自然界の虚偽

　天真（てんしん）爛漫（らんまん）ともいい、「天に偽（いつわ）りはなきものを」ともいうて、天には偽（いつわ）りはないものと、すでに相場（そうば）が定まっているようであるが、その天の字を冠（かむ）らせた天然（てんねん）界はいかにと見渡（みわた）すと、ここには詐欺（さぎ）、偽（いつわ）りはきわめて平常（へいじょう）のことで数限（かずかぎ）りなく行なわれている。そのもっともいちじるしい例（れい）は小学校用の読本にもでているゆえ、普通（ふつう）教育を受けた者なら誰（だれ）も知っているであろう。
　動物には自身を他物（たぶつ）に似（に）せて敵（てき）の攻撃（こうげき）をのがれるものがいくらもある。南洋に産（さん）する「木（こ）の葉蝶（はちよう）」、内地いたるところに産（さん）する「桑（くわ）の枝（えだ）尺取（しやくと）り」などはその最（もっと）も知られた例（れい）であるが、「木の葉蝶（ちょう）」は翅（はね）の表面のあざやかなるに似（に）ず、その裏面（うらめん）は全く枯葉（かれは）のとおりで、葉脈（はみゃく）に似（に）た斑紋（はんもん）があり、虫の食うた孔（あな）のごときところもあり、加（くわ）うるに翅（はね）の全形が木の葉の形と寸分（すんぶん）もたがわぬゆえ、翅（はね）をたたんで枝（えだ）にとまると、たとい目の前にいても、真の枯葉（かれは）とまぎらわしく、とうてい発見することはできぬ。また「桑（くわ）の枝（えだ）尺取（しゃくと）り」というのは一種（いっしゅ）の蛾（が）の幼虫（ようちゅう）で、色も形も桑（くわ）の短い枝（えだ）と少しもちがわぬゆえ、この虫が幹（みき）からある角度をなして立っていると、だれが見ても、真の桑（くわ）の枝（えだ）であるとより思われぬ。百姓（ひゃくしょう）がときどきこれを真の枝（えだ）と間違（まちが）えて土瓶（どびん）などを懸（か）けると、もとより柔（やわら）かい虫のことゆえ、グニャリと曲がり、そのため往々（おうおう）土瓶（どびん）を破（わ）ってしまうことがあるので、この虫を一名「土瓶（どびん）破（わ）り」という地方のあるのはもっともなことである。これらは決して珍（めずら）しい現象（げんしょう）ではなく、昆虫（こんちゅう）類（るい）ではきわめて普通（ふつう）なことで、蛾（が）の類（るい）などには樹（き）の皮にまぎらわしい色彩（しきさい）、斑紋（はんもん）を有するものがいくらもある。現在（げんざい）そこにいながら、あたかもおらざるごとくに装（よそお）うて、敵（てき）の攻撃（こうげき）をのがれるのであるから、あたかも宅（たく）にいながら、借金（しゃっきん）取りの攻撃（こうげき）をのがれるために不在（ふざい）を装（よそお）うのと同じで、いずれもまぎれのない詐欺（さぎ）である。
　また動物には他物（たぶつ）に身を似（に）せて餌（えさ）となるべき動物を引き寄（よ）せるものがある。樹（き）の葉の上を徘徊（はいかい）する一種（いっしゅ）の蜘蛛（くも）は身体の色が全く鳥の糞（ふん）のとおりで、足をちぢめて静止（せいし）しているときには真の鳥の糞（ふん）と区別（くべつ）することが困難（こんなん）である。しかしながらもしそこへ蝶（ちょう）が飛（と）んできて、鳥の糞（ふん）と誤（あやま）ってその上にとまると、蜘蛛（くも）はたちまちこれを捕（とら）え殺（ころ）して血を吸（す）うてしまう。また同じく樹（き）の葉の上にいる蜘蛛（くも）に「蟻（あり）蜘蛛（ぐも）」と名づける一種（いっしゅ）があるが、これは身体の形状（けいじょう）も、色の具合も全く蟻（あり）のとおりで、一見したところでは蟻（あり）そのままである。蟻（あり）は他の昆虫（こんちゅう）と同じく六本の足と二本のひげとを持っているが、蜘蛛（くも）には八本の足があるだけでひげはない。しかして普通（ふつう）の蜘蛛（くも）ならば、八本の足で歩くはずのところを、蟻（あり）蜘蛛（ぐも）は第二対（つい）以下（いか）の六本の足で歩き、第一対（つい）の足はあたかも蟻（あり）のひげを動かすごとくにつねに動かしている。かくして挙動（きょどう）までが蟻（あり）に似（に）ているゆえ、蟻（あり）は知らずしてその側（そば）へきたり、たちまちこの蜘蛛（くも）に食われるのである。