後にそれだけ多くの変態へんたいをせねばならぬ理屈りくつになる。これを人間の生活にくらべて言えば、たまごの内の滋養じよう分はあたかも子供こども学資がくしのごときもので、大きなたまごむ動物は十分な学資がくしのこす親、また小さなたまごむ動物はろくに学資がくしのこさぬ親にている。学資がくしを十分にもろうた子供こどもは大学を卒業そつぎょうするまで遊んでいられるが、学資がくしのたらぬものは止むをず、新聞を売ったり、牛乳ぎゅうにゅうを配ったりして自活しながら勉強せねばならぬ。この点からいうと、甲殻類こうかくるいの「ナウプリウス」のごときは一種いっしゅの苦学生とも言える。たまごの大小についてはすでに前にもべたが、種族しゅぞく維持いじ目的もくてきから見ると、いずれも一得いっとく一失いっしつがあり、各種かくしゅ動物の生活の事情じじょうことなるにしたがい、大きなたまごむほうが利益りえきになる場合もあれば、またその反対の場合もあろう。たまごが大きければ、いきおい数は少なからざるをぬゆえ、それより生じた大きな完全かんぜんな子が一匹いっぴき死んでも、種族しゅぞくに取って軽からぬ損失そんしつとなるが、小さなたまごならば無数むすうめるゆえ、それより生じた子が百匹ちゃっぴき二百匹にひゃっぴき死んでも、種族しゅぞくとしては少しも痛痒つうようを感ぜぬ。各種かくしゅの動物は、たまごを大きくしてその数をらすか、たまごを小さくしてその数をすかの二途ふたみちのうち、一方をるのほかはないが、小さなたまごを数多くむならば、かなずいくらかの変態へんたいをせぬわけにはゆかず、変態へんたいをすれば、長幼ちょうようの間にいちじるしい相違そういが生ずる。

「かきの幼児」のキャプション付きの図
かきの幼児ようじ

 なお一つれいをあげて見るに、貝類かいるいはまぐり、「あさり」のごとき二枚貝にまいがいでも、「さざえ」、「あかにし」などのごとき巻貝まきがいでも、たいていは目に見えぬほどの小さなたまごを数多くむものゆえ、そのはじめて孵化ふかした幼児ようじは親とは全く形状けいじょうちがい、繊毛せんもうり動かして水面みなもおよぎまわり、自活しながら幾度いくどか体形をへんじた後、ついに海底かいていしずんで、親と同じような形のものとなる。しかるに同じ軟体なんたい動物でも、「たこ」、「いか」のるい葡萄ぶどうつぶくらいの大きなたまごみ、それより孵化ふかした幼児ようじはじめから全く親と同じ形をしている。前のたとえにあてて言えば、「たこ」、「いか」の子はまず相応そうおうの学校を卒業そつぎょうしてから社会へ出るようなもので、これを他の貝類かいるいの子が幼少ようしょうの時から、自活のために種々しゅしゅ危険きけんおかしているのにくらべると、よほど安全であるが、その代わり生まれる数においては、他の貝類かいるいの子の無数むすうなるにくらべると、とうてい足もとにもよれぬ。

三 うなぎ子供こども


 魚類ぎょるいも小さなたまご種類しゅるいが多いゆえ、幼魚ようぎょと親との形状けいじょうちがうことはきわめて普通ふつうである。もっともたまごから出たときからすでに脊椎せきつい動物としての形をそなえているゆえ、変態へんたいというても、多くはたんに身体諸部しょぶ割合わりあいわったりするだけで、昆虫こんちゅうるいに見るようなはげしい変態へんたいはない。しかしながら多くの中には幼魚ようぎょの形が全く親とちがうので、親も知られ子も知られながら、それがたがいに親子であることが長く知られずにいたようなれいもいくつかある。

「まんぼうのもっとも若き幼児」のキャプション付きの図
まんぼうのもっともわか幼児ようじ


「まんぼうの幼児」のキャプション付きの図
まんぼうの幼児ようじ


「まんぼうの親」のキャプション付きの図
まんぼうの親

たとえばここに図をしめした「まんぼう」のごときも、その幼魚ようぎょはじめて見たものは、けっしてこれを親と同種類しゅるいの魚であるとは心づかぬにちがいない。

「うなぎの発生」のキャプション付きの図
うなぎの発生

うなぎ」なども幼魚ようぎょたしかにうなぎ子供こどもとして知られるにいたったのは、今よりわずかに十数年前のことにすぎぬ。うなぎはわが国ではどこの池にもぬまにも普通ふつうにいるもので、肉は蒲焼かばやきにでもすると、すこぶる美味びみであるゆえ、昔からだれにも知られているが、うなぎがいつどこでたまごむやら、またそのたまごから如何いかなる形の子がかえって出るやら少しも知られなかった。何匹なんびきとらえてはらいて見てもたまごの見つけられることはほとんどなく、またあってもたまごつぶきわめて小さいゆえ、普通ふつうの人にはたまごとは気がつかぬくらいである。それゆえうなぎ繁殖はんしょくかんしてはさまざまの俗説ぞくせつが行なわれ、うなぎ胎生たいせいするととなえている地方もたくさんある。うなぎ胎児たいじというものは幾度いくども見せられたことがあるが、いずれもみなうなぎはらの中に寄生きせいする一種いっしゅ蛔虫かいちゅうであった。胎生たいせいせつはおそらくこの間違まちがいから起こったものであろう。かくのごとくうなぎ繁殖はんしょくほうは長い間全くわからずにあったが、その後だんだん調べた結果けっかうなぎ産卵さんらんするにはかわを下って海に出て、やや深いところのそこまで行ってむもので、そのたまごからかえった幼児ようじは、一時親のうなぎとは少しもたところのない、透明とうめいなひらたい奇妙きみょうな魚になることがたしかに知れるにいたった。しかもこの幼魚ようぎょは、すでに前から漁師りょうしなどの知っていたもので、日本ではこのるいを「びいどろうお」と名づけていた。「びいどろうお」はそこを引くあみにはいくらもかかってくるが、その透明とうめいなることは実際じっさいガラスのとおりで、水中では全く見えぬくらいである。体はやなぎの葉のごとき形で長さ五六寸ごろくすん(注:15〜18cm)にもなるが、これがさらに成長せいちょうすると、不思議ふしぎなことにはここに図にしめすごとくに、体がだんだん縮小しゅくしょうし、はばせまくなり、長さもげんじ、その間に黒い色素しきそが生じて、しまいに小さなうなぎの形ができ上がる。この程度ていどまでたつすると、うなぎ幼魚ようぎょかわをさかのぼり、小川やみぞつたうて池やほりまでたつし、そこにとどまって大きくなるのである。幼魚ようぎょかわを上るときは実にさかんなもので、何百万か何千万かわからぬほどの大群たいぐんが、ただ流れにさからうて上へ上へと進んで行くゆえ、手拭てぬぐいですくうても百匹ひゃっぴきくらいは直ちに取れる。

「アメリカ魚の発生」のキャプション付きの図
アメリカ魚の発生

 成長せいちょうするにしたがうて体が小さくなることはちょっと奇態きたいに考えられるが、かようなれいはなおいくらもある。ここに図をかかげたのはアメリカ、カリフォルニアさんの魚であるが、これも幼魚ようぎょの時代には白魚によくた形で、体がやわらかく透明とうめい成長せいちょうするにしたがい体長はやく二分の一にげんじながら、次第しだいに親の形に近づいてくる。

「不思議蛙とその子」のキャプション付きの図
不思議ふしぎかえるとその子

また「おたまじゃくし」はかえるの子であるから、かえるよりも小さいのはつねであるが、種類しゅるいによっては親よりもはるかに大きいものもある。南アメリカにさんする「不思議ふしぎかえる」という種類しゅるいでは、親の体は長さ一寸いっすん五分(注:4.5cm)くらいにすぎぬが、そのんだたまごからできた「おたまじゃくし」は、もっとも大きいときは長さ八寸はっすん(注:24cm)あまりにもなる。そのときはどうだけでも二寸にすん五分(注:7.5cm)くらいもあり、の幅も三寸さんずん(注:9cm)以上いじょうたつするゆえ、親のかえるにくらべると実に何層倍なんそうばいも大きく、ほとんどぞうと人間とをならべたごとくである。しかしそれより成長せいちょうが進むと、「おたまじゃくし」の体はだんだんしまって、一度は親よりも小さくなり、さらに成長せいちょうしてついに親と同じものになる。
 うなぎ幼魚ようぎょでも、今べたかえるの「おたまじゃくし」でも、一度大きかったものが、成長せいちょうとともにちじむのは何故なぜかというに、これはけっして身体の生きた物質ぶしつ減少げんしょうするわけではなく、たんに水分がるだけである。

「つめた貝」のキャプション付きの図
つめた貝

成長せいちょうとは関係かんけいのないことではあるが、動物の体が水をうて大きくなり、水をいて小さくなることはつねに見るところで、あさ海底かいていすなの中にいる「つめた貝」なども、体をばしているところを見るとすこぶる大きくて、これが如何いかにして小さな貝殻かいがらの中へ引きるかと、実に不思議ふしぎにたえられぬ。しかるにこれを手に取ると、貝のやわらかい身体からはあたかも濡手拭ぬれてぬぐいでもしぼる時のごとくに、さかんに水がしたり落ち、水が出ただけ体が小さくなって、ついには始めの何分の一かにちぢみ、容易ようい貝殻かいがらの内にそさまってしまう。うなぎ不思議ふしぎかえるはじ成長せいちょうとともに小さくなるのは、けっしてかく急激きゅうげきに水をうしなうのではないが、漸々ぜんぜん水分をげんじさえすれば、真の生活する物質ぶしつえながら、外見上の体の大きさをちぢめることはできる。しこうして、幼児ようじとく多量たりょうの水分をふくむのはなんのためかというに、これはおそらく、体を大きくするか、または体を透明とうめいにするためであって、いずれにしても種族しゅぞく生存せいぞん上、とく幼児ようじにその必要ひつようがあるゆえであろう。幼児ようじと親との生活状態じょうたいちがえば、食うべきえさふせぐべきてきも、それぞれちがうであろうから、幼虫ようちゅうにはこれに対する特殊とくしゅ装置そうちがなければならぬ。海産かいさんの「びいどろうお」には親鰻おやうなぎの知らぬてきがあって、その攻撃こうげきをまぬがれるためにとくに体の透明とうめいなるべき必要ひつようがあり、不思議ふしぎかえるの「おたまじゃくし」には、陸上りくじょうの親とはちがうたえさを食うためかてきふせぐためかに、とくに体の大なる必要ひつようがあるのであろう。小学校の一年生の身体が大人の二倍もあり、五年生のころになって普通ふつう子供こどもの大きさにもどると想像そうぞうすると、実に奇妙きみょうに考えられるが、これまた食うためむための便法べんぽうとして、その動物に取っては都合つごうのよろしいことにちがいない。

四 幼時ようじ生殖せいしょく


 通常つうじょう動物の長幼ちょうよう区別くべつするには生殖せいしょく作用の始まる時期をさかいとし、これにたつすれば、すでに完全かんぜん成長せいちょうげたものと見なし、いまだこれにたつせぬものは、なお成長せいちょう途中とちゅうにあると見なしている。この標準ひょうじゅんは大体においてはまず間違まちがいはないが、くわしく調べるとずいぶん多くの例外れいがいを見出し、しかもその例外れいがいの中には、またさまざまにあいことなったものがある。たとえば普通ふつう魚類ぎょるい蛇類へびるい亀類かめるいなどは、子をみ始めてから後もなお引きつづいて大きくなるが、これはすでに身体の構造こうぞうが一とおり完成かんせいした後のことであるゆえ、子をみ始めるころを幼時ようじとは名づけられぬ。これに反して、身体の構造こうぞうがいまだ親とはことなって、たしかに幼時ようじと名づくべきころに子をめば、これをとく幼時ようじ生殖せいしょくと名づける。次にそのれいを二つ三つあげて見よう。

「アホロートル(上)子」のキャプション付きの図
アホロートル(上)子


「アホロートル(下)親」のキャプション付きの図
アホロートル(下)親

 メキシコにさんする山椒魚さんしょううおるいで、そこの土人が「アホロートル」とぶものがある。これは形は「いもり」のごとくで、大きさは「いもり」の二倍以上いじょうもあるが、つねに水中にみ、くび両側りょうがわにはえらふさじょうをなして、あたかもハイカラの襟巻えりまきのごとくに見えている。またはばの広いのは水をいで游泳ゆうえいするに便利べんりなためである。かように水中の生活にてきした姿すがたのままで、この動物は代々たまごみ、たまごからはまたこのとおりの子がかえって、一度も水より外へ出ずにいるゆえ、昔はこれを成長せいちょうし終わった一種いっしゅの動物と見なして、特別とくべつの学名がつけてあった。ところが今より五十年ばかりも前に、パリの動物園にうてあったものが、突然とつぜん池の中央の島にはい上がり体形が一変いっぺんして、陸上りくじょう生活にてきするものとなった。すなわち体の表面にあらわれていた総状そうじょうえらはしなびてなくなり、はばの広かったせまくなってねずみのごとくき形をていし、従来じゅうらいべつ種類しゅるいと思われていた一種いっしゅ陸棲りくせい山椒魚さんしょううおとなり終わった。いったい山椒魚さんしょううおには陸上りくじょうに出るものと、水中にのみ生活するものとの二組があって、生涯しょうがい水より出ぬるいでは、生涯しょうがい総状そうじょうえらが外面にあらわれ、陸上りくじょうへ出るるいでは、ただ幼時ようじだけかようなえらがあり、成長せいちょうし終わるとえらはなくなる。されば「アホロートル」は、当然とうぜん水より出ぬ組の一種いっしゅであると考えられていたのが、右の経験けいけんによって実は陸上りくじょうへ出る種類しゅるい幼時ようじであることが知れた。陸上りくじょうへ出て体形がわってからの姿すがたがすなわち成長せいちょうの終わったもので、かようになればまたたまごむが、水中にいる幼虫ようちゅうの時代にもつねにたまごみ、幼虫ようちゅう姿すがたで何代でも生殖せいしょくしっづけることができる。これをかえるにくらべればちょうど「おたまじゃくし」のままで、代々たまご繁殖はんしょくすることにあたるが、成長せいちょうして後も生殖せいしょくし、幼時ようじにも生殖せいしょく性質せいしつそなえていれば、なにかの事情じじょう陸上りくじょうへ出られぬところにむ場合にも自由に繁殖はんしょくができて、種族しゅぞく維持いじの上にはもっとも好都合こうつごうである。

「寄生蜂の幼虫」のキャプション付きの図
寄生きせいはち幼虫ようちゅう

 昆虫こんちゅうが植物の若芽わかめなどにたまごみつけると、そこに「虫'エイちゆうえい」と名づける団子だんごのようなかたまりができることがある。五倍子ごばいししょうして染料せんりょうやインキ製造せいぞう材料ざいりょうとなるものは、その有名なれいであるが、かように植物にたまりをつくらせる昆虫こんちゅうは、それぞれ種類しゅるいが定まっており、植物がちがえばたまごみつける昆虫こんちゅう種類しゅるいも、それからできるかたまりの形状けいじょう性質せいしつもおのおのちがう。その中に一種いっしゅきわめて小さなはえるいがあるが、これがまた幼時ようじ生殖せいしょくを行なう。しかも前の「アホロートル」とはちがうて、生殖せいしょくとともに幼児ようじは死んでしまう。このはえは「ありまき」などと同じく、一年中に何度も代を重ねるものであるが、夏の間はたまごからかえったうじが少しく成長せいちょうすると、その体内に数多くのうじが生じ、親なるうじの体を食いやぶってはい出して、少しく成長せいちょうするとまたその体内にうじが生ずる。かくて幾代いくだいかをぎると、次にうじさなぎとなりさなぎ脱皮だっぴしてはえの形をした成虫せいちゅうび出すのである。昆虫こんちゅうるいでは成虫せいちゅう幼虫ようちゅうとの形の相違そういが、かえるや「いもり」と「おたまじゃくし」との相違そういよりもなおいちじるしいゆえ、幼時ようじ生殖せいしょくを行なう場合には、はじめから一点のうたがいも起こらぬ。

「櫛くらげ」のキャプション付きの図
くしくらげ
左の上にしめしたるはその幼児ようじ

 なお一つ幼時ようじ生殖せいしょくれいをあげて見るに、海の表面にかんでいる透明とうめいな「くらげ」の中に「くしくらげ」と名づけるものがある。普通ふつうの「くらげ」がわんかさのごとき形をしているのとちがい、このるいは多くは「なす」のごとき形でそのにあたるところに口があり、体の表面には多数の小さな櫛状くしじょうの板が子午線しごせんに相当する方向に八本の縦列じゅうれつをなしてならんでいる。しこうしてこの櫛状くしじょうの板がえずそろうて動き水をぐので、かしこここへと目的もくてきもなく転がって行く。「くしくらげ」るいの中には「おびくらげ」というて、長さ一二尺いちにしゃく(注:30〜60cm)にもたつするはばの広い帯状おびじょうのものがあるが、これは「なすじょう」の体を左右に引きばしたようなもので、外形は大いにちがうが、内部の構造こうぞうは全く同一である。いったい「くしくらげ」はみなガラスのように無色むしょく透明とうめいである上に、くしの列のところはにじのごときさまざまの色を反射はんしゃしてすこぶる美しいものであるが、とくに「おびくらげ」が長い体を徐々じょじょくねらせながら、海面にかび赤、青、緑、むらさきなどのうすい光を放つごとく見えるありさまは、実になんとも言われぬほど美麗びれいである。西洋でこの「くらげ」を「あいの女神ヴィーナスのおび」と名づけるのもけっしてほめすぎではない。残念ざんねんなことには、標本ひょうほんとして保存そんすることがほとんど不可能ふかのうであるゆえ、自身で海へ出かけなければその美しい姿すがたを見ることができぬ。さてこの「おびくらげ」でもこれにるいする他の「くしくらげ」でもたまごからかえったばかりのきわめて小さい時に、一度成熟せいじゅくしたらん細胞さいぼう精虫せいちゅうとを生じて生殖せいしょく作用を行ない、後直ちに生殖せいしょく力をうしなうてただ大きくなり、成長せいちょうが終わるとふたた生殖せいしょくを始める。人間にたとえて言えば、生まれたばかりの赤子が直ちに結婚して子をみ、それより普通ふつう子供こどもに返って成長せいちょうし、成年せいねんたつしてさらにあらためて結婚けっこんし子をむことにあたる。かようなことのない人間から見ると、如何いかにも不思議ふしぎな何となく不条理ふじょうりなことのごとくに考えられるが、「くしくらげ」にとっては、これがやはり種族しゅぞく維持いじのためにかな有利ゆうりなことであろう。生殖せいしょく目的もくてき種族しゅぞく継続けいぞくさせるにあたるゆえ、如何いかなる形の生殖せいしょくほうでもこの目的もくてきにかないさえすればよろしいわけで、実際じっさい自然じぜん界には、さまざまな生殖せいしょくほうの行なわれていることは、この一例いちれいによってもたしかに知れる。

五 世代交番こうばん


 生殖せいしょくほうの中にはずいぶん複雑ふくざつなものがあって、幼虫ようちゅう成長せいちょうして成虫せいちゅうになり終わるまでに、幾度いくどか代を重ね、個体こたいの数がえながら進むものがある。

「ジストマの発生」のキャプション付きの図
ジストマの発生
(い)幼虫ようちゅう (ろ)幼虫ようちゅうより成長せいちょうしたる嚢状のうじょう体 (は)(ろ)の体内に生じ次代の幼虫ようちゅう (に)(は)の体内に生じた三代目の幼虫ようちゅう

たとえば人間の肺臓はいぞう肝臓かんぞう寄生きせいする「ジストマ」のごときものでは、一匹いっぴき幼虫ようちゅうがそのまま成長せいちょうして、一匹いっぴきの「ジストマ」となるのではなく、途中とちゅうに何回も生殖せいしょくして、成虫せいちゅうとなるころにはすでに無数むすうえている。かいこ幼虫ようちゅう成長せいちょうして一個いっこさなぎとなり、さなぎが皮をげば一匹いっぴきがでるゆえ、幼虫ようちゅうさなぎも、一個体こたい生涯しょうがいの中のことなった時期にすぎぬが、「ジストマ」では、幼虫ようちゅう成虫せいちゅうとはべつ個体こたいで、幼虫ようちゅうからいうと、成虫せいちゅう曾孫ひまごか、玄孫やしゃごかにあたる。かく世代を重ねながら変化へんかするものでは、子は親にまごは子ににずず、それぞれ形をことにし、同一の形状けいじょうを有する個体こたいは代をへだててのみあらわれることになるが、この顕象けんしょうを世代の交番こうばんと名づける。一例いちれいとして「肝臓かんぞうジストマ」の生殖せいしょくほう簡単かんたん記述きじゅつして見るに、微細びさいたまごから孵化ふかした小さな幼虫ようちゅうはしばらく繊毛せんもうをもって水中を泳いでいるが、そのうちに一種いっしゅ淡水たんすいさん貝類かいるいに泳ぎついて、そのやわらかい体内にもぐりみ皮をて、形をへんじて長楕円ちょうだえん形のふくろのごときものとなる。ここまでが発生の第一代である。次にこのふくろのごとき体の内に、前のとは形のことなった幼虫ようちゅうが多数にできる。この幼虫ようちゅうは体は円柱形で、一端いったんに口があり、口よりは短い行き止まりのちょうがつづいている。また体の後端こうたんに近いところには、太く短い足のごとき突起とっきが二つある。これはすなわち発生の第二代にあたるもので、少しく成長せいちょうすると親なる嚢状のうじょうの体からは出るが、いまだ貝の肉の内にとどまっている。次にこのものの体内に、さらに第三代のものがたくさんに生ずる。このものは体は円形で、その後端こうたんから細長いが生えて、多少かえるの「おたまじゃくし」の形にているが、発生がこの程度ていどまで進むと、「ジストマ」の子は貝の身体から水の中へ泳ぎでて、淡水たんすいさん魚類ぎょるいの体内にはいり、筋肉きんにくの間にはさまって人に食われるのをまっている。かような魚をよくたりいたりせずに食うと、その人の体内で「ジストマ」が成長せいちょうし、たちまちの間に生殖器せいしょくき成熟せいじゅくして日々無数むすうたまごむようになる。しこうしてたまご大便だいべんとともに体外に出て、水に流されなどしてみぞ小河かわたつすれば、たまごからかえった幼虫ようちゅうはまた貝類かいるいの体内にもぐりこみるわけであるゆえ、これよりふたたび同じ発生の歴史れきしくりり返すことになる。実際じっさいにはなお少しくみ入ったところもあるが、大体においてはまずここにべたとおりであろう。
 条虫じょうちゅうるいにも世代交番こうばんの行なわれるものがある。犬のちょう寄生きせいする、長さわずかに一分五厘ごりん(注:4.5mm)ばかりのきわめて小さな条虫じょうちゅうがあるが、人がもしあやまってそのたまごをのみ下すと、たまごからは微細びさい幼虫ようちゅうが出て肝臓かんぞう肺臓はいぞうなどにはいりこみ、そこで非常ひじょうに大きなふくろになる。これは医者のほうでは「胞虫ほうちゅう嚢腫のうしゅ」と名づけるもので、中に水のごときえきふくみ、直径ちょっけい数寸すうすん(注:十数cm)にもたつするゆえ、そのあるところの器官きかんはたらきに大きな故障こしょうを生じ、ずいぶん危険きけんやまいを起こす。普通ふつう条虫じょうちゅうはいくら大きくてもちょうの内にいることゆえ、下剤げざいをかけ絶食ぜっしょくしてちょう掃除そうじし、駆虫くちゅう薬を用いればこれを駆除くしょすることができるが、この幼虫ようちゅうふくろ駆虫くちゅう薬の直接ちょくせつとどかぬところにあるゆえ、とうてい薬で駆除くじょするわけにゆかぬ。

「犬の条虫」のキャプション付きの図
犬の条虫じょうちゅう

すなわち条虫じょうちゅうの中で一番おそろしい種類しゅるいであるゆえ、つねづね犬に接近せっきんする人々はよく注意しなければならぬ。さて右の幼虫ようちゅうふくろを切り開いて見ると、その裏面りめんには無数むすう条虫じょうちゅうの頭がついているが、これがみなふくろから芽生がせいによって生じたもので、もしその一部が犬のちょうにはいると、そこで一匹いっぴきずつ成熟せいじゅくした条虫じょうちゅうとなるのである。

「水くらげの発生」のキャプション付きの図
水くらげの発生
1はたまごよりかえった幼虫ようちゅう。それより数字の順序じゅんじょのとおりに発生し,7,8にいたって分裂ぶんれつし,各節かくせつはなれてついに目に見るごとき小さなくらげとなる。

 以上いじょうはいずれも寄生きせい虫であるが、独立どくりつ生活をいとなむものにも世代交番こうばんれいはいくらもある。近海の水面に無数むすうかんでいる「水くらげ」、一名「四つ目くらげ」というものもその一で、たまごから生じた幼児ようじはけっしてそのまま成長せいちょうして一匹いっぴきのくらげとはならず、途中とちゅう繁殖はんしょくして非常ひじょうに数がえる。「水くらげ」のたまごからかえった幼虫ようちゅうたまご形の小さなもので、全表面に繊毛せんもうをそなえ、しばらくは水中をおよぎまわるが、そのうちに適当てきとうなところをえらんで固着こちゃくし、たてにのびてたけのこ倒立とうりつさせたような形のものとなり、成長せいちょうするにした節々ふしぶしの切目が深く入りこんで、ついにはあたかも重ねた皿を一枚いちまいずつ取り出すごとくに、一節ひとふしずつが、小さな「くらげ」となって水中でき出すのである。これも前の条虫じょうちゅうの場合と同じく、たまごから生じた幼虫ようちゅう成長せいちょうし終わるまでの間に、一回芽生がせいまたは分裂ぶんれつによって生殖せいしょくし、次の代にいたってはじめて成熟せいじゅくした動物となるが、このような種類しゅるいでは一方を「幼虫ようちゅうの世代」、一方を「成虫せいちゅうの世代」として、明らかに長幼ちょうよう区別くべつすることができる。

「サルパ」のキャプション付きの図
サルパ

 前になにかのついでに「サルパ」という動物の名をあげたが、このるいでは世代の交番こうばんとくにいちじるしい。「くらげ」ならば人の知っているのは水面みなもかんでいる有性ゆうせい時代のみであって、海底かいてい固着こちゃくしている無性むせい時代はあまり人が知らぬゆえ、くらげの世代交番こうばんはよく調べて見ないとわからぬが、「サルパ」ではかわるがわるあらわれる二世代の個体こたいが、大きさもほぼ同じく数もほぼ同じくあいまじりて、海の表面にかんでいるゆえ、両方ともに同じ程度ていどに知られている。一方は子をみ一方はを生じて、生殖せいしょく方法ほうほうことなるが、生活の状態じょうたいが全く同じであるゆえ、いずれをよういずれを長と定めがたい。一体ならば有性ゆうせい生殖せいしょくをするほうを、成長せいちょうし終わった形と見るのが当然とうぜんであるが、「サルパ」では芽生がせいするものも、たまごを生ずるものにくらべて外形が少しくちがうだけで、構造こうぞうは同じ程度ていどにあるゆえ、これを幼児ようじの形と見なすことはできぬ。世代交番こうばんのあることの知られなかった時代には、「サルパ」のあい交互こうごする二世代の個体こたいをそれぞれ別種べっしゅの動物と考えて、各種かくしゅ別々べつべつの学名をつけた。今日は、これが両方とも一種いっしゅの動物の交互こうごする二世代であることがわかったが、いずれか一方の名だけを用い、他の名称めいしょうを全くはいしては非常ひじょう不便ふべんであるゆえ、他の動物にはれいのないことであるが、「サルパ」だけは特別とくべつとして各種かくしゅの学名には種名しゅめいが二つずつならべてある。
 以上いじょう種々しゅしゅの方面からろんじたとおり、動物の長幼ちょうようはただ身体の大小、生殖せいしょく力の有無うむによってのみ区別くべつせられるものではなく、種類しゅるいちがい生活状態じょうたいちがえば、それにしたごうて長幼ちょうよう区別くべつ程度ていどにも種々しゅしゅ相違そういがあり、長幼ちょうようのすこぶるあいたものもあれば、また全くあいたところのないようなものもある。とくに世代交番こうばんの行なわれる種類しゅるいでは、成長せいちょう途中とちゅう生殖せいしょくが行なわれ、ようより長にたつする間に代が重なるから、普通ふつうの場合とは長幼ちょうよう関係かんけいがはなはだしくちがう。人間では子供こどもと大人とは身体の形にもいちじるしい相違そういがなく、生活の状態じょうたいもほぼ同様であり、一人の子供こども成長せいちょうしていつとはなくそのまま一人の大人となり終わるゆえ、他の動物もみなそのとおりであろうと思うている人が多いようであるが、普通ふつうに人の知らぬ下等動物になると、生まれて直ちに生殖せいしょくするものもあれば、成長せいちょう途中とちゅう分裂ぶんれつするものもあって、なかなか複雑ふくざつ経過けいかしめすものも少なくない。されば親族ほう専門せんもんとする法学ほうがく者が、避暑ひしょのおりなどに人間にも世代交番こうばんが行なわれ、子供こどもが大人になる間に分裂ぶんれつによって数がえるものと想像そうぞうして、なぐさみに現今げんこん法理ほうりをあてはめて見たならば、あるはさらに深い理屈りくつを見いだすにいたるやも知れぬ。


