進化論と衛生

　進化論（しんかろん）と衛生（えいせい）という表題を掲（あ）げたが、実は生物進化の一大原因（げんいん）なる自然（しぜん）淘汰（とうた）と衛生（えいせい）との関係（かんけい）について述（の）べたいとおもう。そもそも進化論（しんかろん）とは、今日世の中にある生物は動物でも植物でも決してすべて世界開闢（かいびやく）のときから今日のとおりの形に造（つく）られ、そのまま少しの変化（へんか）なしに子孫（しそん）が残（のこ）って、今日まで伝（つた）わったわけではなく、実は最初（さいしょ）はなはだ簡単（かんたん）な構造（こうぞう）を有する先祖（せんぞ）から分かれ降（くだ）ったもので、つねに漸々（ぜんぜん）変化（へんか）し、代を重ねるにしたがい、変化（へんか）も次第（しだい）にいちじるしくなって、ついに今日見るごとき数十万種（しゅ）の動植物ができたのであるという論（ろん）で、これに対しては比較（ひかく）発生学、化石学等にほとんど無限（むげん）の証拠（しょうこ）があるから、今日のところではもはや学問上では疑（うたが）うべからざる事実と見なすのほかはない。しこうして生物種属（しゅぞく）はなにゆえかくのごとくつねに進化しきたったかという問題に答えるのがすなわちダーウィンの自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）である。
　自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）の大体を述（の）べれば、まずいかなる生物にも三つの性質（せいしつ）が備（そな）わってある。第一は遺伝性（いでんせい）というて親の性質（せいしつ）が子に伝（つた）わること、第二は変化（へんか）性というて同一の親から生まれた子供（こども）でもその間には必（かなら）ず多少の相違（そうい）変化（へんか）のあること、第三は無限（むげん）の繁殖（はんしょく）でたちまちのうちに非常（ひじょう）の数に増加（ぞうか）すべき傾（かたむ）きを言うのであるが、この三つの性質（せいしつ）が備（そな）わってある以上（いじょう）は、その結果（けっか）として必（かなら）ず生物種属（しゅぞく）の進化ということが生ぜざるを得（え）ない。そもそも生物の繁殖（はんしょく）する割合（わりあい）は幾何（きか）級数、すなわちいわゆる鼠算（ねずみざん）の割合（わりあい）で進むから、代々わずかずつ増加（ぞうか）するごとくに見えても、たちまち無限（むげん）にふえることになるゆえ、決して生まれた子孫（しそん）がみな生存（せいぞん）することはできぬ。かりにここに一本の草があって、わずかに二個（にこ）の種子（しゅし）を生じ、翌年（よくねん）にはこの二個（にこ）の種子（しゅし）から二本の草が生じておのおの二個（にこ）ずつの種子（しゅし）を生じ、代々かくのごとくにして進んでゆくと仮定（かてい）すると、十年目には千本以上（いじょう）、二十年目には百万本以上（いじょう）、三十年目には十億本以上（いじょう）というように驚（おどろ）くべき速力で増加（ぞうか）する勘定（かんじょう）になる。さればいかなる動植物でも生まれただけの子孫（しそん）がことごとく生存（せいぞん）しうる余地（よち）はとうていないから、ぜひとも生存（せいぞん）のための競争（きょうそう）が起こり、勝ったものは生存（せいぞん）して子孫（しそん）を遺（のこ）し、敗（やぶ）れたものは趾（あと）をとどめず滅（ほろ）び失（う）せてしまう。その場合にいかなるものが勝って残（のこ）るかといえば、むろん生存（せいぞん）に適（てき）する性質（せいしつ）を備（そな）えたものに定まっている。もし同一種属（しゅぞく）の個体（こたい）がすべて寸分（すんぶん）も違（ちが）わず、まったく同様なものであったならば、その間の勝敗（しょうはい）はただ単（たん）に運次第（しだい）というほかないが、前にも言ったとおり生物には変化（へんか）性（せい）というものが備（そな）わってあって、同じ親から生まれた子でもその間には必（かなら）ず多少の相違（そうい）があり、したがって同一種（しゅ）に属（ぞく）する個体（こたい）はみな幾分（いくぶん）ずつか相互（そうご）に異（こと）なった点があるゆえ、競争（きょうそう）の場合にはその中で生存（せいぞん）に適（てき）する性質（せいしつ）の最（もっと）もよく発達（はったつ）したものがぜひとも勝ちを占（し）めることになり、これらのものが生存（せいぞん）して繁殖（はんしょく）するときには、また遺伝性（いでんせい）によって競争（きょうそう）に打ち勝ちえた性質（せいしつ）を、子孫（しそん）に伝（つた）えることになるから、一代や二代の間には目に立つほどに現（あら）われぬが、代が重なる間には各種（かくしゅ）ともに生存（せいぞん）に適（てき）する性質（せいしつ）が漸々（ぜんぜん）発達（はったつ）進歩し、先祖（せんぞ）に比較（ひかく）してはいっそう進化したものとなる理屈（りくつ）である。
