生存競争という言葉は前から聞き
慣れていたが、近ごろはこれと相対するものとして、
相互扶助という言葉が
盛んに用いられるようになった。二、三年前までは新聞や
雑誌にもあまり見えなかったこの言葉が、かくにわかに流行しだしたのはなにゆえであるかは知らぬが、
察するところ、
先般の大
戦争の
動揺にうながされて、
従来の社会の
制度に
種々の
無理があることに
心付き、このままではとうてい
我慢ができなくなった
人達が、世の中の
改造を
企てるにあたり、この言葉を一つの
標語として用い出したためかと思われる。
現代の文明生活にはいずれの方面にもはなはだしい
欠陥のあることはいやしくも物を考えうる頭を持った人間には明らかなことで、なんとかしてこれを合理
的に
改めたいものであるが、さていかに
改造すべきかと考えるにあたっては、まず今日の
欠陥の生じた真の
原因を
最も深いところまで研究してかからねばならぬ。しこうしてそのためには生物界に行なわれる
生存競争とか、
相互扶助とかいうことをも
充分に調べてみる
必要があろう。これらはいずれもすべての
考案の
根柢となるべきものゆえ、もしこの
辺の考え方が
誤っているようでは、その上にいかなる
名案を
築き上げたとしてもことごとく空中
楼閣たるに
過ぎぬことはいうまでもない。
近ごろ
雑誌などに出ている文を読んでみるに、
生存競争と
相互扶助とをあたかも
相対立するもののごとくに
論じたものがたくさんにある。たとえば生物の進化は
生存競争によるよりも、むしろ
相互扶助によって生じた
者であるとか、十九
世紀の文明は
生存競争に
基礎をおいた文明であったが、今回の大
戦争によって全く
破産した。今後はよろしく
相互扶助に
基づいた新文明を
建設せねばならぬなどというて
生存競争と
相互扶助とを全く対等のものであるかのごとくに
論じている。すなわち
生存競争と
相互扶助とはあたかも
酸とアルカリとのごとく、もしくはプラス五とマイナス五とのごとくただ方角が
違うだけで、それ自身には同等の
価値を有するものとみなしてかかる人が多いようである。
しかるにわれらの考えによれば、これは全く
誤解であって、
生存競争と
相互扶助とは決してかく
並べて
論ずべき
性質のものではない。生物界に
相互扶助の行なわれていることは、生物界に
生存競争の行なわれていることと同じく、いずれも明らかな事実であるが、
相互扶助はいかなる者の間に行なわれているかといえば、いつも
必ず
共同の
敵を有する者の間にのみ行なわれていることを思えば、生物界にはまず
生存競争があり、しかるのちに
競争の一
手段として
相互扶助が
現われたものなることが
容易に
認められる。言をかえて言えば生物界には
第一義としては、ただ
生存競争があるのみで、
相互扶助は
単に
敵と
争うための
策略として味方
同志の間に行なわれる
副次的の
現象にすぎぬ。すなわち
生存競争と
相互扶助とは決して東の
大関と西の
大関というごとくに対等の
資格で
相撲を取るべき
性質のものではなく、
相互扶助は
生存競争の仕事の一部分として
当然その中に
含まるべきはずのものである。
以下少しくこの点についてわれらの考えを
述べて、読者の
参考に
供する。
生物の中には
犬猫のごとくに
随意に走りまわるものもあれば、
松や竹のごとくに根が生えて動かぬものもあり、
鯨のごとくに
巨大なものもあれば、バクテリアのごとくに
微細なものもあり、その他、
千差万別であるが、すべての生物に通じた
性質は他物を同化せずには生きておられぬということである。同化とは
自己の身体とは
異なった
物質を取り、これを
変化して
自己の身体と同じ
物質にすることで、およそ生物たる
以上は、このことを行なわぬものは決してない。しこうして、同化すれば、
自己の身体と同じ
物質が
増し、
自己の身体が、それだけ大きくなるので、
成長とか
繁殖とか名づけることはその
必然の
