単に生物学の上から見れば
人類の
生存競争を
特に
戦前と
戦後とに
区別して
論ずる
必要はない。いくつかの
異なった
民族が
並び
存して、
甲の
膨脹が
乙の
膨脹の
妨げとなるとか、
丙の
発展が
丁の
存在を
危くするとかいう場合には、その間に
衝突の起こるは
当然のことで、とうてい
戦争なしにはすまぬであろう。今回のヨーロッパ
大戦のごときも、ひっきょう(注:
結局)
人類が
当然通過すべき
径路の
途中の
一節に
過ぎぬゆえ、
戦後においても
戦前と同様に、
民族間の
競争は
絶えず行なわれ、それが
或る
程度まで高まると、また
戦争は
避けられぬであろうと考える。
しかし、世間には、
戦争などはなしに
暮らせるような世の中を
夢みている人も決して少なくない。先日
或るイギリスの
雑誌を見たら、今回の
戦争を「
軍を
御仕舞にする
軍」(The
war that ends
war)と
名付け、これによって
将来の
戦争の根を全く
絶ち
得るかのごとくに
論じた文が出ていた。日本にも、アメリカ
大統領の
宣言などをかつぎだして、
戦後には
再び
戦などをなさずにすむような新時代がきたり
得るかのごとくに考え、すでに
永久の平和の
曙光(注:
夜明けに東の空にさしてくる
太陽の光)を
認め
得たかのごとき口調で
論じている学者もある。列国が
残らず
同盟して一大
連邦を
造るがよろしいとか、
国際高等
審判所を
設けて、
民族間の
紛擾(注:ごたごた)を整理すべしとかいうごとき
議論は
従来もたびたび
唱えられたが、大
戦争の
惨害(注:むごたらしい
災害)を目前に見た後には、また
盛んに
流行するであろうと
想像する。明日の天気さえたしかには知り
得ぬ人間が、
各民族の
将来を
予知することはもとより
不可能であるが、
晴雨いずれとも分からぬ天気には
傘を持って歩くほうが安全であるごとく、
未来永劫戦争などは決して
再び起こらぬというたしかな
見定めがつかぬ間は
各民族ともに、
軽々しく
軍備を
廃するわけには行かず、
隣りの国にくらべて
軍備が
劣っては、せっかく
軍備をおく
趣意(注:物事をなすときの考えや
狙い)がとおらぬゆえ、苦しくとも力いっぱいに
軍備を
張らざるを
得ない。天気のほうは、人が
傘を持って歩こうが、持たずに歩こうが、そのために予定を
変更することはないが、
軍備のほうは
敵にまさることが明らかになると用いずには
我慢ができぬゆえ、
些細な
事件を口実として
機を
逸せず(注:よいタイミングを
逃さないで)
戦いを始める。もっとも今日の
戦争はきわめて
大規模に行なわれるゆえ、
勝敗の決するまでには
非常に手間が取れ、今回の
大戦のごときも
何時、
如何に
形付くかいまだ知りがたいありさまであるが、その代わり
妥協的にも
一たん平和が
成り立ったならば次の
戦争までには
相応に間があるであろう。千八百七十年
以後ドイツとフランスとの間に
幾度か
戦争が起こりそうで、しかも一度も
戦争にならずに終わったことを考えると、いずれの
民族でも、たしかに
敵に勝てるとの
自信ができなければ自分のほうからは
容易に
戦いを始めぬであろうが、むかし百年かかったことも今日では十年か五年で仕上がるゆえ、かかる時期が
存外(注:思いのほか)早く
到着するかもしれず、また、科学の研究が進んで天下
無敵の
武器が
秘密に発明せられたならば、これも
不意に
戦争の始まる
動機とならぬとも
限らぬ。かような
次第であるから、たとえ今回の
戦争が終わってもその後何年の間は
必ず平和が
続くというようなたしかな予言は
誰にもできぬであろう。
誤解を
避けるために
断っておくが、
我ら(注:
私)は決して
戦争を
好むものでもなく、またこれを
謳歌(注:声を合わせて歌う)するものでもない。ただ事実かくのごとくになるであろうと思うところを
述べたに
過ぎぬ。
今回の
戦争はプロシアの
軍国主義が
原因である。これを
撲滅しなければ
永久の平和は
得られぬと
説く人もあるが、イギリスやフランスの
雑誌などでしきりに
攻撃している
