生物学より見たる教育

　教育の書物を開いて見ると「教育トハ一定ノ目的（もくてき）ト方法（ほうほう）トヲ具（そな）ヘテ教育者ガ被（ひ）教育者ニ加（くわ）フル所ノ働作（どうさ）ナリ」などとむずかしい定義（ていぎ）を下して、これは人類（じんるい）のみに限（かぎ）るものであると書いてあるが、教育学者の言うところの教育はあるいは人類（じんるい）に限（かぎ）られてあるか知らぬが、教え育てるということは動物界において決して珍（めずら）しいことではない。元来教育という字の原語の Education、Erziehung などという字はいずれも引き出すという意味で、被（ひ）教育者の生来持っている種々（しゅしゅ）の能力（のうりょく）を引き延（の）ばし発達（はったつ）せしめること、すなわち知能（ちのう）を啓発（けいはつ）することをいうのであろうが、教育という字をこの意味に取れば教育を行なう動物はいくらもある。まず実際（じっさい）教育を行なう動物の例（れい）を二つ三つ掲（あ）げて、それから教育の生物学上の意義（いぎ）を述（の）べよう。
　小鳥類（るい）の子供（こども）が親あるいはその他の成長（せいちょう）した同胞（どうほう）から歌うことを習うはたれも知っていることで、多少種類（しゅるい）の違（ちが）った鳥でも卵（たまご）の時からあるいは幼（おさな）い雛（ひな）の時からある他の鳥に育てさせると、成長（せいちょう）する間に養（やしな）い親の歌を覚（おぼ）えて、自分の種属（しゅぞく）に固有（こゆう）な歌とは全く違（ちが）った歌を巧（たく）みに歌いうるようになる。小鳥を熱心（ねっしん）に飼（か）う人は自分の鳥の声をよくするためには、よい声を有する鳥のそばへ連（つ）れて行ってこれを習わせ、またはこれと競争（きょうそう）させてますます声を発達（はったつ）させようとはかるが、これを見ても鳥の声などは教えようによっていかようにも進歩させることのできるものであることがわかる。
　鳥類（ちょうるい）にはその子に歌を教えるものがあるばかりではない、あるいは餌（えさ）をついばむことを教えるものがあり、あるいは飛（と）ぶことを教えるものがあり、あるいはおよぐことを教えるものがある。これらのことはくわしく鳥類（ちょうるい）の習性（しゅうせい）を観察（かんさつ）した人が記載（きさい）しておいたものを見ると明瞭（めいりょう）にわかるが、自分でも少し注意しておれば実物からいくらも見ることができる。たとえば鶏（にわとり）がたくさんの雛（ひな）を連（つ）れて庭に餌（えさ）を拾い歩いているところを見ると、親鳥は餌（えさ）を見いだすたびごとに雛（ひな）を呼（よ）び集め、自ら餌（えさ）をついばんでは雛（ひな）の集まっている中へ落して、その地面に当たって跳（は）ね散（ち）るところを雛（ひな）に拾わせていることがあるが、これは雛（ひな）に餌（えさ）を速（すみや）かについばむ術（じゅつ）を練習させているのであろう。地上に落ちて動く小さな餌（えさ）を巧（たく）みに速（すみや）かについばみ取るには眼（め）の働（はたら）きも充分（じゅうぶん）でなければならず、また頸（くび）や嘴（くちばし）を動かす種々（しゅしゅ）の筋肉（きんにく）がみな調和して働（はたら）かなければならぬ。しかして種々（しゅしゅ）の筋肉（きんにく）の調和した働（はたら）きというものは、練習の結果（けっか）として初（はじ）めて完全（かんぜん）にできるものであることは、ベースボール、ローンテニスのごとき遊戯（ゆうぎ）でも、書画、裁縫（さいほう）のごとき芸術（げいじゅつ）でもみな大いに練習を要（よう）するということを見ても知れる。