アンコウという魚は蝦蟇口（がまぐち）に尾（お）をつけたようなきわめて口の大きな魚であるが、その鼻の辺（へん）からはあたかも釣竿（つりざお）のごとき物が出て、竿（さお）の先からは細い糸が垂（た）れ、糸の端（はし）はやや太くなって虫のごとくに見える。アンコウは海の底（そこ）に静止（せいし）し、ただ釣竿（つりざお）だけを動かすと、近辺（きんぺん）にいる小魚等は糸の端（はし）の虫のごとき部の動くのを見て近づいてくる。その時アンコウは急に大きな口を開いて小魚を丸のみにしてしまうのである。光線の達（たつ）せぬほどの深い海の底（そこ）に住むアンコウの類（るい）には、糸の端（はし）の部があたかも螢（ほたる）の尻（しり）のごとくに光り、暗夜（あんや）に提燈（ちようちん）を点（てん）じたごときありさまで他の小動物を誘（さそ）い寄（よ）せるものがある。
　他物（たぶつ）で自身をおおいかくして敵（てき）の攻撃（こうげき）をのがれるものははなはだ多い。海に住む蟹（かに）には甲（こう）の表面全体に海綿（かいめん）海草などを付着（ふちゃく）せしめて姿（すがた）をかくしている種類（しゅるい）がいくらもある。かかる蟹（かに）は静止（せいし）している間はとうていその蟹（かに）なることを識別（しきべつ）することはできぬ。壇（だん）の浦（うら）で有名な平家（へいけ）蟹（がに）などは八本ある足の中の四本を用いて、蛤（はまぐり）のごとき貝の空殻（あきがら）を背負（せお）い、他の四本で匍（ほ）うている。静止（せいし）するとあたかも泥（どろ）の上にただ貝の空殻（あきがら）だけが落ちているごとくに見えて、そこに生きた蟹（かに）がいるとは誰（だれ）も気がつかぬ。コチ、カレイのごとき魚類（ぎょるい）は身体の色が海底（ぞこ）の砂（すな）の色と同じく、かつ砂（すな）に似（に）た模様（もよう）があるから、海底（かいてい）に横たわっているとなかなか砂（すな）と見分けにくい。小さい魚などが知らずに近づいてくると、急に跳（は）ね出してこれを捕（とら）える。かくのごとくに敵（てき）の攻撃（こうげき）をのがれるため、もしくは餌（えさ）を捕（とら）えるために身体をかくすことは、人間社会でもすこぶる広く行なわれていることであるが、自身は実際（じっさい）そこにいながら、他をして自身のおらぬごとくに信（しん）ぜしめるのであるから、もとよりすべて詐欺（さぎ）の範囲（はんい）内に属（ぞく）する。


蟻（あり）に似（に）たイナゴ

　なおはなはだしいのは自身は弱者でありながら、容貌（ようぼう）を強者に似（に）せて世を渡（わた）ろうとする者である。これも昆虫（こんちゅう）にその例（れい）が多い。蜂（はち）は剣（けん）をもって刺（さ）すゆえ、昆虫（こんちゅう）界では強者であって、たいがいの鳥類（ちょうるい）はこれを恐（おそ）れてついばまない。ところが、この点を利用（りよう）して蜂（はち）と見誤（みあやま）られるために色も形も蜂（はち）に似（に）せた昆虫（こんちゅう）が蜂（はち）以外（いがい）の類（るい）にすこぶる多い。例（たと）えば、蛾（が）の中にも全く蜂（はち）とまぎらわしいような種類（しゅるい）が幾種（いくしゅ）もある、甲虫（こうちゅう）の中にもすこぶる蜂（はち）に似（に）たものがある。また蟻（あり）は一匹（いっぴき）ずつをとればかならずしもはなはだ強いとはいわれぬが、大きな団体（だんたい）を造（つく）って力をあわせて生活するものゆえ、全体としてはすこぶる有力な昆虫（こんちゅう）である。それゆえ、これに身を似（に）せた昆虫（こんちゅう）ははなはだ多い。中にはイナゴの類（るい）で身体を蟻（あり）に似（に）せている虫があるが、その体の色彩（しきさい）がすこぶるおもしろい。蟻（あり）は胴（どう）の中ほどにきわめて細いくびれたところがあるが、イナゴの身体にはかような細い部分はない。それゆえイナゴが蟻（あり）に似（に）るためには胴（どう）の中ほどの細くなることが必要（ひつよう）であるが、実際（じっさい）かくすれば内部の臓腑（ぞうふ）の位置（いち）から変（かわ）わらねばならず、非常（ひじょう）に困難（こんなん）でほとんどとうていできぬことである。