戦争と平和

丘浅次郎





 日露にちろ戦争せんそうの始まって以来、どの雑誌もほとんど戦争せんそうの話で持切りのありさまで、あるいは海戦かいせん陸戦りくせん実況じっきょうほうじ、あるいは戦時せんじにおける人民じんみん心得こころえろんじていたが、これは時節じせつがらもつともな次第しだいであった。しかしそのうち、戦時せんじにおける心得こころえろんじたものを見るに、多くは戦争せんそうと平和とを相反するもののごとくに見なし、戦時せんじには平常へいじょうことなった特別とくべつ心得こころえ方が必要ひつようであるかのごとくにいてあるが、戦争せんそうがすんで平和が回復かいふくせられたのちに、平和は戦争せんそうの反対であると誤解ごかいして、戦時せんじ必要ひつよう心得こころえをことごとくててかえりみぬようなことでもあっては、せっかくの戦勝せんしょう利益りえきもその大部はしばらくの間に消えてしまうおそれがある。かような失策しっさくふせぐためには、平生へいぜいから戦争せんそうとは何か、平和とは何かという問題を研究してこれらを明らかにしておかねばならぬ。
 世の中には平和はつねであって、戦争せんそう例外れいがいであると思うている人がとかく多いようであるが、世界の歴史れきしを調べてみれば、実際じっさいはその反対であることが明らかに知れる。こころみに歴史れきしの中から戦争せんそうのあった時間だけをのぞいたとすれば、のこりはほとんど何もない。かしこが平和であるときには、ここで戦争せんそうがあり、こうの所で戦争せんそうが終わるころにはおつの所で戦争せんそうが始まる。全世界を通じていえば、どこにも戦争せんそうのないという日は開闢かいびやく以来おそらく一日もなかろう。一国一国に分けてろんずれば戦争せんそう戦争せんそうとの間には若干じゃっかんずつの平和の時代がはさまっているごとくに見えるが、これもていねいに考えてみると決して真の平和ではない。その間にはかなら砲台ほうだいきづき、軍艦ぐんかんつくり、できうるかぎ兵力へいりょくを整えて、意識いしきてきてきかあるいは無意識むいしきてきてきかに次の戦争せんそう準備じゅんびに全力をつくしているゆえ、じゅくすればささいな口実をたねにしてたちまちたたかい始める。およそ戦争せんそうふくまぬ平和は今日にいたるまでいまだ決して一回もなかったと言うてよろしかろう。さればいわゆる平和なるものはあたかも芝居しばい幕間まくまのごときもので、たんに次の戦争せんそうに対する準備じゅんびの時期を言いあらわす言葉にぎぬ。
 かように考えれば、戦争せんそうと平和とは元来決して根本的こんぽんてき性質せいしつの相反する二種にしゅ状態じょうたいではない、ただ生活という一種いっしゅ引続ひきつづいたはたらきの中の相交代する二様の時期を指してかく名づけるだけである。すなわちまくを開ければ戦争せんそうまくじれば平和であって、見物人のがわからみれば幕間まくまはすこぶるひま退屈たいくつを感ずるが、まくのかげにいる人等はその間にせいを出してはたらかねば次のまくの間に合わぬ。その上、いわゆる平和の時代にはまた平和の戦争せんそうと名づける劇烈げきれつ戦争せんそうがあって、けん鉄砲てっぽうを用いこそせぬが、その敗北はいぼく者が悲惨ひさん境遇きょうぐうにおちいることは決して真の戦争せんそうにもおとるものではない。これはすなわち人間の生存せいぞん競争きょうそうであって、いやしくも人間の生存せいぞんしている間はとうていけることのできぬものである。
 語をかえて言えば戦争せんそうは実であるが平和はきょである。世の中には評判ひょうばんのみ高くて、実際じっさいにないものが決して少なくない。たとえば幽霊ゆうれいのごときはその一で、どこの国へ行ってもその評判ひょうばんのない所はないが、実際じっさいこれをとらえたということは一度も聞かぬ。いわゆる平和なるものも全くこのとおりで、たいがいの戦争せんそうは平和を目的もくてきとするが、戦争せんそうのすんだのちに真の平和のきたれいはない。平和を目的もくてきとする戦争せんそうがつねにえず行なわれ、人間の歴史れきしはほとんど戦争せんそう記録きろくたされてあるにもかかわらず、いまだ平和にたっすることのできぬありさまは、あたかもアラビアの沙漠さばくを旅行する商人らが椰子やししげっている蜃気楼しんきろうを見て、あそこまで行けばすづしい樹陰じゅいんと、つめたい水とがあると思うてしきりに急ぐのと少しもちがわぬ。行けば行くだけ蜃気楼しんきろうも向うへげてどこまで進んでもついにこれにたっすることはできぬ。
