生存競争と相互扶助

丘浅次郎







 生存せいぞん競争きょうそうという言葉は前から聞きれていたが、近ごろはこれと相対するものとして、相互そうご扶助ふじよという言葉がさかんに用いられるようになった。二、三年前までは新聞や雑誌ざっしにもあまり見えなかったこの言葉が、かくにわかに流行しだしたのはなにゆえであるかは知らぬが、さつするところ、先般せんぱんの大戦争せんそう動揺どうようにうながされて、従来じゅうらいの社会の制度せいど種々しゅしゅ無理むりがあることに心付こころづき、このままではとうてい我慢がまんができなくなった人達ひとたちが、世の中の改造かいぞうくわだてるにあたり、この言葉を一つの標語ひょうごとして用い出したためかと思われる。
 現代げんだいの文明生活にはいずれの方面にもはなはだしい欠陥けっかんのあることはいやしくも物を考えうる頭を持った人間には明らかなことで、なんとかしてこれを合理てきあらためたいものであるが、さていかに改造かいぞうすべきかと考えるにあたっては、まず今日の欠陥けっかんの生じた真の原因げんいんもっとも深いところまで研究してかからねばならぬ。しこうしてそのためには生物界に行なわれる生存せいぞん競争きょうそうとか、相互そうご扶助ふじょとかいうことをも充分じゅうぶんに調べてみる必要ひつようがあろう。これらはいずれもすべての考案こうあん根柢こんていとなるべきものゆえ、もしこのへんの考え方があやまっているようでは、その上にいかなる名案めいあんきづき上げたとしてもことごとく空中楼閣ろうかくたるにぎぬことはいうまでもない。
 近ごろ雑誌ざっしなどに出ている文を読んでみるに、生存せいぞん競争きょうそう相互そうご扶助ふじょとをあたかもあい対立するもののごとくにろんじたものがたくさんにある。たとえば生物の進化は生存せいぞん競争きょうそうによるよりも、むしろ相互そうご扶助ふじょによって生じたものであるとか、十九世紀せいきの文明は生存せいぞん競争きょうそう基礎きそをおいた文明であったが、今回の大戦争せんそうによって全く破産はさんした。今後はよろしく相互そうご扶助ふじょもとづいた新文明を建設けんせつせねばならぬなどというて生存せいぞん競争きょうそう相互そうご扶助ふじょとを全く対等のものであるかのごとくにろんじている。すなわち生存せいぞん競争きょうそう相互そうご扶助ふじょとはあたかもさんとアルカリとのごとく、もしくはプラス五とマイナス五とのごとくただ方角がちがうだけで、それ自身には同等の価値かちを有するものとみなしてかかる人が多いようである。
 しかるにわれらの考えによれば、これは全く誤解ごかいであって、生存せいぞん競争きょうそう相互そうご扶助ふじょとは決してかくならべてろんずべき性質せいしつのものではない。生物界に相互そうご扶助ふじょの行なわれていることは、生物界に生存せいぞん競争きょうそうの行なわれていることと同じく、いずれも明らかな事実であるが、相互そうご扶助ふじょはいかなる者の間に行なわれているかといえば、いつもかなら共同きょうどうてきを有する者の間にのみ行なわれていることを思えば、生物界にはまず生存せいぞん競争きょうそうがあり、しかるのちに競争きょうそうの一手段しゅだんとして相互そうご扶助ふじょあらわれたものなることが容易よういみとめられる。言をかえて言えば生物界には第一義だいいちぎとしては、ただ生存せいぞん競争きょうそうがあるのみで、相互そうご扶助ふじょたんてきあらそうための策略さくりゃくとして味方同志どうしの間に行なわれる副次ふくじてき現象げんしょうにすぎぬ。すなわち生存せいぞん競争きょうそう相互そうご扶助ふじょとは決して東の大関おおぜきと西の大関おおぜきというごとくに対等の資格しかく相撲すもうを取るべき性質せいしつのものではなく、相互そうご扶助ふじょ生存せいぞん競争きょうそうの仕事の一部分として当然とうぜんその中にふくまるべきはずのものである。以下いか少しくこの点についてわれらの考えをべて、読者の参考さんこうきょうする。


