戦後における人類の競争

丘浅次郎




一 平和は来たらず


 たんに生物学の上から見れば人類じんるい生存せいぞん競争きょうそうとく戦前せんぜん戦後せんごとに区別くべつしてろんずる必要ひつようはない。いくつかのことなった民族みんぞくならそんして、こう膨脹ぼうちょうおつ膨脹ぼうちょうさまたげとなるとか、へい発展はってんてい存在そんざいあやうくするとかいう場合には、その間に衝突しょうとつの起こるは当然とうぜんのことで、とうてい戦争せんそうなしにはすまぬであろう。今回のヨーロッパ大戦たいせんのごときも、ひっきょう(注:結局けっきょく人類じんるい当然とうぜん通過つうかすべき径路けいろ途中とちゅう一節いっせつぎぬゆえ、戦後せんごにおいても戦前せんぜんと同様に、民族みんぞく間の競争きょうそうえず行なわれ、それが程度ていどまで高まると、また戦争せんそうけられぬであろうと考える。
 しかし、世間には、戦争せんそうなどはなしにくららせるような世の中をゆめみている人も決して少なくない。先日るイギリスの雑誌ざっしを見たら、今回の戦争せんそうを「ぐん御仕舞おしまいにするぐん」(The war that ends war)と名付なづけ、これによって将来しょうらい戦争せんそうの根を全くるかのごとくにろんじた文が出ていた。日本にも、アメリカ大統領だいとうりょう宣言せんげんなどをかつぎだして、戦後せんごにはふたたたたかいなどをなさずにすむような新時代がきたりるかのごとくに考え、すでに永久えいきゅうの平和の曙光しょうこう(注: 夜明けに東の空にさしてくる太陽たいようの光)をみとたかのごとき口調でろんじている学者もある。列国がのこらず同盟どうめいして一大連邦れんぽうつくるがよろしいとか、国際こくさい高等審判所しんぱんしょもうけて、民族みんぞく間の紛擾ふんじょう(注:ごたごた)を整理すべしとかいうごとき議論ぎろん従来じゅうらいもたびたびとなえられたが、大戦争せんそう惨害さんがい(注:むごたらしい災害さいがい)を目前に見た後には、またさかんに流行りゅうこうするであろうと想像そうぞうする。明日の天気さえたしかには知りぬ人間が、かく民族みんぞく将来しょうらい予知よちすることはもとより不可能ふかのうであるが、晴雨せいういずれとも分からぬ天気にはかさを持って歩くほうが安全であるごとく、未来みらい永劫えいごう戦争せんそうなどは決してふたたび起こらぬというたしかな見定みさだめがつかぬ間はかく民族みんぞくともに、軽々かるがるしく軍備ぐんびはいするわけには行かず、となりの国にくらべて軍備ぐんびおとっては、せっかく軍備ぐんびをおく趣意しゅい(注:物事をなすときの考えやねらい)がとおらぬゆえ、苦しくとも力いっぱいに軍備ぐんびらざるをない。天気のほうは、人がかさを持って歩こうが、持たずに歩こうが、そのために予定を変更へんこうすることはないが、軍備ぐんびのほうはてきにまさることが明らかになると用いずには我慢がまんができぬゆえ、些細ささい事件じけんを口実としていつせず(注:よいタイミングをのがさないで)たたかいを始める。もっとも今日の戦争せんそうはきわめて大規模だいきぼに行なわれるゆえ、勝敗しょはいの決するまでには非常ひじょうに手間が取れ、今回の大戦たいせんのごときも何時いつ如何いか形付かたちづくかいまだ知りがたいありさまであるが、その代わり妥協だきょうてきにもいつたん平和がり立ったならば次の戦争せんそうまでには相応そうおうに間があるであろう。