軍国主義なるものは一体何を
指すか。
各方面に
軍人の出しゃばることを
軍国主義と
名付けるならば、これは
別であるが、
自衛のために一定の
軍備をおくことはいずれの
民族にも
必要のことで、これなしにはむろん
生存ができぬ。今日の
軍国主義とはむしろ
戦闘準備の
手廻しのよかった国に対して、
戦闘準備の
手廻しの悪かった国からつけた
綽名であって、
仮にいわゆる
軍国主義の
或る一国を
倒し
得たとしても、次には
残った国の中で
最も
軍備の整うた国が他の国からはまた
軍国主義のものと
目指され、
結局いつまでもつきぬであらう。されば当分のうちはまず
永久の平和などはこぬものと
覚悟するよりほかにいたし方がなかろう。
団体を
造って生活する動物は人間のほかにもいくらもあるが、道具を使うて
戦う動物は人間のほかには
一種もない。その
結果として、他の動物の
団体競争と人間の
団体競争との間にはいちじるしい
相違が生じた。すなわち他の動物の
団体は一定の大きさを
超えることができぬに反して、人間の
団体だけは、どこまで大きくなっても
差支えが生ぜぬのみか、大きくなればなるだけ、むろん力が
増して、相手に勝つことができる。されば
各民族は他に負けぬためには、つねに
劣らぬだけの速力で、大きくならねばならず、そのためには、あるいは国外に
植民地を
造ったり、あるいは
隣りの
民族を
併合したりして、もっぱら
自己の
団体を大きくすることにつとめている。しかし一
民族が他を
飛び
超えてにわかに(注:急に)大きくなることはとうていできぬゆえ、
敵が二国
同盟してくれば、こちらも
適当な相手と
同盟して、これに当たらねばならぬ。昔は
名誉の
孤立などと言うて、
威張ってもおられたが、大きな
潜航艇が大西洋を横ぎるようになっては、
孤立は全く
不可能である。
敵が三国
同盟すれば、味方は四国
同盟するというように、
同盟の
範囲が次第に広がって、ついに今回の
戦争のごとくにほとんど、世界が二組に分かれて
相戦うという
程度までに
達した。
かくのごとく、多くの国々が
次第に
同盟し、
人情、
風俗、言語、
容貌などの全く相
異なった
民族が、
協力一致して
互いに助け合うありさまを見て、
或る人は世界
連邦を
造るべき気運が向いてきたとか、
宇宙統一帝国の
出現すべき
前提であるとか
論じておるが、これは
単に人知が進み、
器械が
精巧になって、人間の
団体がどこまでも大きくなり
得るために
当然生じた
結果であって、元来が
競争の
目的のために起こったことゆえ、平和とは全く方角が
違う。
相闘う二
団体がいずれも相手に
敗けぬようにと
競うて、中立者を自分の
仲間に引き入れたとすれば、
結局、全世界が二組に分かれて相
闘うにいたるのほかはない。これは数理上、明白なことで、交通の
便利の開けた今日の世の中では、両
大関とも言うべき二大
民族が
相戦う場合には、
必ずここまで
達するに定まっている。あたかも
餅を切るにあたって、
各片を
最も大きくするには二つに切るのほかに
方法がないのと同じである。されば、大
戦争に当たっては、世界が二組に分かれるまでには
同盟の
範囲が広がるが、この二組が合して一組となることは決して
望まれぬ。
初め数多く
並び
存していた
図体が次第に
同盟して、ついに二組となるまでに
漕ぎつけた
以上は、これを一組にまとめるのは、もはやわずかに一歩の
差であるごとくに感ずる人もあろうが、二組までになるのと、これが合して一組となるのとでは、根本から全く
性質が
違うゆえ、決して同じ
傾向の引き
続きと見なすべきものではない。しかも二組までにまとまり
得るというのも、
実際に
鉄砲を打ち合うている時だけの話しで、その他の時には、とうていこれさえもむずかしい。
さて今回の
戦争が終わった後には、ともかくも一時は平和の
姿となるであろうが、これとてもむろん真の平和ではなく、国と国との
戦いが
止めば、今度は国の内での
紛擾が高まる。今まで、
自衛上や
止むを
得ず、合同していた
異民族間の
権力争いや、
併合せられた
民族の