 生物の中には犬猫いぬねこのごとくに随意ずいいに走りまわるものもあれば、まつや竹のごとくに根が生えて動かぬものもあり、くじらのごとくに巨大きょだいなものもあれば、バクテリアのごとくに微細びさいなものもあり、その他、千差万別せんさばんべつであるが、すべての生物に通じた性質せいしつは他物を同化せずには生きておられぬということである。同化とは自己じこの身体とはことなった物質ぶしつを取り、これを変化へんかして自己じこの身体と同じ物質ぶしつにすることで、およそ生物たる以上いじょうは、このことを行なわぬものは決してない。しこうして、同化すれば、自己じこの身体と同じ物質ぶしつし、自己じこの身体が、それだけ大きくなるので、成長せいちょうとか繁殖はんしょくとか名づけることはその必然ひつぜん結果けっかである。かくのごとく生物は同化し、成長せいちょうし、繁殖はんしょくするもの、さらに平易へいいに言えば、食うて成長せいちょうして子を生むものであるが、いかなる物質ぶしつでも手当たり次第に食えるわけのものではない。肉食動物には草や木の葉は食えず、草食動物には肉は食えず、また土や石はいかなる動物にも食えず、各種かくしゅるいごとに食物の種類しゅるいもそれぞれ定まっているゆえ、同化すべき食物のりょうにはかならず一定の際限さいげんがある。それゆえもしも同じ食物をようする動物の数が非常ひじょうに多くなったならば、その全部が生存せいぞんしえられぬことは明らかな理屈りくつで、結局けっきょくは生きられるべき数だけが生きのこり、他はいやでもおうでも死にせるよりほかに道はない。これがいわゆる生存せいぞん競争きょうそうである。
 今、動物の数が多くなったらと言うたが、生物界に生存せいぞん競争きょうそうの起こる第一の原因げんいんは、むろん地球上にそんする生活する物質ぶしつが多くの単位たんいに分かれて、あいはなれて生活しているからである。もしも地球上にそんする生活物質ぶしつが全部連続れんぞくした粘液ねんえきのごとき物であったならば、同化しうべき物のある間はこれを同化し、同化すべき物がなくなったならば同化をやめるだけで、競争きょうそうというごときことは全くなしにすむであろう。競争きょうそうとは元来二個にこ以上いじょうの相対する物があって、はじめてその間に起こりうることゆえ、もしも生活物質ぶしつ若干じゃっかん単位たんいに分かれていなかったならばむろん競争きょうそうのできるわけはない。しこうして地球上の生活物質ぶしつ現在げんざい無数むすう単位たんいに分かれているのは、表面と容積ようせきとのり合いや、その他、種々しゅしゅ関係かんけいから、他物にせつしてこれを同化するには小さなつぶに分かれているほうが有利ゆうりであるためであろうと思われるが、このことについてはここにくわしくろんずることをりゃくする。
 とにかく、現在げんざいのありさまでは、地球上に存在そんざいする生活物質ぶしつ無数むすう単位たんいに分かれているが、生物の単位たんいにはいくつもの階級がある。たとえば細胞さいぼう一個いっこよりなる滴虫てきちゆう一匹いっぴきも一つの単位たんいであり、多くの細胞さいぼうよりなる犬一匹いっぴきも一つの単位たんいであり、多くの多細胞さいぼう動物の集まってできた管水母くだくらげ一匹いっぴきも一つの単位たんいである。それゆえ、これらを区別くべつするために、細胞さいぼう一個いっこはこれを細胞さいぼう名付なづけ、多数の細胞さいぼうよりなる動物一個いっこはこれを個体こたいと名づけ、多くの個体こたいの集まってできた動物一個いっこはこれを群体ぐんたいと名づける。かくのごとく生物の単位たんいには高い階級のものやひくい階級のものがあり、これらがみな相対立して生存せいぞん競争きょうそうをなしつづけているのである。
 ここに一つ注意すべきことは、生存せいぞん競争きょうそうというと、たいていの人はてき味方に分かれて、意識いしきてきにはげしくあいたたかうことと考えるが、生物学上にこの言葉を用いるときには、さらにその意味を広げて、てきと思わずに競争きょうそうしていることも、たがいに知らずに競争きょうそうしていることも、みなその中にふくませねばならぬ。たとえば百本より草の生えられぬ面積めんせきの地面に五百の草のたねが落ちたと想像そうぞうするに、最初さいしょはことごとくが生じたとしても、結局けっきょくは百本より生存せいぞんすることはできず、他の四百本は何としてもてるのほかはない。草同志どうしの間にはごう競争きょうそうする心持ちはなくても、結果けっかから見ればあたかも高等学校の入学試験しけんのごとくで、すこぶるはげしい競争きょうそうをしていたことにあたる。