第十七章 親と子


 種々しゅしゅことなった動物について、親と子との関係かんけいをくらべて見ると、これにもずいぶんいちじるしい相違そういがある。しかもいずれの場合にも目的もくてきとするところはつねに一つで、ただそれをたつするための手段しゅだんあいことなるというにすぎぬ。一つの目的もくてきとはいうまでもなく種族しゅぞく維持いじであって、如何いかなる場合でもこの目的もくてき撞著どうちゃくするようなことはない。子をみ放すだけで、さらにかまいつけぬものと、子を助けるためには自分の命をもてるものをならべて見ると、その行ないはたがいにあい反するごとくに思われるが、よく調べて見ると結局けっきょく同じことで、子をみ放して少しも世話をせぬ動物は、それでも種族しゅぞく維持いじがたしかにできるだけの事情じじょうかなそんする。また子のためには命をてる動物は、もし親にかかる性質せいしつそなわっていなかったならば、かな種族しゅぞく断絶だんぜつすべきおそれのあるものにかぎってある。人間を標準ひょうじゅんとして考えると、子がてきころされるのを見ながら知らぬ顔をしている親は如何いかにも無慈悲むじひに見え、自ら進んで命をて子の危難きなんすくうものは如何いかにも熱情ねつじょうあふれるように見えるが、自然じぜん標準ひょうじゅんとして考えると、いずれにもかくあるべき理由があってかくするのであるから、一方をすぐれりとか一方をおとれりとかいうことはできぬ。この事は習性しゅうせいちがうた動物をなるべく多く集めて、たがいに比較ひかくして見るとすこぶる明僚めいりょうに知れる。

一 み放し


 子をみ放したままで、少しも世話をせぬ動物の種類しゅるいきわめて多い。いわゆる下等動物はたいがい子をみ放しにするものばかりで、いくぶんかでも子の世話をする種類しゅるいはただ例外れいがいとして、わずかにその中にふくまれているにすぎぬ。しかしんでから全くててかえりみぬものでも、むときに適当てきとうな場所をえらむということだけはかなずする。何故なぜというに、もしも不適当ふてきとうなところにんでたまごが直ちに死んでしまえば、その種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくはむろんできぬからである。
「うに」、「なまこ」のるいでは、らん細胞さいぼう精虫せいちゅうとが親の体を出てから勝手に出遇であうのであるゆえ、子は生まれぬ前から親とのえんが切れて、少しもその世話を受けぬ。体外受精じゅせいをする「ごかい」のるいや、はまぐり、「あさり」のごとき二枚貝にまいがいるいも全くこれと同様である。また魚類ぎょるいもたいていはたまごみ放しにする。魚のたまごには水面みなもかぶものと、水底みずぞこ付着ふちゃくするものとがあるが、若干じゃっかん例外れいがいのぞけば、いずれもひとりで小さな幼魚ようぎょまでに発育して、少しも親の世話になることはない。すべてこれらの動物は、きわめて小さく弱いときから、独力どくりょくで生活をいとまねばならず、したがってうええて死ぬことも、てきに食われて死ぬこともすこぶる多かるべきはもちろんであるゆえ、これらの損失そんしつ最初さいしょから見越みこして、実におどろくべく多数のたまごがつねに生まれる。
海亀うみがめ」はつねに海中に住んでいるが、たまごむときだけはりくへ上がってくる。東海道の砂浜すなはまでは、いくらもかめたまご鶏卵けいらんのごとくに売り歩いているのを見かけるが、かめたまごむのはかなず夜であって、人の見ぬしずかな時をうかがい、後足をもってすなのところに壺形つぼがたの深いあなり、その中へたくさんのたまごみこみ、ていねいにすなをかぶせてもとのごとくにし、後足で自身の足跡あしあとき消しながら海のほうへ帰ってゆく。それゆえかめたまごのある場所を表面から知ることはなかなかできぬ。海亀うみがめたまごむときにはかくのごとく実に用意周到しゅうとうであるが、いったんみ終わった後は他へ去って少しもかまわず、たまごはただ日光に温められて発育し、ふたた孵化ふかするころになると、幼児ようじは夜明け前にことごとくそろうてからやぶ砂上さじょうに出で、一直線に海のほうへはうてゆくが、数百千のおさかめが急いですなのうえをうゆえ、雨のっているような音が聞える。南洋諸島しょとうむ「マッカンかに」はちょうどこれと反対で、親はつねに陸上りくじょうのみにみ、椰子やしに登り椰子やしの実を食いなどしているが、たまごむときだけは海へでかける。
 かえるるいは多くは水中へたまごんで、その後は少しもかまわずにおくが、たまごはそのまま水の中で「おたまじゃくし」になるからなんの差支さしつかえもない。ただし「青蛙あおがえる」などは例外れいがいで、水田のかたわらの土にあな穿うがちその中で産卵さんらんする。たまご粘液ねんえききまわしたあわつつまれてかたまりとなっているが、おいおい発育が進んで「おたまじゃくし」の形になりかかるころには、あわけてたまごとともに水中へ流れ落ちるから、その先の成長せいちょう差支さしつかえなくできる。これなどもみ放しではあるがむ時にすでに子の成長せいちょう差支さしつかえが生ぜぬだけの注意がはらわれている。

「たなごの産卵」のキャプション付きの図
たなごの産卵さんらん

淡水たんすいさんする「たなご」は、長い産卵さんらんかんを用いて生きた「からす貝」の貝殻かいがらの中へたまごむが、んだ後は少しもかまわぬ。たまごは貝のえらの間で発育し、小さな魚の形までに成長せいちょうしてから水中へおよぎ出るのである。
 昆虫こんちゅうるいも多くはたまごみ放しにする。変態へんたいの行なわれるために、幼虫ようちゅう成虫せいちゅうとでは、住所も食物もてきちがうのがつねであるが、成虫せいちゅうたまごむときには成虫せいちゅう習性しゅうせいにはかまわず、かな幼虫ようちゅうの発育に都合つごうのよい場所をえらぶ。たとえば「とんぼ」の成虫せいちゅうは空中をんで、昆虫こんちゅうとらえ食うが、たまごかなず水の中へむ。これは「とんぼ」の幼虫ようちゅうは水の中で発育するゆえである。またちょう成虫せいちゅうは花のみつうだけであるが、たまごかなず草木の葉にみつける。これはちょう幼虫ようちゅうは毛虫または芋虫いもむしであって、草木の葉を食い成長せいちょうするからである。汚水おすいたまごみ落とし、はえ腐肉ふにくたまごみつけるのも同じ理屈りくつで、たんみ放してさえおけば、幼虫ようちゅうは食物の欠乏けつぼうなしにかなずよく育つからである。

「蚕の蛆蠅」のキャプション付きの図
かいこうじはえ

 寄生きせい生活をする昆虫こんちゅうたまごみようはさらに面白い。かいこ寄生きせいするうじの親は一種いっしゅはえであるが、たまごかなくわの葉のうらみつける。かくしておけば、後は全くておいても、自然じぜんかいこに食われ、その体内で発育して大きなうじとなり、かいこの体からはい出し、地中へもぐりんでさなぎとなり、翌年よくねんはえとなってび出す。ちょう幼虫ようちゅう寄生きせいする小さなはちるいはずいぶん数多くあり、そのため年々知らぬ間に農作物の害虫がいちゅうがよほどまでふせがれているわけであるが、これらの小蜂こばちたまごかなちょう幼虫ようちゅうの体にみつける。また「卵蜂らんほう」というて、ちょうたまごに自分の微細びさいたまごんで歩く小さなはちもある。これらはいずれもはねの生えた成虫せいちゅうの生活状態じょうたい幼虫ようちゅうとは全くちがうて、ちょう幼虫ようちゅうたまごとは何の関係かんけいもないにかかわらず、産卵さんらんするにはかなずそれから出る幼虫ようちゅうの育つような宿主動物をえらんで、これにみつける本能ほんのうを持っている。

「尾長蜂の産卵」のキャプション付きの図
尾長蜂おながはち産卵さんらん

この点でなお不思議ふしぎに感ぜられるのは「尾長蜂おながばちるい産卵さんらんである。このるい幼虫ようちゅう樹木じゅもくみきの内部にむ他の昆虫こんちゅう幼虫ようちゅう寄生きせいするが、成虫せいちゅうたまごむにあたって何らかの感覚かんかくによって、みきの内の幼虫ようちゅうのいる場所を知り、長い産卵さんらんかんで外からみきあな穿うがち、内にいる幼虫ようちゅうの体、もしくはその付近ふきんたまごみ入れる。尾長蜂おながばち産卵さんらんかんが体にして数倍も長いのはそのためである。たまごからかえって出た小さなうじは、宿主なる幼虫ようちゅうの体内で成長せいちょうし、ついにこれをたおし、のちさなぎの時代をへて皮をぎ、親と同じ成虫せいちゅうとなってび出すのである。
 以上いじょういくつかのれいしめしたとおり、動物にはたまごみ放したままで、その後少しも世話をせぬものが非常ひじょうに多いが、かかる場合にはかな非常ひじょうに多くのたまごむか、または子がよく育つべき場所をえらんでみつけるかして、とくに親がこれを保護ほごせずとも種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくたしかにできるだけの道はそなわってある。

二 子の保護ほご


 たまごなり子なりをんでから後、しばらくの間親がこれを保護ほごする動物も相応そうおうに多い。獣類じゅうるい鳥類ちょうるいはことごとくこの仲間なかまぞくするが、それ以外いがいの動物にもたくさんのれいがある。

「子を保護するひとで」のキャプション付きの図
子を保護ほごするひとで

がいしていうと、子を保護ほごするものはやや高等の動物に多く、下等の動物はほとんどことごとく、たまごみ放すだけであるが、「うに」、「ひとで」のごときるいでさえ、例外れいがいとして子を保護ほごするものがある。ここに図をかかげたのはたまごを体でおお保護ほごする「ひとで」の一種いっしゅであるが、かかる種類しゅるいでは、普通ふつうの「ひとで」にして、たまご直径ちょっけい十倍ないし二十倍も大きい。直径ちょっけいが十倍ないし二十倍も大きければ、これを体積たいせきとしてかぞえると、一千倍ないし八千倍も大きいことにあたるゆえ、同じ大きさの卵巣らんそう内に生じたとすれば、たまごの数は一千分の一ないし八千分の一よりできぬはずである。如何いかなる動物でも種族しゅぞく維持いじのためには、小さい子を無数むすうんで、運を天にまかせるか、大きな子をわずかんで、これを大事に保護ほごするかの二途にとのうち、いずれかをえらまねばならぬことが、この場合にも明らかに知れる。
 昆虫こんちゅうるいは多くはたまごみ放しにするが、中にはこれを保護ほごする種類しゅるいもある。たとえば池の中に普通ふつうにいる「子負い虫」などは、たまごおすの表面いっぱいになら付着ふちゃくせしめ、おすはいつも子を負うたまま水中を泳いでいるが、てきにあえばげ去るゆえ、子は無事ぶじに助かる。

「(左)けら (右)はさみ虫」のキャプション付きの図
(左)けら (右)はさみ虫

また「けら」のごときは、たまごんでからめすがそのそばにいてまもっている。ありはちるいたまご幼虫ようちゅうなどをよく保護ほごし、養育よういくすることはだれも知っているであろうから、ここにはべぬ。その他「はさみむし」というしりの先にはさみのついた虫は、西洋諸国しょこくではねむっている人の耳にはいるという伝説でんせつのためにおそれられているが、この虫はたまご保護ほごするのみならず、それからかえって出た幼虫ようちゅうをもあいして世話するということである。

「黄金虫」のキャプション付きの図
黄金虫こがねむし

また「黄金虫こがねむし」のるいの中にはたまご一粒ひとつぶむごとに、馬や羊のふんでこれをつつみ、次第しだい々々に大きく丸めて、ついに親の身体よりははるかに大きなかたい球とするものがある。丸めたものを雌雄しゆうが力をあわせてころがして歩く。かくしていくつかのたまごみ、いくつかの大きな球をつくり終われば、親は力がきて死んでしまうが、そのありさまはあたかも羊のふんを丸めるために、世の中に生まれてきたように見える。たまごからかえった幼虫ようちゅうは、球の内部のやわらかい羊のふんを食うて成長せいちょうし、ついに球からはい出す。「くも」のるい昆虫こんちゅうるいにくらべるとたまご保護ほごするものが割合わりあいに多い。とくに「走りぐも」としょうして、あみはららずに草の間を走りまわっている種類しゅるいは、たまごむとこれを球状きゅうじょうのかたまりとし、一刻いっこく肌身はだみはなさずしじゅう足でかかえている。

「(左)たつのおとしご (右)ようじうお」のキャプション付きの図
(左)たつのおとしご (右)ようじうお

 魚類ぎょるいもほとんどことごとくたまごみ放すだけで、親が子を保護ほごするような種類しゅるい滅多めったにない。しかしよく調べて見ると、全くないこともなく、しかも意外な方法ほうほうで子を保護ほごするものがある。たとえば「たつのおとしご」や「ようじうお」のおすは、めすんだたまごを自分のはらの外面にあるうすい皮のふくろに受け入れ、幼魚ようぎょ孵化ふかして出るまでこれを保護ほごする。両方ともにあさ海底かいていの間に住む魚類ぎょるいで、べつめずらしいものでもないが、ちょっとわった形をしているゆえ、見慣みなれぬ人にはめずらしく見える。「たつのおとしご」のおすはらふくろを開いて見ると、中に赤いたまごが四五十つぶもあるが、普通ふつう魚類ぎょるいが一度にいく十万のたまごむのにくらべると、すこぶる少ないといわねばならぬ。「ようじうお」のはいくらか多いが、それでもなお少ない。海藻かいそうの間にいる魚にはめす腹鰭はらびれが左右ってふくろのごとき形となり、その中にたまごを入れて保護ほごする種類しゅるいもある。

「腹に卵をつけた魚」のキャプション付きの図
はらたまごをつけた魚

また「はぜ」にた魚で、たまごを体の腹面ふくめん付着ふちゃくせしめて保護ほごするものもあり、外国さんの魚にはめすんだたまごおすが口中にくわえて保護ほごするものさえある。

「とげうお」のキャプション付きの図
とげうお

をつくってその中でたまごをつくるものは魚類ぎょるいにははなはだまれであるが、その中では淡水たんすいさんの「とげうお」るいがもっとも名高い。このるいはあたかもかつおを小さくしたごとき形の魚で、ところどころの水の綺麗きれいな池や川にいるが、産卵さんらん期になるとおす腎臓かんぞうから出る粘液ねんえきを用いて、水草のくきなどをせ集めてまるをつくり、めすび来たってその中へたまごませ直ちにこれを受精じゅせいして、その後はえず近辺きんぺんにとどまって番をしている。なかなか勇気ゆうきのある魚で、指でれでもすると、直ちにとげを立ててめてくる。親魚の大きさにくらべると割合わりあいに大きなたまごで、数はわずかに百か百五十くらいより生まれぬ。

「産婆蛙」のキャプション付きの図
産婆さんばかえる

 かえるるいにはよほどわった方法ほうほうたまご保護ほごするものがある。ドイツ、フランスの南部に普通ふつうにいる「産婆さんばかえる」は、大きさは赤蛙あかがえるくらいで、姿すがたは「ひきかえる」にているが、産卵さんらんする時には、おすめすをうえよりき、生まれ出るたまごを自分の足にきつける。かえるたまごはいつも粘液ねんえきじて生まれ出るもので、「ひきかえる」や「殿様とのさまかえる」では粘液ねんえきは直ちに水をうてりょうし、やわらかく透明とうめい寒天かんてんようのものとなるが、産婆さんばかえる陸上りくじょう産卵さんらんするゆえ、たまご粘液ねんえきにつながれて珠数じゅずのごとき形をなし、おすがこれを足にきつければ、粘液ねんえきのためにそこに粘着ねんちゃくする。かくして、おすたまごひざももへんきつけたまま石の下などにかくれ、たまごが発育して「おたまじゃくし」になるころになると、近辺きんぺんの池まで行き、水の中へ泳ぎ出させる。普通ふつうかえるにくらべると、たまごは大きくて数がよほど少ない。

「袋蛙」のキャプション付きの図
ふくろかえる

また南アメリカにさんする雨蛙あまがえる一種いっしゅでは、めすに一つのふくろがあり、その口は後端こうたんに近いところで肛門こうもんの少しく前に開いているが、たまごは生まれると直ちにこのふくろに入れられ、発生がよほど進むまでその中で保護ほごせられる。たまごはむろんつぶが大きくて数が少ない。

「背負蛙」のキャプション付きの図
背負せおいかえる

また同じく南アメリカにさんする雨蛙あまがえるで、十数個じゅうすうこ大卵おおたまごたん背面はいめん粘着ねんちゃくせしめて、背負せおうて歩く種類しゅるいもある。インド洋の南にあるセイシェル島のかえるは、「おたまじゃくし」を親がにのせて歩く。

「背孔蛙」のキャプション付きの図
背孔せあなかえる

 南アメリカの北部の熱帯ねつたい地方にさんする「背孔せあなかえる」としょうする一種いっしゅは他にるいのない方法ほうほうたまご保護ほごする。「ひきがえる」ほどの大きさのみょうかえるであるが、めす粘液ねんえきじて数十個すうじゅっこたまごみ出すと、おすはこれをめすのうえにりつけてやる。日数がへるとめす背中せなか皮膚ひふやわらかくあつくなり、たまご一粒ひとつぶずつその中のあなにはまりつつまれ、かくして保護ほごせられるのみならず、「おたまじゃくし」時代をもとおりして、四本の足をそなえた小さなかえるの形まで発育する。幼児ようじはじめは親の背中せなか皮膚ひふあなから顔だけを出しているが、後にはあたかも「カンガルー」の幼児ようじなどのごとくに、自由にはい出したりまたもとのあなにはいったりする。しかしこれはきわめて短い間であって、四足が自由に動くようになれば、親からはなれて独立どくりつの生活を始める。

「卵を呑む蛙」のキャプション付きの図
たまごかえる

子が母親の背中せなかの表面からまれるというのもめずらしいが、同じ南アメリカのチリへんさんする一種いっしゅの小さな雨蛙あまがえるは、さらに意外な方法ほうほうたまご保護ほごする。このかえるは、めすが大きなたまご一粒ひとつぶずつむと、おすは直ちにんでしまう。ただしたまごはむろん食道を通過つうかし、にはいって消化せられるのではなく、咽喉いんこうからべつの道をとおってべつふくろにはいり、その中で小さなかえるの形まで発育し、ついに父親の口からみ出される。それゆえ一時はこのかえる胎生たいせいと思われていたが、はらに子を持っているものを解剖かいぼうして見ると、いずれも睾丸こうがんそなえたおすばかりであるゆえ、なおよくよく調べて見たら、子供こどものはいっているふくろは、普通ふつう雨蛙あまがえるが鳴くとき声をひびかせるためにふくらせる咽喉いんこうふくろに相当することが明らかに知れた。普通ふつう雨蛙あまがえるの鳴くところを横から見ると、声を発するごとに咽喉いんこうの皮が大きくふくれるが、チリの小さな雨蛙あまがえるでは、このふくろがさらに大きくなり、内臓ないぞうのある場所と皮膚ひふとの間にんで、はらのほうまでたつしているのである。

三 子の養育よういく


 以上いじょうべたのはいずれも親が何らかの方法ほうほうたまご保護ほごするだけのれいであるが、だれも知るとおり動物の中には、親が幼児ようじに食物をあたえてやしなうものがいくらもある。しかしこれはほとんど獣類じゅうるい鳥類ちょうるいのごとき神経系しんけいけい発達はったつした高等の動物にかぎることであって、昆虫こんちゅうるいには多少そのれいがあるが、それより以下いかの動物ではこれにるいすることは一つも行なわれぬ。親が子をやしなうという以上いじょうは、親の生存せいぞん時期と子の生存せいぞん時期とが一部重なりあい、その間親と子とがあい接触せっしょくして共同きょうどうに生活していることは言うを待たぬが、子がいささかなりとも親をした形跡けいせきの見えるのは、全動物界中かようなるいのみにかぎられ、しかも子が親にやしなわれる期間のみにかぎられている。その他のものにいたっては子はけっして親を知らず、全く無関係むかんけいのごとくに生活して代を重ねてゆく。前にたまご保護ほごする種類しゅるいたまごみ放しにするものにくらべると、はるかに少数のたまごむことをべたが、親が子をやしな種類しゅるいでは、子の生まれる数はなおいっそう少ない。しかもこの少数の子を大事に保護ほご養育よういくするのも、小さなたまご無数むすうはなすのも、種族しゅぞく維持いじ継続けいぞく目的もくてきとすることにいたっては全く同じであって、その効力こうりょくにもけっしてこうおつはない。ただ各種かくしゅ動物の構造こうぞう習性しゅうせい等にてきした方法ほうほうっているというにすぎぬ。

「豹の子に乳を呑ませる犬」のキャプション付きの図
ひょうの子にちちませる犬

 獣類じゅうるい幼児ようじはすべて母の乳汁ちちじるやしなわれるが、乳汁ちちじるは動物の種類しゅるいによってそれぞれ成分せいぶんがいくらずつかちがうて、あるいは脂肪しぼうが多いとか糖分とうぶんが少ないとかいうことがある。それゆえ、幼児ようじやしなうのにもっともてきするのはむろんそのんだ母か、またはこれと同じくらいの同種どうしゅめす分泌ぶんぴつしたちちであって、人間の幼児ようじを育てるのに、人のちちよりも牛のちちとか山羊やぎちちとかのほうがさらによろしいというような理屈りくつはけっしてない。しかし乳汁ちちじるなるものは一種いっしゅの食物にすぎず、腸胃ちょういにはいってから消化せられ吸収きゅうしゅうせられるのであるゆえ、一定の滋養じよう成分せいぶんふくんでいる以上いじょうは、こうの動物の乳汁ちちじるをもっておつの動物の幼児ようじを育てることももとよりできる。外国の動物園では獅子ししとら幼児ようじに、牝犬めすいぬちちませて健全けんぜんに育てたれいもある。げん駒場こまばの農科大学では牝犬めすいぬたぬきの子にちちませている。幼児ようじ乳汁ちちじるのみで育てられる時期の長さは種類しゅるいによって大いにちがい、がいして大形のけもの成長せいちょうおそちちむ間も長い。しかし人間ほどに長い間ちちむものは他になかろう。幼児ようじちちむことを止める前から、すでに何か食物を食い始めるが、これはたいてい母親が多少かみくだいて、のたやすく食えるようにしてやる。ねこや犬が子を育てるのを見ても、そのれいはたくさんに見られる。
 鳥類ちょうるいひなたまごからかえって出た時のありさまは種類しゅるいによってはなはだちがい、にわとりのごとく直ちに走るもの家鴨あひるのごとく直ちにおよぐものもあるが、たくみに種類しゅるいの鳥ではひなは実にあわれなもので、親にやしなわれなければ一日も生きてはいられぬ。鳥類ちょうるいにはずいぶん精巧せいこうをつくるものがあるが、これはみなたまごあたためかつたまごからかえったひなを安全に育てるためである。
「機織鳥」のキャプション付きの図
機織はたおり
草の繊維せんいり合わせてえだよりれ下がりたる嚢状のうじょうをつくる。の入口は下に向きたる短きつつの先に開けるをもってぶ動物にあらざればの内に入るをず,図にしめしたるは印度インドさん一種いっしゅなり。

今もっとも精巧せいこうなものとして有名なれいを一二あげて見るに、アフリカのしょ地方にさんする「機織はたおり鳥」としょうするものは、「つぐみ」か「ひよどり」ぐらいの大きさの鳥であるが、草のじくの細い繊維せんいなどをたくみにぬののごとくみ合わせて、えだかられたふくろのような形のをつくる。
「仕立屋鳥」のキャプション付きの図
仕立屋鳥

また東印度インドの島に住む「仕立屋鳥」という小鳥は、大きな木の葉を二枚にまいせてそのふちを植物の繊維せんいたくみにい合わせ、その間にをつくる。

「食用燕巣」のキャプション付きの図
食用燕巣えんそう

その他にも鳥のには精巧せいこうなものが種々しゅしゅあるが、中には他の材料ざいりょうを用いず、自分の口から出す唾液だえきだけでをつくるものがある。支那しな人が最上さいじょう等の料理りょうりとして珍重ちんちょうする有名なつばめはそれで、今では西洋人にもこれをたしなむものがなかなか多くなった。普通ふつうつばめは口にどろをくわえてきて、どろつばとをぜて黒いかたをつくるが、このつばめはただ唾液だえきだけでつくるゆえ、は真白であたかもかわいた寒天かんてんのごとくである。産地さんちは東印度インドの島々であるが、海岸の絶壁ぜっぺきのところにつくられるゆえ、たくさんあるにかかわらずこれを採集さいしゅすることはなかなか容易よういでない。

「子に餌を与えるペンギン鳥」のキャプション付きの図
子にえさあたえるペンギン鳥

 親鳥がひなやしなう仕方も、種類しゅるいによって種々しゅしゅちがう。つばめなどはとらえてきた昆虫こんちゅうをそのままひなの口にうつしてやるが、すずめからすもこれと同様で、そこでついばんだ食物をそのまま子にあたえるのをしばしば見かける。わしたかるいとらころしたえさを、さらに小さくいてひなに食いやすいようにしてやる。動物園のつるなども子にやる時には、どじょうをまず小さくかみ切り、水でうてあたえる。また「ペリカン」のごとき鳥は、一度のみんだえさを口までき出して子についばませる。はとるいではひな孵化ふかするころには、雌雄しゆうともに'ソふくろかべあつくなり、とく一種いっしゅ滋養じようえき分泌ぶんぴつし、これを口からき出して子の口にうつしてやる。昔から「からす反哺はんぽこうがある。」と言いつたえたのはおそらく、鳥類ちょうるいの親がひなの口の中へえさうつし入れてやるところを遠方から見て、子が親をやしなうのかと思いあやまったためであろう。鳥類ちょうるいにかぎらず如何いかなる動物にも、子が成長せいちょうし終わった後に、老耄ろうもうして生きのこっている親にえさあたえてやしなうものは、けっして一種いっしゅたりともない。その理由は、かかることをしても種族しゅぞく維持いじのためには何の役にも立たぬのみか、えさが少なくて生活の困難こんなんな場合には、かえって種族しゅぞくのために明らかに不利益ふりえきになるからであろう。

「餌を運ぶ蜂」のキャプション付きの図
えさを運ぶはち

 昆虫こんちゅうるいの中でもはちるいには、子をやしなうために親虫がさかんにえさを集めて貯蔵ちょぞうするものがある。あり蜜蜂みつばちのことははぶくとして他の種類しゅるいについて言うて見るに、地中にあな穿うがってその中にたまごんでおくいわゆる「地蜂じはち」のるいは、昼の間はえずびまわって「くも」や昆虫こんちゅうるいなどをとらえ、しりの先のどくはりをもってその虫をして麻痺まひせしめ、動けぬようにしておいてこれをあなの中へ運び入れ、自分の幼虫ようちゅうに食わせる。
 昔の人はこのるいが毎日「くも」を地にめるのを見、またその同じあなからはちの子が出てくるのを見て、「くも」がはち変化へんかするのであろうと早合点して、このはちの名前に「似我蜂じがはち」という字を当て、このはちは実子をまず、「くも」をれてきて養子ようしとし「われよ。」「われよ。」というてめておくと、やがてその「くも」がはちになるなどという牽強付会けんきょうふかいせつをつくった。かようなれいはなお他にもいくつもあって、たまごむときに一度だけえさえておくものや、たまごかえって幼虫ようちゅうになってからもしばしばえさを持ってきてあたえるものなど、多少あいことなった方法ほうほうで子をやしなうている。

