自然の復讐

　自然（しぜん）を征服（せいふく）し得（え）たことは人類（じんるい）の最（もっと）も誇（ほこ）りとする所である。文明と云（い）ひ野蛮（やばん）と云（い）ふも、畢竟（ひっきょう）、自然（しぜん）を多く征服（せいふく）し得（え）たか、少なく征服（せいふく）し得（え）たかの相違（そうい）に過（す）ぎぬ。火を以（もつ）て随意（ずいい）に物を焼（や）き始めてより、野獣（やじゅう）を捕（とら）へて家畜（かちく）とし、雑草（ざっそう）を養（やしな）うて作物としたのも、皆（みな）自然（しぜん）の征服（せいふく）であつたが、十九世紀（せいき）に至（いた）つては、自然（しぜん）の征服（せいふく）が急に盛（さかん）になつて、鉄道を敷（し）いて大陸（たいりく）を征服（せいふく）し、巨船（きょせん）を浮（うか）べて海洋を征服（せいふく）し、更（さら）に二十世紀（せいき）に入つては、飛行機（ひこうき）を飛（と）ばして天空（てんくう）をも征服（せいふく）するに至（いた）つた。水を用ひて灯（ひ）を点じ、炭を燃（も）やして氷を造（つく）るは素（もと）より、電波（でんぱ）を使役（しえき）して遠距離（えんきょり）の間にも自由に通信（つうしん）し、エツキス放散（ほうさん）線を利用（りよう）して胎内（たいない）の子供（こども）の骨（ほね）をも写す。また血清（けっせい）を製造（せいぞう）して微細（びさい）なる病原（びょうげん）生物を征服（せいふく）し、新薬「六〇六」を注射（ちゅうしゃ）して「スピロヘーテ（注：梅毒（ばいどく）の病原菌（きん））、パルリダ」をも絶滅（ぜつめつ）し得（え）ると云（い）うて居（い）る。斯（か）くて人類（じんるい）は自然（しぜん）を征服（せいふく）し得（え）たことを何よりの手柄（てがら）と心得（こころえ）、文明の進んだことを大に得意（とくい）として、今後も益々（ますます）競（きそ）うて自然（しぜん）を征服（せいふく）せんと努（つと）めて居（い）るのである。
　併（しか）し此所（ここ）に一つの疑問（ぎもん）がある。自然（しぜん）は果（はた）して斯様（かよう）に人類（じんるい）に征服（せいふく）せられるのみで、敢（あ）へて之（これ）に対して復讐（ふくしゅう）を企（くわだ）てる如（ごと）きことは無（な）いであらうか。我々（われわれ）が自然（しぜん）を征服（せいふく）し得（え）たりと思うて得々（とくとく）として居（い）る間に、恰（あたか）も白蟻（しろあり）が堂（どう）や寺などを喰（く）ひ弱らせる如（ごと）くに、見えぬ所で絶（た）えず彼（かれ）が仇（かたき）返しを為（な）して居（い）る様なことは無（な）いであらうか。此様（このよう）な問題は、今日の人類（じんるい）を標準（ひょうじゅん）とし、今日の世の中だけを見、目前の勝利（しょうり）に心を奪（うば）はれて、たゞ文明を謳歌（おうか）し居（い）る人等には、恐（おそ）らく胸（むね）に浮（うか）ぶことさへ無（な）いであらうが、遠く人類（じんるい）の過去（かこ）の歴史（れきし）を考へ、下等な獣類（じゅうるい）時代から、猿（さる）時代、野蛮（やばん）時代、半開時代を経（へ）て終（つい）に現今（げんこん）の有様に達（たつ）したまでの変遷（へんせん）の跡（あと）を探（さぐ）るときは、この問題に対して慥（たしか）に然（しか）りと答ふるの外に途（みち）は無（な）い様に思はれる。


