種族の死

丘浅次郎



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おかの進化思想をもっとも良くまとめた文章で、主著しゅちょ『生物学講話』(一九一六)の最終章さいしゅうしょうだがこれだけで独立論文どくりつろんぶん体裁ていさいをととのえている。生物学上の事実によりつつ人類じんるい退化たいか途上とじょうにあることを証明しょうめいする。

 生物のかく個体こたいにはそれぞれ一定の寿命じゅみょうがあって、非業ひごうの死はまぬがれ得ても寿命じゅみょうきた死はけっしてまぬがれることができず、早いかおそいか一度はかならず死なねばならぬ運命を持っているが、さて種族しゅぞくとしてろんずるときはどうであろうか。同様の個体こたいの集まりである種族しゅぞくにも、やはり個体こたいと同じように生死があり寿命じゅみょうがあって、一定の期限きげんの後には絶滅ぜつめつすべきものであろうか。これらのことをろんずるには、まず生物の各種族しゅぞく如何いかにして生じ、如何いかなる歴史れきして今日の姿すがたまでにたっしたものかを承知しょうちしてかねばならぬ。
 動植物の種族しゅぞくの数は今日学者が名を付けたものだけでも百万以上もあって、その中にはきわめて相似あいにたものやまるで相異あいことなったものがあるが、これらははじ如何いかにして生じたものであるかとの疑問ぎもんは、いやしくも物の理窟りくつを考え程度ていどまでに脳髄のうずい発達はったつした人間には是非ぜひとも起るべきもので、哲学てつがくをもって名高い昔のギリシャ人の間にもこれに関してはすでに種々の議論ぎろんたたかわされた。しかし近代にいたって実証じっしょう的にこれを解決かいけつしようとこころみたのは、だれも知るとおりイギリスのダーウィンで、『しゆの起原』と題する著書ちょしょの中に次の二箇条にかじょうを明らかにした。すなわち第一には生物の各種かくしゅは長い間には少しずつ変化へんかすること、第二にははじ一種いしゅの生物も代を多く重ねる間には次第しだい数種すうしゅに分れることであるが、えず少しずつ変化へんかすれば、先祖せんぞ子孫しそんとはいつかまったく別種のごとくに相違そういするにいたるはずで、太古から今日までの間にはさかい判然はんぜんせぬが幾度いくども形のことなった時代を経過けいかし来ったものとみなさねばならず、またはじ一種いしゅ先祖せんぞから起った子孫しそんも後には数種すうしゅに分れるとすれば、さらに後にいたれば数種すうしゅ子孫しそんのおのおのがまた数種すうしゅに分れるわけゆえ、すべてが生存せいぞんするとしたならば、種族しゅぞくの数は次第しだいすばかりで、終には非常ひじょうな多数とならねばならぬ。この二箇条にかじょうむすび合せてろんずると、およそ地球上の生物ははじ単一たんいつなる先祖せんぞから起り、次第しだい変化へんかしながらえず種族しゅぞくの数がえて今日の有様までにたっしたのである。すなわち生物各種かくしゅの間の関係かんけいは、一本の幹から何回となく分岐ぶんきして無数のこずえに終っている樹枝状じゅしじょう系図けいず表をもって示しえるべきもので、各種族かくしゅぞくは一つの末梢まっしょうにあたり、相似あいに種族しゅぞくは、相接近あいせっきんしたこずえに、相異あいことなった種族しゅぞくははるかに相遠ざかったこずえにあたって、いずれもおたがいに血縁けつえん連絡れんらくはあるが、その遠いと近いとにはもとより種々程度ていど相違そういがある。これだけは生物進化論しんかろんくところであるが、これはたん議論ぎろんではなく、化石学を始とし比較ひかく解剖かいぼう学・比較ひかく発生学・分類ぶんるい学・分布ぶんぷ学など、生物学の各方面にわたって無数の証拠しょうこがあるから、今日のところではもはやうたがう余地のない事実とみなさねばならぬ。
 かくのごとく生物の各種族かくしゅぞくはいずれも長い歴史れきして今日の姿すがたまでにたっしたものであるが、その間には何度も形の変じた種族しゅぞくもあれば、また割合わりあい変化へんかすることの少なかった種族しゅぞくもあろう。しかしながらいずれにしても変化へんか徐々じょじょであるから、いつから今日見るごとき形のものになったかは時期を定めていうことはできぬ。化石を調べて見ると、少しずつ次第次第しだいしだい変化へんかして先祖せんぞ子孫しそんとがまるで別種になってしまったれいはいくらもあるが、これらは血筋ちすじ直接ちょくせつに引きつづいていながらその途中とちゅうでいつとはなしに甲種こうしゅの形から乙種おつしゅの形にうつり行くから、乙なる種族しゅぞくはいつ生じたかというのは、あたかもにじはばの中で黄色はどこから始まるかと問うのと同じである。人間などは化石の発見せられた数がまだはなはだ少ないから、この場合のれいには不適当ふてきとうであるが、もしも時代の相つづいた地層ちそうから多数の化石が発見せられたならば、やはりいずれから後を人間と名づけてよいかわからず、したがっていつはじめて生じたということはできぬであろう。
 生物種族しゅぞくはじめてあらわれる具合は、今べたとおり漸漸ぜんぜん変化へんかによるのがつねであるが、かくして生じた種族しゅぞく如何いかになり行くかというに、無論むろん継続けいぞくするか断絶だんぜつするかのほかはなく、継続けいぞくすればさらに少しずつ変化へんかするから、長い間にはついに別の種族しゅぞくとなってしまう。地層ちそうの中からり出された化石が時代のことなるごとに種族しゅぞくちがって、一として数代に連続れんぞくして生きていた種族しゅぞくのないのは、昔もそのとおりであった証拠しょうこであるが、今後とてもおそらく同じことであろう。まれには変化へんかのきわめておそいものがあって、いつまでも変化へんかせぬように見えるが、これはむしろ例外れいがいぞくする。「しゃみせんがい」や「あかがい」などの種族しゅぞくはずいぶん古い地層ちそうから今日まで継続けいぞくしているから、その間だけを見るとほとんど永久不変えいきゅうふへんのものであるかのごとき感じが起るが、「しゃみせんがい」ぞく、「あかがい」ぞくの形になる前のことを考えると、むろん変化へんかしたものにちがいない。またある地層ちそうまではたくさんの化石が出て、その次の地層ちそうからはもはやその化石が出ぬような種族しゅぞくは、その間の時期に断絶だんぜつして子孫しそんのこさなかったものとみなさねばならぬが、かような種族しゅぞくの数はすこぶる多い。獣類けものるいでも魚類でも貝類でも途中とちゅう断絶だんぜつした種族しゅぞくの数は、現今生きている種族しゅぞくの数にして何層倍なんそうばいも多かろう。そしてこれらの種族しゅぞくはなぜかく絶滅ぜつめつしたかというと、他種族たしゅぞくとの競争きょうそうやぶれてほろびたものが多いであろうが、また自然に弱ってみずから滅亡めつぼうしたものもあったであろう。