四 命をてる親


 生殖せいしょく目的もくてき種族しゅぞく維持いじにあるゆえ、子の生存せいぞんべき見込みこみがついた上は、親の身体はもはや無用むようとなって死ぬべきはずである。親と子とがあい知らぬような種類しゅるいの動物では、たまごが生まれてしまえば、親はいつ死んでも差支さしつかえはない。とくに父親のほうは受精じゅせいをすませばもはや用はないゆえ、なるべく早く死んだほうがかえって種族しゅぞく生存せいぞんのためには経済けいざいにあたる。蜜蜂みつばちおすが女王の体とつながったままで気絶きぜつして死ぬのも、「かまきり」のおす交尾こうびしたままで頭のほうからめすに食われるのも、この理屈りくつにすぎぬ。子をめば直ちに死ぬ動物はずいぶん多いが、種類しゅるい条虫じょうちゅうのごとくに子をみ出すべきあながなく、子は親の体がやぶれて外に出るような動物では、親の個体こたい標準ひょうじゅんとしてろんずれず、妊娠にんしんはすなわち自殺じさつ覚悟かくごにあたる。これらは、子ができると同時に親の近々死なねばならぬことが定まるのであるが、いったん子ができてから後に、親が子のために命をてるものも、けっしてめずらしくはない。獣類じゅうるい鳥類ちょうるいのごとくに、親が子を大事に養育よういくするものでは、不意ふいてきめられた場合に、親が身をもって子供こどもまもり、そのため一命を落とすことのあるは、猟師りょうしなどからしばしば聞くところであるが、かくまで熱心ねつしんに子を保護ほごする性質せいしつが親にそなわってあることは、種族しゅぞく維持いじのためにすこぶる有利ゆうりであるゆえ、本能ほんのうとして、今日の程度ていどまでに進み来たったのであろう。
 鳥獣ちょうじゅうなどのごとき神経系しんけいけい発達はったつした動物が、命をもててわが子をまもはたらきは、人間自身にくらべて、よく了解りょうかいすることができるが、小さい虫類むしるいになると、人間では思いがけぬような方法ほうほうで、子を保護ほごするものがある。の中で「まいまい」としょうする普通ふつう種類しゅるいは、たまご一塊いっかいみつけると、その表面に自分の身体に生えていた毛をおおわせておおつつみ、まるで黄色の綿わたかたまりのごとくに見せておく。これは親が即座そくざに命をてるわけではないが、まず自分の毛を全くうしなうことゆえ、人間の女にたとえて言えばあたかも緑の黒髪くろかみを根元から切って子供こどもの夜具につくり、しかる後に自害じがいするようなものであろう。また植物に大害たいがいあたえる「貝殻かいがら虫」のるいには、死んでもその場所にとどまり、自分のからびた死骸しがいをもってたまごかたまりをおおい保護ほごするものがある。「貝殻かいがら虫」ははじめは「ありまき」のごとくに六本の足をもってはい歩くが、一箇所いっかしょに止まり、ふんを植物の組織そしきの中へ差込さしこんで動かぬようになると、体があたかも皿か貝殻かいがらかのごとき形にへんじ、一見しては昆虫こんちゅうとは思われぬようなものになる。しこうして成熟せいじゅくして産卵さんらんするころにいたると、虫のやわらかい身体は背面はいめん貝殻かいがらのごとき部とははなれ、貝殻かいがらおおわれたままでその中でたまごむが、たまご一粒ひとつぶむたびに親の身体はそれだけ容積ようせきげんじ、ことごとくたまごみ終われば貝殻かいがらの内部は全くたまごのみでたされ、親の体はあたかも空の紙袋かみぶくろのごとくになって貝殻かいがら一隅いちぐうちぢんでしまう。これにるいする死に方をするものはなおいくつもあるが、ここにはりゃくして、次に一つ全くべつの方面に、親が子のために一身を犠牲ぎせいきょうするもののれいをあげて見よう。
「蜂の寄生虫」のキャプション付きの図
はち寄生きせい
(い)ちつの半ばうら返りて出たるめす(長さやく三厘さんりん(注:0.9mm))
(ろ)ちつが全くうら返りて大きくなりたるめす
(は)成長せいちょうし終わりたるちつふくろ(長さやく五分ごぶ(注:1.5cm))その一端いったん付着ふちゃくするはめすの体
(に)おす

 夏日かじつ花のあるところにたくさんんでくる、「はなばち」、「まるばち」などというはちるいは体が丸くて、黒色や黄色の「びろうど」のごとき毛でおおわれているが、このはちめすが、冬成虫せいちゅうのままでかくれているのをとって解剖かいぼうして見ると、その体内に奇妙きみょう寄生きせい虫のいることが往々おうおうある。長さ五分(注:1.5cm)ばかりにもたつする小さな「なまこ」じょうふくろで、その内には小さな蛔虫かいちゅうた虫がたくさんいるが、さてこのふくろの形が内なる子供こどもといちじるしくちがうゆえ、たしかに親であるとも見えず。一体如何いかにしてできたものか、そのままではとうてい知れがたい。しかし内なる子供こども成長せいちょうして、ついに次の代の子をむにいたるまでの発育の順序じゅんじょをつまびらかに調べると、このふくろ素性すじょうが明らかに知れる。子供こどもふくろの中で程度ていどまで成長せいちょうすると、ふくろやぶって出で、次いではちの体よりも出で地中で独立どくりつに生活し、長さ一分の三分の一(注:1cm)くらいになると、生殖せいしょく器官きかんも十分に成熟せいじゅくする。かくて交尾こうびの後、おすは直ちに死んでしまうが、めすは「はなばち」の体内にもぐりみ、その中で母の体内の子供こどもがだんだん発育するのである。しこうしてそのさい、母の体に意外な変化へんかが生ずる。すなわち図のとおり、生殖器せいしょくきの開き口に直ちにせつするちつしょうする部が、あたかも巾着きんちやく裏返うらがえしにしたごとくに裏返うらがえしとなって、生殖器せいしょくきあなから体の外面にあらわれ出る。ちつの内面は外面となって、直ちに宿主動物の組織そしきにふれてこれより滋養じよう分を吸収きゅうしゅうし、ちつのつづきなる子宮しきゅうは、中に子をいれたままちつ裏返うらがえしになったためにできたふくろの内に入り来たり、中の子の成長せいちょうするとともに次第しだいに大きくなる。これに引きえ、ちつ子宮しきゅうとが体外へ脱出だっしゅつした後の母の体はそのまま少しも成長せいちょうせぬゆえ、ちつ裏返うらがえしになってできたふくろが長さ五分(注:1.5cm)にもなったころには、ただきわめて小さな付属ふぞく物として、その一端いったん付着ふちゃくしているにすぎぬ。ちつ裏返うらがえしになって体外へあらわれ出ることは、「ちつ外翻がいほん」としょうして人間の女にも往々おうおう見るところであるが、ここにべた虫では、このことが規則きそくとなり、妊娠にんしんすればかなちつ外翻がいほんが起こり、しかも新たに外向きになったちつの内面は、宿主動物から滋養じよう分を吸収きゅうしゅうして、胎児たいじ供給きょうきゅうすべき器官きかんとしてさらに大いに発達はったつするのである。その代わり、のこりの母の体はもはや不用ふよう物として、ついには宿主動物の組織そしき吸収きゅうしゅうせられてしまうのほかはない。子を宿主動物の体内でよく発育せしめるために、母体にかような変化へんかの生ずる虫は、今べたもののほかになお甲虫類こうちゅうるい寄生きせいするもの、はえるい寄生きせいするものなどが幾程いくほどもある。

五 親を食う子


 前に幼時ようじ生殖せいしょくのことをべるにあたって、植物に五倍子ごばいしをつくる一種いっしゅ微細びさいはえのことをれいにあげたが、このはえ幼虫ようちゅうたまごむときには、たまごは親なる幼虫ようちゅうの体内で発育し、親と同じ形の幼虫ようちゅうとなり、はじめは子宮しきゅうの内にいるが、少しく大きくなるとみな子宮しきゅうを食いやぶって、母の身体の組織そしきかたはしから食いさかんに成長せいちょうする。それゆえ母の体は、ついにはただ表面をつつ薄皮うすかわ一重ひとえのこるだけで、あたかも氷嚢ひょうのうのごときものとなってしまう。人間は母親のことをときどき「おふくろ」とぶが、この虫では母親は真にふくろだけとなり、肉はことごとく胎児たいじに食われてその肉に化するのである。胎児たいじ成長せいちょうが進むと、ついに母の遺骸いがいなる薄皮うすかわふくろやぶって出るが、かような場合にこれを「生まれ出る。」と名づくべきかいなか、すこぶる曖昧あいまいで、実はなんと名づけてよろしいかわからぬ。「生まれる。」という文字はがんらい母の体はそのままにそんして、ただ子の体が母の体から出ではなれる普通ふつうの場合にあたってつくられたものゆえ、普通ふつうことなった場合によくあてはまらぬは当然とうぜんである。この虫などでは、子が生まれるときはすでに母親はいないが、いない親から子が生まれるというのは如何いかにも理屈りくつに合わぬ。またそれならば、母親は死んだかというと、後に死骸しがいのこらぬゆえ、普通ふつうの意味の死んだとも言いがたい。すなわち生きている親の身体組織そしきが、生きたままで子に食われるから、これが親の死骸しがいであると言うて指ししめすことのできるものは全く生ぜぬ。前に薄皮うすかわふくろを母の遺骸いがいと言うたが、これはたん便宜上べんぎじょう言うたことで、体の表面をつつ薄皮うすかわのごときは、人体にたとえて言えば毛かつめか、厚皮あつかわの表面のごとき神経しんけいもなく、切ってもいたくない部分ゆえ、これのみではむろん真の遺骸いがいとは名づけられぬ。ただ死骸しがいの発見せられぬ人の葬式そうしきに、頭髪とうはつをもってこれに代用するのと同じ意味で、遺骸いがいと言うたにすぎぬ。

「蛙の寄生虫」のキャプション付きの図
かえる寄生きせい
右の二匹にひき泥中でいちゅうに自由に生活するもの(長さやく五厘ごりん(注:1.5mm))
左の一匹いっぴきかえるはいの内に寄生きせいするもの(長さやく五厘ごりん(注:1.5mm))

 これと同様のれいをなお一つあげて見るに、かえるるい肺臓はいぞうの内に往々おうおう一種いっしゅの小さな糸のごとき寄生きせい虫がいる。蛔虫かいちゅう十二指腸虫じゅうにしちょうちゅうなどと同じ仲間なかまぞくするものであるが、他のものがみな雌雄しゆう異体いたいであるに反し、これは一匹いっぴきごとに雌雄しゆうね、そのんだたまごかえるはいより食道胃腸いちょううつり、かえるふんとともに体外に出で、水の中で発育する。かくして生じた子は親とは形がちがい同じく糸状いとじょうではあるが、親にくらべるとやや太くて短く、かつ雌雄しゆうべつがあって形もたがいにちがう。どろの中で自由に生活し、成熟せいじゅくすると交尾こうびして、めすの体内に少数の子ができる。これらの子供こどもは始めは親の子宮しきゅうの内で発生し、少しく成長せいちょうすると子宮しきゅうを食いやぶってその外に出で、母親の肉を順々じゅんじゅんに食い進み、ついにはただ表面の薄皮うすかわのみをのこして、内部を全く空虚くうきょにしてしまう。この点は、前のれいにおけると少しもちがわぬ。次に薄皮うすかわをもやぶってはだかどろの中に生活し、かえるに食われてその体内にはいると、直ちに肺臓はいぞう内にうつり、少時で雌雄しゆう同体の生殖せいしょく器官きかん成熟せいじゅくしてたまごむようになる。前のはえ幼虫ようちゅうが子をむゆえ、幼時ようじ生殖せいしょくれいであったが、この寄生きせい虫はかくのごとく雌雄しゆう同体で卵生らんせいする代と、雌雄しゆう異体いたい胎生たいせいする代とがかわるがわるあらわれるゆえ、世代交番こうばんれいともなる。
 動物界における親と子の関係かんけい見渡みわたすと、本章にかかげたれいだけによっても知れるとおり、全く無関係むかんけいなものから、親が子を保護ほごするもの、親が子を養育よういくするもの、子が親の身体を食うて成長せいちょうするものまで、実にさまざまの階段かいだんがある。しかもよく調べて見ると、けっして偶然ぐうぜん不規則ふきそくにさまざまのものがならびそんするのではなく、一々かくあるべき理由がそんし、如何いかなる場合には種族しゅぞく維持いじ継続けいぞく目的もくてきとして、そのためおのおのことなった手段しゅだんっているにすぎぬことが明らかに知れる。たとえば最後さいごにあげたれいのごときも、種族しゅぞく継続けいぞく目的もくてきからいうと、母親の身体が生きながら子のえさ食となることがもっとも有利ゆうりであろう。最後さいごの子をみ終わった後の母の身体は、種族しゅぞく標準ひょうじゅんとしていうと、もはや廃物はいぶつであるが、これが自然じぜんに死んでくさってしまうか、またはてきに食われてきの肉となっててきいきおいすことにくらべれば、わが子の身体をつくるために利用りようせられ、直接ちょくせつに自分の種族しゅぞく繁栄はんえいに力をるほうが、全体としてはるかにとく勘定かんじょうとなる。しからばなぜすべての動物で子が母親を食うて成長せいちょうせぬかというに、これはかく種類しゅるいの生活状態じょうたいがみなあいことなって、こうに対して有利ゆうりなことも、おつに対してはかなずしも有利ゆうりかぎらぬからである。何事にも一得いっとくあれば一失いっしつあるをまぬがれぬもので、子が母親の体の内部から食うて成長せいちょうするとすれば、母はたちまち運動の力をうしない、子は一塊いっかいに集まって動かずにいることになるゆえ、てきめられた場合には全部食いくされてしゅのこらぬおそれがある。かり魚類ぎょるい胎生たいせいして、胎児たいじはらの内から母の肉を食うて成長せいちょうすると想像そうぞうするに、「さめ」にでも食われてしまえば子孫しそん全滅ぜんめつをまぬがれぬから、種族しゅぞく保存ほぞんの上から言えばきわめて不利益ふりえきであって、これにくらべれば無数むすうの小さなたまごらし、のこった母の体を廃物はいぶつとして、て去ったほうが如何いかほど有効ゆうこうであるかわからぬ。かような次第しだいで、各種かくしゅ動物の習性しゅうせいおうじて、それぞれもっとも有効ゆうこう種族しゅぞく保存ほぞん方法ほうほう自然じぜんこうぜられているゆえ、親子の間にさまざまな関係かんけいちがうたものが生ずるのである。


第十八章 教育


 たいがいの動物では無数むすうたまごみ放しにするか、または子を保護ほご養育よういくしさえすれば、子孫しそんのいくぶんかがかな生存せいぞんべき見込みこみは立つが、獣類じゅうるい鳥類ちょうるいなどのごとき神経系しんけいけいのいちじるしく発達はったつした動物になると、さらに子を程度ていどまで教育しておかぬと、安心して生存せいぞん競争きょうそう場裡じょうりへ手放すことができぬ。てきふせぐにあたってもえさを取るにあたっても、敏活びんかつな運動ができねば競争きょうそうけるおそれがあるが、敏活びんかつな運動には数多くの神経しんけい筋肉きんにくとのあい調和したはたらきが必要ひつようで、それが即座そくざに行なわれるまでには、多くの練習をようする。しこうして練習するにあたって子が独力どくりょくで一々実地について練習しては危険きけんが多くて、大部分はその間に命を落とすをまぬがれぬ。たとえばてきからげることの練習をするのに、子が一々実際じっさいてき遭遇そうぐうしてげるとすれば、これは真剣しんけんの勝負であるゆえ、練習中にころされるものがいくらあるか知れぬ。もしこれに反して、親が仮想かそうてきとなって子を追いかけ子は一生懸命いっしょうけんめいげるとすれば、危険きけんは少しもなくて同じく練習となり、練習がもって完全かんぜんるようになってから、これを世間に出せば、子の死ぬ割合わりあいはよほどげんずるゆえ、親は子をのこす数が少なくても、ほぼ種族しゅぞく継続けいぞく見込みこみがついたものと見なして安心して死ねる。されば生活に必要ひつようはたらきの練習を、子がわかいときに独力どくりょくでするような動物は、よほど多くの子をまねばならず、また親が手伝てつだうて子に練習させるような動物ならば、それだけ子を少なくんでも差支さしつかえはない。さらにこれをうらからいえば、子を多く種類しゅるいは、練習を子の自由にまかせておいてもよろしいが、子を少なく種類しゅるいでは、親がよほど熱心ねつしんに子の練習を助けてやらねば、種族しゅぞく維持いじ見込みこみが立たぬということになる。
 もっとも動物の種類しゅるいによっては、少しも練習をようせずしてずいぶん精巧せいこうな仕事をなすものがある。蜜蜂みつばちが六角の規則きそく正しい部屋をつくり、かいこ俵状たわらじょうの美しいまゆむすぶなどするのはそのれいであるが、これはいわゆる本能ほんのうによることで、その理由は、おそらく神経系しんけいけいが生まれながらにしてこれらの仕事をなし状態じょうたいにあるゆえであろう。すなわち始めから他の動物が練習によってたつ状態じょうたいと同じ状態じょうたいにあるのであろう。しこうしてまたそのみなもとをたずぬれば、先祖せんぞ代々の経験けいけんつたわったものと見なすのほかはないゆえ、やはり今日までの種族しゅぞく発生の歴史れきし中に練習を重ね来たった結果けっかということもできよう。人間でも生まれて直ちにちちい方を心得こころえていたり、たくみに吸呼こきゅう運動をしたり、咄嗟とつさの間にまぶたじて眼球がんきゅう保護ほごしたりするのは、みな本能ほんのうはたらきで、少しも練習をようせぬ。
 かように数え上げて見ると、動物のなすはたらきの中には、本能ほんのうによって先天てきにその力のそなわってあるものと、練習によって後天てき完成かんせいするものとがあり、また練習するにあたっては、子がりとりで自然じぜんに練習をむ場合と、親が子を助けて安全に練習せしめる場合とがある。教育とはすべて終わりのごとき場合にあてはめて用うべき言葉であろう。

一 教育の目的もくてき


 たいていの教科書を開いて見ると、ただ人間の教育のみについて書いてあるゆえ、その目的もくてきのごときも、人間だけを標準ひょうじゅんとしていたってせまろんじてある。しかもその書き方がすこぶる抽象ちゅうしょうてきでつかまえどころを見出すに苦しむようなものも少なくない。今日では比較ひかく心理しんり学などの流行し来たった結果けっか、やむを鳥獣ちょうじゅうにも子を教育するものがあると書いた論文ろんぶんをも往々おうおう見かけるが、少しく古い書物には「教育は人間のみにかぎる。何故なぜと言うに、精神せいしんを有するのは人間のみである。」などと臆面おくめんもなく書いてあったくらいで、他の生物に行なわれる教育までも、研究の範囲はんい内に入れ、全体を見渡みわたして、ろんを立てるごときことはゆめにもなかった。そのありさまは、あたかもむかし天動せつの行なわれていたころに、地球をもって一種いっしゅ特別とくべつのものと考え、その金星、火星、木星、土星などと同格どうかくの一遊星なることを知らずにいたのと同じであるが、かように根本から考えが間違まちがうていては、如何いかたくみに議論ぎろんしても、とうてい正しい知識ちしき到着とうちゃくすべき見込みこみがない。教育の目的もくてきろんずるにあたっては、まずかかるまよいをて、人間も他の動物も一列にならべて、虚心きょしん平気に考えねばならぬ。
 動物の種類しゅるいをことごとくならべて通覧つうらんすると、子をみ放しにして少しも世話せぬ種類しゅるいが一番多く、子をいささかでも保護ほごする種類しゅるいはこれにくらべるとはるかに少ない。また子をたん保護ほごするだけのものにくらべると、親が子に食物をあたえて養育よういくするものははるかに少なく、子をやしなうものにくらべると、子を教育するものはさらにはるかに少ない。かくのごとく、子を教育する種類しゅるいは、全動物界中のきわめて小部分にすぎぬが、如何いかなる動物が子を教育するかといえば、これはほとんどことごとく獣類じゅうるい鳥類ちょうるいであって、その他にはおそらく一種いっしゅもなかろう。しこうしてこれらは解剖かいぼう学上から見れば、現在げんざい生存せいぞんする動物中、のうのもっとも大きく発達はったつしているもの、また地質ちしつ学上から見れば、しょ動物中最後さいごに地球上にあらわれたもの、習性しゅうせい学上から見れば、他の動物にして子をむ数のもっとも少ないものである。獣類じゅうるい鳥類ちょうるいもともに本能ほんのうによって生まれながらなしることよりは、練習によって完成かんせいしなければならぬ仕事のほうがはるかに多いゆえ、教育の多少は直ちにその種族しゅぞく存亡そんぼう影響えいきょうし、したがって教育に力を入れる種類しゅるいが、代々競争きょうそうに打ち勝ってついに今日のありさままでにたつしたのであろう。これらの動物が、如何いかにその子を教育するかは次のせつべるが、いずれにしてもたん細胞さいぼう時代、嚢状のうじょう時代、もしくは水中を泳いでいた魚形時代の、昔の先祖せんぞのころからすでに子を教育したわけではなく、おそらくはじめは無数むすうの子をみ放した時代があり、次には子の数が漸々ぜんぜんげんじて親がこれを保護ほごした時代があり、次第しだいに進んでこれをやしなうようになり、最後さいごにこれを教えるようになったものと思われる。
 動物の親子の関係かんけい種々しゅしゅ程度ていどことなったもののあるを見、かつ一歩一歩その関係かんけい親密しんみつになりゆく状態じょうたいを考えると、教育の目的もくてき生殖せいしょく作用の補助ほじょとして、種族しゅぞく維持いじたしかならしめるにあることはきわめて明らかである。教育の書物には何と書いてあろうが、生物学上から見れば、教育は種族しゅぞく維持いじ継続けいぞく目的もくてきとする生殖せいしょく作用の一部であるゆえ、その目的もくてきも全く生殖せいしょく作用の目的もくてき一致いっちして、やはり種族しゅぞく維持いじにあることはうたがいない。これだけはすべての動物を比較ひかくしての結論けつろんであるゆえ、いずれの動物にもあてはまることで、その中の一例いちれいなる人間にももとよりそのままにあてはまることと思う。ただし人間の教育については、さらに後のせつべるから、ここにははぶいておく。

二 鳥類ちょうるいの教育


 前にもべたとおり、鳥類ちょうるいたまごからかえって出るひなは、種類しゅるいことなるにしたごうて、それぞれ発育の程度ていどちがうゆえ、これをやしない教育する親の骨折ほねおりにも種々しゅしゅ難易なんい相違そういがある。がいして言えば、雉子きじにわとりなどのごとき平生あまりばぬ鳥は比較ひかくてき大きなたまごみ、それより出るひなは直ちに走りるくらいまでに発育している。これに反して、つばめはとのようなたくみにぶ鳥は小さなたまごみ、それより出るひなはすこぶる小さくて弱いゆえ、とくに親に保護ほごせられやしなわれねば一日も生きてはいられぬ。またひながやや成長せいちょうしてからも、地上を走る鳥ならば、ただ親の呼声よびごえおぼえしめ、地上から小さな物を速かについばむことを練習せしめなどすれば、それでよろしいが、つねにぶ鳥ではひなを教えて、飛翔ひしょうじゅつを練習せしめねばならず、なおびながらえさを取るほうや、てきからのがれるほう会得えとくせしめねばならず、これにはなかなか容易よういならぬ努力どりょくようする。
 たまごからかえったばかりのにわとりひなは、食物が地上にたくさん落ちてあっても、これをついばむことを知らずにいることがある。しかるにもし鉛筆えんぴつかペンじくで地面をたたいて音を立てると、直ちについばみみ始める。これは一種いっしゅ反射はんしゃ作用であって、ひなに生まれながらこの性質せいしつそなわってあるために、親鳥が地面をたたくと、ひながその音を聞いて直ちに物をついばむ練習を始めるのである。しこうして、はじめの間は砂粒すなつぶでも何でもついばんで口に入れ、食えぬものはふたたびこれをき出すが、後にはだんだん識別しきべつの力が進んで、食えるものだけをえらんでついばむようになる。また牝鶏めんどりひなを集め、米粒こめつぶなどをわざわざ高くから地面に落として、そのはねるのを拾わせているところをしばしば見るが、これは迅速じんそくにかつ精確せいかくに小さな物をついばむことを練習させているのであって、ひなにとってはすこぶる有益ゆうえきな教育である。
 鳥類ちょうるいの多数は飛翔ひしょうによって生活しているが、飛翔ひしょうはすべての運動中もっとも困難こんなんなものゆえ、たくみになるまでには大いに練習をようする。の内で育てられたひながやや大きくなると、親鳥はこれにぶことを練習させるが、最初さいしょひなはあぶながって、容易よういからはなれようとはせぬ。これをから出してばせるためには、種類しゅるいでは親鳥がひなのもっともこのえさをくわえて、まずより出で、あたかも人間が歩き始めの幼児ようじに「甘酒あまざけ進上しんじょ」と言うて、歩行の練習を奨励しょうれいするごとくに、えさを見せてひなさそい出す、すなわち興味きょうみをもってみちびこうとする。また他の種類しゅるいでは、いわゆるこう教育の流儀りゅうぎで、親鳥がひなから無理むりし出して、止むをつばさを用いさせる。むろんはじめはきわめて短距離きょりのところをばせ、次第しだい距離きょりしてしまいに自由自在じざいべるようになれば、全く親の手からはなすのである。

「鷲の親と子」のキャプション付きの図
わしの親と子

南アメリカの「コンドルわし」のごとき大鳥になると、ひな飛翔ひしょうの練習を卒業そつぎょうして独立どくりつの生活にうつるまでにはやく三年をようする。
 えさたくみにとらえるにもよほどの練習をようする。すずめなどでもひなるようになった後も、なおしばらくは親がつねにれ歩いてえさを食わせているが、この間にひなは親に見習うて、次第しだいに自分でえさを拾いるようになり、もはや親の補助ほじょなくとも十分に生活ができるようになれば、その時親とはなれてしまう。わしたかのごときやや大きな生きたえさとらえて食う猛禽もうきんるいでは、教育がさらに順序じゅんじょ正しく行なわれ、まずはじめには両親がひなりょうれてゆくが、ただ見学させるだけで、実際じっさいえさとらえる仕事にはわらしめず、つぎには親がえさきずつけ弱らせおいてひなにこれをとらころさせ、次には親とひな協力きょうりょくしてりょうをなし、ひな腕前うでまえがやや熟達じゅくたつしてくると、ついにはひなのみでえさとらえさせ、親はただこれを監督かんとくし、万一えさげ去りそうな場合にこれをふせぐだけをつとめる。すなわち「より入ってなんに進む」という教授きょうじゅほう原則げんそくが、たくみに実行せられているのである。
 水鳥がひな游泳ゆうえいの練習をさせたり、魚をとらえる練習をさせたりする方法ほうほうも、以上いじょうとほぼ同様で、はじめはただ簡単かんたん游泳ゆうえいの練習のみをさせ、えさは親が直接ちょくせつに食わせてやり、次には親がつついて少しく弱らせた魚を、ひなより一尺いっしゃく(注:30cm)ぐらいのところに放してこれをとらえさせ、これができれば、次は二尺にしゃく(注:60cm)ぐらいのところ、次には三尺さんしゃく(注:90cm)ぐらいのところというように、順々じゅんじゅん距離きょりして、すみやかに泳ぐこととたくみにとらえることとをねて練習せしめる。かくしてひな技術ぎじゅつが進めば親は少しく助けながら、自然じぜんのままのいきおいのよい魚をとらえしめ、これが十分にできるようになればやがて卒業そつぎょうする。家鴨あひるだけは長らく人にわれた結果けっかとして、体はふとつばさは短くなりたまごは大きく、これから出たひなは直ちに水面をおよるほどに発育しているゆえ、少しも教育らしいことをせぬが、これはもとより例外れいがいであって、野生の水鳥はたいていみなひなを教える。ひながいまだ泳げぬ間は、これを足の間にはさんで保護ほごしたり、あたかも人間が子を負うごとくに自分のにのせて泳ぐ種類しゅるいなどもあるが、いずれにしても、親が手放す前にはかな独力どくりょくで生活のできる程度ていどまでに、泳ぐことと魚をとらえることとの練習が進んでいる。
 以上いじょうは食うための教育であるが、鳥類ちょうるいにはなお結婚けっこんして子をのこるための教育も行なわれる。すなわち歌やおどりもけっしてひなが生まれながらにたくみにできるものではなく、聞いてはまねし見てはまねして、一歩一歩練習上達じょうたつして、ついに他と競争きょうそう程度ていどまでにたつするのである。もっとも歌の大体の形だけは遺伝いでんつたわり、他の歌うのを聞かずとも、本能ほんのうによってかく種類しゅるい固有こゆうな歌をうたい始めるが、それだけではきわめてせつであってとうてい他と競争きょうそうすることはできぬ。うぐいすなどもよく鳴かせるためには歌のたくみなうぐいすそばへ持って行って、向うの歌を聞かせ習わせる必要ひつようのあることは、うぐいすう人のだれも知っていることであるが、かくのごとく聞けばおぼえてだんだん上手になるのは、がんらい教育せられべき素質そしつそなえているからであって、人にわれず、野生しているときにもむろんこの点にわりはなく、ひなのときにつたなく鳴き始め、老成者ろうせいしゃ熟練じゅくれんした歌をまねて次第しだいたくみになる。やぶの中ばかりにいてはとうてい座敷ざしきうぐいすのごとくに、人間の注文におうじたような歌い方はせぬであろうが、うぐいす仲間なかまでの競争きょうそうわりべき程度ていどまでに上達たつするのは、やはり教育の結果けっかである。