千八百七十年以後いごドイツとフランスとの間に幾度いくど戦争せんそうが起こりそうで、しかも一度も戦争せんそうにならずに終わったことを考えると、いずれの民族みんぞくでも、たしかにてきに勝てるとの自信じしんができなければ自分のほうからは容易よういたたかいを始めぬであろうが、むかし百年かかったことも今日では十年か五年で仕上がるゆえ、かかる時期が存外ぞんがい(注:思いのほか)早く到着とうちゃくするかもしれず、また、科学の研究が進んで天下無敵むてき武器へいき秘密ひみつに発明せられたならば、これも不意ふい戦争せんそうの始まる動機どうきとならぬともかぎらぬ。かような次第しだいであるから、たとえ今回の戦争せんそうが終わってもその後何年の間はかならず平和がつづくというようなたしかな予言はだれにもできぬであろう。誤解ごかいけるためにことわっておくが、われら(注:わたし)は決して戦争せんそうこのむものでもなく、またこれを謳歌おうか(注:声を合わせて歌う)するものでもない。ただ事実かくのごとくになるであろうと思うところをべたにぎぬ。
 今回の戦争せんそうはプロシアの軍国ぐんこう主義しゅぎ原因げんいんである。これを撲滅ぼくめつしなければ永久えいきゅうの平和はられぬとく人もあるが、イギリスやフランスの雑誌ざっしなどでしきりに攻撃こうげきしている軍国ぐんこう主義しゅぎなるものは一体何をすか。かく方面に軍人ぐんじんの出しゃばることを軍国ぐんこう主義しゅぎ名付なづけるならば、これはべつであるが、自衛じえいのために一定の軍備ぐんびをおくことはいずれの民族みんぞくにも必要ひつようのことで、これなしにはむろん生存せいぞんができぬ。今日の軍国ぐんこう主義しゅぎとはむしろ戦闘せんとう準備じゅんび手廻てまわしのよかった国に対して、戦闘せんとう準備じゅんび手廻てまわしの悪かった国からつけた綽名あだなであって、かりにいわゆる軍国ぐんこう主義しゅぎる一国をたおたとしても、次にはのこった国の中でもっと軍備ぐんびの整うた国が他の国からはまた軍国ぐんこう主義しゅぎのものと目指めざされ、結局けっきょくいつまでもつきぬであらう。されば当分のうちはまず永久えいきゅうの平和などはこぬものと覚悟かくごするよりほかにいたし方がなかろう。

二 世界連邦れんぽうゆめ


 団体だんたいつくって生活する動物は人間のほかにもいくらもあるが、道具を使うてたたかう動物は人間のほかには一種いっしゅもない。その結果けっかとして、他の動物の団体だんたい競争きょうそうと人間の団体だんたい競争きょうそうとの間にはいちじるしい相違そういが生じた。すなわち他の動物の団体だんたいは一定の大きさをえることができぬに反して、人間の団体だんたいだけは、どこまで大きくなっても差支さしつかえが生ぜぬのみか、大きくなればなるだけ、むろん力がして、相手に勝つことができる。さればかく民族みんぞくは他に負けぬためには、つねにおとらぬだけの速力で、大きくならねばならず、そのためには、あるいは国外に植民地しょくみんちつくったり、あるいはとなりの民族みんぞく併合へいごうしたりして、もっぱら自己じこ団体だんたいを大きくすることにつとめている。しかし一民族みんぞくが他をえてにわかに(注:急に)大きくなることはとうていできぬゆえ、てきが二国同盟どうめいしてくれば、こちらも適当てきとうな相手と同盟どうめいして、これに当たらねばならぬ。昔は名誉めいよ孤立こりつなどと言うて、威張いばってもおられたが、大きな潜航艇せんこうていが大西洋を横ぎるようになっては、孤立こりつは全く不可能ふかのうである。てきが三国同盟どうめいすれば、味方は四国同盟どうめいするというように、同盟どうめい範囲はんいが次第に広がって、ついに今回の戦争せんそうのごとくにほとんど、世界が二組に分かれてあいたたかうという程度ていどまでにたつした。