われらの家の庭には幾坪いくつぼか長方形にしばを植えたところがあるが、三年ばかり前に子供こどもがもてあそんだクローバーのたねの落ちたのがを出して、翌年よくねんにはところどころにクローバーが生じ、今年はほとんど全部にはびこって、従来じゅうらい一面にえていたしばはほとんどあれどもなきにひとしいあわれなありさまとなった。しばもクローバーも無心むしんに生えていたのであるが、のちの結果けっかから見ればはげしい大戦争せんそうを行のうていたにひとしい。先年あるところで「生存せいぞん競争きょうそうなし、自然しぜん淘汰とうたなし」と題した赤い表紙の英語えいごの書物を見たことがあったが、この書の著者ちょしゃなどはおそらく生存せいぞん競争きょうそうという言葉を、勝手にせまい意味にかぎってろんを立てたのであろう。表紙を見ただけで中は読まず著者ちょしゃの名もおぼえておらぬが、無意識むいしきに行なわれている生存せいぞん競争きょうそうをもふくませて考えたならば、決してかような題目をかかげうるはずがない。なぜというに、もしも生存せいぞん競争きょうそうという言葉を広い意味にとったならば、生物界に生存せいぞん競争きょうそうの行なわれおることはあまり明白な事実で、故意こいに目をじぬかぎりはこれを見ぬわけにはゆかぬからである。


 さて、前にもべたとおり生物の単位たんいには細胞さいぼう個体こたい群体ぐんたいというように幾段いくだんかの階級があるが、いずれの生物でも、今日の状態じょうたいまでに進みきたった径路けいろさぐって見ると、みな長い間の漸々ぜんぜんの進化によって、はじ簡単かんたんなものから次第しだい複雑ふくざつなものになりきたったことはうたがわれぬ。してみると、生物の単位たんい最初さいしょにできたのは細胞さいぼうであり、のちに細胞さいぼうが集まって個体こたいが生じ、さらに個体こたいが集まって群体ぐんたいをなすにいたったことはおそらくうたがいなかろう。されば地球上における生物界の歴史れきしをその始めまでさかのぼれば、ある時代には生活物質ぶしつは、たん細胞さいぼうというさい低級ていきゅう単位たんいに分かれていただけで、個体こたいとか群体ぐんたいとかいうような上の階級の単位たんいは、まだ全くなかったにちがいない。すなわちそのころの世界には動物はたん細胞さいぼう動物よりほかにはなく、植物はたん細胞さいぼう植物よりほかにはなかったのである。昔のたん細胞さいぼう生物がいかなる生活をいとなんでいたかは直接ちょくせつに知る道はないが、かりに今日われわれが顕微鏡けんびきょうの下に見る原始動物、原始植物のごときものであったとすれば、かれらの間には、ただ生存せいぞん競争きょうそうがあったのみで相互そうご扶助ふじょということはまだ少しもなかった。これは生物進化の過程かていにおける相互そうご扶助ふじょ以前いぜんの時代と名づけることができよう。
 かくてたん細胞さいぼう生物がえず他物を取って同化しつづければ、次第しだいに身体が大きくなるが、元来細胞さいぼうなるものは大きさに一定の際限さいげんがあって、それをえては大きくなりうべからざる性質せいしつのものゆえ、たん細胞さいぼう生物の成長せいちょうがある程度ていどたつした以上いじょうは、身体が分裂ぶんれつして二個にこ以上いじょう増加ぞうかするほかには同化をつづけるわけにはゆかぬ。しこうして一の細胞さいぼう分裂ぶんれつして二個にことなるには、先ず瓢箪ひようたんがたとなり次にはなれて二個にことなるのであるゆえ、その間には二個にこ細胞さいぼう連絡れんらくしている時期があり、また二個にこに分かれても最初さいしょはむろん、あい密接みっせつしている。二回、三回、四回と引きつづ分裂ぶんれつ繁殖はんしょくすれば、四十六三十二細胞さいぼう密集みっしゅうしたぐんができるわけであるが、かような細胞さいぼう群集ぐんしゅう周囲しゅういからてきかこんだとすれば、かく細胞さいぼうともに外に向うた面をもって専心せんしんてき対抗たいこうし、同僚どうりょうあいれる面においては相互そうごにしばらく和睦わぼくしているのが得策とくさくである。何ごとも力を一箇所いっかしょに集中すれば、はたらきはそれだけ有効ゆうこうになるはもちろんであるが、たん細胞さいぼう生物のごときも身体の全面をてきにさらして単独たんどくたたかうよりは、若干じやつかん同僚どうりょうあい集まり味方同志どうしあいせつする面だけはてきより攻撃こうげきせられる心配のないようにじんを立て、ただ外に向うた表面だけに力を集中しててきふせぐこととすればむろん幾倍いくばい有効ゆうこうに身をまもることができる。しこうしてそのためには同僚どうりょうの間だけはたがいにあい侵略しんりゃくせぬという一種いっしゅ連盟れんめい規約きやくようするが、これがすなわち相互そうご扶助ふじょ芽生めばえである。