 さてなぜ戦争せんそうがつねにあるに反し、真の平和がえてないかと考えるに、これは人類じんるい性質せいしつもとづくことでいかんともいたしようがない。その性質せいしつがいかなるものかをろんずることはここにはりゃくするが、国と国との戦争せんそうはしばらくおいて、いわゆる平和の時代における個人こじんの生活を見ても、生まれてから死ぬまでが実際じっさい一個いっこの引きつづいた戦争せんそうではないか。フランスの文豪ぶんごうボルテールも「この世ではけんによらねば何事も成就じょうじゅせぬ、吾人ごじんは死ぬまでけんを手からはなすことはできぬ」と言っているが、これは全く実際じっさいのありさまである。ドイツ語では墓地ぼちのことを「平和の庭」(Friedhof)と名づけるが、これは人間の生涯しょうがい徹頭てっとう徹尾てつび戦闘せんとうであることを裏面うらめんから言いあらわしたものであろう。しかして個人こじん間のみがかような次第しだいではない、人間は元来社交しゃこうてきの動物でつねに団体だんたい形造かたちづくって生活しているが、団体だんたい間の関係かんけいも全くこのとおりで、やはりけんによらねば何事も成就じょうじゅせぬ。多数の人間種族しゅぞくが相対して生存せいぞんしているこの世の中にては、一種いちしゅ族が膨脹ぼうちょうする場合には、他の種族しゅぞく圧迫あっぱくくわえることをいとうてはおられぬ。まして数多の種族しゅぞくがみな年々膨脹ぼうちょうしてゆく場合には、その間に衝突しょうとつの起こるはもとより当然とうぜんのことである。されば数多の種族しゅぞくならそんする以上は、いつまでも戦争せんそうえぬものと覚悟かくごしなければならぬ。
 今日の戦争せんそう非常ひじょう高価こうかなものである、軍艦ぐんかんそうが何千万円もあたいする、弾丸だんがん一発が何千円もかかる、かくのごとく莫大ばくだい入費いりひようすることゆえ、経済けいざいがわから考えると戦争せんそう容易よういにできるものではない。軍備ぐんびを固めるのはずいぶん苦しいことであるが、となりの国でへいせばこちらでもこれにおうじてへいさねばならず、たがいに競争きょうそうして軍備ぐんびかためる結果けっか双方そうほうともに国力が疲弊ひへいするは必然ひつぜんことわりで、もしその上に実際じっさい戦争せんそうでも始めたら経済けいざい上両国ともにつぶれてしまう。それゆえ、戦争せんそうなるものは可能かのうのことである。したごうて未来みらいにおいては戦争せんそうはなくなるなどとく人もあるが、戦争せんそうは決してかような理屈りくつくらいでやむものではない。戦争せんそう手段しゅだん方法ほうほうとは人知の進むにしたごうてむろんへんずるであろうが、戦争せんそうその物があとをつようなことはとうていない。戦争せんそう莫大ばくだい入費いりひのかかることゆえ、我慢がまんのできるかぎりは何種族しゅぞく戦争せんそうを始めぬには相違そういないが、自己じこ種族しゅぞく生存せいぞんあやうくなる場合には、いかなる危険きけんおかしてもたたかわねばならぬ。また甲乙こうおつ二種にしゅ族がたたかうて充分じゅうぶんつかれたところをねろうて、へい種族しゅぞくめてきてたたかわずして大利益りえきおさめるようなこともつねにあるゆえ、容易よういなことでは戦争せんそうは始められぬ。しかし戦争せんそうによらなければ自己じこ種族しゅぞく独立どくりつたもてぬという場合には、この冒険ぼうけんをもあえてせねばならぬ。つまるところ、我慢がまんのできるだけ戦争せんそうをせずに我慢がまんするのも自己じこ種族しゅぞく維持いじ生存せいぞんのため、またすべての危険きけんおかして戦争せんそうを始めるのも自己じこ種族しゅぞく維持いじ生存せいぞんのためである。しかるに人間のかく種属しゅぞく非常ひじょう圧迫あっぱくさえこうむらなければ、えず膨脹ぼうちょうして抵抗ていこうもっとも少ない方面へび出すべき性質せいしつそなえているもので、決していつまでも同じ太さで止まってはおらぬゆえ、一種いちしゅ族の独立どくりつ生存せいぞん他種族たしゅぞく膨脹ぼうちょうのためにあやうくせられる場合は、かなら続々ぞくぞく生ずるにちがいない。しかしてかかる場合に戦争せんそうくべからざることはまたもちろんである。