三 獣類じゅうるいの教育


 知力を標準ひょうじゅんとしてろんずると、獣類じゅうるいの中には非常ひじょう程度ていどことなったものがあって、るものははるかに鳥類ちょうるいまさっているが他のものはとうてい鳥類ちょうるいにおよばぬ。したがって教育の行なわれる程度ていどにもいちじるしい相違そういがあり、「かものはし」やカンガルーなどが、如何いかほどまで子を教育するかはすこぶるうたがわしいが、食肉るい猿類えんるいのごとき高等の獣類じゅうるいになると、子の教育に力をそそぐことはけっして鳥類ちょうるいおとってはいない。獣類じゅうるい普通ふつうの運動ほうなる歩行は、鳥類ちょうるい飛翔ひしょうにくらべるとはるかに容易よういで、親がとくに世話をかずとも、子の発育の進むにしたごうて自然じぜんにできるようになるから、わざわざ教育する必要ひつようのある事項じこうが鳥よりは一つ少ないことになる。その代わり獣類じゅうるいでは大脳だいのう発達はったつ非常ひじょうに進んでいるために、いわゆる知的ちてき方面の練習をようすることは鳥類ちょうるいよりはいっそう多くなるかたむきが見える。 子持ちの牝猫めすねこねずみとらえた場合に、如何いかなることをするかを注意して見るに、けっして直ちにころして食うてしまうごときことをせず、まずねずみを軽くきずつけてこれを放し、そのげてゆくところを小猫こねことらえさせる。これはすなわちねずみとらえる下稽古けいこで、たびたびかようなことをしている間にねずみを見ればかなずこれを追いかけずにはいられぬようになり、また追いかければたいがいこれをとらるまでに熟達じゅくたつする。飼猫かいねこでもつねにかような方法ほうほうで子を教えるが、野生の食肉獣しょくにくじゅうになると、さらにこれよりもねんを入れてわが子に渡世とせいみち仕込しこむ。きつねなどは幼児ようじが生まれて二十日ぎになると、すでに鳥類ちょうるいころ稽古けいこを始めさせ、少しく大きくなると、夜出歩くときにいっしょにれまわり、えさを取ることを手伝てつだわせ、次第しだい次第しだいに自分のえさだけは独力どくりょくで取れるように仕込しこみ、しかる後に手放してやる。獅子ししなどはかくして教育し終わるのにやく一年半もかかる。その間にはじめは親は子に見物させ、次に子を助けて実習させ、後にはただ監督かんとくするだけで全く子にまかせ、少しずつほねれる仕事にれさす具合いは、前に鳥類ちょうるいについてべたところとほぼ同様である。とらの食いのこした牛のほねなどを見るに急所には親虎おやとらの大きなきばあとがあり、間のところには子虎ことらの小さいきばあとがたくさんにあるのは、とらねこと同じく子に肉を引きいて食う稽古けいこをさせるからであろう。
「虎の教育」のキャプション付きの図
とらの教育
とらねこと同じく幼児ようじを長くやしないこれにえさとらころほうを教え,子が十分に自活しるまでに進みたるころはじめてこれを放ち去らしむ。

 さるるいも多くは子を教育する。昔からさるの人まねというてさるほど何でもよくまねをするものはないが、児猿こざるにこの性質せいしつがあれば教育は自然じぜんにできる。動物園などで見ても、母猿ははざるはほとんど世話をきすぎると思われるほどにえず熱心ねつしん児猿こざるに注意し、危険きけんをおそれて瞬時しゅんじそばよりはなさず、もし児猿こざる客気かくきにまかせて遠方へでも走りゆけば、直ちに追いついてとらえ帰り打擲ちようちやくしてこらしめる。

「猿作物を盗む」のキャプション付きの図
さる作物をぬす

かくえず親のそばにおかれるゆえ児猿こざるは何でも親のすることを見てこれをまねする。親が果物くだものの皮をむいて食わせてくれれば、自分で食うときにもかなず皮をむき、親が箱のふたをあけて人参にんじんぬすめば、子も同じく箱のふたをあけて人参にんじんぬすむ。また団体だんたいをつくって生活する種類しゅるいならば種々しゅしゅ相図あいずをおぼえ、一々これを聞き分けて同僚どうりょうの仕事と衝突しょとつせぬように注意する。かくしてさるの生活に必要ひつような仕事をすべてまねしおぼえ、熟練じゅくれんしてついに一匹いっぴき前のさるとなるがこれがみな教育の結果けっかである。
 獣類じゅうるい幼児ようじは、犬やねこれいでも知れるとおり、すこぶる活発にれまわるものであるが、遊戯ゆうぎも教育の一部である。獣類じゅうるい如何いかなることをして遊ぶかというにむろん種類しゅるいによってちがい、さるならば木に登って遊び、「おっとせい」ならば水に泳いで遊ぶが、広く集めて分類ぶんるいして見ると、主として追うこと、げること、とらえること、ふせぐことなどであって、いずれも成長せいちょうの後には真剣しんけんに行なわれねばならぬことのみである。なかにはたわむれに交尾こうびのまねまでするが、これも成長せいちょうの後には真剣しんけんに行なわねばならぬ。されば遊戯ゆうぎなるものはたんに元気のありあまるままに身体を活動させて、時間を浪費ろうひしているのではなく、成長せいちょうの後に必要ひつようはたらきをあらかじめ練習しているのである。しこうして父親がこれにくわわることはけっしてなく、母親はときどき仲間なかまにはいってともにたわむれることもあれば、またそば静止せいしして横着な'保姆ほぼのごとくに横目で監督かんとくしていることもある。とにかく親が保護ほごしながら、かかる有益ゆうえきな予習をさせるのであるから、これは立派りっぱに教育と名づくべきものであろう。

四 人間の教育


 以上いじょうべたとおり、鳥類ちょうるいにも獣類じゅうるいにも子を教育するものはいくらもあり、その方法ほうほうのごときも一定の規則きそくにしたごうているが、人間の教育にくらべてはもとより簡単かんたんきわまるものである。しからば人間においてのみ、教育が他にはなれて複雑ふくざつになったのは何故なぜなるかとたずねると、その原因げんいんは言うまでもなく言語と文字との発達はったつにある。音によってたがいに通信つうしんすることは動物界にけっしてめずらしくはないが、人間のごとくに音を組み合わせて一々特殊とくしゅの意味をあらわすような言葉を用いるものは他にはないゆえ、「人は言語を有する動物なり」と、言い放ってもあえてあやまりではなかろう。しかも言語のみがあっていまだ文字がなかったならば、子を教育するにあたっても、ただ先祖せんぞからの言いつたえを親が記憶きおくしておいて子につたえるということが、他の動物にことなるだけで、それ以外いがいに多くの相違そういはない。げんに文字を知らぬ野蛮人やばんじんが、子を教育する程度ていどねことらにくらべていちじるしくはちがわぬ。しかるにいったん文字なるものが発明せられると、その後は子の受くべき教育の分量ぶんりょうはただす一方で、ほとんどその止まるところを知らず、ついには一生涯いっしょうがいの大部分をもそのためについやさざるをぬようになって、人間の教育と他の動物の教育との間に、はなはだしい懸隔けんかくを生ずるのである。
 そもそも文字は脳髄のうずい記憶きおく力を助けるための補助ほじょ器官きかんである。はじめはなわむすび玉をつくり、ぼうに切れ目をつけたりしただけであったのが、だんだん進歩して今日見るごとき便利べんりなものまでになったが、かく便利べんりな文字ができた以上いじょうは、これを用いて無限むげんに物を記憶きおくすることができる。脳髄のうずいばかりで記憶きおくしていたころは、あたかもさるが食物を'ほおふくろたくわえるごとくで、身体の一隅いちぐうにためむだけであるゆえ、そのりょうにももとよりせま際限さいげんがあったが、文字を用いて、脳髄のうずい以外いがい記憶きおくるようになると、ちょうど畑鼠はたねずみが米や麦のを自分のの内に貯蔵ちょぞうすると同じ理屈りくつで、あなさえ広くればいくらでもかぎりなくためることができる。かような次第しだいで、人間は文字の発明以来いらい、日々の経験けいけんによってた新たな知識ちしきを文字におさめてたくわえ来たったが、人間の生存せいぞん競争きょうそうにおいては知識ちしきがもっとも有効ゆうこう武器ぶきであるゆえ、てきに負けぬためには子を戦場せんじょうに立たせる前に、これに十分の知識ちしきさずけておかねばならぬ。てきにくらべて知育がいちじるしくおとっていては、その民族みんぞくは平時にも戦時せんじにも競争きょうそうに勝つ見込みこみが立たぬゆえ、つねづね子弟していに十分な知識ちしきあたえておかぬと親は安心して死なれぬ。されば、今日の文明国における教育の状態じょうたいを見ると、伝来でんらい迷信めいしんのためにずいぶん無駄むだなことをしている部分もあるが、大体はてきに負けぬだけの知識ちしきさずけることをつとめている。しこうしてその知識ちしきは文字によって脳髄のうずい以外いがい貯蔵ちょぞうせられ、蓄積ちくせきせられべきものである。人間の教育が他の動物の教育とことなるところは、主としてかかる種類しゅるい知識ちしきを子弟にさずける点にそんする。
 世間にはたん理論りろんの上から教育を三分して、知育、徳育とくいく、体育とし、いずれにもへんせぬように平等に力をくすがよろしいとく人もあるが、以上いじょうべたところから考えると、この三種さんしゅの教育はけっして対等の性質せいしつのものではなく、かつ如何いかに平等に取扱とりあつうても、その効果こうかはすこぶる平等なるをまぬがれぬであろう。人間の教育についてくわしくべることは、本書の趣意しゅいでもなく、また門外漢なる著者ちょしゃのよくするところでもないゆえ、他はすべてりゃくして、ここには以上いじょうの三育の効果こうかあいことならざるべからざる理由を一言するだけにとどめる。
 知育はとくに人間にとって大切な教育であって、かつその効果こうかもすこぶるいちじるしくあらわれる。学校の課程かていを見ても、その大部分は知育にぞくするもので、生徒せいと知識ちしき如何いかに一年ごとに進みゆくかはだれの目にも明らかに知れる。こころみに学校をんできた子供こどもと、学校へ行ったことのない子供こどもとをくらべたら、その知識ちしき相違そうい非常ひじょうなもので、今日の社会では「いろは」も読めぬような者はほとんど用いるみちがない。すなわち知育は行なえば行なうただけ効果こうかのあがるもので、民族みんぞくたがいに競争きょうそうする場合には、相手に負けぬためにできるだけ程度ていどを高めることが必要ひつようであり、また高めればかなずそれだけの効能こうのうがある。されば今後はそれぞれ民族みんぞくきそうて知育の程度ていどを高めるであろうが、程度ていどを高めればそれだけ教育の年限ねんげんが長くなるをまぬがれぬ。新たな知識ちしきは年とともにもるばかりであるが、古い知識ちしきがそのため不用ふようになるわけでもないゆえ、さずくべき教材きょうざいは年々多くならざるをない。エッキス光線、無線むせん電信でんしん飛行機ひこうき潜航艇せんこうていのことを追加ついかして教えるからというて、その代わりに物理学教科書の最初さいしょ数頁すうぺーじやぶてるわけにはいかぬから、いずれの学科においても、やはり「いろは」から始めて最新さいしんの発見までさずけることとなり、これを満足まんぞくに教えるには次第しだい次第しだいに教育の年数をさねばならぬ。如何いか教授きょうじゅほうたくみになっても、教材きょうざい無限むげんえては、時間を延長えんちょうするよりほかにみちはない。しかし教育の年限ねんげんをどこまでもばすことは、むろんできぬことであって、人間わずか五十年のうち、二十歳はたち丁年ていねんたつしながら四十さいまで学校へ通うようでは、とうてい教育生産力せいさんりょくとのつりあいがとれぬ。それゆえ、もしかく民族みんぞくがどこまでもきそうて知育を高めたならば、今日大砲たいほう軍艦ぐんかんの大きさ、飛行機ひこうき潜航艇せんこうていの数を競争きょうそうしてたがいにこまっているごとくに、知育の競争きょうそうに行きまって、おたがいに閉口へいこうする時節じせつ早晩そうばんくるであろう。
 徳育とくいくは知育とちがうて、ほね割合わりあい効果こうかがあがるかいなかすこぶるうたがわしい。団体だんたい生活をいとなむ動物がたがいに競争きょうそうするにあたってもっとも大切なことは協力きょうりょく一致いっち義勇ぎゆう奉公ほうこう精神せいしんであるが、この精神せいしん如何いかにして養成ようせいせられるかというに、数多の小団体だんたいえず激烈げきれつ競争きょうそうして勝った団体だんたいのみが生きのこり、けた団体だんたいほろせるによるのほかはない。かくすれば、一代ごとにかなず少しずつ、義勇ぎゆう奉公ほうこうというごとき団体だんたいてき競争きょうそうに勝つべき性質せいしつが進歩して、ついに今日の蜜蜂みつばちありに見るごとき程度ていどまでに発達はったつする。しかるに近世の人間は、民族みんぞく間にえず紛議ふんぎがあるにかかわらず、けた団体だんたいが全部ほろびるというごときことはけっしてなく、生まれながら義勇ぎゆう奉公ほうこうねんのやや強い者もやや弱い者もひとしく生存せいぞん機会きかいるゆえ、この精神せいしんの進歩すべきのぞみがなくなった。その上、団体だんたい内における個人こじん間の競争きょうそうでは、義勇ぎゆう奉公ほうこうねんうすい者のほうが勝つような事情じじょうも生じて、この精神せいしんはむしろ漸々ぜんぜんほろびゆくもののごとくに見える。教育者は往々おうおう、教育の力によって如何いかなる性質せいしつの人間をも、注文におうじて随意ずいいにつくりるかのごとくに言うが、実際じっさいはけっして人形師にんぎょうしが人形をつくるようにはゆかず、かく個人こじん性質せいしつ先祖せんぞおよび父母からの遺伝いでんによって、生まれたときすでに大体は定まり、教育者はわずかばかりこれを変更へんこうるにすぎぬ。教育の力によって、手の指を一本やすこともらすこともできぬと同じく、脳髄のうずい細胞さいぼうをならべ直して、義勇ぎゆう奉公ほうこうねん自然じぜんに強くすることはとうていできぬであろう。かような次第しだいであるゆえ、徳育とくいくは今後如何いかに力をくしても、けっして知育におけるごとき目覚めざましい効果こうかのあがらぬのみならず、知育が進めば悪事もますますたくみにするようになるから、これに対抗たいこうするだけでもなかなか容易よういではなかろうと思われる。
 しからば体育は如何いかにというに、これまた十分に効果こうかのあがらぬ事情じじょうがある。一体ならば子供こどもを学校などへやらずに、自由自在じざいに「おにごと」、「木登り」、「水泳ぎ」、「角力取り」などさせておくのが、体育のためにはもっともよいのであるが、種属しゅぞく生存せいぞん必要ひつよう上、知育をさかんにせねばならず、そのためには、動きたがる子供こどもらをしいてしずかにすわらせ、勉強させるのであるから、体育のほうから言うと知育はむろん有害ゆうがいである。しかるに知育はこれをげんずることができぬのみならず、今後は他民族みんぞくとの競争きょうそう上ますます増進ぞうしんする必要ひつようがあり、なるべく短い時間になるべく多くの知識ちしきさずけようとすれば、いきおい体育のほうはそれだけ迫害はくがいせられるをまぬがれぬ。小学校の一年から六年まで、中学校の一年から五年までと級が進むにしたがって、一年しに毎日すわらせられうつ向かせられる時間が長くなって、身体の自然じぜんの発育は次第しだいさまたげられるが、これも種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくの上に必要ひつようであるとすれば、止むをぬこととしてしのぶのほかはない。なおその他にも今日の人間の身体を少しずつ弱くする原因げんいんがたくさんにある。されば体育は今後如何いかに力をくしても、知育を暫時ざんじ廃止はいしせぬ以上いじょうは、ただ知育のために受ける身体上の損害そんがいをいくぶんか取り消しるのがせきの山で、とうてい進んで身体を昔の野蛮やばん時代以上いじょう健康けんこうにすることはできぬであろう。

五 命のとうと


 以上いじょうべ来たったとおり、人間は種族しゅぞく維持いじのためにもっとも有力の武器ぶきなる知識ちしききそうて進めねばならず、その結果けっかとして、他の動物にはとうていそのを見ぬほどの長年月を教育についやすが、かくしてはかく個体こたい団体だんたい競争きょうそうにあずかる一員として完成かんせいする時期が非常ひじょうにおくれる。無数むすうの子をむものは、そのままておいて少しも世話をせず、一生懸命いっしょうけんめいに子の世話をするようなものは子のみ方がすこぶる少ないことは、全動物界に通ずる規則きそくであるが、人間のごとくに子の教育に手間のかかる動物ではいきおい子の数はもっとも少なからざるをない。げんに人間の子を割合わりあいは女一人につき平均へいきん四人か四人半により当たらぬが、このくらい少なく子を種類しゅるいはけっして他にはない。しこうしてこの少数の子を一人一人戦闘せんとう員として役に立つまでに育て上げるために、親もしくは親の代理者がついやす時間と労力ろうりょくとは、他の動物が子を教育する手間にくらべて何層倍なんそうばいにあたるかわからぬほどである。
 さて恋愛れんあいに始まり教育に終わる生殖せいしょく事業の目的もくてきは、言うまでもなく自己じこ種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくにあるが、この点から見ると、個体こたいの命の価値かち生殖せいしょくほうことなるにしたごうて、非常ひじょう相違そういがあるように思われる。かく個体こたいの命は、それを有する個体こたい自身から見ればむろん何よりも大切なもので、自身一個いっこ標準ひょうじゅんとして考えれば、命をうしなうことは、全宇宙うちゅう滅亡めつぼうしたのと同じことにあたるが、種族しゅぞくの生命を標準ひょうじゅんとして考えると、個体こたいの命なるものは全くその意味がわってくる。まず無数むすうの子をみ放して、少しも世話をせぬような種類しゅるいについてろんずるに、おおよそ種族しゅぞく維持いじのためには一対の親からまれた子の中から、平均へいきん二匹にひきだけが生きのこればよろしく、また実際じっさいそのくらいより生きのこらぬから、生まれた子が五十匹ごじゅっぴき百匹ひゃっぴきつぶされても食いころされても、種族しゅぞくとしては少しも痛痒つうようを感ぜぬ。しかも後から後からとさかんに子をむゆえ、かような動物の命はあたかも掘抜ほりぬ井戸いどの水のようなもので、えずさかんにあふれて無駄むだになっている。この場合には個体こたいの命のあたいはほとんどぜろにひとしい。かような虫をころすことを躊躇ちゅうちょするのは、あたかも掘抜ほりぬ井戸いどの水を柄杓ひしやくむことを遠慮えんりょしているようなものである。 これに反して、やや少数の子を種類しゅるいでは、それがさらにげんじては親のあとぐだけの子が生きのこるやいなやすこぶるうたがわしくなるゆえ、種族しゅぞく維持いじの上から言うと、一匹いっぴきでもはなはだ大切である。それゆえ実際じっさいかような動物では親が何らかの方法ほうほうで子を保護ほごし、また進んでは養育よういくもする。しこうして夫婦ふうふ五十匹ごじゅっぴきの子を種類しゅるいならば、そのうち四十八ひき死んでもよろしいが、十匹じゅっぴきよりまぬ種類しゅるいでは、そのうち八匹はっぴき以上いじょう死なれては後継者こうけいしゃがなくなるゆえ、種族しゅぞく維持いじの上からは前者にして後者のほうが数倍も個体こたいの命がとうとい。しこうしてとうといだけに実際じっさいかような種類しゅるいでは、かなず親が一生懸命いっしょうけんめいになって長くこれを保護ほご養育よういくしている。おおよそ物のあたいは何でも需要じゅようが多くて供給きょうきゅうの少ないものが高く、また製産せいさん費用ひようの多くかかったものが高いのが当然とうぜんで、命のあたいもこの規則きそくにしたごうて高いのと安いのとがあり、がいして言うと個体こたいの命のとうとさは、個体こたい完成かんせいするまでにようする保護ほご教育のりょう比例ひれいする。他の動物とははなれて多くの教育をようする人間仲間なかまで、個人こじんの命が他の動物とは比較ひかくにならぬ高い程度ていどとうとばれるのは、やはりこの理屈りくつによることであろう。無数むすうに子をむ動物では、全局を通算して種族しゅぞく維持いじ見込みこみがつけばよろしいのであって、かく個体こたいの一々の生死のごときはほとんど問題にならぬが、人間などはその正反対で、実際じっさい些細ささいな事がらでも、事かりそめにも人命にかんすると切り出されると、止むをずこれを重大事件じけんと見なさねばならぬこともある。かくのごとく人間はつねに命を非常ひじょうとうといものとして取りあつかくせがついているゆえ、これより類推るいすいして、他の生物の命もすべてとうといもののごとくに思い、虫一匹いっぴきの命を助けることをも非常ひじょうぜんい事のごとくにめ立てるが、実際じっさいを調べて見ると、ここにべたとおり、種類しゅるいによっては命のあたいのほとんどぜろに近いものがいくらもある。自然じぜん界には命の浪費ろうひせられることがずいぶんさかんで、命をとうといものと考える人から見れば、如何いかにももったいなくてたまらぬように感ぜられることがつねに行なわれている。

「水が涸れて死ぬ魚」のキャプション付きの図
水がれて死ぬ魚

大陸たいりくかわ旱魃かんばつのためにれる時には、最後さいごまで水のあるところへ魚がことごとく集まり来たり、そこまでがれれば何万何億なんおくという魚がみな一時に死んでしまう。少しく風が強くけば、海岸一面に種々しゅしゅの動物が数限かずかぎりもなく打ち上げられているのを見るが、沿岸えんがん何里もつづくところではどのくらいの命がてられるか想像そうぞうもできぬ。しかしこれらの損失そんしつはときどきあるべきこととして、かく種族しゅぞく維持いじの予算には前もって組みんであり、生殖せいしょくによって直ちにめ合わす予定になっているゆえ、はじめからべつしまれるべき命ではない。無益むえき殺生せっしょうはけっしてむべきことではないが、印度インド宗教しゅうきょうのごとくに生物の命をいっさい取らぬことをぜんの一部と見なして、でものみでもころすことを躊躇ちゅうちょするのは、生物の命をすべてとうときもののごとくに誤解ごかいした結果けっかで、実は何にもならぬ遠慮えんりょである。


第十九章 個体こたいの死


「生あるものは死あり」と昔から承知しょうちしていながら、やはり死にたくないのが人情にんじょうと見えて、少しでも物の理屈りくつを考える余裕よゆうができると、まず第一に死のことから注意し始め、想像そうぞうたくましうして、不老ふろう不死ふしの薬とか、無限寿じゅげむ仙人せんにんとかの話をつくり出す。それより知力が進めば進むだけ、死にかんする想像そうぞう複雑ふくざつ精巧せいこうになり、想像そうぞう実際じっさいとの区別くべつがわからぬためにさまざまの迷信めいしんが生じて、今日にいたっても、死については実に種々しゅしゅ雑多ざったせつが行なわれている。生をろんずるにあたっても、材料ざいりょうを人間のみに取っては一部にへんするために、とうてい公平な結論けつろんたつすべきのぞみがないのと同じく、死を研究するにも、まず広く全生物界を見渡みわたして、種々しゅしゅことなった死にようを比較ひかくする必要ひつようがある。しこうして広く各種かくしゅの動物について、その死にようを調べて見ると、あるいは外面だけが死んで内部が生きのこるもの、前半身が死んで後半身が生きのこるもの、死んでいるか生きているかわからぬもの、死んでも死骸しがいのこらぬものなど、実に意外な死に方をするものがたくさんあって、人間の死のごときはただその中のもっとも平凡へいぼんなる一例いちれいにすぎぬことが明らかに知れる。

一 死とは何か


 そもそも死とは何ぞやとたずねると、これに対して正確せいかくに答えることはとうていできぬ。ちょっと考えると、死とは生の反対で死ぬとは生のむことであるから、至極しごく明瞭めいりょうでその間に何のうたがいも起こりそうにないが、すでに本書のはじめに短くべておいたとおり、生なるものの定義ていぎ容易よういに定められぬ。それゆえ生を知らずいずくんぞ死を知らんやというようなわけで、死についてもすべての場合にあてはまり、かつ一の除外じょがいれいをもゆるさぬ正確せいかく定義ていぎはなかなか見いだされぬ。しかしながら正確せいかく定義ていぎの定められぬことは、ただ生と死とにかぎるわけではなく、自然じぜん界の事物にはむしろこれが通則つうそくである。たとえば獣類じゅうるい胎生たいせいするといえば、「かものはし」のごとき卵生らんせいする例外れいがいがあり、獣類じゅうるいの体は毛にておおはるといえば、ぞうくじらのごとき毛のない例外れいがいがある。しかもこれらをふくむような定義ていぎをつくれば、獣類じゅうるい胎生たいせいもしくは卵生らんせい、体は毛にておおわれまたはおおわれずと言わねばならず、かくては定義ていぎとして何の役にも立たぬ。それよりは獣類じゅうるい胎生たいせいで体は毛でおおわれるとしておいて、「かものはし」やくじら例外れいがいとしてやはりその中へ入れるほうがはるかに便利べんりである。かような考えから本書においては生の定義ていぎなどにはかまわずに、ただ生物は食うてんで死ぬものというだけにとどめておいたが、死についてもこれと同様に、まず動物には如何いかなる死にようをするものがあるかをべて、死とはおおよそ如何いかなるものかを概論がいろんするにとどめる。
 まず人間などについて見ても、死と生との区別くべつ判然はんぜんせぬ場合があり、死んだと思うてかんに入れ、今から葬式そうしきを始めようという時にその人が蘇生そせいしたので、みなみな大いにおどろいたというような記事を新聞紙上に見ることが往々おうおうある。人間は死ねば吸呼こきゅうが止まりみゃくえ、温かかった身体がつめたくなるが、これだけを見て直ちに死んだものときめてしまうと右のような間違まちがいも起こる。

「わむし」のキャプション付きの図
わむし
(左)生きて動くもの (右)かわきたるもの

淡水たんすいさんする「わむし」や「くま虫」などは、かわかせば体が収縮しゅうしゅくして全く乾物かんぶつとなり、少しも生きているようすは見えず、そのまま何年も貯蔵ちょぞうしておけるが、これに水をくわえるとたちまち水を吸収きゅうしゅうしてふくれ、もとの大きさにもどって平気で活発にはい出す。すなわち死んだように見えてもかなずしも真に死んだとはかぎらず、いつまでおいても生き返らぬことがたしかになってはじめて真に死んだと言えるのである。また全身としてはたしかに死んでも、その組織そしきの生きていることはつねである。たとえばくびを切られた罪人ざいにんはもはや生き返る気づかいはないゆえ、たしかに死んだにちがいないが、その神経しんけい刺激しげきすればさかんに筋肉きんにく収縮しゅうしゅくする。心臓しんぞうのごときはべつ刺激しげきあたえずとも、しばらくは生きているとおりに搏動はくどうをつづける。かえるなどで実験じっけんして見るに、取り出した心臓しんぞう血管けっかん根本ねもとをくくってうす塩水えんすいの中に入れておくと、十日以上いじょうえず伸縮しんしゅくしている。これに反して全身は健全けんぜんに生きていても、一部分ずつの組織そしきえず死んでてられている。血液けつえき中の赤血球や粘膜ねんまくの表面の細胞さいぼうのごときは、とく寿命じゅみょうが短くて新陳代謝しんちんたいしゃが始終行なわれている。かくのごとく、一部分ずつの組織そしき細胞さいぼうが死んでも通常つうじょうこれを死と名づけず、組織そしき細胞さいぼうがなお生きていても、全体として蘇生そせいのぞみがなければこれを死と名づけるのであるから、世人の通常つうじょう死とぶのは一般いっぱんに生きた個体こたいとしての存在そんざいの止むことである。
 獣類じゅうるい鳥類ちょうるいなど人のつねに見なれている高等動物は人間と同じような死に方をするが、やや下等の動物にはさまざまにわった死にようのものがある。