 いったん、若干じやつかん細胞さいぼう一団いちだんとなって生活するようになれば、外界に対する位置いち関係かんけい上、団体だんたいの外面にくらいする細胞さいぼうと、団体だんたいの内部にある細胞さいぼうとはおのおのその得意とくいとするところがことならざるをえぬ。したがって生活に必要ひつようなる諸種しょしゅ業務ぎょうむをそれぞれ分担ぶんたんすることが得策とくさくとなり、ある細胞さいぼう栄養えいようをつかさどり、ある細胞さいぼう防御ぼうぎょをつかさどり、ある細胞さいぼう感覚かんかくをつかさどり、ある細胞さいぼう繁殖はんしょくをつかさどるというようになるであろうが、かように細胞さいぼうの間に分業が行なわれかく細胞さいぼうはそれぞれ専門せんもんてき発達はったつして、自己じこの役目だけは充分じゅうぶんにつとめうるかわりに、その役目以外いがいはたらきにははなはだ不適当ふてきとうなものとなれば、かく細胞さいぼうはもはや単独たんどくはなれては生存せいぞんすることができなくなる。細胞さいぼうより一段いちだん上の個体こたいと名づくる単位たんいはかくしてでき上がったものである。同じような細胞さいぼうが集まっている間は細胞さいぼうという下級の単位たんいの集合にぎぬが、その細胞さいぼうの間に分業がさかんに行なわれ、細胞さいぼうがさまざまの種類しゅるいに分かれて、各種かくしゅ細胞さいぼうが、それぞれ生活作用の一部分ずつを担当たんとうするようになり、そのため全部がそろっていなければ生存せいぞんができず、二つに切りはなせばたちまち生命をうしなうほどに団体だんたい完結かんけつしたものとなれば、これはもはや、たん細胞さいぼう群集ぐんしゅうではなく、細胞さいぼうよりは一段いちだん上の単位たんいなるいち個体こたいと見なさねばならぬ。
 個体こたいの集まりが群体ぐんたいとなるのも全く右と同様の径路けいろを取る。はじめ同様の個体こたいが集まり、共同きょうどうてき対抗たいこうするためにたがいの間だけはあい攻撃こうげきせぬという約束やくそくり立てば、それだけ身をまもることが有効ゆうこうになるが、次にかく同盟どうめいした個体こたいの間に分業が行なわれ、かく個体こたいの役目が専門せんもんてきに分化し、全団体だんたい生存せいぞん必要ひつよう種々しゅしゅの仕事をかく個体こたい分担ぶんたんするようになれば、団体だんたいは全部そろうた上でなければ生存せいぞんができず、かく個体こたい単独たんどくはなれては存在そんざいがむずかしくなる。
 個体こたいの集合がこの程度ていどまで団結だんけつすればこれはもはや個体こたいという単位たんい群集ぐんしゅうではなくて、群体ぐんたいしょうするさらに一段いちだん上の単位たんいとなったものと考えねばならぬ。群体ぐんたいという中には種々しゅしゅことなった形式のものがあり、珊瑚さんご管水母くだくらげでは群体ぐんたい内のすべての個体こたいは身体がたがいに連続れんぞくしているが、ありはち群体ぐんたいではかく個体こたいの身体は一つ一つにはなれている。身体が一個いっこ一個いっこあいはなれていながら協力きょうりょく一致いっちして生存せいぞん単位たんいとなっている場合には、かかる群体ぐんたいを社会とも名づける。
 以上いじょうべたとおり、細胞さいぼうの集まりが個体こたいとなり、個体こたいの集まりが群体ぐんたいとなるのも、その道筋みちすじは全く同じであって、はじめは若干じやつかんの同様なものがたんあいおかさぬだけの組合となり、次に組合の中に分業が行なわれ、分業がある程度ていどまで進むと、ついには組合をいては各自かくじ単独たんどく生存せいぞんができない状態じょうたいに立ちいたるのである。これは決して実物をはなれて、たん理屈りくつ上、かくあるべきはずとろんじている次第しだいではない。現在げんざい生存せいぞんする百数十万しゅの生物の中には、右にべた変遷へんせん順序じゅんじょ途中とちゅうくらいする種類しゅるいがいくらでもある。