丘の進化思想をもっとも良くまとめた文章で、主著『生物学講話』(一九一六)の最終章だがこれだけで独立論文の体裁をととのえている。生物学上の事実によりつつ人類が退化の途上にあることを証明する。
生物の
各個体にはそれぞれ一定の
寿命があって、
非業の死は
免れ得ても
寿命の
尽きた死はけっして
免れることができず、早いか
晩いか一度はかならず死なねばならぬ運命を持っているが、さて
種族として
論ずるときはどうであろうか。同様の
個体の集まりである
種族にも、やはり
個体と同じように生死があり
寿命があって、一定の
期限の後には
絶滅すべきものであろうか。これらのことを
論ずるには、まず生物の各
種族は
如何にして生じ、
如何なる
歴史を
経て今日の
姿までに
達したものかを
承知して
置かねばならぬ。
動植物の
種族の数は今日学者が名を付けたものだけでも百万以上もあって、その中にはきわめて
相似たものやまるで
相異なったものがあるが、これらは
初め
如何にして生じたものであるかとの
疑問は、いやしくも物の
理窟を考え
得る
程度までに
脳髄の
発達した人間には
是非とも起るべきもので、
哲学をもって名高い昔のギリシャ人の間にもこれに関してはすでに種々の
議論が
闘わされた。しかし近代に
至って
実証的にこれを
解決しようと
試みたのは、
誰も知るとおりイギリスのダーウィンで、『
種の起原』と題する
著書の中に次の
二箇条を明らかにした。すなわち第一には生物の
各種は長い間には少しずつ
変化すること、第二には
初め
一種の生物も代を多く重ねる間には
次第に
数種に分れることであるが、
絶えず少しずつ
変化すれば、
先祖と
子孫とはいつかまったく別種のごとくに
相違するに
至るはずで、太古から今日までの間には
境は
判然せぬが
幾度も形の
異なった時代を
経過し来ったものとみなさねばならず、また
初め
一種の
先祖から起った
子孫も後には
数種に分れるとすれば、さらに後に
至れば
数種の
子孫のおのおのがまた
数種に分れるわけゆえ、すべてが
生存するとしたならば、
種族の数は
次第に
増すばかりで、終には
非常な多数とならねばならぬ。この
二箇条を
結び合せて
論ずると、およそ地球上の生物は
初め
単一なる
先祖から起り、
次第に
変化しながら
絶えず
種族の数が
殖えて今日の有様までに
達したのである。すなわち生物
各種の間の
関係は、一本の幹から何回となく
分岐して無数の
梢に終っている
樹枝状の
系図表をもって示し
得べきもので、
各種族は一つの
末梢にあたり、
相似た
種族は、
相接近した
梢に、
相異なった
種族ははるかに相遠ざかった
梢にあたって、いずれも
互いに
血縁の
連絡はあるが、その遠いと近いとにはもとより種々
程度の
相違がある。これだけは生物
進化論の
説くところであるが、これは
単に
議論ではなく、化石学を始とし
比較解剖学・
比較発生学・
分類学・
分布学など、生物学の各方面にわたって無数の
証拠があるから、今日のところではもはや
疑う余地のない事実とみなさねばならぬ。
かくのごとく生物の
各種族はいずれも長い
歴史を
経て今日の
姿までに
達したものであるが、その間には何度も形の変じた
種族もあれば、また
割合に
変化することの少なかった
種族もあろう。しかしながらいずれにしても
変化は
徐々であるから、いつから今日見るごとき形のものになったかは時期を定めていうことはできぬ。化石を調べて見ると、少しずつ
次第次第に
変化して
先祖と
子孫とがまるで別種になってしまった
例はいくらもあるが、これらは
血筋は
直接に引きつづいていながらその
途中でいつとはなしに
甲種の形から
乙種の形に
移り行くから、乙なる
種族はいつ生じたかというのは、あたかも
虹の
幅の中で黄色はどこから始まるかと問うのと同じである。人間などは化石の発見せられた数がまだはなはだ少ないから、この場合の
例には
不適当であるが、もしも時代の相つづいた
地層から多数の化石が発見せられたならば、やはりいずれから後を人間と名づけてよいかわからず、したがっていつ
初めて生じたということはできぬであろう。
生物
種族の
初めて
現われる具合は、今
述べたとおり
漸漸の
変化によるのが
常であるが、かくして生じた
種族は
如何になり行くかというに、
無論継続するか
断絶するかのほかはなく、
継続すればさらに少しずつ
変化するから、長い間には
終に別の
種族となってしまう。
地層の中から
掘り出された化石が時代の
異なるごとに
種族も
違って、一として数代に
連続して生きていた
種族のないのは、昔もそのとおりであった
証拠であるが、今後とても
恐らく同じことであろう。
稀には
変化のきわめて
遅いものがあって、いつまでも
変化せぬように見えるが、これはむしろ
例外に
属する。「しゃみせんがい」や「あかがい」などの
種族はずいぶん古い
地層から今日まで
継続しているから、その間だけを見るとほとんど
永久不変のものであるかのごとき感じが起るが、「しゃみせんがい」
属、「あかがい」
属の形になる前のことを考えると、むろん
変化したものに
違いない。またある
地層まではたくさんの化石が出て、その次の
地層からはもはやその化石が出ぬような
種族は、その間の時期に
断絶して
子孫を
残さなかったものとみなさねばならぬが、かような
種族の数はすこぶる多い。
獣類でも魚類でも貝類でも
途中で
断絶した
種族の数は、現今生きている
種族の数に
比して
何層倍も多かろう。そしてこれらの
種族はなぜかく
絶滅したかというと、
他種族との
競争に
敗れて
亡びたものが多いであろうが、また自然に弱ってみずから
滅亡したものもあったであろう。
いつの世の中でも
種族間の
生存競争は
絶えぬであろうから、相手よりもはるかに
劣った
種族はとうてい長く
生存することを
許されぬ。同一の食物を食うとか、同一の
隠れ家を求めるとか、その他何でも
生存上同一の
需要品を
要する
種族が、二つ以上同じ
場処に
相接して生活する以上は
競争の起るのは
当然で、その間に少しでも
優劣があれば、
劣った方の
種族は
次第に
勢力を失い、
個体の数もだんだん
減じて
終には
一疋も
残らず死に
絶えるであろう。また
甲の
種族が
乙の
種族を食うというごとき場合に、もし食われる
種族の繁殖力が食う
種族の食害力に追い付かぬときは、
乙はたちまち
断絶するを
免れぬであろう。かくのごとく
他種族からの
迫害をこうむって一の
種族が
子孫を
残さず
全滅する場合はつねにいくらもある。そして昔から同じ
処に
棲んでいた
種族の間では、勝負が急に
付かず勝っても負けても
変化が
徐徐であるが、他地方から新たな
種族が
移り来ったときなどは
各種族の
勢力に
急激な
変動が起り、
劣った
種族は短日月の間に
全滅することもある。ヨーロッパに、アジヤの「あぶらむし」が入り込んだために、元からいた「あぶらむし」は
圧倒されてほとんどいなくなったこともその
例であるが、かかることのもっともいちじるしく目に立つのは、
大陸と遠く
離れた島国へ他から新たに動物が
移り入った場合であろう。ニュージーランドのごときは
従来他の島との交通が全くなくて、他とは
異なった
固有の動物ばかりがいたが、ヨーロッパ産の
蜜蜂を
輸入してから、元来
土著の
蜜蜂の
種族はたちまち
減少して今日ではほとんどなくなった。
鼠もこの島に
固有の
種類があったが、
普通の
鼠が入り
込んでからはいつの間にか
一疋も
残らず
絶えてしまうた。
蠅にもこれと同様なことがある。
アメリカの野牛
近代になって
絶滅した
種族もなかなか数が多いが、その大部分は人間が
亡ぼしたのである。
鼠とか
雀とか
蠅とか「しらみ」とかのごときつねに人間に
伴うて
分布する動物を
除けば、その他の
種族はたいてい人間の
勢力範囲の
拡張するにしたがうてはなはだしく
圧迫せられ、とくに大形の