「ほやの群体」のキャプション付きの図
ほやの群体ぐんたい

たとえば「ほや」の種類しゅるいではときどき身体の上半だけが死んでくずれ去り、下半はそのままのこり、芽生がせいによって新たに上半身ができると、それが古い下半身と連絡れんらくして一匹いっぴき完全かんぜんな身体ができ上る。また海産かいさんの「こけむし」るいでは、かく個体こたいいていきおいが弱くなるとついに死んで組織そしき変質へんしつし、茶色の丸い脂肪しぼうの球となってしまうが、わずかに生きのこった組織そしきもととなって後に新たな個体こたいが生ずる。しこうしてそのさい前の脂肪しぼうの球はの内につつまれ、滋養じよう分として利用りようせられる具合いは、死んだ親の肉を'缶詰かんづめにしておいて子がこれを食うて成長せいちょうするのに比較ひかくすることができよう。群棲ぐんせいする「ほや」るいの中には、ときどき群体ぐんたい内の個体こたいがみな死にえて一匹いっぴきもなくなり、ただいずれの個体こたいにもぞくせぬ共同きょうどうの部分だけのこるものがあるが、しばらくるとこの部の表面から新たに一揃ひとそろいの個体こたいが生ずる。これなどはかく個体こたいは毎回死ぬが、その個体こたいより群体ぐんたいは始終生きつづけている。また前にべた植物に寄生きせいする小蝿こばえかえるはい寄生きせいする蛔虫かいちゅうるいでは、子が生まれる前に母親の身体を内から食いくすゆえ、母親は死んでも'蝉せみ抜殻ぬけがらよりもはるかにうすい皮のふくろのこるだけで、真の死骸しがいというべきものは何もない。これに反して「うに」、「ひとで」などの発生中には、死なずして死骸しがいができる。これはちょっと聞くと全く不可能ふかのうのことのようであるが、「うに」や「ひとで」のるいではたまごが発育しても直ちに親と同じ形になるのではなく、最初さいしょしばらくは親と全く形のことなった幼虫ようちゅうとなって海面を浮游ふゆうし、その幼虫ようちゅうの身体の一小部分から「うに」や「ひとで」の形ができて、のこり全体はしなびててられるか吸収きゅうしゅうせらるるかするゆえ、個体こたいとしては生存せいぞんしっづけながら、大きな死骸しがいが一時そこに生ずることになる。

「ひもむしの幼虫」のキャプション付きの図
ひもむしの幼虫ようちゅう

あさい海のそこにすむ「ひもむし」という細長いやわらかい虫の発生中にもこれと同様なことがある。すなわち海の表面にいている幼虫ようちゅうの体の一部に小さな成虫せいちゅうの形ができ始まり、これが幼虫ようちゅうの体からはなれて成虫せいちゅうとなるが、そのさい幼虫ようちゅうのこりの身体は不用ふようとなっててられる。「おたまじゃくし」がかえるとなる時には全身の形がわるが、「うに」、「ひとで」、「ひもむし」などの変態へんたいする時には幼虫ようちゅうの体の一小部分だけが生存せいぞんして成虫せいちゅうとなり、のこりは死骸しがいとなるのであるゆえ、考えようによっては、幼虫ようちゅう芽生がせいによって成虫せいちゅうを生ずると見なせぬこともなかろう。さればこれらの動物は変態へんたいと世代交番こうばんとの中間にくらいするれいということができる。
 死の有無うむについてとく議論ぎろんのあるのは「アメーバ」、「ぞうりむし」などのごときたん細胞さいぼう虫類むしるいである。こうなる一匹いっぴき分裂ぶんれつしておつへい二匹にひきになった場合に、こうは死んだか死なぬかと言うて、今でも議論ぎろんをしているが、実はこれはたんに言葉のあらそいにすぎぬ。死骸しがいのこらねば、死んだと見なさぬ人はこうは死なぬと言い、個体こたいとしての存在そんざいの止んだことを死と名づける人はこうは死んだと言うが、いずれとしても事実は事実のままである。もしも死なぬものと見なせば、かかる虫類むしるいは死ぬこともない代わりに生まれることもないと言わねばならず、またもし死ぬものと見なせば、これは死んでも死骸しがいのこさぬ一種いっしゅ特別とくべつの死にようである。がんらい生死という文字は、人間、鳥獣ちょうじゅうなどのごとき雌雄しゆう生殖せいしょくをする動物だけを標準ひょうじゅんとしてつくられたものゆえ、無性むせい生殖せいしょくの場合によく当てはまらぬのは当然とうぜんのことで、「アメーバ」、「ぞうりむし」にかぎらず、「いそぎんちゃく」や「糸みみず」などが分裂ぶんれつによって繁殖はんしょくする場合にも、子が生まれたとか親が死んだとかいう言葉は、普通ふつうの意味ではとうてい用いることはできぬ。

二 非業ひごうの死


 非業ひごうの死という文字は新聞紙などでしばしば見かけるが、これは何か不意ふいの出来事のために命を取られることで、人間の社会ではむしろ数の少ない例外れいがいのごとくに見なされている。すなわち人間は慢性まんせいの病気にでもかかって死ぬのが自然じぜんの死にようで、強盗ごうとうころされるとか、汽車にかれるとかいうのは、もしその事がなかったならば、なお生存せいぞんしつづけたはずのところを自然じぜんに反して無理むりに命をうばわれたのであるゆえ、これを非業ひごうと名づけるのであろう。もっとも非業ひごうという中にも種々しゅしゅ程度ていどがあって、死にようが激烈げきれつでない場合は、事実非業ひごうであっても通常つうじょうこれを非業ひごうとは名づけぬ。たとえば何か事業に失敗しっぱいして心痛しんつうのあまり病気となり、入院して死んだとすれば、これまた非業ひごうの死と言うべきはずであるが、このくらいでは世人は非業ひごうの死とは見なしてくれぬ。もしかような場合までを非業ひごうのほうへかぞえこめば、人間の非業ひごうの死の数はよほどえるが、それでもまだけっして大多数とはならぬ。しかし他の動物では如何いかにと見ると、これはまるでおもむきちがう。
 前に幾度いくどべたとおり、多くの動物は無数むすうたまごみ放すが、これよりかえったはほとんどことごとく非業ひごうの死をげる。魚類ぎょるいは数十万のたまごみ、「うに」、「なまこ」、「ごかい」、はまぐりなどは数百万のたまごむが、たいがいは発生の途中とちゅうに命をうしなうて成長せいちょうし終わるまで生存せいぞんるものはきわめて少数にすぎぬ。動物のむ子は多くても、これを常食じょうちょくとするてき動物が待ちかまえているゆえ、多数はそのえさとなってしまう。その他風雨のためにかれ流されて死ぬものもあり、怒濤どとうのために岩に打ちつけられはまへ打ち上げられて死ぬものもあり、旱魃かんばつのためにからびて死ぬものもあれば、洪水こうずいのためにおぼれて死ぬものもあろう。また同僚どうりょうとの競争きょうそうけてえさもとずしてえて死ぬものや、仲間なかま同志どうし共食ともぐいで食いころされるものもあろう。とにかく何らかの方法ほうほうで発生の中途とちゅうに命をうしなうものが非常ひじょうに多数をめ、成長せいちょうし終わるまで生きのこるのは平均へいきん十万ひき中の二匹にひき、百万ひき中の二匹にひきにすぎぬ。すなわち十万ひきの中の九万九千九百九十八ひき、百万ひきの中の九十九万九千九百九十八ひきはことごとく非業ひごうの死をげるのである。
 子をみ放しにする動物では、かくのごとく非業ひごうの死をげるものの数がきわめて多いが、子を世話する種類しゅるいでは保護ほご養育よういく程度ていどの進むとともに、非業ひごうの死をげる子供こども割合わりあい次第しだいげんずる。同じ魚類ぎょるいでもをつくってたまご保護ほごする「とげうお」や、おすはらふくろたまごを入れる「たつのおとしご」では、非業ひごうの死をげるものの数はよほど少なくなり、かえるの中でもに子を負う種類しゅるいふくろたまごを入れる種類しゅるいでは、非業ひごうの死をげるものはさらに少ない。これらの動物はみな子をむ数が少ないゆえ、もしも普通ふつう魚類ぎょるいや「ごかい」、はまぐりなどにおけると同じ割合わりあいに、多数の子が死んだならばたちまち種族しゅぞく断絶だんぜつするおそれがある。人間はもっとも少なく子をみ、もっとも長くこれを保護ほご養育よういくするものゆえ、発達はったつ途中とちゅうに命をうしなうものの数は他の動物にするとはるかに少なく、かつそのうちとく悲惨ひさんな死にようをしたものでなければ非業ひごうと名づけぬゆえ、それで非業ひごうの死がまれな例外れいがいのごとくに見えるのである。
 動物に非業ひごうの死の多いことは何を見ても直ちに知れる。魚市場や肴屋さかなや料理屋りょうりやの店にある魚類ぎょるいはことごとく非業ひごうの死をげたもので、これらの魚類ぎょるいを切り開いて見ると、また非業ひごうの死をげた小さな魚や虫や貝類かいるいなどが充満じゅうまんしている。しこうしてこの小さな魚や虫のはらの中には、さらに小さな幼虫ようちゅうたまごなどがいっぱいにあるが、これまた非業ひごうの死をげたものである。おおよそ肉食する動物がある以上いじょうは、そのえさとなる動物は日々非業ひごうの死をげるをまぬがれることはできぬ。また田圃たんぼ害虫がいちゅう駆除くじょすれば数千万の虫が非業ひごうの死をげ、養蚕ようさんを終われば何百万のさなぎ非業ひごうの死をげる。その他自然じぜん界における非業ひごうの死のれいをかぞえあげたら際限さいげんはない。されば、非業ひごうの死なるものは、人間社会においてこそややまれな場合であるごとき感じがあるが、広く自然じぜん界を見渡みわたせば非業ひごうの死はほとんどつねの規則きそくであって、そのうちきわめて少数のものがなかば僥倖ぎょうこうによって成長せいちょうを終わり子をのこるのである。

三 寿命じゅみょう


 非業ひごうの死をまぬがれたものはいつまで生きるかというに、その期限きげんは一種類しゅるいごとにそれぞれほぼ定まっている。これを寿命じゅみょうと名づける。すなわち各種かくしゅ生物の生まれてから食うてんで死ぬまでの年数を指すのであるが、身体の大きなものは成長せいちょうに手間がかかるゆえ、身体の小さなものよりも自然じぜん寿命じゅみょうが長い。たとえばぞうくじらねずみ、「モルモット」にくらべるとはるかに長命ちょうめいである。しかし寿命じゅみょうかなずしも身体の大きさと比例ひれいするものではない。犬は二十年で老衰ろうすいするが、犬よりも小さなからすは百年以上いじょうも生きる。馬は三四十年で死ぬが、ひきかえるは五十年あまりも生きている。しからば寿命じゅみょうなるものは何によって定まるかというに、如何いかなる動物でも、子孫しそんのこ見込みこみの立たぬ前に死んではその種族しゅぞくがたちまち断絶だんぜつするは知れたことゆえ、かな若干じゃっかんの子をむに足るだけの寿命じゅみょうがなければならず、しこうしてきわめて多数の子をめば、そのまま親が死んでも種族しゅぞく継続けいぞくする見込みこみがたしかに立つが、やや少数の子をむものはこれを保護ほご養育よういくして競争きょうそう場裡じょうりに安心して手放せるように仕上げてからでなければ親は死なれぬ。実際じっさい動物各種かくしゅ寿命じゅみょうを調べて見ると、みなこのへんに定まっている。
 生物の寿命じゅみょうについては昔から種々しゅしゅせつとなえられ、その中にはずいぶん広く俗間ぞっかんに知られているものがある。一例いちれいをあげると、如何いかなる動物でもその寿命じゅみょう成長せいちょうようする年月の五倍に定まっているというせつがあるが、これには少しもよりどころはない。身体の大きくなることが止まり、生殖せいしょく器官きかんが十分に成熟せいじゅくした時を通常つうじょう成長せいちょうの終わった時と見なすが、二三のもっとも普通ふつうな動物についてその寿命じゅみょうとこの期限きげんとを比較ひかくして見たら、直ちにかかるせつの取るにたらぬことが知れる。たとえばかいこは発育を始めてからやく一箇月いっかげつ成長せいちょうし終わってたまごむが、その後四箇月よんかげつ生きるかというとわずかに四日も生きてはいない。「かげろう」の幼虫ようちゅうは二年もかかって水中で成長せいちょうするが、はねが生えてび出せばわずかに数時間のうちにことごとく死んでしまうて、けっして十年の寿命じゅみょうたもたぬ。アメリカの有名な「十七年'蝉せみ」のごときは、幼虫ようちゅうは十七年もかかって地中で成長せいちょうし、成虫せいちゅうとなってたまごめば数日で死ぬが、これなどは五倍せつにしたがえば八十五さいまで生きねばならぬはずである。また他のるいかられいを取って見るに、つるは二年で成長せいちょうし終わるが、その寿命じゅみょうは十年とかぎらず、よく百年以上いじょうも生きる。からすのごときもひな数箇月すうかげつ成長せいちょうし終わるが、寿命じゅみょうはやはり百年にたつする。そうじて鳥類ちょうるいははなはだ命の長いもので、成長せいちょう期限きげんの何十倍にもあたるのがつねである。また魚類ぎょるいのごときはたまごむようになってから後も引きつづいて身体が大きくなるゆえ、成長せいちょうの終わりをいつと定めることができぬ。かような次第しだい種々しゅしゅの動物から実際じっさいれいをあげてくらべて見ると、成長せいちょうようする年数と寿命じゅみょうの年数との割合わりあい種類しゅるいによってそれぞれちがうものでけっして一定のりつをもって言いあらわしべき性質せいしつのものでないことが明らかである。ただいずれの場合にも種族しゅぞく継続けいぞく見込みこみのほぼたしかについたころに親の命が終わることだけは例外れいがいのない規則きそくのように見える。前のれいについて見ても、かいこはそれぞれのめすが数百つぶたまごんでおきさえすれば、後はてておいてもかいこ種族しゅぞくえるおそれはないと見込みこんだごとくに、ほとんど産卵さんらんがすむと同時に寿命じゅみょうがつきる。これに反して鳥類ちょうるいがいして運動が敏活びんかつであり、したがって滋養じよう分を多量たりょうようするが、毎日食うた食物の中から自身をやしなうべき滋養じよう分を引き去った、のこりの滋養じよう分だけがたまってたまごをつくる材料ざいりょうとなるのであるから、よほど食物が潤沢じゅんたくになければたまごを多くむことはできぬ。しかも鳥類ちょうるいたまごはすべての動物の中でもっとも多量たりょう滋養じよう分をふくんだもっとも大きなたまごであるゆえ、これを数多くむことはとうていのぞまれぬ。にわとりのごとく人にわれてつねに豊富ほうふえさを食うものは、一年に百以上いじょうたまごむが、野生の鳥類ちょうるいは食物の十分にある時もあれば、食物のはなはだしく欠乏けつぼうする時もあり、かつ競争きょうそう者もあることゆえ、平均へいきんしてはけっして豊富ほうふとは言われぬ。それゆえ鳥類ちょうるいが一年にたまごの数はきわめて少ないのがつねであって、十個じゅっこめばすこぶる多産たさんのほうである。大きな鳥はたいてい一年に一個いっこもしくは二個にこたまごよりまぬ。そのうえ鳥類ちょうるいたまごはすこぶるこわれやすいもので、ひな孵化ふかする前に何かの怪我けが破損はそんする場合もけっして少なくはなかろう。されば鳥類ちょうるいはよほどの長命でなければ種族しゅぞく維持いじ見込みこみが立たぬ。一年にたまごを一つよりまねば、百年かかってもわずかに百個ひゃっこむにすぎず、これを如何いかに大事に保護ほご養育よういくしても非業ひごうの死をげるものが相応そうおうにあるゆえ、命は長くてもけっして必要ひつよう以上いじょうに長いわけではない。他の動物にして鳥類ちょうるい寿命じゅみょうとくに長いのはおそらくかような事情じじょうそんするゆえであろう。
 ようするに動物の寿命じゅみょう種族しゅぞく継続けいぞく見込みこみのほぼ立ったころをかぎりとしたもので、そのためには若干じゃっかん数の子をみ終わるまで生きねばならぬことは言うまでもない。しこうして子の総数そうすうを一度にんでしまう種類しゅるいもあれば、何度にも分けて種類しゅるいもあり、分けてむものでは最後さいごの子をむまで寿命じゅみょうはつづかねばならぬ。また子をみ放しにする動物では、最後さいごの子をみ終わると同時に親の寿命じゅみょうが終わっても差支さしつかえはないが、子を保護ほご養育よういくする種類しゅるいでは、最後さいごの子をんだ後になおこれを保護ほご養育よういくする間寿命じゅみょうびる必要ひつようがある。すなわち最後さいごの子をんだ後の親の寿命じゅみょうは、ちょうど子が親の保護ほご養育よういくを受ける必要ひつようのある長さとあいひとしかるべきはずである。以上いじょうべたところはむろん大体についての理屈りくつで、一個いっこ一個いっこの場合にはこのとおりになっていないこともあろうが、多数を平均へいきんして考えるといずれの種類しゅるいにもよく当てはまってけっして例外れいがいはない。人間のごときも「人生七十古来まれなり」と言うて、まず七十さいないし七十五さいくらいが寿命じゅみょう際限さいげんであるが、これは二十五年かかって成長せいちょうし、五十さいまで生殖せいしょくしつづけるものとすると、最後さいごの子が徴兵ちょうへい検査けんさを受けるか大学を卒業そつぎょうするころに親の寿命じゅみょうがつきる勘定かんじょうで、ここにべたところと全く一致いっちする。人間の寿命じゅみょうも他の動物の寿命じゅみょうと同じく、一定の理法りほうにしたごうて、何千万年の昔から今日までの間に種族しゅぞく維持いじにもっとも有利ゆうりへんに定まったものと考えると、特殊とくしゅの薬品や健康けんこうほう工夫くふうしてこれを延長えんちょうせんと努力どりょくすることは、かしこわざいなか大いにうたがわざるをない。

四 死の必要ひつよう


 食うのはまんがためで、むのはさらに多く食わんがためであるとはかつていずれかの章でべたが、生物の動作を見ると、意識いしきながら徹頭てっとう徹尾てつび自己じこ種族しゅぞく維持いじ発展はってんさせんがためにはたらいている。食うのは他種族たしゅぞく物質ぶしつ自己じこの体内に取り入れ、これを同化して自己じこ物質ぶしつとすることゆえ、直接ちょくせつ自己じこ種族しゅぞくをそれだけ膨張ぼうちょうせしめたことに当たる。まためば自己じこ種族しゅぞく個体こたいの数がえ、これが打ちそろうて食えばますます他種族しゅぞく物質ぶしつを取って自己じこ種族しゅぞく併合へいごうすることができる。すなわち食欲しょくよく色欲しきよくもその根底こんてい意識いしき種族しゅぞく発展はってんよくにあるが、数多くの種族しゅぞくあいならんでそれぞれ膨張ぼうちょうしようとつとめるめえ、たがいにしあいめあうことをまぬがれず、少しでも力の強いほうはふくれて他を圧迫あっぱくし、少しでも弱いほうは他に圧迫あっぱくせられて縮小しゅくしょうせざるをぬ。しこうしてそのさい寿命じゅみょうの長さも種族しゅぞくの消長に関係かんけいし、もっとも適当てきとうな長さの寿命じゅみょうを有する種族しゅぞくでなければたちまちほろせねばならぬ運命におちいることは、ほぼ次のごとき理由による。 そもそも動物個体こたいをなす細胞さいぼうは発生の進むにしたがいてその間に分業が行なわれ、各種かくしゅ特別とくべつ任務にんむ分担ぶんたんして専門せんもんの仕事にのみてきするようになると、始め持っていた再生さいせいの力が次第しだいげんずるもので、ついには新たな細胞さいぼうを生ずる力が全くなくなる。たとえば神経しんけい細胞さいぼうとか赤血球とかいうものになってしまえば、その分担ぶんたんの仕事は十分につとめるが、さらに分裂ぶんれつして新たな細胞さいぼうとなることはできぬ。言をえれば、細胞さいぼうにも年齢ねんれいがあり老若ろうにゃくべつがあって、専門せんもんの仕事をつとめた細胞さいぼうはすでにろう細胞さいぼうと見なさねばならぬ。個体こたい細胞さいぼうの集まりであるゆえ、古くなるにしたがってろう細胞さいぼうの数の割合わりあい自然じぜん多くなり、各部かくぶはたらきもにぶくなり、再生さいせい力もげんずるをまぬがれぬ。身体内でえず新たな細胞さいぼうができてはいるが、その割合わりあい老若ろうにゃくによって非常ひじょうちがい、胎児たいじの発生中のごときは実にさかんに新細胞さいぼうができるに反し、老年ろうねんになると古い細胞さいぼうが長くとどまってはたらいている。それゆえわかいときには傷口きずぐちなどもすみやかにえるが、老年ろうねんになるとなかなか手間がかかる。また物をおぼえるのでもわかい時にはたやすくできるが、年を取った後はとうていむずかしい。自転車の稽古けいこでも大人には八回も教えぬとおぼえぬところを八歳はっさい子供こどもならばわずかに三回ですむ。「八十の手習」ということわざはあるが、その半分の四十をすぎては外国語の学習のごときはほとんど絶望ぜつぼうである。かような次第しだいで、いたる個体こたい壮年そうねん時代の個体こたいにくらべて生活上種々しゅしゅおとったところが生じ、ろうもるにしたがいますますいちじるしくおとるようになるゆえ、一種族いっしゅぞくの中にいたる個体こたいの多くあることは他種族たしゅぞく対抗たいこうするにあたってはたしかに不得策ふとくさくである。かりてきと味方との個体こたいの員数があいひとしいとすれば、いたる個体こたいを多く有する組のほうがける心配が多い。寿命じゅみょうが短かすぎて種族しゅぞく維持いじ見込みこみの立たぬうちに親が死ぬようでは、その種族しゅぞくはもちろん生存せいぞんができぬが、また寿命じゅみょうが長きにすぎて種族しゅぞく維持いじ見込みこみがたしかについた後に、老者ろうさが長く生存せいぞんしてわかい者のむべき座席ざせきをふさぐようでも、他の種族しゅぞくとの競争きょうそうに勝てぬゆえ、昔から長い間の種族しゅぞく間の競争きょうそう結果けっか、ちょうど適当てきとうの長さの寿命じゅみょうを有するもののみが生きのこり、各種類しゅるい種族しゅぞく生存せいぞん上もっとも有利ゆうりな長さの寿命じゅみょう自然じぜんに定まったのであろう。
 非業ひごうの死をまぬがれた個体こたい適当てきとうな時期にたつすればかなず死ぬことが、その種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくのために必要ひつようであるが、今まで健康けんこうなものが即刻そくこく死ぬということは困難こんなんであるゆえ、死ぬにはまずもって身体に少しずつ変化へんかが起こり、変化へんかもってついに死に終わるのがつねである。もっともこの変化へんかが起こり始めてから死ぬまでの時の長さは、動物の種類しゅるいによって非常ひじょうちがい、短いものはわずかに数秒にすぎず、長いものは二十年もかかる。たとえば蜜蜂みつばちおすが死ぬのは交尾こうびのまさに終わらんとする瞬間しゅんかんで、めす交接器こうせつきの根元を食い切られ、めすの体からはなれて地上に落ちるころにはすでに死んでいる。これに反して人間のごときは四十さいから四十五さい以上いじょうになると、わずかずつ変化へんかが始まり、次第しだい変化へんかがいちじるしく進んで七十さいくらいになって死んでしまう。かくゆるゆると変化へんかの進む動物についてその変化へんか模様もよう詳細しょうさいに調べて見ると、身体の諸部しょぶ種々しゅしゅことなった変化へんかの起こることが知れるが、これにもとづいて死の原因げんいんかんするさまざまの学説かぐせつとなえられた。老衰ろうすいは身体に一定の変化へんかが起こってついに死の転帰てんきを取るものゆえ、昔はこれをもって一種いっしゅの病気と見なしたこともあるが、一種いっしゅの病気と見なす以上いじょうは何らかの手段しゅだんによってこれを治療ちりょうすることができるはずと考え、不老ふろう不死ふし方法ほうほうの研究に苦心する人もあった。また老衰ろうすいをもって一種いっしゅ慢性まんせい中毒ちゅうどくと見なし、もしそのどくを消すことができたならば老衰ろうすいけられるとろんじた人もある。一時世間に評判ひょうばんの高かったメッチニコフの新養生ようじょうほうのごときはその一例いちれいであるが、その要点ようてんんで言うと、人間の大腸だいちょうの中にはたくさんの黴菌ばいきんがいて、その生ずるどくのために動脈どうみゃくかべかたくなり弾力だんりょくうしないなどして老衰ろうすい現象げんしょうが起こり、それがもってついに死ぬのである。それゆえ何らかの方法ほうほうちょう内の黴菌ばいきん繁殖はんしょくふせぎさえすれば老衰ろうすいけられる。黴菌ばいきんの発生をふせぐには乳酸にゅうさんを用いるのがもっともよろしいが、食物としては牛乳ぎゅうにゅうをブルガリアきん乳酸化にゅうさんかさせた、ヨーグルトが一番その目的もくてきにかのうている。ヨーグルトさえ食うていれば老衰ろうすいする気づかいはないとのせつで、議論ぎろんとしては実に簡単かんたん明瞭めいりょうなものである。その他老衰ろうすいは身体内に石灰けっかいがたまりすぎるために起こるとか、血管けっかんへき硬化こうかのために起こるとか、または内分泌ないぶんぴつ状態じょうたい変化へんかのために起こるとか、さまざまのせつがあっていずれも有名な医学者によって熱心ねつしんとなえられているが、著者ちょしゃの考えによると、これらはみな原因げんいん結果けっかとを転倒てんとうしているのであって、動脈どうみゃくかたくなるのも、組織そしき弾力だんりょくうしなうのも、石灰分せっかいぶんがたまるのも、けっして老衰ろうすいを起こす原因げんいんではなく、むしろ老衰ろうすいのために生ずる結果けっかと見なさねばならぬ。前にもべたとおり、各種かくしゅ動物の寿命じゅみょうはその種族しゅぞく維持いじのために長すぎず短かすぎずちょうどもっとも有利ゆうりなところに定まっているが、これは古代から今日までの長い間の種族しゅぞく競争きょうそう結果けっかとして生じたことで、その根底こんていかく個体こたい形成けいせいする細胞さいぼう原形質げんけいしつの深いところにひそんでいるゆえ、原形質げんけいしつまでをつくりなおすことができぬ間は、寿命じゅみょうの長さを随意ずいい延長えんちょうしたり短縮たんしゅくしたりすることはむずかしかろう。かいこ産卵さんらん後一両日で死ぬのも、人間がすえ子供こども成長せいちょうし終わるころに寿命じゅみょうのつきるのも、かいこの体の長さがやく二寸にすん五分ごぶ(注:7.5cm)をこえず、人間の身長が平均へいきん五尺ごしゃく三寸さんずん(注:159cm)くらいにとどまるのと同じく、何千万年かの間に自然じぜんに定まった性質せいしつである。しこうして寿命じゅみょうきたときに急に死ぬ種類しゅるいでは、あたかも急性きゅうせき心臓しんぞう麻痺まひ卒中そっちゅうで死ぬごとくにとく老衰ろうすいしょうすべき時期がないが、生殖せいしょく後死ぬまでに手間の取れる動物ではその間に漸々ぜんぜん体質たいしつ変化へんかし、一歩一歩死に近づいてゆくゆえ、老衰ろうすい状態じょうたいがいちじるしくあらわれる。すなわち組織そしき再生さいせい力が次第しだいげんじ、古い細胞さいぼうが多くなれば、かく組織そしきはたらきもにぶくなって、あるいは弾力だんりょくがなくなるとかかたもろくなるとか、石灰けっかいがたまるとか、分泌ぶんぴつが十分でなくなるとか、その他なおさまざまの変化へんかが明らかに見える。広く生物界を見渡みわたして諸種しょしゅことなった生物を比較ひかくすることをわすれ、ただ人間のみを材料ざいりょうとして老衰ろうすい期に起こる身体上の変化へんかを調べると、とかく一種いっしゅ変化へんかをもって老衰ろうすい唯一ゆいつ原因げんいんと見なし、それさえふせげば老衰ろうすいけられるもののごとくに思いあやまかたむきがある。著者ちょしゃる時五歳ごさいばかりの幼児ようじをつれて、散歩さんぽ途中とちゅう半鐘はんしょうを指して、「あれは何をするものか」とたずねたところが、「あれをたたくと火事が始まるのでしょう」と答えたので大いにわらうたことがあるが、動脈どうみゃく硬化こうかをもって老衰ろうすい原因げんいんと見なすことはいくぶんかこの幼児ようじの答えにているように思われる。前にべたメッチニコフの長寿ちょうじゅろんのごときも、一部ずつにはなせばおそらくみな正しかろう。すなわち大腸だいちょうの中に多くの黴菌ばいきんがいることも、乳酸にゅうさんによって黴菌ばいきんの発生を止めることも、年を取れば動脈どうみゃくへき硬化こうかすることも、みなけっして間違まちがいではなかろうが、これをつなぎ合わせてヨーグルトさえ食うておれば老衰ろうすいけられるごとくにろんずるのは、もっとも大事なところで原因げんいん結果けっかとを転倒てんとうしているゆえ、半鐘はんしょうさえたたかねば火事は起こらぬごとくに考えるのと同様なあやまりにおちいっているのである。
 各種かくしゅ生物の寿命じゅみょうはほぼその種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくにもっとも有利ゆうりな長さに定まってあるとすれば、これをさらにばすことに努力どりょくする必要ひつようはない。したがって寿命じゅみょうばしるとの学説せつを聞いてこれを歓迎かんげいすることは大きな間違まちがいである。いまだ寿命じゅみょうの終わらぬ年齢ねんれいの者が非業ひごうの死をげることはできるだけける工夫くふうをめぐらさねばならぬが、すでに寿命じゅみょうを全うした者がその後なお長く生きていることは種族しゅぞくのためにそんはあってもえきはないゆえ、けっしてねがわしいことでない。種族しゅぞく発展はってんのうえから言えば、今日必要ひつようなことは、すでにいたる老人ろうじんの命をさらに長くばすことではなく、他種族たしゅぞくとの競争きょうそう場裡じょうりにたって勝つ見込みこみのある有望ゆうぼう後継者こうけいしゃをつくるにある。六十さいですでに老耄ろうもうする人もあれば八十さいになっても矍鑠かくしやくたる人もあるゆえ、いちがいにはろんぜられぬが、自然じぜん寿命じゅみょうえれば身体も精神せいしんもいちじるしくおとろえるのがつねであって、とうてい一人前のはたらきはできぬ。書画などにも年齢ねんれいの書いてあるのは子供こども老人ろうじんかぎり、八歳はっさいどうとか七十八おきなとかは記してあるが、三十さい四十さいの人に年齢ねんれいを書く者はけっしてない。すなわち老人ろうじん子供こどもと同じく年に似合にあわぬところをほこるつもりであろうが、これがすでに老耄ろうもうしている証拠しょうこである。人間はすこぶる大きな団体だんたいをつくって生活するゆえ、その中に老耄ろうもう者が多少じていても、そのために不利益ふりえきをこうむることが明らかに見えぬが、他の動物では種族しゅぞく生存せいぞん上かかることはけっしてゆるされぬ。されば一般いっぱんに通じて言えば種族しゅぞく維持いじ発展はってんのうえには、それぞれ個体こたいがその死すべき適当てきとうの時期にかなず死ぬことがもっとも必要ひつようである。