一 おとった種族しゅぞく滅亡めつぼう


 いつの世の中でも種族しゅぞく間の生存せいぞん競争きょうそうえぬであろうから、相手よりもはるかにおとった種族しゅぞくはとうてい長く生存せいぞんすることをゆるされぬ。同一の食物を食うとか、同一のかくれ家を求めるとか、その他何でも生存せいぞん上同一の需要じゅよう品をようする種族しゅぞくが、二つ以上同じ場処ばしょ相接あいせっして生活する以上は競争きょうそうの起るのは当然とうぜんで、その間に少しでも優劣ゆうれつがあれば、おとった方の種族しゅぞく次第しだい勢力せいりょくを失い、個体こたいの数もだんだんげんじてついには一疋いっぴきのこらず死にえるであろう。またこう種族しゅぞくおつ種族しゅぞくを食うというごとき場合に、もし食われる種族しゅぞくの繁殖力が食う種族しゅぞくの食害力に追い付かぬときは、おつはたちまち断絶だんぜつするをまぬがれぬであろう。かくのごとく他種族たしゅぞくからの迫害はくがいをこうむって一の種族しゅぞく子孫しそんのこさず全滅ぜんめつする場合はつねにいくらもある。そして昔から同じところんでいた種族しゅぞくの間では、勝負が急にかず勝っても負けても変化へんか徐徐じょじょであるが、他地方から新たな種族しゅぞくうつり来ったときなどは各種族かくしゅぞく勢力せいりょく急激きゅうげき変動へんどうが起り、おとった種族しゅぞくは短日月の間に全滅ぜんめつすることもある。ヨーロッパに、アジヤの「あぶらむし」が入り込んだために、元からいた「あぶらむし」は圧倒あっとうされてほとんどいなくなったこともそのれいであるが、かかることのもっともいちじるしく目に立つのは、大陸たいりくと遠くはなれた島国へ他から新たに動物がうつり入った場合であろう。ニュージーランドのごときは従来じゅうらい他の島との交通が全くなくて、他とはことなった固有こゆうの動物ばかりがいたが、ヨーロッパ産の蜜蜂みつばち輸入ゆにゅうしてから、元来土著どちゃく蜜蜂みつばち種族しゅぞくはたちまち減少げんしょうして今日ではほとんどなくなった。ねずみもこの島に固有こゆう種類しゅるいがあったが、普通ふつうねずみが入りんでからはいつの間にか一疋いっぴきのこらずえてしまうた。はえにもこれと同様なことがある。
「アメリカの野牛」のキャプション付きの図
アメリカの野牛
 近代になって絶滅ぜつめつした種族しゅぞくもなかなか数が多いが、その大部分は人間がほろぼしたのである。ねずみとかすずめとかはえとか「しらみ」とかのごときつねに人間にともなうて分布ぶんぷする動物をのぞけば、その他の種族しゅぞくはたいてい人間の勢力せいりょく範囲はんい拡張かくちょうするにしたがうてはなはだしく圧迫あっぱくせられ、とくに大形の獣類けものるい、鳥類のごときは最近さいきん数十年の間にいちじるしく減少げんしょうした。近ごろまでアメリカ大陸たいりくに無数に群居ぐんきょして往々おうおう汽車の進行を止めたといわれる野牛のごときは、今はわずかに少数のものが特別とくべつ保護ほごを受けて生存せいぞんしているに過ぎぬ。ヨーロッパの海狸かいり(注:ビーバー)も昔は各処かくしょの河に多数に住んでいたのが、今はほとんど絶滅ぜつめつに近いまでに減少げんしょうした。獅子ししとらのごとき猛獣もうじゅうはアフリカやインドが全部開拓かいたくせられたあかつきには、動物園の外には一疋いっぴきもいなくなるであろう。人間の力によってすでに絶滅ぜつめつした種族しゅぞくれいげて見るに、マダガスカル島の東にあるモーリシアス島にいた奇態きたいはと一種いしゅは今から二百年あまり前にまったくえてしまうた。またこの島よりもさらに東にあたるロドリゲス島にはこれにた他の一種いっしゅの鳥が住んでいたが、この方は今から百年ほど前につくされた。これらは高さが七六糎(注:76cm)以上、目方が一二瓩(注:12Kg)以上もある大きな鳥で、力も相応そうおうに強かったのであるが、長い間海中のはなれ島に住み、おそしいてきがいないために一度もぶ必要がなく、したがってつばさ退化たいかしてぶ力がなくなった。かかる所へ西洋人の航海こうかい者がこのへんまで来てしばしばこの島に立寄たちよるようになったので、水夫すいふはそのたびごとに面白がってこの鳥を打ちころし、たちまちの間に全部をころつくして、今ではどこの博物館はくぶつかんにも完全かんぜん標本ひょうほんがないほどに絶対ぜったいえてしまうた。シベリヤ・カムチャッカ等の海岸には百五六十年前まではくじらと「おっとせい」との間の形をした長さ七米(注:7m)あまりもある一種いっしゅの大きな海獣かいじゅうがいたが、脂肪しぼうや肉を取るためにさかんにとらえたので、少時しょうじたね切れになった。前の鳥類でもこの海獣かいじゅうでもてきに対して身をまもる力が十分でなかったから、生存せいぞん競争きょうそう劣者れっしゃとしてやぶほろびたのであるが、もし人間が行かなかったならばむろんなお長く生存せいぞんしつづけたにちがいない。おとった種族しゅぞくが急に滅亡めつぼうするのはたいがい強いてきが不意にあらわれた場合にかぎるようである。
「モーリシアス島にいた奇態な鳩」のキャプション付きの図
モーリシアス島にいた奇態きたいはと
 人間の各種族かくしゅぞくについても理窟りくつはまったく同様で、遠くはなれて相触あいふれずに生活している間は、たとい優劣ゆうれつはあっても勝敗しょうはいはないが、一朝相接触せっしょくするとたちまち競争きょうそう結果けっかがあらわれ、おとった種族しゅぞくはしばらくの間に減少げんしょうしてついには滅亡めつぼうするをまぬがれぬ。歴史れきしあって以来すぐれた種族しゅぞくから圧迫あっぱくを受けてつい絶滅ぜつめつした人間の種族しゅぞくは今日までにすでにたくさんある。オーストラリヤの南にあるタスマニヤ島の土人のごときは、昔は全島にひろがって相応そうおうに人数も多かったが、西洋の文明人種じんしゅが入りんでめ立てた以来いらい、たちまち減少げんしょうして今から数十年前にその最後さいごの一人も死んでしまうた。昔メキシコの全部に住んで一種いっしゅの文明を有していたアステカ人のごときも、エスパニヤ人が移住いじゅうし来って何千人何万人とさかんに虐殺ぎゃくさつしたので、今ではほとんど遺物いぶつのこっているのみとなった。古い西洋人のアフリカ紀行きこうを読んでみると、ひさごを持っていずみに水をみに来る土人を、かげから鉄砲てっぽうで打って無聊ぶりょうなぐさめたことなどが書いてあるが、鉄砲てっぽうのない野蛮やばん人と鉄砲てっぽうのある文明人とが相触あいふれては、野蛮やばん人の方がたちまちころつくされるのは当然とうぜんである。今日文明人種じんしゅ圧迫あっぱくをこうむってまさに絶滅ぜつめつせんとしている劣等れっとう人種じんしゅの数はすこぶる多い。セイロン島のヴェッダ人でも、フィリッピン島のネグリト人でも、ボルネオのダヤック人でも、ニューギニヤのパプア人でも、今後急に発展はってんして先進の文明人と対立して生存せいぞんつづべきのぞみはもとよりない。文明諸国の人口がえて海外の殖民地へあふれ出せば、他人種じんしゅの住むべき場処ばしょはそれだけせまめられるから、ついには文明人とその奴隷とをのぞいた他の人間種族しゅぞくは地球上に身をくべきところがなくなってことごとく絶滅ぜつめつするのほかなきことは明らかである。人種じんしゅ間の競争きょうそうにおいては、幾分いくぶんかでも文明のおとった方は次第しだいてき圧迫あっぱくを受けて苦しい境遇きょうぐうにおちいるをまぬがれぬから、自己じこ種族しゅぞく維持いじ継続けいぞくをはかるには相手におとらぬだけに智力ちりょくを高め文明を進めることが何よりも肝要かんようであろう。

二 すぐれた者の跋扈ばっこ


 おとった種族しゅぞく生存せいぞん競争きょうそうやぶれて滅亡めつぼうすることはことわり当然とうぜんであるが、しからばすぐれた種族しゅぞく永久えいきゅう生存せいぞんるかというに、これについては大いに攻究こうきゅうようする点がある。すぐれた種族しゅぞくてき競争きょうそうするにあたってはむろん勝つであろうが、ことごとくてきに打ち勝ってもはや天下におそるべきものがないという有様にたっした後は如何いかになり行くであろうか。てきがなくなった以上は、なおいつまでも全盛ぜんせいをきわめていきおいよく生存せいぞんしつづけるであろうか。またはてきがなくなったためにかえって種族しゅぞく退化たいかを引き起すごとき新たな事情じじょうが生ずることはないであろうか。今日化石となって知られている古代の動物を調べてみるに、一時全盛ぜんせいをきわめていたと思われる種族しゅぞくはことごとく次の時代には絶滅ぜつめつしたが、これは如何いかなる理由によることであるか。向うところてきなきほどに全盛ぜんせいをきわめていた種族しゅぞくが、なぜ今までおのれよりもおとっていたある種族しゅぞくとの競争きょうそうもろくも敗北はいぼくしてたちまち断絶だんぜつするにいたったか。これらの点にかんしてはまだ学者間にもなんらの定説ていせつもないようで、古生物学の書物を見ても満足まんぞく説明せつめいあたえたものは一つもない。されば今からべようとするところはまったく著者ちょしゃ一人だけの考えであるから、そのつもりで読んでもらわねばならぬ。
 およそ生存せいぞん競争きょうそうにおいててきに勝つ動物には勝つだけの性質せいしつそなわってあるべきはいうまでもないが、その性質せいしつというのは種族しゅぞくによってさまざまにちがう。第一、てきとする動物が各種かくしゅごとにちがうから、これに勝つ性質せいしつも相手のことなるにしたがことならねばならぬ。今日学者が名前をけた動物だけでも数十万種あるが、如何いかなる動物でもこれをことごとくてきとするわけではなく、日常にちじょう競争きょうそうする相手はその中のきわめて僅少きんしょうな部分にぎぬ。たとえば産地さんち相隔あいへだたれば喧嘩けんかはできず、同じ地方にさんするものでも森林に住む種族しゅぞくと海中に住む種族しゅぞくとでは直接ちょくせつ相敵対あいてきたいする機会きかいはない。されば勝つ性質せいしつというのは、同じ場処ばしょに住み、ほぼ対等の競争きょうそうのできるような相手に対してすぐれることであって、の上の運動ではたくみにじるものが勝ち、水の中の運動では速くおよぐものが勝つ。そして水中を速くおよぐには足はひれの形でなければならぬから、木に登るにはてきせず、たくみに木に登るにはうでは細くなければならぬから、水をおよぐにはてきせぬ。それゆえ、水をおよぐことにおいててきすぐれたものは、に登るにはてきよりもいっそう不適当ふてきとうであり、木に登ることにおいててきすぐれたものは、水をおよぐにはてきよりもいっそう不適当ふてきとうであるをまぬがれぬ。同一の足をもって、樹上きじょうではさるよりもたくみにじ、平原では鹿しかよりもはやく走り、水中では「おっとせい」よりもすみやかにおよぐというごときことはとうてい無理な註文ちゅうもんである。かものごとくぶことも歩くこともおよぐこともできるものは、ぶことにおいては遠くつばめおよばず、走ることにおいては遠く駝鳥だちようおよばず、およぐことにおいては遠くペンギンにおよばず、いずれの方面にも相手にまさのぞみはない。魚類の中には肺魚はいぎょ類というてはいえらとをそなえ、空気でも水でも勝手に呼吸こきゅうのできる至極しごく重宝ちょうほう種類しゅるいがあるが、水中では水のみを呼吸こきゅうする普通ふつうの魚類に勝てず、陸上りくじょうでは空気のみを呼吸こきゅうするかえるの類に勝てず、今ではわずかに特殊とくしゅ条件じょうけんの下に熱帯ねったい地方の大河たいが生存せいぞんするものが二三種あるにぎぬ。かめこうあついことも、「とかげ」の運動の速いことも、それぞれその動物の生存せいぞんには必要ひつようであるが、こうが重くてはすみやかに走ることがとうていできず、すみやかに走るには重いこうは何よりも邪魔じゃまになるから、「とかげ」よりも速力でまさろうとすれば、こうあつさではかめおとることを覚悟かくごしなければならず、こうあつさでかめよりもまさろうとすれば、速力では「とかげ」におとることを覚悟かくごしなければならぬ。
 かくのごとく、すぐれた種族しゅぞくというのはみなそれぞれその得意とくいとするところで相手にまさるのであるから、競争きょうそう結果けっかますます専門せんもんの方向に進むのほかなく、専門せんもんの方向に進めば進むだけ専門せんもん以外の方面にはてきせぬようになる。鳥のつばさ飛翔ひしょうの器官としては実に理想的のものであるが、その代り飛翔ひしょう以外にはまったく何の役にも立たぬ。犬ならばえさおさえるにも顔をぬぐうにも地をるにも前足を用いるが、鳥はつばさを用いることができぬから止むをず後足またはくちばしをもって間に合せている。さればいかなる種族しゅぞくでもおのれが得意とくいとする点で相手にまさたならば、たちまち相手に打ち勝ってその地方に跋扈ばっこすることができる。すなわち水中ならばもっともよくおよ種族しゅぞく跋扈ばっこし、樹上きじょうではもっともよくじる種族しゅぞく跋扈ばっこし、平原ならばもっともよく走る種族しゅぞく跋扈ばっこすることになるが、今日までに地球上に跋扈ばっこした種族しゅぞくを見ると、実際じっさいみなかならずある専門せんもんの方面においててきまさったものばかりである。
 対等のてき競争きょうそうするにあたっては一歩でも先へ専門せんもんの方向に進んだものの方が勝つ見込みこみの多いことは、人間社会でも多くそのれいを見るところであるが、同じ仕事をするものの間では、一歩でも分業の進んだものの方が勝つ見込みこみがある。身体各部の間に分業が行なわれ、同じく食物を消化するにも、唾液だえきを出すせん膵液すいえきを出すせんかたい物を咀嚼そしゃくする器官きかん、液体を飲み器官きかん澱粉でんぷんを消化するところ蛋白質たんぱくしつを消化するところ脂肪しぼう吸収きゅうしゅうするところかすめるところなどが、一々区別くべつせられるようになれば、身体の構造こうぞうがそれだけ複雑ふくざつになるのは当然とうぜんであるから、数種すうしゅことなった動物が同じ仕事で競争きょうそうする場合には、体の構造こうぞう複雑ふくざつなものの方が分業の進んだものとして一般いっぱんに勝をめる。古い地質ちしつ時代に跋扈ばっこしていたさまざまの動物を見るに、いずれも相応そうおうに身体の構造こうぞう複雑ふくざつなものばかりであるのはこの理由によることであろう。相手よりも一歩先へ専門せんもんの方向に進めば相手に打ち勝って一時世に跋扈ばっこすることはできるが、それだけ他の方面には不適当ふてきとうとなって融通ゆうずうかなくなるから、万一何らかの原因げんいんによって外界の事情じじょうに変化が起った場合には、これに適応てきおうして行くことが困難こんなんになるをまぬがれぬ。また相手よりも一層いっそう身体の構造こうぞう複雑ふくざつであれば、無事のときにはてきに勝つのぞみが多いが、複雑ふくざつであるだけ破損はそんおそれし、一旦いったん破損はそんすればその修繕しゅうぜん容易よういでないから、急に間に合わずして失敗しっぱいする場合も生ぜぬとはかぎらぬ。あたかも人力車と自動車とでは平常へいじょうはとても競走きょうそうはできぬが、自動車は少しでも破損はそんするとまったく動かなくなって、とうてい簡単かんたん破損はそんうれいのない人力車におよばぬのと同じことである。かつて地球上に全盛ぜんせいをきわめた諸種しゅしゅの動物は、おのおのその相手にして専門せんもんの生活にてきすることと分業の進んだこととですぐっていたために、世界に跋扈ばっこすることをたのであるが、それと同時にここにべたごとき弱点をそなえていたものであることをわすれてはならぬ。

