同じ時代に
相並んで生活している人間を、
甲は新しい人、
乙は
旧い人と
区別するには、むろんなんらかの定まった
標準がなければならぬ。かつて、新しい女が五色の
酒を飲むとかいう
評判がしきりに新聞紙などに出たが、このごろはあまりその
噂を聞かなくなったのは、大方もはや新しくなくなったのであろう。かように新しくなり始めだけが新しくて、しばらくすると新しくなくなるようでは、これは真に新しい人とは言われぬ。しからば、真に新しい人とは
如何なるものであるかというに、
我らの考えによれば、
人類が古代に
備えていた
性質を今もなお
備えている人間を
旧い人と
名付け、これに対して、
人類が
将来有するであろうとは思われる
性質を今日すでに有する人間を新しい人と
名付けるのが
最も
適当である。しこうして、さらに
我らの考えるところによれば、
人類が古代に
備えていた
性質の中で
最もいちじるしいのは
服従性、すなわち
奴隷根性であって、
人類が
将来に有するであろうと思われる
性質の中で
最もいちじるしいのは、
奴隷根性を持たぬということであるから、この点に
基づいて
定義を下せば、
旧い人とは
奴隷根性をなお
多量に有する人、新しい人とは
奴隷根性をすでに
失うた人ということができる。かく
標準を定めて、今日の世の中を
見渡すと、
旧い人とは決して
天保生まれの
老人に
限るわけではなく、新しい洋服を着て、横文字の書物を
抱えて歩く
若い
人達にも、ずいぶんおびただしく
旧い人があるように思われる。
以下少しく、
奴隷根性の
起源および
変遷を
論じて、新人と
旧人との
差別を
述べて見よう。
ここに一つ
忘れてはならぬのは、
奴隷根性には表と
裏との二面のあることである。目上の者には平身
低頭して
如何なる
仰せでも
御無理御尤もとうけたまわっているのは
奴隷根性の表であって、このほうは
誰の目にも明らかに
奴隷根性と見える。これに反して、目下の者に対して
威張ることは
奴隷根性の
裏である。目上に頭を下げるのも、目下に
威張るのも、世の中を
若干の階級に分けてのことゆえ、
精神の持ち方にいたっては少しもことなるところはない。しかるに世人はとかく、
奴隷根性の表だけを
奴隷根性と考え、
裏も同じく
奴隷根性であることを
忘れている。
奴隷根性とは
人為の
階級別に重きをおく
根性であるゆえ、一名を階級
的精神と
名付けてもよろしいが、この意味に取れば、
威張ることはむろん
奴隷根性の
範囲に
属する。
奴隷根性のない人は、自分の頭の上に他人をいただくことを、
我慢せぬ代わりに、自分の足の下に他人を
敷くことも
嫌うはずである。一言で言えば、
威張ったり
威張らせたりするのは、
奴隷根性を有する
旧人の
性質で、
威張りもせず、
威張らせもせぬのが、
奴隷根性を
失うた新人の
特徴でなければならぬ。
そもそも
奴隷根性なるものは、人間のみの有する
性質であるかというに。決してさようなわけではなく、およそ階級
型の
団体を
造って生活する動物には必ず見られる
共通の
性質である。
例えば
猿類のごときも、一
団体ごとに
一疋の年取った強い
牡が
大将となって
無上の
権威をふるい、他はことごとく
絶対に
服従している。いささかでも
命令に
叛いたり、またはちょっと
牝にふざけたりする者があれば、たちまち
大将のために
半殺しの目に
遇う。その代わり、
敵が
攻め
寄せてきたときには、
大将一疋が
蹈みとどまり、生命を
賭して
勇敢にこれと
戦い、他の者等を安全に
逃れしめるごときこともしばしばある。
要するに、
猿の
団体においては、
大将は
鋭い
牙と強い
腕との実力によって部下を
統御しているのであるが、部下は、また
大将のために助けられる場合もあるゆえ、
甘んじてその