　以上（いじょう）大略（たいりゃく）を述（の）べた生物進化論（しんかろん）、および自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）は今日のところではもはや確定（かくてい）した事実である。今より五十二年前にダーウィンが「種（しゅ）の起原」という書物を著（あら）わして、初（はじ）めて右の説（せつ）を世に公（おおやけ）にしたころは、反対論者（ろんじゃ）がすこぶる多くあったが、その後生物学各（かく）方面の研究が進むに従（したが）い、いずれの方面よりも無数（むすう）の証拠（しょうこ）が見いだされて、今日ではもはや疑（うたが）うべからざるものとなった。すなわち十九世紀（せいき）の後半は生物進化論（しんかろん）および自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）の研究時代で、二十世紀（せいき）になってからは、これを基（もと）として応用（おうよう）工夫（くふう）すべき時代に達（たつ）したものと見なしてよろしかろうと思う。
　生物進化論（しんかろん）、自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）がまだ研究中であった時代には、進化論（しんかろん）と衛生（えいせい）学との間には少しも直接（ちょくせつ）の関係（かんけい）がなく、したがって衛生（えいせい）学者がその専門（せんもん）学科の上から、進化論（しんかろん）や淘汰（とうた）説（せつ）に対して議論（ぎろん）を発表するようなこともなかったが、今日ではこれらの学説（がくせつ）はもはや確定（かくてい）したものと認（みと）められ、これを基（もと）として国利（こくり）民福（みんぷく）をはかるようにと応用（おうよう）の工夫（くふう）をこらす時代に達（たつ）したのであるゆえ、この学説（がくせつ）の見地から衛生（えいせい）学を研究する人もでき、種々（しゅしゅ）の議論（ぎろん）が世に公（おおやけ）にせられるようになり、続（つづ）いて従来（じゅうらい）衛生（えいせい）学を専門（せんもん）とする学者からも、これらの新説（しんせつ）に対する意見が、種種（しゅしゅ）の雑誌（ざっし）上に現（あら）われるようになってきたが、その中には熱心（ねっしん）に自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）に反対して各自（かくじ）論説（ろんせつ）を専門（せんもん）雑誌（ざっし）や普通（ふつう）の新聞に掲（あ）げている人がある。ドイツ大学の衛生（えいせい）学教授（きょうじゅ）などをつとめていて、専門（せんもん）家としては相当に名の聞こえた人で、かかる反対説（せつ）を主張（しゅちょう）するものもあるため、一般（いっぱん）の読者はいずれが正しいやら大いに迷（まよ）うごとき傾（かたむ）きもあるゆえ、自然（しぜん）淘汰（とうた）と衛生（えいせい）との真の関係（かんけい）を述（の）べようと思うてこの題を選（えら）んだのである。かかる人らの書いたものを読んで見ると、明らかに自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）を誤解（ごかい）しているように見えるところもあり、また自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）を人間に応用（おうよう）するにあたって明らかにその筋道（すじみち）を誤（あやま）っているように思われるところもあるが、もとよりここにはこれらの人々の説（せつ）を取って一々批評（ひひょう）しようというわけではない。ただ一般（いっぱん）の自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）から見て衛生（えいせい）ということは、いかなる具合に考えるべきものかということを述（の）べたいと思う。
