他力教育の危機

丘浅次郎




一 他力教育きょういく


 他力教育きょういくとはこれまで人の用いぬ名称めいしょうであるゆえ、まずその意味を明らかにしておく必要ひつようがある。われら(注:わたし)がここに他力教育と名付なづけるのは、教えるがわの者が、あらかじめ生徒せいとしんぜしむべき個条かじょう(注:ある事柄ことがらをいくつかに分けてならべてべた一つ一つの条項じょうこう)を定めておき、いやおうなしにこれを生徒せいとの頭にもうとつとめる流儀りゅうぎ(注:やり方)の教育をいう。すなわち生徒せいとをして決して自由に考えしめず、すべて教師きょうしが考えさせるとおりに考えるくせをつけて、少しもうたがいを起こすべき余地よちあたえぬようなやり方の教育をかく名付なづけたのである。
 さてかような教育は如何いかなる時、如何いかなる時、如何いかなるところで行なわれるかというに、これは上に立つ者が困難こんなんなしに下々しもじもおさめようとよくする場合にかならず用いる常套じようとう手段しゅだん(注:まりきったいつものやり方)である。昔の政治家せいじかは「たみらしむべし知らしむべからず」(注:為政者いせいしゃは人民を施政しせいしたがわせればよいのであり、その道理どうり人民じんみんにわからせる必要ひつようはないということ。人民じんみんると面倒めんどうだ)と言うたが、これは下をおさめるにはもっと都合つごうのよい方針ほうしんで、そのことがよく行なわれている間は、政治せいじはまことに楽にできる。しかし、全く知らしめぬとういことは、とうていいつまでもつづかぬゆえ、次には、これを「ろんぜしむべからず」とあらためた。たみが自由に議論ぎろんをするようでは、おさめるのにはなはだ勝手が悪いからである。しこうしてろんぜしめぬためには、他力教育をほどこすのほかはないゆえ、専制せんせい時代の教育はことごとく他力教育であって、教師きょうしはいつもおさめる者の指図さしずしたがい、その者等に都合のよい考えを生徒せいとの頭につめむことをもっぱらのつとめとした。それゆえ、昔は太平のつづく間は教育はことごとく御用ごよう他力たりき教育きょういくであって、異端いたんの教育が公然こうぜんと頭を持ち上げるのは、かならおさめる者の権力けんりょくうすらいだころにかぎり、まさに革命かくめいの起こらんとする前徴ぜんちょう(注:きざし)であった。
 元来がんらい教育なるものは、手本をしめして生徒せいと真似まねさせるのが本体である。鳥やけものが子にぶこと、えさを取ることなどを教える場合には、かならず親が自身に手本となって子に真似まねをさせる。学ぶと言うのも、習うと言うのも実際じっさい真似まねすることを言うにぎぬ。かように教育は元来が他力てきのものゆえ、御用ごよう目的もくてきにこれを用いるにはもっとてきしている。昔は教育が簡単かんたんでほとんど全部が他力教育であったが、今日のごとくに学科課程かていがたくさんに分かれては、おのずから、その中に他力教育に用いて都合のよい学科とそのほうにはあまり役に立たぬ学科とのべつが生じた。修身科しゅうしんか(注:教育勅語ちょくごをよりどころとする道徳どうとく教育)が他力教育の方便ほうべんとしてもっと重要じゅうようであるべきは言うにおよばぬが、歴史れきしや国語も学科の性質せいしつ上、そのために大いに利用りようができる。また唱歌しょうか(注:うたをうたうこと)のごときも、効果こうか如何いかべつ問題として、その方面に利用りようせられるかたむきがある。