結果である。かくのごとく生物は同化し、
成長し、
繁殖するもの、さらに
平易に言えば、食うて
成長して子を生むものであるが、いかなる
物質でも手当たり次第に食えるわけのものではない。肉食動物には草や木の葉は食えず、草食動物には肉は食えず、また土や石はいかなる動物にも食えず、
各種類ごとに食物の
種類もそれぞれ定まっているゆえ、同化すべき食物の
量には
必ず一定の
際限がある。それゆえもしも同じ食物を
要する動物の数が
非常に多くなったならば、その全部が
生存しえられぬことは明らかな
理屈で、
結局は生きられるべき数だけが生き
残り、他はいやでもおうでも死に
失せるよりほかに道はない。これがいわゆる
生存競争である。
今、動物の数が多くなったらと言うたが、生物界に
生存競争の起こる第一の
原因は、むろん地球上に
存する生活する
物質が多くの
単位に分かれて、
相離れて生活しているからである。もしも地球上に
存する生活
物質が全部
連続した
粘液のごとき物であったならば、同化しうべき物のある間はこれを同化し、同化すべき物がなくなったならば同化をやめるだけで、
競争というごときことは全くなしにすむであろう。
競争とは元来
二個以上の相対する物があって、
初めてその間に起こりうることゆえ、もしも生活
物質が
若干の
単位に分かれていなかったならばむろん
競争のできるわけはない。しこうして地球上の生活
物質が
現在無数の
単位に分かれているのは、表面と
容積との
釣り合いや、その他、
種々の
関係から、他物に
接してこれを同化するには小さな
粒に分かれているほうが
有利であるためであろうと思われるが、このことについてはここに
詳しく
論ずることを
略する。
とにかく、
現在のありさまでは、地球上に
存在する生活
物質は
無数の
単位に分かれているが、生物の
単位にはいくつもの階級がある。たとえば
細胞一個よりなる
滴虫一匹も一つの
単位であり、多くの
細胞よりなる犬
一匹も一つの
単位であり、多くの多
細胞動物の集まってできた
管水母一匹も一つの
単位である。それゆえ、これらを
区別するために、
細胞一個はこれを
細胞と
名付け、多数の
細胞よりなる動物
一個はこれを
個体と名づけ、多くの
個体の集まってできた動物
一個はこれを
群体と名づける。かくのごとく生物の
単位には高い階級のものや
低い階級のものがあり、これらがみな相対立して
生存競争をなし
続けているのである。
ここに一つ注意すべきことは、
生存競争というと、たいていの人は
敵味方に分かれて、
意識的にはげしく
相戦うことと考えるが、生物学上にこの言葉を用いるときには、さらにその意味を広げて、
敵と思わずに
競争していることも、
互いに知らずに
競争していることも、みなその中に
含ませねばならぬ。たとえば百本より草の生えられぬ
面積の地面に五百
個の草の
種が落ちたと
想像するに、
最初はことごとく
芽が生じたとしても、
結局は百本より
生存することはできず、他の四百本は何としても
枯れ
果てるのほかはない。草
同志の間には
毫も
競争する心持ちはなくても、
結果から見ればあたかも高等学校の入学
試験のごとくで、すこぶるはげしい
競争をしていたことにあたる。われらの家の庭には
幾坪か長方形に
芝を植えたところがあるが、三年ばかり前に
子供がもてあそんだクローバーの
種の落ちたのが
芽を出して、
翌年にはところどころにクローバーが生じ、今年はほとんど全部にはびこって、
従来一面に
生えていた
芝はほとんどあれどもなきにひとしいあわれなありさまとなった。
芝もクローバーも
無心に生えていたのであるが、のちの
結果から見ればはげしい大
戦争を行のうていたにひとしい。先年あるところで「
生存競争なし、
自然淘汰なし」と題した赤い表紙の
英語の書物を見たことがあったが、この書の
著者などはおそらく
生存競争という言葉を、勝手に
狭い意味に
限って
論を立てたのであろう。表紙を見ただけで中は読まず
