我らの哲学

丘浅次郎



一 はしがき


 このたび本書の新版しんぱんを出すにあたって、書肆しよしからなるべく多く追加ついか原稿げんこうをそろえてつけるようにとの要求ようきゅうを受けたが、前版ぜんはん以後いごにおりおり雑誌ざっし上にかかげた文はべつに「煩悶はんもんと自由」と題して、最近さいきん出版しゅっぱんしたゆえ、本書に追加ついかすべきものはほとんど一つものこっていない。ただしせっかく新版しんぱんを出すにあたって、全く旧版きゅうはんのままにしておくことは、なんとなく思想発表の好機こうきいつするような心持ちをきんじえぬゆえ「煩悶はんもんと自由」の終りにとく一篇いっぺんを書きそえたれいになろうて本書にも新たに一文を書きつづって巻末かんまつ追加ついかすることとした。
 ここに「われらの哲学てつがく」という題目をえらんだが、これは決して今日新たに思いついたものではない。実は今より三十六年も前からゆめみていたことで、いつか一度は自身の考えの全部を一つの哲学てつがく系統けいとうとして整理してみたいとの希望きぼうは、すでにそのころからわれらの胸中きょうちゅうにあった。また、ある時は「孤独こどく遺書いしょ 想邪そうじゃ話」という表題で、世人が理由をたずねず、ただ言い聞かされるままにしんじている事柄ことがらを、根柢こんていからり返してろんじてみようかなどと考察こうさつをめぐらしたこともあった。これらはいずれもわかい時の空想にぎず、今日となってはもはやそのようなものができぬは明らかであるが、われらの思想の基礎きそ観念かんねんは今日といえども少しもわらず、かつこれまでに読んだ少数の哲学てつがく書には、それと全く同じような考え方はどこにも見当たらなかったゆえ、次にひととおりその要点ようてんだけをべ、それを基礎きそとした物の見方をいくつかげておこう。
 われらは今日までに何冊なんさつかの哲学てつがく書を読んでみた。中にはおもしろいと思うて数回読み返したものもある。しかるに一冊いっさつとしてそのまま取って自分の哲学てつがくとすることのできたものはない。これはおそらく読む前から自分自身の哲学てつがくを持っていたからであろう。徳利とっくりでもからのものには水を注ぎ入れることができるが、水がいっぱいにはいっている徳利とっくりにはもはや水がはいらぬごとく、自身にすでに一人分の哲学てつがく貯蔵ちょぞうしている者は他人の哲学てつがくを読んでみても、ただ面白おもしろいとかつまらぬとか感ずるだけで、決してそれによって、自分の思想界を占領せんりょうせらるるごときことはない。われらの哲学てつがく骨子こっしは次の三節さんせつべるとおりであるが、かようなことを考え始めてからのちは、何物を見ても何事を聞いても、いつもかならずその見地から判断はんだんを下し、今日にいたるまで、物の考え方ははなはだしくわらなかった。われらがいかなる書物をも鵜呑うのみにすることができず、いかなる学者をも崇拝すうはいするにいたらなかったのは全く自分の哲学てつがく尺度しゃくどとして、他人のせつ寸法すんぽうはかったからである。また実際じっさいらしてみても、われらの哲学てつがくから見てあやまっていると思われるせつは、たとえ一時世間から持てはやされることはあっても、時のるにしたがいそのあやまりなることが暴露ばくろしたものがすこぶる多い。それに反しわれらの哲学てつがくもとづいて立てたろんは、その当時はげしく駁撃ばくげきせられたにかかわらず、後にいたって着々事実によって証明しょうめいせられた。さればわれら自身からみれば、われらの哲学てつがくがむろん一番正しいもののように思われるが、さらにひるがえって身を第三者の位地ちいにおいて側面そくめんから観察かんさつすると、自分の哲学てつがくだけが正しくて他の哲学てつがくはことごとくあやまっているとかたしんじている人間が何千人も何万人もいる中に、自分もその一人としてわっているにぎぬゆえ、正しいくじを引き当てるプロバビリテは実に薄弱はくじゃくであることを充分じゅうぶん承知しょうちせざるをえない。