　自然（しぜん）には一定の理法（りほう）が有つて、之（これ）を破（やぶ）るものは必（かなら）ず罰（ばつ）せずには置（お）かぬ。例（たと）へば人間の住所なる陸地（りくち）に就（つ）いて考へて見ても、森林の樹木（じゅもく）を猥（みだ）りに伐（き）り払（はら）ふて山を坊主（ぼうず）にすれば、雨水（あまみず）を一時吸収（きゅうしゅう）し貯蓄（ちょちく）するための自然（しぜん）の装置（そうち）が無（な）くなるから、雨降（あめふ）りの続（つづ）く度（たび）毎（ごと）に洪水（こうずい）が出て、家を流し橋を落すに至（いた）る。小鳥類（るい）を濫獲（らんかく）して取り尽（つく）せば、昆虫（こんちゅう）類（るい）の繁殖（はんしょく）を制限（せいげん）する自然（しぜん）の働（はたら）き役（やく）が無（な）くなつて、忽（たちま）ち害虫（がいちゅう）が殖（ふ）え、作物の収獲（しゅうかく）が著（いちじる）しく減（げん）じ、場合によつては皆無（かいむ）となる。また海岸の森を切り倒（たお）したために、魚の望（のぞ）んで来る蔭（かげ）が無（な）くなり、漁期（りょうき）にも魚が採（と）れず、近辺（きんぺん）の町が衰微（すいび）したと云（い）ふ様なこともある。製造（せいぞう）所から汚物（おぶつ）を川へ流し出すために其（そ）の先の海で蝦（えび）や海苔（のり）が出来なくなつて、土地の人々の産業（さんぎょう）が絶（た）えると云（い）ふこともある。これ等は何（いず）れも自然（しぜん）の理法（りほう）を無視（むし）したために自然（しぜん）から罰（ばつ）を受けたのであつて、全く自業（じごう）自得（じとく）と云（い）ふの外（ほか）はない。斯様（かよう）な過（あやま）ちは、今日まで何所（どこ）でも随分（ずいぶん）数多く有つたであらう、また今後も時々あるであらうが、之（これ）は知識（ちしき）の足らぬため、先見（せんけん）の明（めい）の無（な）いために起つたことである故（ゆえ）、人智（じんち）の進むと共（とも）に、追々（おいおい）同じ過（あやま）ちを避（さ）けることも出来、已（すで）に過（あやま）つたことは、之（これ）を償（つぐな）ふて、其（そ）の結果（けっか）を取り消すことも全く不可能（ふかのう）ではない。人類（じんるい）の征服（せいふく）に対する自然（しぜん）の復讐（ふくしゅう）としては、此等（これら）は最（もっと）も軽い程度（ていど）のものである。


　生物には、絶（た）えず鍛（きた）へる体部は強く丈夫（じょうぶ）になり、常（つね）に蔽（おお）ひ保護（ほご）せられる所は次第（しだい）に弱くなる性質（せいしつ）がある。之（これ）は自然（しぜん）の理法（りほう）の一であつて、寄居蟹（やどかり）の頭や鋏（はさみ）が堅（かた）いのに反し、介殻（かいがら）に蔽（おお）はれた腹部（ふくぶ）の皮が薄（うす）く柔（やわら）かなのも其（そ）の為（ため）であるが、人間の身体も無論（むろん）この規則（きそく）に洩（も）れない。然（しか）るに人間は、自然（しぜん）を征服（せいふく）し、自然（しぜん）力の一部を随意（ずいい）に使役（しえき）し得（え）る様に成（な）つた度毎に、之（これ）によつて自己（じこ）の身体を大切に保護（ほご）し来つた故（ゆえ）、征服（せいふく）の重なる毎に、人間の身体は少しづゝ弱く成（な）つた。火を用ひ始めたことは文明の第一歩であつて、人類（じんるい）開化（かいか）史（し）の第一頁（ぺーじ）に特筆（とくひつ）大書すべき自然（しぜん）の征服（せいふく）であるが、物を煮（に）て食ふやうに成（な）つてからは人間の消化器（しょうかき）は著（いちじる）しく弱くなつた。食物を煮（に）て食ふ動物は人間以外（いがい）には一種（いっしゅ）もないが、人間ほどに歯や腸胃（いちょう）の弱い動物も人間以外（いがい）には一種（いっしゅ）もない。衛生（えいせい）の書物を開いて見ると、生水（なまみず）は危険（きけん）なれば飲むべからず、必（かなら）ず一回煮沸（ふっとう）したるものを飲用すべしなどと書いてあるが、未（いま）だ火を用ひなかつた頃（ころ）の人類（じんるい）の先祖（せんぞ）は、他の総（す）べての野獣（やじゅう）と同じく、無論（むろん）煮沸（ふっとう）せぬ水ばかりを飲んで、天寿（てんじゅ）を全うして居（い）たのである故（ゆえ）、それより今日までの間に、斯様（かよう）な注意を要（よう）する程度（ていど）までに、人間の体質（たいしつ）が弱く成（な）つたのである。