たとえば細胞さいぼうが集まってはいるがその間の分業がまだ充分じゅうぶんに行なわれず、わずかに半分だけ個体こたい資格しかくそなえた群集ぐんしゅうもあれば、個体こたいたん群集ぐんしゅうしているだけで、ようやく三分どおり群体ぐんたいになりかけているような種類しゅるいもある。「自然しぜんは一足びをなさず」ということわざがあるが、細胞さいぼうから個体こたい群体ぐんたいにいたるまで、生存せいぞん上の単位たんい一段いちだん一段いちだんと上に登ってゆくには、えず少しずつ登るだけで急激きゅうげきび上がるところはどこにもない。動物学の書物を開いて見れば、たん細胞さいぼう動物の個条かじょうの中に、たん細胞さいぼう動物の団体だんたい生活をしている種類しゅるいがいくつもげてあり、たん細胞さいぼう動物と多細胞さいぼう動物との中間には中間動物としょうして、たん細胞さいぼう動物の仲間なかまにも、多細胞さいぼう動物の仲間なかまにも入れかねるような動物が幾種いくしゅ記載きさいしてあるが、これらは細胞さいぼう群集ぐんしゅう次第しだいに多細胞さいぼう一個いっこ体にまとまりゆく途中とちゅう種々しゅしゅ階段かいだんに相当するものとみなすことができる。また個体こたい群集ぐんしゅうがだんだんとまとまって群体ぐんたいとなるまでにも数多の階段かいだんがある。珊瑚虫さんごちゆうのごとき一群体ぐんたい内にすべて個体こたいの身体がたがいに連絡れんらくしている種類しゅるいの中にも、個体こたいの間の分業の進んだものもあれば進まぬものもあり、分業の進まぬものでは個体こたいはいずれも同じ形を有し同じはたらきができるゆえ、群体ぐんたいを二分しても三分しても差支さしつかえなく生存せいぞんつづけることができるが、分業の進んだものになると、かく個体こたいはただ自己じこの役目だけをつとめる器官きかんのごとくになり、全群体ぐんたい生存せいぞん上、一個いっこ個体こたい匹敵ひってきするものとなるにいたる。管水母くだくらげはその一例いちれいである。また個体こたいが一つ一つにはなれていながら、多数あい集まって一つの社会を形つくっている群体ぐんたいのいちじるしいれいありはちなどであるが、この程度ていどまでは進まず、まだ個体こたいの集合と、完結かんけつした群体ぐんたいとの中間にあるごときれいはいくらでもある。草食獣類じゅうるい群体ぐんたいのごときはすなわちそれであって、弱いめす子供こどもを中央にかくまい、屈強くっきょうおすのみが戦線せんせんに立っててきたたかうところなどはよほど規律きりつがあるように見えるが、団体だんたいの生活に必要ひつような仕事をつとめるにあたっての分業はまだ目立つほどには進んでいない。しかるにありなどを見ると分業が大いに進み、えさを集めるもの、てきふせぐもの、子を生むもの、子を育てるものとそれぞれ職務しょくむちがい、これにおうじて身体の形状けいじょう構造こうぞうことなり、全部がそろわねば群体ぐんたい生存せいぞんができぬようになっている。
 さて細胞さいぼうが集まって個体こたいとなり個体こたいが集まって群体ぐんたいとなるには相互そうご扶助ふじょ必要ひつようである。細胞さいぼうの間に分業が行なわれかく細胞さいぼう専門せんもんてきの物となって、ある細胞さいぼう呼吸こきゅうするが消化はできず、ある細胞さいぼうは消化はするが運動はできぬというごとくになったのは、全く相互そうご扶助ふじょのおかげである。あい集まって個体こたいをなしているかく細胞さいぼうは、みな、めくらや、つんぼ膝行いざりのごとき片輪かたわ者ばかりであるゆえ、めくら膝行いざりを負うて、つんぼに手を引いてもらうというような相互そうご扶助ふじょがその間に行なわれなければ、個体こたいはとうてい生きることはできぬ。個体こたいが集まって群体ぐんたいとなるのも、全くそれと同様で、栄養えいようをつかさどる個体こたい生殖せいしょくをつかさどる個体こたい、運動をつかさどる個体こたい感覚かんかくをつかさどる個体こたいなどが相互そうご扶助ふじょをしなければ群体ぐんたいは一日もり立たぬ。かく考えてみると、簡単かんたんな下等動物が、複雑ふくざつな高等動物までに進化しきたったのは、もっぱら相互そうご扶助ふじょ発展はってん結果けっかと言うことができよう。