　そもそも近来にいたって従来（じゅうらい）の衛生（えいせい）学専門（せんもん）家が急にはげしく自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）に反対を始めたのはなぜかというに、ほぼ次のごとき考えが基（もと）になっているのではないかと思う。すなわち自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）では生存（せいぞん）競争（きょうそう）においてまさった者が生き残（のこ）り、劣（おと）った者が死に絶（た）え、自然（しぜん）淘汰（とうた）が行なわれるので動植物各種（かくしゅ）が漸々（ぜんぜん）進化するのである、不適（ふてき）者の滅亡（めつぼう）ということが万物の進歩する一大原因（げんいん）であるというが、医術（いじゅつ）衛生（えいせい）の仕事はまったくこの反対で、弱い者でも劣（おと）った者でも助けて生存（せいぞん）せしめ、自然（しぜん）にゆだねておいたらただちに死んでしまうべきものでも、人工的（じんこうてき）の手当をほどこして生存（せいぞん）せしめ繁殖（はんしょく）せしめるのであるから、自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）と衛生（えいせい）とはとうてい両立せぬもののごとくに見え、自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）に従（したが）えば衛生（えいせい）は有害（ゆうがい）無益（むえき）なものであるかのごとくに考えられ、もし世間に自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）があまねくひろまったならば、自分らの専門（せんもん）に研究しきたった衛生（えいせい）学が、まったく立場を失（うしな）うにいたりはせぬかとの心配から、かく衛生（えいせい）学者が反対論（ろん）を唱（とな）え出したように思われる。
　しかるに実際（じっさい）において自然（しぜん）淘汰（とうた）論者（ろんじゃ）の中に、衛生（えいせい）は無用（むよう）なものであるなどと論（ろん）じている者があるかというに、さような暴論（ぼうろん）をはく者は一人もない。自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）に反対する衛生（えいせい）学者は、自然（しぜん）淘汰（とうた）論者（ろんじゃ）はおそらくかく論（ろん）じているのであろうと自分で勝手に想像（そうぞう）して、しきりにこれを攻撃（こうげき）しているに過（す）ぎぬ。すなわち優者（ゆうしゃ）の生存（せいぞん）、劣者（れっしゃ）の滅亡（めつぼう）は生物各種（かくしゅ）の進化の原因（げんいん）である。されば人間社会においても人種（じんしゅ）の進歩改良（かいりょう）を望（のぞ）むならば、劣者（れっしゃ）はことごとく自然（しぜん）に打ち捨（す）てておいて滅亡（めつぼう）せしめるがよろしい。かくすれば代々優者（ゆうしゃ）のみが生き残（のこ）るゆえ、体質（たいしつ）も漸々（ぜんぜん）よくなるに違（ちが）いない。医術（いじゅつ）や衛生（えいせい）によって劣者（れっしゃ）までも助けて生存（せいぞん）せしめ、優者（ゆうしゃ）と同様に子孫（しそん）を後に遺（のこ）さしめることは、自然（しぜん）淘汰（とうた）の働（はたら）きを打ち消すことにあたるから、人種（じんしゅ）全体の上から見ると実に無益（むえき）なるのみならず、かえって有害（ゆうがい）なものであると、かように論（ろん）ずるもののごとくに想像（そうぞう）して、しきりにこれを攻撃（こうげき）しているのであるから、まったく想像（そうぞう）的（てき）の敵（てき）と戦（たたか）うているありさまである。それゆえ、敵（てき）の名を明らかに指すことはできず、ただ単（たん）に「進化論（しんかろん）者は云々（うんぬん）」というて論（ろん）じているのみである。
