疑ひの教育

　我国（わがくに）維新（いしん）以後（いこう）の教育（きょういく）の進歩は実に目覚（めざ）ましいもので、其中（そのなか）でも初等（しょとう）教育は他の程度（ていど）の教育に比（ひ）して、遙（はるか）に優（まさ）つて居（い）るとは教育雑誌（ざっし）上で度々（たびたび）承（たまわり）り及（およ）ぶ所であるが、之（これ）は誠（まことに）に悦（よろこ）ばしい次第（しだい）である。然（しか）るに我（われ）らから見ると、今日の初等（しょとう）教育には一つ極（きわ）めて大切なことを全く忘（わす）れて居（い）るのではないかと思はれる点がある故（ゆえ）、此所（ここ）に聊（いささ）か、其（そ）の大要（たいよう）を述（の）べて見やう。
　現今（げんこん）の小学校で授（さず）ける課目（かもく）は何（いず）れも教師（きょうし）が教（おし）へ聞（き）かすことを其（その）まゝに児童（じどう）が信（しん）ずる仕組に成（な）つて居（い）る。修身（しゅうしん）のことは暫（しばら）く措（お）き、読本（とくほん）でも、地理でも、歴史（れきし）でも、又（また）は理科でも、書物に書いてあること、先生の話して聞かせることを其（その）まま児童（じどう）に信（しん）ぜしめる様な教授法（きょうじゅほう）を用ひて居（い）る如（ごと）くに見受ける。掛図（かけず）、標本（ひょうほん）、器械（きかい）などを教室に持ち出すことは有つても、之（これ）は、たゞ言葉で説明（せつめい）し足らざる所を補（おぎな）ふため、或（あるい）は教へ聞かす事柄（ことがら）を実物で示（しめ）すためであつて、詰（つ）まる所、児童（じどう）をして聞いたことを信（しん）ぜしめるための方便（ほうべん）物たるに過（す）ぎぬ。また問答法（もんどうほう）によつて生徒（せいと）に発言せしめることは有つても、実際（じっさい）は生徒（せいと）の口を借（か）りて教師（きょうし）の予期して居（い）る答を云（い）はせるのであるから、一種（いっしゅ）の八百長（やおちょう）とも見做（みな）すべきもので、時間を費（ついや）す割合（わりあい）には児童（じどう）をして頭脳（ずのう）を自発的（じはつてき）に活動せしめることが甚（はなはだ）だ少ない。要（よう）するに今日の初等（しょとう）教育に於（おい）ては、生徒（せいと）は聞かされて信（しん）ずるか若（も）しくは聞かされ見せられて信（しん）ずるか、何（いず）れにしてもたゞ信（しん）ずる様にのみ養成（ようせい）せられて、疑（うたが）うて掛（か）かる心の働（はたら）きを練（ね）るべき機会（きかい）が少しも与（あた）へられてない。我（われ）らが、特（とく）に不足（ふそく）に感ずるのは、此（こ）の点である。


　凡（およ）そ文明の進歩は発明発見の漸々（だんだん）重なり行く結果（けっか）であるが、発明発見は研究によつてのみ得（え）られるものである。而（しこう）して研究の始まりは先づ物に疑（うたが）ひを抱（だ）くことより起るのである。ワットでもニウトンでも普通（ふつう）の人々（ひとびと）が当然（とうぜん）のこととして少しも疑（うたが）はぬ様な尋常（じんじょう）な事件（じけん）に対して疑（うたが）ひ掛（か）けた故（ゆえ）に、大発明を為（な）し得（え）たのであつて、若（もし）し物を疑（うたが）ふ能力（のうりょく）が無（な）かつたならば、決して、発明発見は出来るものでなからう。一旦（いったん）物に対して疑（うたが）ひを起せば、之（これ）を解決（かいけつ）せんがためには研究せずには居（い）られず、研究の結果（けっか）、疑問（ぎもん）の解決（かいけつ）を得（え）れば、此所（ここ）に一種（いっしゅ）云（い）ひ難（がた）き愉快（ゆかい）を感ずる。