著者の名もおぼえておらぬが、
無意識に行なわれている
生存競争をも
含ませて考えたならば、決してかような題目をかかげうるはずがない。なぜというに、もしも
生存競争という言葉を広い意味にとったならば、生物界に
生存競争の行なわれおることはあまり明白な事実で、
故意に目を
閉じぬ
限りはこれを見ぬわけにはゆかぬからである。
さて、前にも
述べたとおり生物の
単位には
細胞、
個体、
群体というように
幾段かの階級があるが、いずれの生物でも、今日の
状態までに進みきたった
径路を
探って見ると、みな長い間の
漸々の進化によって、
初め
簡単なものから
次第に
複雑なものになりきたったことは
疑われぬ。してみると、生物の
単位も
最初にできたのは
細胞であり、のちに
細胞が集まって
個体が生じ、さらに
個体が集まって
群体をなすにいたったことはおそらく
疑いなかろう。されば地球上における生物界の
歴史をその始めまでさかのぼれば、ある時代には生活
物質は、
単に
細胞という
最低級の
単位に分かれていただけで、
個体とか
群体とかいうような上の階級の
単位は、まだ全くなかったに
違いない。すなわちそのころの世界には動物は
単細胞動物よりほかにはなく、植物は
単細胞植物よりほかにはなかったのである。昔の
単細胞生物がいかなる生活を
営んでいたかは
直接に知る道はないが、かりに今日われわれが
顕微鏡の下に見る原始動物、原始植物のごときものであったとすれば、かれらの間には、ただ
生存競争があったのみで
相互扶助ということはまだ少しもなかった。これは生物進化の
過程における
相互扶助以前の時代と名づけることができよう。
かくて
単細胞生物が
絶えず他物を取って同化しつづければ、
次第に身体が大きくなるが、元来
細胞なるものは大きさに一定の
際限があって、それを
超えては大きくなりうべからざる
性質のものゆえ、
単細胞生物の
成長がある
程度に
達した
以上は、身体が
分裂して
二個以上に
増加するほかには同化をつづけるわけにはゆかぬ。しこうして一の
細胞が
分裂して
二個となるには、先ず
瓢箪形となり次に
離れて
二個となるのであるゆえ、その間には
二個の
細胞が
連絡している時期があり、また
二個に分かれても
最初はむろん、
相密接している。二回、三回、四回と引き
続き
分裂し
繁殖すれば、四
個八
個十六
個三十二
個の
細胞の
密集した
群ができるわけであるが、かような
細胞の
群集を
周囲から
敵が
攻め
囲んだとすれば、
各細胞ともに外に向うた面をもって
専心敵に
対抗し、
同僚の
相触れる面においては
相互にしばらく
和睦しているのが
得策である。何ごとも力を
一箇所に集中すれば、
働きはそれだけ
有効になるはもちろんであるが、
単細胞生物のごときも身体の全面を
敵にさらして
単独に
戦うよりは、
若干の
同僚が
相集まり味方
同志の
相接する面だけは
敵より
攻撃せられる心配のないように
陣を立て、ただ外に向うた表面だけに力を集中して
敵を
防ぐこととすればむろん
幾倍も
有効に身をまもることができる。しこうしてそのためには
同僚の間だけは
互いに
相侵略せぬという
一種の
連盟規約を
要するが、これがすなわち
相互扶助の
芽生えである。
いったん、
若干の
細胞が
一団となって生活するようになれば、外界に対する
位置の
関係上、
団体の外面に
位する
細胞と、
団体の内部にある
細胞とはおのおのその
得意とするところが
異ならざるをえぬ。したがって生活に
必要なる
諸種の
業務をそれぞれ
分担することが
得策となり、ある
細胞は
栄養をつかさどり、ある
細胞は
防御をつかさどり、ある
細胞は
感覚をつかさどり、ある
細胞は
繁殖をつかさどるというようになるであろうが、かように
細胞の間に分業が行なわれ
各細胞はそれぞれ
専門的に
発達して、
自己の役目だけは
充分につとめうるかわりに、その役目