主権国に対する
反抗なども
盛んに
現われるであろうが、
最も
激烈に起こるのは、おそらく中世
以来の
世襲的特権階級に対する
一般人民の
争いや、
資本家に対する
労働者の
争いなどのごとき、
人為階級間の
戦いであろう。これらはいずれもはなはだ面白からぬことのみであるが、人知が進めば、かかることの生ずるをまぬがれず、
除けて進むことも、
飛び
越えて行くこともできぬ
厄介至極の
難関である。
我らは
幾人かの知人を有すると、
何冊かの
小説を読んだことのほかにはロシアについては何ごとをも知らぬ。しかし、
Homo
sapiens(注:
賢い人間)
なる一生物の地方
的変種として、ロシア
民族の
将来を考えるには、ケーレンスキー(注:アレクサンドル・フョードロヴィチ。社会
革命党右派の
指導者としてロシアの二月
革命後の
臨時政府首相)がどこにいようが、レーニン(注:ウラジーミル・イリイチ。ロシアの
革命家、
政治家)が何をしようが、そのような細かいことは知るにおよばぬ。ただ原始時代から今日までの
変遷の
大要を知れば、それによって多少
未来を
推察することができよう。
およそ
団体を
造って生活する動物には、
蜜蜂などに見るごとき平等の
型に
属するものと、
猿などに見るごとき
階級の
型に
属するものとの
別があるが、原始時代の人間はおそらく
猿と同様に、数多くの小さな階級
型の
団体に分かれて生活していたものと思われる。しこうして、
各団体には一人の
酋長があって
無上の
権威をふるい、他はことごとく
絶対に
服従していたであろうが、その後、
団体がだんだんと大きくなるにしたごうて、
権威をふるう
側の人数が次第に
殖え、かつその中に、
幾段かの
階級別が生じた。かくして
指揮する
側の人数が
増加すれば、
指揮者
階級は全体として、
人民を
指揮し
得ればよろしいので、
必ずしも、その一人一人が
抜群の
力量を
備えるにおよばぬことになり、かつ、下級の
指揮者に取っては上級の
指揮者が
暗愚(注:
愚か)であるほうがかえって万事に都合のよいような
事情も生じ、これに
宗教的の
政策も
加わって、ついに
封建時代の
世襲的特権階級ができあがったのであろう。すべて
酋長の
位が
世襲的になるのは、
指揮する
側の人数が
或る
程度まで
増して、
酋長が
直接に
人民を
指揮する
必要のなくなった時でなければできぬことであるが、これには
宗教が
必ず
手伝う。人は死んでも
魂はこの世に
残るとの
宗教上の
観念がなければ、
知勇兼備の
酋長の
後継ぎとして
愚昧(注:おろかで
道理に暗いこと)な息子をいただくことを
誰も
肯ぜぬ(注:
承諾しない)であろうから、そこを
無事に
納得せしめるには
宗教によるのほかはない。すなわち代々の
酋長の
魂の
加護によって
汝らの上に立つと
宣言し、
我々の命ずることは、取りも直さず、
酋長の
先祖なる神の
命令であるぞと言うて
強いてこれに
服従せしめる。されば、
酋長世襲制度と
御用宗教とは決して
離るべからざるものであるが、
実権が
指揮者中の次の
階級の者に
移ると、
最上級の者は下を
圧するための
一種の
偶像となり、これを
尊く思わせるだけ、
圧制が行ないやすいというような
関係から、
圧制政治には
御用宗教が
付きものとなる。ロシアの
貴族とか地主とか
農奴とかいうものは
如何にしてできたかは知らぬが、いずれ原始時代の
階級制度から
上述のごとき
径路を
経て進みきたったものに
違いない。かくして、下の者は上の者に
絶対に
服従し、
如何に
虐げられ
辱められても、
訴える
途のないような
極端な
階級制度ができあがったが、
人民が原始時代
以来の
服従性を
失わぬ間は、この
制度は国内の
秩序を
保つ上にも、他国との
争いに
挙国一致の実をあげるにも
最も
有効であったことは
疑いを
容れぬ。しかるにその後、人知が進み、
器械が
精巧になり、
民族競争の
勝敗は主として
国民の知力の
優劣によって定まる世の中になっては、いずれの
民族も
自衛上、教育を
盛んにして、
人民の