そのためイナゴは色彩（しきさい）で蟻（あり）のごとくに見えるようにごまかして、実際（じっさい）の胴（どう）は太いところへ蟻（あり）のごとき色の細い線が現（あら）われ、横から見るとあたかも蟻（あり）のごとくに胴（どう）がくびれているように見える。また南アメリカのある地方では一種（いっしゅ）の蟻（あり）が一匹（いっぴき）ごとに必（かなら）ず緑色の小さな木の葉を口にくわえ、まるで人間が傘（かさ）をさしているごとくにして歩くが、そこには蟻（あり）と全く種類（しゅるい）の違（ちが）う昆虫（こんちゅう）で、頭から背中（せなか）まで緑色を呈（てい）して、木の葉をかざしたままの蟻（あり）と寸分（すんぶん）も違（ちが）わぬ種類（しゅるい）がある。これらは人間にくらべたならば、あたかも盗賊（とうぞく）が制服（せいふく）を着して学校の生徒（せいと）控所（ひかえしょ）などへはいり込（こ）むのと同じで、実に巧（たく）みな詐欺（さぎ）の方法（ほうほう）である。
　昆虫（こんちゅう）の幼虫（ようちゅう）などには自分より強い敵（てき）に出遇（であ）うたときに虚喝（きよかつ）をもってこれを追い退（しりぞ）ける者がある。ある蛾（が）の幼虫（ようちゅう）には背（せ）の前部に左右二つの大きないちじるしい蛇（じや）の目（め）の斑紋（はんもん）があるが、この虫は敵（てき）に遇（あ）うと、たちまち体の前部をちぢめて太くする。かくすると、蛇（じゃ）の目（め）の紋（もん）が左右ならんで前を向き、全部があたかも仮面（かめん）のごとくになり、猿（さる）か猫（ねこ）かの顔のごとき形を現（あら）わすゆえ、たいがいの鳥類（ちょうるい）ならばたちまち驚（おどろ）いて逃（に）げてしまう。これも実際（じっさい）に何の力もない弱い者が非常（ひじょう）に強き者であるかのごとき姿勢（しせい）を示（しめ）して敵（てき）を欺（あざむ）くのであるからもとより一種（いっしゅ）の詐欺（さぎ）である。
　また死んだまねをして敵（てき）の攻撃（こうげき）をのがれる虫もある。蜘蛛（くも）などは、誰（だれ）でも自分でためして容易（ようい）に知りうるごとく、少しでも触（ふ）れると、早速巣（す）から地上へ落ちて暫時（ざんじ）はあたかも死んだかのごとくに少しも動かずにいる。昆虫（こんちゅう）を捕（とら）えて食する動物は多くは昆虫（こんちゅう）の生きて動いているときにのみこれを捕（とら）えるもので、蛙（かえる）のごときも、動かぬ物にはいっさい見向きもせぬ。それゆえ、蜘蛛（くも）なども死んだまねをして動かずにおれば多くの敵（てき）からのがれることができる。獣類（じゅうるい）の中でも小形のものには往々（おうおう）この性質（せいしつ）が備（そな）わって、打たれても蹴（け）られても少しも動かず、敵（てき）の全く遠ざかるまではいつまでも全く死んだごとくに装（よそお）うているものがある。この方法（ほうほう）は「二人の朋友（ほうゆう）と熊（くま）」というイソップ物語の話のなかの一人が熊（くま）の攻撃（こうげき）をのがれるために用いたもので、時に臨（のぞん）んでは唯一（ゆいつ）の有効（ゆうこう）な方法（ほうほう）である。
　以上（いじょう）少数の例（れい）をあげて示（しめ）したごとく、詐欺（さぎ）、偽（いつわ）り、他をだますということは自然（しぜん）界にはきわめて普通（ふつう）なことで、とうていかぞえつくすことはできぬ。少しくつまびらかに調べさえすれば、ほとんどいたるところにその例（れい）を発見する。海岸へ行って、浪（なみ）打ちぎわの岩石の表面などを見ると、すべての動物があるいは砂（すな）をかぶったりあるいは色を似（に）せたりなどして、一見岩とまぎらわしいように装（よそお）うている。また船に乗って沖（おき）へ出て見ると、海岸に浮（う）かんでいる動物には、ガラスのごとくに無色（むしょく）透明（とうめい）で、目の前にいても慣（な）れぬ人には全く見えぬものが多い。