新人と旧人

丘浅次郎



一 新旧しんきゅう区別くべつ


 同じ時代にあいならんで生活している人間を、こうは新しい人、おつふるい人と区別くべつするには、むろんなんらかの定まった標準ひょうじゅんがなければならぬ。かつて、新しい女が五色のさけを飲むとかいう評判ひょうばんがしきりに新聞紙などに出たが、このごろはあまりそのうわさを聞かなくなったのは、大方もはや新しくなくなったのであろう。かように新しくなり始めだけが新しくて、しばらくすると新しくなくなるようでは、これは真に新しい人とは言われぬ。しからば、真に新しい人とは如何いかなるものであるかというに、われらの考えによれば、人類じんるいが古代にそなえていた性質せいしつを今もなおそなえている人間をふるい人と名付なづけ、これに対して、人類じんるい将来しょうらい有するであろうとは思われる性質せいしつを今日すでに有する人間を新しい人と名付なづけるのがもっと適当てきとうである。しこうして、さらにわれらの考えるところによれば、人類じんるいが古代にそなえていた性質せいしつの中でもっともいちじるしいのは服従性ふくじゅうせい、すなわち奴隷どれい根性こんじょうであって、人類じんるい将来しょうらいに有するであろうと思われる性質せいしつの中でもっともいちじるしいのは、奴隷どれい根性こんじょうを持たぬということであるから、この点にもとづいて定義ていぎを下せば、ふるい人とは奴隷どれい根性こんじょうをなお多量たりょうに有する人、新しい人とは奴隷どれい根性こんじょうをすでにうしなうた人ということができる。かく標準ひょうじゅんを定めて、今日の世の中を見渡みわたすと、ふるい人とは決して天保てんぽう生まれの老人ろうじんかぎるわけではなく、新しい洋服を着て、横文字の書物をかかえて歩くわか人達ひとたちにも、ずいぶんおびただしくふるい人があるように思われる。以下いか少しく、奴隷どれい根性こんじょう起源きげんおよび変遷へんせんろんじて、新人と旧人きゅうじんとの差別さべつべて見よう。
 ここに一つわすれてはならぬのは、奴隷どれい根性こんじょうには表とうらとの二面のあることである。目上の者には平身低頭ていとうして如何いかなるおおせでも御無理ごむり御尤ごもつともとうけたまわっているのは奴隷どれい根性こんじょうの表であって、このほうはだれの目にも明らかに奴隷どれい根性こんじょうと見える。これに反して、目下の者に対して威張いばることは奴隷どれい根性こんじょううらである。目上に頭を下げるのも、目下に威張いばるのも、世の中を若干じゃっかんの階級に分けてのことゆえ、精神せいしんの持ち方にいたっては少しもことなるところはない。しかるに世人はとかく、奴隷どれい根性こんじょうの表だけを奴隷どれい根性こんじょうと考え、うらも同じく奴隷どれい根性こんじょうであることをわすれている。奴隷どれい根性こんじょうとは人為じんい階級かいきゅうべつに重きをおく根性こんじょうであるゆえ、一名を階級てき精神せいしん名付なづけてもよろしいが、この意味に取れば、威張いばることはむろん奴隷どれい根性こんじょう範囲はんいぞくする。奴隷どれい根性こんじょうのない人は、自分の頭の上に他人をいただくことを、我慢がまんせぬ代わりに、自分の足の下に他人をくこともきらうはずである。一言で言えば、威張いばったり威張いばらせたりするのは、奴隷どれい根性こんじょうを有する旧人きゅうじん性質せいしつで、威張いばりもせず、威張いばらせもせぬのが、奴隷どれい根性こんじょううしなうた新人の特徴とくちょうでなければならぬ。

二 奴隷どれい根性こんじょう進歩しんぽ