衣服（いふく）を着して寒気を防（ふせ）ぐことも、他の獣類（じゅうるい）と異（こと）なる点として人の誇（ほこ）る所であるが、其（この）ため人類（じんるい）の皮膚（ひふ）は無論（むろん）段々（だんだん）と弱くなつた。人間の如（ごと）くに、僅（わずか）ばかりの寒暖（かんだん）の変化（へんか）によつて、容易（ようい）に風を引く獣（けもの）は他に恐（おそ）らく無（な）いであらう。今に成（な）つて、俄（にわか）に冷水（れいすい）摩擦（まさつ）を始めても、到底（とうてい）生まれて一回も冷水浴（れいすいよく）をやらぬ獣類（じゅうるい）の足許（あしもと）にも達（たつ）せぬ。家屋（かおく）を建（た）てゝ寒暑を防（ふ）ぎ、市街（しがい）を造（つく）つて安全に住居（じゅうきょ）することは、総（す）べての文明の礎（いしずえ）とも云（い）ふべきことであるが、其（その）ため日夜悪い空気を吸（すう）ふて、呼吸（こきゅう）器官（きかん）が次第（しだい）に弱くなり、終（つい）には誰（だれ）も彼（かれ）もが肺病（はいびょう）に罹（かか）る様になつた。結核（けっかく）の「バチルス（注：真正細菌（さいきん）類（るい））」はコッホが之（これ）を発明しない遠い昔から、無論（むろん）何時（いつ）の世にも有つたであらうから、或（あるい）は熊（くま）の肺（はい）に入ることもあらう、また猪（いのしし）の肺（はい）に入ることも必（かなら）ず有つたらう。然（しか）るに熊（くま）や猪（いのしし）が悉（ことごと）く肺病（はいびょう）に罹（かか）らぬ所を見ると、肺病（はいびょう）の原因（げんいん）は結核菌（けっかくきん）なりと云（い）ふよりも、肺病（はいびょう）の原因（げんいん）は弱き人の肺（はい）なりと云（い）ふた方が寧（むしろ）ろ適当（てきとう）かとも考へられる。人間が暖房管（だんぼうかん）を備（そな）へ、煽風器（せんぷうき）を据（す）へ付（つ）けて、如何（いか）なる冬の寒さでも、如何（いか）なる夏の暑さでも我（わ）が知力を以（もつ）て防（ふせ）ぎ得（え）ぬものは無（な）からうと誇（ほこ）りつゝある間に、自然（しぜん）は之（これ）に対する復讐（ふくしゅう）として、日夜の別（べつ）なく人類（じんるい）の体質（たいしつ）を根柢（こんてい）から弱くせざれば止まなかつたのである。自然（しぜん）の復讐（ふくしゅう）は、何時（いつ）も斯（か）く極（きわ）めて隠微（いんび）に行はれるから、普通（ふつう）の人は之（これ）に気が附（つ）かぬが、人間の仕事の一時的（てき）、部分的（てき）、表面的（てき）であるに反し、彼（か）れの仕事は永久（えいきゅう）的（てき）、普遍（ふへん）的（てき）、根柢（こんてい）的（てき）である故（ゆえ）、その結果（けっか）は極（きわ）めて恐（おそ）ろしい。而（しか）して一般（いっぱん）の学者等が騒（さわ）ぎ出すほどに結果（けっか）の現（あらわ）れる頃（ころ）は、已（すで）に手後れであつて容易（ようい）に回復（かいふく）の見込（みこ）みは立たぬ。近頃（ちかごろ）欧米（おうべい）諸国（しょこく）では人種（じんしゅ）の衛生（えいせい）とか、民族（みんぞく）の改良（かいりょう）とか云（い）ふことを喧（やかま）しく論（ろん）じて居（い）るが、之（これ）は長い間の自然（しぜん）の復讐（ふくしゅう）の結果（けっか）が著（いちじる）しく現（あらわ）れて居（い）ることに、急に心附（こころづ）いたからであらう。