二 出発点


 哲学てつがくは先から先へと連続れんぞくした思想の一系統けいとうであるが、多くの哲学てつがく者はまず議論ぎろんの出発点となるべき基礎きそさがもとめ、それを土台としてその上に理屈りくつきづき上げようとつとめる。かわに鉄橋をかけるときには、橋杭はしぐいをだんだん深くまで打ちみ、もはや決して下るところのない堅固けんごな岩にたつすると、それで安心して、くいの上に橋桁はしげたをおいたり、欄干らんかんをつけたりするが、これはもっとも千万なことで、土台の定まらぬ間は、もちろん重い物をその上にむことはできぬ。すなの上に楼閣ろうかくきづかれぬはだれも知っているとおりである。哲学てつがく者もこれに見習うたものか、まずしてもたたいても決してらぐことのないようなある物をもとめ、これを考えの基礎きそに用いようとするが、たいがいの物はうたがえばうたがえるもので、ありと思えばあり、ないと思えばないとも言えるゆえ、決してうたがうことのできぬというような物をしいてもとめると、結局けっきょくはデカルトのごとくに「われは考える、ゆえにわれはある」というようなところにたつする。十人十色で物の考え方は一人一人にちがうても、何か動かぬ基礎きその上に考えの一系統けいとうを組み立てようとよくすることはほとんどすべての哲学てつがく者に共通きょうつうの心理であるようにみえる。ところがわれらの考えによるとこれが多くの誤謬ごびゅうみなもとである。
 物は何でも手近にあるほどたしかに知ることができる。たとえば物の大きさをはかるにしても、つくえや本箱ならば物差ものさしをじかに当てることができるゆえ、その物差ものさしのしめ程度ていどにおいてはすこぶる正確せいかくはかれる。すなわち幾人いくにんはかっても、何度はかっても結果けっかはまず同一であって、同じつくえが二しゃくすんになったり二しゃくすんになったりすることは決してない。しかるに道路の長さをはかる場合には、長い物差ものさしを一度に当ててはかるわけにはゆかぬゆえ、比較ひかくてきはなはだ短い物差ものさしで一小部分ずつをぎにはかり、のちにこれを合計して全部の長さを出さねばならぬが、わずかにこれだけの手数がかかってももはやその結果けっかはやや正確せいかくでなくなり、二度はかれば二つ、三度はかれば三つのあいことなった長さが出るゆえ、結局けっきょくはこれを平均へいきんした長さを採用さいようしておくよりいたし方はない。物差ものさしをじかに当てずに他の方法ほうほうによって測量そくりょうする場合には、手数を重ねることがさらに余計よけいになるだけ、正確せいかく程度ていどがさらにげんずる。富士ふじの山の高さが海面上一万何千何しゃくと何すん何分というような計算が出ても、最後さいごの三けたか四けたは実は何の意味もない。ガリバー探険たんけん物語にある学者の国のごとくに仕立て屋が六分儀ろくぶんぎ水準器すいじゅんきを持ち出し、角度からり出して仮縫かりぬいいの寸法すんぽうを取るようではいかなる洋服ができ上がるか分からぬ。
 小さなほうもこれと同様で、じかに物差ものさしの当てられぬ場合には間接かんせつ測定そくていほうによらねばならぬが、方法ほうほう間接かんせつであればあるだけ、結果けっか正確せいかくにならざるをえない。さい高度の顕微鏡けんびきょうでなければ見えぬような微細びさいなバクテリアの長さが〇・〇〇三五ミリメートルあるとか、顆粒かりゅう直径ちょっけいが〇・〇〇〇八ミリメートルあるとか書いてあるが、実際じっさいにこれをはかるにあたっては、実物からきた光線も、ミクロメートルからくる光線もいくつものガラスを通って屈折くっせつし、いくつものかがみに当たって反射はんしゃしてくることゆえ、どこに少しのあやまりがあってもじきに結果けっかくるうて、決して正確せいかくなことが知られぬわけである。まして幾回いくかいも数字をせたり、引いたり、けたり、ったりして、ようやく出てきた計算の結果けっかである場合には、その正確せいかく程度ていどは大いにあやしいものと考えねばならぬ。物の目方のごときもそのとおりで、牛肉を一きんとか、パンを半斤はんきんとかいうときにはまずあやまりはないが、地球の重さが何千何百万トンなどという計算になると推測すいそく仮定かてい幾段いくだんもくぐつてきているゆえ、どのくらいまでしんじてよろしいやらほとんど見当がつかぬ。
 その他、空間においても、時間においても、また原因げんいん結果けっか連鎖れんさかんしても、もっと正確せいかくに知ることのできるのはいつも自身にもっとも近く、かつ取扱とりあつかいにもっとも手ごろな部分だけにかぎられる。目の前に見えるところにくらべると、かくれたところはよく分からず、遠くて見えぬところはさらによく分からぬ。町をへだて国をへだてれば、遠ざかるだけ、知りうることが正確せいかくでなくなる。実際じっさい行なわれていることはただひととおりよりないことが明らかであるにかかわらず、その報道ほうどうは実に区々まちまちである。何某なにぼう過激派かげきはのためにとらえられたと言うかと思えば、すでに国境こっきょうえて某所ぼうしょにかくれているとく者がある。某所ぼうしょのストライキが無事ぶじ落着らくちゃくしたとほうずる者があれば、また一説いっせつには、なおますますさかんで、いつおさまるか見込みこみが立たぬと言うている。同一の人間が同時に二ヵ所にいることはできず、同一のストライキが同時におさまりかつさかんになることは可能かのうであるゆえ、いずれか一方はあやまりにちがいないが、距離きょりが遠いとこれを鑑別かんべつすべき道がない。時間についてもこれと同じく、昨日きのうや今日のことならば真偽しんぎを見分けるみちもあるが、古い昔のことになると、あったことやらなかったことやら容易よういに分からぬ。長い間だれもがたしかに生きていたとしんじていた有名な人物が歴史れきし家の研究の結果けっか、実はいなかった人であると抹殺まっさつせられることさえしばしばある。まどの下をんで歩く号外売りの言うことが区々まちまちであるのを聞いて、今日起こった事件じけん報知ほうちでさえ、かくさまざまである以上いじょうは、昔の話などはとうてい当てになるものでないと言うて、手に持っていた歴史れきしの書物をやぶてた人があるというが、現在げんざいからへだたればへだたるほどその時にかんする知識ちしき正確せいかくであるはやむをえない。すでにすんだ過去かこでさえそのとおりであるから、これからのちの未来みらいかんして予想てき知識ちしき確実かくじつであるべきはもとよりいうにおよばぬ。
 かくのごとく人間の有する知識ちしきなるものは、自身に接近せっきんしたところがいちばんたしかであって、自身から遠ざかるにしたがいだんだんと正確せいかくになり、一定の距離きょりえれば全く皆無かいむとなる。そのありさまはあたかも暗夜あんや提燈ちょうちんを下げて立っているにことならぬ。光は発光体から遠ざかるにしたがい、距離きょり自乗じじょうに反比例ひれいして力がげんずるが、知識ちしき確実かくじつさの程度ていどもおそらくこれと同じか、あるいはそれよりもなおいっそうはなはだしい割合わりあいで、自身から遠ざかるだけげんじてゆくごとくに思われる。とく原因げんいん結果けっかくさり手繰たぐって、先から先へと考えを進めてゆく場合には、くさりからうつりゆくたびごとにあやまりのすべり入るべきすきがあるゆえ、いくつかの手繰たぐっている間にはずいぶん多くのあやまりがずるをけられぬ。かり推理すいり一段いちだんごとに一わりあやまりがはいりむと想像そうぞうしても、五段目だんめにはやく半分のあやまりをふくむことになるが、たいがいの場合にはあやまりのりょうはなかなか一わりくらいではすまぬゆえ、二だんだんことわりしていると、当人の知らぬ間にほとんど全部があやまりとなり終わるおそれがある。さてかように考えながら従来じゅうらい哲学てつがく書を読んで見ると、いずれも出発点のえらみ方をあやまっているように思われる。議論ぎろんの立て方は人びとによってまったくちがうが、いずれの哲学てつがく者も推理すいりによって先から先へと考えみ、かくしてようやく到着とうちゃくしえたところを基礎きそとして、その上に一組の議論ぎろん系統けいとうきづき上げようとしている。しかるにわれらのごとく、人間の知識ちしきなるものはあたかも闇夜やみよ提燈ちょうちんと同じく、ただ近いところが見えるだけで、遠いところほど光があやしくなると考えるものから見ると、これは全く順序じゅんじょ転倒てんとうしたやり方で、一番確実かくじつなところに土台をおいて、それによって万事を了解りょうかいしつくそうと苦心しているのである。しこうしてなぜそのようなおろかなことをなすのかというに、その理由はたしかに類推るいすいあやまりにあるらしい。すなわち前にべた鉄橋、その他の土木建築けんちくでは、まず土台をかためてすべての物をその上にみ上げるが、人間の知識ちしきもその流儀りゅうぎでゆかねばならぬと思いんだゆえである。われらはかような考え方の哲学てつがく総括そうかつして橋杭はしぐい哲学てつがくと名づけるが、実際じっさい橋杭はしぐいのほうは深く打ちむほど堅固けんごになり、ついには土台の岩石にたつするに反し、哲学てつがく橋杭はしぐいは深く打ちむほど確実かくじつせいげんじ、ついには雲をつかむごときことになるゆえ、かれとこれとを同様にくらべるのは大きなまちがいである。今後の哲学てつがくは、よろしく出なおしてまず提燈ちょうちんの光のもっとも明るいところを出発点とし、それより次第しだい半径はんけいをのばして周囲しゅういの暗黒界に知識ちしき領分りょうぶんをひろげゆくようにとつとめねばならぬ。
 しからば光のもっとも明るいところとはどこかというに、われらの考えによれば、これはいまだ哲学てつがくなどにとらえられぬ子供こどもの心である。哲学てつがくなどを考えぬ前の子供こどもたちがだれもあるとしんじていることは、まずあると見なしてかかり、あるともないともまるで問題にしていないことは、まず問題にせずにておき、かような状態じょうたいを出発点として、次第しだい知識ちしき増補ぞうほしたり、あやまりを正したりしてゆけば、おそらくはなはだしい誤謬ごびゅうにおちいらずに進んでゆくことができよう。子供こどもらには自分の目の前の見えている人が、はたして真にいるものか、それとも、ただ自分がかく感ずるだけで、実際じっさいにはその人は存在そんざいしておらぬのではなかろうかなどとむだなことに頭をなやます者は一人もない。目の前に見える人間はたしかにそこにいるとしんじて、これについてうたがうてかかるような隙人ひまじんがあろうとはゆめにも思わずにいる。青い木でも、赤い花でも、かたい石でも、やわらかい豆腐とうふでも、みな、見えたとおりのその物がたしかにそこに存在そんざいしているとかたしんじて少しもうたがわぬ。提燈ちょうちんの光のもっとも明るいところはすなわちここである。何をしんじ何をうたがうかは人々の勝手であるが、われらから見れば、子供こどもらのこの状態じょうたいのほうが幾段いくだん推理すいりを重ねた哲学てつがく者の結論けつろんよりもはるかにあやまりをふくむことが少ないように感ずる。天国に入るには子供こどもの心に立ち帰らねばならぬとキリストはいたが、哲学てつがくにはいるにも、いったんまず哲学てつがくなどを考えぬ子供こどもの心に立ち帰りさらにあらためて出なおす必要ひつようがあろう。八幡やはたやぶ知らずでみちまようて行きづまった場合には後へもどってべつの道をこころみるよりほかにいたし方がないごとく、哲学てつがく者も一度入り口までもどって、べつの出発点から新たに研究を始めるのが得策とくさくではなかろうか。われらの哲学てつがく子供こどもの心を出発点とし、それより上下、左右、前後に考えをひろげてゆくことを主張しゅちょうするだけで、べつ確固かっこ不抜ふばつ基礎きそもとめぬゆえ、土台を持たぬという点からは、あるいは風船哲学てつがくと名づけてもよろしいが、考えて見れば、地球自身も一種いっしゅの風船にぎぬから、従来じゅうらい橋杭はしぐい哲学てつがくにくらべても何も遠慮えんりょしておるにおよばぬと思う。