放（はな）つた矢が的（まと）に中つても、投げた球が覗（うかが）うた所へ行つても、総（す）べて思うたことが実現（じつげん）すれば、勝利（しょうり）の愉快（ゆかい）を感ずるのは人間の天性（てんせい）であつて、少年雑誌（ざっし）の謎（なぞ）や考へ物を子供（こども）等が喜（よろ）ぶのも皆（みな）この故（ゆえ）であるが、況（ま）して自分の研究に依（よ）つて、他人の未（いま）だ解決（かいけつ）し得（え）なかつた疑問（ぎもん）を解決（かいけつ）し得（え）た場合には、其（そ）の愉快（ゆかい）も極（きわ）めて大なるべきは云（い）ふを待たぬ。此（こ）の種の愉快（ゆかい）の味を覚（おぼ）え、此（こ）の愉快（ゆかい）を追うて研究を一種（いっしゅ）の楽みとする人々が殖（ふ）えれば、自然（しぜん）その中から必（かなら）ず発明発見をする人も出て来る訳（わけ）である故（ゆえ）、自己（じこ）の民族（みんぞく）の文明を進めんとするには、初等（しょとう）教育に於（お）て、已（いまだ）に物に疑（うたが）ひ掛（か）ける心の働（はたら）きを養（やしな）ひ育てることは極（きわ）めて大切であらう。特（とく）に現今（げんこん）の我国（わがくに）の如（ごと）き一等国と云（い）ふ虚名（きょめい）のために他国の嫉（そね）みを受け、人種（じんしゅ）的（てき）の憎悪（ぞうお）のために、今後益々（ますます）困難（こんなん）なる位置（いち）に陥（おちい）るやも知れざる所に於（お）て、他国に優（まさ）る程度（ていど）に文明を進めんとするには、一般（いっぱん）の研究心を奨励（しょうれい）することが何よりも急務（きゅうむ）であるが、其（その）ためには先づ幼年（ようねん）の頃（ころ）から何物に対しても先づ疑（うたが）うて掛（か）かり、研究によつて、其（そ）の疑（うたがい）を解（と）くと云（い）ふ習慣（しゅうかん）を養（やしな）ふことが必要（ひつよう）であらう。


　一体子供（こども）は何に対しても疑（うたが）ひを起し、父母に向ひ絶（た）えず種々（しゅしゅ）の問を発して困（こま）らせるものであるが、また如何（いか）なる答をも容易（ようい）に信（しん）じて直に満足（まんぞく）するものである。例（たと）へば雷（かみなり）を聞けば、何故（なぜ）に鳴るかと疑（うたが）ひを起して母に尋（たず）ねるが、鬼（おに）が雲の上で太鼓（たいこ）を擲（たた）いて居（い）ると聞かされれば、それでも満足（まんぞく）する。斯様（さよう）に子供（こども）の心には疑（うたが）ふ働（はたら）きと信（しん）ずる働（はたら）きとが有る故（ゆえ）、導（みちび）きやうに依（よ）つては、疑（うたが）ふ働（はたら）きを発達（はったつ）せしめることも出来れば、また何事をも信（しん）ずる習慣（しゅうかん）を附（つ）けることも出来る。若（も）し初等（しょとう）教育に於（お）て、単（たん）に信（しん）ずる方ばかりの習慣（しゅうかん）を附（つ）けると、疑（うたが）うて掛（か）かる働（はたら）きは次第（しだい）に衰（おとろ）へて何物でも研究せずには置かぬと云（い）ふ精神（せいしん）の根柢（こんてい）が亡（ほろ）びて仕舞（しま）ふから将来（しょうらい）の民族（みんぞく）発展（はってん）の上には之（これ）ほど不（ふ）得策（とくさく）なことは無（な）いと考へる。
　初等（しょとう）教育に於（お）ては、宜（よろ）しく、信（しん）ずる働（はたら）きと疑（うたが）ふ働（はたら）きとを何れも適当（てきとう）に養（やしな）ふことが必要（ひつよう）である。疑（うたが）ふべき理由の有ることは何所までも疑（うたが）ひ、信（しん）ずべき理由を見出したことは確（たしか）に之（これ）を信（しん）じ、決して疑（うたが）ふべきことを疑（うたが）はずに平気で居（い）たり、また信（しん）ずべき理由の無（な）いことを軽々しく信（しん）じたりすることの無（な）い様に脳力（のうりょく）の発達（はったつ）を導（みちび）くのが、真の教育であらう。