　医術（いじゅつ）は文明と共（とも）に進むもので、野蛮（やばん）人を文明に導（みちび）くには、先づ医術（いじゅつ）の方から持ち込（こ）むことが多い。また衛生（えいせい）と云（い）ふことも、開化の進むに随（したが）うて、益々（ますます）重んぜられるもので、凡（およ）そ一国民（こくみん）の衛生（えいせい）思想（しそう）の如何（いかん）を見れば其国（そのくに）の文明の程度（ていど）を推察（すいさつ）することが出来る。併（しか）し、この大切な医術（いじゅつ）や衛生（えいせい）の進歩に対しても、自然（しぜん）は絶（た）えず復讐（ふくしゅう）し来つた様に思はれる。医術（いじゅつ）が進めば、昔し治（なお）らなかつた病気も治（なお）る様になり、消毒（しょうどく）の方法（ほうほう）が完全（かんぜん）になれば、外科手術（しゅじゅつ）も次第（しだい）に大袈裟（おおげさ）なことが出来るやうに成（な）るから、一個人（こじん）の命を助ける術（じゅつ）としては、誰（だれ）も、其（そ）の進歩の有難（ありがた）さを感ぜぬ者は無（な）いであらうが、扨（さ）て人類（じんるい）全体の生まれながらの体質（たいしつ）に向つて、之（これ）が如何（いか）なる影響（えいきょう）を及（およ）ぼすであらうかと考へると、此所（ここ）にも自然（しぜん）は決して復讐（ふくしゅう）せずには居（お）らぬ様である。凡（およ）そ生物体には僅（わずか）な傷（きず）や少量（しょうりょう）の毒物（どくぶつ）に対しては自ら之（これ）を治（なお）し、又（また）は之（これ）に抵抗（ていこう）し得（う）る性質（せいしつ）が備（そな）はつてある。小さい切り傷（きず）や擦（す）り傷（きず）が知らぬ間に自然（しぜん）と治（なお）り、少量（しょうりょう）の脳溢血（のういっけつ）や、肺炎（はいえん）の気胞（きほう）内に溜（た）まつた液（えき）などが、捨（すて）てゝ置（お）いても自然（しぜん）と吸収（きゅうしゅう）せられて仕舞（しま）ふ如（ごと）き、又（また）は一度軽く済（す）ませた病気に対して免疫性（めんえきせい）を得（え）る如（ごと）きは、其例（そのれい）であるが、医術（いじゅつ）的（てき）の治療（ちりょう）には、自然（しぜん）の回復（かいふく）を待つ間、単（たん）に患者（かんじゃ）を保護（ほご）することゝ、患者（かんじゃ）の回復（かいふく）力や抵抗（ていこう）力の足らぬ所を人為（じんい）的（てき）に加（くわ）へ補（おぎな）ふて命を保（たも）たしめることとが行はれる。而（しか）して、回復（かいふく）力や抵抗（ていこう）力の足らぬ体質（たいしつ）の者を、人為（じんい）的（てき）に助け、人並（ひとなみ）に寿命（じゅみょう）を保（たも）たしめる場合には、人間総平均（そうへいきん）の体質（たいしつ）は、其（その）ため幾分（いくぶん）か降（くだ）るべきは勿論（むろん）であらう。血清（けっせい）療法（りょうほう）の如（ごと）きも、個人（こじん）を助ける術（じゅつ）としては恐（おそ）らく大成功（せいこう）であらうが、人手を借（か）りて、始めて漸（しばら）く病毒（びょうどく）に抵抗（ていこう）し得（う）る体質（たいしつ）の者は、生まれながらにして、自然（しぜん）に其（そ）の病毒（びょうどく）に抵抗（ていこう）し得（う）る体質（たいしつ）の者に比（ひ）して、強壮（きょうそう）の程度（ていど）の劣（おと）れるは勿論（むろん）である故（ゆえ）、若（も）し血清（けっせい）の注射（ちゅうしゃ）によつて、病を治療（ちりょう）し又（また）は予防（よぼう）することが長く且（かつ）広く行はれたならば、一代毎（ごと）に人類（じんるい）総体（そうたい）としての健康（けんこう）が極（きわ）めて少し宛（づつ）、降（くだ）るものと見做（みな）さねばならぬが、若（も）し人間生来（せいらい）の抵抗（ていこう）力が段々（だんだん）減（げん）ずるとしたならば、或（あるい）は未来（みらい）に於（おい）て、従来（じゅうらい）人体に対して無害（むがい）であつた細菌（さいきん）のために侵（おか）されて、新しい病気の種類（しゅるい）が続々（ぞくぞく）殖（ふ）える如（ごと）きことは無（な）いであらうか。