 そもそも奴隷どれい根性こんじょうなるものは、人間のみの有する性質せいしつであるかというに。決してさようなわけではなく、およそ階級かた団体だんたいつくって生活する動物には必ず見られる共通きょうつう性質せいしつである。たとえば猿類えんるいのごときも、一団体だんたいごとに一疋いっぴきの年取った強いおす大将たいしょうとなって無上むじょう権威けんいをふるい、他はことごとく絶対ぜったい服従ふくじゅうしている。いささかでも命令めいれいそむいたり、またはちょっとめすにふざけたりする者があれば、たちまち大将たいしょうのために半殺はんごろしの目にう。その代わり、てきせてきたときには、大将たいしょう一疋いっぴきみとどまり、生命をして勇敢ゆうかんにこれとたたかい、他の者等を安全にのがれしめるごときこともしばしばある。ようするに、さる団体だんたいにおいては、大将たいしょうするどきばと強いうでとの実力によって部下を統御とうそつしているのであるが、部下は、また大将たいしょうのために助けられる場合もあるゆえ、あまんじてその命令めいれい服従ふくじゅうしている。ありはちなどのごとくに、かく個体こたいが生まれながらの本能ほんのうによって行なうことが、そのままことごとく団体だんたいのためになるような動物では、教えることも習うことも、指揮しきすることも服従ふくじゅうすることもすべて不要ふようであるが、団体だんたい内のかく個体こたいが、知力においても、腕力わんりょくにおいても、はなはだしい懸隔けんかく(注:二つの物事がかけはなれていること)があり、戦闘力せんとうりょく一疋いっぴきごとにいちじるしくちがうような動物では、弱い者やおろかな者が強い者やかしこい者に絶対ぜったい服従ふくじゅうすることが、団体だんたい生存せいぞん上、何よりも得策とくさくである。かかる団体だんたいでは、かしこい者が理屈りくつを考えて下した命令めいれいには、おろかな者はただ盲従もうじゅう(注:自分で判断はんだんをせず、相手の言うがままにしたがうこと)すればよろしい。そのほうがおろかな者が銘々めいめい自分のあやしい知恵ちえで考えて行動するよりもはるかによい結果けっかられる。また弱い者は、ただ強い者の後にいて行きさえすればよい。そのほうが、弱い者が自分の力だけで勝手な方面に冒険ぼうけんするよりはるかに安全である。すなわち弱い者やおろかな者は、ただなんでも強い者やかしこい者に絶対ぜったい服従ふくじゅうしておれば、それがすなわち団体だんたいのためにもっと有利ゆうりであり、したがってかく個体こたいのためにももっと有利ゆうりである。最賢さいけん最強さいきょう一疋いっぴき大将たいしょうにいただき、他は残らずこれに絶対ぜったい服従ふくじゅうしておれば、協力きょうりょく一致いっち完全かんぜんに行なわれ、てきなる団体だんたいとももっと有効ゆうこうたたかうことができるが、そのためには、各員かくいん奴隷どれい根性こんじょう充分じゅうぶんそなえていることをようする。奴隷どれい根性こんじょうというと、いかにも下等ないやしいもののごとくに聞えるかもしれぬが、階級かた団体だんたいには奴隷どれい根性こんじょう生存せいぞんもっとも大切なもので、その発達はったつした団体だんたいほどてきとの競争きょうそうに勝つ見込みこみが多い。
 人間も原始時代にはおそらく猿類えんるいと同じく、一人の酋長しゅうちょうひきいられた小団体だんたいつくっていたろうと思われるが、その後、団体だんたいが次第に大きくなり、生活状態じょうたい進歩しんぽしてくるにしたごうて、奴隷どれい根性こんじょうも他の動物とはややちがうた形式をていするにいたった。団体だんたいが大きくなれば、一人の酋長しゅうちょうが自身で直接ちょくせつに全部を指揮しきすることはできぬゆえ、いきおい部下の中からもっと技倆ぎりょう(注:物事を行ううまさ)のすぐれた者をえらび出して、一部の指揮しき委任いにんせねばならぬが、かかる指揮しき者の数がだんだんせば、団体だんたいは上にくらいして指揮しきする階級と、下にくらいして指揮しきせられる階級との二段にだんに分かれ、指揮しきする階級の中には、また上の上から下の下まで幾段いくだんかの等級が定まる。しこうしててきたたかうに当たっては命令めいれいかならず行なわれることが何よりも大切であるゆえ、いずれの階級の者も自分より一段いちだんでも上の者には絶対ぜったい服従ふくじゅうし、自分より一段いちだんでも下の者には無上むじょう権威けんいをふるう。