命令に
服従している。
蟻や
蜂などのごとくに、
各個体が生まれながらの
本能によって行なうことが、そのままことごとく
団体のためになるような動物では、教えることも習うことも、
指揮することも
服従することもすべて
不要であるが、
団体内の
各個体が、知力においても、
腕力においても、はなはだしい
懸隔(注:二つの物事がかけ
離れていること)があり、
戦闘力が
一疋ごとにいちじるしく
違うような動物では、弱い者や
愚かな者が強い者や
賢い者に
絶対に
服従することが、
団体の
生存上、何よりも
得策である。かかる
団体では、
賢い者が
理屈を考えて下した
命令には、
愚かな者はただ
盲従(注:自分で
判断をせず、相手の言うがままに
従うこと)すればよろしい。そのほうが
愚かな者が
銘々自分のあやしい
知恵で考えて行動するよりもはるかによい
結果が
得られる。また弱い者は、ただ強い者の後に
付いて行きさえすればよい。そのほうが、弱い者が自分の力だけで勝手な方面に
冒険するよりはるかに安全である。すなわち弱い者や
愚かな者は、ただなんでも強い者や
賢い者に
絶対に
服従しておれば、それがすなわち
団体のために
最も
有利であり、したがって
各個体のためにも
最も
有利である。
最賢最強の
一疋を
大将にいただき、他は残らずこれに
絶対に
服従しておれば、
協力一致は
完全に行なわれ、
敵なる
団体とも
最も
有効に
闘うことができるが、そのためには、
各員が
奴隷根性を
充分に
備えていることを
要する。
奴隷根性というと、いかにも下等な
卑しいもののごとくに聞えるかもしれぬが、階級
型の
団体には
奴隷根性は
生存上
最も大切なもので、その
発達した
団体ほど
敵との
競争に勝つ
見込みが多い。
人間も原始時代にはおそらく
猿類と同じく、一人の
酋長に
率いられた小
団体を
造っていたろうと思われるが、その後、
団体が次第に大きくなり、生活
状態も
進歩してくるにしたごうて、
奴隷根性も他の動物とはやや
違うた形式を
呈するにいたった。
団体が大きくなれば、一人の
酋長が自身で
直接に全部を
指揮することはできぬゆえ、
勢い部下の中から
最も
技倆(注:物事を行ううまさ)のすぐれた者を
選び出して、一部の
指揮を
委任せねばならぬが、かかる
指揮者の数がだんだん
増せば、
団体は上に
位して
指揮する階級と、下に
位して
指揮せられる階級との
二段に分かれ、
指揮する階級の中には、また上の上から下の下まで
幾段かの等級が定まる。しこうして
敵と
戦うに当たっては
命令の
必ず行なわれることが何よりも大切であるゆえ、いずれの階級の者も自分より
一段でも上の者には
絶対に
服従し、自分より
一段でも下の者には
無上の
権威をふるう。
革命前のロシアの
陸軍では、
少将は
大佐の
横面を
張り
倒し、
大佐は
中佐を、
中佐は
少佐を、
少佐は
大尉を
順継ぎに
張り
倒すと何かの書物で読んだことがあるが、
自然かような
状態にもなったであろう。かくして
立派な階級
制度ができあがるが、これだけならば、
猿や原始時代の人間にくらべて、ただ仕組みが
複雑になったというだけで、根本の
理屈においてはまだ何ら
異なったところはない。しかし、さらに他の方面を見ると、大いにこれと
趣を
異にする点が生じた。
猿や原始時代の人間の
団体では
酋長は
必ず
酋長の
位を
保ち
得るだけの実力を
備えておらねばならぬ。それゆえ、
酋長の子といえども、
酋長になるだけの実力がなければ決して
酋長の
位を
継ぐことはできぬ。しかるに人間の
団体がやや大きくなって、
指揮する者の数が
殖えれば、
指揮者は、その
仲間全体の力によって、下を
司配し
得ればよろしいゆえ、
必ずしもその一人一人がことごとくすぐれた