獣類、鳥類のごときは
最近数十年の間にいちじるしく
減少した。近ごろまでアメリカ
大陸に無数に
群居して
往々汽車の進行を止めたといわれる野牛のごときは、今はわずかに少数のものが
特別の
保護を受けて
生存しているに過ぎぬ。ヨーロッパの
海狸(注:ビーバー)も昔は
各処の河に多数に住んでいたのが、今はほとんど
絶滅に近いまでに
減少した。
獅子・
虎のごとき
猛獣はアフリカやインドが全部
開拓せられた
暁には、動物園の外には
一疋もいなくなるであろう。人間の力によってすでに
絶滅した
種族の
例を
挙げて見るに、マダガスカル島の東にあるモーリシアス島にいた
奇態な
鳩の
一種は今から二百年
余り前にまったく
絶えてしまうた。またこの島よりもさらに東にあたるロドリゲス島にはこれに
似た他の
一種の鳥が住んでいたが、この方は今から百年
程前に
捕り
尽された。これらは高さが七六糎(注:76cm)以上、目方が一二瓩(注:12Kg)以上もある大きな鳥で、力も
相応に強かったのであるが、長い間海中の
離れ島に住み、
恐しい
敵がいないために一度も
飛ぶ必要がなく、したがって
翼は
退化して
飛ぶ力がなくなった。かかる所へ西洋人の
航海者がこの
辺まで来てしばしばこの島に
立寄るようになったので、
水夫はそのたびごとに面白がってこの鳥を打ち
殺し、たちまちの間に全部を
殺し
尽して、今ではどこの
博物館にも
完全な
標本がないほどに
絶対に
絶えてしまうた。シベリヤ・カムチャッカ等の海岸には百五六十年前までは
鯨と「おっとせい」との間の形をした長さ七米(注:7m)
余もある
一種の大きな
海獣がいたが、
脂肪や肉を取るためにさかんに
捕えたので、
少時で
種切れになった。前の鳥類でもこの
海獣でも
敵に対して身を
護る力が十分でなかったから、
生存競争に
劣者として
敗れ
亡びたのであるが、もし人間が行かなかったならばむろんなお長く
生存しつづけ
得たに
違いない。
劣った
種族が急に
滅亡するのはたいがい強い
敵が不意に
現われた場合に
限るようである。
モーリシアス島にいた奇態な鳩
人間の
各種族についても
理窟はまったく同様で、遠く
離れて
相触れずに生活している間は、たとい
優劣はあっても
勝敗はないが、一朝相
接触するとたちまち
競争の
結果があらわれ、
劣った
種族はしばらくの間に
減少して
終には
滅亡するを
免れぬ。
歴史あって以来
優れた
種族から
圧迫を受けて
終に
絶滅した人間の
種族は今日までにすでにたくさんある。オーストラリヤの南にあるタスマニヤ島の土人のごときは、昔は全島に
拡がって
相応に人数も多かったが、西洋の文明
人種が入り
込んで
攻め立てた
以来、たちまち
減少して今から数十年前にその
最後の一人も死んでしまうた。昔メキシコの全部に住んで
一種の文明を有していたアステカ人のごときも、エスパニヤ人が
移住し来って何千人何万人とさかんに
虐殺したので、今ではほとんど
遺物が
残っているのみとなった。古い西洋人のアフリカ
紀行を読んでみると、
瓢を持って
泉に水を
汲みに来る土人を、
樹の
蔭から
鉄砲で打って
無聊を
慰めたことなどが書いてあるが、
鉄砲のない
野蛮人と
鉄砲のある文明人とが
相触れては、
野蛮人の方がたちまち
殺し
尽されるのは
当然である。今日文明
人種の
圧迫をこうむってまさに
絶滅せんとしている
劣等人種の数はすこぶる多い。セイロン島のヴェッダ人でも、フィリッピン島のネグリト人でも、ボルネオのダヤック人でも、ニューギニヤのパプア人でも、今後急に
発展して先進の文明人と対立して
生存し
続け
得べき
望みはもとよりない。文明諸国の人口が
殖えて海外の殖民地へ
溢れ出せば、他
人種の住むべき
場処はそれだけ
狭められるから、
終には文明人とその奴隷とを
除いた他の人間
種族は地球上に身を
置くべき
処がなくなってことごとく
絶滅するのほかなきことは明らかである。
人種間の
競争においては、
幾分かでも文明の
劣った方は
次第に
敵の
圧迫を受けて苦しい
境遇におちいるを
免れぬから、
自己の
種族の
維持継続をはかるには相手に
劣らぬだけに
智力を高め文明を進めることが何よりも
肝要であろう。
劣った
種族が
生存競争に
敗れて
滅亡することは
理の
当然であるが、しからば
優れた
種族は
永久に
生存し
得るかというに、これについては大いに
攻究を
要する点がある。
優れた
種族は
敵と
競争するにあたってはむろん勝つであろうが、ことごとく
敵に打ち勝ってもはや天下に
恐るべきものがないという有様に
達した後は
如何になり行くであろうか。
敵がなくなった以上は、なおいつまでも
全盛をきわめて
勢いよく
生存しつづけ
得るであろうか。または
敵がなくなったためにかえって
種族の
退化を引き起すごとき新たな
事情が生ずることはないであろうか。今日化石となって知られている古代の動物を調べてみるに、一時
全盛をきわめていたと思われる
種族はことごとく次の時代には
絶滅したが、これは
如何なる理由によることであるか。向う
処敵なきほどに
全盛をきわめていた
種族が、なぜ今までおのれよりも
劣っていたある
種族との
競争に
脆くも
敗北してたちまち
断絶するに
至ったか。これらの点に
関してはまだ学者間にもなんらの
定説もないようで、古生物学の書物を見ても
満足な
説明を
与えたものは一つもない。されば今から
述べようとするところはまったく
著者一人だけの考えであるから、そのつもりで読んでもらわねばならぬ。
およそ
生存競争において
敵に勝つ動物には勝つだけの
性質が
具わってあるべきはいうまでもないが、その
性質というのは
種族によってさまざまに
違う。第一、
敵とする動物が
各種ごとに
違うから、これに勝つ
性質も相手の
異なるに
従い
異ならねばならぬ。今日学者が名前を
付けた動物だけでも数十万種あるが、
如何なる動物でもこれをことごとく
敵とするわけではなく、
日常競争する相手はその中のきわめて
僅少な部分に
過ぎぬ。
例えば
産地が
相隔たれば
喧嘩はできず、同じ地方に
産するものでも森林に住む
種族と海中に住む
種族とでは
直接に
相敵対する
機会はない。されば勝つ
性質というのは、同じ
場処に住み、ほぼ対等の
競争のできるような相手に対して
優れることであって、
樹の上の運動では
巧みに
攀じるものが勝ち、水の中の運動では速く
游ぐものが勝つ。そして水中を速く
游ぐには足は
鰭の形でなければならぬから、木に登るには
適せず、
巧みに木に登るには
腕は細くなければならぬから、水を
游ぐには
適せぬ。それゆえ、水を
游ぐことにおいて
敵に
優れたものは、
樹に登るには
敵よりもいっそう
不適当であり、木に登ることにおいて
敵に
優れたものは、水を
游ぐには
敵よりもいっそう
不適当であるを
免れぬ。同一の足をもって、
樹上では
猿よりも
巧みに
攀じ、平原では
鹿よりもはやく走り、水中では「おっとせい」よりも
速かに
游ぐというごときことはとうてい無理な
註文である。
鴨のごとく
飛ぶことも歩くことも
游ぐこともできるものは、
飛ぶことにおいては遠く
燕に
及ばず、走ることにおいては遠く
駝鳥に
及ばず、
游ぐことにおいては遠くペンギンに
及ばず、いずれの方面にも相手に
優る
望みはない。魚類の中には
肺魚類というて
肺と
鰓とを
兼ね
具え、空気でも水でも勝手に
呼吸のできる
至極重宝な
種類があるが、水中では水のみを
呼吸する
普通の魚類に勝てず、
陸上では空気のみを
呼吸する
蛙の類に勝てず、今ではわずかに
特殊の
条件の下に
熱帯地方の
大河に
生存するものが二三種あるに
過ぎぬ。
亀の
甲の
厚いことも、「とかげ」の運動の速いことも、それぞれその動物の
生存には
必要であるが、
甲が重くては
速かに走ることがとうていできず、
速かに走るには重い
甲は何よりも
邪魔になるから、「とかげ」よりも速力で
優ろうとすれば、