血清（けっせい）療法（りょうほう）や化学療法（りょうほう）が充分（じゅうぶん）に進歩（しんぽ）し、区役所の世話も完全（かんぜん）に行き届（とど）いて、今日は種痘（しゅとう）、明日は実扶的里（ジフテリ）の血清（けっせい）注射（ちゅうしゃ）、明後日（あさって）は腸（ちょう）窒扶斯（チフス）のワクチン療法（りょうほう）、その次の日は発疹（ほっしん）窒扶斯（チフス）、その次の日は猩紅熱（しょうこうねつ）と、下層（かそう）の人民（じんみん）まで強制（きょうせい）的（てき）にやらせる時代には、また名も知らぬ新しい伝染病（でんせんびょう）が幾（いく）つも生じて、病気に罹（かか）る虞（おそれ）は却（かえ）つて今日以上（いじょう）に上る如（ごと）きことは無（な）いであらうか。此等（これら）は素（もと）より取り越（こ）し苦労（くろう）であつて、今から何（いず）れとも慥（たしか）に云（い）ふことは困難（こんなん）であるが、今日已（すで）に何所（どこ）の病院も満員（まんいん）である所を見れば、将来（しょうらい）斯（か）かることは決して無（な）いと云（い）ふ保証（ほしょう）は更（さら）に出来なからう。
　以上（いじょう）述（の）べた所は、人間の身体に直接（ちょくせつ）に関係（かんけい）したことである故（ゆえ）、前の森林を切り払（はら）ふたために洪水（こうずい）が出ると云（い）ふ類（るい）とは違（ちが）ひ、自然（しぜん）の復讐（ふくしゅう）としては一層（いっそう）重い方ではあるが、之（これ）れも決して防（ふせ）ぐ方法（ほうほう）が無（な）いではない。衣食住（いしょくじゅう）に就（つ）いても、今後成（な）るべく自然（しぜん）の理法（りほう）に適（かな）ふやうに改（あらた）め、可愛（かわい）い子に旅をさせる如（ごと）くに、消化器（しょうかき）にも時々硬（かた）い物を消化させ、他人の飯（めし）を食はすために若（わか）い者を奉公（ほうこう）に出す如（ごと）くに、皮膚（ひふ）も成（な）るべく浮世（うきよ）の風に当てゝ辛抱（しんぼう）させ、家屋（かおく）なども庭園（ていえん）と交（まじ）へ建（た）てゝ、余（あま）り密集（みっしゅう）せずに、常（つね）に稍々（やや）新鮮（しんせん）な空気を呼吸（こきゅう）して生活し得（え）るやうにすれば、益々（ますます）弱く成（な）り行くことを多少は避（さ）けることも出来やう。また寄居蟹（やどかり）の腹（はら）の皮が薄（うす）く柔（やわらか）くても、介殻（かいがら）の内へ嵌（は）め込（こ）んで居（い）さへすれば安全である如（ごと）く、人間も身体が少しづゝ弱く成（な）つたとて、之（これ）に対する手当の方法（ほうほう）さへ充分（じゅうぶん）に備（そな）はれば何も直に差支（さしつか）へる程（ほど）のことは無（な）い。ただ、寄居蟹（やどかり）が何所（どこ）へ行くにも必（かなら）ず介殻（かいがら）を引きずつて行かねばならぬ如（ごと）くに、無数（むすう）の生命保存（ほぞん）用品を絶（た）えず備（そな）へ携（たずさ）へねばならず、其（その）ため生活が非常（ひじょう）に複雑（ふくざつ）になつて、常（つね）に多方面に注意を配（くば）らねばならぬと云（い）ふ面倒（めんどう）を我慢（がまん）さへすれば済（す）む訳（わけ）である。されば自然（しぜん）の復讐（ふくしゅう）なるものも、人間の外囲（がいい）に対し、又（また）は人間の身体その物に対するものだけならば、敢（あ）へて絶望（ぜつぼう）するに及（およ）ばぬ。素（もと）より出来るだけ之（これ）を防（ふせ）ぐやうに注意することは必要（ひつよう）であつて、今後決して従来（じゅうらい）の過（あやま）ちを再（ふたた）びせぬことは、損得（そんとく）の上にも自衛（じえい）の上にも大切であるが、たとへ充分（じゅうぶん）に自然（しぜん）の復讐（ふくしゅう）を防（ふせ）ぎ得（え）ずとも、急に危難（きなん）の差（さ）し迫（せま）ることは無（な）いから、民種（みんしゅ）改善（かいぜん）学（注：優生学（ゆうせいがく）。生物の遺伝（いでん）構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良（かりょう）運動）などを緩々（だんだん）と研究して理論（りろん）を闘（たたか）はして居（い）る余裕（よゆう）が少しは有るかも知れぬ。