革命かくめい前のロシアの陸軍りくぐんでは、少将しょうしょう大佐たいさ横面よこづらたおし、大佐たいさ中佐ちゅうさを、中佐ちゅうさ少佐しょうさを、少佐しょうさ大尉たいい順継じゅんつぎにたおすと何かの書物で読んだことがあるが、自然しぜんかような状態じょうたいにもなったであろう。かくして立派りっぱな階級制度せいどができあがるが、これだけならば、さるや原始時代の人間にくらべて、ただ仕組みが複雑ふくざつになったというだけで、根本の理屈りくつにおいてはまだ何らことなったところはない。しかし、さらに他の方面を見ると、大いにこれとおもむきことにする点が生じた。
 さるや原始時代の人間の団体だんたいでは酋長しゅうちょうかなら酋長しゅうちょうくらいたもるだけの実力をそなえておらねばならぬ。それゆえ、酋長しゅうちょうの子といえども、酋長しゅうちょうになるだけの実力がなければ決して酋長しゅうちょうくらいぐことはできぬ。しかるに人間の団体だんたいがやや大きくなって、指揮しきする者の数がえれば、指揮しき者は、その仲間なかま全体の力によって、下を司配しはいればよろしいゆえ、かならずしもその一人一人がことごとくすぐれた技倆ぎりょうを有するにおよばぬ。ここにおいてはじめて酋長しゅうちょうくらい世襲せしゅう(注:身分みぶん財産ざいさん職業しょくぎょうなどを氏族しぞくの直系の血筋けつぞく子孫しそんが代々受けいでいくこと)てきとすることが可能かのうとなる。司配しはいする者と司配しはいせられる者とは日ごろから生活の状態じょうたいちがい、酋長しゅうちょうの子は幼少ようしょうの時から衆人しゅうじん尊敬そんけいせられ、おのずから他を見下す習慣しゅうかんがつき、それだけ挙動きょどう尊大そんだいになるが、奴隷どれい根性こんじょう程度ていどまで発達はったつした世の中では、それが酋長しゅうちょうくらい資格しかくの一つと見なされ、多くの場合には実際じっさいそのくらいぐことを承認しょうにんせられる。とく指揮者しきしゃ階級の中段ちゅうだんくらいする者から見れば、酋長しゅうちょう凡庸ぼんよう(注:平凡へいぼんでとりえのないこと)であるほうがかえって都合のよろしいような事情じじょうもあるゆえ、世襲せしゅうてき酋長しゅうちょうは次第に一種いっしゅ偶像ぐうぞうとして、真に権力けんりょくを有する者たちにかつがれるかたむきが生じ、司配しはいせられる階級からは無上むじょう尊敬そんけいを受けながら、実は部下の者に利用りようせられておるにぎぬありさまとなる。はじ酋長しゅうちょうの実力に信頼しんらいして絶対ぜったい服従ふくじゅうしていた奴隷どれい根性こんじょうは、かくして実力のともなわぬ空位くういの人を礼拝れいはいするように変化へんかする場合も生ずるが、これはさるの社会などには決してないことである。人類じんるい奴隷どれい根性こんじょう発達はったつかんしては、なおぶべきことが非常ひじょうに多くあるが、あまり長くなるゆえここにはこれをりゃくする。とにかく、階級制度せいど団体だんたいにおいては、絶対ぜったい服従ふくじゅう完全かんぜんに行なわれさえすれば、団体だんたい内の秩序ちつじょ充分じゅうぶんたもたれ、協力きょうりょく一致いっちは理想てきに実行せられ、全団体だんたいはあたかも一個体こたいのごとくに動作することができるゆえ、てきなる団体だんたいたたかうに当たっては、これほど強いことはない。かような団体だんたいにおいては、奴隷どれい根性こんじょうは実に最高さいこう道徳どうとくとしてとうとぶべきものであったろう。