知識の
程度を高めねばならぬが、
困ったことには、知力が進むと
生来の
服従性が
次第に
消滅することをまぬがれぬ。ここに知力と言うのは、古い書物を
暗記したり
講釈したりする力ではない。文明の
戦争に
直接に
関係を有する科学の
知識と、その
応用の
知識とであるが、これを
発達せしめるには
独創的の
推理力を進めねばならぬ。しこうして、
独創的の
推理力が進めば、いずれの方面に向うても、物の考え方が自由になって、今まで何の
不審も起こさなかった
制度をも研究
的の
批評眼をもって見るゆえ、ここに大なる
疑問が生じ、なにゆえ自分よりも体力も知力もまさっていない人等の下に立ってその
命令に
服従しなければならぬかと考え、もし
不合理なりと思えば、これに
服従することを
承知せぬ。このことは、ただに
特権階級に対してのみならず、
師匠と
弟子、
雇主と
雇人、親と子、男と女との間にも同様な
変化が
現われる。
旧制度に
慣れた人から見ると、これは実に国家の
安危にも
関することと思われるゆえ、一は国家のため、一は自分らのために、あらゆる
手段をつくし、
暴力を用いてまでもこれを
圧迫する。しかし、
一たん自由に考えることを
覚えた人間は
圧迫に
遇えばますます
反抗するゆえ、
無理に
圧えれば、ただ
爆発を早めるばかりである。かように
人民の
服従性が
消滅しては、中世
以降の
威儀堂々たる
専制制度もわずかに形が
存するだけで、
実質はすこぶるあやしくならざるを
得ない。たとえば、
芝居の
背景のごとくで、正面から見れば、
立派な
宮殿であっても、実は
内容のない
一枚の
薄板に
過ぎず、
裏をのぞいて見ると、大礼服を着た人や、
軍服を着た人が、
危ない
危ないと言いながら、
一生懸命に
棒で
支えていた。それゆえ、一朝反対者が起こった時にはきわめてもろく
倒れたのである。
さて
旧制度を
倒した
結果は
如何と言うに、今まで
威張っていた人々に、
薪を
割らせたり、
往来を
掃かせたりしていささか
欝憤(注:心の中に
積もり重なった
怒り・
恨み)を晴らしただけで少しも後の
始末が
付かず、ただ
紛擾を重ねるばかりか、いつ
秩序が
回復するやら
見込みが立たぬ。大きな
団体の中心がなくなったのであるから、曲りなりにもこれをまとめることは
容易でない。
殊に
強敵を目の前に
控えながら大
改革を行なうたことふゆえ、あたかも
暴風雨の
最中に船長を
幽閉して、
水夫らばかりで、
喧嘩をしながら船を
操縦しているごとくで、どこへ行くやら少しも分からぬ。大
破壊の後には
必ず大
建設がくると
説く人もあるが、それは
人民が
服従性を
備えていた時代のことであって、一人一人が自由に考えるようになっては、大
建設はとうていむずかしい。エジプトの「ピラミッド」でも
支那の万里の
長城でも、みな
専制時人の
産物であって、
人民が
理屈を言うようになってはかような
馬鹿げたものは決してできぬ。
姑息(注:その場しのぎ)
的の
弥縫(注:
失敗や
欠点を一時
的にとりつくろうこと)によって、いくぶんかの
秩序を
回復することはあるいはできるであろうが、
旧制度に
匹敵するほどの
一大新
制度の
現われることは
容易に
望まれぬ。長年の間、はなはだしい
圧制に苦しんだ人等は、
恨みが
骨髄に
徹(注:
貫きとおる)しておるために、
冷静に
判断する力を
失い、あたかも
熱病人の
幻視のごとくに、何でも
現在の
制度さえ
'顛覆すれば、その
跡には、自由平等の理想世界が
実現するごとくに考えるが、
実際に
'顛覆して見ると、次にくるものは、ただ大
紛擾のみで、なかなか、
旧時代だけの幸福をも
得られぬ。他の
民族と
相対している
以上は
民族の
統一が
必要であるが、
統一するためには
若干の
指揮する者がなければならず、しこうして、
階級の
別があれば多少の
圧制はまぬがれぬ。されば今回の
革命はあたかも
重荷を
担うて苦しみながら道を行く者が、左の
肩ではとうてい
堪え切れなくなって、これを右の
肩に
換えたのと同様で、ただ