 世界の強国がみな同盟どうめいしてしまえば戦争せんそうなどは全く必要ひつようがなくなると考える人もあるが、これはもとよりできざることである。そもそも同盟どうめいとは何かといえば、これはたん共同きょうどうてきに対して身をまもるための一時の方便ほうべんぎぬ。歴史れきしさがして見るにいつの世でもどこの国でも、共同きょうどうてきのないところで二個にこ以上いじょう異種族しゅぞく同盟どうめいをしたれいはかつてない。共同きょうどうてきがあるゆえに二個にこ以上いじょう異種族いしゅぞく同盟どうめい一致いっちするありさまは、あたかもおけによっておけの形がたもたれているごとくである。それゆえいったん共同きょうどうてきがなくなれば、たちまち同盟どうめいやぶれてしまうこと、おけが切れた時と少しもちがわぬ。政府せいふ抵抗ていこうするために在野ざいやの二政党せいとう連合れんごうすることはあるが、いったんこれを乗取ってしまえば、その時がすなわち二政党せいとう分離ぶんりする時であることは、従来じゅうらいれいだれも知っているであろう。共同きょうどうてきえれば異種族いしゅぞく同盟どうめいむすび、同盟どうめいむすべば有力となるゆえ、共同きょうどうてきほろぼすことができる、共同きょうどうてきほろぶれば同盟どうめいはたちまちやぶれるが、同盟どうめいやぶれれば異種族いしゅぞくはみなたがいにてきであるゆえ、また新たに同盟どうめいむすぶものができる。同盟どうめいむすばれかれる順序じゅんじょはほぼかくのごとくで、決して永久えいきゅう不変ふへんのものではない。ある同盟どうめいがややひさしく継続けいぞくするごとくに見えるのは、ひっきょうわれわれ各個人かくこじんの命が短いために行末いくすえまでを見届みとどけることができぬからである。共同きょうどうてきもないのにしょ強国がことごとく同盟どうめいむすび、しかも永久えいきゅう同盟どうめいつづけるなどということは人間の性質せいしつ上決してできぬことと断言だんげんせねばならぬ。
 またしょ強国が連合れんごうして一個いっこの高等な仲裁ちゅうさい所、あるいは裁判さいばん所を組織そしきし、これを列国の上において、列国間の紛騒ふんそうはここで裁判さいばんし、あるいは仲裁ちゅうさいすることに定めたならば、世の中から戦争せんそうというものをのぞき去ることができるであろうと考える人もあるが、これも前と同様でもちろんできぬことである。ささいな事件じけんについては面倒めんどうはぶくために、かような高等仲裁ちゅうし所に委任いにんすることをいずれの国でもよろこんで承諾しょうだくするであろうが、自己じこ種族しゅぞく存亡そんぼう盛衰せいすいかんするような大事件じけんについては、だれが何と言おうとも自己じこ不利益ふりえきなことを承諾しょうだくのできるものではない。かりに先年南アフリカに紛騒ふんそうのあったさいに、万国連合ばんこくれんごう高等裁判さいばん所がトランスバールは英国えいこくぞくするが正当であると宣告せんげんしたと想像そうぞうしてみるに、ボア人がつつしんでこれを承認しょうにんするであろうか、人口は少なく、資力しりょく充分じゅうぶんで、かならず負けることが明らかに知れていても一戦争せんそうせずには決してすまされぬにちがいない。万国平和会議かいぎ主唱しゅしょう者がだれであるかを思えば、かような組織そそきがとうていまじめに役に立つものでないことは明瞭めいりょうであろう。