 かくのごとく、多くの国々が次第しだい同盟どうめいし、人情にんじょう風俗ふうぞく、言語、容貌ようぼうなどの全く相ことなった民族みんぞくが、協力きょうりょく一致いっちしてたがいに助け合うありさまを見て、る人は世界連邦れんぽうつくるべき気運が向いてきたとか、宇宙うちゅう統一とういつ帝国ていこく出現しゅつげんすべき前提ぜんていであるとかろんじておるが、これはたんに人知が進み、器械きかい精巧せいこうになって、人間の団体だんたいがどこまでも大きくなりるために当然とうぜん生じた結果けっかであって、元来が競争きょうそう目的もくてきのために起こったことゆえ、平和とは全く方角がちがう。あいたたかうう二団体だんたいがいずれも相手にけぬようにとあらそうて、中立者を自分の仲間なかまに引き入れたとすれば、結局けっきょく、全世界が二組に分かれて相たたかうにいたるのほかはない。これは数理上、明白なことで、交通の便利べんりの開けた今日の世の中では、両大関おうぜきとも言うべき二大民族みんぞくあいたたかう場合には、かならずここまでたつするに定まっている。あたかももちを切るにあたって、各片かくへんもっとも大きくするには二つに切るのほかに方法ほうほうがないのと同じである。されば、大戦争せんそうに当たっては、世界が二組に分かれるまでには同盟どうめい範囲はんいが広がるが、この二組が合して一組となることは決してのぞまれぬ。はじめ数多くならそんしていた図体ずうたいが次第に同盟どうめいして、ついに二組となるまでにこぎぎつけた以上いじょうは、これを一組にまとめるのは、もはやわずかに一歩のであるごとくに感ずる人もあろうが、二組までになるのと、これが合して一組となるのとでは、根本から全く性質せいしつちがうゆえ、決して同じ傾向けいこうの引きつづきと見なすべきものではない。しかも二組までにまとまりるというのも、実際じっさい鉄砲てっぽうを打ち合うている時だけの話しで、その他の時には、とうていこれさえもむずかしい。
 さて今回の戦争せんそうが終わった後には、ともかくも一時は平和の姿すがたとなるであろうが、これとてもむろん真の平和ではなく、国と国とのたたかいがめば、今度は国の内での紛擾ふんじょうが高まる。今まで、自衛じえい上やむをず、合同していた民族みんぞく間の権力けんりょくあらそいや、併合へいごうせられた民族みんぞく主権国しゅけんこくに対する反抗はんこうなどもさかんにあらわれるであろうが、もっと激烈げきれつに起こるのは、おそらく中世以来いらい世襲せしゅうてき特権とっけん階級に対する一般いっぱん人民じんみんあらそいや、資本家しほんかに対する労働者ろうどうしゃあらそいなどのごとき、人為じんい階級間のたたかいであろう。これらはいずれもはなはだ面白からぬことのみであるが、人知が進めば、かかることの生ずるをまぬがれず、のぞけて進むことも、えて行くこともできぬ厄介やっかい至極しごく難関なんかんである。

三 ロシア


 われらは幾人いくにんかの知人を有すると、何冊なんさつかの小説しょうせつを読んだことのほかにはロシアについては何ごとをも知らぬ。しかし、Homo sapiensホモ・サピエンス(注:えらい人間) なる一生物の地方てき変種へんしゅとして、ロシア民族みんぞく将来しょうらいを考えるには、ケーレンスキー(注:アレクサンドル・フョードロヴィチ。社会革命党かくめいとう右派うは指導者しどうしゃとしてロシアの二月革命かくめい後の臨時りんじ政府せいふ首相しゅしょう)がどこにいようが、レーニン(注:ウラジーミル・イリイチ。ロシアの革命家かくめいか政治家せいじか)が何をしようが、そのような細かいことは知るにおよばぬ。ただ原始時代から今日までの変遷へんせん大要たいようを知れば、それによって多少未来みらい推察すいさつすることができよう。