三 方法ほうほう


 さて、出発点だけはまず子供こどもの心と定めたが、それより少しずつ半径はんけいをのばしてだんだん周囲しゅういのほうに考えをひろげてゆくには、いかなる方法ほうほうによるかというに、われらの考えによると、ここにもっとも注意せねばならぬのは言葉の羈絆きはんからだつするということである。今の人間は言葉を用いてでなければ物が考えられぬゆえ、言葉の羈絆きはんからだつするというても実は程度ていどの問題であって、絶対ぜったいだつすることはもとよりのぞまれぬ。しかしながらはじめからその心持ちで言葉を使用したならば、いくぶんか自由に考えることができよう。前に考えの出発点を子供こどもの心におくがよろしいと言うたが、それから徐々じょじょと考えを進めてゆくにあたっても、まず一度は子供こども境遇きょうぐうまで立ちもどり、子供こどもが言葉を用いると同様の態度たいどで言葉を用い、その後はただ必要ひつようなだけ新たな言葉を追加ついかしてゆけば、余計よけいあやまりを引き入れずにすますことができよう。よくをいえば言葉などのまだなかった時代まで一度立ちもどって、さらに出なおして全く言葉などの助けをりずに考えることができたならば、もっともみょうであるが、これは少し無理むりな注文のようであるから、せめては言葉にとらわれることのいまだあさ子供こどもの言葉のつかい方をまねて、どこまでも言葉にとらえられぬようにと注意しながら考えを進めてゆかねばならぬ。
 言葉にとらえられたために起こるまちがいの第一は、境界きょうかいのないところに境界きょうかいありと思いあやまることである。元来物の名前は他と区別くべつするためにつけられたものゆえ、差別さべつもとづいているはいうまでもない。たがいに相違そういのある物を一つ一つにべつの名をつけてぶことは日々の生活上、便利べんりでもあり必要ひつようでもある。子供こどもが言葉を用いるにあたっては、ただ差別べつをいいあらわすだけで、べつ境界きょうかいがあるかないかは考えていない。はらいたむとか、がかゆいとか、足をくじいたとか、ひざをすりむいたとかいうて、不便ふべんなく意を通じているだけで、はらとはどこからどこまでをいうか、はらとのさかいはどこにあるか、どこまでがひざ領分りょうぶんでどこから先が、足の範囲はんいかというようなことはまるで考えずにいる。子供こどもは物の名をたんに他と区別くべつするための方便ほうべんとして用いているが、こうしている間ははなはだしいあやまりは生ぜぬ。しかるに人間が哲学てつがくをやり始めると、そのままでは承知しょうちせず、かならずひとつひとつの言葉に定義ていぎを下さずにはおかぬが、これはよくよく誤謬ごびゆうの始まりである。なぜというに定義ていぎつくることはすなわち境界きょうかいのないところに便宜べんぎ境界きょうかいを定めることであるが、これを用いつづけている間にはかかる境界きょうかいはじめから存在そんざいしていたかのごとくに思いみやすい。解剖かいぼう学の書物を開いて見ると人体の表面を若干じゃっかん区域くいきに分け、赤い線でいちいち、その境界きょうかいを画き、上腹じょうふく区、中腹ちゅうふく区、下腹かふく区、乳腺にゅうせん区、胸骨きょうこつ区、前頸ぜんけい区などとかく区域くいき名称めいしょうがつけてあるが、実物の人体の表面にはむろん何のさかいもない。いかにていねいにさがして見ても、上腹じょうふく区と中腹ちゅうふく区との間にも中腹ちゅうふく区と下腹かふく区との間にも、判然はんぜんたる境界きょうかい線は決して見いだされぬ。そのありさまはいかに地面をさがしても下谷区したやく浅草あさくさ区との境界きょうかい線がなく、いかに隅田川すみだがわそこを調べても日本橋区と本所ほんじょ区との境界きょうかい線が見当たらぬのにひとしい。さればくびとはどこからどこまでを言うか、うでとはどこからどこまでを言うかとたずねられると、解剖かいぼう書の図版ずはんの上では答えられても、実物をきつけられてはたちまち閉口へいこうする。かような次第しだいで、およそ物の名前の定義ていぎは、みな、人間が自身の都合で勝手に境界きょうかいを定めたものにぎぬが、実物のある場合には、このことはただちに知れる。これに反して実物について検査けんさしてみる便宜べんぎのない抽象ちゅうしょうてきの言葉であると、自分でつくった境界きょうかい線が真にそこにあるごとくに考えるくせがついて容易よういなことではこれがけぬが、これはすでに言葉にとらえられている徴候ちょうこうである。自分の地面ととなりの地面との間には明らかな境界きょうかい線を定めておかねば気がすまず、わが国ととなりの国との間にはみぞってさかいをあきらかにしておかぬと安心ができぬが、この心持ちが、言葉の方面にもはたらいて一つ一つの言葉の間に繩張なわばりをしておかぬと、観念かんねんの整理ができぬごとくに感じ、なにはさておいても言葉の定義ていぎつくることにほねるのであろう。しこうして、いったん、おのおのの言葉の領分りょうぶんの間に繩張なわばりをすると、後にはこれにとらえられて、繩張なわばりのあるところにはかならずこれに相当する自然しぜん境界きょうかい実際じっさいにあるものとしんじてうたがわぬにいたる。昔から哲学てつがく者の間に言葉の繩張なわばりにかんする水かけろんのすこぶる多かったのは、いずれも言葉にとらえられていながら、自身にこれに心づかなかったゆえである。
 言葉にとらえられたために生ずるまちがいの第二は事物を模型もけい化しながらこれに心づかぬことである。自然しぜん物を手に取って調べて見ると一つとして絶対ぜったいあいひとしい物はないが、それに一つ一つべつ名称めいしょうをつけて区別くべつすることはとうてい可能かのうであるゆえ、やむをえずある程度ていどまでたがいにあいた物を集めて一組とし、これに対して一つの名をつけた。犬とかねことか、まつとか竹とかいうのはかくしてつけた種類しゅるいの名であるが、このような名称めいしょうを用いつづけていると、ついには同じ名でばれる物はみな同一であるごとくに思い、その中の一つ一つが、たがいにあいことなるという事実をわすれやすい。また同じ名でぶ物の間の相違そういわすれる結果けっかとして、べつの名でぶ物と物との間の相違そういつねに一定りょうであるごとくにみなすにいたる。たとえば同じく犬というても一匹いっぴき一匹いっぴきにかならずちがうものであるに、犬という言葉をつかっていると、犬をすべて同じ物と見なして、その間の相違そうい無視むしするかたむきが生じ、ねこという言葉を用いれば、ねこをすべて同じ物と見なしてどの犬とどのねことでもその間の相違そういりょうはいつも同じであるごとくに感じやすい。これは実際じっさい相違そういのあるところを相違そういのない形になおし、凸凹でこぼこのあるところを平面につくえたのであるゆえ、明らかに事実の模型もけい化である。もっとも同じ名でぶ物の間の相違そういが目立つ場合には、さらにこれを細別さいべつしていちいちに名称めいしょうをつけるが、かくしても、ただ階段かいだんが一つ下がっただけで取りあつかう心持ちは少しもわらぬ。すなわち犬をセッター、ポインター、テリヤー、グレーハウンド等に分けて、これらの名称めいしょうを用いればまたセッターをすべて同じ物、ポインターをすべて同じ物と思うかたむきが生ずるゆえ、事実を模型もけい化するという点は前にひとしい。一方の高いはしから、他方のひくはしまで連続れんぞくしている斜面しゃめんには、高さの同じ部分は決してないが、すべての部分にことごとく名称めいしょうをつけることはできぬゆえ、その中からもっと特徴とくちょうのいちじるしい点を若干じゃっかんだけえらんでこれに名称めいしょうをつけて満足まんぞくするのほかはないが、かくしていちいちの名称めいしょう範囲はんい繩張なわばりをし、繩張なわばり内を水平であるごとくに見なせば、斜面しゃめんはそのため階段かいだんの形につくえられる。無限むげん変化へんかのある物にはそのままでは名がつけられぬゆえ、便宜べんぎ上これをいくつかの部分に分かち、それに名をつけておくよりほかにいたし方はないが、これはあたかも斜面しゃめん階段かいだんつくえたことにあたる。果物くだもの屋の亭主ていしゅ最大さいだいから最小さいしょうまで漸々ぜんぜんうつりゆく数多くの林檎りんごを自分の見計みはからいで、これは一個いっこせん部類ぶるい、これは一個いっこせん部類ぶるい便宜べんぎ幾組いくくみかに分けるのも、鉄道の係りが、初生児しょせいじから老年ろうねんまで次第しだいうつりゆく人間の年齢ねんれいを、ここまでは無賃むちんの部、ここまでは半額はんがくの部、ここからが全額ぜんがくの部と便宜べんぎ三組に分けるのもみなこれと同様のあつかいをしているのである。にじの色を七つに分けるのも、もしも、各色かくいろ範囲はんいを定めるならば、境界きょうかいのないところに境界きょうかいつくって、一種いっしゅ模型もけいなおしたことにあたる。
 また物に名称めいしょうをつけると、その物を静止せいし固定こていせしめるかたむきが生ずる。えず動いてへんじゆく物にはそのままでは名がつけられぬゆえ、随時ずいじにある瞬間しゅんかんをとらえ、これをしばらく静止せいしするものと仮定かていして名をつけるよりほかにいたし方がない。そうしてかくびにいくつかの瞬間しゅんかんをとらえてこれに名称めいしょうし、隣接りんせつする名称めいしょうとの間を繩張なわばりで仕切ると、繩張なわばり内だけでは動かなかったごとくに感じ、時の流れはあたかも静止せいしの時期と、一足びの瞬間しゅんかんとがたがいにあい交代するごとき形に模型もけい化せられる。歴史れきしをいくつかの時代に分けて、かく時代に、それぞれ名をつけるとややもすれば、かような感じを起こさしめるおそれがある。天地間にある万物はいずれも変化へんかせぬものはないが、名称めいしょうのほうは固定こていしているゆえ、名称めいしょうをつけられ、それでばれると、その物までが固定こていせるごとくに見なされるをまぬがれぬ。つねへんじつつある物を暫時ざんじ固定こていせるごとくに考えきたったれいは、昔からずいぶんたくさんにあるが、これには言葉が大いに手伝てつだっていたと思われる。
 以上いじょうべたとおり、言葉を用いて物を考える場合には、いきお境界きょうかいのないところに境界きょうかいつくったり、言葉に合わせて事物を模型もけい化したりすることをけられぬが、このことはむろん有形の物質ぶしつかぎったわけではなく、無形むけい抽象ちゅうしょうてき方面にも通じたことである。しこうして有形物のほうでは実際じっさい境界きょうかいがあるかないか、模型もけいと実物とが一致いっちするか、せぬかを実物について直接ちょくせつ検査けんさして見る便宜べんぎがあるから、あやまりを見いだすことが、比較ひかくてき容易よういであるが、無形むけいの事物になると、かような検査けんさがすこぶる困難こんなんであるために、まるであやまった議論ぎろんでもなかなかばけの皮があらわれず長く生命をたもつことができる。また有形物のほうでは実際じっさいにない物に名をつける気遣きづかいはないが、無形むけい議論ぎろんにおいては、ない物を想像そうぞうして、これに名をつけることがしばしばあり、しかも、いったん名がつけられるとその物があるかのごとき心持ちになる。名さえつけてなければはじめから全く問題にものぼらなかったはずの想像そうぞう物が、名があるばかりに、多数の人々にやかましくろんぜられるのを見ても、いかに今日の学者が言葉の奴隷どれいとなっているかが知られる。されば物の理屈りくつを考えるにあたっては、できるだけ言葉の羈絆きはんだつし、決して言葉にとらえられて、むだなことに頭脳ずのうをなやまさぬように充分じゅうぶん注意せねばならぬ。