 かようにろんじてみると、過去かこ歴史れきし戦争せんそう記録きろくたされてあるごとくに、未来みらい歴史れきしもやはり戦争せんそう記録きろくたされるものと断言だんげんせねばならぬ。もとより一の戦争せんそうと次の戦争せんそうとの間には若干じゃっかんの平和時代がはさまってくるには相違そういないが、これは次の戦争せんそう準備じゅんびのできるまでの幕間まくまぎぬ。されば平和なるものはいかなる場合にも、ただ表面にのみかぎられたことで、まくかげまで平和でおられるような時期は決してない。新聞雑誌ざっし往々おうおう見るところの永久えいきゅうの平和という文字にいたってはきょ中のもっときょなるもので、夢にもあり得べからざるありさまを言いあらわした言葉である。雑誌ざっしなどにはわが国で第一流といわれる学者のせつとして、今日戦争せんそうというごときことのあるのは社会がいまだ充分じゅうぶん発達はったつせぬからである、完全かんぜんいきに進めば世界中の列国は連合れんごうして一大合衆国がっしゅうこくとなり戦争せんそうなどは全くなくなってしまうというようなことがしばしばげてあるが、これは全然ぜんぜん間違まちがいであろう。万国連合れんごう郵便ゆうびん、万国連合れんごう為替かわせをはじめ、万国衛生えいせい会議かいぎとか、万国漁業ぎょぎょう会議かいぎとかいうごとき万国連合れんごうの事業の数が続々ぞくぞくふえるのを見て、これは列国合同の方向に進む階段かいだんであると誤解ごかいするも無理むりではないが、人間各種族かくしゅぞく膨脹ぼうちょう結果けっかとして生ずる種族しゅぞく間の軋轢あつれきと、諸種族しょしゅぞく共通きょうつう便益べんえきのための会合とは全く別物べつもので、後者がいかに発達はったつしても前者がそのためにげんずるというのぞみはとうていない。
 多数の人間種族しゅぞくが相対して生存せいぞんしている以上いじょうは、戦争せんそうは決してくべからざることであって、いわゆる平和なるものは次回の戦争せんそう準備じゅんびのできあがるまで一枚いちまいまくをもってこれをおおうているありさまを指すものとすれば、戦時せんじにあたっても平生にことなった特別とくべつ覚悟かくごようする理由はない。そのかわり平生からつねに戦時せんじ同様に心得こころえていなければならぬ。もとより実際じっさいてき砲火ほうかを相交えておらぬいわゆる平和の時期には、下女が給金きゅうきんの中から軍資ぐんし献納けんのうしたり、小学校の生徒せいとが親にねだって恤兵部じゆつぺいぶへ金を寄付きふしたりするような極端きょくたんなことは不必要ふひつようであるが、精神せいしんの持ちようにいたっては全く同様でなければならぬ。先日ある新聞にぼう村で行うている戦時せんじ中の規約きやくげてあったゆえ、これを読んでみたら、あるいは病気急用などのほかは人力車に乗らぬとか、つとめて華美かびなことをけるとか、無用むよう儀式ぎしきに金をつかわぬとかいうようなことばかりで、一として平生から心得こころえているべきことでないものはなかった。戦争せんそうが始まったについて急にかような規約きやくもうけ、戦争せんそうがすんだあかつきにはふたたびこれをててしまうようなことでは、せっかく戦争せんそうに勝っても、その結果けっかとして国力を増進ぞうしんせしめることは容易よういでない。たといいったん戦争せんそうがすんだとしても、数多あまた異種族いしゅぞくが相対して生存せいぞんする以上いじょう戦争せんそうの全くえてしまうことはないゆえ、平和はすなわち次にきたるべき戦争せんそう準備じゅんびであると心得こころえて、やはり戦時せんじ同様の覚悟かくごを失なってはならぬ。「にいてらんわすれず」という昔からのいましめはすなわちこのことを指したもので、種族しゅぞく生存せいぞんの上から見ればすべてのことわざの中で第一にくらいするのである。
 全くらんわすれて安心していられるような真の平和は過去かこにも一度もなく未来みらいにもまた決してあろうとは思われぬが、かく実際じっさいには絶無ぜつむのものであるにかかわらず、その名を聞くことはきわめて普通ふつうで、およそ異種族いしゅぞく間で何事かの行なわれる場合には、かならず平和のためとしょうすることがれいである。戦争せんそうを始めるのも平和のため、勝っててき国を併呑へいどんするのも平和のため、他国の勝ちえた物を強いててさせるのも平和のため、てさせておいてたちまちこれを拾いとるのも平和のため、なんでもかんでも平和のためとしょうして、自己じこの勝手なことを行なうのが現在げんざいのありさまである。されば列国間の外交文書に平和のためと書くのは、あたかも英語えいごの手紙では、かたきのごとくに思うている人に対しても Dear Sir と書き始めるのと同じことで、日本語に直せば拝啓はいけいとか一筆啓上いっぴつけいじょうとかいう何の意味もない定式の文句もんくぎぬ。むしろ平和という文字をふくんだ外交文書のり取りが頻繁ひんぱんになったら、次の戦争せんそうせまってきたものと見なして、なおいっそう準備じゅんび尽力じんりょくすることが必要ひつようである。