技倆を有するにおよばぬ。ここにおいて
初めて
酋長の
位を
世襲(注:
身分・
財産・
職業などを
氏族の直系の
血筋の
子孫が代々受け
継いでいくこと)
的とすることが
可能となる。
司配する者と
司配せられる者とは日ごろから生活の
状態が
違い、
酋長の子は
幼少の時から
衆人に
尊敬せられ、おのずから他を見下す
習慣がつき、それだけ
挙動が
尊大になるが、
奴隷根性が
或る
程度まで
発達した世の中では、それが
酋長の
位を
継ぐ
資格の一つと見なされ、多くの場合には
実際その
位を
継ぐことを
承認せられる。
特に
指揮者階級の
中段に
位する者から見れば、
酋長が
凡庸(注:
平凡でとりえのないこと)であるほうがかえって都合のよろしいような
事情もあるゆえ、
世襲的酋長は次第に
一種の
偶像として、真に
権力を有する者たちにかつがれる
傾きが生じ、
司配せられる階級からは
無上の
尊敬を受けながら、実は部下の者に
利用せられておるに
過ぎぬありさまとなる。
初め
酋長の実力に
信頼して
絶対に
服従していた
奴隷根性は、かくして実力の
伴わぬ
空位の人を
礼拝するように
変化する場合も生ずるが、これは
猿の社会などには決してないことである。
人類の
奴隷根性の
発達に
関しては、なお
述ぶべきことが
非常に多くあるが、あまり長くなるゆえここにはこれを
略する。とにかく、階級
制度の
団体においては、
絶対服従が
完全に行なわれさえすれば、
団体内の
秩序は
充分に
保たれ、
協力一致は理想
的に実行せられ、全
団体はあたかも一
個体のごとくに動作することができるゆえ、
敵なる
団体と
戦うに当たっては、これほど強いことはない。かような
団体においては、
奴隷根性は実に
最高の
道徳として
尊ぶべきものであったろう。
かくして
奴隷根性は、
団体生活に
必要な
性質として
漸々発達し、
或る時代にはその
頂上に
達した。そのころの人間には、目上の者には
絶対に
服従するという
性質が心の
底まで
浸み
込んで、生まれたときから、この
根性を
多量に
備え、階級
制度を
当然のこととして少しも
疑いをいだかず、
不満をも感ぜず、またそのころの教育はもっぱら階級
制度と、その
根柢たるべき
奴隷根性の
維持養成に力をつくし、上の階級の者に対する
絶対の
服従をもって
最高の
道徳と見なし、目上の者のために命を
捨てることを
善美の
極致としてほめたてた。
例えば、上級の者の子を助けるために
我子を身代わりとして
殺したとか、上級の者の
仇を打つために長らく
苦辛(注:
非常に苦しむこと)してついに相手の首を切ったとかいうことが、
模範的の
善行として
伝えられ、歌にも歌われ
芝居にも仕組まれた。その
余波として、家庭内でも階級の
別が
厳重で、
一段上の者には
絶対に頭が上がらず、
特に女子のごときは
如何なる
無理にも
服従を
強いられ、
姑は
無理を言うものと思えと
嫁に行く前から
引導を
渡された(注:あきらめるように
最終的な
宣告をされた)が、その代わり自分が
姑になると、今度はできるだけ
嫁をいじめて、
若いときの
意趣返し(注:仕返しをして
恨みを
晴らすこと)をした。
要するに、
奴隷根性なるものは、原始時代の人間には、
団体生活を
営む上に
必要な
性質として
次第に
発達し、階級
制度の
完成とともにその
最高点まで
到着したのである。
団体内に
協力一致の
精神が
充満しておる間は、上に
位する者は、たとえ
無上の
権威を持っていても、決して
無理なことを
強いぬゆえ、
下々の者等はつねに
喜んで
服従し、
毫(注:少し)も
強制せられている感じを起こさずにすむが、
団体が大きくなるにしたがい、
協力一致の
性質が