四 用心


 われらの哲学てつがく以上いじょうべたとおり、子供こどもの心を出発点とし、できるだけ言葉にとらえられぬように注意しながらろんを進めてゆくことを主張しゅちょうするが、そのさいいかなる心持ちで事物を見るべきかというに、これには子供こどもの心とは正反対の態度たいどを取ることをようする。子供こどもは自分の分からぬと思うことは、何でも親やいの人にたずねるが、何とでも答えてもらいさえすればそれで満足まんぞくする。すなわち聞いたことを何でもそのままにしんずる性質せいしつそなえているが、これは哲学てつがくには絶対ぜったい禁物きんもつである。見ずしてしんずる者はさいわいなりなどというて、宗教しゅうきょうはじめからしんずることを要求ようきゅうするが、哲学てつがくは何ごとをも批評ひひょうし研究するつもりで取りかからねばならぬ。われらの考えによれば、およそ一派いっぱ哲学てつがくを組み立てようとする者には、あたかも五十年の一生をえずだまされつづけ、世の中にはすでに愛憎あいぞうをつくしている老人ろうじんのごとくに、何ごとをもただではしんぜぬという態度たいど必要ひつようである。今日までの人間の知識ちしき歴史れきしが、あやまってはあらため、あやまってはあらためることの連続れんぞくであるのを思えば、何ごとでも軽々しく確信かくしんするのは大いに考えものであるが、とくに先から先へと物の理屈りくつを考えてゆく哲学てつがくにおいては、どこに一つのまちがいがはいりこんでも、それから先が全部だめになるところがあるゆえ、議論ぎろん一段いちだんごとに、厳重げんじゅうな用心をせねばならぬ。
 人のいうたこと、書物に書いてあることをそのままにしんぜぬのみならず、自分で直接ちょくせつに見たと思うこと、さわったと思うことでも一応いちおうたしかめてみる必要ひつようがある。生理学の書物を開いて見れば、錯覚さっかく幻覚げんかくれいがいくらも出ているが、特別とくべつの注意をおこたると、そのためずいぶんあやまったことをそのまましんずるにいたらぬともかぎらぬ。並行へいこう線でもこれに若干じやつかん斜線しゃせんえると並行へいこう線に見え、一個いっこ豌豆えんどうでもこれを中指を人差ひとさし指の上にり重ねてなでるとたしかに二つあるごとくに感ずる。ただしこれは物差ものさしではかるとか目で見るとか、手のひらでふれるとかすれば、線の並行へいこうせること、豌豆えんどうの一つよりないことが容易よういに知れるゆえ、錯覚さっかくのままにあやましんずるにはいたらぬ。また同じ大きさのゴム球でも、短いぼうの先でなでれば大きく感じ、長いぼうの先でなでれば小さく感ずるが、目を開いて見ればただちにそのあやまりを訂正ていせいすることができる。人間には感覚かんかく器官きかんいく種類しゅるいもあるゆえ、たとえ一種いっしゅ感覚かんかくあやまり感じても、他の感覚かんかくで調べてみれば、そのあやまりなることに気がついて決してまちがいのままには終わらぬ。ただし注意をおこたると、なわへびに見えたり、すすき幽霊ゆうれいに見えたりして、これを見た当人はたしかにへび幽霊ゆうれいを見たとしんじているれいはいくらでもある。
 ない物が見えたり、ある物が見えなかったりするのが幻覚げんかくであるが、熱病ねつびょうなどにかかるとこのことは決してまれでない。もしも世間の人間がことごとく同じ熱病ねつびょうにかかり、同じ幻覚げんかくを持ったならば、これを訂正ていせいする道はないわけであるが実際じっさいにはさような場合は決してあるはずはなく、一人のねつ病人びょうにん周囲しゅういには、数十人数百人の健康けんこうな人がひかえているゆえ、これとくらべて、病人の幻覚げんかくあやまりなることはただちにたしかめられる。ガスをかいだり、薬を飲んだりすれば、神経しんけい系統けいとうにある変化へんかが起こって、幻覚げんかくが生ずることのあるべきはだれにも理解りかいせられるであろうが、病気や薬によらずともずいぶん幻覚げんかくを生ぜしめうる場合があろう。たとえば日常にちじょう普通ふつうの生活状態じょうたいとは大いにことなった境遇きょうぐうに身をおいたり、つねには決してせぬようなわったことをなしつづけたりすれば、神経しんけい系統けいとうの具合がわって、そのため他人には見えぬ物が見えたり、他人の感ぜぬことを感じたりするようになることもあろう。このような場合に、その当人は幻覚げんかく幻覚げんかくと思わず、これを真実と確信かくしんしてその上に勝手な人生かんを立てることが多いが、われらから見ればこれはねつ病人びょうにん幻覚げんかくと同一に取りあつかうべきものである。インドの宗教しゅうきょう信者しんじゃの行なうような、難行なんぎょう苦行をすれば、ずいぶん光明を放ったほとけ姿すがたがありありと目の前に見えることもあろうが、これはその当人かぎりに見えるものでだれにもその存在そんざいしんぜしめるわけにはゆかぬ。特殊とくしゅの一個人こじん特殊とくしゅ修行しゅぎょうんで、はじめてたつしえた神経しんけい系統けいとう特殊とくしゅ状態じょうたいは、普通ふつう健全けんぜんな人間とことなるという点においては、ねつ病人びょうにんごうことなるところはない。
 しからば、われわれは何をしんずべきかというに、われらの考えによれば、普通ふつう健全けんぜんな人間が、普通ふつう境遇きょうぐうにあって、こう感覚かんかくあやまりをおつへいてい感覚かんかくによって検査けんさするというだけの注意をはらうて見聞けんぶんしたことをしんじておくのがいちばん安全である。うたがい始めれば、際限さいげんがないゆえ、やむをえずどこかでがまんして、しんじておかねばならぬが、前にべた病気や薬による幻覚げんかくのことなどを思えば、まず、病気にもかからず、薬の影響えいきょうをもこうむっていない普通ふつう健康けんこう者を標準ひょうじゅんとして、それらの人間が見たとしんじ、聞いたとしんじていることをともにしんじておくのほかはなかろう。われらの哲学てつがく子供こどもの心を出発点とし、言葉の羈絆きはんからだつするようにつとめながら、一歩一歩あやまりの入りきたらぬように注意して進むつもりであるが、これは従来じゅうらい哲学てつがくを全く眼中がんちゅうにおかず、新たな道を進むことにあたる。一面にむずかしい文句もんくの書いてある黒板を一度きれいにぬぐい去って、新規しんきにこれをよごそうとこころみるのである。これまで人々のあがめきたった偶像ぐうぞうをことごとく打ちこわして、できるならば今後は偶像ぐうぞうなしにすましたいのであるが、いかがなものであろうか。とにかく、この方針ほうしんによって一種いっしゅ哲学てつがく系統けいとうを組み立ててみたならば、従来じゅうらいのとはちがうたものが何かできそうに思われるが、われらにはもはやそのようなことをなすべき時間もなければのぞみもない。それゆえただこの方針ほうしんで考えたことを二つ三つだけ書きつづって、次にかかげるにとどめる。