さてかように種々（しゅしゅ）の動物が、詐欺（さぎ）に力をつくしているのは何のためであるかというに、これは全く生活のため、自衛（じえい）のためで、いずれも他を食うため、他に食われぬために、かく偽（いつわ）っているのである。自然（しぜん）界（かい）における野生の動物の生活を見るに、その生活、自衛（じえい）の方法（ほうほう）は暴力（ぼうりょく）によると詐欺（さぎ）を用いるとの二つよりないゆえ、この二者は結局（けっきょく）同一の目的（もくてき）を達（たつ）するための異（こと）なった手段（しゅだん）というだけで、いずれをまされりとも、いずれを劣（おと）れりとも言うことのできぬ対等のものと見なさざるをえない。すなわち時と場合と相手とに応（おう）じて、あるいは暴力（ぼうりょく）のほうが有効（ゆうこう）なこともあれば、あるいは詐欺（さぎ）のほうが得策（とくさく）なることもある。彼（かれ）よりも我（われ）のほうが力強いときは、暴力（ぼうりょく）に訴（うった）えるほうが勝負もはやく結果（けっか）も確（たし）かであるが、我（われ）よりも彼（かれ）の力が
まさっていることの明らかな場合には詐欺（さぎ）よりほかに取るべき手段（しゅだん）はない。また我（われ）の力がはるかにまさっているときにでも、暴力（ぼうりょく）よりも詐欺（さぎ）によつたほうが、労（ろう）少なくして効（こう）の多い場合ももちろんあろう。
　およそ自然（しぜん）物を通覧（つうらん）するに、同一の目的（もくてき）を達（たつ）するために二種（にしゅ）以上（いじょう）の手段（しゅだん）がそろうて完全（かんぜん）に発達（はったつ）している例（れい）は決してない。よく飛（と）ぶ鳥は足が弱く、よく走る鳥は翅（はね）が小さい。たくみにおよぐものは樹（き）に登りえず、たくみに枝（えだ）を渡（わた）るものは地に穴（あな）をうがちえない。角（つの）あれば牙（きば）なく、鱗（うろこ）あれば髪（かみ）がないというように、必（かなら）ず一方の手段（しゅだん）である目的（もくてき）を達（たつ）しえられる程度（ていど）までに進んでいるだけで、決してその上に同一の目的（もくてき）のための他の手段（しゅだん）が並（なら）び発達（はったつ）するということはない。まして梅（うめ）が香（か）を桜（さくら）の花に移（うつ）し、柳（やなぎ）の枝（えだ）に咲（さ）かせるというような三方に充分（じゅうぶん）なるごときはとうてい望（のぞ）まれぬことである。昔から天道は満（み）つるを虧（か）き、足らざるを補（おぎな）うというのはこの意味であろう。されば生活自衛（じえい）の手段（しゅだん）なる暴力（ぼうりょく）と詐欺（さぎ）のごときもこの理（ことわり）に漏（も）れず、詐欺（さぎ）の方法（ほうほう）の充分（じゅうぶん）に整うている動物は概（がい）して弱く、また弱い動物が概（がい）して詐欺（さぎ）を用いる。前の例（れい）にあげたごとき動物はいずれも弱いものばかりで、詐欺（さぎ）によらなければとうてい世に処（しょ）する途（みち）のないものである。鯨（くじら）のごとき強い者は少しも詐欺（さぎ）を行なうの必要（ひつよう）はない。
　前のたとえに引いた「二人の朋友（ほうゆう）と熊（くま）」という話の中にある男は、熊（くま）が死んだ物を食わぬことをつねから聞き知っていて、自分の腕力（わんりょく）がとうてい熊（くま）にかなわぬことも明らかに知っていたゆえ、熊（くま）に出遇（であ）うたときに死んだ真似（まね）をして危険（きけん）をのがれたのであるが、かりにかの男
が熊（くま）よりも数倍も力が強くて、ひとつかみに熊（くま）をつぶしえたと仮定（かてい）したならば、かれはいかに処置（しょち）したであろうかと考えるに、彼（かれ）は決して詐欺（さぎ）によらず暴力（ぼうりょく）のほうをとっていたに違（ちが）いない。自然（しぜん）界（かい）における動物の行為（こうい）もこれと同様で、ある動物は暴力（ぼうりょく）によって他を食うように他に食われぬようにとつとめ、ある動物は詐欺（さぎ）によって他を食うように他に食われぬようにつとめているのである。これはいやしくも生活している以上（いじょう）はやむをえぬことで、いかなる動物といえども、その生命を保（たも）たんとする以上（いじょう）は、暴力（ぼうりょく）か詐欺（さぎ）かのうち、いずれか一をとるのほかはない。されば虚心（きょしん）平気に自然（しぜん）界（かい）を見渡（みわた）せば、詐欺（さぎ）は暴力（ぼうりょく）と相（あい）並（なら）んで生活自衛（じえい）に必要（ひつよう）な手段（しゅだん）として存（そん）するので、野生の動物がつねにその中のいずれかを用いておるのはもとより当然（とうぜん）のことである。