退化すると、上下ともに、ただ自分の
利益のみを考えるようになり、したがって上に
位する者はその
権威を悪用して、しきりに下を
圧制する。また下にある者どもは、
奴隷根性の次第に
減じゆくに
伴うて、
従来のごとくに
無条件で
服従することができなくなり、さまざまの
不平を起こしはじめる。上に
位する者のやり方に
無理があれば、
不平はもちろんはげしからざるをえない。かくて
治める者と
治められる者との間に
協力一致ができぬような
状態になれば、
絶対服従の
奴隷根性は
勢い次第に
減退するのほかはないが、すでに
退化の
途中にある
性質は
奇態(注:
不思議なこと)に一人一人ではなはだしく
程度の
相違するものである。
例えば、人間の
盲腸についている
虫様垂のごときも、人によってはわずかに
一寸(注:3cm)か
一寸五分(注:4.5cm)に
過ぎぬこともあり、また長いのは
六寸(注:18cm)も
七寸(注:21cm)もあるが、今日の人間の有する
奴隷根性も、それと同様で、
非常に
多量に
備えている人もあれば、はなはだ
少量より持ち合わさぬ人もある。されば、同じ時代に
相並んで生活している人間に、はなはだ
旧い人、やや
旧い人、やや新しい人、すこぶる新しい人などさまざまの
相違のあるのは、あたかも
虫様垂にはなはだしい長短の
差があると同じで、いずれも
退化の
途中の
性質にはありがちの
現象である。 階級
制度は元来、
奴隷根性を
基礎として、その上に
築き上げたものゆえ、
奴隷根性が少しずつ
退化すれば、階級
制度は
片隅から
次第にくずれかかるをまぬがれぬ。上に立つ者が、
実際下々よりははるかにまさった
技倆を
備えておる間は、何らの
不平も起こらぬであろうが、
酋長の
位が
世襲的となって
有為(注:
能力があること)の父の
跡を
愚劣(注:おろかで、おとっていること)な
息子が
継ぐごとき場合には、おいおい
苦情が出てくる。
奴隷根性の高度に
発達していたころには、下の者等は上に
位する者の
実際に有する
技倆などは
毫も
質(注:
問い
確かめる)さず、ただ自分よりは上に
位する者というだけでこれに
絶対に
服従していたが、
奴隷根性が少しずつ
退化して、
或る
程度まで
達すると、物の見方が大分
変わってきて、今まで
服従を
強いられながら、これを
当然として何とも思わずにいた
連中の中から、上の階級の者を
眺めて
種々の
不審を起こし始める。
彼も人なり、
我も人なり、天が人を
造るに当たって
彼を
我よりも上に
造ったわけではなかろう。しからば
我々はなぜ
彼の下に立って、
彼の命ずるままに
働き苦しまねばならぬかと
疑うて見ると、とうてい
得心のゆくような答えは発見せられぬゆえ、ますます
不平が
募ってついにはやかましく自由平等の
権利を
主張する。上の階級の者は、むろん
従来のままの階級
制度を
保存しておくことが自分等に
有利であるゆえ、
極力これを
維持しようとつとめる。今まで階級
制度で進みきたった
団体ににわかに階級
制度がくずれては、
秩序の
乱れるは明らかであるゆえ、上に
位する者等は、自分等の勝手は
押し
隠し、もっぱらこれを
言前(注:言い分け
)として、
兵力、
宗教、教育など、あらゆる
手段を用いて
奴隷根性の
養成に
尽力するが、下に
位する者のほうから見れば、階級
制度が長く
続けば
続くだけ、
不利益が長く
続くわけゆえ、一日も速くこれを
改めようと
欲する。かようになっては両者の
衝突はとうてい
避けることはできぬが、
奴隷根性の
退化が
自然の
大勢である
以上は、
如何に上の階級の者等がこれを
逆行せしめんと
努力してももちろん
不可能であって、
最多数を
占めておる
最下級の者に対しては