或（あ）る筋（すじ）の人々に都合のよい様な信仰（しんこう）を子供（こども）等（ら）に強（し）ひるためには、疑（うたが）ひの教育は無論（むろん）禁物（きんもつ）であるが、他国の子供（こども）ならば、当然（とうぜん）疑（うたが）ひを抱（だ）いて、盛（さかん）に質問（しつもん）を発するであらうと思はれる如（ごと）き無稽（むけい）な事柄（ことがら）に対しても、毫（すこし）も疑（うたが）を起させぬ様な教育は、将来（しょうらい）の進歩を阻害（そがい）する頗（すこぶ）る有害（ゆうがい）な教育と云（い）はねばならぬ。たゞ信（しん）ぜしめることにのみ力を尽（つく）して、疑（うたが）はせることを全然（ぜんぜん）避（さ）ける如（ごと）き傾（かたむ）きが有つては、決して完全（かんぜん）なる教育とは名づけられぬ。


　疑（うたが）ふ働（はたら）きを押（お）さへ付（つ）けて、信（しん）ずることのみを強（し）ひ続（つづ）けると、児童（じどう）の脳中（のうちゅう）にある疑（うたが）ふ働（はたら）きの中枢（ちゅうすう）が退化（たいか）して、終（つい）には何事をも疑（うたが）はず、直に信（しん）ず様に成（な）り易（やす）い。筋肉（きんにく）が長く休むと、退化（たいか）して力が弱く成（なる）る如（ごと）くに、脳中（のうちゅう）の各部（かくぶ）も長く働（はたら）かさずに置（お）けば、退化（たいか）するを免（まぬが）れぬであらうから、初等（しょとう）教育の期限（きげん）中、常（つね）にたゞ信（しん）ずる方のみ働（はたら）かせて居（い）る間には、疑（うたが）ふ方の働（はたら）きは全く退化（たいか）して、終（つい）には如何（いか）なる馬鹿（ばか）げた事でも自分の尊敬（そんけい）する人から説（と）き聞かされると、直ちに之（これ）を信（しん）ずる様に成（な）る傾（かたむ）きが生ずる。之（これ）は、或（あ）る方面から見れば、頗（すこぶ）る都合の好（よ）いことであらうが、国民（こくみん）の研究心を増進（ぞうしん）せしめたいと思ふ者から考へると、極（きわ）めて不利益（ふりえき）なことである。明治（めいじ）も已（すで）に四十五年となつて、我（われ）らの如（ごと）き明治（めいじ）生まれの者も追々（おいおい）白髪（じらが）が生（は）へる時代と成（な）つたのであるから、若（も）しも今までの初等（しょとう）教育に於（お）て常（つね）に疑（うたが）ひの教育に注意して居（い）たならば、今頃（いまごろ）は世間一般（いっぱん）の人々（ひとびと）も余程（よほど）疑（うたが）ふ働（はたら）きが発達（はったつ）して、軽軽しく愚説（ぐうせつ）を信（しん）ぜぬ様に成（な）つて居（い）るべき筈（はず）であるに、実際（じっさい）は丁度（ちょうど）その反対で、甚（はなは）だしい迷信（めいしん）者が甚（はなは）だ多く、特（とく）に近年に至（いた）つて、却（かえ）つて著（いちじる）しく増加（ぞうか）したかの如（ごと）くに見える。大遠忌（だいおんき）とか開帳（かいちょう）とか云（い）へば全国から無数（むすう）の人が集まつて来て夥（おびただ）しい賽銭（さいせん）を捧（ささ）げ、稲荷（いなり）様へ詣（まい）つて見ると、相変（あいかわ）らず狐（きつね）の穴（あな）の前に油揚（あぶらげ）を並（なら）べ、跪（ひざまづ）いて頭を地面に磨（す）り付（つ）けて居（い）る人々が少なからず有る。銀座（ぎんざ）の某（ぼう）と云（い）ふ売卜者（ばいぼくしゃ）が詐欺（さぎ）で捕（とら）へられても、電車内の占（うらない）の広告（こうこく）は一向に減（へ）り相（そう）もない。信（しん）ずべき相当の理由の無（な）いことを猥（みだ）りに信（しん）ずる迷信（めいしん）の程度（ていど）に至（いた）つては、今日の多数の人間は貝塚（かいづか）を造（つく）つた石器（せっき）時代の人間に比（くら）べて、優（まさ）るとも決して劣（おと）らぬ様である。