 およそ団体だんたいつくって生活する動物には、蜜蜂みつばちなどに見るごとき平等のかたぞくするものと、さるなどに見るごとき階級かいきゅうかたぞくするものとのべつがあるが、原始時代の人間はおそらくさると同様に、数多くの小さな階級かた団体だんたいに分かれて生活していたものと思われる。しこうして、かく団体だんたいには一人の酋長しゅうちょうがあって無上むじょう権威けんいをふるい、他はことごとく絶対ぜったい服従ふくじゅうしていたであろうが、その後、団体だんたいがだんだんと大きくなるにしたごうて、権威けんいをふるうがわの人数が次第にえ、かつその中に、幾段いくだんかの階級かいきゅうべつが生じた。かくして指揮しきするがわの人数が増加ぞうかすれば、指揮しき階級かいきゅうは全体として、人民じんみん指揮しきればよろしいので、かならずしも、その一人一人が抜群ばつぐん力量りきりょうそなえるにおよばぬことになり、かつ、下級の指揮しき者に取っては上級の指揮しき者が暗愚あんぐ(注:おろか)であるほうがかえって万事に都合のよいような事情じじょうも生じ、これに宗教しゅうきょうてき政策せいさくわって、ついに封建ほうけん時代の世襲せしゅうてき特権とっけん階級かいきゅうができあがったのであろう。すべて酋長しゅうちょうくらい世襲せしゅうてきになるのは、指揮しきするがわの人数が程度ていどまでして、酋長しゅうちょう直接ちょくせつ人民じんみん指揮しきする必要ひつようのなくなった時でなければできぬことであるが、これには宗教しゅうきょうかなら手伝てつだう。人は死んでもたましいはこの世にのこるとの宗教しゅうきょう上の観念かんねんがなければ、知勇ちゆう兼備けんび酋長しゅうちょう後継あとつぎとして愚昧ぐまい(注:おろかで道理どうりに暗いこと)な息子をいただくことをだれがえんぜぬ(注:承諾しょうちしない)であろうから、そこを無事ぶじ納得なつとくせしめるには宗教しゅうきょうによるのほかはない。すなわち代々の酋長しゅうちょうたましい加護かごによってなんじらの上に立つと宣言せんげんし、我々われわれの命ずることは、取りも直さず、酋長しゅうちょう先祖せんぞなる神の命令めいれいであるぞと言うていてこれに服従ふくじゅうせしめる。されば、酋長しゅうちょう世襲せしゅう制度せいど御用ごよう宗教しゅうきょうとは決してはなるべからざるものであるが、実権じっけん指揮者しきしゃ中の次の階級かいきゅうの者にうつると、最上級さいじょうきゅうの者は下をあつするための一種いっしゅ偶像ぐうぞうとなり、これをとうとく思わせるだけ、圧制あっせいが行ないやすいというような関係かんけいから、圧制あっせい政治には御用ごよう宗教しゅうきょうきものとなる。ロシアの貴族きぞくとか地主とか農奴のうどとかいうものは如何いかにしてできたかは知らぬが、いずれ原始時代の階級かいきゅう制度せいどから上述じょうじゅつのごとき径路けいろて進みきたったものにちがいない。かくして、下の者は上の者に絶対ぜったい服従ふくじゅうし、如何いかしいたげられはずかしめられても、うったえるみちのないような極端きょくたん階級かいきゅう制度せいどができあがったが、人民じんみんが原始時代以来いらい服従ふくじゅうせいうしなわぬ間は、この制度せいどは国内の秩序ちつじょたもつ上にも、他国とのあらそいに挙国きょこく一致いっちの実をあげるにももっと有効ゆうこうであったことはうたがいをれぬ。しかるにその後、人知が進み、器械きかい精巧せいこうになり、民族みんぞく競争きょうそう勝敗しょうはいは主として国民こくみんの知力の優劣ゆうれつによって定まる世の中になっては、いずれの民族みんぞく自衛上じえいじょう、教育をさかんにして、人民じんみん知識ちしき程度ていどを高めねばならぬが、こまったことには、知力が進むと生来しょうらい服従ふくじゅうせい次第しだい消滅しょうめつすることをまぬがれぬ。