暫時楽になったごとき心持ちがするだけで、一町(注:110メートル)か半町も行けばまたもとのとおりに苦しく、
疲労はさらに
増すのみである。さればとて、いつまでも
服従しておれば
圧制がますますはなはだしくなって、とうていやり切れず、
旧制度を'
顛覆すれば後の
始末がまとまらぬために
敵に対して
自ら
衛ることさえ
困難になる。いわゆる
痛し
痒し(注:
掻けば
痛いし、
掻かなければ
痒いという)とはこのことで、いずれにしても
満足な
解決は
得られぬ。しかもこれは
最初人間がすべて他の動物に打ち勝つときに
最も
有効であった知力がどこまでも
発達しきたった
結果であるゆえ、これを
避けて進むべき道は
容易に見いだされぬであろう。
戦後にロシアと同様な
道筋に進み行くのは、まず
最も自由に考える人間の多いドイツ
民族ではなかろうか。
我らはアメリカについても、ただ
幾人かの知人があるのと
何冊かの
小説を読んだのみで、その他にはほとんど何ら知るところはない。しかしカーネギー(注:アンドリュー。スコットランド生まれのアメリカの実業家。
鋼鉄王)が何千万
弗を出して
博物館を
建てたとか、ロックフェラー(注:ジョン。アメリカ合衆国の実業家、
慈善家。石油王)が
何億弗を
寄附して研究所を
設けたとかいうことが
美挙(注:
立派な
行い)として新聞紙上に
伝えられるのを読んで、
非常な大金持ちのある国ということだけは
承知している。
何億弗というような大金を
惜しげもなく
寄附し
得るような大金持ちと、
如何に苦しんでも日々五十グラムの
蛋白質と三百グラムの
脂肪・
澱粉とが
獲られぬような多数の
極貧者とが同一
団体の内に
並び住んでいるというごときことは、他の
団体動物においては決して見られぬことであるが、そのためには
団体内にはげしい
衝突の起こるをまぬがれぬ。しこうして、この
衝突は、
戦後においても
平穏に
治まるべき
望みはない。
前にも
述べたとおり、道具を用いる動物は人間
以外には
一種もない。人間が
初めすべて他の動物に打ち勝ったのも、後に文明人が
野蛮人を
征服したのも、みな道具を用いたためであるゆえ、道具なるものは、実に人間に取っては
無比(注:他に
比べるものがないこと)の
宝である。しかるに、人知が進んで、道具が
精巧になるにしたがい、はなはだ
困ったことが生じた。道具を用いる
以上は
当然私有財産なるものが起こり、これを
貸して
利を取るという
制度も生ずるが、
石器時代に
石斧や
繩紋土器を
貸し
借りしていたころは、
別に大した金持ちも、
貧乏人もできず、むろん何の
不都合もなかった。その後
器械がだんだん
精巧になると同時に、
貧富の
差も少しずつ
増してはきたが、
我慢のできぬ
程度には
容易に
達しなかった。かくして長い年月の間、この点については何の問題も起こらずにすんできたが、
最近百年
以来、科学の
知識が
盛んに進歩し、その
応用が急に
発達するとともに、
富者は
非常に
富み、
貧者は
非常に
貧しく、その
懸隔がすこぶるはなはだしくなった。
器械はどこまでも
高価となり、これを
所有する
資本家は
懐手で大金を
儲け、これを所有せぬ
労働者は
奴隷のごとくに
働いても
満足には
飯が食えぬ。今日では教育が
普及したために、
労働者といえども知力においてはあえて
資本家に
劣るわけでないゆえ、ここにはげしい
不平が起こり、
額に
汗をかいて
働く
我々をかく苦しめながら、
生産に少しも手を下さぬ
資本家がかく
贅沢に
暮らしているのはそもそも
如何なる理由によるかと考えてはとうてい
我慢ができず、
同志の者が
党(注:
利害や
目的などの
共通性によって
結びついた
集団)を組んで、
資本家に
利益の分配をせまる。これは
当然の
成り行きで、文明国にストライキの
絶えぬは
止むを
得ない。しこうしてストライキは大
組織のもとに行なわねば
目的が
達せられぬゆえ、
異民族の間にも
労働者階級は
互いに
気脈を通じ(注:
互いに
連絡をとって
意志を通じ合う)、相助けて
資本家に
抵抗する。ただし
自己の