五 死後の命


 身体は死んでもたましいだけは後にのこるとは昔から広くしんぜられていることであるが、これなどもただ人間のみについて考えるのと、生物をことごとくならべ、人間もその中にくわえて考えるのとでは、結論けつろんも大いにちがうであろうと思われるから、死の話のついでにここに一言書きそえておく。すべての生物種類しゅるいならべた中へ、人間をもくわえて全部を見渡みわたすと、人間は脊椎せきつい動物中の獣類じゅうるいの中の猿類えんるい中の猩々しょうじょうるいと同じ仲間なかまぞくするものなることは明らかであるゆえ、身体をはなれたたましいなるものが人間にあるとすれば、さるにもあると考えねばならず、さるたましいがあるとすれば、犬にもあると見なさねばならず、かくして先から先へとくらべゆくと、何類なにるいまでにたましいがあって何類なにるい以下いかにはたましいがないか、とうていそのさかいを定めることができぬ。かりに下等の動物までたましいがあるとすれば、これらの動物が人間とはまるでちがうた方法ほうほうで子をんだり死んだりするときに、たましいはいつ身体に入り来たりいつ身体から出で去るかと考えて見るとずいぶん面白い。「いそぎんちゃく」が分裂ぶんれつして二匹にひきになる場合にはたましい分裂ぶんれつして二個にことなって両方へつたわるか、それとも今まで宇宙うちゅうかんでいた宿無やどなしのたましいが新たに一方に入り来たるか、もしさようならば、もとからいたたましいと新たに来たたましいとは如何いかにして受持の体を定めるかなどといくつでもなぞが出てくる。また人間だけについて考えても、らん細胞さいぼう受精じゅせいから桑実期そうじつき胃状いじょう期をへて、身体各部かくぶ次第しだい々々に発育し終わった成人せいじんになるまでを一目に見渡みわたしたつもりになって、いつはじめてたましいあらわれたかとたずねると、やはり答えに当惑とうわくする。身体からはなれた個体こたいたましい永久えいきゅう不滅ふめつであるとすれば、今日までに死んだ者のたましいがみなどこかにそんするわけで、その数はどのくらいあるか知れぬが、それらはいつ生じたものであるか。終わりを不滅ふめつ想像そうぞうするならば、始めも無限むげん想像そうぞうしてよろしかろうが、かりに始めもなく終わりもなく永久えいきゅう存在そんざいするものとすれば、それが身体に乗りうつらぬ前には何をしていたか。世間で言うたましいはいつまでもその一時関係かんけいしていた肉体の死んだ時の年齢ねんれいで止まるようで、五歳ごさいで死んだ孩児みどりごたましいはいつまでも五歳ごさいおさな状態じょうたいにあり、九十で死んだ老爺ろうやたましいはいつまでも九十の老耄ろうもうした状態じょうたいにあるように思われているが、これらのたましいは肉体に宿る前には如何いかなる状態じょうたいにあったかなどとたずねると、まるで雲のごとくでつかまえどころがない。かくのごとく身体とははなれて独立どくりつ存在そんざい個体こたいたましいなるものがあるとの考えは、生物界のどこへ持っていっても辻棲つじつまの合わぬことだらけであるゆえ、虚心きょしん平気に考えるといわゆるたましいなるものがあるとは容易よういしんぜられぬ。神経系しんけいけい霊妙れいみょうはたらきの一部をたましいはたらきと名づけるならば、これはべつであるが、身体が死んでも後にたましいのこるというごときは、実験じっけん観察かんさつとによって生物界を科学かがくてきに研究するにあたっては全く問題にも上らぬことである。
 しかるに肉体が死んでもたましいだけは生きのこるという信仰しんこうきわめて広く行なわれているのはなぜかというに、これには種々しゅしゅ原因げんいんがあるが、一部分はたしかに感情かんじょうもとづいている。その感情かんじょうとは、自分が死んだ場合に肉体も精神せいしんもなくなって全然ぜんぜん消滅しょうめつしてしまうことを、何となくのこしく物足らぬように思う感じであるが、これも熟考じゅっこうして見たならばたましいなどがのこってくれぬほうをありがたく思う人も多かろう。死んでたましいのこるのは自分と自分のあいする人とだけにかぎるならば実に結構けっこうであるが、きらいな人もにくい人も債権者さいけんしゃ執達吏しったつりも死ねば、やはりたましい仲間なかま入りをしてくることを考えると、むしろたましいなどをのこさずに綺麗きれいに消えてなくなったほうが苦患くげんが短くすむことに心づかねばならぬ。たましいという字は学者に言わせれば種々しゅしゅ深い理屈りくつもあろうが、通俗つうぞくに言いつたえ来たったたましいなるものは、たん個人こじん性質せいしつが身体なしにのこったごときもので、いたって幼稚ようち想像そうぞうにすぎず、男ならば死んでも男、女ならば死んでも女、酒のみは死んだ後にも酒好さけずきで、どもりは死んだ後にもどもり、実際じっさい草葉くさばかげ位牌いはいの後にかくれていて、そなえ物のかおりをかぎ御経おきょうの声を聞きるもののごとくに考えているのであるが、かような種類しゅるいの死後の命はこれをあるとしんずべき理由は少しもない。生物学上から言えば、子孫しそんのこすことがすなわち死後に命をつたえることであって、子孫しそんが生きのこ見込みこみのついた後に自分が死ねば、自分の命はすでに子孫しそん保証ほしょうして受けついでくれたことゆえ、自分は全く消えてても少しもしくはないはずである。されば、子孫しそんの生きのこることを死後の命と考え、死後も自己じこ種族しゅぞくのますます発展はってんすることをねがうて、もっぱら種族しゅぞくのために有効ゆうこうはたらるようなすぐれた子孫しそんのこすことをつねづね心がけたならば、これが何よりも功徳くどくの多いことであろうと思われる。


第二十章 種族しゅぞくの死


 生物のかく個体こたいにはそれぞれ一定の寿命じゅみょうがあって、非業ひごうの死はまぬがれても寿命じゅみょうきた死はけっしてまぬがれることができず、早いかおそいか一度はかなず死なねばならぬ運命を持っているが、さて種族しゅぞくとしてろんずるときは如何いかであろうか。同様の個体こたいの集まりなる種族しゅぞくにも、やはり個体こたいと同じように生死があり寿命じゅみょうがあって、一定の期限きげんの後には絶滅ぜつめつすべきものであろうか。これらのことをろんずるには、まず生物のかく種族しゅぞく如何いかにして生じ、如何いかなる歴史れきしをへて今日の姿すがたまでにたつしたものかを承知しょうちしておかねばならぬ。
 動植物の種族しゅぞくの数は今日学者が名をつけたものだけでも百万以上いじょうもあって、その中にはきわめてあいたものやまるであいことなったものがあるが、これらははじ如何いかにして生じたものであるかとの疑問ぎもんは、いやしくも物の理屈りくつを考え程度ていどまでに脳髄のうずい発達はったつした人間にはぜひとも起こるべきもので、哲学てつがくをもって名高い昔のギリシア人の間にもこれにかんしてはすでに種々しゅしゅ議論ぎろんたたかわされた。しかし近代にいたって実証じっしょうてきにこれを解決かいけつしようとこころみたのは、だれも知るとおりイギリスのダーウィンで、『しゅの起原』と題する著書ちょしょのうちに次の二箇条にかじょうを明らかにした。すなわち第一には生物の各種かくしゅは長い間には少しずつ変化へんかすること、第二にははじ一種いっしゅの生物も代を多く重ねる間には次第しだい数種すうしゅに分かれることであるが、えず少しずつ変化へんかすれば、先祖せんぞ子孫しそんとはいつか全く別種べっしゅのごとくに相違そういするにいたるはずで、太古から今日までの間にはさかい判然はんぜんせぬが幾度いくども形のことなった時代を経過けいかし来たったものと見なさねばならず、またはじ一種いっしゅ先祖せんぞから起こった子孫しそんも後には数種すうしゅに分かれるとすれば、さらに後にいたれば数種すうしゅ子孫しそんのおのおのがまた数種すうしゅに分かれるわけゆえ、すべてが生存せいぞんするとしたならば、種族しゅぞくの数は次第しだいすばかりで、ついには非常ひじょうな多数とならねばならぬ。この二箇条にかじょうむすび合わせてろんずると、およそ地球上の生物ははじ単一たんいつなる先祖せんぞから起こり、次第しだい変化へんかしながらえず種族しゅぞくの数がえて今日のありさままでにたつしたのである。すなわち生物各種かくしゅの間の関係かんけいは、一本のみきから何回となく分岐ぶんきして無数むすうこずえに終わっている樹枝じゅしじょう系図けいず表をもってしめべきもので、かく種族しゅぞくは一つの末梢まっしょうにあたり、あいたる種族しゅぞくあい接近せっきんしたこずえあいことなる種族しゅぞくははるかにあい遠ざかれるこずえに当たって、いずれもたがいに血縁けつえん連絡れんらくはあるが、その遠いと近いとにはもとより種々しゅしゅ程度ていど相違そういがある。これだけは生物進化論しんかろんくところであるが、これはたん議論ぎろんではなく、化石学をはじめとし比較ひかく解剖かいぼう学、比較ひかく発生学、分類ぶんるい学、分布ぶんぷ学など、生物学のかく方面にわたつて無数むすう証拠しょうこがあるゆえ、今日のところではもはやうたが余地よちのない事実と見なさねばならぬ。
 かくのごとく生物のかく種族しゅぞくはいずれも長い歴史れきしをへて今日の姿すがたまでにたつしたものであるが、その間には何度も形のへんじた種族しゅぞくもあれば、また割合わりあい変化へんかすることの少なかった種族しゅぞくもあろう。しかしながらいずれにしても変化へんか徐々じょじょであるゆえ、いつから今日見るごとき形のものになったかは時期を定めて言うことはできぬ。化石を調べて見ると、少しずつ次第しだい々々に変化へんかして先祖せんぞ子孫しそんとがまるで別種べっしゅになってしまうたれいはいくらもあるが、これらは血筋ちすじ直接ちょくせつに引きつづいていながらその途中とちゅうでいつとはなしに甲種こうしゅの形から乙種おつしゅの形にうつりゆくゆえ、おつなる種族しゅぞくはいつ生じたかというのは、あたかもにじはばの中で黄色はどこから始まるかと問うのと同じである。人間などは化石の発見せられた数がいまだはなはだ少ないゆえ、この場合のれいには不適当ふてきとうであるが、もしも時代のあいつづいた地層ちそうから多数の化石が発見せられたならば、やはりいずれから後を人間と名づけてよいかわからず、したがっていつはじめて生じたと言うことはできぬであろう。
 生物種族しゅぞくはじめてあらわれる具合いは、今べたとおり漸々ぜんぜん変化へんかによるのがつねであるが、かくして生じた種族しゅぞく如何いかになりゆくかというに、むろん継続けいぞくするか断絶だんぜつするかのほかはなく、継続けいぞくすればさらに少しずつ変化へんかするゆえ、長い間にはついにべつ種族しゅぞくとなってしまう。地層ちそうの中からり出された化石が時代のことなるごとに種族しゅぞくちがうて、一として数代に連続れんぞくして生きていた種族しゅぞくのないのは、昔もそのとおりであった証拠しょうこであるが、今後とてもおそらく同じことであろう。まれには変化へんかきわめておそいものがあって、いつまでも変化へんかせぬように見えるが、これはむしろ例外れいがいぞくする。「しゃみせんがい」や「あかがい」などの種族しゅぞくはずいぶん古い地層ちそうから今日まで継続けいぞくしているゆえ、その間だけを見るとほとんど永久えいきゅう不変ふへんのものであるかのごとき感じが起こるが、「しゃみせんがい」ぞく、「あかがい」ぞくの形になる前のことを考えると、むろん変化へんかしたものにちがいない。また地層ちそうまではたくさんの化石が出て、その次の地層ちそうからはもはやその化石が出ぬような種族しゅぞくは、その間の時期に断絶だんぜつして子孫しそんのこさなかったものと見なさねばならぬが、かような種族しゅぞくの数はすこぶる多い。獣類じゅうるいでも魚類ぎょるいでも貝類かいるいでも途中とちゅう断絶だんぜつした種族しゅぞくの数は、現今げんこん生きている種族しゅぞくの数にして何層倍なんそうばいも多かろう。しこうしてこれらの種族しゅぞく何故なぜかく絶滅ぜつめつしたかというと、他種族しゅぞくとの競争きょうそうやぶれてほろびたものが多いであろうが、また自然じぜんに弱って自ら滅亡めつぼうしたものもあったであろう。

一 おとれる種族しゅぞく滅亡めつぼう


 いつの世の中でも種族しゅぞく間の生存せいぞん競争きょうそうえぬであろうから、相手よりもはるかにおとった種族しゅぞくはとうてい長く生存せいぞんすることをゆるされぬ。同一の食物を食うとか、同一のかくれ家をもとめるとか、その他何でも生存せいぞん上同一の需用じゅよう品をようする種族しゅぞくが、二つ以上いじょう同じ場所にあいせつして生活する以上いじょう競争きょうそうの起こるは当然とうぜんで、その間に少しでも優劣ゆうれつがあれば、おとれるほうの種族しゅぞくはしだいに勢力せいりょくうしない、個体こたいの数もだんだんげんじてついには一匹いっぴきのこらず死にえるであろう。またこう種族しゅぞくおつ種族しゅぞくを食うというごとき場合に、もし食われる種族しゅぞく繁殖はんしょく力が食う種族しゅぞく食害しょくがい力に追いつかぬときは、おつはたちまち断絶だんぜつするをまぬがれぬであろう。かくのごとく他種族しゅぞくからの迫害はくがいをこうむって一の種族しゅぞく子孫しそんのこさず全滅ぜんめつする場合はつねにいくらもある。しかして昔から同じところにんでいた種族しゅぞくの間では、勝負が急につかず勝っても負けても変化へんか徐々じょじょであるが、他地方から新たな種族しゅぞくうつり来たった時などはかく種族しゅぞく勢力せいりょく急激きゅうげき変動へんどうが起こり、おとった種族しゅぞくは短日月の間に全滅ぜんめつすることもある。ヨーロッパへ、アジアの「あぶらむし」が入りこんだために、もとからいた「あぶらむし」は圧倒あっとうされてほとんどいなくなったこともそのれいであるが、かかることのもっともいちじるしく目立つのは、大陸たいりくより遠くはなれた島国へ他から新たに動物がうつり入った場合であろう。ニュージーランドのごときは従来じゅうらい他の島との交通が全くなくて、他にはことなった固有こゆうの動物ばかりがいたが、ヨーロッパさん蜜蜂みつばち輸入ゆにゅうしてから、がんらい土着の蜜蜂みつばち種族しゅぞくはたちまち減少げんしょうして今日ではほとんどなくなった。ねずみもこの島に固有こゆう種類しゅるいがあったが、普通ふつうねずみが入りんでからはいつの間にか一匹いっぴきのこらずえてしまうた。はえにもこれと同様なことがある。
 近代になって絶滅ぜつめつした種族しゅぞくもなかなか数多いが、その大部分は人間がほろぼしたのである。ねずみとかすずめとかはえとかしらみとかいうごときつねに人間にともなうて分布ぶんぷする動物をのぞけば、その他の種族しゅぞくはたいてい人間の勢力せいりょく範囲はんい拡張かくちょうするにしたごうてはなはだしく圧迫あっぱくせられ、とくに大形の獣類じゅうるい鳥類ちょうるいのごときは最近さいきん数十年の間にいちじるしく減少げんしょうした。

「アメリカの野牛」のキャプション付きの図
アメリカの野牛

 近ごろまでアメリカ大陸たいりく無数むすう群居ぐんきょして往々おうおう汽車の進行を止めたといわれる野牛のごときは、今はわずかに少数のものが特別とくべつ保護ほごを受けて生存せいぞんしているにすぎぬ。ヨーロッパの海狸かいりも昔は各所かくしょかわに多数に住んでいたのが、今はほとんど絶滅ぜつめつに近いまでに減少げんしょうした。獅子ししとらのごとき猛獣もうじゅうはアフリカや印度インドが全部開拓かいたくせられたあかつきには、動物園のほかには一匹いっぴきもいなくなるであろう。

「モーリシアス島にいた奇態な鳩」のキャプション付きの図
モーリシアス島にいた奇態きたいはと

人間の力によってすでに絶滅ぜつめつした種族しゅぞくれいをあげて見るに、マダガスカル島の東にあるモーリシアス島にいた奇態きたいはと一種いっしゅは今より二百年ばかり前に全くえてしまうた。またこの島よりもさらに東に当たるロドリゲス島にはこれにた他の一種いっしゅの鳥が住んでいたが、このほうは今より百年ほど前にりつくされた。これらは高さ二しゃくすん(注:75cm)以上いじょう目方が三貫さんかん五百匁ごひゃくもんめ(注:115kg)もある大きな鳥で、力も相応そうおうに強かったのであるが、長い間海中のはなれ島に住み、おそろしいてきがいないために一度も必要ひつようがなく、したがってつばさ退化たいかしてぶ力がなくなった。かかるところへ西洋人の航海こうかい者がこのへんまできてしばしばこの島に立寄たちよるようになったので、水夫すいふはそのたびごとに面白がってこの鳥を打ちころし、たちまちのうちに全部をころしっくして、今ではどこの博物館はくぶつかんにも完全かんぜん標本ひょうほんがないほどに絶対ぜったいえてしまうた。シベリア、カムチャツカ等の海岸には百四五十年前まではくじらと「おっとせい」との間の形をした長さ四間(注:7.2m)もある一種いっしゅの大きな海獣かいじゅうがいたが、脂肪しぼうや肉を取るためにさかんにとらえたので、しばらくで種切たねぎれになった。前の鳥類ちょうるいでもこの海獣かいじゅうでもてきに対して身をまもる力が十分でなかったゆえ、生存せいぞん競争きょうそう劣者れっしゃとしてやぶほろびたのであるが、もし人間がゆかなかったならばむろんなお長く生存せいぞんしつづけたにちがいない。おとれる種族しゅぞくが急に滅亡めつぼうするのはたいがい強いてき不意ふいあらわれた場合にかぎるようである。
 人間のかく種族しゅぞくについても理屈りくつは全く同様で、遠くはなれてあいれずに生活している間は、たとい優劣ゆうれつはあっても勝敗しょうはいはないが、一朝あい接蝕せっしょくするとたちまち競争きょうそう結果けっかがあらわれ、おとれる種族しゅぞくはしばらくのうちに減少げんしょうしてついには滅亡めつぼうするをまぬがれぬ。歴史れきしあって以来いらいまされる種族しゅぞくから圧迫あっぱくを受けてついに絶滅ぜつめつした人間の種族しゅぞくは今日までにすでにたくさんある。オーストラリアの南にあるタスマニア島の土人のごときは、昔は全島にひろがって相応そうおうに人数も多かったが、西洋の文明人種じんしゅが入りんでめたてた以来いらい、たちまち減少げんしょうして今より数十年前にその最後さいごの一人も死んでしまうた。昔メキシコの全部に住んで一種いっしゅの文明を有していたアステカ人のごときも、エスパニア人が移住いじゅうし来たって何千人何万人とさかんに虐殺ぎゃくさつしたので、今ではほとんど遺物いぶつのこっているのみとなった。古い西洋人のアフリカ紀行きこうを読んで見ると、ひょうを持っていずみへ水をみにくる土人を、かげから鉄砲てっぽうで打って無聊ぶりようなぐさめたことなどが書いてあるが、鉄砲てっぽうのない野蛮人やばんじん鉄砲てっぽうのある文明人とがあいれては、野蛮人やばんじんのほうがたちまちころくされるは当然とうぜんである。今日文明人種じんしゅ圧迫あっぱくをこうむってまさに絶滅ぜつめつせんとしている劣等れっとう人種じんしゅの数はすこぶる多い。セイロン島のヴェッダ人でも、フィリピン島のネグリト人でも、ボルネオのダヤック人でも、ニューギニアのパプア人でも、今後急に発展はってんして先進の文明人と対立して生存せいぞんしつづけべきのぞみはもとよりない。文明諸国しょこくの人口がえて海外の殖民地しょくみんちへあふれ出せば、他人種じんしゅの住むべき場所はそれだけせばめられるゆえ、ついには文明人とその奴隷どれいとをのぞいた他の人間種族しゅぞくは地球上に身をおくべきところがなくなって、ことごとく絶滅ぜつめつするのほかなきことは明らかである。人種じんしゅ間の競争きょうそうにおいては、いくぶんかでも文明のおとったほうは次第しだいてき圧迫あっぱくを受けて苦しい境遇きょうぐうおちいるをまぬがれぬゆえ、自己じこ種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくをはかるには相手におとらぬだけに知力を高め文明を進めることが何よりも肝要かんようであろう。

二 すぐれる者の跋扈ばつこ


 おとれる種族しゅぞく生存せいぞん競争きょうそうやぶれて滅亡めつぼうすることは理の当然とうぜんであるが、しからばまされる種族しゅぞく永久えいきゅう生存せいぞんるかというに、これについては大いに攻究こうきゅうようする点がある。まされる種族しゅぞくてき競争きょうそうするにあたってはむろん勝つであろうが、ことごとくてきに打ち勝ってもはや天下におそるべきものがないというありさまにたつした後は如何いかになりゆくであろうか。てきがなくなった以上いじょうは、なおいつまでも全盛ぜんせいきわめていきおいよく生存せいぞんしつづけるであろうか。またはてきがなくなったためにかえって種族しゅぞく退化たいかを引き起こすごとき新たな事情じじょうを生ずることはないであろうか。今日化石となって知られている古代の動物を調べて見るに、一時全盛ぜんせいきわめていたと思われる種族しゅぞくはことごとく次の時代には絶滅ぜつめつしたが、これは如何いかなる理由によることであるか。向かうところてきなきほどに全盛ぜんせいきわめていた種族しゅぞくが、何故なぜ今までおのれよりもおとっていた種族しゅぞくとの競争きょうそうにもろくも敗北はいぼくしてたちまち断絶だんぜつするにいたったか。これらの点にかんしてはいまだ学者間にも何らの定説ていせつもないようで、古生物学の書物を見ても満足まんぞく説明せつめいあたえたものは一つもない。されば今よりべんとするところは全く著者ちょしゃ一人だけの考えであるゆえ、そのつもりで読んでもらわねばならぬ。
 およそ生存せいぞん競争きょうそうにおいててきに勝つ動物には勝つだけの性質せいしつそなわってあるべきは言うまでもないが、その性質せいしつというのは種族しゅぞくによってさまざまにちがう。第一、てきとする動物が各種かくしゅごとにちがうゆえ、これに勝つ性質せいしつも相手のことなるにしたがいことならねばならぬ。今日学者が名前をつけた動物だけでも数十万しゅあるが、如何いかなる動物でもこれをことごとくてきとするわけではなく、日常にちじょう競争きょうそうする相手はその中のきわめて僅少きんしょうなる部分にすぎぬ。たとえば産地さんちあいへだたれば喧嘩けんかはできず、同じ地方にさんするものでも森林に住む種族しゅぞくと海中に住む種族しゅぞくとでは直接ちょくせつあい敵対てきたいする機会きかいはない。されば勝つ性質せいしつというのは、同じ場所に住み、ほぼ対等の競争きょうそうのできるような相手に対してまさることであって、の上の運動ではたくみにじるものが勝ち、水の中の運動では速くおよぐものが勝つ。しこうして水中を速くおよぐには足はひれの形でなければならぬゆえ、木に登るにはてきせず、たくみに木に登るにはうでは細くなければならぬゆえ、水をおよぐにはてきせぬ。それゆえ、水をおよぐことにおいててきにまさるものは、に登るにはてきよりもいっそう不適当てきとうであり、木に登ることにおいててきにまさるものは、水をおよぐにはてきよりもいっそう不適当ふてきとうであるをまぬがれぬ。同一の足をもって、樹上じゅじょうではさるよりもたくみにじ、平原では鹿しかよりもはやく走り、水中では「おっとせい」よりもすみやかにおよぐというごときことはとうてい無理むりな注文である。かものごとくぶことも歩るくこともおよぐこともできるものは、ぶことにおいては遠くつばめにおよばず、走ることにおいては遠く駝鳥だちょうにおよばず、およぐことにおいては遠くペンギンにおよばず、いずれの方面にも相手にまさるのぞみはない。魚類ぎょるいの中には肺魚はいぎょるいというてはいえらとを兼ねそなえ、空気でも水でも勝手に呼吸こきゅうのできる至極しごく重宝ちょうほう種類しゅるいがあるが、水中では水のみを呼吸こきゅうする普通ふつう魚類ぎょるいに勝てず、陸上りくじょうでは空気のみを呼吸こきゅうするかえるるいに勝てず、今ではわずかに特殊とくしゅ条件じょうけんのもとに熱帯ねつたい地方の大河たいが生存せいぞんするものが二三しゅあるにすぎぬ。かめこうあついことも、「とかげ」の運動の速いことも、それぞれその動物の生存せいぞんには必要ひつようであるが、こうが重くては速かに走ることがとうていできず、速かに走るには重いこうは何よりも邪魔じゃまになるから、「とかげ」よりも速力でまさろうとすれば、こうあつさではかめおとることを覚悟かくごしなければならず、こうあつさでかめよりもさまろうとすれば、速力では「とかげ」におとることを覚悟かくごしなければならぬ。
 かくのごとく、まされる種族しゅぞくというのはみなそれぞれその得意とくいとするところで相手にまさるのであるから、競争きょうそう結果けっかますます専門せんもんの方向に進むのほかなく、専門せんもんの方向に進めば進むだけ専門せんもん以外いがいの方面にはてきせぬようになる。鳥のつばさ飛翔ひしょう器官きかんとしては実に理想てきのものであるが、その代わり飛翔ひしょう以外いがいには全く何の役にもたたぬ。犬ならばえささえるにも顔をぬぐうにも地をるにも前足を用いるが、鳥はつばさを用いることができぬゆえ止むをず後足またはくちばしをもって間に合わせている。されば如何いかなる種族しゅぞくでもおのれが得意とくいとする点で相手にまさりたならば、たちまち相手に打ち勝ってその地方に跋扈ばつこすることができる。すなわち水中ならばもっともよくおよ種族しゅぞく跋扈ばっこし、樹上じゅじょうではもっともよくじる種族しゅぞく跋扈ばっこし、平原ならばもっともよく走る種族しゅぞく跋扈ばっこすることになるが、今日までに地球上に跋扈ばっこした種族しゅぞくを見ると、実際じっさいみなかな専門せんもんの方面においててきにまさったものばかりである。
 対等のてき競争きょうそうするにあたっては一歩でも先へ専門せんもんの方向に進んだもののほうが勝つ見込みこみの多いことは、人間社会でも多くそのれいを見るところであるが、同じ仕事をするものの間では、一歩でも分業の進んだもののほうが勝つ見込みこみがある。身体各部かくぶの間に分業が行なわれ、同じく食物を消化するにも、唾液だえきを出すせん膵液すいえきを出すせんかたい物を咀嚼そしゃくする器官きかん、液体を飲み器官きかん澱粉でんぷんを消化するところ、蛋白質たんぱくしつを消化するところ、脂肪しぼう吸収きゅうしゅうするところ、かすをためるところなどが、一々区別くべつせられるようになれば、身体の構造こうぞうがそれだけ複雑ふくざつになるは当然とうぜんであるゆえ、数種すうしゅことなった動物が同じ仕事で競争きょうそうする場合には、体の構造こうぞう複雑ふくざつなもののほうが分業の進んだものとして一般いっぱんに勝ちをめる。古い地質ちしつ時代に跋扈ばっこしていたさまざまの動物を見るに、いずれも相応そうおうに身体の構造こうぞう複雑ふくざつなものばかりであるのはこの理由によることであろう。相手よりも一歩先へ専門せんもんの方向に進めば相手に打ち勝って一時世に跋扈ばっこすることはできるが、それだけ他の方面には不適当てきとうとなって融通ゆうずうかなくなるゆえ、万一何らかの原因げんいんによって外界の事情じじょう変化へんかが起こった場合には、これに適応てきおうしてゆくことが困難こんなんになるをまぬがれぬ。また相手よりもいっそう身体の構造こうぞう複雑ふくざつであれば、無事ぶじの時にはてきに勝つのぞみが多いが、複雑ふくざつであるだけ破損はそんのおそれがし、いったん破損はそんすればその修繕しゅぜん容易よういでないゆえ、急の間に合わずして失敗しっぱいする場合も生ぜぬとはかぎらぬ。あたかも人力車と自動車とでは平常へいじょうはとても競走きょうそうはできぬが、自動車は少しでも破損はそんすると全く動かなくなって、とうてい簡単かんたん破損はそんうれいのない人力車におよばぬのと同じことである。かつて地球上に全盛ぜんせいきわめた諸種しょしゅの動物は、かくその相手にして専門せんもんの生活にてきすることと分業の進んだこととでまさっていたために、世界に跋扈ばっこすることをたのであるが、それと同時にここにべたごとき弱点をそなえていたものであることをわすれてはならぬ。