　自然（しぜん）の復讐（ふくしゅう）の最（もっと）も劇（はげ）しく最（もっと）も惨酷（ざんこく）なのは、人間の社会生活の不条理（ふじょうり）なる点に起因（きいん）するものである。之（これ）は人類（じんるい）の征服（せいふく）に対しての直接（ちょくせつ）の復讐（ふくしゅう）と云（い）ふよりも、寧（むし）ろ人間の社会制度（せいど）の欠点（けってん）に附（つ）け込（こ）んで自然（しぜん）が行ふ間接（かんせつ）の復讐（ふくしゅう）とも云（い）ふべきもので、社会の制度（せいど）が今日の儘（まま）に続（つづ）く限（かぎ）りは、到底（とうてい）防（ふせ）ぐことは出来ぬ。自然（しぜん）には他の欠点（けってん）に附（つ）け込（こ）むなどと云（い）ふ人間らしい性質（せいしつ）は無論（むろん）ある訳（わけ）はない。落花（らっか）心（こころ）ありと云（い）ふのは見る人の心で、流水（りゅうすい）情（じょう）ありと云（い）ふのも眺（なが）める人の情（じょう）である。花自身、水自身には素（もと）より心も無（な）く情（じょう）も無（な）い。たゞ自然（しぜん）は公平無私（むし）である代りに冷淡（れいたん）無情（むじょう）である。それ故（ゆえ）、何事にでも、若（も）し不条理（ふじょうり）な点が有つたならば、何時（いつ）でも何所（どこ）でも厳重（げんじゅう）に攻（せ）め罰（ばつ）して少しも容赦（ようしゃ）はせぬ。されば人間の社会制度（せいど）に無理（むり）な点があり、不条理（ふじょうり）な仕組がある場合には、自然（しぜん）より罰（ばつ）せられることを到底（とうてい）免（まぬが）れぬ。今日の社会の制度（せいど）には種々（しゅしゅ）伝来（でんらい）的（てき）の不条理（ふじょうり）な仕組があつて、それが各（かく）方面に禍（わざわい）の種（たね）を蒔（ま）いて居（い）ることは、前に「所謂（いわゆる）文明の弊（へい）の源（みなもと）」及（およ）び「人類（じんるい）の将来（しょうらい）」と題する二篇（にへん）に述（の）べて置（お）いた故（ゆえ）、此所（ここ）に再（ふたた）び繰（くり）り返すことは見合せるが、其（そ）の結果（けっか）として自然（しぜん）より受ける復讐（ふくしゅう）は何（いず）れの方面を見ても頗（すこぶ）る著（いちじる）しいものがある。之（これ）も詳（くわ）しく論（ろん）ずることは見合せて、たゞ一二の例（れい）を次に述（の）べるだけに止める。
　富者（ふしゃ）は益々（ますます）富（と）み、貧者（ひんしゃ）は益々（ますます）貧（まず）しくなる傾（かたむき）のある今日の世の中では学者が折角（せっかく）、汗（あせ）水流して研究し発明した事も、たゞ富者（ふしゃ）のみが之（これ）を利用（りよう）して、貧者（ひんしゃ）は却（かえ）つて、其（そ）の為に更（さら）に困難（こんなん）に陥（おちい）るに至（いた）り易（やす）い。蒸汽（じょうき）機関（きかん）でも水力電気でも、人間の為（な）し得（え）た自然（しぜん）の征服（せいふく）としては最（もっと）も立派（りっぱ）なものであるが、後から見れば恰（あたか）も貧富（ひんぷ）の懸隔（けんかく）を甚（はなは）だしくするために特（とく）に造（つく）られたかの観（かん）がある。ヨーロッパ諸国（しょこく）で甚（はなは）だしい貧民（ひんみん）の生じたのは蒸汽（じょうき）機関（きかん）が製造（せいぞう）工業に応用（おうよう）せられて以来（いらい）である故（ゆえ）、この結果（けっか）から見ると、蒸汽（じょうき）機関（きかん）は一（ひとつ）に貧民（ひんみん）製造（せいぞう）機関（きかん）と名づけることが出来る。