五 人間


 まず人間についてろんじてみるに、子供こどもの心に立ち帰ったとすると、たしかと思われるのは次のごときことである。自分と同じような人間がたくさんにいる。一人一人をくらべてみるとむろんちがうところがあるが、大体においてはている。身体の形のみならず日々することも大体はあい同じである。そのような人間が地面の上にてた家に住み、毎日食物を食うて生きている。物を食わねばはらってたまらぬ。また人間のほかには犬とかねことかいうような動物があって、毎日食物を食うている。かれらも食物を食わずには生きておられぬ。このようなことは子供こどもらがかたしんじてうたがわぬところであるが、われらの哲学てつがくによればこれは従来じゅうらい哲学てつがく脳髄のうずいしぼって考えた結論けつろんよりもはるかにたしかなことと思われる。また男女の交わりによって女が妊娠にんしんし子が生まれることは、子供こどもに知らせぬゆえ子供こどもは知らずにいるが、もしも大人の有するだけの経験を持たせたならば、子供こどもかならずこれをしんじてうたがわぬであろう。犬やねこ生殖せいしょくについても同様である。その他人間でも犬でもねこでも、ころされて死に、病気で死に、年をとって死ぬものなることも子供こどもたしかに知っている。なお人間や、犬猫ねこについて子供こどもたしかに知っていることはたくさんにあるが、これらの知識ちしきを出発点とし、一歩一歩実験じっけんてきに調べてゆくとついに次のごときことを知るにいたる。
 人間のかく個体こたいの始まりは男親の睾丸こうがん組織そしきからはなれ出た精虫せいちゅうの一と、女親の卵巣らんそう組織そしきからはなれ出たらん細胞さいぼうの一とが合して生じた一個いっこ細胞さいぼうである。この細胞さいぼう分裂ぶんれつして多数の細胞さいぼうとなり、細胞さいぼう次第しだいに組み合うて各種かくしゅ器官きかんつくり、ついに小さな人間の形ができる。子宮しきゅうの中にとどまり、母体からの滋養分じようぶんやしなわれ、最初さいしょきわめて小さかった胎児たいじ漸々ぜんぜん成長せいちょうし、月満つきみちて生まれるころにはすでに相応そうおうな大きさの赤子となる。また生まれた後は、はじめはちちにより、後には食物によってさかんに大きくなり、生殖せいしょくせん成熟せいじゅくすれば自然しぜんに男女あいもとめ、幾人いくにんかの子を生み、いたりわらうたりしている間にいつか年をとって、くだらぬ病気で死んでしまう。しこうして死んだのちはいかになりゆくかというに、かれてはいになるか、められてくさるか、いずれにしてももはや元の人間ではなくなる。人間のかく個体こたいの始めから終わりまでを簡単かんたんべれば右のとおりで、これだけは、まずたしかなことのように思われる。
 しからばかような人間の集まりなる人類じんるいはいかにして生じたものかというに、これは昔はさっぱり見当もつかなかったが、生物学の進歩によって今ではある程度ていどまで推察すいさつすることができるようになった。これをろんずるのは生物進化ろんであって、くわしくけば、それだけでも大部の書物になるゆえ、ここにはとうていべるわけにはゆかぬが、その大要たいようだけをつまんでいえば次のごとくである。すなわち人間も他の動物も元はみな同じ先祖せんぞから起こった。犬でもねこでも馬でも牛でも、ある時代までさかのぼれば先祖せんぞは同じであるが、同じ一族の人間にも兄弟もあれば、従兄弟いとこもあり、従兄弟いとこの子もあれば、従兄弟いとこまごもあるごとくに、動物各種かくしゅの間にもたがいにえんの遠い者もあればえんの近い者もある。えんが近いとは共同きょうどう先祖せんぞから分かれくだってからまだあまり間のないものをいい、えんが遠いとは共同きょうどう先祖せんぞから分かれくだってからすでに長い年月をたものをいう。えんの近い者ほど身体の形状けいじょう構造こうぞうている。えんの遠い者はこれにくらべると身体構造こうぞう相違そういがいちじるしい。ところで人間にもっとているのはさるであり、さるの中でもアメリカのさるよりは東半球のさるのほうが人間によく、その中でも猩猩しようじようやチンパンジーのごとき大猿おおさるがもっともよくている。さればすべての動物の中で人間ともっとえんの近いものは猿類えんるいで、とく猩々しようじようなどとはきわめて近親きんしん間柄あいだがらである。言いかえれば、さると人間とは少しく昔にさかのぼれば一つの先祖せんぞごうする。すなわち人類じんるいなるものは、数多くある動物の中の一種いっしゅ比較ひかくてき新しい時代にさる共同きょうどう先祖せんぞから分かれくだり、その後すべて他の動物に打ち勝って、今日のごとき偉大いだい勢力せいりょくを有するにいたった。これはむろん、そばに見ていた証人しょうにんがあるわけではないが、かく考えねばならぬ証拠しょうこは生物学のかく方面に無数むすうにあり、それがみな実物であって、子供こどもにも根気こんきよく話したらたしかに得心とくしんのゆくべき性質せいしつのものゆえ、今日のところではまずあやまりをふくむことのもっとも少ないものとみとめねばならぬ。

六 霊魂れいこん


 人間の身体は死んでくさってもたましいだけは長く後までのこるとしんじている人がすこぶる多いようであるが、われらから見れば、これは全く言葉にとらえられたあやまりである。生きた人間と死んだ人間とをくらべてみると、生きた人間は身体が温かく、よく運動し、呼吸こきゅうもすれば、脈搏みやくはくもあり、また事物を識別しきべつする。死骸しがいのほうはこれに反して、つめたくて動かず、呼吸こきゅう脈搏みゃくはくもやみ、識別しきべつの力もないらしい。生きた人には命があるといい、死んだ人は命をうしなうたという。生きるとか、死ぬとか、命があるとか、ないとかいう言葉をたんに両者の間の相違そういを言いあらわすものとして用いている間はあやまりにおちいらぬが、命という言葉の定義ていぎつくり、その範囲はんいを定め、周囲しゅういなわってとなりとの境界きょうかいを明らかにすると、そこにまちがいが始まる。しこうしてこれには算術さんじつが大いに手伝てつだっている。
 自然しぜん界には数もなければ、せ算も引き算もない。数をせたり、引いたり勘定かんじょうするのは、人間が勝手にすることである。しかるに十から三を引けば七がのこり、七から二を引けば五がのこるというように数を勘定かんじょうする習慣しゅうかんがつくと、何物にもこの方法ほうほうをあてはめるくせが生じ、生きた人間と死んだ人間との間に、若干じやつかんがあるのを見ると、ただちに引き算や足し算を始め、生きた人マイナス死んだ人は命、死んだ人プラス命は生きた人というように考え、生きた人が死んだ人になる時には、命だけがどこかへげていったものとみなす。これは境界きょうかいのないところに勝手に境界きょうかいつくり、切りはなすべからざる物をしいて切りはなしているのであるから大きなまちがいである。めた人と、ねむれる人との差別さべつを言いあらわす言葉とすればまちがいは起こらぬが、引き算式にめた人マイナス意識いしきねむれる人として、意識いしきだけがあたかも独立どくりつして存在そんざいしうるもののごとくに考えたならば、これまた前のと同じあやまりにおちいっている。あるとき、何かの書物に、物から色を去れば形がのこり、形を去ればしょうのこると書いてあるのを見て、このような頭で考えられては、いかなる名論めいろんが出てくるか分からぬとおそろしく感じたことがあるが、これなどはプラス、マイナスにとらわれたもっとも標本ひょうほんである。おそらく染物そめもの屋が白木綿もめんこんめたり、こん木綿もめんの色を白くいたりするのを見て、このような考えを起こしたのかもしれぬが、形をいてしょうだけをのこすことはすこぶる困難こんなんであろう。人間が死ぬと身体からたましいけ出すごとくに考える人らは、つねづね生きた人生をもって、死骸しがいたましいめであるごとくに見なしているわけであるが、そのみなもとは前にべたとおり言葉にとらえられて、境界きょうかいのないところに境界きょうかいつくり自分のったなわに自分で引っかかってまようているにほかならぬ。
 かような下地したじのあるところへ、霊魂れいこんなるものが、べつそんするごとくに思わせる事情じじょうがたくさんにあるので、だれもかれもがかく考えるようになった。その事情じじょうとは、人間の知識ちしきでは解釈かいしゃくしかねることが天地間に無数むすうそんすることである。人間の素性すじょうを考え、昨日きのうまではさるのごときものであったことを思えば、人間の知恵ちえで分からぬことが無数むすうにあるのはもとより当然とうぜんであるが、そこには心付こころづかず、分からぬことには何とか理屈りくつをつけて分かったごとき心持ちになりたがるゆえ、いよいよ霊魂れいこん必要ひつようになってくる。何か不思議ふしぎなことが起こった場合に、これを霊魂れいこんの仕業とみなせば、それでひとまずわけが分かったごとき心持ちになることができる。木がたおれても、家がけても、子供こども怪我けがしても、犬が死んでもみな霊魂れいこんがしたことにすれば、とにかく説明せつめいはつく。とくにそれがもしも亡者もうじゃが生きていたならば、かならずかくしたであろうと思われることである場合には、いっそうもっともらしく聞える。たとえば酒飲みの老爺ろうやが死んだ日に、酒樽さかだるせん自然しぜんにはずれて酒があふれ出したとか、意地の悪いしゅうとが死んで七日目にたな徳利とっくりが落ちてよめの頭に当たったとかすれば、いかにも霊魂れいこんがいまだ家の中にとどっているごとくに感じ、かようなことがたびかさなれば、霊魂れいこんはいよいよあるものにちがいないと確信かくしんするにいたる。一年じゅう、毎日晴天と予報よほうしても五わり以上いじょう適中てきちゅうするというが、偶然ぐうぜん適中てきちゅうということは、もとよりいくらもあるべきはずゆえ、もしもはずれたほうを度外視どがいしし、あたったほうだけを数え上げれば、あたかも立派りっぱ証拠しょうこのごとくに見える。かような次第しだい霊魂れいこんなるものが存在そんざいするということはすでに野蛮やばん時代から一般いっぱんしんぜられ、人が死んでも霊魂れいこんのこるとしんずる以上いじょうは、それにもとづいたいろいろの儀式ぎしき習慣しゅうかんが生ずる。目にも見えずんでも答えぬところから、霊魂れいこんはよほどの遠国おんごくに住んでいるもので、死ねばそこまでゆかねばならぬと考えるゆえ、死人には旅装束しょうぞくをさせ、つえを持たせ、草鞋わらじをはかせ、若干じやつかん旅費りょひまでえて出立しゅったつさせる。今ならば、トランクや帽子ぼうし箱をえ、急行切符きっぷ領事りょうじ裏書うらがきした旅行けんを持たせてやるところである。かく遠方にいると思いながら、また自分のそばにいるごとくにも考えて、毎日食物をそなえたり音楽を聞かせたりして、その間の矛盾むじゅんには気にとめずに平気でいる。世の中の文明が進んだというても、普通ふつうの人間の頭はあまり進歩せず、かような幼稚ようちな考えが、ほとんどそのままに今日までつたわって、種々しゅしゅさまざまの儀式ぎしき風俗ふうぞく依然いぜんとしてのこっているのである。
 霊魂れいこんがあるとしんずる以上いじょうは、死んだ人々と意見の交換こうかんをしたい場合もときどき起こるが、そのときにあたって、媒介ばいかいの役をつとめる特殊とくしゅの人間がおいおい出てくる。野蛮やばん国や半開国には巫子みことか魔術師まじゅつしとかいう者がかならずあるが、これが通辯つうべんとなって、霊魂れいこんのいうことを生きた人間に翻訳ほんやくして聞かせる。そのいうことにはむろん当たることもあり、当たらぬこともあるが、五わり当たったことや、三わり当たったことまでも拾い集めてみると、何ごとをもかるがるしくしんずる頭を持った未開みかいの人間をおどろかしめるに足りる場合も決してまれではなかろう。霊魂れいこん存在そんざいはかくしてますます深くしんぜられるようになった。今日のいわゆる文明国にも心霊しんれい研究としょうして、霊魂れいこんの仕業を研究し、死人と話したとか、幽霊ゆうれいの写真をとったとかいう報告ほうこくを公にする者が幾人いくにんもある。
 われらの考えは前にもべたとおり、霊魂れいこんありとの信仰しんこうは、応用おうようすべからざるところに引き算を応用おうようした結果けっかで、その原因げんいんはやはり言葉にとらえられたためである。同じ論法ろんぽうを用いれば、'蝋燭ろうそくについては次のごとくに考えねばならぬ。えている'蝋燭ろうそくと消えた'蝋燭ろうそくとをくらべてみると、えている'蝋燭ろうそくにはほのおがあり光を放つが、消えた'蝋燭ろうそくにはほのおがなく光をはなたぬ。それゆええている'蝋燭ろうそくから光を引けば消えた'蝋燭ろうそくとなり、消えた'蝋燭ろうそくに光を足せばえている'蝋燭ろうそくとなる。またえている'蝋燭ろうそくから消えた'蝋燭ろうそくを引けば光だけがのこる。それゆえ'蝋燭ろうそくとははなれた光なるものが存在そんざいし、'蝋燭ろうそくはなくなっても光だけは永久えいきゅうのこる。このようにろんぜねばならぬ理屈りくつであるに、世人がこれには一向かまわず、'蝋燭ろうそくの火をき消しても決して今まで見えていた光が見えぬ光となって、永久えいきゅう存在そんざいすると考えぬのはなにゆえかというに、これは自身とあまり直接ちょくせつ関係かんけいがなく、かつ見えぬ光が存在そんざいすると思わせるような事情じじょうに出あわぬからである。たん論法ろんぽうだけをくらべれば、人間が死んでも霊魂れいこんのこるというのは、'蝋燭ろうそくが消えても見えぬ光がのこるというのと少しもちがうたことはない。えている'蝋燭ろうそくとか、消えた'蝋燭ろうそくとかいうのは、ただ'蝋燭ろうそく存在そんざい状態じょうたい差別さべつをいいあらわすための言葉であるゆえ、こうからおつを引けば差額さがくが出るごとくに勘定かんじょうするのがよくよくまちがいである。これと同じく生きた人生とか、死んだ人間とかいうのも、たんに人体の存在そんざい状態じょうたい差別さべつを言いあらわす言葉にぎぬゆえ、どこまでもそのつもりで使用しなければならぬ。一杯目ぱいめには人、酒をのみ、二杯目はいめには酒、酒をのみ、三杯目ばいめには酒、人をのむというが、言葉もそのとおりで、人が手綱たずなを持って制御せいぎょしている間はよろしいが、ややもすれば言葉のために引きずられ、ついには全く言葉の奴隷どれいとなって、何ごとも言葉の命ずるままに考えしんずるにいたりやすい。身体からはなれた霊魂れいこん存在そんざいしんずるのはかかるり行きの結果けっかである。