ここに知力と言うのは、古い書物を暗記あんきしたり講釈こうしゃくしたりする力ではない。文明の戦争せんそう直接ちょくせつ関係かんけいを有する科学の知識ちしきと、その応用おうよう知識ちしきとであるが、これを発達はったつせしめるには独創どくそうてき推理力すいりりょくを進めねばならぬ。しこうして、独創どくそうてき推理力すいりりょくが進めば、いずれの方面に向うても、物の考え方が自由になって、今まで何の不審ふしんも起こさなかった制度せいどをも研究てき批評ひひょうがんをもって見るゆえ、ここに大なる疑問ぎもんが生じ、なにゆえ自分よりも体力も知力もまさっていない人等の下に立ってその命令めいれい服従ふくじゅうしなければならぬかと考え、もし不合理ふごうりなりと思えば、これに服従ふくじゅうすることを承知しょうちせぬ。このことは、ただに特権とっけん階級かいきゅうに対してのみならず、師匠ししょう弟子でし雇主やといぬし雇人やといにん、親と子、男と女との間にも同様な変化へんかあらわれる。きゅう制度せいどれた人から見ると、これは実に国家の安危あんきにもかんすることと思われるゆえ、一は国家のため、一は自分らのために、あらゆる手段しゅだんをつくし、暴力ぼうりょくを用いてまでもこれを圧迫あっぱくする。しかし、いつたん自由に考えることをおぼえた人間は圧迫あっぱくえばますます反抗はんこうするゆえ、無理むりおさえれば、ただ爆発ばくはつを早めるばかりである。かように人民じんみん服従ふくじゅうせい消滅しょうめつしては、中世以降いこう威儀いぎ堂々どうどうたる専制せんせい制度せいどもわずかに形がそんするだけで、実質じっしつはすこぶるあやしくならざるをない。たとえば、芝居しばい背景はいけいのごとくで、正面から見れば、立派りっぱ宮殿きゅうでんであっても、実は内容ないようのない一枚いちまい薄板うすいたぎず、うらをのぞいて見ると、大礼服を着た人や、軍服ぐんぷくを着た人が、あぶないあぶないと言いながら、一生懸命いっしょうけんめいぼうささえていた。それゆえ、一朝反対者が起こった時にはきわめてもろくたおれたのである。
 さてきゅう制度せいどたおした結果けっか如何いかと言うに、今まで威張いばっていた人々に、まきらせたり、往来おうらいかせたりしていささか欝憤うっぷん(注:心の中にもり重なったいかり・うらみ)を晴らしただけで少しも後の始末しまつかず、ただ紛擾ふんじょうを重ねるばかりか、いつ秩序ちつじょ回復かいふくするやら見込みこみみが立たぬ。大きな団体だんたいの中心がなくなったのであるから、曲りなりにもこれをまとめることは容易よういでない。こと強敵きょうてきを目の前にひかえながら大改革かいかくを行なうたことふゆえ、あたかも暴風雨ぼうふうう最中さいちゅうに船長を幽閉ゆうへいして、水夫すいふらばかりで、喧嘩けんかをしながら船を操縦そうじゅうしているごとくで、どこへ行くやら少しも分からぬ。大破壊はかいの後にはかならず大建設けんせつがくるとく人もあるが、それは人民じんみん服従ふくじゅうせいそなえていた時代のことであって、一人一人が自由に考えるようになっては、大建設けんせつはとうていむずかしい。エジプトの「ピラミッド」でも支那しなの万里の長城ちょうじょうでも、みな専制せんせい時人の産物さんぶつであって、人民じんみん理屈りくつを言うようになってはかような馬鹿ばかげたものは決してできぬ。姑息こそく(注:その場しのぎ)てき弥縫びぼう(注:失敗しっぱい欠点けってんを一時てきにとりつくろうこと)によって、いくぶんかの秩序ちつじょ回復かいふくすることはあるいはできるであろうが、きゅう制度せいど匹敵ひってきするほどの一大いちだい制度せいどあらわれることは容易よういのぞまれぬ。