甲の
厚さでは
亀に
劣ることを
覚悟しなければならず、
甲の
厚さで
亀よりも
優ろうとすれば、速力では「とかげ」に
劣ることを
覚悟しなければならぬ。
かくのごとく、
優れた
種族というのは
皆それぞれその
得意とするところで相手に
優るのであるから、
競争の
結果ますます
専門の方向に進むのほかなく、
専門の方向に進めば進むだけ
専門以外の方面には
適せぬようになる。鳥の
翼は
飛翔の器官としては実に理想的のものであるが、その代り
飛翔以外にはまったく何の役にも立たぬ。犬ならば
餌を
抑えるにも顔を
拭うにも地を
掘るにも前足を用いるが、鳥は
翼を用いることができぬから止むを
得ず後足または
嘴をもって間に合せている。さればいかなる
種族でもおのれが
得意とする点で相手に
優り
得たならば、たちまち相手に打ち勝ってその地方に
跋扈することができる。すなわち水中ならばもっともよく
游ぐ
種族が
跋扈し、
樹上ではもっともよく
攀じる
種族が
跋扈し、平原ならばもっともよく走る
種族が
跋扈することになるが、今日までに地球上に
跋扈した
種族を見ると、
実際皆かならずある
専門の方面において
敵に
優ったものばかりである。
対等の
敵と
競争するにあたっては一歩でも先へ
専門の方向に進んだものの方が勝つ
見込みの多いことは、人間社会でも多くその
例を見るところであるが、同じ仕事をするものの間では、一歩でも分業の進んだものの方が勝つ
見込みがある。身体各部の間に分業が行なわれ、同じく食物を消化するにも、
唾液を出す
腺、
膵液を出す
腺、
硬い物を
咀嚼する
器官、液体を飲み
込む
器官、
澱粉を消化する
処、
蛋白質を消化する
処、
脂肪を
吸収する
処、
滓を
溜める
処などが、一々
区別せられるようになれば、身体の
構造がそれだけ
複雑になるのは
当然であるから、
数種の
異なった動物が同じ仕事で
競争する場合には、体の
構造の
複雑なものの方が分業の進んだものとして
一般に勝を
占める。古い
地質時代に
跋扈していたさまざまの動物を見るに、いずれも
相応に身体の
構造の
複雑なものばかりであるのはこの理由によることであろう。相手よりも一歩先へ
専門の方向に進めば相手に打ち勝って一時世に
跋扈することはできるが、それだけ他の方面には
不適当となって
融通が
利かなくなるから、万一何らかの
原因によって外界の
事情に変化が起った場合には、これに
適応して行くことが
困難になるを
免れぬ。また相手よりも
一層身体の
構造が
複雑であれば、無事のときには
敵に勝つ
望みが多いが、
複雑であるだけ
破損の
虞が
増し、
一旦破損すればその
修繕が
容易でないから、急に間に合わずして
失敗する場合も生ぜぬとは
限らぬ。あたかも人力車と自動車とでは
平常はとても
競走はできぬが、自動車は少しでも
破損するとまったく動かなくなって、とうてい
簡単で
破損の
憂いのない人力車に
及ばぬのと同じことである。かつて地球上に
全盛をきわめた
諸種の動物は、おのおのその相手に
比して
専門の生活に
適することと分業の進んだこととで
優っていたために、世界に
跋扈することを
得たのであるが、それと同時にここに
述べたごとき弱点を
具えていたものであることを
忘れてはならぬ。
地殻を
成せる岩石には
火成岩と
水成岩との
区別があるが、
水成岩の方は長い間に水の
底に
泥や
砂が
溜まり、それが
次第に固まって岩と
成ったものゆえ、かならず
層をなして相重なり、
各層の中にはその
地層のできた頃に
生存していた生物の
遺骸が化石となって含まれてある。
地質学者は
水成岩の
層をその生じた時代の
新旧に
従い、
始原代、
古生代、
中生代、
新生代の四組に大別し、さらに各代のものを
若干の期に
細別するが、これらの各時代に
属する
水成岩の
層を調べてみると、その中にある化石にはすこぶる
稀な
珍しい
種類もあれば、また
非常にたくさんの化石が出て、
恐らくその
頃地球上の
到る
処に多数に
棲息していたろうと思われる
種類もある。
個体の数や身体の大きさや
構造の進んだ点などから
推して、その
頃全盛をきわめていたに
相違ないと思われる
種族がいずれの時代にもかならずあるが、かかる
種族の中からもっともいちじるしいもの
若干を
選び出して、次に
簡単に
述べてみよう。
三葉虫
古生代の岩石から
掘り出される「
三葉虫」の類も、その
頃には実に
全盛をきわめていたものとみえて、世界
諸地方からおびただしく発見せられる。わが国ではきわめて
稀であるが、
支那の
山東省辺からは
非常にたくさん出て、板の形に
割った岩石の表面が全部三葉虫の化石でいっぱいになっていることが
珍しくない。三葉虫にもたくさんの
種や
属があって、小さいのは長さ三粍(注:3mm)にも
及ばず、大きいのは三〇糎(注:30cm)以上にも
達するが、いずれも「かぶとがに」と船虫との中間のごとき形で、
裏から見ると「わらじむし」に
似て足が多数に生えている。この
類は古生代にはどこでもすこぶるさかんに
繁殖したようであるが、
不思議にもその後たちまち
全滅したものとみえて、次なる中生代の
地層からは化石が一つも発見せられぬ。それゆえもしある岩石の中に三葉虫の化石があったならば、その岩石は古生代に
属するものとみなして
間違いはない。かくのごとくある化石さえ見ればただちにその岩石の生じた時代を正しく
鑑定し
得る場合には、かような化石をその時代の「
標準化石」と名づける。中生代の
地層から
掘り出される「アンモン石」という化石は、「たこ」、「いか」などに
類する海産
軟体動物の
貝殻で、形があたかも
南瓜のごとくであるから、
俗に「
南瓜石」と
呼ぶ地方もある。これもその時代には
全盛をきわめたものとみえて、
種の数も
属の数もすこぶる多く、
懐中時計ほどの小さなものから人力車の
車輪位の大きなものまで、世界の各地方から多数に発見せられる。わが国のごときはそのもっとも有名な
産地である。今日生きている動物でややこれに
似た
貝殻を有するものはわずかに「おうむ貝」の
類のみであるが、「さざえ」や「たにし」の
貝殻とは
違い、
扁平に
巻いた
殻の内部はたくさんの
隔壁があって多くの室に分れている。そして、「アンモン石」では
隔壁と外面の
壁との
繋ぎ目の線が実に
複雑に
屈曲して美しい
唐草模様を
呈し、その点においてはいかにも
発達の
極に
達したごとくに見える。この
類も中生代の
終までは
全盛をきわめていたが、その後たちまち
全滅したとみえて、次なる新生代の岩石からは一つもその化石が出ぬから、
地層の新古を識別するための
標準化石としてもっとも
重要なものである。
アンモン石
以上は両方ともに
無脊椎動物の
例であるが、次に
脊椎動物についてみると、古生代の魚類、中生代の
爬虫類、新生代の
獣類などには、それぞれその時代に
全盛をきわめていた
種族がたくさんにある。まず古生代の魚類をみるに、今日の
普通の魚類とは大いに
違うて
光沢のある
厚い
骨のような
鱗を
被った
種類が多く、スコットランドの
赤色砂岩から出た化石のごときは、「かに」か「えび」かのごとくに全身
厚い
甲胄を
著けてほとんど魚類とは見えぬ。もちろん
陸上へは
昇り
得なかったが、魚類以上の
水棲動物がまだいなかった時代ゆえ、かかる
異形の魚類は
到る
処の海中に無数に
棲息して実に
全盛をきわめていた。
通俗の
地質学書に古生代のことを魚の時代と名づけてあるのももっともな
次第である。しかしその後に
至って
皆たちまち
絶滅して、今日これらの魚類にいささかでも
似ているのは、わずかに「ちょうざめ」などのごとき
硬鱗魚類が
数種あるに
過ぎぬ。
胄魚
中生代における
爬虫類の
全盛のありさまはさらに
目覚ましいもので、陸にも海にも
驚くべき大形の
種類が
勢いをほしいままにしていた。今日では
爬虫類というと、
亀・
蛇・「とかげ」などの
類に
