この
節は外国から新しい書物がぞくぞく
輸入せられる。したがって新しい思想も
遠慮なくはいり
込んでくる。教育者の中には新しい思想を
危険なりと考え、青年に向かって古い教えを
強いて
勧めんとつとめている人々がなかなか多い。これはたしかに
思想の
復古主義である。
我らは今これについて
論ずるつもりではない。ただ
我らの
不思議に感ずるのは、
思想に
関してはかく
復古主義を
奉ずる教育者等が、
何故に運動に
関しては
復古主義を
唱えず、かえって、新
輸入のハイカラ運動
法を
盛んに
奨励しているかということである。
我らは運動
復古論者である。
我らは決して教育者等が新
思想を
危険なりと考えるごとくに、新
輸入の運動
法を
危険なりとして
排斥するものではない。ローンテニス、フットボール、ベースボールはいずれも身体を動かすことゆえ、体育上にいくぶんかの
効能のあることは
疑わない。しかしこれを
我々の
先祖が行なうた昔の運動
法にくらべるととうてい
足許にもおよばぬ。
我らは今ここに
我々の
先祖の行なうた運動
法を
略述して大いに世にひろめたいと考える。
先祖の行なうた運動
法と言うと、
或る人は早合点して、
剣術、
柔術、
鎗、
長刀の
類と思うかもしれぬが、それは
大間違いである。
我らのごとく、地球がいまだ
熱したガスの
塊であったころから今日までを一目に見わたしたつもりになって事物を考える者から見ると、
剣術、
柔術などのごときものは、わずかに
昨今始まった運動
法であって、これを
工夫した人は
我らと同時代の人間に
過ぎぬ。
我らの言う
先祖とは、
徳川や
足利などよりはなお少しく昔の
先祖である。
まず
最も新しい
先祖というのが
石器時代の人間である。そのころの人間は
如何なる運動に
熱中していたかというに、
貝塚や
土器塚から出る
遺物に
石亜鈴(注:ダンベル)や石球のないところから考えると、
特殊の
器具を用いずして行なえる運動
法が
盛んであったに
違いない。
特殊の
器具を用いずして行なえる運動は歩行であるゆえ、
我らは
石器時代の
先祖は
盛んに
徒歩運動を行なうたものと
断言する。しこうして石の「メダル」が
打製(注:打ったり打ち欠いたりして器具を作ること)・
磨製(注:石を磨いて器具を作ること)ともにいまだ
一個も発見せられぬところから考えると、今日のような勝負に重きをおく
競争は行なわなかったらしい。
我らは運動
復古の手始めとして
勝敗を
度外においた
徒歩運動の
盛んに行なわれんことを切に
希望する。
なおひとつ昔の
先祖は
猿類である。人間は
猿と同じ
先祖から起こったが、
直接に
猿から
降ったのではないという人があるが、人間と
猿との
共通の
先祖はやはり
猿類と見なすべきものであるゆえ、人の
先祖は
猿であるというて何の
差支えもない。さて、
猿時代に
盛んに行なわれた運動
法は何であるかというに、これはおそらく木登りであったろうと思う。木登りという運動
法は今日
器械体操でわずかに
真似ごとをするだけで、すこぶる流行せぬようであるが、体育の上からいうと、このくらい
有効な運動
法は他に
類がない。まず力を入れて
腕を
屈伸し、身体を引き上げるのであるから、
胸と
腕との
筋肉が
充分に
発達する。
大胸筋、
小胸筋、前大
鋸筋、
三角筋、
菱形筋、
棘下筋、二頭
膊筋、三頭
膊筋、回前
筋、回後
筋、
総指伸筋、
総屈指筋などを始めとして、
腹壁の
諸筋、
横隔膜の
筋肉にいたるまでことごとく強大になり、
胸廓(注:
胸をとりまく
骨格)が広くなって、
肺もきわめて
丈夫になる。今日青年に
肺病患者の多いというのは一つは全く木登りをせぬゆえであろう。木に登るときの
腕の動かしようを見るに、
溺死者などに人工
呼吸をほどこすときの
動かしようにそのままである。一たん死んだ者でさえ、
腕を上下に動かせば、
胸が
伸縮して
呼吸を
吹き返すくらいであるゆえ、死なぬ者が、これと同様の運動
法を
盛んに行なうたならばますます