 人道という字も戦争せんそうの口実としてしばしば聞くところであるが、列国間に用いる場合にはこの文字の意味はすこぶる曖昧あいまいである。しかしながら不得要領ふとくようりょうであるゆえ、自分のよくすることを行なうための口実として用いるにはもっとも重宝ちょうほうなもので、今日までに人道のためとしょうして文明国のためにほろぼされた野蛮やばん人は何ほどあるやら知れぬ。文明国同志どうしの間においても、人道のためという文句もんくは、あたかもわが種属しゅぞくのためとあからさまに言うべきところをおおいかざるための符号ふごうのごとくに用いられているように見受けるから、これもやはり平和のためというのと同じく、一種いっしゅの定式の文句もんくとみなしてよろしかろう。手紙をしたためるときに拝啓はいけいと書いても実際じっさい拝むわけではなく、頓首とんしゅと書いても実際じっさい頭を下げる者は一人もないにかかわらず、これらの文句もんくはぶいては先方に対して失礼しつれいにあたるゆえ、その真実でないことは双方そうほうともに充分じゅうぶん承知しょうちしながら、やはりこれらの文句もんく必要ひつようであると同じく、列国はいずれも平和をあいし、人道を重んじ、平和会議へいわかいぎ主唱しゅしょうしたり、てき優遇ゆうぐうする道をこうじたりしているのである。されば平和のてき、人道のてきという言葉はこれを平たく翻訳ほんやくすれば、わが種族しゅぞく膨脹ぼうちょう発達はったつ邪魔じゃまをするやつらということにぎぬが、これとたたかわざるべからざることはいずれの名称めいしょうを用いても同じである。
 以上いじょうべたごとき次第しだいゆえ、およそ世の中に人間のあらんかぎり、戦争せんそうはとうていえぬものと覚悟かくごしなければならず、そのためにはにいてらんわすれぬ心掛こころがけがつねにもっとも大切であるが、新聞や雑誌ざっしを読んで見ると往々おうおうこれに矛盾むじゅんした議論ぎろんを見受けることがある。もしも多数の人々がこれらの議論ぎろんに迷わされるようでは、わが民族みんぞく発展はってんの上にはなはだおもしろくない結果けっかを生ずるであろうと考えるゆえ、その一二についてとくにここにろんじておきたい。
 いかに文明が進んでも人間の幸福はごうすものではない、文明が進めばかえって人間の苦しみがし不平が多くなる。人間は自然しぜん状態じょうたいふくすることによってはじめて真の幸福がえられるのであるなどとく人もあるが、われらから見ると、これは根本から考えが間違まちがうている。文明は決して人類じんるい全体の幸福をすための贅沢物ぜいたくものではない、これによらなければ種属しゅぞく生存せいぞんができぬという必要ひつよう条件じょうけんである。いかに文明が進んだとして生存せいぞん競争きょうそうがなくなるわけはないから、大多数の者は相変わらず苦しんで渡世とせいしなければならぬことは明らかであるが、今日の人間種属しゅぞくは文明か滅亡めつぼうかのうち、いずれか一をえらぶのほかにみちはない。他種属しゅぞくには負けぬだけの速力で文明の方向に進まねばとうてい滅亡めつぼうをまぬがれぬ。今日世界のありさまを見るに、文明の高い種属しゅぞくは日々膨脹ぼうちょう拡大かくだいし、文明のひく種族しゅぞくはそのため漸々ぜんぜん圧迫あっぱくせられて滅亡めつぼうかたむいている。さらに懸隔けんかくのはなはだしい野蛮やばん人種じんしゅは犬ねこ同然どうぜん文明ぶんめい人種じんしゅわれざる以上いじょう続々ぞくぞく死にえてしまう。