七 宇宙うちゅう


 ある哲学てつがく書に次のようなたとえ話しがあった。フランス語の少しも分からぬ支那しな人が二人パリに来て、芝居しばいを見物した。その中の一人はしきりに舞台ぶたいや楽屋の仕掛しかけを見て歩き、まくはいかにして上げるか、光はどこかららすか、なみは何で動かすか、風の音は何で鳴らすかというごときことをつまびらかに知ろうとつとめた。他の一人はしずかに座席ざせきこしをかけたままで、熱心ねっしんに役者の所作しょさを見て、狂言きょうげんすじ了解りょうかいしようとこころみた。前者は自然しぜん科学者が宇宙うちゅうに向かう態度たいどであり、後者は哲学てつがく者が宇宙うちゅうに向かう態度たいどである。これはちょっと考えるとすこぶるたくみなたとえのようであるが、われらから見ると、類推るいすいあやまりが根本にひそんでいるゆえ、決して真実をしめしているとは思われぬ。このたとえはまず第一に宇宙うちゅうには芝居しばい狂言きょうげんと同じように一定のすじかならずあるものと見なしてかかっているが、これはそもそもいかがであろうか。何ごとをも用心してまずうたがうてかかる者から見れば、これが第一に疑問ぎもんである。またかりに一歩をゆずって、宇宙うちゅう狂言きょうげんすじがあるものとしたところで、それが人間に了解りょうかいせられうべき性質せいしつのものかいなかが、大いにうたがわしい。マーテルリンクの蜜蜂みつばちの本を一冊いっさつ読んでみても知れるとおり、人間以外いがいの世界には、われわれの了解りょうかいとはまるで性質せいしつちがうた了解りょうかいいく通りもあるように思われるが、もしもさようとすれば、了解りょうかいを人間の専売せんばいのごとくに考え、わが有する種類しゅるい了解りょうかいのほかには了解りょうかいはないと独断どくだんするのは少しく早計ではあるまいか。このようなはたてしのないことをろんずるのは全くむだなようにも思われるが、世間には宇宙うちゅうには一定の目的もくてきがあって、その方向に狂言きょうげんが進んでゆくものとしんじている人も多いようであるゆえ、ここにはただ子供こどもの心を出発点とし、一歩一歩まちがいの入りきたらぬように充分じゅうぶんに注意して、理屈りくつを考えたのでは、決してそのような決論けつろんには到着とうちゃくせぬということをべるだけにとどめる。
 また目に見える宇宙うちゅうのほかに、べつになお一つ目に見えぬ宇宙うちゅうがあるとしんじている人がすこぶる多い。「見えぬ宇宙うちゅう」という書物をむかし読んだことがあるが、霊魂れいこんがあると考える人は、霊魂れいこん住宅じゅうたくとして、見えぬ宇宙うちゅうみとめるのほかに道はなかろう。形もなく、物質ぶしつもなく、見える宇宙うちゅう例外れいがいなく行なわれている、物理学や化学の法則ほうそく超越ちょうえつしたある物がそんするとしんずる以上いじょうは、見える宇宙うちゅうのほかに、それとは性質せいしつことにしたべつ宇宙うちゅうそんすると考えねば、そのものの入れどころがない。見える宇宙うちゅうのほかに見えぬ宇宙うちゅう想像そうぞうする人は、頭の中に二階つくりの宇宙うちゅうえがいている。すなわち下の座敷ざしきは見える宇宙うちゅうであって、われわれはあらにそこに住んでいる、二階の座敷ざしきはすなわち見えぬ宇宙うちゅうであって、そこには霊魂れいこん大勢おおぜい下宿している。人間は死ぬと身体だけはくさってなくなるが、霊魂れいこんは早速梯子はしごを登って二階にゆき、前からそこにいた連中れんちゅう仲間なかまわる。いったん二階に登った以上いじょうはふたたび下へはりてこられぬ。それゆえ、二階に登ることを帰らぬ旅に立ったとも言う。昔のエジプト人は、霊魂れいこんはふたたび二階からりてくるものとしんじたゆえ、そのさい自分の身体がなくなってはこまるであろうとの心配からきわめて念入ねんいりに死骸しがい保存ほぞんした。これがすなわち数千年後の今日までのこっているミイラである。宴会えんかいの帰りに、外套がいとうくつが見えなくても大いにまごつくことを思えば、自分の合いふだの身体が見つからぬときの霊魂れいこん迷惑めいわくはまったくさつせられる。とにかく、身体からはなれた霊魂れいこんなるものがありとしんずる以上いじょうは、宇宙うちゅうを二重に考えることをけることはできぬ。
 あの世とか、未来みらいとか、天国とか、れいの世界とか名はさまざまにちがうても、見えぬ宇宙うちゅうようするに見える宇宙うちゅうの二階である。しこうしておもしろいことには、二階座敷ざしきはいつも下の座敷ざしきによくている。人は想像そうぞうによってすでに知っていることをいろいろに組み合わせることはできても、全くべつの物は考え出せぬものとみえて、天国はどこの国でも、下界げかいにあるだけの物でつくり、ただそれが理想化せられてある。ある農夫のうふは、もしもオレが王様になったら、肥桶こえおけたがを黄金でつくると言うたそうであるが、天国もそのとおりで、エスキモーの天国にはにしきのごときアザラシが泳いでい、インドの天国には車輪しゃりんのような蓮花れんげいている。アフリカの天国ではおそらくゴリラや獅子しし温順おんじゅんで、南洋の天国では多分そらいっばいにバナナがぶら下がっていることであろう。すべてかような具合に、れいの世界の材料ざいりょうは自分の手近にある見える宇宙うちゅうから取ってある。そのありさまは、低能ていのうな作者がいかに努力どりょくしても低能ていのう小説しょうせつより書けぬのにことならぬ。されば虚心きょしん平気に、世界かく民族みんぞくの天国を比較ひかく研究したならば、その想像そうぞう物なることは明らかに知れよう。
 前にもべたとおり、われらの考えによれば、身体からはなれた霊魂れいこんなるものがあると思うのがまちがいである。しこうしてかかる物がありと思わねば、二重の宇宙うちゅう想像そうぞうする必要ひつようは全く消滅しょうめつする。目に見える物だけをありとしんずる子供こどもの心を出発点とし、言葉にとらえられぬように用心しながらたしかに知りたことだけを考えに入れてろんを立てると、見える宇宙うちゅうのほかになお一つべつ宇宙うちゅう想像そうぞうせねばならぬ理由は少しも出てこぬ。実をいうと、もしも今までの伝統でんとうてきの考え方をことごとくわすれて、はじめから全く新しく考えなおしてみたならば、宇宙うちゅうは一重か二重かというようなことは問題にものぼらぬ。われらがここに宇宙うちゅうを二重に考える必要ひつようはないというのは、決して宇宙うちゅうは一重か二重かという問題を研究の価値かちあるものとしてとり上げ、充分じゅうぶんに研究をとげた結果けっか、二重と考えるにおよばずとの結論けつろんたつしたわけではない。かかることを念頭ねんとうにおかぬ子供こどもの心のそのままの引きつづきとして、念頭ねんとうにおかずにいるだけである。