二 自動主義しゅぎ


 自動主義しゅぎとは教育者の間には如何いかなる意味に解釈かいしゃくせられているか知らぬが、読んで字のごとしとすれば、生徒せいとをしてみずから動かしめる主義しゅぎである。動かしめるのは、筋肉きんにくばかりではなく、脳髄のうずいのほうも自ら動かしめるのであろうから、これは従来じゅうらいの他力主義しゅぎとは全く正反対でなければならぬ。昔の教育がほとんど全部他力主義しゅぎであったのに、近ごろにいたって、その反対の自動主義しゅぎがボツボツとなえ出されたのは何故なぜかというに、われらの考えによれば、これは全く数年前にして、自由に考える人間の数が大いにしたからである。自由に考える人がせば、世間一般いっぱん風潮ふうちょう(注:時代の推移すいいともなってわる世の中のありさま)が自動主義しゅぎかたむき、いずれの方面にも、その傾向けいこうしめした意見が発表せられるであろうから、如何いかに世界の大勢たいせいおくれ勝ちの教育者界でも、この気運には引きずられぬわけにはゆかず、おくればせながらようやくこのごろにいたって主張しゅちょうし始めたものと見える。されば自動主義しゅぎなるものは、全く時代の要求ようきゅうによって、自然しぜんあらわれたもので、だれ主唱者しゅしょうしゃ(注:中心となって主唱しゅしょうしている人)であるとか発頭人ほっとうにん(注:事をくわだてこした人)であるとか、とくに一人の名をあげてろんずべき性質せいしつのものではない。かりこうとなえ出さなかったとすれば、かならおつとなえ出したであろう。しこうして、今後はその声が次第しだい次第に高くなりゆくであろうと思われる。
 さて自動主義しゅぎの教育が完全かんぜんに行なわれたならば、いかなる結果けっかを生ずるであろうかというに、年のゆかぬ小学校の生徒せいとはともかくとして、もはや中学校くらいになれば、何ごとでも自身に考えて見てなるほどと得心とくしんのできることでなければ決してしんぜぬようになる。すなわち独立どくりつ自尊じそん精神せいしん充分じゅうぶん養成ようせいせられて、何ごとでも独力どくりょくで自由に考え、だれが何と言うても、本に何と書いてあっても、自分でしんずべき価値かちありとみとめたことのほかは決してしんぜぬ。徹底てっていした自動主義しゅぎならば、これを受けた生徒せいとかならずかような人間になるべきはずであって、もしもかくならなかったならば、これはまだ真の自動主義しゅぎの教育とは言われぬわけである。

三 他力と自動との暗闘あんとう


 他力教育は注文どおりに物をしんずることを生徒せいと要求ようきゅうし、自動主義しゅぎの教育は何をしんずべきかを自身で判断はんだんすることを生徒せいと要求ようきゅうする。他力教育が成功せいこうすれば、世はこりかたまりの信者しんじゃばかりとなり、自動主義しゅぎの教育が成功せいこうすれば、自由思想家しそうかがぞくぞくとあらわれる。かくのごとく他力教育と自動主義しゅぎの教育とは目的もくてきとするところが正反対で、一は東に向かい一は西に進むというごときものゆえ、もしも両者を同時に合わせ行なおうとこころみれば、その間に衝突しょうとつの起こるをまぬがれず、一方が効果こうかをあげるだけ他方は進歩をさまたげられざるをない。昔の教育は全部他力的たりょくてきであったゆえ、教育事業の範囲内はんいないに一の部分と他の部分との間の衝突しょうとつがなしにすんだが、その後、教育が複雑ふくざつになり、学科の数が多くに分かれ、同じ一人の生徒せいとの受ける教育の中で、一部分は絶対ぜったい他力たりき主義しゅぎにより、他の部分はなるべく自動主義しゅぎに重きをおくようになれば、いきおい二者の間に暗闘あんとう(注:表立おもてだたないかたちで、ひそかにあらそうこと)の行なわれるをけることはできぬ。造物主ぞうぶつしゅエホバが六日間に天地万物をつくったとか、はじめアダムをつくり次にアダムの肋骨ろっこつ一本をき取ってエバをつくったとかいうごときことをだれ真面目まじめしんたころには、何の不思議ふしぎもなしにそれですんだが、小学校の課程かていに理科などをくわえるような時世になっては、とうてい昔のごとくに他力教育がこうをほしいままにすることはできぬ。かりに国語読本の中に、文福ぶんぶく茶釜ちゃがまたぬきの化けたもので、ときどき頭やを出してたくみに綱渡つなわたりをしたという一課いっか(注:ひとつの授業じゅぎょう)があると想像そうぞうし、第一時限じげんにはこれをさずけ、次なる第二時限じげんには「あぶらな」の実物をめいめいの生徒せいとに持たせ、独力どくりょくでこれを観察かんさつせしめると仮定かていしたならば、生徒せいとの頭の内では如何いかなることが起こるであろうか。めしべが一本あり、おしべが六本あり、その中の四本が長くて二本が短いというごとき些細ささいなことまでも、一々実物じつぶつで調べて見た上でなければ承知しょうちせぬという気風きふうが「あぶらな」の授業じゅぎょう養成ようせいせられたならば、文福ぶんぶく茶釜ちゃがか奇怪きかい(注:常識じょうしきでは考えられないほどあやしく不思議ふしぎなこと)なお話は当然とうぜんうたがいの目をもって見るであろうから、他力によって強制的きょうせいてきにこれをしんぜしめることはすこぶる困難こんなんとなる。かような次第であるゆえ、時世がある程度ていどまで進んだ後は、教育事業の範囲内はんいないで、他力と自動との間に勢力せいりょくあらそいの暗闘あんとうが生じ、次第しだいあらそいがはげしくなるのをけることができぬ。