 かくして奴隷どれい根性こんじょうは、団体だんたい生活に必要ひつよう性質せいしつとして漸々ぜんぜん発達はったつし、る時代にはその頂上ちょうじょうたつした。そのころの人間には、目上の者には絶対ぜったい服従ふくじゅうするという性質せいしつが心のそこまでんで、生まれたときから、この根性こんじょう多量たりょうそなえ、階級制度せいど当然とうぜんのこととして少しもうたがいをいだかず、不満ふまんをも感ぜず、またそのころの教育はもっぱら階級制度せいどと、その根柢こんていたるべき奴隷どれい根性こんじょう維持いじ養成ようせいに力をつくし、上の階級の者に対する絶対ぜったい服従ふくじゅうをもって最高さいこう道徳どうとくと見なし、目上の者のために命をてることを善美ぜんび極致きょくちとしてほめたてた。たとえば、上級の者の子を助けるために我子わがこを身代わりとしてころしたとか、上級の者のかたきを打つために長らく苦辛くしん(注:非常ひじょうに苦しむこと)してついに相手の首を切ったとかいうことが、模範もはんてき善行ぜんこうとしてつたえられ、歌にも歌われ芝居しばいにも仕組まれた。その余波よはとして、家庭内でも階級のべつ厳重げんじゅうで、一段いちだん上の者には絶対ぜったいに頭が上がらず、とくに女子のごときは如何いかなる無理むりにも服従ふくじゅういられ、しゅうと無理むりを言うものと思えとよめに行く前から引導いんどうわたされた(注:あきらめるように最終的さいしゅうてき宣告せんこくをされた)が、その代わり自分がしゅうとになると、今度はできるだけよめをいじめて、わかいときの意趣返いしゅがえし(注:仕返しをしてうらみをらすこと)をした。ようするに、奴隷どれい根性こんじょうなるものは、原始時代の人間には、団体だんたい生活をいとなむ上に必要ひつよう性質せいしつとして次第しだい発達はったつし、階級制度せいど完成かんせいとともにその最高さいこう点まで到着とうちゃくしたのである。

三 奴隷どれい根性こんじょう退化たいか


 団体だんたい内に協力きょうりょく一致いっち精神せいしん充満じゅうまんしておる間は、上にくらいする者は、たとえ無上むじょう権威けんいを持っていても、決して無理むりなことをいぬゆえ、下々しもじもの者等はつねによろこんで服従ふくじゅうし、ごう(注:少し)も強制きょうせいせられている感じを起こさずにすむが、団体だんたいが大きくなるにしたがい、協力きょうりょく一致いっち性質せいしつ退化たいかすると、上下ともに、ただ自分の利益りえきのみを考えるようになり、したがって上にくらいする者はその権威けんいを悪用して、しきりに下を圧制あっせいする。また下にある者どもは、奴隷どれい根性こんじょうの次第にげんじゆくにともなうて、従来じゅうらいのごとくに無条件むじょうけん服従ふくじゅうすることができなくなり、さまざまの不平ふへいを起こしはじめる。上にくらいする者のやり方に無理むりがあれば、不平ふへいはもちろんはげしからざるをえない。かくておさめる者とおさめられる者との間に協力きょうりょく一致いっちができぬような状態じょうたいになれば、絶対ぜったい服従ふくじゅう奴隷どれい根性こんじょういきおい次第に減退げんたいするのほかはないが、すでに退化たいか途中とちゅうにある性質せいしつ奇態きたい(注:不思議ふしぎなこと)に一人一人ではなはだしく程度ていど相違そういするものである。たとえば、人間の盲腸もうちょうについている虫様垂ちゅうようすいのごときも、人によってはわずかに一寸いっすん(注:3cm)か一寸いっすん五分(注:4.5cm)にぎぬこともあり、また長いのは六寸ろくすん(注:18cm)も七寸ななすん(注:21cm)もあるが、今日の人間の有する奴隷どれい根性こんじょうも、それと同様で、非常ひじょう多量たりょうそなえている人もあれば、はなはだ少量しょうりょうより持ち合わさぬ人もある。されば、同じ時代にあいならんで生活している人間に、はなはだふるい人、ややふるい人、やや新しい人、すこぶる新しい人などさまざまの相違そういのあるのは、あたかも虫様垂ちゅうようすいにはなはだしい長短のがあると同じで、いずれも退化たいか途中とちゅう性質せいしつにはありがちの現象げんしょうである。 階級制度せいどは元来、奴隷どれい根性こんじょう基礎きそとして、その上にきづき上げたものゆえ、奴隷どれい根性こんじょうが少しずつ退化たいかすれば、階級制度せいど片隅かたすみから次第しだいにくずれかかるをまぬがれぬ。