民族が
滅亡しては、その一部分なる自分等も
滅亡をまぬがれぬゆえ、
戦争中は、
労働者と
資本家とは
呉越同舟で
我慢して、
産業動員に
従うておるが、
戦争がすめば、また
必ず
互いに相反目するにいたることは、今から予言しておいても、おそらく
誤らぬであろう。
異民族間の
相違は昔からの
天然の
相違であるが、同
民族内の
貧富の
区別は近ごろできた
人為的の
区別であるゆえ、少なくも当分の間は前者のほうがなお
一段上に
位し、
民族間の
戦争が始まれば、
労働者は
自衛上、
敵国の
労働者の手を
離して、自国の
資本家の手を
握る。
戦争がすめば、自国の
資本家の手を
離して
敵国の
労働者の手を
握り、次の
戦争が始まれば、またこの手を
離して
彼の手を
握る。そのありさまはあたかも「カトリル」の
踊りに
異ならぬ。しかも
戦争のあるたびごとに
資本家の
富は
激増するゆえ、そのすんだ後の
階級戦はさらに
一層はなはだしくならざるを
得ない。しからば今日のロシアに学んで、
富豪の
私有財産を
没収して
共有にしたらば、
如何と言うに、これはまた決して
民族のために
有利なりとは思われぬ。そもそも今日の文明までに進んだ一
民族が、他の
民族に負けぬためには、
戦時においても、平時においても、大
規模の
製造工業を
要する。百
噸の船を
百艘集めても一万
噸の船とはならぬごとく、小
規模のものをいくら集めても決して大
規模のものとはならぬ。されば
資本が
散っていては、
殖産上
敵にまさることができぬは明らかであるゆえ、何らかの形で
資本が集まっていることが、
民族生存のための
必要条件である。しかも
資本を
敏活に運転するには、
指揮者の数が多いことは
禁物であるから、
公共の事業としてはとうてい
独裁的の
私営のものに対して
競争はできぬ。今日の大
資本家なるものは
器械が
精巧になったために
自然に生じたもので、一方にはそのために多数の
極貧者を
造ったには
違いないが、また一方には
異民族間の
富の
競争において大いに
奮闘していた。もしも
単に
敵なる
民族と
富の勝負を決するつもりならば、
資本家がどこまでも
労働者を
虐待するのを
見逃しておくのほかはないが、
虐待が
或る
程度に
達すれば今日の
労働者は
黙してはいぬゆえそこに
必ず
大騒ぎが起こる。
労働者は苦しみと
不平と、
資本家に対する
憎悪とのために、遠い
未来のことを考える
余裕もなく、ただ
簡単に
資本家階級さえ
倒せばよいように思うが、これを
倒した後には
自己の
民族全体は
敵なる
民族に
比して、
産業上大いに
不利なる
位地におちいらねばならぬ。今のままに
捨ておいては
貧富の
隔たりがますますはなはだしくなり、
資本家と
労働者との
確執(注:
互いに自分の意見を
主張して
譲らないこと)がますます
激烈になって、社会の
安寧秩序(注:平和で
不安がなく、
秩序立っていること)が
保てぬほどになるおそれが目の前にせまってくるが、もし
資本家を
倒したならば、また
敵なる
民族との
殖産上の
競争に
不覚を取る心配が生ずる。これもいわゆる
痛し
痒しであって、いずれに決しても
満足な
結果は
得られぬ。
最少数の
極富者がさらにますます
富み、
最多数の
極貧者がさらにますます
貧しくなることは、あたかも
癌腫の
患者のごとく、明らかに
団体生活の
病的状態であるゆえ、とうていそのままにすむわけのものではないが、これを
健全な
状態に
回復せしめるには
奇蹟を待つのほかはない。しこうして、かようなありさまに立ちいたったのも、その
源をただせば、
初め人間がすべて他の動物に打ち勝ち、文明人が
野蛮人を
征服するときに
最も
有効であった「道具」なるものがどこまでも
発達しきたったためである。今まで文明の
利器を有することを
自慢して、大いに
得意になっていたことを思えば、今後の苦しみは、
猪喰うた
報い(注:よい思いをした
埋め合わせに、
当然受けなければならない
悪い
報い)としてあきらめるよりほかにいたし方はないであろう。
(大正七年五月)