 しかしながら、なぜかくのごとく、相互そうご扶助ふじょさかんに行なわれるかとたずねると、これは生物界に生存せいぞん競争きょうそうえず行なわれているからである。共同きょうどうてきに対するために細胞さいぼう群集ぐんしゅうすれば、その間に相互そうご扶助ふじょが行なわれ始めるが、さらにこれをうながすものは細胞さいぼうだん細胞さいぼうだんとの間に行なわれる生存せいぞん競争きょうそうにほかならぬ。細胞さいぼう団体だんたいがいくつもあって、その間に生存せいぞん競争きょうそうが行なわれるとすれば、言うまでもなく、もっと生存せいぞんてきする団体だんたいのみが生きのこり、生存せいぞんてきせぬ団体だんたいは死にほろびるのほかはなかろうが、そのさい団体だんたいとして生存せいぞんするにもっとてきするのはいかなるものかといえば、これは内部に相互そうご扶助ふじょもっともよく行なわれるものでなければならぬ。されば細胞さいぼう団体だんたい団体だんたいとの間に長く生存せいぞん競争きょうそうつづけば、細胞さいぼうかく団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたが行なわれ、その結果けっかとして、団体だんたい内における細胞さいぼうの間に相互そうご扶助ふじょがますますその程度ていどを高め、ついにはその団体だんたい細胞さいぼうよりは一つ上の階級にくらいする生存せいぞん上の単位たんいとなる。これがすなわち多細胞さいぼう動物の個体こたいであるが、個体こたい同志どうしでさらに生存せいぞん競争きょうそうつづければ、自然しぜん淘汰とうたによって、その体内にある細胞さいぼうの間には、なおいっそう完全かんぜん相互そうご扶助ふじょが行なわれる。はらの内で、肝臓かんぞう腎臓じんぞうとが喧嘩けんかしては、その個体こたいはむろんてきなる個体こたいたたかうことができぬゆえ、そのような都合な個体こたいはとうてい存在そんざいゆるされぬ。また共同きょうどうてきに対して個体こたいが組合をつくった場合にも、理屈りくつは全くこれと同様で、個体こたい間の相互そうご扶助ふじょが行なわれ始めるが、個体こたいの組合と組合とが長く生存せいぞん競争きょうそうつづければ個体こたいかく組合を単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたが行なわれ、その結果けっかとして、かく組合内の個体こたい間の相互そうご扶助ふじょはますますさかんに行なわれることになる。実は個体こたい間に相互そうご扶助ふじょの行なわれぬような組合は、てきなる組合とたたかうてとうていこれに勝つ見込みこみがないのである。かくして個体こたいの組合は次第しだいへんじて、個体こたいよりは一段いちだん上の生活単位たんいなる群体ぐんたいとなる。もしも若干じやつかん群体ぐんたいがさらに組合をつくり、群体ぐんたいの組合と組合との間に生存せいぞん競争きょうそうが行なわれたならば前と同じ理屈りくつで、群体ぐんたい間の相互そうご扶助ふじょ発達はったつすべきはずであるが、現今げんこん生存せいぞんする動物には群体ぐんたい永久えいきゅうの組合をつくってあいたたかれいはないようであるから、群体ぐんたいの間にはまだ相互そうご扶助ふじょが行なわれるにいたらぬ。以上いじょうべたところを言いかえれば次のごとくになる。すなわち細胞さいぼう間の相互そうご扶助ふじょ個体こたい間の生存せいぞん競争きょうそう産物さんぶつである。個体こたい間の相互そうご扶助ふじょ群体ぐんたい間の生存せいぞん競争きょうそう産物さんぶつである。細胞さいぼう単独たんどくあいたたかうている間は、生存せいぞん競争きょうそうがあるのみで、相互そうご扶助ふじょは少しもないが、細胞さいぼうの組合と組合とがたたかえば細胞さいぼう間の相互そうご扶助ふじょあらわれ、その結果けっかとして細胞さいぼうの組合はへんじて個体こたいとなり、さらにあいたたかいうるものとなる。かかる個体こたい単独たんどくあいたたかうている間は、個体こたいにはただ生存せいぞん競争きょうそうがあるだけで、相互そうご扶助ふじょは少しもないが、個体こたいの組合と組合とがたたかえば、個体こたい間の相互そうご扶助ふじょあらわれ、その結果けっかとして個体こたいの組合はへんじて群体ぐんたいとなり、さらに有力にあいたたかいうることになる。かくのごとくいつも一段いちだん上の単位たんい生存せいぞん競争きょうそうすることによって、その単位たんいの内にふくまれる一段いちだん下の単位たんいの間に相互そうご扶助ふじょ発達はったつする。群体ぐんたいより上にくらいする生存せいぞん競争きょうそう単位たんいはまだないゆえ、群体ぐんたい群体ぐんたいとの間には、ただ生存せいぞん競争きょうそうがあるだけで相互そうご扶助ふじょは生じえない。総括そうかつして言えば、相互そうご扶助ふじょなる者は、いつも一段いちだん上の単位たんい生存せいぞん競争きょうそう結果けっかとして、一段いちだん下の単位たんいの間に発達はったつする者である。