上に立つ者が、実際じっさい下々しもじもよりははるかにまさった技倆ぎりょうそなえておる間は、何らの不平ふへいも起こらぬであろうが、酋長しゅうちょうくらい世襲せしゅうてきとなって有為うい(注:能力のうりょくがあること)の父のあと愚劣ぐれつ(注:おろかで、おとっていること)な息子むすこぐごとき場合には、おいおい苦情くじょうが出てくる。奴隷どれい根性こんじょうの高度に発達はったつしていたころには、下の者等は上にくらいする者の実際じっさいに有する技倆ぎりょうなどはごうただ(注:たしかめる)さず、ただ自分よりは上にくらいする者というだけでこれに絶対ぜったい服従ふくじゅうしていたが、奴隷どれい根性こんじょうが少しずつ退化たいかして、程度ていどまでたつすると、物の見方が大分わってきて、今まで服従ふくじゅういられながら、これを当然とうぜんとして何とも思わずにいた連中れんちゅうの中から、上の階級の者をながめて種々しゅしゅ不審ふしんを起こし始める。かれも人なり、われも人なり、天が人をつくるに当たってかれわれよりも上につくったわけではなかろう。しからば我々われわれはなぜかれの下に立って、かれの命ずるままにはたらき苦しまねばならぬかとうたがうて見ると、とうてい得心とくしんのゆくような答えは発見せられぬゆえ、ますます不平ふへいつのってついにはやかましく自由平等の権利けんり主張しゅちょうする。上の階級の者は、むろん従来じゅうらいのままの階級制度せいど保存ほぞんしておくことが自分等に有利ゆうりであるゆえ、極力きょくりょくこれを維持いじしようとつとめる。今まで階級制度せいどで進みきたった団体だんたいににわかに階級制度せいどがくずれては、秩序ちつじょみだれるは明らかであるゆえ、上にくらいする者等は、自分等の勝手はかくし、もっぱらこれを言前いいまえ(注:言い分け )として、兵力へいりょく宗教しゅうきょう、教育など、あらゆる手段しゅだんを用いて奴隷どれい根性こんじょう養成ようせい尽力じんりょくするが、下にくらいする者のほうから見れば、階級制度せいどが長くつづけばつづくだけ、不利益ふりえきが長くつづくわけゆえ、一日も速くこれをあらためようとよくする。かようになっては両者の衝突しょうとつはとうていけることはできぬが、奴隷どれい根性こんじょう退化たいか自然しぜん大勢たいせいである以上いじょうは、如何いかに上の階級の者等がこれを逆行ぎゃっこうせしめんと努力どりょくしてももちろん不可能ふかのうであって、最多数さいたすうめておる最下級さいかきゅうの者に対しては衆寡しゅうかてきせず(注:多数と少数では相手にならない)、一騒ひとざわぎのあるごとに、上の階級の者は一つずつ伝来でんらい特権とっけんをもぎ取られ、下の階級の者は一つずつ新たな権利けんりて、ついに貴賤きせん(注:とうといことといやしいこと)の差別さべつが全くないまでにいたらねばやまぬであろう。

四 ふるい人


 さて以上いじょうのごとくに考えながら、今日の世の中を見渡みわたすと、ふるい人はなおすこぶる数多くいる。階級制度せいどが心までんで、目上の者には自然しぜんに頭が下がるのがふるい人の特徴とくちょうであるゆえ、如何いかなる形においてなりとも、この根性こんじょうあらわす人は、たしかにふるい人に相違そういない。わずかに一段いちだん上の人にも頭が上がらぬくらいであるから、幾段いくだんも上の者に対してはあたかも犬が飼主かいぬしに対するのと同じような極度きょくど奴隷どれい根性こんじょうあらわれ、ちょっと頭をなでてもろうただけでもうれしくてえられぬ。殿様とのさま御前ごぜん揮毫きごう(注:毛筆もうひつで何か言葉ことば文章ぶんしょうを書くこと)したとか、某藩主ぼうはんしゅの前で講演こうえんをしたとかいうことをこの上もない名誉めいよ心得こころえる当人ももとよりふるい人であるが、これをこの上もない名誉めいよとして評判ひょうばんして歩く人も、これを聞いてこの上もない名誉めいよ感服かんぷくする人もことごとくふる人達ひとたちである。