以外の
働きにははなはだ
不適当なものとなれば、
各細胞はもはや
単独に
離れては
生存することができなくなる。
細胞より
一段上の
個体と名づくる
単位はかくしてでき上がったものである。同じような
細胞が集まっている間は
細胞という下級の
単位の集合に
過ぎぬが、その
細胞の間に分業が
盛んに行なわれ、
細胞がさまざまの
種類に分かれて、
各種の
細胞が、それぞれ生活作用の一部分ずつを
担当するようになり、そのため全部がそろっていなければ
生存ができず、二つに切り
離せばたちまち生命を
失うほどに
団体が
完結したものとなれば、これはもはや、
単に
細胞の
群集ではなく、
細胞よりは
一段上の
単位なる
一個体と見なさねばならぬ。
個体の集まりが
群体となるのも全く右と同様の
径路を取る。
初め同様の
個体が集まり、
共同の
敵に
対抗するために
互いの間だけは
相攻撃せぬという
約束が
成り立てば、それだけ身を
護ることが
有効になるが、次にかく
同盟した
個体の間に分業が行なわれ、
各個体の役目が
専門的に分化し、全
団体の
生存に
必要な
種々の仕事を
各個体が
分担するようになれば、
団体は全部そろうた上でなければ
生存ができず、
各個体は
単独に
離れては
存在がむずかしくなる。
個体の集合がこの
程度まで
団結すればこれはもはや
個体という
単位の
群集ではなくて、
群体と
称するさらに
一段上の
単位となったものと考えねばならぬ。
群体という中には
種々異なった形式のものがあり、
珊瑚や
管水母では
群体内のすべての
個体は身体が
互いに
連続しているが、
蟻や
蜂の
群体では
各個体の身体は一つ一つに
離れている。身体が
一個一個に
相離れていながら
協力一致して
生存の
単位となっている場合には、かかる
群体を社会とも名づける。
以上述べたとおり、
細胞の集まりが
個体となり、
個体の集まりが
群体となるのも、その
道筋は全く同じであって、
初めは
若干の同様なものが
単に
相侵さぬだけの組合となり、次に組合の中に分業が行なわれ、分業がある
程度まで進むと、ついには組合を
解いては
各自が
単独に
生存ができない
状態に立ちいたるのである。これは決して実物を
離れて、
単に
理屈上、かくあるべきはずと
論じている
次第ではない。
現在生存する百数十万
種の生物の中には、右に
述べた
変遷の
順序の
途中に
位する
種類がいくらでもある。たとえば
細胞が集まってはいるがその間の分業がまだ
充分に行なわれず、わずかに半分だけ
個体の
資格を
備えた
群集もあれば、
個体が
単に
群集しているだけで、ようやく三分どおり
群体になりかけているような
種類もある。「
自然は一足
飛びをなさず」という
諺があるが、
細胞から
個体を
経て
群体にいたるまで、
生存上の
単位が
一段一段と上に登ってゆくには、
絶えず少しずつ登るだけで
急激に
飛び上がるところはどこにもない。動物学の書物を開いて見れば、
単細胞動物の
個条の中に、
単細胞動物の
団体生活をしている
種類がいくつも
掲げてあり、
単細胞動物と多
細胞動物との中間には中間動物と
称して、
単細胞動物の
仲間にも、多
細胞動物の
仲間にも入れかねるような動物が
幾種も
記載してあるが、これらは
細胞の
群集が
次第に多
細胞の
一個体にまとまりゆく
途中の
種々の
階段に相当するものとみなすことができる。また
個体の
群集がだんだんとまとまって
群体となるまでにも数多の
階段がある。
珊瑚虫のごとき一
群体内にすべて
個体の身体が
互いに
連絡している
種類の中にも、
個体の間の分業の進んだものもあれば進まぬものもあり、分業の進まぬものでは
個体はいずれも同じ形を有し同じ
働きができるゆえ、
群体を二分しても三分しても
差支えなく
生存し
続けることができるが、分業の進んだものになると、
各個体はただ
自己の役目だけをつとめる
器官のごとくになり、全