過ぎず、
熱帯地方にはいくらか大きなものもいるが、
普通に見かけるものは小さな
種類ばかりであるから、
全盛時代における
爬虫類の生活
状態はとうてい
想像もできぬ。ヨーロッパやアメリカの中生代の
地層から
掘り出された
爬虫類の化石を見ると
陸上を四足で
匍い歩いた
種類には、長さ二〇余米(注:やく20m)に
及び
脛の
骨一本だけでもほとんど人間ほどあるもの、また「カンガルー」のごとく後足だけで立った
種類には、高さが五米(注:5m)以上に
達するもの、また
蝙蝠のごとく前足が
翼の形となって空中を
翔け廻った
種類には、
両翼を
拡げると
優に五米(注:5m)を
超えるものがあり、その他形の
奇なるもの
姿の
恐しいものなど実に
千変万化きわまりないありさまであった。しかもそれが
皆すこぶる数多く
掘り出され、ベルギーのベルニッサールという
処からは長さ一〇米(注:10m)もある大「とかげ」の化石が二十五
疋も
一処に
発掘せられた。
中生代の大とかげ
ブリュッセル
博物館の
特別館内に
陳列してあるのはこれである。中生代にはまだ
獣類も鳥類もでき始まりのすこぶる
幼稚な形のもののみであったから、
陸上でこれらの
恐しい
爬虫類の相手になって
競争し
得る動物は
一種もなかったに
相違ない。さらに海中では
如何というに、ここにも
爬虫類が
全盛をきわめて魚のごとき形のもの、
海蛇のごとき形のものなどさまざまの
種類があり、大きなものは身長が七米(注:7m)〜一三米(注:13m)にも
達していて、あたかも今日の
鯨のごとくにしかも今日の
鯨よりははるかに多数に
到る
処の海に
游泳していた。
通俗の書物に中生代のことを「
爬虫類の時代」と名づけてあるのもけっして無理ではない。かように中生代には
非常に大きな
爬虫類が水中・
陸上ともに
全盛を
極め、ほとんど
爬虫類にあらざれば動物にあらずと思われるまでに
勢いを
得ていたが、その後にいたりいずれもにわかに
滅び
失せて、次なる新生代まで生き
残ったものは一類としてない。とくに
不思議に感ぜられるのは海産「とかげ」類の
絶滅したことで、
陸産の方ならばあるいは新たに
現われた
獣類などに
攻め
亡ぼされたかも知れぬという
疑いがあるが、海中に
鯨類の生じたのは新生代の
中頃であって、海産「とかげ」類の
断絶してからはるかに後のことゆえ、これらはけっして新たな
強敵に
出遇うて
敗けて
亡びたのではない。それゆえなぜみずから
滅び
失せたかは今までただ
不可解というばかりであった。
中生代の大とかげ
次に新生代における
獣類をみるに、これまた一時は
全盛をきわめていた。今日では
陸上のもっとも大きな
獣というとまずインド
産とアフリカ
産との
象ぐらいであるが、人間の
現われる前の時代には今の
象よりもさらに大きな
象の
種類がたくさんにあり、その
分布区域も
熱帯から寒帯まで
拡がっていた。シベリヤの氷原からはときどき「マンモス」と名づける
大象の
遺骸が
発掘せられることがあるが、氷の中に
埋もれていたこととて、あたかも
冷蔵庫の内に
貯蔵してあったのと同じ
理窟で、何十万年か何百万年も
経たにかかわらず、肉も皮も毛も生きていたときのままに
残っている。レニングラードの
博物館にある
完全な
剥製の
標本はかような
材料から
製作したものである。わが国でもこれまで
処々から「マンモス」その他の
象の化石、
犀の化石、
素性のわからぬ
大獣の
頭骨などが
掘り出されたことを考えると、太古には今日と
違うて
恐しい大きな
獣類が多数に
棲息していたに
違いない。また食肉類には今日の
獅子や
虎よりもさらに大きく、
牙や
爪のさらに
鋭い
猛獣がたくさんにいた。ブラジルのある地方から
掘り出された
一種の
虎の化石では
上顎の
牙の長さが三〇糎(注:30cm)ほどもある。
鹿などの類にもずいぶん大きな
種類があって、左右の角の
両端の
距離が四米(注:4m)以上に
達するものもあった。その他この時代にはなおさまざまの
怪獣が
到る
処に
跋扈して世は
獣類の世であったが、その後人間が
現われてからはたいがいの
種族はたちまち
滅亡して、今日ではもはやかようなものは
一種も見ることができぬようになった。「マンモス」などがしばらく人間と同時代に生活していたことは、
石器時代の原人が
遺した
彫刻にその絵のあるのを見てもたしかに知られる。
マンモス
石器時代の「マンモス」の絵
以上
若干の
例で示したとおり、
地質時代に一時
全盛をきわめた動物
種族は、その後かならず
速かに
滅亡して次の時にはまったく
影を
止めぬに
至ったが、これは一体いかなる理由によるか。一度すべての
敵に打ち勝ち
得た
種族はなぜそのままに次の時まで
優勢を
保ちつづけ
得ぬのであろうか。この問に対しては、前にも
述べたごとくまだ何らの
定説が発表せられたことを聞かぬ。少なくとも
何人をも
満足せしめ
得るような
明瞭な
解決を
試みた人はまだないように見受ける。どの
種族も
全盛時代の末期にはかならず何らかの
性質が
過度に
発達して、そのため
生存上かえって不都合が生じ、
終に
滅亡したかのごとくに見えるところから考えて、ある人は生物には一度進歩しかかった
性質はどこまでもその方面に一直線に進み行く
性が
具わってあると
説き、これを
直進性と名づけ、一度
盛んに
発展した動物の
種族が進み
過ぎて
終に
滅亡したのは、まったく
直進性の
結果であると
唱えたが、これは
単に
不可解のことに
名称を
付けただけで、わからぬことは
依然としてわからぬ。次に
説くところは
著者一人の考えである。
およそ
生存競争に勝って
優勢を
占める動物
種族ならば、
敵に
優った
有効な
武器を
具えていることはいうまでもないが、その
武器は
種族の
異なるにしたがうてそれぞれ
違う。あるいは
筋力の強さで
優るものもあろう。または
牙と
爪との
鋭さで
優るものもあろう。あるいは
感覚の
鋭敏なこと、走ることの
速かなこと、
皮膚の堅いこと、
毒の
劇しいこと、
蕃殖力の
旺盛なこと、その他何らかの点で
敵に
優ったために、
競争に勝つを
得たのであろうから、
全盛をきわめる
種族にはおのおのかならずその
得意とするところの
武器がある。さて生物
各種の
個体の数が
平常いちじるしく
殖えぬのは他
種族との
競争があるためで、もし
敵がなかったならばたちまちの間に
非常に
増加すべきはずであるから、すべての
敵に勝ち終った
種族は
盛んに
蕃殖して
個体の数が
限りなく
殖えるであろう。そして
個体の数が多くなれば生活が
困難になるのを
免れず、したがって同
種族内の
個体間もしくは
団体間の
競争が
劇烈にならざるを
得ないが、その
際各個体はいかなる
武器をもって
相闘うであろうかというに、やはりその
種族がかつて他
種族を
征服するときに用いたのと同じものを用いるに
違いない。すなわち
筋力で他
種族に打ち勝った
種族ならば、その
個体が相戦うにも同じく
筋肉によるであろう。また
爪と
牙とで他
種族を
亡ぼした
種族ならば、その
個体間においてもやはり
爪と
牙とによる戦いが行なわれるであろう。
個体間にはげしい
競争が行なわれる
結果として、これらの
武器はますます強くなり大きくなるであろうが、いずれの
器官でも体部でも
過度に発育するとかえって
種族生存のためには
不利益なことになる。
例えば
筋力の強いことによって
敵をことごとく
征服した
種族が、
敵のなくなった後にさらに
個体間で
筋力の
競争をつづけてますます
筋力が
増進したと
想像するに、
筋力が強くなるには
筋肉の
量が
増さねばならぬが、
筋肉が太くなればその
起点・
著点となる
骨も大きくなりしたがって全身が大きくならねばならぬ。角力取りが
普通の人間より大きいのも、力まかせに
敵を
締め
殺す
大蛇が
毒蛇類よりもはるかに大きいのも、主として
筋肉発育の