長年の間、はなはだしい圧制あっせいに苦しんだ人等は、うらみが骨髄こつずいてつ(注:つらぬきとおる)しておるために、冷静れいせい判断はんだんする力をうしない、あたかも熱病人ねつびょうにん幻視げんしのごとくに、何でも現在げんざい制度せいどさえ'顛覆てんぷくすれば、そのあとには、自由平等の理想世界が実現じつげんするごとくに考えるが、実際じっさい'顛覆てんぷくして見ると、次にくるものは、ただ大紛擾ふんじょうのみで、なかなか、きゅう時代だけの幸福をもられぬ。他の民族みんぞく相対あいたいしている以上いじょう民族みんぞく統一とういつ必要ひつようであるが、統一とういつするためには若干じゃっかん指揮しきする者がなければならず、しこうして、階級かいきゅうべつがあれば多少の圧制あっせいはまぬがれぬ。されば今回の革命かくめいはあたかも重荷おもにになうて苦しみながら道を行く者が、左のかたではとうていえ切れなくなって、これを右のかたえたのと同様で、ただ暫時ざんじ楽になったごとき心持ちがするだけで、一町(注:110メートル)か半町も行けばまたもとのとおりに苦しく、疲労ひろうはさらにすのみである。さればとて、いつまでも服従ふくじゅうしておれば圧制あっせいがますますはなはだしくなって、とうていやり切れず、きゅう制度せいどを'顛覆てんぷくすれば後の始末しまつがまとまらぬためにてきに対してみずかまもることさえ困難こんなんになる。いわゆるいたかゆし(注:けばいたいし、かなければかゆいという)とはこのことで、いずれにしても満足まんぞく解決かいけつられぬ。しかもこれは最初さいしょ人間がすべて他の動物に打ち勝つときにもっと有効ゆうこうであった知力がどこまでも発達はったつしきたった結果けっかであるゆえ、これをけて進むべき道は容易よういに見いだされぬであろう。戦後せんごにロシアと同様な道筋みちすじに進み行くのは、まずもっとも自由に考える人間の多いドイツ民族みんぞくではなかろうか。

四 アメリカ合衆国がっしゅうこく


 われらはアメリカについても、ただ幾人いくにんかの知人があるのと何冊なんさつかの小説しょうせつを読んだのみで、その他にはほとんど何ら知るところはない。しかしカーネギー(注:アンドリュー。スコットランド生まれのアメリカの実業家。鋼鉄王こうてつおう)が何千万ドルを出して博物館はくぶつかんたててたとか、ロックフェラー(注:ジョン。アメリカ合衆国の実業家、慈善家じぜんか。石油王)が何億なんおくドル寄附きふして研究所をもうけたとかいうことが美挙びきょ(注:立派りっぱおこい)として新聞紙上につたえられるのを読んで、非常ひじょうな大金持ちのある国ということだけは承知しょうちしている。何億なんおくドルというような大金をしげもなく寄附きふるような大金持ちと、如何いかに苦しんでも日々五十グラムの蛋白質たんぱくしつと三百グラムの脂肪しぼう澱粉でんぷんとがられぬような多数の極貧者ごくひんしゃとが同一団体だんたいの内にならび住んでいるというごときことは、他の団体だんたい動物においては決して見られぬことであるが、そのためには団体だんたい内にはげしい衝突しょうとつの起こるをまぬがれぬ。しこうして、この衝突しょうとつは、戦後せんごにおいても平穏へいおんおさまるべきのぞみはない。