衆寡敵せず(注:多数と少数では相手にならない)、
一騒ぎのあるごとに、上の階級の者は一つずつ
伝来の
特権をもぎ取られ、下の階級の者は一つずつ新たな
権利を
得て、ついに
貴賤(注:
貴いことと
卑しいこと)の
差別が全くないまでにいたらねばやまぬであろう。
さて
以上のごとくに考えながら、今日の世の中を
見渡すと、
旧い人はなおすこぶる数多くいる。階級
制度が心まで
浸み
込んで、目上の者には
自然に頭が下がるのが
旧い人の
特徴であるゆえ、
如何なる形においてなりとも、この
根性を
現わす人は、たしかに
旧い人に
相違ない。わずかに
一段上の人にも頭が上がらぬくらいであるから、
幾段も上の者に対してはあたかも犬が
飼主に対するのと同じような
極度の
奴隷根性が
現われ、ちょっと頭をなでてもろうただけでもうれしくて
堪えられぬ。
殿様の
御前で
揮毫(注:
毛筆で何か
言葉や
文章を書くこと)したとか、
某藩主の前で
講演をしたとかいうことをこの上もない
名誉と
心得る当人ももとより
旧い人であるが、これをこの上もない
名誉として
評判して歩く人も、これを聞いてこの上もない
名誉と
感服する人もことごとく
旧い
人達である。
卒業の
成績がよかった
御褒美として
従二位様から
頂戴した品を一生の
宝物とする学生も
旧い人であり、そこへ
娘をやろうと思いつく
教師も
旧い人である。自分の書いた書物の
巻頭に
高位高官の人の書いた題字を
掲げてありがたがる
著者も
旧い人なれば、かような書物をありがたがって買う読者も
旧い人である。
晏子(注:
晏嬰。中国春秋時代の
斉の
政治家)の
御者が主人の
威光を
笠に着て
得々としていたのは
奴隷根性の
最も
遺憾なき(注:申し分ない)
暴露であるが、階級が一つ上がって
制服が
変われば、直ちにそれを着て
威張りたがる人の
根性も、またこれを見てうらやましがる人の
根性も、これと少しも
変わりはない。また
旧い人は死んでも
単に死んだとは言わず、階級によって一々用いる文字を
区別し、新聞の
広告にも
必ずその文字を用いて、階級の高いことを
示さずにはおられぬと見えるが、
奴隷根性の
退化した下級の者がこれを見ると、あたかも自分に
泥をはねかけて走って行った自動車が
堀に落ちたのを見て、ああお気の
毒なと感ずるのと同じ
種類のお気の
毒さを感ずる。東海道の
或る宿屋の
座敷に、昔、
大藩主であった人等の
家扶(注:
家令を
補佐した
職員)とか
家令(注:
皇族や
華族の家の
事務・会計を
管理し、使用人の
監督に当たった人)とかから、よこした手紙を
張り交ぜにした
屏風が立ててあったが、これなどは
最も
露骨に
旧い人の
根性を
現わしている。その
文句は、いずれも
同勢何人何日の
晩に
泊るからよろしく
頼むとか、
殿様の
御弁当には温かい
御飯をなるべくフーワリと
詰めてもらいたいとかいうような下らぬことを
横柄な
文句で書いただけであるが、これを
鄭重に
表装して客室に立てておく
亭主の心では、おそらくこれによって自分の店の
格式を大いに高め
得たつもりであろう。かような
例は遠く
求めるにはおよばず、日々の新聞紙を見れば、いくらでもある。
通信講義録を発行する会の
広告に、会長
正三位某と一号活字で出してあるのも、たしかに
旧い人等を
釣る
方便であろう。
総裁は
某侯爵とか
副総裁は
某伯爵とかいうのは、みなこの
類であろうが、それが会員
募集の
手段として、
相応に
効力があるのは、世間に
旧い人のはなはだ多い
徴である。その他この品はどこの
殿様に
御買上げを
願うたとか、
某子爵から
御用命をかたじけのうしたとかいうごとき、ほかの客には何の
関係もなかるべきことが商品の
広告にはおびただしく出ている。何でも自分より上の階級の人々といささかでもつながりのあることを