結果である。かような
種族内の
競争では身体の少しでも大きいものの方が力が強くて勝つ
見込みがあろうが、身体が大きくなればそれに
伴うてまた
種々の不便
不利益なことが生ずる。すなわち日々の生活に
多量の食物を求めねばならず、生長には
非常に手間がかかり、
従って
蕃殖力はきわめて
低くなる。その上「大男
総身に
智恵が
廻りかね」というとおり、体が重いために
敏活な運動ができず、とくに曲り角の
処で身の軽い小動物のごとくに急に方向を変えることは
惰性のためにとうてい
不可能となるから、小さな
敵に
攻められた場合にはあたかも
牛若丸に対する
弁慶のごとくにたちまち
敗ける
虞がある。されば身体の大きいことも度を
超えると明らかに
種族生存のために
不利益になるが、
他種族の
敵がなく
同種族内の
個体同士のみで
筋力の
競争をなし
続ければ、この
程度を
超してなお
止まずに進むことを
避けられぬ。
直進性とはかかる
結果を
不可思議に思うて
付けた空名に
過ぎぬ。また
牙が大きくて
鋭いためにすべて他の
種族を
圧倒し
得た
種族が、
敵のなくなった後にさらに
個体間で
牙による
競争を
続けたならば、
牙はますます大きく
鋭くなるであろうが、これまた一定の度を
超えるとかえって
種族の
生存上には
不利益になる。なぜというに、およそいかなる
器官でも他の体部と
関係なしに、それのみ
独立に
発達し
得るものはけっしてない。
牙のごときももし大きくなるとすれば、その生じている
上顎・
下顎の
骨からして太くならねばならず、
顎を動かすための
筋肉も、その付著する
頭骨も大きくならねばならぬが、頭が大きく重くなれば、これを支えるための
頸の
骨や
頸の
筋肉まで大きくならねばならず、
従ってこれを
維持するために動物の負担がよほど重くなるを
免れぬ。すなわち他に
敵のない
種族の
個体が
牙の強さで
互いに
競争し
続ければ、
牙と
牙に
関係する体部とはどこまでも大きくなり、
終には
畸形とみなすべき
程度に
達し、さらにこの
程度をも通り越して進むのほかはない。そのありさまは欧米の
諸強国が大砲の大きさを
競争して妙な形の軍艦を造っているのと同じである。何ごとでも一方に
偏すれば他方には必ず
劣る所の生ずるのは自然の
理であるから、
牙の大きくなることも度を
超えて
極端まで進むとかえって
種族の
生存には
不利益となり、他日意外の
敵に遭遇した場合に
脆くも
敗北するにいたるであろう。
牙の大き過ぎる虎の頭骨
以上は
単に一二の場合を
想像して
理窟だけをきわめて
簡単に
述べたのであるが、
実際地質時代に一時
全盛をきわめ後急に
絶滅したような動物
種族を見ると、その
末路に
及べばかならず身体のどこかに
過度に
発達したらしい部分がある。あるいは身体が大き
過ぎるとか、
牙が
長過ぎるとか、角が
重過ぎるとか、
甲が厚遇ぎるとか、とかく
生存に
必要と思われるより以上に発育してほとんど
畸形に近い
姿を
呈し、
恐らくそのためにかえって
生存が
困難になったのではなかろうかと考えられるものがすこぶる多い。
従来はかようなことに対し
直進性という名を
付けたりしていたが、
著者の考えによれば一方のみに
偏した
過度の発育はまったく他
種族の
圧迫をこうむらずに
自己の
種族のみで
個体間または
団体間にはげしい
競争の行なわれた
結果である。他
種族と
競争している間は
種族の
生存に
不利益な
性質が
発達するはずはないが、すべて他の
種族を
征服して対等の
敵がなくなると、その後は
種族内で
競争をつづける
結果として、かつて他
種族に打ち勝つときに
有効だった
武器が
過度に進歩し、ほとんど
畸形に類する発育を遂げるであろう。
個体間の
競争で勝負の
標準となる
性質が、
競争の
結果過度に進むを
免れぬことは、
日常の生活にもしばしば見かける。
例えば女の顔のごときも色が白くて
唇の赤いのが美しいが、男の愛を
獲んと
競争する
結果、白い方はますます白く
塗って美しい白の
程度を通り
越し、赤い方はますます赤く
染めて美しい赤の
程度を通り
越し、
白壁のごとくに
白粉を塗り、玉虫のごとくに
紅を
付けて
得意になっている。当人と、
痘痕も
靨に見える
情人とはこれを美しいと思うているであろうが、
無関係の第三者からはまるで
怪物のごとくに見える。新生代の
地層から
掘り出された
牙の大き
過ぎる
虎や、角の
重過ぎる
鹿なども
恐らくこれと同じように
同僚間の
競争の
結果過度の
発達を
遂げたものであろう。
一方に
過度の発育を遂げれば、これに
伴うて他方には
過度の弱点の生ずるを
免れぬであろうから、これがある
程度まで進むと、今まではるかに
劣っているごとくに見えた
敵と
競争するにあたって、自分の
不得意とする方面から
攻められると
脆く
敗北する
虞が生ずる。前にも
述べたとおり、
優れた
種族とはいずれも自分の
得意とする方面だけで
敵に
優るものゆえ、
得意とせぬ方面にはなはだしい
欠陥が生じたならば、
種族の
生存はそのためすこぶる危険となるに
違いない。一時
全盛をきわめた動物
種族、がその
末路に
及んではるかに
劣った
敵にも勝ち
得ぬに
至ったのは、右のごとき
状態におちいったためであろう。その上一時多くの
敵に勝つような
種族はかならず
専門的に
発達し、身体各部の分業も進んだものであるから、もし外界に何らかの
変動が起り、温度が
降るとか、湿気が
増すとか、新たな
敵が
現われるとか、
従来の食物がなくなるとかいう場合には、これに
適応して行くことがよほど
困難で、そのため
種族の
全滅するごときこともむろんしばしばあったであろう。
要するに
著者の考えによれば、生物各
種族の運命は次の三通りの外に出ない。
競争の相手よりもはるかに
劣った
種族はむろん
競争に
敗れて
絶滅するの外はない。また
競争の相手よりもはるかに
優った
種族はすべての
競争者に打ち勝ち、天下に
敵なき有様に
達して一時は
全盛をきわめるが、その後はかならず
自己の
種族内の
個体間の
競争の
結果、始め他の
種族を
征服するときに
有効であった
武器や
性質が
過度に
発達し、他の方面にはこれに
伴う欠陥が生じて、かえって
種族の
生存に有害となり、
終には今まではるかに
劣れるごとく見えた
敵との
競争にも
堪え
得ずしてみずから
滅亡するを
免れぬ。ただ
敵から急に
亡ぼされもせず、また
敵を
亡ぼし
尽しもせず、つねに
敵を目の前に控えて、これと対抗しながら
生存している
種族は長く
子孫を
遺すであろうが、その
子孫は長い年月の間には自然淘汰の
結果絶えず少しずつ
変化して、いつとはなしにまったく別種とみなすべきものとなり終るであろう。ニイチェの書いたものの中に「危く
生存する」という句があったように
記憶するが、長く
種族を
継続せしめるには危い
生存をつづけるの外に途はない。「
敵国
外患なければ国はたちまち
亡びる」というとおり、
敵を
亡ぼし
尽して
全盛の時代に
蹈み
込むときは、すなわちその
種族の
滅亡の第一歩である。
盛者必滅・
有為転変は実に
古今に通じた生物界の規則であって、これに
漏れたものは
一種としてあった
例はない。以上
述べたところは、これを一々の生物
種族にあてはめて
論じてみると、なお細かに研究しなければならぬ点や、まだ
説明の十分でない
処がたくさんにあるべきことはもとより
承知しているが、だいたいにおいて事実と
矛盾するごときことはけっしてないと信ずる。
今日地球上に
全盛をきわめている動物
種族はいうまでもなく人間である。かつて
地質時代に
全盛をきわめた各
種族はいずれも一時代
限りで
絶滅し、次の時代にはまったく
影を
隠したが、現今
全盛をきわめている人間
種族は将来いかになり行くであろうか。
著者の見るところによれば、かような
種族は
皆初め他
種族に打ち勝つときに
有効であった