群体は
生存上、
一個の
個体に
匹敵するものとなるにいたる。
管水母はその
一例である。また
個体が一つ一つに
離れていながら、多数
相集まって一つの社会を形
造っている
群体のいちじるしい
例は
蟻や
蜂などであるが、この
程度までは進まず、まだ
個体の集合と、
完結した
群体との中間にあるごとき
例はいくらでもある。草食
獣類の
群体のごときはすなわちそれであって、弱い
牝や
子供を中央にかくまい、
屈強な
牡のみが
戦線に立って
敵と
闘うところなどはよほど
規律があるように見えるが、
団体の生活に
必要な仕事をつとめるにあたっての分業はまだ目立つほどには進んでいない。しかるに
蟻などを見ると分業が大いに進み、
餌を集めるもの、
敵を
防ぐもの、子を生むもの、子を育てるものとそれぞれ
職務が
違い、これに
応じて身体の
形状、
構造が
異なり、全部が
揃わねば
群体の
生存ができぬようになっている。
さて
細胞が集まって
個体となり
個体が集まって
群体となるには
相互扶助が
必要である。
細胞の間に分業が行なわれ
各細胞が
専門的の物となって、ある
細胞は
呼吸するが消化はできず、ある
細胞は消化はするが運動はできぬというごとくになったのは、全く
相互扶助のおかげである。
相集まって
個体をなしている
各細胞は、みな、
盲や、
聾や
膝行のごとき
片輪者ばかりであるゆえ、
盲が
膝行を負うて、
聾に手を引いてもらうというような
相互扶助がその間に行なわれなければ、
個体はとうてい生きることはできぬ。
個体が集まって
群体となるのも、全くそれと同様で、
栄養をつかさどる
個体、
生殖をつかさどる
個体、運動をつかさどる
個体、
感覚をつかさどる
個体などが
相互扶助をしなければ
群体は一日も
成り立たぬ。かく考えてみると、
簡単な下等動物が、
複雑な高等動物までに進化しきたったのは、もっぱら
相互扶助の
発展の
結果と言うことができよう。
しかしながら、なぜかくのごとく、
相互扶助が
盛んに行なわれるかと
尋ねると、これは生物界に
生存競争が
絶えず行なわれているからである。
共同の
敵に対するために
細胞が
群集すれば、その間に
相互扶助が行なわれ始めるが、さらにこれを
促すものは
細胞団と
細胞団との間に行なわれる
生存競争にほかならぬ。
細胞の
団体がいくつもあって、その間に
生存競争が行なわれるとすれば、言うまでもなく、
最も
生存に
適する
団体のみが生き
残り、
生存に
適せぬ
団体は死に
滅びるのほかはなかろうが、その
際団体として
生存するに
最も
適するのはいかなるものかといえば、これは内部に
相互扶助の
最もよく行なわれるものでなければならぬ。されば
細胞の
団体と
団体との間に長く
生存競争が
続けば、
細胞の
各団体を
単位とした
自然淘汰が行なわれ、その
結果として、
団体内における
細胞の間に
相互扶助がますますその
程度を高め、ついにはその
団体は
細胞よりは一つ上の階級に
位する
生存上の
単位となる。これがすなわち多
細胞動物の
個体であるが、
個体同志でさらに
生存競争を
続ければ、
自然淘汰によって、その体内にある
細胞の間には、なおいっそう
完全な
相互扶助が行なわれる。
腹の内で、
肝臓と
腎臓とが
喧嘩しては、その
個体はむろん
敵なる
個体と
戦うことができぬゆえ、そのような
不都合な
個体はとうてい
存在を
許されぬ。また
共同の
敵に対して
個体が組合を
造った場合にも、
理屈は全くこれと同様で、
個体間の
相互扶助が行なわれ始めるが、
個体の組合と組合とが長く
生存競争を
続ければ
個体の
各組合を
単位とした
自然淘汰が行なわれ、その
結果として、
各組合内の
個体間の
相互扶助はますます
盛んに行なわれることになる。実は
個体間に
相互扶助の行なわれぬような組合は、
敵なる組合と
戦うてとうていこれに勝つ
見込みがないのである。かくして