　優勝（ゆうしょう）劣敗（れっぱい）、適者（てきしゃ）生存（せいぞん）という自然（しぜん）淘汰（とうた）が生物進化の一大原因（げんいん）であって、人間社会のすべてのことも決してこの原則（げんそく）に漏（も）れぬことは明らかである。自然（しぜん）淘汰（とうた）をとどめて優者（ゆうしゃ）も劣者（れっしゃ）も同様に生存（せいぞん）繁殖（はんしょく）せしめたならば、その結果（けっか）はいかにというに、これは進歩の反対の退化（たいか）である。年中闇黒（あんこく）である洞穴（どうけつ）内に住んでいる魚では、眼（め）があってもまったく物が見えぬゆえ、眼（め）の発達（はったつ）の程度（ていど）は生存（せいぞん）競争（きょうそう）における勝敗（しょうはい）の標準（ひょうじゅん）とはならぬが、かような場合には眼（め）は漸々（ぜんぜん）退化（たいか）してついには今日洞穴（どうけつ）内に見るごとき盲目（もうもく）の魚ばかりとなってしまう。人間もこれと同じ理屈（りくつ）で、身体の虚弱（きょじゃく）な生存（せいぞん）競争（きょうそう）に堪（た）えぬような者でも、または社会に害（がい）を生ずるような悪い病気を持っている者でも、人工的（てき）に保護（ほご）して健全（けんぜん）な達者（たっしゃ）な者と同様に生存（せいぞん）せしめ繁殖（はんしょく）せしめたならば、その結果（けっか）はその人種（じんしゅ）全体の退化（たいか）となることは疑（うたが）わない。しかし、これだけのことからただちに人間は何でも全く自然（しぜん）淘汰（とうた）にまかせておいて、弱い者は死なせてしまうがよろしいと簡単（かんたん）に論（ろん）ずることはできぬ。
　動物でも植物でもおよそ生きて繁殖（はんしょく）するものは生存（せいぞん）競争（きょうそう）をまぬがれぬが、その場合に競争（きょうそう）の単位（たんい）となるものが、動植物の種類（しゅるい）の異（こと）なるにしたがい決して一様ではない。このことをつねに忘（わす）れぬようにせぬといろいろ間違（まちが）うた考えが起こる。動物の中には一個体（こたい）ずつが生存（せいぞん）競争（きょうそう）の単位（たんい）となり、まさった個体（こたい）が生存（せいぞん）し、劣（おと）った個体（こたい）は死に絶（た）えるというように各（かく）個体（こたい）が独立（どくりつ）の生活を営（いとな）んでいるものもあるが、また他方には若干（じゃっかん）の個体（こたい）が集まって団体（だんたい）を造（つく）り、つねに力をあわせて団体（だんたい）の維持（いじ）繁栄（はんえい）を計っているものがある。このような種類（しゅるい）になると生存（せいぞん）競争（きょうそう）の単位（たんい）は団体（だんたい）であって、適者（てきしゃ）生存（せいぞん）、優勝（ゆうしょう）劣敗（れっぱい）などということも団体（だんたい）に対して行なわれることになる。すなわち生存（せいぞん）に適（てき）する団体（だんたい）は勝って生き残（のこ）り、生存（せいぞん）に適（てき）せぬ団体（だんたい）は負けて死に絶（た）え、個体（こたい）ずつに離（はな）せば敵（てき）より強いものでも、団体（だんたい）として弱ければ必（かなら）ず滅（ほろ）び、一個体（こたい）ずつに離（はな）せばきわめて弱いものでも、団体（だんたい）として敵（てき）より強ければ必（かなら）ず勝つ。かような場合には、また全団体（だんたい）の利益（りえき）のために、各（かく）個体（こたい）が自己（じこ）一身のためにはかえって不利益（ふりえき）な性質（せいしつ）あるいは構造（こうぞう）を備（そな）えていることがある。たとえば蜂（はち）のごとき昆虫（こんちゅう）は団体（だんたい）を造（つく）って生活しているもので、彼（かれ）らの生存（せいぞん）競争（きょうそう）の単位（たんい）は団体（だんたい）であるが、その各（かく）個体（こたい）を取って見ると、団体（だんたい）のためには有益（ゆうえき）で、自身一個（いっこ）のためには不利益（ふりえき）な針（はり）を持っている。元来蜂（はち）には針（はり）があって攻撃（こうげき）、防禦（ぼうぎよ）ともにこれを用いるゆえ、蜂（はち）の団体（だんたい）は多くの敵（てき）に勝って繁栄（はんえい）している次第（しだい）であるが、この針（はり）には逆（ぎゃく）に向いた鉤（かぎ）があって、いったんこれで人などを刺（さ）すとそのままになって抜（ぬ）けない。しいて抜（ぬ）こうとすれば、針（はり）が根元から切れ傷口（きずぐち）から臓腑（ぞうふ）が出て、蜂（はち）が死んでしまう。かような具合に団体（だんたい）生活をする動物と、単独（たんどく）の生活をする動物とでは、種々（しゅしゅ）の点で大いに趣（おもむき）が違（ちが）うから、自然（しぜん）淘汰（とうた）を論（ろん）ずるにあたっても、団体（だんたい）生活をする動物については、生存（せいぞん）競争（きょうそう）の単位（たんい）が団体（だんたい）であるということをつねに忘（わす）れぬようにして理屈（りくつ）を考えなければならぬ。