三 歴代の全盛ぜんせい動物


 地殻ちかくせる岩石には火成岩かせいがん水成岩すいせいがんとの区別くべつがあるが、水成岩すいせいがんの方は長い間に水のそこどろすなまり、それが次第しだいに固まって岩とったものゆえ、かならずそうをなして相重なり、各層かくそうの中にはその地層ちそうのできた頃に生存せいぞんしていた生物の遺骸いがいが化石となって含まれてある。地質ちしつ学者は水成岩すいせいがんそうをその生じた時代の新旧しんきゅうしたがい、始原代しげんだい古生代こせいだい中生代ちゅうせいだい新生代しんせいだいの四組に大別し、さらに各代のものを若干じゃっかんの期に細別さいべつするが、これらの各時代にぞくする水成岩すいせいがんそうを調べてみると、その中にある化石にはすこぶるまれめずらしい種類しゅるいもあれば、また非常ひじょうにたくさんの化石が出て、おそらくそのころ地球上のいたところに多数に棲息せいそくしていたろうと思われる種類しゅるいもある。個体こたいの数や身体の大きさや構造こうぞうの進んだ点などからして、そのころ全盛ぜんせいをきわめていたに相違そういないと思われる種族しゅぞくがいずれの時代にもかならずあるが、かかる種族しゅぞくの中からもっともいちじるしいもの若干じゃっかんえらび出して、次に簡単かんたんべてみよう。
「三葉虫」のキャプション付きの図
三葉虫さんようちゅう
 古生代の岩石からり出される「三葉虫さんようちゅう」の類も、そのころには実に全盛ぜんせいをきわめていたものとみえて、世界しょ地方からおびただしく発見せられる。わが国ではきわめてまれであるが、支那しな山東省さんとんしょうへんからは非常ひじょうにたくさん出て、板の形にった岩石の表面が全部三葉虫の化石でいっぱいになっていることがめずらしくない。三葉虫にもたくさんのしゅぞくがあって、小さいのは長さ三粍(注:3mm)にもおよばず、大きいのは三〇糎(注:30cm)以上にもたっするが、いずれも「かぶとがに」と船虫との中間のごとき形で、うらから見ると「わらじむし」にて足が多数に生えている。このるいは古生代にはどこでもすこぶるさかんに繁殖はんしょくしたようであるが、不思議ふしぎにもその後たちまち全滅ぜんめつしたものとみえて、次なる中生代の地層ちそうからは化石が一つも発見せられぬ。それゆえもしある岩石の中に三葉虫の化石があったならば、その岩石は古生代にぞくするものとみなして間違まちがいはない。かくのごとくある化石さえ見ればただちにその岩石の生じた時代を正しく鑑定かんている場合には、かような化石をその時代の「標準ひょうじゅん化石」と名づける。中生代の地層ちそうからり出される「アンモン石」という化石は、「たこ」、「いか」などにるいする海産軟体なんたい動物の貝殻かいがらで、形があたかも南瓜かぼちゃのごとくであるから、ぞくに「南瓜かぼちゃ石」とぶ地方もある。これもその時代には全盛ぜんせいをきわめたものとみえて、しゅの数もぞくの数もすこぶる多く、懐中かいちゅう時計ほどの小さなものから人力車の車輪しゃりん位の大きなものまで、世界の各地方から多数に発見せられる。わが国のごときはそのもっとも有名な産地さんちである。今日生きている動物でややこれに貝殻かいがらを有するものはわずかに「おうむ貝」のるいのみであるが、「さざえ」や「たにし」の貝殻かいがらとはちがい、扁平へんぺいいたからの内部はたくさんの隔壁かくへきがあって多くの室に分れている。そして、「アンモン石」では隔壁かくへきと外面のかべとのつなぎ目の線が実に複雑ふくざつ屈曲くっきょくして美しい唐草模様からくさもようていし、その点においてはいかにも発達はったつきわみたっしたごとくに見える。このるいも中生代のおわりまでは全盛ぜんせいをきわめていたが、その後たちまち全滅ぜんめつしたとみえて、次なる新生代の岩石からは一つもその化石が出ぬから、地層ちそうの新古を識別するための標準ひょうじゅん化石としてもっとも重要じゅうようなものである。
「アンモン石」のキャプション付きの図
アンモン石
 以上は両方ともに無脊椎むせきつい動物のれいであるが、次に脊椎せきつい動物についてみると、古生代の魚類、中生代の爬虫はっちゅう類、新生代の獣類けものるいなどには、それぞれその時代に全盛ぜんせいをきわめていた種族しゅぞくがたくさんにある。まず古生代の魚類をみるに、今日の普通ふつうの魚類とは大いにちがうて光沢こうたくのあるあつほねのようなうろこかぶった種類しゅるいが多く、スコットランドの赤色せきしょく砂岩さがんから出た化石のごときは、「かに」か「えび」かのごとくに全身あつ甲胄かっちゅうけてほとんど魚類とは見えぬ。もちろん陸上りくじょうへはのぼなかったが、魚類以上の水棲すいせい動物がまだいなかった時代ゆえ、かかる異形いけいの魚類はいたところの海中に無数に棲息せいそくして実に全盛ぜんせいをきわめていた。通俗つうぞく地質ちしつ学書に古生代のことを魚の時代と名づけてあるのももっともな次第しだいである。しかしその後にいたってみなたちまち絶滅ぜつめつして、今日これらの魚類にいささかでもているのは、わずかに「ちょうざめ」などのごとき硬鱗魚こうりんぎょ類が数種すうしゅあるにぎぬ。
「胄魚」のキャプション付きの図
胄魚ちょうぎょ
 中生代における爬虫はっちゅう類の全盛ぜんせいのありさまはさらに目覚めざましいもので、陸にも海にもおどろくべき大形の種類しゅるいいきおいをほしいままにしていた。今日では爬虫類はちゅうるいというと、かめへび・「とかげ」などのるいぎず、熱帯ねったい地方にはいくらか大きなものもいるが、普通ふつうに見かけるものは小さな種類しゅるいばかりであるから、全盛ぜんせい時代における爬虫はっちゅう類の生活状態じょうたいはとうてい想像そうぞうもできぬ。ヨーロッパやアメリカの中生代の地層ちそうからり出された爬虫はっちゅう類の化石を見ると陸上りくじょうを四足でい歩いた種類しゅるいには、長さ二〇余米(注:やく20m)におよすねほね一本だけでもほとんど人間ほどあるもの、また「カンガルー」のごとく後足だけで立った種類しゅるいには、高さが五米(注:5m)以上にたっするもの、また蝙蝠こうもりのごとく前足がつばさの形となって空中をけ廻った種類しゅるいには、両翼りょうよくひろげるとゆうに五米(注:5m)をえるものがあり、その他形のなるもの姿すがたおそしいものなど実に千変万化せんぺんばんかきわまりないありさまであった。しかもそれがみなすこぶる数多くり出され、ベルギーのベルニッサールというところからは長さ一〇米(注:10m)もある大「とかげ」の化石が二十五ひき一処ひちところ発掘はっくつせられた。
「中生代の大とかげ」のキャプション付きの図
中生代の大とかげ
ブリュッセル博物館はくぶつかん特別とくべつ館内に陳列ちんれつしてあるのはこれである。中生代にはまだ獣類けものるいも鳥類もでき始まりのすこぶる幼稚ようちな形のもののみであったから、陸上りくじょうでこれらのおそしい爬虫はっちゅう類の相手になって競争きょうそうる動物は一種いっしゅもなかったに相違そういない。さらに海中では如何いかというに、ここにも爬虫はっちゅう類が全盛ぜんせいをきわめて魚のごとき形のもの、海蛇うみへびのごとき形のものなどさまざまの種類しゅるいがあり、大きなものは身長が七米(注:7m)〜一三米(注:13m)にもたっしていて、あたかも今日のくじらのごとくにしかも今日のくじらよりははるかに多数にいたところの海に游泳ゆうえいしていた。通俗つうぞくの書物に中生代のことを「爬虫はっちゅう類の時代」と名づけてあるのもけっして無理ではない。かように中生代には非常ひじょうに大きな爬虫はっちゅう類が水中・陸上りくじょうともに全盛ぜんせいきわめ、ほとんど爬虫はっちゅう類にあらざれば動物にあらずと思われるまでにいきおいをていたが、その後にいたりいずれもにわかにほろせて、次なる新生代まで生きのこったものは一類としてない。とくに不思議ふしぎに感ぜられるのは海産「とかげ」類の絶滅ぜつめつしたことで、陸産りくさんの方ならばあるいは新たにあらわれた獣類けものるいなどにほろぼされたかも知れぬといううたがいがあるが、海中にくじら類の生じたのは新生代の中頃なかころであって、海産「とかげ」類の断絶だんぜつしてからはるかに後のことゆえ、これらはけっして新たな強敵きょうてき出遇であううてけてほろびたのではない。それゆえなぜみずからほろせたかは今までただ不可解ふかかいというばかりであった。
「中生代の大とかげ」のキャプション付きの図
中生代の大とかげ
 次に新生代における獣類けものるいをみるに、これまた一時は全盛ぜんせいをきわめていた。今日では陸上りくじょうのもっとも大きなけものというとまずインドさんとアフリカさんとのぞうぐらいであるが、人間のあらわれる前の時代には今のぞうよりもさらに大きなぞう種類しゅるいがたくさんにあり、その分布ぶんぷ区域も熱帯ねったいから寒帯までひろがっていた。シベリヤの氷原からはときどき「マンモス」と名づける大象たいぞう遺骸いがい発掘はっくつせられることがあるが、氷の中にもれていたこととて、あたかも冷蔵庫れいぞうこの内に貯蔵ちょぞうしてあったのと同じ理窟りくつで、何十万年か何百万年もたにかかわらず、肉も皮も毛も生きていたときのままにのこっている。レニングラードの博物館はくぶつかんにある完全かんぜん剥製はくせい標本ひょうほんはかような材料ざいりょうから製作さくせいしたものである。わが国でもこれまで処々ところどころから「マンモス」その他のぞうの化石、さいの化石、素性すじょうのわからぬ大獣だいじゅう頭骨ずこつなどがり出されたことを考えると、太古には今日とちがうておそしい大きな獣類けものるいが多数に棲息せいそくしていたにちがいない。また食肉類には今日の獅子ししとらよりもさらに大きく、きばつめのさらにするど猛獣もうじゅうがたくさんにいた。ブラジルのある地方からり出された一種いっしゅとらの化石では上顎うわあごきばの長さが三〇糎(注:30cm)ほどもある。鹿しかなどの類にもずいぶん大きな種類しゅるいがあって、左右の角の両端りょうたん距離きょりが四米(注:4m)以上にたっするものもあった。その他この時代にはなおさまざまの怪獣かいじゅういたところ跋扈ばっこして世は獣類けものるいの世であったが、その後人間があらわれてからはたいがいの種族しゅぞくはたちまち滅亡めつぼうして、今日ではもはやかようなものは一種いっしゅも見ることができぬようになった。「マンモス」などがしばらく人間と同時代に生活していたことは、石器せっき時代の原人がのこした彫刻ちょうこくにその絵のあるのを見てもたしかに知られる。
「マンモス」のキャプション付きの図
マンモス