卒業そつぎょう成績せいせきがよかった御褒美ごほうびとして従二位じゅにい様から頂戴ちょうだいした品を一生の宝物たからものとする学生もふるい人であり、そこへむすめをやろうと思いつく教師きょうしふるい人である。自分の書いた書物の巻頭かんとう高位こうい高官こうかんの人の書いた題字をげてありがたがる著者ちょしゃふるい人なれば、かような書物をありがたがって買う読者もふるい人である。晏子あんし(注:晏嬰あんえい。中国春秋時代のせい政治家せいじか)の御者ぎよしやが主人の威光いこうかさに着て得々とくとくとしていたのは奴隷どれい根性こんじょうもっと遺憾いかんなき(注:申し分ない)暴露ばくろであるが、階級が一つ上がって制服せいふくわれば、直ちにそれを着て威張いばりたがる人の根性こんじょうも、またこれを見てうらやましがる人の根性こんじょうも、これと少しもわりはない。またふるい人は死んでもたんに死んだとは言わず、階級によって一々用いる文字を区別くべつし、新聞の広告こうこくにもかならずその文字を用いて、階級の高いことをしめさずにはおられぬと見えるが、奴隷どれい根性こんじょう退化たいかした下級の者がこれを見ると、あたかも自分にどろをはねかけて走って行った自動車がほりに落ちたのを見て、ああお気のどくなと感ずるのと同じ種類しゅるいのお気のどくさを感ずる。東海道のる宿屋の座敷ざしきに、昔、大藩主だいはんしゅであった人等の家扶かふ(注:家令かれい補佐ほさした職員しょくいん)とか家令かれい(注:皇族こうぞく華族かぞくの家の事務じむ・会計を管理かんりし、使用人の監督かんとくに当たった人)とかから、よこした手紙をり交ぜにした屏風びょうぶが立ててあったが、これなどはもっと露骨ろこつふるい人の根性こんじょうあらわしている。その文句もんくは、いずれも同勢どうせい何人何日のばんとまるからよろしくたのむとか、殿様とのさま御弁当おべんとうには温かい御飯ごはんをなるべくフーワリとめてもらいたいとかいうような下らぬことを横柄おうへい文句もんくで書いただけであるが、これを鄭重ていちょう表装ひょうそうして客室に立てておく亭主ていしゅの心では、おそらくこれによって自分の店の格式かくしきを大いに高めたつもりであろう。かようなれいは遠くもとめるにはおよばず、日々の新聞紙を見れば、いくらでもある。通信つうしん講義録こうぎろくを発行する会の広告こうこくに、会長正三位せいさんみぼうと一号活字で出してあるのも、たしかにふるい人等を方便ほうべんであろう。総裁そうさあいぼう侯爵こうしゃくとか副総裁ふくそうさいぼう伯爵はくしゃくとかいうのは、みなこのるいであろうが、それが会員募集ぼしゅう手段しゅさんとして、相応そうおう効力こうりょくがあるのは、世間にふるい人のはなはだ多いしるしである。その他この品はどこの殿様とのさま御買上おかいあげをねがうたとか、ぼう子爵ししゃくから御用命ごようめいをかたじけのうしたとかいうごとき、ほかの客には何の関係かんけいもなかるべきことが商品の広告こうこくにはおびただしく出ている。何でも自分より上の階級の人々といささかでもつながりのあることを名誉めいよとしてほこりたがるのがふるい人のくせであるが、かようなれいかぎりなくあるゆえ、他はりゃくする。
 ふるい人でたされておる世間に住むには、むろんふるい人のほうが仕合わせである。ふるい人とは奴隷どれい根性こんじょうを、なお多量たりょうそなえておる人のことであるが、かような人から見れば、階級制度せいどには何の無理むりもないゆえ、そのよい方面だけをげて、現代げんだい謳歌おうかしておることができる。階級制度せいどの行なわれておる世の中で楽天家たることは、奴隷どれい根性こんじょううしなうた人にはとうていできぬことである。またふるい人等が跋扈ばつこ(注:ほしいままにうこと)しておる時代には、上の階級にある人の知遇ちぐうねば上の階級に上ることはできぬが、ふるい人ならばこれを当然とうぜんと見なして、何の不快ふかいをも感ぜずにおられる。