八 神


 神にはいろいろある。石や木を神としておがむところもあれば、きつねおおかみを神に祭っている国もある。生きた人間を神としてあがめる人種じんしゅもあれば、死んだ酋長しゅちょう霊魂れいこんを神とあお民族みんぞくもある。ただし今、ここにはかような野蛮やばん国や半開人種じんしゅの神についてろんずることをはぶいて、たんにいわゆる文明国の人々が長い間しんじきたった天地のつくり主なる神だけについて考えてみよう。
 朝、目がめたときにまくら元に一つのりんごがあるのを見たなら何と思うか。りんごが自然しぜんにそこに生じたと思うか、それともまた自分がねむっている間にだれかが持って来てくれたと思うか。よく考えてみよ。りんごがひとりでそこにできるはずはないから、これはかならず、母か姉かが持ってきたものにちがいなかろう。わずかに一個いっこのりんごでさえ、だれかが持って来てくれなければそこにあるはずはない。しからばこの世界はいかに。われわれに食物をあたえ、われわれに衣服いふくあたえ、われわれに住居じゅうきょあたえるこの世界は決してひとりで生じたものとは思われぬではないか。しこうしてこの広大無辺むへんな天地をつくった者があるとすれば、それは実に知らざることなく、あたわざることなき神でなければならぬ。以上いじょうはわれらが子供こどものとき熱心ねっしんなキリスト教信者しんじゃから聞かされたところであるが、造物ぞうぶつ者ありとの信仰しんこうはおそらくかような論法ろんぽうからきているのであろう。しかしわれらの考えによれば、これまた前の支那しな人の芝居しばい見物と同じく、全くまちごうた類推るいすいである。
 目に見えぬ神があるという信仰しんこうは、むろん目に見えぬ霊魂れいこんがあるという信仰しんこう密接みっせつ関係かんけいしている。人が死んでも霊魂れいこんのこるという信仰しんこうがもしもなかったならば、目に見えぬ神の存在そんざいだけをしんずることはよほどむずかしい。なぜといえば、ほかにこれと比較ひかくすべきものが見当たらぬからである。これに反して、目に見えぬ霊魂れいこんなるものがあるとしんずる以上いじょうは、目に見えぬ神があるとしんずることには何のめんどうもない。とく宇宙うちゅうを二階つくりにして、霊魂れいこんを二階の座敷ざしきに住まわせてある場合には、目に見えぬ神もそこに同居どうきょさせれば、きわめてこう都合である。かような次第しだいで、神のいるところはいつも霊魂れいこんのいる場所と同じであり、人が死ねば霊魂れいこんだけが神のそばへゆくことになる。げんに西洋の子供こどもらは親や教師きょうしから教えられて、実際じっさいこのとおりにしんじているが、おとなの考えも大多数はあまりこれとわらぬ。すなわち神はいつも自分の頭の上にくらいする天にいるものと思い、人が死ねば霊魂れいこんは天にのぼるものと定め、神をぶには、天にますわれらの神と言うて、それからめいめいのいのりをささげる。
 ヨーロッパやアメリカでは昔から今日までたれもかような天地のつくり主なる神があるものとしんじ、日々の生活もときどきの儀式ぎしきもみなこの信仰しんこうもとづいて定められた。それゆえ、今日の文明はほとんど神の信仰しんこうとははなるべからざるほどに密接みっせつ関係かんけいを持っているように見える。何ごとも原因げんいんなしに生ずるわけはないゆえ、神の信仰しんこうがかく広く長くつづいているのは、むろん相当の理由がなければならぬが、われらの考えによれば、これは決して実際じっさいに神があるからというわけではなく、たんに人間の頭が、かかることをしんるようにできているのと、さらにかかることをしんぜしめるような事情じじょうがあるためである。しかし、いずれにせよ、長い間かくしんじきたったことゆえ、この信仰しんこうはすでに深く人間の心にしみみ、いまさら理屈りくつによって、かくしんずべき理由はないと思うても、なんとなくそのあと空虚くうきょのこるごとくに感じて、不安ふあんの心持ちをきんじえぬかもしれぬ。これは一種いっしゅ惰性だせい結果けっかとしてけがたいことではあるが、純理じゅんりによって先から先へと考えてゆく哲学てつがくにおいては、全くかえりみずにおいてよろしかろう。