 前にもべたとおり、道具を用いる動物は人間以外いがいには一種いっしゅもない。人間がはじめすべて他の動物に打ち勝ったのも、後に文明人が野蛮人やばんじん征服せいふくしたのも、みな道具を用いたためであるゆえ、道具なるものは、実に人間に取っては無比むひ(注:他にくらべるものがないこと)のたからである。しかるに、人知が進んで、道具が精巧せいこうになるにしたがい、はなはだこまったことが生じた。道具を用いる以上いじょう当然とうぜん私有しゆう財産ざいさんなるものが起こり、これをしてを取るという制度せいども生ずるが、石器せっき時代に石斧いしおの繩紋じょうもん土器どきりしていたころは、べつに大した金持ちも、貧乏人びんぼうにんもできず、むろん何の不都合ふつごうもなかった。その後器械きかいがだんだん精巧せいこうになると同時に、貧富ひんぷも少しずつしてはきたが、我慢がまんのできぬ程度ていどには容易よういたつしなかった。かくして長い年月の間、この点については何の問題も起こらずにすんできたが、最近さいき百年以来いらい、科学の知識ちしきさかんに進歩し、その応用おうようが急に発達はったつするとともに、富者ふしゃ非常ひじょうみ、貧者ひんしゃ非常ひじょうまずしく、その懸隔けんかくがすこぶるはなはだしくなった。器械きかいはどこまでも高価こうかとなり、これを所有しょゆうする資本家しほんか懐手ふところでで大金をもうけ、これを所有せぬ労働者ろうどうしゃ奴隷どれいのごとくにはたらいても満足まんぞくにはめしが食えぬ。今日では教育が普及ふきゅうしたために、労働者ろうどうしゃといえども知力においてはあえて資本家しほんかおとるわけでないゆえ、ここにはげしい不平ふへいが起こり、ひたいあせをかいてはたら我々われわれをかく苦しめながら、生産せいさんに少しも手を下さぬ資本家しほんかがかく贅沢ぜいたくくららしているのはそもそも如何いかなる理由によるかと考えてはとうてい我慢がまんができず、同志どうしの者がとう(注:利害りがい目的もくてきなどの共通性きょうつうせいによってむすびついた集団しゅうだん)を組んで、資本家しほんか利益りえきの分配をせまる。これは当然とうぜんり行きで、文明国にストライキのえぬはむをない。しこうしてストライキは大組織そしきのもとに行なわねば目的もくてきたつせられぬゆえ、民族みんぞくの間にも労働者ろうどうしゃ階級かいきゅうたがいに気脈きみゃくを通じ(注:たがいに連絡れんらくをとって意志いしを通じ合う)、相助けて資本家しほんか抵抗ていこうする。ただし自己じこ民族みんぞく滅亡めつぼうしては、その一部分なる自分等も滅亡めつぼうをまぬがれぬゆえ、戦争せんそう中は、労働者ろうどうしゃ資本家しほんかとは呉越同舟ごえつどうしゅう我慢がまんして、産業さんぎょう動員にしたがうておるが、戦争せんそうがすめば、またかならたがいに相反目するにいたることは、今から予言しておいても、おそらくあやまらぬであろう。民族みんぞく間の相違そういは昔からの天然てんねん相違そういであるが、同民族みんぞく内の貧富ひんぷ区別くべつは近ごろできた人為じんいてき区別くべつであるゆえ、少なくも当分の間は前者のほうがなお一段いちだん上にくらいし、民族みんぞく間の戦争せんそうが始まれば、労働者ろうどうしゃ自衛じえい上、敵国てきこく労働者ろうどうしゃの手をはなして、自国の資本家しほんかの手をにぎる。戦争せんそうがすめば、自国の資本家しほんかの手をはなして敵国てきこく労働者ろうどうしゃの手をにぎり、次の戦争せんそうが始まれば、またこの手をはなしての手をにぎる。そのありさまはあたかも「カトリル」のおどりにことならぬ。しかも戦争せんそうのあるたびごとに資本家しほんかとみ激増げきぞうするゆえ、そのすんだ後の階級かいきゅうせんはさらに一層いっそうはなはだしくならざるをない。しからば今日のロシアに学んで、富豪ふごう私有しゆう財産ざいさん没収ぼっしゅうして共有きょうゆうにしたらば、如何いかと言うに、これはまた決して民族みんぞくのために有利ゆうりなりとは思われぬ。