武器が、その後
過度に
発達して、そのため
終に
滅亡したのであるが、人間にはけっしてこれに類することは起らぬであろうか。未来を
論ずることは本書の目的でもなく、また
著者のよくするところでもないが、人間社会の現在の
状態を見ると、一度
全盛をきわめた動物
種族の
末路に
似たところが
明らかにあるように思われるから、次にいささかそれらの点を
列挙して読者の参考に供する。
人間がことごとく他の動物
種族に打ち勝って向う
処敵なきに
至ったのはいかなる
武器を用いたによるかというに、これは
誰も知るとおり、物の
理窟を考え
得る
脳と、道具を造って使用し
得る手とである。もしも人間の脳が小さくて物を工夫する力がなかったならば、とうてい今日のごとき
勢いを
得ることは
不可能であったに
違いない。またもしも人間の手が馬の足のごとくに大きな
蹄で包まれて、物を
握ることができなかったならば、けっして他の
種族に打ち勝ち
得なかったことは明らかである。されば
脳と手とは人間のもっとも大切な
武器であるが、手の働きと
脳の働きとは実は相関連したもので、
脳で工夫した道具を手で造り、手で道具を使うて
脳に経験を
溜め、両方が相助けて両方の働きが進歩する。いかに
脳で考えてもこれを実行する手がなければ何の役にも立たず、いかに手を働かそうとしても、あらかじめ設計する
脳がなかったならば何を始めることもできぬ。矢を
放ち、
槍で
突き、
網を張り、落し穴を
掘りなどするのは、
皆脳と手との連合した働きであるが、かかることをなし
得る動物が地球上に
現われた以上は、他の動物
種族はとうていこれに勝てる
見込みがなく、力は何倍も強く
牙は何倍も
鋭くとも
終にことごとく人間に
征服せられて、人間に対抗し
得る
敵は
一種もなくなった。かくして人間はますます
勢いを
増し
全盛をきわめるに
至ったが、その後はただ
種族内に
激しい
競争が行なわれ、
脳と手との働きの
優った者は
絶えず
脳と手との働きの
劣ったものを
圧迫して
攻め
亡ぼし、その
結果としてこれらの働きは日を追うて上達し、研究はどこまでも深く、道具はどこまでも
精巧にならねば止まぬありさまとなった。人はこれを文明開化と
称えて現代を
謳歌しているが、
誰も知らぬ間に人間の身体や社会的生活
状態に、次に
述べる
種族の
生存上すこぶる面白からぬ
変化が生じた。
まず身体に
関する方面から始めるに、
脳と手との働きが進歩してさまざまのものを工夫し
製作することができるようになれば、寒いときには
獣の皮を
剥ぎ草の
繊維を
編みなどして衣服を
纏い始めるであろうが、
皮膚は
保護せられるとそれだけ
柔弱になり、わずかの寒気にも
堪え
得ぬようになればさらに衣服を重ね、頭の上から足の先まで
完全に
被い包むから、
終にはちょっと
帽子を取っても
靴下を
脱いでも風を引くほどに身体が弱くなってしまう。また人間が自由に火を用い始めたことは、すべて他の動物に打ち勝ち
得た主な
原因であるが、食物を
煮て食うようになってからは歯と
腸胃とがいちじるしく弱くなった。野生の
獅子や
虎にはけっしてない
齲歯がだんだんでき始め、生活が文明的に進むにしたがうてその数が
殖えた。どこの国でも
下層の人民に
比べると、貴族や金持には
齲歯の数が
何層倍も多い。
嗜好はとかく極端に走りやすいもので、冬は
沸き立つような汁を
吹きながら吸い、夏は口の
痛むような
氷菓子を
我慢して食う。塩や砂糖を
純粋に製し
得てからは、あるいは
鹹過ぎるほどに塩を入れ、あるいは
甘過ぎるほどに砂糖を加える。これらのことや運動の不足やなおその他の種々の
事情で
胃腸の働きは
次第に衰え、
虫様垂炎なども
頻繁に起り、胃が悪いといわねばほとんど大金持らしく聞えぬようになった。住宅も衣服と同じくますます
完全になって、夏は電気
扇で冷風を送り冬は暖房管で室内を温めるようになると、つねにこれに
慣れて寒暑に対する
抵抗力が
次第に
減じ、少しでも荒い風に触れるとたちまち健康を害するような弱い身体となり終るが、これらはすべて
脳と手との働きが進んだ
結果である。
智力が進めば、病を治し健康を
保つことにもさまざまの工夫を凝らし、病原
黴菌に対する抵抗力の弱い者には人工的に
抗毒血清を
注射してこれを助け、消化液
分泌の不足する者には
人造のジヤスターゼやペプシネを
飲ませてこれを
補うが、自然に
任せて
置けば死ぬべきはずの弱い者を人工で助け生かせるとすれば、人間生来の健康の平均が少しずつ
降るはもちろんである。医学が進歩すれば一人一人の
患者の生命を何日か
延し
得る場合は多少
増すであろうが、それだけ
種族全体の健康
状態がいつとはなく悪くなるを
免れぬ。文明人の身体が少しずつ
退化するのはもとより他に多くの
原因があって、けっして医術の進歩のみによるのではないが、
智力を用いてできるだけ身体を
鄭重に
保護し助けることはたしかにその
一原因であろう。身体が弱くなれば病にかかる者も
殖え、統計を取ってみると、何病の患者でも年々いちじるしく数が
増して行くことがわかる。
他
種族を
圧倒して自分らだけの世の中とすれば、安全に
子孫を育てることができるために、人口が
盛んに
殖えてたちまちはげしい
生活難が生ずる。
狭い土地に多数の人が押し合うて住めば、
油断してはただちに
落伍者となる
虞があるから、相手に負けぬように
絶えず新しい工夫を
凝らし、新しい道具を造って働かねばならず、そのため
脳と手とはほとんど休まるときがない。その上
智力が進めばいかなる仕事をするにも大仕掛けの
器械を用いるから、その運転する
響と振動とが日夜神経を
悩ませる。かくて神経系は
過度の
刺戟のために
次第に
衰弱して病的に
鋭敏となり、
些細なことにもたちまち
興奮して、軽々しく自殺したり他を
殺したりする者が続々と生ずる。
神経衰弱症は
野蛮時代にはけっしてなかったもので、まったく文明の進んだために起った
特殊の病気に
相違ないから、これを「文明病」と名づけるのは真に
理に
適うた
呼び方である。
競争の
労苦を
慰めるための
娯楽も、
脳の働きが進むと単純なものでは
満足ができぬようになり、種々
工夫を
凝らして
濃厚な
劇烈なものを
造るが、これがまた強く神経を
刺戟する。
芝居や
活動写真などはそのいちじるしい
例であるが、真実の
生存競争の
労苦の
余暇をもって、仮想人物の
生存競争の
労苦をわが身に引き受けて感ずるのであるから、むろん神経系を
安息せしむべき道ではない。また人間は
労苦を
忘れるために、酒・
煙草・
阿片などのごときものを造って用いるが、これは
種族生存のためにはもとより有害である。およそ
娯楽にはすべて
忘れるということが
要素の一つであって、
芝居でも
活動写真でもこれを見て喜んでいる間は自分の住する現実の世界を
暫時忘れているのであるが、酒や
煙草の類は
実際の
労苦を
忘れることを
唯一の目的とし、
煙草には「
忘れ草」という名前さえ
付けてある。そしてかく
忘れさせる働きを有するものはいずれも
劇毒であるから、つねにこれを用いつづければ当人にも
子孫にも身体精神ともに害を受けるを
免れぬ。
阿片のごときは
少時これを用いただけでも
中毒の
症状がすこぶるいちじるしく
現われる。酒の有害であることは
誰が考えても明らかであるから、各国ともに
禁酒の運動が
盛んに行なわれるが、しばらくなりとも現実の世界から
逃れて
夢幻の世界に遊ぶことが何よりの楽しみである今日の社会においては、
飯を
減らし
著物を脱いでも、酒や
煙草が止められぬ人間が、いつまでもたくさんにあって、その害も長く
絶えぬであろう。そしてこれらは他の動物
種族ではけっして見られぬ
現象である。
なお
生活難が
増すにしたがい、
結婚して家庭を
造るだけの
資力が
容易には
得られぬから、
自然晩婚の風が生じ、一生
独身で
暮す男女もできるが、かくては
勢い
風儀も
乱れ、
売笑婦の数が年々
