生物学的の見方

丘浅次郎




 すべて物は見方によって種々しゅしゅことなって見えるもので、同一の物でも見方をえると、全く別物べつものかと思われるほどにちがって見えることもある。たとえばここにある水呑みずのみコップのごときも上から見れば丸いが、横から見るとほぼ長方形に見える。日々世の中に起こる事柄ことがらも、ある人はこれを道徳どうとくの方面から見、ある人はこれを政治せいじの方面から見、ある人は教育の方面より、ある人は衛生えいせいの方面よりというように種々しゅしゅことなった方面から見るが、かくあらゆる方面から見た結果けっか綜合そうごうして始めてその事柄ことがらの真相が知れるのである。一方から見るのみで、他のほうから見ることをわすれては決して正しい観念かんねんることはできぬ。これはもとより明らかなことで、従来じゅうらいとても何か事を調べるにあたってはなるべく各方面から見るように注意していたように見受けるが、ここに一つ今日まで全くわすれられ度外視どがいしせられていた見方がある。それはすなわち表題にげた生物学的の見方であるが、われらの考えによれば、人間社会に起こる百般ひゃっぱんのできごとを正しく観察かんさつするにはぜひともこの見方をくわえることが必要ひつようで、これをはぶいてはとうてい皮相的ひそうてきにとどまるをまぬがれぬ。とくに人間の行為こういを研究の対象たいしょう物とする倫理りんり、教育等のごときいわゆる精神せいしん科学においては今後時代の進歩にともなうために大いにこの見方を奨励しょうれいする必要ひつようがあろう。
 さて生物学的の見方とはいかなる見方かというに、これは一言でいえば人間を生物の一として見るのである。すなわち人間を他の生物とは全くはなれた一種いっしゅ特別とくべつのものとせず、たんに生物の一種いっしゅと見なし人間社会の現象げんしょうをも生物界の現象げんしょうの一部と見なして観察かんさつするのであるが、それにはまずバクテリアのごとき簡単かんたん微細びさいな生物からさる、人間のごとき高等なものまでを一ヵ所に集めたと想像そうぞうし、全部を見渡みわたしながらその一部なる人間を見るというようにせねばならぬ。これを芝居しばいにたとえて見れば、バクテリア、アメーバ等よりさる猩々しようじょうにいたるまですべての生物を一列にならべて舞台ぶたい背景はいけいとし、その前へ人間を引き出して浮世うきよ狂言きょうげんえんぜしめ、自分は遠くはなれて桟敷さじきから見物している気になって、公平に観察かんさつするのである。人間界の現象げんしょうには、かような見方によってはじめてその意味を明らかにすることのできる部分がはなはだ多い。
 生物学的の見方とはわれらが新しくつけた名であるが、人間の身体を研究する方面の学科では、この見方はすでに古くから行なわれている。比較ひかく解剖かいぼう学とか比較ひかく発生学とか、すべて比較ひかくという字をかむらせた学科はみなこの見方によって研究を進めているのである。人間の身体には、たんに人間ばかりを研究していたのでは、とうてい意味のわからぬ部分や性質せいしつがあるが、これを明らかにするにはぜひとも比較ひかく研究によらねばならぬ。たとえば成人せいじん頭骨ずこつ側面そくめんには耳殻じかくを動かすべき筋肉きんにくがいくつもあるが、何故なにゆえかかる不用の筋肉きんにくがここにあるかということはその筋肉きんにくのみを調べたのではとうていわからぬ。他の動物と比較ひかくし、他の獣類じゅうるいでは実際じっさいこの筋肉きんにくはたらいて耳殻じかくひびきのくる方角に向けることを知れば、これは昔人間がまだ人間とならなかったころの先祖せんぞ実際じっさい動かしていたもので、遺伝いでんによって今日までも形だけをそんしているものとして、はじめてその意味が明らかになる。また人間の胎児たいじが母の体内で発育する途中とちゅうには、一時くび両側りょうがわに魚の鰓孔えらあなのごときあな幾対いくついかできて、のちにふたたびじて消えるが、これなども、ただ人間の発生のみを調べていたのでは、いかにくわしく研究しても、とうていなにゆえかかる一時的の無用むようあなかならず生じて、しかるのちに消え去るかということは知られぬ。哺乳類ほにゅうるいから魚類ぎょるいまで種々しゅしゅ脊椎せきつい動物の発生を比較ひかく研究し、人間の胎児たいじくび両側りょうがわに一時生ずるあなは、魚類ぎょるい頸部けいぶ側面そくめん終生しゅうせいそんする鰓孔えらあなと同一のものであることをたしかめれば、これは人間の先祖せんぞがいまだ水中に住し、魚のごとき形をていしていたころに、実際じっさい鰓孔えらあなとして役に立ったもので、その痕跡こんせきが今日までも発生の途中とちゅうに一時あらわれるのであるとして、はじめてその理屈りくつを知ることができる。かようなれいは、人間の構造こうぞう、発生を調べて見ると実に多くあり、とくにこれを研究した有名な解剖かいぼう学者の計算によると、その数がほとんど百にたっする。