　ある博物（はくぶつ）家が海鳥が雛（ひな）におよぐことを教えるところを精密（せいみつ）に観察（かんさつ）して書いておいたものを読んだことがあるが、たしかに一定の目的（もくてき）と方法（ほうほう）とがそなわってあるように思った。まず親鳥が一匹（いっぴき）の魚を捕（とら）え、半殺（はんごろ）しにして雛（ひな）の頭より一二尺（しゃく）（注：３０〜６０ｃｍ）隔（へだた）たったところへ放し、これを捕（とら）えさせ、幾度（いくど）も同じことをやらせて一二尺（しゃく）のところならば百発百中必（かなら）ず餌（えさ）を捕（とら）えることができるというまでに雛（ひな）の技術（ぎじゅつ）が熟練（じゅくれん）すると、次にはなお一尺（しゃく）も隔（へだた）たったやや遠いところへ魚をおいてこれを捕（とら）えさせる。かように次第次第（しだいしだい）に導（みちび）いて、ついには全く手放しても独立（どくりつ）の生活ができるであろうと見込（みこ）みのつくまでに仕上げて、しかる後に親鳥は実際（じっさい）雛（ひな）を手放すのである。先年上野の動物園で鶴（つる）が雛（ひな）を孵（かえ）したときも雌雄（しゆう）の親鳥がていねいにこれを養（やしな）い育て、初（はじ）めは鰌（どじよう）を小さく切って食わせ、次には鰌（どじよう）を水中におよがせてはこれを捕（とら）える練習をなさしめ、雛（ひな）の翼（つばさ）が少しく発達（はったつ）してからは、親鳥が先に立って一度左へ向かって飛（と）べば、次には右に向かって飛（と）ぶというような順序（じゅんじょ）に、規則（きそく）に正しく、飛翔（ひしよう）の方法（ほうほう）を教えているのを見た。
　次に獣類（じゅうるい）を取って見ても同じことで、子を教える種類（しゅるい）は決して少なくない。猫（ねこ）を飼（か）った人はよく知っているであろうが、親猫（おやねこ）が鼠（ねずみ）を捕（とら）えると、必（かなら）ずこれに傷（きず）をつけて全く逃（に）げ去ることのできぬだけに弱らせておき、生きたるままで、これを子猫（こねこ）に与（あた）えて鼠（ねずみ）を捕（とら）えかみ殺（ころ）すことの練習をさせる。インドで虎狩（とらが）りをした人らの書いたものを見ると同じようなことが書いてある。すなわち親虎（おやとら）を打ちとってからその巣（す）を調べてみたら、山羊や野牛の屍体（したい）に頸（くび）などのごとき急所には大きな歯の痕（あと）があるが、他のところには小さな子虎（ことら）の歯の痕（あと）がたくさんついていたということであるが、これから推（お）して考えると、猛獣類（もうじゅうるい）では子供（こども）に餌（えさ）となる獣類（じゅうるい）を捕（とら）えたり、かみ殺（ころ）したりすることを練習させることはつねであるように思われる。
　以上（いじょう）掲（あ）げたる二三の例（れい）でもわかるとおり、動物にも一種（いっしゅ）の教育を行なっている種類（しゅるい）があることは確（たし）かであるが、動物界全体から見ると、かような教育を行なう動物はむしろはなはだ少数である。しからばいかなる性質（せいしつ）を帯（お）びた動物が教育を行なうかと考えてみるに、かような動物はみな最（もっと）も高等な動物で、その上に子を産（う）む数の比較的（ひかくてき）はなはだ少ない種類（しゅるい）に限（かぎ）られてあるように思われる。なお詳（くわ）しくこのことを論（ろん）ずるにはまず動物界を次のごとくに三部に分かち、これを比較（ひかく）して見なければならぬ。
　一、子を生んだままで少しも世話をせぬ動物
　二、子を生んだ後、これを保護（ほご）し養（やしな）う動物
　三、子を生んだ後、これを保護（ほご）し養（やしな）いかつ教育する動物
　右のごとくに三部に分けても、とうていその間に判然（はんぜん）した境（さかい）はつけられぬが、総体（そうたい）から見ると確（たし）かにこの三通りのタイプがあるように思う。
　第一の種類（しゅるい）すなわち子を生んだままで少しも世話をせぬ動物はいかなるものがあるかというに、蛙（かえる）の類（るい）、魚類（ぎょるい）、蝶（ちよう）、蚕（かいこ）のごとき昆虫（こんちゅう）をはじめほぼすべての下等動物がこれに属（ぞく）する。これらの動物は子を生んだ後は全く打ち捨（す）てておいて少しも顧（かえり）みないが、動物の一生涯（いっしょうがい）の中で最（もっと）も弱く最（もっと）も危（あや）うい時期はすなわち幼時（ようじ）であるにかかわらず、少しも親の保護（ほご）を受けぬのであるから、これらの動物が幼（おさな）い時に死ぬ数は実に非常（ひじょう）なもので、敵（てき）に食われるものもあり、同胞（どうほう）に食われるものもあり、飢（う）えて死ぬもの、圧（あつ）されて死ぬもの、乾（かわ）いて死ぬもの、溺（おぼ）れて死ぬものなどがあって、実際（じっさい）成長（せいちょう）するまで生存（せいぞん）しうるものはきわめて少ない。