されば文明に進む進まぬは実に種属しゅぞく死活の大問題であって、決してそのため幸福がすかさぬかというようなことをろんじておられる場合でない。アフリカの山奥やまおくや南洋の荒磯あらいそに住んでいる土人らの中にもてきおそれぬ勇気ゆうき、おのれの種属しゅぞくのために身をてる義心ぎしんにいたっては決してヨーロッパ人におとらぬ者があるが、機関砲きかんほうたれ、水雷すいらいめられてはいかんともしようはない。精神せいしんの方面のみがいくらたしかであっても、物質ぶっしつてき方面でいちじるしくおとるようでは、とうてい今日の生存せいぞん競争きょうそうに勝つことはのぞまれぬ。文明とは知力の進歩を指す語であるが、人類じんるいが他の動物に勝ったのも、文明人が野蛮やばん人を征服せいふくするのも主として知力であって、知力は人類じんるい生存せいぞん競争きょうそうにおけるさい有力の武器ぶきと見なすべきものゆえ、いささかでも文明の発達はったつをいやしむようなかたむきがあってはとうてい他人種たじんしゅに対して勝をせいすることはできぬ。現今げんこんの青年の中にはトルストイなどの健全けんぜんな思想に感染かんせんして、今日の文明をとく物質ぶっしつてき文明と名づけ、軽蔑けいべつの意味をもってこれを得々とくとくとしている者もあるように見受けるが、これははなはだ心得こころえちがいのことである。わが国を真の一等国として、大いにわが民族みんぞく発展はってんを図ろうとするならば、よろしく生存せいぞん競争きょうそうにおける文明の価値かち承知しょうちし、さい堅牢けんろう戦闘せんとうかんでも、最大さいだい速力の機関車きかんしゃでも、わが国でできるように、最大さいだい博物館はくぶつかんでも、さい完全かんぜん実験場じっけんじょうでも、わが国にそなわるようにと心掛こころがけるべきである。そのくらいの意気込いきごみでなければ、たちまち他の諸国しょこくとの文明の懸隔けんかくして、とうてい追いつけぬほどにおくれてしまう。
 ここに文明と言うたのはもちろん、いわゆる文明紳士しんし贅沢ぜいたく生活を指すのではない。今日のいわゆる文明社会の生活の状態じょうたいを見ると実際じっさい感服のできぬ点がはなはだ多くあるが、その原因げんいんは決して知力の進んだためではなく、各個人かくこじん利己りこ心のみをたくましうして団体だんたい全部の利害りがいかえりみぬことや、かかることをあえてせしめる社会の制度せいど不備ふびの点あることなどが、おもなる原因げんいんであろう。今日文明社会に欠点けってんの多いのを見て、そのつみをただちに文明その物にかぶせるのは議論ぎろんが全く転倒てんとうしていると思う。知力の進歩は今日の人類じんるい生存せいぞん競争きょうそうには一日もゆるかせにすべからざることゆえ、この意味における文明はどこまでも発達はったつせしめるようにと力をつくし、今日の文明にともな欠点けってんべつにその原因げんいんを研究して、これをふせぐのほうこうずるのほかはない。今の世の中にあって物質ぶっしつてき文明をののしって、その進歩をふせげようとするのは、あたかも自己じこ民族みんぞく自殺じさつ主張しゅちょうするのと同じことにあたる。
 また世の中には科学万能ばんのう主義しゅぎ排斥はいせきするとしょうして、あんに世人の科学に対する信用しんよう減殺げんさつしようとはかる者があるが、これもまた大いにいましむべきことである。一体科学万能ばんのう主義しゅぎとはたれがとなえる主義しゅぎであるか、これがすでにうたがわしい。いやしくも自身で科学をおさめる者ならば科学の万能ばんのうにあらざることくらいを承知しょうちせぬ者はないはずであるから、科学万能ばんのう主義しゅぎなるものはおそらくこれを排斥はいせきするとしょうする人らが故意こいつくるか、あるいは誤って想像そうぞうしているものにぎず、これに向うてたたかいをいどんでいるのは、あたかもドンキホテが風車に対してけんふるうているのと同様で、むしろ滑稽こっけいである。科学以外いがいのことはいかになってもかまわぬ、ただ科学さえ進めばよろしいと考える人があろうとは決して思われぬゆえ、これに対してならば心配はすこしもいらぬ。