「石器時代の「マンモス」の絵」のキャプション付きの図
石器せっき時代の「マンモス」の絵


四 その末路まつろ


 以上若干じゃっかんれいで示したとおり、地質ちしつ時代に一時全盛ぜんせいをきわめた動物種族しゅぞくは、その後かならずすみやかに滅亡めつぼうして次の時にはまったくかげめぬにいたったが、これは一体いかなる理由によるか。一度すべてのてきに打ち勝ち種族しゅぞくはなぜそのままに次の時まで優勢ゆうせいたもちつづけぬのであろうか。この問に対しては、前にもべたごとくまだ何らの定説ていせつが発表せられたことを聞かぬ。少なくとも何人なんびとをも満足まんぞくせしめるような明瞭めいりょう解決かいけつこころみた人はまだないように見受ける。どの種族しゅぞく全盛ぜんせい時代の末期にはかならず何らかの性質せいしつ過度かど発達はったつして、そのため生存せいぞん上かえって不都合が生じ、つい滅亡めつぼうしたかのごとくに見えるところから考えて、ある人は生物には一度進歩しかかった性質せいしつはどこまでもその方面に一直線に進み行くせいそなわってあるとき、これを直進性ちょくしんせいと名づけ、一度さかんに発展はってんした動物の種族しゅぞくが進みぎてつい滅亡めつぼうしたのは、まったく直進性ちょくしんせい結果けっかであるととなえたが、これはたん不可解ふかかいのことに名称めいしょうけただけで、わからぬことは依然いぜんとしてわからぬ。次にくところは著者ちょしゃ一人の考えである。
 およそ生存せいぞん競争きょうそうに勝って優勢ゆうせいめる動物種族しゅぞくならば、てきまさった有効ゆうこう武器ぶきそなえていることはいうまでもないが、その武器ぶき種族しゅぞくことなるにしたがうてそれぞれちがう。あるいは筋力きんりょくの強さでまさるものもあろう。またはきばつめとのするどさでまさるものもあろう。あるいは感覚かんかく鋭敏えいびんなこと、走ることのすみやかなこと、皮膚ひふの堅いこと、どくはげしいこと、蕃殖はんしよく力の旺盛おうせいなこと、その他何らかの点でてきまさったために、競争きょうそうに勝つをたのであろうから、全盛ぜんせいをきわめる種族しゅぞくにはおのおのかならずその得意とくいとするところの武器ぶきがある。さて生物各種かくしゅ個体こたいの数が平常へいじょういちじるしくえぬのは他種族しゅぞくとの競争きょうそうがあるためで、もしてきがなかったならばたちまちの間に非常ひじょう増加ぞうかすべきはずであるから、すべてのてきに勝ち終った種族しゅぞくさかんに蕃殖はんしょくして個体こたいの数がかぎりなくえるであろう。そして個体こたいの数が多くなれば生活が困難こんなんになるのをまぬがれず、したがって同種族しゅぞく内の個体こたい間もしくは団体だんたい間の競争きょうそう劇烈げきれつにならざるをないが、そのさい各個体かくこたいはいかなる武器ぶきをもって相闘あいたたかうであろうかというに、やはりその種族しゅぞくがかつて他種族しゅぞく征服せいふくするときに用いたのと同じものを用いるにちがいない。すなわち筋力きんりょくで他種族しゅぞくに打ち勝った種族しゅぞくならば、その個体こたいが相戦うにも同じく筋肉きんきくによるであろう。またつめきばとで他種族しゅぞくほろぼした種族しゅぞくならば、その個体こたい間においてもやはりつめきばとによる戦いが行なわれるであろう。個体こたい間にはげしい競争きょうそうが行なわれる結果けっかとして、これらの武器ぶきはますます強くなり大きくなるであろうが、いずれの器官きかんでも体部でも過度かどに発育するとかえって種族しゅぞく生存せいぞんのためには不利益ふりえきなことになる。たとえば筋力きんりょくの強いことによっててきをことごとく征服せいふくした種族しゅぞくが、てきのなくなった後にさらに個体こたい間で筋力きんりょく競争きょうそうをつづけてますます筋力きんりょく増進ぞうしんしたと想像そうぞうするに、筋力きんりょくが強くなるには筋肉きんきくりょうさねばならぬが、筋肉きんきくが太くなればその起点きてん著点ちゃくてんとなるほねも大きくなりしたがって全身が大きくならねばならぬ。角力取りが普通ふつうの人間より大きいのも、力まかせにてきころ大蛇だいじゃ毒蛇どくへび類よりもはるかに大きいのも、主として筋肉きんきく発育の結果けっかである。かような種族しゅぞく内の競争きょうそうでは身体の少しでも大きいものの方が力が強くて勝つ見込みこみがあろうが、身体が大きくなればそれにともなうてまた種々しゅしゅの不便不利益ふりえきなことが生ずる。すなわち日々の生活に多量たりょうの食物を求めねばならず、生長には非常ひじょうに手間がかかり、したがって蕃殖はんしょく力はきわめてひくくなる。その上「大男総身そうしん智恵ちえまわりかね」というとおり、体が重いために敏活びんかつな運動ができず、とくに曲り角のところで身の軽い小動物のごとくに急に方向を変えることは惰性だせいのためにとうてい不可能ふかのうとなるから、小さなてきめられた場合にはあたかも牛若丸うしわかまるに対する弁慶べんけいのごとくにたちまちけるおそれがある。されば身体の大きいことも度をえると明らかに種族しゅぞく生存せいぞんのために不利益ふりえきになるが、他種族たしゅぞくてきがなく同種族どうしゅぞく内の個体こたい同士のみで筋力きんりょく競争きょうそうをなしつづければ、この程度ていどしてなおまずに進むことをけられぬ。直進性ちょくしんせいとはかかる結果けっか不可思議ふかしぎに思うてけた空名にぎぬ。またきばが大きくてするどいためにすべて他の種族しゅぞく圧倒あっとう種族しゅぞくが、てきのなくなった後にさらに個体間こたいかんきばによる競争きょうそうつづけたならば、きばはますます大きくするどくなるであろうが、これまた一定の度をえるとかえって種族しゅぞく生存せいぞん上には不利益ふりえきになる。なぜというに、およそいかなる器官きかんでも他の体部と関係かんけいなしに、それのみ独立どくりつ発達はったつるものはけっしてない。きばのごときももし大きくなるとすれば、その生じている上顎うわあご下顎したあごほねからして太くならねばならず、あごを動かすための筋肉きんきくも、その付著する頭骨ずこつも大きくならねばならぬが、頭が大きく重くなれば、これを支えるためのくびほねくび筋肉きんきくまで大きくならねばならず、したがってこれを維持いじするために動物の負担がよほど重くなるをまぬがれぬ。すなわち他にてきのない種族しゅぞく個体こたいきばの強さでおたがいに競争きょうそうつづければ、きばきば関係かんけいする体部とはどこまでも大きくなり、ついには畸形きけいとみなすべき程度ていどたっし、さらにこの程度ていどをも通り越して進むのほかはない。そのありさまは欧米のしょ強国が大砲の大きさを競争きょうそうして妙な形の軍艦を造っているのと同じである。何ごとでも一方にへんすれば他方には必ずおとる所の生ずるのは自然のことわりであるから、きばの大きくなることも度をえて極端きょくたんまで進むとかえって種族しゅぞく生存せいぞんには不利益ふりえきとなり、他日意外のてきに遭遇した場合にもろくも敗北はいぼくするにいたるであろう。