　人間はもとより団体（だんたい）生活を営（いとな）んでいる動物であるゆえ、その生存（せいぞん）競争（きょうそう）のありさまは軍隊（ぐんたい）が相対（あいたい）して互（たが）いに戦争（せんそう）しているのと少しも違（ちが）わぬ。されば自己（じこ）の団体（だんたい）の戦闘（せんとう）力を減（げん）ずるようなことはすべて不利益（ふりえき）で、さようなことを多く行なえばついには滅（ほろ）びざるを得（え）ぬにいたる。前に述（の）べたような、人間も自然（しぜん）淘汰（とうた）にまかせておいて、弱者はかまわず死なせてしまうがよろしいという説（せつ）の無理（むり）なることは、これを軍隊（ぐんたい）戦争（せんそう）の場合にあてはめて見ればたちまちわかることである。かかる暴論（ぼうろん）はこれをたとえて言えば、軍隊（ぐんたい）が或（あ）る地に上陸（じょうりく）するときに、その地の水の善悪（せんあく）なども検査（けんさ）せず、勝手に兵士（へいし）に飲ませ、悪い水を飲んで死ぬような弱い者はかまわず死なせるがよろしい、どんな水を飲んでも死なぬ達者（たっしゃ）な兵士（へいし）のみが残（のこ）って、全軍隊（ぐんたい）がますます強壮（きょうそう）になるからというのと少しも違（ちが）うたところはない。いかに強壮（きょうそう）な者ばかりが残（のこ）っても、非常（ひじょう）に人数が減（げん）じてはとうてい戦闘（せんとう）に堪（た）えぬようになってしまう。
　このような次第（しだい）であるから、自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）から衛生（えいせい）のことを考えてみると、決して衛生（えいせい）が不必要（ふひつよう）とか有害（ゆうがい）とか論（ろん）ずることはできぬのみならず、自己（じこ）の団体（だんたい）の自衛（じえい）上きわめて必要（ひつよう）なものといわねばならぬ。この点から論（ろん）ずると衛生（えいせい）は今後ますます研究を重ねて、どこまでも発達（はったつ）進歩させなければならぬことはもちろんである。
　しかしながら前にも述（の）べたとおり、自然（しぜん）淘汰（とうた）は生物進化の一大原因（げんいん）であって、これを妨（さまた）げることはすなわち進歩を妨（さまた）げ退化（たいか）を促（うな）すことにあたる。人間社会においてもこの理屈（りくつ）には漏（も）れぬゆえ、劣等（れっとう）な人間、有害（ゆうがい）な人間を人工的（てき）に保護（ほご）して生存（せいぞん）繁殖（はんしょく）せしめるようでは、その人種（じんしゅ）の進歩改良（かいりょう）はとうてい望（のぞ）むことはできぬ。身体が虚弱（きょじゃく）で後世（こうせい）同僚（どうりょう）に迷惑（めいわく）をかけるような劣等（れっとう）の子孫（しそん）を遺（のこ）すような人間を無理（むり）に生かしておくことは、ちょっと見るといかにも博愛（はくあい）の精神（せいしん）にかなう立派（りっぱ）な仕事のように見えるが、実は後世の人らによけいな負担（ふたん）をかけるわけにあたるから、現在（げんざい）のために未来（みらい）を犠牲（ぎせい）に供（きょう）している次第（しだい）であって、前後を通じて考えてみると決して結構（けっこう）なことではない。このような場合には単（たん）に人権（じんけん）を重んずるというがごとき空論（くうろん）にはかまわず、少なくとも子孫（しそん）を後に遺（のこ）さしめぬだけの取締（とりしま）りは必要（ひつよう）であると思う。単（たん）に目前のことのみを考え、未来（みらい）のことは全く不問（ふもん）におき、ただ一人のみのことを考え、他の数千万人の利害（りがい）を度外視（どがいし）するごときは、実に物の軽重（けいちょう）大小を転倒（てんとう）していると言わねばならぬ。