増加し、これらが日々多数の客に
接すれば
痳病や
梅毒はたちまち世間一体に
蔓延して、その一代の人間の
健康を
害うのみならず、
子供は生れたときからすでに
病にかかったものがたくさんになる。その他、
智力によって工夫した
避妊の
方法が
下層の
人民にまで
普く知れ
渡れば、
性慾を
満足せしめながら子の生れぬことを
望む場合には
盛んにこれを実行するであろうから、
教育が進めば
自然子の生れる数が
減ずるが、
蕃殖力の
減退することは
種族の
生存からいうともっとも
由々しき大事である。子の生れる数が
減れば
生活難が
減じて、かえって
結構であると考えるかも知れぬが、なかなかさようにはならぬ。なぜというに
珊瑚や
苔虫の
群体ならば
百疋の虫に対して
百疋分の食物さえあれば、いずれも
満腹するが、人間は千人に対して千五百人分の食物があっても、その多数は
餓えを
忍ばねばならぬような
特殊の
事情が
存するから、人数は
殖えずとも
競争は
相変らずはげしく、
体質は以上
述べたごとくに
次第に悪くなり行くであろう。
次に
道徳の方面について考えるに、これまた
脳と手との
働きの進むにしたがいだんだん
退歩すべき理由がある。
智力のまだ進まぬ
野蛮時代には
通信や
運輸の
方法がきわめて
幼稚であるから、
戦争するにあたって
一群となる
団体はすこぶる小さからざるを
得なかった。
隊長の
号令の聞える
処、
相図の
旗の見える
処より外へ出ては
仲間との
一致の行動が取れぬから、その
位の広さの
処に集まり
得るだけの人数が
一団を造って、おのおの
競争の
単位となったが、かかる
小団体の内では、各人の行動がその
団体に
及ぼす
結果は
誰にも
明瞭に知れ
渡り、
団体の
生存に
有利な
行為はかならず
善として
賞せられ、
団体の
生存に
有害な
行為はかならず
悪として
罰せられ、
善の
隠れて
賞せられず、悪の
顕われずして
罰を
免れるごときことはけっしてなく、
善のなすべきゆえん、悪のなすべからざるゆえんが、きわめてたしかに
了解せられる。かつかかる
小団体が数多く相対立してはげしく
競争すれば、悪の行なわれることの多い
団体はかならず
戦に
敗けて、その中の
個体は
殺されるか食われるかして全部が
滅亡し、
善の行なわれることの多い
団体のみが勝って生き
残り、それに
属する
個体のみが
子孫を
遺すから、もしもそのままに進んだならば、自然
淘汰の
結果として
終には
蟻や
蜂のごとき
完全な社会的生活を
営む動物となったかも知れぬ。しかるに
脳の
働きと手の
働きとが進歩したために、
通信や
運輸の
方法が
速かに
発達し、これに
伴うて
競争の
単位となる
団体は
次第に大きくなり、電話や電信で命令を伝え、
汽車や自動車で
兵糧を
運搬するようになれば、
幾百万の兵隊をも一人の
指揮官で動かすことができるために、いつの間にか
相争う
団体の数が
減じて各
団体は
非常に大きなものとなった。ところで
団体が
非常に大きくなり、その中の人数が
非常に多数になると、一人ずつの行動が
全団体に
及ぼす
結果はほとんどわからぬほどの
微弱なものとなり、一人が
善を行なうてもそのため急に
団体の
勢いがよくなるわけでもなく、一人が悪を行なうてもそのためにわかに
団体が
衰えるわけでもなく、したがって
善が
隠れて賞せられぬこともしばしばあれば、悪が
免れて
罰せられぬこともしばしばあり、時としては悪を行なうた者が
善の
仮面を
被って賞に
与ることもある。かような
状態に立ち
至れば、
善は
何故になさねばならぬか、悪は
何故になしてはならぬかという
理窟がすこぶる
曖昧になってくる。小さな
団体の内では悪はかならず
顕われてきびしく
罰せられるから、ひそかに悪を行なうたものは日夜はげしく
良心の
呵責を受けるが、
団体が大きくなって悪のかならずしも
罰せられぬ
実例がたくさん目の前に
並ぶと、
勢い
良心の
刃は
鈍くならざるを
得ない。また
団体が大きくなるにしたがい、
団体間の競争における勝負の決するのにはなはだしく時間が取れ、
競争は
絶えず行なわれながら、一方が
全滅して
跡を止めぬまでには
至らぬ。すなわち
敗けても
兵士の一部が死ぬだけで、他は
依然として
生存するから、
団体を
単位とした自然
淘汰は行なわれず、その
結果として
団体生活に
適する
性質は
次第に
退化する。大きな
団体の内では、各個人の
直接に感ずるのは各自一個の
生存の要求であって、国運の
消長のごときは
衣食足って後でなければ考えている
余裕がない。そして
個人を
単位とする
生存競争がはげしくなれば、自然
淘汰の
結果としてますます
単独生活に
適する
性質が
発達し、自分さえよろしければ
同僚はどうなってもかまわぬというようになり、かかる者の間に立っては
良心などを持ち合さぬ者の方がかえって成功する
割合が多くなる。各個人がかくのごとく
利己的になっては、いかに
立派な
制度を
設け、いかに
結構な
規約を
結んでも、とうてい
完全な
団体生活が行なわれるべき
望みはない。
団体的生活を
営む動物でありながら、おいおい
団体的生活に
適せぬ方向に進み行くことは、
種族の
生存にとってはきわめて
不利益なことであるが、その
原因はまったく
団体をして
過度に
大ならざるを
得ざらしめた
脳と手との
働きにある。
さらに
財産に
関する方面を見るに、手をもって道具を用いる以上は何事をなすにも道具と人とが
揃わねばならず、人だけがあっても道具がなくてはほとんど何もできぬ。「かわおそ」ならば自分の足で水中を
游ぎ、自分の口で魚を
捕えるが、人間は船に乗り
櫓を
漕ぎ、網で
掬い、
籠に入れるのであるから、この中の一品が欠けても
漁には出られぬ。わずかに
櫓に
掛ける一本の短い
綱が
見付からなくても岸を
離れることができぬ。かかる場合には、取れた魚の一部を
与える
約定で
隣の人からあいている
櫓や
綱を
借りるであろうが、これが
私有財産を
貸して
利子を取る
制度の始まりである。そしていったん物を
貸して
利子を取る
制度が開かれると、道具を
造って
貸すことを
専門とする者と、これを
借りて
働くことを
専門とするものとが生ずるが、
脳と手との
働きが進んで
次第に
精巧な
器械を
造るようになるとともに、
器械の
価はますます高く
労働の
価はますます安く、
器械を所有する者は法外の収入を
得るに反し、
器械を
借りる者は牛馬のごとくに
働かねばならぬようになる。
共同の生活を
営む社会の中に、一方には何もせずに
贅沢に
暮すものがあり、他方には終日
汗を流しても食えぬ者があるというのは、けっして
団体生活の
健全な
状態とは考えられぬ。
蒸気機関でも
機織り
器械でも発電機でも化学工業でも、いちじるしい発明のあるごとに
富者はますます
富み
貧者はますます
貧しくなったところから見れば、今後も
恐らく文明の進むにしたがい最少数の
極富者と大多数の
極貧者とに分れ行く
傾きが
止まぬであろうが、それが社会生活の各方面に
絶えず
影響を
及ぼし、身体にも
精神にもいちじるしい
変化を引き起す。しかもそれがいずれも
種族生存の上に
不利益なことばかりである。
前に
健康や
道徳に
関して今日の人間がいかなる方面に進みつつあるかを
述べたか、
貧富の
懸隔がはなはだしくなればすべてこれらの方面にも
直接に
影響する。
極富者と
極貧者とが
相隣して生活すれば、男女間の
風儀などもただちに
乱れるのは
当然で、
餓えに
迫った女が
富者に
媚びて
婬を売るのを
防ぐことはできず、
貧者はもっとも
安価に
性慾の
満足を求めようとするから、それに
応ずる
職業の女も
殖え、世間
一般に品行が
乱脈になれば
花柳病が
盛んに
蔓延して
終にはほとんど一人も
残らずその
害毒を
被るであろう。その他
富者は
飽いて病を
得、
貧者は
餓えて
健康を
保ち
得ず、いずれも