　かく論（かく）じてみると、暴力（ぼうりょく）と詐欺（さぎ）との行なわれぬところはないごとくに聞えるが、実際（じっさい）においては天然（てんねん）界の中には暴力（ぼうりょく）と詐欺（さぎ）との行なわれぬところがある。それは完結（かんけつ）した団体（だんたい）生活をなす動物の同一団体（だんたい）内においてである。かかる動物では生存（せいぞん）競争（きょうそう）の単位（たんい）は団体（だんたい）と団体（だんたい）とが相対して争（あらそ）うているのであるゆえ、同一団体（だんたい）内の各（かく）個体（こたい）間に暴力（ぼうりょく）や詐欺（さぎ）が行なわれるようでは、その団体（だんたい）としての力がはなはだ弱くなって、とうてい敵（てき）なる団体（だんたい）に打ち勝つことはできぬ。団体（だんたい）生活をなす動物では生存（せいぞん）競争（きょうそう）の結果（けっか）、適（てき）する団体（だんたい）はますます繁栄（はんえい）し、適（てき）せぬ団体（だんたい）は次第（しだい）に滅（ほろび）び失（う）せ、自然（しぜん）淘汰（とうた）が行なわれて団体（だんたい）を勝たしめた性質（せいしつ）は一代ごとに進歩し、ついには同一団体（だんたい）内の個体（こたい）間には少しも暴力（ぼうりょく）と詐欺（さぎ）とが行なわれず、すべての個体（こたい）が力をあわせて、外に向うて暴力（ぼうりょく）もしくは詐欺（さぎ）をたくましうすることのできる程度（ていど）までに達（たつ）する。蟻（あり）や蜂（はち）は今日すでにかような階段（だんかい）に達（たつ）しているのである。要（よう）するに団体（だんたい）生活を営（いとな）む動物にあっては、団体（だんたい）内の個体（こたい）間における暴力（ぼうりょく）と詐欺（さぎ）との使用を抑圧（よくあつ）するのは生存（せいぞん）上もっとも必要（ひつよう）な条件（じょうけん）で、この点で他におとったものはとうてい生存（せいぞん）の望（のぞ）みはない。かかる動物の競争（きょうそう）は、一面この点で競争（きょうそう）しているのである。生存（せいぞん）競争（きょうそう）の単位（たんい）なる一団体（だんたい）内において、個体（こたい）間の暴力（ぼうりょく）および詐欺（さぎ）を抑圧（よくあつ）することがいくぶんかでもゆるんだならば、その団体（だんたい）の前途（ぜんと）はすこぶる危（あぶな）いものと言わなければならぬ。
　以上（いじょう）述（の）べたところを約言（やくげん）すれば、詐欺（さぎ）、偽（いつわ）りは暴力（ぼうりょく）とともに自然（しぜん）界（かい）に最（もっと）も広く行なわれていることで、それ自身のみについて言えば、単（たん）に生活自衛（じえい）の一手段（いちしゅだん）に過（す）ぎず、善悪（ぜんあく）の二字をもって批評（ひょうか）すべき範囲（はんい）以外（いがい）に位（くらい）する。ただ団体（だんたい）生活をなす動物では、生存（せいぞん）競争（きょうそう）の単位（たんい）なる一団体（だんたい）のうちで個体（こたい）間に詐欺（さぎ）暴力（ぼうりょく）の行なわれることは、その団体（だんたい）の維持（いじ）繁栄（はんえい）のためにすこぶる有害（ゆうがい）であるゆえ、もしある団体（だんたい）動物が他に負けぬように長く生存（せいぞん）して勢力（せいりょく）を発展（はってん）させようと思えば、適宜（てきぎ）の方法（ほうほう）によってできるだけ個体（こたい）間の詐欺（さぎ）、暴力（ぼうりょく）を抑圧（よくあつ）することが何よりも先に必要（ひつよう）である。右は動物界全部を広く比較（ひかく）しての論（ろん）であるが、最高等（さいこうとう）の動物のみにあてはめても理屈（りくつ）は全く同様であろう。