名誉として
誇りたがるのが
旧い人の
癖であるが、かような
例は
限りなくあるゆえ、他は
略する。
旧い人で
充たされておる世間に住むには、むろん
旧い人のほうが仕合わせである。
旧い人とは
奴隷根性を、なお
多量に
備えておる人のことであるが、かような人から見れば、階級
制度には何の
無理もないゆえ、そのよい方面だけを
挙げて、
現代を
謳歌しておることができる。階級
制度の行なわれておる世の中で楽天家たることは、
奴隷根性を
失うた人にはとうていできぬことである。また
旧い人等が
跋扈(注:ほしいままに
振る
舞うこと)しておる時代には、上の階級にある人の
知遇を
得ねば上の階級に上ることはできぬが、
旧い人ならばこれを
当然と見なして、何の
不快をも感ぜずにおられる。かつ、世間
一般が
旧い人で
充たされておれば、人の上に立つには
威風堂々と
構えてかかる
必要があるが、
旧い人ならば、かようなことを平気で行なう。前に
述べたとおり、
服従することと
威張ることとは同一物の
裏と表とに
過ぎぬが、
旧い人は、上に対しては
服従し下に対しては
威張ることが少しも苦にならぬゆえ、階級
制度の世の中に身を
処して行くには
最も
適している。
要するに階級
制度の
厳格に行なわれている時世にあっては、
奴隷根性を
備えた
旧い人でなければ出世はできず、また出世する人ならば
必ず
奴隷根性を
備えた
旧い人であるに
違いない。
旧い人が階級の
高低に
非常に重きをおくに反し、新しい人は
奴隷根性が
退化した
結果として、
従来の
人為的の階級
別などは全く
眼中におかず、
単にその人の有する
力量や、その人のなし
得た仕事によってのみ、人間を
評価する。したがって
如何に階級の高い人でも
実際衆にすぐれた
力量を
備えていることが明らかでなければ、決してその人を
尊敬する心持ちになれず、その人等が
如何なることを
説法しても自分がなるほどと合点のいったことでなければ、決してこれに
従わぬ。何ごとを考えるにも、自分の
了見(注:考え)で自由に
推理し、
理屈に合うたと思うことならば、これを
信ずるが、いささかでも
理屈に合わぬと思うことは
遠慮なく
拒絶する。されば、新しい人に対しては
如何に
高圧力を用いても
不合理の思想を注入することは
不可能である。
人類の
歴史の長さにくらべては、
奴隷根性の
退化し始めたのは実に近代のことであって、その上、自分で自由に考え
得るには
或る
程度の教育が
必要であるゆえ、今日のところでは、真に新しい人はいまだまことに少数に
過ぎぬであろうが、その方向に
傾いている人間はすでに
存外に多いかもしれぬ。新しい人と古来の階級
制度とはとうてい
相容れぬゆえ、今まで高い階級にいて
不当な
利益を
占めていた者等から見れば、新しい人は自分
達の
特権を
奪おうとする
危険な人物のごとくに思われ、何とかして、かかる人間の
殖えぬようにと力を
尽すのは
当然である。
しかしながら教育が
普及し、書物の読める人間が多くなると、それだけ
脳の
働きも進んでくるゆえ、
奴隷根性の
退化は、それだけ速かになり、新しい人の数も
殖えざるを
得ない。どこの国の
歴史を見ても、古代には階級
制度が
確乎(注:しっかりして
動かないさま)としてゆるぎもせぬ様子であったのが、近代にいたって新しい人間が次第に
増加し、そのため
在来の階級
制度は
隅のほうから少しずつくずれてきた。中にはにわかに
瓦解(注:ある一部が
乱れ、
破れ目が広がって
組織全体が
壊れること)して
後始末のつかぬものもある。下を
治める階級にある者どもが
旧制度をなるべく
保存しておきたがるのは
団体の
秩序安寧(注:国や社会が
落ち
着いていて、乱れていないこと)を