それゆえこれらの動物はよほどたくさんの子を生まなければ、とうてい種属（しゅぞく）の断絶（だんぜつ）することをまぬがれぬはずであるが、実際（じっさい）を調べてみると全くそのとおりで、これらの動物ほど多くの子を生む動物は他にはない。春のころ田や池の近傍（きんぼう）を散歩（さんぽ）すると水の中に蛙（かえる）の卵（たまご）がいっぱいにあるのを見るが、これだけの卵（たまご）がみなかえって蛙（かえる）になったら実におる場所があるまいと思われる。また魚類（ぎょるい）がみなはなはだ多数の卵（たまご）を生むことはたれも知っていることで、鯛（たい）や鰈（かれい）［＃ルビの「かれい」は底本では「ひらめ」］の煮肴（にざかな）を食うときに卵（たまご）粒の多いのを見て今さらのごとくに驚（おどろ）くこともしばしばあるが、正月の儀式（ぎしき）に用いるカズノコのごときも実は「ニシン」という魚の卵塊（らんかい）で、卵（たまご）の粒（つぶ）の数が非常（ひじょう）に多いから、それで子供（こども）の大勢（おおぜい）生まれるように、一家のますます繁栄（はんじょう）するようにとの意を形に現（あら）わして祝（ゆわ）うのであろう。また昆虫（こんちゅう）の卵（たまご）の多いことは蚕（かいこ）の種紙（たねかみ）を見ても知れるが、野生の昆虫（こんちゅう）類（るい）もほぼこれと同じくらいの卵（たまご）をおのおの木の葉の裏（うら）とか、幹（みき）の中とか、あるいは地面の下などのあまり目立たぬところに生みつけているのである。これらの動物はみなかようにたくさんの卵（たまご）を生むが、幼時（ようじ）にほとんどみな死んで、生存（せいぞん）するものはわずかに親と同数くらいで、ようやくその種属（しゅぞく）を維持（いじ）し継続（けいぞく）してゆくに足りるだけに過（す）ぎない。
　次に第二の部類（ぶるい）、すなわち子を生んだのちにこれを保護（ほご）する動物はいかなるものがあるかというに、やはり前と同じような下等動物の中に混（ま）じて種々（しゅしゅ）ある。たとえば蛙（かえる）の中には背（せ）に袋（ふくろ）があって、その内へ卵（たまご）を入れて生長し終わるまで子を保護（ほご）するもの、または自分の咽喉（いんこう）の下にある嚢（ふくろ）の中に卵（たまご）を呑（の）み込（こ）み、その発生する間、これを保護（ほご）するものがある。昆虫（こんちゅう）の中でも蜂（はち）や蟻（あり）の類（るい）は巧（たく）みな巣（す）を造（つく）ってていねいに幼児（ようじ）を保護（ほご）しかつ養（やしな）う。しかしてこれらの動物では幼児（ようじ）は親あるいは同胞（どうほう）に保護（ほご）せられ、危険（きけん）に遇（あ）うことも少なく、したがって死ぬことも少ないから、成長（せいちょう）し終わるまで生存（せいぞん）するものが比較的（ひかくてき）多く、そのため初（はじ）めから比較的（ひかくてき）少数の子が生まれても種属（しゅぞく）の継続（けいぞく）して行く見込（みこ）みは充分（じゅうぶん）に立つはずであるが、実際（じっさい）を調べて見ると全くそのとおりで、子を保護（ほご）せぬ魚類（ぎょるい）は一時に数万、数十万、最（もっと）も多きは千万に近い卵（たまご）を生むに反し、トゲウオやタツノオトシゴのごとき卵（たまご）を保護（ほご）し、幼児（ようじ）を養（やしな）う特殊（とくしゅ）の魚類（ぎょるい）は、わずかに四五十、あるいはなおそれ以下（いか）の少数の卵（たまご）を生むに過（す）ぎぬ。また卵（たまご）を生み放しにする蛙（かえる）は一度に幾千（いくせん）もの卵（たまご）を生むが、卵（たまご）を保護（ほご）し養（やしな）う蛙（かえる）の類（るい）は一度にわずかに二十くらいより卵（たまご）を生まぬ。