かつ、世間一般いっぱんふるい人でたされておれば、人の上に立つには威風いふう堂々どうどうかまえてかかる必要ひつようがあるが、ふるい人ならば、かようなことを平気で行なう。前にべたとおり、服従ふくじゅうすることと威張いばることとは同一物のうらと表とにぎぬが、ふるい人は、上に対しては服従ふくじゅうし下に対しては威張いばることが少しも苦にならぬゆえ、階級制度せいどの世の中に身をしょして行くにはもっとてきしている。ようするに階級制度せいど厳格げんかくに行なわれている時世にあっては、奴隷どれい根性こんじょうそなえたふるい人でなければ出世はできず、また出世する人ならばかなら奴隷どれい根性こんじょうそなえたふるい人であるにちがいない。

五 新しい人


 ふるい人が階級の高低こうてい非常ひじょうに重きをおくに反し、新しい人は奴隷どれい根性こんじょう退化たいかした結果けっかとして、従来じゅうらい人為じんいてきの階級べつなどは全く眼中がんちゅうにおかず、たんにその人の有する力量りきりょうや、その人のなした仕事によってのみ、人間を評価ひょうかする。したがって如何いかに階級の高い人でも実際じっさいしゅうにすぐれた力量りきりょうそなえていることが明らかでなければ、決してその人を尊敬そんけいする心持ちになれず、その人等が如何いかなることを説法せっぽうしても自分がなるほどと合点のいったことでなければ、決してこれにしたがわぬ。何ごとを考えるにも、自分の了見りようけん(注:考え)で自由に推理すいりし、理屈りくつに合うたと思うことならば、これをしんずるが、いささかでも理屈りくつに合わぬと思うことは遠慮えんりょなく拒絶きょぜつする。されば、新しい人に対しては如何いか高圧力こうあつりょくを用いても合理の思想を注入することは不可能ふかのうである。人類じんるい歴史れきしの長さにくらべては、奴隷どれい根性こんじょう退化たいかし始めたのは実に近代のことであって、その上、自分で自由に考えるには程度ていどの教育が必要ひつようであるゆえ、今日のところでは、真に新しい人はいまだまことに少数にぎぬであろうが、その方向にかたむいている人間はすでに存外ぞんがいに多いかもしれぬ。新しい人と古来の階級制度せいどとはとうてい相容あいいれぬゆえ、今まで高い階級にいて不当ふとう利益りえきめていた者等から見れば、新しい人は自分たち特権とっけんうばおうとする危険きけんな人物のごとくに思われ、何とかして、かかる人間のえぬようにと力をつくすのは当然とうぜんである。
 しかしながら教育が普及ふきゅうし、書物の読める人間が多くなると、それだけのうはたらきも進んでくるゆえ、奴隷どれい根性こんじょう退化たいかは、それだけ速かになり、新しい人の数もえざるをない。どこの国の歴史れきしを見ても、古代には階級制度せいど確乎かっこ(注:しっかりして 動かないさま)としてゆるぎもせぬ様子であったのが、近代にいたって新しい人間が次第に増加ぞうかし、そのため在来ざいらいの階級制度せいどすみのほうから少しずつくずれてきた。中にはにわかに瓦解がかい(注:ある一部がみだれ、やぶれ目が広がって組織そしき全体がこわれること)して後始末あとしまつのつかぬものもある。下をおさめる階級にある者どもが旧制度きゅうせいどをなるべく保存ほぞんしておきたがるのは団体だんたい秩序ちつじょ安寧あんねい(注:国や社会がいていて、乱れていないこと)をたもつためとして当然とうぜんであるが、時代の進歩しんぽとともに新しい人のえるのはもはや自然しぜんいきおいであるから、如何いかなる努力どりょくをもってしてもとうていこれをふせぎ止めることはむずかしかろう。