個体の組合は
次第に
変じて、
個体よりは
一段上の生活
単位なる
群体となる。もしも
若干の
群体がさらに組合を
造り、
群体の組合と組合との間に
生存競争が行なわれたならば前と同じ
理屈で、
群体間の
相互扶助が
発達すべきはずであるが、
現今生存する動物には
群体が
永久の組合を
造って
相戦う
例はないようであるから、
群体の間にはまだ
相互扶助が行なわれるにいたらぬ。
以上述べたところを言いかえれば次のごとくになる。すなわち
細胞間の
相互扶助は
個体間の
生存競争の
産物である。
個体間の
相互扶助は
群体間の
生存競争の
産物である。
細胞が
単独で
相戦うている間は、
生存競争があるのみで、
相互扶助は少しもないが、
細胞の組合と組合とが
戦えば
細胞間の
相互扶助が
現われ、その
結果として
細胞の組合は
変じて
個体となり、さらに
相戦いうる
者となる。かかる
個体が
単独で
相戦うている間は、
個体にはただ
生存競争があるだけで、
相互扶助は少しもないが、
個体の組合と組合とが
戦えば、
個体間の
相互扶助が
現われ、その
結果として
個体の組合は
変じて
群体となり、さらに有力に
相戦いうることになる。かくのごとくいつも
一段上の
単位が
生存競争することによって、その
単位の内に
含まれる
一段下の
単位の間に
相互扶助が
発達する。
群体より上に
位する
生存競争の
単位はまだないゆえ、
群体と
群体との間には、ただ
生存競争があるだけで
相互扶助は生じえない。
総括して言えば、
相互扶助なる者は、いつも
一段上の
単位の
生存競争の
結果として、
一段下の
単位の間に
発達する者である。
以上はなはだ
不完全ながら、
生存競争と
相互扶助とに
関するわれらの考えの
大要を
述べたのであるが、次にこの考えを人間にあてはめてみるに、人間も地球上に生物の
初めて生じた時から今日にいたるまでの
系図を調べてみたら、おそらく
最初には
単細胞動物として、次には
細胞の
群集として、次にはやや
簡単な多
細胞動物として、次にはやや
複雑な多
細胞動物として
存在していた時代があったに
違いないが、そのような古い昔のことはしばらくおき、人間となってからは多分、今日の
猿類に見るごとき
若干の
個体の集合を
造って、集合と集合とで、
生存競争をしていたであろう。集合と集合とで
競争すれば、集合内における
個体と
個体との
相互扶助は、
自然淘汰によっておいおい
発達するに定まっているゆえ、人間が小
団体を形
造っていた間は
相互扶助は
相応に
盛んに行なわれたに
違いない。もしも人間の
団体がいつまでも小さく、
団体間のはげしい
競争がいつまでも
続いたならば、
団体内における
個体間の
相互扶助は
完全に行なわれて、
道徳も
法律も
必要のない
状態までに進んだであろう。しかるに人間には、他の動物と
違い、
知恵というものがあるために
団体は
次第に大きくなり、ついには国と名づける
非常に大きな
団体となったので、とうてい
団体を
単位とした
自然淘汰が行なわれぬにいたった。しこうして
自然淘汰が
中絶すればその時まで
自然淘汰のために
発達しきたった
性質の
発達がとまり、かえって
退化し始めるものなることは、動物界における多数の
例によっても明らかに知られる。されば今日の人間は一度
相応の
程度まで進んだ
相互扶助が
逆戻りして大いに
退化したところである。そのかわり
団体間の
生存競争はそれだけゆるやかになった。なぜというに国が大きくなって、その中の
個人が
互いに
扶助する
精神が
減じてくれば、外に向うて
充分に
威力を用いることが、それだけ
困難になるからである。人間は
個体の集合から、
完結した
群体の方へ向かいゆく
道筋をあるところまで進んだのちに
逆戻りを始めて、今日では
完結した
群体の生活から日々遠ざかりゆく
途中であるとは、われら
一個の
説であって、これに