九 社会


 以上いじょうきわめて簡単かんたん霊魂れいこんや神にかんするわれらの考えをべたが、次に人間の社会について一言するに、これも従来じゅうらいの考え方をことごとくて去り、何も聞かされなかった昔に帰ったつもりで、根本から新たに考えなおして見ると、現今げんこん多数の人びとのしんじていることとは大分ちがうた結論けつろんたつする。このことについては、すでに一、二回われらの考えを発表したことはあるが、要点ようてんだけをつまんでいうと次のごとくである。
 今の世界には人間を相手として対等の競争きょうそうをなしうる動物は一種類しゅるいもない。かくのごとく人間が絶対ぜったい優勢ゆうせい位地ちいめえたのは何によるかというに、これはのう発達はったつ団結だんけつの力とにもとづくことである。人間と他の動物との身体を比較ひかくして見るに、つめでもきばでもはいでもでも人間よりは数等まさった動物はいくらでもいる。しかし脳髄のうずいにいたっては人間だけが一段いちだんはなれてすぐれていて、これに接近せっきんするほどの者は決してない。かくすぐれたのうをもって、人間は物を考え、種々しゅしゅの道具や器械きかい工夫くふうし、つめきばではとうていかなわぬような強敵きょうてきをもたちまちほろぼしえたのである。もちろん、道具や器械きかいつくり、操縦そうじゅうするには、それのできる手が必要ひつようであるが、手だけならば、人間のほかにもこれを有する獣類じゅうるいは少なくない。すべての猿類えんるいはむろんのこと、擬猴ぎこうるいでも、食虫しょくちゅうるいのあるものや、有袋ゆうたいるいのあるものさえも、人間のとおりの手を持っている。されば人間にもしも手がなかったならば、決して他の動物に打ち勝ちえなかったであろうが、手だけがあっても肝心かんじんのうはたらきがにぶくては、とうてい何ごとをもなしえなかったにちがいない。またのうがよく発達はったつし、手が充分じゅうぶんはたらいても、一人一人がはなれて生活していたならば、強敵きょうてきに打ち勝つのぞみは決してなかったのであろう。もっとも発達はったつした今日の人間でも一人ずつにはなせば存外ぞんがい弱いもので、それが有力にはたらきうるのは全く多数の者が力をあわすからである。ようするに人類じんるいがすべて他の動物を征服せいふくして、今日のごとき全盛ぜんせい時代にたつしえたのは実にすぐれたるのう団結だんけつとに基因きいんすることと言わねばならぬ。
 しかるに何物でも立派りっぱなものが突然とつぜん生ずるということは決してない。かならず最初さいしょいまだ立派りっぱでなかった時代があり、それから一歩ずつ進んでついに立派りっぱなものまでにでき上がるのである。人間ののうでも団結だんけつせいでも、そのとおりであろうが、これをえず進歩せしめたのは何であるかというに、われらの考えによれば、それは主として、おとった者をほろぼし、まさった者のみを生きのこらせる自然しぜん淘汰とうたであった。とく団結だんけつせいのほうは団体だんたい団体だんたいとの競争きょうそうが長くつづいている間には、そのすぐれた団体だんたいのみが勝って生きのこり、そのおとった団体だんたいはことごとく負けてほろせるに定まっているゆえ、年月をるとともにただ進歩するのほかはなかったであろう。げん団体だんたい生活をする動物を調べてみると、いずれも団結だんけつせいはますます進むばかりで、かく個体こたい完全かんぜんにそのぞくする団体だんたいの一分子となり終わらねばやまぬ状態じょうたいにある。
 かくのごとく団体だんたい動物では団結だんけつせいえず進みゆく中にまじって、ただ一つ団結だんけつせいの進歩せぬ団体だんたい動物がある。それは言うまでもなく、人間であるが、人間には特殊とくしゅ事情じじょうがあるために、この性質せいしつの進歩がとまった。特殊とくしゅ事情じじょうとはすなわち、道具や器械きかい発達はったつしたために、かく団体だんたい非常ひじょうに大きくなり、その結果けっかとして、団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたが行なわれなくなったことである。団結だんけつせい程度ていど標準ひょうじゅんとして、人類じんるいが今日までに通過つうかしきたった道を図式にえがけば、あたかもパラボラのごとき形となり、始め急な上り坂からだんだん傾斜けいしゃがゆるやかになり、しばらくは絶頂ぜっちょうにあるが、後には少しずつ下り坂にへんじ、しかもその勾配こうばいは進めば進むほど急になるのではないかと思われる。しこうして、人間の団結だんけつせい最初さいしょから服従ふくじゅうの形であらわれ、その形で進みきたったゆえ、団結だんけつせい弛緩しかんはすなわち服従ふくじゅうせい退歩たいほとしてあらわれるが、このことは社会のかく方面にきわめて明瞭めいりょうに見えている。われらは一昨年いっさくねんの一月に「自由平等の由来ゆらい」および「煩悶はんもんの時代」と題する二文をおおやけにして以上いじょうのごとき考えをべておいたゆえ、ふたたびこれをくりり返すことはりゃくするが、われらの見るところによれば、今日の人間社会の真相を了解りょうかいするにはここにいたごとき事実をみとめることが、何よりもまず必要ひつようである。これをみとめなければ何ごとも分からぬことばかりであり、これをみとめればかれもこれもことごとくかくあるべきはずとうなずかれる。
 人類じんるい歴史れきし服従ふくじゅうせい増加ぞうかしきたった時代と、服従ふくじゅうせい減少げんしょうしゆく時代とがあったとすれば、今日の人間社会に矛盾むじゅんの多いことは何の不思議ふしぎでもない。今日人間のすることの中には服従ふくじゅうせいさかんであったころからの引きつづきもあれば、服従ふくじゅうせい減少げんしょうしてから新たに思いついたこともある。前者は服従ふくじゅうせい減少げんしょうした新しい人々には我慢がまんができず、後者は服従ふくじゅうせいになおんでいるふるい人々にはとても気に入らぬ。今日かく方面にやかましい問題は、いずれも服従ふくじゅうせいさかんであったころに取りきめた規約きやくに対する、服従ふくじゅうせい減少げんしょうした人たちの反抗はんこうもとづいている。かれも人なりわれも人なりと考えるような世の中になっては、他人の足がわが頭の上にのるような条約じょうやくにはとうてい辛抱しんぼうはできぬゆえ、その改正かいせいせまるのはもとより当然とうぜんである。また今までは目上の者の言うことは絶対ぜったい服従ふくじゅうをしいられ、自分の思うことは全く通らず、子は親に、つまおっとに、弟子でし師匠ししょうに、雇人やといにんは主人に、はじめから頭は上がらぬものと定められてあったが、これでは人間やら器械きかいやら分からぬなどと考える者がおいおい出てきて、まず何ごとよりも先に、われわれも人間であることをみとめてもらいたいとさけぶようになった。これも考えようによってはむろん当然とうぜんのこととしてみとめねばならぬが、この申し出を聞きとどければだれもかれもが平等となるゆえ、大いに従来じゅうらい習慣しゅうかんとは矛盾むじゅんしたところが生ずる。実際じっさいの問題をたずねれば一つ一つに内容ないようちがうが、そのって起こるところをさがって見るとことごとく同一である。
 一言でいえば、人間の社会なるものは、昔は服従ふくじゅうせいによって、よく団結だんけつしていた。しかるに、後にいたって、かく団体だんたいが大きくなり、そのため自然しぜん淘汰とうたがやんで服従ふくじゅうせい退歩たいほし始めた。服従ふくじゅうせい退歩たいほすれば、物の考え方がわってきて、従来じゅうらい制度せいど習慣しゅうかんには満足まんぞくができなくなり、やかましくその改造かいぞうせまるという階段かいだんまでにたつしたのである。しからば今後はいかになりゆくかというに、団体だんたい単位たんいとした自然しぜん淘汰とうたがふたたび起こらぬ以上いじょうは、服従ふくじゅうせいはますます退歩たいほするばかりであろうから、人間の団結だんけつはいっそう薄弱はくじゃくになるにちがいない。昔の世の中がよくおさまったのは、人間に服従ふくじゅうせい多量たりょうそんしていたからであるゆえ、ふたたび昔のような、よくおさまる世の中にするには、服従ふくじゅうせい復古ふっこはかるのほかはない。革命かくめい前のロシアのごときは実際じっさいこの方面に全力をそそいでいた。もしもこのことが有効ゆうこうに行なわれがたいとすれば服従ふくじゅうせいを打ちて、自由、平等の関係かんけい一致いっち団結だんけつのできるような新案しんあん講究こうきゅうせねばならぬが、そのようなことがうまくできるかいなかは、今までの人間のなしきたったことからはかるとすこぶる疑問ぎもんのように思われる。

一〇 結論けつろん


 以上いじょうはわれらのつねづね考えたことの中から二、三をえらみ出して、きわめて完全かんぜんべただけであるが、この文のはじめにもことわっておいたとおり、他の人々の考えとは大いにことなったところがある。推理すいりの出発点も、考えを進めてゆく方法ほうほうも、従来じゅうらいの人々がいかにしていたかということにはごう頓着とんちゃくせず、ただ自分でこれがもっともいと思うところを採用さいようした。一体哲学てつがくなるものは、すこぶる個人こじんてきのもので、十人れば十種じゅっしゅもできるゆえ、他人の哲学てつがく区別くべつするためにはめいめい自分の哲学てつがくには何とか名をつける必要ひつようも生ずる。あたかもビールにキリンとか、エビスとか、アサヒとか、サッポロとかいちいち名がつけてあるごとくに、哲学てつがくにも、エンピリシズムとか、ラシオナリズムとか、プラグマチズムとか、インチュイショニズムとかさまざまな名がつけてあるが、ようするに考え方によって、何とでも考えられるということに帰着きちゃくする。われらはべつに自分の考えと他人の考えとを比較ひかくして見る必要ひつようを感ぜぬが、われらのここにべたことを読む人があるいはこれをもって、従来じゅうらい世間に知られていた何々ろんとか何々せつとかの中のいずれかにぞくすると思うことがあるかもしれぬゆえ、少しばかりその特徴とくちょうを明らかにしておく。
 われらが神ありとしんずる必要ひつようがないというと、ある人はこれを無神むしんろんと名づけるかも知れぬ。むろんそれでもいっこう差支さしつかえはない。ただし、われらは神はあるかないかという問題を取り上げて、神ありとしんずべき証拠しょこ充分じゅうぶんでないと判定はんていしたわけではない。考えの出発点がちがい、考えを進めてゆく方法ほうほうちがうので、かような問題に出あわずにいるだけである。火事のあるときにけむりを見れば方角だけは知れるが、距離きょりが分からぬために、新宿の火事を江戸川えどがわへんかと思うたりすることが往々おうおうあるが、世間の人はとかく、自分の考えと一致いっちせぬ考えを聞くと、ただちにこれを自分の考えと正反対の極端きょくたんのところにくらいするものと勝手にきめて、そのつもりでしきりに弁駁べんばくすることが多い。われらは神ありとか神なしとかいう議論ぎろんには接触せっしょくせず、ただそばからながめているだけであるが、有神論者ろんじゃからは極端きょくたん無神むしんろんのごとくにみなされるであろう。
 またわれらが霊魂れいこんありとしんずるにおよばずというのを聞いて、ある人はこれを唯物ゆいぶつろんと名づけるかもしれぬ。これも前と同様で、われらはかくばれてもいっこうにかまわぬ。ただしこの場合にもわれらは決して唯心ゆいしんろん唯物ゆいぶつろんとをくらべてみて、その中の唯物ゆいぶつろんのほうを採用さいようしたというわけではない。考えの出発点がちがい、考えの方法ほうほうちがうために唯心ゆいしんろん唯物ゆいぶつろんかのうち、いずれか一つをとらねばならぬというような境遇きょうぐうに立ちいたらぬゆえ、そのようなことを知らずにすましているだけである。またわれらが宇宙うちゅうは二階つくりとするにおよばずとくのを聞いて、ある人はこれを一元ろんと名づけるかも知れぬ。もしもかような考え方を一元ろんと名づけるならば、われは一元論者ろんじゃであると言われることを決して拒絶きょぜつせぬ。ただしわれらの一元ろんは、二元ろん排斥はいせきして立った一元ろんではなく、子供こどもの心からそのままにびてきた一元ろんであって、二元ろんと対立しているなどとはごうも思うていない。また一歩一歩あやまりの入りきたることのないようにと十分に注意し、しんずべき証拠しょうこがあるとみとめた上でなければ、考えを先へ進めぬという点では、実証じっしょうろんと見なされてもよろしい。また知りぬことは知らぬとしておく点では、不知ふちろんと名づけられてもよろしい。われらは哲学てつがくの一系統けいとうつくったわけではなく、ただかようなところから出発し、かような方法ほうほうによって進んだならば、一つわった哲学てつがくができるであろうという考えを提出ていしゅつしたにぎぬ。きわめて充分じゅうぶんき方ではあったが、もしもこれが、宇宙うちゅうのことを深く考えてみようとよくするわか篤学者とくがくしゃのためにいくぶんかの暗示あんじともならば、それでこの文を書いた目的もくてき充分じゅうぶんたつせられたわけである。
(大正十年四月)



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'蝋=※(「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71)
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底本:「進化と人生(下)丘浅次郎集」講談社学術文庫
   1976(昭和51)年11月10日 第1刷発行
入力:矢野重藤
初出:1921(大正10)年4月   進化と人生 増補四版のため執筆
校正:
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