体質が
次第に下落する。
現に文明
諸国の
貧民には、
栄養不良のために
抵抗力が弱くなって、
些細な病にも
堪え
得ぬものがおびただしくある。また
富者は金を
与えていかなることをも
敢えてし、
貧者は金を
得んがためにいかなることをも
忍ばざるを
得ぬから、その
事柄の
善か悪かを問う
暇はなく、
道徳の
観念は
漸々薄らいで、たいがいの悪事は
日常のこととして人が注意せぬようになってしまうが、これではとうてい
協力一致を
旨とする
団体生活には
適せぬ。
国内の
人民が少数の
富者と多数の
貧者とに分れ、
富者は金の力によって自分らのみに都合のよいことを行なえば、
貧者はこれを見てけっして
黙ってはいず、
富者を
敵として
憎み、あらゆる
方法を
講じてこれを
倒そうと
試み、
貧者と
富者との間に
妥協の
余地のないはげしい
争闘が始まる。教育が進めば
貧者といえども
智力においてはけっして
富者に
劣らぬから、自分の
境遇と
富者の
境遇とを
比較して、なぜかくまで
相違するかと考えては
不満の
念に
堪えず、
現今の社会の
制度をことごとく
富者のみに
有利な
不都合千万なものと思い
込み、全部これを
覆そうと
企てる者もおおぜい出てくる。今日社会問題と名づけるものにはさまざまの
種類があるが、その根本はいずれも
経済の問題であるから、
貧富の
懸隔がますますはなはだしくなる
傾きのある間はとうてい
満足に
解決せられる
見込みはなかろう。かくのごとく、
一団体の内がさらに
幾つもの組に分れて
互いに
相憎み
相闘うことは、
団体生活を
営む
種族の
生存にとってはすこぶる
有害であるが、その
根源を
質せば
皆初め手をもって道具を用いたのに
基づくことである。
要するに、今日の人間は
最初他の動物
種族を
征服するときに
有効であった
武器なる
脳と手との
働きが、その後
種族内の
競争のためにどこまでも進歩し、そのため身体は弱くなり、
道徳は
衰え、共同生活が
困難になり、
貧富の
懸隔がはなはだしくなって、不平を
抱き、
同僚を
呪う者が数多く生じ、日々
団体的動物の
健全なる生活
状態から遠ざかり行くように見受ける。これらのことの
実例を
挙げるのは
煩しいから
省くが、毎日の新聞紙上にいくらでも
掲げてあるから、この点においては世界中の新聞紙を本章の
附録とみなしても
差支えはない。今日地球上の人間は
幾つかの
民族に分れ、
民族の間にも
個人の間にも
脳と手とによるはげしい
競争が行なわれているから、今後もなお
智力はますます進み
器械はますます
精巧になろうが、この
競争に一歩でも負けた
民族はたちまち相手の
民族からはげしい
圧迫をこうむりきわめて苦しい
位置に立たねばならぬから、
自己の
民族の
維持継続をはかるには
是非とも
脳と手とを
働かせ、発明と
勤勉とによって
敵なる
民族に
優ることを
努めねばならぬ。かく
互いに
相励めばいわゆる文明はなおいっそう進むであろうが、その
結果は
如何というに、ただ
民族と
民族、個人と個人とが
競争するに用いる
武器が
精鋭になるだけで、前に
述べたごとき人間
種族全体に
現われる
欠陥を
救うためには何の役にも立たぬであろう。人間の身体や
精神が
漸々退化する
傾きのあることに気の
付いた学者はすでに
大勢あって、
人種改善とか
種族の
衛生とかいうことが、今日では
盛んに
唱えられているが、以上
述べたごとき
欠陥はいずれも
脳と手との
働きが進んだために
当然生じたものゆえ、同じ
脳と手との
働きによって今さらこれを
救おうとするのは、あたかも火をもって火事を消し、水をもって
洪水を
防ごうとするのと同じようで、
結局はとうていその
目的を
達し
得ぬであろう。「知っていることは何の役にも立たず、役に立つようなことは何も知らぬ。」というたファウストの
歎息はそのまま
人種改良学者らの
最後の
歎息となるであろうと
想像する。ただし、
幾多の
民族が
相睨み合うている現代においては少しでも相手の
民族よりも速く
退化するようなことがあっては、たちまち
敵の
迫害のためにきわめて苦しい
地位におちいらざるを
得ぬから、一方
脳と手との力によって相手と
競争しながら、他方にはまた
脳の
働き、手の
働きの
結果として
当然生ずべき
欠陥をできるだけ
防ぐように努めることが目下の
急務である。いずれの
民族も
結局は、
脳の
過度に
発達したためにますます
生存に
不適当な
状態に
赴くことを
避けられぬであろうが、いま
敵よりも先に
退化しては、ただちに
敵のために
攻められ苦しめられるべきは明らかであるから、その苦しみを
免れようとするには
是非とも、さらに
脳と手とを
働かせ、
工夫を
凝らし力を
尽して、身体・
精神ともになるべく長く
健全ならしめることをはからねばならぬ。人間全体が
終にはいかになり行くかというような遠い将来の問題よりも、いかにしてわが
民族を
維持すべきかという問題の方が目前に
迫っているから、応急の
手段としては、やはり
人種改善や
種族衛生を
学術的に深く研究して、できる
限りの
良法を実地に
試みるの外はない。かくして、一方においては
智力によって、
軍事、
殖産等の方面を進歩せしめ、他方においては同じく
智力によって生活
状態の
退化を
防ぐことを
努めたならば、にわかに他の
民族のために
亡ぼされる運命には
恐らく
遇わぬであろう。
以上のごとく考えて後にさらに
現今の人間を
眺めると、その身体には明らかに
過度に
発達した部分のあることに
気付かざるを
得ない。前に、
鹿のある
種類ではその
滅亡する前に角が大きくなり
過ぎ、
虎のある
種類では同じく
牙が大きくなり
過ぎたことを
述べたが、人間の身体では
脳が
確かに大きくなり
過ぎている。人間はいつも自分を
標準として物を
判断し、人体の美を
論ずるにあたっても
断金法などと
称する勝手な
法則を定め、これに
適うたものを
円満な
体格とみなすが、
虚心平気に考えてみると、重さ四五十
[#「四五十」は底本では「四五」]瓩余(注:4、50Kg)、長さ一・六米(注:1.6m)の身体に重さ一・三五瓩(注:1.35Kg)、直径一七糎余(注:やく17cm)もあるような大きな
脳が
具わり、これを包むために顔面部よりもはるかに大きな
頭蓋骨の
発達しているありさまは、前に
述べた
鹿の角や
虎の
牙と
相似たもので、いずれも、ほぼ
極端に
達している。もしもかの
鹿が、角の大き
過ぎるために
滅亡し、かの
虎が
牙の
長過ぎるために
滅亡したものとすれば、人間は今後あるいは
脳が大きくなり
過ぎたために
滅亡するのではなかろうかとの感じが自然に
浮ぶが、これはあながち
根拠のない
杞憂でもなかろう。すでに
現今でも
胎児の頭が大きいために
難産の場合がたくさんにあり、
出産の
際に命を
失う者さえ
相応にある位ゆえ、万一この上に人間の
脳が
発達して
胎児の頭が大きくなったならば、それだけでも出産に
伴う
苦痛と
危険とが
非常に
増し、自然の
難産と人工的の
避妊とのために
生殖の
率がいちじるしく
減ずるに
違いない。母が子を
産むのは生理的に
当然のことで、本来は何の
故障もなしに行なわるべきはずのものであるのに人間だけは、
例外として
非常な危険がこれに
伴うのは、
確かに人間が
種族の
生存上
不利益な方向に進み来った
証拠と考えねばならぬ。本書の始めにもいうたとおり、およそ物は見ようによって種々に
異なって見えるもので、同一の物に対しても観察する人の立つ
場処を
換えるとまったく別の感じが起る。人間
種族の
将来に
関してもそのとおりで、人間のみを見るのと、古今の
諸動物に
比較して見るのとでは大いに
趣きが
違い、また同じく生物学的に
論じても一人一人に考え方はいちじるしく
異なるであろう。それで他の人々がいかに考えるかは知らぬが、
著者一人の見るところは、まず以上
略述したごとくである。