「牙の大き過ぎる虎の頭骨」のキャプション付きの図
きばの大きぎるとらの頭骨

 以上はたんに一二の場合を想像そうぞうして理窟りくつだけをきわめて簡単かんたんべたのであるが、実際じっさい地質ちしつ時代に一時全盛ぜんせいをきわめ後急に絶滅ぜつめつしたような動物種族しゅぞくを見ると、その末路まつろおよべばかならず身体のどこかに過度かど発達はったつしたらしい部分がある。あるいは身体が大きぎるとか、きば長過ながすぎるとか、角が重過おもすぎるとか、こうが厚遇ぎるとか、とかく生存せいぞん必要ひつようと思われるより以上に発育してほとんど畸形きけいに近い姿すがたていし、おそらくそのためにかえって生存せいぞん困難こんなんになったのではなかろうかと考えられるものがすこぶる多い。従来じゅうらいはかようなことに対し直進性ちょくしんせいという名をけたりしていたが、著者ちょしゃの考えによれば一方のみにへんした過度かどの発育はまったく他種族しゅぞく圧迫あっぱくをこうむらずに自己じこ種族しゅぞくのみで個体こたい間または団体だんたい間にはげしい競争きょうそうの行なわれた結果けっかである。他種族しゅぞく競争きょうそうしている間は種族しゅぞく生存せいぞん不利益ふりえき性質せいしつ発達はったつするはずはないが、すべて他の種族しゅぞく征服せいふくして対等のてきがなくなると、その後は種族しゅぞく内で競争きょうそうをつづける結果けっかとして、かつて他種族しゅぞくに打ち勝つときに有効ゆうこうだった武器ぶき過度かどに進歩し、ほとんど畸形きけいに類する発育を遂げるであろう。個体こたい間の競争きょうそうで勝負の標準ひょうじゅんとなる性質せいしつが、競争きょうそう結果けっか過度かどに進むをまぬがれぬことは、日常にちじょうの生活にもしばしば見かける。たとえば女の顔のごときも色が白くてくちびるの赤いのが美しいが、男の愛をんと競争きょうそうする結果けっか、白い方はますます白くって美しい白の程度ていどを通りし、赤い方はますます赤くめて美しい赤の程度ていどを通りし、白壁しろかべのごとくに白粉おしろいを塗り、玉虫のごとくにべにけて得意とくいになっている。当人と、痘痕あばたえくぼに見える情人じょうにんとはこれを美しいと思うているであろうが、無関係むかんけいの第三者からはまるで怪物かいぶつのごとくに見える。新生代の地層ちそうからり出されたきばの大きぎるとらや、角の重過おもすぎる鹿しかなどもおそらくこれと同じように同僚どうりょう間の競争きょうそう結果けっか過度かど発達はったつげたものであろう。
 一方に過度かどの発育を遂げれば、これにともなうて他方には過度かどの弱点の生ずるをまぬがれぬであろうから、これがある程度ていどまで進むと、今まではるかにおとっているごとくに見えたてき競争きょうそうするにあたって、自分の不得意とくいとする方面からめられるともろ敗北はいぼくするおそれが生ずる。前にもべたとおり、すぐれた種族しゅぞくとはいずれも自分の得意とくいとする方面だけでてきまさるものゆえ、得意とくいとせぬ方面にはなはだしい欠陥けっかんが生じたならば、種族しゅぞく生存せいぞんはそのためすこぶる危険となるにちがいない。一時全盛ぜんせいをきわめた動物種族しゅぞく、がその末路まつろおよんではるかにおとったてきにも勝ちぬにいたったのは、右のごとき状態じょうたいにおちいったためであろう。その上一時多くのてきに勝つような種族しゅぞくはかならず専門せんもん的に発達はったつし、身体各部の分業も進んだものであるから、もし外界に何らかの変動へんどうが起り、温度がくだるとか、湿気がすとか、新たなてきあらわれるとか、従来じゅうらいの食物がなくなるとかいう場合には、これに適応てきおうして行くことがよほど困難こんなんで、そのため種族しゅぞく全滅ぜんめつするごときこともむろんしばしばあったであろう。
 ようするに著者ちょしゃの考えによれば、生物各種族しゅぞくの運命は次の三通りの外に出ない。競争きょうそうの相手よりもはるかにおとった種族しゅぞくはむろん競争きょうそうやぶれて絶滅ぜつめつするの外はない。また競争きょうそうの相手よりもはるかにまさった種族しゅぞくはすべての競争きょうそう者に打ち勝ち、天下にてきなき有様にたっして一時は全盛ぜんせいをきわめるが、その後はかならず自己じこ種族しゅぞく内の個体こたい間の競争きょうそう結果けっか、始め他の種族しゅぞく征服せいふくするときに有効ゆうこうであった武器ぶき性質せいしつ過度かど発達はったつし、他の方面にはこれにともなう欠陥が生じて、かえって種族しゅぞく生存せいぞんに有害となり、ついには今まではるかにおとれるごとく見えたてきとの競争きょうそうにもずしてみずから滅亡めつぼうするをまぬがれぬ。ただてきから急にほろぼされもせず、またてきほろぼしつくしもせず、つねにてきを目の前に控えて、これと対抗しながら生存せいぞんしている種族しゅぞくは長く子孫しそんのこすであろうが、その子孫しそんは長い年月の間には自然淘汰の結果けっかえず少しずつ変化へんかして、いつとはなしにまったく別種とみなすべきものとなり終るであろう。ニイチェの書いたものの中に「危く生存せいぞんする」という句があったように記憶きおくするが、長く種族しゅぞく継続けいぞくせしめるには危い生存せいぞんをつづけるの外に途はない。「てき外患がいかんなければ国はたちまちほろびる」というとおり、てきほろぼしつくして全盛ぜんせいの時代にむときは、すなわちその種族しゅぞく滅亡めつぼうの第一歩である。盛者必滅じょうしゃひつめつ有為転変ういてんぺんは実に古今ここんに通じた生物界の規則であって、これにれたものは一種いっしゅとしてあったれいはない。以上べたところは、これを一々の生物種族しゅぞくにあてはめてろんじてみると、なお細かに研究しなければならぬ点や、まだ説明せつめいの十分でないところがたくさんにあるべきことはもとより承知しょうちしているが、だいたいにおいて事実と矛盾むじゅんするごときことはけっしてないと信ずる。