今は昔に比（ひ）すれば学校も殖（ふ）え、生徒（せいと）も多くなり、学齢（がくれい）児童（じどう）の九割九分（きゅうわりきゅうぶ）は就学（しゅうがく）し、イロハの読めぬ人間は殆（ほとん）ど一人も無（な）くなつたと云（い）ふことは、慥（たしか）に教育の進歩であるが、之（これ）は悉（ことごと）く覚（おぼ）えしめ、信（しん）ぜしめる側（がわ）の教育であつて、疑（うたが）ひの教育の側（がわ）から見ると、石器（せっき）時代から今日まで三千年の間に何程（なにほど）の進歩をなしたか、頗（すこぶ）る疑（うたが）はしく思はれる。


　以上（いじょう）述（の）べた通り、現今（げんこん）の初等（しょとう）教育では疑（うたが）ひの教育が全く捨（す）てられてあつて、其（そ）の結果（けっか）として明治（めいじ）の教育を受けた人間も、大多数は当然（とうぜん）疑（うたが）ふべき事柄（ことがら）に対しても少しも疑（うたが）ひを起さぬまでに疑（うたが）ひの働（はたら）きが鈍（にぶ）く成（な）つて居（い）る。疑（うたが）はぬ故（ゆえ）に研究して見やうと云（い）ふ心も起らず、研究せぬ故（ゆえ）に発明も発見も無（な）い。我（わ）が民族（みんぞく）の将来（しょうらい）の発展（はってん）を図（はか）るには、此（こ）の有様は決して、捨（す）て置（お）くべきものではない。必（かなら）ず之（これ）を改（あらた）めて、疑（うたが）ひの働（はたら）きを盛（せい）ならしめ、総（す）べての方面に独創的（どくそうてき）の研究の行はれる様にと大に務（つと）めねばならぬ。
　さて、疑（うたが）ひの教育を施（ほどこ）すには初等（しょとう）教育に於（お）ては、何課（なにか）に於（お）てするが最（もっと）も適当（てきとう）であるかと云（い）ふに、理科が之（これ）に適（てき）するは云（い）ふまでもないが、必（かなら）ずしも理科の時間に限（かぎ）つた訳（わけ）はない。綴（つず）り方でも、図画でも、手工でも、読み方でも、受持教員の導（みちび）きやうに依（よ）つては、常（つね）に幾分（いくぶん）かづゝ疑（うたが）ひの働（はたら）きを練（ね）つて熟達（じゅくたつ）させることが出来る。我（われ）らの考へによれば、児童（じどう）の疑（うたが）ひの働（はたら）きを練るには、先づ児童（じどう）をして疑（うたが）ひを起（おこ）さしめ、児童（じどう）の疑（うたが）ふ事柄（ことがら）に対しては教師（きょうし）も児童（じどう）と同様に疑（うたが）ひ居（い）る如（ごと）き態度（たいど）を取り、種々（しゅしゅ）工夫（くふう）を凝（こ）らし一々（いちいち）実物に就（つ）き実験（じっけん）して、一歩々々（いっぽいっぽ）研究を進め、終（つい）に其（そ）の解決（かいけつ）に達（たっ）する如（ごと）き方法（ほうほう）を取つたらば宜（よろ）しからう。総（す）べて疑（うたがい）なるものは、一回の解決（かいけつ）で消え去るものではなく、一つの疑問（ぎもん）が解（と）ければ更（さら）に次なる疑問（ぎもん）が起り、研究を進めれば進めるだけ、次第次第（しだいしだい）に疑問（ぎもん）は拡（ひろ）がり殖（ふ）えて行く故（ゆえ）、一の疑（うたが）ひを取り扱（あつか）ふた後には、直に其（そ）の次の段（だん）にある疑（うたが）ひを起すやうに児童（じどう）を導（みちび）き、常（つね）に斯（か）く為（な）し続（つづ）ければ、児童（じどう）は絶（た）えず疑（うたが）ふ働（はたら）きを練磨（れんま）して、終（つい）には何事をも軽々しく妄信（もうしん）せぬ習慣（しゅうかん）が生ずるであらう。