人生には科学以外いがいにも必要ひつようなことがなお数多くあるはむろんであって、いずれの方面にももとより力をつくさねばならぬが、今日の人類じんるい生存せいぞん競争きょうそうには純粋じゅんすいおよび応用おうようの科学の進歩がもっとも有力なる武器ぶきであることは眼前めのまえの事実であるゆえ、いかなる口実のもとにでもこれを軽んずる傾向けいこうつくることは決してほむべきことでない。われわれはしょ強国の現状げんじょうを調べ、一歩もかれらにおとらぬのみか、さらにいっそうまさろうとの覚悟かくごをもって科学を進めねばならぬ次第しだいゆえ、今後はなお数倍も意を用いて一般いっぱん人民じんみんに科学を重んずる習慣しゅうかん養成ようせいすることが必要ひつようである。宗教しゅうきょうや文学を進歩せしめるのはもとより結構けっこうであるが、そのために科学かがく万能ばんのうせつにあきたとか、物質ぶっしつてき文明にあきたらぬとかいうごとき文句もんくをならべて、科学と文明とに反抗はんこうするような態度たいどしめすことはわが国などにおいてはとくにつつしまねばならぬことであろう。
 人間の生活に必要ひつよう条件じょうけん種々しゅしゅの方面にわたってはなはだ数多くあり、決して科学の発達はったつ物質ぶっしつてき文明の進歩のみにかぎられてないことはあらためて言うにおよばぬことで、いわゆる精神せいしんてき方面の発達はったつももとより重要じゅうようである。人間は日夜たえず戦闘せんとうにのみ従事じゅうじしておられるものではない。その間にはむろん相当の娯楽ごらくもなければならず、美術びじゅつ文芸ぶんげいのごときも人生にとってくべからざるものである。また人間の知力の発達はったつ程度ていどは決して一様でないゆえ、大多数の人々の安心立命のためには宗教しゅきょうもまたはなはだ必要ひつようである。これらのものもすべて進歩せしめねばならぬが、そのために科学の発達はったつ物質ぶっしつてき文明の進歩をゆるめて安心しておられる理由は少しもない。もとより物質ぶっしつてき文明が進んだからというて、そのため人情にんじょう風俗ふうぞくがよくなるというわけはなく、われら一個いっこの考えによれば今後はますます万民鼓腹こふくしていささか不平ふへいもない理想りそうてき黄金世界からは遠ざかりゆくであろうが、これはべつに理由のあることで、物質ぶっしつてき文明が進んでも進まなくてもおそらくけることはむずかしかろう。しかしながらもし物質ぶっしつてき文明の進歩におくれたならば、たちまち他国から圧迫あっぱくせられて非常ひじょうに苦しい目にわねばならぬ。人間の性質せいしつ上、戦争せんそうえるごときことはとうていのぞまれず、ただ他の民族みんぞく等が外からわが民族みんぞく圧迫あっぱくする力と、わが民族みんぞくが外に向こうて膨脹ぼうちょうせんとする力とのり合いによって、暫時ざんじわずかに平和の姿すがたたもたれるにぎぬこと、生存せいぞん競争きょうそう場裡じょうりに立つ間は科学の発達はったつ物質ぶっしつてき文明の進歩は一日もゆるかせにすべからざることが明瞭めいりょうである以上いじょうは、われわれは充分じゅうぶんにこの点に力をつくして他の民族みんぞくを追いそうとつとめねばならぬ。いささかでもこの点を軽んずるようでは後にいたっていても取り返しのつかぬような不利益ふりえき境遇きょうぐうにおちいるおそれがある。しかるに多数の青年の愛読あいどくする文学雑誌ざっしには往々おうおう前にべたごとき科学や物質ぶっしつてき文明をのろうごとき口調の議論ぎろんも見えるようであるゆえ、もしこれにまよわされる人がありはせぬかとの老婆心ろうばしんから一言ここにべんじておいたのである。
(明治三十七年三月)






底本:「進化と人生(上)丘浅次郎集」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1904(明治37)年4月  戦争せんそうと平和 「青年界」に掲載
校正:
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
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