五 さて人間は如何いか


 今日地球上に全盛ぜんせいをきわめている動物種族しゅぞくはいうまでもなく人間である。かつて地質ちしつ時代に全盛ぜんせいをきわめた各種族しゅぞくはいずれも一時代かぎりで絶滅ぜつめつし、次の時代にはまったくかげかくしたが、現今全盛ぜんせいをきわめている人間種族しゅぞくは将来いかになり行くであろうか。著者ちょしゃの見るところによれば、かような種族しゅぞくみなはじめ他種族しゅぞくに打ち勝つときに有効ゆうこうであった武器ぶきが、その後過度かど発達はったつして、そのためつい滅亡めつぼうしたのであるが、人間にはけっしてこれに類することは起らぬであろうか。未来をろんずることは本書の目的でもなく、また著者ちょしゃのよくするところでもないが、人間社会の現在の状態じょうたいを見ると、一度全盛ぜんせいをきわめた動物種族しゅぞく末路まつろたところがあきらかにあるように思われるから、次にいささかそれらの点を列挙れっきょして読者の参考に供する。
 人間がことごとく他の動物種族しゅぞくに打ち勝って向うところてきなきにいたったのはいかなる武器ぶきを用いたによるかというに、これはだれも知るとおり、物の理窟りくつを考えのうと、道具を造って使用しる手とである。もしも人間の脳が小さくて物を工夫する力がなかったならば、とうてい今日のごときいきおいをることは不可能ふかのうであったにちがいない。またもしも人間の手が馬の足のごとくに大きなひずめで包まれて、物をにぎることができなかったならば、けっして他の種族しゅぞくに打ち勝ちなかったことは明らかである。さればのうと手とは人間のもっとも大切な武器ぶきであるが、手の働きとのうの働きとは実は相関連したもので、のうで工夫した道具を手で造り、手で道具を使うてのうに経験をめ、両方が相助けて両方の働きが進歩する。いかにのうで考えてもこれを実行する手がなければ何の役にも立たず、いかに手を働かそうとしても、あらかじめ設計するのうがなかったならば何を始めることもできぬ。矢をはなち、やりき、あみを張り、落し穴をりなどするのは、みなのうと手との連合した働きであるが、かかることをなしる動物が地球上にあらわれた以上は、他の動物種族しゅぞくはとうていこれに勝てる見込みこみがなく、力は何倍も強くきばは何倍もするどくともついにことごとく人間に征服せいふくせられて、人間に対抗してき一種いっしゅもなくなった。かくして人間はますますいきおいを全盛ぜんせいをきわめるにいたったが、その後はただ種族しゅぞく内にはげしい競争きょうそうが行なわれ、のうと手との働きのまさった者はえずのうと手との働きのおとったものを圧迫あっぱくしてほろぼし、その結果けっかとしてこれらの働きは日を追うて上達し、研究はどこまでも深く、道具はどこまでも精巧せいこうにならねば止まぬありさまとなった。人はこれを文明開化ととなえて現代を謳歌おうかしているが、だれも知らぬ間に人間の身体や社会的生活状態じょうたいに、次にべる種族しゅぞく生存せいぞん上すこぶる面白からぬ変化へんかが生じた。
 まず身体にかんする方面から始めるに、のうと手との働きが進歩してさまざまのものを工夫し製作せいさくすることができるようになれば、寒いときにはけものの皮をぎ草の繊維せんいみなどして衣服をまとい始めるであろうが、皮膚ひふ保護ほごせられるとそれだけ柔弱にゅうじゃくになり、わずかの寒気にもぬようになればさらに衣服を重ね、頭の上から足の先まで完全かんぜんおおい包むから、ついにはちょっと帽子ぼうしを取っても靴下くつしたいでも風を引くほどに身体が弱くなってしまう。また人間が自由に火を用い始めたことは、すべて他の動物に打ち勝ちた主な原因げんいんであるが、食物をて食うようになってからは歯と腸胃ちょういとがいちじるしく弱くなった。野生の獅子ししとらにはけっしてない齲歯うしがだんだんでき始め、生活が文明的に進むにしたがうてその数がえた。どこの国でも下層かそうの人民にくらべると、貴族や金持には齲歯うしの数が何層倍なんそうばいも多い。嗜好しこうはとかく極端に走りやすいもので、冬はわきき立つような汁をきながら吸い、夏は口のいたむような氷菓子こおりがし我慢がまんして食う。塩や砂糖を純粋じゅんすいに製してからは、あるいはからぎるほどに塩を入れ、あるいは甘過あますぎるほどに砂糖を加える。これらのことや運動の不足やなおその他の種々の事情じじょう胃腸いちょうの働きは次第しだいに衰え、虫様垂炎ちゅうようすいえんなども頻繁ひんぱんに起り、胃が悪いといわねばほとんど大金持らしく聞えぬようになった。住宅も衣服と同じくますます完全かんぜんになって、夏は電気おうぎで冷風を送り冬は暖房管で室内を温めるようになると、つねにこれにれて寒暑に対する抵抗ていこう力が次第しだいげんじ、少しでも荒い風に触れるとたちまち健康を害するような弱い身体となり終るが、これらはすべてのうと手との働きが進んだ結果けっかである。
 智力ちりょくが進めば、病を治し健康をたもつことにもさまざまの工夫を凝らし、病原黴菌ばいきんに対する抵抗力の弱い者には人工的に抗毒血清こうどくけっせい注射ちゅうしゃしてこれを助け、消化液分泌ぶんぴつの不足する者には人造じんぞうのジヤスターゼやペプシネをませてこれをおぎなうが、自然にまかせてけば死ぬべきはずの弱い者を人工で助け生かせるとすれば、人間生来の健康の平均が少しずつくだるはもちろんである。医学が進歩すれば一人一人の患者かんじゃの生命を何日かのばる場合は多少すであろうが、それだけ種族しゅぞく全体の健康状態じょうたいがいつとはなく悪くなるをまぬがれぬ。文明人の身体が少しずつ退化たいかするのはもとより他に多くの原因げんいんがあって、けっして医術の進歩のみによるのではないが、智力ちりょくを用いてできるだけ身体を鄭重ていちょう保護ほごし助けることはたしかにその一原因いちげんいんであろう。身体が弱くなれば病にかかる者もえ、統計を取ってみると、何病の患者でも年々いちじるしく数がして行くことがわかる。
 他種族しゅぞく圧倒あっとうして自分らだけの世の中とすれば、安全に子孫しそんを育てることができるために、人口がさかんにえてたちまちはげしい生活難せいかつなんが生ずる。せまい土地に多数の人が押し合うて住めば、油断ゆだんしてはただちに落伍者らくごとなるおそれがあるから、相手に負けぬようにえず新しい工夫をらし、新しい道具を造って働かねばならず、そのためのうと手とはほとんど休まるときがない。その上智力ちりょくが進めばいかなる仕事をするにも大仕掛けの器械きかいを用いるから、その運転するひびきと振動とが日夜神経をなやませる。かくて神経系は過度かど刺戟しげきのために次第しだい衰弱すいじゃくして病的に鋭敏えいびんとなり、些細ささいなことにもたちまち興奮こうふんして、軽々しく自殺したり他をころしたりする者が続々と生ずる。神経衰弱しんけいすいじゃく症は野蛮やばん時代にはけっしてなかったもので、まったく文明の進んだために起った特殊とくしゅの病気に相違そういないから、これを「文明病」と名づけるのは真にかなうたび方である。
 競争きょうそう労苦ろうくなぐさめるための娯楽ごらくも、のうの働きが進むと単純なものでは満足まんぞくができぬようになり、種々工夫くふうらして濃厚のうこう劇烈げきれつなものをつくるが、これがまた強く神経を刺戟しげきする。芝居しばい活動写真かつどうしゃしんなどはそのいちじるしいれいであるが、真実の生存せいぞん競争きょうそう労苦ろうく余暇よかをもって、仮想人物の生存せいぞん競争きょうそう労苦ろうくをわが身に引き受けて感ずるのであるから、むろん神経系を安息あんそくせしむべき道ではない。また人間は労苦ろうくわすれるために、酒・煙草たばこ阿片あへんなどのごときものを造って用いるが、これは種族しゅぞく生存せいぞんのためにはもとより有害である。およそ娯楽ごらくにはすべてわすれるということが要素ようその一つであって、芝居しばいでも活動写真かつどうしゃしんでもこれを見て喜んでいる間は自分の住する現実の世界を暫時ざんじわすれているのであるが、酒や煙草たばこの類は実際じっさい労苦ろうくわすれることを唯一ゆいつの目的とし、煙草たばこには「わすれ草」という名前さえけてある。そしてかくわすれさせる働きを有するものはいずれも劇毒げきどくであるから、つねにこれを用いつづければ当人にも子孫しそんにも身体精神ともに害を受けるをまぬがれぬ。阿片あへんのごときは少時しょうじこれを用いただけでも中毒ちゅうどく症状しょうじょうがすこぶるいちじるしくあらわれる。酒の有害であることはだれが考えても明らかであるから、各国ともに禁酒きんしゅの運動がさかんに行なわれるが、しばらくなりとも現実の世界からのがれて夢幻むげんの世界に遊ぶことが何よりの楽しみである今日の社会においては、めしらし著物きものを脱いでも、酒や煙草たばこが止められぬ人間が、いつまでもたくさんにあって、その害も長くえぬであろう。そしてこれらは他の動物種族しゅぞくではけっして見られぬ現象げんじょうである。