 金色に光っている物に、金無垢きんむく鍍金めつきとがあるごとくに、新しい人と見える者の中にも真に新しい人と上部うわべだけ新しい人とがある。新しいとか、ふるいとかいうのは、いずれも比較ひかくてきの言葉であって、絶対ぜったいに新しいとか絶対ぜったいふるいとかいうものは決してない。奴隷どれい根性こんじょう退化たいかするにしたごうて人は次第に新しくなってゆくのであるから、今日もっとも新しいと見なされる人も、実はなお若干じゃっかん奴隷どれい根性こんじょうを有していることはあらそわれぬ。しかしながら、今日のもっとも新しい人々は、すでに大部分、これをうしなうている。これに反して、ただ新しい思想の受売りをするだけの人々は、言うことや書くことの表面だけは新しいが、その実質じっしつははなはだふるい。たとえば世間を並等なみとう(注:上等と下等の中間の等級)の多数者と特等とくとうの少数者とに分けて、自分は特等とくとうのほうにぞくする者としてしきりに威張いばるごときはそれである。多数の人々の集まっている中で自分一人が他より区別くべつせられ尊敬そんけいせられれば、だれも悪い心持ちはせぬが、これは心のおくに階級てき精神せいしんひそんでおるゆえである。しこうして、この精神せいしん多量たりょうそなえている人ならば、たしかにふるい人と見なさねばならぬ。「わたしもデモクラシーと太鼓たいこ持ち」という狂句きょうく(注:近世後期こうきに生まれた日本における定型詩ていけいしのひとつ)もあって、新しそうなことを言うことの流行する時節じせつには、だれかれもが、あらそうて新しそうなことを言うが、心中の階級てき精神せいしんが消えぬ間は、かれらはことごとく、鍍金めっきの新しい人たるにぎぬ。
 ふるい人が、上を威張いばらせ、下に威張いばるのに反して、自分も威張いばらず、他人をも威張いばらせぬのが真の新しい人の特性とくせいであるゆえ、ふるい人ばかりの世の中に住んでは、新しい人は多くは失意しつい境遇きょうぐう我慢がまんせねばならぬ。奴隷どれい根性こんじょうがなければ、上の階級の者にも絶対ぜったいには服従ふくじゅうせぬために、その子分として、引き立てられるのぞみが少ない。また、奴隷どれい根性こんじょうを有する連中れんちゅうを相手としては、程度ていどまで威厳いげんしめさねば、馬鹿ばかにして服従ふくじゅうせぬゆえ、かれらの親分として立つこともできぬ。すなわち新しい人は他人の下にくらいすることをいさぎよしとせぬゆえ、他人の子分となる資格しかくがなく、また他人の上にくらいすることをこころよしとせぬゆえ、他人の親分となる資格しかくもない。されば親分子分の関係かんけいで全部がり立っているような社会には新しい人は身のおきどころに困却こんきゃく(注:こまてること)する。ふるい人の跋扈ばつこしている時代に出世するには、在来ざいらいの階級制度せいどに自分をはめてゆくことが必要ひつようで、それには一定量いっていりょう奴隷どれい根性こんじょうようするが、新しい人にはこの資格しかくけているゆえ、生涯しょうがい出世の見込みこみがなく、自分よりははるかにおとっている人等の出世を見物しながら、一生を不平ふへいの中に終わることも多かろう。本が読めて自由に考える不平ふへい人種じんしゅ増加ぞうかするのは、団体だんたいのために決して目出度めでたいことではないが、人知の日に月に進み行く世の中に、ふるい人等がいつまでもいきおいをほしいままにし、昔ながらの階級制度せいどをもって、上からさえつけようとすれば、新しい人等が反抗はんこうの心を起こすのは当然とうぜんであって、如何いかべつあつらえの教育をほどこしても、この大勢たいせい逆行ぎゃっこうさせることは容易よういでない。今まで厳重げんじゅうたもたれきたった階級制度せいどが時とともに少しずつくずれてゆくのは、奴隷どれい根性こんじょう退化たいかともな必然ひつぜん結果けっかであって、人が新しくなるとともに、種々しゅしゅ難解なんかいの問題が生じ、堯舜ぎようしゆん(注: 中国,古代の伝説でんせつ上の帝王ていおう,尭と舜)の世とは刻一刻こくいっこくとへだたりゆくをまぬがれぬであろう。
(大正七年九月)








底本:「煩悶と自由」有隣堂
   1968(昭和43)年7月20日 発行
入力:矢野重藤
初出:1918(大正7)年11月   「雄弁」に掲載
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