 今日の生物学は解剖かいぼう、発生のほか種々しゅしゅの方面に広く発展はってんしてゆくが、いずれの方面に向こうてもかならず生物学的の見方をもって研究を進めている。細胞さいぼう学では、下等な生物から高等な動植物、人間にいたるまでの細胞さいぼう比較ひかく研究して、ますますくわしく細胞さいぼう通性つうせいを知らんとつとめ、実験じっけん生物学では、人間に近いものから遠いものまで種々しゅしゅの動植物を人為的じんいてき状態じょうたいのもとに生活、発生せしめて、外界が生物体におよばす影響えいきょう比較ひかく研究し、近来さかんになった動物挙動きょどう学では、各種かくしゅの動物の挙動きょどうからしてその心理状態じょうたいを調べ、これを比較ひかく研究してついに人間の心理現象げんしょう解釈かいしゃくする基礎きそさぐもとめんとし、実験じっけん遺伝いでん学では種々しゅしゅの動植物について雑種ざっしゅ試験しけんを行ない、一々の性質せいしつ遺伝いでんする法則ほうそくを見いだして、ついにはこれを人間社会にも応用おうようせんとはかっている。すべてこれらの研究は人間を生物の一種いっしゅとみなす生物学的の見方にもとづいたもので、もし人間が他の生物とは全くことなったものであるとすれば、これらの研究はみな全く無意味なことになってしまう。
 かように近代の生物学は各方面ともに生物学的の見方によって研究しているが、ひるがえっていわゆる精神せいしん科学の研究を見ると、ほとんどこれと反対で、相変あいかわらず人類じんるいのみを特別とくべつのものと見なし、他の生物とは決して比較ひかくすべきものでないかのごとくに考えている。もっとも数年来大いに態度たいどわって、比較ひかく研究に基礎きそをおくごとき外観がいかんよそうものも続々ぞくぞく出てきたようであるが、全部を通じて見ると、やはり従来じゅうらいのありさまと大差たいさはない。今後は大いに面目をあらためるであろうが、今までのところでは、細胞さいぼうとか遺伝いでんとか比較ひかく心理とかいう事項じこうをまじえろんじてあるものも、根が従来じゅうらいと同じ見方にもとづいているゆえ、あたかもたん新奇しんきをてらうためにかような事項じこうりきたって仕組んだかのごとくに見える。真に生物学によって研究を進めようと思うならば、ただかように一つ一つの事項じこうを交じえ入れるにとどめず、根本から生物学的の見方をくわえて、全部を改造かいぞうしてかることが必要ひつようであろう。われらはこの方面の学科をおさめる人々に向かって、いつもながらこの事をせつに希望きぼうせざるをない。
 また生物学的の見方は、学問研究の場合にかぎらず、日々の生活にも大いに有益ゆうえきなものである。なぜというに、生物学的に物を見る習慣しゅうかんがつくと、人類じんるいを第三者の位置いちから公平に観察かんさつするとおりに、自分自身をも第三者の位置いちから冷静れいせいに見て、自身の真価しんか評定ひょうていし、うぬぼれをげんじ、不平をふせぐことができる。たけが五尺五六寸(注:1.65〜1.68m)もある人は、自分の周囲しゅういの人がみな自分よりひくいのを見て、よほどの大男であるごとくに思うが、普通ふつうの人でも五尺三四寸(注:1.56〜1.62m)はあるゆえ、横から見ればそのは実に僅少きんしょうである。それと同じくのう力の少しく平均へいきんよりまさった人はたれもみな自分よりおとっているごとくに見え、自分はよほどしゅうにすぐれた非凡ひぼんの天才であるごとくにうぬぼれやすい。しかして自分でうぬぼれるほどにはむろん世間からは尊敬そんけいはらわぬゆえ、大いに心中に不平を起こし、ついにはいくぶんか自暴じぼう自棄じきの気味となり、社会の風俗ふうぞく無視むしして奇異きいなる行動をあえてするにいたることがある。多少天才らしい人が多くは世に用いられず、終りをまっとうせざるに反し、平凡へいぼんな者がかえって鰻登うなぎのぼりに出世するのは、おそらく右のごとき理由によるのであろう。古来こらい大不平家はおおむね平均へいきん以上の才知さいちそなえた者で、その不平は多くは過度かどのうぬぼれの結果けっかである。今日の世の中にもかような状態じょうたいにある人は決して少なくないが、つねに生物学的の見方をもって物を見る習慣しゅうかんやしなえば、自分自身をも第三者の位置いちから冷静れいせいに見るようになり、自分のたいした俊才しゅうさいでもないことが明らかに知れ、うぬぼれもよほどげんじ、不平もだいぶ消えてまじめにはたらるようになるであろう。