水を沸（わ）かして蒸汽（じょうき）とし、其（そ）の力で車を廻（まわ）すと云（い）ふことだけを見ると、如何（いか）に考へても自然（しぜん）から復讐（ふくしゅう）せらるべき因縁（いんねん）は無（な）い様であるが、之（これ）が人間社会に応用（おうよう）せられると、忽（たちま）ち多数の貧困（ひんこん）者が出来て、生活の困難（こんなん）が始まると云（い）ふのは、畢竟（ひっきょう）、社会の制度（せいど）の中に何等（なんら）か不条理（ふじょうり）な点が存（そん）する故（ゆえ）であらう。究理（きゅうり）（注：物事の道理・法則（ほうそく）を明らかにすること）の学問が進み、自然（しぜん）の征服（せいふく）が行はれる毎（ごと）に、富者（ふしゃ）の財産（ざいさん）の額（がく）と、貧者（ひんしゃ）の人員の数とが殖（ふ）え来つたことを思ふと、今後急速度を以（もつ）て文明が進めば、それに随（したが）ふて世の中も益々（ますます）六（むつ）かしく成（な）り、人間が新に自然（しぜん）を征服（せいふく）する度（たび）毎に、恰（あたか）も自然（しぜん）が其（そ）の復讐（ふくしゅう）として執念（しゅうねん）深く人間社会を苦めるかの如（ごと）き体裁（ていさい）を現（あらわ）すであらう。
　富者（ふしゃ）が益々（ますます）富（と）み、貧者（ひんしゃ）が益々（ますます）貧（まず）しく成（な）れば、富者（ふしゃ）は富貴（ふうき）のために自然（しぜん）的（てき）の生活に倦（あ）いて不自然（ふしぜん）なことを試（こころ）み、貧者（ひんしゃ）は生活に困難（こんなん）のために止むを得（え）ず不自然（ふしぜん）なことを行ひ、何（いず）れも不自然（ふしぜん）なる生活を営（いとな）むであらうが、之（これ）に対して、また自然（しぜん）は必（かなら）ず復讐（ふくしゅう）をする。十八歳（さい）の娘（むすめ）が七十歳（さい）の老人（ろうじん）の妻（つま）となることもあれば、五十歳（さい）まで独身（どくしん）で暮（くら）さねばならぬ男もあらうが、斯様（かよう）なことは身体の上にも必（かなら）ず宜（よろ）しくない影響（えいきょう）を及（およ）ぼして、次代の人間の健康（けんこう）は、其（そ）の為（ため）に幾分（いくぶん）か損（そこな）はれずには止（や）まぬ。年々花柳病（かりゅうびょう）（注：性病）患者（かんじゃ）の殖（ふ）えることも、其（そ）の遠い原因（げんいん）を探（さぐ）れば社会制度（せいど）に欠点（けってん）のあることに構（かま）はずに、智恵（ちえ）に委（まか）せて自然（しぜん）を征服（せいふく）したからである。肺病（はいびょう）患者（かんじゃ）が盛（さかん）に殖（ふ）えて何所（どこ）の国でも白十字社の設立（せつりつ）を急ぐのも、精神病（せいしんびょう）者が年年多くなつて、瘋癲（ふうてん）（注：精神的な疾患）病院の増設（ぞうせつ）が必要（ひつよう）となるのも、殺人（さつじん）強盗（ごうとう）詐欺（さぎ）窃盗（せっとう）の類（るい）が益々（ますます）増加（ぞうか）して監獄（かんごく）が悉（ことごと）く満員（まんいん）となるのも、其（そ）の遠い原因（げんいん）は矢張（やは）り前のと全く同じく、社会制度（せいど）の欠陥（けっかん）が自然（しぜん）の征服（せいふく）によつて急激（きゅうげき）に曝露（ばくろ）した為（ため）である。斯様（かよう）に今日の世の中にある疾病（しっぺい）も罪悪（ざいあく）も、其（そ）の主なる原因（げんいん）を糺（ただ）せば、皆（みな）人間自身の側（がわ）に欠点（けってん）が存（そん）する故（ゆえ）であつて、毫（すこし）も自然（しぜん）を恨（にく）むべき筋（すじ）はないが、譬（たと）へ社会の制度（せいど）に如何（いか）なる欠点（けってん）が有つたとしても若（も）し人間が盛（さかん）に自然（しぜん）を征服（せいふく）することさへ為（な）なかつたならば、僅（わず）か一世紀（せいき）ばかりの中に、今日の如（ごと）き有様（ありさま）には陥（おちい）らなかつたに違（ちが）ひない。之（これ）を思へば、今日の世の中が斯（か）く六（むつ）かしく成（な）つて、多くの困難（こんなん）な社会問題の起つたのは、皆（みな）人間が身分をも顧（かえりみ）ず無謀（むぼう）に自然（しぜん）を征服（せいふく）して、勝ち誇（ほこ）り来つたために、彼（かれ）より劇（はげ）しい復讐（ふくしゅう）を蒙（こうむ）つて居（い）るのであると云（い）ふことも出来やう。尚（なお）この種類（しゅるい）のことは、政治（せいじ）上にも、経済（けいざい）上にも、道徳（どうとく）上にも、教育（きょういく）上にも実に無数（むすう）にある様に思はれるが、此所（ここ）には詳（くわ）しく述（の）べることを略（りゃく）する。