四 勝負いかに


 以上いじょうべたごとく、時勢じせい(注:世のなかのりゆき)が進んで、自由に考える人がえれば、教育者界にも自然しぜんに自動主義しゅぎとなえられるようになり、従来じゅうらいの他力教育との間に暗闘あんとうの生ずるをまぬがれぬが、このあらそいは如何いか結着けっちゃくするであろうかと考えるに、何ごとも自由のほうにかたむくことは時勢じせいのしからしめる(注:そういう結果けっか状態じょうたいにさせる)ところであって、とうていふせめることはできぬであろうから、ひとり教育のみが超然ちょうぜんたることはもとより不可能ふかのうのことで、結局けっきょくは自動主義しゅぎのほうが勝ちをせいするであろうとしんずる。世間一般いっぱんに自由に考える人が多くなれば、新聞雑誌ざっし小説しょうせつ演劇えんげきなどにもたええず自由な考えがあらわれるゆえ、自動主義しゅぎの教育は間接かんせつの味方を無数むすうに持つわけになり、その結果けっかとして、自由に考える人の数がさらに一層いっそう多くなる。他力教育の味方は、ただおさめるがわに立つ者と他力教育によって容易よういばかせられるような劣等れっとう頭脳ずのうの持主だけにとどまるゆえ、とうてい相手と拮抗きっこう(注:力に優劣ゆうれつがなくたがいにり合うこと)して進むことはできぬ。されば、時勢じせい程度ていどまで進めば、自然しぜんておいても教育は大部分自動主義しゅぎのものとならざるをない。他力教育の命脈めいみゃく(注:生命せいめいのつながり)はそれまでの間であるが、しかも、それまで継続けいぞくせしめるには特別とくべつ保護ほごようする。すなわちおさめるがわに立つ者がけんの力によってまもれば他力教育はその間だけ存在そんざいつづけることができるが、もとより無理むりな細工であるゆえ、周囲しゅういから種々しゅしゅことなった有力な思想がせてくると、すこぶる危険きけん状態じょうたいにおらねばならぬ。自由に考える人が多数になったあかつきには、ただサーベル(注:軍人ぐんじん警官けいかんこしに下げた西洋風せいようふう細身ほそみ片刃かたはかたな)をもってざざえるのほかにはみちはなかろう。武装的ぶそうてき中立という言葉があるが、時世におくれた他力教育はただ武装ぶそうによってのみわずかにその命脈めいみゃくたもつつことができる。かく比較ひかくして見ると、他力教育なるものは、おさめるがわの者が、これを必要ひつようと考え、権力けんりょくによってこれを強制きょうせいすることのできる時代だけに行なわれるべきもので、しかも実際じっさい継続けいぞくするのはたんに外形にとどまり、内容ないようのほうは、何の価値かちもないものとして、だれ心中しんちゅうには少しもこれを尊重そんちょうせぬ。かつては教育の全部をめ、その後も引きつづいて有効ゆうこうであった他力教育も、時勢じせい変化へんかしては如何いかんともいたし方なく、もしもいて、これを保存ほぞんしよう(注:のこそう)とつとめたならば、ついには近ごろの自動車の泥除どろよけと同じくただぶらさがっているだけで、何の役にも立たぬのみか、かえってどろをはねて、通行人の反感をすようなことになるであろう。
(大正八年十一月)







底本:「煩悶と自由」有隣堂
   1968(昭和43)年7月20日 発行
入力:矢野重藤
初出:1920(大正9)年1月   「自動主義」に掲載
校正:
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