 なお生活難せいかつなんすにしたがい、結婚けっこんして家庭をつくるだけの資力しりょく容易よういにはられぬから、自然しぜん晩婚ばんこんの風が生じ、一生独身どくしんくらす男女もできるが、かくてはいきお風儀ふうぎみだれ、売笑婦ばいしょうふの数が年々増加ぞうかし、これらが日々多数の客にせっすれば痳病りんびょう梅毒ばいどくはたちまち世間一体に蔓延まんえんして、その一代の人間の健康けんこうそこなうのみならず、子供こどもは生れたときからすでにやまいにかかったものがたくさんになる。その他、智力ちりょくによって工夫した避妊ひにん方法ほうほう下層かそう人民じんみんにまであまねく知れわたれば、性慾せいよく満足まんぞくせしめながら子の生れぬことをのぞむ場合にはさかんにこれを実行するであろうから、教育きょういくが進めば自然しぜん子の生れる数がげんずるが、蕃殖はんしょく力の減退げんたいすることは種族しゅぞく生存せいぞんからいうともっとも由々ゆゆしき大事である。子の生れる数がれば生活難せいかつなんげんじて、かえって結構けっこうであると考えるかも知れぬが、なかなかさようにはならぬ。なぜというに珊瑚さんご苔虫こけむし群体ぐんたいならば百疋ひゃっぴきの虫に対して百疋ひゃっぴき分の食物さえあれば、いずれも満腹まんぷくするが、人間は千人に対して千五百人分の食物があっても、その多数はえをしのばねばならぬような特殊とくしゅ事情じじょうそんするから、人数はえずとも競争きょうそう相変あいかわらずはげしく、体質たいしつは以上べたごとくに次第しだいに悪くなり行くであろう。
 次に道徳どうとくの方面について考えるに、これまたのうと手とのはたらきの進むにしたがいだんだん退歩たいほすべき理由がある。智力ちりょくのまだ進まぬ野蛮やばん時代には通信つうしん運輸うんゆ方法ほうほうがきわめて幼稚ようちであるから、戦争せんそうするにあたって一群いちぐんとなる団体だんたいはすこぶる小さからざるをなかった。隊長たいちょう号令ごうれいの聞えるところ相図あいずはたの見えるところより外へ出ては仲間なかまとの一致いっちの行動が取れぬから、そのくらいの広さのところに集まりるだけの人数が一団いちだんを造って、おのおの競争きょうそう単位たんいとなったが、かかる小団体しょうだんたいの内では、各人の行動がその団体だんたいおよぼす結果けっかだれにも明瞭めいりょうに知れわたり、団体だんたい生存せいぞん有利ゆうり行為こういはかならずぜんとしてしょうせられ、団体だんたい生存せいぞん有害ゆうがい行為こういはかならずあくとしてばっせられ、ぜんかくれてしょうせられず、悪のあらわれずしてばつまぬがれるごときことはけっしてなく、ぜんのなすべきゆえん、悪のなすべからざるゆえんが、きわめてたしかに了解りょうかいせられる。かつかかる小団体しょうだんたいが数多く相対立してはげしく競争きょうそうすれば、悪の行なわれることの多い団体だんたいはかならずたたかいけて、その中の個体こたいころされるか食われるかして全部が滅亡めつぼうし、ぜんの行なわれることの多い団体だんたいのみが勝って生きのこり、それにぞくする個体こたいのみが子孫しそんのこすから、もしもそのままに進んだならば、自然淘汰とうた結果けっかとしてついにはありはちのごとき完全かんぜんな社会的生活をいとなむ動物となったかも知れぬ。しかるにのうはたらきと手のはたらきとが進歩したために、通信つうしん運輸うんゆ方法ほうほうすみやかに発達はったつし、これにともなうて競争きょうそう単位たんいとなる団体だんたい次第しだいに大きくなり、電話や電信で命令を伝え、汽車きしゃや自動車で兵糧ひょうりょう運搬うんぱんするようになれば、いく百万の兵隊をも一人の指揮官しきかんで動かすことができるために、いつの間にか相争あいあらそう団体だんたいの数がげんじて各団体だんたい非常ひじょうに大きなものとなった。ところで団体だんたい非常ひじょうに大きくなり、その中の人数が非常ひじょうに多数になると、一人ずつの行動が全団体ぜんだんたいおよぼす結果けっかはほとんどわからぬほどの微弱びじゃくなものとなり、一人がぜんを行なうてもそのため急に団体だんたいいきおいがよくなるわけでもなく、一人が悪を行なうてもそのためにわかに団体だんたいおとろえるわけでもなく、したがってぜんかくれて賞せられぬこともしばしばあれば、悪がまぬがれてばつせられぬこともしばしばあり、時としては悪を行なうた者がぜん仮面かめんかぶって賞にることもある。かような状態じょうたいに立ちいたれば、ぜん何故なぜになさねばならぬか、悪は何故なぜになしてはならぬかという理窟りくつがすこぶる曖昧あいまいになってくる。小さな団体だんたいの内では悪はかならずあらわれてきびしくばつせられるから、ひそかに悪を行なうたものは日夜はげしく良心りょうしん呵責かしゃくを受けるが、団体だんたいが大きくなって悪のかならずしもばつせられぬ実例じつれいがたくさん目の前にならぶと、いきお良心りょうしんにぶくならざるをない。また団体だんたいが大きくなるにしたがい、団体だんたい間の競争における勝負の決するのにはなはだしく時間が取れ、競争きょうそうえず行なわれながら、一方が全滅ぜんめつしてあとを止めぬまでにはいたらぬ。すなわちけても兵士へいしの一部が死ぬだけで、他は依然いぜんとして生存せいぞんするから、団体だんたい単位たんいとした自然淘汰とうたは行なわれず、その結果けっかとして団体だんたい生活にてきする性質せいしつ次第しだい退化たいかする。大きな団体だんたいの内では、各個人の直接ちょくせつに感ずるのは各自一個の生存せいぞんの要求であって、国運の消長しょうちょうのごときは衣食足いしょくたって後でなければ考えている余裕よゆうがない。そして個人こじん単位たんいとする生存せいぞん競争きょうそうがはげしくなれば、自然淘汰とうた結果けっかとしてますます単独たんどく生活にてきする性質せいしつ発達はったつし、自分さえよろしければ同僚どうりょうはどうなってもかまわぬというようになり、かかる者の間に立っては良心りょうしんなどを持ち合さぬ者の方がかえって成功する割合わりあいが多くなる。各個人がかくのごとく利己的りこてきになっては、いかに立派りっぱ制度せいどけ、いかに結構けっこう規約きやくむすんでも、とうてい完全かんぜん団体だんたい生活が行なわれるべきのぞみはない。団体だんたい的生活をいとなむ動物でありながら、おいおい団体だんたい的生活にてきせぬ方向に進み行くことは、種族しゅぞく生存せいぞんにとってはきわめて不利益ふりえきなことであるが、その原因げんいんはまったく団体だんたいをして過度かどだいならざるをざらしめたのうと手とのはたらきにある。
 さらに財産ざいさんかんする方面を見るに、手をもって道具を用いる以上は何事をなすにも道具と人とがそろわねばならず、人だけがあっても道具がなくてはほとんど何もできぬ。「かわおそ」ならば自分の足で水中をおよぎ、自分の口で魚をとらえるが、人間は船に乗りぎ、網ですくい、かごに入れるのであるから、この中の一品が欠けてもりょうには出られぬ。わずかにける一本の短いつな見付みつからなくても岸をはなれることができぬ。かかる場合には、取れた魚の一部をあたえる約定やくじょうとなりの人からあいているつなりるであろうが、これが私有財産しゆうざいさんして利子りしを取る制度せいどの始まりである。そしていったん物をして利子りしを取る制度せいどが開かれると、道具をつくってすことを専門せんもんとする者と、これをりてはたらくことを専門せんもんとするものとが生ずるが、のうと手とのはたらきが進んで次第しだい精巧せいこう器械きかいつくるようになるとともに、器械きかいあたいはますます高く労働ろうどうあたいはますます安く、器械きかいを所有する者は法外の収入をるに反し、器械きかいりる者は牛馬のごとくにはたらかねばならぬようになる。共同きょうどうの生活をいとなむ社会の中に、一方には何もせずに贅沢ぜいたくくらすものがあり、他方には終日あせを流しても食えぬ者があるというのは、けっして団体だんたい生活の健全けんぜん状態じょうたいとは考えられぬ。蒸気機関じょうききかんでも機織はたお器械きかいでも発電機でも化学工業でも、いちじるしい発明のあるごとに富者ふしゃはますます貧者ひんしゃはますますまずしくなったところから見れば、今後もおそらく文明の進むにしたがい最少数の極富者ごくふしゃと大多数の極貧者ごくひんしゃとに分れ行くかたむきがまぬであろうが、それが社会生活の各方面にえず影響えいきょうおよぼし、身体にも精神せいしんにもいちじるしい変化へんかを引き起す。しかもそれがいずれも種族しゅぞく生存せいぞんの上に不利益ふりえきなことばかりである。
 前に健康けんこう道徳どうとくかんして今日の人間がいかなる方面に進みつつあるかをべたか、貧富ひんぷ懸隔けんかくがはなはだしくなればすべてこれらの方面にも直接ちょくせつ影響えいきょうする。極富者ごくふしゃ極貧者ごくひんしゃとが相隣あいとなりして生活すれば、男女間の風儀ふうぎなどもただちにみだれるのは当然とうぜんで、えにせまった女が富者ふしゃびていんを売るのをふせぐことはできず、貧者ひんしゃはもっとも安価あんか性慾せいよく満足まんぞくを求めようとするから、それにおうずる職業しょくぎょうの女もえ、世間一般いっぱんに品行が乱脈らんみゃくになれば花柳病かりゅうびょうさかんに蔓延まんえんしてついにはほとんど一人ものこらずその害毒がいどくかぶるであろう。その他富者ふしゃいて病を貧者ひんしゃえて健康けんこうたもず、いずれも体質たいしつ次第しだいに下落する。げんに文明諸国しょこく貧民ひんみんには、栄養不良えいようふりょうのために抵抗ていこう力が弱くなって、些細ささいな病にもぬものがおびただしくある。また富者ふしゃは金をあたえていかなることをもあええてし、貧者ひんしゃは金をんがためにいかなることをもしのばざるをぬから、その事柄ことがらぜんか悪かを問うひまはなく、道徳どうとく観念かんねん漸々ぜんぜんうすらいで、たいがいの悪事は日常にちじょうのこととして人が注意せぬようになってしまうが、これではとうてい協力きょりょく一致いっちよしとする団体だんたい生活にはてきせぬ。