　さて、今日の制度（せいど）のまゝでは、自然（しぜん）を征服（せいふく）して文明を進めれば進めるほど自然（しぜん）から劇（はげ）しく復讐（ふくしゅう）せられるとすれば、今後は自然（しぜん）を征服（せいふく）することを全く止めて、唯々（ただただ）自然（しぜん）に従（したが）ふては如何（いかに）と論（ろん）ずる人があるかも知れぬが、之（これ）れは素（もと）より甚（はなは）だ不得策（ふとくさく）である。地球の上には多数の異（こと）なつた民族（みんぞく）が対立して互（たがい）に隙（すき）を覘（うかが）ふて居（い）る故（ゆえ）、一刻（いっこく）でも油断（ゆだん）して競争（きょうそう）に後（おく）れるが如（ごと）きことが有つてはならぬ。而（しか）して、民族（みんぞく）間の競争（きょうそう）には、如何（いか）なる者が勝ち、如何（いか）なる者が敗（ま）けるかと云（い）へば、他の点が総（す）べて同等である場合には、自然（しぜん）の征服（せいふく）に一歩でも先へ進んだ者が必（かなら）ず他に勝つ訳（わけ）である故（ゆえ）、若（も）し研究を怠（おこた）り、努力（どりょく）を休んで、自然（しぜん）の征服（せいふく）を務（つとめ）めずに居（い）たならば自然（しぜん）の復讐（ふくしゅう）を受けることは或（あるい）は軽く済（す）むかも知れぬが、其（そ）の代り忽（たちま）ち他の民族（みんぞく）のために圧伏（あっぷく）せられて、更（さら）に苦しい位置（いち）に落ちねばならぬ。されば、今日の各（かく）民族（みんぞく）は、復讐（ふくしゅう）を受けることは止むを得（え）ぬと覚悟（かくご）して益々（ますます）自然（しぜん）を征服（せいふく）することを務（つと）めるより外に途（みち）は無（な）いのである。自然（しぜん）から如何（いか）なる復讐（ふくしゅう）を受け、自己（じこ）の民族（みんぞく）内に如何（いか）なる困難（こんなん）な社会問題が起らうとも、他民族（みんぞく）に征服（せいふく）せられて、其（そ）の虐待（ぎゃくたい）を受けるのに比（ひ）しては、遙（はるか）に忍（しの）び易（やす）いであらう。之（これ）を物に譬（たと）へて云（い）へば、恰（あたか）も病人が商売上の激（はげ）しい競争（きょうそう）に従事（じゅうじ）して居（い）る如（ごと）くで、進んで競争（きょうそう）に努力（どりょく）すれば、商売には勝つて店が盛（さかん）になる代りに、病（やまい）を押（お）した自然（しぜん）の復讐（ふくしゅう）として少しづゝ重態（じゅうたい）に陥（おちい）るは止むを得（え）ない。併（しか）しながら、病を思ふて競争（きょうそう）を見放（みはな）せば、忽（たちま）ち零落（れいらく）して、路頭に迷（まよ）ひ餓死（がし）せざるを得（え）ぬのであるから、之（これ）に比（ひ）すれば、病は少々重く成（な）つても、競争（きょうそう）に勝つた方が、遙（はるか）に寿命（じゅみょう）が長く保（たも）てる。今日の各（かく）民族（みんぞく）は略々（ほぼ）斯様（かよう）な状態（じょうたい）にある故（ゆえ）、一方に社会問題の解決（かいけつ）に尽力（じんりょく）しながら、他方には何所（どこ）までも自然（しぜん）の征服（せいふく）に務（つと）め、物質（ぶっしつ）的（てき）の文明を進めて、一歩でも、他の民族（みんぞく）に先んずる様にと心掛（こころが）けることが肝要（かんよう）であらう。