賛同の意を表した学者は一人もないようであるが、われらの考えによれば、すべての学者らがこれを
黙殺しようとするのは、おそらく目を開いて
人類は今日
退化しつつありという事実を見ることを
欲しないためである。もしも目を開いて、今日の
実際のありさまを見たならば、
人類は
退化しつつありと考えれば
容易に
説明のできる事実や、
人類は
退化しつつありと考えねばとうてい
説明のできぬ事実を
無数に見いだすであろう。
完結した
群体とは、すなわちその中の
個人の間に
相互扶助が理想
的に行なわれている
群体であるが、
人類はかかる
状態に
達せぬ前に、
途中からあともどりして、今はかかる
状態のほうに
背を向けて反対の方向に進んでゆくところである。人間は他の動物と
違うて
知恵というものがあるゆえ、いかなることでもできぬことはないと考える人があるかもしれぬが、
団体を
単位とした
自然淘汰の
中絶したために、
団体内の
個体間における
相互扶助の
精神が生まれながらに
徐々と
退歩してゆくことを、
知恵によって
防ぎとめることはなかなか
容易ではなかろう。教育により、
宗教により、または
宣伝ビラにより、ポスターによって、
相互扶助の
精神を
鼓吹することは、ある
程度まで
有効であるかもしれぬが、決して
群体間の
生存競争のごとくに
個体間の
結合を根本
的に強める力はないであろうから、あまり多くを期待すると
失望に終わるのが
当然である。
人類がすべて他の動物に打ち勝ったのも、文明人が
野蛮人を
征服したのもことごとく
知恵の
働きである。
人類は
知恵を生み出す
脳と、
知恵を
実現させる手とによって地球を
独占するにいたったが、そののちはさらに
脳と手とによって人間
同志が
互いに
相戦い、
敵に負けぬようにと
団体を
次第に大きくしたので、ついに今日見るごとき
団体間の
自然淘汰が行なわれにくい
状態に
達したのである。されば
現今、
個人間の
相互扶助が
充分に行なわれず、したがって
団体生活が日一日と
困難になりゆく真の
原因は、実は
人類の
知恵そのものであると言わねばならぬ。しこうして、
人類の
退化が
知恵の
発達に
基づくものとすれば、その同じ
知恵の力によって、これを
有効に
防ぎとめることはすこぶる
望みの少ないことであろう。
世の中には決心さえ
堅ければ、何ごとでもできぬはずはないと思うてかかる人がはなはだ多い。たとえば
相互扶助にしても、これをよいことと
信じ、実行しようと決心さえすれば、
実際に行なわれるものと
簡単に考える人がたくさんにあるが、およそあることの実行ができるかできぬかは、第一にはその当事者の生まれながらに有する本来の
性質による。本来の
性質がこれを
許さねばいかに決心ばかりが
堅くてもとうてい行なわれるにいたらぬ。
団体間の
自然淘汰が長く
続けば、
各個体の本来の
性質が
徐々と
変化し、ついに
各個体は理由もなしに、ただ
相互扶助をせずにはおられぬものとなって、
相互扶助は
完全に行なわれる。これに対して、
団体間の
自然淘汰が
中絶すれば、
各個体が生まれながらに有する
相互扶助の
精神が一代ごとに、かすかながらも
絶えず
減じてゆくゆえ、たとい
非常に
堅い決心をもって、これを実行しようと
試みても、なかなか
成功はおぼつかない。
自然淘汰が
性質を
根柢から
変化せしめるのと
違い、
知恵のほうはわずかに
付け
焼刃に
過ぎぬゆえ、かれとこれとではもとより
初めから
相撲にはならぬ。
相互扶助なるものは、もしも、それが
完全に
実現せられたならば、いわゆる社会問題のごときは、たちまち消えてなくなるべきはずゆえ、一歩でもその方向に進むようにと
努力することはむろん
必要であるが、
結局は
努力の
効もある
程度までに
限られるであろう。
詳しく
論ずることは
略するが、
生存競争と
相互扶助とに
関するわれらの考えの
大要はまず
以上述べたごとくである。
(大正九年十二月)