三 歴代れきだい全盛ぜんせい動物


 地殻ちかくせる岩石には火成岩かせいがん水成岩すいせいがんとの区別くべつがあるが、水成岩すいせいがんのほうは長い間に水のそこどろすながたまり、それが次第しだいかたまって岩となったものゆえ、かなそうをなしてあい重なり、各層かくそうの中にはその地層ちそうのできたころに生存せいぞんしていた生物の遺骸いがいが化石となってふくまれてある。地質ちしつ学者は水成岩すいせいがんそうをその生じた時代の新旧しんきゅうにしたがい、始原代、古生代、中生代、新生代の四組に大別たいべつし、さらに各代かくだいのものを若干じゃっかんの期に細別さいべつするが、これらのかく時代にぞくする水成岩すいせいがんそうを調べて見ると、その中にある化石にはすこぶるまれなめずらしい種類しゅるいもあれば、また非常ひじょうにたくさんの化石が出て、おそらくそのころ地球上のいたるところに多数に棲息せいそくしていたろうと思われる種類しゅるいもある。個体こたいの数や身体の大きさや構造こうぞうの進んだ点などからして、そのころ全盛ぜんせいきわめていたに相違そういないと思われる種族しゅぞくがいずれの時代にもかなずあるが、かかる種族しゅぞくの中からもっともいちじるしいもの若干じゃっかんえらび出して、次に簡単かんたんべて見よう。

「三葉虫」のキャプション付きの図
三葉虫

 古生代(注:約5億4200万〜約2億5100万年前)の岩石からり出される「三葉虫」のるいも、そのころには実に全盛ぜんせいきわめていたものと見えて、世界しょ地方からおびただしく発見せられる。わが国ではきわめてまれであるが、支那しな山東省さんとうんしょうへんからは非常ひじょうにたくさん出て、板の形にった岩石の表面が全部三葉虫の化石でいっぱいになっていることがめずらしくない。三葉虫にもたくさん、しゅぞくがあって、小さいのは長さ一分(注:3mm)にもおよばず、大きいのは一尺いっしゃく(注:30cm)以上いじょうにもたつするが、いずれも兜蟹かぶとかにと船虫との中間のごとき形で、うらから見ると「わらじ虫」にて足が多数に生えている。このるいは古生代にはどこでもすこぶるさかんに繁殖はんしょくしたようであるが、不思議ふしぎにもその後たちまち全滅ぜんめつしたものと見えて、次なる中生代の地層ちそうからは化石が一つも発見せられぬ。それゆえもしる岩石の中に三葉虫の化石があったならば、その岩石は古生代にぞくするものと見なして間違まちがいはない。かくのごとくる化石さえ見れば直ちにその岩石の生じた時代を正しく鑑定かんている場合には、かような化石をその時代の「標準ひょうじゅん化石」と名づける。

「アンモン石」のキャプション付きの図
アンモン石

中生代(注:約2億5,217万年前〜約6,600万年前)の地層ちそうからり出される「アンモン石」という化石は、「たこ」、「いか」などにるいする海産かいさん軟体なんたい動物の貝殻かいがらで、形があたかも南瓜かぼちやのごとくであるゆえ、ぞくに「南瓜かぼちゃ石」とぶ地方もある。これもその時代には全盛ぜんせいきわめたものと見えて、しゅの数もぞくの数もすこぶる多く、懐中かいちゅう時計ほどの小さなものから人力車の車輪しゃりんくらいの大きなものまで、世界のかく地方から多数に発見せられる。わが国のごときはそのもっとも有名な産地さんちである。今日生きている動物でややこれに貝殻かいがらを有するものはわずかに「おうむ貝」のるいのみであるが、「さざえ」や「たにし」の貝殻かいがらとはちがい、扁平へんぺいいたからの内部にはたくさんの隔壁かくへきがあって多くの室に分かれている。しこうして、「アンモン石」では隔壁かくへきと外面のかべとのつなぎ目の線が実に複雑ふくざつ屈曲くっきょくして美しい唐草からくさ模様もようていし、その点においては如何いかにも発達はったつきわみたつしたごとくに見える。このるいも中生代の終わりまでは全盛ぜんせいきわめていたが、その後たちまち全滅ぜんめつしたと見えて、次なる新生代(注:約6,500万年前〜現代まで)の岩石からは一つもその化石が出ぬゆえ、地層ちそうの新古を識別しきべつするための標準ひょうじゅん化石としてもっとも重要じゅうようなものである。

「かぶと魚」のキャプション付きの図
かぶと魚

 以上いじょうは両方ともに無脊椎むせきつい動物のれいであるが、次に脊椎せきつい動物について見ると、古生代の魚類ぎょるい、中世代の爬虫類はちゅうるい、新生代の獣類じゅうるいなどには、それぞれその時代に全盛ぜんせいきわめていた種族しゅぞくがたくさんにある。まず古生代の魚類ぎょるいを見るに、今日の普通ふつう魚類ぎょるいとは大いにちがうて光沢こうたくのあるあつほねのようなうろこおおった種類しゅるいが多く、スコットランドの赤色砂岩さがんから出た化石のごときは、「かに」か「えび」かのごとくに全身あつ甲冑かっちゅうをつけてほとんど魚類ぎょるいとは見えぬ。もちろん陸上りくじょうへはのぼなかったが、魚類ぎょるい以上いじょう水棲すいせい動物がいまだいなかった時代ゆえ、かかる異形いけい魚類ぎょるいはいたるところの海中に無数むすう棲息せいそくして実に全盛ぜんせいきわめていた。通俗つうぞく地質ちしつ学書に古生代のことを「魚の時代」と名づけてあるのももっともな次第しだいである。しかしその後にいたってみなたちまち絶滅ぜつめつして、今日これらの魚類ぎょるいにいささかでもているのは、わずかに「ちょうざめ」などのごとき硬鱗こうりん魚類ぎょるい数種すうしゅあるにすぎぬ。

「中生代の大蜥蜴」のキャプション付きの図
中生代の大蜥蜴とかげ

 中生代における爬虫類はちゅうるい全盛ぜんせいのありさまはさらにめざましいもので、りくにも海にもおどろくべき大形の種類しゅるいいきおいをほしいままにしていた。今日では爬虫類はちゅうるいというと、かめへび蜥蜴とかげなどのるいにすぎず、熱帯ねつたい地方にはいくらか大きなものもいるが、普通ふつうに見かけるものは小さな種類しゅるいばかりであるゆえ、全盛ぜんせい時代における爬虫類はちゅうるいの生活状態じょうたいはとうてい想像そうぞうもできぬ。ヨーロッパやアメリカの中生代の地層ちそうからり出された爬虫類はちゅうるいの化石を見ると、陸上りくじょうを四足ではい歩いた種類しゅるいには、長さ十数間(注:1間は1.8m)におよびくびほね一本だけでもほとんど人間ほどあるもの、また「カンガルー」のごとく後足だけで立った種類しゅるいには、高さが三間(注:4.8m)以上いじょうたつするもの、また蝙蝠こうもりのごとく前足がつばさの形となって空中をけまわった種類しゅるいには、両翼りょうよくひろげるとゆうに三間(注:4.8m)をえるものがあり、その他形のなるもの姿すがたのおそろしいものなど実に千変せんぺん万化ばんかきわまりなきありさまであった。しかもそれがみなすこぶる数多くり出され、ベルギーのベルニッサールというところからは長さ五間(注:9m)もある大蜥蜴とかげの化石が二十五ひきも一所に発掘はっくつせられた。

「中生代の大蜥蜴」のキャプション付きの図
中生代の大蜥蜴とかげ

ブリュッセル博物館はくぶちかん特別とくべつ館内に陳列ちんれつしてあるのはこれである。中生代にはいまだ獣類じゅうるい鳥類ちょうるいもでき始まりのすこぶる幼稚ようちな形のもののみであったゆえ、陸上りくじょうでこれらのおそろしい爬虫類はちゅうるいの相手になって競争きょうそうる動物は一種いっしゅもなかったに相違そういない。さらに海中では如何いかにというに、ここにも爬虫類はちゅうるい全盛ぜんせいきわめて魚のごとき形のもの、海蛇うみへびのごとき形のものなどさまざまの種類しゅるいがあり、大きなものは身長が四間(注:6.2m)ないし七間(注:12.6m)にもたつしていて、あたかも今日のくじらのごとくにしかも今日のくじらよりははるかに多数にいたるところの海に游泳ゆうえいしていた。通俗つうぞくの書物に中生代のことを「爬虫類はちゅうるいの時代」と名づけてあるのもけっして無理むりではない。かように中世代には非常ひじょうに大きな爬虫類はちゅうるいが水中、陸上りくじょうともに全盛ぜんせいきわめ、ほとんど爬虫類はちゅうるいにあらざれば動物にあらずと思われるまでにいきおいをていたが、その後にいたりいずれもついにほろせて、次なる新生代まで生きのこったものは一種いっしゅとしてない。とく不思議ふしぎに感ぜられるのは海産かいさん蜥蜴とかげるい絶滅ぜつめつしたことで、陸産りくさんのほうならばあるいは新たにあらわれた獣類じゅうるいなどにほろぼされたかも知れぬといううたがいがあるが、海中にくじらるいの生じたのは新生代の中ごろであって、海産かいさん蜥蜴とかげるい断絶だんぜつしてよりはるかに後のことゆえ、これらはけっして新たな強敵きょうてき出遇であうてけてほろびたのではない。それゆえなぜ自らほろせたかは今までただ不可解ふかかいというばかりであった。
 次に新生代における獣類じゅうるいを見るに、これまた一時は全盛ぜんせいきわめていた。今日では陸上りくじょうのもっとも大きなけものというとまず印度インドさんとアフリカさんとのぞうくらいであるが、人間のあらわれる前の時代には今のぞうよりもさらに大きなぞう種類しゅるいがたくさんにあり、その分布ぶんぷ区域くいき熱帯ねつたいから寒帯かんたいまでひろがっていた。

「マンモス」のキャプション付きの図
マンモス

シベリアの氷原からはときどき「マンモス」と名づける大象たいぞう遺骸いがい発掘はっくつせられることがあるが、氷の中にもれていたことゆえ、あたかも冷蔵庫れいぞうこの中に貯蔵ちょぞうしてあったのと同じ理屈りくつで、何十万年もたにかかわらず、肉も皮も毛も生きていた時のままにのこっている。ペトログラードの博物館はくぶつかんにある完全かんぜん剥製はくせい標本ひょうほんはかような材料ざいりょうから製作せいさくしたものである。わが国でもこれまでところどころから「マンモス」その他のぞうの化石、さいの化石、素性すじょうのわからぬ大獣だいじゅう頭骨ずこつなどがり出されたことを考えると、太古には今日とちがうておそろしい大きな獣類じゅうるいが多数に棲息せいそくしていたにちがいない。また食肉るいには今日の獅子ししとらよりもさらに大きく、きばつめのさらにするど猛獣もうじゅうがたくさんにいた。ブラジルのる地方からり出された一種いっしゅとらの化石では上顎うわあごきばの長さが一尺いっしゃく(注:30cm)ほどもある。鹿しかなどのるいにもずいぶん大きな種類しゅるいがあって、左右の角の両端りょうたん距離きょりが二間(注:3.6m)以上いじょうたつするものもあった。その他この時代にはなおさまざまの怪獣かいじゅうがいたるところに跋扈ばっこして世は獣類じゅうるいの世であったが、その後人間があらわれてからはたいがいの種族しゅぞくはたちまち滅亡めつぼうして、今日ではもはやかようなものは一種いっしゅも見ることができぬようになった。

「石器時代のマンモスの絵」のキャプション付きの図
石器せつき時代のマンモスの絵

「マンモス」などがしばらく人間と同時代に生活していたことは、石器せっき時代の原人がのこした彫刻ちょうこくにその絵のあるのを見てもたしかに知られる。

四 その末路まつろ


 以上いじょう若干じゃっかんれいしめしたとおり、地質ちしつ時代に一時全盛ぜんせいきわめた動物種族しゅぞくは、その後かなず速かに滅亡めつぼうして次の時代には全くかげを止めぬにいたったが、これは一体如何いかなる理由によるか。一度すべてのてきに打ち勝ち種族しゅぞくはなぜそのままに次の時代まで優勢ゆうせいたもちつづけぬのであろうか。この問いに対しては、前にもべたごとくいまだ何らの定説ていせつが発表せられたことを聞かぬ。少なくとも何びとをも満足まんぞくせしめるような明瞭めいりょう解決かいけつこころみた人はいまだないように見受ける。どの種族しゅぞく全盛ぜんせい時代の末期まっきにはかなず何らかの性質せいしつ過度かど発達はったつして、そのため生存せいぞん上かえって不都合ふつごうが生じ、ついに滅亡めつぼうしたかのごとくに見えるところから考えて、る人は生物には一度進歩しかかった性質せいしつはどこまでもその方向に一直線に進みゆくせいそなわってあるとき、これを直進せいと名づけ、一度さかんに発展はってんした動物の種族しゅぞくが進みすぎてついに滅亡めつぼうしたのは、全く直進せい結果けっかであるととなえたが、これはたん不可解ふかかいのことに名称めいしょうをつけただけで、わからぬことは依然いぜんとしてわからぬ。次にくところは著者ちょしゃ一人の考えである。
「古代の大角鹿」のキャプション付きの図
古代の大角鹿しか
アイルランドの新生代後期の地層ちそうよりり出せる化石にもとづきてその生きる姿すがた想像そうぞうする図なり。左右の角の先端せんたん距離きょりやく2間半(注:4.5m)。角と頭骨ずこつだけにても重さ30かん(注:112.5kg)以上いじょう

 およそ生存せいぞん競争きょうそうに勝って優勢ゆうせいめる動物種族しゅぞくならば、てきにまさった有効ゆうこう武器ぶきそなえていることは、言うまでもないが、その武器ぶき種族しゅぞくことなるにしたごうてそれぞれちがう。あるいは筋力きんりょくの強さでまさるものもあろう。またはきばつめとのするどさでまさるものもあろう。あるいは感覚かんかく鋭敏えいびんなこと、走ることの速かなこと、皮膚ひふかたいこと、どくはげしいこと、繁殖はんしょく力の旺盛おうせいなこと、その他何らかの点でてきにまさったゆえ、競争きょうそうに勝つをたのであろうから、全盛ぜんせいきわめる種族しゅぞくにはおのおのかなずその得意とくいとするところの武器ぶきがある。さて生物各種かくしゅ個体こたいの数が平常へいじょういちじるしくえぬのは他種族しゅぞくとの競争きょうそうがあるためで、もしてきがなかったならばたちまちの間に非常ひじょう増加ぞうかすべきはずであるゆえ、すべてのてきに勝ち終わった種族しゅぞくさかんに繁殖はんしょくして個体こたいの数がかぎりなくえるであろう。しこうして個体こたいの数が多くなれば生活が困難こんなんになるのをまぬがれず、したがって同種族どうしゅぞく内の個体こたい間もしくは団体だんたい間の競争きょうそう激烈げきれつにならざるをないが、そのさいかく個体こたい如何いかなる武器ぶきをもってあいたたかうであろうかというに、やはりその種族しゅぞくがかつて他種族しゅぞく征服せいふくするときに用いたのと同じものを用いるにちがいない。すなわち筋力きんりょくで他種族しゅぞくに打ち勝った種族しゅぞくならば、その個体こたいあいたたかうにも同じく筋肉きんにくによるであろう。またつめきばとで他種族しゅぞくほろぼした種族しゅぞくならば、その個体こたい間においてもやはりつめきばとによるたたかいが行なわれるであろう。個体こたい間にはげしい競争きょうそうが行なわれる結果けっかとして、これらの武器ぶきはますます強くなり大きくなるであろうが、いずれの器官きかんでも体部でも過度かどに発育するとかえって種族しゅぞく生存せいぞんのためには不利益ふりえきなことになる。たとえば筋力きんりょくの強いことによっててきをことごとく征服せいふくした種族しゅぞくが、てきのなくなった後にさらに個体こたい間で筋力きんりょく競争きょうそうをつづけてますます筋力きんりょく増進ぞうしんしたと想像そうぞうするに、筋力きんりょくが強くなるには筋肉きんにくりょうさねばならぬが、筋肉きんにくが太くなればその起点、着点となるほねも大きくなりしたがって全身が大きくならねばならぬ。角力取りが普通ふつうの人間より大きいのも、力まかせにてきころ大蛇だいじゃどく蛇類へびるいよりもはるかに大きいのも、主として筋肉きんにく発育の結果けっかである。かような種族しゅぞく内の競争きょうそうでは身体の少しでも大きいもののほうが力が強くて勝つ見込みこみがあろうが、身体が大きくなればそれにともなうてまた種々しゅしゅ不便ふべん不利益ふりえきなことが生ずる。すなわち日々の生活に多量たりょうの食物をもとめねばならず、成長せいちょうには非常ひじょうに手間がかかり、したがって繁殖はんしょく力はきわめてくなる。そのうえ「大男総身そうしん知恵ちえがまわりかね」というとおり、体が重いために敏活びんかつな運動ができず、とくに曲り角のところで身の軽い小動物のごとくに急に方向をえることは惰性だせいのためにとうてい不可能ふかのうとなるゆえ、小さなてきめられた場合にはあたかも牛若丸うしわかまるに対する弁慶べんけいのごとくにたちまちけるおそれがある。されば身体の大きいことも度をえると明らかに種族しゅぞく生存せいぞんのために不利益ふりえきになるが、他種族しゅぞくてきがなく同種族どうしゅぞく内の個体こたい同志どうしのみで筋力きんりょく競争きょうそうをなしつづければ、この程度ていどしてなお止まらずに進むことをけられぬ。直進せいとはかかる結果けっか不可思議ふかしぎに思うてけた空名にすぎぬ。またきばが大きくてするどいためにすべて他の種族しゅぞく圧倒あっとう種族しゅぞくが、てきのなくなった後にさらに個体こたい間できばによる競争きょうそうをつづけたならば、きばはますます大きくするどくなるであろうが、これまた一定の度をえるとかえって種族しゅぞく生存せいぞん上には不利益ふりえきになる。何故なぜというに、およそ如何いかなる器官きかんでも他の体部と関係かんけいなしに、それのみ独立どくりつ発達はったつるものはけっしてない。きばのごときももし大きくなるとすれば、その生じている上顎うわあご下顎したあごほねからして太くならねばならず、あごを動かすための筋肉きんにくも、その付着ふちゃくする頭骨ずこつも大きくならねばならぬが、頭が大きく重くなれば、これをささえるためのくびほねくび筋肉きんにくまで大きくならねばならず、したがってこれを維持いじするために動物の負担ふたんがよほど重くなるをまぬがれぬ。すなわち他にてきのない種族しゅぞく個体こたいきばの強さでたがいに競争きょうそうしつづければ、きばきば関係かんけいする体部とはどこまでも大きくなり、ついには畸形きけいと見なすべき程度ていどたつし、さらにこの程度ていどをも通りして進むのほかはない。そのありさまは欧米おうべいしょ強国が大砲たいほうの大きさを競争きょうそうしてみょうな形の軍艦ぐんかんをつくっているのと同じである。何事でも一方にへんすれば他方にはかなおとるところの生ずるは自然じぜんの理であるゆえ、きばの大きくなることも度をえて極端きょくたんまで進むとかえって種族しゅぞく生存せいぞんには不利益ふりえきとなり、他日意外いがいてき遭遇そうぐうした場合にもろくも敗北はいぼくするにいたるであろう。

「牙の大きすぎる虎の頭骨」のキャプション付きの図
きばの大きすぎるとら頭骨ずこつ

 以上いじょうたんに一二の場合を想像そうぞうして理屈りくつだけをきわめて簡単かんたんべたのであるが、実際じっさい地質ちしつ時代に一時全盛ぜんせいきわのち急に絶滅ぜつめつしたような動物種族しゅぞくを見ると、その末路まつろにおよべばかなず身体のどこかに過度かど発達はったつしたらしい部分がある。あるいは身体が大きすぎるとか、きばが長すぎるとか、角が重すぎるとか、こうあつすぎるとか、とかく生存せいぞん必要ひつようと思われるより以上いじょうに発育してほとんど畸形きけいに近い姿すがたていし、おそらくそのためにかえって生存せいぞん困難こんなんになったのではなかろうかと考えられるものがすこぶる多い。従来じゅうらいはかようなことに対し直進せいという名をつけたりしていたが、著者ちょしゃの考えによれば一方のみにへんした過度かどの発育は全く他種族しゅぞく圧迫あっぱくをこうむらずに自己じこ種族しゅぞくのみで個体こたい間または団体だんたい間にはげしい競争きょうそうの行なわれた結果けっかである。他種族しゅぞく競争きょうそうしている間は種族しゅぞく生存せいぞん不利益ふりえき性質せいしつ発達はったつするはずはないが、すべて他の種族しゅぞく征服せいふくして対等のてきがなくなると、その後は種族しゅぞく内で競争きょうそうをつづける結果けっかとして、かつて他種族しゅぞくに打ち勝つときに有効ゆうこうであった武器ぶき過度かどに進歩し、ほとんど畸形きけいるいする発育をとげるであろう。個体こたい間の競争きょうそうで勝負の標準ひょうじゅんとなる性質せいしつが、競争きょうそう結果けっか過度かどに進むをまぬがれぬことは、日常にちじょうの生活にもしばしば見かける。たとえば女の顔のごときも色が白くてくちびるの赤いのが美しいが、男のあいんと競争きょうそうする結果けっか、白いほうはますます白くって美しい白の程度ていどを通りし、赤いほうはますます赤くめて美しい赤の程度ていどを通りし、白壁しろかべのごとくに白粉おしろいり、玉虫のごとくにべにけて得意とくいになっている。当人とうにんと、痘痕あばたえくぼに見える情人じょうにんとはこれを美しいと思うているであろうが、無関係むかんけいの第三者からはまるで怪物かいぶつのごとくに見える。新生代の地層ちそうからり出されたきばの大きすぎるとらや、つのの重すぎる鹿しかなどもおそらくこれと同じように同僚どうりょう間の競争きょうそう結果けっか過度かど発達はったつをとげたものであろう。
 一方に過度かどの発育をとげれば、これにともなうて他方には過度かどの弱点の生ずるをまぬがれぬであろうから、これが程度ていどまで進むと、今まではるかにおとっているごとくに見えたてき競争きょうそうするにあたって、自分の不得意ふとくいとする方面からめられるともろく敗北はいぼくするおそれが生ずる。前にもべたとおり、まされる種族しゅぞくとはいずれも自分の得意とくいとする方面だけでてきにまさるものゆえ、得意とくいとせぬ方面にはなはだしい欠陥けっかんが生じたならば、種族しゅぞく生存せいぞんはそのためすこぶる危険きけんとなるにちがいない。一時全盛ぜんせいきわめた動物種族しゅぞくがその末路まつろにおよんではるかにおとったてきにも勝ちぬにいたったのは、右のごとき状態じょうたいおといったためであろう。そのうえ一時多くのてきに勝つような種族しゅぞくかな専門せんもんてき発達はったつし、身体各部かくぶの分業も進んだものであるゆえ、もし外界に何らかの変動へんどうが起こり、温度がるとか、湿気しっけすとか、新たなてきあらわれたとか、従来じゅうらいの食物がなくなるとかいう場合には、これに適応てきおうしてゆくことがよほど困難こんなんで、そのため種族しゅぞく全滅ぜんめつするごときこともむろんしばしばあったであろう。
 ようするに著者ちょしゃの考えによれば、生物かく種族しゅぞくの運命は次の三とおりのほかに出ない。競争きょうそうの相手よりもはるかにおとった種族しゅぞくはむろん競争きょうそうやぶれて絶滅ぜつめつするのほかはない。また競争きょうそうの相手よりもはるかにまさった種族しゅぞくはすべての競争きょうそう者に打ち勝ち、天下にてきなきありさまにたつして一時は全盛ぜんせいきわめるが、その後はかな自己じこ種族しゅぞく内の個体こたい間の競争きょうそう結果けっか、始め他の種族しゅぞく征服せいふくするときに有効ゆうこうであった武器ぶき性質せいしつ過度かど発達はったつし、他の方面にはこれにともな欠陥けっかんが生じてかえって種族しゅぞく生存せいぞん有害ゆうがいとなり、ついには今まではるかにおとれるごとくに見えたてきとの競争きょうそうにもずして自ら滅亡めつぼうするをまぬがれぬ。ただてきから急にほろぼされもせず、またてきほろぼしくしもせず、つねにてきを目の前にひかえ、これと対抗たいこうしながら生存せいぞんしている種族しゅぞくは長く子孫しそんのこすであろうが、その子孫しそんは長い年月の間には自然じぜん淘汰とうた結果けっかえず少しずつ変化へんかして、いつとはなしに全く別種べっしゅと見なすべきものとなり終わるであろう。ニイチェの書いたものの中に「あやう生存せいぞんする」というがあったように記憶きおくするが、長く種族しゅぞく継続けいぞくせしめるにはあやう生存せいぞんをつづけるのほかにみちはない。「敵国てきこく外患がいかんなければ国はたちまちほろびる」というとおり、てきほろぼしくして全盛ぜんせいの時代にふみむときは、すなわちその種族しゅぞく滅亡めつぼうの第一歩である。盛者じょうしゃ[#「必」は底本では「心」]ひつめつ有為うい転変てんぺんは実に古今に通じた生物界の規則きそくであって、これにもれたものは一種いっしゅとしてあったれいはない。以上いじょうべたところは、これを一々の生物種族しゅぞくに当てはめてろんじて見ると、なお詳細しょうさいに研究しなければならぬ点や、いまだ説明せつめいの十分でないとところがたくさんにあるべきことはもとより承知しょうちしているが、大体において事実と矛盾むじゅんするごときことはけっしてないとしんずる。