そもそも今日の文明までに進んだ一民族みんぞくが、他の民族みんぞくに負けぬためには、戦時せんじにおいても、平時においても、大規模きぼ製造せいぞう工業をようする。百トンの船を百艘ひゃくせき集めても一万トンの船とはならぬごとく、小規模きぼのものをいくら集めても決して大規模きぼのものとはならぬ。されば資本しほんっていては、殖産しょくさんてきにまさることができぬは明らかであるゆえ、何らかの形で資本しほんが集まっていることが、民族みんぞく生存せいぞんのための必要ひつよう条件じょうけんである。しかも資本しほん敏活びんかつに運転するには、指揮しき者の数が多いことは禁物きんもつであるから、公共こうきょうの事業としてはとうてい独裁どくさいてき私営しえいのものに対して競争きょうそうはできぬ。今日の大資本家しほんかなるものは器械きかい精巧せいこうになったために自然しぜんに生じたもので、一方にはそのために多数の極貧者ごくひんしゃつくったにはちがいないが、また一方には民族みんぞく間のとみ競争きょうそうにおいて大いに奮闘ふんとうしていた。もしもたんてきなる民族みんぞくとみの勝負を決するつもりならば、資本家しほんかがどこまでも労働者ろうどうしゃ虐待ぎゃくたいするのを見逃みのがしておくのほかはないが、虐待ぎゃくたい程度ていどたつすれば今日の労働者ろうどうしゃもくしてはいぬゆえそこにかなら大騒おおさわぎが起こる。労働者ろうどうしゃは苦しみと不平ふへいと、資本家しほんかに対する憎悪ぞうおとのために、遠い未来みらいのことを考える余裕よゆうもなく、ただ簡単かんたん資本家しほんか階級かいきゅうさえたおせばよいように思うが、これをたおした後には自己じこ民族みんぞく全体はてきなる民族みんぞくして、産業さんぎょう上大いに不利ふりなる位地いちにおちいらねばならぬ。今のままにておいては貧富ひんぷへだたりがますますはなはだしくなり、資本家しほんか労働者ろうどうしゃとの確執かくしつ(注:たがいに自分の意見を主張しゅちょうしてゆずらないこと)がますます激烈げきれつになって、社会の安寧あんねい秩序ちつじょ(注:平和で不安ふあんがなく、秩序ちつじょ立っていること)がたもてぬほどになるおそれが目の前にせまってくるが、もし資本家しほんかたおしたならば、またてきなる民族みんぞくとの殖産しょくさん上の競争きょうそう不覚ふかくを取る心配が生ずる。これもいわゆるいたかゆしであって、いずれに決しても満足まんぞく結果けっかられぬ。さい少数の極富者ごくふしゃがさらにますますみ、さい多数の極貧者ごくひんしゃがさらにますますまずしくなることは、あたかも癌腫がんしゅ患者かんじゃのごとく、明らかに団体だんたい生活の病的びょうてき状態じょうたいであるゆえ、とうていそのままにすむわけのものではないが、これを健全けんぜん状態じょうたい回復かいふくせしめるには奇蹟きせきを待つのほかはない。しこうして、かようなありさまに立ちいたったのも、そのみなもとをただせば、はじめ人間がすべて他の動物に打ち勝ち、文明人が野蛮人やばんじん征服せいふくするときにもっと有効ゆうこうであった「道具」なるものがどこまでも発達はったつしきたったためである。今まで文明の利器りきを有することを自慢じまんして、大いに得意とくいになっていたことを思えば、今後の苦しみは、ししうたむくい(注:よい思いをしため合わせに、当然とうぜん受けなければならないわるむくい)としてあきらめるよりほかにいたし方はないであろう。
(大正七年五月)








底本:「煩悶と自由」有隣堂
   1968(昭和43)年7月20日 発行
入力:矢野重藤
初出:1918(大正7)年7月   「太陽」に掲載
校正:
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