　人間の社会は長い間の歴史（れきし）の結果（けっか）として、極（きわ）めて複雑（ふくざつ）な性質（せいしつ）のもの故（ゆえ）、その秩序（ちつじょ）安寧（あんねい）を保（たも）つためには、或（あ）る事項（じこう）に就（つ）いては全く疑（うたが）ひを許（ゆる）さぬを便（べん）とする場合もあらう。また、若干（じゃっかん）の事柄（ことがら）に関（かん）して、疑（うたが）ひの意を仄（ほの）めかすことさへも厳禁（げんきん）する必要（ひつよう）があると考へる人もあらう。併（しか）しながら、此等（これら）の方面に疑（うたが）ひを起さしめぬ為（ため）に、疑（うたが）ひの働（はたら）きを全然（ぜんぜん）押（お）さへ付（つ）けて、其（そ）の発達（はったつ）を阻害（そがい）することは、大に慎（つつし）まねばならぬ。或（あ）る事柄（ことがら）を教師（きょうし）の説（と）く通りに信（しん）ぜしめようと努（つと）めれば、之（これ）に伴（ともな）うて、他の方面に於（お）ても、聞いたまゝ、読んだまゝの事を其（そ）の通りに信（しん）ずる癖（くせ）が生ずるであらうが、之（これ）は文明の進歩のためには頗（すこぶ）る有害（ゆうがい）である。多くの実例（じつれい）に就（つ）いて考へるに、軽々（かるがる）しく物を信（しん）ずる癖（くせ）のある人は、今まで信（しん）じ来つた事の真ならざるに気が附（つ）いた場合には、直ちに他の極端（きょくたん）に走つて、此度（こんど）は今まで信（しん）じ来つたのと正反対の事を妄信（もうしん）するに至（いた）り易（やす）い。それ故（ゆえ）に、初等（しょとう）教育で何事をも悉（ことごと）く信（しん）ずるやうに教へられ来つた者が、卒業（そつぎょう）後社会に出て、嘗（かつ）て学校で教へられた事は悉（ことごと）く便宜上（べんぎじょう）の虚偽（きょぎ）であつたことに気が附（つ）くと、直に他の極端（きょくたん）に走つて、伝来（でんらい）の制度（せいど）に総（す）べて反抗（はんこう）する如（ごと）き思想を抱（だ）くに至（いた）るの虞（おそれ）が多い。若（も）し初等（しょとう）教育の頃（ころ）から、適宜（てきぎ）に疑（うたが）ひの教育を施（ほどこ）して疑（うたが）ひの働（はたら）きを発達（はったつ）させて置（お）いたならば、卒業（そつぎょう）後に実社会の現状（げんじょう）を見たり、近代の外国文学の飜訳（ほんやく）物を読んだりして起る反動が却（かえ）つて緩（ゆる）かで、所謂（いわゆる）穏健（おんけん）な思想を養（やしな）ふにも都合が宜（よろ）しいかも知れぬ。
　さて、疑（うたが）ひの教育の必要（ひつよう）なることは前に述（の）べた通りであるが、児童（じどう）に疑（うたが）ひの教育を授（さず）けるには、教師（きょうし）は無論（むろん）疑（うたが）ひの教育を卒業（そつぎょう）した者でなければならぬ。初等（しょとう）教育に於（お）て疑（うたが）ひの教育を受けた者が、更（さら）に中等程度（ていど）の学校に進み其（そ）の程度（ていど）に適（てき）した疑（うたが）ひの教育を受け、斯（か）くして、充分（じゅうぶん）に疑（うたが）ひの働（はたら）きの発達（はったつ）した者が、初等（しょとう）教育に教鞭（きょうべん）を執（と）ると云（い）ふやうな世の中に成（な）つたならば、或（あるい）は小学校の児童（じどう）に有効（ゆうこう）なる疑（うたが）ひの教育を施（ほどこ）し得（え）るのみならず、所謂（いわゆる）教育上の学説（がくせつ）なるものに対する態度（たいど）も今日とは違（ちが）うて、何の学説（がくせつ）とか誰（だれ）の主義（しゅぎ）とか紹介者（しょうかいしゃ）のある毎（ごと）に約（やく）六ヶ月づつ之（これ）を循環（じゅんかん）崇拝（すうはい）する如（ごと）き軽佻（けいちょう）な態度（たいど）は全く跡（あと）を絶（た）つて静（しずか）に、而（しか）も有効（ゆうこう）に教育の学と術（じゅつ）とを進歩せしめることが出来るであらう。