　それゆえ、もし衛生（えいせい）学者が未来（みらい）のことも考えず、また全団体（だんたい）の利害（りがい）もかまわず、単（たん）にいかなる虚弱（きょじゃく）者でも、悪病のある者でも、力をつくして生存（せいぞん）させ繁殖（はんしょく）させるようにつとめる次第（しだい）であるならば、これは全く自然（しぜん）淘汰（とうた）の理（ことわり）に通ぜぬところから起こる誤（あやま）りで、その志（こころざし）はいかに尊（とおと）くとも、その所行（しょぎょう）は実際（じっさい）団体（だんたい）のためには有害（ゆうがい）に相違（そうい）ない。自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）を基（もと）として人種（じんしゅ）全体の衛生（えいせい）を論（ろん）ずる人もこのことを説（と）いているようであるが、これはもっともの次第（しだい）である。
　国家とか人種（じんしゅ）とかいう団体（だんたい）はもとより個人（こじん）の集まりで、各（かく）個人（こじん）が強壮（きょうそう）であれば、これより成（な）れる団体（だんたい）全体が強くあり、生存（せいぞん）競争（きょうそう）に勝つ望（のぞ）みが多くある。しかして個人（こじん）の健康（けんこう）を保（たも）ち、身体を強壮（きょうそう）にするのが衛生（えいせい）であるから、個人（こじん）の衛生（えいせい）の必要（ひつよう）なことは言うまでもない。また水道、下水その他の団体（だんたい）の衛生（えいせい）に関（かん）する設備（せつび）あるいは伝染（でんせん）病に関（かん）する規則（きそく）等が大切であることもまた改（あらた）めて論（ろん）ずるにおよばぬ。ただ自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）を基（もと）として衛生（えいせい）のことを考えると、各（かく）個人（こじん）の健康（けんこう）を標準（ひょうじゅん）として衛生（えいせい）を論（ろん）ずるだけではまだ決して充分（じゅうぶん）とは言われぬから、衛生（えいせい）上の研究をする人はただ各（かく）個人（こじん）の健康（けんこう）を注意するばかりでなく、自己（じこ）の属（ぞく）する全団体（だんたい）の健康（けんこう）のために注意し、現今（げんこん）のありさまばかりでなく長い未来（みらい）のことまでも考え、つねに自己（じこ）の属（ぞく）する団体（だんたい）の健康（けんこう）繁栄（はんえい）を目的（もくてき）として研究しなければならぬことと思う。
　われわれ人間ではまず平均（へいきん）して、女が一人について、一生涯（いっしょうがい）に四人ないし五人くらいの子を生む割合（わりあい）になっているから、もしそれがことごとく生存（せいぞん）し繁殖（はんしょく）したならば、二代目には人口が倍になり、三代目には四倍になり、四代目には八倍になる勘定（かんじょう）であるが、もちろん実際（じっさい）にはそのとおりに増加（ぞうか）することはできぬ。この点では人間も他の動物も理屈（りくつ）は同然（どうぜん）で、多く産（う）まれる子の中からただ少数のみが生存（せいぞん）しうるのである。このようなところで身体の虚弱（きょじゃく）な精神（せいしん）の痴鈍（ちどん）な、団体（だんたい）の厄介（やっかい）になるに過（す）ぎぬような人間を、どうなりこうなりただ生かしてさえおけばよろしいと、人工的（てき）に手をつくして生かしておくということは、一方から考えてみると全団体（だんたい）のためにはずいぶん不利益（ふりえき）なことである。すべての人を生かしておくことができるならばいかに弱いものも助けなければならぬが、生まれる子の幾分（いくぶん）かより生きる余地（よち）がないような現（げん）社会で、このような、団体（だんたい）のために不利益（ふりえき）な人間を人工的（てき）に助けておくのは、とりもなおさず団体（だんたい）のためになおいっそうよく働（はたら）きうべき他の人の生存（せいぞん）の場所をふさいでいるわけにあたるから、全体から見るとこれは考えものであろう。またこのような人工的（てき）の手当によってわずかに生命を保（たも）ちうるような虚弱（きょじゃく）な者が子を遺（のこ）せば、これもまた親に似（に）て決して丈夫（じょうぶ）ではなく、ついには団体（だんたい）全部が人工的（てき）の保護（ほご）がなければ、生存（せいぞん）のできぬようなものになるかもしれぬが、これがすなわちいわゆる退化（たいか）である。かかるありさまにおちいることを防（ふせ）いで、団体（だんたい）の健康（けんこう）を増進（ぞうしん）せしめるにはいかなる方法（ほうほう）を取らねばならぬかという問題を研究するのが近ごろようやく始まった人種（じんしゅ）衛生（えいせい）学、社会衛生（えいせい）学の仕事である。