 国内の人民じんみんが少数の富者ふしゃと多数の貧者ひんしゃとに分れ、富者ふしゃは金の力によって自分らのみに都合のよいことを行なえば、貧者ひんしゃはこれを見てけっしてだまってはいず、富者ふしゃてきとしてうらみ、あらゆる方法ほうほうこうじてこれをたおそうとこころみ、貧者ひんしゃ富者ふしゃとの間に妥協だきょう余地よちのないはげしい争闘とうそうが始まる。教育が進めば貧者ひんしゃといえども智力ちりょくにおいてはけっして富者ふしゃおとらぬから、自分の境遇きょうぐう富者ふしゃ境遇きょうぐうとを比較ひかくして、なぜかくまで相違そういするかと考えては不満ふまんねんえず、現今げんこんの社会の制度せいどをことごとく富者ふしゃのみに有利ゆうり不都合ふつごう千万なものと思いみ、全部これをくつがえそうとくわだてる者もおおぜい出てくる。今日社会問題と名づけるものにはさまざまの種類しゅるいがあるが、その根本はいずれも経済けいざいの問題であるから、貧富ひんぷ懸隔けんかくがますますはなはだしくなるかたむききのある間はとうてい満足まんぞく解決かいけつせられる見込みこみはなかろう。かくのごとく、一団体いちだんたいの内がさらにいくつもの組に分れておたがいに相憎あいうらみ相闘あいたたかうことは、団体だんたい生活をいとな種族しゅぞく生存せいぞんにとってはすこぶる有害ゆうがいであるが、その根源こんげんただせばみなはじめ手をもって道具を用いたのにもとづくことである。
 ようするに、今日の人間は最初さいしょ他の動物種族しゅぞく征服せいふくするときに有効ゆうこうであった武器ぶきなるのうと手とのはたらきが、その後種族しゅぞく内の競争きょうそうのためにどこまでも進歩し、そのため身体は弱くなり、道徳どうとくおとろえ、共同生活が困難こんなんになり、貧富ひんぷ懸隔けんかくがはなはだしくなって、不平をいだきき、同僚どうりょうのろう者が数多く生じ、日々団体だんたい的動物の健全けんぜんなる生活状態じょうたいから遠ざかり行くように見受ける。これらのことの実例じつれいげるのはわずらしいからはぶくが、毎日の新聞紙上にいくらでもげてあるから、この点においては世界中の新聞紙を本章の附録ふろくとみなしても差支さしつえはない。今日地球上の人間はいくつかの民族みんぞくに分れ、民族みんぞくの間にも個人こじんの間にものうと手とによるはげしい競争きょうそうが行なわれているから、今後もなお智力ちりょくはますます進み器械きかいはますます精巧せいこうになろうが、この競争きょうそうに一歩でも負けた民族みんぞくはたちまち相手の民族みんぞくからはげしい圧迫あっぱくをこうむりきわめて苦しい位置いちに立たねばならぬから、自己じこ民族みんぞく維持いじ継続けいぞくをはかるには是非ぜひとものうと手とをはたらかせ、発明と勤勉きんべんとによっててきなる民族みんぞくまさることをつとめねばならぬ。かくおたがいに相励あいはげめばいわゆる文明はなおいっそう進むであろうが、その結果けっか如何いかというに、ただ民族みんぞく民族みんぞく、個人と個人とが競争きょうそうするに用いる武器ぶき精鋭せいえいになるだけで、前にべたごとき人間種族しゅぞく全体にあらわれる欠陥けっかんすくうためには何の役にも立たぬであろう。人間の身体や精神せいしん漸々ぜんぜん退化たいかするかたむきのあることに気のいた学者はすでに大勢おおぜいあって、人種じんしゅ改善かいぜんとか種族しゅぞく衛生えいせいとかいうことが、今日ではさかんにとなえられているが、以上べたごとき欠陥けっかんはいずれものうと手とのはたらきが進んだために当然とうぜん生じたものゆえ、同じのうと手とのはたらきによって今さらこれをすくおうとするのは、あたかも火をもって火事を消し、水をもって洪水こうずいふせごうとするのと同じようで、結局けっきょくはとうていその目的もくてきたっぬであろう。「知っていることは何の役にも立たず、役に立つようなことは何も知らぬ。」というたファウストの歎息たんそくはそのまま人種じんしゅ改良学者らの最後さいご歎息たんそくとなるであろうと想像そうぞうする。ただし、幾多いくた民族みんぞく相睨あいにらみみ合うている現代においては少しでも相手の民族みんぞくよりも速く退化たいかするようなことがあっては、たちまちてき迫害はくがいのためにきわめて苦しい地位ちいにおちいらざるをぬから、一方のうと手との力によって相手と競争きょうそうしながら、他方にはまたのうはたらき、手のはたらきの結果けっかとして当然とうぜん生ずべき欠陥けっかんをできるだけふせぐように努めることが目下の急務きゅうむである。いずれの民族みんぞく結局けっきょくは、のう過度かど発達はったつしたためにますます生存せいぞん不適当ふてきとう状態じょうたいおもむくことをけられぬであろうが、いまてきよりも先に退化たいかしては、ただちにてきのためにめられ苦しめられるべきは明らかであるから、その苦しみをまぬがれようとするには是非ぜひとも、さらにのうと手とをはたらかせ、工夫くふうらし力をつくして、身体・精神せいしんともになるべく長く健全けんぜんならしめることをはからねばならぬ。人間全体がついにはいかになり行くかというような遠い将来の問題よりも、いかにしてわが民族みんぞく維持いじすべきかという問題の方が目前にせまっているから、応急の手段しゅだんとしては、やはり人種じんしゅ改善かいぜん種族しゅぞく衛生えいせい学術的がくじゅつてきに深く研究して、できるかぎりの良法りょうほうを実地にこころみるの外はない。かくして、一方においては智力ちりょくによって、軍事ぐんじ殖産しょくさん等の方面を進歩せしめ、他方においては同じく智力ちりょくによって生活状態じょうたい退化たいかふせぐことをつとめたならば、にわかに他の民族みんぞくのためにほろぼされる運命にはおそらくわぬであろう。
 以上のごとく考えて後にさらに現今げんこんの人間をながめると、その身体には明らかに過度かど発達はったつした部分のあることに気付きづかざるをない。前に、鹿しかのある種類しゅるいではその滅亡めつぼうする前に角が大きくなりぎ、とらのある種類しゅるいでは同じくきばが大きくなりぎたことをべたが、人間の身体ではのうたしかに大きくなりぎている。人間はいつも自分を標準ひょうじゅんとして物を判断はんだんし、人体の美をろんずるにあたっても断金法だんきんほうなどとしょうする勝手な法則ほうそくを定め、これにかなうたものを円満えんまん体格たいかくとみなすが、虚心きょしん平気に考えてみると、重さ四五十[#「四五十」は底本では「四五」]瓩余(注:4、50Kg)、長さ一・六米(注:1.6m)の身体に重さ一・三五瓩(注:1.35Kg)、直径一七糎余(注:やく17cm)もあるような大きなのうそなわり、これを包むために顔面部よりもはるかに大きな頭蓋骨ずがいこつ発達はったつしているありさまは、前にべた鹿しかの角やとらきば相似あいにたもので、いずれも、ほぼ極端きょくたんたっしている。もしもかの鹿しかが、角の大きぎるために滅亡めつぼうし、かのとらきば長過ながすぎるために滅亡めつぼうしたものとすれば、人間は今後あるいはのうが大きくなりぎたために滅亡めつぼうするのではなかろうかとの感じが自然にうかぶが、これはあながち根拠こんきょのない杞憂きゆうでもなかろう。すでに現今げんこんでも胎児たいじの頭が大きいために難産なんざんの場合がたくさんにあり、出産しゅっさんさいに命をうしなう者さえ相応そうおうにある位ゆえ、万一この上に人間ののう発達はったつして胎児たいじの頭が大きくなったならば、それだけでも出産にともな苦痛くつう危険きけんとが非常ひじょうし、自然の難産なんざんと人工的の避妊ひにんとのために生殖せいしょくりつがいちじるしくげんずるにちがいない。母が子をむのは生理的に当然とうぜんのことで、本来は何の故障こしょうもなしに行なわるべきはずのものであるのに人間だけは、例外れいがいとして非常ひじょうな危険がこれにともなうのは、たしかに人間が種族しゅぞく生存せいぞん不利益ふりえきな方向に進み来った証拠しょうこと考えねばならぬ。本書の始めにもいうたとおり、およそ物は見ようによって種々にことなって見えるもので、同一の物に対しても観察する人の立つ場処ばしょえるとまったく別の感じが起る。人間種族しゅぞく将来しょうらいかんしてもそのとおりで、人間のみを見るのと、古今のしょ動物に比較ひかくして見るのとでは大いにおもむきがちがい、また同じく生物学的にろんじても一人一人に考え方はいちじるしくことなるであろう。それで他の人々がいかに考えるかは知らぬが、著者ちょしゃ一人の見るところは、まず以上略述りゃくじゅつしたごとくである。






底本:「現代日本思想大系 26 科学の思想 ※(ローマ数字2、1-13-22)」筑摩書房
   1964(昭和39)年4月15日 初版第1刷発行
   1969(昭和44)年9月30日 初版第5刷発行
入力:矢野重藤
初出:生物学講話
   1916(明治49)年「東京開成館」
校正:
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