五 さて人間は如何いかに


 今日地球上に全盛ぜんせいきわめている動物種族しゅぞくは言うまでもなく人間である。かつて地質ちしつ時代に全盛ぜんせいきわめたかく種族しゅぞくはいずれも一時代かぎりで絶滅ぜつめつし、次の時代には全くかげかくしたが、現今げんこん全盛ぜんせいきわめている人間種族しゅぞく将来しょうらい如何いかになりゆくであろうか。著者ちょしゃの見るところによれば、かような種族しゅぞくはみなはじめ他種族しゅぞくに打ち勝つときに有効ゆうこうであった武器ぶきが、その後過度かど発達はったつして、そのためついに滅亡めつぼうしたのであるが、人間はけっしてこれにるいすることは起こらぬであろうか。未来みらいろんずることは本書の目的もくてきでもなく、また著者ちょしゃのよくするところでないが、人間社会の現在げんざい状態じょうたいを見ると、一度全盛ぜんせいきわめた動物種族しゅぞく末路まつろたところが明らかにあるように思われるゆえ、次にいささかそれらの点を列挙れっきょして読者の参考さんこうきょうする。
 人間がことごとく他の動物種族しゅぞくに打ち勝って向かうところてきなきにいたったのは如何いかなる武器ぶきを用いたによるかというに、これはだれも知るとおり、物の理屈りくつを考えのうと、道具をつくって使用しる手とである。もしも人間ののうが小さくて物を工夫くふうする力がなかったならば、とうてい今日のごときいきおいをることは不可能ふかのうであったにちがいない。またもしも人間の手が馬の足のごとくに大きなひづめつつまれて、物をにぎることができなかったならば、けっして他の種族しゅぞくに打ち勝ちなかったことは明らかである。さればのうと手とは人間のもっとも大切な武器ぶきであるが、手のはたらきとのうはたらきとは実はあい関連かんれんしたもので、のう工夫くふうした道具を手でつくり、手で道具を使うてのう経験けいけんをため、両方があい助けて両方のはたらきが進歩する。如何いかのうで考えてもこれを実行する手がなければ何の役にも立たず、如何いかに手をはたらかそうとしても、あらかじめ設計せっけいするのうがなかったならば何を始めることもできぬ。矢を放ち、やりき、あみり、落としあなりなどするのは、みなのうと手との連合れんこうしたはたらきであるが、かかることをなしる動物が地球上にあらわれた以上いじょうは、他の動物種族しゅぞくはとうていこれに勝てる見込みこみがなく、力は何倍も強くきばは何倍もするどくともついにことごとく人間に征服せいふくせられて、人間に対抗たいこうてき一種いっしゅもなくなった。かくて人間はますますいきおいを全盛ぜんせいきわめるにいたったが、その後はただ種族しゅぞく内にはげしい競争きょうそうが行なわれ、のうと手とのはたらきのまさった者はえずのうと手とのはたらきのおとったものを圧迫あっぱくしてほろぼし、その結果けっかとしてこれらのはたらきは日を追うて上達じょうたつし、研究はどこまでも深く、道具はどこまでも精巧せいこうにならねばやまぬありさまとなった。人はこれを文明開化ととなえて現代げんだい謳歌おうかしているが、だれも知らぬ間に人間の身体や社会てき生活状態じょうたいに、次にべるごとき種族しゅぞく生存せいぞん上すこぶる面白からぬ変化へんかが生じた。
 まず身体にかんする方面から始めるに、のうと手とのはたらきが進歩してさまざまのものを工夫くふう製作せいさくすることができるようになれば、寒いときにはけものの皮をぎ草の繊維せんいみなどして衣服いふくまとい始めるであろうが、皮膚ひふ保護ほごせられるとそれだけ柔弱じゅうじゃくになり、わずかの寒気かんきにもたえぬようになればさらに衣服いふくを重ね、頭のうえから足の先まで完全かんぜんおおつつむゆえ、ついにはちょっと帽子ぼうしをとっても靴下くつしたいでも風を引くほどに身体が弱くなってしまう。また人間が自由に火を用い始めたことは、すべての他の動物に打ち勝ちたおもな原因げんいんであるが、食物をて食うようになってからは歯と腸胃ちょういとがいちじるしく弱くなった。野生の獅子ししとらにはけっしてない齲歯むしばがだんだんでき始め、生活が文明てきに進むにしたごうてその数がえた。どこの国でも下層かそう人民じんみんにくらべると、貴族きぞくや金持には齲歯むしばの数が何層倍なんそうばいも多い。嗜好しこうはとかく極端きょくたんに走りやすいもので、冬はわききたつようなしるきながらい、夏は口のいたむような氷菓子こおりがし我慢がまんして食う。しお砂糖さとう純粋じゅんすいせいてからは、あるいはからすぎるほどにしおを入れ、あるいはあますぎるほどに砂糖さとうくわえる。これらのことや運動の不足ふそくやなおその他の種々しゅしゅ事情じじょう胃腸いちょうはたらきは次第しだいおとろえ、虫様垂炎ちゅうようすいえんなどもすこぶる頻繁ひんぱんに起こり、が悪いと言わねばほとんど大金持らしく聞えぬようになった。住宅じゅうたく衣服いふくと同じくますます完全かんぜんになって、夏は電気おおぎ冷風れいふうを送り、冬は暖房管だんぼうかんで室内を温めるようになると、つねにこれにれて寒暑に対する抵抗ていこう力が次第しだいげんじ、少しでもあらい風にれるとたちまち健康けんこうがいするような弱い身体となり終わるが、これらはすべてのうと手とのはたらきが進んだ結果けっかである。
 知力が進めば、病いをなおし健康けんこうたもつことにもさまざまの工夫くふうをこらし、病原黴菌ばいきんに対する抵抗ていこう力の弱い者には人工てき抗毒こうどく血清けっせい注射ちゅうしゃしてこれを助け、消化液しょうかえき分泌ぶんぴつ不足ふそくする者には人造じんぞうのジアスターゼやペプシネを飲ませてこれをおぎなうが、自然じぜんまかせておけば死ぬべきはずの弱い者を人工で助け生かせるとすれば、人間生来しょうらい健康けんこう平均へいきんが少しずつるはもちろんである。医学が進歩すれば一人一人の患者かんじゃの生命を何日かばしる場合は多少すであろうが、それだけ種族しゅぞく全体の健康けんこう状態じょうたいがいつとはなく悪くなるをまぬがれぬ。文明人の身体が少しずつ退化たいかするのはもとより他に多くの原因げんいんがあって、けっして医術いじゅつの進歩のみによるのではないが、知力を用いてできるだけ身体を鄭重ていちょう保護ほごし助けることはたしかにその一原因げんいんであろう。身体が弱くなれば病いにかかる者もえ、統計とうけいをとって見ると、何病の患者かんじゃでも年々いちじるしく数がしてゆくことがわかる。
 他種族しゅぞく圧倒あっとうして自分らだけの世の中となれば、安全に子孫しそんを育てることができるために、人口がさかんにえてたちまちはげしい生活なんが生ずる。せまい土地に多数の人がし合うて住めば、油断ゆだんしては直ちに落伍者らくごしゃとなるおそれがあるゆえ、相手に負けぬようにえず新しい工夫くふうをこらし、新しい道具をつくってはたらかねばならず、そのためのうと手とはほとんど休まる時がない。そのうえ知力が進めば如何いかなる仕事をするにも大仕掛おおじかけの器械きかいを用いるゆえ、その運転するひびきと振動しんどうとが日夜神経しんけいなやませる。かくて神経系しんけいけい過度かど刺激しげきのために次第しだい衰弱すいじゃくして病的びょうてき鋭敏えいびんとなり、ささいなことにもたちまち興奮こうふんして、軽々しく自殺じさつしたり他をころしたりする者が続々ぞくぞくと生ずる。神経しんけい衰弱すいじゃくしょう野蛮やばん時代にはけっしてなかったもので、全く文明の進んだために起こった特殊とくしゅの病気に相違そういないから、これを「文明病」と名づけるのは真ににかなうたびかたである。
 競争きょうそう労苦くろうなぐさめるための娯楽ごらくも、のうはたらきが進むと単純たんじゅんなものでは満足まんぞくができぬようになり、種種しゅしゅ工夫くふうをこらして濃厚のうこう激烈げきれつなものをつくるが、これがまた強く神経しんけい刺激しげきする。芝居しばいや活動写真などはそのいちじるしいれいであるが、真実の生存せいぞん競争きょうそう労苦くろう余暇よかをもって、仮想かそう人物の生存せいぞん競争きょうそう労苦くろうをわが身に引き受けて感ずるのであるから、むろん神経系しんけいけい安息あんそくせしむべき道ではない。また人間は労苦くろうわすれるために酒、煙草たばこ阿片あへんなどのごときものをつくって用いるが、これは種族しゅぞく生存せいぞんのためにはもとより有害ゆうがいである。およそ娯楽ごらくにはすべてわすれるということが要素ようその一つであって、芝居しばいでも活動写真でもこれを見てよろこんでいる間は自分の住する現実げんじつの世界を暫時ざんじわすれているのであるが、酒や煙草たばこるい実際じっさい労苦くろうわすれることを唯一ゆいつ目的もくてきとし、煙草たばこには「わすれ草」という名前さえつけてある。しこうしてかくわすれさせるはたらきを有するものはいずれも劇毒げきどくであるゆえ、つねにこれを用いつづければ当人とうにんにも子孫しそんにも身体精神せいしんともにがいを受けるをまぬがれぬ。阿片あへんのごときは少時これを用いただけでも中毒ちゅうどく症状しょうじょうがすこぶるいちじるしくあらわれる。酒の有害ゆうがいであることはだれが考えても明らかであるゆえ、各国かっこくともに禁酒きんしゅの運動がさかんに行なわれるが、しばらくなりとも現実げんじつの世界からのがれして夢幻むげんの世界に遊ぶことが何よりの楽しみである今日の社会においては、めしらし、着物をいでも、酒や煙草たばこがやめられぬ人間が、いつまでもたくさんにあって、そのがいも長くえぬであろう。しこうしてこれらは他の動物種族しゅぞくではけっして見られぬ現象げんしょうである。
 なお生活なんすにしたがい、結婚けっこんして家庭をつくるだけの資力しりょく容易よういにはられぬゆえ、自然じぜん晩婚ばんこんのふうが生じ、一生独身どくしんらす男女もできるが、かくては風儀ふうぎみだれ、売笑婦ばいしょうふの数が年々増加ぞうかし、これらが日々多数の客にせつすれば淋病りんびょう梅毒ばいどくはたちまち世間一体に蔓延まんえんして、その一代の人間の健康けんこうをそこなうのみならず、子供こどもは生まれたときから、すでに病いにかかったものがたくさんになる。その他、知力によって工夫くふうした避妊ひにん方法ほうほう下層かそう人民じんみんにまであまねく知れわたれば、性欲せいよく満足まんぞくせしめながら子の生まれぬことをのぞむ場合にはさかんにこれを実行するであろうから、教育が進めば自然じぜん子の生まれる数がげんずるが、繁殖はんしょく力の減退げんたいすることは種族しゅぞく生存せいぞんからいうともっとも由々ゆゆしき大事である。子の生まれる数がれば生活なんげんじて、かえって結構けっこうであると考えるかも知れぬが、なかなかさようにはならぬ。何故なぜというに「さんご」や「こけ虫」の群体ぐんたいならば百匹ひゃっぴきの虫に対して百匹ひゃっぴき分の食物さえあればいずれも満腹まんぷくするが、人間は千人に対して千五百人分の食物があっても、その多数はうえしのばねばならぬような特殊とくしゅ事情じじょうそんするゆえ、人数はえずとも競争きょうそうあいわらずはげしく、体質たいしつ以上いじょうべたごとくに次第しだいに悪くなりゆくであろう。 次に道徳どうとくの方面について考えるに、これまたのうと手とのはたらきの進むにしたがいだんだん退歩たいほすべき理由がある。知力のいまだ進まぬ野蛮やばん時代には通信つうしん運輸うんゆ方法ほうほうきわめて幼稚ようちであるゆえ、戦争せんそうするにあたって一群いちぐんとなる団体だんたいはすこぶる小さからざるをなかった。隊長たいちょう号令ごうれいの聞こえるところ、相図あいずはたの見えるところより外へ出ては仲間なかまとの一致いっちの行動が取れぬゆえ、そのくらいの広さのところに集まりるだけの人数が一団いちだんをつくって、それぞれ競争きょうそう単位たんいとなったが、かかる小団体しょうだんたいの中では、各人かくじんがその団体だんたいにおよぼす結果けっかはだれにも明瞭めいりょうに知れわたり、団体だんたい生存せいぞん有利ゆうり行為こういかなぜんとしてしょうせられ、団体だんたい生存せいぞん有害ゆうがい行為こういかなず悪としてばつせられ、ぜんかくれてしょうせられず、悪のあらわれずしてばつをまぬがるるごときはけっしてなく、ぜんのなすべきゆえんがきわめてたしかに了解りょうかいせられる。かつかかる小団体しょうだんたいが数多くあい対立してはげしく競争きょうそうすれば、悪の行なわれることの多い団体だんたいかなたたかいにけて、その中の個体こたいころされるか食われるかして全部滅亡めつぼうし、ぜんの行なわれることの多い団体だんたいのみが勝って生きのこり、それにぞくする個体こたいのみが子孫しそんのこすゆえ、もしもそのままに進んだならば、自然じぜん淘汰とうた結果けっかとしてついにはありはちのごとき完全かんぜんな社会てき生活をいとなむ動物となったかも知れぬ。しかるにのうはたらきと手のはたらきとが進歩したために、通信つうしん運輸うんゆ方法ほうほうがすみやかに発達はったつし、これにともなうて競争きょうそう単位たんいとなる団体だんたい次第しだいに大きくなり、電話や電信でんしん命令めいれいつたえ、汽車や自動車で兵糧ひょうろう運搬うんぱんするようになれば、いく百万の兵隊へいたいをも一人の指揮官しきかんで動かすことができるために、いつの間にかあいあらそ団体だんたいの数がげんじてかく団体だんたい非常ひじょうに大きなものとなった。ところで団体だんたい非常ひじょうに大きくなり、その中の人数が非常ひじょうに多数になると、一人ずつの行動が全団体ぜんだんたいにおよぼす結果けっかはほとんどわからぬほどの微弱びじゃくなものとなり、一人がぜんを行なうてもそのため急に団体だんたいいきおいがよくなるわけでもなく、一人が悪を行なうてもそのためにわかに団体だんたいおとろえるわけでもなく、したがってぜんかくれてしょうせられぬこともしばしばあれば、悪がまぬがれてばつせられぬこともしばしばあり、時としては悪を行なうた者がぜん仮面かめんかぶってしょうあずかることもある。かような状態じょうたいにたちいたれば、ぜん何故なぜになさねばならぬか、悪は何故なぜになすべからざるかという理屈りくつがすこぶる曖昧あいましになってくる。小さな団体だんたいの内では悪はかなあらわれてきびしくばつせられるゆえ、ひそかに悪を行なうたものは日夜はげしく良心りょうしん苛責かしゃくを受けるが、団体だんたいが大きくなって悪のかなずしもばつせられぬ実例じつれいがたくさん目の前にならぶと、いきお良心りょうしんにぶくならざるをない。また団体だんたいが大きくなるにしたがい、団体だんたい間の競争きょうそうにおける勝負の決するのにはなはだしく手間が取れ、競争きょうそうえず行なわれながら、一方が全滅ぜんめつしてあとをとどめぬまでにはいたらぬ。すなわちけてもただ兵士へいしの一部が死ぬだけで、他は依然いぜんとして生存せいぞんするゆえ、団体だんたい単位たんいとした自然じぜん淘汰とうたは行なわれず、その結果けっかとして団体だんたい生活にてきする性質せいしつ次第しだい退化たいかする。大きな団体だんたいの内では、各個人かくこじん直接ちょくせつに感ずるのは各自かくじ一個いっこ生存せいぞん要求ようきゅうであって、国運の消長のごときは衣食いしょく足って後でなければ考えている余裕よゆうがない。しこうして個人こじん単位たんいとする生存せいぞん競争きょうそうが激しくなれば、自然じぜん淘汰とうた結果けっかとしてますます単独たんどく生活にてきする性質せいしつ発達はったつし、自分さえよろしければ同僚どうりょう如何いかりゆいてもかまわぬというようになり、かかる者の間に立っては良心りょうしんなどを持ち合わさぬ者のほうがかえって成功せいこうする割合わりあいが多くなる。各個人かくこじんがかくのごとく利己りこてきになっては、如何いか立派りっぱ制度せいどもうけ、如何いか結構けっこう規約きやくむすんでも、とうてい完全かんぜん団体だんたい生活が行なわれるべきのぞみはない。団体だんたいてき生活をいとなむ動物でありながら、おいおい団体だんたいてき生活にてきせぬ方向に進みゆくことは、種族しゅぞく生存せいぞんにとってはきわめて不利益ふりえきなことであるが、その原因げんいんは全く団体だんたいをして過度かどに大ならざるをざらしめたのうと手とのはたらきにある。
 さらに財産ざいさんかんする方面を見るに、手をもって道具を用いる以上いじょうは何事をなすにも道具と人とがそろわねばならず、人だけがあっても道具がなくてはほとんど何もできぬ。かわうそならば自分の足で水中をおよぎ、自分の口で魚をとらえるが、人間は船に乗りぎ、あみですくい、かごに入れるのであるゆえ、この中の一品がけてもりょうにはでられぬ。わずかににかける一本の短いつなが見つからなくても岸をはなれることができぬ。かかる場合には、取れた魚の一部をあたえる約定やくていで、となりの人からあいているつなりるであろうが、これが私有しゆう財産ざいさんして利子りしを取る制度せいどの始まりである。しこうしていったん物をして利子りしを取る制度せいどが開かれると、道具をつくってこれをすことを専門せんもんとする者と、これをりてはたらくことを専門せんもんとするものとが生ずるが、のうと手とのはたらきが進んで次第しだい精巧せいこう器械きかいをつくるようになるとともに、器械きかいあたいはますます高く労働ろうどうあたいはますます安く、器械きかいを所有する者は法外ほうがい収入しゅうにゅうるに反し、器械きかいりる者は牛馬のごとくにはたらかねばならぬようになる。共同きょうどうの生活をいとなむ社会の中に、一方には何もせずに贅沢ぜいたくらす者があり、他方には終日あせを流しても食えぬ者があるというのは、けっして団体だんたい生活の健全けんぜん状態じょうたいとは考えられぬ。蒸気機関じょうききかんでも機織はたおり器械きかいでも発電機はつでんきでも化学工業でも、いちじるしい発明のあるごとに富者ふしゃはますます貧者ひんしゃはますますまずしくなったところから見れば、今後もおそらく文明の進むにしたがい最少数さいしょうすうごく富者ふしゃと大多数のごく貧者ひんしゃとに分かれゆくかたむきが止まぬであろうが、それが社会生活のかく方面にえず影響えいきょうをおよぼし、身体にも精神せいしんにもいちじるしい変化へんかを引き起こす。しかもそれがいずれも種族しゅぞく生存せいぞんのうえに不利益ふりえきなことばかりである。
 前に健康けんこう道徳どうとくかんして今日の人間が如何いかなる方面に進みつつあるかをべたが、貧富ひんぷ懸隔けんかくがはなはだしくなればすべてこれらの方面にも直接ちょくせつ影響えいきょうする。ごく富者ふしゃごく貧者ひんしゃとがあいとなりして生活すれば、男女間の風儀ふうぎなども直ちにみだれるのは当然とうぜんで、えにさまった女が富家ふけびていんを売るのをふせぐことはできず、貧者ひんしゃはもっとも安価あんか性欲せいよく満足まんぞくもとめようとするゆえ、それにおうずる職業しょくぎょうの女もえ、世間一般いっぱんに品行が乱脈らんみゃくになれば花柳病はなやぎびょうさかんに蔓延まんえんしてついにはほとんど一人ものこらずその害毒がいどくこうむるであろう。その他富者ふしゃいて病いを貧者ひんしゃえて健康けんこうたもず、いずれも体質たいしつ次第しだいに下落する。げんに文明諸国しょこく貧民ひんみんには栄養えいよう不良ふりょうのために抵抗ていこう力が弱くなって、ささいな病いにもぬものがおびただしくある。また富者ふしゃは金をあたえて如何いかなることをもあえてし、貧者ひんしゃは金をんがために如何いかなることをもしのばざるをぬゆえ、その事柄ことがらぜんか悪かを問うひまはなく、道徳どうとく観念かんねん漸々ぜんぜんうすらいで、たいがいの悪事は日常にちじょうのこととして人が注意せぬようになってしまうが、これではとうてい協力きょうりょく一致いっちむねとする団体だんたい生活にはてきせぬ。 国内の人民じんみんが少数の富者ふしゃと多数の貧者ひんしゃとに分かれ、富者ふしゃは金の力によって自分らのみに都合つごうのよいことを行なえば、貧者ひんしゃはこれを見てけっしてだまってはいず、富者ふしゃてきとしてにくみ、あらゆる方法ほうほうこうじてこれをたおそうとこころみ、貧者ひんしゃ富者ふしゃとの間に妥協だきょう余地よちのないはげしい争闘そうとうが始まる。教育が進めば貧者ひんしゃといえども知力においてはけっして富者ふしゃおとらぬゆえ、自分の境遇きょうぐう富者ふしゃ境遇きょうぐうとを比較ひかくして、何故なぜかくまで相違そういするかと考えては不満ふまんねんにたえず、現今げんこんの社会の制度せいどをことごとく富者ふしゃのみに有利ゆうり不都合ふつごう千万なものと思いこみ、全部これをくつがえそうとくわだてる者も大勢おおぜい出てくる。今日社会問題と名づけるものにはさまざまの種類しゅるいがあるが、その根本はいずれも経済けいざいの問題であるゆえ、貧富ひんぷ懸隔けんかくがますますはなはだしくなるかたむきのある間はとうてい満足まんぞく解決かいけつせられる見込みこみはなかろう。かくのごとく、一団体だんたいの内がさらにいくつもの組に分かれてたがいにあいにくあいたたかうことは、団体だんたい生活をいとな種族しゅぞく生存せいぞんにとってはすこぶる有害ゆうがいであるが、その根源こんげんただせばみなはじめ手をもって道具を用いたのにもとづくことである。
 ようするに、今日の人間は最初さいしょ他の動物種族しゅぞく征服せいふくするときに有効ゆうこうであった武器ぶきなるのうと手とのはたらきが、その後種族しゅぞく内の競争きょうそうのためにどこまでも進歩し、そのため身体は弱くなり、道徳どうとくおとろえ、共同きょうどう生活が困難こんなんになり、貧富ひんぷ懸隔けんかくがはなはだしくなって、不平ふへいをいだき同僚どうりょうのろう者が数多く生じ、日々団体だんたいてき動物の健全けんぜんなる生活状態じょうたいより遠ざかりゆくように見うける。これらのことの実例じつれいをあげるのはわずらわしいゆえはぶくが、毎日の新聞紙上にいくらでもげてあるゆえ、この点においては世界中の新聞紙を本章の付録ふろくと見なしても差支さしつかえはない。今日地球上の人間はいくつかの民族みんぞくに分かれ、民族みんぞくの間にも個人こじんの間にものうと手とによるはげしい競争きょうそうが行なわれているゆえ、今後もなお知力はますます進み器械きかいはますます精巧せいこうになろうが、この競争きょうそうに一歩でも負けた民族みんぞくはたちまち相手の民族みんぞくからはげしい圧迫あっぱくをこうむりきわめて苦しい位置いちに立たねばならぬから、自己じこ民族みんぞく維持いじ継続けいぞくをはかるにはぜひとものうと手とをはたらかせ、発明と勤勉きんべんとによっててきなる民族みんぞくにまさることをつとめめねばならぬ。かくたがいにあいはげめばいわゆる文明はなお一層いっそう進むであろうが、その結果けっか如何いかにというに、ただ民族みんぞく民族みんぞく個人こじん個人こじんとが競争きょうそうするに用いる武器ぶき精鋭せいえいになるだけで、前にべたごとき人間種族しゅぞく全体にあらわれる欠陥けっかんすくうためには何の役にもたたぬであろう。人間の身体や精神せいしん漸々ぜんぜん退化たいかするかたむきのあることに気のついた学者はすでに大勢おおぜいあって、人種じんしゅ改善かいぜんとか種族しゅぞく衛生えいせいとかいうことが、今日ではさかんにとなえられているが、以上いじょうべたごとき欠陥けっかんはいずれものうと手とのはたらきが進んだために当然とうぜん生じたものゆえ、同じのうと手とのはたらきによっていまさらこれをすくおうとするのは、あたかも火をもって火事を消し、水をもって洪水こうずいふせごうとするのと同じようで、結局けっきょくはとうていその目的もくてきたつぬであろう。「知っていることは何の役にも立たず、役に立つようなことは何も知らぬ。」と言うたファウストの歎息たんそくはそのまま人種じんしゅ改良かいりょう学者等の最後さいご歎息たんそくとなるであろうと想像そうぞうする。ただし、幾多いくた民族みんぞくあいにらみ合うている現代げんだいにおいては少しでも相手の民族みんぞくよりも速く退化たいかするようなことがあっては、たちまちてき迫害はくがいのためにきわめて苦しい地位ちいおちいらざるをぬゆえ、一方のうと手との力によって相手と競争きょうそうしながら、他方にはまたのうはたらき、手のはたらきの結果けっかとして当然とうぜん生ずべき欠陥けっかんをできるだけふせぐようにつとめることが目下の急務きゅうむである。いずれの民族みんぞく結局けっきょくは、のう過度かど発達はったつしたためにますます生存せいぞん不適当ふてきとう状態じょうたいおもむくことをけられぬであろうが、いまてきよりも先に退化たいかしては、直ちにてきのためにめられ苦しめられるべきは明らかであるゆえ、その苦しみをまぬがれんとするにはぜひとも、さらにのうと手とをはたらかせ、工夫くふうをこらし力をくして、身体精神せいしんともになるべく長く健全けんぜんならしめることを図らねばならぬ。人間全体がついには如何いかになりゆくかというような遠い将来しょうらいの問題よりも、如何いかにしてわが民族みんぞく維持いじすべきかという問題のほうが目前にせまっているゆえ、応急おうきゅう手段しゅだんとしては、やはり人種じんしゅ改善かいぜん種族しゅぞく衛生えいせいを学術てきに深く研究して、できるかぎりの良法りょうほうを実地にこころみるのほかはない。かくして、一方においては知力によって、軍事ぐんじ殖産しょくさん等の方面を進歩せしめ、他方においては同じく知力によって生活状態じょうたい退化たいかふせぐことをつとめたならば、にわかに他の民族みんぞくのためにほろぼされるごとき運命にはおそらくわぬであろう。
 以上いじょうのごとく考えて後にさらに現今げんこんの人間をながめると、その身体には明らかに過度かど発達はったつした部分のあることに気づかざるをない。前に鹿しか種類しゅるいではその滅亡めつぼうする前に角が大きくなりすぎ、とら種類しゅるいでは同じくきばが大きくなりすぎたことをべたが、人間の身体ではのうたしかに大きくなりすぎている。人間はいつも自分を標準ひょうじゅんとして物を判断はんだんし、人体の美をろんずるにあたっても断金法だんきんほうなどとしょうする勝手な法則ほうそくを定め、これにかのうたものを円満えんまん体格たいかくと見なすが、虚心きょしん平気に考えて見ると、重さ十二三かん(注:45〜49kg)、長さ五尺しゃく二三すん(注:156〜159cm)の身体に重さ三百六十もんめ(注:1.35kg)、直径ちょっけい五寸ごすん五分ごぶ(注:16.5cm)もあるような大きなのうそなわり、これをつつむために、顔面部よりもはるかに大きな頭蓋骨ずがいこつ発達はったつしているありさまは、前にべた鹿しかの角やとらきばあいたもので、いずれもほぼ極端きょくたんたつしている。もしもかの鹿しかが、角の大きすぎるために滅亡めつぼうし、かのとらきばの長すぎるために滅亡めつぼうしたものとすれば、人間は今後あるいはのうが大きくなりすぎたために滅亡めつぼうするのではなかろうかとの感じが自然じぜんうかぶが、これはあながちに根拠こんきょのない杞憂きゆうでもなかろう。すでに現今げんこんでも胎児たいじの頭の大きいために難産なんざんの場合がたくさんにあり、出産しゅっさんさいに命をうしなう者さえ相応そうおうにあるくらいゆえ、万一このうえに人間ののう発達はったつして胎児たいじの頭が大きくなったならば、それだけでも出産しゅっさんともな苦痛くつう危険きけんとが非常ひじょうし、自然じぜん難産なんざん人工じんこうてきてき避妊ひにんとのために生殖せいしょくりつがいちじるしくげんずるにちがいない。母が子をむのは生理てき当然とうぜんのことで、本来は何の故障こしょうもなしに行なわるべきはずのものであるに、人間だけは、例外れいがいとして非常ひじょう危険きけんがこれにともなうのは、たしかに人間が種族しゅぞく生存せいぞん不利益ふりえきな方向に進み来たった証拠しょうこと考えねばならぬ。本書の始めにも言うたとおり、およそ物は見ようによって種々しゅしゅことなって見えるもので、同一の物に対しても観察かんさつする人の立つ場所をえると全くべつの感じが起こる。人間種族しゅぞく将来しょうらいかんしてもそのとおりで、人間のみを見るのと、古今のしょ動物に比較ひかくして見るのとでは大いにおもむききがちがい、また同じく生物学てきろんじても一人一人に考え方はいちじるしくことなるであろう。しこうして他の人々が如何いかに考えるかは知らぬが、著者ちょしゃ一人の見るところはまず以上いじょう略述りゃくじゅつしたごとくである。

(注:Shift JIS で表現できない漢字
'さきつ'=※[#「虫」+「鎖」のつくりの上が「く」113ページ-12行]※(「虫+吉」、第4水準2-87-45)
'蝉=※(「虫+單」、第3水準1-91-66)
'藐=※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)
'缶=※(「金+権のつくり」、第4水準2-91-30)
'鴎=※(「區+鳥」、第3水準1-94-69)
'蝦=※(「石+車」、第3水準1-89-5)
'蛄=※(「石+渠」、第3水準1-89-12)
'保=※[#「女+保」、U+5AAC、453ページ-5行]
'顛=※(「眞+頁」、第3水準1-94-3)
'テイ=※(「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21)
'エイ=※(「やまいだれ+嬰」、第3水準1-88-61)
'ソ=※(「口+素」、第4水準2-4-20)







底本:「丘浅次郎著作集W」有隣堂出版株式会社
   1969(昭和44)年6月20日 発行
入力:矢野重藤
初出:生物学講話
   1916(大正5)年1月 (開成館)
校正:
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


Topに戻る