　終りに第三の部類（ぶるい）、すなわち子を生んだ後にこれを保護（ほご）し養（やしな）いかつ教える動物にはいかなるものがあるかというに、これには人間をはじめ、鳥類（ちょうるい）、獣類（じゅうるい）のごとき最（もっと）も高等な動物が含（ふく）まれている。これらの動物では身体の構造（こうぞう）も複雑（ふくざつ）で、筋肉（きんにく）も脳髄（のうずい）も、非常（ひじょう）に発達（はったつ）しているから、たとい幼児（ようじ）が親に保護（ほご）せられ養（やしな）われて、大きさだけは一匹（いっぴき）なみに成長（せいちょう）しても、筋肉（きんにく）や脳髄（のうずい）の働（はたら）きが鈍（にぶ）くては、とうてい生存（せいぞん）競争（きょうそう）に打ち勝って、子孫（しそん）を残（のこ）し、種属（しゅぞく）を維持（いじ）してゆきうるという充分（じゅうぶん）の見込（みこ）みが立たぬ。それゆえこれらの動物はただ子を生んで保護（ほご）し養（やしな）うのみならず、なおこれを教え導（みちび）いて筋肉（きんにく）脳力（のうりょく）を練習せしめ、しかるのちに初（はじ）めてこれを手放すのである。この仲間（なかま）に属（ぞく）する動物はいずれも知力のいちじるしく発達（はったつ）したものゆえ、その習性（しゅうせい）を詳（くわ）しく調べてみると、実におもしろい事実がたくさんにあり、子を教え育てる方法（ほうほう）のごときもよほど人間に類（るい）する点の多いものがある。初（はじ）めにあげたわずかに二三の例（れい）によってもその一斑（いっぱん）をうかがうことができよう。従来（じゅうらい）の教育学者は動物の習性（しゅうせい）などは少しも調べず、ただ独断的（どくだんてき）に教育は人間に限（かぎ）るなどと間違（まちが）うたことを言い放っていたのであるが、いささかでも高等動物の習性（しゅうせい）をうかごうた者は決してかかる断言（だんげん）を承認（しょうにん）することはできぬ。
　以上（いじょう）述（の）べたところから考えてみるとほぼ次のごとくに言っても誤（あやま）りではなかろう。第一、きわめて多数の子を生む動物は全く生み放しで少しも子供（こども）の世話をせぬ。第二、比較的（ひかくてき）少数の子を生む動物は必（かなら）ず生んだ子を多少保護（ほご）し、また養（やしな）う。第三、その中でも筋肉（きんにく）、脳髄（のうずい）の発達（はったつ）したる高等の動物はただその子を保護（ほご）し養（やしな）うにとどまらずなおこれを教え育てる。もとより詳細（しょうさい）に一個（いっこ）一個（いっこ）の場合を調べてみると、これに合わぬ例外（れいがい）もないではないが、一般（いっぱん）について言えばまずこのとおりであろう。
　さてなにゆえに右のような現象（げんしょう）が生じたかというに、およそ動物には朝（あした）に生まれ夕（ゆうべ）に死ぬ蜉蝣（かげろう）のごとき短命なものもあり、象（ぞう）や鯨（くじら）のように二百年も三百年も生きるものもあるが、いずれにしても寿命（じゅみょう）に制限（せいげん）のないものはない。それゆえ、いかに長命の動物でも寿命（じゅみょう）が尽（つ）きれば必（かなら）ず死んでしまわなければならぬ。しかして個体（こたい）がみな死んでしまってはむろん種属（しゅぞく）が断絶（だんぜつ）するから、種属（しゅぞく）を維持（いじ）するためには、各（かく）個体（こたい）は寿命（じゅみょう）の尽（つ）きる前に生殖（せいしょく）の働（はたら）きをなし、自分の後へ自分と同じような個体（こたい）を残（のこ）しておくことが必要（ひつよう）である。かように考えてみると生殖（せいしょく）の目的（もくてき）は全く種属（しゅぞく）を維持（いじ）することにあるが、この目的（もくてき）は決して単（たん）に子を生んだからとて必（かなら）ずしも直ちに達（たっ）することのできるものとは限（かぎ）らぬ。無数（むすう）の子を生む動物は途中（とちゅう）で死んでしまう子がいくらたくさんあっても、なお種属（しゅぞく）を維持（いじ）するに足りるだけの子が生存（せいぞん）し得（う）ることはプロバビリテーの勘定（かんじょう）で初（はじ）めからすでに見込（みこ）みがついているから、生んだのちにこれを保護（ほご）する必要（ひつよう）はないが、やや少数の子を生む動物では単（たん）に子を生んだばかりでは、いまだ決して種属（しゅぞく）維持（いじ）の見込（みこ）みがついたとはいえぬ、必（かなら）ずこれを保護（ほご）し養（やしな）い、これだけの数の子供（こども）が、これだけの程度（ていど）までに発達（はったつ）したからもはや手放しても充分（じゅうぶん）に種属（しゅぞく）の維持（いじ）の見込（みこ）みはあるというまでにいたり、始めて生殖（せいしょく）の目的（もくてき）を達（たっ）したといえるのである。