健康になって、元気のあふるるべきは言うまでもない。今日流行する
腹式呼吸や
静座法のごときわざわざつとめて行なう
呼吸法は、これを木登りの
際に行なう
自然の
深呼吸に
比してはとうてい同日の
諭でない。
我らは
先祖の運動
法なる木登りの全国に
盛んに行なわれんことを切に
希望する。
なお一とつさかのぼれば
我々の
先祖は
魚類である。
誰も自身には
記憶せぬが母の
胎内にあること一ヶ月のころには、身体は多少魚のごとき形を
呈し、
頸の
両側に魚のごとき
鰓孔のあるのが何よりの
証拠である。魚時代に行なわれた運動
法はむろん
游泳であったに
違いない。
游泳は実に
爽快な運動で、身体の
健康を
増進せしめるにきわめて
有効なることは、今
改めて
説くにおよばぬであろう。
我らが
先祖の運動
法というのは、
前述のとおり歩行と木登りと、
游泳とである。地上の運動では、
徒歩によって身体の下半を
働かせ、木登りによって、身体の上半を
働かせ、また水中にはいっては
游泳によって、全身を
働かす。この
三種以外に、これにまさる運動
法があろうとは思われぬ。
まず、
以上三種の運動は
単独でもできる。
団体でもできる。それゆえ相手のできるのを待つ
必要がない。ローンテニスでもベースボールでも人数がそろわぬと運動ができぬから、自分一人、わずかの時間のあいているときに行なおうと思うても
不可能である。しこうしてこれをわざわざ行なうとすれば、
必要なだけの人数が、
種々都合して、他の仕事を
延ばしたり止めたりしなければならぬ。かような運動
法は
国民の体育を図るために、すべての人に行なわせるには
不適当である。
特に学校の
生徒がそのために
学課の時間を
割くなどは物の
本末を
'顛倒したことである。
また
以上三種の運動は
特別の運動場を
要せぬ。歩行がどこでもできることは言うまでもないが、木登りもあえて
樹木がなければできぬという次第ではない。
鴨居(注:引き戸・
障子・ふすまなどをはめる部分の、上部に
渡した
溝のついた
横木)につかまって、身体をつり上げてもよろしい。電車の
釣革にぶら下がってもよろしい。何でも手でにぎれる物がありさえすれば、木登りの
真似はできる。
游泳も海や
河へわざわざ行かなくても、ずいぶん
風呂桶の中でも、
我慢すれば泳げる。これを他のコートとかグラウンドとかがなければできぬような
不自由な運動にくらべれば、
国民一般の体育
法としてはるかにすぐれたものなることはもちろんである。
以上三種の運動はなお
特殊の
服装を
要せぬ。歩行には
日常の
衣服のままでよろしい。木登りにも、ただたすきをかけ、
尻をからげなどすれば和服でも
差支えはない。
游泳にはむろん何らの
服装をも
要せぬ。フットボールやベースボールに
熱中せる
連中のごとき、
胸に横文字の書いてある
奇妙な
襦袢を
造る
必要がないゆえ、見物人の注目を一身に集めて
得意がるような
心理的副作用も起こらず、
純粋に身体の
健康を進めるだけで、
老若男女ともにすこぶる安全にこれを行なうことができる。
なお
以上三種類の運動は一文も
費用がかからぬ。これが
国民全体の運動
法としてはきわめて
重要なことである。
一艘千円以上もかかるペンキ
塗りの細長いボートを
造って、わずかに六、七人の者が身体を動かすだけで、
残りの者はみな動かずに見物しているような、しかも一年のうち、大部分は
艇庫の中へ
仕舞い
込んでおくような
不経済きわまる運動
法に
比すれば、実に今日わが国のごとき
状態のところではほとんど
理想的の運動
法である。
以上は歩行、木登り、
游泳のほかの運動
法にすぐれた点の
限りなくある中から、わずかに二、三を
挙げただけである。次に今日
盛んに行なわれている
剣術、
柔術、
舶来の運動
法などを
批評して、
以上三種の運動
法に
比較すべきはずであるが、
批評は
文句を
充分に
精選せぬと悪口のごとくに
誤解せられるおそれがある。今はさようなことをなすべき時間がないゆえ、この方面は
暫時見合わせる。
(大正七年二月)
略字置換
'顛=