　以上（いじょう）述（の）べたことをまとめてみると、生物進化論（しんかろん）がまったく確定（かくてい）した事実と認（みと）められるようになり、自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）も実際（じっさい）のことであると人が信（しん）ずるようになり、従来（じゅうらい）はただ学説（がくせつ）として研究していたものを、今から実地に応用（おうよう）して人間社会の進歩改良（かいりょう）をはかろうという段（だん）に達（たつ）したので、衛生（えいせい）の方面にも自然（しぜん）淘汰（とうた）の原理に基（もと）づいて団体（だんたい）の衛生（えいせい）を研究する人種（じんしゅ）衛生（えいせい）学、社会衛生（えいせい）学などという新しい名前の学科ができるにいたった。しかしてこれらの学を研究する人の中には、劣等（れっとう）の人間を医術（いじゅつ）衛生（えいせい）によって人工的（てき）に助けるのは、自然（しぜん）淘汰（とうた）の働（はたら）きを妨（さまた）げるから、その人種（じんしゅ）の退化（たいか）を引き起こすものであるといういわゆる人種（じんしゅ）退化（たいか）論（ろん）を説（とく）く者があるゆえ、従来（じゅうらい）衛生（えいせい）学専門（せんもん）の学者が大いにこれに反対し、人種（じんしゅ）退化（たいか）論に反対するあまりに自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）までにはげしく反対してきたように見えるが、実は衛生（えいせい）と自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）とが全く相反するものでないことは前にも述（の）べたとおりである。
　とにかく自然（しぜん）淘汰（とうた）の原理から考えてみるに、人間の生存（せいぞん）競争（きょうそう）においては、国とか人種（じんしゅ）とかいう団体（だんたい）が競争（きょうそう）の単位（たんい）であるから、衛生（えいせい）を論（ろん）ずるにあたってもつねにこのことを眼中（がんちゅう）におき、自己（じこ）の属（ぞく）する団体（だんたい）の現今（げんこん）および将来（しょうらい）の健康（けんこう）繁栄（はんえい）を目的（もくてき）として方法（ほうほう）手段（しゅだん）を研究し、それと衝突（しょうとつ）しない範囲（はんい）内においてできるだけ各（かく）個人（こじん）の生存（せいぞん）、健康（けんこう）をはかるようにつとめねばならぬことと思う。
　団体（だんたい）の現今（げんこん）および将来（しょうらい）の健康（けんこう）をはかることになると、その関係（かんけい）する範囲（はんい）がきわめて広くなるから、その研究はなかなか容易（ようい）なことではない。衛生（えいせい）学、病理学、生理学、生物学等のごとき学科のほかに、法律（ほうりつ）にも警察（けいさつ）にも教育にもその他種々（しゅしゅ）の方面に関係（かんけい）があるから、単（たん）に個人（こじん）の衛生（えいせい）をはかるのに比（ひ）してはすこぶる困難（こんなん）である。それゆえ、人種（じんしゅ）衛生（えいせい）学とか社会衛生（えいせい）学とかいう学科も、今日のところではいまだ研究の手始めだけで、なかなか確定（かくてい）した学説（がくせつ）などはないように見えるが、かかるおりには往々（おうおう）極端（きょくたん）の説（せつ）を唱（とな）える人が出ることをまぬがれぬ。またこれらに反対する従来（じゅうらい）の衛生（えいせい）学専門（せんもん）の学者の議論（ぎろん）も、前に述（の）べたとおり自然（しぜん）淘汰（とうた）説（せつ）の誤解（ごかい）に基（もと）づくことが往々（おうおう）あるように見える。これらの議論（ぎろん）はいずれも普通（ふつう）の新聞雑誌（ざっし）などに引用して掲（あ）げることもあるが、いずれを読むにもまず自身に自然（しぜん）淘汰（とうた）の原理を充分（じゅうぶん）に了解（りょうかい）し、それを基（もと）として批評（ひひょう）し判断（はんだん）するつもりで読まねばならぬ。