保つためとして
当然であるが、時代の
進歩とともに新しい人の
殖えるのはもはや
自然の
勢いであるから、
如何なる
努力をもってしてもとうていこれを
防ぎ止めることはむずかしかろう。
金色に光っている物に、
金無垢と
鍍金とがあるごとくに、新しい人と見える者の中にも真に新しい人と
上部だけ新しい人とがある。新しいとか、
旧いとかいうのは、いずれも
比較的の言葉であって、
絶対に新しいとか
絶対に
旧いとかいうものは決してない。
奴隷根性が
退化するにしたごうて人は次第に新しくなってゆくのであるから、今日
最も新しいと見なされる人も、実はなお
若干の
奴隷根性を有していることは
争われぬ。しかしながら、今日の
最も新しい人々は、すでに大部分、これを
失うている。これに反して、ただ新しい思想の受売りをするだけの人々は、言うことや書くことの表面だけは新しいが、その
実質ははなはだ
旧い。
例えば世間を
並等(注:上等と下等の中間の等級)の多数者と
特等の少数者とに分けて、自分は
特等のほうに
属する者としてしきりに
威張るごときはそれである。多数の人々の集まっている中で自分一人が他より
区別せられ
尊敬せられれば、
誰も悪い心持ちはせぬが、これは心の
奥に階級
的精神が
潜んでおるゆえである。しこうして、この
精神を
多量に
備えている人ならば、たしかに
旧い人と見なさねばならぬ。「
私もデモクラシーと
太鼓持ち」という
狂句(注:近世
後期に生まれた日本における
定型詩のひとつ)もあって、新しそうなことを言うことの流行する
時節には、
誰も
彼もが、
競うて新しそうなことを言うが、心中の階級
的精神が消えぬ間は、
彼らはことごとく、
鍍金の新しい人たるに
過ぎぬ。
旧い人が、上を
威張らせ、下に
威張るのに反して、自分も
威張らず、他人をも
威張らせぬのが真の新しい人の
特性であるゆえ、
旧い人ばかりの世の中に住んでは、新しい人は多くは
失意の
境遇に
我慢せねばならぬ。
奴隷根性がなければ、上の階級の者にも
絶対には
服従せぬために、その子分として、引き立てられる
望みが少ない。また、
奴隷根性を有する
連中を相手としては、
或る
程度まで
威厳を
示さねば、
馬鹿にして
服従せぬゆえ、
彼らの親分として立つこともできぬ。すなわち新しい人は他人の下に
位することを
屑しとせぬゆえ、他人の子分となる
資格がなく、また他人の上に
位することを
快しとせぬゆえ、他人の親分となる
資格もない。されば親分子分の
関係で全部が
成り立っているような社会には新しい人は身のおきどころに
困却(注:
困り
果てること)する。
旧い人の
跋扈している時代に出世するには、
在来の階級
制度に自分をはめてゆくことが
必要で、それには
一定量の
奴隷根性を
要するが、新しい人にはこの
資格が
欠けているゆえ、
生涯出世の
見込みがなく、自分よりははるかに
劣っている人等の出世を見物しながら、一生を
不平の中に終わることも多かろう。本が読めて自由に考える
不平人種の
増加するのは、
団体のために決して
目出度いことではないが、人知の日に月に進み行く世の中に、
旧い人等がいつまでも
勢いをほしいままにし、昔ながらの階級
制度をもって、上から
圧さえつけようとすれば、新しい人等が
反抗の心を起こすのは
当然であって、
如何に
別誂えの教育を
施しても、この
大勢を
逆行させることは
容易でない。今まで
厳重に
保たれきたった階級
制度が時とともに少しずつくずれてゆくのは、
奴隷根性の
退化に
伴う
必然の
結果であって、人が新しくなるとともに、
種々難解の問題が生じ、
堯舜(注:
中国,古代の
伝説上の
帝王,尭と舜)の世とは
刻一刻とへだたりゆくをまぬがれぬであろう。
(大正七年九月)