 以上いじょうはなはだ不完全ふかんぜんながら、生存せいぞん競争きょうそう相互そうご扶助ふじょとにかんするわれらの考えの大要たいようべたのであるが、次にこの考えを人間にあてはめてみるに、人間も地球上に生物のはじめて生じた時から今日にいたるまでの系図けいずを調べてみたら、おそらく最初さいしょにはたん細胞さいぼう動物として、次には細胞さいぼう群集ぐんしゅうとして、次にはやや簡単かんたんな多細胞さいぼう動物として、次にはやや複雑ふくざつな多細胞さいぼう動物として存在そんざいしていた時代があったにちがいないが、そのような古い昔のことはしばらくおき、人間となってからは多分、今日の猿類えんるいに見るごとき若干じやつかん個体こたいの集合をつくって、集合と集合とで、生存せいぞん競争きょうそうをしていたであろう。集合と集合とで競争きょうそうすれば、集合内における個体こたい個体こたいとの相互そうご扶助ふじょは、自然しぜん淘汰とうたによっておいおい発達はったつするに定まっているゆえ、人間が小団体だんたいを形つくっていた間は相互そうご扶助ふじょ相応そうおうさかんに行なわれたにちがいない。もしも人間の団体だんたいがいつまでも小さく、団体だんたい間のはげしい競争きょうそうがいつまでもつづいたならば、団体だんたい内における個体こたい間の相互そうご扶助ふじょ完全かんぜんに行なわれて、道徳どうとく法律ほうりつ必要ひつようのない状態じょうたいまでに進んだであろう。しかるに人間には、他の動物とちがい、知恵ちえというものがあるために団体だんたい次第しだいに大きくなり、ついには国と名づける非常ひじょうに大きな団体だんたいとなったので、とうてい団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたが行なわれぬにいたった。しこうして自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつすればその時まで自然しぜん淘汰とうたのために発達はったつしきたった性質せいしつ発達はったつがとまり、かえって退化たいかし始めるものなることは、動物界における多数のれいによっても明らかに知られる。されば今日の人間は一度相応そうおう程度ていどまで進んだ相互そうご扶助ふじょ逆戻ぎゃくもどりして大いに退化たいかしたところである。そのかわり団体だんたい間の生存せいぞん競争きょうそうはそれだけゆるやかになった。なぜというに国が大きくなって、その中の個人こじんたがいに扶助ふじょする精神せいしんげんじてくれば、外に向うて充分じゅうぶん威力いりょくを用いることが、それだけ困難こんなんになるからである。人間は個体こたいの集合から、完結かんけつした群体ぐんたいの方へ向かいゆく道筋みちすじをあるところまで進んだのちに逆戻ぎゃくもどりを始めて、今日では完結かんけつした群体ぐんたいの生活から日々遠ざかりゆく途中とちゅうであるとは、われら一個いっこせつであって、これに賛同さんどうの意を表した学者は一人もないようであるが、われらの考えによれば、すべての学者らがこれを黙殺もくさつしようとするのは、おそらく目を開いて人類じんるいは今日退化たいかしつつありという事実を見ることをほつしないためである。もしも目を開いて、今日の実際じっさいのありさまを見たならば、人類じんるい退化たいかしつつありと考えれば容易ようい説明せつめいのできる事実や、人類じんるい退化たいかしつつありと考えねばとうてい説明せつめいのできぬ事実を無数むすうに見いだすであろう。完結かんけつした群体ぐんたいとは、すなわちその中の個人こじんの間に相互そうご扶助ふじょが理想てきに行なわれている群体ぐんたいであるが、人類じんるいはかかる状態じょうたいたつせぬ前に、途中とちゅうからあともどりして、今はかかる状態じょうたいのほうにを向けて反対の方向に進んでゆくところである。