自信じしんということはもとより大切であって、すぐれた者がすぐれたりと自覚じかくすることは必要ひつようであるが、実際じっさい多くの場合にはうぬぼれのために自分の価値かち過大視かだいししているゆえ、これを適度てきどまでに引き下げることは当人のためにも社会のためにも有益ゆうえきである。しかしてうぬぼれをげんずるには、第三者の位置いちから自分をながめるにしくはなく、第三者の位置いちからながるには、つねに生物学的の見方で物を見る習慣しゅうかんつくっておくがよろしい。世にしょするはあたかも戦争せんそうのぞむと同じく、まずおのれを知ることが必要ひつようであるが、それにはかりに第三者の位置いちってそこから公平に自分を見なければならぬ。かような次第であるゆえ、つねに生物学的の見方にれることは、その結果けっかからいうと一種いっしゅ訓練くんれんもしくは修養しゅうようとも見るべきもので、この方面からろんじても大いに注意すべきことであろう。
 以上はたんに生物学的の見方だけについてべたのであるが、われわれは決して何物でも生物学的にさえ見れば、それでよろしいというのではない。誤解ごかいけるためにくり返して言うが、物はすべて種々しゅしゅことなった方面から見なければならぬ。ことなった方面から見た結果けっか綜合そうごうして考えるので、はじめてその物の真価しんかが知りられるのである。天文学で星の位置いち測定そくていするにはいわゆるパララックスによるが、そのほうはまず自身がこう位置いちにあるときその星を観察かんさつしてその方角を見定め、次におつ位置いちってからふたたびその星を観察かんさつしてその方角を見定め、この二つの角度と甲乙こうおつ二点の距離きょりとから計算して、その星の真の位置いち測定そくていするのである。三角法さんかくほうによって行なう測量そくりょうはすべて同じ理屈りくつで、ことなった二点から角度をはかりさえすれば、海のむこうの山の距離きょりでも、空をんでいる飛行機ひこうきの高さでも、自分でそこまで測量そくりょうくさりを引きずって行かずに充分じゅうぶん精密せいみつに知ることができる。これと同じく学問上のしょ問題でも社会に起こる種々しゅしゅのできごとでも、ただ一方のみから見たのでは決してその真価しんかはわからぬ。かならず二つ以上のことなった見地けんちに身をおきかえて、そこから見くらべることが必要ひつようである。たとえば倫理りんり上の問題をたん倫理りんり学からのみろんじ、教育上の問題をたんに教育学からのみろんじては、いまだ充分じゅうぶんではない。さらに全くべつ方面なる生物学上からも見るようにすると、その交叉点こうさてんくらいする物の真の位置いちはじめてたしかに知れるのである。従来じゅうらい無関係むかんけいのごとくに思うていたほどのべつ方面からの観察かんさつは、新奇しんきなだけにかえって大いに参考さんこうもととなるであろう。
 普通ふつう教育における動植物学科の効用こうようは、日々の生活に必要ひつようなる実際じっさい的の知識ちしきさずけるほかに、観察かんさつ力をやしない、推理すいり力を進めるなど、知力を練磨れんまするにあることは、すでに人の知るところであるが、以上のごとくに考えるとさらに一つの重大なる意義いぎがこれにわることになる。なぜというに、物を生物学的に見るには、まず生物学の大要たいようを学んで、地球上にはいかなる生物がそんし、いかなる生活をいとなんでいるかを知らねばならぬ。さい下等のものよりさい高等のものまでの間にいかなる生物がそんし、いかに生活しているかを学べば、ここにはじめて、物を生物学的に観察かんさつ素養そようができるのである。生物学科はこの点において、新時代の教育中に重大なる役目をび、決して他の学科をして代わらしめることのできぬ特殊とくしゅ性質せいしつを有している。もしも教える者がこの点に重きをおき、学ぶ者もこの点に意をそそいだならば、後にいたりいかなる学説がくせつを聞いても、つねに知らずしらず、生物学的の見方をくわえるゆえ、ただちに先方のせつのみにつり入れられるごときことがなく、思想の状態じょうたいはあたかも天秤てんびんの両方の皿に同じ重さの分銅ふんどうせたときのごとくにたがいにつり合うて、よく極端きょくたん空論くうろんに走ることをふせぐこともできよう。この事は今日のごとくに新説しんせつでさえあれば、あらそうてこれを歓迎かんげいするへいのある時世には、とく必要ひつようであると考えるゆえ、大要たいようだけをこころみにべたのである。
(明治四十三年十一月)






底本:「進化と人生(上)」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1910(明治43)年11月   生物学的の見方 東亜協会にて講演
校正:
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード

Topに戻る