西洋の解剖（かいぼう）学書に婦人（ふじん）の乳房（にゅうぼう）を生殖器（せいしょくき）の中へ編入（へんにゅう）してあるのはこの点からいえば相当の理由がある。さらに高等の動物では単（たん）に保護（ほご）し養（やしな）っただけではいまだ充分（じゅうぶん）でない、筋肉（きんにく）脳髄（のうずい）の力を練習せしめ、もはやこれならば競争（きょうそう）場裡（じょうり）へ出しても大丈夫（だいじょうぶ）であろうと思うまでに仕上げなければ生殖（せいしょく）の目的（もくてき）を達（たっ）したとはいえぬ。されば以上（いじょう）三種（さんしゅ）にわけて述（の）べたことはみな種属（しゅぞく）の維持（いじ）という生殖（せいしょく）の目的（もくてき）を達（たっ）するための手段（しゅだん）であって、詰（つ）まるところ、同一の目的（もくてき）を達（たっ）するための違（ちが）った方法（ほうほう）に過（す）ぎぬ。また動物の寿命（じゅみょう）もほぼこれに伴（ともな）ったもので、たいてい血統（けっとう）維持（いじ）の見込（みこ）みのついたころに死んでしまう。無数（むすう）の卵（たまご）を生む昆虫（こんちゅう）類（るい）には蚕（かいこ）のごとくに卵（たまご）を生み終わりさえすれば死んでしまうものがあり、また蜂（はち）の雄（おす）のごときは交尾（こうび）の終わらぬうちに気絶（きぜつ）して雌（めす）の体から離（はな）れずに死んでしまう。これに反し鳥類（ちょうるい）獣類（じゅうるい）の多くは子を生んだのちも長く生存（せいぞん）して子を保護（ほご）し養（やしな）い、充分（じゅうぶん）に末（すえ）の見込（みこ）みのついたころにたいてい寿命（じゅみょう）が尽（つ）きるようである。人類（じんるい）もそのとおりで、人生五十ないし七十と経験（けいけん）上で定めた寿命（じゅみょう）は、二十五歳（さい）ないし四十歳（さい）くらいの時に生んだ子が平均（へいきん）二十歳（はたち）二十五歳（さい）くらいになり、充分（じゅうぶん）生存（せいぞん）競争（きょうそう）に堪（た）えうるほどに成長（せいちょう）したころまでである。これらの事実から考えてみると、生殖（せいしょく）の目的（もくてき）を達（たっ）したのちの親はもはやその種属（しゅぞく）の繁栄（はんえい）に対しては無用（むよう）のものゆえ、たいていそのころを境（さかい）として自然（しぜん）に寿命（じゅみょう）というものが定まったのであろう。
　かように論（ろん）じてみると、教育ということは完全（かんぜん）に生殖（せいしょく）の目的（もくてき）を達（たっ）するために生殖（せいしょく）の作用に続（つづ）けて行なうところのものゆえ、生殖（せいしょく）作用の追加（ついか）と名づけてもよかろう。しかして単独（たんどく）に生活する動物では親が同じく教育をも司（つかさ）どるが、社会をなして生活する動物では社会中の個体（こたい）の間に分業が行なわれ、生殖（せいしょく）するものと教育を司（つかさ）どるものとの別（べつ）が生ずる。蟻（あり）や蜂（はち）はその例（れい）であるが、人類（じんるい）もやはりその仲間（なかま）で、親はもちろん自分の子を養育（よういく）するが、そのほかに特別（とくべつ）に教育だけを司（つかさ）どる職業（しょくぎょう）の者ができている。また生殖（せいしょく）の目的（もくてき）は種属（しゅぞく）の維持（いじ）であると言ったが、社会を造（つく）っている動物ではこの種属（しゅぞく）と名づけた団体（だんたい）に幾（いく）つもの階級があるから、教育の目的（もくてき）もこれを行なう団体（だんたい）の階級の異（こと）なるにしたがい多少の相違（そうい）がないことはない。