人間は他の動物とちがうて知恵ちえというものがあるゆえ、いかなることでもできぬことはないと考える人があるかもしれぬが、団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつしたために、団体だんたい内の個体こたい間における相互そうご扶助ふじょ精神せいしんが生まれながらに徐々じょじょ退歩たいほしてゆくことを、知恵ちえによってふせぎとめることはなかなか容易よういではなかろう。教育により、宗教しゅうきょうにより、または宣伝せんでんビラにより、ポスターによって、相互そうご扶助ふじょ精神せいしん鼓吹こすいすることは、ある程度ていどまで有効ゆうこうであるかもしれぬが、決して群体ぐんたい間の生存せいぞん競争きょうそうのごとくに個体こたい間の結合けつごうを根本てきに強める力はないであろうから、あまり多くを期待すると失望しつぼうに終わるのが当然とうぜんである。
 人類じんるいがすべて他の動物に打ち勝ったのも、文明人が野蛮やばん人を征服せいふくしたのもことごとく知恵ちえはたらきである。人類じんるい知恵ちえを生み出すのうと、知恵ちえ実現じつげんさせる手とによって地球を独占どくせんするにいたったが、そののちはさらにのうと手とによって人間同志どうしたがいにあいたたかい、てきに負けぬようにと団体だんたい次第しだいに大きくしたので、ついに今日見るごとき団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうたが行なわれにくい状態じょうたいたつしたのである。されば現今げんこん個人こじん間の相互そうご扶助ふじょ充分じゅうぶんに行なわれず、したがって団体だんたい生活が日一日と困難こんなんになりゆく真の原因げんいんは、実は人類じんるい知恵ちえそのものであると言わねばならぬ。しこうして、人類じんるい退化たいか知恵ちえ発達はったつもとづくものとすれば、その同じ知恵ちえの力によって、これを有効ゆうこうふせぎとめることはすこぶるのぞみの少ないことであろう。
 世の中には決心さえかたければ、何ごとでもできぬはずはないと思うてかかる人がはなはだ多い。たとえば相互そうご扶助ふじょにしても、これをよいこととしんじ、実行しようと決心さえすれば、実際じっさいに行なわれるものと簡単かんたんに考える人がたくさんにあるが、およそあることの実行ができるかできぬかは、第一にはその当事者の生まれながらに有する本来の性質せいしつによる。本来の性質せいしつがこれをゆるさねばいかに決心ばかりがかたくてもとうてい行なわれるにいたらぬ。団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうたが長くつづけば、かく個体こたいの本来の性質せいしつ徐々じょじょ変化へんかし、ついにかく個体こたいは理由もなしに、ただ相互そうご扶助ふじょをせずにはおられぬものとなって、相互そうご扶助ふじょ完全かんぜんに行なわれる。これに対して、団体だんたい間の自然しぜん淘汰とうた中絶ちゅうぜつすれば、かく個体こたいが生まれながらに有する相互そうご扶助ふじょ精神せいしんが一代ごとに、かすかながらもえずげんじてゆくゆえ、たとい非常ひじょうかたい決心をもって、これを実行しようとこころみても、なかなか成功せいこうはおぼつかない。自然しぜん淘汰とうた性質せいしつ根柢こんていから変化へんかせしめるのとちがい、知恵ちえのほうはわずかに焼刃やきばぎぬゆえ、かれとこれとではもとよりはじめから相撲すもうにはならぬ。相互そうご扶助ふじょなるものは、もしも、それが完全かんぜん実現げんじつせられたならば、いわゆる社会問題のごときは、たちまち消えてなくなるべきはずゆえ、一歩でもその方向に進むようにと努力どりょくすることはむろん必要ひつようであるが、結局けっきょく努力どりょくこうもある程度ていどまでにかぎられるであろう。
 くわしくろんずることはりゃくするが、生存せいぞん競争きょうそう相互そうご扶助ふじょとにかんするわれらの考えの大要たいようはまず以上いじょうべたごとくである。
(大正九年十二月)





底本:「進化と人生(下)丘浅次郎集」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1921(大正10)年1月  「大阪時事新報」
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