たとえば一家でその子弟を教育するのは、現在（げんざい）の一家のおもなる人々が死んでも、後に一家を継続（けいぞく）する者を残（のこ）すためで、一藩（いっぱん）でその子弟を教育するのは、現在（げんざい）の藩士（はんし）が死んでも、後にこれを継続（けいぞく）するに足りるだけの立派（りっぱ）な者を残（のこ）すためである。一国がその子弟を教育するのも、それと同様で、現在（げんざい）の国民（こくみん）が死んでも、その後へ世界列国の競争（きょうそう）場裡（じょうり）に立ち立派（りっぱ）に一国を維持（いじ）してゆくに足るだけの者を残（のこ）すためである。かくのごとき次第であるゆえ、生物学上から見れば国家教育の目的（もくてき）が自己（じこ）の民族（みんぞく）の維持（いじ）発展（はってん）にあることはきわめて明瞭（めいりょう）で、これに達（たっ）する方法（ほうほう）はなお充分（じゅうぶん）に研究を要（よう）するが、目的（もくてき）自身についてはいささかも疑（うたが）いをはさむ余地（よち）はない。
　教育は生殖（せいしょく）作用の足らざるところを補（おぎな）い、生殖（せいしょく）の目的（もくてき）を充分（じゅうぶん）に達（たっ）するためのものであるとすれば、教育の目的（もくてき）はむろん生殖（せいしょく）の目的（もくてき）と一致（いっち）しなければならぬ。すなわち生物学上より見れば教育の目的（もくてき）は生殖（せいしょく）の目的（もくてき）と同じく種属（しゅぞく）の維持（いじ）にあることは明らかである。若（わか）い人らは恋（こい）は神聖（しんせい）なりと言い、教育家は教育は神聖（しんせい）なりと言うが、以上（いじょう）のごとくに考えてみると、この二つのいわゆる神聖（しんせい）なるものは共（とも）に種属（しゅぞく）維持（いじ）の働（はたら）きという一つの継続（けいぞく）した働（はたら）きの部分であって、恋（こい）はその始め、教育はその終りに過（す）ぎぬ。教育の目的（もくてき）については「完全（かんぜん）ナル人ヲ造（つく）ル」にあるとか、またその他にも種々（しゅしゅ）に説（と）いてあるが、学説（がくせつ）としてはいかなる論（ろん）が出てもよろしいが、実行にあたっては必（かなら）ず自己（じこ）の民族（みんぞく）の維持（いじ）繁栄（はんえい）ということを教育終局の目的（もくてき）とし、各様（かくよう）の教育にはおのおのこの終局の目的（もくてき）と方向の一致（いっち）する近き目的（もくてき）を定めおくようにしなければ効（こう）がない。教育が机上（きじょう）の空論（くうろん）にとどまるものならば、いかなる学説（がくせつ）が唱（とな）えられてあっても差支（さしつか）えはないが、教育は一日も休むことのできぬ実際（じっさい）の事業で、しかも自己（じこ）の民族（みんぞく）の否泰消長（ひたいしようちよう）にかかわる重大な事業であるゆえ、その目的（もくてき）については常（つね）に明瞭（めいりょう）な考えを有し、空理空論（くうろん）に迷（まど）わされず、その目的（もくてき）にかなうようにと力をつくすことがもっとも肝要（かんよう）である。現在（げんざい）の教育でも知らずしらず生物学上の規則（きそく）にしたがって、実際（じっさい）はここに説（と）いたとおりになってはいるが、学説（がくせつ）として教育の定義（ていぎ）、目的（もくてき）等を論（ろん）じたものを見ると一つも生物学上の考えのはいったものはなく、実際（じっさい）の人間には高尚（こうしょう）過（す）ぎてあてはまらぬような理論（りろん）ばかりが、やかましく流行しているようであるから、あるいは参考（さんこう）にもなるかと思って以上（いじょう）のとおりつねづね考えていたことの一部をきわめて短く書いてみたのである。もし教育学者が過去（かこ）および現在（げんざい）の事実を集め、これを材料（ざいりょう）として帰納的（きのうてき）に調べてみたならば、教育の目的（もくてき）は昔も今も、日本でも外国でも、また当事者がこの事を知っていても知らずにいても、実際（じっさい）においては必（かなら）ずここに述（の）べたところと一致（いっち）していることを見いだすであろう。